兵庫県神戸市 生田神社
夏越大祓式・・・7月15日
①生田敦盛生田神社境内に生田の森があります。
生田の森ここを舞台とした能に「生田敦盛」があります。
[2018/07/14 00:00]
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兵庫県洲本市 由良湊神社
ねり子祭り・・・2月11日
①由良湊神社由良湊神社が創建された年代や経緯などは詳しくはわかっていないようです。
近世になり、成山城城主・池田忠長が由良神社の近くにあった八幡宮を再興して氏神とし、由良湊神社を境外摂社としました。
その後、蜂須賀氏が八幡宮を由良湊神社の境内に遷宮させたということです。
御祭神は速秋津日古神(はやあきつひこのかみ)・速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)・品陀別尊(ほむたわけのみこと/第15代応神天皇)です。
八幡神とはこの品陀別尊(応神天皇)のことです。(以後、皇子または応神天皇と記します。)
②父の死後、九州で生まれた皇子応神天皇の父親は第14代仲哀天皇、母親は神功皇后です。
仲哀天皇は熊襲征伐のため神功皇后とともに筑紫に行きました。
その際、神功皇后が神がかりして、「新羅の宝を授ける」という託宣しました。
しかし仲哀天皇はこれを信じなかったため、神の怒りに触れて崩御してしまいました。
神功皇后はおなかに応神天皇を宿していましたが、おなかに石をおき、冷やすことで出産を遅らせて三韓出兵します。
そして日本に戻り、九州の宇美で皇子(のちの応神天皇)を出産しました。
そのあと、神功皇后や武内宿祢とともに畿内いりしたんだと思います。(よくわかりません。すいません。)
まだ子供なので、武内宿祢に抱かれて旅をしたのでしょう。
皇太子になったのは神功皇后4年です。
おそらく3歳から4歳ごろ皇太子となったのでしょう。
③名前を交換した皇子
古事記にこんな話があります。
武内宿禰は皇子(のちの応神天皇)に禊をさせるため海岸に連れていきました。
その夜、武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「皇子と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。
翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。
皇子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。
イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。
④ねり子は八幡神のイメージ?時間の関係で、ねり子祭りを最後まで見ることができなかかったんですが、
数えで3歳の幼児をねり子といい、数人の大人がねり子を抱いて神社からお旅所までをリレーするそうです。
皇子だった応神天皇が武内宿祢に抱かれて畿内へ向かうシーンや、武内宿祢に抱かれて禊をするために敦賀に行くシーンを思い浮かべてしまいます。
ねり子は八幡神(応神天皇)のイメージと重ねられているのではないでしょうか。
⑤名前の交換は政権交代を表している?
③の、応神天皇と伊奢沙和気大神が名前を交換するという話は、政権交代を意味しているのではないかと思います。
伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市の気比神宮に鎮座する神です。
応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされたという話なのかも?
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたということではないでしょうか?
⑥神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?初代神武天皇の東征ルートと、15代応神天皇の畿内入りルートが重なるため、二人は同一人物ではないかとする説があります。
神武天皇は九州から東征して畿内入りするのですが、畿内には神武天皇よりはやくニギハヤヒという神が天下っていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったという説があります。
ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは神武と対峙しますが、ニギハヤヒはナガスネヒコをうらぎって神武につき、ナガスネヒコは神武に殺されたと記紀は記しています。
ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。
応神天皇とはニギハヤヒ、神武天皇とは応神天皇と名前を交換した伊奢沙和気大神のことなのかもしれませんね。
⑤卑弥呼は日女命=倭迹迹日百襲姫命でニギハヤヒの孫籠神社の系図によれば、始祖ニギハヤヒの9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とあります。
この日女命が魏志倭人伝に登場する卑弥呼ではないかといわれています。
また倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と同じぐらいです。
箸墓は前方後円墳ですが、魏志倭人伝は、卑弥呼の墓が前方後円墳だとは記していません。
しかし近年の研究でもともと円墳であったものを、前方後円墳に作り直した可能性が浮上しています。
⑥神功皇后=卑弥呼
日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。
39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」
40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」
43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」
http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)
我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのですね!
私は神宮皇后とは卑弥呼をモデルに創作された人物で、実在していなかったのではないかと思います。
そして10代崇神天皇の叔母で箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だと思うので
卑弥呼=日女命(ニギハヤヒの9代目の孫)=倭迹迹日百襲姫命(籠神社の系図に日女命の別名と記されている)=神功皇后
ということになると思います。
⑦応神天皇は二人いた?
すると神功皇后とはニギハヤヒの9代目の孫・日女命のことであり、ニギハヤヒは物部氏の祖なので、神功皇后は物部王朝の女王ということになります。
そして神功皇后の御子である応神天皇もまた物部王朝の王であったということになりますが、イザサワケと名前を交換して(政権交代して)しまった?
もともとのイザサワケとは天皇家の人間だったのではないでしょうか。
ところが物部王朝の応神天皇がイザサワケとなり、天皇家のイザサワケが応神天皇とすり替わってしまったのでは?
言い換えれば、物部王朝の応神天皇と、天皇家の応神天皇、ふたりの応神天皇がいたのではないかということです。
⑧八幡神は物部王朝の応神天皇?
八幡神は天皇家の応神天皇ではなく、物部王朝の応神天皇だと思います。
八幡宮にはたいてい神功皇后も祀られていますが、彼女も物部王朝の女性だと考えられますので。
また、日本には怨霊信仰がありました。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。
そこで怨霊が祟らぬように神として祭ったのです。
そのため、「古には神と怨霊は同義語だった」などとも言われますよ。
戦国時代には「神とは立派な人物である」と考え方が変化してきたようで、豊臣秀吉や徳川家康は自ら死後、神として祀られることを望みました。
しかしそれよりも昔、神として祀られた人物は政治的に不遇だった人物ばかりです。
ある有名な方が、「天皇は神として祀られているケースが多い」とおっしゃっていましたが
その多くは明治以降の国家神道重視の政策の中で創建されたもので、(神武天皇を祀る橿原神宮・天智天皇を祀る近江神宮・桓武天皇を祀る平安神宮など)
古より神として祀られていた天皇はそんなに多くないと思います。
応神天皇は例外で、古くから八幡神として祀られていましたが、それは応神天皇が物部王朝の天皇であり、政治的に不幸な死を迎えた天皇(ニセモノの応神天皇に政権を奪われた)だからではないかと私は考えています。
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[2018/02/23 00:00]
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神戸市長田区 長田神社
①痔の神様長田神社の境内に楠宮稲荷社があります。
アカエイの絵が描かれた絵馬がずらり~。
でも変ですね、エイにはながーいしっぽがありますが、絵馬のエイにはしっぽがありません。
ふと見ると、こんな説明板が。↓
なんと御神木の楠はアカエイの化身で、アカエイを絶って祈願すると願いが叶う、とくに痔に霊験あらたかであると。
つまりアカエイは痔の神様である、ということです。
なんでアカエイが痔の神様なの?
②なぜ絵馬のアカエイにはしっぽがないのか?アカエイの尾のとげには毒があり、刺されると結構痛いようです。その痛みは痔の痛みに似ているとかなんとか。
それで漁師がたちはアカエイを捕獲するとすぐに尻尾を切り落とすそうです。
これを漁師さんたちは「アカエイを断つ」と言っているようです。
「アカエイを断つと痔のような痛みから解放される」、にひっかけて「アカエイ絶ちをして祈願すると痔が治る」となったみたいですね。
なるほど~、絵馬のアカエイにはしっぽがないのは「アカエイ断ち」されているからなんですね。
しかーし!
私はこの説明では納得できないっ!
③アカエイの写真を見てみると・・・あたりまえですが、痔以外によって生じる痛みというのも山のようにあります。
おなかが痛い、頭が痛い、神経痛で痛い、足がつって痛い、打ち身で痛い、すり傷ができて痛い、etc.
それらの痛みには違いはあるかもしれませんが、どのような違いなのか、みなさんは明確に説明できますか?
ちょっとむつかしいと思います。
「アカエイを絶つと痛みに効果がある」ならわかるんですが、なぜ「アカエイを絶つと痔の痛みに効果がある」なんでしょうか?
そりゃー、アカエイのしっぽを断つからだよ。尻尾はお尻から生えてるだろうって?
私も一瞬そう考えたんですよ。
でもアカエイの写真を見てみたら・・・・ ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Akajei.jpgなんとアカエイの目の後ろに菊門(肛門)のように見える部分があるじゃないですか~。
それで痔に菊(痔にきく)、となったのではないでしょうか?

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[2018/02/01 17:46]
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兵庫県尼崎市 大覚寺
大覚寺狂言・・・2月3日①大覚寺狂言京都などに民俗芸能である大念仏狂言が伝えられています。
大念仏狂言とは融通念仏(大念仏)の中興者・円覚上人の念仏の教えを無言劇(パントマイム劇)としたものです。
兵庫県尼崎市の大覚寺に伝わる大覚寺狂言も、大念仏狂言のひとつなのだと思います。
②閻魔庁多くの演目が奉納されましたが、今日はその中から『閻魔庁』をご紹介します。
鬼たちは閻魔大王に命じられて・・・・・・
幽霊さんをいたぶります。

mind-travel
ぎゃーーーーっ!
幽霊さんはさらに釜ゆでにされて鬼たちに食べられてしまいます。
お地蔵様があらわれて錫杖で釜をかきまぜると・・・・・
錫杖につかまって幽霊さんが釜の中から出てきました。
③うちわは魂を呼び寄せる呪具古の人々はうちわを『魂を呼び寄せる呪具』であると考えていました。
お地蔵様が手にうちわを持っているのは、鬼に食べられてしまった幽霊さんの魂を呼び寄せるためなのではないでしょうか。
③閻魔大王とお地蔵さまは同体閻魔大王とお地蔵様は見かけは全く異なりますが、同体であると言われます。
閻魔大王は死者を裁きますが、死者が地獄で受けるのと同じ痛みを自分自身も受けるといわれます。
また、地蔵菩薩は地獄に現れて人々の身代わりになって地獄の責め苦を受けてくださるとも言われています。
つまり死者を裁く閻魔大王は地獄で地蔵菩薩となって現れ、人々の身代わりになってくださるということでしょう。
④陰の閻魔大王が陽に転じて地蔵菩薩になった?閻魔大王とお地蔵様が同体であるというのは、陰陽道の考え方によるものだと思います。
陰陽道では陰が極まれば陽に転じると考えます。
ここから、陰=祟り神は、祀り上げれば陽の存在=ご利益を与えてくださる守護神に転じると考えられるようになりました。
つまり陰が閻魔大王で、それが陽に転じたのが地蔵菩薩なのではないかと思うわけです。
[2017/02/12 00:00]
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龍野ひなまつり・・・2016年3月19日(土)~27日(日)10:00~16:00 http://harimarche.com/topics/46576_46576/
城下町・龍野の美しい町並を
ひなめぐりしつつ歩きます。
写真は江戸時代の雛人形なのだとか。表情の優しさにほっこりします。
●諏訪湖に表れた白狐私が龍野を訪れたのは2008年で、このときは人形浄瑠璃の上演もありました。
「本朝廿四考 狐火の段」です♪
本朝廿四孝とは!
武田家と上杉家の確執を脚色した物語です。
脚色したものなので、実在しない人物も登場します。
上の写真は武田勝頼の許嫁の八重垣姫ですが、八重垣姫は架空の人物です。
中国に『二十四孝』(にじゅうしこう)という孝行に優れた24人を取り上げた書物があります。
「本朝」とは日本のことで、「本朝廿四考」とは「日本の孝行に優れた24人の孝行者の話」という意味です。
3段目に慈悲造という者が母に命じられて雪の中筍を掘るという話が出てきまして、それが孝行者の話だということでこういうタイトルになったようです。
うーん、でもあまり本筋に関係のないエピソードで、それがなぜタイトルになったんでしょうか?
それはさておき、ざっとあらすじを書いておきます。
武田家の家宝・諏訪法性の兜を上杉家が返さないので両家は仲たがいをしていましたが
和解のため、上杉の娘八重垣姫と、武田信玄の息子・武田勝頼の縁談が決まりました。
そんなとき、将軍足利義晴が暗殺されるという事件がおきました。
武田晴信が犯人ではないかと疑われ、3年の間に犯人を見つけることができなければ嫡子勝頼の首を差しだすようにと求められました。
しかし3年がたっても犯人を見つけ出すことができず、勝頼の首を差し出すことになりました。
武田家家老・板垣兵部はかつてこっそりと自分の子供と勝頼をすりかえていたのですが、自分の子供の首を差し出すのは嫌だと思い、身代わりとして蓑作という者を連れて帰ってきました。
実は蓑作こそが本当の勝頼だったのです。
信玄はこれを見破り、偽の勝頼(兵部の子)は切腹しました。
真の勝頼(箕作)は諏訪法性の兜を求めて甲斐から信濃へとやってきて、花作りに身をやつして上杉の屋敷に入りました。
花作りが勝頼であることを見抜いた謙信は、勝頼を使いに出し、その帰りに討ち取ろうと考え刺客を送りました。
謙信の娘・八重垣姫は蓑作の姿を見て「この方は勝頼にちがいない」と悟り、勝頼を助けるため、諏訪法性の兜に祈りました。
「諏訪湖は凍っていて舟を出すこともできないのですが、なんとしても勝頼様にお知らせしたいのです、お助けください!」
すると諏訪明神の使いとされる白狐が現れました。
八重垣姫が兜を頂くと、たくさんの狐火が燃えました。
狐が乗り移った八重垣姫は湖上を駆け抜けていきました。
●諏訪湖に表れた白狐の正体は御神渡りだった。諏訪湖では冬の寒い日に「御神渡り(おみわたり)」という現象が起こることがあります。
動画、お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
「御神渡り」とは 氷が盛り上がって、長い筋を作る現象のことです。
諏訪大社の御祭神・建御名方命(タケミナカタ)が下諏訪に住む八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)に会いにいくときにできた足跡だと言い伝わっています。。
「本朝二十四考 狐火の段」はこの伝説を元に作られたものだったのですね。
つまり武田勝頼はタケミナカタ、八重垣姫はサカトメノミコトのイメージと重ねられているのでしょう。
これにちなみ、諏訪湖には八重垣姫のブロンズ像がたてられているそうです。
この「御神渡り」ができるメカニズムは次のように考えられています。
①気温が下がると氷が収縮して裂け、そこに湖の水が入って結氷。
②気温が上昇すると氷が膨張し、裂け目の氷が持ち上げられる。
http://www.dotoinfo.com/naturecenter/omiwatari.htmより
冷凍室にビンに入ったジュースを入れて、翌朝見てみるとビンが割れていたということがあります。
なんでも、水は氷るときに膨張して体積が増えるんだそうですね。
だけどいったん凍ってしまった氷は、気温が下がると収縮し、気温があがると膨張するということでしょうか?
如来寺
タケミナカタは大国主神の次男です。
天照大神は葦原中国は自分の子孫が収めるべきだとし、葦原中国の大国主命のもとへタケミカヅチとフツヌシを派遣し、大国主神に「国を譲るように」と迫らせました。
大国主神は「自分の二人の息子に意見を聞いてくれ」と言いました。
そこでタケミカヅチは大国主神の長男のコトシロヌシと次男のタケミナカタに「国を譲るように」と言いました。
タケミカヅチは「承知した」と答えて海に入水しました。
タケミナカタはタケミカヅチに力くらべを挑みます。
タケミカヅチは手を氷に変え、さらに刀に変えて(ひえ~)、タケミナカタの手を潰して投げ飛ばしました。
タケミナカタは諏訪湖まで逃げましたが逃げきれなくなり、ここから出ないこと、葦原中国は天照大神の子孫に譲ることを誓いました。
タケミカヅチは手を氷に変え、さらに刀に変えたとあるところに注意してください。
そしてもう一度、上の御神渡りの動画を見てほしいのです。
御神渡りは神様が渡った跡のようにも見えますが、たくさんの氷の刀が並んでいるようにも見えませんか?
諏訪湖の御神渡りは、タケミカヅチがタケミナカタと闘った際に変身した氷の刀であるとも考えられていたのではないでしょうか。
ガラスケースをドールハウスのように見立て、ふすまや姿見、たんすを置いてあるんですね!
たんすの細工などすごく手がこんでいて見とれてしまいます。
姿見に花嫁さんの後ろ姿が写るのもいいですね♪
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[2016/03/25 00:00]
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兵庫県尼崎市 大覚寺
大覚寺身振り狂言・・・2月3日●なぜ六波羅蜜寺では弁才天を祭っているの?前回、六波羅蜜寺の追儺式についての記事を書きましたが
六波羅蜜寺 追儺式 『六波羅蜜寺に表れた土蜘蛛の正体は平将門だった?』※書き直しました。 六波羅蜜寺では弁才天をお祭りしていて、都七福神の一となっています。
六波羅蜜寺ちなみに都七福神とは次の7つの寺社で、正月に7つの寺社をめぐる七福神めぐりをする習慣があります。
京都恵美須神社(恵比寿天)・松ヶ崎大黒天(大黒天)・東寺(毘沙門天)・六波羅蜜寺(弁才天)・赤山禅院(福禄寿)・革堂(寿老人)・萬福寺(布袋尊)
なぜ六波羅蜜寺で弁才天を祀っているのかなあ、と思っていましたが
尼崎の大覚寺に行ってわかりました。
●弁才天は琵琶法師の守護神だった。大覚寺では節分の日に「大覚寺身振り狂言」を行っています。
セリフのないパントマイム劇です。
京都の壬生寺や千本閻魔堂でも節分の日に狂言(大念仏狂言)を行っていますね。
(壬生狂言にはセリフがありませんが、千本閻魔堂狂言にはセリフがあります。)
閻魔庁・湯立などの演目は京都の大念仏狂言にもあります。
しかし「十王堂」という演目は大覚寺だけのもので、他では見ることができません。
それもそのはず、大覚寺に伝わる伝説をテーマにした新作狂言なのです。
大覚寺身振り狂言 十王堂パントマイム劇でセリフがないもんで、ちょっと話の筋がわからないところもあったんですが~(すいません!)
「十王堂」は大覚寺に伝わる次のような伝説をベースに作られたものだそうです。
ひとりの盲人が京に戻る途中、酒を飲まされ、酔って寝てしまいました。
酒を飲ませた海賊夫婦は盲人の懐から多額の金銭を盗みました。
ところがその報いで夫婦はわが子を失い、償いのため、大覚寺に琵琶法師を祀る十王堂を建てました。
琵琶法師を祀る十王堂を建てたということは、海賊夫婦は琵琶法師を殺したんでしょうか?
また十王とは地獄でもう序の審判を行う十尊のことですが、なぜ十王堂に琵琶法師を祀ったのでしょうか?
それはともかく、狂言では琵琶法師が琵琶をひいていると弁才天が現れて一緒に琵琶を弾きだすという筋になっていました。 弁才天には 8臂像(腕が8本)と2臂像(腕が2本)があります。
8臂像は弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索を持ちます。
そして2臂像は琵琶を持っています。
大覚寺狂言に登場した弁才天は2臂像で、琵琶をもっていました。
弁才天は琵琶を持っているところから琵琶法師の守護神とされたようです。
大覚寺身振り狂言 十王堂
※向かって左、オレンジ色の着物を着ているのが弁才天です。
●平家ゆかりの地だった六波羅
六波羅蜜寺の話に戻りますが、かつて六波羅蜜寺の付近は平家の邸宅が立ち並んでいたところでした。
しかし平家滅亡のとき、平家は自ら火を放ち、邸宅は燃えて焼野原となってしまったのです。
平家物語は「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」という有名なフレーズで始まりますが
祇園精舎の鐘とは六波羅蜜寺の近くにある六道珍皇寺の迎え鐘のことだと私は考えています。
詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。↓
六波羅蜜寺 萬燈会 六道珍皇寺 迎鐘 『祇園精舎の鐘とは六道珍皇寺の迎鐘だった?』
平家物語は盲目の琵琶法師によって語られました。
かつて六波羅蜜寺の付近では琵琶法師が平家物語を弾き語っていたのではないでしょうか。
なんといっても、六波羅は平家ゆかりの土地なので。
そして琵琶法師の守護神として六波羅蜜寺で弁財天を祀るようになったのではないでしょうか?
[2016/02/07 00:00]
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