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大阪国際空港よりいたみ花火大会を望む 『飛行機の窓から見える小さな日本列島』 

いたみ花火 

伊丹空港から花火をとりたいと思ってでかけたのですが・・・・

大阪国際空港 展望デッキ 

午後4時の時点で展望デッキは ↑ こういう状態。
一番前のみ三脚置くことができますが、すでに埋まっていました。
ほかは三脚禁止だったようで、直前に注意されて場所を変えた人も。

聞いたところによると最近リニュアル工事があって写真のような柵が設置されたんだとか。
望遠レンズ使えば柵はぼかせる?

伊丹空港よりいたみ花火大会を望む3 

三脚置けないので柵のない別の場所から撮影。でもここからだと飛行場や飛行機が映らないwwwww
床がウッドデッキになっているので、揺れるしw

①日本列島の形をした島が浮かぶため池

大阪国際空港から飛行機に乗って2分ほどすると、飛行機の窓から日本列島が見えてきます。
昆陽池の中に人口の島として日本列島の形がつくられているのですね!

昆陽池

あ、でもちょっち方角が変!
なんで方角もきっちりあわせなかったのかなあ?




②行基は建築・土木の神として信仰された?

昆陽池は、奈良時代に僧・行基(668-749)が作ったと伝わるため池です。
ですが私は本当に行基が作ったのかどうかは怪しいと思います。

西遊寺 久修園院 雪 『行基四十九院と家型の四十九院』 
↑ 此方の記事にも書いたのですが
行基は畿内に多くの寺を建てており、それらの寺を総称して行基四十九院と言います。
行基は寺のほかに15のため池、溝と堀を9筋、橋を6橋作ったといわれ、行基が開いたとされる温泉もあります。
また、摂播五泊といって、摂津から播磨にかけて5つの港を整備したともいいます。

いくらなんでも数が多すぎるような気がします・・・・。

行基は建築・土木の神として信仰されていて、その結果、多くの寺院・橋・ため池・港などが行基が作ったといわれるようになったのではないかと思ったりします。

いたみ花火2 
あいかわらずピントずらしはうまくできないしw

③平安末期~鎌倉期にすでに昆陽池は存在していた。

行基没後400年ほどたったころに編纂された「行基年譜/天平13年記」には昆陽上池と下池があったと記されています。
ということは少なくとも平安末期~鎌倉期にはこのため池はあったということになると思います。

江戸時代初め、下池が埋め立てられ、1970年代に上池の3分の1が埋め立てられました。

江戸時代の史料によれば、池の広さは50ヘクタールもあったようです。
現在の池の広さは12.5ヘクタール、その南の貯水池が4.5ヘクタールということです。

いたみ花火3 

飛行機の光の軌跡だけとれたw

④洪水対策にも役立った昆陽池

伊丹の東には猪名川、西には武庫川が流れ、猪名川と武庫川に挟まれたところに伊丹台地があります。
伊丹台地は北の北摂山系から南の大阪湾まで緩やかな傾斜となっています。


伊丹台地の中央部を東西に伊丹断層があり、その伊丹断層の北、昆陽野、猪名野あたりは窪んで低い土地となっています。
これを昆陽池陥没帯または昆陽池地溝帯といいます。
昆陽池はこの昆陽池陥没帯を利用してつくられたため池のようですね。

昆陽池は灌漑用水をためておくほか、洪水の際にはここに水が流れ込み、被害を食い止める役割をも担ったということです。

伊丹空港よりいたみ花火大会を望む2 

りたかった写真のイメージを合成でつくってみたw


⑤昆陽池の島は鳥目線を意識して作られた?

随分以前に昆陽池に行ったことがありますが、地上から見たのでは島が日本列島の形をしていることはわかりません。
ナスカの地上絵や仁徳天皇陵が地上から見てもその形がわからないのと同じです。

私はナスカの地上絵や仁徳天皇陵は鳥の目線を意識して作られたものではないかと考えました。
空高く飛ぶ鳥の目線からなら、その形は容易に認識できるでしょうから。
そして、「死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び立った」とか、「鳥たちがアメノワカヒコの葬儀をおこなった」という話が記紀にはあります。
ここから古の人々は死んだ人の魂は鳥になって天高く昇っていくと考えたのではないかと考えました。

それでは昆陽池の日本列島も、古の人々が死んだ人の霊のためにつくったのか?

というのはトンデモですw。

昆陽池周辺は1972年に公園として整備され、その際に日本列島もつくられたそうです。
昆陽池昆陽池の日本列島の形をした島は昭和になってから作られたもので、古からあったものではないのですw。

①で大阪国際空港(伊丹空港)から2分ほどで窓から昆陽池の島が見えると書きました。

昆陽池の日本列島の形をした島は飛行機の窓から見下ろす視線を意識して作られたのではないでしょうか。

伊丹空港よりいたみ花火大会を望む

⑥日本列島の形をした島は外国人旅行客に日本をアピールするため?

大阪国際空港は1939年(昭和14年)に大阪第二飛行場として開設され、太平洋戦争中は陸軍に使用されました。
敗戦したのち、占領軍が接収して伊丹エアベースと呼ばれました。
やがて接収が解除され、1959年に大阪国際空港と改称されました。

ですがこの大阪国際空港は近隣が住宅街なんですね。
豊中の友人の家の窓から遠くに大阪国際空港に離陸する飛行機が見えていましたが
飛行機がマンションの群れの中に突入していくかのように見えるんですよ。

大阪国際空港近くを歩いても、マンションに重なるように巨大な飛行機が見えます。
そしてゴオオオオーーーという轟音。
飛行機好きにはたまらない快音なんですが、騒音・排気ガスなどの公害問題が生じまして、
1994年に関西国際空港が開港されると国際便は関西国際空港に移されました。
(現在も大阪国際空港に国際便はあるとも聞きましたが)

ですが、かつて大阪国際空港は国際便が頻繁に離発着していたのです。
1970年の大阪万博の際には、大勢の外国の方が飛行機の窓から昆陽池の日本列島の形をした島を見たのではないでしょうか。

昆陽池に日本列島の形をした島をつくったのは外国人旅行客に日本をアピールするためではないでしょうか。

いたみ花火

⑦日本列島の形をした島は行基図にちなむ?


昆陽池に日本列島の形をした島をつくった理由としてもうひとつ考えられるのは行基が行基図をつくったといわれていることにちなむのではないかということです。


ただし行基図に北海道は含まれていませんが。

Gyokizu

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyokizu.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/47/Gyokizu.jpg よりお借りしました。
村上勘兵衛(Murakami Kanbei) [Public domain]



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[2019/08/28 12:22] 兵庫県 | TB(0) | CM(2)

一ノ宮神社 キリシマツツジ『陰陽になってる?ふたつの多賀』 

兵庫県丹波市氷上町上成松 一ノ宮神社
2018年 4月29日 撮影

一ノ宮神社 

こちらのサイトに御祭神はイザナギ、配祀神は誉田別命・菅原道真、創建年不詳とあります。
http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6308035.html

そういうわけで、今回はイザナギの話です。

一ノ宮神社2

①イザナギが籠った淡路の幽宮

イザナギは妹のイザナミと結婚し、二柱で国産み・神産みを行うのですが、
イザナミはカグツチを出産した際、ほとに火傷をおって死んでしまいます。

イザナギはイザナミを迎えに黄泉の国へ行きますが、腐り、ウジ虫がたかるイザナミの姿を見て怖くなり、元の世界に逃げ帰ります。

イザナギは穢れを浄めるため、筑紫・日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)で禊をしました。
その際、左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれました。

イザナギは天照大には高天原を、月読命には夜の食国を、スサノオには大海原を治めよ、と命じました。
しかしスサノオは母のいる「根の堅洲国」へ行きたいといって泣き止みませんでした。

そこでイザナギはスサノオを追放し、自分は淡路の多賀の幽宮に籠りました。

明石海峡大橋

大阪咲州庁舎展望台より明石海峡大橋を望む。向かって右が明石、向かって左が淡路島。手前は神戸空港


 堺市庁舎展望ロビーより明石海峡を望む

堺市庁舎展望ロビーより明石海峡大橋を望む。あんまりいい写真じゃないけど、こっちのほうが淡路島が大きく映ってるのでw

②古事記真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写?

ウィキペディアに次のように記されています。

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」との記述があり、
これが多賀大社の記録だとする説があるが、『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」「幽宮を淡路の洲に構りて」とある。
つまり国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮を構えたとある。
そもそも後の近江は淡海ではなく近淡海と書くこともあり、真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写であった可能性が高いと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%82%AE より引用

多賀大社 枝垂れ桜

多賀大社

イザナギの幽宮跡は淡路島の伊弉諾神宮

淡路島に多賀という地名があり、そこに伊弉諾神宮があります。

伊弉諾神宮のhpには次のように記されています。

神代の昔に伊弉諾大神 が、御子神の天照皇大御神に統合の権限を委ね、淡路の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過された神宅の旧跡と伝えられてゐます。
<ここで終焉を迎へた伊弉諾大神は、その宮居の敷地に神陵を築いて祭られました。

https://izanagi-jingu.jp/?page_id=2より引用

淡路島の伊弉諾神宮はイザナギの幽宮跡だったのですね。

伊弉諾神宮はイザナギ・イザナミを祀っていますが、『幽宮御記』によれば祭神は「伊弉諾尊一柱也」とあり、本来はイザナギだけを祀る神社であったようです。

927年の延喜式神名帳では「淡路伊佐奈伎神社 」となっており、日之少宮・淡路島神・多賀明神・津名明神とも呼ばれているそうです。

一ノ宮神社3

④古事記最古の写本・真福寺本

古事記の原本は現存せず、真福寺系・卜部系の二つの写本が伝えられています。
真福寺本は真福寺(岐阜県羽島市)の僧・賢瑜が応安4年(1371年)に上・中巻を、翌5年に下巻を書写し終え、信瑜がそれの不足を補足して出来上がったとされます。
これがもっとも古い古事記の写本です。

1612年に真福寺の一院・宝生院が名古屋城城下に移転しました。(大須観音/名古屋市中区大須)
その際、移転先の地名は、真福寺があった場所の地名・大須に変えられ、絵画・古典籍のほとんどが名古屋城下の大須へうつされました。
その中に古事記もありました。
これがきっかけで真福寺は衰退してしまい、さらに度重なる洪水などもあったのですが、廃寺にはならずに現存しています。
ただし、現在地(岐阜県羽島市桑原町大須)には昭和39年に移転したということです。
それ以前にはどこにあったんでしょうか?調べたりないせいだと思いますがちょっとわかりません。

古事記が完成したとされるのは712年ですから、真福寺本が成立したのはそれから659年も後のことになります。

今ならコピペで簡単に写すことができ、書写ミスもほとんどありません。
しかし昔は人間の目で見て筆で写すわけですから、もちろん写し間違えもあったことでしょう。
また賢瑜が完璧に書写していたとしても、そもそも書写した原本が間違っていたということも考えられます。

一ノ宮神社4

⑤972年、多賀大社は多何神社だった。


伊弉諾神宮は多賀明神ともよばれているそうですが、淡海(近江/滋賀県)の多賀大社も多賀明神と呼ばれていますね
御祭神も伊弉諾神宮と同じイザナギとイザナミです。

なぜ多賀大社は多賀という名前がついたのでしょうか?
972年の延喜式神名帳には多賀大社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記されています。
「多賀」と「多何」で字は異なりますが、日本では同じ言葉に違う漢字をあてて表現することがあります。

例えば奈良の転害門前の地名は手貝町となっています。
ですから多何神社は多賀神社と同一で、単に表記が異なっていただけなのかもしれません。

⑥古事記は100年以上公にされていなかった。

古事記が成立したのはその序から712年とされますが、その存在が知られるようになったのは平安初期です。
弘仁三(812)年の『日本書紀私記』の序で古事記について触れられており、それで古事記の存在が明らかになったのです。
古事記より少し遅れて成立した日本書紀、続日本紀にも古事記の存在については何も記されていませんでした。

古事記は元明天皇に献上されたもので、日本という国のために書かれたというよりは、天皇家のために書かれたものじゃないかという気がします。
天皇家にとって都合のいいものにするため事実とは異なることも記されており、それゆえ公にされていなかったのかも?

⑦古事記は天皇家にとって都合のいいものにするため改竄されている?

とこのように考えてみると、古事記の原本に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と記されていた可能性はあると思います。

淡海は近江とも記し、近江にはかつて天智天皇の大津近江宮がありました。

天智天皇をイザナギとみなし、それでイザナギが籠った幽宮を近江の多賀大社としたのだったりして?

近江神宮 
近江神宮 近江大津京近くにあり、天智天皇を御祭しています。

⑧神様が琵琶湖をくりぬいて淡路島にした?

子供のころ、淡路島と琵琶湖の形が似ていることがすごく不思議で、神様が琵琶湖を掘ってそのまま瀬戸内海に浮かべたのが淡路島なんじゃないかと考えたりしました。

ネットをぐぐるとこんな情報がでてきました。

太古にポルトガル沖に隕石が落下しその反対にある琵琶湖付近の地殻を押し上げた。
その衝撃で地塊が吹き飛ばされて淡路島になった。地塊が吹き飛んでできた穴に雨がたまって琵琶湖になった。


うーん、申し訳ないですが、これはないと思いますねw。

琵琶湖ほどもある地塊がほとんど砕けることなく吹き飛ぶなんてことあるんでしょうか。
もう少し細かい地塊となって飛び散りそうに思えますが。

また琵琶湖はもともとは400万年~600万年前に現在の三重県伊賀市平田に地殻の断層運動によって発生した湖(構造湖とされます。
この湖が少しづつ北に移動して、今から約100 - 40万年前に琵琶湖になったといわれています。

琵琶湖の位地にとどまっているのは、比良山系がとめているのだとか。

http://agua.jpn.org/pre/pre3.html


函館山 百合  

箱館山より琵琶湖を望む。









それはともかく、昔の人は子供のころの私のように、琵琶湖をくりぬいて淡路島にした、と考えたのではないでしょうか。

琵琶湖と淡路島は陰陽道の陰陽の関係に相当するように思えます。
それで、淡路島のイザナギの幽宮を琵琶湖のほとりにも作ったのではないかと思えます。



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[2019/05/27 19:04] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

柏原八幡宮 織田神社 西楽寺 新緑 栗の花 『丹波栢原織田家と織田信成さんの関係』 


兵庫県丹波市柏原町 柏原八幡宮 織田神社 西楽寺

2019年5月8日 撮影

栢原八幡宮3 
栢原八幡宮 栗の花

柏原の町には陣屋跡、太鼓やぐら、織田家廟所などもあるそうですが、今回は時間がないため行けず。
次回はゆっくりと町の隅から隅まで歩いて見学できたらいいなと思います。

①丹波柏原織田家

栢原藩の藩主は代々織田家が努めてきました。
初代栢原藩主は織田信包という人です。
この人は織田信長の弟ですね。1598年、豊臣秀吉より栢原3万6000石を与えられました。

その後、2代目は信包の子の信則、3代目は信則の子の信勝と続きます。

信勝は1650年に28歳の若さで亡くなってしまいました。
信勝の母(岡部長盛娘)は信勝を織田権現として織田神社に祀りました。

織田神社 
織田神社

信勝には三女ありましたが、男子がありませんでした。
そのため、叔父の信当が4代目栢原藩主となりました。 

信忠②信朝
信長信雄高長長頼信武信休①④信憑信守⑦信貞⑧信啓⑨信民⑩信親
織田信秀信孝③信旧
①信包②信則③信勝信応⑥信古鶴姫

ピンクの文字ブルーの文字は藩主。数字は代。

系図がうまく書けなくてすいません~。

栢原八幡宮2 
栢原八幡宮 

信長は1582年の本能寺の変で明智光秀軍に攻められ、自害しました。
信長の子・信忠も本能寺の変で自害しました。

けれど、信長の子・信雄の血は続き、信休以降、栢原藩主となっていたのですね。

丹波柏原織田家は現在も存続しています。
19代織田家当主は織田信孝さんとおっしゃる方で、織田孝一というペンネームでフリージャーナリストをされています。
信長の七男も信孝で同名です。
ややこしくなるので、以後、19代織田家当主・織田信孝さんではなく、ペンネームの孝一さんの方を使わせていただきます。

栢原八幡宮  
栢原八幡宮

②丹波栢原織田家と織田信成さんの家系は無関係?

フィギュアスケートファンの私としては、織田信長の子孫というと織田信成さんを思い浮かべてしまいますが、
織田孝一さんは織田信成さんについて、次のように発言されているようです。

「結論から言うと、私の家と彼の家はまったく関係がないし、私は彼についてまったく知らなかった」
「(信成さんが主張する信長7男の末えいで江戸時代は旗本高家だったとのことについて)途中の何代かが不明だとも聞いたが、私にはその真偽を判断することはできない」

https://bushoojapan.com/scandal/2015/09/02/58136

木の根橋  
木の根橋

③織田信長の長男・織田信忠の息子、秀信・秀則は岐阜城の戦いで敗北・改易。


上に書いた織田家の家系図をみてください。
信長の子として信忠・信雄・信孝とあります。

信忠は信長の長男で織田家の家督をつぎましたが、すでに述べたように本能寺の変で自刃しています。
享年25歳~27歳くらいであったと考えられています。

信忠には秀信・秀則という息子がありました。
信忠が本能寺の変で没したあと、秀信は織田家の家督代行・織田信雄の後見を受けています。
織田信雄さんは丹波栢原織田家の先祖ともいえる人ですね。

秀信は1593年、豊臣秀吉から美濃国13万石と岐阜城を与えられています。
しかし、豊臣秀吉の死後の1600年、徳川家康(東軍)vs石田三成(西軍)の争いがおき、織田秀信は石田三成方につきました。
織田秀信の配下だった竹ヶ鼻城主・杉浦重勝も石田三成方につきました。
結果、竹ヶ鼻城に籠城した杉浦重勝は城に火をつけて自刃。(竹ヶ鼻城の戦い)
織田秀信は岐阜城に籠城し、弟の秀則と共に字刃しようとしましたが、東軍の池田輝政に説得されて降伏開城しました。 (岐阜城の戦い)
織田秀信は出家して、関ヶ原の戦い終結後に高野山に入りました。
弟の織田秀則は豊臣家を頼って大坂城下に移り住みますが、豊臣家が滅亡すると京都に移り住みました。
出家して宗爾と称したということです。

織田信秀には正室・和田孫太郎の娘との間に男子がなく、織田信広の外孫で・八幡山秀綱を養子としています。
しかし秀綱は1601年に死亡しており、秀信が関ヶ原の戦いの前哨戦・岐阜城の戦いで敗北・改易されたこともあって、織田宗家の家督を相続しませんでした。

西楽寺2  
西楽寺

④織田信成さんは織田信高の系統で織田信長次男・織田信雄の子孫?

フィギュアスケーターの織田信成さんは織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)であると称しているようです。

織田信長には大勢の息子がありました。
長男・嫡男織田信忠本能寺の変で自害。
次男北畠信雄北畠具房養子丹波柏原織田家
三男神戸信孝神戸具盛養子
四男羽柴秀勝羽柴秀吉養子
五男津田信房遠山景任・武田信玄養子のち離縁
六男織田信秀祖父と同名
七男織田信高織田信成さんの系統?
八男織田信吉
九男織田信貞
十男織田信吉
十一男織田長次
庶長子織田信正庶長子は正室ではない女性から生まれた子供



①信長→②信高→③高重→④一之→⑤信門→⑥信倉(能勢
頼寛の子)→⑦信直(織田信義の子)→⑧長襦→⑨長裕・・・・⑭重治→⑮信義ー⑯信治(長男)・⑰信成(次男)                                                            

6代目の信倉は能勢頼寛の子で、織田信門の養子となっています。

つづく7代目の信直は織田信義の次男で、6代目織田信倉の養子となっています。

織田信直は織田信長の子孫です。
信長→信雄→高長→長政→ 長喬→信義→信直(6代目織田信倉の養子)

ですから、いったん信倉が6代目となって信長の血は途切れたように見えますが、7代目が信直となったことで、信長の血はつながっているわけです。

また織田信雄は丹波栢原織田家の先祖ですから、19代丹波栢原織田家織田孝一さんと織田信成さんは同じ先祖をもっているということになりますね。

 西楽寺

西楽寺

⑤織田重治さん、ご自身の親の名前を明らかにできない。

ところが、自称歴史研究家である織田信成さんの祖父・織田重治さんが、ご自身の親の名前を明らかにできないということで、信成さんちの家系図の信憑性は「わからない」というしかないです・・・・。

9代目長裕は子の信真に家督を譲っています。
するとこの信真が10代目なのかなと思えますが、信真に子があったのかどうか?
ウィキペディアを読んだ限りでは記述がなく不明です。

ですが、いうまでもないことですが、織田信成さんの価値は彼のスケートにあります。
現役のころ、いろいろやらかしたことは確かですし、おいしいところをほとんど全部高橋大輔さんにもっていかれた感はありますがw、
織田信成さんには高橋大輔さんとはまた違う魅力がありました。

柔らかいジャンプの着氷はぬこジャンプ(猫ジャンプ)といわれ、確か田村岳斗さんだったと思いますが、解説で「世界一のコンビネーションジャンプですね」とおっしゃっていました。

現役を退き、現在はプロとして活躍されていますが、
2018年ジャパンオープンでは四回転トウループー3回転トウループのコンビネーションジャンプを決めるなどノーミスの演技!

宇野昌磨さんにつぐ第2位というすばらしいパフォーマンスでした。

個人的には現在でも日本男子では3番目くらいの実力があるのではないかと思います。
(個人的に1位は羽生弓弦さん、2位は宇野昌磨さん。
現役に復帰した高橋大輔さんが四回転ジャンプの成功率をあげてくればまた変わってくると思いますが。
四人とも大好きです❤)






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[2019/05/15 11:30] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

白毫寺 九尺の藤 赤い楓 『法道の空鉢はドクロだった?』 

兵庫県丹波市 白毫寺 
2019年5月8日 撮影


白毫寺 藤2 
去年、GW中に2度ほど百毫寺へ行こうと試みたのですが、大渋滞でした~。
距離は大したことないんですが、駐車場に入りきれない車が4~5km続いているんですね。
あまりに動かないので車外に出て犬を散歩させる人もいるほどw。
1時間ほどは粘ったのですが百毫寺にいきつくにはまだ1時間ほどかかりそうでした。
トイレが我慢できなくなって結局断念。
そういうわけで今年は平日に百毫寺に行ってまいりました!

白毫寺 太鼓橋

①法道仙人は牛頭天皇?

白毫寺縁起によりますと、百毫寺は705年、法道仙人によって開かれたお寺ということです。

法堂仙人の名前は、過去の旅でも何度か耳にしています。
住所創建年創建者ブログ記事
千光寺富山県砺波市703年法道
観音寺京都府福知山市720年法道観音寺 紫陽花  『万葉集 紫陽花の歌 諸兄と諸弟』 
伽耶院兵庫県三木市645年法道・孝徳天皇
教海寺兵庫県三木市651年法道
一乗寺兵庫県加西市650年法道
普光寺兵庫県加西市651年法道
奥山寺兵庫県加西市651年法道
如意寺兵庫県神戸市645年法道
石峯寺兵庫県神戸市651年法道・孝徳天皇
忉利天上寺兵庫県神戸市646年法道・孝徳天皇
近江寺兵庫県神戸市646年法道
宝珠寺兵庫県神戸市
朝光寺兵庫県加東市651年法道
禅瀧寺兵庫県加東市645~650年法道
清水寺兵庫県加東市景光天皇代 4世紀前半法道播州清水寺 青空 白雲 『法道仙人の正体とは』 
光明寺兵庫県加東市594年法道
西方寺兵庫県丹波篠山市15世紀後半法道
白毫寺兵庫県丹波市705年法道
東窟寺兵庫県篠山市645~650年法道
西林寺兵庫県西脇市651年法道
花山院兵庫県三田市651年法道
奥山寺兵庫県加西市651年法道
常勝寺兵庫県多可町
法楽寺兵庫県神河町642~645年開基/枚夫長者 開山/法道
七宝寺兵庫県神河町
圓満寺兵庫県多可町
法道寺兵庫県朝来市650~654年法道
長谷寺鳥取市倉吉市721年法道
仙龍寺愛媛県四国中央市815年、空海が法道より
この地を譲り受けた。
法道
羅漢寺大分県中津市645年法道
多聞寺神戸市北区645~654年法道
廣峯神社兵庫県姫路市734年吉備真備
※法道は牛頭天皇とともに日本にやってきたとされ、
廣峯神社は牛頭天皇の総本社を称している。

上の表見ていただくとおわかりいただけるように、法道が創建した寺の創建年は、飛鳥時代~奈良時代が多いです。
そのため、法道は6~7世紀ごろに日本へやってきたと考えられています。

白毫寺 鐘楼

しかし中には、4世紀前半の景光天皇代とか、平安時代の815年、15世紀なんてのもあります。
法道は1000歳まで生きた?
法道は法堂仙人とも呼ばれていますが、仙人とは、仙術をあやつり、不老不死を得た者のことですし。

なーんてことはないですね。
どれだけ修業をしようと人間が1000歳まで生きたとは信じがたいです。

播州清水寺 青空 白雲 『法道仙人の正体とは』 
↑ こちらの記事にも書いたのですが、法道は牛頭天皇とともに日本にやってきたと言われています。
私は「法道は牛頭天皇とともに日本にやってきた」というのは、比喩的表現で
法道とは牛頭天皇(釈迦の生誕地・祇園精舎の守護神)そのもののことではないかと考えています。

白毫寺 薬師堂

②宝鉢なのに空鉢ってどういう意味?

法道仙人はインドの仙人で、鉢の宝鉢をもっていたため、空鉢仙人とも呼ばれます。
なんで宝鉢なのに、空鉢なんでしょうね?
空鉢ときくと、空っぽの鉢というイメージをもってしまいますが。

空を辞書で調べてみると次のような意味がでてきます。

a.仏教用語。すべての事物はみな因縁によってできた仮の姿で、永久不変の実体や自我などはないこと。
b.中がからになっていること。
c.大空
d. 天と地との間。空間。。
e. 何も存在しないこと。
f. 事実でないこと。よりどころのないこと
 無益なこと。また、そのさま。むだ。「今までの努力が空に帰した」

うーーーん?

白毫寺 藤3 

③空飛ぶ鉢

空鉢と聞くと思い出すものがあります。
朝護孫子寺の空鉢護法堂です。

朝護孫子寺本堂から山道を600mも登らないといけないんで、参拝しなかったんですが~(この根性なし!)

朝護孫子寺 空鉢護法堂


空鉢護法堂(くうはつごほうどう)は、毘沙門天王の眷属、八大龍王の上首・難陀竜王(なんだりゅうおう)を祀っています。
「信貴山縁起絵巻」上巻「飛倉之巻(とびくらのまき)」では、、命蓮が空鉢を飛ばし、鉢が山崎長者の蔵を乗せて命蓮のもとに飛びかえったという話があります。

File:Sigisanengi tobikura.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Sigisanengi_tobikura.jpg よりお借りしました。
作者 English: unknown 日本語: 作者不詳 (不明) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

この空鉢は空鉢護法堂で祀られている竜王の力をもっているとされます。


「鉢が開く」「鉢巻き」「鉢合わせ」など頭のことを鉢ということがあります。
鉢とはドクロを比喩的にいったものではないかと思います。

また玄ボウ・曽我入鹿・平将門らの首が飛んだという伝説があります。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)  
多武峯縁起絵巻 複製 中大兄皇子に首を斬られる蘇我入鹿(談山神社)

空鉢をもっていた法道とはドクロなんじゃないでしょうか?

空鉢護法堂では神として白蛇を飼っているそうです。
空鉢護法堂では難陀竜王を祀っているということでしたね。
でも龍は架空の聖獣なので、なんとなくイメージが似ている蛇を龍に見立てているのではないでしょうか。

朝護孫子寺 空鉢護法堂-ポスター

http://www.senjyuin.or.jp/?page_id=135

上のサイトに「空鉢ご分霊」の写真があります。

これは、宇賀神にそっくりです。

喜光寺 宇賀神 

喜光寺 宇賀神

昔の人は蛇を、ドクロに長い首がついた動物だと考えていたのではないでしょうか。

すると、「空鉢護法堂で祀られている難陀竜王=蛇=宇賀神=ドクロに長い首がついている」となり、難陀竜王の力を持つ鉢はドクロを裏付けると思うんですが、どうでしょう?

白毫寺 藤 ライトアップ 

白毫寺 藤 

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[2019/05/10 23:41] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

樽見の大桜 『石ばしる 垂水の上の さわらびの』 

兵庫県養父市 樽見の大桜
2019年4月14日 撮影


樽見の大桜 
樽見の大桜 樹齢500年とも1000年とも伝わります。

①樽見は垂水?

樽見と言う地名はもしかして垂水が転じたものではないでしょうか。
日本では万葉仮名の影響なのか、漢字の意味より音を重要視する傾向があったように思えますし。
例えば奈良の東大寺に転害門’(てがいもん)がありますが、その転害門の門前の町の名前は手貝町(てがいちょう)といいます。
手貝町という町名は転害門からとったものではないかと思いますが、どうでしょうか。

垂水とは「垂れ落ちる水」という意味です。
垂水という地名は各地にあります。
神戸市の垂水区という地名は、かつて複数の滝(垂水)があったことに由来するといわれます。

樽見の大桜の北北東500mほどのところに、竜涎の滝があります。
ここから垂水という地名がつき、樽見に転じたのではないかと思ったりします。

樽見の大桜付近 
駐車場から400Ⅿほど山道を上っていくと開けた土地があり、大桜の周囲にたくさんの桜が植えられています。まるで桜の園。

②3つに分かれて芽吹くワラビ

垂水というと思い出される有名な万葉歌があります。

石(いは)ばしる 垂水の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも/志貴皇子
(岩の上を流れる水の上で蕨が萌えでる春になったことであるなあ。)


ワラビの新芽は3つに分かれて出てきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%83%93#/media/File:Pteridium_aquilinum_2005_spring_001.jpg

↑ この写真を見て、「石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも」という歌の意味がわかったような気がしました。
それをいまからご説明します。

樽見の大桜付近2

志貴皇子暗殺説

672年、壬申の乱がおこります。
天智天皇皇子の大友皇子vs天智天皇の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)で皇位継承をめぐって争った戦いです。
志貴皇子は天智天皇の皇子であり、壬申の乱の際には天智天皇の皇子(志貴皇子の異母兄)の大友皇子側についていました。
結果は大海人皇子が勝利し、志貴皇子は政治的に不遇な身の上であったのです。

笠金村が次のような志貴皇子の挽歌を詠んでいます。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとありますが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっており1年のずれがあります。

笠金村の挽歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思えます。

志貴皇子の子である白壁王は、女帝の称徳天皇が急死したのち、即位して光仁天皇となっています。
これは志貴皇子には正統な皇位継承権があったということではないか。
そして志貴皇子は715年に暗殺されて、その死が1年近く隠されていたのではないか、とする説があります。

715年は元正天皇が即位した年です。
元正天皇を即位させるために、志貴皇子は暗殺されたのではないでしょうか。
しかし、元正天皇にとって志貴皇子の死はあまりにタイミングがよすぎると、人々はいぶかしむかもしれない。
そういうわけで、志貴皇子の死は1年近く隠されていたのではないかと思います。

詳しくはこちらの記事を参照してください→翁の謎⑩ 百毫寺 萩 『志貴皇子暗殺説』 

樽見の大桜付近3 
手前の黄色い花はミツマタ

志貴皇子=春日王?

志貴皇子と春日王、平城津比古大神を祀る神社が奈良市奈良坂にあります。
奈良豆比古神社といい、毎年10月に翁舞が奉納されることで有名です。

古には神と怨霊は同義語であったといわれます。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていました。
③で推測したように、志貴皇子には正当な皇位継承権があったのに暗殺されたとする説があります。
志貴皇子は怨霊であり、そのため神として奈良豆比古神社に祀られているのではないでしょうか。

奈良豆比古神社には次のような伝説が伝えられています。

a.志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していました。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は心をこめて春日王の看病をしていました。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈りました。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かいました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊されました。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれません。


『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは①とは別の語りを伝承しておられるとのことです。

b.志貴皇子は限りなく天皇に近い方でした。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそいました。
赤い衣装は天皇の印です。
志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈りました。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていました。
志貴皇子がつけていたのは翁の面でした。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていました。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞いました。
これが翁舞のはじめです。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られました。


ハンセン病を患ったのは①の伝説では志貴皇子の子の春日王となっていますが、②の伝説では志貴皇子となっています。

春日王は田原太子とも呼ばれており、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇と呼ばれていました。
春日王と志貴皇子は同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇族でこのようなケースは他に例がないと思います。
春日王と志貴皇子は同一人物なのではないでしょうか。

④三人翁は御霊・和魂・荒魂をあらわす?

奈良豆比古神社で毎年10月に奉納されている翁舞は、能・翁のルーツだと考えられますが、
能の翁では白式尉は一人なのに対し、翁舞は三人翁といって3人の翁が登場します。

八坂神社 翁 白式尉

八坂神社 翁 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉(三人翁)


bの伝説では、三人翁は志貴皇子・右大臣・左大臣ということになっていますが、本当は志貴皇子・春日王・奈良豆比古神なのではないかと思います。

神はその表れ方で御霊・荒魂・和魂の三つに分けられるといわれます。
志貴皇子・春日王・奈良豆比古神はこれを表すものではないかと思うのです。
御霊神の本質志貴皇子
荒魂神の荒々しい側面春日王
和魂神の和やかな側面平城津比古大神

春日王はハンセン病になったといいますが、実際にハンセン病になったというわけではなく、春日王はハンセン病をもたらす神だという意味だと思います。
貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されるように、ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿で表されるのではないかと思います。
ハンセン病をもたらす神は疫神であり、怨霊です。怨霊は荒魂と言っていいでしょう。

平城津比古大神は神社名の奈良豆比古に同音で別の漢字をあてたものだと思います。
奈良豆比古の名前のとおり豆のように小さな神なのだと思います。
小さな神といえば少彦名神などがありますが、少彦名神は医薬の神として信仰されています。
医薬の神はよい神、ご利益をもたらす神であり、和魂だと思います。
また小さな神は和魂という信仰があったのではないでしょうか。

すると残る志貴皇子は神の本質・御霊ということになります。

そして、和魂・荒魂は同じ御霊の現れ方の違いによる分類なので、
御霊は志貴皇子、春日王は志貴皇子の荒魂、奈良豆比古神は志貴皇子の和魂ということになると思います。

石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも

この歌に詠まれたワラビの3つの芽は、志貴皇子・春日王・奈良豆比古神の比喩ではないでしょうか。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2 

奈良豆比古神社 翁舞

⑤『とうとうたらりたらりろ』は春日若宮=志貴皇子のテーマソングだった?

翁は『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱えます。
(能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっています。)

12月に奈良の春日神社では春日若宮おん祭が行われています。。
12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されます。
雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)というが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記されます。

『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』『とうとうたらりたらりろ』はあまりに似ています。

翁=志貴皇子と春日若宮は同一神であり『とうとうたらりたらりろ』とは志貴皇子=春日若宮のテーマソングなのではないでしょうか。

翁舞や能・翁で翁=志貴皇子は自らのテーマソングを口ずさんでいるのではないか、ということです。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

⑥藤原氏の祖神・アメノコヤネは天智天皇だった?

春日若宮が志貴皇子と同一人物だと考えられる理由はほかにもあります。

春日大社の主祭神はアメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの四柱の神々で、このうち、アメノコヤネは藤原氏の祖神とされています。

私はアメノコヤネ(天児屋根命)とは天智天皇のことではないかと考えています。
というのは天智天皇の作として、は次のような歌が伝えられているからです。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されています。。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられています。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。

なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられたのでしょうか。

一般には、農民の気持ちを思いやる優しさが、天智天皇にふさわしいと考えられたためだといわれています。
でも、私はそうではないと思います。

③で述べたように、672年、壬申の乱がおこりました。
壬申の乱は天智天皇が崩御したあとすぐに興ったので、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられています。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年です。

古事記には「大国主神が八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠れた」という記述があります。
これは柴を沢山立てた中に死体が葬られていたということですが、大国主神はニニギに国譲りをして死んでいて、ニニギにとっては敵です。
そのため、高貴な身分の人であれば立派な陵をつくるところ、そうはせずに、庶民と同じように風葬にしたということではないかと思います。
天智天皇の歌にある、苫の荒い仮庵戸は大国主神が葬られたような八十青柴垣を意味しているのではないでしょうか。
また、近年まで沖縄地方などで風葬が行われていたが、小さい小屋の中に死体を収めて風葬にするという地方がありました。

「秋の田の~」の歌は、死んだ天智天皇の霊が、きちんと埋葬されないわが身を嘆いた歌だと解釈され、天智天皇が詠むにふさわしい歌とされたのではないでしょうか。

そして『児』には『小さい』という意味があり、天児屋命とは『小さい屋根の下におわす神』という意味になります。
仮庵のとまの粗い小屋の屋根はそれは小さいことでしょう。

するとアメノコヤネは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになりますが、
藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』には記されています。
とすれば天智天皇が藤原氏の祖神だというのは辻褄があいます。

春日大社 舞楽始  
春日大社

⑦春日若宮=志貴皇子は水徳の神だった。


アメノコヤネノミコトの御子神・春日若宮様は、神名を天押雲根命といい、長保五年(1003年)旧暦三月三日、第四殿に神秘な御姿で御出現になったとされます。

その後しばらく、第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と信仰されていたそうです。

長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢饉がおき、疫病が流行ったため、1135年に時の関白藤原忠通が若宮様の神殿を造営し、1136年より春日若宮おん祭が行われるようになったとのことです。

ここでもう一度、志貴皇子の歌を鑑賞してみましょう。

石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも

この歌に詠まれたワラビの3つの芽は、志貴皇子・春日王・奈良豆比古神の比喩ではないかということはすでに述べました。

この3つの芽をもつワラビ(志貴皇子・春日王・平城津比古大神)が垂水(滝)の上で萌えているのです。
志貴皇子=春日若宮はこの歌を詠んだため、水徳の神として信仰されたのではないでしょうか。

樽見の大桜付近4

樽見の大桜付近の集落


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[2019/04/20 23:59] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

山口護国神社 桜 『生野の変について、調べてみた』 

兵庫県朝来市 山口護国神社
2019年4月14日 撮影


山口護国神社 
山口護国神社

①天誅組の変


幕末、尊王攘夷派と公武合体派という異なる政治思想を持つ人々がおり、両者は対立していました。
尊王攘夷とは天皇を尊び、外敵を排斥するべきとする思想、
公武合体は朝廷( 公)と幕府及び諸藩(武)を合体させて幕藩体制を編強するべきという思想です。

文久3年(1863年)8月、尊王攘夷派によって天誅組と言う組織が作られました。
天誅とはもともとは、「神が悪い人間を討伐する」「天罰」などを意味する言葉でしたが、ここから転じて「日本のためにならない人を殺すこと」も「天誅」と言うようになりました。

その天誅組のメンバー・吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石らは、前侍従(天皇の側近)・中山忠光をリーダーに担ぎ上げて大和国へ入りました。

1863年8月17日、天誅組は幕府天領の大和国五條代官所を襲撃しました。
そして代官・鈴木正信〈源内)の首をはね、代官所に火を放ったのです。
天誅組は桜井寺に本陣を置き、五條を天朝直轄地にすると宣言、また自らを「御政府」「総裁所」と称しました。(五条御政府)

公卿・三条実美は尊王攘夷派ではありましたが、天誅組の行動は過激すぎると考えたのでしょう、天誅組の行動を制止するため、学習院に勤めていた平野国臣(もと福岡藩士だったが脱藩した。)を五条へ送りました。

五條新町 夕景

五條(五条)新町

②八月十八日の政変

翌8月18日、公武合体派の会津藩と薩摩藩は孝明天皇に働きかけ、大和行幸延期と長州藩の御門警護の解任を行いました。
(前年の1862年、尊王攘夷派(長州藩・激派浪士ら)は公家と手を結んで攘夷実行を幕府に迫っていました。
そして、攘夷祈願のため、1863年8月の孝明天皇の大和行幸を計画していました。
孝明天皇は大和行幸には乗り気ではなかったようです。
孝明天皇は攘夷は望んでいましたが、過激な討幕運動には反対で、妹・和宮を幕府の将軍・家茂に嫁がせるなど公武合体派よりであったようです。)

尊王攘夷派の長州藩は京都を退き、三条実美ら攘夷派公卿7人も京都を追放されました(七卿落ち)。

翌8月19日、三条実美に天誅組の制止を命じられた平野国臣は天誅組のいる五條に到着しましたが、八月十八日の政変を知り、京へ引き戻します。
しかし、すでに京の尊王攘夷派は壊滅状態となっていました。

京都御所 しだれ桜

京都御苑

③平野国臣、生野天領での挙兵を計画。


平野国臣は天誅組と呼応しようと、故郷・福岡藩の筑前勤王党の月形洗蔵・鷹取義巴を訪ねて活動参加を要請しました。
しかし、断られてしまいます。

その後、但馬国の志士・北垣晋太郎と組んで、生野天領での挙兵を計画しました。
北垣晋太郎は農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱えていた人物です。

④天誅組壊滅

十津川郷士が天誅組に参加しました。、天誅組の兵力は1000人余となっていました。

十津川郷士とは南大和・十津川郷の郷士在住していた郷士(江戸時代の武士階級の下層に属する人々)のことをいいます。

十津川郷士は古より朝廷に仕え、壬申の乱、平治の乱にも出兵して税減免措置を受けています。
南北朝時代には南朝に仕えていました。
このようなことから、十津川郷士は勤皇の伝統をもっていたようですが、倒幕の意志は薄かったと考えられているとのことです。

十津川郷士が天誅組に参加したことで、天誅組の兵力は1000人余となっていました。
ですが、武器などの装備が十分ではなかったようで、高取城攻略で失敗。
周辺諸藩からの討伐を受けて9月27日に壊滅しました。

9月28日、生野天領での挙兵を計画していた平野国臣と北垣晋太郎は周防国三田尻へ行き、長州藩に庇護されていた七卿落ちの一人、公卿・澤宣嘉(さわ のぶよし)を主将に迎えます。
彼らは長州藩としての挙兵の参加も求めましたが、これは同意をもらえませんでした。

10月2日、平野国臣と北垣晋太郎は澤宣嘉とともに三田尻を出立。
播磨に向かう為の船を用意します。
これに、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士らが加わった37人が出港しました。

10月8日、一行は播磨国に上陸し、生野へ向かいます。
10月11日、一行は生野の手前の延応寺に本陣を置きました。

天誅組壊滅を知った平野国臣・北垣晋太郎らは、「挙兵を自重し再度の時期到来を待つべき」と主張。
しかし、河上弥市らは「計画通り挙兵するべき」と主張。これが通って挙兵が決行されることになりました。

生野銀山 露天掘跡 

生野銀山 露天掘跡

⑤生野の変

10月12日、生野代官所は無抵出平野国臣らに降服しました。

平野國臣らは農民に募兵を呼びかけたところ、2,000人が集まりました。
これは北垣晋太郎が唱える「農兵論」の影響もあったでしょう。
またこのころ幕府天領・生野銀山などの産出量が減って、住民が生活に困窮していたということもあるでしょう。

10月13日、幕府は周辺諸藩に兵を出動させました。
これに対して「解散するべき」との声があがり、13日夜には主将の澤宣嘉が和歌を机の上に残して逃げ出してしまいました。
頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつは今朝の 夢にて ありぬる

「頼りにもしていた 恨みもしていた 日暮れ時の 現実は 今朝の 夢であったよ」みたいな意味かな?(自信なし・・・汗)

澤宣嘉は四国伊予小松藩周辺に潜伏したのち、長州へのがれました。

河上弥市ら13人の浪士は「騙された」と怒った農民らに襲い掛かられ、妙見山麓山口村(山口護国神社)で自刃して果てました。
河上弥市は享年21歳。

河上弥市の辞世の句。
議論より実を行へ、なまけ武士、 国の大事を 余所に見る馬鹿

「議論するより実行せよ、なまけ武士どもめ、国の大事を、他人事のように見ているバカ」みたいな意味かな?(自信なし・・・汗)

山口護国神社 忠魂碑 
山口護国神社(河上弥市ら幕末志士と明治維新から昭和にいたるまでの地元戦没者を祀っています。)


美玉三平と中島太郎兵衛は農民たちに射殺されました。

平野国臣は兵を解散させて鳥取へ向かいましたが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られました。
1864年の禁門の変によっておこった火災が六角獄舎にもおよび、囚人脱走を恐れた役人らは囚人を処刑しました。
このとき、平野国臣も処刑されました。享年37歳。

羽淵鋳鉄橋

山口護国神社は羽淵鋳鉄橋の道路向かいにあります。

車窓より 
これは車窓から撮影した風景。



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[2019/04/19 14:22] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

羽淵鋳鉄橋 桜 生野銀山 地下アイドル 『亀と鉱山』 


兵庫県朝来市 羽淵鋳鉄橋 生野銀山
2019年4月14日撮影(羽淵鋳鉄橋)

羽淵鋳鉄橋 

①馬車道と羽淵鋳鉄橋

「羽渕のめがね橋」の愛称のある鋳鉄製二連の美しい洋式の橋である。明治20年に神子畑鋳鉄橋と同時に架橋されたものであり、神子畑鉱山・選鉱所から生野精錬所へ鉱石を運搬用の五つの鋳鉄橋のうちのひとつである。

https://www.city.asago.hyogo.jp/0000000401.html より引用

IMG_2266.jpg

神子橋選鉱所


https://www.city.asago.hyogo.jp/0000000401.html
上の羽淵鋳鉄橋の説明のタイトルに「馬車道」とありますので、羽淵鋳鉄橋の上を鉱物を運ぶ馬車が通っていたのでしょう。

銀の馬車道 
銀の馬車道(道の駅 銀の馬車道・神河ふきん)※上2枚は秋に撮影したものです。

生野には古より生野銀山がありましたが、おそらくその近くに生野精錬所があった(ある)のではないかと思います。
生野精錬所って今もあるんでしょうか?

前回ご紹介した竹田城の城主が生野銀山を管轄していたようです。
竹田城は織田信長が派遣した羽柴秀長〈豊臣秀吉の弟)によって攻撃され、竹田城主・太田垣朝延が敗戦していますが、
竹田城を責めた目的は生野銀山を手に入れるためであったとも考えられています。

竹田城 桜2 
竹田城

②地下アイドル♪

現在の生野銀山にはたくさんの人形が置かれていて「地下アイドル」として評判になっていますねw。



かなり以前に生野銀山に行ったことがあります。
そのとき地下アイドルたちはすでにいました。↓ 

生野銀山 唐箕で風を送る手子 
生野銀山 手彫り 

生野銀山 負子 

生野銀山 竪穴 

③銀石を乗せた亀の伝説

生野銀山には、「大亀が背中に銀石を乗せて這い出した所を掘り進むと、良質の鉱石が見つかった」と言う伝説があるそうです。

亀は鉱山と関係があるような気がします。

④ムカデと鉱山と毘沙門亀甲

坑道のことをムカデ穴といいます。
それは坑道が枝分かれして伸びる様子がたくさんの足を持つムカデにたとえられたためだと思います。

で、奈良の朝護孫子寺では額などにムカデのレリーフが刻まれています。↓

朝護孫子寺 額

朝護孫子寺 ムカデのレリーフ

朝護孫子寺のある信貴山はかつて鉱山だったんでしょうか?

その朝護孫子寺の門は毘沙門亀甲といいます。↓

File:Bisyamonkikkou3.svg

毘沙門亀甲紋 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bisyamonkikkou3.svg?uselang=ja よりお借りしました。
作者はLife of Rileyさんです。(ありがとうございます)

どうでしょう、亀と鉱山には関係ありそうに思いませんか?

⑤毘沙門天=玄武(亀+蛇)=北方守護の神=鉱山の神?


また朝護孫子寺は毘沙門天をご本尊としていますが、毘沙門天は四天王のメンバーとしては多聞天といい、北方守護の神とされます。
(東=持国天、南=増長天、西=広目天)

四天王は仏教の神ですが、中国では北は玄武、東は青龍、南は朱雀、西は白虎という創造上の四聖獣がそれぞれの方角を守護すると考えられていました。

玄武は丘陵に、青龍は清流に、朱雀は湖沼に、白虎は大道に棲むとされ、
北に給料、西に清流、南に湖沼、西に大道のある土地は四神相応の地であるとして都が作られたりしました。
平安京などが四神相応の地とされます。
江戸も四神相応の地だといわれることもありますが、北ー玄武に相当する富士山が西に大きくずれており、私は江戸は四神相応の地に作られた都市ではないと思います。

詳しくはこちらの記事をお読みください。→ カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑰ 『江戸の町は北極星になぞらえて造られた?』 

さて、北方守護の聖獣・玄武についてですが、亀に蛇が巻き付いた姿をしています。

新熊野神社 玄武 

新熊野神社 玄武

そして北方守護の神・毘沙門天はもともとはとはもとはクベーラという地下の財宝を守護する神、鉱山の神です。

毘沙門天=北方守護の神=地下の財宝を守護する神。鉱山の神。
玄武(亀&蛇)=北方守護の神
∴玄武(亀&蛇)=北方守護の神=鉱山の神

上の写真の玄武にも亀甲柄が描かれています。
この亀甲柄は鉱物をあらわすものではないかと思います。
鉱物はだいたい角張った形をしているので。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%B1%E7%89%A9#/media/File:%E9%89%B1%E7%89%A9.jpg


このようなところから、大亀が背中に銀石を乗せて這い出した所を掘り進むと、良質の鉱石が見つかったという伝説が創作されたのではないでしょうか。



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[2019/04/17 20:49] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

竹田城 桜 『動かない石』 

兵庫県朝来市 竹田城
2019年4月14日 撮影

 
竹田城 桜

①160年で廃城に。

1441年、山名宗全が約13年の歳月を費やして標高約300mの山上に竹田城を築いたと伝えられます。
別名を「虎臥城」といいます。
「虎臥城」という名前は、虎が臥しているように見えるから、ということです。
現在は天守閣などの建物は失われ、石垣が残っているのみなのです。
ですが、復元図(http://camel.jugem.cc/?eid=5813)を見ると、なるほど、虎が臥しているように見えなくもないです。

竹田城 霧4 
山名宗全は初代城主に家臣の太田垣光景を任命しました。
以降、5代目まで太田垣氏が城主をつとめました。(景近・宗朝・宗寿・朝延)
しかし、五代目・朝延の時、1577年に豊臣秀吉の2度の但馬征伐で太田氏は滅びてしまいます。

秀吉は6代目城主として豊臣秀吉の弟・秀長の家臣の桑山重明を任命しました。
桑山重晴が和歌山城に転封となったあと、秀吉に服した龍野城主・斎村政広が竹田城の城主となりました。

竹田城 霧3 

1600年の関ケ原の戦いでは、斎村(赤松)政広は西軍に属していました。
しかし西軍は負けました。
斎村政広は東軍の亀井茲矩(かめい これのり)に誘われて鳥取城攻め参加しました。
鳥取城は落城しましたが、東軍盟主・徳川家康に城下の大火の責任を問われ、切腹を命じられ果てました。
家康は山名豊国を竹田城主としましたが、廃城となりました。 

 竹田城 霧2

寺を建てて水源を隠した。

竹田城の西、大路山のの滝谷に、水が湧き出る場所があり、ここから約2㎞に及ぶ銅管を引いて標高300mの山の上の城へ水を送っていたようです。

水は命をつなぐために必要なもの。
敵に発見され水を止められたりしたら、落城まちがいなしです。
そこで千願寺という寺をたてて水源を隠したそうです。
千願寺はのちに「香華院千眼寺」と呼ばれるようになりました。

 竹田城 北千畳曲輪

③千石岩は容量が千石の岩?

竹田城の北側の門を造るために、円山川から巨大な石をひきあげようとしましたが、山の中腹まではなんとか運んだものの、それ以上は動かなくなり、そのまま討ち捨てたといわれます。

この石は「千石岩」と呼ばれていますが、名前の由来は「川原から運ぶのに千石のお米を食べた」からだそうです。

石(こく)は尺貫法における体積の単位です。

米の1石は10斗、100升、1,000合に相当します。
容積単位としての1石は、10立方尺(約278リットル)に相当します。

竹田城 北千畳曲輪2 

滋賀県の琵琶湖のほとりにも千石岩と呼ばれる岩があり、ボルダリングを目的に訪れる人がいるようです。。

千石船と呼ばれる船もあります。
千石船とは積石数・千石を乗せることが出来る船、という意味だと思います。

「川原から運ぶのに千石のお米を食べた」というのは後付けで、もともとは大きな岩でその体積が千石ほどもある、という意味で千石岩と呼ばれたのではないでしょうか。

また「千石の米を食べた」というのは比喩的表現で、築城に従事した人々が千石に相当する財産を失ったという意味なのかもしれませんね。

 竹田城 天守台

④破石伝説

なかなか動かない石の伝説として、『続日本紀』770年2月の条にも、次のような記述があります。

東大寺の東北にある飯盛山から西大寺の塔をつくるための礎石を切り出し、西大寺まで運ぶため、数千人の人夫で引いたが1日に数歩しか動きませんでした。
そこで人夫を増やし、9日かけてようやく西大寺まで運びました。
ところが、その石を東塔の心礎として据えようとしたとき、かんなぎたちが石に祟りがあると言い出しました。
そこで、芝を積んで焼き、酒をそそいで石を割り、道に捨てました。
ところが一ヶ月後、天皇が病になりました。占うと、石の祟りであると出ました。
そこで捨てた石を拾い、浄地に置きました。

 竹田城 霧

奈良市高畑町に破石町というバス停があります。
現在は高畑町といいますが、江戸時代ごろには破石町という地名であったそうです。
地名の由来となった破石は頭塔の東、吉備塚の北で、『えびす屋』さんの裏庭にあります。
この破石が西大寺の八角塔の礎石にする予定だった石であるといわれます。

 動かない石は祟りのある石だという信仰があったようです。
すると竹田城の千石岩も祟りのある石であると考えられたのかも?

竹田城 ライトアップ




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[2019/04/16 15:44] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

大覚寺身振り狂言 追儺湯立 『湯立は禊?』 

兵庫県尼崎市 大覚寺
大覚寺身振り狂言…2月3日


追儺湯立が始まりますよ~。

大覚寺狂言 追儺湯立


神職さんが湯に枝をつけて振り回します。
ありゃ、鬼がいますよ。

大覚寺 追儺湯立 鬼

お多福さんが現れました!

大覚寺狂言 追儺湯立 お多福 
あれっ?鬼がいませんよ?鬼さんやーい、どこ行った~?

①湯立の由来

湯立は古代の裁判・盟神探湯(くかたち)が由来だと言われます。
盟神探湯とは煮えたぎる湯の中に手を入れ、火傷をしなければ無罪、火傷をしたら有罪と判じるものです。

熱湯に手を入れて火傷をしない人がいるのか、と思いますが
以前テレビで修験者が熱湯の中に入っているのを見たことがあります。
肌は少し赤くなっていましたが、火傷というほどではありませんでした。
修験者は火渡りなどもしますが、大して火傷をおったりはしないようです。

宝山寺 柴燈護摩供 

宝山寺 火渡りをする修験者


日本書紀にこんな話があります。

278(応神天皇9)年、兄の失脚を目論んだ甘美内宿禰(うましうちのすくね)が『武内宿禰は天下をねらう野心があり、筑紫を割いて取り三韓を自分に従わせたら天下を取る事が出来る、と言っている。』と、応神天皇に讒言しました。
天皇は二人に盟神探湯をさせて、真偽を測ることにしました。
結果、武内宿禰が勝ち、太刀をとって甘美内宿禰を倒し殺そうとしました。
しかし天皇が間に入って止め、甘美内宿禰は許されました。


盟神探湯をして火傷をしなかった竹内宿祢は修験道をやっていたのかも?

②湯立は禊?

現在では湯立は裁判という意味合いは失われています。
湯立で吉凶を占ったりすることもあるようですが、禊の意味合が強いように思います。
キリスト教の洗礼式には浸礼(全身を水に浸す)・灌水礼(頭部に水を注ぐ)・滴礼(手を濡らし、頭に押し付けて水に沈める所作を真似る)があるそうですが、湯立の湯をあびるのは灌水礼。滴礼に似ているようにも思えます。

湯立の湯を浴びると無病息災になる、などといわれますが、それは湯を浴びること=禊であり、厄落としになると考えられたためではないでしょうか。

湯立の後、鬼はなぜ消えてしまったのでしょうか?

鬼は厄を視覚化したものであり、湯立の湯を浴びた(禊)結果、消えてしまったのではないでしょうか?


③節分は二十四節気の大晦日

節分の行事を考えるためには、まず節分とは何かを考えなければなりません。

江戸時代までの日本では太陽太陰暦(旧暦)と二十四節気の二つの暦を併用していました。

大晦日・・・太陽太陰暦(旧暦)の12月晦日(12月最後の日、1年の最後の日)
節分・・・・二十四節気の立春の前日(立春より新年になると考えられており、節分は二十四節気の大晦日だといえる。)

つまり、江戸時代までの日本にはお正月が2回あったのです。
太陽太陰暦は太陽暦(新暦)より1か月ほど遅くなりますので、節分と大晦日はほぼ同時期でした。

④鬼は目には年の移り変わりを視覚化したもの

鬼は厄をあらわすものであると同時に、目には見えない年の移り変わりを著すものだと思います。

鬼は頭に牛の角を生やしていますね。
牛=丑
12か月を干支でいうと丑は12月です。

干支  

新年に湯立を行う神社もいくつかありますが、それは12月=丑=牛=鬼に湯をかけて禊をさせることで新年がやってくると考えられたためではないでしょうか。

⑤お多福は立春をあらわす?

鬼に変わって現れたお多福さんは立春(二十四節気の正月)を表すものだと思います。
というのは、節分祭におかめが登場する例がたくさんあるからです。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼

千本釈迦堂 おかめ節分

北野追儺狂言 福の神

北野天満宮 北野追儺節分


市軸稲荷神社 お多福ゲート 

市軸稲荷神社 節分祭

近所のスーパーの店頭に並んでいる節分の豆菓子も鬼の面とお多福の面がセットになっています。

これは鬼=大晦日、お多福=新春だからだと思います。

大覚寺身振り狂言の追儺湯立は目には見えない年の移り変わりを視覚化したものだといえるのではないでしょうか。




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[2019/02/04 12:00] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

多田銀銅山 紅葉 『金太郎は河童だった?』 

多田銀銅山 レンガ遺構 
多田銀銅山 復元レンガ遺構

多田銀銅山 説明板 レンガ遺構復元予想模式図 

多田銀銅山 説明板 採鉱 


多田銀銅山 説明板 選鉱場での作業

多田銀銅山 説明板 精錬 


兵庫県川西市 多田銀銅山
2018年11月24日 撮影


①オオサンショウウオ侍

多田銀銅山は天平時代に開かれたと言い伝えられる鉱山で、大仏鋳造に多田の銅が用いられたともいいます。
先日、明延鉱山の話をしましたが、明延鉱山で採掘された銅も大仏鋳造に用いられたと伝えられています。
先祖は平家の落ち武者という話が各地にあるように、銅が大仏に用いられた云々もあとづけの話じゃないかと思ってしまいます。
一方で、平安時代、源満仲が開発したとも伝わり、どうもこっちのほうが正しいような気がしますね。

多田銀銅山の入り口にあたる「悠久の館」には古いたたら(炉に風を送る道具。パッキンとして狸の毛皮が使われていた!)や産出した鉱物などが展示されていて、係の方が丁寧に説明してくださいました。(ありがとうございました!)

堺鉄砲館 炉とふいご 
堺鉄砲館 たたら(炉の向かって左 木製の箱のようなものがたたら)※悠久の館は写真撮影禁止でした。

その「悠久の館」のパンフレットにオオサンショウウオ侍と言うキャラクターが載せられています。
https://ameblo.jp/dolphinfarm/entry-12078851273.html
↑ こちらの方のブログに写真が掲載されています。

このオオサンショウウオ侍を見て、「おお!」と思いました。
オオサンショウウオ侍がかわいいというのもありますが、岡山県湯原温泉のオオサンショウウオ伝説を思い出したのです。

多田銀銅山付近3 

悠久の館を出て、多田銀銅山 青木間歩へ向かいます。

②はんざき大明神は砂鉄とけら(鉄の塊)の神だった?

オオサンショウウオは別名をはんざきともいい、湯原温泉にははんざき大明神を祀る祠があります。
そしてこんな伝説があるのです。

a.文禄時代(1593~1596)旭川上流の龍頭ヶ淵に全長10mもある大はんざきが住んでいました。
近くを通りかかった人や牛を飲み込んでしまうので、三井彦四郎という若者が大はんざきを退治しようと淵に飛び込みました。
大はんざきは彦四郎を飲み込んでしまいましたが、彦四郎は大はんざきの腹を切り開いて出てきたので無事でした。
しばらくして、夜、彦四郎の家の戸をたたき、号泣する声が聞こえるようになり、まもなく彦四郎一家は全員亡くなってしまいました。
村人たちはこれを大はんざきの祟りであるとして、はんざき大明神の祠をたてて慰霊しました。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

旭川流域では古くよりたたら製鉄に用いる砂鉄が採取されていました。
 はんざきには黒い斑点がありますが、この黒い斑点は砂鉄に似ていないでしょうか。

たたら製鉄では粘土製の炉を木炭で熱した中に砂鉄をいれて溶かします。
龍頭ヶ淵とは、このたたら製鉄の炉のことでは?



上のたたら吹きの動画の11:56あたりから見てください。
たたら吹きの最終段階では「けらだし」といって、炉を崩す作業があります。
炉を崩した中から「けら(鉄の塊)」がでてきます。

はんざきの腹を割るとは炉を割る「けらだし」のことで、中から出て来た「けら」が彦四郎ではないでしょうか。
動画の12:57あたりに「けら」の映像がありますが、長細い形ははんざきの形に似ていますし、
表面がぶつぶつとした感じははんざきの斑点をイメージさせます。

彦四郎・・・砂鉄
彦四郎が飛び込んだ龍頭ヶ淵・・・たたら吹きの炉
はんざきの腹を割る・・・・・・・けらだし(炉を崩す)
はんざきから出て来た彦四郎・・・砂鉄がたたら吹きでけら(鉄の塊)になったもの
彦四郎一家が死んだ・・・・・・・たたら吹きにかかせない鉄穴流しによる川の汚染で、本物のはんざきが死んでしまった


湯原温泉 川霧 百日紅 『はんざき大明神は砂鉄とけら(鉄の塊)の神だった?』 

とまあ、そんな風に考えていたので、多田銀銅山二も何かオオサンショウウオに関する伝説があって、それでオオサンショウウオ侍というキャラクターが作られたのかも、と思ったりしました。(未確認)

青木間歩 入口 
青木間歩

青木間歩 内部 
青木間歩内部

③金太郎は鉱物の神だった?

話は変わって①のところで、多田銀山は平安時代、源満仲が開発したという話をしました。
満仲の子の源頼光は大江山の鬼退治をしたことで有名ですが、頼光には四人の優秀な家来(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)がおり頼光四天王と呼ばれていました。

しかし、このうち坂田金時は実在した人物ではなく、下毛野公時を脚色して創作した人物のようです。
平安末期に成立した『今昔物語集』では源頼光の郎党は『坂田金時』ではなく『坂田公時』となっています。

多田銀銅山 水抜き通風穴跡 
水抜通風穴跡

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_199.html
上のブログでは、近江国坂田郡に金太郎伝説があり、ここから下毛野公時は坂田金時となったのではないかと説かれています。

b.金太郎は、息長氏の一族として、955年に近江国坂田郡布勢郷(現在の長浜市布施)に生まれた。
その後、小一条の「うばがふところ(番所/ばんふところ)」で乳母によって育てられた。
金太郎は、舟崎の鯉ヶ池で鯉にのったり、常喜の熊岡や足柄山で熊と相撲を取ったりして遊んだ。
本庄の足柄神社の奉納相撲にも出場した。
また名超寺、富施寺などで、学問にも励んだ。
青年となった金太郎は、地元の鍛冶屋で働いた。当時この地は、製鉄業が盛んだったのである。
金太郎20歳のころ、足柄山にやってきた源頼光と出会い、金太郎は頼光の家来となった。
994年、金太郎は伊吹山の山賊を退治し、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに頼光の四天王と称された。


多田銀銅山 青木間歩から瓢箪間歩へいたる道 
青木間歩から瓢箪間歩・台所間歩に向かう道

毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族です。
その後、毛野国が上毛野国(現在の群馬県)と下毛野国(現在の栃木県)にわかれると、それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏となりました。

下毛野国は下野とも記しますが、
http://sky.geocities.jp/tuguyasu/kinzoku/kinzo5.html
上のサイトには、「927年、延喜式にみられる諸国の鉱産物。鍬鉄は伯耆、美作、備中、備後。銅鉛は備中、長門、豊前等。砂金・錬金は下野国。砂金は陸奥国。大宰府銀(対馬産)。伊勢産の朱砂(『延喜式』巻廿三)。」と記されています。

平安時代、下野は砂金の産地として有名だったのです。
ここから下毛野公時は下毛野金時となり、さらに製鉄業が盛んだった坂田郡の金太郎伝説の影響で坂田金時と変化したように思えます。

多田銀銅山 瓢箪間歩大露頭2 
瓢箪間歩大露頭

金太郎は金と記した赤い菱形の前掛けを身に着けていますが、金とは金属の金を表しているのでしょう。
また前掛けは菱形ですが、これも鉱山や鉱物をあらわすものだと思います。
日本地質学会員の藤井光男氏さんは、群馬県桐生市菱地域は古代鉄生産の里であったとしておられます。

多田銀銅山を開発したと伝わる源満仲が帰依した満願寺には坂田金時の墓がありました。
多田源氏は坂田金時を鉱山または鉱物の神として信仰し、満願寺に坂田金時の墓をつくったのではないでしょうか。

満願寺 紅葉 『坂田金時は鉱山の神だった?』 

多田銀銅山 瓢箪間歩大露頭 
瓢箪間歩大露頭

④金太郎と河童

さらに私は金太郎とは河童ではないかと考えるようになりました。
と言うのは、頼光四天王の一人、卜部 季武(うらべ の すえたけ950-1022)にこんな伝説があるからです。

c.「頼光の郎等平季武、産女にあひし話」
夜、 平季武(卜部季武)が馬で川を渡っていると、川の中に産女がいて赤子を渡し、「これを抱け」といった。
季武は女から赤子を受け取り、抱いたまま岸へ向かった。
産女は「子を返せ」と言って追いかけてきたが、季武は陸へ上がって館へむかった。
抱いていた赤子を見ると木の葉だった。

産女がわが子を僧侶に抱かせ、僧侶の念仏や題目によって産女が成仏したなどという話もあるようで、その際には産女はお礼に黄金の袋をくれたといいます。

多田銀銅山 瓢箪間歩jpg 
瓢箪間歩

砂金は川で採れますね。
産女が卜部 季武に渡した赤子とは砂金の比喩のようにも思えます。

また卜部季武菱と金太郎にはこんな伝説もあります。

d.源頼光は卜部季武を従えて信州明呂山にやってきて、山姥(坂田時之の妻)の家に宿を請うた。
山姥は頼光を家にとめ、すきを見て襲ったが、頼光の武力が勝っていた。
山姥は我が子・怪童丸の助命を請い、頼光は怪童丸を家来にした。
怪童丸は坂田金時と名前を改め、頼光四天王の一人となった。

多田銀銅山 台所間歩 

台所間歩

山姥とは山に住む老婆の妖怪ですが、山は山でも鉱山に住む妖怪なのでしょう。
そして鉱山の妖怪・山姥が川で産んだのが砂金の神・金太郎というわけです。

また卜部季武は坂田金時が源頼光の家来になるのにかかわっている点に注意してください。

cの伝説とdの伝説は比喩の仕方が違ってはいても、同じことを言っているように思えるのです。
ただし、dの伝説の金太郎は鉱山で採取される鉱物、cの伝説の赤子(金太郎?)は川で採取される砂金を表していますが。

 多田銀銅山付近

多田銀銅山付近

⑤河童の特徴
江戸時代以降の一般的な河童の特徴をあげてみます。

a.子供のような体格
b.全身緑色または赤色
c.頭頂部に皿がある。皿が乾くと脱力したり、死ぬ。
d.口は短いくちばし。
e.背中に甲羅がある。
f.手足に水かきがある。
g.肛門が3つある。
h.生臭い。
i.キュウリが好物。
j.相撲が得意
k.土木工事を手伝う。
l.河童を助けた人間に魚を贈った。
m.薬の製法を教えた。
n.溺れた人の尻小玉を抜いて食べる。

金太郎は子供のような体格であり、体は赤いです。
また足柄山で熊と相撲をとったりしたといわれます。

金太郎はおかっぱ頭をしていますが、おかっぱ頭は古くは男子の髪型で、むれないように頭頂部を剃っていました。
その髪をそり落とした部分が皿のように見えます。

金太郎は端午の節句の鯉のぼりにまたがる姿で描かれることも多く、川のイメージがあります。

Kappa jap myth

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kappa_jap_myth.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Kappa_jap_myth.jpg よりお借りしました。
作者 Toriyama Sekien (Japanese, *1712, †1788) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


河童には亀の甲羅がありますね。
そこで、次の図を見てください。
向かって左が背甲、向かって右が腹甲です。

腹甲は菱形をしています。金太郎の前掛けが菱形になっているのは、それが鉱物を表すと同時に亀の腹甲を表しているのではないでしょうか。

また背甲には六角形や五角形の模様がありますが鉱物の結晶の中には六角形の板状・柱状のものがあり、亀の背甲は鉱山や鉱物を表すもののように思えます。

Chelonia scutes


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chelonia_scutes.PNG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Chelonia_scutes.PNG よりお借りしました。
(Original uploader) Shyamal [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で



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[2018/12/06 13:11] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)