使用した無料ソフトはこちら。
https://www.gigafree.net/media/me/Shotcut.html他にもたくさん無料ソフトありますが、1回か2回しか保存できなかったです。
(購入しろとメッセージがでるw)
ちょっとしたことがわからなくて、手間取りましたが、なんとか作れましたが、まぐれでつくれたのかもw
今年のルミナリエはコロナで中止のようですね。写真は過去に撮影したものです。
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工楽松右衛門旧宅(兵庫県高砂市) のつづきです。
兵庫県高砂市高砂町 工楽松右衛門旧宅
車箪笥 火事の際に運び出せるよう、底に車がついています。今でいうキャスター付き箪笥。

電話器

火鉢と傘

駕籠

通徳利 酒屋が客に貸し出して、酒の中身だけ販売していました。江戸時代のエコボトル。

ラッパのようなものは霧笛。鞴(ふいご/アコーディオンの様に蛇腹を動かして空気をおくりこむ装置)で空気を送ることでラッパがある仕組み。
そのほか、浮き、タコツボ、鍵だと思います。

箪笥と金庫

真空管ラジオ 文机 火鉢

こういう鍵、最近みかけないよね~。
古い帳簿を張り付けた衝立 この家にはこういうリサイクルが多い。

これは何と言うんだろう?

押入れの奥には江戸時代の古文書が!

手鏡と小物入れ。引き出しがサイドにもついているのがおもしろい。

レトロな雰囲気の家具

脚ふみミシン 引き出しや脚の細かい細工がしびれますね。
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兵庫県高砂市高砂町 工楽松右衛門旧宅江戸時代の面影を残す高砂の町並み

この階段は何かっていうと、高砂南堀川の港遺構の雁木です。
現在の港はもう少し先ですが、江戸時代はここまで港だったんですね。
正面に見えているのが工楽松右衛門旧宅です。

↑ 工楽松右衛門旧宅に展示されていたジオラマ。江戸時代はこんな感じの街並みだったのですね。
上の復元遺構の雁木は写真中央、小舟の左の二つの倉庫に挟まれたあたり。その向かって左手が工楽松右衛門旧宅です。
工楽松右衛門は海運業、港湾改修などを行い、耐久性のある帆布(松右衛門帆)を発明された方なのだとか。

玄関から続く土間。急な階段がありますね。
その下は収納できる引き出しがついてる!ビフォーアフターとかにでてきそうなアイデア♪
その奥は素敵なカントリーキッチン!(おくどさん)

屋内に井戸があるのって珍しくない?
雨の日も水汲みらくですね。
梯子の上はどうなってるのかな、と写真見て思ったw (ちゃんと見てこいよ~)

土間の上は吹き抜けになってる。
太い梁が美しいね。

これは扉かな?縄を緩めて下におとすのではないかと。

日差しもたっぷり入ってきます。

作り付けのタンス?手前の箱は鋏箱というそうな。
武家が外出する際、こまごましたものをこれにいれて、お供のものに持たせたと説明書がありました。
↑ 説明書のイラスト こんな風に使うんですね。

欄間のデザインが目をひきます。山脈かな?

↑ これは上から5枚目の写真の階段を上った2階。
壁には引き札が貼られています。
引き札とは江戸、明治、対象時代の広告チラシのことです。
パッチワークのような外壁は、古い舟の舟板をリサイクルした藻のではないかと考えられています。
虫食い跡もあったりして、味がありますね。
工楽松右衛門旧宅(兵庫県高砂市) レトロ家具と雑貨 に続きます~
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生石神社(おうしこじんじゃ)・・・兵庫県高砂市阿弥陀町生石171
友人が工場夜景を見に行こうと誘ってくれたので、行ってみたら、
そこはなんと生石神社でした。以前から一度行ってきたいと思っていたのです♪
しかし、駐車場には『午後5時に施錠します』と書いてあります。
すでに午後5時をまわっているし、「だめじゃーん、他の駐車場探さないと~」と友人と話していると
神社の方が来られて「駐車場あけときますから」と言ってくださいました。
ありがとうございます~!
拝殿・本殿の向こう側には巨大な岩が!
ご神体の石の宝殿です。すごいね!

池の上に浮いてるように見えますよ。
これ以上後ろに下がれないので、写真はこれが限界。
広角レンズがほしい~。


後部はこんな感じになっています。
石の宝殿から山上公園にむかう階段が続いています。(写真はないけど、岩を掘って階段にしてありました。)

こんな感じで工場がみえます。夜景というより夕景だけどw

山上公園からおりる階段から撮影した石の宝殿と割拝殿 ↓

社伝によれば、崇神天皇代、疫病が流行したとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたといいます。
同様の話は日本書記にあり、そちらの話では疫病を流行らせているのは大神神社の大物主で、自分の子であるオオタタネコを神官にすれば疫病は収まる、と告げたとあります。
ほか、いろいろな文献に記述があるようですね。
播磨国風土記 | 原の南に作り石がある。 家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。 伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石という。 |
万葉集 | 巻三、生石村主真人の歌にある志都乃石室は、生石神社の石の宝殿をさすか? 「大汝(おおなむち) 少彦名の いましけむ 志都の石屋は 幾代経にけむ」 |
播州石宝殿略縁起 | 神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作った。 しかし当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。二神は、未完成の宮殿に鎮まり国土を守ることを誓った |
峯相記 | 天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていった |

幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m。重さは推定500トンを越える。竜山石として知られる凝灰岩の岩山の中腹を削って作られており、三方を加工前の岩盤に囲まれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E3%81%AE%E5%AE%9D%E6%AE%BF#生石神社の石宝殿
より引用
https://石の宝殿研究会.com/clean-up/
上のサイトをみると、池の下には蛙の置物のようなものがあるようです。水の上からでも見えるようですが、夕方で暗かったので気が付きませんでした。
割拝殿 ↓

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兵庫県加古川市志方町広尾1029 円照寺
塀から零れ落ちそうなのうぜんかづらの道
塀の向こう側に見えているのは花の寺・円照寺

珍しいピンク色の彼岸花
1441年に創建されたお寺で、1998年に100m北から現在地に移転したとのこと。
1441年は嘉吉の乱(かきつのらん)があった年ですね。
室町幕府第4代将軍足利義持は息子・足利義量が20歳で亡くなってしまったため、将軍代行を務めていました。
1428年に義持は亡くなりました。
室町幕府では後継者争いを避けるため、嫡男以外の男子は全員出家んするしきたりとなっていました。
しかし嫡男が亡くなっていたため後継者がおらず、義持の4人の息子からくじびきで将軍を決めることにしました。
その結果、比叡山の義円(義教)が還俗して6代将軍に就任しました。
義教は『クジ引き将軍』とからかわれるのが悔しかったのか、守護大名の権力をそぎ、将軍の権力強化を目指します。
義教は守護大名の中でも特に権力があった三管領、斯波家・畠山家や、四職である京極家・山名家の後継者決めに介入。
1439年に起こった永享の乱で将軍の命令を無視していた鎌倉公方の足利持氏を自害に追い込み、鎌倉府を廃止しました。
そのほかにも守護大名を取り潰し、公家の領地(荘園)没収・暗殺、延暦寺を従属させるなどして、万人恐怖と呼ばれるようになります。
義教は播磨(兵庫県)・備前・美作(岡山県)などを治めている守護大名で四職の一つ・赤松家の領地の播磨国を没収し、従兄弟に与えようとしました。
また赤松満祐の弟の領土が没収されたり、同じく四職であった一色家や有力守護大名の一つであった土岐家の当主が暗されるなどの事件がおこりました。
このようなことがああって満祐は将軍暗殺を決意します。
1441年、赤松家はこの頃関東で起きていた結城合戦の勝利のお祝いの宴会で、義教を自宅に招きました。
そして赤松家の家臣たちが宴会に乱入し、義教を斬り殺したのです。
しかし赤松家は山名家を中心とする幕府軍によって攻められ、満祐は自害しました。
赤松家の領地は山名家に与えられ、山名家が治めている領地は8ヶ国となって権力を増大させていきます。
義教の弟・義持の息子は他に3人いたが、彼らは義教によって殺されたり自害に追い込まれていました。
そこで幕府はやむなく義教の息子である足利義勝を9歳で将軍職につけましたが2年後に病死、義勝の弟・義政が8歳で第8代将軍となります。
政治の実権は山名家や畠山家などの管領たちによって行われるようになりました。
管領は義教が没収した守護大名の領地を再び与え、これ以降守護大名の権力が増大し、幕府の権力が弱まっていきます。
山名家と細川家が権力をつけ、二大守護大名の時代となっていきます。
赤松家は衰退しましたが、1443年に三種の神器が奪われる事件が起きた際に赤松家の家臣たちが活躍して手柄をあげ、加賀国の守護となっています。
兵庫県加古川市志方町高畑544の円福寺は赤松は赤松満祐が1397年に創建したと伝わりますので
同じ志方町にあって嘉吉の乱がおこった1441年に創建された円照寺も赤松氏や赤松満祐と関係のあるお寺なのかも?
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道の駅にこんなものが!
椅子じゃないですよw 竪穴式住居跡です。
説明板より
説明板より
説明板より
道の駅丹波おばあちゃんの里の敷地内に、七日市遺跡があるんですね~。
旧石器時代から平安時代まで続いた複合遺跡とのこと。
あれっ、説明版のイラストが風景の中に飛び出したw
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兵庫県丹波市氷上町上成松 一ノ宮神社
2018年 4月29日 撮影
こちらのサイトに御祭神はイザナギ、配祀神は誉田別命・菅原道真、創建年不詳とあります。
http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6308035.html
そういうわけで、今回はイザナギの話です。
①イザナギが籠った淡路の幽宮
イザナギは妹のイザナミと結婚し、二柱で国産み・神産みを行うのですが、
イザナミはカグツチを出産した際、ほとに火傷をおって死んでしまいます。
イザナギはイザナミを迎えに黄泉の国へ行きますが、腐り、ウジ虫がたかるイザナミの姿を見て怖くなり、元の世界に逃げ帰ります。
イザナギは穢れを浄めるため、筑紫・日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)で禊をしました。
その際、左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれました。
イザナギは天照大には高天原を、月読命には夜の食国を、スサノオには大海原を治めよ、と命じました。
しかしスサノオは母のいる「根の堅洲国」へ行きたいといって泣き止みませんでした。
そこでイザナギはスサノオを追放し、自分は淡路の多賀の幽宮に籠りました。
大阪咲州庁舎展望台より明石海峡大橋を望む。向かって右が明石、向かって左が淡路島。手前は神戸空港

堺市庁舎展望ロビーより明石海峡大橋を望む。あんまりいい写真じゃないけど、こっちのほうが淡路島が大きく映ってるのでw
②古事記真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写?
ウィキペディアに次のように記されています。
和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」との記述があり、
これが多賀大社の記録だとする説があるが、『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」「幽宮を淡路の洲に構りて」とある。
つまり国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮を構えたとある。
そもそも後の近江は淡海ではなく近淡海と書くこともあり、真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写であった可能性が高いと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%82%AE より引用

多賀大社
③イザナギの幽宮跡は淡路島の伊弉諾神宮
淡路島に多賀という地名があり、そこに伊弉諾神宮があります。
伊弉諾神宮のhpには次のように記されています。
神代の昔に伊弉諾大神 が、御子神の天照皇大御神に統合の権限を委ね、淡路の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過された神宅の旧跡と伝えられてゐます。
<ここで終焉を迎へた伊弉諾大神は、その宮居の敷地に神陵を築いて祭られました。
https://izanagi-jingu.jp/?page_id=2より引用
淡路島の伊弉諾神宮はイザナギの幽宮跡だったのですね。
伊弉諾神宮はイザナギ・イザナミを祀っていますが、『幽宮御記』によれば祭神は「伊弉諾尊一柱也」とあり、本来はイザナギだけを祀る神社であったようです。
927年の延喜式神名帳では「淡路伊佐奈伎神社 」となっており、日之少宮・淡路島神・多賀明神・津名明神とも呼ばれているそうです。
④古事記最古の写本・真福寺本古事記の原本は現存せず、真福寺系・卜部系の二つの写本が伝えられています。
真福寺本は真福寺(岐阜県羽島市)の僧・賢瑜が応安4年(1371年)に上・中巻を、翌5年に下巻を書写し終え、信瑜がそれの不足を補足して出来上がったとされます。
これがもっとも古い古事記の写本です。
1612年に真福寺の一院・宝生院が名古屋城城下に移転しました。(大須観音/名古屋市中区大須)
その際、移転先の地名は、真福寺があった場所の地名・大須に変えられ、絵画・古典籍のほとんどが名古屋城下の大須へうつされました。
その中に古事記もありました。
これがきっかけで真福寺は衰退してしまい、さらに度重なる洪水などもあったのですが、廃寺にはならずに現存しています。
ただし、現在地(岐阜県羽島市桑原町大須)には昭和39年に移転したということです。
それ以前にはどこにあったんでしょうか?調べたりないせいだと思いますがちょっとわかりません。
古事記が完成したとされるのは712年ですから、真福寺本が成立したのはそれから659年も後のことになります。
今ならコピペで簡単に写すことができ、書写ミスもほとんどありません。
しかし昔は人間の目で見て筆で写すわけですから、もちろん写し間違えもあったことでしょう。
また賢瑜が完璧に書写していたとしても、そもそも書写した原本が間違っていたということも考えられます。
⑤972年、多賀大社は多何神社だった。伊弉諾神宮は多賀明神ともよばれているそうですが、淡海(近江/滋賀県)の多賀大社も多賀明神と呼ばれていますね
御祭神も
伊弉諾神宮と同じイザナギとイザナミです。
なぜ多賀大社は多賀という名前がついたのでしょうか?
972年の延喜式神名帳には多賀大社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記されています。
「多賀」と「多何」で字は異なりますが、日本では同じ言葉に違う漢字をあてて表現することがあります。
例えば奈良の転害門前の地名は手貝町となっています。
ですから多何神社は多賀神社と同一で、単に表記が異なっていただけなのかもしれません。
⑥古事記は100年以上公にされていなかった。
古事記が成立したのはその序から712年とされますが、その存在が知られるようになったのは平安初期です。
弘仁三(812)年の『日本書紀私記』の序で古事記について触れられており、それで古事記の存在が明らかになったのです。
古事記より少し遅れて成立した日本書紀、続日本紀にも古事記の存在については何も記されていませんでした。
古事記は元明天皇に献上されたもので、日本という国のために書かれたというよりは、天皇家のために書かれたものじゃないかという気がします。
天皇家にとって都合のいいものにするため事実とは異なることも記されており、それゆえ公にされていなかったのかも?
⑦古事記は天皇家にとって都合のいいものにするため改竄されている?
とこのように考えてみると、古事記の原本に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と記されていた可能性はあると思います。
淡海は近江とも記し、近江にはかつて天智天皇の大津近江宮がありました。
天智天皇をイザナギとみなし、それでイザナギが籠った幽宮を近江の多賀大社としたのだったりして?
近江神宮 近江大津京近くにあり、天智天皇を御祭しています。
⑧神様が琵琶湖をくりぬいて淡路島にした?
子供のころ、淡路島と琵琶湖の形が似ていることがすごく不思議で、神様が琵琶湖を掘ってそのまま瀬戸内海に浮かべたのが淡路島なんじゃないかと考えたりしました。
ネットをぐぐるとこんな情報がでてきました。
太古にポルトガル沖に隕石が落下しその反対にある琵琶湖付近の地殻を押し上げた。
その衝撃で地塊が吹き飛ばされて淡路島になった。地塊が吹き飛んでできた穴に雨がたまって琵琶湖になった。
うーん、申し訳ないですが、これはないと思いますねw。
琵琶湖ほどもある地塊がほとんど砕けることなく吹き飛ぶなんてことあるんでしょうか。
もう少し細かい地塊となって飛び散りそうに思えますが。
また琵琶湖はもともとは400万年~600万年前に現在の三重県伊賀市平田に地殻の断層運動によって発生した湖(構造湖とされます。
この湖が少しづつ北に移動して、今から約100 - 40万年前に琵琶湖になったといわれています。
琵琶湖の位地にとどまっているのは、比良山系がとめているのだとか。
http://agua.jpn.org/pre/pre3.html
箱館山より琵琶湖を望む。
それはともかく、昔の人は子供のころの私のように、琵琶湖をくりぬいて淡路島にした、と考えたのではないでしょうか。
琵琶湖と淡路島は陰陽道の陰陽の関係に相当するように思えます。
それで、淡路島のイザナギの幽宮を琵琶湖のほとりにも作ったのではないかと思えます。
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兵庫県丹波市柏原町 柏原八幡宮 織田神社 西楽寺2019年5月8日 撮影
栢原八幡宮 栗の花柏原の町には陣屋跡、太鼓やぐら、織田家廟所などもあるそうですが、今回は時間がないため行けず。
次回はゆっくりと町の隅から隅まで歩いて見学できたらいいなと思います。
①丹波柏原織田家栢原藩の藩主は代々織田家が努めてきました。
初代栢原藩主は織田信包という人です。
この人は織田信長の弟ですね。1598年、豊臣秀吉より栢原3万6000石を与えられました。
その後、2代目は信包の子の信則、3代目は信則の子の信勝と続きます。
信勝は1650年に28歳の若さで亡くなってしまいました。
信勝の母(岡部長盛娘)は信勝を織田権現として織田神社に祀りました。
織田神社信勝には三女ありましたが、男子がありませんでした。
そのため、叔父の信当が4代目栢原藩主となりました。
| | | / | 信忠 | | | | | | | | | | ②信朝 | | | | | | | | | | | | |
| | 信長 | ― | 信雄 | ー | 高長 | - | 長頼 | ― | 信武 | ― | 信休① | < | | | ④信憑 | ー | ⑤信守 | ― | ⑦信貞 | ー | ⑧信啓 | ― | ⑨信民 | ― | ⑩信親 |
織田信秀 | < | | ヽ | 信孝 | | | | | | | | | | ③信旧 | < | | | | | | | | | | | |
| | ①信包 | ー | ②信則 | ー | ③信勝 | | | | | | | | | | 信応 | ― | ⑥信古 | ― | 鶴姫 | | | | | | |
※
ピンクの文字、
ブルーの文字は藩主。数字は代。
系図がうまく書けなくてすいません~。
栢原八幡宮 信長は1582年の本能寺の変で明智光秀軍に攻められ、自害しました。
信長の子・信忠も本能寺の変で自害しました。
けれど、信長の子・信雄の血は続き、信休以降、栢原藩主となっていたのですね。
丹波柏原織田家は現在も存続しています。
19代織田家当主は織田信孝さんとおっしゃる方で、織田孝一というペンネームでフリージャーナリストをされています。
信長の七男も信孝で同名です。
ややこしくなるので、以後、19代織田家当主・織田信孝さんではなく、ペンネームの孝一さんの方を使わせていただきます。
栢原八幡宮②丹波栢原織田家と織田信成さんの家系は無関係?フィギュアスケートファンの私としては、織田信長の子孫というと織田信成さんを思い浮かべてしまいますが、
織田孝一さんは織田信成さんについて、次のように発言されているようです。
「結論から言うと、私の家と彼の家はまったく関係がないし、私は彼についてまったく知らなかった」
「(信成さんが主張する信長7男の末えいで江戸時代は旗本高家だったとのことについて)途中の何代かが不明だとも聞いたが、私にはその真偽を判断することはできない」
https://bushoojapan.com/scandal/2015/09/02/58136
木の根橋
③織田信長の長男・織田信忠の息子、秀信・秀則は岐阜城の戦いで敗北・改易。上に書いた織田家の家系図をみてください。
信長の子として信忠・信雄・信孝とあります。
信忠は信長の長男で織田家の家督をつぎましたが、すでに述べたように本能寺の変で自刃しています。
享年25歳~27歳くらいであったと考えられています。
信忠には秀信・秀則という息子がありました。
信忠が本能寺の変で没したあと、秀信は織田家の家督代行・織田信雄の後見を受けています。
織田信雄さんは丹波栢原織田家の先祖ともいえる人ですね。
秀信は1593年、豊臣秀吉から美濃国13万石と岐阜城を与えられています。
しかし、豊臣秀吉の死後の1600年、徳川家康(東軍)vs石田三成(西軍)の争いがおき、織田秀信は石田三成方につきました。
織田秀信の配下だった竹ヶ鼻城主・杉浦重勝も石田三成方につきました。
結果、竹ヶ鼻城に籠城した杉浦重勝は城に火をつけて自刃。(竹ヶ鼻城の戦い)
織田秀信は岐阜城に籠城し、弟の秀則と共に字刃しようとしましたが、東軍の池田輝政に説得されて降伏開城しました。 (岐阜城の戦い)
織田秀信は出家して、関ヶ原の戦い終結後に高野山に入りました。
弟の織田秀則は豊臣家を頼って大坂城下に移り住みますが、豊臣家が滅亡すると京都に移り住みました。
出家して宗爾と称したということです。
織田信秀には正室・和田孫太郎の娘との間に男子がなく、織田信広の外孫で・八幡山秀綱を養子としています。
しかし秀綱は1601年に死亡しており、秀信が関ヶ原の戦いの前哨戦・岐阜城の戦いで敗北・改易されたこともあって、織田宗家の家督を相続しませんでした。
西楽寺④織田信成さんは織田信高の系統で織田信長次男・織田信雄の子孫?
フィギュアスケーターの織田信成さんは織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)であると称しているようです。
織田信長には大勢の息子がありました。
長男・嫡男 | 織田信忠 | | 本能寺の変で自害。 |
次男 | 北畠信雄 | 北畠具房養子 | 丹波柏原織田家 |
三男 | 神戸信孝 | 神戸具盛養子 | |
四男 | 羽柴秀勝 | 羽柴秀吉養子 | |
五男 | 津田信房 | 遠山景任・武田信玄養子のち離縁 | |
六男 | 織田信秀 | 祖父と同名 | |
七男 | 織田信高 | | 織田信成さんの系統? |
八男 | 織田信吉 | | |
九男 | 織田信貞 | | |
十男 | 織田信吉 | | |
十一男 | 織田長次 | | |
庶長子 | 織田信正 | 庶長子は正室ではない女性から生まれた子供 | |
①信長→②信高→③高重→④一之→⑤信門→⑥信倉(能勢頼寛の子)→⑦信直(織田信義の子)→⑧長襦→⑨長裕・・・・⑭重治→⑮信義ー⑯信治(長男)・⑰信成(次男)
6代目の信倉は能勢頼寛の子で、織田信門の養子となっています。
つづく7代目の信直は織田信義の次男で、6代目織田信倉の養子となっています。
織田信直は織田信長の子孫です。
信長→信雄→高長→長政→ 長喬→信義→信直(6代目織田信倉の養子)ですから、いったん信倉が6代目となって信長の血は途切れたように見えますが、7代目が信直となったことで、信長の血はつながっているわけです。
また織田信雄は丹波栢原織田家の先祖ですから、19代丹波栢原織田家織田孝一さんと織田信成さんは同じ先祖をもっているということになりますね。
西楽寺⑤織田重治さん、ご自身の親の名前を明らかにできない。ところが、自称歴史研究家である織田信成さんの祖父・織田重治さんが、ご自身の親の名前を明らかにできないということで、信成さんちの家系図の信憑性は「わからない」というしかないです・・・・。
9代目長裕は子の信真に家督を譲っています。
するとこの信真が10代目なのかなと思えますが、信真に子があったのかどうか?
ウィキペディアを読んだ限りでは記述がなく不明です。
ですが、いうまでもないことですが、織田信成さんの価値は彼のスケートにあります。
現役のころ、いろいろやらかしたことは確かですし、おいしいところをほとんど全部高橋大輔さんにもっていかれた感はありますがw、
織田信成さんには高橋大輔さんとはまた違う魅力がありました。
柔らかいジャンプの着氷はぬこジャンプ(猫ジャンプ)といわれ、確か田村岳斗さんだったと思いますが、解説で「世界一のコンビネーションジャンプですね」とおっしゃっていました。
現役を退き、現在はプロとして活躍されていますが、
2018年ジャパンオープンでは四回転トウループー3回転トウループのコンビネーションジャンプを決めるなどノーミスの演技!
宇野昌磨さんにつぐ第2位というすばらしいパフォーマンスでした。
個人的には現在でも日本男子では3番目くらいの実力があるのではないかと思います。
(個人的に1位は羽生弓弦さん、2位は宇野昌磨さん。
現役に復帰した高橋大輔さんが四回転ジャンプの成功率をあげてくればまた変わってくると思いますが。
四人とも大好きです❤)
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兵庫県丹波市 白毫寺
2019年5月8日 撮影
去年、GW中に2度ほど百毫寺へ行こうと試みたのですが、大渋滞でした~。
距離は大したことないんですが、駐車場に入りきれない車が4~5km続いているんですね。
あまりに動かないので車外に出て犬を散歩させる人もいるほどw。
1時間ほどは粘ったのですが百毫寺にいきつくにはまだ1時間ほどかかりそうでした。
トイレが我慢できなくなって結局断念。
そういうわけで今年は平日に百毫寺に行ってまいりました!
①法道仙人は牛頭天皇?白毫寺縁起によりますと、百毫寺は705年、法道仙人によって開かれたお寺ということです。
法堂仙人の名前は、過去の旅でも何度か耳にしています。
寺 | 住所 | 創建年 | 創建者 | ブログ記事 |
千光寺 | 富山県砺波市 | 703年 | 法道 | |
観音寺 | 京都府福知山市 | 720年 | 法道 | 観音寺 紫陽花 『万葉集 紫陽花の歌 諸兄と諸弟』 |
伽耶院 | 兵庫県三木市 | 645年 | 法道・孝徳天皇 | |
教海寺 | 兵庫県三木市 | 651年 | 法道 | |
一乗寺 | 兵庫県加西市 | 650年 | 法道 | |
普光寺 | 兵庫県加西市 | 651年 | 法道 | |
奥山寺 | 兵庫県加西市 | 651年 | 法道 | |
如意寺 | 兵庫県神戸市 | 645年 | 法道 | |
石峯寺 | 兵庫県神戸市 | 651年 | 法道・孝徳天皇 | |
忉利天上寺 | 兵庫県神戸市 | 646年 | 法道・孝徳天皇 | |
近江寺 | 兵庫県神戸市 | 646年 | 法道 | |
宝珠寺 | 兵庫県神戸市 | | | |
朝光寺 | 兵庫県加東市 | 651年 | 法道 | |
禅瀧寺 | 兵庫県加東市 | 645~650年 | 法道 | |
清水寺 | 兵庫県加東市 | 景光天皇代 4世紀前半 | 法道 | 播州清水寺 青空 白雲 『法道仙人の正体とは』 |
光明寺 | 兵庫県加東市 | 594年 | 法道 | |
西方寺 | 兵庫県丹波篠山市 | 15世紀後半 | 法道 | |
白毫寺 | 兵庫県丹波市 | 705年 | 法道 | |
東窟寺 | 兵庫県篠山市 | 645~650年 | 法道 | |
西林寺 | 兵庫県西脇市 | 651年 | 法道 | |
花山院 | 兵庫県三田市 | 651年 | 法道 | |
奥山寺 | 兵庫県加西市 | 651年 | 法道 | |
常勝寺 | 兵庫県多可町 | | | |
法楽寺 | 兵庫県神河町 | 642~645年 | 開基/枚夫長者 開山/法道 | |
七宝寺 | 兵庫県神河町 | | | |
圓満寺 | 兵庫県多可町 | | | |
法道寺 | 兵庫県朝来市 | 650~654年 | 法道 | |
長谷寺 | 鳥取市倉吉市 | 721年 | 法道 | |
仙龍寺 | 愛媛県四国中央市 | 815年、空海が法道より この地を譲り受けた。
| 法道 | |
羅漢寺 | 大分県中津市 | 645年 | 法道 | |
多聞寺 | 神戸市北区 | 645~654年 | 法道 | |
廣峯神社 | 兵庫県姫路市 | 734年 | 吉備真備 ※法道は牛頭天皇とともに日本にやってきたとされ、 廣峯神社は牛頭天皇の総本社を称している。 | |
上の表見ていただくとおわかりいただけるように、法道が創建した寺の創建年は、飛鳥時代~奈良時代が多いです。
そのため、法道は6~7世紀ごろに日本へやってきたと考えられています。
しかし中には、4世紀前半の景光天皇代とか、平安時代の815年、15世紀なんてのもあります。
法道は1000歳まで生きた?
法道は法堂仙人とも呼ばれていますが、仙人とは、仙術をあやつり、不老不死を得た者のことですし。
なーんてことはないですね。
どれだけ修業をしようと人間が1000歳まで生きたとは信じがたいです。
播州清水寺 青空 白雲 『法道仙人の正体とは』 ↑ こちらの記事にも書いたのですが、法道は牛頭天皇とともに日本にやってきたと言われています。
私は「法道は牛頭天皇とともに日本にやってきた」というのは、比喩的表現で
法道とは牛頭天皇(釈迦の生誕地・祇園精舎の守護神)そのもののことではないかと考えています。
②宝鉢なのに空鉢ってどういう意味?法道仙人はインドの仙人で、鉢の宝鉢をもっていたため、空鉢仙人とも呼ばれます。
なんで宝鉢なのに、空鉢なんでしょうね?
空鉢ときくと、空っぽの鉢というイメージをもってしまいますが。
空を辞書で調べてみると次のような意味がでてきます。
a.仏教用語。すべての事物はみな因縁によってできた仮の姿で、永久不変の実体や自我などはないこと。
b.中がからになっていること。
c.大空
d. 天と地との間。空間。。
e. 何も存在しないこと。
f. 事実でないこと。よりどころのないこと
g. 無益なこと。また、そのさま。むだ。「今までの努力が空に帰した」
うーーーん?
③空飛ぶ鉢空鉢と聞くと思い出すものがあります。
朝護孫子寺の空鉢護法堂です。
朝護孫子寺本堂から山道を600mも登らないといけないんで、参拝しなかったんですが~(この根性なし!)
空鉢護法堂(くうはつごほうどう)は、毘沙門天王の眷属、八大龍王の上首・難陀竜王(なんだりゅうおう)を祀っています。
「信貴山縁起絵巻」上巻「飛倉之巻(とびくらのまき)」では、、命蓮が空鉢を飛ばし、鉢が山崎長者の蔵を乗せて命蓮のもとに飛びかえったという話があります。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/Sigisanengi_tobikura.jpg よりお借りしました。
作者 English: unknown 日本語: 作者不詳 (不明) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
この空鉢は空鉢護法堂で祀られている竜王の力をもっているとされます。
「鉢が開く」「鉢巻き」「鉢合わせ」など頭のことを鉢ということがあります。
鉢とはドクロを比喩的にいったものではないかと思います。
また玄ボウ・曽我入鹿・平将門らの首が飛んだという伝説があります。
多武峯縁起絵巻 複製 中大兄皇子に首を斬られる蘇我入鹿(談山神社)空鉢をもっていた法道とはドクロなんじゃないでしょうか?
空鉢護法堂では神として白蛇を飼っているそうです。
空鉢護法堂では難陀竜王を祀っているということでしたね。
でも龍は架空の聖獣なので、なんとなくイメージが似ている蛇を龍に見立てているのではないでしょうか。
http://www.senjyuin.or.jp/?page_id=135上のサイトに「空鉢ご分霊」の写真があります。
これは、宇賀神にそっくりです。
喜光寺 宇賀神
昔の人は蛇を、ドクロに長い首がついた動物だと考えていたのではないでしょうか。
すると、「空鉢護法堂で祀られている難陀竜王=蛇=宇賀神=ドクロに長い首がついている」となり、難陀竜王の力を持つ鉢はドクロを裏付けると思うんですが、どうでしょう?
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