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六波羅蜜寺 萬燈会 六道珍皇寺 迎鐘  『祇園精舎の鐘とは六道珍皇寺の迎鐘だった?』 




六波羅蜜寺 萬燈会

六道詣で賑わう六道の辻。 
六道詣とはお盆に迎鐘をついてお精霊さん(おしょらいさん)をお迎えするという京都の行事です。

かつてこのあたりは鳥辺野の風葬地の入り口にあたり、ドクロがゴロゴロ転がっていたと聞いたことがあります。
六原という地名は髑髏(ドクロ)原に由来するとも言われます。

六波羅蜜寺 萬燈会  

そんな物騒な土地に邸宅を建てた人物がいました。
平清盛です。
そのため平清盛は「六波羅殿」と呼ばれていました。

六波羅蜜寺は現在は小さなお寺ですが、平安後期には広大な敷地を持っていました。
そして六波羅蜜寺境域内には5200以上もの平家一門の邸館が建っていたそうです。

1183年、平家没落の時、平家は自ら邸館に火をつけました。
このあたりは一面焼け野原となり、ただ本堂だけが焼失を逃れました。
六波羅蜜寺の宝物館には眼光鋭い僧形の平清盛像が安置されています。

六波羅蜜寺から歩いて1分ほどで六道珍皇寺につきます。
一般的な鐘はついて音を鳴らしますが、六道珍皇寺の迎え鐘は壁の穴から出ている紐をひいて音を鳴らします。
この鐘の音は十萬億土の冥土にまで届き、お精霊さんを呼び寄せると言われています。

六道珍皇寺 迎鐘

『耳無し芳一』という怪談がありますね。

阿弥陀寺に住む盲目の琵琶法師・芳一は夜な夜な貴人の屋敷にいって「壇ノ浦の戦い」の下りを弾き語っていました。
しかし貴人の館だと思ったのは実は墓地で、芳一は平家の亡霊に囲まれて弾き語りをしていたのでした。
和尚さんは平家の怨霊に芳一が殺されてしまってはいけないと、芳一の全身に般若心経を書きました。
体にお経が書いておくと、亡霊には芳一の体が見えないのです。
ところが、和尚さんは芳一の耳にお経を書くのを忘れてしまいました。
そのため、平家の亡霊は芳一の耳をとって去っていきました。


平家物語は芳一のように、盲目の琵琶法師によって弾き語られました。
琵琶法師は琵琶をひきつつ、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と語り始めるのです。

ん? んむむむむ?


ここ六道珍皇寺の近くには平家ゆかりの六波羅蜜寺があることは先ほどお話したとおりです。
また八坂神社も近いですが、、八坂神社はもとは観慶寺という寺で、別名を祇園寺といいました。
六道珍皇寺は現在、祇園と呼ばれている地域にも近いです。

平家物語の作者については諸説ありますが、作者が一流の作家であると同時に、一級のジャーナリストでもあることは間違いありません。
千人以上に及ぶといわれる登場人物のほとんどが実在の人物です。

平家物語を書くためには、相当調査や取材を行ったにちがいありません。
平家物語の作者は取材のために、六原にもやってきたことでしょう。

六原を訪れた作者が目にしたのは、5200もあった平家の館が焼け落ちて草がぼうぼうと繁る風景で
作者はしみじみと「盛者必衰の理をあらわす」との思いをかみしめたたことでしょう。

作者が六原を訪れたのがお盆の時期であったとしたら、六道珍皇寺の迎鐘の音を聞いたはずです。
祇園精舎の鐘の声は諸行無常の響きがあるといいますが、お精霊さんを迎える迎鐘は「すべての人は必ず死ぬ」ということをいやがおうにも知らしめる鐘なのです。

もしかして、祇園精舎の鐘とは六道珍皇寺の迎鐘のことなのではないでしょうか?

平家物語の作者はお精霊さんを呼び寄せる六道珍皇寺の迎鐘のことを冒頭で語ることによって、平家の亡霊を呼び出そうとしているのだと思います。
のちに『耳無し芳一』のような話ができたのは、そのためではないでしょうか。


六道珍皇寺・・・京都市東山区東大路通松原西入ル小松町
六波羅蜜寺・・・京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町

六道珍皇寺・六道詣・・・8月7日~8月10日、午前6時~午後11時
六波羅蜜寺・萬燈会・・・8月8日~8月10日 午後8時~   



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[2015/08/12 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)