北野天満宮の梅が見ごろとなっているようです。
梅の開花状況 →
http://www.okeihan.net/recommend/ume/migoro/北野天満宮の御祭神・菅原道真は現在は学問の神として信仰されていますが、もともとは疫病や天災をもたらす怨霊として畏れられていました。
菅原道真((845年~903年)は宇多天皇、醍醐天皇に重用され、右大臣にまで上り詰めました。
901年、これに嫉妬した藤原時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言し、これを信じた醍醐天皇は道真を大宰府に左遷しました。
903年、道真は大宰府で失意のうちに亡くなりました。
その後、、909年には醍醐天皇に讒言した藤原時平が39歳で病死しました。
923年には醍醐天皇の皇子で皇太子だった保明親王が21歳で薨去しました。
保明親王の母親は藤原時平の同母妹の藤原穏子で、保明親王は時平の甥にあたります。
そこで醍醐天皇は保明親王の子の慶頼王を皇太子としましたが、925年、慶頼王はわずか5歳で夭折しました。
また疫病が流行り、天災が相次ぐなどし、それらは道真の怨霊の仕業であると噂されました。
930年、清涼殿で干ばつ対策会議を行っていたところに落雷があり、道真左遷に関わった人物が大勢死傷しました。
この3か月後に醍醐天皇は崩御しましたが、道真の怨霊を畏れるあまりノイローゼになったことが原因であるといわれています。
947年、道真を御祭神とする北野天満宮が創建されました。
のちに、藤原時平の甥の藤原師輔が自分の屋敷を寄進して立派な社殿に作り直されたようです。
北野天満宮が創建される前年の946年、村上天皇が即位しています。
村上天皇は道真の怨霊を畏れてノイローゼとなって崩御した醍醐天皇の第十四皇子です。
私は北野天満宮の創建には村上天皇の意志も大きく働いていたと思います。
北野天満宮では年末に梅園でとれた梅を梅干しにしたものを『大福(おうぷく)梅』と称して授与しています。

京都では正月にこの大福梅を入れたお茶(大福茶)を飲む習慣があるのです。
この『大福茶』について、『都名所図絵雑談抄』は次のように記しています。
『(村上)天皇御脳にかかり給いしが、この茶を服し給えば御脳たち所に平癒す。
これより王服と称して毎年元旦にこの茶を服し給い、萬民これを倣い年中の疫病邪気を除き長寿幸福を得るなり。』
『大福』は『王服』に慶字をあてたものです。
『御脳にかかる』というのがよくわからないのですが(ご存じの方、教えてください!)
ノイローゼにかかった、という意味でしょうか?
なぜ村上天皇は御脳にかかったのでしょうか。
村上天皇は醍醐天皇の皇子であるので、道真の怨霊の祟りが自分にもあるのではないかと畏れたのではないでしょうか。
北野天満宮・・・京都府京都市上京区馬喰町いつも応援ありがとうございます♪
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