玉雲宮 百日紅 『一富士・二鷹・三茄子の謎、そして殺生石はなぜ高田の地に飛散したのか』 


前回
、化生寺の殺生石の石碑について書きましたが、化生寺の隣に玉雲宮(たまもりぐう)があります。

玉雲宮 鳥居 


玉雲宮 百日紅

化生寺は殺生石を破壊した玄翁が、殺生石を玉雲大権現として創建した寺です。
玉雲宮はその化生寺の鎮守社です。
おそらく玉雲大権現とは殺生石=九尾の狐のことなのだと思います。

玉雲宮 花態絵馬 
↑ 大きな未生御流の花態絵馬が掛けられていました。
こんな絵馬は初めて見ました~~!

前回の記事の中で九尾の狐について書きましたが、九尾の狐のしっぽはなぜ九尾あるのでしょうか?

以前の記事、祇園祭 山鉾巡行 菊水鉾 『菊慈童と不老長寿』 に書いたように、
9月9日は重陽の節句で、法輪寺では菊の葉についた雫を飲んで700歳の長寿を得たとされる菊滋童の舞が舞われます。
9という数字には不老不死という意味があるのではないでしょうか。

そして九尾の狐は753年に遣唐使船に乗って日本にやってきてから平安時代に討伐されるまでの長い間生きていました。
討伐されたのが鳥羽院が院政を開いた1129年としても、376年生きていたということになります。
さらに討伐されてからは殺生石となり、今も毒気を吐き続けているのですから、九尾の狐はまさに不老不死であるといえます。

その殺生石は玄翁に破壊され、全国3か所の高田という地名の場所に飛散したとされます。
3か所の高田の地は、越後國高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)または豊後国高田(大分県豊後高田市)、美作国高田(岡山県真庭市勝山)とされます。
化生寺のある勝山の地はかつては高田という地名だったのです。

殺生石はなぜ高田という土地に落ちたなどと言う伝説が作られたのでしょうか?

殺生石の本体は栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩だとされています。
私はこの那須という地名が気になります。

初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子といいますね。
徳川家ゆかりの駿河国での高いものの順(富士山、愛鷹山、初物のなすの値段)など様々な説がありますが
私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えています。

殺生石のある栃木県那須町の近くには足尾銅山があります。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山があります。
銅は茄子色をしています。
そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないでしょうか。
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うわけです。

鷹は鷹の爪のことでしょう。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないでしょうか。


藤は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思います。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思います。

大阪府枚方市には藤田川(とうだがわ)・高田(こうだ)・茄子作という地名があり、一富士・二鷹・三茄子が揃っています。
そして茄子作という地名は「惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったところから名鈴となり茄子作になった」と言われています。
鈴は金属のスズを表しているのかもしれませんし、愛鷹は鷹の爪=水銀を表しているようにも思えます。

すると高田の高は同音であるということで、鷹、水銀を表しているのではないかと思えます。
高野山には水銀の鉱脈があるそうで、それで高野山という地名がつけられたとする説もあります。

水銀はかつて不老不死の妙薬と考えられていました。
実際には水銀を体内に大量に摂取すると水俣病になったりして不老不死どころか体に悪いのですが~。

九尾の狐のしっぽが九尾なのは、九と言う数字が不老不死を示しているのではないかと私は考えました。
そして高田と言う地名は水銀に関係する地名であり、水銀は不老不死の妙薬とされていたところから、九尾の狐が化生した殺生石のかけらが高田という地名の場所に飛散したなどといわれているのではないかと思ったりします。

勝山 町並 

城下町・勝山はほんとうに美しい町でした。また行きたいです。

勝山 街並2 
勝山のスーパーでソフトクリームを注文したら、サンプルより2~3巻も多く巻いてくださってすごくうれしかった~。
ありがとうございました~♪(食い意地はってる・・・)

玉雲宮・・・岡山県真庭市勝山748


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[2015/08/31 11:03] 岡山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

化生寺 芙蓉 『九尾の狐とは彗星のことだった?』 


岡山県の城下町・勝山にやってきました。

勝山 旭川

情緒ある街並みが続きます。

勝山 三浦坂 

三浦坂を登り、しばらく歩いていくと化生寺がありました。

勝山 化生寺 芙蓉

境内には殺生石の石塚がありました。

勝山 化生寺 殺生石の石塚


殺生石とは!

753年、吉備真備は遣唐副使となって入唐し、帰国する際に若藻という少女を遣唐使船に乗せたといわれています。
若藻は実は九尾の狐が少女に化けていたのでした。
九尾の狐とは9本の尾をもつ中国神話に登場する妖狐です。

平安時代、九尾の狐は絶世の美女・玉藻前に化け、鳥羽院(生没年/1103-1156 在位/1107-1123)の寵愛を受けます(鳥羽院は退位後1129年に院政を開いていますから、玉藻前を寵愛したのは1129年以降ということになりますね。もちろん、フィクションですが。)
ところが玉藻前を寵愛するようになってから鳥羽院の体調がすぐれなくなりました。
陰陽師・安倍泰成はこれを玉藻前の仕業と見抜きます。
泰成が真言を唱えると玉藻前は九尾の狐の姿に戻って逃げていきました。

その後、九尾の狐は那須野(栃木県那須郡)で女性をさらうなどしたため、鳥羽院は討伐軍を那須野に送ります。
討伐軍は狐の妖しの術にまどわされ苦戦したため、犬追物で騎射を特訓しました。
犬追物とは騎乗して犬を射るものですが、矢が犬を貫かないように特殊な鏑矢が用いられたようです。
特訓のかいあって九尾の狐は退治されましたが、死後、巨大な毒石・殺生石に変化して人や動物が近づくと毒気を出して命を奪いました。

この殺生石は栃木県那須町那須湯本温泉付近に実在している溶岩のこととされています。
溶岩があるあたりには有毒ガスが噴出していて、現在では立ち入り規制されることもあるそうです。

南北朝時代、玄翁和尚(生没年/1329-1400)が殺生石を破壊しました。
破壊された殺生石のかけらは全国3ヶ所の高田の地に飛んでいって落ちたと言われています。
3か所の高田の地は、越後國高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)または豊後国高田(大分県豊後高田市)、美作国高田(岡山県真庭市勝山)とされます。

化生寺のある勝山の地はかつては高田という地名だったのです。

『雲陽誌』という書物に次のような内容が記されています。

島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。


ここに『星隕って石となる』とあります。
日本の古い祭祀スタイルとして磐座を御神体として祀ったケースが数多くあります。
このような磐座は、古には落ちてきた星であると考えられていたのでしょう。

また、『日本書紀』によれば637年に大流星があり、これを「天狗(あまつきつね)」と記しています。

すると殺生石も落ちてきた星であり、殺生石に化生した九尾の狐の正体も星ではないかと思うのです。

天狐という想像上の動物がいます。
狐が1000年生きると天狐になれるといわれ、尾の数は四尾とされます。

九尾の狐は天狐に似ていますが、尾の数が九尾なので、天狐とは少し違うようです。

天狗(あまつきつね)が流星のことだとすれば、九尾の狐は彗星のことではないでしょうか。

勝山 化生寺 九尾の狐


彗星は別名を箒星ともいいますが、九つにわかれた尾は箒のようにも見えます。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Comet-Hale-Bopp-29-03-1997_hires_adj.jpg(ヘール・ボップ彗星)
西洋の魔女は箒に乗って飛びますが、これも彗星を表しているのではないでしょうか。

化生寺・・・岡山県真庭市勝山748


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[2015/08/30 13:20] 岡山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

雲ヶ畑 松上げ 『あちこちにある惟喬親王の隠棲地』 

雲ヶ畑2 
地蔵盆の8月24日、京都市北区雲ヶ畑へ車で出かけました。
バスは1日2便のみ。秘境のムードが漂っています。

この日、雲ヶ畑では松上げの行事が行われました。
雲ヶ畑の松上げは、五山送り火のように山の斜面に文字型に組んだ松明を点灯するというもので、出谷町と中畑町の2か所でほぼ同時刻に行われます。

せっかくふたりいるので、友人は出谷町、私は中畑町の松上げの写真を撮ることにしました。


●中畑町

友人と別れ、中畑町の高雲寺に行くと、境内にはひっそりと石碑が建てられていました。

雲ヶ畑 高雲寺 石碑

石碑には「親王へ 火の文字今も 里の盆/香澄」と書いてありました。
いい俳句だと思いました。

平安時代、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王がこの地に隠棲したと伝わっています。
雲ヶ畑の松上げはその惟喬親王を偲んで行われるようになったということです。
惟喬親王が53歳で亡くなられたのは897年のことです。
1100年以上たった今でも里の人は惟喬親王のことを忘れず、火の文字をあげて惟喬親王を偲んでいるのですね~。

中畑町の松上げが始まりました。

雲ヶ畑 中畑町 松上げ 

高雲寺境内から向かいの山に向かって松明を振り「おーい」と叫ぶと、向かいの山から「おーい」と返事が返ってきて文字が点火されました。

雲ヶ畑 中畑町 松上げ2

文字は毎年変わり、点火されるまで今年の文字が何なのかわかりません。
今年の文字は「千」でした。

雲ヶ畑 中畑町 松上げ3

文字が点火されると松明を持った人が山から降りて高雲寺の階段を駆け上ってきました。

●出谷町

出谷町の松上げの写真は友人に貸してもらいました。
Ⅿちゃん、ありがとうー!

雲ヶ畑 出谷町 松上げ3 
出谷町の文字は「土」だったようです。


雲ヶ畑 出谷町 松上げ 

福蔵院境内では焚火でするめを焼くそうです。
友人が私のぶんのするめももらってきてくれました。
なんでするめを焼くのでしょう?

惟喬親王についての記事はいままでにもたくさん書いています。
http://kntryk.blog.fc2.com/?q=%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B&charset=utf-8

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で母親は紀静子でした。
惟喬親王が6歳のとき、文徳天皇と藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)が生まれました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え源信に相談しましたが、
源信は藤原家を憚って文徳天皇をいさめたそうです。
こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。
872年、惟喬親王は28歳のときに出家して隠棲したとされます。

しかし惟喬親王が隠棲したのは山城国愛宕郷小野とされています。
小野の里は大原のあたりとされ、大原には惟喬親王の墓もあります。

木地師の里 八重桜 出猩々『惟喬親王の髑髏は髑髏杯にされた?』  にも書いたのですが
惟喬親王はま滋賀県東近江市君ヶ畑に隠棲したという伝説もあります。

おそらく惟喬親王が隠棲したのは小野の里で、君ヶ畑ではないと思います。
惟喬親王の母親は紀氏なので、木地師(きじし)=紀氏(きし)という語呂合わせから、惟喬親王は木地師の祖であるとされ、木地師の里である君ヶ畑に隠棲したという伝説が作られたのかもしれません。

また紀氏の本拠地である紀州は森林資源に恵まれ紀氏は造船業などに長けていたといいますから、木地師は紀氏もしくは紀氏と関係の深い人々だったのかもしれません。

それでは惟喬親王が雲ヶ畑に隠棲したという伝説はなぜ作られたのでしょうか。
雲ヶ畑に厳島神社があり、その説明板によると、「このあたりは平安時代以前よりの集落で平安京造営の際、用材を切り出した地域である。」とのことです。

紀氏は豊富な森林資源をいかした造船技術に長けていたといいますが、豊富な森林資源があったということは、用材を切り出したり、用材を運搬する技術にも長けていたことでしょう。

このあたりもまた紀氏または紀氏と関係の深い人々が住んでいた地域だったのかも?

雲ヶ畑


高雲寺には観光客は私ともうひとりカメラマンさんがいるだけで、他はみなさん地元の方々でした。
私のようなよそ者にも親切にしてくださり、いろんなことを教えてくださった雲ヶ畑の皆さん、ありがとうございました。
派手さはありませんが、心温まるとてもすてきなお祭りでした。



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[2015/08/28 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

旧大乗院庭園 百日紅 『大乗院庭園は東北を模して作られている?』 




以前の記事、龍安寺 石庭 枝垂れ桜 『龍安寺石庭はカシオペアを模したものだった?』 で、明石散人さんが「龍安寺石庭はカシオペア座を模したものである」と説かれていることを御紹介しました。

明石さんがおっしゃるように、日本庭園は何かの形を模したデザインになっていることが多いのです。
お房観音では池の石を北斗七星の形に並べてありましたし、日本列島の形に石を並べた庭園などもあります。

↓ 百日紅が咲く夏の旧大乗院庭園です。


旧大乗院庭園 百日紅 

この旧大乗院庭園も何かの形を模したものではないかと思って航空写真を見てみました。

①旧大乗院庭園 航空写真



名勝大乗院庭園文化館の文字の上に大きな池がありますね。
これは旧大乗院庭園の東大池です。
その左(西)に西小池があります。

西小池は何を現したものなのかわかりませんが、東大池は東北地方を表したものではないでしょうか。

②東北地方 地図


航空写真ではわかりにくいので、旧大乗院庭園の地図を見てください。

③旧大乗院庭園 地図



旧大乗院庭園の池には3つの島がありますが、北の島は陸奥湾、西の島は八郎潟(②の男鹿半島の東)と田沢湖(②秋田と盛岡という文字の中間あたり)を表しているのではないでしょうか。

つまり東北の水陸を逆にしてあるのだと思うのです。

旧大乗院庭園の池が東北地方を表しているというのは、たぶん間違いではないと思います。
というのは、大乗院が創建された1087年はかつて東北を支配していた奥州藤原氏が誕生した年で、偶然にしてはできすぎだと思うのです。
(1180年の南都焼き討ちののち現在地に移転、1465年から1489年にかけて善阿弥父子が庭を作り直していますが)

東北地方には出羽国の清原氏、陸奥国の安倍氏がいました。
1062年に起こった前九年の役で安倍氏は滅びました。
安倍氏一門の有力豪族・藤原経清は処刑され、清原武貞は藤原経清の妻だった安倍頼時の娘を自分の妻にしました。
この女性には藤原経清との間にできた息子がありましたが、清原武貞の養子となり清原清衡と名乗りました。

1083年、清原氏間で内紛がおこりました。(後三年の役)
1087年、内紛に勝利した清原清衡が清原氏の所領を継承し、実父の姓を名乗りました。
こうして奥州藤原氏が誕生したのです。

藤原清衡は朝廷や藤原摂関家に砂金・馬などを送り、その見返りとして奥州支配を容認させ、栄華を極めます。

藤原清衡の孫・秀衡は源頼朝に追われた源義経をかくまっていましたが、秀衡の死後、清衡の子・泰衡は頼朝の義経引き渡し要求を受け入れて頼朝に助命を願います。
義経は自殺して果てました。
しかし1頼朝は泰衡の助命懇願を聞き入れることなく、奥州に軍を送ります。
泰衡は河田次郎を頼って北へ向かいますが、次郎に裏切られて殺され、こうして奥州藤原氏は滅んでしまいました。(1189年)

旧大乗院庭園が奥州藤原氏が支配していた東北地方を表しているのは間違いないと思うんですが
南都焼き討ち前の庭はどのようなものだったのでしょうか?
興福寺の門跡寺院(皇族・規則が住職を務める寺院)である大乗院の庭園に、このような池が作られたのはなぜでしょうか?
また西小池は何を表しているのでしょうか?

これについてはもっと時間をかけて調べ、考えてみたいと思います。

奈良公園 鹿の親子

旧大乗院庭園・・・ 奈良県奈良市高畑町1083-1


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[2015/08/26 12:23] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

吉祥寺 紅葉葵 芙蓉 『吉祥寺は井上内親王を慰霊する寺?』 


吉祥寺 紅葉葵

吉祥寺の境内には夏の暑さに負けないような真紅の花が咲いていました。
ハイビスカスに似ていますが、Hibiscus coccineus(紅葉葵)です。

吉祥寺 紅葉葵2

イケメン♡のお坊さまにお手製だというパンフレットをいただきました。

パンフレットには次のような内容が記されていました。

① 日本三大毘沙門天王出現地霊場のひとつ  
  信貴山朝護孫子寺(開基/聖徳太子)   
  鞍馬山鞍馬寺(開基/鑑真)  
  柴水山宝塔院吉祥寺(開基/空海)

② 816年12月3日、空海が高野山の丑寅の方角に鬼門除けの毘沙門天を刻みました。
毘沙門天を開眼するため空海は身を清めようとしましたが、山上にあるこの場所には水がありませんでした。
そこで『柴手水の法』をもちいて山内の檜葉をとり、印を結び真言を称えて身を清め、開眼供養をしました。  
空海が檜葉を投げると檜葉は木にかかり、そこから檜葉が生えました。

③ 空海は『柴手水の法』から 『手』の一字を除いて『柴水山』と号し、毘沙門天が手に持つ宝塔を院号とし、脇立ちの吉祥天女の御名より柴水山宝塔院吉祥寺と名づけました。


日本三大毘沙門天王出現地霊場として名前があげられている朝護孫子寺の門前に張り子の虎が置かれていて本堂前の額には百足のレリーフがありました。

朝護孫子寺 額

鞍馬寺には狛犬ならぬ狛虎があり、ケーブルカーの乗り場には、百足を描いた茶碗が展示されていました。

鞍馬寺 狛虎


虎や百足は毘沙門天の使いとされているのです。
でも吉祥寺には百足も毘沙門天も見当たりません。
毘沙門天がご本尊なのに脇立ちの吉祥天女の名前をとって寺名にしたというのも不自然ではないでしょうか。

本堂のひさしの下あたりに象と龍の彫刻がありました。

吉祥寺 象 

普賢菩薩は象に騎乗する姿で表されます。
普賢菩薩は女人成仏を説く法華経に登場する菩薩なので女性から厚く信仰されていました。
吉祥寺という寺名は吉祥天女からとったといいますし、吉祥寺は女性を祀るお寺なのかも。

二頭の象の彫刻に挟まれて中央には龍が掘られていますが、龍といえば井上内親王を思い出します。

吉祥寺 龍


井上内親王は夫である光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪され、息子の他戸親王(とともに大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、に幽閉されました。
775年に二人は幽閉先で逝去しました。

しかし井上内親王が夫である光仁天皇を呪詛する目的がわかりませんし、その後他戸親王が皇太子を廃され、藤原百川の擁立を受けて山部王(後の桓武天皇。他戸親王の異母兄弟。父親は光仁天皇。母親は高野新笠)が皇太子となっているところから、井上内親王が呪詛したというのは事実ではなく藤原氏や山部王の陰謀だと考えられています。

井上内親王と他戸親王が亡くなったあと、井上内親王は怨霊になったと考えられるようになったようで、史料に次のような記述があります。

本朝皇胤紹運録・・・井上内親王と他戸親王は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。
愚管抄・・・井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。


吉祥寺のある五條は井上内親王や他戸親王と関係の深い土地です。

二人が幽閉されたのは奈良県五條市須恵付近(五条駅南側)とされ、下馬せずに通行すると井上内親王の祟りで落馬するという言い伝えがあります。

また井上内親王の陵は吉祥寺から1kmも離れていませんし、井上内親王を祀る御霊神社は五條市内に23もあります。

吉祥寺は井上内親王を慰霊するためのお寺なので、龍や蔵の彫刻があったり、寺名も女神からとって吉祥寺としたのではないでしょうか。

吉祥寺 芙蓉 

↑ 
吉祥寺では芙蓉の花も咲いていました。
うっかりISO3600で撮影してしまったので、ひどくノイジーな写真になってしまった~。
フォトショップでノイズ軽減したけど、まだノイジーですね・・・(涙)
ノイズを消すいい方法ってありますか?

吉祥寺・・・奈良県五條市丹原町914



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[2015/08/24 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

五山送り火 舟形 左大文字 『五山送り火は死者に穢れをもっていってもらう行事?』 

五山送り火の写真を撮るのって、むむむ難しい~。
電線入りまくりでうまく消せなかったり、ノイズでまくりだったり、構図もどうしようかと悩みまくり
雨がふって空はもやもやしまくり、おまけに煙は出まくり、まくりまくり~~
いまいちな写真ですが、いちおうアップしておきます(大汗・・・)

↓ 左大文字

五山送り火 左大文字 

↓ 舟形

五山送り火 舟形

このほか、大文字、妙法、鳥居型があります。
大文字も撮ったんですが、とても人にお見せできないようなひどい写真~。

送り火の大文字は、星や人間を表しているという説があります。

舟形は西方寺(京都市北区西賀茂鎮守菴町50)の開祖・円仁が847年、唐から日本へ戻る途中で暴風雨に会い、「南無阿弥陀仏」と唱えたところ無事日本に帰ることができたという故事にちなむとされます。

お盆になって戻ってこられたお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のこと)をあの世に送るのが送り火ですから、舟形はお精霊さんをあの世に送り届ける舟というイメージなのでしょう。

當麻 練り供養


↑ 上の写真は奈良県の當麻寺で毎年5月に行われている「二十五菩薩練り供養」です。
當麻寺 當麻のお練り 『中将姫は藤原豊成の和魂だった?』 
人が死んだとき、極楽浄土より阿弥陀仏が二十五菩薩を伴ってやってきて、極楽浄土へ連れて行ってくれるという信仰を表したものです。

これと同様の行事が京都の即成院でも行われており、即成院の練り供養について『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』に次のようなことが書いてありました。

①二十五菩薩練供養は源信の『迎講』が初め。
②『迎講』は死者をあの世に届ける儀式であると同時に、この世の人が再生する儀式でもあった。
③お練りに参加した人はこの日生まれ清まるという信仰があった。

どうして死者をあの世に届けると、この世の人が再生するなどと考えられたのでしょうか?
きぶねじんじゃ おおはらい 

↑ こちらは貴船神社の大祓です。貴船神社 夏越神事 『蘇民将来伝説とユダヤの過越祭』 
人形に息を吹き替えて穢れを移したあと、人形を川に流して身を清めるというものです。
人形は人間の身代わりなんですね。


淡嶋神社 雛流し 

↑ こちらは和歌山県・淡嶋神社の雛流しです。淡嶋神社 雛流し 『なぜ雛人形は首が抜けるのか』 
人形は写真のように舟に乗せて流されることもありました。

即成院や當麻寺の練り供養は、生きている人が死者に穢れをうつし、死者に穢れをあの世にもっていってもらうことで、自分は再生するという儀式のように思えます。

するとお盆にこの世に戻ってきたお精霊さんをあの世に贈る行事である五山送り火も、死者に穢れをあの世にもっていってもらう行事のように思えます。

真如堂 灯ろう供養会 
塔百景52

↑ 真如堂では五山送り火にあわせて精霊送り灯ろう供養会が行われました。
写真は失敗でしたがまたチャレンジしたいです。(汗だらだら)



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[2015/08/22 00:16] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

浮見堂 三笠山 百日紅 『三笠の山に出でし月とは光明皇后のことだった?』※追記あり 

荒池がアンツーカーの競技場に?

荒池 浮草

塔百景51


「アイオオアカウキクサ」という水草なのだそうです。
雨が降らず水が流れない状況に加えて、1〜2週間続いている高温で、大発生したのではないかとのこと。
池の中に光が届かなくなって生態系に問題あるかも?
でも水草も一生懸命生きているんですよね。

荒池 鴨


鷺池では百日紅の花が咲いていました。
遠くに見えている笠のような形の山は三笠山です。

浮見堂 三笠山 百日紅


三笠山を詠んだ有名な歌がありますね。
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/阿倍仲麻呂

717年、第9次遣唐使が派遣されることになりました。
遣唐使に選ばれた人々は春日大社の背後にある三笠山(御蓋山)の麓で航海の無事を神に祈り、唐へ向かって出発しました。
三笠山は遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所だったのです。
遣唐使の中には阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らがいました。

 718年、光明皇后は聖武天皇の皇女・阿倍内親王を出産されました。

735年、吉備真備・玄昉らは帰国しましたが、阿倍仲麻呂は唐で役人になって帰ってきませんでした。

749年、阿倍内親王は即位して孝謙天皇となり、752年に第12次遣唐使を派遣しました。
このとき孝謙天皇は次のような歌を詠んでいます。

四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)

※しらか/麻やこうぞを細く裂いて幣帛としたもの。

また、孝謙天皇の母親の光明皇太后(光明皇后)も入唐大使・藤原朝臣清川に次のような歌を贈っています。

大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)

※藤原清川は光明皇太后の甥で子ではありません。
光明皇太后は国家の皇太后という立場からが清河を『この吾子』と表現したと考えられています。

遣唐使たちを乗せた船は無事唐へ到着し、翌753年、阿倍仲麻呂は藤原清川の船に乗って日本に帰ることになりました。
日本に帰国する前日、唐の役人たちは仲麻呂との別れを惜しんで宴を開きました。
その席で仲麻呂は歌を詠みました。

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも
(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)


ところが、仲麻呂が乗った船は暴風雨に会って長安に戻り、仲麻呂は日本に帰れないまま、唐で没しました。

「暗闇を照らす光」のことを光明といいます。
暗闇を照らす光とは月のことではないでしょうか。
阿倍仲麻呂の歌にある「月」とは光明皇太后のことではないか、と私は思うのです。

 阿倍仲麻呂が唐へ行った翌年、光明皇后(光明皇太后)が聖武天皇の皇女・阿倍内親王(孝謙天皇)を出産しているのが気になります。
阿倍内親王という名前は阿倍氏と関係の深い人物であったところからつけられたのではないかでしょうか。

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、孝謙天皇(称徳天皇)は蝦夷の安倍一族の出身であり、あるとき朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたと記されています。
正史では孝謙天皇は聖武天皇の皇女で母親は光明皇后(=光明皇太后)となっていますが。
東日流外三郡誌は後世に作られた偽書とされていますが、気になる記述です。
正史は為政者の都合のいいように書き換えられている可能性もありますし。

阿倍仲麻呂は安倍仲麿とも記されます。
阿倍内親王は聖武天皇の皇女とされていますが、本当の父親は阿倍仲麻呂だってりして?
第12次遣唐使は阿部仲麻呂を日本に帰国させる目的で派遣されたのではないでしょうか。
孝謙天皇(阿部内親王)と光明皇太后は父または愛しい男を迎える喜びをこめて上記の歌を詠んだのかもしれません。

だとすると阿倍仲麻呂が唐にとどまって日本に帰ってこなかったのは、聖武天皇の妻である光明皇太后を孕ませてしまったためではないか、などと考えてしまいます。

まいど、とんでも説で失礼しました~。


浮見堂 月  


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[2015/08/18 00:39] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

幽霊子育飴 『四十九日に人間界に生まれ変わった話』 


京都の六道の辻はかつて鳥辺野の風葬地の入り口にあたり、あの世とこの世が交わる辻として恐れられていました。
現在の六道の辻には西福寺六波羅蜜寺・六道珍皇寺の3つの寺がありますが、
西福寺の向いに幽霊子育て飴を売る店があります。

幽霊子育飴本舗 みなとやさん


ひとつ買ってみました。
添加物は入っておらず、とても優しい味です。

幽霊子育て飴


幽霊子育て飴の包みの中に、幽霊子育て飴の由来を記した紙が入っていました。

そこには次のような内容が記されていました。

慶長4年(1600年)、江村氏の妻が亡くなって土葬にしましたが、土の中から鳴き声が聞こえるので掘り返してみると、亡くなった妻が産んだ子がいました。
そういえば、夜な夜な飴を買いに来る女性がいましたが、土の中から幼児が発見されてからはやってきません。
幼児は8歳で出家して高僧となり、68歳で亡くなりました。


江村氏とは戦国時代、長宗我部氏の家臣だった江村氏のことかな、と思います。
その江村氏の妻が土葬後に子供を出産。
幽霊となって飴を買い、子供に飴をなめさせて育てていたというのですね~。

福島県掛田(伊達市霊山町)にも同様の話が伝わっています。

遠藤氏の妻が死んで土葬されたのち、土の中で子供を出産しました。
妻は幽霊となって飴を買いにやってきて、その飴で子供を育てました。
成長した子供は武士となり伊達家の家臣となりました。
伊達家の当主はこの話を知って、名字(みょうじ)を遠藤から四十九院(つるしいん)に変えさせました。


なぜ伊達家の当主は四十九院と名前を変えさせたのでしょうか?
またなぜ四十九院と書いて「つるしいん」と読ませているのでしょうか?

調べてみたところ、次のような説があるようです。
・亡くなった女性の四十九日に墓の中から赤ん坊が生まれたことに由来する。
・49=7×7で7を「つるべ(列べる)」ので「しちつるべ」から「つるし」となった。



人が死んだ際の法要は、初七日(しょなのか)・二七日(ふたなのか) -・三七日(みなのか) ・四七日(よなのか)・五七日(いつなのか) -・六七日(むなのか)のように七日毎に行われます
そして 七七日(なななのか=四十九日)目に死者は閻魔大王の裁きをうけ、六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄堂)のうちどの世界に生まれ変わるかが決まると考えられていました。

死んだ女性(幽霊)は四十九日に閻魔大王の裁きを受けて人間界に生まれ変わった、それが死んだ女性(幽霊)の生んだ子供であると考えられて、京都と福島県掛田の話は作られたのではないかと思います。

鴨川 川床


六道の辻から歩いて鴨川へ。
川沿いには夏の風物詩である川床が設けられていました。

みなとや幽霊子育飴本舗さん・・・京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町80-1

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[2015/08/16 00:48] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

談山神社 献燈祭 『摩多羅神と翁の関係』 


談山神社・献燈祭(8月14日)

午後5時半ごろ、談山神社へ行くと拝殿から楽の音が聴こえてきました。

談山神社 楽人

小学生くらいの子供さんたちが灯篭に火をいれていました。
近所に住んでおられる子供さんたちでしょうか?

談山神社 献燈祭 

観光客は4~5名程度で、境内はとても静かでした。

談山神社 献燈祭2
塔百景55

 
談山神社という名前は明治の神仏分離令以降につけられたものです。
それ以前には妙楽寺というお寺で、神仏を習合してお祭りしていました。

妙楽寺の常行堂(現・談山神社権殿)では毎年正月の修正会で僧侶による「六十六番猿楽」が行われていたそうです。
神社となってから能は行われなくなりましたが、談山神社にはたくさんの能面が保管されています。
その中に摩陀羅神面というのがあります。

摩陀羅神って京都太秦の広隆寺で行われている牛祭に登場する神様じゃないですか~。
(もともとは大酒神社のお祭りでしたが、現在では広隆寺が行っています。)
もっとも最近は牛祭は行われない年が多いので、観たことはないのですが~。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ushimatsuri.jpg(都年中行事画帖 1928年)

10月10日、午後8時ごろ、赤鬼、青鬼に先導された摩多羅神が牛に乗って登場します。
境内を練り歩いたのち、祭壇に上り赤鬼青鬼とともに長々と祭文を読み上げると、見物人が野次を飛ばすそうです。
見物人の行儀が悪くて野次を飛ばすのではなく、祭の筋書がそうなっているのです。
野次られた摩多羅神は祭壇から薬師堂の中に駆け込むと祭は終了します。

なんだかわけのわからないお祭りですね。
摩陀羅神という神様もどのような神様なのか、よくわかってていないそうです。

談山神社の摩陀羅神面は箱に『摩陀羅神面箱』と記されているのですが、箱の中に入っているお面は翁面です。

奈良豆比古神社 翁舞 

↑ 上の写真は奈良の奈良豆比古神社で10月8日に奉納されている翁舞です。
3人の翁が身に着けている面が翁の面です。

「能にして能にあらず(能というよりは神事であるという意味)といわれる能・翁に用いられるのもこの面です。
なんで摩陀羅神が翁面なの?
調べてみました。

摩陀羅神は平安時代の天台座主・円仁(794年 - 864年)が唐より持ち帰ったと伝えられます。
天台宗の寺院には常行堂(常行三昧堂)といって、常行三昧の行(90日間、阿弥陀如来の周囲を念仏を唱えながら歩く行)を修するためのお堂が建てられていました。
摩陀羅神はその常行堂の「後戸の神」とされています。

妙楽寺(談山神社)は天台宗のお寺だったので、常行堂があり、その後戸の神として摩陀羅神を祀っていたのではないでしょうか。
そのため常行堂に摩陀羅神の面があったのでしょう。

摩多羅神は「宿神」あるいは「後戸の神」とも呼ばれています。
宿とは夙ともしるし、寺社に隷属していた非民のことです。
宿神とはそうした非人の神という意味でしょうか。
翁舞が行われている奈良坂にはかつて非人が住んでいました。
翁は宿神であったといえるでしょう。

金春禅竹の『明宿集』には,摩多羅神は猿楽者の芸能神(宿神)と記されています。
奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰されていましたので、芸能神ともいえますね。

芸能とは現在では娯楽ですが、古には神事であり、呪術でした。
そして神事であり呪術でもあった芸能は、非人によって行われていました。

非人という言葉が史料に初めて登場するのは842年で、橘逸勢が謀反を企てたとして姓・官位をはく奪され天皇より非人の姓を賜ったとされます。
その子孫もまた姓は非人だったと思うので、非人とは謀反人の子孫なのではないかと思います。
日本では古来、先祖の霊はその子孫が祀るべきとする考え方がありました。
非人たちが行う芸能とは、謀反人として処罰された先祖の霊を慰霊するものではないでしょうか。

摩陀羅神は「後戸の神」とも呼ばれます。
後戸の神とは須弥壇の背後に祀られた神のことで東大寺法華堂の執金剛神,二月堂の小観音などが「後戸の神」とされます。
法華堂の執金剛神は法華堂御本尊・不空羂索観音の後方にある厨子の中に、二月堂の小観音は大観音の前に置かれた厨子の中に安置されています。
天台宗の寺院の常行堂の後戸には摩多羅神が祀られることが多いそうです。

「後戸の神」がどのような性質を持つ神なのか、今のところ、私にはよくわかりません。


円仁が持ち帰った摩多羅神が日本では宿神(=後ろ戸の神=翁)になったとする説、もともと日本には宿神があり、平安時代に日本に伝えられた摩多羅神という神と習合されたとする説があります。

私はたぶん後者ではないかと思います。
というのは後戸の神とされる二月堂の小観音は修二会が始められた752年にはあったと思われるからです。

またいろいろ調べてみてわかったことや、閃いたことがあればまた記事にしたいと思います。

談山神社 献燈祭3


↑ この写真を撮ったあと拝殿の写真を撮ろうと思ったのですが、消灯されてしまいました。
時計を見ると午後7時半でした。
来年、見に行かれるかたはお早目にお出かけください~。



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[2015/08/14 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

京の七夕 『男女和合の呪術』 



西福寺で地獄絵を見て、六波羅蜜寺・六道珍皇寺で六道詣をしたのち、「京の七夕」というイベントを見にいきました。

まずは鴨川会場。

京の七夕 鴨川

笹飾りにLEDの電飾が幻想的な雰囲気を醸し出していました。

大急ぎで堀川会場へ。
京の七夕-堀川 友禅

友禅流しを再現したもの。
染め上がった布を川に晒して、糊や余計な染料を落とすのですね。
川の汚染の原因になるとして、現在では自然の川では行われていません。



七夕は現在では新暦7月7日に行われることが多いですが、もともとは旧暦7月7日の行事でした。
旧暦7月7日は新暦に換算すると約1か月遅れの8月になります。
8月1日から10日まで行われた「京の七夕」は時期的の本来の七夕に近いわけです。
新暦では7月7日は梅雨で雨が降ることが多いし、年中行事は旧暦で行うほうがいいと思います。

お盆は現在では新暦8月15日を中心として行う地域が多いですが(新暦7月15日を中心として行っている地域もあります。)
旧暦では7月15日を中心とした行事でした。
新暦で行われる年中行事が多い中で、なぜかお盆は旧暦にあわせて月遅れで行っている地域が多いのです。

つまり七夕から1週間でお盆の中日を迎えていたわけで、七夕はお盆の入りの行事だったのです。

七夕といえば牽牛と織姫が1年に一度の逢瀬を楽しむ日、逢引をする日なわけですが
牽牛と織姫の逢引にはどんな意味があるのでしょうか。

このブログで何度も書いているように、神はその表れ方で御魂(神の本質)、和魂(神の和やかな側面)、荒魂(神の荒々しい側面)の3つに分けられるといいます。
そして女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。
すると、御魂は男女双体となるのではないでしょうか。

御魂(神の本質)・・・・・男女双体?
和魂(神の和やかな側面)・・・女神
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神


インドの神でのちに仏教にとりいれられた神に聖天さん(大聖歓喜天)があります。
聖天さんは象頭をした男女双体のおすがたで表されます。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kannki.htm
↑ こちらのサイト中ほど右の写真が分かりやすいと思います。
この聖天さんの伝説は、御魂・和魂・荒魂を説明したもののように思えます。

祟神・ビナヤキャは、十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれして求婚します。
ビナヤキャ女神は「あなたが仏法守護を誓うならばあなたと結婚しましょう」と言いました。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、二神は結婚しました。


日本では古くより神仏は習合して信仰されていました。
つまり、男神(荒魂)と女神(和魂)を和合させた男女双体の神が御魂であり、御魂とみほとけは同じものであると考えられたのだと思います。
そして、男女和合は荒魂と和魂を和合させることで御魂=みほとけに昇華させる呪術であったのではないかと思うのです。

御魂(神の本質)・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天
和魂(神の和やかな側面)・・・女神・・・ビナヤキャ女神・・・織姫
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神・・・ビナヤキャ・・・・・牽牛


それではお盆の入りの行事である七夕に織姫と牽牛を和合させることにはどんな意味があるのでしょうか。
長くなるのでこれについては来月にでも書こうと思います。


[2015/08/14 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)