湾岸線から堺泉北臨海工業地帯の夜景を見て、工場萌え~になった私。
当たり前のことですが、高速道路に車を止めて写真を撮ることはできません。
そこで後日改めて堺泉北臨海工業地帯へとやってまいりました。
夕焼けのきれいな日でした。
未来都市のようです。
聖火が燃えています(笑)
このあたりの海岸は平安時代には高師浜と呼ばれ、白砂に松林が続く景勝地であったようです。
百人一首にも高師浜を詠んだ有名な歌があります。
音に聞く 高師浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ/祐子内親王家紀伊
(噂に高い、高師浜のあだ波にはかからないようにしておきましょう。袖を濡らしたくはありませんから。)作者は祐子内親王に仕えており、夫または兄の藤原重経が紀伊守だったところから、祐子内親王家紀伊と呼ばれていました。
1102年5月、「堀川院艶書合(けそうぶみあわせ)」という歌会が開かれました。
男が恋の歌を詠んで女房(朝廷や貴族に仕えた女性のこと)に贈り、女房たちがそれに返歌するという歌会です。
祐子内親王家紀伊が詠んだ「音に聞く~」の歌は次の歌に対しての返歌でした。
人知れぬ 思いありその 浦風に 波のよるこそ 言はまほしけれ/藤原俊忠
(私は人知れずあなたを思っています。荒磯(ありそ)の浦風に波が寄せるように、夜あなたと話がしたいと思っています。)「音に聞く 高師浜の あだ波」とは藤原俊忠を比喩したものなのですね。
「あなたが大変なプレイボーイであることは有名ですよ、涙で袖を濡らすのは嫌なのであなたの誘いには乗らないわ。」
と祐子内親王家紀伊は藤原俊忠の誘いを断ったのです。
藤原俊忠の歌に出てくる「荒磯(ありそ)」とは「 有磯海(ありそうみ)」のことだと考えられています。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/ettyu_u.html↑こちらのサイトに有磯海の場所を示した地図があります。
能登半島の東の海のことを有磯海というのですね。
能登半島と高師浜はずいぶんと離れていますが、調べてみたところ、意外な共通点が見えてきました。
高師は古には高脚・高師・高磯などとも記されていました。
高石という地名も高師からくると考えられています。
またこの地には高志氏が住んでいました。
高志はたぶん「こし」と読むのだと思います。
奈良時代の僧・行基の父親は高志才智(こしのさいち)という人でした。
一方、有磯海がある能登半島は古には越国(こしのくに)と呼ばれていました。
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japan_prov_map_koshi.png上の地図の赤で示された部分が越国です。
越は古には、高志・古志などと記されていました。
高志は高師浜に住んでいた高志氏と同じです。
越の国と高師浜には何か関係があるのかもしれませんね?
祐子内親王家紀伊が今の高師浜を見たらびっくりするだろうな~。
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[2015/05/29 00:00]
大阪府 |
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