生田神社 夏越大祓式 『松の木が一本もない生田の森』 

生田神社 夏越大祓式2 

7月15日午後5時より、生田神社では夏越大祓式を行っています。
神職さんや浴衣姿の参拝者が茅の輪潜りを行って、穢れを清めていました。



日本書紀に次のような話が記されています。

201年、神功皇后が三韓外征を行った帰途、神戸港で船が進まなくなり、占いを行いました。
その際、稚日女尊(わかひるめのみこと)が現れて次のように言いました。
「私は“いくた”の“ながさの国に鎮座したいので、海上五十狭茅(うなかみのいそさち)に生田の土地に祀らせて欲しい。」と。


稚日女尊とは天照大神の分身だとか、和霊だといわれています。

当初は布引山(砂山(いさごやま))に祀られていましたが、799年4月9日に大洪水がおこって砂山が崩れたため、生田の森(現在地)に移転しました。


生田神社 巫女さん

上の写真は生田の森です。
茅の輪潜りをしたあと、生田の森で千燈祭が行われ、参拝者たちが蝋燭を献じていました。

この生田の森には松の木は一本も植えられていないそうです。
それは大洪水の際、社の周囲に植えられていた松の木が全く洪水を防がなかったためだそうです。
そればかりか元旦の門松もたてず、その代わりに杉飾りをたてるといいう徹底ぶり~。

生田神社・・・兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目2-1
 夏越大祓式・・・7月15日


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[2014/07/20 20:00] 兵庫の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

祇園祭 宵山 『祇園祭とノアの箱舟』 

今年から祇園祭の日程が変わるそうですね。
前祭宵山は7月14日~16日で、四条通が歩行者天国になるのは、15・16日だそうです。
詳しくはこちら → 

コンチキチンと祇園囃子が流れる中、京都の町を散策するのはとても楽しいのですが、うう~、いい写真がない~(涙)。
それでも、ちょこっと雰囲気くらいは伝わるかもと、記事を書くことにしました。
祇園祭 宵山

   
函谷鉾です。
高さは24メートルもあるそうですよ。
中国戦国時代(BC403~221),斉の孟嘗君(もうしょうくん)が函谷関で家来に鶏の鳴声をまねさせて関門を開かせたという故事にちなむ鉾です。


岩戸山 ミニチュア


↑ こちらは岩戸山のミニチュアだと思います。
天岩戸神話をモチーフにしたもので、内部には天照大神と手力雄命(たぢからおのみこと)のご神体が置かれています。
手力雄命は天照大神を天岩戸からひっぱりだした神様です。
棟上には伊弉諾尊(いざなぎのみこと)のご神体が置かれています。
イザナギは妹のイザナミとともに国産みをした神様です。
手に持っているのは 天沼矛(あめのぬぼこ)でしょうか。
イザナギとイザナミは天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜました。
このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)になりました。
 
祇園祭 宵山 船鉾


↑船鉾です。
祇園祭・山鉾のタペストリーって西洋的なものが多くてびっくりしますが、平安京とはキリスト教の聖地・エルサレムを漢字で表したものだとする説があります。
そして山鉾巡行が行われる7月17日はノアの方舟がアララト山に漂着した日で、祇園祭はそれを祝う行事だというのです。
とすれば船鉾はノアの方舟?

追記
祇園祭山鉾巡幸は旧暦では6月17日で、新暦が用いられるようになってから7月17日になったそうです。
山鉾巡幸とノアの箱舟は関係なさそうです。
詳しくはこちら ↓ をお読みください。
京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 『祇園祭とノアの方舟2』 


祇園祭 鯉山  



↑ 鯉山のタペストリー。とても西洋的です。



祇園囃子



↑ 綾傘鉾の皆様が祇園囃子を奏しておられました。
祇園囃子を聞いてるとなぜかトランス状態になってしまいます。

祇園祭マップ→  


[2014/07/15 20:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

生國魂神社 生玉夏祭 『足島大神は葦島大神?』 

 
明日、あさって(7月11日、12日)は生玉夏祭です!
昭和20年以来、70年ぶりに渡御列が復活するそうで、とても楽しみです。

くわしくはこちらをご覧ください。 → 上六うえいくネット いくたま夏祭

いくたまなつまつり しし

生玉夏祭は生國魂神社のお祭りです。
生國魂神社の主祭神は生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神で、相殿に大物主大神を合祀しています。

生島大神・足島大神はどのような神様なのでしょうか。

ウィキペディアの「生國魂神社」の項目には次のような内容が記されています。

①神武東征の際、神武天皇が難波碕(現在の上町台地)の先端に日本列島そのものの神である生島大神・足島大神を祀った。

長野県上田市にはこの生島大神・足島大神を祀る生島足島神社があります。
ウィキペディアの「生島足島神社」の項目には、次のように記されています。

②生島大神は万物を生み育て生命力を与える神、足島大神は国中を満ち足らしめる神。

なるほど、足島の足は「足りる」という意味なのですね。

また、日本の国土のことを「葦原中国(あしはらのなかつくに)」といいますので、足は葦にかかり、葦原中国のことをさしているのではないかと思ったりします。

いくたまなつまつり みこし


太鼓台をひっくり返されても、太鼓をを打ち続けるワイルドなパフォーマンスにしびれます~。

いくたまなつまつり たいこ2


いくたまなつまつり たいこ

生國魂神社 ・・・大阪市天王寺区生玉町13-9


[2014/07/10 20:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭 『星の神が住む交野が原』 

星愛七夕祭り と 平成OSAKA天の川伝説 」の記事に、「大川は地上の天の川だと言われていた。」と書きましたが、大川とは旧淀川の毛馬水門から中之島東端までの通称です。

淀川を東にさかのぼっていくと枚方市で天の川と繋がっています。
枚方市、交野市あたりは平安時代には交野ケ原と呼ばれ、貴族たちが狩猟を楽しんだ場所でした。
天の川はその交野ケ原を流れる川で、天の川をはさんで中山観音寺と機物(はたもの)神社が向かいあっています。
向かいあっているといってもかなり距離がありますが。

そして天の川は天上の天の川に、中山観音寺は牽牛星(アルタイル)、機物神社は織女星(ベガ)になぞらえられていると言われています。
淀川の流域にふたつの天の川伝説があるというのが興味深いです。

7月7日、中山観音寺跡と機物神社で七夕祭がおこなわれ、深夜、天の川にかかる逢合橋で笹が流されます。

なかやまかんのんじあと たなばた 

中山観音寺跡は現在は公園となっていて牽牛の像があります。

なかやまかんのんじあと うしいし


上は中山観音寺跡にある牽牛石(牛石)です。
七夕祭だというのに、私たち以外、参拝者はいませんでした・・・・。
なんで??

はたものじんじゃ


上は機物神社で、境内にはおびただしい数の笹飾りが飾られていました。


こちらは露店も出て、大勢の人がお詣りにやってきていました。

平安時代、惟喬親王が交野ケ原へ狩りにやってきたとき、お供の在原業平や紀有常が歌を詠んでいます。

狩りくらし たなばたつめに 宿からむ 天の河原にわれは来にけり/在原業平
(一日中狩りをして日が暮れてしまった。今夜は棚機女(たなばたつめ)に宿を借りよう。天の川のほとりまで私はやってきたのだから。)

ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ/紀有常
(棚機女は一年に一度やって来る牽牛を待っているのだから、他の人には宿は貸さないでしょう)

これらの歌から、交野ケ原には平安時代より天の川伝説があったことがわかりますね。

交野ケ原は肩野物部氏の本拠地だったところです。
天の川の上流には物部氏の祖・ニギハヤヒを祀る磐船神社もあります。
雲陽誌という書物にはニギハヤヒは星の神だと記されています。

記紀には星の神はたった一柱、天津甕星(別名カカセオ)が登場するだけです。
天津甕星は天照大神の芦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神であると記されています。
星の神がたった一柱しか登場しないのは不自然なので、かつて星の神を信仰していた民がいたが、権力争いに敗れたために星の神は抹殺されたのではないかともいわれています。

そしてニギハヤヒは神武天皇が日向より東征して畿内入りするより以前に天の磐船を操ってこの地に天下っていました。
神武が東征してやってきた際、ニギハヤヒは自分を神として奉じていたナガスネヒコを殺して神武に服しています。
そのため、初代神武天皇より以前に物部王朝があったという説があります。

星の神・天津甕星とニギハヤヒは同一神で、星の神とは物部氏の神のことなのかもしれませんね。
中山観音寺跡・・・大阪府枚方市香里ヶ丘4丁目 
機物神社・・・大阪府交野市倉治1-1-7


[2014/07/08 20:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

星愛七夕祭り と 平成OSAKA天の川伝説 『地上の天の川』 

おおさかてんまんぐう たなばた2

大阪天満宮では七夕の日に星愛七夕祭が行われます。
参拝者たちは境内に設置された7つの茅の輪をくぐって「諸願成就」「学徳向上」「心身健康」「家内安全」「商売繁昌」「厄除」「恋愛成就」を祈願していました。

大阪天満宮は平安時代の政治家、菅原道真を祀る神社です。
901年、藤原時平は醍醐天皇に「菅原道真は謀反を企てている。」と偽りの報告をし、このため菅原道真は大宰府に左遷されることになりました。
道真は摂津中島の大将軍社を参拝してから大宰府に向かい、903年に大宰府で亡くなりました。

949年、村上天皇は、大将軍社のある場所に大阪天満宮を創建しました。
このとき、大将軍社前に突然七本の松が生え、夜になると金色に輝いたという伝説があります。
これは北斗七星に対する信仰に関係する伝説だと思います。

大将軍社(参考資料) 」←こちらのサイトによると、現在、大阪天満宮の隣に星合池がありますが、かつては七夕池・明星池という池もあったようです。
そして、大将軍の神は大白星(金星)の精であると説明されています。

記紀には星の神は天津甕星(別名カカセオ)たった一柱しか登場しません。
そして天津甕星は天照大神に最後まで抵抗した荒々しい神であると記されています。

菅原道真はその天津甕星とイメージが重ねられたということでしょう。

おおかわ たなばた

大阪天満宮の近くには大川が流れ、天満橋がかけられています。
七夕の夜、大川には青い光を放つ玉がたくさん浮かべられ、天の川のようでした。
平成OSAKA天の川伝説 )
大川は「地上の天の川」だと言われていたそうです。
大阪天満宮・・・大阪市北区天神橋2-18
天満橋・・・京阪・大阪市営地下鉄 天満橋駅下車すぐ

[2014/07/06 20:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

頼光寺 紫陽花 『源頼光の土蜘蛛退治』 

らいこうじ あじさい

頼光寺は長保年間(999年~1003年)に創建されたお寺で、本堂には源頼光神像が祀られています。

源頼光は平安時代中期の武将で摂津国多田(兵庫県川西市多田)の土地を所有していました。
大変なお金持ちであったようで、たびたび藤原道長に豪華な贈り物をしています。
多田には銀山があります。
頼光はその銀山の採掘によって財力を得ていたのかもしれませんね。

1018年、頼光は勅命を受けて、頼光四天王(渡辺綱 ・坂田金時 ・卜部季武 ・碓井貞光) らともに大江山の夷賊討伐を行っています。

のちに、源頼光が頼光四天王を従えて丹波国大江山で鬼の酒呑童子を討伐したとか、土蜘蛛退治をしたという伝説が生じます。
土蜘蛛とは古事記、日本書紀、風土記などに登場する「まつろわぬ民」のことです。
これらの伝説は1018年の大江山夷賊討伐をベースに創作されたものでしょう。

さがきょうげん つちくも

京都の伝統芸能である大念仏狂言や六斎念仏などで「頼光と土蜘蛛」は大人気の演目となっています。
上の写真は嵐山紅葉祭において演じられた嵯峨狂言による「頼光と土蜘蛛」です。
向かって右の青い着物を着ているのが源頼光、向かって左の蜘蛛の巣柄の着物を着ているのが土蜘蛛です。
(もうちょっといい写真があったらよかったんですが~。)

 ←こちらは『拾遺都名所図会』に描かれた清和院と蜘蛛塚の図です。
清和院は大変広そうなお寺に描かれていますが、現在はコンクリート造の小さなお堂と庫裏があるだけです。
また絵の向かって左下に蜘蛛塚が描かれています。
この蜘蛛塚は源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だと言い伝わっていますが、現在はありません。
明治31年、蜘蛛塚の発掘調査が行われていますが、このときに墳丘は取り壊されたのではないかと思います。

この発掘調査の際、燈篭の火袋が発掘され、ある人がそれを貰い受けて庭に置いていたところ、よくないことが次々に起こり
土蜘蛛の祟りだという噂がたちました。
そのため、その火袋は北野天満宮の西にある東向観音寺に奉納されました。
現在、火袋は『土蜘蛛の塚』と呼ばれ、東向観音寺の裏庭に置かれています。

ひがしむきかんのんじ つちくものつか


頼光寺・・・兵庫県川西市東畦野2-17-2
清和院・・・京都市上京区七本松通一条上る一観音町428-1
東向観音寺・・・京都市上京区今小路通御前通西入上る観音寺門前町 863

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[2014/07/03 20:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)