信楽の火祭 『アメノヒボコが陶器の神様になったワケ』 



日が沈み、空が夕焼けで染まるころ、新宮神社の篝火が点火されました。

新宮神社 夕景

さあ、火祭の始まりです!
大小さまざまな松明を担ぎ、愛宕山の山頂をめざします。
愛宕山山頂には新宮神社の境外摂社、愛宕神社・秋葉神社、陶器神社があり、これらの神社に松明を奉納するのです。

信楽 火祭6

新宮神社のhpによると愛宕神社・陶器神社・秋葉神社の御祭神 は加具土の神 カグツチノカミ (火の神)・埴山姫の命 ハニヤマヒメノミコト (土の神)・天日槍命 アメノヒボコノミコト (陶祖神)とのことです。
信楽は信楽焼で有名ですが、火の神・土の神・陶祖神は、焼き物の町の神様にぴったりですね。

信楽 火祭3

火祭は、江戸時代以前に起源があるとされ、もともとは7月23日に行われていたそうです。
(現在は7月第4土曜日)
旧暦ではどうだったのか、hpには説明がないのですが、旧暦7月23日は地蔵盆の宵縁日なのでもともとは地蔵盆の行事だったのかもしれません。

愛宕の神と地蔵菩薩の縁日はどちらも24日です。
縁日が同じ日なのは、愛宕の神と将軍地蔵(修験道で信仰されていました。勝軍地蔵とも)が同体であると考えられていたためではないかと思います。

一般の人も松明を担いで愛宕山をめざします。

信楽 火祭 

アメノヒボコは、新羅の王子で垂仁天皇3年に日本にやってきたとされます。
新羅とは古代の朝鮮半島にあった国です。

アメノヒボコは播磨国宍粟邑から(宇治川)を遡って近江国吾名邑にやってきました。
このとき、近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったとされます。
そののち、近江から若狭国を経て但馬国に住んだとされます。(日本書紀)

近江国鏡村は滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡と考えられています。
滋賀県蒲生郡竜王町鏡128に鏡山神社があり、アメノヒボコを祀っています。
鏡山神社の由緒に「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とあるそうです。

新宮神社がアメノヒボコを陶祖神としているのは、このためでしょう。

信楽 火祭

火祭のフィナーレは花火です。

コサさんがやっておられたピントずらしをやってみました。
露光中にピントリングをインからアウトへ、アウトからインへと動かすというテクニック。

万華鏡のように美しいコサさんの写真はこちら 

http://asok.blog118.fc2.com/blog-entry-3034.html
http://asok.blog118.fc2.com/blog-entry-5786.html
http://asok.blog118.fc2.com/blog-entry-4914.html

むむむむつかしい~。
ほとんど失敗でしたーー。
なんとか見れるのはこれ(↓)だけ。

信楽 火祭 花火

また挑戦しよう。
淀川花火大会は単発であがらないから無理だけどー。

新宮神社・・・滋賀県甲賀市信楽町長野1151-1 
信楽の火祭・・・7月第4土曜日





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[2015/07/31 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

玉出のだいがく 『だいがくは玉出の天神祭?』 



7月24日、25日は天神祭ですが、同じ日、大阪市西成区玉出の生根神社では「玉出のだいがく」が行われます。

gifアニメを作ってみました。

玉出のだいがく

http://www.bannerkoubou.com/anime/  ← こちらのサイトですごく簡単に作れました!
ちょっと建物動いたり、後ろの木が突然明るくなったりしていますが~(汗)
自動で位置あわせができるともっといいけど、タダでこんなのが作れるってちょっと嬉しい♪

天神祭は菅原道真を祀る大阪天満宮の祭礼です。
道真の命日は旧暦2月25日なので、天満宮の縁日は25日とされています。
天神祭の本宮が7月25日なのはそのためです。

生根神社では明治初年に筑前天満宮を合祀しており、主祭神は少彦名命・蛭児命・菅原道真です。
玉出のだいがくが天神祭と同じ日なのは、玉出のだいがくが道真を慰霊するお祭りだからなのかもしれませんね。

玉出のだいがく

たくさんの提灯をつるした大きな立て物がだいがくです。
だいがくは台楽または台額と記されますが、語源は不明です。

旧暦が用いられていた時代には天神祭は6月25日に行われていました。
生根神社の祭礼はどうだったんでしょうか。
kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstre...
↑ こちらのサイトによると、現在7月に行われている祭は旧暦6月に行われていた夏祭りであるとし、生根神社の玉出のだいがくにも触れられています。
どうやら玉出のだいがくも旧暦では6月25日に行われていたっぽいですね。

玉出のだいがく2

旧暦7月は新暦換算すると8月です。
旧暦7月1日は釜蓋朔日といいお盆のシーズンの始まりでした。
7月7日の七夕はお盆の入りの行事だったのです。
さきほど天神祭についてお話しましたが、古くは7月7日に船渡御が行われていたそうです。
天神祭はお盆の行事であったのかも。
すると天神さん(菅原道真)の縁日に行われている玉出のだいがくもお盆の行事だったのかもしれませんね。
たくさんの提灯の灯りは迎え火の意味合いがあるのだったりして。



生根神社・・・大阪市西成区玉出西二丁目1 
玉出のだいがく・・・7月24日・25日


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[2015/07/30 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

久修園院 合成写真 夕景 『日本の地球球体説』 



京阪電車の車窓から見える久修園院の風景をいつも楽しみにしていました。
ところが、最近、久修園院の前にユンボなどの機械が置かれています。
住宅でも建てるんでしょうか?
住宅が建ってしまうと、もう京阪電車の車窓から久修園院を見ることができません。
今のうちに写真を撮っておかなきゃ~と、やってきました。
最寄り駅は橋本駅です。

ははは~。
なんともすごい写真~。
工事が始まる前に写真を撮っておいたらよかったあ~。 ↓

久修園院 工事中

仕方ないので合成してみた。(汗) ↓

久修園院 青空

裏側から撮影。
少しだけ夕焼けになりました。
住宅が建ったら、空が見えなくなってこの風景も見ることができなくなってしまう~。 ↓

久修園院 夕焼け

久修園院は725年に行基が開いたとされる古刹です。
1614年、大阪夏の陣で多くの堂塔が焼けましたが、1680年に石清水八幡宮大乗院の僧・宗覚律師が復興しました。

お寺には宗覚律師が作られた天球儀と地球儀があります。
1680年ごろ、すでに日本人は地球は球状であると認識していたのですね。

織田信長(1534年~1582年) が宣教師に地球が球体であることを教えられて納得したという逸話も残っており、地球球体説は南蛮貿易とともに日本に伝わったと考えられています。

地球球体説は紀元前6世紀ごろよりあり、アリストテレス (BC 384 年~BC 322 年) クラウディオス・プトレマイオス ( 90 年 ~ 168 年) ほか、大勢の科学者が地球は球体であると説いています。

その理由は次のようなものでした。

①海上から陸を眺めると、低い土地より高い山のほうが先に見える。
②陸から航海する船を眺めると、まず船のマストが見え、そのあと 船体が見える。
③北の方に移動すれば、 太陽は低くなり、北極星は高くなる。
④月食の際、地球が月に丸い影を落とす。

うーん、とすれば織田信長よりもっと昔の時代から、地球が球体をしていると考えていた日本人がいたのではないかと思えます。
船乗りは星を航海の指標としていましたから、①~④のような現象が起こることはよく知っていたと思われます。
また流罪などで遠方へ旅をした経験のある人物なども地球が丸いことに気が付いていたかも?

久修園院・・・大阪府枚方市樟葉中之芝2-46

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[2015/07/28 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪国際空港 夕景 『空港敷地内に多数の飛び地がある理由』 

モリタさんに撮影地などいろいろ教えてもらって(まねっこして・・・汗)大阪国際空港に飛行機を撮りにいきました。
モリタさあーん、ありがとう~。
モリタさんの情感あふれる飛行機の写真はこちらです。 → しょうもないブログ(おもしろいブログです♡)

大阪国際空港 夕陽5

ジェット機 ↓
大阪国際空港 夕陽

大阪国際空港という名称ですが、騒音問題などがあって現在は国内便のみで、敷地は大阪府池田市・大阪府豊中市・兵庫県伊丹市にまたがっています。

プロペラ機 ↓
大阪国際空港 夕陽4

大阪国際空港内には豊中市・伊丹市・池田市それぞれの飛び地が6カ所あります。

さらにこの池田市の飛び地の中に豊中市の飛び地があり二重飛び地となっているところも。
そしてこれらの飛び地の境界は直線で構成される多角形になっています。
http://ratio.sakura.ne.jp/uploads/2011/11/20111113nikkei.jpg

2011年11月13日の日本経済新聞に『大阪・伊丹空港、飛び地また飛び地の謎。(大阪社会部 舩越純一)』という記事が掲載されました。
その記事には次のような内容が記されていました。

①飛び地の境界が直線になっているのは奈良期の条里制の名残ではないか。(伊丹市立博物館館長・小長谷正治氏談)

https://www.google.co.jp/maps/@34.7841092,135.440327,5409m/data=!3m1!1e3
上は大阪国際空港の航空図ですが、土地が升目状に区切られているのがわかりますね。

②「享保16年小坂田村絵図」の伊丹市ゆかりの貴人の墓所が、現在の伊丹市の飛び地になっている。
享保16年は1731年なのでら、280年前から飛び地が存在していた。
http://ratio.sakura.ne.jp/uploads/2011/11/20111113nikkei.jpg

③明治初期、ターミナルビル近辺には北今在家村や小阪田村など村が5つほどあったが、段階的に現在の3市に集約された。
空港拡張工事が進む中、1967年に3市は飛び地の境界線を画定させた。

④ 江戸期、一帯に似た名称の村が多数あり、それらが合併を重ねた。
似た名称の村が近接して存在した理由は、太閤検地の際に徴税しやすくしようと、大きな村を細かく分割したのが原因ではないか。
別の村となったところに自分の田畑があり、飛び地として代々引き継いだのではないか。(大阪大学教授・村田路人氏談)

大阪国際空港 夕陽6

↑ 東の空も夕焼けで染まりました。


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[2015/07/26 12:50] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

藤原京跡 コスモス 蓮 『持統天皇の歌の謎が解けた!』 



藤原京跡に立つとコスモス畑の向う側に畝傍山が見えていました。

藤原京跡 コスモス


道路を超えるとこちらには蓮の花が咲いていました。
天香久山が見えています。

藤原京跡 蓮

藤原京は飛鳥時代に造られた都で大和三山(畝傍山・天香久山・耳成山)に囲まれていました。
藤原京には持統天皇の藤原宮がありました。

百人一首に持統天皇が詠んだこんな歌があります。

春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)


旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月でした。
旧暦は新暦よりおよそ1か月遅れとなりますので、新暦に換算すると5月ごろに詠んだ歌だと考えられます。

ところで蓮って土用の丑のころに咲くんですよね。

下鴨神社 御手洗祭 『御手洗祭とみたらし星』 
↑ こちらの記事に次のように書きました。

「陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。」と。

ん?んむむむ?

持統天皇の「春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という歌には、もうひとつ裏の意味がかくされていることを発見しました!

ヒント・・・持統天皇は天皇としては初めて火葬された方です。

もうおわかりですね~。

「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味、「夏」は「五行説の火」を表しているのだと思います。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことでしょう。

↓ 下の写真は千本閻魔堂狂言に登場する鬼と幽霊ですが、幽霊は白い死に装束を着ています。

千本閻魔堂 狂言

持統天皇の歌には表の意味のほかに、「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている衣をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」
という裏の意味が隠されているのではないでしょうか。

もちろん、死後に歌を詠むことはできません。
持統天皇の死後、誰かが持統天皇の身になって詠んだか

あるいは持統天皇が生前に軽い気持ちでこの歌を詠み
「この歌を詠んだため、言霊が作用して持統天皇は火葬されてしまった」のだと世の人々は考えたのか
どちらかだと思います。

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[2015/07/24 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 



7月24日は祇園祭後祭の山鉾巡行がありますね。
後祭で巡行する山鉾のひとつに黒主山があります。

祇園祭 山鉾巡行 黒主山 
17日の前祭山鉾巡行と24日の後祭山鉾巡行は逆回りで巡行するんですね。
写真は数年前に撮影したもので、このとき後祭山鉾巡行は行われていませんでした。
24日、黒主山は写真とは逆向きで巡行することになります。

上の写真ではわかりにくいのですが、桜の木の下には花を見上げる老人の人形が置かれています。
下の写真は後祭宵山で撮影した黒主山の御神体・大友黒主です。

祇園祭 黒主山 御神体

黒主山は謡曲・志賀をテーマにした山です。

今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む大友黒主に出会います。
黒主は和歌の徳を語って消え去ります。(志賀)


古今和歌集仮名序は大友黒主について次のように記しています。

大友黒主は そのさまいやし いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし
(大友黒主はその様子が賎しい。 薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。)


謡曲「志賀」は古今和歌集仮名序の文章からインスピレーションを得て創作されたものなのでしょう。

それにしても、「そのさまいやし」とか「薪追へる山びとの花のかげにやすめるがごとし」とはどいう意味なのでしょうね?

さて古今和歌集にはかなで記された「仮名序」のほかに漢文で記された「真名序」があります。
真名序は仮名序とだいたい同じ内容ですが、微妙に表現が異なっている部分もあります。
たとえば大友黒主については次のようになっています。

大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

ここに『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とあります。
『大友黒主の歌は猿丸大夫に次いで優れている。』というような意味なんでしょうか?よくわかりません。

でも鎌倉時代の天才歌人である藤原定家はその意味を知っていたにちがいありません。
というのは、古今和歌集仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされているのですが
紀貫之は古今伝授の創始者です。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことです。
伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、主に口伝で行われました。
藤原定家は父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けています。
定家は和歌の極意を知っていたのです。

大友黒主は六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)の一です。
藤原定家が撰んだ秀歌集・百人一首には遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町の歌は採られていますが、大友黒主の歌は採られていません。

もしかすると大友黒主とはニックネームのようなもので、本名は別にあるんじゃないか。
定家は本名で黒主の歌を百人一首に採用しているのではないか。
そう私は考えました。

百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られています。
もしかしたら定家は真名序の『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 という文章を受けて、猿丸大夫の歌の次に大友黒主の歌をもってきているのではないでしょうか?

さっそくは百人一首を調べてみました。
百人一首では猿丸大夫は5番でした。
その次・・・6番は大伴家持でした!

祇園祭 宵山 黒主山


大友黒主は大伴黒主とも記されます。
また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じといってもいい歌を詠んでます。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』といいます。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことです。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りとはいえないと思います。
このことからも、大友(大伴)黒主と大伴家持は同一人物ではないかと思うのです。

大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄でした。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないでしょうか。

須賀神社 角豆(ささ)げ祭 行列
須賀神社 角豆(ささげ)祭 行列

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっています。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったと推測されます。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないでしょうか。

真名序には『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とありますが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだと思います。
『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、という意味です。

このほかにも大友黒主の正体を大伴家持と考えるとうまく説明できる事例もあるのですが、長くなるのでまたの機会に。



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[2015/07/22 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

松尾寺 百合 『六歌仙の正体は七福神だった?』 



7月、松尾寺では百合が見頃となります。(写真は去年撮影したものです。)

↓ 松尾寺の七福神堂です。

松尾寺 七福神堂 百合

七福神とはご存知のように、大黒天・恵比寿天・布袋尊・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人の七人の神様のことをいいます。

高田祟史さんは「QED六歌仙の暗号」という小説の中で、七福神の正体は六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀)に惟喬親王を加えた七柱の神様のことだとおっしゃっています。

七福神の正体について説明する前に六歌仙とは何か、について記しておきます。

六歌仙とは古今和歌集仮名序に名前があげられた6人の歌人のことです。
ただし、古今和歌集仮名序の中に六歌仙という言葉は登場しません。
後の世になって6人の歌人のことを六歌仙と言うようになったと考えられています。

古今和歌集仮名序は抽象的で意味がよくわからないのですが、私にはこんな風に読めます。
(読んでみたい方はこちらを参照してください。→ http://bluewind.oops.jp/kokin/kana1.htm

遍照はリアリティがない。
在原業平は言葉が足りない。
文屋康秀はいい着物を着た商人のようだ。
喜撰法師ははじめとおわりがはっきりしていない。
小野小町は強くない。
大友黒主は賎しい。


抽象的で意味がわかりにくいですが、決してほめているようには思えませんよね。

歌仙とは「怨霊である」と高田祟史さんはおっしゃっています。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことです。
なるほど、六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物で政治的に不幸だったといえます。

喜撰法師は紀名虎またはその息子の有常だという説があります。
紀名虎の娘の静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を生みました。
文徳天皇は惟喬親王の立太子を望んでいましたが、藤原良房の娘・明子が生んだ惟仁親王が生まれたばかりで皇太子となりました。

在原業平は紀有常の娘を妻としており紀氏よりの人間だったため藤原氏から敵対視されていました。

遍照は藤原良房に出家をすすめられたとされます。

文屋康秀と同族と思われる文室(文屋と記すこともある。)宮田麻呂は謀反の罪で流罪となりましたが死後ちに無実であったとして神泉苑の御霊会で慰霊されています。


大友黒主は大伴黒主と記されることがあります。
私は大伴黒主とは大伴家持のことだと思います。(理由については次回説明します。)
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死亡していたにも関わらず死体が掘り出されて流刑とされています。

小野小町についてはよくわかっていません。
私自身の説については近いうちにご紹介できればと思います。


松尾寺-三重塔 百合
塔百景49



高田さんの本は図書館で借りて読んだので手元にありません。
なので記憶違いがあるかもしれませんが、六歌仙と七福神の関係を次のように解いておられたと思います。
(間違いがあれば指摘をお願いします。)

弁財天=小野小町・・・紅一点
大黒天=大友黒主・・・大と黒が共通します。
布袋尊=喜撰法師・・・喜撰法師は「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と人の言うなり」という歌を詠んでいますが
宇治の満福寺には布袋尊が祀られています。
恵比寿天=文屋康秀・・・古今集仮名序に「いはば商人のよき衣着たらんがごとし」とありますが
恵比寿天は足が不自由で、「お足がでない」の語呂あわせから商売の神として信仰されています。
福禄寿=遍照
寿老人=在原業平
・・・福禄寿と寿老人はどちらもカノープスという星の神だとされています。
         遍照は桓武天皇の孫、在原業平は桓武天皇の曾孫でどちらも臣籍降下しています。
在原業平は呪老人(和歌によって呪術をしかける老人)=寿老人、福禄寿は遍照。

毘沙門天=紀名虎の孫で立太子争いに敗れた惟喬親王・・・仮名序には六歌仙を語る前に「つかさ位高き人をば 
たやすきやうなれば入れず」とあります。
この「つかさ位高き人」とは惟喬親王のことだと考えるのが妥当だと思います。
六歌仙と惟喬親王を合わせて本当は七歌仙であったのですね。
陰陽道では陰が極まると陽に転じると考えます。
この七歌仙=怨霊(陰)を陽に転じたのが七福神というわけです。


松尾寺・・・奈良県大和郡山市山田町683

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[2015/07/20 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

祇園祭 山鉾巡行 菊水鉾 『菊慈童と不老長寿』 


祇園祭 菊水鉾

↑ 何年も前に撮影した菊水鉾です。

去年の記事、祇園祭 山鉾巡行 (ビルを消してみた)『山鉾巡幸と百鬼夜行』  で次のようなことを書きました。

①山鉾のうち、太子山の聖徳太子、占出山の神宮皇后、黒主山の大友黒主、菊水鉾の菊慈童は怨霊ではないか。
②怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。
③怨霊が祟らないように慰霊し、神として祀ったもののことを御霊という。
④百鬼夜行は陰で、それを陽に転じたのが山鉾巡行だったりして?

聖徳太子が怨霊であるとする梅原武さんの説については去年の記事をお読みください。

今日は菊水鉾の菊慈童についてお話ししたいと思います。

祇園祭 山鉾巡行 菊水鉾 

上の写真の山鉾に乗せられている人形が菊慈童です。
菊慈童とは700歳の長寿であったという中国の伝説に登場する少年です。能の演目にもなっていますよ~。

鉾の前懸は皆川月華作の「飛鶴図」です。

魏の文帝 はレッケン山に不老長寿の薬が流れているという噂をきき、「様子を見てまいれ」と臣下を山に行かせました。
山には不思議な少年がおり「私は周の穆王に仕えていました。」と言いました。
周は700年も前の時代です。
少年はさらに穆王より賜ったという枕を見せました。
その枕に記された経文を菊の葉に書くと、その葉より滴る露は不老長寿の薬となりました。
少年はその露を飲んで700歳の長寿をえていたのでした。

京都の法輪寺では9月9日に重陽神事を行っており、菊慈童の舞が奉納されます。↓
ずいぶん昔にフィルムで撮影したものです。
ストロボ持っていくのを忘れまして、内臓ストロボで撮影したところこのザマです。(汗)
見苦しい写真ですが、ご勘弁を。

法輪寺 重陽神事

平安時代、この法輪寺に惟喬親王が籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があります。

皇器地祖神社では惟喬親王を木地師の祖として祀っています。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師が用いるろくろを発明したというのです。

木地師資料館

上の写真は木地師資料館に安置されていた惟喬親王像です。
惟喬親王は大きな茶椀を持っています。
木地師がろくろを用い作った茶碗には漆を塗りますね。
それで法輪寺には惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったなどという伝説が伝えられているのかもしれません。

しかし、それだけではなく、漆は不老長寿にも関係していそうです。

昔、即身仏になることを目指した人が大勢いました。
今でもいくつかのお寺で即身仏が祀られていますね。

即身仏になる目的は、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れたとき、生き返ってその聖業に参加するためだといいます。
ひからびた即身仏が生き返ったという物語も残されています。
おそらく生き返るためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。

即身仏となるためには木食といって、五穀を絶ち、木の皮や実だけを食べるという修行を行いました。
その後、漆を飲んで入定したと言われます。
漆には防腐作用があり、死後腐りにくくするために漆を飲んだと言われます。

また立川流ではドクロに漆を塗ってドクロ本尊を作りますが、これを7年間抱いて寝ると8年目にドクロは命を持って語りだすとされています。
ドクロは生き返るということでやはり不老長寿と関係がありそうです。

うむむ~、すると菊慈童が飲んでいた露とは漆ではないか。
惟喬親王が法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が残されているのは、惟喬親王が即身仏やドクロ本尊と関係があるからではないか。
法輪寺で重陽の節句に菊慈童の舞が奉納されるのは、菊慈童と惟喬親王のイメージが重ねられているからではないか。
などと思えてくるのです。

惟喬親王は世継ぎ争いに敗れた政治的に不幸な身の上で、御霊として玄武神社や惟喬神社に祭られています。
つまり惟喬親王は怨霊だったのです。

菊水鉾にはそんな惟喬親王の霊が乗っているようにも思えるのです。


[2015/07/18 00:20] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

天得院 桔梗 『方広寺鐘銘事件と言霊信仰』 


天得院 花灯窓

天得院は東福寺の塔頭で正平年間(1346~1370年)に創建されました。
その後、豊臣氏より厚く崇敬され、1614年には豊臣秀頼(豊臣秀吉の子)が天得院の文英清韓(ぶんえいせいかん)に「方広寺の鐘銘を作ってほしい。」と依頼しています。
ところがこの鐘銘が原因で天得院は取り壊されることになってしまうのです。

天得院 白い桔梗

鐘銘には「国家安康君臣豊楽」とあり、これに徳川家康が激怒したのです。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hokoji-BellDetail-M1767.jpg(鐘銘の写真)
方広寺鐘楼 ↓
方広寺 鐘楼

「国家安康」は家康の名前を切っているじゃないか。
「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか。
けしからんーーーー!と。

豊臣氏は弁明のため、家康のもとに片桐且元と大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を派遣しました。
大蔵卿局は淀殿(豊臣秀頼の母)や秀頼の乳母だった人です。

家康は片桐且元には会わず、側近を通じて豊臣氏に対してメッセージを託しました。
そのメッセージとは、次のようなものでした。
①淀殿(秀頼の母)を人質として江戸へ送る。
②秀頼が江戸に参勤する。
③大坂城を出て他国に移る。
①~③のいずれかを選べ。

しかし家康は大蔵卿局には会い、こう言ったのです。
「秀頼は将軍・秀忠の娘婿だし、鐘銘のことなんて全然気にしてないよーん。」

大阪へ戻った且元は秀頼と淀殿にメッセージを伝えます。

↓大阪城3Ⅾマッピングで大阪城に映し出された女性。淀殿かな?

大阪城 3Ⅾマッピング 淀殿?

しかし秀頼や淀殿は大蔵卿局の報告を信じ、且元は嘘をついている、と考えました。
且元は大坂城を退去させられました。

家康は「且元に託したメッセージを無視するとは、やはり豊臣氏は幕府に反抗しているのだーっ。」と、大坂城攻撃を始めました。

大阪城 3Ⅾマッピング 武士

大阪城 3Ⅾマッピング 大阪城炎上

これが大阪の役で、1615年、秀頼は淀殿とともに自害し、豊臣家は滅びました。

↓ これはたぶん豊臣秀吉

大阪城 3Ⅾマッピング 豊臣秀吉

大蔵卿局も子の治長と共に自害しました。
天得院もこの前後に潰されたのでしょう。
その後、天得院は1789年に再建されました。

以前の記事、蘆山寺 桔梗 『物語は呪術の道具だった?』 に、私は次のようなことを書きました。
①和歌や物語は呪術の道具だった。
②和歌が呪術の道具として用いられたのは、言霊信仰・・・言葉には実現させる力があるとする信仰からくるのではないか。
③掛詞やもののななどの和歌のテクニックは、呪う相手に悟られないようにするために発達したのではないか。

方広寺鐘銘事件はこれらを裏付ける事件のように思えます。

一般的には家康が秀頼にいちゃもんをつけたと言われていますが、秀頼や、天得院の文英清韓は鐘銘の言葉によって本当に家康を呪おうとしていたのかも?

だとすると見破られはしましたが、「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」とはなかなかうまいこと言ったものです。


天得院 ・・・京都市東山区本町15-802

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[2015/07/16 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 『祇園祭とノアの方舟2』 


JR京都駅に降り立つと祇園囃子が聞こえてきました。もう祇園祭の季節なんですね。

↓ お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。


張り子の犬が出迎えてくれました。

京都駅ビル イルミネーション 猫

手前のフェンスがなかったらいいのにな~。

京都駅ビル イルミネーション 朝顔

京都駅ビル イルミネーション 寛永通宝

おっ。

祇園祭 イルミネーション8

山鉾巡幸が始まりました~。

祇園祭 イルミネーション4

こんなところで山鉾巡幸が見れるとは思いませんでした。

祇園祭 イルミネーション

祇園祭 イルミネーション2

祇園祭 イルミネーション3

祇園祭 イルミネーション6

祇園祭 イルミネーション7

祇園祭イルミネーション5

去年の記事、祇園祭 宵山 『祇園祭とノアの箱舟』 で、次のように書きました。
「祇園祭・山鉾のタペストリーって西洋的なものが多くてびっくりしますが、平安京とはキリスト教の聖地・エルサレムを漢字で表したものだとする説があります。
山鉾巡行が行われる7月17日はノアの方舟がアララト山に漂着した日で、祇園祭はそれを祝う行事だというのです。」と。

いわゆる日ユ同祖論(日本人とユダヤ人は共通の先祖を持つという説)といわれるものです。
共通の先祖を持っているかどうかはわかりませんが、日本神道とユダヤ教は似ているところがあります。
たとえば修験道では額に兜巾(ときん)をつけますね。

金峯山寺 蔵王堂 蛙飛行事 

ユダヤの人々は祈るとき額にヒラクティリー(テフリン)なるものをつけるのですが、
うむむ~、似ている~

佐伯好郎さんは秦氏はバルバシ湖の近くにあったキリスト教国・弓月王国出身でクリスチャンだったのではないかと説かれました。
応神天皇の御代、百済より弓月君(ゆづきのきみ)が大勢の民を率いて日本に帰化したとされます。
秦氏は京都の太秦を本拠地とし、太秦寺(広隆寺)を氏寺としていましたが
唐におけるネストリウス派キリスト教の寺院のことを大秦寺と言いました。
太秦と大秦は点があるかないかの違いしかありません。
そこで佐伯氏は太秦寺とはネストリウス派キリスト教寺院であったのではないかとされました。

しかしネストリウス派キリスト教が唐に伝わるのは431年のエフェソス公会議以降のことで
秦氏が日本へ渡来したのはそれ以前と考えられ、時代考証があわないとされています。

その後、佐伯氏は秦氏はネストリウス派キリスト教徒ではなく、原始キリスト教徒だったと自説を訂正しましたが
彼の説は認められることなく、現在に至っています。
私は佐伯氏の説を支持していますが~。

山鉾巡行が行われる7月17日がノアの方舟がアララト山に漂着した日であるとして日ユ同祖論を説かれたのは、マーヴィン・トケイヤーという方です。

私は秦氏はキリスト教徒だったと考えますが、祇園祭山鉾巡幸はノアの方舟とは関係ないかも、と思います。

日本では明治から新暦が用いられるようになり、それに伴って祭りの日にちが替えられたケースが多いのです。
祇園祭山鉾巡幸は旧暦でも7月17日に行われていたのか、それとも新暦になってから7月17日とされたのか、どちらなのかな、と思っていました。
ずっとわからなかったんですが、山鉾巡幸は旧暦6月17日に行っていたことがわかtりました。
新暦を用いるようになってから7月17日に改めたようです。


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[2015/07/14 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)