唐招提寺 観月讃仏会 『月となって輝く長屋王・道鏡・玄昉の霊?』 


息をのむほどの美しさでした。
私の写力では表現しきれないので、ぜひ足を運んで参拝していただきたいです。

唐招提寺 観月讃仏会

毘盧遮那仏、薬師如来、千手観音の三尊を祀っているのはここ唐招提寺だけです。
三尊は東大寺(本尊は毘盧遮那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺の「天下三戒壇」を表すといわれています。

私には、毘盧遮那仏は長屋王、薬師如来は道鏡、千手観音は玄昉のイメージと重なって見えます。
詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。 → 唐招提寺 蓮 と 頭塔 

長屋王、道鏡、玄昉はいずれも奈良時代に政治的に不幸な死を迎えた人物です。
長屋王は謀反を企てたとして長屋王邸(現在のイトーヨーカ堂奈良店)で自殺に追い込まれました。
道鏡は失脚して下野薬師寺に、玄昉は筑紫観世音寺に左遷となっています。

彼らは死後、怨霊になったと考えられたのではないかと思います。
そして唐招提寺の三尊は、長屋王、道鏡、玄昉の怨霊を和魂に転じて仏にしたものではないかと私は【勝手に】考えています。

唐招提寺 観月讃仏会2

日本では古より神仏は習合されて信仰されてきました。
そのベースになったのが本地垂迹説です。

本地垂迹説とは『日本古来の神々は仏教の神々(みほとけ)が衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものである』とする考え方のことで
日本古来の神々のことを権現、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏といいます。

たとえば、日本古来の神である菅原道真の本地仏は十一面観音である、などとされています。

唐招提寺の場合は次のような関係になっているのではないかと、私は【勝手】に推測しています。

毘盧遮那仏・・・長屋王の本地仏
薬師如来・・・・道教の本地仏
千手観音・・・・玄昉の本地仏


日本の神様って、性別が曖昧なんですよ。

古事記や日本書紀では三輪明神(大神神社の御祭神・大物主神)は男神として登場しますが、謡曲・三輪に登場する三輪明神は女神です。

亀岡祭曳山の御神体の三輪明神も女神でしたし、
一般に稲荷明神は女神とされていますが、亀岡祭曳山の御神体の稲荷明神は男神でした。

唐招提寺 観月讃仏会2  
↑ 昼間撮ったものを夜のように加工してみた。(汗)

このブログですでに何度か書いていますが、神は御霊・和魂・荒魂の三つに分けられ、女神は和魂を、男神は荒神を表すとする説があります。

御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


上記に本地垂迹説を加えて考えると次のようになるのではないかと思います。

御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・みほとけ・・・・・・毘盧遮那仏/薬師如来/千手観音
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・日本古来の神・・・・長屋王/道鏡/玄昉


そして陰陽道では太陽は陽、月は陰です。
すると、次のようになります。

御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・みほとけ・・・・・・毘盧遮那仏/薬師如来/千手観音・・・月
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・日本古来の神・・・・長屋王/道鏡/玄昉・・・・・・・・・太陽


つまり、唐招提寺の毘盧遮那仏・薬師如来・千手観音は長屋王・道教・玄昉の和魂であり、
観月讃仏会は彼らの和魂が月となって闇夜を照らす光明になったということを表す行事であるように、私には思えるのです。

唐招提寺 観月讃仏会

↑ スマホが星のように輝く観月讃仏会。



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[2015/09/29 11:13] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

薬師寺 朝日  法起寺 月 『太陽と月が結婚すると星が生まれる?』 追記あり 


9月27日は中秋の名月ですね!
そこで太陽と月にちなむ記事を書きたいと思って、古~い写真を引っ張り出してきました。

薬師寺 朝日

↑ 大池から撮影した奈良・西ノ京の薬師寺の朝日。
現在、薬師寺の東塔は解体修理中でシマシマのハコで覆われています。

法起寺 月

↑ こちらは奈良・斑鳩の法起寺の月です。


中国に伏義と女媧という神様がいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
↑ 上はウィキペディアに掲載されている伏義と女媧です。

伏義は手に直角定規を、女媧は手にコンパスを持っています。
 
中国では天円地方といって、天は丸、地は四角だと考えられていました。
女媧は天の神、伏義は地の神ということなんでしょうか。
でも、これってちょっとおかしいんですよ。

陰陽では天は陽で地は陰、男が陽で女が陰なのです。

なので伏義が天の神でコンパスを、女媧が地の神なので直角定規を持っていてしかるべきなのに、なんで持ち物が逆になっているのでしょうか。
これについては諸説ありますが、ひとまず置いておきましょう。

とりあえず下記の赤文字部分のみ頭にいれておいてください。
陽・・・天/男(伏義)
陰・・・地/女(女媧)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg

↑ この図をみると二神の周囲に星宿図のようなものが描かれ、上中央には菊の紋のようなものが、下中央にはクロワッサンのようなものが描かれています。
菊の紋のように見えるのは太陽、クロワッサンのように見えるものは月ではないでしょうか。

 http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1099.htm

↑ こちらの五盔墓4号墳の壁画に描かれた絵では、伏義が持ち上げている円の中には八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれています。

八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられていました。

この絵を見ると、伏義は太陽の神、女媧は月の神のように思われます。
いや、もっと広く伏義は陽の神、女媧は陰の神というべきかもしれません。

伏義と女媧には次のような伝説があります。

伏羲が妹の女媧にプロポーズしたところ、女媧は「私を捕まえることができたら結婚しましょう」といいました。
女媧は木の周囲を回って逃げ、伏羲はあとをおいました。
けれど、なかなか女媧を捕まえることができません。
そこで伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえました。
こうして伏義と女媧は結婚しました。
やがて女媧は出産しましたが、それは肉塊でした。
その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散り、人間となりました。


伏義は陽、女媧は陰の神だと考えられますが、伏義は太陽神、女媧は月神であるとも考えられます。
太陽(伏義)が月(女媧)をなかなか捕まえられないのは当然ですね。

太陽が月を捕まえるとは、太陽と月が重なること、日食のことでしょう。
古代中国では紀元前4世紀の天文学者・石申が月と太陽の相対位置から日食を予測する方法を説いています。
日食とは太陽と月が重なっておきる現象であるということは古くから知られていたのだです。

伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえたとありますが、太陽は止まることはないし、逆に廻ることはありません。

これは目の錯覚を表現したものではないでしょうか。
太陽や月は東から西に進みますが、日食の影は西から東に進むので、太陽が逆に廻ったように錯覚したのではないかと思います。

↓ こちらの動画を見ると日食の影が西から東へ(右上から左下へ)進んでいくのがわかります。



【追記】
『太陽や月は東から西に進みますが、日食の影は西から東に進むので、太陽が逆に廻ったように錯覚したのではないかと思います。』と書きましたが、
上の動画を見ると西から東へ進んでいるのは太陽というよりは月のほうのように見えますね・・・。
やっぱり伏義=陰/月・大地なんでしょうか?


2012年の金環日食では、かなり暗くはなりましたが、夜のように真っ暗にはなりませんでした。
しかし皆既日食では日没後20分から30分くらいたった程度に暗くなり、明るい星であれば観測されるそうです。

↓ 2012年に撮影した日食です。

金環日食 

あと少しで金環日食になるところだったのに、このあと雲に隠れてしまった~(涙)


「やがて女媧は出産しました」とありますが、女媧が生んだものとは、日食がもたらすものことでしょう。
日食の結果、闇が生じて星が見えます。

「その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となりました。」
とありますが、夜空にきらめく無数の星は、切り刻んだものが飛び散ったかのように見えます。

死んだ人の霊は星になると考えられていたのではないでしょうか。
お盆の習慣が生じたのは、ベルセウス座流星群が流れる様子を見て、先祖の霊が帰ってくると、古の人々が考えたためだと思います。

「肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となりました。」というのは、人間は人間でも死んだ人間の霊=星のことを言っているのだと思います。

そこでもう一度伏義と女媧の絵を見てみましょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg

伏義(太陽)と女媧(月)が蛇身の下半身をからませあい、その周囲にはたくさんの星が描かれています。
これは日食のようすを描いたものではないでしょうか。



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[2015/09/27 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

美山 かやぶきの里 蕎麦 はざかけ 『茅葺のルーツは竪穴式住居?』 

2015年9月22日撮影の美山かやぶきの里です。

美山茅葺の里 蕎麦畑

蕎麦の白い花が満開でまるで雪が降ったかのよう~。

美山茅葺の里 薄 
稲や麦の茎は吸水性がありますが、萱(チガヤ、スゲ、ススキなど)の茎には油分があって耐水性に優れています。
そのため屋根材として用いられるようになったのですね。

萱で屋根を葺くためには大量の萱が必要です。
そこで集落に萱場といって萱を育てるための場所を作っています。
美山にも集落の川向うに萱場があるそうですが、撮影するのを忘れていました・・・。
(上の写真は民家の傍に生えていたススキ)

縄文時代から平安時代ごろまで庶民が住んでいたとされる竪穴式住居の屋根も茅葺であったと考えられ、茅葺で復元された竪穴式住居が各地に作られています。
茅葺屋根の民家のルーツは竪穴式住居なのでしょうか?

美山茅葺の里 コスモス  

ところで竪穴式住居が茅葺であったと考えられているのはなぜなのでしょう?
地面に掘った穴は残っていても、屋根材は腐ってしまって残っていなかったのではないでしょうか。

これについてネットで少し調べてみたのですが、どうやら竪穴式住居の屋根材が萱であったというのは想像されたもののようです。

登呂遺跡の復元竪穴式住居を作る際、、近世の高殿とよばれる砂鉄製錬所の建物を参考にしたそうです。
なぜ高殿を参考にしたのかというと、竪穴の形や柱の穴が竪穴式住居のものによく似ていたからだそうです。

美山茅葺の里 はざかけ

ところが、1986年、群馬県の中筋遺跡を調査したところ、『ちょっと違うぞ』ということになったようです。

中筋遺跡は1500年ほど前に榛名山が大爆発した際、一瞬のうちに火砕流に埋まった集落の遺跡でした。
そのため竪穴式住居の構造部材の痕跡が残っていたそうです。
その痕跡から、中筋遺跡の竪穴式住居の屋根は茅葺の上に土を盛っていたと推測されたようです。

また、岩手県の御所野遺跡から竪穴式住居跡が発見されました。
この竪穴式住居の焼失住居跡を調査したところ、炭化材に萱は全くなかったそうです。
そのため、御所野遺跡の竪穴式住居は土屋根であったと考えられています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%BE%A1%E6%89%80%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E5%B1%85.JPG

上記ウィキペディアの写真を見るとまるで円墳のようにも見えて衝撃的ですね!

案外、竪穴式住居は土屋根が主流だったのかも?

美山茅葺の里 ポスト



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[2015/09/26 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

岸和田だんじり祭 『吉兵衛の霊が駆け抜ける!』 

岸和田だんじり祭 流し撮り 
岸和田だんじり祭を流し撮りで撮ったのですが、背景のゴルフ練習場の網のぼけ方が不十分でしたー。
そこでフォトショップで流し撮り風の加工をしてみました(汗)


えべっさん(恵比寿天)は耳が悪いといわれ、よく聞こえるように神殿の後ろをたたいてお参りするという習慣があります。

なんでえべっさんは耳が悪いと言われているのでしょう?

大阪市北区にある堀川戎神社には榎木稲荷神社があり、社殿はだんじりの形をしています。
そして次のような伝説が伝えらえています。

榎木稲荷神社 

かつて天満堀川の川べりの榎の根元に老狸の吉兵衛が住んでおり、夜な夜なだんじり囃子を奏でていました。

1839年、その地に榎木稲荷神社が創建され、堀川戎神社末社の稲生神社の分霊が合祀されました。
その後明治40年に堀川戎神社に遷座しました。


榎木という名前から、私は物部守屋を思い出します。
587年、神道派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子や聖徳太子と闘い、榎の木の上で指揮をとっていたところを弓で射落とされて死亡したとされます。

初戎にお参りする習慣は特に関西で盛んですが、守屋の本拠地は現在の大阪でした。
大阪四天王寺は守屋の土地を没収して聖徳太子が建てたものですし、森ノ宮という地名は守屋の宮からくるという説もあります。

四天王寺 桜紅葉 
↑ 四天王寺 桜紅葉 塔百景57

四天王寺 守屋祠 
↑ 四天王寺には物部守屋を祀る守屋祠もあります。

榎木明神(榎稲荷神社の神)とは物部守屋のことではないでしょうか。


日本書紀において、聖徳太子は陽、物部守屋は陰として描き分けられているのではないかと私は思います。

聖徳太子は587年の戦いで弓で射られたとき、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。


大聖将軍寺 神妙椋樹 

↑ 大聖将軍寺にはこの伝説をあらわした神妙椋樹があり、椋の木のほらの中に聖徳太子像が置かれています。

一方、守屋は榎の木にいるところを弓で撃ち落とされて死亡したとされます。

椋の木は太い幹を持ち、中にほらができやすいそうです。
一方榎は根元から枝分かれしやすいので幹が太くならず、ほらができにくいとのこと。

また、聖徳太子はこのときまだ13歳、守屋は生年不詳なのではっきりしたことはわかりませんが熟年であったと考えられます。

聖徳太子は1度に10人の言うことを理解することができたというほど耳がよかったといわれます。
聖徳太子と物部守屋が陰陽に描き分けられているのであれば、耳が悪いえべっさんとは守屋のことではないでしょうか。

;陽・・・聖徳太子・・・少年・・・弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた・・・耳がいい
陰・・・物部守屋・・・熟年・・・弓で射られて死亡した・・・耳が悪い?


一般的に稲荷神は狐とされていますが、四国では狐はいないといわれ(実際にはいる)稲荷神は狸とされているそうです。
空海が狸を四国に解放した、などとも言われます。

神はその現れ方で、御魂・和魂・荒魂の3つに分けられ、女神は和魂、男神は荒魂をあらわすとする説があります。

信楽駅の狸 

信楽焼きの狸はたいてい男です。
そして狐が女性に化けるという話はよく聞きますが、男性に化けたとは聞きません。

つまり、狸は男神で荒魂を、狐は女神で和魂を表しているのではないでしょうか。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・狐
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・狸


とすれば、榎木明神は男神であり、荒魂だということになります。
そして榎木明神=物部守屋=狸の吉兵衛ということになるので
吉兵衛が夜な夜なだんじり囃子を奏でていたというのは、荒魂である守屋の霊がだんじり囃子を奏でていたということになります。

大阪にはたくさんのだんじりがありますが、中でも岸和田のだんじりが有名です。

岸和田 だんじり祭 流し撮り2


ちょっとぶれぶれですかね~?(汗)

だんじりのルーツは京都祇園祭の山鉾だといわれますが
祇園祭の山鉾がゆっくりと巡行するのに対し、大阪のだんじりはものすごいスピードで駆け抜けていきます。
これはだんじりに乗っている神様(榎木明神=物部守屋=狸の吉兵衛)が荒魂であるからではないでしょうか。

そして岸和田の昔話にも吉兵衛という男の昔話が伝えられています。
御祭岸和田市のhphttps://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/3/mukashi5-12-danjirikichibe.html
上記にはよれば、次のような話が記されています。

昔、現在の岸和田市並松町あたりに吉兵衛というだんじり好きの男のもとに狸たちが訪れて吉兵衛とともに尻尾で太鼓をたたきました。。
それ以降、祭が終わると風に乗って狸の祭囃子が聴こえてくるようになりました。


だんじり好きの男とは物部守屋の霊のことではないでしょうか。
そして狸は守屋の神使ということでしょう。

1400年以上たっても大阪の人々は守屋を慰霊し続けている。
私にはそんな風に思えるのです。



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[2015/09/24 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

仏隆寺 彼岸花 室生龍穴神社 龍穴 『赤埴と丹土』 

写真は2009年に撮影したものです。
(最近、仏隆寺の彼岸花は猪や鹿に食べられて激減しているそうです。)

仏隆寺 彼岸花 

仏隆寺は宇陀市榛原区赤埴にあります。
赤埴って変わった地名ですね。
赤埴氏という氏族もいます。

仏隆寺 彼岸花 石仏


『奈良縣宇陀郡史料』に次のように記されているそうです。

「(赤埴)氏は本姓大神にして大物主神の後大神君大友主より出ず、上古大国主神嫡后須勢理姫と共に宇陀の室生岩窟に入り五百引の石を以って之を塞ぎ赤土を以って其口を塗る、赤埴の称ここに起り其岩窟は即ち今の室生龍穴社なりと云う」

赤埴氏の本姓は大神氏で、オオモノヌシの後、大神君大友主から出た。
昔、オオクニヌシが后のスセリヒメと共に宇陀の室生岩窟に入り、引っ張るのに五百人必要なほど大きな石で岩窟を塞ぎ、その口に赤土を塗った。
赤埴という名前(地名?)はここからくる。
その岩窟は室生龍穴神社である。


みたいな意味でしょうか。(違っていたら教えてくださいね!)

室生龍穴神社

↑ 室生龍穴神社です。
室生寺は室生龍穴神社の神宮寺だともいわれています。
そして仏隆寺は室生寺の末寺でした。

龍穴 

 ↑ 室生龍穴神社の裏山に龍穴があります。
オオクニヌシがスセリヒメとともに入った岩窟とはこの龍穴のことでしょうか。

赤埴氏は仏隆寺のある赤埴に住んでいたようで、興福寺大乗院門跡領・赤埴荘の荘園下司を務める氏族でした。

古事記に同じような話があります。

根の堅州国に行ったオオナムチ(オオクニヌシの別名)は、根の国の王・スサノオからさまざまな試練を与えられます。
蛇の部屋や百足と蜂の部屋に入れられたり、野原に火をつけられたりしましたが、スサノオの娘・スセリヒメの助けを得てなんとかこれらをクリアーしました。
次にスサノオはオオナムチを呼び、自分の頭の虱をとるように命じました。
スサノオの頭には虱ではなく百足がいっぱいいました。
オオナムチはスセリヒメにもらった木の実を食い破り、赤土を口に含んで吐き出しました。
スサノオは大国主がむかでをかみ砕いて吐き出しているのだと思い寝てしまいました。
オオナムチはスサノオの神を部屋の柱に結び付け、五百引の石で部屋の入り口を防ぎ、スセリヒメを背負って黄泉比良坂からこの世に戻りました。


根の堅州国とは死の世界で、黄泉の國と同様のものと考えられています。
黄泉平坂とはあの世とこの世の境目のことで、出雲または熊野にあると考えられています。

しかし、どうやら『奈良縣宇陀郡史料』は室生龍穴神社が黄泉平坂であるといいたいようです。
そして室生龍穴神社の御神体である龍穴の中は根の堅州国であり、スサノオが住んでいるということなのでしょう。

スサノオの頭に百足がいたというのが気になります。
坑道のことを百足穴といいます。
スサノオの頭は鉱山を、スサノオの頭に百足がいたというのは鉱山に坑道があったということを比喩的に表現しているのではないでしょうか。

そしてオオナムチが赤土を口に含んで吐き出したとありますが、赤土とは丹土(辰砂、水銀)のことです。
つまり、スサノオは坑道から丹土を採掘したと、そういうことを比喩的に表現したものではないかと思います。

すると赤埴も赤土を意味しているのではないかと思えてきます。

赤埴の地はかつて丹土がとれたたのかも?

※仏隆寺・・・奈良県宇陀市榛原区赤埴1684

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[2015/09/22 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

市民ふれあいの里 タイワンリス 『リスの木食修行?』 

タイワンリス

タイワンリスを見ていたら、ロシア民謡の「黒い瞳」を思い出しました。
プルシェンコの「黒い瞳」もよかったなあ~。

タイワンリス 子供から餌をもらう 
こんなにかわいいリスですが、「リスは魔物である」という伝説があります。
といっても、タイワンリスはもともと日本に住んでいなかったので、魔物とされたのはニホンリスだと思いますが。

リスを一匹殺すと無数のリスが現れるというのです。
リスが修験道の山伏になって現れ占いをするという伝説もあります。

タイワンリス 壁にはりつく

なんでリスが山伏なんでしょうか?

タイワンリス 木の実を食べる 

前脚で木の実を持って食べるリス。

タイワンリス 木をかじる

この子は木の枝をかじっているのかな。

リスの門歯は人間の爪や髪の毛のように伸び続けるそうです。
そのため木など硬いものをかじって歯をすり減らしているのだとか。

巣箱や木の枝などには、リスがかじって凹んだところがたくさんありました。

木食といって、五穀を絶ち、木の実や木の皮、草を食べるという修験道の行があります。
リスは木の実を食べたり、木をかじったりするところから、木食を行う修験道の山伏に喩えられたのではないでしょうか。

即身仏となるためにも木食は行われました。
木食を行って体脂肪を減らすと死後腐りにくい体になるためです。

しかし高温多湿の日本では即身仏となることは難しく、入定した多くの行者の死体は腐ってしまったようです。

即身仏のメッカといえば山形県の湯殿山ですが、この地域の土壌は水銀濃度が高いのだそうです。
水銀には防腐作用があります。
そのためこの地域の木の実や木の皮、草などを食べると水銀が体内にたまって死後腐りにくい体になったと言われています。

一度即身仏を参拝したいです。

たいわんりす 眠そう 

お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったよ~。

市民ふれあいの里・・・大阪狭山市東野東1-32-2 


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[2015/09/20 00:52] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

八幡堀まつり ライトアップ 『秀次の命日がお盆の中日って本当?』 



1585年、豊臣秀吉は関白に就任すると、甥(同母姉の子)の秀次に近江の蒲生郡・甲賀郡・野洲郡・坂田郡・浅井郡の5郡を与えました。
こうして秀次は17歳という若さで43万石の大名となりました。

秀次は蒲生郡の現在の近江八幡市に居城を構えることにしました。

日牟禮八幡宮 
↑ 日牟禮八幡宮です。
1590年、豊臣秀次は八幡山城を築くために、上の八幡宮を下の社に合祀しました。

八幡堀2

↑ 豊臣秀次が八幡山城の城下町に作った水路・八幡堀です。
なんとも歴史の古い水路だったのですね~。

1589年、秀吉53歳のとき、淀殿との間に鶴松という男子が誕生しました。
ところが鶴松は1591年、2歳で夭逝してしまいました。
秀吉は「自分にはもう跡取りは生まれない」と諦め、秀次を跡継ぎにしようと考えたようです。
秀吉は秀次を養嗣子とし、二代目関白としたのです。

八幡堀 店

ところが2年後の1593年、淀殿が秀頼を出産しました。
秀吉は甥の秀次ではなく、実子の秀頼を後継者にしたいと考えるようになりました。

1595年8月20日(文禄4年7月15日)、秀次は謀反を企てているとの疑いをかけられ、切腹に追い込まれました。享年28歳でした。
多くの家臣も切腹したり斬首されたりしました。

秀次の死後、秀吉は三条河原で秀次の子4名、姫君、側室・侍女・乳母ら39名を斬首しました。

毎年秀次の命日の7月15日に、滋賀県近江八幡市の八幡山で、秀次の供養が行われているそうです。

旧暦7月15日はお盆の中日です。
新暦では月遅れの8月15日をお盆の中日としている地域も多いですが、旧暦ではお盆の中日は7月15日だったのです。

秀吉はあえてお盆の中日を選んで秀次に切腹命令出したのかも?
それとも秀次の死後、お盆の中日である7月15日が秀次の命日であるとこじつけられたのかもしれません。

というのは3月21日は春彼岸の中日ですが、小野小町や和泉式部など多くの歴史上の有名人の命日が3月21日であるとの旨が、梅原猛さんの本に記されていたからです。

3月21日は春分の日で、真西に太陽が沈みます。
そのため西方極楽浄土を思い浮かべる日想観の修行を行うのによいとされ、先祖供養をする習慣が生じた、という説があります。
多くの歴史上の有名人の命日が3月21日になっているのは、この日が先祖供養をする彼岸の日だからでしょう。
 
7月15日が命日だという歴史上の有名人も探せば大勢いるかもしれません。

日本では先祖の霊はその子孫が慰霊するべき、とされています。
古事記や日本書紀にも疫病をもたらした祟り神・大物主を子孫であるオオタタネコが祀ったところ天下泰平になったという記述があります。

ところが、秀次の妻子は皆殺しされ、秀次の霊を慰霊するべき子孫がいません。
井沢元彦さんが「聖徳太子が怨霊になったのは聖徳太子の子孫が全員斑鳩寺で首をくくり慰霊するべき子孫がいなかったためではないか」という旨の文章を書いておられたと思います。
これと同じで秀次は死後怨霊になったと考えられたのではないでしょうか。

「雨月物語」の仏法僧という物語では、旅の親子が高野山で豊臣秀次の怨霊に出会うという話だそうです。(秀次は高野山で切腹したので)
また三条河原では秀次の一族の霊鬼が彷徨ったという話もあります。

通常、死んだ人は初七日や二七日などの法要を行って49日で成仏すると考えられています。
しかし秀次は子孫も全員殺されて法要する子孫がないので成仏しないと考えられたのではないでしょうか。

一般的にお盆は7月13日に迎え火をたいてご先祖様の霊をお迎えし、16日に送り火をたいてご先祖様の霊をあの世へお送りするとされていいます。

7月15日が命日だと、死んだその日のうちに霊は戻ってきて翌日には帰ってしまうので、恐ろしい怨霊の命日は7月15日がちょうどいいと考えられたのかなあ?なんぞと思ったりします。

八幡堀 

秀次が築城した八幡山城は秀吉が壊してしまいましたが、八幡堀は残されました。
たくさんの灯りは、まるで秀次のために献灯されたかのように思えます。

白雲館

↑ 八幡堀の前には白雲館が建てられています。

八幡堀まつり・・・2015年は9月19日、20日に行われるようです。(確認をお願いします。)



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[2015/09/19 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

池田町 洋館街 『ヴォーリズのサインと禅画』 




滋賀県近江八幡市池田町にはウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した洋館が残されています。

池田町 洋館街 
↑ 旧ウォーターハウス邸

池田町 洋館街2 

↑ ダブルハウス。
温かみのあるおしゃれな館ですね。

池田町 洋館街 ポーチ

細部のデザインもとてもかわいらしいです。

池田町 洋館街 ドア

ヴォーリズはメンソレータム(現在はメンタームに改称)で有名なヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の設立者であり
また高名な建築家でもありました。
子爵令嬢の一柳満喜子と結婚したのち、日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名しています。

米来留は「米(アメリカ)から来て留まる」という意味だそうです。

http://vories.com/album/09.php ←こちらにヴォーリズのサインの画像が掲載されています。

http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/sengai/sengai03.html ←ヴォーリズのサインは丸・三角・四角を描いた禅画に似ています~~!


中国では、天は円く、地は方形であると考えられていました。(天円地方/てんえんちほう)

中国の女神・女媧は手にコンパスを、男神の伏義は手に直角定規をもっており、コンパスは天を、直角定規は地をあらわすと言われています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg?uselang=ja

陰陽で考えれば、陰は女性や大地を、陽は男性や天を表します。
すると女神である女媧が天を表すコンパスを、男神である伏義が地をあらわす直角定規をもっているのは逆じゃないかと思われるかもしれません。

女媧や伏義が手に持っている道具は自分自身を表すシンボルであるとは限りません。
女媧が手に持つコンパスは伏義を、伏義が手に持つ直角定規は女媧を意味し、女媧と伏義が和合していることを表しているのかもしれません。

それはさておき、禅画はこの中国の天円地方を表現したものではないでしょうか。

ヴォーリズは禅画にインスピレーションを受けて上記のサインのデザインを思いついたのでしょうか?
それもありえますが、ヴォーリズは信仰していたキリスト教からデザインのヒントを思いついた可能性もありそうです。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/37335.htmlに、キリスト教の壁画の初期のものは丸や三角の記号だったとの旨が記されています。


またフリーメイソンのシンボル(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Square_compasses.svg?uselang=ja)はコンパスと直角定規をダビデの星の形に組み合わせたもので、陰と陽、天と地、男と女の融和を表すとされます。
フリーメイソンは16世紀後半から17世紀初頭に西洋で発生したものですが、このフリーメイソンのシンボルもコンパスと直角定規が用いられているというが興味深いです。


ダン・ブラウンの「ダビンチコード」には、キリスト教ではΛは男性を、∨は女性を表すと書いてあったと思います。。
Λは△、∨は▽といってもいいのではないでしょうか。
すると初期のキリスト教の壁画に描かれた三角は男性や女性をあらわすものであった可能性があります。

▽と△を組み合わせた六芒星(イスラエルのダビデの星)は男女和合を表しているのではないかと思います。
フリーメイソンのシンボルのコンパスは△またはΛで男性を、直角定規は▽またはⅤで女性を表すものであるとも考えられます。

荒魂(男神)と和魂(女神)を和合させることは、荒魂を仏法守護の神に転じさせる呪術であったのではないかと私は考えています。
詳しくはこちらをお読みください。→ 飛鳥 光の回廊 岡寺 『龍を池に閉じ込める呪法』 

ついでにいえば、日本では六芒星は籠目紋といい、魔除けに用いられることもあったそうです。

東洋と西洋には似たものがたくさんあるようです。
ルーツが同じなのか、はたまたシンクロニシティなのか?

池田町 洋館街3 


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[2015/09/17 00:58] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

宇陀松山夢街道 町並みライトアップ 『宇陀松山はなぜ薬の町として栄えたのか』 


2011年に撮影したものです。

宇陀松山は江戸時代に陣屋町として栄えた町で、今も情緒ある街並みが残されています。

宇陀松山 薬の館 

↑ 薬の館(旧細川 家住宅)です。
かつて細川家は薬商を営み、「人参五臓圓」「天寿丸」などを販売していました。
藤沢薬品の創業者・藤沢友吉は細川家の出で、のちに藤沢家の養子となっています。

宇陀松山 薬の館 

唐破風付きの看板がとてもゴーシャスですね~!

宇陀松山 薬の館 薬箱 
↑ 薬の館の内部です。
魔除けの鍾馗(しょうき)さんや薬箱が目をひきます。
唐の玄宗がマラリアを患った際、大鬼が現れて宮中でいたずらをしていた子鬼を食べると玄宗の病は回復したという伝説があります。
この大鬼が鍾馗さんです。

よく屋根の上などに魔除けとして鍾馗さんの像が飾ってあるのを見かけますが
薬商を営んでいた細川家では、玄宗のマラリアを治した神様ということで鍾馗さんを信仰していたのかも?


5月5日の端午の節句に鍾馗さんの絵や像を奉納する習慣もあったそうですが
ここ宇陀松山は端午の節句とも関係の深い土地でした。

古代にはこのあたりは阿騎野と呼ばれていたのですが
推古19年(西暦611 年)5月5日、阿騎野で薬猟(くすりがり)が行われたという記述が日本書記にあります。
また天武・持統天皇代にも阿騎野で薬猟が行われています。

薬猟とはもともとは鹿をとらえて薬となる鹿の角をとることをいっていたようですが、しだいに男性は狩猟を、女性は薬草摘みをする行事へと変化していったようです。

宇陀松山には「薬の館」(旧細川家住宅)のほか、「森野旧薬園」などもあり
江戸時代には薬や吉野葛の商いで栄えていましたが、そのルーツは古代の薬猟にあるのかも?

宇陀松山 万方寺

↑ 万方寺

なぜ阿騎野(宇陀松山)は古代に薬猟が行われたり、江戸時代には薬の町として栄えたのでしょうか。
薬草が豊富に採れたから?
でも、阿騎野が特別薬草の生育に適した土地のようには思われませんし
特産品の薬草があるとも聞きません。(私が知らないだけ?)
しかしどうやら、阿騎野で採れる薬草にはブランドとなりうる特徴があったようです。

『日本書紀』皇極3年に、菟田山で生えていた紫のキノコ(芝草)を食べて不老長寿であったという記事が記されています。
『日本霊異記(りょういき)』には宇陀の山野の野草を食べた女性が天女になったという話が記されています。

宇陀には水銀(丹)の鉱脈があります。
水銀はかつて不老長寿の妙薬とされていました。
『日本書紀』や『日本霊異記』の話は宇陀に水銀の鉱脈があるところから作られたのではないでしょうか。

つまり、宇陀の薬草は不老長寿の妙薬である水銀を含んでいるということでブランド化したのではないかと思うのです。

水銀は水俣病の原因になるなど不老長寿どころか健康に悪いのですが
なぜ水銀が不老長寿の妙薬であるなどと考えられたのでしょうか。

高野山 紅葉 『空海と即身仏』 
↑ こちらの記事にも書いたように、は多くの即身仏が残ることで有名な山形県湯殿山は土壌の水銀濃度が高いです。
即身仏になるためには木食といって五穀を絶って木の実や草などを食べる修行を行います。
水銀には防腐作用があります。
土壌の水銀濃度が高いとそこで育った木の実や草の水銀濃度も高くなり、これらを食べることで体内に水銀が蓄積され、その防腐作用で死後腐りにくい体になったと考えられています。

なぜ苦しい修行を行ってまで即身仏になろうとしたのかというと、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるとき、復活してその聖業に参加するためであったといわれます。
昔の人々は復活するためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えていたのではないでしょうか。

宇陀松山 西口関門 

↑ 松山西口関門


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[2015/09/15 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥 光の回廊 高松塚古墳 光の地上絵 『蘇我入鹿は天皇だった?』 

以前の記事、高松塚古墳 光の地上絵 飛鳥光の回廊 『消えた頭蓋骨』 に記したように
私は高松塚古墳は蘇我入鹿の墓、キトラ古墳は蘇我蝦夷の墓ではないかと考えています。

前回の記事よりもう少し詳しく説明しますね。

高松塚古墳に描かれた飛鳥美人の衣装(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/55/Takamat1.jpg)は、
高句麗壁画古墳に描かれた女性の衣装(http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/s/?@0_mall/book/cabinet/0470/04704189.jpg)とそっくりで、
高句麗の影響を受けたものと考えられます。

高松塚古墳 光の地上絵 

↑ 写真は2010年の「飛鳥 光の回廊」で高松塚古墳近くの広場に作られていた光の地上絵です。
高松塚古墳壁画の女子群像(飛鳥美人)を描いています。
緻密に描かれていてびっくり!とても美しかったです。

そして石舞台古墳 夕景とライトアップ 飛鳥光の回廊 『石舞台古墳はピラミッドだった?』  に書いたように、蘇我入鹿の祖父で蘇我蝦夷の父、蘇我馬子の墓と考えらえている石舞台古墳はピラミッドの形をしていた可能性が大なのですが
高句麗には将軍塚などピラミッド形の古墳が作られています。

蘇我稲目の父は蘇我高麗という名でした。
当時、高句麗は高麗と呼ばれていたので蘇我氏は高句麗人ではないか、とする説があります。

だとすれば蘇我蝦夷・蘇我入鹿は高句麗系の人物であり、そのため高句麗壁画古墳によく似壁画を描いた古墳、高松塚古墳・キトラ古墳を作ったのではないかと推理したのです。

頭がい骨片や歯を鑑定した結果、高松塚古墳の被葬者は4、50歳代の男性、キトラ古墳は熟年(中年~高齢者)の男性とされました。

蝦夷の死亡年齢は59歳です。
蘇我入鹿は生年不祥ですが、蝦夷が20歳のときにできた子供だとすれば39歳なので、年齢はほぼあいます。

また斬られた蘇我入鹿の首が飛び上がって皇極天皇の御簾に食らいついたという伝説がありますが、高松塚古墳から被葬者の頭蓋骨は発見されませんでした。
かつて髑髏は呪術の道具とされており、髑髏が盗まれたという事件もあったと聞きます。
入鹿の髑髏は呪術の道具として抜き取られ、そのため入鹿の首が飛んだなどという伝説が生じたのではないかと思うのです。


そして前回の記事、飛鳥 光の回廊 飛鳥板葺宮跡 飛鳥寺 『鞍作鳥とは鞍作太郎(蘇我入鹿)のことだった?』追記あり で、
蘇我入鹿が甘樫丘に築いた邸宅を「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、自分の子供を皇子と呼ばせたとあり
実は蘇我入鹿は天皇だった、とする説があることを御紹介しましたが


人物群像の持ち物が『貞観儀式』にみられる元日朝賀の儀式に記された官人の持ち物と一致すると指摘されています。
また儀式では日月・四神の幡が建てられます。

高松塚古墳 光の地上絵 四神 
↑ 2009年の飛鳥光の回廊、光の地上絵。

高松塚古墳壁画の白虎・青龍・玄武(http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/images/image-5/0321-18.jpg)と
キトラ古墳の朱雀(http://www.asahi.com/articles/images/AS20140204000332_comm.jpg)をモチーフにしたものですね。
(高松塚古墳壁画に朱雀はありませんでした。盗掘穴に描かれていたと考えられています。)
つまり高松塚古墳の被葬者は元日朝賀の儀式に臨む天皇、ということなのでしょう。


高松塚古墳


高松塚古墳・・・奈良県高市郡明日香村平田



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[2015/09/13 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)