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猿石 石舞台 夕景 『猿石は何を現したものなのか?』 



今回は芸術性のない(いつも?)説明的な写真ばかりですが、ご容赦を~~。

近鉄飛鳥駅の東北500mほどのところに吉備姫王墓という古墳があります。
吉備姫王墓を囲む柵の隙間から中をのぞき込むと、猿石と呼ばれる石が4体あります。

猿石 僧 男 

猿石 女 山王権現 

4体の猿石は向かって左から、男・僧(法師)・山王権現・女と呼ばれています。
栢森から高取城に向かう道にも猿石と呼ばれる石像があるのですが、それについてはまたの機会にご紹介できればと思います。

吉備姫王墓の猿石は1702年(元禄2年)に平田村池田の田から掘り出されて、吉備姫王墓に置かれたそうで、僧以外は後ろ側にも顔が彫られています。
柵の中に入れないので、猿石の背面を見ることはできないのですが、飛鳥資料館の庭に猿石のレプリカがあって、背面を見ることができます。

猿石 男 後ろ

男の背面は天邪鬼のように見えます。
天邪鬼とは日本神話に登場するアメノワカヒコのことだと言われています。
アメノワカヒコとアヂスキタカヒコネという神は容姿がそっくりだとされています。
すると猿石の男とはアヂスキタカヒコネ?

上の写真ではわかりにくいので、猿石・女は正面の写真(飛鳥資料館のレプリカ)も貼っておきます。

猿石 女

胸があるので女性のように見えますね。

猿石 女 後ろ

女の背面は鳥のように見えます。

16代仁徳天皇の異母妹に女鳥王(めどりのみこ)という方がいて、仁徳天皇の異母妹の速総別王(はやぶさわけのみこ)と結婚しています。
女鳥王は次のような歌を詠んでいます。

雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別(はやぶさわけ) 鷦鷯(さざき)取らさね

仁徳天皇は和風諡号を大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)といいました。
速総別王を隼に、仁徳天皇をささき(ミソサザイという小さな鳥)に喩え、速総別王に仁徳天皇を殺せ、と歌ったわけです。

この歌を聞いた仁徳天皇はふたりを捕えて殺してしまいました。

隼は目の後ろに黒い筋状の模様があります。
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Saker_Falcon_profile_shot.jpg
猿石・女の背面の鳥の像は目の後ろに筋状の模様があり、隼のようにも見えるのですがどうでしょうか?

そういうわけで、女の前面は女鳥王、背面は速総別王ではないかなあ、と思ったりします。

山王権現 後ろ

山王権現の後ろ姿は角が生えた鬼のようです。

山王権現とは比叡山の神のことですが、なぜこの像は山王権現と呼ばれているのでしょうか?
山王権現はこの像のような姿をしていると考えられていたのかな?
前面が神、後ろ面が鬼ということなのかも。

猿石 僧 後ろ

僧のみ、背面に別の顔が彫られていません。

みなさまは猿石とは何を現したものだと思いますか?

石舞台 夕陽 
石舞台から、二上山に日が沈んでいくのがみえました。


吉備姫王墓・・・奈良県高市郡明日香村平田

[2015/06/09 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

薬師寺 ひめじおん 『スサノオは星の神だった』 

薬師寺 青空
塔百景48

奈良西の京の大池から、薬師寺の金堂・西塔(向かって左)・東塔(向かって右)が見えています。
(現在、西塔は修理中で写真のような景観ではありません。)
よく見ると、向かって左手には小さく東大寺大仏殿が、西塔と東塔の間には興福寺の五重塔が見えています。

薬師寺の金堂にはブロンズの薬師三尊像が安置されています。
写真はこちら → http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3b/Triad_of_Yakushi_Nyorai.JPG
 

中央に鎮座しておられるのが中尊の薬師如来で、中尊の左手側(向かって右)が日光菩薩、右手側(向かって左)が月光菩薩です。

私は、この配置は陰陽道の宇宙観を表したものではないかと考えています。
陰陽道では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするそうです。
すると中尊の薬師如来は星を神格化したみほとけだということになります。

さらに記紀神話に次のような話があります。

イザナギが禊ぎをしたところ、左目を洗ったときに天照大神が、右目を洗ったときに月読命が、鼻を洗ったときにスサノオが生まれた。

この話も陰陽道の宇宙観をふまえたもだと考えられます。

左・・・・太陽の定位置・・・天照大神
右・・・・月の定位置・・・・・月読命

すると、イザナギの顔の中心、鼻から生まれたスサノオは星の神だということになります。

日本神話には星の神はたった一柱、天津甕星しか登場しません。
夜空には数えきれないほどの星があるのに、星の神がたった一柱しかいないというのは不自然です。
星の神は抹殺されたのではないかとも言われています。

船場俊昭さんは次のようにおっしゃています。

スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味ではないかと。

それでは抹殺された星の神を祀っていたのは誰なのでしょうか。
「雲陽誌」という書物によれば、物部氏の祖神のニギハヤヒは星の神だと記述があります。
記紀(古事記と日本書紀)にはニギハヤヒが星の神であるという記述はありませんが、私は「雲陽誌」の記述は正しいと思います。

というのは、ニギハヤヒは大阪府交野市の磐船神社(交野市私市9丁目19-1)があるあたりに天下ったというのですが、その付近には星田・星ヶ丘など星のつく地名が多く、流れる川の名前も天の川といい日本の七夕伝説発祥の地だといわれているからです。

磐船神社 天の磐船  

上の写真は磐船神社の御神体の「天の磐船」です。

記紀には次のように記されています。

初代神武天皇は日向に住んでいましたが、あまりに国の端であるということで東征して機内にやってきました。
そして神武は、地元の豪族でニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコと戦いました。
ニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に帰順しました。

神武以前、機内には物部王朝があったとする説もあります。
抹殺された星の神を祀っていたのは物部氏ではないでしょうか。

薬師寺 ひめじおん 
塔百景49

ひめじおんだと思うのですが、違うかな?

薬師寺・・奈良県奈良市西ノ京町457

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[2015/06/07 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

松尾寺 皐月 『舎人親王は怨霊だった?』 


奈良県大和郡山市・・・松尾寺

松尾寺 皐月2

①神として祀られている人は怨霊である。

松尾寺は718年に舎人親王が42歳の厄除けと『日本書紀』完成を祈願して創建したと伝わっています。
舎人親王は720年に日本書紀を編纂したことで知られる人物です。
また舎人親王は京都の藤森神社の東殿で父・天武天皇とともに御祭神として祀られています。

日本では実在した人物を神として祀ることがありますが、神として祀られている人物はたいてい怨霊と恐れられた人です。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた人のことで、天災や疫病の流行はこのような怨霊の仕業でひきおこされると古には考えられていました。

また怨霊は神として祀り上げると守護神に転じるという信仰がありました。
このようにもともとは怨霊だったのが、今では神として祀られている人物としては
菅原道真、早良親王、井上内親王などが有名ですね。
舎人親王も怨霊だったのではないでしょうか?

松尾寺 皐月

②舎人親王は天然痘を患って亡くなった?

舎人親王の父親は天武天皇、母親は天智天皇の皇女・新田部皇女で大変高い身分の方でした。
しかし天武天皇の皇后・鸕野讚良(うののさらら/天智天皇の皇女。新田部皇女は異母姉妹。)の子である草壁皇子が皇太子とされ、舎人親王は即位とは無縁の人物でした。

舎人親王は735年に死亡しました。
このとき都では天然痘が大流行していました。
舎人親王はおそらく天然痘を患って亡くなったのではないかと思います。
(参考/東光院 萩 『天然痘を流行らせる神』 

舎人親王の第七皇子の大炊王は、758年に孝謙天皇より譲位を受けて淳仁天皇として即位しました。
孝謙天皇は前回の記事 西大寺 皐月 『幻の八角七重塔』 
でお話ししたように、西大寺に八角七重塔を建てようとした天皇です。

③舎人親王の子・淳仁天皇、天皇を廃される。

さて、天皇の子でない淳仁天皇がなぜ即位することができたのでしょうか。
それは当時の権力者・藤原仲麻呂の後押しを受けたこと、そして孝謙天皇が女性で結婚が許されず子供がなかったためです。
759年、淳仁天皇は父の舎人親王に崇道尽敬皇帝と追号しました。

ところが孝謙上皇と藤原仲麻呂の仲が険悪となり、764年、「藤原仲麻呂の乱」が起こります。
(前回の西大寺は藤原中麻呂の乱平定を祈願して創建された寺です。)

仲麻呂はこの戦いに敗れて斬首され、淳仁天皇は天皇を廃され淡路島へ流罪とされました。
そして孝謙上皇が再び天皇(称徳天皇)になったのです。

765年、淳仁天皇は淡路島脱出を試みますが、捕えられ、翌日亡くなりました。殺害されたものと考えられています。
そして長い間天皇と認められず廃帝と呼ばれていました。
この後、舎人親王の血をひくものが皇位につくことはありませんでした。

そのため舎人親王は怨霊になったと考えられたのではないかと思うのです。

松尾寺 皐月3 


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[2015/06/05 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

西大寺 皐月 『幻の八角七重塔』 



奈良市西大寺芝町・・・
西大寺


①八角形の基壇

近鉄西大寺駅から西に向かうと西大寺の東門が見えてきます。
しかし南門から入るのが参拝の正式作法だと聞いた記憶があるので、南門までもう少し歩きましょう。

南門の向う側に本堂が見えています。

西大寺 南門

本堂の手前に石組の土台のようなものがありますね。
東塔跡の基壇です。

西大寺 本堂


南門の正面に塔があるお寺は見たことがありません。
http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2013to/saidaiji199.jpg
↑ こちらの境内図を見ると、東塔と西塔の中間くらいのところに南門があります。
また東塔の真後ろに本堂はなく、東塔と西塔の中間くらいのところに中門がありますね。

西大寺は奈良時代に称徳天皇によって創建された寺ですが、その後荒廃し、鎌倉時代になって叡尊が寺を復興させています。
このときもともとの伽藍配置とはかなり違ったものになってしまったのかもしれません。

本堂にあがったところから石組の土台を見てみました。
塔の礎石が見えていますね。
そして基壇の周囲に杭を打って八角形に囲んであります。

西大寺 東塔跡

東塔はもともとは八角七重塔を作る計画でした。
そして八角の基壇が造られたのですが、途中で四角い基壇に造りなおされ、七重ではなく五重塔が建てられました。
八角形の柵は最初に造られた八角基壇跡なのです。

②八は復活を意味する数字?


もともとインドで作られていた仏塔は円形でしたが、中国に伝わると八角塔が多く作られるようになりました。
中国の人々は八という数字は特別に縁起のいい数字だと考えていました。
一説には、八という漢字は末広がりになっているので縁起がいいのだともいわれています。
北京オリンピックの開催式も2008年8月8日でしたね。

梅原猛さんは、8は復活を意味する数字だとおっしゃっています。
八角堂や八角墳は死んだ人の魂の復活を願って作られたものではないか、というのです。

なるほど、八咫鏡は天照大神を復活させた鏡ですね。

また八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることがあり、復活した太陽神と考えられるかもしれません。

『七転八起』という言葉がありますが、七回転んだら起きるのも八回で計算があいません。
転ぶという言葉には「物事の成り行きが別の方向に向かう」という意味もあります。
『七転八起』とは「七で転じて、八で復活する」という意味ではないでしょうか。


称徳天皇は死後の復活を願って八角塔を建てようと思ったのかもしれません。
また称徳天皇は大変な唐かぶれであったと伝わります。
そのため唐風の八角塔を建てたかったのかも?


西大寺 皐月

 

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[2015/06/03 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)