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松尾寺 皐月 『舎人親王は怨霊だった?』 


奈良県大和郡山市・・・松尾寺

松尾寺 皐月2

①神として祀られている人は怨霊である。

松尾寺は718年に舎人親王が42歳の厄除けと『日本書紀』完成を祈願して創建したと伝わっています。
舎人親王は720年に日本書紀を編纂したことで知られる人物です。
また舎人親王は京都の藤森神社の東殿で父・天武天皇とともに御祭神として祀られています。

日本では実在した人物を神として祀ることがありますが、神として祀られている人物はたいてい怨霊と恐れられた人です。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた人のことで、天災や疫病の流行はこのような怨霊の仕業でひきおこされると古には考えられていました。

また怨霊は神として祀り上げると守護神に転じるという信仰がありました。
このようにもともとは怨霊だったのが、今では神として祀られている人物としては
菅原道真、早良親王、井上内親王などが有名ですね。
舎人親王も怨霊だったのではないでしょうか?

松尾寺 皐月

②舎人親王は天然痘を患って亡くなった?

舎人親王の父親は天武天皇、母親は天智天皇の皇女・新田部皇女で大変高い身分の方でした。
しかし天武天皇の皇后・鸕野讚良(うののさらら/天智天皇の皇女。新田部皇女は異母姉妹。)の子である草壁皇子が皇太子とされ、舎人親王は即位とは無縁の人物でした。

舎人親王は735年に死亡しました。
このとき都では天然痘が大流行していました。
舎人親王はおそらく天然痘を患って亡くなったのではないかと思います。
(参考/東光院 萩 『天然痘を流行らせる神』 

舎人親王の第七皇子の大炊王は、758年に孝謙天皇より譲位を受けて淳仁天皇として即位しました。
孝謙天皇は前回の記事 西大寺 皐月 『幻の八角七重塔』 
でお話ししたように、西大寺に八角七重塔を建てようとした天皇です。

③舎人親王の子・淳仁天皇、天皇を廃される。

さて、天皇の子でない淳仁天皇がなぜ即位することができたのでしょうか。
それは当時の権力者・藤原仲麻呂の後押しを受けたこと、そして孝謙天皇が女性で結婚が許されず子供がなかったためです。
759年、淳仁天皇は父の舎人親王に崇道尽敬皇帝と追号しました。

ところが孝謙上皇と藤原仲麻呂の仲が険悪となり、764年、「藤原仲麻呂の乱」が起こります。
(前回の西大寺は藤原中麻呂の乱平定を祈願して創建された寺です。)

仲麻呂はこの戦いに敗れて斬首され、淳仁天皇は天皇を廃され淡路島へ流罪とされました。
そして孝謙上皇が再び天皇(称徳天皇)になったのです。

765年、淳仁天皇は淡路島脱出を試みますが、捕えられ、翌日亡くなりました。殺害されたものと考えられています。
そして長い間天皇と認められず廃帝と呼ばれていました。
この後、舎人親王の血をひくものが皇位につくことはありませんでした。

そのため舎人親王は怨霊になったと考えられたのではないかと思うのです。

松尾寺 皐月3 


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[2015/06/05 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)