弥生時代にタイムスリップ?
唐古・鍵遺跡は弥生時代中期の遺跡とされ、青銅器鋳造炉跡、木棺墓、井戸跡、環濠などが検出されています。
写真は唐古遺跡より出土した土器の破片に描かれていた楼閣を復元したものです。
楼閣にたくさんの鳥がとまっている・・・
と思ったのですが、よく見ると鳥は作り物でした。
土器には楼閣の屋根に逆S字の線が3本描かれていました。
この逆S字の線は鳥だろうと解釈され、それで復元楼閣にも鳥をとまらせたそうです。
遊び心があっていいですね♪
唐古・鍵遺跡からは数多くの絵画土器が出土しているのですが、魏志倭人伝に記された倭人の風俗を思いださせるものがあるそうです。
魏志倭人伝によれば、『倭人は顔や体に刺青をしている』と記されていますが、唐古・鍵遺跡から出土した絵画土器の中には顔に刺青を“した人物が描かれていたり
魏志倭人には『骨を焼いて吉凶を占う』とありますが、占いに用いたと思われる焼かれた鹿の骨が出土しています。
また邪馬台国には楼閣があったということですが、絵画土器に描かれた楼閣は邪馬台国にあったものを描いたのではないかとも思えます。
この唐古・鍵遺跡が衰退したのち、纏向遺跡が発展していきます。
纏向遺跡とは奈良県桜井市の三輪山西北一帯の遺跡で、卑弥呼の墓ではないかとされている箸墓などを含む地域です。
箸墓 桜そのため、邪馬台国は始め唐古・鍵遺跡にあったのが、のちに纏向遺跡に移ったのではないかという説もあります。
纏向遺跡では祭祀用の建物と土抗、祭祀用具、物流のための運河などが確認されています。
しかし弥生時代の住居跡は確認されていません。
そのため三輪山の祭祀や市が設けられた場所ではないかとする説もあります。
私は邪馬台国は纏向遺跡を中心とした地域にあったと考えています。
(その理由については、
崇神天皇陵 夕日 『邪馬台国を旅する?』 をお読み下さい。)
とすれば、纏向遺跡よりも古い時代のものとされる唐古・鍵遺跡は卑弥呼の先祖が住んでいた場所かもしれません。
籠神社で発見された系図では始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていました。
卑弥呼とはこの日女命の音に漢字をあてたものだとする説があります。
とすれば、卑弥呼とは倭迹迹日百襲姫命のことだということになりますが、
魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓の大きさとほぼ同じ大きさの箸墓は、倭迹迹日百襲姫命の墓だとされています。
そして始祖の彦火明命は別名をニギハヤヒといいます。
ニギハヤヒとは物部氏の祖神とされる神です。
唐古・鍵遺跡は物部王朝の都であったのかも?
唐古・鍵遺跡から青銅器鋳造炉跡が発見されていますが、記紀神話に登場する鍛冶の神は天津麻羅といい、、伊斯許理度売命(いしこりどめ)という神が鏡を作るための製鉄を行ったと考えられています。
そして天津麻羅は物部造等の祖とされています。
また唐古・鍵遺跡の近くにある鏡作神社の御祭神は天照国照彦火明命となっていますが、天照国照彦火明命とはニギハヤヒ=彦火明命の別名です。
唐古・鍵遺跡・・・奈良県磯城郡田原元町大字唐古及び大字鍵
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