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樽見の大桜 『石ばしる 垂水の上の さわらびの』 

兵庫県養父市 樽見の大桜
2019年4月14日 撮影


樽見の大桜 
樽見の大桜 樹齢500年とも1000年とも伝わります。

①樽見は垂水?

樽見と言う地名はもしかして垂水が転じたものではないでしょうか。
日本では万葉仮名の影響なのか、漢字の意味より音を重要視する傾向があったように思えますし。
例えば奈良の東大寺に転害門’(てがいもん)がありますが、その転害門の門前の町の名前は手貝町(てがいちょう)といいます。
手貝町という町名は転害門からとったものではないかと思いますが、どうでしょうか。

垂水とは「垂れ落ちる水」という意味です。
垂水という地名は各地にあります。
神戸市の垂水区という地名は、かつて複数の滝(垂水)があったことに由来するといわれます。

樽見の大桜の北北東500mほどのところに、竜涎の滝があります。
ここから垂水という地名がつき、樽見に転じたのではないかと思ったりします。

樽見の大桜付近 
駐車場から400Ⅿほど山道を上っていくと開けた土地があり、大桜の周囲にたくさんの桜が植えられています。まるで桜の園。

②3つに分かれて芽吹くワラビ

垂水というと思い出される有名な万葉歌があります。

石(いは)ばしる 垂水の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも/志貴皇子
(岩の上を流れる水の上で蕨が萌えでる春になったことであるなあ。)


ワラビの新芽は3つに分かれて出てきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%83%93#/media/File:Pteridium_aquilinum_2005_spring_001.jpg

↑ この写真を見て、「石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも」という歌の意味がわかったような気がしました。
それをいまからご説明します。

樽見の大桜付近2

志貴皇子暗殺説

672年、壬申の乱がおこります。
天智天皇皇子の大友皇子vs天智天皇の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)で皇位継承をめぐって争った戦いです。
志貴皇子は天智天皇の皇子であり、壬申の乱の際には天智天皇の皇子(志貴皇子の異母兄)の大友皇子側についていました。
結果は大海人皇子が勝利し、志貴皇子は政治的に不遇な身の上であったのです。

笠金村が次のような志貴皇子の挽歌を詠んでいます。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとありますが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっており1年のずれがあります。

笠金村の挽歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思えます。

志貴皇子の子である白壁王は、女帝の称徳天皇が急死したのち、即位して光仁天皇となっています。
これは志貴皇子には正統な皇位継承権があったということではないか。
そして志貴皇子は715年に暗殺されて、その死が1年近く隠されていたのではないか、とする説があります。

715年は元正天皇が即位した年です。
元正天皇を即位させるために、志貴皇子は暗殺されたのではないでしょうか。
しかし、元正天皇にとって志貴皇子の死はあまりにタイミングがよすぎると、人々はいぶかしむかもしれない。
そういうわけで、志貴皇子の死は1年近く隠されていたのではないかと思います。

詳しくはこちらの記事を参照してください→翁の謎⑩ 百毫寺 萩 『志貴皇子暗殺説』 

樽見の大桜付近3 
手前の黄色い花はミツマタ

志貴皇子=春日王?

志貴皇子と春日王、平城津比古大神を祀る神社が奈良市奈良坂にあります。
奈良豆比古神社といい、毎年10月に翁舞が奉納されることで有名です。

古には神と怨霊は同義語であったといわれます。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていました。
③で推測したように、志貴皇子には正当な皇位継承権があったのに暗殺されたとする説があります。
志貴皇子は怨霊であり、そのため神として奈良豆比古神社に祀られているのではないでしょうか。

奈良豆比古神社には次のような伝説が伝えられています。

a.志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していました。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は心をこめて春日王の看病をしていました。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈りました。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かいました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊されました。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれません。


『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは①とは別の語りを伝承しておられるとのことです。

b.志貴皇子は限りなく天皇に近い方でした。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそいました。
赤い衣装は天皇の印です。
志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈りました。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていました。
志貴皇子がつけていたのは翁の面でした。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていました。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞いました。
これが翁舞のはじめです。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られました。


ハンセン病を患ったのは①の伝説では志貴皇子の子の春日王となっていますが、②の伝説では志貴皇子となっています。

春日王は田原太子とも呼ばれており、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇と呼ばれていました。
春日王と志貴皇子は同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇族でこのようなケースは他に例がないと思います。
春日王と志貴皇子は同一人物なのではないでしょうか。

④三人翁は御霊・和魂・荒魂をあらわす?

奈良豆比古神社で毎年10月に奉納されている翁舞は、能・翁のルーツだと考えられますが、
能の翁では白式尉は一人なのに対し、翁舞は三人翁といって3人の翁が登場します。

八坂神社 翁 白式尉

八坂神社 翁 白式尉

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉(三人翁)


bの伝説では、三人翁は志貴皇子・右大臣・左大臣ということになっていますが、本当は志貴皇子・春日王・奈良豆比古神なのではないかと思います。

神はその表れ方で御霊・荒魂・和魂の三つに分けられるといわれます。
志貴皇子・春日王・奈良豆比古神はこれを表すものではないかと思うのです。
御霊神の本質志貴皇子
荒魂神の荒々しい側面春日王
和魂神の和やかな側面平城津比古大神

春日王はハンセン病になったといいますが、実際にハンセン病になったというわけではなく、春日王はハンセン病をもたらす神だという意味だと思います。
貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されるように、ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿で表されるのではないかと思います。
ハンセン病をもたらす神は疫神であり、怨霊です。怨霊は荒魂と言っていいでしょう。

平城津比古大神は神社名の奈良豆比古に同音で別の漢字をあてたものだと思います。
奈良豆比古の名前のとおり豆のように小さな神なのだと思います。
小さな神といえば少彦名神などがありますが、少彦名神は医薬の神として信仰されています。
医薬の神はよい神、ご利益をもたらす神であり、和魂だと思います。
また小さな神は和魂という信仰があったのではないでしょうか。

すると残る志貴皇子は神の本質・御霊ということになります。

そして、和魂・荒魂は同じ御霊の現れ方の違いによる分類なので、
御霊は志貴皇子、春日王は志貴皇子の荒魂、奈良豆比古神は志貴皇子の和魂ということになると思います。

石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも

この歌に詠まれたワラビの3つの芽は、志貴皇子・春日王・奈良豆比古神の比喩ではないでしょうか。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2 

奈良豆比古神社 翁舞

⑤『とうとうたらりたらりろ』は春日若宮=志貴皇子のテーマソングだった?

翁は『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱えます。
(能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっています。)

12月に奈良の春日神社では春日若宮おん祭が行われています。。
12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されます。
雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)というが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記されます。

『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』『とうとうたらりたらりろ』はあまりに似ています。

翁=志貴皇子と春日若宮は同一神であり『とうとうたらりたらりろ』とは志貴皇子=春日若宮のテーマソングなのではないでしょうか。

翁舞や能・翁で翁=志貴皇子は自らのテーマソングを口ずさんでいるのではないか、ということです。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

⑥藤原氏の祖神・アメノコヤネは天智天皇だった?

春日若宮が志貴皇子と同一人物だと考えられる理由はほかにもあります。

春日大社の主祭神はアメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの四柱の神々で、このうち、アメノコヤネは藤原氏の祖神とされています。

私はアメノコヤネ(天児屋根命)とは天智天皇のことではないかと考えています。
というのは天智天皇の作として、は次のような歌が伝えられているからです。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されています。。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられています。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。

なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられたのでしょうか。

一般には、農民の気持ちを思いやる優しさが、天智天皇にふさわしいと考えられたためだといわれています。
でも、私はそうではないと思います。

③で述べたように、672年、壬申の乱がおこりました。
壬申の乱は天智天皇が崩御したあとすぐに興ったので、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられています。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年です。

古事記には「大国主神が八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠れた」という記述があります。
これは柴を沢山立てた中に死体が葬られていたということですが、大国主神はニニギに国譲りをして死んでいて、ニニギにとっては敵です。
そのため、高貴な身分の人であれば立派な陵をつくるところ、そうはせずに、庶民と同じように風葬にしたということではないかと思います。
天智天皇の歌にある、苫の荒い仮庵戸は大国主神が葬られたような八十青柴垣を意味しているのではないでしょうか。
また、近年まで沖縄地方などで風葬が行われていたが、小さい小屋の中に死体を収めて風葬にするという地方がありました。

「秋の田の~」の歌は、死んだ天智天皇の霊が、きちんと埋葬されないわが身を嘆いた歌だと解釈され、天智天皇が詠むにふさわしい歌とされたのではないでしょうか。

そして『児』には『小さい』という意味があり、天児屋命とは『小さい屋根の下におわす神』という意味になります。
仮庵のとまの粗い小屋の屋根はそれは小さいことでしょう。

するとアメノコヤネは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになりますが、
藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』には記されています。
とすれば天智天皇が藤原氏の祖神だというのは辻褄があいます。

春日大社 舞楽始  
春日大社

⑦春日若宮=志貴皇子は水徳の神だった。


アメノコヤネノミコトの御子神・春日若宮様は、神名を天押雲根命といい、長保五年(1003年)旧暦三月三日、第四殿に神秘な御姿で御出現になったとされます。

その後しばらく、第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と信仰されていたそうです。

長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢饉がおき、疫病が流行ったため、1135年に時の関白藤原忠通が若宮様の神殿を造営し、1136年より春日若宮おん祭が行われるようになったとのことです。

ここでもう一度、志貴皇子の歌を鑑賞してみましょう。

石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも

この歌に詠まれたワラビの3つの芽は、志貴皇子・春日王・奈良豆比古神の比喩ではないかということはすでに述べました。

この3つの芽をもつワラビ(志貴皇子・春日王・平城津比古大神)が垂水(滝)の上で萌えているのです。
志貴皇子=春日若宮はこの歌を詠んだため、水徳の神として信仰されたのではないでしょうか。

樽見の大桜付近4

樽見の大桜付近の集落


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[2019/04/20 23:59] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

山口護国神社 桜 『生野の変について、調べてみた』 

兵庫県朝来市 山口護国神社
2019年4月14日 撮影


山口護国神社 
山口護国神社

①天誅組の変


幕末、尊王攘夷派と公武合体派という異なる政治思想を持つ人々がおり、両者は対立していました。
尊王攘夷とは天皇を尊び、外敵を排斥するべきとする思想、
公武合体は朝廷( 公)と幕府及び諸藩(武)を合体させて幕藩体制を編強するべきという思想です。

文久3年(1863年)8月、尊王攘夷派によって天誅組と言う組織が作られました。
天誅とはもともとは、「神が悪い人間を討伐する」「天罰」などを意味する言葉でしたが、ここから転じて「日本のためにならない人を殺すこと」も「天誅」と言うようになりました。

その天誅組のメンバー・吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石らは、前侍従(天皇の側近)・中山忠光をリーダーに担ぎ上げて大和国へ入りました。

1863年8月17日、天誅組は幕府天領の大和国五條代官所を襲撃しました。
そして代官・鈴木正信〈源内)の首をはね、代官所に火を放ったのです。
天誅組は桜井寺に本陣を置き、五條を天朝直轄地にすると宣言、また自らを「御政府」「総裁所」と称しました。(五条御政府)

公卿・三条実美は尊王攘夷派ではありましたが、天誅組の行動は過激すぎると考えたのでしょう、天誅組の行動を制止するため、学習院に勤めていた平野国臣(もと福岡藩士だったが脱藩した。)を五条へ送りました。

五條新町 夕景

五條(五条)新町

②八月十八日の政変

翌8月18日、公武合体派の会津藩と薩摩藩は孝明天皇に働きかけ、大和行幸延期と長州藩の御門警護の解任を行いました。
(前年の1862年、尊王攘夷派(長州藩・激派浪士ら)は公家と手を結んで攘夷実行を幕府に迫っていました。
そして、攘夷祈願のため、1863年8月の孝明天皇の大和行幸を計画していました。
孝明天皇は大和行幸には乗り気ではなかったようです。
孝明天皇は攘夷は望んでいましたが、過激な討幕運動には反対で、妹・和宮を幕府の将軍・家茂に嫁がせるなど公武合体派よりであったようです。)

尊王攘夷派の長州藩は京都を退き、三条実美ら攘夷派公卿7人も京都を追放されました(七卿落ち)。

翌8月19日、三条実美に天誅組の制止を命じられた平野国臣は天誅組のいる五條に到着しましたが、八月十八日の政変を知り、京へ引き戻します。
しかし、すでに京の尊王攘夷派は壊滅状態となっていました。

京都御所 しだれ桜

京都御苑

③平野国臣、生野天領での挙兵を計画。


平野国臣は天誅組と呼応しようと、故郷・福岡藩の筑前勤王党の月形洗蔵・鷹取義巴を訪ねて活動参加を要請しました。
しかし、断られてしまいます。

その後、但馬国の志士・北垣晋太郎と組んで、生野天領での挙兵を計画しました。
北垣晋太郎は農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱えていた人物です。

④天誅組壊滅

十津川郷士が天誅組に参加しました。、天誅組の兵力は1000人余となっていました。

十津川郷士とは南大和・十津川郷の郷士在住していた郷士(江戸時代の武士階級の下層に属する人々)のことをいいます。

十津川郷士は古より朝廷に仕え、壬申の乱、平治の乱にも出兵して税減免措置を受けています。
南北朝時代には南朝に仕えていました。
このようなことから、十津川郷士は勤皇の伝統をもっていたようですが、倒幕の意志は薄かったと考えられているとのことです。

十津川郷士が天誅組に参加したことで、天誅組の兵力は1000人余となっていました。
ですが、武器などの装備が十分ではなかったようで、高取城攻略で失敗。
周辺諸藩からの討伐を受けて9月27日に壊滅しました。

9月28日、生野天領での挙兵を計画していた平野国臣と北垣晋太郎は周防国三田尻へ行き、長州藩に庇護されていた七卿落ちの一人、公卿・澤宣嘉(さわ のぶよし)を主将に迎えます。
彼らは長州藩としての挙兵の参加も求めましたが、これは同意をもらえませんでした。

10月2日、平野国臣と北垣晋太郎は澤宣嘉とともに三田尻を出立。
播磨に向かう為の船を用意します。
これに、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士らが加わった37人が出港しました。

10月8日、一行は播磨国に上陸し、生野へ向かいます。
10月11日、一行は生野の手前の延応寺に本陣を置きました。

天誅組壊滅を知った平野国臣・北垣晋太郎らは、「挙兵を自重し再度の時期到来を待つべき」と主張。
しかし、河上弥市らは「計画通り挙兵するべき」と主張。これが通って挙兵が決行されることになりました。

生野銀山 露天掘跡 

生野銀山 露天掘跡

⑤生野の変

10月12日、生野代官所は無抵出平野国臣らに降服しました。

平野國臣らは農民に募兵を呼びかけたところ、2,000人が集まりました。
これは北垣晋太郎が唱える「農兵論」の影響もあったでしょう。
またこのころ幕府天領・生野銀山などの産出量が減って、住民が生活に困窮していたということもあるでしょう。

10月13日、幕府は周辺諸藩に兵を出動させました。
これに対して「解散するべき」との声があがり、13日夜には主将の澤宣嘉が和歌を机の上に残して逃げ出してしまいました。
頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつは今朝の 夢にて ありぬる

「頼りにもしていた 恨みもしていた 日暮れ時の 現実は 今朝の 夢であったよ」みたいな意味かな?(自信なし・・・汗)

澤宣嘉は四国伊予小松藩周辺に潜伏したのち、長州へのがれました。

河上弥市ら13人の浪士は「騙された」と怒った農民らに襲い掛かられ、妙見山麓山口村(山口護国神社)で自刃して果てました。
河上弥市は享年21歳。

河上弥市の辞世の句。
議論より実を行へ、なまけ武士、 国の大事を 余所に見る馬鹿

「議論するより実行せよ、なまけ武士どもめ、国の大事を、他人事のように見ているバカ」みたいな意味かな?(自信なし・・・汗)

山口護国神社 忠魂碑 
山口護国神社(河上弥市ら幕末志士と明治維新から昭和にいたるまでの地元戦没者を祀っています。)


美玉三平と中島太郎兵衛は農民たちに射殺されました。

平野国臣は兵を解散させて鳥取へ向かいましたが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られました。
1864年の禁門の変によっておこった火災が六角獄舎にもおよび、囚人脱走を恐れた役人らは囚人を処刑しました。
このとき、平野国臣も処刑されました。享年37歳。

羽淵鋳鉄橋

山口護国神社は羽淵鋳鉄橋の道路向かいにあります。

車窓より 
これは車窓から撮影した風景。



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[2019/04/19 14:22] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

羽淵鋳鉄橋 桜 生野銀山 地下アイドル 『亀と鉱山』 


兵庫県朝来市 羽淵鋳鉄橋 生野銀山
2019年4月14日撮影(羽淵鋳鉄橋)

羽淵鋳鉄橋 

①馬車道と羽淵鋳鉄橋

「羽渕のめがね橋」の愛称のある鋳鉄製二連の美しい洋式の橋である。明治20年に神子畑鋳鉄橋と同時に架橋されたものであり、神子畑鉱山・選鉱所から生野精錬所へ鉱石を運搬用の五つの鋳鉄橋のうちのひとつである。

https://www.city.asago.hyogo.jp/0000000401.html より引用

IMG_2266.jpg

神子橋選鉱所


https://www.city.asago.hyogo.jp/0000000401.html
上の羽淵鋳鉄橋の説明のタイトルに「馬車道」とありますので、羽淵鋳鉄橋の上を鉱物を運ぶ馬車が通っていたのでしょう。

銀の馬車道 
銀の馬車道(道の駅 銀の馬車道・神河ふきん)※上2枚は秋に撮影したものです。

生野には古より生野銀山がありましたが、おそらくその近くに生野精錬所があった(ある)のではないかと思います。
生野精錬所って今もあるんでしょうか?

前回ご紹介した竹田城の城主が生野銀山を管轄していたようです。
竹田城は織田信長が派遣した羽柴秀長〈豊臣秀吉の弟)によって攻撃され、竹田城主・太田垣朝延が敗戦していますが、
竹田城を責めた目的は生野銀山を手に入れるためであったとも考えられています。

竹田城 桜2 
竹田城

②地下アイドル♪

現在の生野銀山にはたくさんの人形が置かれていて「地下アイドル」として評判になっていますねw。



かなり以前に生野銀山に行ったことがあります。
そのとき地下アイドルたちはすでにいました。↓ 

生野銀山 唐箕で風を送る手子 
生野銀山 手彫り 

生野銀山 負子 

生野銀山 竪穴 

③銀石を乗せた亀の伝説

生野銀山には、「大亀が背中に銀石を乗せて這い出した所を掘り進むと、良質の鉱石が見つかった」と言う伝説があるそうです。

亀は鉱山と関係があるような気がします。

④ムカデと鉱山と毘沙門亀甲

坑道のことをムカデ穴といいます。
それは坑道が枝分かれして伸びる様子がたくさんの足を持つムカデにたとえられたためだと思います。

で、奈良の朝護孫子寺では額などにムカデのレリーフが刻まれています。↓

朝護孫子寺 額

朝護孫子寺 ムカデのレリーフ

朝護孫子寺のある信貴山はかつて鉱山だったんでしょうか?

その朝護孫子寺の門は毘沙門亀甲といいます。↓

File:Bisyamonkikkou3.svg

毘沙門亀甲紋 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bisyamonkikkou3.svg?uselang=ja よりお借りしました。
作者はLife of Rileyさんです。(ありがとうございます)

どうでしょう、亀と鉱山には関係ありそうに思いませんか?

⑤毘沙門天=玄武(亀+蛇)=北方守護の神=鉱山の神?


また朝護孫子寺は毘沙門天をご本尊としていますが、毘沙門天は四天王のメンバーとしては多聞天といい、北方守護の神とされます。
(東=持国天、南=増長天、西=広目天)

四天王は仏教の神ですが、中国では北は玄武、東は青龍、南は朱雀、西は白虎という創造上の四聖獣がそれぞれの方角を守護すると考えられていました。

玄武は丘陵に、青龍は清流に、朱雀は湖沼に、白虎は大道に棲むとされ、
北に給料、西に清流、南に湖沼、西に大道のある土地は四神相応の地であるとして都が作られたりしました。
平安京などが四神相応の地とされます。
江戸も四神相応の地だといわれることもありますが、北ー玄武に相当する富士山が西に大きくずれており、私は江戸は四神相応の地に作られた都市ではないと思います。

詳しくはこちらの記事をお読みください。→ カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑰ 『江戸の町は北極星になぞらえて造られた?』 

さて、北方守護の聖獣・玄武についてですが、亀に蛇が巻き付いた姿をしています。

新熊野神社 玄武 

新熊野神社 玄武

そして北方守護の神・毘沙門天はもともとはとはもとはクベーラという地下の財宝を守護する神、鉱山の神です。

毘沙門天=北方守護の神=地下の財宝を守護する神。鉱山の神。
玄武(亀&蛇)=北方守護の神
∴玄武(亀&蛇)=北方守護の神=鉱山の神

上の写真の玄武にも亀甲柄が描かれています。
この亀甲柄は鉱物をあらわすものではないかと思います。
鉱物はだいたい角張った形をしているので。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%B1%E7%89%A9#/media/File:%E9%89%B1%E7%89%A9.jpg


このようなところから、大亀が背中に銀石を乗せて這い出した所を掘り進むと、良質の鉱石が見つかったという伝説が創作されたのではないでしょうか。



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[2019/04/17 20:49] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

竹田城 桜 『動かない石』 

兵庫県朝来市 竹田城
2019年4月14日 撮影

 
竹田城 桜

①160年で廃城に。

1441年、山名宗全が約13年の歳月を費やして標高約300mの山上に竹田城を築いたと伝えられます。
別名を「虎臥城」といいます。
「虎臥城」という名前は、虎が臥しているように見えるから、ということです。
現在は天守閣などの建物は失われ、石垣が残っているのみなのです。
ですが、復元図(http://camel.jugem.cc/?eid=5813)を見ると、なるほど、虎が臥しているように見えなくもないです。

竹田城 霧4 
山名宗全は初代城主に家臣の太田垣光景を任命しました。
以降、5代目まで太田垣氏が城主をつとめました。(景近・宗朝・宗寿・朝延)
しかし、五代目・朝延の時、1577年に豊臣秀吉の2度の但馬征伐で太田氏は滅びてしまいます。

秀吉は6代目城主として豊臣秀吉の弟・秀長の家臣の桑山重明を任命しました。
桑山重晴が和歌山城に転封となったあと、秀吉に服した龍野城主・斎村政広が竹田城の城主となりました。

竹田城 霧3 

1600年の関ケ原の戦いでは、斎村(赤松)政広は西軍に属していました。
しかし西軍は負けました。
斎村政広は東軍の亀井茲矩(かめい これのり)に誘われて鳥取城攻め参加しました。
鳥取城は落城しましたが、東軍盟主・徳川家康に城下の大火の責任を問われ、切腹を命じられ果てました。
家康は山名豊国を竹田城主としましたが、廃城となりました。 

 竹田城 霧2

寺を建てて水源を隠した。

竹田城の西、大路山のの滝谷に、水が湧き出る場所があり、ここから約2㎞に及ぶ銅管を引いて標高300mの山の上の城へ水を送っていたようです。

水は命をつなぐために必要なもの。
敵に発見され水を止められたりしたら、落城まちがいなしです。
そこで千願寺という寺をたてて水源を隠したそうです。
千願寺はのちに「香華院千眼寺」と呼ばれるようになりました。

 竹田城 北千畳曲輪

③千石岩は容量が千石の岩?

竹田城の北側の門を造るために、円山川から巨大な石をひきあげようとしましたが、山の中腹まではなんとか運んだものの、それ以上は動かなくなり、そのまま討ち捨てたといわれます。

この石は「千石岩」と呼ばれていますが、名前の由来は「川原から運ぶのに千石のお米を食べた」からだそうです。

石(こく)は尺貫法における体積の単位です。

米の1石は10斗、100升、1,000合に相当します。
容積単位としての1石は、10立方尺(約278リットル)に相当します。

竹田城 北千畳曲輪2 

滋賀県の琵琶湖のほとりにも千石岩と呼ばれる岩があり、ボルダリングを目的に訪れる人がいるようです。。

千石船と呼ばれる船もあります。
千石船とは積石数・千石を乗せることが出来る船、という意味だと思います。

「川原から運ぶのに千石のお米を食べた」というのは後付けで、もともとは大きな岩でその体積が千石ほどもある、という意味で千石岩と呼ばれたのではないでしょうか。

また「千石の米を食べた」というのは比喩的表現で、築城に従事した人々が千石に相当する財産を失ったという意味なのかもしれませんね。

 竹田城 天守台

④破石伝説

なかなか動かない石の伝説として、『続日本紀』770年2月の条にも、次のような記述があります。

東大寺の東北にある飯盛山から西大寺の塔をつくるための礎石を切り出し、西大寺まで運ぶため、数千人の人夫で引いたが1日に数歩しか動きませんでした。
そこで人夫を増やし、9日かけてようやく西大寺まで運びました。
ところが、その石を東塔の心礎として据えようとしたとき、かんなぎたちが石に祟りがあると言い出しました。
そこで、芝を積んで焼き、酒をそそいで石を割り、道に捨てました。
ところが一ヶ月後、天皇が病になりました。占うと、石の祟りであると出ました。
そこで捨てた石を拾い、浄地に置きました。

 竹田城 霧

奈良市高畑町に破石町というバス停があります。
現在は高畑町といいますが、江戸時代ごろには破石町という地名であったそうです。
地名の由来となった破石は頭塔の東、吉備塚の北で、『えびす屋』さんの裏庭にあります。
この破石が西大寺の八角塔の礎石にする予定だった石であるといわれます。

 動かない石は祟りのある石だという信仰があったようです。
すると竹田城の千石岩も祟りのある石であると考えられたのかも?

竹田城 ライトアップ




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[2019/04/16 15:44] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

大覚寺身振り狂言 追儺湯立 『湯立は禊?』 

兵庫県尼崎市 大覚寺
大覚寺身振り狂言…2月3日


追儺湯立が始まりますよ~。

大覚寺狂言 追儺湯立


神職さんが湯に枝をつけて振り回します。
ありゃ、鬼がいますよ。

大覚寺 追儺湯立 鬼

お多福さんが現れました!

大覚寺狂言 追儺湯立 お多福 
あれっ?鬼がいませんよ?鬼さんやーい、どこ行った~?

①湯立の由来

湯立は古代の裁判・盟神探湯(くかたち)が由来だと言われます。
盟神探湯とは煮えたぎる湯の中に手を入れ、火傷をしなければ無罪、火傷をしたら有罪と判じるものです。

熱湯に手を入れて火傷をしない人がいるのか、と思いますが
以前テレビで修験者が熱湯の中に入っているのを見たことがあります。
肌は少し赤くなっていましたが、火傷というほどではありませんでした。
修験者は火渡りなどもしますが、大して火傷をおったりはしないようです。

宝山寺 柴燈護摩供 

宝山寺 火渡りをする修験者


日本書紀にこんな話があります。

278(応神天皇9)年、兄の失脚を目論んだ甘美内宿禰(うましうちのすくね)が『武内宿禰は天下をねらう野心があり、筑紫を割いて取り三韓を自分に従わせたら天下を取る事が出来る、と言っている。』と、応神天皇に讒言しました。
天皇は二人に盟神探湯をさせて、真偽を測ることにしました。
結果、武内宿禰が勝ち、太刀をとって甘美内宿禰を倒し殺そうとしました。
しかし天皇が間に入って止め、甘美内宿禰は許されました。


盟神探湯をして火傷をしなかった竹内宿祢は修験道をやっていたのかも?

②湯立は禊?

現在では湯立は裁判という意味合いは失われています。
湯立で吉凶を占ったりすることもあるようですが、禊の意味合が強いように思います。
キリスト教の洗礼式には浸礼(全身を水に浸す)・灌水礼(頭部に水を注ぐ)・滴礼(手を濡らし、頭に押し付けて水に沈める所作を真似る)があるそうですが、湯立の湯をあびるのは灌水礼。滴礼に似ているようにも思えます。

湯立の湯を浴びると無病息災になる、などといわれますが、それは湯を浴びること=禊であり、厄落としになると考えられたためではないでしょうか。

湯立の後、鬼はなぜ消えてしまったのでしょうか?

鬼は厄を視覚化したものであり、湯立の湯を浴びた(禊)結果、消えてしまったのではないでしょうか?


③節分は二十四節気の大晦日

節分の行事を考えるためには、まず節分とは何かを考えなければなりません。

江戸時代までの日本では太陽太陰暦(旧暦)と二十四節気の二つの暦を併用していました。

大晦日・・・太陽太陰暦(旧暦)の12月晦日(12月最後の日、1年の最後の日)
節分・・・・二十四節気の立春の前日(立春より新年になると考えられており、節分は二十四節気の大晦日だといえる。)

つまり、江戸時代までの日本にはお正月が2回あったのです。
太陽太陰暦は太陽暦(新暦)より1か月ほど遅くなりますので、節分と大晦日はほぼ同時期でした。

④鬼は目には年の移り変わりを視覚化したもの

鬼は厄をあらわすものであると同時に、目には見えない年の移り変わりを著すものだと思います。

鬼は頭に牛の角を生やしていますね。
牛=丑
12か月を干支でいうと丑は12月です。

干支  

新年に湯立を行う神社もいくつかありますが、それは12月=丑=牛=鬼に湯をかけて禊をさせることで新年がやってくると考えられたためではないでしょうか。

⑤お多福は立春をあらわす?

鬼に変わって現れたお多福さんは立春(二十四節気の正月)を表すものだと思います。
というのは、節分祭におかめが登場する例がたくさんあるからです。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼

千本釈迦堂 おかめ節分

北野追儺狂言 福の神

北野天満宮 北野追儺節分


市軸稲荷神社 お多福ゲート 

市軸稲荷神社 節分祭

近所のスーパーの店頭に並んでいる節分の豆菓子も鬼の面とお多福の面がセットになっています。

これは鬼=大晦日、お多福=新春だからだと思います。

大覚寺身振り狂言の追儺湯立は目には見えない年の移り変わりを視覚化したものだといえるのではないでしょうか。




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[2019/02/04 12:00] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

多田銀銅山 紅葉 『金太郎は河童だった?』 

多田銀銅山 レンガ遺構 
多田銀銅山 復元レンガ遺構

多田銀銅山 説明板 レンガ遺構復元予想模式図 

多田銀銅山 説明板 採鉱 


多田銀銅山 説明板 選鉱場での作業

多田銀銅山 説明板 精錬 


兵庫県川西市 多田銀銅山
2018年11月24日 撮影


①オオサンショウウオ侍

多田銀銅山は天平時代に開かれたと言い伝えられる鉱山で、大仏鋳造に多田の銅が用いられたともいいます。
先日、明延鉱山の話をしましたが、明延鉱山で採掘された銅も大仏鋳造に用いられたと伝えられています。
先祖は平家の落ち武者という話が各地にあるように、銅が大仏に用いられた云々もあとづけの話じゃないかと思ってしまいます。
一方で、平安時代、源満仲が開発したとも伝わり、どうもこっちのほうが正しいような気がしますね。

多田銀銅山の入り口にあたる「悠久の館」には古いたたら(炉に風を送る道具。パッキンとして狸の毛皮が使われていた!)や産出した鉱物などが展示されていて、係の方が丁寧に説明してくださいました。(ありがとうございました!)

堺鉄砲館 炉とふいご 
堺鉄砲館 たたら(炉の向かって左 木製の箱のようなものがたたら)※悠久の館は写真撮影禁止でした。

その「悠久の館」のパンフレットにオオサンショウウオ侍と言うキャラクターが載せられています。
https://ameblo.jp/dolphinfarm/entry-12078851273.html
↑ こちらの方のブログに写真が掲載されています。

このオオサンショウウオ侍を見て、「おお!」と思いました。
オオサンショウウオ侍がかわいいというのもありますが、岡山県湯原温泉のオオサンショウウオ伝説を思い出したのです。

多田銀銅山付近3 

悠久の館を出て、多田銀銅山 青木間歩へ向かいます。

②はんざき大明神は砂鉄とけら(鉄の塊)の神だった?

オオサンショウウオは別名をはんざきともいい、湯原温泉にははんざき大明神を祀る祠があります。
そしてこんな伝説があるのです。

a.文禄時代(1593~1596)旭川上流の龍頭ヶ淵に全長10mもある大はんざきが住んでいました。
近くを通りかかった人や牛を飲み込んでしまうので、三井彦四郎という若者が大はんざきを退治しようと淵に飛び込みました。
大はんざきは彦四郎を飲み込んでしまいましたが、彦四郎は大はんざきの腹を切り開いて出てきたので無事でした。
しばらくして、夜、彦四郎の家の戸をたたき、号泣する声が聞こえるようになり、まもなく彦四郎一家は全員亡くなってしまいました。
村人たちはこれを大はんざきの祟りであるとして、はんざき大明神の祠をたてて慰霊しました。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

旭川流域では古くよりたたら製鉄に用いる砂鉄が採取されていました。
 はんざきには黒い斑点がありますが、この黒い斑点は砂鉄に似ていないでしょうか。

たたら製鉄では粘土製の炉を木炭で熱した中に砂鉄をいれて溶かします。
龍頭ヶ淵とは、このたたら製鉄の炉のことでは?



上のたたら吹きの動画の11:56あたりから見てください。
たたら吹きの最終段階では「けらだし」といって、炉を崩す作業があります。
炉を崩した中から「けら(鉄の塊)」がでてきます。

はんざきの腹を割るとは炉を割る「けらだし」のことで、中から出て来た「けら」が彦四郎ではないでしょうか。
動画の12:57あたりに「けら」の映像がありますが、長細い形ははんざきの形に似ていますし、
表面がぶつぶつとした感じははんざきの斑点をイメージさせます。

彦四郎・・・砂鉄
彦四郎が飛び込んだ龍頭ヶ淵・・・たたら吹きの炉
はんざきの腹を割る・・・・・・・けらだし(炉を崩す)
はんざきから出て来た彦四郎・・・砂鉄がたたら吹きでけら(鉄の塊)になったもの
彦四郎一家が死んだ・・・・・・・たたら吹きにかかせない鉄穴流しによる川の汚染で、本物のはんざきが死んでしまった


湯原温泉 川霧 百日紅 『はんざき大明神は砂鉄とけら(鉄の塊)の神だった?』 

とまあ、そんな風に考えていたので、多田銀銅山二も何かオオサンショウウオに関する伝説があって、それでオオサンショウウオ侍というキャラクターが作られたのかも、と思ったりしました。(未確認)

青木間歩 入口 
青木間歩

青木間歩 内部 
青木間歩内部

③金太郎は鉱物の神だった?

話は変わって①のところで、多田銀山は平安時代、源満仲が開発したという話をしました。
満仲の子の源頼光は大江山の鬼退治をしたことで有名ですが、頼光には四人の優秀な家来(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)がおり頼光四天王と呼ばれていました。

しかし、このうち坂田金時は実在した人物ではなく、下毛野公時を脚色して創作した人物のようです。
平安末期に成立した『今昔物語集』では源頼光の郎党は『坂田金時』ではなく『坂田公時』となっています。

多田銀銅山 水抜き通風穴跡 
水抜通風穴跡

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_199.html
上のブログでは、近江国坂田郡に金太郎伝説があり、ここから下毛野公時は坂田金時となったのではないかと説かれています。

b.金太郎は、息長氏の一族として、955年に近江国坂田郡布勢郷(現在の長浜市布施)に生まれた。
その後、小一条の「うばがふところ(番所/ばんふところ)」で乳母によって育てられた。
金太郎は、舟崎の鯉ヶ池で鯉にのったり、常喜の熊岡や足柄山で熊と相撲を取ったりして遊んだ。
本庄の足柄神社の奉納相撲にも出場した。
また名超寺、富施寺などで、学問にも励んだ。
青年となった金太郎は、地元の鍛冶屋で働いた。当時この地は、製鉄業が盛んだったのである。
金太郎20歳のころ、足柄山にやってきた源頼光と出会い、金太郎は頼光の家来となった。
994年、金太郎は伊吹山の山賊を退治し、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに頼光の四天王と称された。


多田銀銅山 青木間歩から瓢箪間歩へいたる道 
青木間歩から瓢箪間歩・台所間歩に向かう道

毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族です。
その後、毛野国が上毛野国(現在の群馬県)と下毛野国(現在の栃木県)にわかれると、それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏となりました。

下毛野国は下野とも記しますが、
http://sky.geocities.jp/tuguyasu/kinzoku/kinzo5.html
上のサイトには、「927年、延喜式にみられる諸国の鉱産物。鍬鉄は伯耆、美作、備中、備後。銅鉛は備中、長門、豊前等。砂金・錬金は下野国。砂金は陸奥国。大宰府銀(対馬産)。伊勢産の朱砂(『延喜式』巻廿三)。」と記されています。

平安時代、下野は砂金の産地として有名だったのです。
ここから下毛野公時は下毛野金時となり、さらに製鉄業が盛んだった坂田郡の金太郎伝説の影響で坂田金時と変化したように思えます。

多田銀銅山 瓢箪間歩大露頭2 
瓢箪間歩大露頭

金太郎は金と記した赤い菱形の前掛けを身に着けていますが、金とは金属の金を表しているのでしょう。
また前掛けは菱形ですが、これも鉱山や鉱物をあらわすものだと思います。
日本地質学会員の藤井光男氏さんは、群馬県桐生市菱地域は古代鉄生産の里であったとしておられます。

多田銀銅山を開発したと伝わる源満仲が帰依した満願寺には坂田金時の墓がありました。
多田源氏は坂田金時を鉱山または鉱物の神として信仰し、満願寺に坂田金時の墓をつくったのではないでしょうか。

満願寺 紅葉 『坂田金時は鉱山の神だった?』 

多田銀銅山 瓢箪間歩大露頭 
瓢箪間歩大露頭

④金太郎と河童

さらに私は金太郎とは河童ではないかと考えるようになりました。
と言うのは、頼光四天王の一人、卜部 季武(うらべ の すえたけ950-1022)にこんな伝説があるからです。

c.「頼光の郎等平季武、産女にあひし話」
夜、 平季武(卜部季武)が馬で川を渡っていると、川の中に産女がいて赤子を渡し、「これを抱け」といった。
季武は女から赤子を受け取り、抱いたまま岸へ向かった。
産女は「子を返せ」と言って追いかけてきたが、季武は陸へ上がって館へむかった。
抱いていた赤子を見ると木の葉だった。

産女がわが子を僧侶に抱かせ、僧侶の念仏や題目によって産女が成仏したなどという話もあるようで、その際には産女はお礼に黄金の袋をくれたといいます。

多田銀銅山 瓢箪間歩jpg 
瓢箪間歩

砂金は川で採れますね。
産女が卜部 季武に渡した赤子とは砂金の比喩のようにも思えます。

また卜部季武菱と金太郎にはこんな伝説もあります。

d.源頼光は卜部季武を従えて信州明呂山にやってきて、山姥(坂田時之の妻)の家に宿を請うた。
山姥は頼光を家にとめ、すきを見て襲ったが、頼光の武力が勝っていた。
山姥は我が子・怪童丸の助命を請い、頼光は怪童丸を家来にした。
怪童丸は坂田金時と名前を改め、頼光四天王の一人となった。

多田銀銅山 台所間歩 

台所間歩

山姥とは山に住む老婆の妖怪ですが、山は山でも鉱山に住む妖怪なのでしょう。
そして鉱山の妖怪・山姥が川で産んだのが砂金の神・金太郎というわけです。

また卜部季武は坂田金時が源頼光の家来になるのにかかわっている点に注意してください。

cの伝説とdの伝説は比喩の仕方が違ってはいても、同じことを言っているように思えるのです。
ただし、dの伝説の金太郎は鉱山で採取される鉱物、cの伝説の赤子(金太郎?)は川で採取される砂金を表していますが。

 多田銀銅山付近

多田銀銅山付近

⑤河童の特徴
江戸時代以降の一般的な河童の特徴をあげてみます。

a.子供のような体格
b.全身緑色または赤色
c.頭頂部に皿がある。皿が乾くと脱力したり、死ぬ。
d.口は短いくちばし。
e.背中に甲羅がある。
f.手足に水かきがある。
g.肛門が3つある。
h.生臭い。
i.キュウリが好物。
j.相撲が得意
k.土木工事を手伝う。
l.河童を助けた人間に魚を贈った。
m.薬の製法を教えた。
n.溺れた人の尻小玉を抜いて食べる。

金太郎は子供のような体格であり、体は赤いです。
また足柄山で熊と相撲をとったりしたといわれます。

金太郎はおかっぱ頭をしていますが、おかっぱ頭は古くは男子の髪型で、むれないように頭頂部を剃っていました。
その髪をそり落とした部分が皿のように見えます。

金太郎は端午の節句の鯉のぼりにまたがる姿で描かれることも多く、川のイメージがあります。

Kappa jap myth

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kappa_jap_myth.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Kappa_jap_myth.jpg よりお借りしました。
作者 Toriyama Sekien (Japanese, *1712, †1788) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


河童には亀の甲羅がありますね。
そこで、次の図を見てください。
向かって左が背甲、向かって右が腹甲です。

腹甲は菱形をしています。金太郎の前掛けが菱形になっているのは、それが鉱物を表すと同時に亀の腹甲を表しているのではないでしょうか。

また背甲には六角形や五角形の模様がありますが鉱物の結晶の中には六角形の板状・柱状のものがあり、亀の背甲は鉱山や鉱物を表すもののように思えます。

Chelonia scutes


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chelonia_scutes.PNG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Chelonia_scutes.PNG よりお借りしました。
(Original uploader) Shyamal [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で



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[2018/12/06 13:11] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

福本遺跡 紅葉 『竪穴式住居は水がたまらないのか?』 

 
兵庫県神河町 福本遺跡
2018年11月24日 撮影

福本遺跡 車窓 

①竪穴式住居は中世にも存在していた。

車の窓から景色を見ていると、丘の上に竪穴式住居を発見したので行ってみることに。

まるで丘の上だけ縄文弥生時代にタイムスリップしたかのようです。

福本遺跡 竪穴式住居 2

と書いてみましたが、実際には平安時代ごろまで竪穴式住居が作られていたそうですねw。
東北地方では室町時代まで作られていたそうです。

岩手県盛岡市の柿ノ木平遺跡・堰根遺跡は縄文時代から中世にかけての遺跡ですが、中世のものと考えられる竪穴式住居跡が発見されています。
床面には伏甕(ふせがめ)が埋められているものが見つかっています。
長崎では1637年-1638年に島原の乱がおきましたが、原城石垣前の広場から、竪穴建物跡群が発見されています。
一辺が約2-3メートルの方形の竪穴建物跡が9区画ほど並んでいました。
これらは島原の乱で原城に籠城した半地下の小屋だとされています。
江戸時代にも、竪穴式住居があったのですね。

福本遺跡の竪穴式住居は弥生時代のもののようです。

福本遺跡 竪穴式


②竪穴だと水はたまらなかったの?

福本遺跡に作られた竪穴式住居は発掘調査をもとに再現されたものなのでしょう。
でも中に入ってみると竪穴は掘られていませんでした。
これでは竪穴式住居とはいえないw。

復元の際、竪穴を掘ると雨がたまったりして大変なので、竪穴を掘らずに地面に直接建物を建てたのではないかと想像します。
本来なら、竪穴が掘られて、その穴を覆うように屋根が葺かれていたはずです。

んっ?
それじゃあ、なんで昔の人々はわざわざ竪穴を掘って家を建てていたんでしょうか?
竪穴の中に雨水がたまって大変、なんてことはなかったんでしょうか?

福本遺跡 竪穴式住居-天井

福本遺跡 竪穴式住居 天井部分

③雨漏りしにくい屋根だった?

竪穴式住居の屋根は茅・草・土などで葺かれていたと考えられています。

現在でも茅葺の民家がありますが、何層にも重ねて厚くすることで雨漏りしにくくなるそうです。
またかまどで火を焚くことによって茅にヤニ(タール)がつき、防水効果を高めるのだとか。

竪穴式住居の屋根も茅などを何層にも重ね、かまどで火をたくことによって防水効果をもたせていたのかも?
 
白川郷 鬼の面を飾った民家

白川郷 合掌造の家

福本遺跡 竪穴式住居-かまど
 
福本遺跡の竪穴式住居内にはかまどが復元されていました。

④ドーナツ型の土手で地面からの水を防ぐ?

雨漏りしにくい屋根であったとしても、竪穴なので、地面から雨が流れこんできそうにも思えます。
中には、ドーナツ型の土手を作り、その上に屋根をかぶせた竪穴式住居もあったそうです。
なるほど、これなら雨が流れこんでくるということはありませんね。

土手の外側に水抜きの溝を掘った遺跡も見つかっているそうです。


福本遺跡 竪穴式住居-入口 

福本遺跡 竪穴式住居 入口

下はすべて福本遺跡説明板より


福本遺跡 竪穴式住居跡



福本遺跡 説明板-縄文時代

福本遺跡 説明板-弥生時代 

福本遺跡 説明板-飛鳥奈良時代 
福本遺跡 説明板2

福本遺跡 説明板3 


福本遺跡 説明板5 

福本遺跡 説明板4 

 
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[2018/12/04 20:32] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

銀の馬車道 神子畑選鉱所 紅葉  

兵庫県神崎郡神河町 銀の馬車道・神河
兵庫県朝来市佐嚢  神子畑選鉱所跡

銀の馬車道 
銀の馬車道 脚が太い輓馬(ばんば)が馬車をひきます。

道の駅 銀の馬車道・神河 
道の駅 銀の馬車道・神河

①銀の馬車道

銀の馬車道は明治時代に日本で初めて作られた、生野から飾磨津間を結ぶ約49kmの高速産業道路です。
馬車が通りやすいように舗装が施されていました。
昭和30年代でも舗装された道は少なかったといいますから、最先端の道路だったのですね。

この付近には生野鉱山などの鉱山があり鉱物が採掘されていました。
生野鉱山では銀が多く産出されており、その銀を馬車で運んでいたため、銀の馬車道とネーミングされたのではないでしょうか?

生野銀山 露天掘跡 

生野銀山 露天掘り跡

ジブリのアニメ「風立ちぬ」では零戦を牛がひく、というシーンがあってとても興味深かったです。
牛が零戦をひいたのは、悪路が多く、機体を傷めないようにするためだったそうですが
明治時代には馬車が鉱物をひいていたのですね。

道の駅「銀の馬車道 神河」でうろうろしていると、係の方に「馬車が出るので写真を撮るといいよ」と教えていただきました。
(ありがとうございました!)
うーん、ついてるなあ~。

神子畑川

神子畑川

 ②神子畑選鉱所

道の駅「銀の馬車道 神河」から神子畑鉱山跡へ。

戦国時代は鉱山開発合戦であったと聞いたことがありますが、神子畑鉱山も戦国時代に開発されたとされます。
ところが近所にある生野鉱山が繁栄したため、神子畑鉱山は長らく廃れていました。

明治時代、そんな神子畑鉱山に目をつけたのが鉱山王・五代友厚でした。
彼は放置された鉱山から銀、銅などを採り出す製錬技術を海外から導入し、福島県の半田銀山などを再開発していました。
そしてどうやらこの神子畑鉱山にも目をつけていたらしいのですね。
というのは、地元の郷土史家の山内順治(1881-1969)の手記には次のような内容が記されているのです。
「五大友厚は神子畑に採鉱跡があるのを知り、部下の加藤正矩に探鉱を命じた。」

IMG_2266.jpg 
神子畑選鉱所 説明板

1878年(明治11年)、明治政府によって神子畑の銀鉱脈が発見され、1879年から再び採鉱が始まりました。
1872年(明治5年)、明延・神子畑・中瀬などの但馬の鉱山は、生野鉱山を本部とする明治政府の直営鉱山となりました。
1889年(明治22年)、宮内省御料局の所管となりました。
1896年(明治29年)、三菱合資会社に経営が移りました。
1909年(明治42年)、明延鉱山で錫の鉱脈が発見され、三菱によって近代鉱山としての開発が始まりました。
1909年(大正8年)、神子畑鉱山は閉山しました。
1912年、明延 - 神子畑間に索道(ロープウェイ)が設置されました。
1919年、明延鉱山の選鉱場として「神子畑選鉱所」が建設されました。
最盛期には約3000人もの人がここで働いていたそうですが、明延鉱山は円高によって競争力を失ってに閉山されました。
1987年、神子畑選鉱所も閉鎖しました。

2004年、神子畑選鉱所の建物はに撤去・解体されましたが、現在も22段構成となっていた鉄筋コンクリートの基礎構造物・インクライン、シックナーの跡などが残り、廃墟として人気が高まっています。

神子畑選鉱場 シックナー

神子畑選鉱所 シックナーのしくみ

神子畑選鉱場 インクライン跡

神子畑選鉱所 インクライン

神子畑選鉱所,明延鉱業全景 037

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%A5%9E%E5%AD%90%E7%95%91%E9%81%B8%E9%89%B1%E6%89%80,%E6%98%8E%E5%BB%B6%E9%89%B1%E6%A5%AD%E5%85%A8%E6%99%AF_037.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fa/%E7%A5%9E%E5%AD%90%E7%95%91%E9%81%B8%E9%89%B1%E6%89%80%2C%E6%98%8E%E5%BB%B6%E9%89%B1%E6%A5%AD%E5%85%A8%E6%99%AF_037.jpg
よりお借りしました。
オータムスネイク [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


創業時の神子畑選鉱所(明延鉱業)全景(2004年に撤去解体)

神子畑選鉱所 しくみ


③一円電車


1896年(明治29年)、三菱合資会社は、生野・神子畑・明延・中瀬の鉱山経営を開始。
1909年(明治42年)、明延鉱山錫鉱脈が発見され、開発がすすめられましたが、神子畑鉱山では銀を産出しなくなったため選鉱場となりました。
明延鉱山から神子畑選鉱場へ鉱石を運搬するのに、初めは牛車が用いられていたそうです。
1912年(大正元年)、全長5,750mの架空策動(ロープウェイ)が建設され、運搬に用いられるようになりました。
1929年(昭和4年)、明神隧道(トンネル)3,937mが完成し、鉄道で鉱石を運搬するようになりました。
1945年(昭和20年)より人車も運行されるようになりました。
当初の運賃は無料でしたが、1949年(昭和24年)から50銭、1952年(昭和27年)から1円になりました。
その後、1985年(昭和60年)10月の人員輸送廃止まで運賃はずっと一円だったので、「一円電車」と呼ばれました。

ですが、部外者の乗車が増えて業務に支障が出たことなどから、関係者以外の乗車は禁じられてしまったようです。
明延鉱山が1987年(昭和62年)に閉山となったことに伴い、明神電車も廃線となりました。

2010年(平成22年)10月、明延振興館前に一円電車の線路「一円電車明延線」70mが完成し、一円電車が復活しました
牽引する蓄電池機関車・客車くろがね号は明延鉱山で穂使われていたものなのだとか。
時間がなかったので「一円電車明延線」は見にいけませんでしたが、神子畑選鉱所跡に一円電車が展示されていましたので写真を載せておきます。

神子畑選鉱場 一円電車

神子畑選鉱所横に展示されている一円電車

神子畑選鉱場 鉱石の橋

 一円電車がデザインされた『鉱石の橋』

神子畑選鉱場 一円電車-線路

神子畑選鉱所横に展示されている一円電車のレール

ムーセ旧居 
 ムーセ旧居 フランス人技師ムーセの住居で生野鉱山近くにあったものを、神子畑に移築して事務所兼診療所として利用された。


神子畑公民館の仏像 
神子畑公民館に祀られていた仏像



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[2018/12/03 22:34] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

多田神社 紅葉 『平季武が産女から受け取った赤子の正体とは?』 


多田神社 橋2

兵庫県川西市 多田神社
2018年11月25日 撮影

①頼光の郎等平季武、産女にあひし話

前回ご紹介した満願寺(満願寺 紅葉 『坂田金時は鉱山の神だった?』 )から4kmほどのところに多田神社があります。
多田神社は満願寺と関係の深い神社で源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀っています。

多田神社 橋

今日は多田神社の御祭神の一、源頼光にちなみ、頼光四天王の一、卜部 季武(うらべ の すえたけ950-1022)の話を。
卜部季武は正式には坂上季武といいますが、今昔物語集には平季武という名前で登場します。

「頼光の郎等平季武、産女にあひし話」
夜、 平季武が馬で川を渡っていると、川の中に産女がいて赤子を渡し、「これを抱け」といった。
季武は女から赤子を受け取り、抱いたまま岸へ向かった。
産女は「子を返せ」と言って追いかけてきたが、季武は陸へ上がって館へむかった。
抱いていた赤子を見ると木の葉だった。

多田神社 西門

②死んだ妊婦の妖怪・産女

産女は死んだ妊婦が変じた妖怪で、血に染まった腰巻を身につけ、人を追いかけたり、かみついたりするとされました。
血に染まった腰巻を身に着けているのは、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされます。

死んだ妊婦が産女にならないように、腹をさいて胎児を取り出し、母親に抱かせて葬ったりしていたようです。

産女がわが子を僧侶に抱かせ、僧侶の念仏や題目によって産女が成仏したなどという話もあるようで、その際には産女はお礼に黄金の袋をくれたといいます。

多田神社 西門2

③下毛野公時→坂田公時→坂田金時と変化した?

ここで閃きました!
平季武が抱いた赤子とは金太郎ではないでしょうか?

坂田金時は実在せず、下毛野公時が坂田金時のモデルであるともいわれます。

藤原道長の日記『御堂関白記』によれば、下毛野公時は1000年には生まれ、1009年に近衛舎人となっています。
そして三条天皇に仕えて歌舞や、騎射、相撲使(相撲取をスカウトする仕事)などをを務めています。
また藤原道長の髄身でもあったようです。
1017年、相撲使としてスカウトに赴いた筑紫で死亡しています。18歳でした。

『今昔物語集』の別の物語に源頼光の郎党「坂田公時」が登場しています。
もしかしたら、下毛野公時→坂田公時→坂田金時 のように変化したのかもしれませんね。

多田神社 田尻稲荷神社

④下毛野氏は下手野国の国造家

毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族で、10崇神天皇の第1皇子の豊城入彦(とよきいるひこ)命を祖とする皇別氏族とされています。

その後、毛野国は上毛野国(現在の群馬県)と下毛野国(現在の栃木県)にわかれましたが、それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏です。

多田神社 田尻稲荷神社 紅葉2

⑤坂田金時の金とは砂金の金?

下毛野はのちに那須を加えて下野国となったのですが

http://sky.geocities.jp/tuguyasu/kinzoku/kinzo5.html
上のサイトには、「927年、延喜式にみられる諸国の鉱産物。鍬鉄は伯耆、美作、備中、備後。銅鉛は備中、長門、豊前等。砂金・錬金は下野国。砂金は陸奥国。大宰府銀(対馬産)。伊勢産の朱砂(『延喜式』巻廿三)。」と記されています。

平安時代、下野は砂金の産地として有名だったのです。

「下毛野(下野)=砂金」という連想から、「下毛野公時→下毛野金時 」となり、さらに滋賀県坂田郡で盛んだった製鉄業とあわさって坂田金時となったのではないかと思います。

すなわち、坂田金時の金とは砂金の金ではないかと思うわけです。

多田神社 田尻稲荷神社-2

⑥金太郎や産女が抱いた赤子は赤く焼ける金属の比喩?

平季武は川を渡っているときに産女にあって赤子を抱かされたとされますが、砂金は川で採取されます。

さらに金太郎は赤い体で描かれることが多いです。
金太郎の体が赤いのは、製鉄鋳造で金属が赤く焼ける様子を表すという説があります。
赤子もまた製鉄鋳造で金属が赤く焼ける様子を表しているのではないでしょうか。

多田神社 鳥居

⑦卜部季武は頼光が金太郎を家来にしたことと深くかかわっていた。

金太郎にはこんな伝説もがあります。

源頼光は卜部季武季武を従えて信州明呂山にやってきて、山姥(坂田時之の妻)の家に宿を請うた。
山姥は頼光を家にとめ、すきを見て襲ったが、頼光の武力が勝っていた。
山姥は我が子・怪童丸の助命を請い、頼光は怪童丸を家来にした。
怪童丸は坂田金時と名前を改め、頼光四天王の一人となった。

多田神社 拝殿

源頼光が卜部季武を従えていたという点に注意してください。
卜部季武は頼光が金太郎を家来にしたことと深くかかわっているのです。

上の伝説を、もっと比喩的に表現したのが①の産女と赤子の話なのかもしれません。

つまり、山姥=産女、金太郎=赤子(金の袋)というわけです。

多田神社 拝殿2
 
すると平季武が金の袋だと思って持ち帰ったのは実は木の葉だったという残念な結末になってしまいますがw

多田神社 参道3 
あまりに紅葉が美しいので大量アップしちゃおう!(実際はもっときれいなんですが、写真の腕がないので~)
観光客も少ないし、ゆったり紅葉狩できるのでお勧めです。

多田神社 参道2 

多田神社 参道 

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[2018/11/30 10:34] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

満願寺 紅葉 『坂田金時は鉱山の神だった?』 

満願寺 山門3 
兵庫県川西市 満願寺
2017年11月24日


京都は人手がすごいので、のんびり紅葉狩ができる川西市の満願寺へ。
美しい紅葉をゆったりのんびり愛でることができるって、とても贅沢ですよね♪

満願寺 山門 


満願寺 山門2


①金時神社の金太郎伝説


境内の奥まったところに坂田金時の墓がありました。

坂田金時とは「まさかり 担いだ 金太郎~」と歌われるあの金太郎のことです。

満願寺 坂田金時の墓 
満願寺にある坂田金時の墓

静岡県駿東郡小山町に金時神社があり、こんな伝説が伝えられています。

彫物師十兵衛の娘、八重桐は京にのぼり、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれた。
身籠った八重桐は故郷に帰り、956年5月に金太郎を生んだ。
しかし坂田蔵人は亡くなってしまったので、故郷で金太郎を育てた。
金太郎は足柄山で熊と相撲をとるなどたくましい子供に育った。
976年、足柄峠で源頼光に出会い、頼光の家来となり、坂田金時と改名した。
坂田金時は渡辺綱、卜部季武、碓井 貞光らとともに、頼光四天王と呼ばれた。
源頼光と四天王は山伏に化けて大江山の酒呑童子を退治した。
1012年12月15日、坂田金時は九州の賊を征伐するため筑紫へ向かい、その途中、勝田壮(現在の岡山県勝央町)で熱病を患って亡くなった。享年55歳。
勝田の人々は倶利加羅神社(くりがら/剛勇の意/現在は栗柄神社)を建てて坂田金時を葬った。


山姥が雷神の子を産んだのが金太郎だとか、金時山の頂上で赤い龍が八重桐に授けて生まれたのが金太郎だという話もあります。

 満願寺 本坊 紅葉

②坂田金時のモデルは下毛野公時だった?

坂田金時は実在せず、下毛野公時が坂田金時のモデルであるともいわれます。

藤原道長の日記『御堂関白記』によれば、下毛野公時は1000年には生まれ、1009年に近衛舎人となっています。
そして三条天皇に仕えて歌舞や、騎射、相撲使(相撲取をスカウトする仕事)などをを務めています。
また藤原道長の髄身でもあったようです。
1017年、相撲使としてスカウトに赴いた筑紫で死亡しています。18歳でした。

坂田金時は筑紫に向かう途中、55歳で亡くなっていますし、なるほどこの下毛野公時が坂田金時のモデルのようにも思えます。

平安末期に成立した『今昔物語集』では源頼光の郎党「坂田公時」が登場しています。
もしかしたら、下毛野公時→坂田公時→坂田金時 のように変化したのかもしれませんね。

満願寺 鐘楼

③八重桐は江戸時代の歌舞伎役者・荻野八重桐からとった?

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_199.html

上のブログ(おもしろいです!)によれば、金太郎の母親・八重桐(?~1736年)は江戸時代の歌舞伎役者・荻野八重桐からとったのではないかということです。

満願寺 地蔵堂 紅葉

④下毛野公時は近江国坂田郡の金太郎伝説で坂田金時となった?

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_199.html

また同ブログは近江国坂田郡の金太郎伝説を紹介してくださっています。

金太郎は、息長氏の一族として、955年に近江国坂田郡布勢郷(現在の長浜市布施)に生まれた。
その後、小一条の「うばがふところ(番所/ばんふところ)」で乳母によって育てられた。
金太郎は、舟崎の鯉ヶ池で鯉にのったり、常喜の熊岡や足柄山で熊と相撲を取ったりして遊んだ。
本庄の足柄神社の奉納相撲にも出場した。
また名超寺、富施寺などで、学問にも励んだ。
青年となった金太郎は、地元の鍛冶屋で働いた。当時この地は、製鉄業が盛んだったのである。
金太郎20歳のころ、足柄山にやってきた源頼光と出会い、金太郎は頼光の家来となった。
994年、金太郎は伊吹山の山賊を退治し、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに頼光の四天王と称された。


そしてブログ主は近江国坂田郡の伝説から、下毛野公時は坂田金時に変わったのではないかと説かれていますが、これに完全に同意します。
坂田金時とは坂田郡に住んでいる公時という意味だ思います。

静岡県駿東郡小山町の金時神社の伝説は、近江国坂田郡の金太郎伝説をもとにのちに作られたものではないかと思います。

満願寺 観音堂 紅葉

⑤下毛野氏の本拠地・下野は砂金の産地だった。

毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族で、10崇神天皇の第1皇子の豊城入彦(とよきいるひこ)命を祖とする皇別氏族とされています。

その後、毛野国は上毛野国(現在の群馬県)と下毛野国(現在の栃木県)にわかれましたが、それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏です。

http://sky.geocities.jp/tuguyasu/kinzoku/kinzo5.html
上のサイトには、「927年、延喜式にみられる諸国の鉱産物。鍬鉄は伯耆、美作、備中、備後。銅鉛は備中、長門、豊前等。砂金・錬金は下野国。砂金は陸奥国。大宰府銀(対馬産)。伊勢産の朱砂(『延喜式』巻廿三)。」と記されています。

平安時代、下野は砂金の産地として有名だったのです。

満願寺 参道 紅葉2

⑥金太郎の前掛け、まさかりは金と製鉄のシンボルだった?

金太郎は金と記した赤い菱形の前掛けを身に着けていますが、金とは金属の金を表しているのでしょう。
また前掛けは菱形ですが、これも鉱山や鉱物をあらわすものだと思います。

日本地質学会員の藤井光男氏さんは、群馬県桐生市菱地域は古代鉄生産の里であったとしておられます。

菱型といえば雛祭りの菱餅を想いだしますが、菱餅は菱の実でつくられています。
トウビシの実はとげが2本あります。
またオニビシヒメビシにはとげが四本あります。
忍者が用いた撒菱はこれらを乾かしたものです。

 菱紋の名前の由来については、葉の形からくるとも、実の形からくるともいわれています。
けれど菱の葉も実も菱型ではありません。

漢和辞典をひいてみると「夌は音を表し、角のある意からきている」とあります。
菱の実には鋭い角があり、図形の菱形にも鋭角の角があります。
おそらく角のあるものを菱と言っていたのではないでしょうか。

鉱物の結晶にも角がありますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85#/media/File:Cuivre_Michigan.jpg
そういうわけで菱は鉱物のシンボルになったのではないかと思います。

まさかりとは刃渡りの広い斧のことで、鉄や銅で作られます。
近江国坂田郡は製鉄業が盛んで、金太郎は鍛冶屋で働いていたのでしたね。
金太郎はまさかりは製鉄業のシンボルだということで、手にそれを持っているのでしょう。

満願寺 金堂 紅葉

⑦金太郎の母親はなぜ山姥なのか?

①で、金太郎の母親は山姥だとする伝説もあるとお話ししました。
山姥は山に住む女性の妖怪ですが、山は山でも鉱山の妖怪なのではないでしょうか。

満願寺 参道 紅葉

⑧満願寺に坂田金時の墓があるのはなぜ?

それでは満願寺に坂田金時の墓があるのはなぜでしょう?
坂田金時は源頼光四天王の一人とされていますが、満願寺は源頼光と関係が深い寺なのです。

平安時代中ごろに源満仲が帰依して以来、満願寺は源氏の祈祷所とされていました。
源頼光はこの源満仲の子です。

そしてこの地方には多田銀山があり、多田源氏と呼ばれた源満仲の子孫たちは、鉱山開発を行っていました。
そういうわけで、源頼光と坂田金時は結び付けられたのではないでしょうか。

つまり、坂田金時は鉱山の神として満願寺に祀られているのではないかと思うわけです。

青木間歩 入口 

青木間歩 内部 
2枚とも、多田銀山 青木間歩


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[2018/11/28 18:07] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)