矢田寺 紫陽花とお地蔵様と猫 『春日明神の正体とは』 

やたでら じぞう2

お地蔵様は右手に杖、左手に如意宝珠を持ったお姿をしておられるのが一般的ですが、矢田寺のお地蔵様のほとんどは右手の親指と人差し指を結んだ独特のスタイルで、『矢田型地蔵』と呼ばれています。
右手の親指と人差し指を結ぶ印は阿弥陀仏によく見られるもので、阿弥陀仏の徳を併せ持ったお地蔵様だということなのでしょう。
ちょっとわかりにくいですが向かって左のお地蔵様もこの印を結んでおられます。

以前の記事「矢田寺 紫陽花 」にも書いたのですが、矢田寺のご本尊の地蔵菩薩は平安時代に春日明神が刻んだものだという伝説があります。

矢田寺の創建はそれよりも古く飛鳥時代とされています。

天智天皇が崩御したのち、天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の皇子・大友皇子が皇位継承をめぐって争いました。(壬申の乱)
この戦いで勝利したのは大海人皇子で、勝機がないと悟った大友皇子は自害して果てました。
大海人皇子は673年に即位し、679年に戦いに勝利したのは 矢田山の神のご加護のおかげであるとして矢田寺を創建したとされています。

春日明神とは藤原氏の氏神である春日大社の四柱の神様、藤原氏の守護神であるタケミカヅチとフツヌシ、祖神であるアメノコヤネノミコトとヒメ神の四柱の神のことです。

私はアメノコヤネノミコト(天児屋根命)とは天智天皇のことではないかと考えています。
天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味です。。

そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)
と歌を詠んでいます。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことでしょう。

とすれば、アメノコヤネノミコトは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになりますが、藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのです。
そうであるなら、天智天皇が藤原氏の祖神だというのは辻褄があいます。

矢田寺の地蔵菩薩は、春日明神がつくったと伝説に伝えられますが、それは天智天皇の霊が地蔵菩薩をつくったという意味なのではないでしょうか。

そして天武天皇が戦勝祈願した矢田山の神とは天智天皇のことではないでしょうか。

かつて政治的に不幸な死を迎えた人は怨霊になると考えられ、疫病の流行や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていました。
天智天皇は怨霊になる条件を備えていました。
天智天皇は自分の皇子の大友皇子を次期天皇につけたいと考えていたのに、弟の天武天皇が大友皇子を自殺に追い込んでいるからです。

そして陰陽道では荒ぶる怨霊は神として祭り上げればご利益を与えてくださる和霊に転じると考えます。
天武天皇が敵対関係にある兄・天智に戦勝祈願をしたというのは奇妙に思えるかもしれませんが、陰陽道の考え方では十分にありえることだと思います。

矢田寺 猫

矢田寺にモップみたいな猫ちゃんがいました。
ブラッシングしたいーー。

矢田寺 猫の肉球

肉球は固くてぷにょぷにょ感がなかったです。
それに肉球の間に毛が生えてるーー。

矢田寺・・・奈良県大和郡山市矢田3506
 
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[2014/06/28 20:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

長浜城の昼と夕暮れ 『今浜から長浜へ』 

ながはまじょう あおぞら 

昔、長浜は今浜という地名で浅井長政の領地でした。
浅井長政は織田信長の妹のお市の夫でした。
しかし信長は浅井長政の居城である小谷城を攻めました。
その際、木下藤吉郎は小谷城からお市と3人の娘を救い出すなどして活躍し、信長より浅井氏の領地を与えられました。
藤吉郎は 羽柴秀吉と名乗り、長浜の地をもらいうけた秀吉はこの地に城を建てました。
これが長浜城ですね。

また、秀吉は信長の「長」の字をとって今浜という地名を長浜と変えました。
長浜城は秀吉が初めて持った城でした。
長浜城は秀吉の夢の出発点だったといってもいいかもしれません。

その後、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成・信正らが城主になりましたが、1615年廃城となりました。
彦根城は長浜城の資材をリサイクルして築いたそうです。

秀吉は信長がで明智光秀に責められて自殺に追い込まれた(本能寺の変)のち、光秀を破りました。
そして大坂城を築き、豊臣姓を賜り、関白・太政大臣となって天下を統一しました。

しかし秀吉の死後は徳川家康が勢力をつけ、大阪の陣で豊臣家は滅亡してしまうのです。
「おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。」という平家物語のフレーズが浮かんできます。

ながはまじょう ゆうけい  




長浜城模擬天守(長浜歴史博物館)・・・滋賀県長浜市公園町10-10


[2014/06/26 20:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

舞洲 百合 『平安時代のモテ女・伊勢』 

まいしま ゆり

舞洲は大阪湾にある人口の島です。
6月中旬には舞洲百合園の百合が満開となり、爽やかな香りとあでやかな色彩に包まれます。

かつての大阪湾には干潟が広がり、難波潟と呼ばれていたようです。

まいしま あし

平安時代、女流歌人の伊勢という人が次のような歌を詠んでいます。

難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)
 
当時、天皇の妻となった人については記録があるので名前がわかっていますが、それ以外の女性の本名はわかっていません。
紫式部とか清少納言とかいう名前もニックネームのようなものでした。
伊勢も同様で、父親の藤原継蔭が伊勢守だったところから、伊勢と呼ばれていたようです。

この人はすごくもてる女性だったようで、藤原仲平・時平兄弟、平貞文、宇多天皇、宇多天皇の皇子の敦慶親王と次々に相手を変えています。
宇多天皇との間には皇子をもうけましたが早世しました。

それにしても、兄弟や親子の間柄で同じ女性とつきうなんて平安時代の男女関係ってすごい~。

大阪舞洲ゆり園・・・大阪市此花区北港緑地2丁目



[2014/06/25 20:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

勧修寺 睡蓮と額紫陽花 『藤原高藤と列子の一夜限りの恋』 

かしゅうじ すいれん

勧修寺は900年に醍醐天皇が母・藤原胤子を弔うために創建したとも、藤原胤子が創建したとも伝わっています。

藤原高藤が南山階に鷹狩に出かけたとき、急な雨にみまわれて宮道弥益の屋敷を訪れ、弥益の娘・列子に一目ぼれして一夜の契りを結びました。
翌日帰宅した高藤は父・良門に厳しくしかられ、鷹狩を禁止されてしまいました。
6年後、高藤は列子と再会しますが、列子は胤子という娘を連れていました。
6年前に高藤と契ったときにもうけた子供でした。
胤子は成長して宇多天皇の女御となり、醍醐天皇をお産みになられました。

勧修寺という寺名はこの藤原高藤の諡号(しごう)をとったものです。

胤子には藤原定方という同母弟がいましたが、その定方が次のような歌を詠んでいます。

名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな

逢う坂の山と記す逢坂山、その逢坂山に咲くさねかづら(小寝にかかります)をたぐりよせるように、誰にも知られずにあなたのもとへいく方法があればいいのに。

この歌は定方の両親、藤原高藤と列子の恋のエピソードを詠ったもののようにも思えます。
 
かしゅうじ がくあじさい

勧修寺・・・京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6


[2014/06/23 23:13] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

山田池公園 花菖蒲 『交野ケ原』 

 
やまだいけこうえん はなしょうぶ



山田池は広さが約10ヘクタールという大きな池で、平安時代に灌漑用のため池として作られました。
現在は池周辺は公園として整備されています。
「山田池の月」は枚方八景のひとつにも選ばれています。
すいません、山田池の写真がありません~。
写真は山田池公園の水生花園の花菖蒲です。

やまだいけ はなしょうぶ2

平安時代、このあたりは交野ケ原と呼ばれ、貴族たちが狩猟を楽しんだ場所でした。
伊勢物語には文徳天皇の第一皇子・惟喬親王が在原業平や紀有常らをつれて交野ケ原へ鷹狩りにやってきたという話が記されています。
惟喬親王、在原業平、紀有常らも山田池の月を眺めたことでしょう。

山田池公園管理事務所/枚方市山田池公園1-1

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[2014/06/08 20:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 煙と霧 

勝尾寺 煙 
塔百景3

焚火の煙が新緑に映えてきれいでした。

727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)がここに草庵を築き、765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしました。 
777年、開成は大般若経600巻の書写をやり遂げ、この場所に弥勒寺を創建しました。
780年、妙観が十一面千手観世音菩薩立像を刻み、本尊として安置しました。
880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜りました。
しかし、「王に勝った寺」とはあまりに畏れ多いとして、「王」を「尾」として勝尾寺と号したそうです。

清和天皇について簡単に見てみましょう。
858年、9歳で即位しました。
平家物語には惟仁親王(清和天皇)と惟喬親王のどちらを皇太子にするかでもめたことが記されています。
876年、第一皇子の陽成天皇に譲位し、879年に出家して畿内巡幸の旅をしました。
880年、丹波国水尾の地で絶食を行うなど厳しい苦行を行っています。
その後左大臣源融の別邸棲霞観で発病し、粟田の円覚寺で崩御されました。

うーん、こうしてみると清和天皇は苦行を行ったせいで命を縮めてしまったんじゃないかと思ってしまいます。
あれ?
880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったとされていますが、同年、清和天皇は崩御されています。
それなのになぜ効験があったといわれているんでしょうか?

勝尾寺 三門

山門から境内に至る橋は、ミストが噴き出す仕掛けになっていていつも霧がたちこめています。

勝尾寺/大阪府箕面市粟生間谷2914-1

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[2014/06/07 20:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

住吉大社 卯の花 『後鳥羽院の怒りを鎮める歌』 

住吉大社 卯の花 

「すみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな/光台院親王」

漢字にすると「住吉の 木綿四手なびく 松風に 浦波白く 隠る卯の花」となるんでしょうか。
訳は「住吉の神域に掛けられた木綿の四手がなびく松風が、白い波をたてて卯の花を隠しています」でいいのかな?
四手って何?という方はこちらをご覧ください。→ 

住吉大社 太鼓橋
昔は住吉大社の太鼓橋のあたりまで海だったそうです。
海岸の砂浜には美しい松林が続いていたのでしょう。
大和川が運んできた大量の土砂によって陸が増え、現在の海岸線は住吉大社から3km以上も離れています。

光台院親王とは後鳥羽天皇の皇子の道助入道親王(どうじょにゅうどうしんのう、1196年‐1249年)のことでしょうか。
1206年に出家し、1214年に仁和寺第8代門跡となり光台院御室と称されました。

父親の後鳥羽天皇は1198年に土御門天皇に譲位して以降、1221年まで院政を行いました。
院政は3代23年間続きましたが、しだいに鎌倉幕府と対立するようになり、1221年に承久の乱がおこります。

このとき道助入道親王は父・後鳥羽院のために祈祷を行いましたが、後鳥羽院は敗れて隠岐へ流罪となりました。
道助入道親王は仁和寺門跡を廃され、高野山に隠遁しました。
 
隠岐に流された後鳥羽院は次のような歌を詠んでいます。
「われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け」
私こそ隠岐の島の新しい島守である。隠岐の海の荒々しい波風よ、そのことをふまえて吹くがよい、みたいな訳になりますでしょうか。

光台院親王は住吉の松風に、父・後鳥羽院がおこした隠岐の海の荒々しい波風を思いおこして「「すみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな」と詠んだのかもしれませんね。

住吉大社 兎

住吉大社/大阪市住吉区住吉2-9-89 

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[2014/06/03 20:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)