金戒光明寺の紅梅の傍らには『直実鎧掛けの松』がありました。
熊谷直実が鎧を洗い、この松に掛けたというのです。
熊谷直実(1141-1207)は平安末期~鎌倉初期の武将で、もともとは平家に仕えていたのですが、のちに源頼朝に仕えるようになりました。
『平家物語/敦盛最期』に次のような物語が記されています。
1184年の一の谷の戦いで、直実は平家の若武者を呼びとめて一騎打ちを挑みました。
直実は若武者を馬から落とし、首をとろうと顔を見ると、自分の息子と同じくらいの若者でした。
そのため直実は若武者を逃そうとしましたが、周囲には源氏の兵が大勢います。
「どうせ殺されるのであれば私があなたを殺して、後世のために供養いたしましょう。」
直実はこういって泣く泣く首を斬りました。
直実は若武者が身につけていた袋の中から笛を見つけました。
戦場においても笛を身に着けている若武者の気品に武士たちは心を打たれました。
のちに首実検したところ、この若武者は平清盛の甥の平敦盛、17歳とわかり、直実は出家して敦盛の供養をしたいと強く願うようになりました。1193年ごろ、直実は法然の弟子となって出家しました。
法然にすすめられて敦盛の七回忌の供養も行っています。
金戒光明寺は直実の師・法然が開いた寺です。
そして金戒光明寺の塔頭の蓮池院(れんちいん) は熊谷直実が出家して庵を結んだ場所です。
私たちの先祖はストレートな物言いを好まず、比喩的に表現することを好みました。
「熊谷直実が鎧を洗い、金戒光明寺の松に掛けた」という伝説は、本当に『熊谷直実が鎧を洗って松にかけた』ということではなく、『直実が武将をやめ、ここで仏門に入った』ことを意味しているのだと思います。
金戒光明寺・・・京都府京都市左京区黒谷町121
[2015/03/27 06:00]
京都府 |
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