以前の記事、
龍安寺 石庭 枝垂れ桜 『龍安寺石庭はカシオペアを模したものだった?』 で、明石散人さんが「龍安寺石庭はカシオペア座を模したものである」と説かれていることを御紹介しました。
明石さんがおっしゃるように、日本庭園は何かの形を模したデザインになっていることが多いのです。
お房観音では池の石を北斗七星の形に並べてありましたし、日本列島の形に石を並べた庭園などもあります。
↓ 百日紅が咲く夏の旧大乗院庭園です。
この旧大乗院庭園も何かの形を模したものではないかと思って航空写真を見てみました。
①旧大乗院庭園 航空写真
名勝大乗院庭園文化館の文字の上に大きな池がありますね。
これは旧大乗院庭園の東大池です。
その左(西)に西小池があります。
西小池は何を現したものなのかわかりませんが、東大池は東北地方を表したものではないでしょうか。
②東北地方 地図
航空写真ではわかりにくいので、旧大乗院庭園の地図を見てください。
③旧大乗院庭園 地図
旧大乗院庭園の池には3つの島がありますが、北の島は陸奥湾、西の島は八郎潟(②の男鹿半島の東)と田沢湖(②秋田と盛岡という文字の中間あたり)を表しているのではないでしょうか。
つまり東北の水陸を逆にしてあるのだと思うのです。
旧大乗院庭園の池が東北地方を表しているというのは、たぶん間違いではないと思います。
というのは、大乗院が創建された1087年はかつて東北を支配していた奥州藤原氏が誕生した年で、偶然にしてはできすぎだと思うのです。
(1180年の南都焼き討ちののち現在地に移転、1465年から1489年にかけて善阿弥父子が庭を作り直していますが)
東北地方には出羽国の清原氏、陸奥国の安倍氏がいました。
1062年に起こった前九年の役で安倍氏は滅びました。
安倍氏一門の有力豪族・藤原経清は処刑され、清原武貞は藤原経清の妻だった安倍頼時の娘を自分の妻にしました。
この女性には藤原経清との間にできた息子がありましたが、清原武貞の養子となり清原清衡と名乗りました。
1083年、清原氏間で内紛がおこりました。(後三年の役)
1087年、内紛に勝利した清原清衡が清原氏の所領を継承し、実父の姓を名乗りました。
こうして奥州藤原氏が誕生したのです。
藤原清衡は朝廷や藤原摂関家に砂金・馬などを送り、その見返りとして奥州支配を容認させ、栄華を極めます。
藤原清衡の孫・秀衡は源頼朝に追われた源義経をかくまっていましたが、秀衡の死後、清衡の子・泰衡は頼朝の義経引き渡し要求を受け入れて頼朝に助命を願います。
義経は自殺して果てました。
しかし1頼朝は泰衡の助命懇願を聞き入れることなく、奥州に軍を送ります。
泰衡は河田次郎を頼って北へ向かいますが、次郎に裏切られて殺され、こうして奥州藤原氏は滅んでしまいました。(1189年)
旧大乗院庭園が奥州藤原氏が支配していた東北地方を表しているのは間違いないと思うんですが
南都焼き討ち前の庭はどのようなものだったのでしょうか?
興福寺の門跡寺院(皇族・規則が住職を務める寺院)である大乗院の庭園に、このような池が作られたのはなぜでしょうか?
また西小池は何を表しているのでしょうか?
これについてはもっと時間をかけて調べ、考えてみたいと思います。
旧大乗院庭園・・・ 奈良県奈良市高畑町1083-1いつも応援ありがとうございます♪
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