fc2ブログ














清凉寺 浅い紅葉 『清和天皇はなぜ断食修行をしたのか』 


水尾 藤袴

水尾の里 藤袴とアサギマダラ 『かわひらこ(蝶)は死者の魂を表す?』  でご紹介した水尾の里です。

アサギマダラ 3 

水尾の里には清和天皇の陵があります。
藤袴のお花畑からちょっと距離があったので参拝しなかったんですが~(根性なし)
そのため清和天皇は水尾天皇とも呼ばれています。

清和天皇は文徳天皇の第4皇子で、母親は藤原明子でした。
文徳天皇は紀静子との間に生まれた第一皇子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えていました。
そこでそのことを源信に相談したのですが、このとき藤原明子の父親の藤原良房が大きな権力を持っていました。
そのため源信は良房に憚って天皇を諌めたそうです。

こうして清和天皇は生後8か月で皇太子となり、858年に9歳で即位されました。
866年、清和天皇は藤原良房の養女で8歳年上の高子を女御として迎えます。
869年、高子は陽成天皇をお生みになられました。
しかし、陽成天皇の父親は清和天皇ではなく、実は在原業平であるという説があります。

伊勢物語に在原業平が高子と駆け落ちをするという物語が記されており、二人は恋愛関係にあったと考えられているためです。

876年清和天皇は陽成天皇に譲位し、879年に粟田院で出家しました。
出家後、清和太上天皇は頭陀を志されました。
頭陀とは衣食住に対する欲望を払いのけて仏道を求め、托鉢して巡幸の旅をすることなのだとか。
880年には水尾の地で絶食するなどの苦行を行っています。
そして水尾山寺を建立するために、左大臣源融の別邸棲霞観に移られましたが、ここで病を発し、粟田の円覚寺で崩御されました。

清凉寺はこの棲霞観の故地とされます。

清凉寺 仁王門2

水尾(下の地図の清和天皇陵と書いてあるところ)から山道を降りると清凉寺はすぐです。



清凉寺 仁王門 
境内の紅葉が少し色づいていました。

清凉寺 本堂 
水尾とは「きれいな水が湧くところ」という意味です。
「きれいな水」とはみずかね、水銀のことではないでしょうか。
水銀は銀白色の液体で辰砂を焼いて製造します。

古には水銀は不老長寿の妙薬とされていました。
実際には水銀は水俣病を引き起こすなど不老長寿どころか健康に悪いのですが。
また即身仏となる際には五穀を絶って木の皮や木の実、草などを食べる木食という修行を行いましたが、水銀土壌の湯殿山はその即身仏のメッカです。
水銀土壌で育つ木の皮や木の実草などには水銀が多く含まれており、水銀には防腐作用があるため、それらを摂取することで死後腐りにくい体になったと言われています。

空海が高野山を欲したのは高野山には水銀の鉱脈があるためだと言われています。
空海が錫杖をつきさしたところ水が噴き出したなどという伝説が各地に残されていますが、水とは水銀のことではないかと思ったりします。

清和天皇が絶食などの苦行をされたのはなぜでしょうか。
清和天皇は絶食をすることで脂肪を落とし、死後腐りにくい体になる(即身仏になる)ことを目指しておられたのかも?

いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/10/12 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

三栖神社 炬火祭 『炬火におかめ御幣を飾るのはなぜ?』 

2015年の三栖神社の炬火祭は10月11日の予定です。

氏子さんたちは旅人にとても親切です。
お祭りのことをいろいろ教えて下さり、ジュースまでごちそうしてくださってとても嬉しかった~。
ありがとうございました!
三栖神社 炬火祭 提灯 
高張提灯の行列がやってきました。
後ろには大きな炬火(たいまつ)が置いてあります。
三栖神社 炬火祭 松明 
続いて手炬火の行列。
この手炬火でさきほどの大きな炬火に点火し、竹田街道を中書島から京橋まで練り歩きます。
三栖神社 炬火祭 大松明

たいまつの火が勢いよく燃え上がり、電線が焦げてしまうんじゃないかと心配になるくらいでした(笑)。

たいまつにおかめの面をつけたおかめ御幣がつけられています。
関西では地鎮祭にこのおかめ御幣が使われることが多いそうです。(集合住宅に住んでるので地鎮祭の経験はないんですが~)

おかめ御幣のルーツは京都西陣の千本釈迦堂だと言われています。
以前の記事、千本釈迦堂(大報恩寺) 大根焚 『大根焚と聖天さん』 にも書いたのですが、
千本釈迦堂には大工の棟梁と棟梁の妻・おかめの伝説が伝えられています。

千本釈迦堂の本堂を建てるとき棟梁が謝って柱を短く切ってしまいました。
妻の阿亀が柱の長さが足りない分を枡組を作って補ったらどうかとアドバイスし、本堂は完成しました。
しかし阿亀は女の助言を受け入れたことが知られたら夫の恥になると思い、本堂が完成する前に自害してしまいました。
千本釈迦堂 本堂 枡組


千本釈迦堂では12月に大根炊を行っていますが、大根炊とはもともとは聖天さんの行事なのではないかと思います。
大聖歓喜天は象頭をした男女双体の神で、次のような伝説があります。

人々に祟りをもたらしていたビナヤキャは十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれしビナヤキャ女神に結婚を申し込みます。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うならあなたと結婚しましょう」といいました。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神と結ばれました。


神はその現れ方によって御霊(みたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)にわけられるといいます。
そして和魂は女神を、荒魂は男神を表すとする説があります。
すると御魂とは男女双体なのではないかと思うのです。

聖天さんの伝説は御霊・和魂・荒魂の関係をうまく説明していると思います。

すなわちビナヤキャは荒魂、ビナヤキャ女神は和魂で、男女和合することによって仏法守護の神になったという話だと思うのです。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・聖天さん(ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・ビナヤキャ


そしてダン・ブラウンの「ダビンチコード」には、キリスト教ではΛは男性を、∨は女性を表すと書いてあったと思います。
Λは△、∨は▽といってもいいと思います。
ダビデの星(六芒星https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hexagram.svg)は男女和合を表すものだと思います。

おかめの升組は凹の形をしていますが、これは女神(おかめそのもの)を表しているのではないでしょうか。
そして升組に組み合わせた柱は男神を表すものだと思います。(神様は1柱、2柱と数えますね。)

つまり、大工の棟梁はビナヤキャ、おかめはビナヤキャ女神とイメージが重ねられた結果、千本釈迦堂では聖天さんの行事である大根炊の行事を行っているのではないかという推理です。

そして三栖神社の大きな炬火は男神を表しているのだと思います。
飛鳥の勧請綱の雄綱(男性のシンボルをかたどったもの)に形がそっくりだし~ ↓
かんじょうう おすづな

おかめ御幣は女性のシンボルを象ったものではないでしょうか。(下は千本釈迦堂に奉納されたおかめ御幣)
千本釈迦堂に奉納されたおかめ御幣
そして、男神である炬火に、女神であるおかめ御幣をつけることで、男女和合、めでたし、めでたし、ということなのではないでしょうか。
三栖神社 炬火祭 神輿 

いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/10/10 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

水尾の里 藤袴とアサギマダラ 『かわひらこ(蝶)は死者の魂を表す?』 

車は嵯峨野鳥居本から暗くて細い山道に入ります。
途中、保津川を横切ります。
ここから水尾へ行くバスも出ています。

保津峡

さらに走っていくと水尾の里があります。

水尾 柿

集落の入り口にある駐車場に車をとめて歩いていくと、藤袴のお花畑が。

水尾 藤袴

これだけでも感動もんなんですが、アサギマダラという蝶がたくさん飛んでいてさらに感動!

水尾 藤袴とアサギマダラ2
 
前日に見たジャパンオープンの浅田真央さんを思い出します。
藤袴色の衣装で、曲は蝶々夫人でしたね。
セカンドの3ループがダブルだったのが残念だったけど、3アクセルや2アクセルー3トゥループも決まり、のびやかなスケーティングでとても美しかった~♡

水尾 藤袴とアサギマダラ
 
アサギマダラの羽根は真央さんの衣装と同じシースルー(ブルーの部分は鱗粉が少ないのだそう)。

水尾 藤袴とアサギマダラ4 

 
アサギマダラは長距離ランナーで、中には秋の南下時に1,500 km以上移動するものもいるそうですよ。

蝶と言う言葉は漢名で、やまと言葉では「かわひらこ」というそうです。
ところが、この「かわひらこ」という名前はいつのまにか忘れ去られてしまい、漢名の蝶という言葉が用いられるようになりました。
なぜ「かわひらこ」という和名は忘れ去られてしまったのでしょうか。
丸谷才一さんは次のようにおっしゃっています。

かわひらこ(蝶)は亡くなった人の魂を表し不吉なので口にしなくなり、そのため「かわひらこ」という和名は忘れ去られてしまったのではないかと。

少彦名神という小さい神様がいますが、日本書紀ではミソササイの皮を、古事記では鵞の皮を着ていたと記されています。
ミソササイは小さな鳥のことです。鵞は蛾のことではないかと考えられているようです。

蝶と蛾は区別できないほど似ており、蛾と蝶を区別せず同じ言葉になっている国もあるそうです。

法起寺 コスモスと夕景 『観音菩薩になった鷺』 ←こちらの記事には「昔の人は死んだ人の魂は鳥となって天へ向かうと考えたのではないか。」と書きましたが
死んだ人の霊は鳥だけでなく、蝶や蛾などにもなると考えられたのでしょう。


水尾 藤袴とアサギマダラ3 


いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/10/08 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

北野天満宮 瑞饋祭 『文子は少女?それとも乳母?』 

10月4日はとーーーっても長い日でした。
というのは午前3時半に起きて滋賀県の白鬚神社まで日の出を見にいったからです。
白髭神社→真如堂→水尾→嵯峨野の田んぼ→清凉寺→祇王寺とこれだけ回っても時計を見るとまだ午後2時でした。

そういえば今日は北野天満宮の瑞饋祭の日だったなあ~。
と思い出し、そのあと北野天満宮の近くにある上七軒で祭の行列を見物することにしました。

↓ 芋茎などの乾物で飾られたずいき神輿

北野天満宮 ずいき神輿 
 
↓ 八乙女
北野天満宮 瑞饋祭 八乙女 


↓ 御羽車
北野天満宮 瑞饋祭 牛車2  
↓ 駕輿丁
北野天満宮 瑞饋祭 鳳輦  

↓ 御鉾
北野天満宮 瑞饋祭 御鉾  
↓ 花笠
ずいき祭 花笠  

15世紀中ごろ、一部焼失した北野天満宮を修造した際、余った用材で七軒の茶屋をたてたのが上七軒の始まりです。
京都には祇園甲部、先斗町、上七軒、宮川町、祇園東の五花街がありますが、上七軒がもっとも古い花街です。

ウィキペディアの北野天満宮のページには次のように記されています。

天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE#.E6.AD.B4.E5.8F.B2より引用

現在は神社でおみくじを売ったり、舞を舞ったりする女性のことを巫女と言っていますが
古には文子のように託宣を受ける女性のことを巫女といいました。
現代でも『いたこ』と言って、死者の霊を呼び寄せ、死者の言葉を告げる女性がいますね。

ということは、多治比文子は北野天満宮の初代の巫女だといえるでしょう。
北野天満宮の巫女は少女に限られていたそうですが、それはこの託宣をうけた多治比文子が少女であったことに由来するのではないでしょうか。

ところが、文子天満宮(京都市下京区間之町通花屋町)では多治比文子は道真の乳母だとしています。
あれれ~、文子って少女じゃなかったの?

文子に託宣があったのが942年とすれば、文子が道真の乳母だったというのはありえないです。
というのは道真は845年の生まれなので、942年道真が生きていたとすれば97歳です。
文子が道真の乳母だったとすれば、少なくとも文子は13歳以上道真よりも年上だと考えられます。
すると942年、文子は110歳以上ということになりますが、平安時代にそんなに長寿の女性がいたとは考えられないからです。

ウィキペディアの文子天満宮のページには託宣があった年の記載がありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AD%90%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
託宣があったのが942年でない可能性もあり、どちらが正しいのかわかりません。

ですが、手元に天神縁起巻ガイドブック(大阪市立博物館発行/大阪道明寺天満宮所蔵の『北野天神縁起絵扇面貼交屏風』を写真に撮り、解説を加えたもの)があり
『北野天神縁起絵扇面貼交屏風』でも文子はおかっぱ頭の少女に描かれています。
ここから、道明寺天満宮においても文子は少女であると認識されていたことがわかります。

上七軒の芸妓さんの起源は、北野天満宮で巫女をしていた少女が成熟したのちには茶立女になったものであるといわれています。

木地師の里 八重桜 出猩々『惟喬親王の髑髏は髑髏杯にされた?』 
上記記事に『髑髏と漆は髑髏杯をつくるのにかかせないものであったようです。』と書きましたが、茶碗とは髑髏をイメージしたものであり、髑髏をイメージした茶碗でお茶を飲むことは、相手を圧倒する、という呪術的な意味があったのではないかと思います。
『飲む」という言葉には『飲料を摂取する』というほかに『相手を圧倒する』という意味がありますね。
つまり茶道とは芸術ではなく呪術であり、死者の言葉を託宣するという特殊能力をもった巫女はお茶を点てるのにふさわしいと考えられたのではないかと思うのです。

↓ 瑞饋祭の行列を見物する上七軒の舞妓さんたち。

北野天満宮 瑞饋祭 獅子と舞妓さん  

いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2015/10/06 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

スーパームーンでありえない風景を合成(汗)『スーパームーン、今年は去年より小さかった』 

9月28日はスーパームーンでしたね♪

用事があって出かけることができなかったので自宅のベランダからスーパームーンを撮影しました。
写真を見ていると、本当に大きいのか、気になってきて
去年の中秋≪2014年9月8日)に撮影した月と比べてみることにしました。

同じレンズ、同じ焦点距離で撮影した月を半分に切って並べてみました。

スーパームーン 比較  

ありゃりゃ~、去年の中秋の月のほうが大きいですね?
調べてみると、2014年はスーパームーンが7月12日、8月10日、9月9日(アメリカ日時)の3回あったそうです。
2014年の中秋の名月が9月8日で、その翌日の9月9日がスーパームーンだったのですね。
9月8日はスーパームーンの前日でしたが、今年のスーパームーンよりも大きかったということになります。

月は地球の周囲を27.32日かけて公転していますが、その公転軌道は楕円形になっています。
そのため地球と月の距離は変化します。
地球から月までの距離は、いちばん短いときで約35万7000km、いちばん長いときで40万6000kmとなります。
この距離がもっとも短く、かつ満月もしくは新月になった時の月をスーパームーンといいます。

月が地球に最も近づいてから前後1時間以内に満月または新月を迎えることをエクストリーム・スーパームーンとか、エクストラ・スーパームーンというそうです。
2014年はこのエクストリーム・スーパームーンが観測されたそうです。
2014年は7月12日、8月10日、9月9日(アメリカ日時)
http://tabetainjya.com/archives/news/2014810/
上記によれば「最大の条件が揃うのは8月11日」とあるので、エクストリーム・スーパームーンだったのは2014年8月10日だと思います。

スーパームーンと逆に最も小さく見える満月のことをマイクロムーンというそうです。
今年のマイクロムーンは3月6日だったそうで、もう終わってしまいました。

次のマイクロムーンのときにも(いつかわからないんですが)月の写真を撮って、大きさを比べてみたいです。


自宅のベランダで撮影した写真を使って、ありえいない風景を合成してみました。(汗)


和泉大津SAより望む堺泉北臨海工業地帯。
ガラスの映り込みがあるけど、面白いかな、と思って修正してません。(修正したほうがいい?)

スーパームーン 堺泉北工業地帯 

↓ 法隆寺  

法隆寺 スーパームーン 

↓ 伏見桃山城

スーパームーン 伏見桃山城 


いつも応援ありがとうございます♪



にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/10/01 00:00] 大阪・京都・奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)