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氷室神社 枝垂れ桜 南都鏡神社 『鷹乃井と鏡池の謎』 


氷室神社のしだれ桜は奈良で一番早く咲くと言われています。

himuroのブログ
http://ameblo.jp/himurojinja/entry-12008338829.html
↑ こちらを見ると3月31日の次点で満開になっているようです。

氷室神社 しだれ桜2 
写真は2011年4月初旬に撮影したものです。

氷室神社 鷹の井  

↑ 氷室神社の境内に鷹乃井があります。
写真がないのですが、この向こう側に鏡池があります。

能に「野守」という演目があります。

大和の春日野に鏡のように美しい池がありました。
山伏は春日野の番人の老人にこの池の謂れを尋ねると、老人は次のように答えました。
「私のような野守が姿を映すので、この池を“野守の鏡”といいますが、もともとは昔この野に住む鬼が持っていた鏡のことを野守の鏡といいました。
昔、御狩の際に鷹の行方が判らなくなりましたが、野守が指し示したこの池の水に鷹の姿が映ったのです。」
山伏が「見てみたい」と言うと、老人は「鬼神の鏡を見るのは恐ろしいのでこの水鏡をごらんなさい」といい、鬼が棲んでいた塚に姿を消しました。
山伏が塚に向かって祈ると、鏡を持った鬼神が現れ、天界から地獄の底までを見せてくれました。


氷室神社の鷹乃井や鏡池はこの能と何やら関係がありそうです。

「野守」といえば、額田王が大海人皇子に送った次の歌を思い出します。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る/額田王
(紫草の生えた野で、野守に見られてしまうではないですか。あなたが私に袖を振っているのを。)


天智天皇・大海人皇子(のちの天武天皇)・額田王は三角関係だったとする説があります。
すると野守とは「男女関係を見張る人」の比喩であるように思われます。

新薬師寺の横に鏡神社があり藤原広嗣を御祭神としています。

鏡神社 

藤原広嗣を祀る神社のことをなぜ鏡神社というのかと疑問に思っていましたが、能「野守」からその疑問がとけました。

藤原広嗣は740年に九州で「藤原広嗣の乱」をおこしましたが、敗れて殺されました。

『今昔物語集』『源平盛衰記』によれば、当時の権力者・橘諸兄が重用していた僧の玄昉が光明皇后と密通し、それを広嗣が見咎め、これが乱を引き起こす原因のひとつになったと記されています。

能・野守に登場する鬼神とは藤原広嗣のことで、鬼神が持つ鏡には玄昉と光明皇后が逢引する様子が映っているのではないでしょうか。

それゆえ、広嗣を祀る神社を鏡神社と言うのではないかと思います。

境内に鷹乃井や鏡池がある氷室神社も広嗣と関係がある神社なのかもしれませんね。

氷室神社 しだれ桜 


氷室神社・・・奈良県奈良市春日野町1-4
南都鏡神社・・・奈良県奈良市高畑町468

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[2015/03/31 14:49] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

摩利支尊天堂 雪柳 『猪突猛進と言われるのはなぜ?』 

摩利支尊天 雪柳 

建仁寺塔頭の禅居庵境内に摩利支尊天堂があります。
お堂の前には雪柳が咲いていました。

摩利支尊天 狛猪 

境内には狛犬ならぬ狛猪がおかれています。

猪は摩利支天の神使とされています。
それで摩利支尊天堂には狛猪が置かれているのですね。

摩利支天は猪に乗ったお姿をしていることが多いです。
 ← こちらの写真では摩利支天は七頭の猪に乗っていますね。
摩利支尊天堂のご本尊も同様のお姿をしています。

向こう見ずに突き進むことを「猪突猛進」といいますね。
猪はまっすぐにしか進むことができないため「猪突猛進」という言葉が生まれたと言われることがあるようです。
しかし実際には猪は方向転換できるのです。
それなのになぜ「猪はまっすぐにしか進むことができない」などと言われるのでしょうか?

摩利支天は陽炎を神格化した神とされます。
陽炎は実体がないので傷つきません。
そのため摩利支天は武士たちから厚く信仰されていました。

陽炎とは天気のいい日に立ち昇るゆらめきのことですが、摩利支天の語源のMariciは、太陽や月の光線を意味しています。
陽炎は太陽の光によって生じるものなので、摩利支天は太陽の光を神格化した神だといってもいいでしょう。

太陽は東から西へ一直線に進みます。
太陽の光もまた東から西へ一直線に進みます。
そして猪は摩利支天の神使なので、東から西へ一直線に進むと考えられたのではないでしょうか。

摩利支尊天堂・・・京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町146

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[2015/03/29 10:33] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

金戒光明寺 紅梅 直実鎧掛けの松 『敦盛殺害を悔い仏門に入った直実』 

 
金戒光明寺の紅梅の傍らには『直実鎧掛けの松』がありました。

金戒光明寺 直実鎧掛け松 

熊谷直実が鎧を洗い、この松に掛けたというのです。

熊谷直実(1141-1207)は平安末期~鎌倉初期の武将で、もともとは平家に仕えていたのですが、のちに源頼朝に仕えるようになりました。

『平家物語/敦盛最期』に次のような物語が記されています。

1184年の一の谷の戦いで、直実は平家の若武者を呼びとめて一騎打ちを挑みました。
直実は若武者を馬から落とし、首をとろうと顔を見ると、自分の息子と同じくらいの若者でした。
そのため直実は若武者を逃そうとしましたが、周囲には源氏の兵が大勢います。
「どうせ殺されるのであれば私があなたを殺して、後世のために供養いたしましょう。」
直実はこういって泣く泣く首を斬りました。
直実は若武者が身につけていた袋の中から笛を見つけました。
戦場においても笛を身に着けている若武者の気品に武士たちは心を打たれました。
のちに首実検したところ、この若武者は平清盛の甥の平敦盛、17歳とわかり、直実は出家して敦盛の供養をしたいと強く願うようになりました。


1193年ごろ、直実は法然の弟子となって出家しました。
法然にすすめられて敦盛の七回忌の供養も行っています。

金戒光明寺は直実の師・法然が開いた寺です。
そして金戒光明寺の塔頭の蓮池院(れんちいん) は熊谷直実が出家して庵を結んだ場所です。

私たちの先祖はストレートな物言いを好まず、比喩的に表現することを好みました。
「熊谷直実が鎧を洗い、金戒光明寺の松に掛けた」という伝説は、本当に『熊谷直実が鎧を洗って松にかけた』ということではなく、『直実が武将をやめ、ここで仏門に入った』ことを意味しているのだと思います。

金戒光明寺 梅2 




金戒光明寺・・・京都府京都市左京区黒谷町121

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[2015/03/27 06:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

髄心院 はねず踊り 『花の色は 移りにけりな いたづらに』 

随心院 はねずおどり   

3月の終わりごろ、随心院では遅咲きの梅・はねずの梅が満開となります。
このころ例年であれば、『はねず踊り』が奉納されていたのですが、今年は中止なんでしょうか?
HPを見ても、2014年度の『はねず踊り』の案内しかありません?
http://www.zuishinin.or.jp/hanezu_web/index.html

髄心院 梅 

随心院は小野小町の邸宅があった場所だと伝わり、小町を慕う深草少将が百夜通いしたという伝説が残されています。
『はねず踊り』はこれを題材としたものです。

小野小町といえば百人一首にも選ばれている次の歌が思い出されます。

花の色は 移りにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
(花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
私の容色も花の色と同じで、恋の物思いにふけっている間にすっかり衰えてしまいました。)


この歌は古今和歌集では桜の歌とされています。
けれど、本来は桜ではなく、はねずの梅を詠んだ歌だと思います。

鮮やかな赤やピンクのはねずの梅の色のことも『はねず』といい、色褪せやすいことから『はねず』は『移る』の枕詞とされているからです。

小町の歌は『花の色は』のあとに『移りにけりな』と続きますから、花ははねずの梅だと考えたほうがぴったりきますね。



髄心院・・・京都府京都市山科区小野御霊町35

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[2015/03/25 06:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

東山花灯路 狐の嫁入り行列 『狐火の正体』 ~追記あり 

ねねの道を行く怪しげな行列を発見!

東山花灯路 狐の嫁入り行列  
 
人力車に白無垢を着た狐さんが乗っていました。狐の嫁入行列です!

東山花灯路 狐の嫁入り行列2


新潟県東蒲原郡阿賀町津川地区では頻繁に狐火が出現したといわれています。
嫁入り行列と平行していくつもの狐火が見えることがあり、これを『狐の嫁入行列』といいました。

狐火とはいったい何なのでしょうか?

新潟県は古くから石油や天然ガスの産地でした。
「日本書紀」天智 天皇の7年(668)の記事に 「越国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」とあります。
燃える土、燃える水とは石油のことだと考えられています。

狐火は雨の日に出現するといわれていますが、油に水をかけるとよけいに勢いよく燃えるようになります。
なので天ぷら油や石油ストープが燃え上がっていても、決して水をかけてはいけないそうです。
狐火が石油だと考えると、雨の日に出現する理由がわかりますね。

東山花灯路 狐の嫁入り行列3


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[2015/03/23 08:58] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

菅大臣神社 飛梅 『道真を慕って飛んできた梅の正体とは』 

東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春な忘るな

平安時代、藤原時平の讒言によって菅原道真は大宰府に左遷されることとなりました。
大宰府に向かう前、邸宅の庭の梅との別れを惜しんだ道真は、このように歌を詠みました。

道真は梅のほか、桜や松との別れも惜しんだようです。
この道真の邸宅の梅・松・桜には次のような伝説があります。

桜は道真との別れを悲しむあまり、枯れてしまいました。
梅と松は道真の後を追って大宰府へ向かって飛んでいきました。
松は途中で力尽き、兵庫県神戸市須磨区板宿町の飛松岡に根を下ろしました。
梅は無事大宰府まで飛びきり、道真に会うことができました。


大宰府天満宮にはこの道真を慕って飛んできた飛梅と呼ばれる梅があります。
私は大宰府天満宮には行ったことがないので、ウィキペディアの写真をご覧ください。↓
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dazaifu_Tenmangu_Plum_Tree_2004-03-07.jpg

京都の菅大臣神社にも飛梅と呼ばれる木があります。 ↓


管大臣天満宮 飛梅2 

菅大臣神社は道真の邸宅があった場所とされます。

菅大臣天満宮 飛梅 


大宰府天満宮の飛梅は白梅ですが、菅大臣神社の飛梅は紅梅です。
いったいどうなっちゃってるの?
北野天神絵巻を見ても道真が別れを告げている梅の木は紅梅です。

さて今日は、『飛梅伝説は何かを比喩的に表現したものではないか』ということについてお話しします。
実際に梅が空を飛ぶなどということはありえませんので。

梅は男色を意味するものだとも言われます。
道真は梅のほか、菊も大変愛していたようですが、菊も男色を意味するとされます。
すると道真を慕う男色の相手が大宰府までやってきた、ということなのかも?

少年愛の連歌俳諧史―菅原道真から松尾芭蕉まで という本も出版されています。まだ読んでいないのですが~。
この本のタイトル見ると、菅原道真は男色をたしなんでいたかのように思われます。

菅大臣天満宮本殿のかたわらに白太夫社がまつられています。 ↓

管大臣天満宮 梅 

白太夫とは道真を慕い道真に従って大宰府にやってきた度会(わたらい)春彦のことです。

道真に従って大宰府にやってきた人物としては味酒保行もいます。
彼は道真の死後50年も道真の墓守をしたとされています。

度会春彦、または味酒保行が道真の男色の相手だったのではないかなあ、と思ったりします。



菅大臣神社・・・京都市下京区仏光寺通新町西入ル菅大臣町187-1


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[2015/03/21 06:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪天満宮 梅 『七本松伝説』 


大阪天満宮 梅    

大阪天満宮は949年に創建された神社で、菅原道真を祀っています。

菅原道真が神として祀られるようになった経緯は以前の記事、北野天満宮 梅 『菅原道真の怨霊を畏れた村上天皇』 にも書いたのですが、もういちど書いておきますね。

菅原道真((845年~903年)は宇多天皇、醍醐天皇に重用され、右大臣にまで上り詰めました。
901年、これに嫉妬した藤原時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言し、これを信じた醍醐天皇は道真を大宰府に左遷しました。
903年、道真は大宰府で失意のうちに亡くなりました。

その後、、藤原時平、醍醐天皇の皇子や孫王が相次いで病死しました。
また疫病が流行り、天災が相次ぎました。
930年には清涼殿で干ばつ対策会議を行っていたところに落雷があり、道真左遷に関わった人物が大勢死傷しました。
それらは道真の怨霊の仕業であると噂されました。

醍醐天皇はノイローゼとなって清涼殿落雷事件の3か月後に崩御されました。

京都の北野天満宮は道真を慰霊するために947年に創建されました。
大阪天満宮はその2年後の949年に創建されたわけです。

北野天満宮の創建は村上天皇の勅命によるものであるとは伝えられていないようです。
しかし、村上天皇は道真を大宰府に左遷した醍醐天皇の第十四皇子なので、
北野天満宮の創建には村上天皇の意志が働いているのではないかと私は考えています。

大阪天満宮は村上天皇の勅命を受けて創建されています。
ということは、北野天満宮の創建にも村上天皇の意思が働いていると考えるのが自然かな、と思います。


この地はもともとは大将軍社があったところで、901年、菅原道真はこの大将軍社にお参りをしてから大宰府に向かったと伝えられます。
道真の死後、949年のある夜、大将軍社の前に光り輝く七本の松が生えたそうです。
村上天皇は「これは菅原道真に縁のある奇端であるとして大阪天満宮を創建したとされます。
大阪天満宮の土地は大将軍社から借りているということで、元日に借地料を大将軍社に治めているそうです。

古代中国では金星を軍事をつかさどる星神として信仰していました。
これが日本の陰陽道に取り入れられたのが、大将軍です。
大将軍は金星の神といってもいいでしょう。

記紀神話では星の神は天津甕星(別名カカセオ)一柱しか出てきません。
ギリシャ神話には多くの星の神が登場するのに、日本の星の神は一柱しかいないなんて変ですね?
そういったことから、星の神を信仰する先住民族がいて、星の神は抹殺されたという説もあります。

そして天津甕星は『天照大神の芦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神』であるとされています。
どうも天津甕星は謀反人であるようです。
菅原道真はこの天津甕星や大将軍とイメージが重ねられ、星の神として信仰されたのではないでしょうか。
光り輝く7本の松とは北斗七星のことだと思います。

大阪天満宮 梅2 


上の写真は大阪天満宮にある星合の池です。
この池の名前から見ても、この地に星の神への信仰があったことがわかります。

大阪天満宮・・・大阪市北区天神橋2-1-8

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[2015/03/19 06:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

清水寺 青龍会 『鴨川は三途の川に喩えられていた?』 


清水寺 青龍会2 

清水寺の青龍会の日程はこちら→ http://www.monzenkai.com/seiryue.html


東西南北をつかさどる四匹の聖獣、玄武・朱雀・白虎・青龍を四神といい、、玄武は北、朱雀は南、白虎は西、青龍は東の守護神とされています。
そして玄武は丘陵に、朱雀は湖沼に、白虎は大道に、青龍は川に棲むとされ、北に丘陵、南に湖沼、西に大道、東に川がある土地のことを四神相応の地といいます。

平安京の北には船岡山が、南には小椋池(現存せず)が、西には山陰道が、東には鴨川があり、まさしく四神相応の地だったのです。

玄武・・・北の守護神・・・丘陵に棲む・・・船岡山
朱雀・・・南の守護神・・・湖沼に棲む・・・小椋池
白虎・・・西の守護神・・・大道に棲む・・・山陰道
青龍・・・東の守護神・・・川に棲む・・・鴨川

これはつまり、鴨川の東は平安京の外だったということです。

清水寺 青龍会 

平安京が建都された当時、平安京の中には官寺である東寺と西寺以外の寺院建設は認められておらず、多くの寺社は平安京の外に造られました。

古の人々は都の中をこの世、都の外をあの世に喩えていたそうです。

今でも鴨川の西は銀行やオフィスビルなどが立ち並び、人々の暮らしを支える商店街などもあって、生活感にあふれています。
しかし鴨川を渡った東側には八坂神社・知恩院・建仁寺・清水寺などの大きな神社仏閣が並び、神仏が住まう場所となっています。

また清水寺のあたりはかつては鳥辺野と呼ばれる風葬地で、清水の舞台から死体を投げ捨てていたとも言われています。

神仏や死者が住まう鴨川の東は、まさしくあの世というにふさわしい土地だったことでしょう。
すると、鴨川は三途の川に喩えられていたのではないかと思うのです。

951年、京都に疫病が流行り、鴨川の河原は死体で溢れかえるほどの惨状であったそうです。
京の人々はそのようすを見て、地獄を思い浮かべたにちがいありません。

清水寺 青龍会3 


清水寺・・・京都市東山区清水1-294
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[2015/03/17 06:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

清凉寺 お松明式 『摩耶夫人が投じた薬袋には何が入っている?』 

3月15日、清涼寺でお松明式が行われています。

この日は本堂を無料で拝観できるんですよ♪
本堂にはご本尊の釈迦如来が安置されていました。

1954年、この釈迦如来の胎内から、多くの胎内納入品が発見されました。
これらの納入品の中には絹で作った「五臓六腑」もあり、その複製が本堂に展示されていました。
こう言っちゃなんですが、絹でつくったマスコットみたいな感じで可愛らしかったです。

狂言堂では大念仏狂言の奉納もあります。

清凉寺 嵯峨狂言 土蜘蛛 
午後8時ごろ、松明に点火されます。

清凉寺 お松明式 
3基の松明を早稲・中稲・晩稲に見立てて、火の燃え方で年の米の豊凶を占うそうです。

また本堂前13本の高張り提灯の高低によって米相場を決めるそうですが、写真の例だとどのような米相場になるんでしょうか?

清凉寺 ちょうちん 
旧暦2月15日は涅槃会(釈迦入滅の日に行われる法要)で、現在では新暦の3月15日前後に涅槃会を行っている寺も多いです。
お松明式は涅槃会の行事なんですね~。

釈迦入滅の様子を描いたものを涅槃図といいます。
http://www.gyokusenzi.com/sanbukki/nehanz/nehanz.htm
↑ こちらのサイトの涅槃図がわかりやすいと思います。

お釈迦様の頭上に赤い包みがありますね。
上記サイトによるとこの赤い包みは、摩耶夫人がお釈迦さまのために投じた薬の入った袋で、お釈迦さまに届く前に木に引っかかったと説明されています。

私はこの赤い包みの中に入っている薬とは髑髏ではないかと考えています。

インドにマハーカーラ(大いなる闇)という神がいます。
マハーカーラは日本に伝えられ、大黒天として信仰されています。

マハーカーラは片手に 宝物の入った小袋、又は人間の生首を持っていたと聞いた記憶があります。
またマハーカーラは不老長寿の薬を持っているともされます。

日本に真言立川流という宗教がかつてありました。
立川流では髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊をつくり、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目に髑髏本尊が命をもって復活すると考えられていました。

おそらく立川流はインド密教をとりいれて成立したものだと思いますが、どうも髑髏は復活にはかかせない呪具であったように思われます。

マハーカーラが持っている不老長寿の薬とは生首(髑髏)ではないかと思えるのです。
すると大黒天の袋の中に入っているのも髑髏でしょう。
涅槃図に描かれた袋には薬が入っているといいますが、それは不老不死の薬=髑髏なのではないでしょうか。

米原子供歌舞伎 弁慶 


↑ 上の写真は米原子供歌舞伎・旭山で演じられた『御所桜堀川夜討 弁慶上使の段』です。
手に紅白の包みを持っていますね。
詳しいいきさつは省きますが、この包みの中に入っているのはどちらも人の首なのです。

これを見て涅槃図の赤い包みを想いだしてしまった私です。

清凉寺・・・京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
お松明式…3月15日

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[2015/03/15 00:47] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

東大寺二月堂 修二会 お松明 『お松明と大仏の鍍金』 


にがつどう しゅにえ

東大寺・二月堂で修二会が行われていますね。
修二会では3月1日より3月14日まで、二月堂の舞台上で11人の童子が大きな松明を振りまわして火の粉を散らすお松明と呼ばれる行事が行われます。
童子が松明を振りまわすと、舞台の下で行を見守る参拝者の頭上に火の粉がふりかかります。
この火の粉を浴びると、1年間無事に過ごせるといわれています。

また3月13日午前1時半頃には若狭井から観音さまにお供えするお香水を汲み上げる儀式、「お水取り」が行われます。

この「お水取り」に先駆けて、若狭神宮寺では3月2日に『お水送り』の行事が行われています。
こちらの記事もお読みいただけると嬉しいです。↓
若狭神宮寺 お水送り 『お香水とは水銀のことだった?』  


お水送り 鵜の瀬  

「お水送り」は若狭の鵜の瀬からお香水を流す行事です。。
鵜の瀬と二月堂若狭井は地下でつながっているといわれ、鵜の瀬で流したお香水は10日で二月堂の若狭井に届くと言われています。

この『お水送り』『お水取り』には次のような伝説があります。

若狭彦神社の遠敷明神(おにゅうみょうじん)は漁に出かけていて、修二会に遅刻しました。
遠敷明神がそのお詫びに閼伽水を送ることを約束すると、二月堂の下の岩が割れ、白黒二羽の鵜とともに清水が湧き出しました。


遠敷(おにゅう)や二羽の鵜とは丹生(ニュウ。丹とは水銀のこと)の意味ではないかとする説があります。

そして東大寺の大仏建立の際、大仏に金アマルガム(金に水銀をまぜて溶かしたもの)を塗り、水銀を加熱して蒸発させることで鍍金(金メッキ)をほどこしたといわれ,
二月堂のお松明の行事は、大仏に鍍金をほどこす様を再現したものではないかという説もあります。

水銀は昔は『みずかね』と呼ばれていました。
お水とりの水とは『みずかね』のことだったのかもしれませんね。

東大寺・・・奈良県奈良市雑司町
修二会・・・3月1日~3月14日 19時ごろより

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[2015/03/13 06:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)