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薬師寺 朝日  法起寺 月 『太陽と月が結婚すると星が生まれる?』 追記あり 


9月27日は中秋の名月ですね!
そこで太陽と月にちなむ記事を書きたいと思って、古~い写真を引っ張り出してきました。

薬師寺 朝日

↑ 大池から撮影した奈良・西ノ京の薬師寺の朝日。
現在、薬師寺の東塔は解体修理中でシマシマのハコで覆われています。

法起寺 月

↑ こちらは奈良・斑鳩の法起寺の月です。


中国に伏義と女媧という神様がいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
↑ 上はウィキペディアに掲載されている伏義と女媧です。

伏義は手に直角定規を、女媧は手にコンパスを持っています。
 
中国では天円地方といって、天は丸、地は四角だと考えられていました。
女媧は天の神、伏義は地の神ということなんでしょうか。
でも、これってちょっとおかしいんですよ。

陰陽では天は陽で地は陰、男が陽で女が陰なのです。

なので伏義が天の神でコンパスを、女媧が地の神なので直角定規を持っていてしかるべきなのに、なんで持ち物が逆になっているのでしょうか。
これについては諸説ありますが、ひとまず置いておきましょう。

とりあえず下記の赤文字部分のみ頭にいれておいてください。
陽・・・天/男(伏義)
陰・・・地/女(女媧)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg

↑ この図をみると二神の周囲に星宿図のようなものが描かれ、上中央には菊の紋のようなものが、下中央にはクロワッサンのようなものが描かれています。
菊の紋のように見えるのは太陽、クロワッサンのように見えるものは月ではないでしょうか。

 http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1099.htm

↑ こちらの五盔墓4号墳の壁画に描かれた絵では、伏義が持ち上げている円の中には八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれています。

八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられていました。

この絵を見ると、伏義は太陽の神、女媧は月の神のように思われます。
いや、もっと広く伏義は陽の神、女媧は陰の神というべきかもしれません。

伏義と女媧には次のような伝説があります。

伏羲が妹の女媧にプロポーズしたところ、女媧は「私を捕まえることができたら結婚しましょう」といいました。
女媧は木の周囲を回って逃げ、伏羲はあとをおいました。
けれど、なかなか女媧を捕まえることができません。
そこで伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえました。
こうして伏義と女媧は結婚しました。
やがて女媧は出産しましたが、それは肉塊でした。
その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散り、人間となりました。


伏義は陽、女媧は陰の神だと考えられますが、伏義は太陽神、女媧は月神であるとも考えられます。
太陽(伏義)が月(女媧)をなかなか捕まえられないのは当然ですね。

太陽が月を捕まえるとは、太陽と月が重なること、日食のことでしょう。
古代中国では紀元前4世紀の天文学者・石申が月と太陽の相対位置から日食を予測する方法を説いています。
日食とは太陽と月が重なっておきる現象であるということは古くから知られていたのだです。

伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえたとありますが、太陽は止まることはないし、逆に廻ることはありません。

これは目の錯覚を表現したものではないでしょうか。
太陽や月は東から西に進みますが、日食の影は西から東に進むので、太陽が逆に廻ったように錯覚したのではないかと思います。

↓ こちらの動画を見ると日食の影が西から東へ(右上から左下へ)進んでいくのがわかります。



【追記】
『太陽や月は東から西に進みますが、日食の影は西から東に進むので、太陽が逆に廻ったように錯覚したのではないかと思います。』と書きましたが、
上の動画を見ると西から東へ進んでいるのは太陽というよりは月のほうのように見えますね・・・。
やっぱり伏義=陰/月・大地なんでしょうか?


2012年の金環日食では、かなり暗くはなりましたが、夜のように真っ暗にはなりませんでした。
しかし皆既日食では日没後20分から30分くらいたった程度に暗くなり、明るい星であれば観測されるそうです。

↓ 2012年に撮影した日食です。

金環日食 

あと少しで金環日食になるところだったのに、このあと雲に隠れてしまった~(涙)


「やがて女媧は出産しました」とありますが、女媧が生んだものとは、日食がもたらすものことでしょう。
日食の結果、闇が生じて星が見えます。

「その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となりました。」
とありますが、夜空にきらめく無数の星は、切り刻んだものが飛び散ったかのように見えます。

死んだ人の霊は星になると考えられていたのではないでしょうか。
お盆の習慣が生じたのは、ベルセウス座流星群が流れる様子を見て、先祖の霊が帰ってくると、古の人々が考えたためだと思います。

「肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となりました。」というのは、人間は人間でも死んだ人間の霊=星のことを言っているのだと思います。

そこでもう一度伏義と女媧の絵を見てみましょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg

伏義(太陽)と女媧(月)が蛇身の下半身をからませあい、その周囲にはたくさんの星が描かれています。
これは日食のようすを描いたものではないでしょうか。



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[2015/09/27 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

美山 かやぶきの里 蕎麦 はざかけ 『茅葺のルーツは竪穴式住居?』 

2015年9月22日撮影の美山かやぶきの里です。

美山茅葺の里 蕎麦畑

蕎麦の白い花が満開でまるで雪が降ったかのよう~。

美山茅葺の里 薄 
稲や麦の茎は吸水性がありますが、萱(チガヤ、スゲ、ススキなど)の茎には油分があって耐水性に優れています。
そのため屋根材として用いられるようになったのですね。

萱で屋根を葺くためには大量の萱が必要です。
そこで集落に萱場といって萱を育てるための場所を作っています。
美山にも集落の川向うに萱場があるそうですが、撮影するのを忘れていました・・・。
(上の写真は民家の傍に生えていたススキ)

縄文時代から平安時代ごろまで庶民が住んでいたとされる竪穴式住居の屋根も茅葺であったと考えられ、茅葺で復元された竪穴式住居が各地に作られています。
茅葺屋根の民家のルーツは竪穴式住居なのでしょうか?

美山茅葺の里 コスモス  

ところで竪穴式住居が茅葺であったと考えられているのはなぜなのでしょう?
地面に掘った穴は残っていても、屋根材は腐ってしまって残っていなかったのではないでしょうか。

これについてネットで少し調べてみたのですが、どうやら竪穴式住居の屋根材が萱であったというのは証拠があるわけではなく、想像されたもののようです。

登呂遺跡の復元竪穴式住居を作る際、、近世の高殿とよばれる砂鉄製錬所の建物を参考にしたそうです。
なぜ高殿を参考にしたのかというと、竪穴の形や柱の穴が竪穴式住居のものによく似ていたからなのだとか。

美山茅葺の里 はざかけ

ところが、1986年、群馬県の中筋遺跡を調査したところ、『ちょっと違うぞ』ということになったようです。

中筋遺跡は1500年ほど前に榛名山が大爆発した際、一瞬のうちに火砕流に埋まった集落の遺跡でした。
そのため竪穴式住居の構造部材の痕跡が残っていたそうです。
その痕跡から、中筋遺跡の竪穴式住居の屋根は茅葺の上に土を盛っていたと推測されたようです。

また、岩手県の御所野遺跡から竪穴式住居跡が発見されました。
この竪穴式住居の焼失住居跡を調査したところ、炭化材に萱は全くなかったそうです。
そのため、御所野遺跡の竪穴式住居は土屋根であったと考えられています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%BE%A1%E6%89%80%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E5%B1%85.JPG

上記ウィキペディアの写真を見るとまるで円墳のようにも見えて衝撃的ですね!

案外、竪穴式住居は土屋根が主流だったのかも?

美山茅葺の里 ポスト



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[2015/09/26 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

岸和田だんじり祭 『吉兵衛の霊が駆け抜ける!』 

岸和田だんじり祭 流し撮り 
岸和田だんじり祭を流し撮りで撮ったのですが、背景のゴルフ練習場の網のぼけ方が不十分でしたー。
そこでフォトショップで流し撮り風の加工をしてみました(汗)


えべっさん(恵比寿天)は耳が悪いといわれ、よく聞こえるように神殿の後ろをたたいてお参りするという習慣があります。

なんでえべっさんは耳が悪いと言われているのでしょう?

大阪市北区にある堀川戎神社には榎木稲荷神社があり、社殿はだんじりの形をしています。
そして次のような伝説が伝えらえています。

榎木稲荷神社 

かつて天満堀川の川べりの榎の根元に老狸の吉兵衛が住んでおり、夜な夜なだんじり囃子を奏でていました。

1839年、その地に榎木稲荷神社が創建され、堀川戎神社末社の稲生神社の分霊が合祀されました。
その後明治40年に堀川戎神社に遷座しました。


榎木という名前から、私は物部守屋を思い出します。
587年、神道派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子や聖徳太子と闘い、榎の木の上で指揮をとっていたところを弓で射落とされて死亡したとされます。

初戎にお参りする習慣は特に関西で盛んですが、守屋の本拠地は現在の大阪でした。
大阪四天王寺は守屋の土地を没収して聖徳太子が建てたものですし、森ノ宮という地名は守屋の宮からくるという説もあります。

四天王寺 桜紅葉 
↑ 四天王寺 桜紅葉 塔百景57

四天王寺 守屋祠 
↑ 四天王寺には物部守屋を祀る守屋祠もあります。

榎木明神(榎稲荷神社の神)とは物部守屋のことではないでしょうか。


日本書紀において、聖徳太子は陽、物部守屋は陰として描き分けられているのではないかと私は思います。

聖徳太子は587年の戦いで弓で射られたとき、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。


大聖将軍寺 神妙椋樹 

↑ 大聖将軍寺にはこの伝説をあらわした神妙椋樹があり、椋の木のほらの中に聖徳太子像が置かれています。

一方、守屋は榎の木にいるところを弓で撃ち落とされて死亡したとされます。

椋の木は太い幹を持ち、中にほらができやすいそうです。
一方榎は根元から枝分かれしやすいので幹が太くならず、ほらができにくいとのこと。

また、聖徳太子はこのときまだ13歳、守屋は生年不詳なのではっきりしたことはわかりませんが熟年であったと考えられます。

聖徳太子は1度に10人の言うことを理解することができたというほど耳がよかったといわれます。
聖徳太子と物部守屋が陰陽に描き分けられているのであれば、耳が悪いえべっさんとは守屋のことではないでしょうか。

;陽・・・聖徳太子・・・少年・・・弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた・・・耳がいい
陰・・・物部守屋・・・熟年・・・弓で射られて死亡した・・・耳が悪い?


一般的に稲荷神は狐とされていますが、四国では狐はいないといわれ(実際にはいる)稲荷神は狸とされているそうです。
空海が狸を四国に解放した、などとも言われます。

神はその現れ方で、御魂・和魂・荒魂の3つに分けられ、女神は和魂、男神は荒魂をあらわすとする説があります。

信楽駅の狸 

信楽焼きの狸はたいてい男です。
そして狐が女性に化けるという話はよく聞きますが、男性に化けたとは聞きません。

つまり、狸は男神で荒魂を、狐は女神で和魂を表しているのではないでしょうか。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・狐
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・狸


とすれば、榎木明神は男神であり、荒魂だということになります。
そして榎木明神=物部守屋=狸の吉兵衛ということになるので
吉兵衛が夜な夜なだんじり囃子を奏でていたというのは、荒魂である守屋の霊がだんじり囃子を奏でていたということになります。

大阪にはたくさんのだんじりがありますが、中でも岸和田のだんじりが有名です。

岸和田 だんじり祭 流し撮り2


ちょっとぶれぶれですかね~?(汗)

だんじりのルーツは京都祇園祭の山鉾だといわれますが
祇園祭の山鉾がゆっくりと巡行するのに対し、大阪のだんじりはものすごいスピードで駆け抜けていきます。
これはだんじりに乗っている神様(榎木明神=物部守屋=狸の吉兵衛)が荒魂であるからではないでしょうか。

そして岸和田の昔話にも吉兵衛という男の昔話が伝えられています。
御祭岸和田市のhphttps://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/3/mukashi5-12-danjirikichibe.html
上記にはよれば、次のような話が記されています。

昔、現在の岸和田市並松町あたりに吉兵衛というだんじり好きの男のもとに狸たちが訪れて吉兵衛とともに尻尾で太鼓をたたきました。。
それ以降、祭が終わると風に乗って狸の祭囃子が聴こえてくるようになりました。


だんじり好きの男とは物部守屋の霊のことではないでしょうか。
そして狸は守屋の神使ということでしょう。

1400年以上たっても大阪の人々は守屋を慰霊し続けている。
私にはそんな風に思えるのです。



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[2015/09/24 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

仏隆寺 彼岸花 室生龍穴神社 龍穴 『赤埴と丹土』 

写真は2009年に撮影したものです。
(最近、仏隆寺の彼岸花は猪や鹿に食べられて激減しているそうです。)

仏隆寺 彼岸花 

仏隆寺は宇陀市榛原区赤埴にあります。
赤埴って変わった地名ですね。
赤埴氏という氏族もいます。

仏隆寺 彼岸花 石仏


『奈良縣宇陀郡史料』に次のように記されているそうです。

「(赤埴)氏は本姓大神にして大物主神の後大神君大友主より出ず、上古大国主神嫡后須勢理姫と共に宇陀の室生岩窟に入り五百引の石を以って之を塞ぎ赤土を以って其口を塗る、赤埴の称ここに起り其岩窟は即ち今の室生龍穴社なりと云う」

赤埴氏の本姓は大神氏で、オオモノヌシの後、大神君大友主から出た。
昔、オオクニヌシが后のスセリヒメと共に宇陀の室生岩窟に入り、引っ張るのに五百人必要なほど大きな石で岩窟を塞ぎ、その口に赤土を塗った。
赤埴という名前(地名?)はここからくる。
その岩窟は室生龍穴神社である。


みたいな意味でしょうか。(違っていたら教えてくださいね!)

室生龍穴神社

↑ 室生龍穴神社です。
室生寺は室生龍穴神社の神宮寺だともいわれています。
そして仏隆寺は室生寺の末寺でした。

龍穴 

 ↑ 室生龍穴神社の裏山に龍穴があります。
オオクニヌシがスセリヒメとともに入った岩窟とはこの龍穴のことでしょうか。

赤埴氏は仏隆寺のある赤埴に住んでいたようで、興福寺大乗院門跡領・赤埴荘の荘園下司を務める氏族でした。

古事記に同じような話があります。

根の堅州国に行ったオオナムチ(オオクニヌシの別名)は、根の国の王・スサノオからさまざまな試練を与えられます。
蛇の部屋や百足と蜂の部屋に入れられたり、野原に火をつけられたりしましたが、スサノオの娘・スセリヒメの助けを得てなんとかこれらをクリアーしました。
次にスサノオはオオナムチを呼び、自分の頭の虱をとるように命じました。
スサノオの頭には虱ではなく百足がいっぱいいました。
オオナムチはスセリヒメにもらった木の実を食い破り、赤土を口に含んで吐き出しました。
スサノオは大国主がむかでをかみ砕いて吐き出しているのだと思い寝てしまいました。
オオナムチはスサノオの神を部屋の柱に結び付け、五百引の石で部屋の入り口を防ぎ、スセリヒメを背負って黄泉比良坂からこの世に戻りました。


根の堅州国とは死の世界で、黄泉の國と同様のものと考えられています。
黄泉平坂とはあの世とこの世の境目のことで、出雲または熊野にあると考えられています。

しかし、どうやら『奈良縣宇陀郡史料』は室生龍穴神社が黄泉平坂であるといいたいようです。
そして室生龍穴神社の御神体である龍穴の中は根の堅州国であり、スサノオが住んでいるということなのでしょう。

スサノオの頭に百足がいたというのが気になります。
坑道のことを百足穴といいます。
スサノオの頭は鉱山を、スサノオの頭に百足がいたというのは鉱山に坑道があったということを比喩的に表現しているのではないでしょうか。

そしてオオナムチが赤土を口に含んで吐き出したとありますが、赤土とは丹土(辰砂、水銀)のことです。
つまり、スサノオは坑道から丹土を採掘したと、そういうことを比喩的に表現したものではないかと思います。

すると赤埴も赤土を意味しているのではないかと思えてきます。

赤埴の地はかつて丹土がとれたたのかも?

※仏隆寺・・・奈良県宇陀市榛原区赤埴1684

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[2015/09/22 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

市民ふれあいの里 タイワンリス 『リスの木食修行?』 

タイワンリス

タイワンリスを見ていたら、ロシア民謡の「黒い瞳」を思い出しました。
プルシェンコの「黒い瞳」もよかったなあ~。

タイワンリス 子供から餌をもらう 
こんなにかわいいリスですが、「リスは魔物である」という伝説があります。
といっても、タイワンリスはもともと日本に住んでいなかったので、魔物とされたのはニホンリスだと思いますが。

リスを一匹殺すと無数のリスが現れるというのです。
リスが修験道の山伏になって現れ占いをするという伝説もあります。

タイワンリス 壁にはりつく

なんでリスが山伏なんでしょうか?

タイワンリス 木の実を食べる 

前脚で木の実を持って食べるリス。

タイワンリス 木をかじる

この子は木の枝をかじっているのかな。

リスの門歯は人間の爪や髪の毛のように伸び続けるそうです。
そのため木など硬いものをかじって歯をすり減らしているのだとか。

巣箱や木の枝などには、リスがかじって凹んだところがたくさんありました。

木食といって、五穀を絶ち、木の実や木の皮、草を食べるという修験道の行があります。
リスは木の実を食べたり、木をかじったりするところから、木食を行う修験道の山伏に喩えられたのではないでしょうか。

即身仏となるためにも木食は行われました。
木食を行って体脂肪を減らすと死後腐りにくい体になるためです。

しかし高温多湿の日本では即身仏となることは難しく、入定した多くの行者の死体は腐ってしまったようです。

即身仏のメッカといえば山形県の湯殿山ですが、この地域の土壌は水銀濃度が高いのだそうです。
水銀には防腐作用があります。
そのためこの地域の木の実や木の皮、草などを食べると水銀が体内にたまって死後腐りにくい体になったと言われています。

一度即身仏を参拝したいです。

たいわんりす 眠そう 

お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったよ~。

市民ふれあいの里・・・大阪狭山市東野東1-32-2 


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[2015/09/20 00:52] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

八幡堀まつり ライトアップ 『秀次の命日がお盆の中日って本当?』 



1585年、豊臣秀吉は関白に就任すると、甥(同母姉の子)の秀次に近江の蒲生郡・甲賀郡・野洲郡・坂田郡・浅井郡の5郡を与えました。
こうして秀次は17歳という若さで43万石の大名となりました。

秀次は蒲生郡の現在の近江八幡市に居城を構えることにしました。

日牟禮八幡宮 
↑ 日牟禮八幡宮です。
1590年、豊臣秀次は八幡山城を築くために、上の八幡宮を下の社に合祀しました。

八幡堀2

↑ 豊臣秀次が八幡山城の城下町に作った水路・八幡堀です。
なんとも歴史の古い水路だったのですね~。

1589年、秀吉53歳のとき、淀殿との間に鶴松という男子が誕生しました。
ところが鶴松は1591年、2歳で夭逝してしまいました。
秀吉は「自分にはもう跡取りは生まれない」と諦め、秀次を跡継ぎにしようと考えたようです。
秀吉は秀次を養嗣子とし、二代目関白としたのです。

八幡堀 店

ところが2年後の1593年、淀殿が秀頼を出産しました。
秀吉は甥の秀次ではなく、実子の秀頼を後継者にしたいと考えるようになりました。

1595年8月20日(文禄4年7月15日)、秀次は謀反を企てているとの疑いをかけられ、切腹に追い込まれました。享年28歳でした。
多くの家臣も切腹したり斬首されたりしました。

秀次の死後、秀吉は三条河原で秀次の子4名、姫君、側室・侍女・乳母ら39名を斬首しました。

毎年秀次の命日の7月15日に、滋賀県近江八幡市の八幡山で、秀次の供養が行われているそうです。

旧暦7月15日はお盆の中日です。
新暦では月遅れの8月15日をお盆の中日としている地域も多いですが、旧暦ではお盆の中日は7月15日だったのです。

秀吉はあえてお盆の中日を選んで秀次に切腹命令出したのかも?
それとも秀次の死後、お盆の中日である7月15日が秀次の命日であるとこじつけられたのかもしれません。

というのは3月21日は春彼岸の中日ですが、小野小町や和泉式部など多くの歴史上の有名人の命日が3月21日であるとの旨が、梅原猛さんの本に記されていたからです。

3月21日は春分の日で、真西に太陽が沈みます。
そのため西方極楽浄土を思い浮かべる日想観の修行を行うのによいとされ、先祖供養をする習慣が生じた、という説があります。
多くの歴史上の有名人の命日が3月21日になっているのは、この日が先祖供養をする彼岸の日だからでしょう。
 
7月15日が命日だという歴史上の有名人も探せば大勢いるかもしれません。

日本では先祖の霊はその子孫が慰霊するべき、とされています。
古事記や日本書紀にも疫病をもたらした祟り神・大物主を子孫であるオオタタネコが祀ったところ天下泰平になったという記述があります。

ところが、秀次の妻子は皆殺しされ、秀次の霊を慰霊するべき子孫がいません。
井沢元彦さんが「聖徳太子が怨霊になったのは聖徳太子の子孫が全員斑鳩寺で首をくくり慰霊するべき子孫がいなかったためではないか」という旨の文章を書いておられたと思います。
これと同じで秀次は死後怨霊になったと考えられたのではないでしょうか。

「雨月物語」の仏法僧という物語では、旅の親子が高野山で豊臣秀次の怨霊に出会うという話だそうです。(秀次は高野山で切腹したので)
また三条河原では秀次の一族の霊鬼が彷徨ったという話もあります。

通常、死んだ人は初七日や二七日などの法要を行って49日で成仏すると考えられています。
しかし秀次は子孫も全員殺されて法要する子孫がないので成仏しないと考えられたのではないでしょうか。

一般的にお盆は7月13日に迎え火をたいてご先祖様の霊をお迎えし、16日に送り火をたいてご先祖様の霊をあの世へお送りするとされていいます。

7月15日が命日だと、死んだその日のうちに霊は戻ってきて翌日には帰ってしまうので、恐ろしい怨霊の命日は7月15日がちょうどいいと考えられたのかなあ?なんぞと思ったりします。

八幡堀 

秀次が築城した八幡山城は秀吉が壊してしまいましたが、八幡堀は残されました。
たくさんの灯りは、まるで秀次のために献灯されたかのように思えます。

白雲館

↑ 八幡堀の前には白雲館が建てられています。

八幡堀まつり・・・2015年は9月19日、20日に行われるようです。(確認をお願いします。)



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[2015/09/19 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)