常楽寺 紅葉 『阿星山は紫香楽宮の鬼門守護の寺ではないと思う。』 

滋賀県湖南市 常楽寺
2017年11月中旬 撮影


常楽寺 本堂 五重塔2 
常楽寺 本堂 三重塔 104


①阿星寺と長寿寺・常楽寺

先日、長寿寺と長寿寺の鎮守・白山神社の記事を書きました。
長寿寺 紅葉 『長寿寺は孝謙(称徳)天皇誕生に伴って建立された?』 
白山神社(長寿寺) 紅葉 称徳天皇はククリヒメ? 

その長寿寺・白山神社から約1kmほど行ったところに常楽寺があります。
どちらも山号は阿星山といいます。

かつてこのあたりに阿星寺(阿星山寺)があったようで、次のように記されているサイトがありました。

元明天皇の和同年中(708~715)、金粛菩薩が甲賀郡の大岳(阿星山)の霊地を開き、初めて仏門弘道の精舎(寺院)を建て、数字の殿堂を構え、僧坊が甍を並べ、阿星寺と号したが、魔風のため火災にかかり、本尊の千手千眼観音像は常楽寺に飛んで来たという(『常楽寺文書』「近江国常楽寺勧進帳」)。

今日、山腹にある「堂立遺跡」や「阿星寺跡」と名づける寺院遺跡は、往時の阿星寺の一部であろう。

~略~

阿星寺の由緒をひく石部町東寺の長寿寺と西寺の常楽寺が、「もと聖武帝信楽宮に遷都の時、鬼門守護の寺なり」といわれるのは(『東海道名所図会』)、阿星寺の存在を抜きにしては考えられない。


http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/202030100.htm より引用

常楽寺 鐘楼 
常楽寺 鐘楼

②長寿寺・常楽寺は鬼門守護の寺?

上記リンク先に
長寿寺と西寺の常楽寺が、「もと聖武帝信楽宮に遷都の時、鬼門守護の寺なり」といわれるのは
http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/202030100.htm より引用
とありますね。

ウィキペディアにもそう記されています。
【常楽寺】
寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82)より引用

【長寿寺】
寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AF%BF%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82) より引用

常楽寺 本堂 五重塔3 
常楽寺 本堂 三重塔

③鬼門は北東

次に鬼門について調べてみましょう。

鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。
陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。
他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。
鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。
南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E9%96%80より引用

常楽寺 本堂 五重塔5 
常楽寺 三重塔

④比叡山延暦寺は平安京鬼門封じの寺

比叡山延暦寺は平安京鬼門封じの寺といわれます。

延暦寺 東塔 阿弥陀堂 
延暦寺


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC#/media/File:Heiankyo_landsat.jpg
平安京の位置は、上記リンク先で確認してください。

地図上に京阪鴨東線と表示のある西あたりが平安京です。
延暦寺は平安京の北東の位置にありますね。
すなわち、平安京の北東に延暦寺をおくことで、鬼門より鬼がやってくるのを防ぐという呪術的な意味あいがあるのでしょう。

常楽寺 本堂 五重塔4

常楽寺 三重塔 

⑤常楽寺や長寿寺は紫香楽宮跡の北北西では?


次に常楽寺・長寿寺と紫香楽宮跡の位置関係を見てみましょう。
常楽寺は阿星山の北、長寿寺は常楽寺の東1kmほどの場所です。


あれ?常楽寺は紫香楽宮跡の鬼門(北東)ではなく、北北西あたりにありますね?

ウィキペディアをよく読んでみると、次のように書いてあります。

聖武天皇が天平17年(745年)に遷都した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡に比定され、1926年(大正15年)に史跡として約33000平方メートルが指定された。
しかし、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、黄瀬・牧にある遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国国分寺の跡である可能性が高くなった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E9%A6%99%E6%A5%BD%E5%AE%AE%E8%B7%A1 より引用




滋賀県甲賀市信楽町宮町641−1の甲賀市紫香楽宮跡関連遺跡群発掘調査事務所 遺構展示室にピンを立ててみました。
宮町遺跡はたぶんこのあたりだと思います。

うーん、でもやっぱり常楽寺・長寿寺は鬼門の方角にはありません。
常楽寺・長寿寺は信楽の宮の鬼門封じの寺ではないということではないでしょうか。

⑥阿星山は玄武の山?

710年から794年までの間に何度も遷都が繰り返されています。

平城京(710)→恭仁京(740)→紫香楽宮(74?)→難波宮(744)→平城京(745)→長岡京(784)→平安京(794)

常楽寺・長寿寺はこのうちの難波宮の鬼門にあるとはいえそうです。

また紫香楽宮は四神相応の地に作られたともいいます。
北方守護の神・玄武は丘陵に、南方守護の神・朱雀は湖沼に、東方守護の神・青龍は清流に、西方守護の神・白虎は大道に棲むといわれ、北に丘陵、南に湖沼、東に清流(川)、西に大道のある土地は指針相応の地であり大変縁起がいいといわれていました。

阿星山(常楽寺・長寿寺)はほとんど紫香楽宮の北にあると言ってもいいので、阿星山は玄武の丘陵なのでしょうか?
でも、南に湖沼、東の清流が見当たりません~。

常楽寺 本堂
常楽寺 本堂 


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[2017/11/19 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

白山神社(長寿寺) 紅葉 称徳天皇はククリヒメ? 

滋賀県湖南市 長寿寺
2017年11月中旬 撮影


長寿寺 白山神社 鳥居

白山神社 

①白山信仰


前回ご紹介した長寿寺の隣というか?境内?に白山神社があります。長寿寺の鎮守です。

長寿寺 門 
長寿寺

白山神社については結構たくさん記事を書いています。すごく気になる神社なんですね~♪
http://kntryk.blog.fc2.com/?q=%E7%99%BD%E5%B1%B1&charset=utf-8

石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがって、標高2702mの白山があります。

白川郷 合掌造 集落

白河郷からみた白山(向かって右の雪を被った山が白山)

②ククリヒメは括り姫?潜り姫?


この白山に対する信仰を白山信仰といい、白山神社にはたいてい菊理姫(ククリヒメ)が祀られています。

イザナギは死んだイザナミを迎えに黄泉平坂に行きますが、腐って蛆がたかったイザナミの姿を見て恐ろしくなり、逃げ帰ってしまいます。
イザナミはこれに腹を立ててイザナギを追いかけますが、イザナギは黄泉平坂まで戻り、大きな石をおいてあの世とこの世の出入り口である黄泉平坂を塞ぎます。
そしてイザナギは「私がはじめ悲しみ、慕ったのは私が弱かったからだ」といいました。
すると泉守道者(よもつちもりびと)がイザナギにイザナミの言葉を伝えました。
「私はあなたと、すでに国を生みました。これ以上生む必要はないでしょう。私は黄泉の国にとどまります。あなたとは一緒に帰りません。
このとき菊理媛神が何か言いました。イザナギはこれをほめ、その場を去りました。

(『日本書紀』の一書 第十)

ククリヒメは何を言ったんですかね?気になりますが、発言の内容は記されていません。

ククリヒメは「ククリ」は「括る」で縁結びの神、「潜る」で水神とする説などあります。

 長寿寺 白山神社 鳥居2

白山神社

③ククリヒメは皇位継承の神?

ククリヒメから私は在原業平の有名な歌を思い出します。


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

龍田川 紅葉

龍田川

「ちはやぶる」・・・「神」にかかる枕詞です。
「神代も聞かず」・・・「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」・・・奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川。
「から」・・・「韓の国」や「唐土(もろこし)」
「くれなゐ」・・・「紅色」

ここまでは難しいところはありませんね。 

問題は「水くくる」です。
「水くくる」には2つの解釈があります。

a.水を「括り染め」にした。→「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
b.水を潜った。→「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」

この在原業平の歌は在原業平の祖父・平城天皇の次の歌と対応していると思います。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

平城上皇は嵯峨天皇と対立して敗れ出家しています。(薬子の変)
これに連座したとして阿保親王は大宰府に流罪となりました。

10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないかと思います。

そして藤原高子が清和天皇の皇子として産んだ陽成天皇は在原業平の子であると言う説があります。
というのは伊勢物語に在原業平と藤原高子が駆け落ちするというシーンがあるからです。

百人一首かるた

龍田川のもみじは皇位継承の血筋の比喩だと思います。
「龍田川を渡る」とは「平城天皇が薬子の変をおこす」ことの比喩で「薬子の変をおこすと皇位継承の血筋が途切れてしまうだろう(私の子孫は皇位につけないだろう)」というのが歌の意味ではないでしょうか。

そして在原業平は、自分の祖父・平城上皇が薬子の変をおこして途切れた皇位継承の血筋が、陽成天皇即位によって括られると詠んだのだと思うのです。

詳しくはこちらの記事をお読みください→龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 

ククリヒメは括り姫で皇位継承を括る(結びつける)神なのではないでしょうか?

④称徳天皇は天智系天皇にとっての皇位継承を括る神?


長寿寺は聖武天皇の皇女誕生の際に七堂伽藍が整備されたといいます。
聖武天皇の皇女は3人いますが、そのうち阿倍内親王が即位して孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となっています。
おそらく阿倍内親王誕生の際に長寿寺の七堂伽藍が整備されたのでしょう。

称徳天皇で天武系天皇の血筋が絶え、天智系天皇に変わったことは、こちらの記事に書いたとおりです。
長寿寺 紅葉 『長寿寺は孝謙(称徳)天皇誕生に伴って建立された?』 

なるほど!称徳天皇は天智系天皇が皇位継承するきっかけになった神=括り姫だといえる。
それで長寿寺の鎮守に白山神社が勧請されたのだろうって?

長寿寺 白山神社 拝殿 

白山神社

⑤称徳天皇は阿倍仲麻呂と藤原光明子の子?

うーん、そういうこともあるかもしれないけど
私は称徳天皇って阿倍仲麻呂と藤原光明子の間に生まれた娘ではないかと思ってるんです。

四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ/孝謙天皇(のちの称徳天皇)
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)


大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち/光明皇后〈藤原光明子)
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)

この二つの歌は、第12次遣唐使を送る際に詠んだもので、この遣唐使船が帰国する際、阿倍仲麻呂が乗船して日本に帰る予定になっていました。

帰国まぎわに阿倍仲麻呂は次のような歌を詠んでいます。

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/阿倍仲麻呂

(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)

仲麻呂が乗った船は暴風雨にあい、結局仲麻呂は日本には戻れず唐でなくなるのですが~。


ならるりえ 遣唐使船 
なら瑠璃絵で展示されていた遣唐使船

光明皇后の「光明」とは「暗闇を照らす光」のことをいいます。
暗闇を照らす光とは月のことではないでしょうか。
そして三笠山は春日大社の背後にあって春日大社とは関係が深そうに思えますが、春日大社は藤原氏の氏神、
光明皇后は藤原不比等の娘です。
「みかさの山に いでし月」とは光明皇后のことだと思えて仕方がないんですね~。


浮見堂 三笠山 百日紅 
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山

そして孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の娘とされていますが、本当の父親は阿倍仲麻呂では?
孝謙天皇は阿倍内親王といい、阿部氏と関係がある女性のように思えるんですよね~。

⑥称徳天皇は蝦夷だった?


『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であると記されています。

当時、日本の東国には蝦夷と呼ばれるまつろわぬ民が住んでおり、朝廷はたびたび蝦夷征伐の軍を送っていましたが、あるとき、朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたというのです。

また東大寺の大仏建立に用いられた黄金は、彼女の縁で奥州から送られた、とも記されています。

東日流外三郡誌は後世の偽書とされており、その内容をそのまま信じることはできないんですが、気になる記述です。

長寿寺 白山神社 神殿 
白山神社 神殿

阿倍仲麻呂は蝦夷の安倍(阿倍)氏なのか?
そして私は称徳天皇(孝謙天皇/阿倍内親王)は阿倍仲麻呂の娘ではないかと考えているのですが、阿部仲麻呂が蝦夷だとすれば、称徳天皇もまた蝦夷だといえます。

これが正しければ、蝦夷の女性が皇位についたということになり、女性とはいえ、万世一系の建前が崩壊してしまいます。

ところが称徳天皇は急死して天智天皇の孫の光仁天皇が即位しました。
そのため称徳天皇は皇位継承を天皇家に戻した神、皇位継承を正しく括った神(阿倍氏が皇位継承せず、天皇家が皇位継承する)として信仰され、
その結果白山神社がここに勧請されたんだったりして?


詳しくはこちらの記事をお読みください→海龍王寺 雪柳 『光明皇后と阿倍仲麻呂のスキャンダル?』 

長寿寺 本堂 白山神社 拝殿

白山神社 拝殿(向かって右)と 長寿寺本堂(向かって左)



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[2017/11/17 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

長寿寺 紅葉 『長寿寺は孝謙(称徳)天皇誕生に伴って建立された?』 

滋賀県湖南市 長寿寺
2017年11月中旬 撮影

長寿寺 門

①長寿寺は阿倍内親王誕生に感謝して創建された寺?

長寿寺は奈良時代、聖武天皇の勅願によって良弁が紫香楽宮の鬼門封じとして創建したと伝わります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AF%BF%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82)
上記ウィキペディアには、聖武天皇の皇女誕生の際、七堂伽藍を建立して長寿寺と名付けたとあります。

皇女誕生の際に七堂伽藍を建立したという話は、私は初めて聞きました。
(皆さんはこういう話を聞いたことがありますか?もしあればぜひ教えてくださいね!)

のちに天皇に即位した皇子誕生が、みほとけの御加護を受けたものであるとして、寺院が建立されたり伽藍整備されたという話はあります。

岩船寺 紅葉 『長屋王、皇位継承の神となる?』 
↑ こちらの記事では
813年、嵯峨天皇が第二皇子・仁明天皇の誕生を感謝して岩船寺の堂塔伽藍の整備を行ったことなどを書きました。

聖武天皇の皇女としては、光明皇后との間に阿倍内親王、県犬養広刀自との間に井上内親王、不破内親王がいます。
聖武天皇の3人の皇女のうち、阿倍内親王は史上初にして史上唯一の女性皇太子となり、孝謙天皇となっています。

長寿寺の伽藍整備は阿倍内親王誕生に伴って行われたものではないかと思います。

長寿寺 鐘楼 

②今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う!

孝謙天皇は淳仁天皇に譲位しますが、淳仁天皇・藤原仲麻呂との関係が悪化。
ついには「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う!」と宣告しています。(かっこええ~)

そして藤原仲麻呂の乱を制圧し、淳仁天皇は廃されます。
こうして孝謙天皇は再び皇位について称徳天皇となりました。

長寿寺 弁天堂

③女性天皇はいたが天皇家は男系継承

最近、女性天皇を認めるか認めないか、というような議論があります。
女性天皇賛成派は古代に女性天皇がいたことなどを賛成の理由としてあげたりしますね。

しかし、御存知のように日本の女性天皇はすべて中継ぎであり、天皇家は男系で継承されています。
持統天皇から光仁天皇までを表にまとめました。↓ (女性天皇は飛鳥時代に推古天皇・皇極(斉明)天皇、江戸時代に明正天皇、後桜町天皇もいます。)
 天皇 性別その他
41持統 天智天皇蘇我遠智娘天武の皇后。草壁皇子を設けるが草壁は早世。孫の文武を即位させるため中継ぎで即位
42文武草壁皇子元明天皇
43元明天智天皇蘇我姪娘草壁皇子の皇后。文武の母。文武が早世したとき、孫の聖武がまだ幼かったため中継ぎとして即位
44元正草壁皇子元明天皇文武の姉。文武の子(元正の甥)聖武がまさ幼かったため中継ぎとして即位。生涯独身。
45聖武文武天皇 藤原宮子
46
孝謙
聖武天皇光明皇后 聖武天皇には県犬養広刀自との間に安積親王があったが、女性の孝謙が即位。
安積親王の母親が藤原氏でないためか?生涯独身。
47淳仁舎人親王当麻山背父親の舎人親王は天武天皇の皇子。
48称徳聖武天皇光明皇后孝謙と同一人物。天武系天皇ここで絶える。
49光仁志貴皇子紀 橡姫志貴皇子の父親は天智天皇。


現在の皇太子徳仁親王の子供は敬宮 愛子内親王だけですね。
そこで敬宮 愛子内親王が女性天皇となり、さらに敬宮 愛子内親王が結婚されて親王をお産みになられたとしましょう。
敬宮 愛子内親王がお産みになられた親王が仮に皇位についたとすると、男系継承だった皇位継承の伝統が大きく変わってしまいます。
あくまでも、天皇家の血筋の男性の子孫が皇位継承するというのが日本の伝統なのです。
また、敬宮 愛子内親王の配偶者に権力が生じることにもなります。

それゆえ、女性天皇に反対する人々がいるのでしょう。

私?私は天皇制そのものが反対なので、女性天皇に賛成だとか反対だとかいうような意見はありません(笑)
これについてはまた書く機会があるかもしれません。

長寿寺-本堂 

④天武系天皇の血筋絶え、天智系天皇に。

たぶん、そういう皇位継承のゴタゴタを避けるためだと思いますが、独身で即位したふたりの女性天皇、元正・孝謙(称徳)は生涯独身でした。

(のちの明正・後桜町も生涯独身。)

そして天武系の天皇は称徳で絶えてしまい、49代天皇には天智天皇の皇子・志貴皇子を父親に持つ光仁天皇が即位します。

⑤天智系天皇への転換は藤原氏の策略?

天武系天皇の血筋が絶え、天武系天皇へ転換したのは、藤原氏の策略だったのではないかと思ったりします。
というのは大鏡・公卿補任・尊卑分脈などの史料に、藤原不比等は天智天皇の後胤だと記されているのです。

天智天皇は藤原鎌足に中臣鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、 その時鏡王女はすでに天智天皇の子供である不比等を身ごもっていたと記した史料があるのです。
真偽はともあれ、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたことでしょう。

とすれば、天皇を天智系に戻したいと考えるのは当然のことと思われます。

実際、称徳天皇の次代の天皇に天智天皇の孫にあたる光仁天皇を押したのは、中臣鎌足の孫で藤原不比等の子である藤原百川や藤原永手でした。


十王寺



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[2017/11/15 15:43] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

延暦寺 紅葉 『なすび婆の正体とは?』 

滋賀県大津市 延暦寺
2017年11月5日 撮影

延暦寺 大講堂 鐘楼 紅葉  
延暦寺 鐘楼

①なすび婆

延暦寺には『なすび婆』の伝説が伝えられています。

昔宮中に仕えていた女が人を殺して地獄に堕ちました。
しかし仏の慈悲によって心は比叡山に住むことが許されました。
織田信長の比叡山焼き討ちのとき、なすび婆は大講堂鐘楼の鐘をついて人々にこれを知らせました。

延暦寺 東塔 阿弥陀堂 
延暦寺 東塔 阿弥陀堂 101

②一富士・二鷹・三茄子の謎

玉雲宮 百日紅 『一富士・二鷹・三茄子の謎、そして殺生石はなぜ高田の地に飛散したのか』 

↑ こちらの記事に次のようなことを書きました。

い.初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子という。
ろ.私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えている。
は.栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
       銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
に.鷹は鷹の爪ではないか。
       鷹の爪の赤い色は辰砂(丹/水銀)を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
ほ.富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
       富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。

延暦寺 東塔 阿弥陀堂前の鐘楼 
延暦寺 東塔 弥陀堂前の鐘楼

③信仰心からくる言葉の表現

日本語では、信仰心から事実とは異なる表現を用いることがあります。
事実とは違うことを言うのは嘘ですが、嘘ともいいきれないような『言い回し』なんですね~。

たとえば日本語では「亡き父が見守ってくれたおかげで事業がうまくいった」のように言うことがありますね。
実際には事業がうまくいったのは自分や社員が努力した結果だといえるのですが、こういう言葉を聞いて「嘘つき」と思う人はいないはずです。
この人にとっては亡き父親は神様のように自分を見守ってくれる存在なのです。
また、この人にとって「亡き父が見守ってくれたおかげ」というのは嘘ではないのです。
「亡き父がいつも見守ってくれている」と信じているのですから。

織田信長の比叡山焼き討ちのとき、なすび婆は大講堂鐘楼の鐘をついて人々にこれを知らせました。

というのも、これと同様の表現ではないかと思います。

元三大師堂 紅葉 
元三大師堂 

④「なすび婆」とは大講堂鐘楼の愛称だった?


「なすび婆」とは大講堂鐘楼そのものの愛称であるように思えます。
鐘は銅でできています。
「銅=なすび」なので、「なすび婆」というわけです。
そして「なすび婆」は単なる鐘という存在を超え、神として信仰されていたのではないでしょうか。

比叡山焼き討ちのとき、誰かがこの大講堂鐘楼の鐘をついて人々に危険を知らせたのかもしれません。
ところが実際にはそうでも、人々はなすび婆(大講堂鐘楼)を神のように信仰していたため、なすび婆(大講堂鐘楼)が自ら鐘を鳴らしたという表現を用いたのではないでしょうか?

比叡山より京都を望む 

比叡山より京都方面を望む




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[2017/11/06 19:22] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

池田町洋館街 『ヴォーリズのサインと禅画』 


①池田町洋館街

明治時代にタイムスリップしたかのような洋館を発見。

池田町 洋館街 
旧ウォーターハウス邸

この一画には赤煉瓦の塀がめぐらされていました。

池田町 洋館街2 
ダブルハウス

異国を歩いてるような気分に。

池田町 洋館街-ポーチ 

これらの建物はヴォーリズが設計したものです。

池田町 洋館街-ドア 
 
②一柳米来留のサイン

ヴォーリズはメンソレータム(現在はメンタームに改称)で有名なヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の設立者であり
また高名な建築家でもありました。
子爵令嬢の一柳満喜子と結婚したのち、日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名しています。

米来留は「米(アメリカ)から来て留まる」という意味だそうです。

http://vories.com/album/09.php ←こちらに米来留(ヴォーリズ)のサインの画像が掲載されています。

 http://1gan.co.jp/2016/09/05/post-1965/←ヴォーリズのサインは丸・三角・四角を描いた禅画に似ています~~!

③天円地方

中国では、天は円く、地は方形であると考えられていました。(天円地方/てんえんちほう)

中国の女神・女媧は手にコンパスを、男神の伏義は手に直角定規をもっており、コンパスは天を、直角定規は地をあらわすと言われています。

Anonymous-Fuxi and Nüwa3

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
 よりお借りしました。
作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

陰陽で考えれば、陰は女性や大地を、陽は男性や天を表します。
すると女神である女媧が天を表すコンパスを、男神であるが地をあらわす直角定規をもっているのは逆じゃないかと思われるかもしれません。

女媧や伏義が手に持っている道具は自分自身を表すシンボルであるとは限りません。
女媧が手に持つコンパスは伏義を、伏義が手に持つ直角定規は女媧を意味し、女媧と伏義が和合していることを表しているのかもしれません。

近江八幡市立八幡小学校 

池田町洋館街近くにある近江八幡市立八幡小学校。
もともとは大正時代に田中松三郎氏の設計で建てられたものでしたが、最近改築したそうです。
でもとてもおしゃれな建物で、洋館にマッチしていますね。


③ヴォーリズのサインは禅画の影響?キリスト教の影響?

それはさておき、禅画はこの中国の天円地方を表現したものではないでしょうか。

ヴォーリズは禅画にインスピレーションを受けて上記のサインのデザインを思いついたのでしょうか?
それもありえますが、ヴォーリズは信仰していたキリスト教からデザインのヒントを思いついた可能性もありそうです。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/37335.htmlに、キリスト教の壁画の初期のものは丸や三角の記号だったとの旨が記されています。

またフリーメイソンのシンボル(
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Square_compasses.svg?uselang=ja)はコンパスと直角定規をダビデの星の形に組み合わせたもので、陰と陽、天と地、男と女の融和を表すとされます。
フリーメイソンは16世紀後半から17世紀初頭に西洋で発生したものですが、このフリーメイソンのシンボルもコンパスと直角定規が用いられているというが興味深いです。

近江八幡市立八幡小学校2 
近江八幡市立八幡小学校 

④Λは男性を、∨は女性を表す?

ダン・ブラウンの「ダビンチコード」には、キリスト教ではΛは男性を、∨は女性を表すと書いてあったと思います。。
Λは△、∨は▽といってもいいのではないでしょうか。
すると初期のキリスト教の壁画に描かれた三角は男性や女性をあらわすものであった可能性があります。

▽と△を組み合わせた六芒星(イスラエルのダビデの星)は男女和合を表しているのではないかと思います。
フリーメイソンのシンボルのコンパスは△またはΛで男性を、直角定規は▽またはⅤで女性を表すものであるとも考えられます。

荒魂(男神)と和魂(女神)を和合させることは、荒魂を仏法守護の神に転じさせる呪術であったのではないかと私は考えています。
詳しくはこちらをお読みください。→ 飛鳥 光の回廊 岡寺 『龍を池に閉じ込める呪法』  


ついでにいえば、日本では六芒星は籠目紋といい、魔除けに用いられることもあったそうです。

東洋と西洋には似たものがたくさんあるようです。
ルーツが同じなのか、はたまたシンクロニシティなのか?

池田町 洋風住宅 

池田町 洋館街3   


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[2017/09/27 12:39] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

三大神社 藤 『中臣鎌足は本当に藤原姓を賜ったのか?』 

滋賀県草津市 三大神社
2017年5月5日 撮影

三大神社 藤3

①老藤由来記


境内には『老藤由来記』を記した説明版がありました。
文語体かな? 現代では口語体で文章を書くので、少しわかりにくいですね。
私なりに口語体に直してみました。(間違っていたら指摘をお願いします~。)

三大神社 藤6

老藤由来記

古老ノ伝説ニ曰ク、
(古老の伝説では次のように伝える。)

聖徳太子十七条憲法ヲ 御創立シ給ヘリ、
(聖徳太子が十七条憲法を作られた。)

是ヨリ後中大兄皇子(天智 天皇)ト和州中臣鎌足等ト蘇我入鹿ヲ誅スル 事ヲ謀リ給ヒ、
(この十七条憲法を受けてのちに中大兄皇子(天智天皇)と倭国の中臣鎌足らが蘇我入鹿を征伐することを計画された。)

蘇我氏滅亡セル後内大臣藤原 鎌足公薨去セラレ飛鳥ニ葬リタリシカ其長子 定恵墓トシテ大和ノ談峯ニ改メ葬リタリ、
(蘇我氏が滅亡した後、内大臣・藤原鎌足公は薨去され、飛鳥に葬られたが、鎌足公の長子・定恵が鎌足公の墓として大和の談峯に改めて葬った。)

然 シテ後天武天皇ノ勅ヲ拝シテ談峯ノ藤花ニ因 ミ藤原ノ隆盛ヲ祈念トシテ彼ノ倉橋山ノ藤ノ 苗ヲ移植セルカ
(そして後に天武天皇の勅により談峯の藤花にちなみ藤原氏の隆盛を祈念して、かの倉橋山の藤の苗を移植したが)

年ヲ追テ成木シ巨大ノ藤樹ト ナリシヲ織田信長ノ兵火ニ罹リ巨藤亦焼失。
(年を経て成木して巨大な藤樹となったが、織田信長の兵火によって巨大な藤の木は焼失した。)

後株元カラ芽生エ次第ニ繁茂セリ今ノ藤樹ハ 即チ是ナリ
(その後、株本から芽が出て繁殖した。これが三大神社の藤である。)

三大神社 藤4

談峯とは、談山神社のある奈良県桜井市の多武峰のことだと思います。
(談山神社には談峯如意輪観音がありますし、談山神社の由来を記した書物は『談峯記』というようですので。)

談峯の藤花に因み とは、「中大兄皇子と中臣鎌足が倉橋山の藤の花の下で蘇我入鹿誅殺計画について話し合ったという伝説に因む」ということでしょう。

藤原 中臣鎌足は死の直前、天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜りました。

倉橋山 「中大兄皇子と中臣鎌足は都の東にある倉橋山の藤の花の下で蘇我入鹿誅殺計画について話しあったため、その峯のことを談山(かたらいのやま)という。」との旨が『和漢三才図会』に記されています。
つまり倉橋山とは談山(かたらいのやま)のことだと考えられます。
倉橋山=談山は談山神社のある多武峰のことではないでしょうか。

三大神社 藤2

②八色の姓・52氏の中に藤原姓がない

三大神社は天智天皇4年〈665年)、天智天皇の勅を受けて大中臣金連が風神を祀ったのが起源とされます。

中臣金(?ー672年)は中臣鎌足〈614年-669年)の従兄弟にあたる人物です。

中臣鎌足が天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったのは死の間際の669年です。
こうして中臣鎌足(藤原鎌足)は藤原氏の始祖となったわけです。
三大神社が創建されたとき、まだ中臣鎌足は天智天皇より藤原姓を賜っていません。

そして鎌足の死後、鎌足の次男の不比等(659年―720年)が藤原姓を引き継いだとされます。

でも、おかしいんですよね。
天武天皇13年(684年)に八色の姓が定められ、52氏が朝臣を与えられたんですが、この中に藤原姓がない!

三大神社 藤

③藤原京建都に功績のあった不比等が藤原京にちなんで藤原姓を賜った?


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14151135009

↑ 上記知恵袋のbanquo0421さんの回答が興味深いです。

要約すると次のような内容が記されています。

⑴臣下の姓と同じ名前が、新しい宮につけられる、というようなことはない。
臣下のほうが遠慮して改姓するはずである。(823年、大伴氏は大伴親王(淳和天皇)が即位した際)した際、天皇の諱と同じ姓であるのを憚って伴氏に改姓している。)

⑵天智天皇の子孫は近江京にちなんで淡海氏という姓を賜った。
天武天皇の子孫は飛鳥浄御原宮にちなんで清原氏という姓を賜った。
桓武天皇の子孫は平安京にちなんで平氏という姓を賜った。

⑶⑵の例からわかるように「都の名前が姓になる」ことは普通にあった。

⑷中臣鎌足が藤原姓を賜ったのではなく、藤原京建都に功績のあった不比等が藤原京にちなんで藤原姓を賜ったのではないか。

⑸実質上、日本書紀を編纂したのは藤原不比等である。不比等が「鎌足が天智天皇より藤原姓を賜った」と偽ったのではないか。

⑹不比等は手柄を誇らない性質で、生涯右大臣にとどまっていた。(政界のトップは左大臣)
また、律令・日本書紀の編纂を主導したが、自分の名前が表に出ないようにしている。
不比等は自分が「天皇から姓を給わるような大物である」ことを誇りたくなかったのではないか。

⑺自分一代でのしあがった成り上がり者だと思われたくなかったのではないか。

三大神社 藤5

おお~、すばらしい回答ですね!
座布団2枚!!

いままで藤原という臣下がいるのになんで新しい都を藤原京という名前にしたのかととても不思議に思っていましたが
banquo0421さんの回答でスッキリです!

不比等は自分の父・鎌足が中大兄皇子(天智天皇)をサポートして蘇我政権を倒したことを誇りに思っていたため
自分ではなく、父の鎌足が藤原姓を賜ったということにしたかったのかもしれませんね。

三大神社


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[2017/05/07 11:27] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

長命寺 雪 『武の暗号?』 

滋賀県近江八幡市 長命寺
2011年2月 2013年撮影


長命寺-雪2 

塔百景38


2011年雪景色を撮りたいと思ってやってきたのですが、雪は屋根の上にしか残っていない状態でした~。

2013年、リベンジしようと再び雪の長命寺を参拝しましたが、五重塔は修理中で箱の中~(涙)

長命寺-雪

向かって右より、三仏堂、護法権現社拝殿、鐘楼

300歳以上生きた武内宿禰

さて、長命寺には次のような創建説話が伝えられています。

景行天皇の御代、武内宿禰が柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫って長寿を祈願しました。
その後、飛鳥時代に聖徳太子がこれを発見しました。
そこへ白髪の翁が現れ、聖徳太子に「その木で仏像を彫りなさい」と告げました。
聖徳太子は十一面観音を彫り、寺をつくってこの観音様を安置しました。


創建説話に登場する武内宿禰は300歳以上という長寿で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたとされます。

長命寺 鐘楼 

鐘楼

②兄・武内宿禰と弟・甘美内宿禰 

武内宿禰にはこんな伝説もありますよ。

武内宿禰の弟・甘美内宿禰(うましうちのすくね)は兄を失脚させるために「兄は謀反を企てている」と応神天皇に讒言しました。
盟神探湯(くがたち/熱湯に手をつけて火傷をしない者が正しく、火傷をした者が偽りとする古代の裁判)をしたところ、武内宿禰が勝ちました。


甘美内宿禰は物部氏の先祖?

武内宿禰は蘇我氏、紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、波多氏、淡海氏、許勢氏らの先祖とされています。
この中に物部氏の名前はありません。
そして甘美内宿禰(うましうちのすくね)という名前はは物部氏の祖神とされるでウマシマジノミコトに似ています。
ここから、私は甘美内宿禰とは物部氏の先祖ではないかと考えました。

長命寺 六所権現 

六処権現影向石

③初代神武天皇よりも早く天下っていた神

ウマシマジノミコトの父親はニギハヤヒ、母親はナガスネヒコ(河内地方の豪族だと考えられています)の妹のトミヤヒメです。

初代神武天皇はもともとは日向に住んでいたのですが、日向があまりに国の端であるということで東征して畿内入りをめざします。
ニギハヤヒはこの神武が畿内入りするよりも早く畿内に天下っていたとされます。
そしてナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていたのです。

長命寺-すたら岩 
すたら岩

④余談ですが天下りという言葉、変えたほうがよくないですか?

このようにもとも「天下り」とは、天にいる神が地上におりてくることを指す言葉でした。
ここから転じて、現在では公務員が民間企業に再就職することを指す言葉になりました。

でも「天下り」っておかしいですよね?
公務員は民に仕える職業なので、立場は民より下です。
「天下り」という言葉は、公務員は民より立場が上であると錯覚させます。
これはよくない。

最近、看護婦という言葉はよくないとして看護師といったり
保母さんを保育士と呼んだりしています。
でももっとも改めるべきは「天下り」という言葉ですよ。勘違いも甚だしい。
武田邦彦先生は「地上ぼり」と言うべきではないかとおっしゃっていました。

大阪府では公務員の天下りは条例で禁止されているそうです。

長命寺 太郎坊権現 
太郎坊大権現

⑤天皇家の先祖は物部王朝の入り婿になって政権をのっとった?

話を戻します~(汗)
このような記述が記紀にあるところから、畿内には初代神武以前に物部王朝があったのではないかとする説があり、私はこの説を支持しています。

邪馬台国とは大和朝廷のことで、大和朝廷とはもともとは物部王朝のことだったと考えています。
神武天皇は実在性が疑われていますが、天皇家の先祖は大和朝廷の入り婿になることによって政権をのっとったのではないでしょうか。
くわしくはこちらの記事をお読みください→ 崇神天皇陵 夕日 『邪馬台国を旅する?』

⑥『武』の暗号?

甘美内宿禰(うましうちのすくね)が物部氏だとすると、武内宿禰は神武天皇のことなのではないかと思えます。
名は体を表すといいますが、『武内宿禰』の『武』は『神武』の『武』を意味する暗号なのではないか、と思ったりするのです。

⑦名前の交換は政権交代を意味している?

武内宿禰はまだ幼かった応神天皇と伊奢沙和気大神の名前を交換しています。
また仁徳天皇と武内宿禰の子は同年の生まれで、仁徳天皇の産屋にはミミズクが、武内宿禰の子の産屋にはミソサザイが飛び込んだとあります。
武内宿禰は鳥の名前を交換して、仁徳天皇を大鷦鷯尊(オホサザキノミコト)、自分の子には平群 木菟(ヘグリノツク)と名前をつけています。

仁徳天皇・・・産屋にミミズク(ツク)が飛び込んだ・・・大鷦鷯尊(オホサザキノミコト)
武内宿禰の子・・・産屋にミソサザイ(ササキ)が飛び込んだ・・・平群 木菟(ヘグリノツク


名前を交換するというのは、人格の交換をも意味しているように思えます。
この物語も、物部王朝から天皇家への政権交代を意味しているのではないでしょうか?

長命寺より琵琶湖を望む 
長命寺より琵琶湖を望む


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[2017/02/22 00:06] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

永源寺 紅葉 『世継観世音菩薩の謎』 


滋賀県東近江市 永源寺
2012年11月18日 撮影


永源寺 禅堂 紅葉 

●世継観世音菩薩

永源寺の御本尊・世継観世音菩薩は秘仏でおよそ四半世紀に一度のみ御開帳されます。

世継観世音菩薩には次のような伝説が伝えられています。

開山・寂室禅師が中国より留学を終えて日本へ帰国する際、海上で嵐にあいました。
禅師が祈ったところ白衣の観世音菩薩が顕れ、嵐はおさまり、無事日本へ帰国することができました。
帰国した寂室禅師が永源寺に住まわれていたとき、夜毎、寺の東の峰から光明がさすのが見えました。
禅師がそこを訪ねてみると石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。
 「かつて海上で嵐を静めてくださった観音様に違いない」
そう考えた禅師は中国から仏師を招き、中国の土で観音像を作らせ、その像の額の宝冠の中に、石の上で見つけた小さな霊像を納めて御本尊としました。
 のちに近江守護職佐々木氏頼の子、満高が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。


 

永源寺 渡り廊下 紅葉 
●佐々木氏頼

「のちに近江守護職佐々木氏頼の子、満高が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。」
という部分に注目してください。

佐々木氏頼は1361年に寂室元光禅師に土地を寄進して永源寺を開いた人物です。

1349年、氏頼の子の義信満高の兄)が誕生しました。
ところが1368年、義信は17歳で急死してしまいました。
このとき満高はまだ生まれていませんでした。
そこで氏頼は母方の甥・京極高詮猶子としました。
1369年、氏頼の次男・満高が生まれました。(満高の生誕年は1365年説もあり)
1370年、氏頼は亡くなり、京極高が氏頼の跡を継ぎました。
しかし1377年、に京極高詮は追放され、満高が家督を継ぐことになっりました。
 
永源寺 鐘楼 紅葉 
●32歳で世継ぎを授かるのは遅かったのか?


満高公が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。」
とありますが、満高の子の満綱は1401年に生まれているので、満高は32歳で世継を授かったということになります。
満高が生まれたのが1365年だったとしたら、世継ぎを授かったのは36歳です。
32歳や36歳で世継ぎを授かるというのは当時としては遅かったのでしょうか?
まあ、当時の平均寿命は50歳くらいだったでしょうし、結婚も早かったでしょうから10代で父親になることも珍しくはなかったでしょう。
32歳では遅かったといえるかもしれません。

永源寺 禅堂 紅葉

●世継ぎを授かるのが遅かったのは満高ではなく氏頼では?

でも、満高の父の氏頼のほうが、満高より世継ぎに恵まれなかったといえるのではないでしょうか。

氏頼の生誕年は1326年です。
1349年に義信生まれたとき、氏頼は23歳です。

ところが義信1368年に17歳で急死してしまいました。 
氏頼42歳で世継ぎを亡くしてしまったのです。
そして次男の満高が生まれたのは1365年または1369年とされています。
氏頼は39歳または43歳です。

ですから、氏頼39歳か43歳で世継ぎに恵まれたということになります。
これは世継ぎを授かるのが遅かったといえるでしょう。

氏頼1361年に寂室元光禅師に土地を寄進して永源寺を開いています。
そういった関係から、1368年のの死後、氏頼永源寺の観音様に『再び自分に子供が生まれますように』と祈願したのかも?

つまり『満高が跡取りに恵まれず、永源寺の観音に祈願をして世継を授かった』のではなく『氏頼が跡取りに恵まれず、永源寺の観音に祈願をして世継を授かった』というのが本来の物語なのではないかなあ、と思ったりします。

永源寺 含空院 紅葉   



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[2016/11/17 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

西教寺 紅葉 『鬼の念仏 と 猿の念仏』 

滋賀県大津市 西教寺
2010年11月20日 撮影

西教寺 猿の像 紅葉2

●猿の念仏

西教寺には次のような伝説があります。

明応2年(1493)、このあたりで徳政一揆が起こりました。
僧兵はその首謀者が真盛上人だと疑い、西教寺を攻めました。
境内には人影がありませんでしたが、本堂から鉦の音が聞こえてきました。
僧兵が本堂に入ると、一匹の手白の猿が上人の身代わりとなって鉦をたたいていました。
僧兵は日吉山王の使者である猿が念仏を唱えている様子に、真盛上人の影響力の強さを感じてその場を立ち去りました。

西教寺の近くには日吉大社があります。猿はこの日吉大社の神使なんですね。



西教寺の塔頭の瓦には猿の像がいくつも置かれています。
また本堂の阿弥陀如来像の前には鉦をたたきながら念仏を唱える猿の像が置かれていました。
それらは上記の伝説にもとづくものなのでしょう。

西教寺 猿の像 紅葉

●鬼の寒念仏

えー、大津といえば大津絵が有名です。
大津絵とは民族絵画であり、護符としての効能もあるとされていました。
いろいろな種類があるのですが、中でも有名なのは「鬼の寒念仏」です。

三井寺 鬼の寒念仏 

↑ これは三井寺にあった「鬼の寒念仏」

 ●鬼=怨霊

鬼とは成仏しきれず祟りをなす怨霊のことだと考えてもいいでしょう。
『鬼の寒念仏』はそんな怨霊までが成仏しようと念仏を唱えている様を描いたものだと思います。
それほど念仏が流行ったということでしょう。

西教寺 紅葉

●怨霊=神=猿

猿は申とも書き、申に示偏をつければ神になります。

そして、かつて怨霊と神とは同義語だったといわれます。
怨霊が祟らないように祀ったのが神だというのですね。
怨霊は神として祀り上げると、ご利益を与えてくれる和魂になる、などともいいます。

猿は神でありかつ怨霊でもあると考えられていたということでしょう。

すると『鬼の念仏』と『猿の念仏』は同じものだといえるかも?

西教寺 紅葉2

西教寺 庭園 紅葉

西教寺 本堂 紅葉 


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[2016/11/16 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

西明寺(湖東三山) 紅葉 『三修上人は阿弥陀如来の化身?』 


滋賀県犬上郡 西明寺
2008年11月16日 撮影


西明寺(湖東) 三重塔 紅葉 
西明寺 三重塔

塔百景29

西明寺には次のような創建説話が伝えられています。

834年、三修上人(慈勝上人)が琵琶湖の西岸を歩いていたところ、琵琶湖東方より紫雲が現われ光がさしました。
三修上人は飛燕の術(空を飛ぶ術)を用いて琵琶湖を飛び越え湖東へやってきました。
そして閼伽池に向かって祈ったところ日光菩薩、月光菩薩十二神将を随えた薬師如来の姿が現れました。
この話を聞いた仁明天皇はこの地に勅願寺の建立を命じられました。
薬師如来が放った光が、仁明天皇がおられる京都の宮中に向かって、西方を明るく照らしたため「西明寺」と名付けられました。
また東には青龍、西には白虎、南には朱雀、北には玄武と四柱の聖獣が住むとされます。
西明寺は湖東にあるため、東の青龍が住む場所ということで「龍應山」と名付けられました。


西明寺(湖東) 二天門 紅葉 

西明寺 二天門

西明寺 二天門 増長天 

二天門 増長天

西明寺 二天文 持国天

二天門 持国天

●東は薬師如来、中央は池、西は阿弥陀如来


京都府木津川市加茂町西小札場にある浄瑠璃寺を思い出します。
浄瑠璃寺の境内には池があり、池の東には三重塔があって薬師如来が、池の西の本堂には阿弥陀如来が祀られているのです。



池の西の細長い建物が浄瑠璃寺本堂です。池を挟んだ東に三重塔があります。


薬師如来は東方浄瑠璃世界に住んで現世の苦しみを除く仏、阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主とされています。
それで浄瑠璃寺では池の東に薬師如来、池の西に阿弥陀如来を祀っているのですね。

東・・・・・薬師如来
中央・・・池
西・・・・・阿弥陀如来


●三修上人は阿弥陀如来の化身?

西明寺は琵琶湖の東にあって薬師如来を祀っています。
そして西明寺を創建した三修上人は琵琶湖の西岸を歩いていたとあります。

東・・・・・薬師如来・・・西明寺
中央・・・池・・・・・・・・・琵琶湖
西・・・・阿弥陀如来・・・三修上人?


三修上人は伊吹山の弥高寺を開山したともされる伝説的な行者ですが、もしかして三修上人はて阿弥陀如来の化身であると考えられていたのでしょうか?

  西明寺(湖東) 門 紅葉

西明寺 門(庭園出入り口)


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[2016/11/10 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

百済寺 (湖東三山) 紅葉 『百済寺はキリスト教寺院だった?』 


滋賀県東近江市 百済寺(ひゃくさいじ)
2008年11月16日 撮影


百済寺 紅葉 
●依智秦氏の氏寺


百済寺には次のような創建説話が伝わっています。

606年、聖徳太子はに慧慈とともに湖東を訪れた際、東の山中に瑞光を発見しました。
山中に入ってみると上半分の幹が切られて光明を放つ杉の巨木が立っており、猿が木の実をお供えしていました。
慧慈は聖徳太子に「百済・龍雲寺の十一面観音はこの伐られた上半分の木を用いて作られたものである」と言いました。
太子はこの根の付いたままの木に十一面観音を刻みました。


百済寺のhpには次のようにも記されています。
『その中心は依智(エチ)秦公で一族の氏寺としてひときわ高い山中に百済寺が建立されました。』

百済寺は依智秦氏一族の氏寺だというのです。
依智秦氏(えちはたうじ)は渡来人・秦氏の傍系氏族だと考えられています。

百済寺 紅葉3


●秦氏は百済人?新羅人?

『日本書紀』(283年)には、「秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人々を率いて日本に帰化した。」と記されています。
この記事を読むと、依智秦氏の氏寺が百済寺というのはもっともだと思われます。
百済寺の十一面観音が百済の龍雲寺の十一面観音と同じ木を用いて刻まれているという伝説も、ああなるほど、と思います。

ところが!
秦氏の居住地から発掘される瓦は『新羅系』がほとんどなんですよ。
そういうわけで、秦氏が百済からやってきたというのは疑問視されています。

新羅は日本と敵対していたため、秦氏は百済からやってきたと偽り、自分たちの氏寺にも百済という名前を付けたのでしょうか?

●秦氏の故郷は弓月王国?

またかつて中央アジアに弓月王国というキリスト教国があり、秦氏はこの弓月王国からやってきたという説もあります。
秦氏はキリスト教徒だったのかも?

広隆寺   
  広隆寺

京都の広隆寺は秦氏の氏寺で。かつては太秦寺とも呼ばれていました。
太秦から「、」を除いた大秦はローマの漢語訳、大秦寺は景教(ネストリウス派キリスト教)の教会の漢語訳です。

飛鳥昭夫さんは太秦(ウズマサ)はアラム語の『イシュ・メシャ(イエス・キリスト)』からくるのではないかとおっしゃっています。
アラム語は紀元前500年~600年頃にシリア地方、メソポタミアでに用いられていたヘブライ語と同系統の言語です。

百済寺 紅葉2 
●秦氏が信仰する弥勒菩薩とはイエス・キリストだった?

百済寺には白鳳時代の金銅製弥勒菩薩半跏思惟像があるそうですが、新羅から秦氏の氏寺・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像にそっくりな金銅製弥勒菩薩半跏思惟像 が発見されています。

この広隆寺や新羅の弥勒菩薩半跏思惟像の手の印はネストリウス派キリスト教徒の印と同じであると指摘されています。
http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu3/05miroku01.html
↑とても面白い記事です。もしも広告が出たらスキップしてください。

弥勒菩薩とは東洋版・イエスキリストなのではないでしょうか?

●キリストは太陽神だった?


キリスト教のクリスマスはミトラ教の冬至祭を取り入れたものだと言われています。
ミトラ教とは古代ローマの太陽神ミトラスに対する信仰のことです。

地球の歳差運動(コマが振れるように地球の自転軸が揺れる現象のこと)の関係で、かつて北半球でも空の低い場所に南十字星が見えていたそうです。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

そして冬至の太陽の南中高度は南十字星が出るあたりにまで低くなります。
そういう状態が3日間続いたのち、太陽は再び南中高度をあげていきます。

太陽の南中高度の変化2
そこで、次のような説があります。

キリストが十字架にかけられたというのは、太陽の南中高度が南十字星の位置にくることをあらわしており
キリストが死後3日後に復活するのは、冬至から3日後の再び太陽が南中高度をあげていくことを比喩したものではないかと。

冬至は12月22日ごろです。そして太陽が再び南中高度をあげていくのが3日後の12月25日、クリスマス(キリストの誕生日)です。


●ミスラ神・ミトラス神・弥勒菩薩(マイトレーヤ)

弥勒菩薩はサンスクリット語でマイトレーヤといいますが、マイトレーヤは古代インド・イランで信仰されていた太陽神・ミスラがルーツだといわれています。

そして、このミトラ教は古代インド・イランのミスラ神の信仰の影響を受けたものです。

ということは、

ミスラ神=ミトラス神・・・太陽神
ミスラ神=弥勒菩薩・・・太陽神
ミトラス神=イエスキリスト・・・太陽神
∴イエスキリスト=弥勒菩薩・・・太陽神?


百済寺の金銅製弥勒菩薩半跏思惟像をぜひ拝観してみたいです。

百済寺 池 紅葉 



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[2016/11/09 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

桂浜の彼岸花 と 琵琶湖夕景 『日本の彼岸花は一株の彼岸花が株分けされて広まった?』 


滋賀県高島市今津町 桂浜園地 ヴォーリス通り
撮影 2014年9月20日

桂浜 彼岸花
 
●日本の彼岸花は三倍体のため種子ができにくい。

日本の彼岸花は三倍体のため、種子ができにくいそうです。
そういえば、彼岸花が結実しているのって見たことがないかも。

●三倍体って何?

以下、ニワカ知識です。

日本の彼岸花は三倍体だと言われています。
三倍体とは染色体を3セット持つ生物のことです。
一般的に動物は二倍体ですが、植物には三倍体、四倍体なんていうのも存在しているそうです。

二倍体とは父方から1セット、母方から1セットの染色体を受け継いで2セットの染色体を持つ生物のことです。
二倍体の植物は1セットの染色体を持つ花粉(父方)と胚嚢(母方)を作り、これが受精すると2セットの染色体を持つ新しい細胞ができ、種子を作ります。

ところが三倍体の植物は父方・母方の染色体の数があわないため、正常な減数分裂ができず、種子ができにくいそうです。

桂浜 彼岸花2 
●彼岸花には二倍体のものもある。

彼岸花の原産地と考えられている中国には三倍体の彼岸花のほか、二倍体で種ができる彼岸花もあるそうです。
また、日本にも数は少ないようですが二倍体で種ができる彼岸花があるようで
彼岸花を種から育てたという記録がありました。

http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/sizen/higanb_tane.html

今津郵便局

ヴォーリス通り 今津郵便局跡

●コヒガンバナとは二倍体の彼岸花?


上のサイトには育てているのはコヒガンバナであると書いてあります。
コヒガンバナとはなんでしょうか?
次のように記されたサイトがありました。
 
ヒガンバナより小形という意味だが、外見上の違いはない。違うのは、このコヒガンバナには種ができること。生物学的には細胞の染色体数が基本数の二倍の二倍体。ヒガンバナは三倍体で種ができない。
http://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_1717.htm より引用

どうも二倍体の彼岸花のことを、コヒガンバナといっているようです。

今津基督教会館 

ヴォーリス通り 
今津基督教会館

●日本の彼岸花はたった一株の彼岸花が株分けされて広まった?

以前、彼岸花についてネットで調べていたところ、「日本の彼岸花は中国よりもたらされた一株の彼岸花が株分けされて広まった」と記されたサイトがたくさんありました。

なぜ一株の彼岸花が株分けされたと考えられるのか、その理由については、次のように説明されているものがありました。
日本の彼岸花はすべて三倍体である。
三倍体の彼岸花は珍しい。
ゆえに、たった一株の彼岸花が株分けされ北海道をのぞく日本全国に広まったと考えられる。

でも彼岸花の原産地と考えられている中国にも三倍体の彼岸花はあるとのことなので
複数株の三倍体の彼岸花が日本にもたらされたと考えたほうが自然だと思います。

琵琶湖 夕景

『ヴォーリス通り』の東にある民家の脇から琵琶湖の浜に出てみると、東の空なのに夕焼け雲が。 

●遺伝的に同一とは?

以前、ウィキペディアには次のように記されていました。
「日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。また三倍体であるため種子で増えることができない。」
(ウィキペディアより引用 ※現在は書き直されています。) 

2016年9月18日現在、ウィキペディアの記事は次のように書き直されています。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であるとされるが、このことがただちに中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えることはできない。三倍体であるため一般に種子で増えることができないため、持ち込まれた複数のヒガンバナが中国ですでに遺伝的に同一であることは充分にあり得るためである。

ここに「日本に存在する彼岸花はすべて遺伝的に同一である」とありますが、遺伝的に同一とは具体的にどういうことなのでしょうか?
日本の彼岸花が全て(実際には二倍体もあるので全てとはいえない。)三倍体であるということでしょうか?
このあたり、ちょっとよくわかりません。
 
琵琶湖 夕景2 


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[2016/09/19 18:53] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

正明寺 万灯会 『惟喬親王を偲ぶ万灯会?』 

滋賀県蒲生郡日野 正明寺
万灯会・・・8月5日~8月15日 (確認をお願いします。)

正明寺 万灯会 
正明寺では8月5日から8月15日まで万灯会を行っています。
(檀家さんがお茶をいれてくださいました。ありがとうございました!) 
 
正明寺 万灯会2


● 後水尾天皇の勅願寺

正明寺は飛鳥時代、聖徳太子が創建した寺だと伝わっています。
戦国時代の戦火を受けて消失しましたが、江戸時代に黄檗宗の寺として再興され、後水尾天皇の勅建寺となりました。 

正明寺 魚梆 

正明寺には黄檗宗総本山の萬福寺と同様の魚梆(ぎょほう)がありました。
萬福寺の魚梆はこちら→

●漆器の産地だった城下町・日野

1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、日野は城下町として整備されました。
日野には木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展しました。
当時の日野には『日野市』という市場町がありました。
日野市は上の市と下の市から成り、上の市には世神(渡世の神)である惟喬親王が、下の市では市神が祀られていたそうです。

木地師資料館 惟喬親王像2 

木地師資料館の惟喬親王像

●上の市で惟喬親王が祀られていた理由


惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師の用いる轆轤(ろくろ)を発明したとか、京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったなどという伝説があります。
そういったことから、惟喬親王は木地師の祖とされ信仰されていました。
上の市で世神として惟喬親王が祀られていたのはそのためでしょう。 


木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っています。



●御霊として祀られた惟喬親王

惟喬親王(844- 897)は文徳天皇の第一皇子で母親は紀名虎の娘の静子でした。
文徳天皇には藤原良房の娘・明子との間に第四皇子の惟仁親王(のちの清和天皇)もありました。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子にしたいと考えており、これを源信に相談しました。
源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめたそうです。
こうして世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は出家して小野の地に隠棲し、のちに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)、玄武神社、惟喬神社などに御霊として祀られました。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社

御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことです。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた者のことで、疫病や天災や怨霊の仕業で引き起こされると考えられていました。
惟喬親王はかつて怨霊として畏れられていたということでしょう。
ウィキペディア「祟り神」によれば「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である」
と記されています。

●清和天皇にイメージを重ねた後水尾天皇

後水尾天皇という諡号は遺諡(遺詔によって自ら決める追号)によって贈られたものなのですが、水尾とは清和天皇の異称です。

徳川光圀の『西山随筆』には、「兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であることからこの諡号を自ら選んだのだろう」とあります。

後水尾天皇には良仁親王という異母兄がおり、豊臣秀吉の後押しを受けて皇位継承者とされていました。
ところが秀吉が死亡して徳川家康が政治の実権を握ると、家康の後押しによって後水尾天皇が皇位継承者とされたのです。

後水尾天皇は自らを清和天皇のイメージとかさね、清和天皇との世継ぎ争いに敗れた惟喬親王を祀り上げることで自らの守護神にしようと考えたのではないでしょうか。
そのため惟喬親王に対する信仰の強い日野の正明寺を勅願寺としたのではないかと思ったりします。 

そんなことを考えていると、たくさんの灯りは惟喬親王を慰霊するためのもののように思えてきました。


正明寺 万灯会3



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[2016/08/11 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

唐崎神社 御手洗祭 『宇志丸は牛丸?』  

滋賀県大津市 唐崎神社

7月27日、28日は唐崎神社の「みたらし祭」です!

唐崎神社 みたらし祭 
湖上焚上神事。
古い御札やお守りなどを焚きあげて清めます。 

唐崎神社 みたらし祭 手筒花火

そのあと、手筒花火神事が行われました。(7月28日のみ)

●琴御館宇志丸
 
633年、琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)という人がこの地に住み、地名を「唐崎」と名付けたそうです。
その後、天智天皇が奈良の三輪山から大己貴神を大津に勧請した際、神は琵琶湖を渡りこの地に降り立ったといわれています。
唐崎神社は日吉大社の摂社ですが、日吉大社の西本宮の御祭神が大己貴神ですね。

●琴御館宇志丸の娘・別当命

唐崎神社が創建されたのは持統天皇の御代の697年で、琴御館宇志丸の妻・女別当命(わけすきひめのみこと)を御祭神としています。

唐崎神社 みたらし祭 手筒花火2


●池や湖のほとりには女神が祀られる。

日本では水神は大抵女神とされていて、池や湖のほとりには弁財天やイチキシマヒメが祀られています。
唐崎神社は琵琶湖のほとりにあるということで、やはり女神の女別当命を祀っているのでしょう。

●女別当命は琴御館宇志志丸の和魂?


神はその現れ方で、御霊(神の本質)、荒魂(神の荒々しい側面)、和魂(神の和やかな側面)にわけられると言われますが、
男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説があります。

女別当命とは荒霊である琴御館宇志志丸の和霊なのではないでしょうか。

●宇志丸は牛丸?

琴御館宇志丸の宇志丸とは牛丸で、牛頭天皇と関係があるのかもと思ったりします。
牛頭天皇とは京都八坂神社の御祭神で、疫神として畏れられた神です。
唐崎神社の御手洗祭と同時期に行われる祇園祭はこの牛頭天皇を慰霊する祭です。 

唐崎神社 みたらし祭 手筒花火3 

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[2016/07/28 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

烏丸半島 蓮 『俵藤太の百足退治伝説 』 ※追記あり 

滋賀県草津市 烏丸半島蓮群生地
滋賀県大津市 雲住寺
2008年7月22日撮影

追記/aunt carrotさん に教えてもらったんですが(ありがとうございました!)
、今年の烏丸半島の蓮はほぼ全滅のようです~。
http://kanko-kusatsu.com/info/hasu-2/


烏丸半島 蓮 

烏丸半島の蓮の群生。
まるでピンクの波のよう~。
向こうに見えているのは三上山です。

●三上山に残る俵藤太の百足退治伝説


三上山には俵藤太のムカデ退治伝説が残り、「ムカデ山」とも呼ばれています。 

俵藤太 ムカデ退治の図 

瀬田の唐橋 説明板より


俵藤太のムカデ退治伝説とは次のようなものです。

瀬田の唐橋に大蛇が横たわっており、人々は恐れて橋を渡ることができませんでした。
しかし俵藤太は大蛇を踏みつけて橋を渡りました。
その夜、美しい娘が藤太のもとへ訪ねてきました。
娘は琵琶湖の龍神で、藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えていたのでした。
娘は藤太に「三上山のムカデに苦しめられているので助けてください」と言いました。
そこで藤太が三上山に行くと、山を7巻き半する大ムカデが現れました。
藤太は八幡神に祈って矢を射、それが大ムカデに命中しました。
藤太はムカデ退治のお礼にと、龍神の娘から米の尽きない俵をもらいました。
またのちに藤太は朝廷より平将門の乱平定を命じられましたが、龍神のおかげで将門の弱点を見破り、討ち取ることができました。


俵藤太というのは、彼が龍神から米のつきない俵をもらったところからつけられた愛称で、本名は藤原秀郷といいます。

●男体山の百足退治伝説

下野国には、大ムカデに姿を変えた男体山を、猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという伝説があるそうです。
 
おー、男体山!
栃木県・二荒山神社の御神体ですね!
参照/二荒山神社 コバノミツバツツジ 桜  『大黒田道間守は不老長寿の神?』 


男体山 
 向かって左が男体山

下野国は秀郷の本拠地であり、この伝説をベースに秀郷のムカデ退治伝説は作られたのではないかと言われています。

●蒲生氏は藤原秀郷の子孫だった。

なぜ滋賀の三上山を舞台にして秀郷の百足退治伝説は作られたのでしょうか?? 

雲住寺 百足供養塔 

勢田の唐橋の東詰に雲住寺というお寺があり、境内には百足(ムカデ)供養堂がありました。
雲住寺は1408年に城主・蒲生高秀蒲生氏が創建したお寺なのだそうですが、この蒲生高秀は藤原秀郷の14代目の子孫なのだそうです。

秀郷のムカデ退治伝説が滋賀にあるのは、秀郷の子孫・蒲生氏が城主だったことと関係があるのかもしれませんね。



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[2016/07/19 14:52] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

箱館山 百合 『竹生島はなぜ信仰されたのか』  

滋賀県高島市 箱館山百合園
2012年7月22日 撮影

函館山 百合 

●竹生島は瓢箪島?


箱館山の百合園から琵琶湖に浮かぶ竹生島が見えていました。
「ひょっこりひょうたん島」みたい!

竹生島は古くから信仰の対象とされていましたが、それは瓢箪みたいな島の形とも関係があるのではないかと思います。

函館山 百合2

●中国版ノアの箱舟

中国に次のような伝説があります。

あるとき大洪水がおこって多くの人間が死んでしまいましたが、伏羲と女媧という兄妹は巨大な瓢箪の中に隠れていたので無事でした。
兄妹は結婚して子供を産み、人類の祖となりました。 


中国版ノアの方舟ですね。

函館山 百合 リフト 

●なぜ伏羲と女媧は瓢箪に隠れたの?

さて、なぜ伏羲と女媧は瓢箪に隠れたのでしょうか?

先日、ザ・ピーナッツの伊藤ユミさんの訃報が報じられましたが
ザ・ピーナッツは双子の女性デュオでした。
ピーナッツのさやにはふたつのふくらみがあって、中に二つの豆が入っているのでザ・ピーナッツというユニット名をつけたのでしょう。

瓢箪もピーナッツと同じく2つのふくらみがありますね。
伏羲と女媧は蛇身で、伏羲の右手と女媧の左手がつながった姿で描かれることがあります。 (図→  )
ふくらみの大きいほうが伏羲、ちいさいほうが女媧ということなのではないでしょうか。

●道祖神と伏羲&女媧


道祖神はもともとは中国の神で、男神と女神が手をつなぎ合う姿で表されます。
道祖神の男神は伏羲、女神は女媧と同一神なのではないかと思ったりします。

瓢箪は伏羲&女媧、または道祖神を想起させるため、瓢箪に似た形の島や岩が信仰の対象とされたのではないでしょうか。


多気山不動尊 道祖神 

多気山不動尊(栃木県) 道祖神




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[2016/07/18 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

普門寺 藤 躑躅 「藤と『ジャックと豆の木』」 

京都府福知山市大江町 普門寺
撮影 2015年5月5日


普門寺 白藤

●藤は豆科の植物

藤の花って日本の固有種で、豆科の植物なんですよね。
さやの中に数個の実が入っているんだとか。
花にばかり気をとられて藤の実を見たことがなかったです。
藤の実が実るのって9月ぐらいですか?
そのときにじっくりと観察してみたいと思います。

●『ジャックと豆の木』豆の木は坑道の比喩だった?

豆といえば『ジャックと豆の木』というイギリスの童話がありますね。

ジャックは母親に命じられて牝牛を売りに行きましたが、途中であった男の豆と牛を交換してしまいました。
ジャックの母親は怒って豆を庭に捨ててしまいましたが、翌日豆は天に届く巨木になっていました。
ジャックは豆の木を登り、雲の上にある巨人の城にやってきました。
ジャックは巨人の金の卵を産む鶏、金と銀の入った袋、ハープを盗んで地上に降りました。
巨人がおいかけて豆の木を降りてきたのでジャックが豆の木を斧で切ると、巨人は地上に落ちて死んでしまいました。
裕福になったジャックは母親と幸せに暮らしましたとさ。


いや~、なんともひどい話ですね。
人のものを盗み、おまけに被害者である巨人を殺して自分は幸せになったというんですから。

普門寺 藤


それはさておき、ジャックが金の卵を産む鶏、金と銀の入った袋、ハーブを盗んでいるところに注意してください。

豆の木とは鉱山の坑道の比喩なのではないでしょうか。
坑道は日本では百足穴などと呼ばれていました。
百足のたくさんの足は、いくつもに分岐して伸びる坑道に喩えられたのです。
豆の木がたわわに実を実らせる様子も坑道ににています。

豆の木とは実は坑道のことであったからこそ、ジャックは金の卵を産む鶏や、金と銀の入った袋を盗むことができたのだと思います。
ハープも何かの比喩だと思いますが、わかりません。今後の宿題とさせていただきます。

●一富士・二鷹・三茄子の謎

以前の記事、玉雲宮 百日紅 『一富士・二鷹・三茄子の謎、そして殺生石はなぜ高田の地に飛散したのか』 で私は次のようなことを書きました。

①初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子という。
②私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えている。
③栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
④鷹は鷹の爪ではないか。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
⑤富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。

●日本版「ジャックと豆の木」

茄子については、日本版「ジャックと豆の木」ともいうべき伝説が、琵琶湖に伝わっています。
(参照/比叡山より琵琶湖花火大会を望む 『茄子は銅の隠語?』 

源五郎が植えたナスビの苗は翌日には天まで届き、茄子(ナスビ)が鈴なりになっていました。
源五郎はつるを登って雲の上にいき、雷神の仕事を手伝って雲の上から水をまいて雨を降らせました。
ところがうっかり水が入った瓶をひっくりかえし、水は全部下界に落ちて琵琶湖になりました。
源五郎は湖で溺れている人を見て笑っていましたが、雲から落ちて湖にはまってしまいました。
源五郎は湖でもがいているうちに鮒になってしまいました。
これが琵琶湖の固有種の源五郎鮒です。


ゲンゴロウという昆虫もいますが、源五郎鮒もゲンゴロウも菱形をしています。
九州大学工学部(旧)採鉱学科 (現 地球資源システム工学部門)と(旧)冶金学科(現 材料工学部門)図書室 が所蔵していた(現在は総合研究博物館蔵) 「山相図・自然銅数種の図」には
キャラメルのような形をした銅が描かれていて、銅の上面や側面が菱型に見えます。
菱形は銅を表しているのではないかと思います。

探せば天に届く藤の民話なんかもあるかも?

普門寺 躑躅

躑躅の花もとてもきれいでしたが、ピーカンの晴れでガチガチに写ってしまった~。



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[2016/05/09 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

胡宮神社 桜 『胡という漢字を調べてみたら色んなことがわかった!』 


滋賀県犬上郡 多賀町 胡宮神社
撮影 2014年4月12日

胡宮神社 鳥居 桜

●胡宮神社と多賀大社の関係

多賀大社を参拝した帰りに通りかかったので、寄ってみました。
急いでいたので、写真は上の1枚だけなんですが~。(汗)
胡宮(このみや)神社はイザナギ・イザナミを祀り、延命にご利益があるとされています。
御祭神やご利益は前回の多賀大社と同じですね。(参照/多賀大社 桜 『お多賀杓子とミシャグジ』 

次のように記されたサイトがありました。
青龍山の山頂にある「胡宮の磐座」。山全体が神様という神体山であり、胡宮の奥宮、多賀大社の奥の院とも呼ばれている。
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_kinki/shi_konomiya/konomiya.htm より引用

どうやら胡宮神社は多賀大社と関係のある神社のようです。

●磐座信仰とミシャグジ

前回の記事で、私は多賀杓子のルーツは、多賀大社にミシャグジ信仰があったためではないかと私は考えました。
ミシャグジ様は石神が転じたものともいわれ、奉納された杓子を持って帰って喉をなでると咳の病が治るといわれています。

なぜ杓子なのかというと、ミシャグジ様とシャクシの音が似ているからでしょう。

それでは、なぜミシャクジ様は咳の病にご利益があるとされたのでしょうか。
ミシャグジ様は石神なので、石→セキ(石の音読み)→咳という語呂合わせで咳の神へと神格を広げたのではないでしょうか。

そして多賀大社と関係が深いと思われる胡宮神社の御神体・青龍山には胡宮磐座があるというのです。
磐座とは信仰の対象となった岩のことを言います。
岩と石のちがいはその大きさだけですから、胡宮磐座は石神=ミシャグジ様だといえるのではないでしょうか。

胡宮磐座は多賀大社の奥の院であるともいわれているということなので
多賀大社の信仰はこの胡宮磐座と関係がありそうに思えます。
もしかしたら、この胡宮磐座がミシャグジ様として信仰され、そこから多賀杓子が作られるようになったのかも?

多賀大社 橋 
多賀大社

●胡という漢字を漢和辞典で調べてみたら、色んなことがわかった。


漢和辞書なんて学生のときは滅多にひきませんでしたが、歴史や民俗学の謎学(?)にはまってからは結構重宝してます。
ネットには書いてないようなことも書いてあるんで~。

さて胡という漢字を家にあった古い漢和辞典で調べてみると、次のように書いてありました。

獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。



●胡宮神社は蝦夷の神?

⑥えびす。北方の異民族の名。
とある点に注意してください。。
胡宮神社という神社名は、北方の異民族の神、という意味ではないでしょうか?

ウィキペディアにも次のように記されています。
ミシャグジは日本古来の神。柳田國男によれば塞の神(サイノカミ)であり、もとは大和民族に対する先住民の信仰。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E3%81%AE%E7%A5%9E より引用

先住民と異民族は同じだと考えていいと思います。

東北地方にはまつろわぬ民・蝦夷が住んでいました。
蝦夷はエビスともいわれていました。
エビスは戎、夷のほか、胡とも記されました。
胡宮神社の胡宮とは蝦夷=エビスの宮という意味ではないでしょうか。

●なぜ多賀大社や胡宮神社は延命にご利益があるとされているのか。

胡には⑥えびす。北方の異民族の名。という意味があり、蝦夷(胡)の神の宮という意味で胡宮神社というのだと思いますが
胡には④いのちがながい。としより。おきな。という意味もあります。
そこから胡宮神社は延命にご利益があると考えられるようになったのではないでしょうか。
そして胡宮神社は多賀大社の奥宮なので、多賀大社にも延命の御利益があると考えられるようになったのではないかと思ったりします。

たがSLパーク跡  Ⅾ51  
多賀SLパーク跡

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[2016/04/23 15:46] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

多賀大社 桜 『お多賀杓子とミシャグジ』 

滋賀県犬上郡多賀町  多賀大社
撮影 2014年4月12日

枝垂桜の咲く春の多賀大社。

多賀大社 枝垂れ桜 
●お多賀杓子

おや? 橋の向うに大きな杓子が見えています。


多賀大社 橋 
 
杓子の形をした看板のようです。
多賀大社では「お多賀杓子(おたがじゃくし)」というお守りの杓子を授与しています。
これをモチーフとして杓子の看板を作ったのでしょう。

多賀や 看板


●宮島杓子の由来

杓子を授与したり奉納する習慣のある神社って結構多いですよね。
なぜ、こういうことをするのでしょうか?

杓子といえば広島の宮島杓子が思い出されます。
広島県宮島の厳島神社の御祭神は宗像三女神ですが、宗像三女神は弁才天と習合されていました。
この弁才天は琵琶を持つお姿にあらわされることが多く、この琵琶に似ているため宮島で杓子が作られるようになったと言われています。

大覚寺身振り狂言 十王堂2jpg


↑ 上は大覚寺(兵庫県尼崎市 大覚寺身振り狂言『十王堂』に登場した琵琶を持つ弁才天/向かって左)

しかし、多賀大社の御祭神はイザナギとイザナミで、弁才天はお祀りしていません。(ですよね?)
なので弁才天が持つ琵琶と多賀杓子は関係がなさそうです。

●ミシャグジと杓子

ほかに名古屋市南区の石神社などで、ミシャグジという神様に杓子が奉納されているケースがあるようです。

横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されているとのこと。
治ったときには杓子を2本にして奉納します。

同様の信仰は各地にあるようです。

多賀大社 しだれ桜3


●ミシャグジはなぜ咳の神として信仰されているのか

なぜミシャグジは咳の神様として信仰されているのでしょうか?
ミシャグジは石神と書いて、シャクジ、サクジなどとも呼ばれていました。
石→せき→咳、という語呂合わせで、ミシャグジは咳の神に転じたのではないでしょうか。

●神は語呂合わせで神格を広げる


このように語呂合わせで神の神格を広げたケースは他にもたくさんあります。
たとえば和歌三神の一、柿本人麻呂は人丸とも記され、
ひとまる→火止まる→防火の神、ひとまる→人産まる→安産の神と神格を広げています。

●多賀大社は石神だった?

そして多賀大社には、寿命石と呼ばれる石があります。
桜の写真を撮るのに必死で、撮り忘れたんですが~(アホ~)

後白河上皇に東大寺再建を命じられた重源は、そのときすでに高齢でした。
東大寺再建が完了するまで生きていられるか心配になり、伊勢神宮に参拝しました。
すると天照大御神よりお告げがありました。
寿命を延ばしたいのなら、多賀の神を参拝しなさい。」
そこで
多賀大社を参拝したところ、落ちてきた柏葉の虫喰のあとが「莚」の字になっていました。
「莚」は「廿(二十)」「延」と書きます。つまり、二十延びる、二十年命が伸びるという意味だったのです。
こうして重源二十年の延命を得て無事東大寺を再建することができました。
再建を完了した重源は多賀大社にお礼まいりをし、石に座り込んでなくなりました。
この石が「延命石」です。

ミシャグジとは石神のことであり、多賀大社の延命石は石神として信仰されていたのではないでしょうか。
そして石神はミシャグジとして信仰され、その語呂合わせから杓子をお守りとして授与する習慣が生じたのではないかと思います。

多賀SLパーク跡 Ⅾ51

多賀SLパーク跡の桜も満開でした♪
D51が疾走するところを撮ってみたい!


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[2016/04/22 15:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

石山寺 雪 『親指を隠すおまじない』 

滋賀県大津市 石山寺
2014年2月上旬 撮影

石山寺 多宝塔 
石山寺 多宝塔 塔百景73

↑ この写真はいまいちだなあ~。撮り直しに行きたいです。

月曜日は寒かったですね~。
各地で雪が降ったようです。
雪景色の写真を撮りに行こうと思っていたのですが、
あまりの寒さで風呂の給湯器が壊れ、ガス屋さんに来てもらうことになったので行けませんでした(涙)。
給湯器を点火して水栓をひねると、あれれ?水が出ない?
その後、大きな音がして給湯器の配管が破裂しましたーーーー。
http://www.eco-kyoto.net/blog/?p=143

石山寺 仁王門 
石山寺 仁王門

そんなわけで雪景色の写真を撮りに行けなかったので、昔撮った石山寺の写真を引っ張り出してきました。

●親指を隠すおまじない

石山寺の仁王門の近くに大黒天堂があります。

石山寺 大黒天 

石山寺 大黒天堂


御本尊の大黒天は1024年に3人の僧に夢のお告げがあり、湖水より出現したと言われています。
丈六の立像で秘仏とされており、子年の10月1日から7日の間のみ開扉されます。

大黒天は右手に打出の小槌を、左手に袋を持ち肩にかけているのが一般的なお姿です。
憤怒相では宝剣とか宝棒を持っていることもあるそうです。

でもそれは比較的新しい大黒天像のお姿で、鎌倉時代から室町にかけての大黒天像は打出の小槌を持っていませんでした。
そのかわりに親指を人差し指と中指の間から覗かせた女握りの拳印を結んでいます。
松尾寺(奈良県生駒郡)、興福寺納経所(奈良県奈良市)、光明寺(滋賀県蒲生郡)、修善寺(静岡県田方郡)、三輪神社(奈良県磯城郡)などに、女握りの拳印を持つ大黒天像があるそうです。

石山寺の大黒天は女握りではなく、親指を中に入れて拳を握っておられるので、拳印開運大黒天と呼ばれています。
大黒天堂の庭に置かれていた大黒天の石像も、親指を拳の中に入れて拳を握っておられました。

石山寺 大黒天2 


●一家立三后、未曾有なり

大黒天像が出現したとされる1024年は後一条天皇の御代でした。
後一条天皇の外祖父は藤原道長です。
藤原道長は長女・彰子を一条天皇(後一条天皇の父)に、次女妍子を三条天皇に、三女の威子を後一条天皇に入内させることで権力を掌握した人物でした。
藤原実資は『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり(一家で3人の后を出すのは前代未聞)」と記しています。

999年、道長は長女彰子を一条天皇のもとへ入内させました。
たいそう派手で豪華な入内であったそうです。
1000年、彰子は一条天皇の皇后になりました。
一条天皇の皇后にはすでに定子(藤原道隆の娘)が立っていたのですが、道長が無理矢理一帝二后を強行したのです。
定子はこの年産褥で薨去してしまい、一条天皇の皇后は彰子だけとなりました。

1011年、一条天皇は病が重症化して三条天皇に譲位し、まもなく崩御されました。
三条天皇は一条天皇の従兄弟で、道長の甥にあたります。
道長は次女妍子を三条天皇に入内させていましたが、三条天皇は藤原済時の娘・娍子を皇后としていました。
道長は立后の儀式に欠席しました。
また道長の権力をおそれて多くの公卿も欠席し、大変寂しい儀式だったそうです。

妍子を皇后にしなかったのがよほど気に入らなかったのでしょう、道長は立后の儀式に欠席したばかりか、三条天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫っています。
1016年、三条天皇はやむなく娍子所生の敦明親王の立太子を条件に後一条天皇に譲位しました。

後一条天皇の父親は一条天皇、母君は道長の長女・彰子で、道長にとって後一条天皇は外孫です。
『紫式部日記』に道長が後一条天皇誕生を大喜びする様子が記されているそうです。
さらに後一条天皇は道長の三女で自身にとっては叔母にあたる威子を妃としていて、道長との繋がりが深い天皇でした。
後一条天皇が即位したのは8歳だったので、道長がその後ろ盾となって政治を撮りました。
1017年、三条上皇が崩御すると、三条上皇の皇子・敦明親王は自ら東宮辞退を申し出ています。

 
石山寺 本堂 
石山寺 本堂

●なぜ三人の僧侶に夢告げがあったのか。

大黒天堂の大黒天像が造られたのは1024年ですが、道長は1019年に病を患って出家し、1027年に死亡しています。
私は拳印開運大黒天像は道長の病回復祈願のために作られたものではないかと思います。
3人の僧に夢のお告げがあったといいますが、それは道長の三人の娘、彰子・妍子・威子それぞれが信頼を寄せていた僧、という意味ではないでしょうか。
(※道長には長女彰子、次女妍子、四女威子の他にも三女寛子、五女尊子、六女嬉子などの娘があったが、天皇の后となったのはこの3人です。)

大黒天が拳の中に隠している親指は彰子・妍子・威子の父・道長を意味しているのではないかと思います。

『霊柩車を見ると親指を拳の中にかくさないと親が死ぬ』という俗信があり、
霊柩車を見て親指を拳の中に隠した経験がある方は多いのではないでしょうか。
親指を拳の中に隠すことで親を護るというおまじないは、平安時代の道長の時代からあったのかもしれませんね。


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[2016/01/28 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

第一なぎさ公園 菜の花 夕日 『お考はなぜ左目をくりぬいたのか?』 

滋賀県守山市 第一なぎさ公園
2016年1月中旬 撮影


なぎさ公園で菜の花が咲いていると聞いたので行ってみました。
ところがーーー!
菜の花なんてどこにも咲いていない?
調べてみたらなぎさ公園ってあちこちにあるんですね!
菜の花が咲いてるなぎさ公園は守山市ですが、私は浜大津のなぎさ公園に行っていたのですーー。(汗)
まったく、このおっちょこちょいをどうにかしたいーーー。

浜大津から守山市へ向かい、無事第一なぎさ公園に到着。

第一なぎさ公園 菜の花 
菜の花畑の向う側に見えているのは比良山系の山々です。
例年であればこの時期冠雪するそうですが、雪は少ししか積もっていませんでした。
写真は小細工をして、冠雪のように加工したものです。
うーん、でもわざとらしいなあーー。
ぜひ本物の冠雪した比良山と菜の花を撮りたいです・・・。

さて、この比良山系の蓬莱山に小女郎ヶ池があり、次のような伝説が残されています。

比良山麓の南船路の集落に、九右衛門とお考という夫婦が住んでいました。
あるときからお考は乳飲み子を残して夜な夜な池に通うようになりました。
お考は池の主である大蛇と逢引をしていたのです。
九右衛門はお考のあとをつけ、池の中に入ろうとしているお考を見つけます。
お考は九右衛門に「私はこの池に住む大蛇に見初められてしまったのです。赤ん坊には乳のかわりに私の目玉をしゃぶらせてください。」と言い
左目をくりぬいて九右衛門に渡し、池の中に姿を消しました。


うーん、どこかで聞いたような話だなあ?
そうそう、曽爾村のお亀ヶ池伝説です。あれに似ていますね!
曽爾高原 すすき 夕景 『お亀ヶ池伝説』 


伊勢国・太郎生村出身のお亀は曽爾村の男の嫁になり、毎日、太郎路池の水を溜めた井戸の水を鏡替わりにして化粧をしていました。
あるとき井戸の水に美しい男性の顔が映り「今夜、太郎路池のほとりに来て欲しい」といいました。
それ以来、お亀は夜な夜な太郎路池の男神のもとへ出かけるようになりました。
そして男児を出産したあと、姿を消してしまいました。
夫がお亀を探して太郎路池のほとりへやってくるとお亀が現れて子供に乳を飲ませました。
そして「二度と私を探さないでください」と言って姿を消しました。
夫は懲りずにまた太郎路池に行きました。
するお亀が蛇となってあらわれ「二度とくるなと言ったのに、なぜ来た?」と言って夫に襲い掛かりました。
夫はなんとか逃げ帰りましたが、すぐに亡くなってしまいました。
お亀は野火から山火事になった時、焼けて死にました。

どちらの伝説にも蛇神が登場しますが、蛇神とは天照大神だと思います。
「伊勢内宮の神は男神で蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」と言われているからです。

記紀には天照大神は女神だと記されていますが、本当は天照大神は男神であるとする説があります。
天岩戸に隠れた天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から出てきました。
女神のストリップに興味を持つのは男だ、よって天照大神は男神だというのですね。

物部氏の祖神のニギハヤヒは、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまの ほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と記されていて、この神が本当の天照大神ではないかとも言われています。
そして初代神武天皇が東征して畿内入りするより早く畿内にニギハヤヒが天下っていたとする記述が日本書紀にあり、畿内には神武以前に物部王朝があったのではないかとも言われています。
どうも、日本書紀や古事記の記述は改竄されているように思われます。

私は天照大神とは歓喜天や道祖神のように男女双体の神なのではないかと考えています。

神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒霊(神の荒々しい側面)・和霊(神の和やかな側面)に分けられ、荒霊は男神で和霊は女神とする説があります。
とすれば御霊は男女双体となります。

天照大神に仕える伊勢斎宮は男神である天照大神と和合して御霊にさせる存在なのではないでしょうか。

伊勢内宮の神は男神で蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」というのは、荒魂(男神・蛇神)と和魂(女神)が和合して御霊になるということを物語的に表現したものではないかと思います。

そして蛇神は男神、お亀やお考は女神ということなのではないでしょうか。



御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神 ・・・伊勢斎宮(天照大神の女神)/お亀/お考
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・天照大神の男神/蛇
第一なぎさ公園 菜の花2


曽爾のお亀ヶ池伝説では、お亀が蛇になって夫に襲い掛かったとありますが、蛇とは井戸の水に映った美しい男のことだと思います。
井戸の水に映った美しい男とありますが、井戸の水に映っていたのは毎日井戸の水に姿を映して化粧をしていたお亀だったはずです。

つまり、井戸の水に映った美しい男とは、井戸に反転して映ったお亀の姿であると考えられると思います。
お亀は女性なので女神で和魂なのですが、鏡に反転させることで、男神である荒魂に転じたということではないでしょうか。
そうであれば、男神と考えられる蛇をお亀だと表現することもありえるでしょう。

そういえば天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味を持っただけでなく、鏡に映った自分の姿を見て不思議に思ったこともあって天の岩戸から出てきたのでしたね。

天岩戸の中に籠っていた天照大神はストリップに興味を持つ男神であり、鏡に映ったのはそれを反転させた女神であったということなのかもしれませんね。


詳しくはこちらの記事をお読みください → 飛鳥 勧請綱と田植え 『道祖神と大聖歓喜天は習合されている?』

小女郎ヶ池の伝説では、お考は左の目をくりぬいたとあります。
お考はなぜ右の目ではなく、左の目をくりぬいたのでしょうか。

記紀に次のような記述があります。

黄泉の国から戻ったイザナギが禊をし、左の目を洗ったところ天照大神が、右の目を洗ったところ月読尊が、鼻を洗ったところスサノオが生まれました。

左は太陽神、天照大神が鎮座する位置なのです。

小女郎ヶ池の主である蛇とお考の男女双体の神が天照大神であり、天照大神は左に鎮座する神であるところから
お考は左目をくりぬいたとする話が創作されたのではないでしょうか。

琵琶湖 夕陽 



第一なぎさ公園の対岸付近から夕陽を撮りました。
なんだか旭日旗みたい?
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[2016/01/19 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

日吉大社 紅葉 『大己貴神は女神だった?』 

滋賀県大津市坂本 日吉大社
2010年11月20日 撮影

日吉大社 早尾地蔵堂 紅葉 
早尾地蔵堂


日吉大社の御祭神は西本宮が大己貴神、東本宮が大山咋神です。
今日はこの大己貴神についてお話ししたいと思います。


私は大己貴神という神様は女神ではないかと考えています。
大己貴神とは大国主命の別名です。

えーーっ、大国主命ってすごく女好きの神様やん!
スセリヒメ・ヤガミヒメ・ヌナカワヒメ・タキリビメとたくさんの女神を奥さんにしてるやん!
出雲大社にある銅像、鬚はやしてるしどう見たって男やん!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB#/media/File:%C5%8Ckuninushi_Bronze_Statue.jpg

確かにその通りなんですが~。

走井堂 紅葉求法寺走井堂

記紀神話を読みますと、イザナギとイザナミは同腹の兄妹で結婚し、共に国造りをしたとあります。
(古には血の純潔を守るために他氏族の血が入ることを嫌い同腹の兄妹や姉弟で結婚するのは当たり前だったとする説があります。)
ところがイザナミは死んで黄泉の国へ行ってしまったので、イザナギは黄泉の国へイザナミを迎えに行きました。
そしてイザナミにこういいました。
「愛しい妻よ、帰ってきておくれ。まだ国つくりは終わっていない。」

一方、大国主命と少彦名神は兄弟の契りを交わしてともに国つくりをしたとあります。
ところが少彦名神は国つくりが終わる前に粟にはじかれて常世の国へ行ってしまいました。

黄泉の国と常世の国はどちらも死後の世界です。
二つの物語はとてもよく似ていますね。
すると大国主命、少彦名神のどちらかが女神ではないかとも思われるんですが
彦というのは男性につける名前なので、少彦名神は男神ではないかと思われます。

日吉大社 鳥居 紅葉 
日吉大社 山王鳥居

大国主命にはたくさんの別名があります。
日吉大社の御祭神・大己貴神(おおなむち)もそうですが、そのほかに大穴持命(おおあなもち)という別名もあります。

神の名前は神の神格を表すと言われます。
たとえば天照大神は「天を照らす大神」、天目一箇神は「天の一つ目の神」という意味でしょう。
すると大穴持命とは「大きな穴を持つ神」という意味になるので女神ではないかと思ったわけです。
(下ネタですいません~。)

日本の神様は性別にルーズだったようです。
たとえば親鸞の夢の中に聖徳太子が表れて「私が女性に生まれ変わってあなたの妻になりましょう」と言ったという話もあります。

また奈良県桜井市大神神社の御祭神・大物主神は大国主神の幸魂(さきみた ま)奇魂(くしみたま)とされていますが
謡曲・三輪では三輪明神(大神神社の神様のことなので、大物主神のことだと思われます。)は女神として登場します。

日吉大社 イチョウ
日吉大社 東本宮 イチョウ


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[2015/11/20 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

白鬚神社 朝焼けと日の出 『白鬚と百済』 

夜明け前の白鬚神社の鳥居。

白鬚神社 朝焼け 
 勅使が白鬚神社を訪れ、白鬚明神に「仏法流布のため、土地をお譲り下さい」と祈ると釣り糸を垂れた老翁が現れました。
老翁は「釣りの場がなくなるから土地は譲らないよん」と勅使に言いました。
そこへ薬師如来が現れて翁を説得します。
翁は比叡山を仏法結界の地として釈尊に譲ったという伝説を語って社殿に入ります。
その後翁は白髭明神となり、天女・竜神とともに勅使の前に現れて舞いました。
(謡曲 白鬚)

白鬚神社 舟 
朝日に輝く琵琶湖の湖面を釣り舟が渡っていきます。
それはまるで謡曲「白鬚」のワンシーンのようでした。

白鬚神社の白は新羅(しらぎ)を表すとする説があります。
また韓国語で白髭のことをぺクチャと言いますが、百済は韓国語でペクチェと言いよく似ているため、百済の神ではないかとする説もあります。

古代朝鮮語の文献はわずかしか存在せず、そのため古代朝鮮語がどのような言語であったのかについてはよくわかっていません。
しかし言葉は時代を経てもそんなに変わらないのではないか、と私は思います。

例えば、平安時代の歌人・喜撰法師が次のような歌を詠んでいます。

わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
(私の庵は都の辰巳(東南)にあって鹿が住むような山奥だがしっかりと住んでいる。それなのに、「あいつは世を憂いてあんなところに住んでいるのだ。宇治山ならぬ憂し山だ』と世の人は言っている。)


庵は現在では「いほ」ではなく「いおり」、と言うことが多いですが、その他の言葉はほとんど現代の言葉と同じです。

わが→我が
都→都
たつみ→辰巳(ここでは方角の辰巳。東南)
しか→しっかりと。今でも「しかと承りました」などと言う。※鹿の掛詞
住む→住む
世→世
うぢ山→宇治山 ※「うぢ」は「憂し」の掛詞)
人→人
言ふ→言う
なり→也(コロ助の口癖だったよね。)

なので、白鬚を意味する現代韓国語のぺクチャ、百済を意味する現代韓国語のペクチェは古代においてもそんなに違う言葉ではなかったのではないかと思います。

中国や半島からやってきた渡来人は、日本海流にのって日本海側に到着したといわれ、古代、この辺りには大勢の渡来人が住んでいたとされます。

それにしても白髭神社とは新羅の神社なのか、はたまた百済の神社なのか、どちらなんでしょうね?

白髭神社 朝日


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[2015/10/19 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

信楽 登り窯 『狸の置物は荒魂を表している?』 



信楽駅の狸

立杭の登り窯を見て、しびれた私は、どうしても信楽に行ってみたくなってやってきました。

信楽焼きで有名な滋賀県信楽にはたくさんの登り窯がありました。


↓ 丸又窯跡。
草がたくさん生えて廃墟っぽいところにしびれます。

信楽 登り窯

↓ これなんかも味がありますね。

信楽 登り窯2

私が見ただけで、登り窯は6つありました。もっとあるかもしれません。
中には現役で使っていそうなのも。

↓ 立ざやが並ぶ道。
登り窯で大物を焼く際、この立ざやの上に置いて焼いたそうです。

信楽 たちざやの道

↓ 丸由窯跡。窯の中に立ざやが置かれているのが見えます。

信楽 登り窯 たちざや


↓ ogamaさんの登り窯。

信楽 登り窯 ogama


ogamaさんの登り窯には狸の型が置いてありました。

信楽 狸の型  
明治初期に信楽で創業した初代狸庵(りあん)の藤原銕造(てつぞう)さんは、京都で修行していたときに狸の焼き物を見、
それを参考に信楽焼で狸の置物をつくられました。

昭和26年、昭和天皇が信楽へ行かれたとき、信楽の人々は 日の丸を持った沢山のたぬきの置物でお迎えしました。
昭和天皇はこれに感動して次のような歌を詠まれました。

をさなどき あつめしからに なつかしも しがらきやきの たぬきをみれば 

この昭和天皇の歌がきっかけで信楽焼=狸の置物、というイメージが定着したと言われています。

狸の置物自体は江戸時代から造られていたとされます。
私は狸の置物が作られるようになったのは、狸が神像だからではないかと思います。

縁起物として七福神の神像を飾ったりするじゃないですか、あれと同じだと思うんです。

稲荷の神は狐だとされますが、四国などでは狸を稲荷の神としているところが多いそうです。
なんでも、四国に狐はいないそうで(実際にはいます。)「空海が狸を四国に解放した」などと言われています。

また大坂の堀川戎神社には、榎木稲荷神社があり、吉兵衛という老狸を祭っています。

神はその現れ方で、御魂・和魂・荒魂の3つに分けられるといいます。
そして女神は和魂、男神は荒魂をあらわすとする説があります。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神

狸の置物はたいてい男です。
そして狐が女性に化けるという話はよく聞きますが、男性に化けたとは聞きません。

つまり、狸は男神で荒魂を、狐は女神で和魂を表しているのではないかと思うのです。

「空海が四国に狸を解放した」というのは、「空海が四国に荒魂を解放した」という意味ではないでしょうか。
四国には崇徳天皇の御陵がありますが、崇徳天皇は怨霊として有名ですしねー。

  
 

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[2015/08/09 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

信楽の火祭 『アメノヒボコが陶器の神様になったワケ』 



日が沈み、空が夕焼けで染まるころ、新宮神社の篝火が点火されました。

新宮神社 夕景

さあ、火祭の始まりです!
大小さまざまな松明を担ぎ、愛宕山の山頂をめざします。
愛宕山山頂には新宮神社の境外摂社、愛宕神社・秋葉神社、陶器神社があり、これらの神社に松明を奉納するのです。

信楽 火祭6

新宮神社のhpによると愛宕神社・陶器神社・秋葉神社の御祭神 は加具土の神 カグツチノカミ (火の神)・埴山姫の命 ハニヤマヒメノミコト (土の神)・天日槍命 アメノヒボコノミコト (陶祖神)とのことです。
信楽は信楽焼で有名ですが、火の神・土の神・陶祖神は、焼き物の町の神様にぴったりですね。

信楽 火祭3

火祭は、江戸時代以前に起源があるとされ、もともとは7月23日に行われていたそうです。
(現在は7月第4土曜日)
旧暦ではどうだったのか、hpには説明がないのですが、旧暦7月23日は地蔵盆の宵縁日なのでもともとは地蔵盆の行事だったのかもしれません。

愛宕の神と地蔵菩薩の縁日はどちらも24日です。
縁日が同じ日なのは、愛宕の神と将軍地蔵(修験道で信仰されていました。勝軍地蔵とも)が同体であると考えられていたためではないかと思います。

一般の人も松明を担いで愛宕山をめざします。

信楽 火祭 

アメノヒボコは、新羅の王子で垂仁天皇3年に日本にやってきたとされます。
新羅とは古代の朝鮮半島にあった国です。

アメノヒボコは播磨国宍粟邑から(宇治川)を遡って近江国吾名邑にやってきました。
このとき、近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったとされます。
そののち、近江から若狭国を経て但馬国に住んだとされます。(日本書紀)

近江国鏡村は滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡と考えられています。
滋賀県蒲生郡竜王町鏡128に鏡山神社があり、アメノヒボコを祀っています。
鏡山神社の由緒に「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とあるそうです。

新宮神社がアメノヒボコを陶祖神としているのは、このためでしょう。

信楽 火祭

火祭のフィナーレは花火です。

コサさんがやっておられたピントずらしをやってみました。
露光中にピントリングをインからアウトへ、アウトからインへと動かすというテクニック。

万華鏡のように美しいコサさんの写真はこちら 

http://asok.blog118.fc2.com/blog-entry-3034.html
http://asok.blog118.fc2.com/blog-entry-5786.html
http://asok.blog118.fc2.com/blog-entry-4914.html

むむむむつかしい~。
ほとんど失敗でしたーー。
なんとか見れるのはこれ(↓)だけ。

信楽 火祭 花火

また挑戦しよう。
淀川花火大会は単発であがらないから無理だけどー。

新宮神社・・・滋賀県甲賀市信楽町長野1151-1 
信楽の火祭・・・7月第4土曜日





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[2015/07/31 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

しんあさひ風車村 花菖蒲 ルピナス 『ダイダラボッチは風の神?』 



しんあさひ風車村へやってきました。

風車村 風車

↑ なんという花なのかわからないんですが、すごくきれいでした。

風車村 花菖蒲

花菖蒲園も満開。

風車村 ルピナス

ルピナスも見頃でした。
上の写真はルピナス園の写真に1枚目の風車を合成したものです。(汗~)

↓ 日本の風の神といえば俵谷宗達の風神雷神屏風図が有名ですね!

風神雷神図屏風(複製) 建仁寺 
風神雷神屏風図 複製 (建仁寺)


向かって右が風神ですが、両手で大きな袋を持っています。
この袋を鞴(ふいご)のように上下させて風を起こすのでしょう。

金属の精錬・加工に用いる、足で踏んで空気を送る鞴のことを踏鞴(たたら)といいます。
踏鞴といえば私はダイダラボッチという伝説の巨人を思い出します。
柳田國男さんは「ダイダラボッチとは大太郎法師の意味ではないか」としておられますが、私はダイダラボッチとは大踏鞴法師という意味ではないかと考えています。

ジブリのアニメ「もののけ姫」にもデイダラボッチ(ダイダラボッチの別名)が登場していましたね。
http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%81
上記サイトには「ジブリのアニメ映画『もののけ姫』に登場するシシ神の夜の姿。 月の満ち欠けと合わせて生と死を繰り返し、生命の与奪を司る古の神。 」と説明があります。

「もののけ姫」ではデイダラボッチはタタラ場(たたら製鉄をする場所)に現れますが、「もののけ姫」の宮崎駿監督もデイダラボッチとは踏鞴の神だという認識を持っておられるのでしょう。

でも私が考えるダイダラボッチとは少しイメージが違っていました。
(もちろん物語なのでどんな姿のダイダラボッチであっても全然構わないのですが)

踏鞴の神とはたたら製鉄の神のことだと思うのです。
たたら製鉄では片目をつぶって火を見るため、片目を失明することが多かったそうです。
天津麻羅という鍛冶の神がいますが、麻羅とは目占の意味で、一つ目の神だと考えられています。
ダイダラボッチも一つ目なのではないでしょうか。

一つ目の巨人とは台風のことです。

ダイダラボッチが富士山や琵琶湖を作ったなどという伝説があります。
地形をつくるのは地殻運動が主だと思いますが、古の人は風が地形をつくると考えていたのではないでしょうか。

こんな歌もあります。

♪ 雨が降れば 小川ができ 風が吹けば 山ができる (「山賊の歌」作詞/ 田島弘)

風車村 夕陽

しんあさひ風車村・・・滋賀県高島市新旭町藁園336

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[2015/06/13 00:51] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

もりやま芦刈園 紫陽花 比叡山 『猿はなぜ比叡山の神とされたのか』 




もりやま芦刈園に行ってきました。
たくさんの種類のあじさいがあり、遠くには三上山や比叡山も望めます。

↓ 紫陽花の向うに見えているのが比叡山です。

もりやま芦刈園 紫陽花 比叡山 

前回の記事、猿石 石舞台 夕景 『猿石は何を現したものなのか?』  において、山王権現とは比叡山の神だと書きました。
山王権現の神使は猿だとされています。

滋賀県坂本にある日吉大社はもともとは日枝山(比叡山の古名)の山頂にあったのを、崇神天皇7年に日枝山のふもとの現在地に移したのだそうですが、
日吉大社の境内には神猿舎があって猿を飼っているほか、西本宮楼門には猿の像が置かれています。

日吉大社 神猿 

京都市東山区にある新日吉神宮にも猿の彫刻があります。

新日吉神宮 神猿 

京都市左京区にある延暦寺の塔頭・赤山禅院の拝殿の屋根の上にも猿の彫刻が置かれています。

赤山禅院 神猿

赤山禅院の猿の彫刻は御所東北の猿が辻の猿に対応するものだそうですが、比叡山の神使いが猿であることとも関係があるのではないかと思います。

そもそも比叡山の神・山王権現の神使いが猿だとされているのはなぜなのでしょうか。

日本のたいていの山には猿が生息しています。
猿は人間よりもかなり小さいですが、姿が人間に似ています。
古の人が山中で猿に出会い、小さな人間の姿をした山の神だと考えたとしてもおかしくありません。
コロボックルの正体は実は猿だったりして?

猿は干支の申に通じます。猿=申
神という字の構造は 示+申 で、申(猿)で示される存在が神だということでしょうか?

もりやま芦刈園 あじさい 風車 
草津の風車も見えていました。
風の強い日でしたが、風車は回っていませんでした。
止まっちゃってるんでしょうか?

もりやま芦刈園・・滋賀県守山市杉江町

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[2015/06/11 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

木地師の里 八重桜 出猩々『惟喬親王の髑髏は髑髏杯にされた?』 

玄武神社 やすらい祭 『胴体がなく、首の長い神様』  より続きます

↑ 前回の記事で私は次のようなことを書きました。

①古の人々は蛇を胴体がなく頭部に長い首がついた動物だと考えたのではないか。
②大神神社の御祭神・大物主は蛇神とされるが、胴体がなく頭部に長い首がついた神だと考えられていたのではないか。
③惟喬(これたか)親王を祀る玄武神社には三輪明神(大神神社の神)を祀る社があり、大神神社で行われた鎮花祭をルーツとするやすらい祭を行っている。
④惟喬親王が木地師の用いる轆轤(ろくろ)を発明したという伝説があるが、親王が轆轤を発明するとは考えにくい。
轆轤は妖怪・ろくろ首を思わせる。
惟喬親王もまた胴体がなく頭部に長い首がついた神だと考えられていたのではないか。


トンデモ説だよ~、と思われた方もおられるかと思います。
なので、もう少し惟喬親王の謎を追い求めて旅をすることにしましょう~。

↓ 滋賀県東近江市君ヶ畑にある金龍寺です。

金龍寺 八重桜 
惟喬親王は平安時代の人物で父親は文徳天皇、母親は紀静子でした。
文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)という皇子もありました。
文徳天皇は長子で聡明な惟喬親王を皇太子にしたいと思っていましたが、当時は藤原氏が強い権力を持っていたため、惟仁親王が皇太子となりました。
皇太子争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲したとされます。
小野の里とは京都の大原あたりとされ、大原には惟喬親王の墓もあります。

しかし君ヶ畑ではこれとは別の伝説を伝えています。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は君ヶ畑に隠棲し、法華経の軸が転がるのを見て轆轤を発明。
そしてこれをこの土地の住民に伝え木地師が生まれたというのです。

金龍寺はこの地で惟喬親王が住んだ高松御所跡とされます。

↓金龍寺境内には小さな社がありました。

金龍寺 八重桜2 


社の向かって右にある石碑には「惟喬親王勧請 鎮守神 御池大龍権現 天狗堂大僧頭権現」と記されていました。
「惟喬親王が勧請した御池大龍権現と天狗堂大僧頭権現をお祀りしています」というような意味でしょうか。

↓ 金龍寺の隣には惟喬親王の墓がありました。

惟喬親王-墓2 
↓ 金龍寺から歩いて数分のところに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)にがありました。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社の御祭神は惟喬親王です。
かつて政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者は死後怨霊となり、疫病や天災をもたらすと考えられていました。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王も死後怨霊になったと考えられた結果、神として祀られたのでしょう。
前回ご紹介した玄武神社の御祭神も惟喬親王でした。

↓ 惟喬親王の墓(陵)は金龍寺の隣だけでなく、筒井の地にもありました。


惟喬親王-墓 

陵の隣には惟喬親王像が置かれていました。

惟喬親王像 

山深いところで訪れる人の姿は全くありませんでした。

蛭谷の筒井神社の奥には木地師資料館があり、ここにも惟喬親王像が置かれていました。

木地師資料館 惟喬親王像 

惟喬親王は大きな茶碗を持っています。

茶碗といえば黒田官兵衛の兜は茶碗をひっくり返したような形をしていました。
http://matome.naver.jp/odai/2139711378115060501

黒田官兵衛が茶碗をひっくり返したような形の兜をかぶっていたのは、茶碗が髑髏をイメージさせるものであったからではないかと私は考えています。

織田信長が浅井長政らの髑髏に漆を塗って杯にしたとか、江戸時代の漢詩人・高野 蘭亭、徳川光圀らが髑髏杯を持っていたなどといわれています。
髑髏杯とは人間の髑髏で作った杯のことです

奈良・西大寺の大茶盛では人の頭ほどもある大きな茶碗でお茶を回し飲みしますが、これも髑髏杯をイメージしているのではないでしょうか。
そういえば、大皇器地祖神社の周辺は茶畑となっていました。

惟喬親王は京都の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったとう伝説もありますが、髑髏と漆は髑髏杯をつくるのにかかせないものであったようです。
また真言立川流では髑髏に漆を塗り重ねて髑髏本尊なるものを作っていたとされます。

惟喬親王の髑髏は髑髏杯にされたか、髑髏本尊にされたのではないでしょうか。

それで「轆轤(妖怪ろくろ首を思わせる)を発明した」とか、「虚空蔵菩薩から漆の製法を授かった」などの伝説が作られ、大きな茶碗を持つ惟喬親王像が作られたのかも?

やっぱりトンデモ説でしたか?(汗~)

金龍寺付近 出猩々 

出猩々という楓だと思うのですが、芽吹きが赤色で、葉が徐々に黄緑色に変化します。
もうそろそろ初夏ですね~。

金龍寺・・・滋賀県東近江市君ヶ畑町809
大皇器地祖神社・・・滋賀県東近江市君ヶ畑町977
惟喬親王陵・・・滋賀県東近江市筒井峠 
木地師資料館・・・東近江市蛭谷町176

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[2015/04/20 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

彦根城 紅葉 ライトアップ 『ゲイパワーで建った城?』 

玄宮園より彦根城を望む 紅葉 ライトアップ

彦根城に次のような伝説があります。

1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となりました。
関ヶ原の合戦で功のあった井伊直政の息子・直継(直勝)が彦根の地を賜り、彦根城を築城することとなりました。
しかし工事ははかどらず、直継は「人柱をたてよ」と命じました。
ある藩士の娘・菊が「自分が人柱になる」と名乗り出、菊は生き埋めになりました。
その後、工事は順調に進みましたが、それ以来、彦根城に菊の花を植えてもすぐに枯れてしまうようになりました。


変態BL好きの私なんかは菊といえば男色を思い出してしまいます。
井伊直政は徳川家康と菊の契りをかわしていたとする説があるんですよね。
井伊直政は徳川家康の小姓で万千代と名乗っていましたが、小姓は男色の相手とされることが多かったのです。
また、『甲陽軍鑑』には「万千代、近年家康の御座を直す」と記されています。
「御座を直す」というのは菊の契りをかわすという意味ではないかというのです。

幼いころの直政は恵まれた環境で育ったとはいえません。
父・井伊直親は直政が2歳のときに謀反の嫌いをかけられて今川氏真に殺されました。
そこで直親の従妹の井伊直虎という女性が中継ぎとして井伊氏の当主となりましたが、所領を失ってしまいます。

直政の運命が変わりだしたのは彼が家康の小姓になって以降です。
直政は井伊氏の旧領を与えられ、井伊家は復活を遂げるのです。

直政は武田氏との戦いで戦功をあげ、旗本先手役となります。
本能寺の変では、家康の伊賀越えに従いました。
その後、井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となっています。
ひこにゃんが被っている兜は井伊直政が用いていたもので、鬼の角のような前立物から「井伊の赤鬼」と称されました。

直政は関ヶ原の戦いで家康本軍に随行し数々の手柄をあげますが、銃弾を右腕(または右肩)に受けて大けがをしてしまいました。

戦後も精力的に戦後処理などに尽力しましたが、鉄砲傷に破傷風を生じ、1602年に死亡しました。享年41歳でした。
その後、直政の息子・直継が彦根城の築城し、彦根藩(35万石)が置かれました。
彦根藩は明治まで井伊氏の藩として栄えることになるのですが、それは直政の功績と、直政が家康より寵愛を受けたことによるところが大きいと思います。
恐るべし、直政のゲイパワー!

人柱になった娘・菊とは直政を女性に見立てて創作された物語なのではないでしょうか。
直政は関ヶ原の戦いで功労があったにもかかわらず、そのとき受けた怪我がもとで亡くなってしまったことを「人柱」と表現しているのだと思います。
菊という名前にしたのは、直政が家康と菊の契りを結んでいたためではないでしょうか。

玄宮園 紅葉 ライトアップ

2014年11月23日 玄宮園より撮影

彦根城・・・滋賀県彦根市金亀町1−1

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[2014/11/25 20:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

長浜城の昼と夕暮れ 『今浜から長浜へ』 

ながはまじょう あおぞら 

昔、長浜は今浜という地名で浅井長政の領地でした。
浅井長政は織田信長の妹のお市の夫でした。
しかし信長は浅井長政の居城である小谷城を攻めました。
その際、木下藤吉郎は小谷城からお市と3人の娘を救い出すなどして活躍し、信長より浅井氏の領地を与えられました。
藤吉郎は 羽柴秀吉と名乗り、長浜の地をもらいうけた秀吉はこの地に城を建てました。
これが長浜城ですね。

また、秀吉は信長の「長」の字をとって今浜という地名を長浜と変えました。
長浜城は秀吉が初めて持った城でした。
長浜城は秀吉の夢の出発点だったといってもいいかもしれません。

その後、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成・信正らが城主になりましたが、1615年廃城となりました。
彦根城は長浜城の資材をリサイクルして築いたそうです。

秀吉は信長がで明智光秀に責められて自殺に追い込まれた(本能寺の変)のち、光秀を破りました。
そして大坂城を築き、豊臣姓を賜り、関白・太政大臣となって天下を統一しました。

しかし秀吉の死後は徳川家康が勢力をつけ、大阪の陣で豊臣家は滅亡してしまうのです。
「おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。」という平家物語のフレーズが浮かんできます。

ながはまじょう ゆうけい  




長浜城模擬天守(長浜歴史博物館)・・・滋賀県長浜市公園町10-10


[2014/06/26 20:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)