元興寺 ハルシャ菊 『3つに分かれた元興寺』 

元興寺 門
元興寺 極楽坊 ハルシャ菊

興福寺の南に「ならまち」と呼ばれる一画があります。
奈良といえば興福寺や東大寺、春日大社などの古い神社仏閣の風景が思い起こされますが
「ならまち」は江戸時代の町屋や小さなお寺や神社が立ち並ぶ、庶民的な雰囲気の町です。
そんな「ならまち」に元興寺はあります。

飛鳥時代、蘇我馬子が飛鳥に日本最古の寺である法興寺を建立しました。
法興寺は平城京遷都にともなって奈良に移転して元興寺と称しました。

元興寺 行基瓦
元興寺 極楽坊の瓦

元興寺の屋根には一部、飛鳥時代の瓦が用いられています。
瓦の色が濃く見えているのが飛鳥時代の瓦です。

行基葺

本瓦葺は瓦の継ぎ目に段差がなくスムーズですが、飛鳥時代の瓦で葺いた方は継ぎ目に段差があるのが特徴で、行基葺と呼ばれています。
飛鳥の法興寺の瓦をリサイクルして使ったのでしょうか。

元興寺の受付のおじさんが、行基葺の模型で説明してくれました。ありがとうございます~。

移転したと言っても、法興寺はそのまま飛鳥に残りました。
現在、飛鳥寺と呼ばれているお寺が法興寺の後身です。

実は「ならまち」はもともとはこの元興寺の寺域でした。
元興寺は興福寺・東大寺に並ぶ大寺院だったのですね。(境内図→

けれど元興寺は徐々に衰退していくのです。
災害などで建物が失われても、再建されずに放置されていたようです。

江戸時代には元興寺は大塔院(東塔院)中門、五重塔を管理する中門堂衆、極楽坊、小塔院に分離しました。
広大な境内の土地は切り売りされたようで、民家が立ち並ぶようになりました。
1859年、五重塔や観音堂が火事で焼失しました。
現在は元興寺極楽坊、塔跡、小塔院跡の3つに分かれ、それぞれ別の寺院となっています。

元興寺 仏足石
元興寺 塔跡 仏足石

塔跡には五重塔の礎石があります。

小塔院跡は、かつて高さ5.5メートルの五重小塔を安置するお堂があった場所なのだそうです。
五重小塔は現在、元興寺極楽坊境内の収蔵庫内にあります。

小塔院跡はいい写真がないので、また今度撮りに行きます。(汗)

元興寺極楽坊/奈良県奈良市中院町11
元興寺塔跡/奈良市芝新屋町12 
元興寺小塔院跡/奈良市西新屋町45



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[2014/05/31 21:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

法輪寺 れんげ草 

法輪寺 れんげ草
塔百景2

斑鳩の里を歩くと、田園風景の中に3基の塔が次々に現れます。
法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔、法輪寺の三重塔です。
いずれも飛鳥時代に創建されたとされる古いお寺です。
法隆寺と法起寺の塔は7世紀ごろに建てられたもので、世界最古の木造建築として世界遺産にも登録されていますね。
法輪寺の三重塔 も法隆寺や法起寺と同じく7世紀ごろに建てられたものが1944年まではあったそうですが、落雷をうけて消失してしまいました。
大和路の風景を撮っておられた写真家の入江泰吉さんは、このニュースを聞いてとてもショックだった、とおっしゃっていました。
その後、作家の幸田文さんらが寄付金を集め、1975年に三重塔は再建されました。
工事に携わったのは法隆寺の宮大工の棟梁、西岡常一さんです。
薬師寺東塔を再建したのもこの方でした。(参照/『薬師寺 朝日 』)

それにしても、1300年以上前に建てられた塔が最近まで3基とも現存していたということは驚くべきことだと思いませんか。
斑鳩という土地は気候が穏やかな土地だといえるかもしれません。 滅多に雪も降りませんしね。
また、南都焼き討ち(1181年、平重衡らが東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院を焼き討ちにした 事件。)のような事件もなかったようです。

法隆寺・法起寺・法輪寺はいずれも聖徳太子に関係する寺院です。
梅原猛さんは著書『隠された十字架』の中で『聖徳太子は怨霊だった』と説かれました。
中門の中央に柱があったり、聖徳太子等身大の像と伝わる夢殿の救世観音の頭に後輩が直接釘で打ちつけられているのは、怨霊を封じ込めるための呪術的な仕掛けであるというのです。
このような怨霊に対する恐れから、斑鳩の3つの寺は保護されてきたという側面もあるのかもしれませんね。

法輪寺/奈良県生駒郡斑鳩町三井1570
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[2014/05/30 20:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

治田(はるた)神社 藤 

治田神社 藤

先日ご紹介した岡寺の仁王門の前にある神社です。(記事はこちら→『岡寺 牡丹 』)

治田神社があった場所にはもともとは岡寺があったようで、境内にはいくつかの礎石が残されています。
また岡寺所藏の古図には治田神社の敷地に金堂や塔が描かれているそうです。

治田神社は当初は現在地より東方にある天神山にあったのが、明日香村豊浦付近に移転し、さらに岡寺の移転後、現在地に鎭座したようです。
治田神社はもともとは治田氏の祖先を祀る神社であったと考えられていますが、いつのころからか、社名を八幡宮と称して応神天皇(品陀別天皇 )をお祀りするようになったようです。

八幡宮の総本社は大分県の宇佐八幡宮ですが、平安時代には清和天皇が即位した際、清和天皇の護持を目的に宇佐八幡宮より勧請して石清水八幡宮が創建されています。

岡寺は天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立した寺なので、治田神社は天皇護持を目的として岡寺跡に移されたのかもしれませんね。

治田神社 /奈良県高市郡明日香村岡964


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[2014/05/29 20:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

山田寺跡 白藤 

山田寺 白藤

山田寺は飛鳥時代に蘇我倉山田石川麻呂の発願によって建てられたお寺です。
蘇我倉山田石川麻呂は645年の乙巳の変で従兄弟の蘇我入鹿暗殺にかかわりました。
乙巳の変の後、石川麻呂は右大臣となっています。
649年、石川麻呂の異母弟・蘇我日向に「石川麻呂は謀反を企てている」と密告されました。
この時代は同族兄妹だからといって油断できなかったのですね。(今も?)
孝徳天皇は石川麻呂のもとに兵をおくりましたが、石川麻呂は抗戦せず、一族とともに山田寺仏殿前で自害しました。

石川麻呂の死後、山田寺には塔が建てられました。
また丈六仏像が鋳造され、685年、石川麻呂の命日に開眼されました。

1187年、興福寺は山田寺の薬師三尊像を興福寺の東金堂の本尊としました。
当時、興福寺は平重衝の焼き打ちを受けて伽藍の多くを失い、また東金堂の本尊も消失していたようです。
1411年、興福寺の東金堂は落雷をうけて本尊の胴体が失われ、頭部だけ残りました。
1937年、興福寺東金堂修理中、須弥座の下より仏頭が発見され、国宝館に安置されました。
(写真→

山田寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は無人の小さなお堂が立っているだけで、お坊様も住んでおられません。
写真は10年以上前に銀塩のカメラで撮影したものです。
数年前、山田寺に行ってみましたが、藤は刈り取られてしまっていました。

写真を撮っていていつも思うのは、同じ風景には二度とめぐりあえない、ということです。
一期一会という気持ちをもってシャッターを切りたいです。

山田寺跡/奈良県桜井市山田

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[2014/05/28 20:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

不退寺 黄菖蒲 

不退寺 黄菖蒲 


不退寺は平城上皇が出家後に住んだ萱の御所があった場所と伝わっています。
その後、平城上皇の子の阿保親王や、孫の在原業平もここに住んだそうです。
ご本尊の聖観音は在原業平が刻んだものと伝わり、業平観音と呼ばれています。
宝冠帯が大きくリボンのようにも見えるので、リボンの観音様とも呼ばれています。(写真 → 

池の向こう側に見えているのは多宝塔です。
もともとは二層構造であったのが、上層と相輪が失われて初層のみとなっています。

池の黄菖蒲が満開でしたが、紫色のかきつばたの方が不退寺には似合うのではないかと思ったりします。
というのは在原業平が次のような歌を詠んでいるからです。

唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
(唐衣は何度も着ているうちに褄(つま/衣の端)がなれてきてしまいましたが、そんなふうに慣れ親しんだ妻を置いてきてしまったので、長い旅をしてきたのだなあ、としみじみ思うことです。)

らごろも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ

五七五七七の初めの語をつなぐと「かきつばた」になり、業平のセンチメンタルな心情に紫色の杜若が咲き誇る情景が重なって見えます。

業平の旅は行楽ではなく、どうやら都にいられない事情があったようです。
『伊勢物語』には業平が藤原高子と駆け落ちをしたようすが記されています。
ところが高子の兄の藤原基経が高子を連れ戻してしまいました。
その後、高子は清和天皇に入内して陽成天皇をお生みになられましたが、陽成天皇は清和天皇の子ではなく業平の子だという説があるそうです。

百人一首に描かれた業平は弓を背負った姿をしていますが、これは業平が陽成天皇をお守りしている姿なのだと
不退寺の副住職さんが教えてくださいました。

5月28日、不退寺では業平忌の法要がおこなわれ、多宝塔が開扉されるそうです。

不退寺/奈良県奈良市法蓮東垣内町517 


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[2014/05/27 21:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

薬師寺 朝日 

 
やくしじ
塔百景1

薬師寺は奈良時代に創建されたお寺ですが、二基ある塔のうち西塔は1528年に戦火を受けて消失しました。
入江泰吉さんの薬師寺の写真には、一基だけの塔を大池から臨んだものや、雨水がたまった西塔の礎心に東塔が写っているものなどがありますね。
その後、1981年に法隆寺の宮大工であった西岡常一氏によって西塔は再建されました。
写真に写っている二基の塔のうち、向かって左が再建された西塔です。
向かって右の東塔は奈良時代に創建されたままのものです。
西塔と東塔を比べると、東塔のほうが屋根の角度が急になっていますが、1000年後には同じ角度になるということです。

現在、東塔は解体修理中で、四角い箱に覆われています。
修理が終わるのは平成31年ごろだそうです。
二基揃った薬師寺の塔を再び見れる日が待ち遠しいです。

薬師寺/奈良県奈良市西ノ京町457


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[2014/05/26 20:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

岡寺 牡丹 

岡寺 牡丹 

謎の石造物が点在する飛鳥路を歩いていくと岡山の中腹に岡寺があります。
飛鳥時代、ここには草壁皇子が住んでいた岡宮があったとされます。

天智天皇は弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太子としていたのですが、
自分の子の大友皇子を皇位につけたいと考えるようになって、大友皇子を皇太子としました。
で、672年に天智天皇が崩御したのち、大海人皇子vs大友皇子の皇位継承をめぐる戦争(壬申の乱)がおこります。
叔父vs甥の戦争ですね。
結果、大海人皇子が勝利して即位しました。
天武天皇の皇子・草壁皇子は天武天皇の皇太子となりました。
しかし草壁皇子の異母弟、大津皇子の人望のほうが高かったようです。
686年に天武天皇が崩御した翌年、大津皇子は謀反を企てたとして処刑されましたが、これは草壁皇子を皇位につけたいと考えていた草壁皇子の母親、鵜野讃良(のちの持統天皇)の陰謀ではないかという説があります。
689年、草壁皇子は病を患って27歳の若さで亡くなってしまいました。
690年、鵜野讃良は草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)を皇位につけたいと考えましたが、軽皇子はまだ7歳と幼かったため、中継ぎの天皇として自分が即位しました。(持統天皇)

境内に咲く美しい牡丹の花を見ながら、そんな血なまぐさい歴史に思いをはせていました。

奈良県高市郡明日香村岡806


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[2014/05/25 20:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

八条池と錦水亭 霧島躑躅 

八条池 霧島躑躅  

長岡天満宮/京都府長岡京市天神2-15-13

八条池の向こうに見えているのは錦水亭という老舗料亭です。
八条池にかかる橋は長岡手天満宮の参道となっています。
長岡天満宮には菅原道真をおまつりしています。
このあたりは菅原道真の所領であったそうで、親交の深かった在原業平らと詩歌管弦を楽しんだ場所とされています。
道真は業平より20歳も年下でしたが、ふたりはたいそう仲がよかったみたいですね。
女遊びをするために二人で京都大山崎にもしょっちゅう出かけていたそうです。

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[2014/05/24 21:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

おふさ観音 薔薇 

おふさ観音 薔薇2

1650年、鯉ヶ淵という池の中から白いカメに乗った観音が現れました。
それを見つけたおふさという娘が小さなお堂をたてて観音さまをお祀りしたのが寺の始まりとされます。

おふさ観音 薔薇

境内には『鯉の池』と『亀の池』というふたつの池があります。
どちらも伝説にちなんで池の名前をつけたのでしょう。

『亀の池』には丸い石が北斗七星の形に並べられていました。

亀の池 北斗七星2

北極星に対する信仰を北辰信仰と言いますが、北斗七星に対する信仰も北辰信仰と習合されました。
このあたりには北辰信仰があったのかもしれませんね。

そういえば北の守護神とされる玄武は亀と蛇が合体したような姿をしています。
(図 →  )

亀に乗った観音様が表れたという伝説は北辰信仰と関係があるのかも?

おふさ観音/奈良県橿原市小房町6ー22



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[2014/05/23 20:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛井寺(ふじいでら) 藤 

葛井寺 藤

葛井寺/大阪府藤井寺市藤井寺一丁目16番21号

毎月18日に天平時代の乾漆千手観音坐像(十一面千手千眼観世音菩薩像)が開扉されます。
(写真→ 

千手観音の腕は四十二本のものが多いです。
胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うと考えられ、「25×40=1,000」というわけです。
ですが実際に1000本の腕を持つ像として作られたものもあります。
奈良・唐招提寺、京都寿宝寺の千手観音などがそうです。
ここ藤井寺の千手観音は合掌する本手のほか、脇手は持物をもつ大手38本、小手1001本(右500本、左501本)で1041本の腕を持っています。
顔立ちもとても美しくて私のもっとも好きな仏像のひとつです。


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[2014/05/22 21:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)