神戸ルミナリエ 『お・も・て・な・しの心』 

ルミナリエ

●神戸ルミナリエ
 
2016年の神戸ルミナリエは12月2日から11日までだそうです。
詳しくはこちら → http://www.kobe-luminarie.jp/cont-01.htm

写真は2013年に撮影したものです。
バロック風の細かいイルミネーションがすばらしいですね!

●ざっとうの詩

神戸ルミナリエでは、↓ こういう音楽が流れていました。



歌詞の内容は「子供じゃあるまいし、そんなこと言われなくてもわかってるよ~」と思わなくもないですが(すいません)、
メロディとハーモニーが美しいのでそんなにうるさく感じないです。
 
●確かに混んでる。でも怒鳴る必要ある?

大勢の人で混んでいるのはそんなに嫌いではないです。日本人は親切でマナーのいい方が多いので。
最近どこへ行っても外国人の方が多いですが、外国の方もマナーのいい方が多いと感じます。
ですが、警備の人に「押し合うな」などと大声で怒鳴り続けられると、ちょっとうんざりしてしまいます。
「ざっとうの詩」が作られたのも、そういう観光客の気持ちを察してのことなのでしょう。

あるとき美術館に行ったら、長蛇の列ができていて、美術館に入るまでに40分かかりました。
素敵な音楽でも聴きながら待つのだったら苦にならないんですが、40分間、警備スタッフの方に「順番を守ってください」とか「押し合わずにゆっくり進んでください」とか大声でどなられ続けたのですっかり気分が滅入ってしまいました~。

前にいた人は「順番守ってへん人とか、押し合ってる人なんか一人もおらんやないか。」とつぶやいておられました。
ほんと、そのとおりです。

ルミナリエ2

大勢の人が集まる場所で事故がおきたこともあり、神経質になるのはわかります。
また注意されても仕方ないようなことをしたのなら、怒鳴られても仕方ないです。
だけどマナーよく歩いている人にまで怒鳴るのはやりすぎだと思うんです。

注意事項はプラカードに書いておく程度で十分じゃないかなあ?
ときどきプラカードを見落とす人がいるかもしれないので、そういう人にだけそっと声をかければどうでしょう?

神戸 クリスマスイルミネーション

 他にも、こんな経験があります。

①お寺で「行事は何時から始まりますか」と聞いたら「そんな行事を行う予定はない」と言われる。(実際には行われました。)

②お寺で「花壇の花を折るのを防犯カメラで見た。」と言われる。(もちろん折っていません。)

③お寺で「撮影禁止の張り紙がなくとも重要文化財の建物は撮ってはいけない。それがマナーだ。」と言われる。
もちろんそんな法律はないし、マナーというのは人によって異なります。
(個人の家の敷地内に勝手に入って写真を撮ったりするのはダメですが。)

④あるお祭りで、通行規制をするのは仕方がないが、出口付近は大変な人込みでたどりつけそうにない。
空いているところから出ようとすると警察官の方に「ここから出てはいけない」と言われる。
「出口のほうへは混んでいていけない」というと「人込みを押し分けて出口へ行ってください」との返答。
人を押し分けて歩いていくのは危険だと思うんですが~。

①はきちんと行事予定などを調べておく必要があると思いますし
②はそういう事実がないのに、他人を泥棒扱いしてはいけないはずですし
③は撮影禁止にするのは構わないんですが、観光客がわかりやすいように「撮影禁止」と書いた張り紙をしておいてほしいと思います。
④は通行規制のはりかたがまずいですね。事故がおこりかねない危険な通行規制です。
人が集まらない場所に出口をもうけるべきでした。
 
神戸 洋館

●「お・も・て・な・し」の心

「お・も・て・な・し」という言葉が流行語大賞に選ばれたこともあるのに、こういうことがあると残念に思いますね。
観光客を迎える側は、観光客のマナーやカメラマンのマナーが悪いと訴えるだけでなく
今いちど「「お・も・て・な・し」の心について考えていただきたいです。

神戸 



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[2016/12/04 00:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

石龕寺 紅葉 『戦国武将はなぜ毘沙門天を信仰したのか』 

兵庫県丹波市・・・石龕寺
2014年11月9日 撮影


 石龕寺-紅葉

石龕寺の奥の院を参拝しようとして、たいへんな目にあいました!(自分が悪いんですが~)
奥の院に行く道は2つあったんですが、夕方だったので、ひとつはもう門がしまっていました。
それでもうひとつの道を歩いていったんですが、これが結構な山道で
ものすごく細い道とか崖になってるところがあるんですよ。
まさかこんな道だとは思わなかったー。

とりあえず奥の院を参拝することはできたんですが、もう暗くなりかけていたので写真も撮らずに引き返しました。
山道を下っているうちにあたりは真っ暗に!
懐中電灯で足元を照らしながらなんとか下山することができましたが、すごく怖かったです!

●各地に残る「聖徳太子が毘沙門天を刻んだ」という伝説

石龕寺には次のような創建説話が伝えられています。

5 87年、廃仏派・物部守屋vs崇仏派・蘇我馬子の戦いがありました。
その際、聖徳太子は蘇我馬子側につき、自ら刻んだ毘沙門天を兜の真甲にいただいて戦い勝利を収めました。
ところがこの毘沙門天像が空中に飛散してしまったため聖徳太子は諸国を回って探しました。
毘沙門天はこの地の石窟の中におられるのがみつかったので、聖徳太子はここに小堂をたてました。
これが石龕寺の始まりです。


聖徳太子が毘沙門天を刻み、毘沙門天の加護を得て587年の戦いに勝利したという話は各地の寺の創建説話にあるようです。
奈良県生駒郡にある朝護孫子寺も毘沙門天を本尊としていますが、この毘沙門天像も聖徳太子が刻んだものとも伝えられています。

朝護孫子寺 本堂 霧 
朝護孫子寺

●毘沙門天は鉱山の神だった。

毘沙門天はもともとはインドの神クベーラで、夜叉を使役して貴金属や宝石を採掘させる神でした。
クベーラは鉱山の神だといっていいでしょう。

そして石龕寺から里山林遊歩道を歩くと岩屋城跡に出ますが(もちろん、行くことができませんでした~)
そこからさらに尾根道を歩いていくと旧金屋鉱山があります。

この地には鉱山があったため毘沙門天を祀っているのでしょう。

朝護孫子寺に鉱山があったかどうかはわかりませんが。

東大寺 大仏殿 多聞天 

東大寺大仏殿 多聞天(毘沙門天は四天王の一としては多聞天と呼ばれます。)


●ムカデは毘沙門天の使い

戦国武将たちはこの毘沙門天を厚く信仰していました。
武田信玄も毘沙門天を信仰しており、彼の精鋭部隊は百足衆と呼ばれていました。
百足は毘沙門天の使いとされていました。
また坑道のことをムカデ穴ともいい、鉱山と毘沙門天と百足には密接な関係があったのです。

朝護孫子寺 額 

朝護孫子寺の額

朝護孫子寺の額や欄間のレリーフにはムカデが刻まれていました。

鞍馬寺 ムカデを描いた茶碗 

↑ こちらは鞍馬寺に展示されていたムカデを描いた茶碗です。
すごくかわいいー♪(変?)こんなのほしいです。

鞍馬寺も毘沙門天を祀っています。
ただし、鞍馬寺が鉱山だったかどうかはわかりません。
近くに二ノ瀬という地名があり、二ノ瀬は丹の瀬かつては丹が採れたのではないかと考えたりもしますが。

鞍馬寺 竹伐会式2 

鞍馬寺

●戦国時代は鉱山争奪戦だった。

なぜ戦国武将たちが毘沙門天を信仰していたのかというと、戦国時代は鉱山争奪戦であったからだとも言われています。

岩屋城は和田日向守斉頼(ときより)が1516年に築城した城ですが、1579年に明智光秀に攻められて落城しました。
その後、1586年に佐野下総守栄有が再築城しましたが、1596年豊臣秀吉の命によって城は取り壊されました。

和田日向守斉頼や佐野下総守栄有は石龕寺の毘沙門天を深く信仰していたことでしょう。

石龕寺-紅葉2 


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[2016/11/11 00:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

北野異人館 萌黄の館 『天神さんが見つめる町』  

 神戸市中央区 北野異人館 萌黄の館

萌黄の館 外観 
●萌黄の館

萌黄色の壁が目をひく異人館・萌黄の館。
1903年、アメリカ合衆国総領事ハンター・シャープの邸宅として建てられました。
その後1944年に神戸電鉄社長の小林秀雄が買い取り、1978年まで住んでいたそうです。

萌黄の館 ピアノのある部屋

●ストロボをバウンズさせて撮影


ストロボを天井にバウンズさせて撮影しました。
こうすると手持ちで撮影できますし、変な影も出にくいです。(トイレやバスルームはちょっと影が出てしまったけど)
またストロボなしで撮影すると窓からの光が強すぎて白飛びしたりゴーストやフレアが入ったりしやすいですが
ストロボを使うと室内と窓からの光のバランスがとりやすいです。

萌黄の館 ドレッサーのある部屋

ただ、天上にバウンズさせるのって天上が白いからこそできることなんですよね。
日本にもすてきな家がたくさんありますが、たいてい天井茶色なので、ストロボを天上にバウンズさせるとセピア色の写真になってしまう~。
感度あげて撮影するとストロボいらないけど、画質が荒くなるし、何かいい方法ありませんか?

萌黄の館 応接室 

●北野異人館

江戸末期、日本は長年の鎖国をとき開国しました。
海岸沿いに神戸居留地が作られましたが、1880年頃より内地雑居が認められるようになって北野の地に外国人の住宅が作られるようになりました。

萌黄の館 ベッドルーム

●外国人は白紙で臨んでよい所に着眼する。

なぜこの北野の地に数多くの異人館が作られるようになったのでしょうか。

http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/hyakkei-hanga/hyakkei69.html
上記サイトに次のように記されています。

「不動坂を旧サッスーン邸の前まで登ったところです。『新神戸百景59.北野』では、この坂の上から神戸港を見下ろす風景が描かれています。木版画を見て池長孟は、外国人は白紙で臨んでよい所に着眼するのが癪(しゃく)だと、北野に住む外国人は目の付け所がよいと表現しています。」

「外国人は白紙で臨んでよい処に着眼するのが癪」だということは、日本人は何らかの先入観を持っていてこの土地にあまり住居を建てなかったということでしょうか?
とすれば日本人はどのような先入観を持っていたのでしょうか?

 萌黄の館 子供部屋

 ●福原京

1180年、平清盛は平安京から福原京に遷都しました。
福原京は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部あたりにあったとされます。
福原京には経ヶ島という人工島が作られたそうです。
当時、人工島を作る技術があったということに驚きますが、長い年月の間に地形が変わってしまって経が島がどこにあったのかわからなくなってしまいました。
また福原京は源義仲によってことごとく焼き払われてしまって遺構は何一つ残っていないのだとか。
ちょっとぐらい残しておいてくださいよ~、義仲さん!

えー、それはさておきまして、この福原京の鬼門鎮護として、京都の北野天満宮を勧請したそうです。
北野という地名はこの地に北野天満宮があるところから名づけられました。

萌黄の館 バスルーム

●怨霊として恐れられた菅原道真


北野天満宮(写真はありません。すいません!)は怨霊として有名な菅原道真を祀る神社です。

菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、数年後に失意のうちになくなりました。
その後、都では天変地異や疫病が流行しました。
そして清涼殿で干ばつ対策会議を開いていたところ、急に暗雲がたちこめて雷雨となり清涼殿に落雷が落ちるという事件が発生します。
その際、道真左遷にかかわった人物が大勢死傷し、「道真の怨霊の祟りじゃあ~」と畏れられました。
醍醐天皇はこの事件から3か月後に崩御されましたが、死因は清涼殿落雷によるショックから極度のノイローゼに陥ったためともいわれています。

萌黄の館 ソープディッシュと水道栓

 ●鬼を鬼で封じる?

さきほど、北野天満宮は福原京の鬼門鎮護の社であると書きましたが、鬼門とは鬼が出入りするとされる方角のことです。
その鬼門鎮護に怨霊・菅原道真を祭る社を置くというのは、鬼を鬼(怨霊=菅原道真)で封じようというわけですね。

京阪沿線は大阪からみて鬼門にあたるとして今でも忌む人がいますが、北野も鬼門にあたる場所だということで忌まれたのでしょうか?

萌黄の館 トイレ


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[2016/09/10 00:14] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

佐用町 ひまわり畑 『ひまわりは太陽にそっぽを向く花だった?』 

兵庫県佐用町 ひまわり畑 http://www.town.sayo.lg.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=3208
2012年7月12日 撮影

佐用 ひまわり畑 
●太陽神アポロンをストーカーしてひまわりになった水の精

ギリシャ神話に、水の精がひまわりに変身するという話があります。

水の精クリュティエは太陽神・アポロンに恋をしました。
しかしそれはクリュティエの片思いでした。
クリュティエは毎日アポロンが日輪車で東の空に現れ、西の空に姿を消すまで、アポロンを見つめ続けました。(まるでストーカー・・・)
9日9晩たち、クリュティエの足は地面に根付き、顔は花になってしまいました。


これがヒマワリの花だというのです。

●ヒマワリの原産地は北アメリカ

いやあ~、この話はおかしいです~。
クリュティエがひまわりになるなんてことはないでしょーー。

だって、ひまわりって原産地は北アメリカ大陸西部で、インディアンが食用にしていたとされているんです。
1510年にスペイン人がひまわりの種を持ち帰り、17世紀ごろフランスやロシアに伝わったそうです。
古代ギリシャにひまわりがあったとは思えないです。

●クリュティエはひまわりではなく、ヘリオトロープに変身した?

古代ローマの詩人・オウィディウスの『変身物語』では、クリュティエはヘリオトロープに変身したと記されているそうです。。
ヘリオトロープは紫色の花で、heliostropeとはギリシャ語で「太陽に向かう(heliosが太陽、陽)+(tropeが向く)」という意味なのだとか。

でもこれもおかしいんですよね~。
ヘリオトロープはペルー原産で、1757年にフランスの園芸家がパリに種を送ってから、世界各国で栽培されるようになったとされているからです。

●ヒマワリの花は太陽の方を向いていない

クリュティエの伝説をもう一度読んでみましょう。

クリュティエは毎日アポロンが日輪車で東の空に現れ、西の空に姿を消すまで、アポロンを見つめ続けました。

つまり、クリュティエが変身した花は常に太陽の方向を向いているということだと思います。

でも、ヒマワリの花は常に太陽のほうを向いてはいません。
これはすなわち、クリュティエが変身した花はひまわりではないということを示していると思います。

ええーーっ!ヒマワリって太陽のほうを向くから向日葵(日回り)っていうんじゃないの?
という声が聞こえてきそうです。

私も長い間そう思っていました。
でも、下記リンク先の写真を見てください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%AF%E3%83%AA#/media/File:Amingholamali_Sunflowers_at_sunset_Ormiyeh.JPG

すてきな写真ですね。タイトルは「夕日とひまわり畑」となっています。
ひまわりの後ろに写っているのは夕日なんですね。
夕日とひまわりを写した写真ってけっこう見かけます。

つまり、ヒマワリの花は太陽のほうを向いておらず、「西の空に姿を見つめ続けた」という伝説の記述とあわないんです!

ウィキペディアにも次のような内容が記されています。

①実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけ。
②完全に開いた花は東を向いたままほとんど動かない。 

一方、たいていの植物は太陽の方を向いて花を咲かせませんか?
以前、夕日とコスモスを一緒に撮ろうと考えて撮影に出かけましたが
コスモスの花が全部夕日の方を向いてしまっていて、後ろ向きの花しか撮れず撃沈したことを思い出します~。

すると、ひまわりは太陽にそっぽを向ける植物だといえなくもないような?

佐用 ひまわり畑2

夕方の日差しがきつくて、ゴースト・フレアーはいりまくり~。
でも、ひまわりの花が太陽に背を向けているのがわかると思います。


●クリュティエはキンセンカに変身した?

http://www.kflorist.co.jp/knowledge/month/2013-07-00019.html

↑ こちらのサイトには次のように記されています。

「ギリシャ神話の太陽の花ヘリアントスは、キンセンカのことを指していましたが、現在ではヒマワリの学名に置きかえられています。
ヘリアントスは、ギリシャ語のhelios(太陽)と、anthos(花)から名付けられています。」

クリュティエはキンセンカに変身したんじゃないですかね。
キンセンカの写真はこちら→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%AB#/media/File:Calendula_officinalis1.jpg

この黄色い色が太陽をイメージさせたのではないでしょうか?

●太陽は黄色で描かれる。

日本では太陽は赤で描かれることが多いですが、他国ではたいてい黄色で描かれるそうです。
そういわれてみれば、日中太陽を見上げてみても太陽は赤くありませんね。
夕日も空や雲が赤くなっても、夕日そのものは赤くないことが多いです。
たまーに夕日が赤くなることもあります。

赤い夕陽  
↑ 淡路島で撮影した夕日。この日は太陽が赤くなりました。

赤い夕日は印象的です。それで太陽は赤で描かれるようになったのかも?

フィギュアスケータ―の兄貴ことリプニツカヤ選手が
「日本がなぜあんな国旗なのか、日本に来てみてわかりました。あんなに赤い夕陽は世界中どこにもありません。」
と語っていたのを思い出します。

日本は夕日が赤く染まりやすいのでしょうか?

でも高松塚古墳やキトラ古墳に描かれた太陽は赤色ではなく、金色です。
金色は黄色に似ていますね。
古代の日本人は太陽は赤ではなく黄色または金色だと認識していたのでしょう。

佐用 ひまわり畑3


↑ これは夕景っぽく写真を加工したもの。



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[2016/08/09 00:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

淡路島の春景色 『淡路島は流刑地だった?』 

淡路島 八木のしだれ梅 

淡路島 八木のしだれ梅


●柿本人麻呂の旅の歌


万葉歌人の柿本人麻呂が『覊旅の歌八首』を詠んでいます。

ちょっと長くなるけど、和歌と現代語訳を書いておきますね。

①御津の崎波を恐(かしこ)み隠り江の舟に 舟公宣奴嶋尓
(御津の崎の波を恐れ、入り江の舟で・・・???)
※「 舟公宣奴嶋尓」の読み方については諸説あって定まっていません。
※御津の崎は大阪市御堂筋にある三津寺付近だとか、高麗橋付近、谷町筋にあったなど諸説ありますが、大阪にある岬であることは間違いないでしょう。
現在、三津寺・高麗橋・谷町筋あたりは海から随分遠いのですが、奈良時代にはこの付近まで海があったとされています。
※人麻呂は三津の先から舟に乗って旅に出たのでしょう。

②玉藻刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草の 野島が崎に 船近づきぬ
(海女たちが海藻を刈っている敏馬(見ぬ女)という地名から、家に残してきた妻のことをしみじみと思った。
その敏馬を過ぎて、夏草が茂る野島の崎に船は近づいた。)
※敏馬は神戸市灘区岩屋付近。野島の崎は淡路島北端の岬です。

③淡路の 野島が崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す
(淡路の野島が崎の浜風が妻が結んでくれた衣の紐を吹き帰している。)

④荒栲(あらたへ)の 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 海人とか見らむ旅行く我れを
(人々は藤江の浦で鱸を釣る漁師だと思っているだろうか。旅行く私のことを。)
※藤江の浦は明石市西部、淡路島の野島の北西。

⑤稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ
(稲日野も行き過ぎ難く思っていたところ、心恋しい加古の島が見える。)
※稲日野は現在の加古川市から明石市あたりにかけての野のこと。印南野ともいいます。
※播磨風土記に香具山と耳梨山が争ったとき、調停のために出雲の阿菩(あぼ)の大神が立ち上がり印南国原まで来たところで争いが納まったと聞いて帰って行った、と記されています。
※大和への帰路の際に詠んだ歌だと考えられています。
※加古の島は加古川河口の三角州のことではないかともいわれています。

⑥燈火(ともしび)の 明石大門(おおと)に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
(明石海峡に船で入って行く日には、故郷から漕ぎ別れてしまうのだろうか、家のある大和のほうを見ることもなく。)
※この歌は再び往路の作とされています。

⑦天離(あまざか)夷(ひな)長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
(田舎の長い道を恋い焦がれるようにして来てみると、明石海峡より大和島が見える。)
※帰路の作とされています。

⑧笥飯(けひ)の海の 庭よくあらし 刈薦(かりこも)の 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船
(笥飯(けひ)の海の状態がいいようだ。刈った薦のように乱れて出ていくのが見える。海人の釣船が。)

※飼飯の海は淡路島西岸の慶野松原あたりのことだとされています。
※薦はマコモの古名。イネ科の多年草で、茎や葉でござが編まれました。
※笥飯の笥は食器、飯は穀物を焚いたもの、または食事のこと。
人麻呂は暖かい食卓を囲む我が家を思い出していたのかもしれませんね。
※帰路の作とされています。

慶野松原 夕日 
慶野松原 夕日

●往路の作と帰路の柵は作風が真逆


万葉集はなんで往路と帰路の歌をごちゃまぜにして並べてるんでしょうね?謎だー。
それはともかく、この8首の歌を往路の作と帰路の作にわけてみましょう。

【往路】
①御津の崎波を恐(かしこ)み隠り江の舟に 舟公宣奴嶋尓
②玉藻刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草の 野島が崎に 船近づきぬ

③淡路の 野島が崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す
④荒栲(あらたへ)の 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 海人とか見らむ旅行く我れを
⑥燈火(ともしび)の 明石大門(おおと)に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

【帰路】
⑤稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ
⑦天離(あまざか)夷(ひな)長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
⑧笥飯(けひ)の海の 庭よくあらし 刈薦(かりこも)の 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船

往路の歌には家や妻を思うセンチメンタルな気持ちが詠まれているのに対し、帰路の歌には大和へ戻ることができる喜びが詠まれているように思えます。

明石海峡大橋 
明石海峡大橋 (ありきたりな写真だなあ~)

●淡路島は流刑地だった?

古より流刑地には島が選ばれることが多かったようです。
奈良時代、淡路島へは淳仁天皇が流刑になっていますし、早良親王は流刑となって淡路島に向かう途中、大阪府守口市付近で亡くなっています。

淡路島はイザナギ・イザナミゆかりの島なので流刑地であったはずがない、という人もいるようですが
実際に淡路島は淳仁天皇や早良親王の流刑地とされています。

また、日本書紀によると、イザナギ・イザナミがおのころ島に降り立って一番最初に産んだとされる島が淡路島ですが
満足できる島ではなかったため「吾恥(われはじ)」から「淡路」という地名になったと記されており、
淡路島は神聖視されるような島ではなかったことがわかります。

人麻呂も流罪になって淡路島に向かったため、センチメンタルな歌を詠んだのではないでしょうか。

淡路花桟敷 菜の花 
淡路花桟敷 菜の花

●人麻呂は粗末な衣を着ていた?


④番の歌で、人麻呂は「荒栲(あらたへ)の」と詠んでいます。
「荒栲の」は藤にかかる枕詞ですが、人麻呂は罪人とされたため、荒栲(織り目の荒い布)で作った粗末な衣を着ていたのではないでしょうか。
人麻呂という人物は正史には登場せず、謎の人物とされていますが、皇族の挽歌を数多く詠んでいるので、それなりの身分の人物だったと考えられます。
それなのに、海人が着るような衣を着ていることを嘆いたのではないかと思うのです。

淡路島 村上邸 雛人形 
淡路島 村上邸 雛飾り

流罪になったあと許されて帰郷した人物として和気清麻呂、阿保親王、小野篁などがいます。
人麻呂もいったん流罪となったあと許されて帰郷することになったので、帰路の歌は喜びに満ちたものになったのではなかと想像します。

しかし、人麻呂の人生は喜びに満ちたものではなかったようで、鴨島(かつて島根県益田市にあった島ですが、1026年の万寿地震で海に沈んだとされます。)で刑死させられたとする説もあります。
それについてはまたの機会に。



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[2016/03/05 00:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

但馬安國寺 どうだんつつじ 紅葉 『足利尊氏はなぜ六十八もの安國寺を建てたのか』 

豊岡市但東町相田 但馬安國寺
2011年11月23日 撮影

まるでドウダンツツジを拝むために造られたかのような本堂。

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉3


南北朝時代、室町幕府を開いた足利尊氏、直義兄弟は北朝・光厳院の院旨を得て、六十六国と二島に安國寺と利生塔を建設しました。
その目的は、後醍醐天皇や鎌倉幕府滅亡に至る戦の戦没者の菩提を弔うためで、臨済宗・夢窓疎石の提案を受け入れたものでした。

但馬安國寺はそうして設けられた安國寺のひとつです。
但馬の利生塔は豊岡市の金剛寺に造られたそうですが、現存していないそうです。

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉2

鎌倉時代末期、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)が交互に即位するということが行われていました。(両統迭立)

1318年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位しました。
1331年、後醍醐天皇は鎌倉幕府に対して挙兵しました。
しかし、後醍醐天皇は幕府が派遣した大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞ら討伐軍に捕られ、1332年に隠岐島へ流罪となりました。
幕府は持明院統の光厳天皇を即位させました。

しかし後醍醐天皇はこれくらいのことで倒幕計画をあきらめるような人ではありませんでした。
1333年、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山で再び挙兵したのです。
はじめは幕府方についていた足利高氏ですが、このときは幕府を裏切って後醍醐天皇側につき、六波羅探題を攻め落としました。
幕府の北条仲時、北条時益らは近江国の番場蓮華寺で自害しました。
光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられました。
新田義貞によって鎌倉へ追い詰められた幕府勢・北条高時以下800余人は自害して果てました。

こうして後醍醐天皇は京都に戻って建武の新政を開始します。
足利高氏は後醍醐天皇から高く評価され、天皇の諱「尊治」から尊の一字をもらって尊氏と改名しました。

ところが恩賞に対する不満などから、建武の親政はうまくいきませんでした。
足利尊氏は鎌倉で独自に恩賞を与えるなど後醍醐政権に離反します。
後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じます。
尊氏は新田軍を破り、京都へ進軍を始めるとともに、持明院統の光厳上皇と手を結びます。
いったんは劣勢となり九州へのがれた尊氏でしたが、再び勢力を盛り返して1336年には京都を手中にしました。
尊氏は、建武式目十七条を定めて室町幕府を成立させました
後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝をつくり、南朝と北朝のふたつの朝廷が並立するようになります。
そして1339年、後醍醐天皇は崩御されました。

六十八もの安国寺をつくるというのはすごいことです。
足利尊氏は信仰心の厚い人だったともいえますが
それだけの寺を作らなければ安心できないほど、後醍醐天皇や北条氏らの怨霊を恐れていたということなのかもしれませんね。

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉 

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[2015/11/18 00:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

播州清水寺 紅葉 『千手観音の千の手は坑道を表している?』 

 兵庫県加東市 播州清水寺 
2013年11月9日撮影

播州清水寺 本堂 紅葉2  
大講堂

清水寺と称する寺は日本中にたくさんあります。
もっともその多くが「きよみずてら」と読むのではなく、「せいすいじ」と読むようですが。

佐渡市新穂大野の新穂銀山の前に清水寺(せいすいじ)があります。
行ったことはないんですが、桓武天皇の勅願によって京都清水寺を模して造られた寺で、御本尊は千手観音です。

地元では『観音の合掌した手の先に大盛りの間歩(坑道のある山)がある』という伝承が伝わっているそうです。
坑道が伸びる様子が百足を思わせることから、坑道のことを百足穴といいます。
また千手観音は千手千眼観音ともいい、千の手にひとつづつ、千の目を持つとされます。

千手観音の千の手は坑道を、千の目は坑道の先にある鉱物をあらわしているのかも?

播州清水寺の播州清水寺には本堂がふたつあります。
ひとつは大講堂で御本尊は千手観音、ふたつめは根本中堂でご本尊は十一面観音です。

播州清水寺 本堂 紅葉 大講堂

かつて播州清水寺の近くにも鉱山があったのでしょうか?

現在、播州清水寺の近くには平木蝋石を採掘する平木鉱山があります。
しかしこの鉱山は1961年に開山された新しい鉱山なので、播州清水寺の創建とは関係なさそうです。

でも清水寺の境内にちょっと気になるものがあったんですよ~。

播州清水寺

不動明王の石像の後ろに洞窟のようなものが。
もしかしてこれは坑道の入り口?なんて考えてしまいました。
今度播州清水寺にいく機会があったら、お寺の人に聞いてみます。

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播州清水寺 紅葉



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[2015/11/06 00:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

高源寺 紅葉 『天目カエデと天目一箇神』 

兵庫県丹波市 高源寺 
2014年11月9日 撮影

高源寺 紅葉2


小雨の降る日でした。

高源寺は1325年に遠谿祖雄が創建したとされます。
遠谿祖雄は中国杭州の天目山で禅の修行を積んで日本に帰国しました。
そして高源寺の境内に天目山より持ち帰った天目カエデを境内に植えたと伝わっています。
そのため、高源寺の楓は天目楓が多いそうです。

でもどれが天目楓なのか、天目楓とよく見かけるいろば紅葉のどこかどう違うのか、私には全然わかりませんでした~。

天目一箇神(あめのまひとつのかみ)または天目一命という日本の神がいるのですが、この神は鍛冶の神で、天照大神が岩戸に隠れた際、刀斧・鉄鐸を造っています。

天目一箇神という神名は隻眼をイメージさせますが、鍛冶をする際、片目をつぶって火を見るため、片目を失明することが多かったといわれます。

鉄釉を用いた茶碗のことを天目茶碗といいます。
写真はこちら↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E8%8C%B6%E7%A2%97#/media/File:Hares_fur_IMGP3594.jpg

天目茶碗と言われるのは、中国の天目山に留学した僧が日本に持ち帰ったことに由来すると一般にはいわれています。
(※天目山に留学した僧が、高源寺の開山・遠谿祖雄のことなのかどうかわかりませんが。)

でも本当は鉄釉を用いて焼かれているところから、鍛冶の神・天目一箇神にちなんで天目茶碗と言うのではないか、と思ったりします。

天目もみじもその赤い色が鉄を思わせるところから名付けられたんだったりして。

高源寺 紅葉
塔百景62

 
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[2015/11/04 00:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

立杭 登り窯 紫陽花 能勢 棚田 『ガマって何だろう?』 



播州清水寺に行くバスの車窓からとても素敵なものを発見したので、帰りに寄ってみることに。
素敵なものとはこれ。↓

立杭 登り窯4

陶器を焼くための登り窯です。
登り窯って見たことがなかったので、バスの車窓からこれを見つけたときはテンションあがりました!
お寺や神社の写真が多いですが、こういう生活感のある被写体も大好きです。
たぶん、こちらのページで紹介されている→http://www.tanbayaki.com/about/kama.html
明治28年に造られた現存する最古の窯だと思うんですが、違うかな?

立杭は丹波立杭焼の産地なのですね。
起源は平安時代にまでさかのぼるとか。
慶長16年(1611)ごろより朝鮮式半地上の「登り窯」が用いられるようになったそうです。


立杭 登り窯2 

立杭 登り窯 
登り窯を見ていて、私は能勢の棚田を思い出しました。

能勢 棚田 
午前2時半に起きて能勢の棚田まで日の出を見にいったのに、曇っていて太陽は顔を出しませんでした~。
上の写真はイツワリの朝日です。

能勢の棚田には川の上に石を積んで作った地下排水溝があります。
そしてその石の上に粘土質の土を盛って棚田が作られているそうです。
築造されたのは文禄(1591年)以前にまで遡ると考えられています。

ネットでこの地下排水溝の仕組みを描いたイラストなどないかと探してみましたが見つかりませんでした。
でも排水溝というからには、石積みの暗渠のようになっているのでしょう。

この地下排水溝は『ガマ』と呼ばれていますが、なぜ『ガマ』というのでしょうか?
沖縄では鍾乳洞のことをガマといいますが、空洞のことをガマというのかも?

登り窯も『ガマ』ですが、その構造はやはり空洞になっています。

立杭 登り窯3 
 
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[2015/06/17 00:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

播州清水寺 青空 白雲 『法道仙人の正体とは』 


JR相野駅よりバスに乗って播州清水寺へと向かいます。
入山料はバスの中で運転手さんに渡すというシステム。
お寺の栞は運転手さんが配ってくれます。

仁王門の仁王様が出迎えてくれました。

播州清水寺 仁王 吽形 


播州清水寺 仁王 阿形

播州清水寺の仁王門はガラス(ポリカかも)張りになっていて、青空と白い雲が写っていました。


播州清水寺 講堂

1800年前、景行天皇の御代に天竺(インド)の僧・法道が創建したと伝わります。
法道さんってどこかで聞いた名前だなあ?
そうそう、京都府福知山市の観音寺を創建したのもこの法道さんでした。
観音寺 柏葉紫陽花 『空也と鉢叩き』 

観音寺を法道が創建したのは720年ということでした。
その法道が1800年前に播州清水寺を創建したということは、法道は500歳以上もの長寿だったということになってしまい、ちょっと信じられません。
第一、仏教が日本に伝来したのは6世紀とされていますし、1800年前の日本に仏教寺院があったとは考えにくいです。

私は法道とは実在した人物ではないと考えています。
法道は牛頭天王と一緒に日本にやってきたといわれていますが、法道とは牛頭天王そのものなのではないかと思うのです。

牛頭天王とは京都の八坂神社で祀られている神様のことです。

八坂神社の寺伝によれば、「656年、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られるスサノオを山城国愛宕郡八坂郷に祀った。」といています。

ところが兵庫県姫路市の広峯神社(兵庫県姫路市広嶺山52)の記録には「869年疫病が流行り、藤原基経が播磨(播州)国の牛頭天王を都に勧請した。 」とあるのです。

牛頭天王が播磨から都へ遷る際に立ち寄ったとされる場所も複数あります。
(祇園神社/神戸・難波八坂神社/大阪・岡崎神社/京都・元祇園梛神社/京都 など)
なので、牛頭天王の本社は広峯神社のほうではないかと思います。
祇園祭 後祭 花笠巡行 

明治まで神仏は習合して信仰されていました。
京都の八坂神社も平安時代には観慶寺(別名 祇園寺)と呼ばれていました。

八坂神社や広峯神社の御祭神・牛頭天王はもともとは仏教の天部のひとつで、インドのインドラ神の化身とされています。
この牛頭天王の信仰は4世紀ごろには中国に伝わり、朝鮮を経て日本に伝わったと考えられます。

法道はインドで生まれ、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされますが、法道とは牛頭天王そのものであり、「インドで生まれ中国・朝鮮半島を経由して日本へ渡った」とうのは牛頭天王の信仰が伝わっていくさまを擬人化して表現したものではないでしょうか。

播磨(播州)には法道にゆかりのある寺が多いそうですが、それは播磨において広峯神社の牛頭天王が厚く信仰されていたことを物語るものではないかと思います。


播州清水寺 出猩々 

播州清水寺・・・兵庫県加東市平木1194

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[2015/06/15 12:44] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)