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堺泉北臨海工業地帯 夜景 『音に聞く 高師浜の あだ波は』 

湾岸線から堺泉北臨海工業地帯の夜景を見て、工場萌え~になった私。
当たり前のことですが、高速道路に車を止めて写真を撮ることはできません。
そこで後日改めて堺泉北臨海工業地帯へとやってまいりました。
 
堺泉北工業地帯 夕景


夕焼けのきれいな日でした。

堺泉北工業地帯 夜景 
未来都市のようです。

堺泉北工業地帯 炎 

聖火が燃えています(笑)

高師の浜


このあたりの海岸は平安時代には高師浜と呼ばれ、白砂に松林が続く景勝地であったようです。

百人一首にも高師浜を詠んだ有名な歌があります。

音に聞く 高師浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ/祐子内親王家紀伊
(噂に高い、高師浜のあだ波にはかからないようにしておきましょう。袖を濡らしたくはありませんから。)


作者は祐子内親王に仕えており、夫または兄の藤原重経が紀伊守だったところから、祐子内親王家紀伊と呼ばれていました。

1102年5月、「堀川院艶書合(けそうぶみあわせ)」という歌会が開かれました。
男が恋の歌を詠んで女房(朝廷や貴族に仕えた女性のこと)に贈り、女房たちがそれに返歌するという歌会です。

祐子内親王家紀伊が詠んだ「音に聞く~」の歌は次の歌に対しての返歌でした。

人知れぬ 思いありその 浦風に 波のよるこそ 言はまほしけれ/藤原俊忠
(私は人知れずあなたを思っています。荒磯(ありそ)の浦風に波が寄せるように、夜あなたと話がしたいと思っています。)


「音に聞く 高師浜の あだ波」とは藤原俊忠を比喩したものなのですね。
「あなたが大変なプレイボーイであることは有名ですよ、涙で袖を濡らすのは嫌なのであなたの誘いには乗らないわ。」
と祐子内親王家紀伊は藤原俊忠の誘いを断ったのです。

藤原俊忠の歌に出てくる「荒磯(ありそ)」とは「 有磯海(ありそうみ)」のことだと考えられています。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/ettyu_u.html
↑こちらのサイトに有磯海の場所を示した地図があります。
能登半島の東の海のことを有磯海というのですね。

能登半島と高師浜はずいぶんと離れていますが、調べてみたところ、意外な共通点が見えてきました。

高師は古には高脚・高師・高磯などとも記されていました。
高石という地名も高師からくると考えられています。
またこの地には高志氏が住んでいました。
高志はたぶん「こし」と読むのだと思います。
奈良時代の僧・行基の父親は高志才智(こしのさいち)という人でした。

一方、有磯海がある能登半島は古には越国(こしのくに)と呼ばれていました。
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japan_prov_map_koshi.png
上の地図の赤で示された部分が越国です。

越は古には、高志・古志などと記されていました。
高志は高師浜に住んでいた高志氏と同じです。
越の国と高師浜には何か関係があるのかもしれませんね?

堺泉北工業地帯 2


祐子内親王家紀伊が今の高師浜を見たらびっくりするだろうな~。


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[2015/05/29 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

向原寺 甘橿坐神社 木漏れ日 二上山夕景 『物部守屋と盟神探湯(くがたち)』 

ゴールデンウィークに善光寺へ行った際 ( 記事はこちら→善光寺 門前町 ライトアップ 『善光寺は物部守屋を慰霊する寺だった?』 )、
善光寺の御本尊は物部御輿が難波の堀江に捨てたものを、本田善光という人が信濃に持ち帰ったという伝承があることを知りました。

物部が仏像を捨てた難波の堀江の所在地については2つの伝承地があります。
ひとつは和光寺(大阪市西区北堀江3-7-27)の阿弥陀池、もうひとつは向原寺(豊浦寺跡/奈良県高市郡明日香村大字豊浦630)近くにある難波池です。

和光寺は参拝したことがあるのですが、向原寺は参拝したことがありませんでした。
飛鳥には何度も行ってるんですが、前を素通りしてた~。

向原寺

 ↑ 向原寺の写真に堺祭の行列に参加されていた旅装束の方の写真を合成。

そこで先日、向原寺に行ってきました。

向源寺 難波池 

向原寺の隣には難波池がありました。
物部尾輿が仏像を捨てた難波の堀江はここだとも言われています。

向源寺 石碑 
難波池のほとりには「奈良善光講」と記された石碑が建てられていました。
講とは『同一の信仰を持つ人々による結社』のことです。
善光寺のみほとけを厚く信仰する人々が「奈良善光講」という結社をつくっており、善光寺にゆかりのある難波池のほとりに石碑を建てたのでしょう。

甘橿坐神社2 
向原寺の裏に甘樫坐神社がありました。

甘橿坐神社 

甘樫坐神社の境内には立石と呼ばれる謎の石があります。
毎年4月第一日曜日に、立石の前で盟神探湯(くがたち)の神事が行われているそうです。
盟神探湯についてはこちらの記事にも書いたように→城南宮 湯立神楽 『古代の裁判・盟神探湯(くがたち)』 
熱湯に手をつけ、火傷をしない者は正しく、火傷をした者は嘘をついていると判じた古代の裁判です。

日本書紀に次のように記されています。

278(応神天皇9)年、兄の失脚を目論んだ甘美内宿禰(うましうちのすくね)が『武内宿禰は天下をねらう野心があり、筑紫を割いて取り三韓を自分に従わせたら天下を取る事が出来る、と言っている。』と、応神天皇に讒言しました。
天皇は二人に盟神探湯をさせて、真偽を測ることにしました。
結果、武内宿禰が勝ち、太刀をとって甘美内宿禰を倒し殺そうとしました。
しかし天皇が間に入って止め、甘美内宿禰は許されました。


武内宿禰は蘇我氏、紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、波多氏、淡海氏、許勢氏らの先祖とされています。
盟神探湯に敗れた甘美内宿禰は紀直らの隸民にされたとあって、子孫については記されていません。

私は甘美内宿禰(うましうちのすくね)は物部氏の先祖ではないかと思います。
というのは古事記には次のような記述があるからです。

ニギハヤヒという神が天の磐船を操って河内の生駒山に天下り、大和地方の豪族・ナガスネヒコの妹・トミヤスヒメと結婚しました。
ニギハヤヒとトミヤスヒメの間に産まれたのが、物部氏の祖・ウマシマジノミコトです。


物部氏の祖神・ウマシマジノミコトと甘美内宿禰(うましうちのすくね)は音が似ています。

善光寺 門前町 ライトアップ 『善光寺は物部守屋を慰霊する寺だった?』 
↑ こちらの記事の中で宮元 健次さんが、「善光寺は物部守屋を慰霊するための寺である。」とされていることについて書きました。

587年、排仏派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子や聖徳太子と戦って戦死しました。
このように政治的に不幸な死を迎えた者は死後怨霊となって疫病や天災を引き起こすと考えられていました。
守屋も怨霊になったと恐れられたことでしょう。

善光寺と関係の深い向原寺もまた物部守屋を慰霊する寺だと思われます。
そして位置的に見て、甘樫坐神社は向原寺の鎮守ではないかと思うのですが、どうなんでしょうか。
甘樫坐神社が向原寺の鎮守であるとすれば、甘樫坐神社もまた物部守屋を慰霊する神社だといえるでしょう。

その甘樫坐神社において盟神探湯の神事が行われているというのが興味深いです。

物部守屋の霊の前で盟神探湯の神事を行うのは、甘美内宿禰(守屋の先祖?)が盟神探湯で敗れたことを思い出させることによって、守屋の霊を鎮めるという目的があるのではないでしょうか。

「守屋よ、お前の先祖の甘実内宿禰は盟神探湯で敗れたのだ。観念せよ!」みたいな感じで。

二上山 夕景


この時期、飛鳥から二上山に沈む夕日が見えます。
古の飛鳥人は二上山に没する夕日に守屋が成仏することを祈ったことでしょう。

向原寺・・・奈良県高市郡明日香村大字豊浦630
甘樫坐神社・・・奈良県高市郡明日香村大字豊浦字寺内626


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[2015/05/27 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

堺鉄砲鍛冶屋敷 と 堺鉄砲館 『若狭伝説とねじ』 

 
山口家住宅を見学したついでに堺鉄砲鍛冶屋敷へ行ってきました。
山口家住宅の記事はこちら ↓
山口家住宅(堺市) 『鯉のぼり と 鯉の滝のぼり』 

堺鉄砲鍛冶屋敷

 ↑ 堺鉄砲鍛冶屋敷の写真に安井金毘羅宮櫛祭の行列に参加されていた女性を合成しました。
ここにこんな古風な着物を着た人が歩いていたらいいな~、と思って。

1543年、種子島に漂着した中国船に二人のポルトガル人が乗っていました。
種子島島主・種子島恵時・時尭親子はポルトガル人が持っていた火縄銃を購入し、刀鍛冶・八板金兵衛に鉄砲を作らせました。
堺の商人・橘屋又三郎は琉球貿易の途中で種子島に立ちより、鉄砲の製造方法を学んで堺に戻りました。
それ以降、堺は日本一の鉄砲生産地へと発展していきました。

写真の鉄砲鍛冶屋敷は江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗でした。
非公開ですが年に1日(11月)のみ公開されているとのことで、ぜひ見学してみたいです。

鉄砲鍛冶屋敷の近くには堺鉄砲館があり、土日祝に見学することができます。

堺鉄砲館 炉とふいご 
↑ 堺鉄砲館の内部です。
鉄砲鍛冶用の炉と鞴(ふいご)、やっとこが展示されていました。

堺鉄砲館 火縄銃


↑ 火縄銃のコレクション。

堺鉄砲館 本 
↑ 鉄砲鍛冶屋を描いたもの。

堺鉄砲館を運営されている堺火縄銃保存会の方が面白いお話をいろいろ聞かせてくださいました。

ほう~、と思ったのは、鉄砲鍛冶と堺の自転車産業にはつながりがあるということ。
鉄砲は平たい板を丸く曲げて作りますが、これを応用して自転車のパイプを作るようになったのが、堺の自転車産業の始まりなのだとか。

また鉄砲とともに日本にネジが伝わったというお話も聞かせていただきました。

さきほど、種子島の刀鍛冶・八板金兵衛が種子島島主・種子島恵時・時尭親子命じられて鉄砲を作ったという話をしました。
銃床をふさぐために雄ネジと雌ネジが必要でした。
八板金兵衛は雄ネジはつくることができましたが、雌ネジの作り方がわかりませねした。
そこで、八板金兵衛は娘・若狭をポルトガル人に嫁がせて鉄砲の作り方を教えてもらったそうで、八板家系図に次のように記されているそうです。
「若狭 1527年生まれる。1543年、フランシスコに嫁いでポルトガルに渡る。1544年ポルトガル船がやってきて金兵衛と若狭は再び会うことが出た。数日後、若狭は大病にかかって死んだと偽って葬式をおこなった。フランシスコは泣きもしなかった。」

以前、堺祭 火縄銃隊 『鉄砲伝来』 の記事を書いた際、若狭がポルトガル人に嫁いだという話を知り、何か嘘っぽいなあ~、と思っていました。

日本では正月に餅つきをしますが、あれは夫婦和合を表していると聞いたことがあります。
杵が男で、臼は女を表しているとのことです。

鉄砲とともに日本にねじが伝わったとき、日本人は雄ネジと雌ネジを見て、やはり夫婦和合を思い浮かべたにちがいありません。

八板金兵衛がどのようにして雌ネジを作ることに成功したのかは、よくわかりませんが、ポルトガル人の男とは雄ネジ、若狭とは雌ネジを擬人化したものではないでしょうか。

堺鉄砲隊

↑ 堺まつりで発砲する堺火縄銃保存会のみなさん。(合成)
背景は関ヶ原古戦場です。

堺鉄砲鍛冶屋敷・・・堺市堺区北旅籠町西1丁3-22
堺鉄砲館・・・堺市堺区北旅籠町西1丁2-7




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[2015/05/25 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

善光寺 門前町 ライトアップ 『善光寺は物部守屋を慰霊する寺だった?』 

ゴールデンウィークに長野県の善光寺に行ってきました!

善光寺では数え年で7年に一度(現在は丑と未の年)に、前立本尊の御開帳をっています。
羊年の今年は、4月5日(日)から5月31日(日)までです。
ご本尊は絶対秘仏ですが、本尊と全く同じ姿をしている前立本尊を拝観できるのです。

善光寺についたのは午後4時半すぎ。
仁王門近くの券売所はもう閉まっちゃってた~。
そりゃないよ、遠路はるばるやってきたのに~(自分が悪いんだけど)
と思ったけど、本堂前の券売所が開いていた~!
なんとかぎりぎりセーフで内陣参拝することができました。
本堂地下の真っ暗な通路を手探りでめぐる戒壇めぐりも体験しました。
暗闇の中に鍵があり、この鍵に触れると極楽浄土へ行けるとのことです。
手で触った感じでは、鍵は独鈷の形をしているようでした。(ここまで写真を撮る余裕なし)

前立本尊御開帳の期間中、日没から午後9時まで、本堂のライトアップが行われています。

善光寺 ライトアップ


本堂手前にある回向柱に結ばれた「善の綱」は本堂の前立本尊と繋がっています。
前立本尊の功徳にあやかろうと多くの参拝者が回向柱に触れていました。

善光寺 仁王門


善光寺・仁王門をくぐって門前町へ。

善光寺 門前町4


情緒ある美しい街並みが続きます。

善光寺 門前町3 

善光寺の御本尊は、天竺(インド)の月蓋長者から百済の聖明王の手に渡ったのち日本にやってきたとされています。

日本にやってきた仏像は崇仏派の蘇我稲目が建てた向原寺で祀られていました。
しかし552年、排仏派の物部尾輿は疫病の流行は仏を祀ったのが原因であるとして、仏像を難波の堀江より流してしまいました。
のちに難波の堀江を通りかかった本田善光という人が信濃に持ち帰ったのが、善光寺の御本尊であるとされます。

物部御輿が仏像を捨てた難波の堀江とは和光寺(大阪市西区北堀江3-7-27)の阿弥陀池のことであるとか、向原寺(豊浦寺/奈良県高市郡明日香村大字豊浦630)の近くにある難波池のことだといわれています。

和光寺 

和光寺の阿弥陀池



向源寺 難波池  
向原寺近くにある難波池


善光寺は近畿地方とゆかりのあるお寺だったのですね~。親近感がわいてきます♪

宮元 健次さんが、『善光寺の謎 (祥伝社黄金文庫)』という本の中で次のような意味のことを書いておられるそうです。
まだ読んでいないのですが~。

①善光寺内陣に守屋柱と呼ばれている柱がある。
②戒壇めぐりを行うことは、守屋柱を一周し、錠(独鈷)によって守屋柱に宿る守屋の霊を封じることである。
③善光寺は物部守屋を慰霊するための寺である。

私は宮元さんの説を支持します~!


587年、排仏派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子や聖徳太子と戦って戦死しました。
このように政治的に不幸な死を迎えた者は死後怨霊となって疫病や天災を引き起こすと考えられていました。
守屋も怨霊になったと恐れられたことでしょう。

古においては神と怨霊は同義語であったといわれます。
怨霊が祟らないように慰霊したものが神だというのですね。
さらに日本では神仏は習合されて信仰されていました。

神仏習合の基本的な考え方は、『日本古来の神々は仏教の神々の生まれ変わりである』とする本地垂迹説です。
そして神は一柱、二柱と数えます。
つまり守屋柱とは物部守屋という怨霊=神が宿る柱であり、善光寺のご本尊は守屋という神(怨霊)が仏に転じたものだと考えられます。


善光寺 門前町  


善光寺・・・長野県長野市元善町491


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[2015/05/23 00:00] 長野県 | トラックバック(-) | コメント(-)

山口家住宅(堺市) 『鯉のぼり と 鯉の滝のぼり』 



南海本線七道駅近くにある山口家住宅を見学しに行ってきました。
堺は空襲で町の大半が焼野原となり、古い建物はあまり残っていないそうですが、それでもところどころに情緒ある街並みが残っています。
山口家住宅の主屋は1615年の大坂夏の陣のあとに建てられたそうです。
なんと400年以上も前に建てられたのですね!

山口家住宅 駕籠

住宅の中もアンティークの宝庫でした。
玄関入ってすぐの土間の天井近くにはこんな駕籠がつるされていました。

山口家住宅 竃さん

なんて立派な竃(へっつい)さん!

山口家住宅 水屋

竃さんの横にはこんなスペースが。↑
銘々膳が置いてあります。ダイニング?

山口家住宅 井戸

竃さんの横にある出入口から庭に出るとつるべの井戸がありました。

山口家住宅 ?

桝形のつくばいは二重になっていて「ますます繁盛」を意味しているのだとか。

山口家住宅 机

昔の事務用品ってなんておしゃれなんだ。

山口家住宅 階段箪笥

階段箪笥。

山口家住宅 武者人形

山口家住宅に行ったのは5月中旬ですが、武者人形が飾られていました。

山口家住宅-鯉のぼり

土間の天井付近には大きな鯉のぼりがかけられていました。
堺には手書きの鯉のぼりを製造している工房があるのです。

新暦の5月5日ごろはからっとした天気が多く、鯉のぼりは気持ちよさそうに薫風に泳ぎます。
しかし、旧暦の5月5日は新暦では梅雨時でした。
(2015年の旧暦5月5日は新暦の6月20日)
鯉のぼりはじとじと降る雨にぐっしょりしていることが多かったことでしょう。
その姿に古の人々は鯉が滝登りするようすを想像したのではないかと思います。

昔の中国には龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説があり、これを鯉の滝登りと言いました。

山口家住宅・・・堺市堺区錦之町東1丁2-31



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[2015/05/21 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

立山黒部アルペンルート 雷鳥 『雷鳥はなぜ神の鳥と信仰されたのか』 

ゴールデンウィークに立山黒部アルペンルートに行ってきました。

扇沢駅前の無料駐車場に車をとめ、コートを着込んで、いざ出発~!

扇沢駅から黒部ダム駅まで電気で関電トンネルトロリーバスでトンネル内を走ります。
トロリーバスの写真を撮ったのですが、ブレブレで大失敗~(汗~)。
こちらのサイトに写真があります。→ http://www.kurobe-dam.com/trolleybus/

関電トンネルは黒部ダム建設用資材運搬用トンネルとして、1958年に開通しました。
途中、トンネル内に破砕帯と記された看板がありました。

破砕帯とは断層運動によって砕かれた岩石が帯状になっている部分のことです。
細かく砕けた岩石の隙間には大量の地下水が含まれています。
工事の途中でこの破砕帯にあたり、4℃の冷たい水が毎秒660リットルも噴き出しました。
この水を抜くためのトンネルを別に掘り薬剤とコンクリートで固めながら掘り進めました。
大変な難工事で、工事中に171人もの死者を出しました。

今なら大問題で、関電は大バッシングを受けるでしょうが、当時はそういうことはなかったのでしょうか?


↓ 黒部ダムに到着~。

黒部ダム

この時期、ダムの放水は行われていません。

↓ 黒部湖には氷がまだ残っていました。

黒部湖

↓ 黒部ダム駅から黒部湖駅までは徒歩、黒部湖駅から黒部ケーブルカーで黒部平駅に向かいます。

立山黒部 ケーブルカー 

↓ 黒部平駅から立山ロープウェイで大観峰駅へ。

立山黒部 ロープウェイ

大観峰駅から立山トンネルトロリーバスで室堂駅へ。

↓ 雪を切り開いて作った雪の大谷。

雪の壁2

まるで繁華街のような人並み!

立山黒部 雪の壁 
歩いている旅行者さんはほとんど中国の方です。
中国からの団体旅行で来られている方がめちゃめちゃ多いです。
団体旅行のグループはひとつ、ふたつなんてものではなくてもっともっと多いです。
日本人の旅行者はほんのわずか。
立山黒部アルペンルートが中国の方にこんなに人気があるとは思わなかった。

案内所で「みくりが池」近くに雷鳥のなわばりがあると教えていただいたので行ってみることに。
雪道を歩いて「みくりが池」に向かう人は少なく静かでした。雪の大谷の喧騒が嘘のよう。
途中、すれ違った人たちが「雷鳥がいましたよ」と教えてくれました。

雷鳥がいました!

雷鳥 雄

↑ ニホンライチョウのオス。足にも羽毛が生えています。
雷鳥は冬はほとんど飛ばないそうです。
ゴールデンウィーク期間中でしたが、雷鳥はほとんど飛びませんでした。
また雷鳥としては珍しくニホンライチョウは人を怖がらないそうで、写真を撮っても逃げません。
ただ雷鳥を撮った、というだけの写真だけど。

雷鳥 雌

↑ニホンライチョウのメス。
手前の草が前ボケになって雷鳥にかぶってしまった!
前ボケを消す方法ってないかなあ~?

ふと見ると、友達が雪の中に埋まって、イケメン男性にひっぱりあげられていました。(ありがとうございます!)
上に雪が積もって深い溝になってるのがわからなかったんですね。
友達を助けてくれたイケメンさんも溝に落ちたそうで、雪の上に大きな穴が二つ~。
ふたりともケガがなくてよかった~。

ライチョウは約2万年前の氷河期に日本にやってきたと考えられています。
氷河期が終わると多くのライチョウは北の地へ戻りましたが、一部は高山の寒冷地に残りました。
隔絶された日本の高山で進化したライチョウはニホンライチョウとなりました。
現在の日本にはわずか2000羽が棲息するのみとされます。

平安時代にはライチョウは「らいの鳥」と呼ばれていました。
江戸時代には『鶆(らい)』と記した文献があるようです。
「らいの鳥」とは「癩(らい)病の鳥」という意味なのではないでしょうか。
ライ病は差別的な言葉であるとして現在ではハンセン病と言われています。

http://www3.famille.ne.jp/~ochi/rai6.html
↑ こちらのサイトにライチョウの換羽(衣がえ)の写真があります。

ライチョウは季節によって姿を変えます。
上記サイトを見ると月ごろのライチョウには斑点がありますが、1月2月ごろのライチョウは白いです。
説明文を読むと、春ごろより斑点模様がでてくるようです。

この斑点模様からライチョウはハンセン病患者に喩えられたのではないでしょうか。

ハンセン病には様々な症状があるようですが、顔面や手足に潰瘍ができるというケースもあるそうです。


奈良豆比古神社では、志貴皇子がハンセン病を患ったが、あるとき翁の面に病が移りもとの美しい顔になっていた、と伝えています。
奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

斑点のある姿から真っ白な美しい姿に変化するライチョウは、まるで志貴皇子のようではありませんか。



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[2015/05/19 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

霊山寺 薔薇会式・えと祭 『鼻高仙人の正体とは』 

5月第3日曜日(2015年は5月17日)、霊山寺で薔薇会式・えと祭が行われます。
詳しくはこちらをご覧ください。→http://www.ryosenji.jp/schedule_11.html

このころ、霊山寺・薔薇園の薔薇が見頃となります。
その薔薇をご本尊の薬師如来にお供えする法会がご本尊薬師如来と八体仏にバラの花をお供えし、境内を干支の面を被った人が練り歩きます。

霊山寺 えと祭り


写真は去年撮影したものです。
兎の面は奈良時代の女性の髪型・双髻(そうけい)髷を長くして耳のように見せていますね。

↓ こちらは大阪歴史博物館で撮影したものです。
女官の人形が双髻を結っています。

大阪歴史博物館 女官 

霊山寺には次のような伝説があります。

小野妹子の子の小野富人は壬申の乱に関与したため、672年に右大臣を辞して、登美山に住みました。
684年、富人は熊野本宮大社に参篭しました。
そのとき、薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)が夢枕にあらわれて『薬湯を作り、病人をたすけよ』と告げました。
そこで富人は登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬湯を設けました。
人々は富人を登美仙人または鼻高仙人(びこうせんにん)と呼びました。

728年、流星が宮中に落下するという事件がおき、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)がノイローゼになりました。
このとき、安倍内親王の父・聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、「湯屋の薬師如来に祈れば治る」とお告げがありました。
聖武天皇は行基に登美山を参拝するよう、命じました。
するとたちまち阿倍内親王の病は回復しました。
734年、聖武天皇は行基に命じて大堂を造らせ、736年にインドバラモン僧の菩提僊那が寺名を霊山寺と名づけました。


壬申の乱は672年に勃発した内乱です。
天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が皇位継承をめぐって争い、大海人皇子が勝利して即位しました。
敗れた大友皇子は自害しました。

小野富人はこれに関与して右大臣を辞した、とあるので大友皇子側についたということなのでしょう。
ところが、歴代右大臣のリストの中には小野富人の名前がありません。
壬申の乱が起こったとき右大臣だったのは中臣金です。

伝説では小野富人は小野妹子の子であるとしています。
しかしウィキペディアで小野妹子を調べても、子として毛人・広人の名前はあがっていますが、富人の名前はありません。

672年、本当の右大臣だった中臣 金(なかとみ の かね/?- 672年)は中臣鎌足の従妹です。
大化の改新で功績をあげた鎌足の死後、中臣金が急速に出世して、671年に右大臣となりました。
672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では中臣金は大友皇子側について戦っています。
しかし大友皇子側が敗れ、金は捕えられて処刑、金の子孫は流罪となりました。

この中臣金が天智天皇の勅をうけて天智天皇御宇8年(669年?)に建立したと伝わる神社が滋賀県大津市大石中の佐久奈度神社です。

この佐久奈度神社の宝物に伊勢神宮より賜った神剣と鼻高面があります。
(参照→ http://sakunado.jp/yuisyo.html
古より伊勢神宮を参拝する前に佐久奈度で禊ぎをする習慣があり、このような関係から伊勢神宮より賜ったものだとされます。

鼻高面は赤い顔をした天狗の面です。

霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とありました。
しかし672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金でした。
さらに中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面があります。

鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物なのではないでしょうか?

中臣金は672年に死亡していますが、小野富人はこの年から登美山に住んでいます。
登美山に住んだ小野富人とは、死んだ中臣金の霊なのかも?

「小野富人が薬湯を作った」とは「小野富人の霊が薬湯を作った」という意味だと思います。

今でも、たとえば家を建てたとして、実際に家を建てる資金を調達したのは自分自身であるにもかかわらず、「死んだ父のおかげで家を建てることができた」などと言ったりしますね。


霊山寺・・・奈良県奈良市中町3879
 
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[2015/05/17 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛城山 躑躅 『大和に横たわる巨大なクジラ』 

葛城山 躑躅

写真は20年くらいも前に撮ったものです。
数年前にもロープウェイの乗り場までは行ったんですが、ものすごい人でロープウェイに乗れませんでした。
やむなく歩いて登ることにしたんですが、途中で友人がギブアップしたので結局引き戻しました~。

それにしても今見ると、ヘタクソな写真だなあ~。

葛城山 躑躅2 

↑ このとき、まだPLフィルターを使うということを知らなかったんですね~。
反射がまぶしい~。

さてさて、葛城山ロープウェイがあるあたりは地名を櫛羅(くじら)と言い、地名の由来について次のような伝説があります。

弘法大師が葛城山を訪れた際、葛城山中にある滝が天竺のクジラの滝に似ているとして供尸羅(くじら)滝と名前をつけたことから、このあたりは『供尸羅』と呼ばれるようになりました。
のちに領主の永井信濃守が、『供尸』は『供に屍』となって縁起が悪いとし、『櫛』と改めました。

空海は遣唐使として唐には行っていますが、空海が天竺(インド)に行ったという話は聞いたことがありません。
それなのに空海はなぜ天竺のクジラの滝に似ているなどと考えたのでしょうか。
この伝説は史実ではないと思います。

日本全国に「クジラ」とつく地名は数多くあり、下記サイトに「クジラ」地名がまとめられています。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/kujira-timei.html

鯨浜とか鯨埼という地名は海沿いにあって実際に鯨が生息しているところからつけられたのかもしれませんね。

でも、葛城山は海からは遠いです。
それなのになぜ櫛羅という地名なのでしょうか。

私は葛城山を見るたびに、その形が巨大な鯨に似ているなあ、と思います。
下の写真は葛城山の右端が切れていますが、龍王山から葛城山を見たものです。
手前の3つの色の濃い塊のようなものは、上から畝傍山、耳成山、箸墓古墳。
向かって左の色の濃い部分は天香久山・・・だと思います。

龍王山より大和三山・葛城山を望む 
昔の人は葛城山を巨大な鯨だと考えたところから、櫛羅という地名になったのかも?

かつてクジラは海の神・恵比寿と同一視され、エビスとも呼ばれていました。
日本全国にえびす神社がありますが、えびす神社の御祭神は蛭(えびす)または事代主(ことしろぬし)です。

事代主は一言主(ひとことぬし)という神と同一神と考えられています。
どちらの神様の名前にも「こと」とありますが、古代には言葉の「こと」と出来事の「こと」は同じものであうと考えられていたためだというのです。
すなわち、言葉と出来事は同じものであったということです。
日本の言霊信仰(言葉には力があり、口にした言葉は実現するとする考え方)は言=事とする考え方から生じたものかもしれませんね。

そういえば、葛城山の中腹には一言主神社があって一言主を祀っています。

一言主神社 イチョウ 

古の人々は葛城山の姿に、一言主=事代主=蛭子=クジラの姿を重ね合わせていたのかも?

[2015/05/15 08:35] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

當麻寺 當麻のお練り 『中将姫は藤原豊成の和魂だった?』 


當麻 練り供養 
毎年5月14日、當麻寺では「二十五菩薩練り供養」を行っています。
「二十五菩薩練り供養」は「當麻のお練り」と呼ばれて親しまれています。

「境内の西にある本堂(曼荼羅堂)から、境内の東にある娑婆堂まで来迎橋がかけられ、その上を二十五菩薩がゆっくりと練り歩いていきます。

當麻のお練り2

「當麻のお練り」は當麻寺に伝わる中将姫伝説を再現したものです。

中将姫伝説とは次のようなものです。

藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前(品沢親王の娘)には長い間子供ができませんでしたが、長谷寺の観音様に祈願したところ、中将姫を授かりました。
紫の前はまだ幼い中将姫を残して亡くなり、藤原豊成は照夜の前を後妻にしました。
照夜の前はことあるごとに中将姫を継子いじめしていまし
た。
760年、豊成が諸国巡視の旅に出かけた際、照夜の前は従者に中将姫を殺すようにと命じました。
しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにしました。
中将姫は雲雀山に草庵を結び念仏三昧の生活をおくっていましたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻りました。
中将姫は淳仁天皇より後宮へ入るよう望まれましたが、これを断り、出家して當麻寺に入りました。
26歳のとき、長谷観音のお告げにより當麻曼荼羅を織りあげました。
29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かいました。


伝説では中将姫の父親の藤原豊成は藤原不比等の曾孫となっていますが、実際は不比等の孫です。
そして、中将姫の母親の紫の前は品沢親王の娘、照夜は橘諸房の娘だとしていますが、ネットを検索してみても品沢親王や橘諸房という人物は中将姫伝説以外にはでてきません。
品沢親王や橘諸房、その娘とされる紫の前、照夜などは想像上の人物なのかも?

また伝説では豊成は760年に諸国巡視の旅にでかけたとありますが、実際には豊成は757年から難波の別荘で隠遁生活を送っていました。
豊成の息子の藤原乙縄が橘奈良麻呂の乱に与したとして日向に左遷され、豊成も大宰府に左遷が決定しました。
豊成はこれに抗議する意味で、病気と称して難波の別荘にこもったのです。
豊成が都へ戻ったのは764年ですが、伝説では761年に中将姫と再会して都へ戻ったとしています。

このように史実と一致しない点や、実在しない人物が登場するところをみると、中将姫も実在せず、物語の中で創作された人物なのではないでしょうか。
ただ、さすがに天皇を創作するのは憚られるので、天皇は実在した人物の名前を用いたのではないかと思えます。

天皇以外にひとりだけ登場する実在する人物が藤原豊成です。

徳融寺 豊也・中将姫供養塔 
奈良町の徳融寺は藤原豊成の邸宅跡とされ、境内には豊成と中将姫の供養塔があります。

私は豊成が難波に隠遁していたというのが気になっています。
中将姫ゆかりの寺である當麻寺は二上山のふもとにあります。
奈良から見ると二上山は西の方角にあって、夕日は二上山の方角に没します。
二上山は夕日が没する山だという認識が、古の奈良の人々にはあったと思われます。
そして二上山の向こう側には西方浄土があるとも考えられていたことを、當麻のお練りの行事は示しているように思えます。

豊成が隠遁していた難波は二上山の西、夕日が没する場所にあります。
難波は西方浄土だと考えられていたのではないでしょうか。
とすれば、生きながらにして極楽浄土に行ったのは、豊成ということになります。

それではなぜ豊成の娘として中将姫という女性が創作され、彼女が極楽浄土に行くという話になったのでしょうか。

神はその表れ方によって御魂(みたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)に分けられるとされます。
御魂とは神の本質、和魂は神の和やかな側面、荒魂は神の荒々しい側面のことをいいます。
また女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすという説があります。

御魂・・・神の本質・・・男女双体(藤原豊成)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(藤原豊成の和霊=中将姫)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(藤原豊成の荒霊)

藤原豊成の和魂として創作されたのが中将姫なのだと思います。

※當麻寺についての記事は今までに3つ書いています。
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-286.html?q=%E7%95%B6%E9%BA%BB&charset=utf-8
こちらもお読みいただけると嬉しいです。

當麻寺 牡丹
塔百景46

 當麻寺の牡丹はもう終わっちゃったかな?

當麻寺・・・奈良県葛城市當麻1263





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[2015/05/13 13:58] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 

白川郷 合掌造 集落

世界遺産に登録されている白川郷(岐阜県大野郡白川村)の合掌造り集落へ行ってきました!
4月の終わりでしたが、遠くに見える白山は雪をかぶっています。

白川郷 しだれ桜 

↑ 枝垂れ桜が咲いていました。
白川郷の春は遅いのですね~。

五箇山 菅沼

↑ 白川郷から少し離れたところに五箇山(富山県南砺市)の菅沼集落があります。
小さな集落ですが、こちらも世界遺産です。
昔、五箇山は加賀藩の流刑地でした。
罪人が川を渡って逃げることを防ぐため、五箇山では川に橋をかけることが許されていませんでした。
そのため『籠の渡し』で川を渡ったそうです。
菅沼に『籠の渡し』の模型があるそうですが、うっかりしていて見そびれてしまいました。
こちらのサイトに写真があったのでリンクを貼っておきます。→ http://www.gokayama.jp/meguri/midokoro.html

五箇山 相倉 

↑ こちらも世界遺産になっている五箇山の相倉(あいのくら)集落です。
雪がたくさん残っていましたよ。

流刑小屋 

↑ こちらは五箇山の田向にある流刑小屋です。
復元されたものですが、昭和38年までは実際ここに流刑小屋があり、物置小屋として利用されていたそうです。
1667年から明治維新までの200年の間に五箇村には150人余りの流刑者が送られてきました。
写真の流刑小屋はお縮小屋と呼ばれ、流刑者はこの小屋から一歩も外に出ることができませんでした。
壁にある小さな穴は食事をさしいれるためのものです。
小屋の中には流刑者の人形がおかれていました。

五箇山 上梨 村上家 煙硝厩 

↑ 五箇山の上梨にある合掌造りの家、村上家住宅を見学させてもらいました。
上の写真は煙硝厩(えんしょうまや)です。

五箇山では煙硝(火薬原料)を生産して加賀藩に納めていました。
なにしろ流刑地とされるような山深い土地ですから、軍事機密である煙硝を生産するのに都合がよかったのです。

煙硝を作るためには、山野草と土を交互に積み重ね、年に3回、山野草・蚕糞・人尿を加えて鋤でまぜます。
煙硝厩はこの作業を行う場所のことです。
5年目から煙硝がとれるようになります。
これを桶に入れて水をはり一晩おき、抽出液を煮詰めて煙硝の結晶を取り出します。

五箇山 上梨 村上家 屋根裏 

↑ 村上家住宅の屋根裏です。
釘を使わず、縄で木材を縛って家を組み立てているのがわかります。
祇園祭の山鉾を組み立てるのと同じですね。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け 

↑ 村上家住宅にはこんなものも展示されていました。
とても小さい頭蓋骨でした。
猿の頭蓋骨でしょうか?

以前、馬小屋の守護神として2つの猿の頭蓋骨が祀られているのを見たことがあります。
神から示偏をとると申(さる)となり、猿は神の使いであると信仰されたようです。
また京都御所の鬼門(東北)の隅は猿が辻といい、東北の隅を作らないように塀を内側に凹ませ、さらに猿の像が飾られています。(金網がはってあるのでわかりにくいですが)


猿が辻 

猿が辻 猿の像 

猿が辻に猿の像が飾られているのは『鬼が去る(猿)』という語呂合わせであるといわれています。
どうも鬼門除けに猿は欠かせないものであったようです。

↓ 村上家住宅の『おえ(居間)』です。

五箇山 上梨 村上家 囲炉裏

 囲炉裏があってとてもいい雰囲気ですね。
囲炉裏の向かって左にあるのは『ささら』です。
村上家住宅からほど近いところに白山宮があり、9月に『こきりこ祭り』が行われます。
『こきりこ祭り』では『『ささら踊り』が奉納されるのですが、『ささら』はこの『ささら踊り』で用いられる楽器です。

↓ 『こきりこ祭り』のではありませんが、ささら踊りの動画があったので、お借りしました。(ありがとうございます。)



有名な鳥獣戯画でも、蛙が『ささら踊り』を踊っているシーンがあります。

http://akituya.gooside.com/choujyu_allall.htm (【12】をクリックしてください。)

『ささら』には108枚の板が用いられています。
108は煩悩の数であり、ささらを打ち鳴らすことで煩悩を打ち消すことができると言われています。

私は鳥獣戯画の蛙は平将門を現しているのではないかと思います。
上のリンク先の鳥獣戯画の【16】をクリックすると、蛙が蓮の葉の上に座って阿弥陀仏になっている絵があります。
蓮阿弥陀仏とは940年に平将門の乱をおこして討伐された平将門の法名です。
平将門の首は京で晒されていましたが、生まれ故郷である東国に飛んで帰ったという伝説があります。
平将門の首塚には蝦蟇(蛙)の置物がたくさん奉納されています。
これは「無事帰る=蛙」の語呂合わせだといわれていますが、私は蛙は髑髏を現しており、将門は髑髏の神ということで蝦蟇(蛙)の置物を奉納する習慣が生じたのではないかと考えています。

詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。蔵王堂光福寺 久世六斎 『空飛ぶ鉢の正体とは』 

とすれば、蛙がささら踊りをしているのは、将門の霊が煩悩を捨てて成仏しようとしている様を表しているのではないかと思えます。
合掌造り集落の話が平将門の話になってしまってすいません・・・・

加賀藩の流刑地だった五箇村で亡くなった罪人も大勢いたことでしょう。
『ささら踊り』が行われているのは、このような罪人たちの霊の煩悩を打消し、成仏させるためだったのかも?


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[2015/05/12 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)