訪れる人もまばらな十輪寺。
紅葉シーズンの秋ならもう少し参拝者が多いんですが。
紅葉の赤色に比べると地味ですが、出猩々(楓の一種)の赤い葉も美しくて好きです。
850年、文徳天皇が十輪寺の延命地蔵菩薩に染殿后(藤原明子)の安産祈願をしたと伝わります。
十輪寺の地蔵菩薩はお腹に腹帯を巻いておられ、染殿后が無事惟仁親王(これひとしんのう/のちの清和天皇)をお産みになられたことから腹帯地蔵尊と呼ばれています。
地蔵盆の8月23日のみけ開帳されるとのことで、残念ながら腹帯地蔵尊を拝むことはできませんでした。
文徳天皇が藤原明子の安産祈願をしたと伝わる寺はほかにも奈良の帯解寺、京都・北野の清和院、京都寺町通りの染殿院などがあり、いずれも地蔵菩薩をご本尊としています。
惟仁親王には惟喬親王(これたかしんのう)という異母兄がいました。
惟喬親王についての記事は今までにも結構たくさん書いています。
http://kntryk.blog.fc2.com/?q=%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B&charset=utf-8惟喬親王の母親は紀静子でした。
そして文徳天皇は惟仁親王ではなく惟喬親王の方を立太子させたいと考えており、これを源信に相談しています。
源信は藤原良房を憚って天皇を諌めたそうです。
どちらの孫を立太子させるかで紀名虎(紀静子の父)と藤原良房(藤原明子の父)がバトルを繰り広げたようすが平家物語などに記されています。
それによれば、高僧の祈祷合戦や相撲の勝敗などを繰り返した末に藤原良房が勝利したとあります。
実際には紀名虎は惟仁親王が生まれる前に亡くなっているので、平家物語の記述はフィクションなんですが、紀氏と藤原氏がにらみあっていたことは事実でしょう。
政治的に不幸だった惟喬親王は惟喬神社や玄武神社に御霊として祀られています。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことです。
つまり惟喬親王は怨霊だったのですね~。
私は十輪寺や帯解寺や清和院の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊を封じ込めたものではないかと考えています。
(清和院の地蔵菩薩は惟喬親王ではなく、清和天皇の姿を映したものと伝わってはいますが。これについてはまた改めて考察を書きます。)
惟喬親王の怨霊を恐れた藤原氏は惟喬親王の怨霊を地蔵菩薩像の中に封じ込め、神としてあがめたのではないかと思うのですね。
陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀ればご利益を与えてくださる和霊に転じると考えたそうです。
すなわち怨霊である惟喬親王を慰霊して、和霊に転じさせたのが、帯解寺や清和院、染殿院などにある地蔵菩薩だと思うのです。
このように見てみると寺伝に文徳天皇が藤原明子の安産祈願をしたとあるのは、ちょっと疑わしいなと思ってしまいます。
十輪寺は文徳天皇の勅願寺でのち藤原北家の菩提寺になったと伝えられていますが、最初からf藤原北家の菩提寺として創建されたのではないでしょうか。
文徳天皇の勅願寺だといいますが、文徳天皇の名前を借りただけだと思います。
十輪寺は別名を「なりひら寺」と言い、一時在原業平が住み、塩焼を楽しんだといわれています。
↓ 境内の裏山には業平が塩焼に用いたという塩釜があります。

でも、これも事実とは思えないです。
というのは在原業平は惟喬親王の寵臣で、藤原氏とは敵対していたので
藤原北家の菩提寺である十輪寺に業平が住んでいたとは考えられないのです。
私は十輪寺の地蔵菩薩とは惟喬親王の姿を映したものだと考えているので、そういうところから、惟喬親王の寵臣であった在原業平が住んでいたなどという物語が創作されたのではないでしょうか。
本堂は鳳輦の形をしていて、とても珍しいものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E8%BC%A6現在では祭礼に用いる鳳凰の飾りのある神輿のことをいいますが、古には鳳輦とは天皇の乗り物のことをいいました。
天皇になれなかった惟喬親王に、せめてあの世では天皇になってもらおうということでこのような形のお堂が作られたのではないでしょうか。
十輪寺・・・京都市西京区大原野小塩町481
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