箕面大滝 紅葉 『歓喜天の3つの滝』 

箕面大滝 紅葉

箕面大滝の上に2つ滝があるそうです。(見たことはないのですが~)
瓔珞(ようらく)滝と雄滝です。
雄滝に対応して大滝は雌滝とも呼ばていているそうです。

瓔珞とは菩薩像が身に着けているネックレスのようなもののことで、瓔珞滝の瓔珞は大日如来の瓔珞であると云われています。

古の人々は3つの滝を御霊(みたま)・荒魂(あらたま)・和魂(にぎたま)に喩えたのではないでしょうか。

神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)に分けられるといわれます。
そして男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
すると御霊とは男女双体となると思います。

御霊(神の本質)・・・・・・・・・・男女双体・・・瓔珞滝・・・・大日如来
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・雄滝    
和魂(神の和やかな側面)・・・女神・・・・・・・・・・雌滝(箕面大滝)


箕面には次のような伝説があります。

役行者が葛城、大峰、熊野で修行をしていた時、北の方角に霊光を見ました。
役行者がその光を追って箕面山に来てみると歓喜天の化身である老人に出会い、山の奥に滝があることを教えられました。
老人は「この山は自分の領地であるが、これをお前に与えるから、ここに伽藍を建てよ」といいました。
こうして建てられたのが箕面の山麓にある西江寺です。


役行者に滝を教えた老人が歓喜天の化身であったというのが興味深いです。
瓔珞滝の瓔珞は大日如来の瓔珞だと言われていますが、歓喜天は大日如来の権化身とされているのです。
そして歓喜天は鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神が抱きあう姿で表されます。
つまりこういうことだと思います。

御霊(神の本質)・・・・・・・・・男女双体・・・瓔珞滝・・・・・・・・大日如来(歓喜天)
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神・・・・・・雄滝・・・・・・・・・・・・・鬼王ビナヤキャ
和魂(神の和やかな側面)・・・女神・・・・・・雌滝(箕面大滝)・・・ビナヤキャ女神


箕面が我が国最初の歓喜天の出現の地であるといわれているのは、歓喜天・鬼王ビナヤキャ・ビナヤキャ女神に喩えられる3つの滝が存在していたからだと思います。

撮影/10年以上前の11月(銀塩カメラ)

箕面大滝・・・大阪府箕面市箕面公園

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[2014/11/28 20:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

圓光寺 紅葉 『十牛の庭の意味』 

圓光寺 紅葉

1601年、徳川家康は伏見指月(しげつ)に学問所・伏見学校を開きました。
その後、学校を寺に改め、圓光寺と称しました。
圓光寺では家康から贈られた木活字版(圓光寺活字)による活字印刷が行われていました。
この木活字は重要文化財として保存されています。
1603年、圓光寺は相国寺の境内に移されましたが、1620年に焼失、1623年に再建されました。
その後、相国寺と圓光寺の間に寺地を巡る対立が生じています。
1667年、幕命により現在地に移転しました。
1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃しましたが、1906年、尼僧・南嶺尼(なんれいに)により整備され、以後尼寺となりました。

圓光寺 紅葉 十牛の庭

上の写真は『十牛(じゅうぎゅう)の庭』です。
向かって右の人物の上にある石は牛の形をしていて『臥牛石』と呼ばれています。

「十牛」とは、禅の悟りに至る10の道程を、童子と牛に喩えたもので、牛は本来の自己、童子は修行者を表すそうです。

①尋牛(じんぎゅう)・・・ 童子が牛を捜す。
②見跡(けんせき)・・・牛の足跡をみつける。
③見牛(けんぎゅう) ・・・牛を発見する。
④得牛(とくぎゅう) ・・・牛を捕まえようとする。
⑤牧牛(ぼくぎゅう)・・・ 牛をてなづける。
⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)・・・ 童子が牛の背に乗り家へ帰る。
⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) ・・・ 童子は家に戻り牛のことを忘れる。
⑧人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)・・・無
⑨返本還源(へんぽんげんげん)・・・美しい自然
⑩入てん垂手(にってんすいしゅ)・・・童子は僧となり里へと向かう。

喩えに用いているのが牛と童子だというのがおもしろいです。

平安時代の延喜式には『大寒の日に宮中の12の門に12組の童子が土牛を引くのを象った人形を立てる。
これを立春の日の前夜(節分の夜)に撤去する』とあります。

干支では丑は12月、寅は1月で、丑寅(丑寅)は1年の変わり目を表しています。
そして八卦では童子は丑寅(艮)を表しています。

つまり、童子が丑を牽くというのは、1年の変わり目(童子)が12月(丑/牛)を牽くことで新春がやってくることを意味しています。
そして冬は陰、春は陽と考えられるので、童子が丑を牽く図は一陽来復(「冬が去って春が来ることから転じ、悪い事が続いた後で幸運に向かうこと。」を意味するものだと考えられます。

また十牛の説話は、怨霊が成仏して仏法守護の神に転じることをも意味しているように思われます。

かつて怨霊と神は同義語だったなどといわれます。
祟り神をまつりあげると守護神になるといった信仰もありました。
怨霊と神とは別々のものではなく、同じものの陰の側面が怨霊、陽の側面が神であったのです。
さらに明治まで神仏は習合して信仰されていました。
例えば怨霊として有名な菅原道真は十一面観音の化身であるなどと考えられていたのです。
つまり、同じものの陰の側面が怨霊、陽の側面が神であり、仏でもあるということでしょうか。

怨霊とは鬼だといってもいいと思いますが、節分の鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいています。
これは鬼=丑寅であることを意味するものだといわれています。
方角を干支でいうと丑寅の方角は東北で『鬼門=鬼が出入りする方角』とされています。
また鬼の温羅は別名を丑寅御前といい、丑寅は鬼そのものをあらわすものでもあったようです。

鬼は酒呑童子・茨城童子などと呼ばれ、結髪しない童形であらわされます。
つまり、童子とは鬼のことでもあるのです。

その童子=鬼が牛(丑=冬の気・陰の気)を探し、牛を見つけ、牛を手なづけ、牛を牽いて家に戻り、牛のことを忘れたのちに、無の境地となり、美しい自然に触れることで童子=鬼は悟りを開いて僧になる(仏法守護の神となる)というわけです。

撮影/2013年11月17日

圓光寺・・・京都府京都市左京区一乗寺小谷町13

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[2014/11/26 20:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

彦根城 紅葉 ライトアップ 『ゲイパワーで建った城?』 

玄宮園より彦根城を望む 紅葉 ライトアップ

彦根城に次のような伝説があります。

1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となりました。
関ヶ原の合戦で功のあった井伊直政の息子・直継(直勝)が彦根の地を賜り、彦根城を築城することとなりました。
しかし工事ははかどらず、直継は「人柱をたてよ」と命じました。
ある藩士の娘・菊が「自分が人柱になる」と名乗り出、菊は生き埋めになりました。
その後、工事は順調に進みましたが、それ以来、彦根城に菊の花を植えてもすぐに枯れてしまうようになりました。


変態BL好きの私なんかは菊といえば男色を思い出してしまいます。
井伊直政は徳川家康と菊の契りをかわしていたとする説があるんですよね。
井伊直政は徳川家康の小姓で万千代と名乗っていましたが、小姓は男色の相手とされることが多かったのです。
また、『甲陽軍鑑』には「万千代、近年家康の御座を直す」と記されています。
「御座を直す」というのは菊の契りをかわすという意味ではないかというのです。

幼いころの直政は恵まれた環境で育ったとはいえません。
父・井伊直親は直政が2歳のときに謀反の嫌いをかけられて今川氏真に殺されました。
そこで直親の従妹の井伊直虎という女性が中継ぎとして井伊氏の当主となりましたが、所領を失ってしまいます。

直政の運命が変わりだしたのは彼が家康の小姓になって以降です。
直政は井伊氏の旧領を与えられ、井伊家は復活を遂げるのです。

直政は武田氏との戦いで戦功をあげ、旗本先手役となります。
本能寺の変では、家康の伊賀越えに従いました。
その後、井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となっています。
ひこにゃんが被っている兜は井伊直政が用いていたもので、鬼の角のような前立物から「井伊の赤鬼」と称されました。

直政は関ヶ原の戦いで家康本軍に随行し数々の手柄をあげますが、銃弾を右腕(または右肩)に受けて大けがをしてしまいました。

戦後も精力的に戦後処理などに尽力しましたが、鉄砲傷に破傷風を生じ、1602年に死亡しました。享年41歳でした。
その後、直政の息子・直継が彦根城の築城し、彦根藩(35万石)が置かれました。
彦根藩は明治まで井伊氏の藩として栄えることになるのですが、それは直政の功績と、直政が家康より寵愛を受けたことによるところが大きいと思います。
恐るべし、直政のゲイパワー!

人柱になった娘・菊とは直政を女性に見立てて創作された物語なのではないでしょうか。
直政は関ヶ原の戦いで功労があったにもかかわらず、そのとき受けた怪我がもとで亡くなってしまったことを「人柱」と表現しているのだと思います。
菊という名前にしたのは、直政が家康と菊の契りを結んでいたためではないでしょうか。

玄宮園 紅葉 ライトアップ

2014年11月23日 玄宮園より撮影

彦根城・・・滋賀県彦根市金亀町1−1

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[2014/11/25 20:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

姫路城 紅葉 ライトアップ 『姫路城の幽霊の正体』 

皆様、連休いかがお過ごしでしたか。
私は写真を撮るのが忙しく、なかなかブログまで手が回りませんでした~。

ひめじじょう こうよう


11月21日、姫路城に行ってきました。
姫路城に行くのは初めてだったんですが
素敵な写真とゆるーい文章に味があるブロガーのモリタさんが撮影スポットや紅葉情報を教えてくださったので
とても楽しい旅になりました。 
モリタさん、ありがとうーー!!

姫路城 ライトアップ 

姫路城は1346年に赤松貞範が築城して以来、約530年の間に13氏も城主が変わっています。
そして城主が変わるたびに刑部明神の幽霊が城主の前に現れて「ここは誰のものか」と聞くという怪談が伝えられています。
「あなた様のものだ」と答えるといいのですが、「オレ様のものだ」なんて答えようものなら祟りでひどい目にあったとか。

ところがこの刑部明神の正体がよくわからず、いろいろな話や説が存在しています。

①第92代伏見天皇の御代、小刑部という美しい女房が京都から播磨国に流され、姫山(姫路は慶長以前は姫山といった。)に隠棲した。
後の世の人が彼女を小刑部明神として祀った。
②小刑部明神は女神ではない。(播磨鑑)
③刑部姫は高師直の娘である。
④宮本武蔵が小刑部明神を退治した。
などなど。

写真を撮るのに忙しくてお城の中には入らなかったのですが、大天守最上階に刑部明神(長壁明神)が祀られているそうです。

また、兵庫県姫路市立町33にも長壁神社があります。
この長壁神社について、ウィキペディアには次のように記されています。

刑部親王(光仁天皇の皇子)を主祭神に親王の王女という富姫を配祀する。

刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。
国司の角野氏がこの2人を守護神として姫山に祀って以来、代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い尊敬を受けた。


この刑部親王が小刑部明神の正体なのでしょうか?

しかし光仁天皇(709~782)の皇子の中に刑部(おさかべ)親王という名前は見当たりません。
昔のことなので、正史に名前が残っていないということも考えられますが、藤原百川(732 ~779)の讒言によって流罪となったと考えられる光仁天皇の皇子には他戸(おさべ)親王(761?~775)がいます。

他戸親王の・母親で光仁天皇の皇后だった井上内親王(717~775)が天皇を呪ったとして后を廃されました。
他戸親王はこれに連座したとして廃太子となり、母親とともに奈良県五條市の没官の邸に幽閉され急死したのです。

この事件は山部親王(桓武天皇)を立太子させたいと考えていた藤原百川の陰謀だと考えられています。

『おさかべ親王』と『おさべ親王』は音もよく似ています。

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/tag/%E9%95%B7%E5%A3%81%E7%A5%9E%E7%A4%BE
↑ こちらのブログには、出典はわかりませんが、刑部親王は池戸親王であると記されています。

また、天武天皇の皇子に忍壁皇子があり、刑部親王(?~705)とも記されます。
大宝律令選定を指揮した方です。
長壁神社の由緒によると刑部親王は藤原百川(732 ~779)の讒言によって地位を追われたとありますが
時代があいません。


姫路城・・・兵庫県姫路市本町68

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[2014/11/24 22:25] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)