fc2ブログ














石光寺 牡丹 と 當麻寺 蓮華草 『中将姫は沈む太陽を擬人化したものだった?』 

この時期、二上山のふもとにある石光寺では牡丹が見頃となります。

石光寺 牡丹


石光寺から10分ほど歩くと蓮華畑の向こうに當麻寺が見えてきます。


當麻寺 蓮華草

塔百景44


當麻寺の牡丹も見事なんですが、當麻寺の牡丹の写真はまた改めてアップします。

石光寺と當麻寺にはこんな伝説が伝えられています。


奈良時代、藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前の間に娘が誕生し、中将姫と名付けられました。
紫の前は中将姫が5歳のときになくなり、豊成は照夜の前を後妻としました。
照夜の前は中将姫を嫌い、事あるごとに中将姫をいじめました。
中将姫が14歳のとき、父の豊成は諸国巡視の旅に出かけました。
継母の照夜の前は従者に中将姫の殺害を命じました。
しかし従者はかわいそうに思って中将姫を殺すことができず、雲雀山に置き去りにしました。
中将姫は雲雀山で念仏三昧の生活をおくっていましたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻りました。
その後、出家して當麻寺に入りました。

26歳のとき、中将姫は蓮の茎から糸をつむぎ、石光寺の庭に井戸を掘って糸を浸したところ五色に染まりました。
中将姫はその蓮糸をつかい、一夜のうちに當麻曼茶羅を織りあげました。
29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かいました。


中将姫には天照大神のイメージがあると思います。

天照大神が天の機屋にいたところ、スサノオが馬の逆剥ぎをなげこみ、それに驚いた織女の一人がほとをついて死んでしいまいました。

古事記には↑上記のように記されていますが、日本書記ではほとをついて死んだのは天照大神自身であるとされています。
つまり、天照大神は織女だったのです。
そして蓮糸で當麻曼荼羅を織り上げた中将姫もまた織女です。

また和歌山県の淡嶋神社の神様『淡島さん』は、天照大神の6番目の御子神であるともいわれています。
『神が子を産む』とは『神が分身を産む』ということではないかとする説があります。
すると淡島さんとは天照大神の分身だということになります。

『淡島さん』は婦人病にご利益があるとして厚く信仰されましたが、中将姫は雲雀山で自分をかくまってくれた藤村家の人々に婦人薬(中将湯)の製法を教えたという伝説があります。
中将姫も天照大神の分身だと考えられる淡島さんと同じく、婦人病にご利益のある神様だったのです。

奈良では三輪山から太陽が昇り、二上山へ沈みます。
そして當麻寺や石光寺は二上山のふもとにあります。
中将姫とは沈みゆく太陽を擬人化したものなのではないでしょうか。

※石光寺・當麻寺については下記の記事にも書きましたのでお読みいただけると嬉しいです♪

石光寺 當麻寺 寒牡丹 『二上山と西方浄土』
石光寺 百日紅(さるすべり) 『中将湯とバスクリン』

石光寺・・・奈良県葛城市染野387
當麻寺・・・奈良県葛城市當麻1263


いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/04/29 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

唐古・鍵遺跡 夕景 『唐古・鍵遺跡は物部王朝の都の跡だった?』 

弥生時代にタイムスリップ?

唐古遺跡



唐古・鍵遺跡は弥生時代中期の遺跡とされ、青銅器鋳造炉跡、木棺墓、井戸跡、環濠などが検出されています。
写真は唐古遺跡より出土した土器の破片に描かれていた楼閣を復元したものです。

楼閣にたくさんの鳥がとまっている・・・
と思ったのですが、よく見ると鳥は作り物でした。

土器には楼閣の屋根に逆S字の線が3本描かれていました。
この逆S字の線は鳥だろうと解釈され、それで復元楼閣にも鳥をとまらせたそうです。
遊び心があっていいですね♪

唐古遺跡3


唐古・鍵遺跡からは数多くの絵画土器が出土しているのですが、魏志倭人伝に記された倭人の風俗を思いださせるものがあるそうです。

魏志倭人伝によれば、『倭人は顔や体に刺青をしている』と記されていますが、唐古・鍵遺跡から出土した絵画土器の中には顔に刺青を“した人物が描かれていたり

魏志倭人には『骨を焼いて吉凶を占う』とありますが、占いに用いたと思われる焼かれた鹿の骨が出土しています。

また邪馬台国には楼閣があったということですが、絵画土器に描かれた楼閣は邪馬台国にあったものを描いたのではないかとも思えます。

この唐古・鍵遺跡が衰退したのち、纏向遺跡が発展していきます。
纏向遺跡とは奈良県桜井市の三輪山西北一帯の遺跡で、卑弥呼の墓ではないかとされている箸墓などを含む地域です。

箸墓 桜  箸墓 桜


そのため、邪馬台国は始め唐古・鍵遺跡にあったのが、のちに纏向遺跡に移ったのではないかという説もあります。

纏向遺跡では祭祀用の建物と土抗、祭祀用具、物流のための運河などが確認されています。
しかし弥生時代の住居跡は確認されていません。
そのため三輪山の祭祀や市が設けられた場所ではないかとする説もあります。

私は邪馬台国は纏向遺跡を中心とした地域にあったと考えています。
(その理由については、崇神天皇陵 夕日 『邪馬台国を旅する?』  をお読み下さい。)

とすれば、纏向遺跡よりも古い時代のものとされる唐古・鍵遺跡は卑弥呼の先祖が住んでいた場所かもしれません。

籠神社で発見された系図では始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていました。
卑弥呼とはこの日女命の音に漢字をあてたものだとする説があります。
とすれば、卑弥呼とは倭迹迹日百襲姫命のことだということになりますが、
魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓の大きさとほぼ同じ大きさの箸墓は、倭迹迹日百襲姫命の墓だとされています。

そして始祖の彦火明命は別名をニギハヤヒといいます。
ニギハヤヒとは物部氏の祖神とされる神です。

唐古・鍵遺跡は物部王朝の都であったのかも?

唐古・鍵遺跡から青銅器鋳造炉跡が発見されていますが、記紀神話に登場する鍛冶の神は天津麻羅といい、、伊斯許理度売命(いしこりどめ)という神が鏡を作るための製鉄を行ったと考えられています。
そして天津麻羅は物部造等の祖とされています。

また唐古・鍵遺跡の近くにある鏡作神社の御祭神は天照国照彦火明命となっていますが、天照国照彦火明命とはニギハヤヒ=彦火明命の別名です。

唐古遺跡2 


唐古・鍵遺跡・・・奈良県磯城郡田原元町大字唐古及び大字鍵


いつも応援ありがとうございます!

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/04/22 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

木地師の里 八重桜 出猩々『惟喬親王の髑髏は髑髏杯にされた?』 

玄武神社 やすらい祭 『胴体がなく、首の長い神様』  より続きます

↑ 前回の記事で私は次のようなことを書きました。

①古の人々は蛇を胴体がなく頭部に長い首がついた動物だと考えたのではないか。
②大神神社の御祭神・大物主は蛇神とされるが、胴体がなく頭部に長い首がついた神だと考えられていたのではないか。
③惟喬(これたか)親王を祀る玄武神社には三輪明神(大神神社の神)を祀る社があり、大神神社で行われた鎮花祭をルーツとするやすらい祭を行っている。
④惟喬親王が木地師の用いる轆轤(ろくろ)を発明したという伝説があるが、親王が轆轤を発明するとは考えにくい。
轆轤は妖怪・ろくろ首を思わせる。
惟喬親王もまた胴体がなく頭部に長い首がついた神だと考えられていたのではないか。


トンデモ説だよ~、と思われた方もおられるかと思います。
なので、もう少し惟喬親王の謎を追い求めて旅をすることにしましょう~。

↓ 滋賀県東近江市君ヶ畑にある金龍寺です。

金龍寺 八重桜 
惟喬親王は平安時代の人物で父親は文徳天皇、母親は紀静子でした。
文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)という皇子もありました。
文徳天皇は長子で聡明な惟喬親王を皇太子にしたいと思っていましたが、当時は藤原氏が強い権力を持っていたため、惟仁親王が皇太子となりました。
皇太子争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲したとされます。
小野の里とは京都の大原あたりとされ、大原には惟喬親王の墓もあります。

しかし君ヶ畑ではこれとは別の伝説を伝えています。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は君ヶ畑に隠棲し、法華経の軸が転がるのを見て轆轤を発明。
そしてこれをこの土地の住民に伝え木地師が生まれたというのです。

金龍寺はこの地で惟喬親王が住んだ高松御所跡とされます。

↓金龍寺境内には小さな社がありました。

金龍寺 八重桜2 


社の向かって右にある石碑には「惟喬親王勧請 鎮守神 御池大龍権現 天狗堂大僧頭権現」と記されていました。
「惟喬親王が勧請した御池大龍権現と天狗堂大僧頭権現をお祀りしています」というような意味でしょうか。

↓ 金龍寺の隣には惟喬親王の墓がありました。

惟喬親王-墓2 
↓ 金龍寺から歩いて数分のところに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)にがありました。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社の御祭神は惟喬親王です。
かつて政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者は死後怨霊となり、疫病や天災をもたらすと考えられていました。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王も死後怨霊になったと考えられた結果、神として祀られたのでしょう。
前回ご紹介した玄武神社の御祭神も惟喬親王でした。

↓ 惟喬親王の墓(陵)は金龍寺の隣だけでなく、筒井の地にもありました。


惟喬親王-墓 

陵の隣には惟喬親王像が置かれていました。

惟喬親王像 

山深いところで訪れる人の姿は全くありませんでした。

蛭谷の筒井神社の奥には木地師資料館があり、ここにも惟喬親王像が置かれていました。

木地師資料館 惟喬親王像 

惟喬親王は大きな茶碗を持っています。

茶碗といえば黒田官兵衛の兜は茶碗をひっくり返したような形をしていました。
http://matome.naver.jp/odai/2139711378115060501

黒田官兵衛が茶碗をひっくり返したような形の兜をかぶっていたのは、茶碗が髑髏をイメージさせるものであったからではないかと私は考えています。

織田信長が浅井長政らの髑髏に漆を塗って杯にしたとか、江戸時代の漢詩人・高野 蘭亭、徳川光圀らが髑髏杯を持っていたなどといわれています。
髑髏杯とは人間の髑髏で作った杯のことです

奈良・西大寺の大茶盛では人の頭ほどもある大きな茶碗でお茶を回し飲みしますが、これも髑髏杯をイメージしているのではないでしょうか。
そういえば、大皇器地祖神社の周辺は茶畑となっていました。

惟喬親王は京都の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったとう伝説もありますが、髑髏と漆は髑髏杯をつくるのにかかせないものであったようです。
また真言立川流では髑髏に漆を塗り重ねて髑髏本尊なるものを作っていたとされます。

惟喬親王の髑髏は髑髏杯にされたか、髑髏本尊にされたのではないでしょうか。

それで「轆轤(妖怪ろくろ首を思わせる)を発明した」とか、「虚空蔵菩薩から漆の製法を授かった」などの伝説が作られ、大きな茶碗を持つ惟喬親王像が作られたのかも?

やっぱりトンデモ説でしたか?(汗~)

金龍寺付近 出猩々 

出猩々という楓だと思うのですが、芽吹きが赤色で、葉が徐々に黄緑色に変化します。
もうそろそろ初夏ですね~。

金龍寺・・・滋賀県東近江市君ヶ畑町809
大皇器地祖神社・・・滋賀県東近江市君ヶ畑町977
惟喬親王陵・・・滋賀県東近江市筒井峠 
木地師資料館・・・東近江市蛭谷町176

いつも応援ありがとうございます!


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/04/20 00:00] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)

玄武神社 やすらい祭 『胴体がなく、首の長い神様』 


玄武神社 やすらい祭2  

4月第二日曜日、京都の今宮神社、玄武神社でやすらい祭が行われます。
写真は玄武神社のやすらい祭です。

昔の人は桜の花びらに乗って疫神が散っていく、と考えたそうです。
そこで疫神を慰霊するため、奈良の大神大社で『鎮花祭』を行うようになりました。
京都のやすらい祭はこの『鎮花祭』をルーツとし、念仏踊りを加えたものです。

玄武神社 やすらい祭

玄武神社の境内には三輪明神を祀る社がありました。
写真を撮ったつもりだったんですが、うっかり消してしまったのか見当たりません・・・。

三輪明神とは大神神社の神、大物主のことです。
さきほど「大神神社で鎮花祭が行われるようになった」と書きました。
玄武神社で三輪明神を祀っているのは、ここで鎮花祭をルーツとする「やすらい祭」が行われていることと関係があるのかもしれませんね。

三輪明神・・・大物主は蛇神とされていますが、宇賀神(うがじん)と呼ばれる神は人頭蛇体のおすがたをしておられます。

宇賀神

↑ 上の写真は三室戸寺の境内に置かれている宇賀神の石像です。

世界各地で太陽神を蛇神とする信仰があります。
脱皮を繰り返す蛇は再生をイメージさせ、同様に再生を繰り返す太陽のイメージと重ねられたと言われています。
でも、太陽が丸いのに対し、蛇は細長く全く形が異なります。
なぜ蛇が太陽神とされたのか納得できませんでした。

でも宇賀神のおすがたを見て、なぜ蛇が太陽神とされたのかがわかったような気がしました。

http://oomiwa.or.jp/about/miwayama/#linktop
↑ 大神神社のHPに大神神社のご神体である三輪山の日の出の写真が掲載されています。

この写真と上の宇賀神の写真を見比べてみてください。
三輪山は蛇がとぐろを巻くおすがただといわれています。
すると宇賀神の頭部と、三輪山の頂近くに昇った太陽が重なって見えてしまいます。
宇賀神の頭部は山の頂に昇った太陽を擬人化したものではないでしょうか。

また、昔の人は蛇とは胴体がなく、頭部に長い首のついた動物だと考えていたのではないでしょうか。
大神神社の御祭神・大物主も胴体がなく、頭(髑髏)に長い首がついたおすがたをした神だと考えられていたのではないかと思うのです。

玄武神社の御祭神は平安時代の人物で、文徳天皇の第一皇子であった惟喬(これたか)親王です。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て轆轤(ろくろ)を発明したという伝説があり、木地師の祖とされています。

ろくろ 

↑ 上の写真は木地師の里(滋賀県東近江市蛭谷)に展示されていた轆轤の写真です。
ろくろの先端に器などに加工する木材をセットし、刃物を木材にあてます。
巻きつけた紐をひっぱって轆轤を回転させると、木材を丸い形に加工できるというわけです。

ろくろ首という妖怪がいますが、ろくろ首とは木地師が用いる轆轤の妖怪なのでしょう。
ひもを巻きつけた細長い棒状の部分を首、轆轤の先端にあてた器を頭部に見立てたのだと思います。

親王という高い身分の方が本当に轆轤を発明したとは考えにくいです。
惟喬親王も大物主同様、胴体がなく髑髏に長い首がついたおすがたをした神であると考えられた結果、轆轤を発明したという伝説が生じたのではないでしょうか。

玄武神社・・・京都府京都市北区紫野雲林院町88

木地師の里 八重桜 出猩々『惟喬親王の髑髏は髑髏杯になった?』 へつづく~

いつも応援ありがとうございます!


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2015/04/18 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

白毫寺 五色椿 『一切経寺と呼ばれた百毫寺』 

白毫寺 五色椿

随分前にフィルムで撮影した百毫寺の五色椿です。
珍しくソフトフィルターを使いました。

時間がたって落ち椿の花びらがばらばらになっていましたが、そういったところにかえって風情を感じましたよ。
タイトルは『終焉』としたのですが、いかがでしょうか。

五色椿が見頃となる4月8日、百毫寺では一切経法要を行っているそうです。(行ったことはないのですが~)

百毫寺は志貴皇子の邸宅跡だと伝わり、鎌倉時代に西大寺の僧・叡尊によって再興されました。
その後、叡尊の弟子・道照らが宋版一切経の摺本を日本に将来して百毫寺の経蔵に収めました。
このため百毫寺は一切経寺とも呼ばれました。

一切経の摺本が百毫寺に収められたのは、百毫寺が重要な寺であると認識されていたためだと思います。

百毫寺は志貴皇子の邸宅跡と伝わっていますが、志貴皇子は暗殺されたという説があります。

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとありますが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっています。

笠金村という人が志貴皇子の挽歌を詠んでいます。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせます。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思えます。

これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われるというのです。
(参照/百毫寺 萩 『志貴皇子 暗殺説』



百毫寺の萩

そして『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、奈良豆比古神社の語り部さんが次のような語りを伝承しておられるとのことです。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方でした。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそいました。
赤い衣装は天皇の印です。
志貴皇子は毎日神に祈りました。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていました。
志貴皇子がつけていたのは翁の面でした。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていました。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞いました。
これが翁舞のはじめです。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られました。

(参照/奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』

奈良豆比古神社ではこの伝承にもとづき、毎年10月に『翁舞を奉納しています。

奈良豆比古神社 


奈良豆比古神社の翁舞

奈良豆比古神社の翁舞は能・翁のルーツだと思われます。

奈良豆比古神社の翁舞では翁は冒頭で『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱えます。
能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっています。

12月に春日大社で春日若宮様のお祭り、おん祭が行われています。
このおん祭りで12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されます。
雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)といいますが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記されます。

謎の呪文「とうとうたらりたらりろ」とは『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』という唱歌なのではないでしょうか。
つまり、春日若宮様とは志貴皇子のことではないかと思うのです。
(参照/中秋の名月と采女祭 采女神社 『猿沢池の采女伝説のモデルとは?』

春日大社のおん祭は奈良でもっとも盛大に行われるお祭りです。
これは奈良の人々がいかに春日若宮=志貴皇子を厚く信仰していたかを示すものだと思います。

そのため、宋版一切経の摺本は志貴皇子の邸宅跡とされる百毫寺に収められたのではないかなあ、と思ったりします。

百毫寺の五色椿は興福寺の塔頭、喜多院から移植されたものだそうですが、興福寺は藤原氏の氏寺であり、かつて藤原氏の氏神である春日大社と一体化していました。
興福寺においても志貴皇子は厚く信仰されていたことでしょう。
そういった関係から、興福寺の塔頭、喜多院の五色椿が百毫寺に移植されたのかも?

白毫寺・・・奈良市白毫寺町392

いつも応援ありがとうございます!


写真(風景・自然) ブログランキングへ

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/04/16 11:03] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

仁和寺 御室桜 『菅公腰掛け石の謎』 


仁和寺 御室桜

塔百景43


写真は2013年4月中旬に撮影したものです。

仁和寺の御室桜は遅咲きで知られていますが、今年は残念ながらもう散り始めているようです。
仁和寺の開花状況はこちら→http://hanami.walkerplus.com/detail/ar0726e26118/

御室桜と呼ばれるのはオムロアリアケの他、10数品種の桜のことをいいます。
なぜかここに植えられた桜は樹高が高くならないそうで、謎だとされていました。

近年の調査で、粘土質の土壌の上に水はけのいい土を約50cmほど盛り、そこに桜が植えられていることが判明しました。
粘土質の土壌が根の成長を妨げているため、樹高が低くなっているとのことです。

御室桜はお多福桜とも呼ばれ、こんな歌があります。
わたしゃお多福 御室の桜 鼻が低ても 人が好く(俗謡)
鼻に花をかけてあるのですね~。

仁和寺の境内に菅公腰掛石があります。
この石の下は井戸になっていて、柄の長いひしゃくが置かれています。
参拝者はひしゃくで水掛不動尊像に水をかけて参拝します。

仁和寺 菅公腰掛石 

菅公とは菅原道真のことです。

仁和寺の開祖・宇多天皇は菅原道真を重用していました。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位しましたが、その際、醍醐天皇にも道真を重陽するように、と言い含めていたそうです。
ところが901年、藤原時平が醍醐天皇に「道真は謀反を企てている。」と讒言し、
醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰府に流刑としてしまいました。
903年、道真は大宰府で死亡しました。
道真の死後、都では疫病が流行し、天変地異が相次ぐなどし、それらは道真の怨霊の仕業だと考えられました。

菅公腰掛石には次のような伝説があります。

道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとしました。
しかし宇多上皇は留守でした。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていましたが、会うことができないまま大宰府へ向かいました。


菅公腰掛石とは道真の怨霊を呪術的に封じ込めた石なのだと思います。
道真の怨霊を畏れた人々は、道真の怨霊を石に封じるだけでは十分ではないと考えたのでしょう。
それでその石の上に不動明王の石像をたたせて水掛不動尊と称し
毎日多くの参拝者が水をかけて怨霊に禊ぎをさせるようにしているのではないでしょうか。

仁和寺 御室桜2 


仁和寺・・・京都府京都市右京区御室大内33

いつも応援ありがとうございます!




にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/04/14 09:43] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

西明寺 みつばつつじ 『倍返し聖天と空海』 

紫色に燃える山を発見!!

西明寺 みつばつつじ2 
紫色の正体はみつばつつじの群生です。
↓ 写真向かって右下には西明寺が見えています。

西明寺 みつばつつじ 
以前の記事、西明寺(京都) 紅葉 『聖天さんのご利益は倍返しだ~!』 で、西明寺には聖天堂があり、『倍返しのお守り』が授与されているということをお話ししました。

聖天さんは歓喜天、大聖歓喜天ともいわれ、象頭の男女が抱き合う姿で表されます。

そして聖天さんには次のような伝説があります。

マラケイラレツ王は牛と大根が好物でした。
牛を食べつくしてしまうと死人の肉を、死人の肉を食べつくしてしまうと生きた人の肉を食べました。
人々はこれを憂い、マラケイラレツ王に対して挙兵しました。
するとマラケイラレツ王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
その後鬼王ビナヤキャの祟りで疫病が流行りました。
そこで十一面観音がビナヤキャ女神に姿を変えて鬼王ビナヤキャの前に現れました。
鬼王ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、妻になれと命じました。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うのならばあなたの妻になりましょう」と言いました。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓ってビナヤキャ女神を妻としました。


 ←こちらのサイトに歓喜天の絵が掲載されています。

足を踏みつけているのがビナヤキャ女神、踏みつけられているのが鬼王ビナヤキャです。
足を踏みつけているのはビナヤキャ女神がビナヤキャの祟る力を押さえつけていることをあらわしているのでしょう。

西明寺に聖天堂が作られたのは、空海が関係しているのではないかと思います。

西明寺は天長年間(824~834)に空海の高弟・知泉が神護寺の別院として創建したと伝わっています。
神護寺は西明寺からほど近いところにあります。

神護寺は和気氏の私寺・神願寺と高雄山寺が824年に合併してできたお寺ですが、和気氏の氏寺というよりも、
空海が開いた真言宗の寺としての性格が強い寺であったようです。
812年には空海が高尾山寺に住んでいました。(空海は佐伯氏で和気氏ではありません。)
824年、神願寺と高雄山寺の寺地を交換し、寺号を神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改め、定額寺となりました。
定額寺とは官の保護を受ける私寺のことです。
寺名に『真言』とありますが、空海は真言宗の開祖です。
その後も空海の弟子が別当となっています。

804年7月、空海と天台宗の開祖・最澄はともに遣唐使として唐へ向かいました。
最澄は1年足らずで帰国しましたが、空海は最澄が帰国したのちも唐に滞在し、806年10月に帰国しました。

最澄はまだ無名だった空海に弟子入りし、密教を教わっています。
しかし忙しい最澄はしだいに経典を借りて読むだけで、空海から直接教えを乞うことが減っていきました。
813年、最澄は『理趣釈経(理趣経の解説本)』を貸してほしいと空海に頼みましたが、空海はこれを断りました。
このことによって、最澄と空海は決別したということです。

空海が最澄に理趣釈経を貸さなかった理由は、経典をよむだけで修行もせずに理趣経を理解することはできないから、といわれています。
でも本当は、空海は理趣経を自分だけのものにしたくて、最澄に教えるのが嫌だったのかも?
(空海ファンの方、すいません。)

一般的な仏教は性行為や人間の欲望に否定的ですが、理趣経はこれらを肯定しています。

男女双体のみほとけ・聖天さんに対する信仰は理趣経と関係がありそうに思えます。

聖天さんが神護寺の別院・西明寺に祀られているのは、空海が理趣経をいかに大事に思っていたかを示しているようにも思えるのです。

西明寺・・・京都市右京区梅ケ畑槇尾町2


いつも応援ありがとうございます!



にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/04/12 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

談山神社 桜 『福禄寿の頭はなぜ長いのか?』 


談山神社 桜

塔百景42

2015年4月8日、談山神社へ行ってきました。
桜が満開でした。
とても寒い日で前日雪が降ったらしく、地面に雪が残っていました~。

談山神社 桜 


上の写真は談山神社の総社拝殿です。
総社拝殿には七福神の一、福禄寿が祀られていました。

福禄寿は頭の長い神様で、寿老人とともに南極老人星の化身とされています。

リンク先のウィキペディアの画像では福禄寿と寿老人はあまり似ていませんが、二神はそっくりに表されることもあります。

寿老人は頭巾をかぶり(頭巾をかぶっていない寿老人像もあります。、福禄寿は頭巾をかぶらないお姿をしているのが一般的です。

さて、なぜ福禄寿と寿老人は長い頭をしているのでしょうか?

滋賀の西教寺の堂内に小さな福禄寿像が置かれてあったのを思い出します。
その福禄寿像は瓢箪型の頭部をしていました。

中国に瓢箪にまつわる次のような伝説があります。

二人の兄妹、伏羲と女媧が雷神を助けたところ、雷神がお守りをくれました。
このお守りを土に埋めると芽がでてみるみる内に大きくなり瓢箪の実がなりました。
あるとき大洪水がおこって地上の人類はみな死にましたが、兄妹は瓢箪の中に逃れていたので助かりました。
のちに二人の兄妹は結婚して夫婦となりました。


瓢箪はふたつのふくらみがくっついたような形をしています。
大きいふくらみは伏義を、小さいふくらみは女媧をあらわしているのではないでしょうか。

福禄寿と寿老人は合体しているため、頭部がふたつあり、そのため頭部が瓢箪型をした福禄寿像がつくられたのではないでしょうか。
そして福禄寿と寿老人の頭部が長いのは、頭部がふたつある(福禄寿と寿老人が合体している。)ことを示しているのではないかと思うのです。

そう考えると福禄寿も寿老人もどちらも南極老人星の化身だとされていることの理由も説明がつくと思うのですが、いかがでしょうか?

談山神社・・・奈良県桜井市多武峰319

いつも応援ありがとうございます!


写真(風景・自然) ブログランキングへ

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/04/10 12:58] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

吉野 蔵王堂 如意輪寺 山桜 『さくらの語源』 

 
金峯山寺 蔵王堂 桜


吉野の桜が見ごろになっているようです。
開花状況はこちら → 2015吉野山桜開花情報

上の写真は2011年4月中旬に撮影した吉野の金峯山寺・蔵王堂、下は如意輪寺です。

如意輪寺 桜 

塔百景41


平安時代ごろより、吉野山に蔵王権現のご神木・桜を奉納する習慣が生じ、多くの桜が植えられるようになりました。

吉野山に奉納されたのは山桜です。
現在では桜というとソメイヨシノですが、ソメイヨシノは江戸時代に品種改良されたもので、平安時代にはソメイヨシノはなかったのです。
山桜はソメイヨシノのような華やかさはありませんが、ぼうっと煙ったようなピンク色が美しいですね。

さて桜という言葉の語源は諸説あります。

①「咲く」に接尾語の「ら」がついて「さくら」となった。
②記紀に登場する「このはなさくやひめ」の「さくや」が「さくら」と転化した。
③「さ」は神聖なものにつく接頭語(さみだれ、さおとめなど)、「くら」は神様の座る「御座(みくら)」

私は次のように考えています。

「さ」は神聖なものにつく接頭語で、「くら」は蔵王権現を意味しているのではないかと。
蔵王権現の「蔵」は「くら」と読みます。

つまり、「さくら」とは「蔵王権現」そのものをあらわしているのではないかと思うのです。
そのため、蔵王権現がすまう吉野山に多くの桜が奉納されたのではないでしょうか。

金峯山寺 蔵王堂 桜 

  
金峯山寺・・・奈良県吉野郡吉野町吉野山
如意輪寺・・・奈良県吉野郡吉野町吉野山1024

いつも応援ありがとうございます!


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/04/09 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

新薬師寺 きくももとお松明 『藤原広嗣の怨霊、聖武天皇に祟る?』 


新薬師寺 きくもも 
写真は2009年4月に撮影した新薬師寺のきくももです。

お松明(修二会)といえば東大寺・二月堂のものが有名ですが、新薬師寺でもお松明(修二会)の行事が行われています。

2014年4月、新薬師寺の修二会を見るために新薬師寺を訪れたのですが、伐られてしまったらしく、きくももはありませんでした~。

新薬師寺 松明


お堂の傍らに大きな松明が置かれていました。長さは7mもあるのだとか。

新薬師寺 お松明  

午後7時ごろ、お松明の行事が始まりました。

二月堂のお松明のように、長時間露光で撮りたかったんですが
本堂の前に大勢の参拝者さんがいるので、脚立に乗って高い位置から撮影しないと、と松明が参拝者さんたちの蔭に隠れてしまうんですね。
暗いところで脚立に乗るのがこわいので(高所恐怖症です・・・)
あきらめて本堂の前のほうで撮影しましたが、これはこれで面白かったです♪

新薬師寺の隣には鏡神社があり、藤原広嗣を祀っています。
鏡神社は新薬師寺の鎮守です。

鏡神社

729年、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、長屋王が謀反を企てているとでっちあげ、長屋王を自殺に追い込みました。(長屋王の変)
長屋王を廃した藤原四兄弟は妹の光明子を人臣初の皇后とすることに成功します。
しかし737年、天然痘が流行り藤原四兄弟は次々に天然痘にかかって死亡してしまいました。
そしてそれらは長屋王の怨霊の祟りだと噂されたのです。

そんな中、朝廷では橘諸兄が権力を握るようになりました。
橘諸兄は吉備真備と玄昉を重用し、藤原広嗣(藤原宇合の長男)を大宰府に左遷してしまいました。
740年、不満を持った広嗣は大宰府で挙兵しますが、朝廷軍に敗れて斬殺されました。

747年、新薬師寺は光明皇后(藤原光明子)が夫聖武天皇の病気平癒のためにたてたとされます。
藤原四兄弟の例からもわかるように、当時、病は怨霊の祟りがひきおこすと考えられていました。
聖武天皇の病は長屋王や藤原広嗣の怨霊の仕業だと考えられたのでしょう。

806年、新薬師寺の鎮守として藤原広嗣を御祭神とする鏡神社が創建されました。

広嗣の怨霊の祟りで聖武天皇が病となったと考えられ、その治癒を祈願して新薬師寺を建てたのに、なぜ広嗣を祀る鏡神社を新薬師寺の鎮守にするのか、と思われるかもしれません。

怨霊は神として祀り上げると守護神に転じるという信仰がありました。
聖武天皇の病が広嗣の怨霊の仕業なのであれば、広嗣を神として祀り上げて守護神にするのが最良の方法だと考えられたのではないでしょうか。

新薬師寺 お松明2

[2015/04/07 00:02] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)