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談山神社 献燈祭 『摩多羅神と翁の関係』 


談山神社・献燈祭(8月14日)

午後5時半ごろ、談山神社へ行くと拝殿から楽の音が聴こえてきました。

談山神社 楽人

小学生くらいの子供さんたちが灯篭に火をいれていました。
近所に住んでおられる子供さんたちでしょうか?

談山神社 献燈祭 

観光客は4~5名程度で、境内はとても静かでした。

談山神社 献燈祭2
塔百景55

 
談山神社という名前は明治の神仏分離令以降につけられたものです。
それ以前には妙楽寺というお寺で、神仏を習合してお祭りしていました。

妙楽寺の常行堂(現・談山神社権殿)では毎年正月の修正会で僧侶による「六十六番猿楽」が行われていたそうです。
神社となってから能は行われなくなりましたが、談山神社にはたくさんの能面が保管されています。
その中に摩陀羅神面というのがあります。

摩陀羅神って京都太秦の広隆寺で行われている牛祭に登場する神様じゃないですか~。
(もともとは大酒神社のお祭りでしたが、現在では広隆寺が行っています。)
もっとも最近は牛祭は行われない年が多いので、観たことはないのですが~。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ushimatsuri.jpg(都年中行事画帖 1928年)

10月10日、午後8時ごろ、赤鬼、青鬼に先導された摩多羅神が牛に乗って登場します。
境内を練り歩いたのち、祭壇に上り赤鬼青鬼とともに長々と祭文を読み上げると、見物人が野次を飛ばすそうです。
見物人の行儀が悪くて野次を飛ばすのではなく、祭の筋書がそうなっているのです。
野次られた摩多羅神は祭壇から薬師堂の中に駆け込むと祭は終了します。

なんだかわけのわからないお祭りですね。
摩陀羅神という神様もどのような神様なのか、よくわかってていないそうです。

談山神社の摩陀羅神面は箱に『摩陀羅神面箱』と記されているのですが、箱の中に入っているお面は翁面です。

奈良豆比古神社 翁舞 

↑ 上の写真は奈良の奈良豆比古神社で10月8日に奉納されている翁舞です。
3人の翁が身に着けている面が翁の面です。

「能にして能にあらず(能というよりは神事であるという意味)といわれる能・翁に用いられるのもこの面です。
なんで摩陀羅神が翁面なの?
調べてみました。

摩陀羅神は平安時代の天台座主・円仁(794年 - 864年)が唐より持ち帰ったと伝えられます。
天台宗の寺院には常行堂(常行三昧堂)といって、常行三昧の行(90日間、阿弥陀如来の周囲を念仏を唱えながら歩く行)を修するためのお堂が建てられていました。
摩陀羅神はその常行堂の「後戸の神」とされています。

妙楽寺(談山神社)は天台宗のお寺だったので、常行堂があり、その後戸の神として摩陀羅神を祀っていたのではないでしょうか。
そのため常行堂に摩陀羅神の面があったのでしょう。

摩多羅神は「宿神」あるいは「後戸の神」とも呼ばれています。
宿とは夙ともしるし、寺社に隷属していた非民のことです。
宿神とはそうした非人の神という意味でしょうか。
翁舞が行われている奈良坂にはかつて非人が住んでいました。
翁は宿神であったといえるでしょう。

金春禅竹の『明宿集』には,摩多羅神は猿楽者の芸能神(宿神)と記されています。
奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰されていましたので、芸能神ともいえますね。

芸能とは現在では娯楽ですが、古には神事であり、呪術でした。
そして神事であり呪術でもあった芸能は、非人によって行われていました。

非人という言葉が史料に初めて登場するのは842年で、橘逸勢が謀反を企てたとして姓・官位をはく奪され天皇より非人の姓を賜ったとされます。
その子孫もまた姓は非人だったと思うので、非人とは謀反人の子孫なのではないかと思います。
日本では古来、先祖の霊はその子孫が祀るべきとする考え方がありました。
非人たちが行う芸能とは、謀反人として処罰された先祖の霊を慰霊するものではないでしょうか。

摩陀羅神は「後戸の神」とも呼ばれます。
後戸の神とは須弥壇の背後に祀られた神のことで東大寺法華堂の執金剛神,二月堂の小観音などが「後戸の神」とされます。
法華堂の執金剛神は法華堂御本尊・不空羂索観音の後方にある厨子の中に、二月堂の小観音は大観音の前に置かれた厨子の中に安置されています。
天台宗の寺院の常行堂の後戸には摩多羅神が祀られることが多いそうです。

「後戸の神」がどのような性質を持つ神なのか、今のところ、私にはよくわかりません。


円仁が持ち帰った摩多羅神が日本では宿神(=後ろ戸の神=翁)になったとする説、もともと日本には宿神があり、平安時代に日本に伝えられた摩多羅神という神と習合されたとする説があります。

私はたぶん後者ではないかと思います。
というのは後戸の神とされる二月堂の小観音は修二会が始められた752年にはあったと思われるからです。

またいろいろ調べてみてわかったことや、閃いたことがあればまた記事にしたいと思います。

談山神社 献燈祭3


↑ この写真を撮ったあと拝殿の写真を撮ろうと思ったのですが、消灯されてしまいました。
時計を見ると午後7時半でした。
来年、見に行かれるかたはお早目にお出かけください~。



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[2015/08/14 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

京の七夕 『男女和合の呪術』 



西福寺で地獄絵を見て、六波羅蜜寺・六道珍皇寺で六道詣をしたのち、「京の七夕」というイベントを見にいきました。

まずは鴨川会場。

京の七夕 鴨川

笹飾りにLEDの電飾が幻想的な雰囲気を醸し出していました。

大急ぎで堀川会場へ。
京の七夕-堀川 友禅

友禅流しを再現したもの。
染め上がった布を川に晒して、糊や余計な染料を落とすのですね。
川の汚染の原因になるとして、現在では自然の川では行われていません。



七夕は現在では新暦7月7日に行われることが多いですが、もともとは旧暦7月7日の行事でした。
旧暦7月7日は新暦に換算すると約1か月遅れの8月になります。
8月1日から10日まで行われた「京の七夕」は時期的の本来の七夕に近いわけです。
新暦では7月7日は梅雨で雨が降ることが多いし、年中行事は旧暦で行うほうがいいと思います。

お盆は現在では新暦8月15日を中心として行う地域が多いですが(新暦7月15日を中心として行っている地域もあります。)
旧暦では7月15日を中心とした行事でした。
新暦で行われる年中行事が多い中で、なぜかお盆は旧暦にあわせて月遅れで行っている地域が多いのです。

つまり七夕から1週間でお盆の中日を迎えていたわけで、七夕はお盆の入りの行事だったのです。

七夕といえば牽牛と織姫が1年に一度の逢瀬を楽しむ日、逢引をする日なわけですが
牽牛と織姫の逢引にはどんな意味があるのでしょうか。

このブログで何度も書いているように、神はその表れ方で御魂(神の本質)、和魂(神の和やかな側面)、荒魂(神の荒々しい側面)の3つに分けられるといいます。
そして女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。
すると、御魂は男女双体となるのではないでしょうか。

御魂(神の本質)・・・・・男女双体?
和魂(神の和やかな側面)・・・女神
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神


インドの神でのちに仏教にとりいれられた神に聖天さん(大聖歓喜天)があります。
聖天さんは象頭をした男女双体のおすがたで表されます。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kannki.htm
↑ こちらのサイト中ほど右の写真が分かりやすいと思います。
この聖天さんの伝説は、御魂・和魂・荒魂を説明したもののように思えます。

祟神・ビナヤキャは、十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれして求婚します。
ビナヤキャ女神は「あなたが仏法守護を誓うならばあなたと結婚しましょう」と言いました。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、二神は結婚しました。


日本では古くより神仏は習合して信仰されていました。
つまり、男神(荒魂)と女神(和魂)を和合させた男女双体の神が御魂であり、御魂とみほとけは同じものであると考えられたのだと思います。
そして、男女和合は荒魂と和魂を和合させることで御魂=みほとけに昇華させる呪術であったのではないかと思うのです。

御魂(神の本質)・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天
和魂(神の和やかな側面)・・・女神・・・ビナヤキャ女神・・・織姫
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神・・・ビナヤキャ・・・・・牽牛


それではお盆の入りの行事である七夕に織姫と牽牛を和合させることにはどんな意味があるのでしょうか。
長くなるのでこれについては来月にでも書こうと思います。


[2015/08/14 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)