
1601年、徳川家康は伏見指月(しげつ)に学問所・伏見学校を開きました。
その後、学校を寺に改め、圓光寺と称しました。
圓光寺では家康から贈られた木活字版(圓光寺活字)による活字印刷が行われていました。
この木活字は重要文化財として保存されています。
1603年、圓光寺は相国寺の境内に移されましたが、1620年に焼失、1623年に再建されました。
その後、相国寺と圓光寺の間に寺地を巡る対立が生じています。
1667年、幕命により現在地に移転しました。
1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃しましたが、1906年、尼僧・南嶺尼(なんれいに)により整備され、以後尼寺となりました。

上の写真は『十牛(じゅうぎゅう)の庭』です。
向かって右の人物の上にある石は牛の形をしていて『臥牛石』と呼ばれています。
「十牛」とは、禅の悟りに至る10の道程を、童子と牛に喩えたもので、牛は本来の自己、童子は修行者を表すそうです。
①尋牛(じんぎゅう)・・・ 童子が牛を捜す。
②見跡(けんせき)・・・牛の足跡をみつける。
③見牛(けんぎゅう) ・・・牛を発見する。
④得牛(とくぎゅう) ・・・牛を捕まえようとする。
⑤牧牛(ぼくぎゅう)・・・ 牛をてなづける。
⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)・・・ 童子が牛の背に乗り家へ帰る。
⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) ・・・ 童子は家に戻り牛のことを忘れる。
⑧人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)・・・無
⑨返本還源(へんぽんげんげん)・・・美しい自然
⑩入てん垂手(にってんすいしゅ)・・・童子は僧となり里へと向かう。
喩えに用いているのが牛と童子だというのがおもしろいです。
平安時代の延喜式には『大寒の日に宮中の12の門に12組の童子が土牛を引くのを象った人形を立てる。
これを立春の日の前夜(節分の夜)に撤去する』とあります。
干支では丑は12月、寅は1月で、丑寅(丑寅)は1年の変わり目を表しています。
そして八卦では童子は丑寅(艮)を表しています。
つまり、童子が丑を牽くというのは、1年の変わり目(童子)が12月(丑/牛)を牽くことで新春がやってくることを意味しています。
そして冬は陰、春は陽と考えられるので、童子が丑を牽く図は一陽来復(「冬が去って春が来ることから転じ、悪い事が続いた後で幸運に向かうこと。」を意味するものだと考えられます。
また十牛の説話は、怨霊が成仏して仏法守護の神に転じることをも意味しているように思われます。
かつて怨霊と神は同義語だったなどといわれます。
祟り神をまつりあげると守護神になるといった信仰もありました。
怨霊と神とは別々のものではなく、同じものの陰の側面が怨霊、陽の側面が神であったのです。
さらに明治まで神仏は習合して信仰されていました。
例えば怨霊として有名な菅原道真は十一面観音の化身であるなどと考えられていたのです。
つまり、同じものの陰の側面が怨霊、陽の側面が神であり、仏でもあるということでしょうか。
怨霊とは鬼だといってもいいと思いますが、節分の鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいています。
これは鬼=丑寅であることを意味するものだといわれています。
方角を干支でいうと丑寅の方角は東北で『鬼門=鬼が出入りする方角』とされています。
また鬼の温羅は別名を丑寅御前といい、丑寅は鬼そのものをあらわすものでもあったようです。
鬼は酒呑童子・茨城童子などと呼ばれ、結髪しない童形であらわされます。
つまり、童子とは鬼のことでもあるのです。
その童子=鬼が牛(丑=冬の気・陰の気)を探し、牛を見つけ、牛を手なづけ、牛を牽いて家に戻り、牛のことを忘れたのちに、無の境地となり、美しい自然に触れることで童子=鬼は悟りを開いて僧になる(仏法守護の神となる)というわけです。
撮影/2013年11月17日
圓光寺・・・京都府京都市左京区一乗寺小谷町13
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