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メタセコイアの並木 と 虹 (滋賀県高島市) 


メタセコイアの並木 メタセコイアの並木

メタセコイアの並木-と 虹 
雨のち虹。

虹3

↑ これは結露ソフトフィルターで撮影w

虹

平安時代だったかに藤原なんちゃらが「虹が出た場所に市をたてた」というネット記事を読んだ記憶があります。
ところがその後、記事を探しても見つからない!
この件に関して何かご存じの方、おられましたら是非ご一報ください。

さて、なぜ虹が出ると市を立てるのでしょう?
こんなに美しい虹ですが、古にはまがまがしいものだと考えられていたようです。

そして、市(いち)とは斎(いつき)の事であると聞いたことがあります。
斎とは「心身を清めて神に仕えること」です。

もしかしたら市とは、もともとは物品の売買を行うことで、市によって穢れが浄められると考えられていたのかも?

たとえば各地の天満宮で鷽替神事が行われています。
嘘替神事とは「変えましょう、変えましょう」といいながら、隣近所の人と鷽鳥の入った紙包みを何度も交換しあいます。
この神事によって「嘘が誠に変えられる」と考えられていました。

交換することで穢れが浄められるというような信仰があって鷽替神事が生まれたのかもしれませんね。

虹2 

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[2020/12/21 23:26] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

彦根城 ライトアップ gifアニメ 


彦根城・・・滋賀県彦根市金亀町1-1


彦根城 堀


彦根城 堀 




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[2020/10/06 15:21] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

彦根城 ライトアップ 


彦根城・・・滋賀県彦根市金亀町1-1


青い彦根城

彦根城のライトアップ、前見たときはナチュラルカラーだったけど、この日は青でした。

↓ これは以前撮影したやつ。

彦根城 ライトアップ


彦根城 青 

彦根城 家紋


塀は家紋が浮かび上がるライトアップ。
井伊家の家紋「丸に橘」に似てるけど、下手の部分がちょっとちがいます。
井伊橘というそうですよ。「彦根橘」ともいうそうです。

ただし、写真の青海波の模様は付け加えた者で、本来はないみたいです。

彦根城主は基本的には伊井家でした。
井伊直政の養母は井伊直虎で井伊家の祖とされているんだとか。
この直虎は井戸から橘を持って生まれたので、家紋を橘にしたといわれています。


以上、自分用メモでしたw





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[2020/10/02 17:37] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

多賀大社付近 蕎麦畑 


多賀大社・・・滋賀県犬上郡多賀町多賀604

秋の訪れをつげる蕎麦の花

多賀大社付近 蕎麦畑

多賀大社近くの蕎麦畑 

これは何の花かな?↓

多賀大社付近 
ここで採れた蕎麦の実が寿命蕎麦になるのかな?

多賀大社境内にある寿命蕎麦の店 ↓

多賀大社 寿命蕎麦2 

あいにくお腹いっぱいで、食べられなかったw
次回はお腹すかして参拝しよう。

多賀大社 寿命蕎麦 

寿命蕎麦という名前は、境内にある寿命石からつけられたのでしょう。↓

多賀大社 長命石 

鎌倉時代、僧・重源は61歳のとき、東大寺再建を願って伊勢神宮に17日間参籠しました。
擦ると天照大神があらわれて、「東大寺再建のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願しなさい」と告ました。
重源が多賀社に参拝すると「莚」の字の形に虫食いあとのある柏の葉が舞い落ちてきた。
莚=廿(二十)+延
なので、寿命が二十年伸びるということだ!
と重源は喜んだ。
重源はこののち20年の歳月をかけて東大寺再建をはたしたあと、多賀大社にお礼参りにやってきて石に座ってそのまま亡くなったといいます。

多賀大社 恵比寿・大黒の額 
多賀大社休憩所より多賀大社拝殿を望む。↑

多賀大社 さざれ石 
さざれ石

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

君が代の元歌です。

岐阜県揖斐川町春日には君が代の由来となったといわれるさざれ石があり、藤原朝臣石位左衛門が詠んだ歌だとして次のように伝えられているのだとか。

 惟喬親王に仕えていた木地師の藤原朝臣石位左衛門は、親王より「よい椀生地を探せ」と命じられました。
そこであちこち探し回って春日村を発見し、ここに移り住みました。
石位左衛門は春日村と京を行き来する途中で「さざれ石」を発見して
♪ わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで
と詠みました。

木地師の藤原朝臣石位左衛門のいう「わが君」とは惟喬親王のことだと考えるのが自然でしょう。

多賀大社のさざれ石は岐阜県揖斐川町春日産のものです。

多賀大社 御神田 
多賀大社 御神田

実りの秋ですね~


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[2020/09/29 12:52] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

園城寺(三井寺) 紅葉 『大友与多王の正体』 


滋賀県大津市 園城寺(三井寺)

園城寺6


①大友皇子の子の与多王が創建した寺


園城寺の創建は次のように伝わっています。

天智天皇は667年大津京を造営して遷都したあと、念持仏の弥勒菩薩像を建立したいと考えていましたが、果たせないまま672年に崩御されました。
同年、天智天皇の皇子・大友皇子vs天智天皇の弟・大海人皇子が皇位をめぐって争います。(壬申の乱)
結果、大海人皇子が即位して天武天皇となり、大友皇子は自害して果てました。25歳の若さでした。
大友皇子の子の大友与多王(よたのおおきみ)は、父・大友皇子の菩提を弔うために、天智天皇念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しました。
686年、天武天皇はこの寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えました。
園城寺という寺号は大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に心を打たれてつけたとされます。


園城寺の通称・三井寺は、寺にある井戸(閼伽井屋)の霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯に使われたため、
御井→三井となったといわれます。

金堂付近より飛鳥時代~奈良時代前期の瓦が出土しているので、創建時期はほぼ上の伝説にちかいと考えられます。

園城寺4

②園城寺は大友氏と関係が深い

大友氏と園城寺との関係を示す史料もあるということです。

大友氏は近江国周辺に住んでいた氏族で、姓(カバネ)は村主、曰佐、史、連、宿禰、漢人があります。
姓とは、古代日本において、天皇から有力氏族に与えられた王権との関係や地位を示す称号です。

村主(すぐり)は古代朝鮮語で「族長」という意味で、地方官職名または朝鮮系漢人(あやひと)集団の統率者ではないかとされます。

史(ふひと/ふみひと)とは、古代の日本において文筆や記録を行ってい渡来系官人組織で、のちに姓になりました。
先祖が史という官人であったとか、代々史の官職についていたということかもしれませんね。

連(むらじ)は臣(おみ)とともに高位の豪族の称号。

宿禰は武人や行政官を表す称号。

漢人は中国系帰化系氏族の称号だと思います。(まちがってるかも)

大友氏は大友皇子の支持勢力であると考えられているようです。

園城寺3

与多王は伝承的人物

園城寺を創建した大友与多王は、日本書紀には名前がありません。
『本朝皇胤紹運録』には「大友皇子-与多王(大友賜姓)-都堵牟麿-黒主」いうい系図はあるほか、大津市内の御祭神、古墳の被葬者としては名まえがありますが。

そのため伝承的人物とされています。

ちなみに実在が確認される大友皇子の子としては葛野王(かどののおう/669-706)がいます。
淡海三船は葛野王の子・池辺王の子で、葛野王の孫にあたります。
彼は751年に淡海真人の氏姓を与えられて臣籍降下しています。

淡海三船はすでに諡号を贈られていた文武天皇をのぞき、神武天皇から元正天皇までの全ての天皇に漢風諡号をつけたことで有名ですね。

園城寺

④天武天皇はなぜ「園城寺」の寺号を与えたのか

大友皇子と天武天皇は皇位継承を争った敵同士ですが、なぜ天武天皇は敵である大友皇子を弔うための寺の建立を許し、「園城寺」という称号を与えたのでしょうか?

天武天皇は心が広かった?

いやいや、天武天皇は大友皇子の怨霊を恐れ、それで大友皇子の霊がきちんと成仏するようにとの願いをこめて寺の建立を赦したのではないかと思います。

いや、もっと積極的に、大友皇子の霊を弔うための寺を建立したいと強く願い、寺の建立を推し進めた可能性もあると思います。

園城寺7

日本には古より怨霊信仰がありました。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていたのです。
そして、荒ぶる怨霊は十分に慰霊すると、ご利益を与えてくださる和霊に転じると考えられていました。
さらに、神仏は本地垂迹説で同一視されます。
本地垂迹説とは、日本古来の神々(権現)は仏教の神々(本地仏)の生まれ変わりであるとする考えかたです。
たとえば、天照大神の本地仏は大日如来であるとか、菅原道真の本地仏は十一面観音であるなどのように考えられていました。
すなわち、天照大神と大日如来は同一神、菅原道真と十一面観音は同一神のように考えられていたということです。
ただし、寺社によって権現と本地仏の組み合わせはかわりますし、十一面観音を本地仏とする神は菅原道真以外にもあります。

つまり、天武天皇が大友皇子の怨霊を恐れ、大友氏に命じて創建させたのが園城寺なのではないか?ということです。

園城寺2 

⑤与多王は大友皇子の分霊?

猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その②』 
↑ こちらの記事にこんなことを書きました。

「奈良豆比古神社の伝説によれば、弓削浄人(浄人王)の父親は志貴皇子の子の春日王となっていますが、
志貴皇子の別名は春日宮天皇・田原天皇、春日王の別名は田原太子で同じ名前なので、志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと思います。」と。

志貴皇子=春日宮天皇=田原天皇
志貴皇子の子=春日王=田原太子

そして、「神が子を産むとは、神が分霊をつくる」という意味ではないかという説もあります。

つまり、「春日王は春日宮天皇(志貴皇子)の子」というのは「春日王は春日宮天皇の分霊」ということであり
与多王は大友皇子の分霊ということではないかと思ったりするわけです。
与多王は大友与多王とも呼ばれるのは、大友皇子の分霊であるからかも?

それに与多王という名前、いかにも偽名っぽいですよね。「大友の多くを与える王」ですから。
そして、この名前は「園城寺という寺号は大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に心を打たれてつけた」という伝承を思い出させますね。

もしかすると三井寺あたりは大友皇子が所有する土地で、それを天武天皇が没収して三井寺を建てたのかもしれませんね。

園城寺5 




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[2020/01/11 22:06] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

長等神社 馬神神社 紅葉 『馬肉を桜というのはなぜ?』 


滋賀県大津市 長等神社

長等神社

①スサノオと馬はイメージが重ねられていた?

長等神社の境内にある馬神神社。

興生相生大明神(こうしょうそうせいだいみょうじん)とも呼ばれているそうです。

馬神神社

もとは札の辻の人馬会所敷地内にあったのを、明治43年(1910)に現在地に遷宮したそうです。

寛永年間(1624~1644)疫病で多くの牛馬が死んだので、京都吉田社より神を勧請したのが創祀と伝わります。
吉田神社には多くの摂社・末社があり、多くの神々を祀っています。
吉田神社から勧請した神とはなんという名前の神なんでしょうね?

吉田神社の末社・今宮社では大己貴神・大雷神・スサノオを祀っています。
このスサノオを勧請したのでしょうか?

長等神社の主祭神はスサノオ・オオヤマツミ・イチキシマヒメ・シタテルヒメ・八幡大神です。
このうち、スサノオにはこんな神話がありますね。

スサノオは馬を逆剥ぎにしたものを天の機屋になげこみ、これに驚いた織女がシャトルでほとをついて死んでしまった。
天照大神は天岩戸に籠ってしまった。

このような神話があることから、スサノオと馬はイメージが重ねられていたのではないかと思います。
それで馬神神社をスサノオを祀る長等神社に遷宮したのかも?

 長等神社 紅葉

②獣肉の隠語

桜の紋の入った幕がかけられていますね。
桜は馬肉の隠語だからでしょうかw?

ヤフー知恵袋に隠語についてのオモシロイ回答がありました。

「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき」

古今和歌集に詠まれた歌が由来といわれて、
それで鹿肉を「紅葉(もみじ)」と呼ぶんですよ。

花札の「鹿に紅葉」に由来する説もあります。

余談ですが・・・
イノシシ=牡丹→唐獅子牡丹(刺青)から。別名「やまくじら」
馬=桜→桜の咲く頃が美味しくて、桜色の肉だから。別名「蹴っ飛ばし」
鶏=柏→拍手を打つ姿が鶏に似ているから。(別の説もある)
河豚=鉄砲→当たると死ぬから。
うさぎ=月夜(げつよ)→月にウサギはつきもの・・・


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1132487346 より引用

牛は、隠れて食べたから「安具楽(あんぐら=英語UnderGround)」だったかもしれません。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1132487346 より引用


特に河豚と牛がウィットがきいていておもしろいですね。
我々の先祖はたいへんユーモアセンスのある人々だったようです。

 
③鶏=伊勢神宮の神使い=柏手を打って参拝する=柏?

しかし、鶏のことを柏という理由が「拍手を打つ姿が鶏に似ているから」というのは、私は違うと思います。
鶏は伊勢神宮の神使です。
伊勢神宮には柏手を打って参拝する、それで柏というのではないでしょうか。

岩戸山ご神体 天照大神 

祇園祭 岩戸山 ご神体 天照大神 (こちらの天照大神は男神です。)神使の鶏がいます。

④鹿=紅葉は猿丸太夫の歌からくる?

鹿を紅葉というのは「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき」の歌からくるというのはその通りかなと思います。

この歌は猿丸太夫の歌で、百人一首にも採られている有名な歌です。

猿丸神社 歌碑 

猿丸神社 歌碑

鹿は秋になると独特の物悲しい声でなくので、紅葉と関連付けられたのかもしれません。

鹿と紅葉を関連付けた歌としては次のような歌もありますよ。

岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり(平家物語・灌頂・大原入り)

建礼門院(平 德子)の父は平清盛、母は平時子で、高倉天皇の中宮として入内し、安徳天皇を産みました。
平家没落の時、安徳天皇は祖母の時子に抱かれて入水しました。
このとき、建礼門院も入水したのですが源氏方に捕らえられました。
彼女の母も、子も、一族の者も大勢死にました。
壇ノ浦で入水したものの捕縛された建礼門院は東山の麓の吉田の地に隠棲し、長楽寺で出家しました。
しかし大地震がおこり、築地が崩れて住めなくなり、人目のない大原に居を移しました。
あるとき、庭に散り敷いた楢の葉を踏みしだく音がし、女院は捕り方がやってきたのかと思って身を隠そうとしました。
しかしそれは鹿でした。
それを見ていた重衡の北の方が涙ながらに詠んだ歌が上の歌です。

⑤イノシシ=牡丹は唐獅子牡丹からくる?

「イノシシ=牡丹→唐獅子牡丹(刺青)から」とあります。

獅子は猪ではありませんが、「しし」の発音が同じなので、ありえる説かと思います。

ですが、どこがどうといえないですが、いまひとつしっくりこないようにも思えますので、宿題としておきたいと思います。

馬見岡綿向神社-猪像 

馬見岡綿向神社-猪像

⑥馬=桜は馬につける鞍からくる?

それでは馬肉のことを隠語で桜というのはなぜでしょう?

「桜の咲く頃が美味しくて、桜色の肉だから。」でしょうか?

河豚=鉄砲→当たると死ぬから。
牛=安具楽(あんぐら=英語UnderGround)→隠れて食べたから。

のように、謎々っぽいのがオモシロイと思います。
語呂合わせになっているんじゃないでしょうか?

そう考えたとき、桜の語源が「さ・くら」で、「さ」は「さおとめ」のように神聖なものにつく接頭語
「くら」は神様の名前だとする説があったことを思い出しました。

桜の名所といえば吉野が有名ですが、桜の木は御神木として奉納されたものだそうです。
吉野には蔵王堂がありますが、蔵王堂の蔵は「くら」とも読みます。
それで、桜は吉野の神の御神木と考えられたのではないでしょうか。

そこから閃いたのですが、馬には鞍をつけますね。
それで、馬肉=さ鞍=桜 としたんだったりして?

鞍の図 ↓

 https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%9E%8D%E3%80%80%E6%97%A5%E6%9C%AC&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8&mfb=P039#mode%3Ddetail%26index%3D1%26st%3D0

長等神社 紅葉2 


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[2020/01/08 22:17] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

鶏足寺 紅葉 『天照大神の足跡』 


滋賀県長浜市 鶏足寺

鶏足寺付近2

鶏足寺付近

①鶏を神使いとする十一面観音

鶏足寺って変な寺名だなあ?
なぜそんな名前つけたんでしょう?

紅葉が美しい寺なので、鶏の足を紅葉に見立てたとかw?

調べてみると、そうではありませんでしたw。

奈良時代、行基(668?―749年)と、泰澄(682?ー767年)が近江の国の鬼門・己高山(こだかみやま)に常楽寺を創建し、十一面観音をご本尊としました。

平安時代、最澄(767?ー812年)がこのあたりにやってきたとき、不思議な鳥の声がしました。
道には鳥の足跡がついていたのでたどっていくと、朽ちた寺に十一面観音があったという伝説があります。
それで鶏足寺と名付けられたようです。

つまり、不思議な鳥の声とは鶏の「コケコッコー」という声だったのでしょう。
そして鶏は飛べない鳥なので、道に足跡がついていたのでしょうね。

鶏は朽ちた寺の十一面観音の神使だったということでしょう。


鶏足寺付近3 

鶏足寺付近

②本地垂迹説
 
鶏は伊勢神宮の神使です。

そして明治の神仏分離令まで神仏は習合して信仰されていました。
神仏習合のベースとなったのは本地垂迹説という考え方です。


本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮に姿を現したものである、とする考え方のことで
仏教の神々が衆上を救うために仮に姿を表した日本の神々のことを権現
日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏といいます。

つまり鶏足寺の本地仏は十一面観音であり、天照大神は十一面観音の権現ということになります。

鶏足寺付近 
鶏足寺付近

③石上神宮と伊勢神宮は関係がある?

と書きましたが、鶏を神使いとしているのは伊勢神宮だけではありません。
奈良県天理市にある石上神宮も鶏を神使いとしています。

伊勢神宮の古名は「磯宮(いそのみや)」といい、「いそのかみ」と関係があるのではないかとも言われています。

鶏足寺4 
鶏足寺

④天照大神は男神だった?

石上神宮は物部氏が祭祀する神社だが、磯部氏の祖神・ニギハヤヒは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)といい、ニギハヤヒが本当の天照大神ではないかともいわれています。

天照大神は女神とされていますが、ニギハヤヒは男神です。
しかし、天照大神を男神とする伝承は各地に伝わっており、祇園祭・岩戸山のご神体の天照大神も男神です。

岩戸山ご神体 天照大神 

岩戸山ご神体 天照大神

記紀神話ではアメノウズメのストリップダンスを見て神々がどっと笑い、天照大神は不思議に思って岩戸をすこし開けて外を覗いたとありますが
この神話は天照大神がアメノウズメのストリップダンスに興味を持って岩戸の外を覗いたというようにも読めます。
女神のストリップダンスに興味を持つのは男神だ、よって天照大神は男だ、とする説もあります。

鶏足寺6 
鶏足寺

⑤石上神社、伊勢神宮、石切神社に共通する五角形(鶏足寺はニギハヤヒと関係がある?)

石上神宮の御祭神はフルノミタマという、剣の霊ですが
ニギハヤヒを祀る石切神社のシンボルは剣です。

石切駅 

石切駅付近

この剣、熨斗を包む紙に似ていませんか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%A8%E6%96%97#/media/ファイル:Noshi.gif


熨斗とは本来、アワビの肉を薄くそいで乾燥させて伸ばすという作業を繰り返してつくった熨斗鮑のことでした。
剣形に折った紙はこの熨斗鮑をつつむためのものです。

伊勢神宮では6月と12月の月次祭(つきなみさい)、10月の神嘗祭(かんなめさい)に熨斗鮑を奉納する習慣があるということです。

また伊勢の名物といえば赤福餅のほか、生姜糖がありますが、この熨斗の形をしていますよ。

https://iwatoya.shop-pro.jp/?pid=90423357

もしかして、天照大神とはニギハヤヒのことであり、熨斗が五角形なのはニギハヤヒを御祭神とする石切神社のシンボル・剣を象ったものであるなんてことないかな?

長々と語ってしまいましたが、言いたいことは、鶏足寺の十一面観音がニギハヤヒと習合されている可能性があるということです。

そしてニギハヤヒは神武より早く天の磐船を操って畿内に天下った神で、のち日向より東征してやってきた神武に服した(政権を譲った)神です。

鶏足寺2 

鶏足寺

⑥長屋王はニギハヤヒのイメージと重ねられた?

創建に行基や泰澄の名前がでてくるのは、彼らの次代、このニギハヤヒのイメージに重ねられた人物がおり、その人物を祀るために常楽寺(のちの鶏足寺)が創建されたのではないかとも考えられます。

とすれば、ニギハヤヒにイメージが重ねられた人物として長屋王が浮かび上がってきます。

というのは、有馬温泉にこんな伝説が伝えられているのです。

行基は旅の途中で出会った病人を有馬温泉に連れていきました。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らないので、舐めてくれないか」と行基に頼みました。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めました。
すると病人の肌は金色に輝いて薬師如来になりました。


これと同様の伝説が光明皇后にもあります。

光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てました。
千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼みましだ。
皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になりました。 


膿のある病人とは天然痘のことだと思います。
で、貧乏神はいかにも貧乏そうな姿をしていますね。
天然痘をはやらせる神は天然痘を患った姿をしていると考えられていたのではないでしょうか。

鶏足寺  
鶏足寺

そして光明皇后は天然痘を流行らせる神をたいへん恐れていたのではないかと思います。

729年、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、長屋王が謀反を企てているとでっちあげ、長屋王を自殺に追い込みました。(長屋王の変)
長屋王を廃した藤原四兄弟は妹の光明子(光明皇后)を人臣初の皇后とすることに成功します。
しかし737年、天然痘が流行り藤原四兄弟は次々に天然痘にかかって死亡してしまいました。
そしてそれらは長屋王の怨霊の祟りだと噂されたのです。

天然痘を患った病人とは長屋王の怨霊だと思います。
しかし光明皇后が怨霊の体を洗って浄めたので、怨霊は荒魂から和魂に転じ、本地垂迹説で阿閦如来に転じたという話だと思います。

※神は現れ方で御霊・荒魂・和魂の3つに分けられるといいますが、和魂=仏と考えられたのではないでしょうか?
御霊・・・神の本質
荒魂・・・神の荒々し側面
和魂・・・神の和やかな側面・・・仏

すると同様の話なので行基が出会った病人とは長屋王のことではない思われます。

鶏足寺の十一面観音は長屋王のイメージを写したものだったりして?

鶏足寺3 

鶏足寺5 

鶏足寺 





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[2020/01/07 14:50] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

正法寺(岩間寺) 紅葉 『日本は男女の役割分担があり、男女平等だった?』 

滋賀県大津市 正法寺(岩間寺)

岩間寺

①岩間寺

正法寺は、標高443mの岩間山にあり、岩間寺とも呼ばれています。

722年、元正天皇の病平癒祈願をした泰澄が、岩間山中の桂の大樹から千手陀羅尼を感得したといいます。
泰澄はその桂の木で等身の千手観音像を刻み、元正天皇の念持仏である金銅千手観音像をその胎内に納めました。
この金銅千手観音像の像高は4寸8分(約15cm)で現在は本堂の三重の厨子に納められて、秘仏とされていますが
夜ごと日没になると厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡って人々を救済し、日の出とともに岩間山へ戻るという伝承があります。
この観音様は、「汗かき観音」呼ばれていますが、夜中百三十六地獄を駆け巡るので岩間山へ戻ったときには汗だくになっているためといわれます。

たぶんこれが千手陀羅尼を感得した桂だと思う。↓

岩間寺 桂 

②日本は男女の役割分担がわかれていて男女幸福社会ではなかった。

ここに登場する元正天皇は女性天皇です。

日本の女性天皇は8人います。
また天皇家の祖神の天照大神は女神とされています。

このことをもって「日本は男女平等であった。」という人がいます。

そして、「日本は男女平等」とは少し矛盾するように思えますが「日本は男女の役割分担が分かれていて男女幸福社会であった。」ともおっしゃっています。

結論からいうと、日本に女性天皇がいたことは「男女平等であった」とも「男女の役割分担が分かれていて男女幸福社会であった」ともいえないと思います。

今日はそれについてお話ししたいと思います。

岩間寺 

これは何でしょう?

③日本の女性天皇

日本の女性天皇は8人おり、元正天皇は5人目の女性天皇です。
※皇極天皇と斉明天皇、孝謙天皇と称徳天皇は重祚(2度即位すること)しているので、同一人物です。

歴代女性天皇
133代推古天皇
235代皇極天皇
37代斉明天皇皇極天皇と同一人物
341代持統天皇
443代元明天皇
544代元正天皇独身
646代孝謙天皇独身
48代称徳天皇孝謙天皇と同一人物
7109代明正天皇独身
8117代後桜町天皇独身

岩間寺 桜紅葉

④日本の女性天皇は全員中継ぎとしての即位だった。(男系の皇位継承にこだわった。)


推古天皇は敏達天皇の皇后、皇極天皇(斉明天皇)は舒明天皇の皇后、持統天皇は天武天皇の皇后、元明天皇は草壁皇子の后で
いずれも中継ぎの天皇でした。

推古天皇は甥の聖徳太子を皇太子としていました。聖徳太子が次期天皇になる予定だったのかもしれませんが推古天皇の兄で敏達天皇の孫の舒明天皇が即位しました。

皇極天皇は舒明天皇の皇后で、弟の孝徳天皇に譲位しました。
再び皇位について斉明天皇となり息子の天智天皇が次期天皇となりまいした。

持統天皇は天智天皇の娘で、天智天皇の弟の天武天皇の皇后でした。
天武天皇崩御後、持統天皇は我が子草壁皇子を即位させるため、中継ぎの天皇として即位しました。
しかし草壁皇子は即位せずに早世したため、草壁皇子の后である元明天皇が即位しました。
元明天皇の即位は我が子文武天皇の皇子・聖武天皇を即位させるための中継としてでした。

日本の天皇の即位は男系で継承されていることはみなさんご存じのとおりです。
言葉にすると少しややこしく感じるかもしれませんが、この4人の女性天皇はいずれも男系で皇位継承させるための中継ぎとしての即位でした。

岩間寺 桜紅葉2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我堅塩媛
 
29欽明天皇
 
石姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
33推古天皇
 
30敏達天皇
 
広姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大俣女王
 
押坂彦人
大兄皇子
 
糠手姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備姫王
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
35皇極天皇
37斉明天皇
 
 
 
34舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我遠智娘
 
38天智天皇
 
蘇我姪娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
40天武天皇
 
 
41持統天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
49代以降
 
 
草壁皇子
 
 
 
 
43元明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
44元正天皇
 
藤原宮子
 
42文武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光明皇后
 
45聖武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
46孝謙天皇
48称徳天皇

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87 より引用


上はウィキペディアからお借りした系図ですが、
欽明天皇―敏達天皇ー押坂彦人大兄皇子ー天智天皇・天武天皇(兄弟)-草壁皇子ー文武天皇―聖武天皇とつながっていることがわかると思います。

ただし、聖武天皇の皇子は夭逝してしまったので皇女の孝謙(称徳)が即位し、そこで血筋がとぎれてしまいました。


そこで、称徳天皇の次代には天智天皇の皇子・志貴皇子の子である光仁天皇を即位させて、男系継承を継続させています。

天智天皇ー志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇ー平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇(兄弟)・・・・

岩間寺 雷神霊泉 

雷神霊泉 泰澄の弟子になった雷神が爪でほったと伝わります。

⑤独身で即位した女性天皇は結婚が許されなかった。

もう1度、日本の女性天皇の表を見てみましょう。

歴代女性天皇
133代推古天皇
235代皇極天皇
37代斉明天皇皇極天皇と同一人物
341代持統天皇
443代元明天皇
544代元正天皇独身
646代孝謙天皇独身
48代称徳天皇孝謙天皇と同一人物
7109代明正天皇独身
8117代後桜町天皇独身


44代元正天皇以降の女性天皇は全員独身ですね。

推古・皇極(斉明)・持統・元明は皇位についたときすでに結婚して子供がおり、自らの子または孫を即位させたかったが、まだ幼すぎるなどの理由で中継ぎの天皇として即位したのでした。

元明天皇も孫の聖武天皇に即位させたかったのだと思いますが、その前に自分の娘である元正天皇に譲位しています。
元正天皇が即位したのは715年。
このとき聖武はまだ14歳くらいですから、即位させるには早すぎると考えられたのでしょう。

そしてこのとき元正は独身で子供がありませんでした。
独身で子供がない女性が天皇として即位した前例はありませんでした。

元正が結婚して子供を産んだら、聖武ではなく自分の子を即位させたいと考えるのは自然なことです。
それを防ぐため、元正は結婚を禁じられたのではないかと思います。

そしてそれが習慣化して、「女性天皇は生涯独身であるべし」との考え方が定着したのだと思います。


つまり女性が皇位につくためには、女性であることを捨てる必要があったということで
武田氏がいう「男女の役割分担が分かれていて男女幸福社会であった」は成立しなくなります。

また「日本は男女平等だった」ともいえません。

男性天皇は結婚して子供を持つことができました。
女性天皇も結婚して子供を持つことができて初めて「日本は男女平等だった」といえるはずです。

8例だけなので、これらは例外だという考え方はできるかもしれませんが
「日本は男女平等だった」ことの例として日本の女性天皇をあげるのは、まちがいだというしかないです。

岩間寺 黒龍龍王杉2 

岩間寺 黒龍龍王杉 

岩間寺 



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[2020/01/06 13:35] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

石山寺 紅葉 『源氏物語の作者は男だった?』 


※紅葉まとめはこちらをご覧ください。↓
和歌山・滋賀・兵庫・その他の紅葉 まとめ 
大阪の紅葉 まとめ 
奈良の紅葉 まとめ 
京都の紅葉 まとめ 


滋賀県大津市 石山寺
2009年11月23日 撮影

石山寺-多宝塔2

①紫式部が源氏物語を書いたので、日本は男女平等だった?

紫式部は石山寺に参篭して、源氏物語を書くアイデアを思いついたという伝説がありますよ。
そういうわけで、石山寺本堂には紫式部の像が置かれています。

石山寺-紫式部像 

ある人がよくこんなことをおっしゃっています。
「紫式部が女性として世界で初めて小説を書いたことは、日本が男女平等社会であったことの証拠である。」

「なるほど、そのとおりだよ!」と思う人もいらっしゃると思います。
でも、私なんかは「へ?」と思ってしまいます。

次の点について、考えていただきたいと思います。

石山寺 三十八所権現社本殿 
a.小説を書くことと男女平等はどのようにして結びつくのか。その説明がない。

b.紫式部は貴族の娘だが、当時、日本人の多くは農民などの庶民だった。
一部の貴族の例をもちだして、日本全体を語っていいのか?

c.男女差別が問題視されるようになったのは、近年になって多くの人が企業に就職するようになってからといわれている。
それより以前の社会では男女差別より身分差別が問題だった。

d.紫式部が源氏物語を書いたという一例だけで、日本は男女平等だったと断じてしまっていいのか?


わかりやすい例をあげましょう。

ある男女共学の学校で、ひとりの女子学生が小説を書き、芥川賞をとったとしますね。
そのことをもって、男女平等な学校だと断定してもいいでしょうか。
実はその学校では受験テストで、男子の合格ラインは60点、女子の合格ラインは90点としているとしたら?
実際、そんな大学があって、女性差別だと問題になりましたねw

石山寺 本堂

②紫式部が源氏物語の作者だと考えられているワケ

そもそも紫式部が源氏物語を書いたという例は、男女平等を語るのにふさわしくないです。
というのは、源氏物語の作者は男ではないかとする説があるからです。

紫式部という女性は、一条天皇の中宮・藤原彰子(藤原道長の娘)の女房として実在していたことはほぼ事実とみてよいと思います。

ただ、源氏物語には作者名が記されていないんですね。

石山寺2

紫式部が源氏物語の作者だと考えられている理由は次のようなもののようです。

a.『紫式部日記』に次のような記述がある。

・宮中の宴で、藤原公任が「若紫はおいでですか」と紫式部に訊ねたが、
 紫式部は「光源氏のような方もいないのに紫の上がいるはずない」と思って聞いていた。
 
・一条天皇が 「源氏物語の作者は日本紀を読んでいるのだろう。才能のある人のようだね。」とおっしゃったのを聞て左衛門の内侍が「紫式部は才能をひけらかしている」などと殿上人に言いふらし、「日本紀
の御局」というあだ名をつけているのは滑稽なことだ。

・娘・中宮彰子が源氏物語を読んでいるのを知った道長が、そばにあった梅の枝が置かれている色紙を取り、歌を書いて紫式部をからかった。
すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
(梅は酸き物ですが、あなたは好き者として評判ですから、梅の枝を折らないで過ぎていく男なんていないでしょうねえ)

これに対して紫式部は次のように歌を返しました。
人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ
(梅の枝はまだ折られていませんが、誰が好き者などと言うのでしょうか)


これらの記述は、紫式部が源氏物語の作者であると断定できるものではありませんね。
紫式部が源氏物語の作者でなくとも、上のような会話は十分なりたちそうに思えます。

石山寺 滝蔵権現社

b.『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』に次のように記されている。
上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾
(上東門院の女房 歌人 紫式部はこれなり。 源氏物語の作者、ある本には藤原雅正の娘うんぬん、藤原為時の妹うんぬんとある。御堂関白道長の妾)

石山寺-心経堂 

③源氏物語の著者は男だった?

さて、それでは源氏物語の著者は男だったとする説の根拠についてみてみましょう。

a.源氏物語は臣籍降下した源氏が藤原氏との政争や恋愛に打ち勝つというもの。(現実は藤原氏が勝利している。)
そういう物語を藤原氏の紫式部が書くだろうかという疑問。

b.源氏物語の妊娠・出産の記述では子供を産んだ経験のある女性が書いたとは思えない矛盾がある。(紫式部は20代後半に藤原宣孝と結婚し娘を出産している。結婚3年後に宣孝は死亡。)

c.作中に婦人語がない。

d.紫式部の父親の役職は式部大丞であり、そこから彼女は紫式部と呼ばれていたと思われる。
作中に登場する「藤式部丞」は紫式部の父親がモデルと考えられるが、愚かな人物として描かれており、紫式部が書いたとするには不自然。

石山寺 三十八所権現社-鳥居 

源氏物語の作者は紫式部なのか、どうかについては、これからじっくり考えてみたいと思います。

ただ、男が書いた説もあるので、「日本は男女平等だった」の証拠としてあげるにはふさわしくないですね。
また、源氏物語を書いたのが紫式部でまちがいないとしても、さきほども述べたようにたった一例だけをあげて「日本は男女平等だった」というのはあまりにお粗末です。

ですから、紫式部以外の例を4~5個程度はあげて戴きたいと思います。

石山寺 

石山寺 紅葉

石山寺 東大門

石山寺-多宝塔 


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[2019/11/11 17:11] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

彦根城 紅葉 ライトアップ 『人柱になったお菊の正体とは?』 


滋賀県彦根市 彦根城
2014年11月23日 玄宮園より撮影


彦根城 ライトアップ2

①彦根城の人柱伝説

彦根城に次のような伝説があります。

1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となりました。
関ヶ原の合戦で功のあった井伊直政の息子・直継(直勝)が彦根の地を賜り、彦根城を築城することとなりました。
しかし工事ははかどらず、直継は「人柱をたてよ」と命じました。
ある藩士の娘・菊が「自分が人柱になる」と名乗り出、菊は生き埋めになりました。
その後、工事は順調に進みましたが、それ以来、彦根城に菊の花を植えてもすぐに枯れてしまうようになりました。

彦根城 ライトアップ

②伊井直政は徳川家康とBLの仲だった?

変態BL好きの私なんかは菊といえば男色を思い出してしまいます。
井伊直政は徳川家康と菊の契りをかわしていたとする説があるんですよね―❤

井伊直政は徳川家康の小姓で万千代と名乗っていましたが、小姓は男色の相手とされることが多かったのです。
また、『甲陽軍鑑』には「万千代、近年家康の御座を直す」と記されています。
「御座を直す」というのは菊の契りをかわすという意味ではないかといわれています。

彦根城 ライトアップ3 

③井伊直正、家康の小姓になって出世する。

井伊直政の父・直親は直政が2歳のときに謀反の嫌いをかけられて今川氏真に殺されました。
そこで直親の従妹の井伊直虎(大河ドラマで有名ですね。)という女性が中継ぎとして井伊氏の当主となりましたが、所領を失ってしまいます。

このように直政は不幸な幼年期を過ごしたのですが、家康の小姓になって以降、直正の人生はどんどん開けていきました。
直政は井伊氏の旧領を与えられ、井伊家は復活を遂げるのです。

直政は武田氏との戦いで戦功をあげ、旗本先手役となります。
本能寺の変では、家康の伊賀越えに従いました。
その後、井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となっています。
ひこにゃんが被っている兜は井伊直政が用いていたもので、鬼の角のような前立物から「井伊の赤鬼」と称されました。

伊吹山と伊井直正

直政は関ヶ原の戦いで家康本軍に随行し数々の手柄をあげますが、銃弾を右腕(または右肩)に受けて大けがをしてしまいました。

戦後も精力的に戦後処理などに尽力しましたが、鉄砲傷に破傷風を生じ、1602年に死亡しました。享年41歳でした。
その後、直政の息子・直継が彦根城の築城し、彦根藩(35万石)が置かれました。
彦根藩は明治まで井伊氏の藩として栄えることになるのですが、それは直政の功績と、直政が家康より寵愛を受けたことによるところが大きかったりして?


人柱になった娘・菊とは直政を女性に見立てて創作された物語なのではないでしょうか。
直政は関ヶ原の戦いで功労があったにもかかわらず、そのとき受けた怪我がもとで亡くなってしまったことを「人柱」と表現しているのかも~。
菊という名前にしたのは、直政が家康と菊の契りを結んでいたためだったりして?

彦根城 ライトアップ4 

彦根城 玄宮園2 
彦根城 玄宮園 


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[2019/11/04 00:16] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)