fc2ブログ














十輪寺 出猩々 『腹帯地蔵の正体』 



訪れる人もまばらな十輪寺。
紅葉シーズンの秋ならもう少し参拝者が多いんですが。

紅葉の赤色に比べると地味ですが、出猩々(楓の一種)の赤い葉も美しくて好きです。

十輪寺 本堂


850年、文徳天皇が十輪寺の延命地蔵菩薩に染殿后(藤原明子)の安産祈願をしたと伝わります。
十輪寺の地蔵菩薩はお腹に腹帯を巻いておられ、染殿后が無事惟仁親王(これひとしんのう/のちの清和天皇)をお産みになられたことから腹帯地蔵尊と呼ばれています。
地蔵盆の8月23日のみけ開帳されるとのことで、残念ながら腹帯地蔵尊を拝むことはできませんでした。

文徳天皇が藤原明子の安産祈願をしたと伝わる寺はほかにも奈良の帯解寺、京都・北野の清和院、京都寺町通りの染殿院などがあり、いずれも地蔵菩薩をご本尊としています。

惟仁親王には惟喬親王(これたかしんのう)という異母兄がいました。
惟喬親王についての記事は今までにも結構たくさん書いています。
http://kntryk.blog.fc2.com/?q=%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B&charset=utf-8

惟喬親王の母親は紀静子でした。
そして文徳天皇は惟仁親王ではなく惟喬親王の方を立太子させたいと考えており、これを源信に相談しています。
源信は藤原良房を憚って天皇を諌めたそうです。

どちらの孫を立太子させるかで紀名虎(紀静子の父)と藤原良房(藤原明子の父)がバトルを繰り広げたようすが平家物語などに記されています。
それによれば、高僧の祈祷合戦や相撲の勝敗などを繰り返した末に藤原良房が勝利したとあります。

実際には紀名虎は惟仁親王が生まれる前に亡くなっているので、平家物語の記述はフィクションなんですが、紀氏と藤原氏がにらみあっていたことは事実でしょう。

十輪寺 鐘楼

政治的に不幸だった惟喬親王は惟喬神社や玄武神社に御霊として祀られています。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことです。
つまり惟喬親王は怨霊だったのですね~。

私は十輪寺や帯解寺や清和院の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊を封じ込めたものではないかと考えています。
(清和院の地蔵菩薩は惟喬親王ではなく、清和天皇の姿を映したものと伝わってはいますが。これについてはまた改めて考察を書きます。)
惟喬親王の怨霊を恐れた藤原氏は惟喬親王の怨霊を地蔵菩薩像の中に封じ込め、神としてあがめたのではないかと思うのですね。

陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀ればご利益を与えてくださる和霊に転じると考えたそうです。
すなわち怨霊である惟喬親王を慰霊して、和霊に転じさせたのが、帯解寺や清和院、染殿院などにある地蔵菩薩だと思うのです。

このように見てみると寺伝に文徳天皇が藤原明子の安産祈願をしたとあるのは、ちょっと疑わしいなと思ってしまいます。
十輪寺は文徳天皇の勅願寺でのち藤原北家の菩提寺になったと伝えられていますが、最初からf藤原北家の菩提寺として創建されたのではないでしょうか。
文徳天皇の勅願寺だといいますが、文徳天皇の名前を借りただけだと思います。

十輪寺は別名を「なりひら寺」と言い、一時在原業平が住み、塩焼を楽しんだといわれています。

↓ 境内の裏山には業平が塩焼に用いたという塩釜があります。

十輪寺 塩釜

でも、これも事実とは思えないです。
というのは在原業平は惟喬親王の寵臣で、藤原氏とは敵対していたので
藤原北家の菩提寺である十輪寺に業平が住んでいたとは考えられないのです。

私は十輪寺の地蔵菩薩とは惟喬親王の姿を映したものだと考えているので、そういうところから、惟喬親王の寵臣であった在原業平が住んでいたなどという物語が創作されたのではないでしょうか。

十輪寺 本堂2 
本堂は鳳輦の形をしていて、とても珍しいものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E8%BC%A6
現在では祭礼に用いる鳳凰の飾りのある神輿のことをいいますが、古には鳳輦とは天皇の乗り物のことをいいました。
天皇になれなかった惟喬親王に、せめてあの世では天皇になってもらおうということでこのような形のお堂が作られたのではないでしょうか。


十輪寺・・・京都市西京区大原野小塩町481

いつも応援ありがとうございます♪


写真(風景・自然) ブログランキングへ

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/06/29 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

池田城 百合 『池田勝正が罰せられなかった理由』 




池田城跡の百合が満開でした。(6月14日)

池田城 百合3

とてもきれいなんですが、ちょっと窮屈そう~。

池田城 百合2   

↑ 池田城跡に建てられた模擬天守です。
でも、池田城はこのような天守を持つ城ではなかったようで、模擬天守内に展示されていた再現図には平屋建ての切妻屋根の建物が描かれていました。

池田城の築城年代ははっきりとはわかっていませんが、1336年の古文書に「池田城」とあり、このころ築かれたのではないかとする説があります。
代々、池田氏が城主を務めました。

以下、寝言だと思って読んでください~。(汗)

1568年、池田勝正は織田信長に抵抗し、池田城は織田軍の攻撃を受けて落城しました。

ところが信長は池田勝正を罰せず、それどころか加増されて領地安堵しています。
なんで信長は勝正を罰さなかったのでしょうか?

池田氏といえば、織田信長の乳母・養徳院の父は池田政秀、夫は池田恒利という人でした。
信長は養徳院を敬愛していたと伝わります。
養徳院は池田氏の女性だったわけですが、美濃池田氏で、摂津池田氏とは別です。

しかし遡っていくと全く関係がないわけでもないんですね。

源頼光(土蜘蛛退治をしたという伝説が残る人です。)の子孫・源頼政(鵺退治をしたという伝説が残る人です。)の弟・源仲光の曾孫(ややこしい~)の池田泰継の代に摂津池田氏と美濃池田氏に分かれたと言われているのです。

古いことなので事実かどうかわかりませんが、信長にはそういう認識があり、敬愛する養徳院の同族だということで罰しなかったなんてことがあるかも?ないかも?

池田城 百合

池田城跡公園・・・池田市城山町3-46

いつも応援ありがとうございます♪


写真(風景・自然) ブログランキングへ

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/06/27 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

城北公園 花菖蒲 鴨 『八咫烏(鴨建角身命)の正体』 


大阪市生江 城北公園

城北公園 花菖蒲 鴨2

城北公園の花菖蒲園では鴨が気持ちよさそうに泳いでいました。
城北公園 花菖蒲

鴨という名前を持つ神様がいます。
鴨建角身命(かもたけつぬのみこと)といい、京都の下鴨神社に祭られている神様です。

↓ 下鴨神社

下鴨神社 蹴鞠始め2 

鴨建角身命は賀茂氏の始祖とされています。

初代神武天皇は日向に住んでいましたが、あまりに国の端であるということで東征し、機内入りをめざしました。
そして河内国へ上陸し、地元の豪族・ナガスネヒコの軍と戦いますが、敗れます。
そこで神武天皇はいったん南に迂回して紀州から上陸することにしました。
神武は熊野を北上しますが、この際、鴨建角身命が八咫烏となって現れ、神武天皇を道案内しました。

咫は大きさを示す単位で、八は一般には大きな数字を表すと考えられています。
八咫烏とは大きな烏という意味だとされています。

しかし梅原武さんは「八は復活する数字」だとし、「八角墳は死者の復活を願って作った古墳、八角堂は死者の復活を祈って作ったお堂のことではないか」とおっしゃっています。

そういえば、八咫鏡は天岩戸にこもった天照大神を復活させた鏡のことですね。

神武天皇を道案内したのは八咫烏ですが、神武の先祖にあたるニニギという神が高天原から葦原中国へ天下る際、猿田彦という神が道案内しています。

猿田彦は天狗の姿をしています。
そしてニニギを道案内した神なので、祭りの行列では先導役とされることが多いです。
↓ 下の写真は大阪市平野区杭全神社の平野夏祭の猿田彦神です。

杭全神社 夏祭 猿田彦 

猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記述があります。
これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命です。
天は高天原、国は葦原中國のことなので、「天照国照彦」とはまさしく「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味になります。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命という神名は先代旧事本紀の記述で、古事記や日本書紀では単に饒速日命(ニギハヤヒ)となっています。
この天照国照彦火明櫛玉饒速日命は男神で、本当の天照大神ではないかという説があります。
天岩戸にこもった天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味をもって天岩戸から出てきますが、女神のストリップダンスに興味を持つのは男神だ、というのです。

さらに天照国照彦火明櫛玉饒速日命は物部氏の祖神とされているので、初代神武以前に物部王朝があったとする説もあります。

猿田彦と八咫烏はどちらも天孫の道案内をしているところから、同一神ではないかと私は考えます。

八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多いです。
つまり、八咫烏とは復活した太陽神・ニギハヤヒなのではないかと思います。

神武以前に物部王朝があったとすれば、神武が初代天皇となったとき、物部王朝の王族は神武に服従するか、殺されるか、または未開の地へ逃げるなどしたことでしょう。
その物部王朝の祖神であるニギハヤヒ=猿田彦=八咫烏は神武に祟りこそすれ、神武の道案内などするはずがない、と思われるかもしれません。

しかしウィキペディアの祟り神の項目には次のように記されています。

「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。」

つまり、猿田彦や八咫烏とはニギハヤヒという祟り神を手厚く祀り上げることで、協力な守護神に転じさせた神のことではないかと私は考えています。

城北公園 花菖蒲 鴨

それにしても鴨建角身命は鴨なのに、なぜ烏に化身したんでしょうね?




まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村



[2015/06/25 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

千早赤坂村 棚田 夕景 『楠木正成は怨霊だった』 


 千早赤阪村 棚田

千早赤阪村の棚田に夕陽が沈んでいきました。

赤坂城跡

棚田のそばには「赤坂城跡」と記された石碑が建てられていました。
赤坂城とありますが、赤坂城と呼ばれる城は上赤坂城(千早赤阪村上赤阪)と下赤坂城(千早赤阪村森屋)がありました。
この石碑が建てられているのは下赤坂城があった場所です。
どちらの城も楠木正成が建てたものです。

1331年、後醍醐天皇は倒幕を志して笠置山で挙兵しました。
後醍醐天皇に加担した楠木正成はこの地に下赤坂城を築いて挙兵しましたが、にわかづくりの下赤坂城は落城してしましました。

正成は金剛山に潜伏し、下赤坂城を奪還しますが再び落城します。
その後、上赤坂城・千早城を本拠として楠木軍は幕府軍と戦い続けました。

1333年、鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇が建武の親政を行います。
楠木正成は後醍醐天皇の信任をえて建武の親政を支えました。
しかし不公平な恩賞に不満が出るなど建武の親政はうまくいきませんでした。
そんな中、足利尊氏が離反します。
後醍醐天皇は尊氏討伐を命じます。
1336年、尊氏は『摂津豊島河原の戦い』で新田軍に敗れ九州に下りますが、勢力を盛り返し光厳上皇を奉じてふたたび京に向かいます。
新田義貞・楠木正成の軍は『湊川の戦い』で尊氏軍と戦いますが敗れ、楠木正成と弟の正季とともに自害しました。

勝利した尊氏は室町鎌倉を開き、光厳上皇の兄の光明天皇が即位します。(北朝)
一方、後醍醐天皇は吉野に南朝を開きましたが、南朝はしだいに衰退し、1392年に南朝は解消されました。

南木神社 鬼瓦

上の写真は千早赤阪村にある建水分神社 の摂社・南木神社の鬼瓦ですが、武士の顔になっていますね。
平成16年に南木神社社殿改修工事を行っていますので、そのときに造られたものではないでしょうか。
南木神社は楠木正成をお祭りする神社なので、楠木正成の顔を鬼瓦にしたのだと思います。
創建は正成が亡くなった翌年の1337年です。
正成は湊川神社(神戸市中央区)の御祭神でもありますね。

古には神と怨霊は同義語であったといわれます。
怨霊が祟らないように祀ったのが神であるというのです。
正成は死後怨霊になったと考えられていたではないでしょうか。
太平記にも正成の怨霊が美女に化けて大森彦七盛長(湊川の戦いで足利側についていた武将)を襲ったという物語が記されているそうです。

ちはやあかさかむら ゆうけい 
 

いつも応援ありがとうございます♪


写真(風景・自然) ブログランキングへ

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
 
[2015/06/23 00:21] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

大鳥大社 花菖蒲 『鳥になったヤマトタケル』 



大鳥大社の花菖蒲を見に行ってきました。

大鳥大社 花菖蒲

拝殿 ↓

大鳥大社 拝殿

お賽銭箱には鳳の紋が。(鶏みたいにも見える~)↓

大鳥大社 神紋

大鳥大社の御祭神はヤマトタケルです。
ヤマトタケルは父に命じられて九州に向かい、女装してクマソタケル兄弟の宴会にしのびこみ兄弟を殺しました。
(堀五郎さんの『BL新日本史』によれば、ヤマトタケルはクマソタケルとベッドインし気がゆるんだところをグサッと刺したとか)
その後、出雲タケルを騙して殺し、さらに東国の蛮族を平定しました。

ヤマトタケルは次に伊吹山の神を倒しにいきますが、神の化身の白い大猪に氷雨を降らされ病を患ってしまいます。
ヤマトタケルは大和をめざしますが、途中、能煩野(三重県亀山市〉でなくなりました。
遺体は能煩野に葬られましたが、墓からヤマトタケルの魂が白鳥となって飛んでいきました。
白鳥は大和国琴引原、河内国古市を経て、最後に大鳥の地に舞い降りました。
そこでこの地にヤマトタケルを祀る神社を建てたといわれています。

白鳥陵(ヤマトタケルのものと伝わる墓)は奈良県御所市富田、大阪府羽曳野市軽里(軽里大塚古墳)のほか、能煩野など各地にあります。

軽里大塚古墳は古市古墳群の中で7番目に大きな前方後円墳です。
これら巨大な前方後円墳は地上から見たのではどんな形をしているのか、全くわかりません。
前方後円墳は鳥の目線を意識して作られているのではないでしょうか。
ヤマトタケルの魂が白鳥になって飛び立ったとあるように
古の人々は死んだ人の霊は鳥になると考えていたのではないかと思うのです。

大鳥大社 子猫


いつも応援ありがとうございます♪


写真(風景・自然) ブログランキングへ

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


大鳥大社・・・堺市西区鳳北町1-1-2

[2015/06/21 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

井手 源氏蛍 『蛍になった源頼政』 



井出 源氏蛍

京都府綴喜郡井出町へ源氏蛍を見にいってきました。
蛍の写真はこれまでにも何回か挑戦したのですが、待てど暮せど蛍が現れなかったり、ひどくノイジーな写真になったりと失敗ばかり。
蛍の写真を撮るのって難しい~。

井出 源氏蛍2

野坂昭如さんの小説は「火垂るの墓」というタイトルですね。
蛍は火垂るとも記したのでしょうか。
火が垂れるとはなんとなくブキミ~。
そういえば高校のとき、初めて蛍を見て「人魂が出たあ~」と大騒ぎしたことを思い出します。(アホ)

でも昔の人も蛍を人魂だと思っていたのではないかと思います。

今回撮影したのは源氏蛍ですが、源氏蛍という名前の由来は平安時代の武将・源頼政からくるという説があります。
源頼政は平清盛の信頼を得て平家政権下で出世した人物でしたが、1180年に以仁王(後白河天皇の皇子)と共謀して平家打倒を計画し、宇治平等院の戦いで敗れて自害しました。
その頼政の亡霊が蛍となって戦うという伝説があるとウィキペディアには記されています。

平安時代の女流歌人の和泉式部はこんな歌を詠んでいます。

物おもへば 沢の蛍も 我が身より あくがれいづる 魂(たま)かとぞみる
(あなたが恋しくて物思いにふけっていると、沢の蛍が私の肉体からさまよい出た魂のように思えてきます。)


和泉式部の歌では蛍とは和泉式部自身の生霊だということになっていますね。

魂(たま)は玉とも記しましたが、そういえば、この付近には玉川という川もあります。(写真の川は南谷川)
人の魂に喩えられていた蛍が飛び交う川だったので、玉川というんだったりして。

いつも応援ありがとうございます♪


写真(風景・自然) ブログランキングへ

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/06/19 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

立杭 登り窯 紫陽花 能勢 棚田 『ガマって何だろう?』 



播州清水寺に行くバスの車窓からとても素敵なものを発見したので、帰りに寄ってみることに。
素敵なものとはこれ。↓

立杭 登り窯4

陶器を焼くための登り窯です。
登り窯って見たことがなかったので、バスの車窓からこれを見つけたときはテンションあがりました!
お寺や神社の写真が多いですが、こういう生活感のある被写体も大好きです。
たぶん、こちらのページで紹介されている→http://www.tanbayaki.com/about/kama.html
明治28年に造られた現存する最古の窯だと思うんですが、違うかな?

立杭は丹波立杭焼の産地なのですね。
起源は平安時代にまでさかのぼるとか。
慶長16年(1611)ごろより朝鮮式半地上の「登り窯」が用いられるようになったそうです。


立杭 登り窯2 

立杭 登り窯 
登り窯を見ていて、私は能勢の棚田を思い出しました。

能勢 棚田 
午前2時半に起きて能勢の棚田まで日の出を見にいったのに、曇っていて太陽は顔を出しませんでした~。
上の写真はイツワリの朝日です。

能勢の棚田には川の上に石を積んで作った地下排水溝があります。
そしてその石の上に粘土質の土を盛って棚田が作られているそうです。
築造されたのは文禄(1591年)以前にまで遡ると考えられています。

ネットでこの地下排水溝の仕組みを描いたイラストなどないかと探してみましたが見つかりませんでした。
でも排水溝というからには、石積みの暗渠のようになっているのでしょう。

この地下排水溝は『ガマ』と呼ばれていますが、なぜ『ガマ』というのでしょうか?
沖縄では鍾乳洞のことをガマといいますが、空洞のことをガマというのかも?

登り窯も『ガマ』ですが、その構造はやはり空洞になっています。

立杭 登り窯3 
 
いつも応援ありがとうございます♪



にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/06/17 00:00] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

播州清水寺 青空 白雲 『法道仙人の正体とは』 


JR相野駅よりバスに乗って播州清水寺へと向かいます。
入山料はバスの中で運転手さんに渡すというシステム。
お寺の栞は運転手さんが配ってくれます。

仁王門の仁王様が出迎えてくれました。

播州清水寺 仁王 吽形 


播州清水寺 仁王 阿形

播州清水寺の仁王門はガラス(ポリカかも)張りになっていて、青空と白い雲が写っていました。


播州清水寺 講堂

1800年前、景行天皇の御代に天竺(インド)の僧・法道が創建したと伝わります。
法道さんってどこかで聞いた名前だなあ?
そうそう、京都府福知山市の観音寺を創建したのもこの法道さんでした。
観音寺 柏葉紫陽花 『空也と鉢叩き』 

観音寺を法道が創建したのは720年ということでした。
その法道が1800年前に播州清水寺を創建したということは、法道は500歳以上もの長寿だったということになってしまい、ちょっと信じられません。
第一、仏教が日本に伝来したのは6世紀とされていますし、1800年前の日本に仏教寺院があったとは考えにくいです。

私は法道とは実在した人物ではないと考えています。
法道は牛頭天王と一緒に日本にやってきたといわれていますが、法道とは牛頭天王そのものなのではないかと思うのです。

牛頭天王とは京都の八坂神社で祀られている神様のことです。

八坂神社の寺伝によれば、「656年、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られるスサノオを山城国愛宕郡八坂郷に祀った。」といています。

ところが兵庫県姫路市の広峯神社(兵庫県姫路市広嶺山52)の記録には「869年疫病が流行り、藤原基経が播磨(播州)国の牛頭天王を都に勧請した。 」とあるのです。

牛頭天王が播磨から都へ遷る際に立ち寄ったとされる場所も複数あります。
(祇園神社/神戸・難波八坂神社/大阪・岡崎神社/京都・元祇園梛神社/京都 など)
なので、牛頭天王の本社は広峯神社のほうではないかと思います。
祇園祭 後祭 花笠巡行 

明治まで神仏は習合して信仰されていました。
京都の八坂神社も平安時代には観慶寺(別名 祇園寺)と呼ばれていました。

八坂神社や広峯神社の御祭神・牛頭天王はもともとは仏教の天部のひとつで、インドのインドラ神の化身とされています。
この牛頭天王の信仰は4世紀ごろには中国に伝わり、朝鮮を経て日本に伝わったと考えられます。

法道はインドで生まれ、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされますが、法道とは牛頭天王そのものであり、「インドで生まれ中国・朝鮮半島を経由して日本へ渡った」とうのは牛頭天王の信仰が伝わっていくさまを擬人化して表現したものではないでしょうか。

播磨(播州)には法道にゆかりのある寺が多いそうですが、それは播磨において広峯神社の牛頭天王が厚く信仰されていたことを物語るものではないかと思います。


播州清水寺  

播州清水寺・・・兵庫県加東市平木1194

いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/06/15 12:44] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

しんあさひ風車村 花菖蒲 ルピナス 『ダイダラボッチは風の神?』 



しんあさひ風車村へやってきました。

風車村 風車

↑ なんという花なのかわからないんですが、すごくきれいでした。

風車村 花菖蒲

花菖蒲園も満開。

風車村 ルピナス

ルピナスも見頃でした。
上の写真はルピナス園の写真に1枚目の風車を合成したものです。(汗~)

↓ 日本の風の神といえば俵谷宗達の風神雷神屏風図が有名ですね!

風神雷神図屏風(複製) 建仁寺 
風神雷神屏風図 複製 (建仁寺)


向かって右が風神ですが、両手で大きな袋を持っています。
この袋を鞴(ふいご)のように上下させて風を起こすのでしょう。

金属の精錬・加工に用いる、足で踏んで空気を送る鞴のことを踏鞴(たたら)といいます。
踏鞴といえば私はダイダラボッチという伝説の巨人を思い出します。
柳田國男さんは「ダイダラボッチとは大太郎法師の意味ではないか」としておられますが、私はダイダラボッチとは大踏鞴法師という意味ではないかと考えています。

ジブリのアニメ「もののけ姫」にもデイダラボッチ(ダイダラボッチの別名)が登場していましたね。
http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%81
上記サイトには「ジブリのアニメ映画『もののけ姫』に登場するシシ神の夜の姿。 月の満ち欠けと合わせて生と死を繰り返し、生命の与奪を司る古の神。 」と説明があります。

「もののけ姫」ではデイダラボッチはタタラ場(たたら製鉄をする場所)に現れますが、「もののけ姫」の宮崎駿監督もデイダラボッチとは踏鞴の神だという認識を持っておられるのでしょう。

でも私が考えるダイダラボッチとは少しイメージが違っていました。
(もちろん物語なのでどんな姿のダイダラボッチであっても全然構わないのですが)

踏鞴の神とはたたら製鉄の神のことだと思うのです。
たたら製鉄では片目をつぶって火を見るため、片目を失明することが多かったそうです。
天津麻羅という鍛冶の神がいますが、麻羅とは目占の意味で、一つ目の神だと考えられています。
ダイダラボッチも一つ目なのではないでしょうか。

一つ目の巨人とは台風のことです。

ダイダラボッチが富士山や琵琶湖を作ったなどという伝説があります。
地形をつくるのは地殻運動が主だと思いますが、古の人は風が地形をつくると考えていたのではないでしょうか。

こんな歌もあります。

♪ 雨が降れば 小川ができ 風が吹けば 山ができる (「山賊の歌」作詞/ 田島弘)

風車村 夕陽

しんあさひ風車村・・・滋賀県高島市新旭町藁園336

いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[2015/06/13 00:51] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)

もりやま芦刈園 紫陽花 比叡山 『猿はなぜ比叡山の神とされたのか』 




もりやま芦刈園に行ってきました。
たくさんの種類のあじさいがあり、遠くには三上山や比叡山も望めます。

↓ 紫陽花の向うに見えているのが比叡山です。

もりやま芦刈園 紫陽花 比叡山 

前回の記事、猿石 石舞台 夕景 『猿石は何を現したものなのか?』  において、山王権現とは比叡山の神だと書きました。
山王権現の神使は猿だとされています。

滋賀県坂本にある日吉大社はもともとは日枝山(比叡山の古名)の山頂にあったのを、崇神天皇7年に日枝山のふもとの現在地に移したのだそうですが、
日吉大社の境内には神猿舎があって猿を飼っているほか、西本宮楼門には猿の像が置かれています。

日吉大社 神猿 

京都市東山区にある新日吉神宮にも猿の彫刻があります。

新日吉神宮 神猿 

京都市左京区にある延暦寺の塔頭・赤山禅院の拝殿の屋根の上にも猿の彫刻が置かれています。

赤山禅院 神猿

赤山禅院の猿の彫刻は御所東北の猿が辻の猿に対応するものだそうですが、比叡山の神使いが猿であることとも関係があるのではないかと思います。

そもそも比叡山の神・山王権現の神使いが猿だとされているのはなぜなのでしょうか。

日本のたいていの山には猿が生息しています。
猿は人間よりもかなり小さいですが、姿が人間に似ています。
古の人が山中で猿に出会い、小さな人間の姿をした山の神だと考えたとしてもおかしくありません。
コロボックルの正体は実は猿だったりして?

猿は干支の申に通じます。猿=申
神という字の構造は 示+申 で、申(猿)で示される存在が神だということでしょうか?

もりやま芦刈園 あじさい 風車 
草津の風車も見えていました。
風の強い日でしたが、風車は回っていませんでした。
止まっちゃってるんでしょうか?

もりやま芦刈園・・滋賀県守山市杉江町

いつも応援ありがとうございます♪


写真(風景・自然) ブログランキングへ

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/06/11 00:00] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)