長命寺 雪 『武の暗号?』 

滋賀県近江八幡市 長命寺
2011年2月 2013年撮影


長命寺-雪2 

塔百景38


2011年雪景色を撮りたいと思ってやってきたのですが、雪は屋根の上にしか残っていない状態でした~。

2013年、リベンジしようと再び雪の長命寺を参拝しましたが、五重塔は修理中で箱の中~(涙)

長命寺-雪

向かって右より、三仏堂、護法権現社拝殿、鐘楼

300歳以上生きた武内宿禰

さて、長命寺には次のような創建説話が伝えられています。

景行天皇の御代、武内宿禰が柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫って長寿を祈願しました。
その後、飛鳥時代に聖徳太子がこれを発見しました。
そこへ白髪の翁が現れ、聖徳太子に「その木で仏像を彫りなさい」と告げました。
聖徳太子は十一面観音を彫り、寺をつくってこの観音様を安置しました。


創建説話に登場する武内宿禰は300歳以上という長寿で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたとされます。

長命寺 鐘楼 

鐘楼

②兄・武内宿禰と弟・甘美内宿禰 

武内宿禰にはこんな伝説もありますよ。

武内宿禰の弟・甘美内宿禰(うましうちのすくね)は兄を失脚させるために「兄は謀反を企てている」と応神天皇に讒言しました。
盟神探湯(くがたち/熱湯に手をつけて火傷をしない者が正しく、火傷をした者が偽りとする古代の裁判)をしたところ、武内宿禰が勝ちました。


甘美内宿禰は物部氏の先祖?

武内宿禰は蘇我氏、紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、波多氏、淡海氏、許勢氏らの先祖とされています。
この中に物部氏の名前はありません。
そして甘美内宿禰(うましうちのすくね)という名前はは物部氏の祖神とされるでウマシマジノミコトに似ています。
ここから、私は甘美内宿禰とは物部氏の先祖ではないかと考えました。

長命寺 六所権現 

六処権現影向石

③初代神武天皇よりも早く天下っていた神

ウマシマジノミコトの父親はニギハヤヒ、母親はナガスネヒコ(河内地方の豪族だと考えられています)の妹のトミヤヒメです。

初代神武天皇はもともとは日向に住んでいたのですが、日向があまりに国の端であるということで東征して畿内入りをめざします。
ニギハヤヒはこの神武が畿内入りするよりも早く畿内に天下っていたとされます。
そしてナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていたのです。

長命寺-すたら岩 
すたら岩

④余談ですが天下りという言葉、変えたほうがよくないですか?

このようにもとも「天下り」とは、天にいる神が地上におりてくることを指す言葉でした。
ここから転じて、現在では公務員が民間企業に再就職することを指す言葉になりました。

でも「天下り」っておかしいですよね?
公務員は民に仕える職業なので、立場は民より下です。
「天下り」という言葉は、公務員は民より立場が上であると錯覚させます。
これはよくない。

最近、看護婦という言葉はよくないとして看護師といったり
保母さんを保育士と呼んだりしています。
でももっとも改めるべきは「天下り」という言葉ですよ。勘違いも甚だしい。
武田邦彦先生は「地上ぼり」と言うべきではないかとおっしゃっていました。

大阪府では公務員の天下りは条例で禁止されているそうです。

長命寺 太郎坊権現 
太郎坊大権現

⑤天皇家の先祖は物部王朝の入り婿になって政権をのっとった?

話を戻します~(汗)
このような記述が記紀にあるところから、畿内には初代神武以前に物部王朝があったのではないかとする説があり、私はこの説を支持しています。

邪馬台国とは大和朝廷のことで、大和朝廷とはもともとは物部王朝のことだったと考えています。
神武天皇は実在性が疑われていますが、天皇家の先祖は大和朝廷の入り婿になることによって政権をのっとったのではないでしょうか。
くわしくはこちらの記事をお読みください→ 崇神天皇陵 夕日 『邪馬台国を旅する?』

⑥『武』の暗号?

甘美内宿禰(うましうちのすくね)が物部氏だとすると、武内宿禰は神武天皇のことなのではないかと思えます。
名は体を表すといいますが、『武内宿禰』の『武』は『神武』の『武』を意味する暗号なのではないか、と思ったりするのです。

⑦名前の交換は政権交代を意味している?

武内宿禰はまだ幼かった応神天皇と伊奢沙和気大神の名前を交換しています。
また仁徳天皇と武内宿禰の子は同年の生まれで、仁徳天皇の産屋にはミミズクが、武内宿禰の子の産屋にはミソサザイが飛び込んだとあります。
武内宿禰は鳥の名前を交換して、仁徳天皇を大鷦鷯尊(オホサザキノミコト)、自分の子には平群 木菟(ヘグリノツク)と名前をつけています。

仁徳天皇・・・産屋にミミズク(ツク)が飛び込んだ・・・大鷦鷯尊(オホサザキノミコト)
武内宿禰の子・・・産屋にミソサザイ(ササキ)が飛び込んだ・・・平群 木菟(ヘグリノツク


名前を交換するというのは、人格の交換をも意味しているように思えます。
この物語も、物部王朝から天皇家への政権交代を意味しているのではないでしょうか?

長命寺より琵琶湖を望む 
長命寺より琵琶湖を望む


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[2017/02/22 00:06] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

永源寺 紅葉 『世継観世音菩薩の謎』 


滋賀県東近江市 永源寺
2012年11月18日 撮影


永源寺 禅堂 紅葉 

●世継観世音菩薩

永源寺の御本尊・世継観世音菩薩は秘仏でおよそ四半世紀に一度のみ御開帳されます。

世継観世音菩薩には次のような伝説が伝えられています。

開山・寂室禅師が中国より留学を終えて日本へ帰国する際、海上で嵐にあいました。
禅師が祈ったところ白衣の観世音菩薩が顕れ、嵐はおさまり、無事日本へ帰国することができました。
帰国した寂室禅師が永源寺に住まわれていたとき、夜毎、寺の東の峰から光明がさすのが見えました。
禅師がそこを訪ねてみると石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。
 「かつて海上で嵐を静めてくださった観音様に違いない」
そう考えた禅師は中国から仏師を招き、中国の土で観音像を作らせ、その像の額の宝冠の中に、石の上で見つけた小さな霊像を納めて御本尊としました。
 のちに近江守護職佐々木氏頼の子、満高が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。


 

永源寺 渡り廊下 紅葉 
●佐々木氏頼

「のちに近江守護職佐々木氏頼の子、満高が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。」
という部分に注目してください。

佐々木氏頼は1361年に寂室元光禅師に土地を寄進して永源寺を開いた人物です。

1349年、氏頼の子の義信満高の兄)が誕生しました。
ところが1368年、義信は17歳で急死してしまいました。
このとき満高はまだ生まれていませんでした。
そこで氏頼は母方の甥・京極高詮猶子としました。
1369年、氏頼の次男・満高が生まれました。(満高の生誕年は1365年説もあり)
1370年、氏頼は亡くなり、京極高が氏頼の跡を継ぎました。
しかし1377年、に京極高詮は追放され、満高が家督を継ぐことになっりました。
 
永源寺 鐘楼 紅葉 
●32歳で世継ぎを授かるのは遅かったのか?


満高公が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。」
とありますが、満高の子の満綱は1401年に生まれているので、満高は32歳で世継を授かったということになります。
満高が生まれたのが1365年だったとしたら、世継ぎを授かったのは36歳です。
32歳や36歳で世継ぎを授かるというのは当時としては遅かったのでしょうか?
まあ、当時の平均寿命は50歳くらいだったでしょうし、結婚も早かったでしょうから10代で父親になることも珍しくはなかったでしょう。
32歳では遅かったといえるかもしれません。

永源寺 禅堂 紅葉

●世継ぎを授かるのが遅かったのは満高ではなく氏頼では?

でも、満高の父の氏頼のほうが、満高より世継ぎに恵まれなかったといえるのではないでしょうか。

氏頼の生誕年は1326年です。
1349年に義信生まれたとき、氏頼は23歳です。

ところが義信1368年に17歳で急死してしまいました。 
氏頼42歳で世継ぎを亡くしてしまったのです。
そして次男の満高が生まれたのは1365年または1369年とされています。
氏頼は39歳または43歳です。

ですから、氏頼39歳か43歳で世継ぎに恵まれたということになります。
これは世継ぎを授かるのが遅かったといえるでしょう。

氏頼1361年に寂室元光禅師に土地を寄進して永源寺を開いています。
そういった関係から、1368年のの死後、氏頼永源寺の観音様に『再び自分に子供が生まれますように』と祈願したのかも?

つまり『満高が跡取りに恵まれず、永源寺の観音に祈願をして世継を授かった』のではなく『氏頼が跡取りに恵まれず、永源寺の観音に祈願をして世継を授かった』というのが本来の物語なのではないかなあ、と思ったりします。

永源寺 含空院 紅葉   



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[2016/11/17 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

西教寺 紅葉 『鬼の念仏 と 猿の念仏』 

滋賀県大津市 西教寺
2010年11月20日 撮影

西教寺 猿の像 紅葉2

●猿の念仏

西教寺には次のような伝説があります。

明応2年(1493)、このあたりで徳政一揆が起こりました。
僧兵はその首謀者が真盛上人だと疑い、西教寺を攻めました。
境内には人影がありませんでしたが、本堂から鉦の音が聞こえてきました。
僧兵が本堂に入ると、一匹の手白の猿が上人の身代わりとなって鉦をたたいていました。
僧兵は日吉山王の使者である猿が念仏を唱えている様子に、真盛上人の影響力の強さを感じてその場を立ち去りました。

西教寺の近くには日吉大社があります。猿はこの日吉大社の神使なんですね。



西教寺の塔頭の瓦には猿の像がいくつも置かれています。
また本堂の阿弥陀如来像の前には鉦をたたきながら念仏を唱える猿の像が置かれていました。
それらは上記の伝説にもとづくものなのでしょう。

西教寺 猿の像 紅葉

●鬼の寒念仏

えー、大津といえば大津絵が有名です。
大津絵とは民族絵画であり、護符としての効能もあるとされていました。
いろいろな種類があるのですが、中でも有名なのは「鬼の寒念仏」です。

三井寺 鬼の寒念仏 

↑ これは三井寺にあった「鬼の寒念仏」

 ●鬼=怨霊

鬼とは成仏しきれず祟りをなす怨霊のことだと考えてもいいでしょう。
『鬼の寒念仏』はそんな怨霊までが成仏しようと念仏を唱えている様を描いたものだと思います。
それほど念仏が流行ったということでしょう。

西教寺 紅葉

●怨霊=神=猿

猿は申とも書き、申に示偏をつければ神になります。

そして、かつて怨霊と神とは同義語だったといわれます。
怨霊が祟らないように祀ったのが神だというのですね。
怨霊は神として祀り上げると、ご利益を与えてくれる和魂になる、などともいいます。

猿は神でありかつ怨霊でもあると考えられていたということでしょう。

すると『鬼の念仏』と『猿の念仏』は同じものだといえるかも?

西教寺 紅葉2

西教寺 庭園 紅葉

西教寺 本堂 紅葉 


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[2016/11/16 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

西明寺(湖東三山) 紅葉 『三修上人は阿弥陀如来の化身?』 


滋賀県犬上郡 西明寺
2008年11月16日 撮影


西明寺(湖東) 三重塔 紅葉 
西明寺 三重塔

塔百景29

西明寺には次のような創建説話が伝えられています。

834年、三修上人(慈勝上人)が琵琶湖の西岸を歩いていたところ、琵琶湖東方より紫雲が現われ光がさしました。
三修上人は飛燕の術(空を飛ぶ術)を用いて琵琶湖を飛び越え湖東へやってきました。
そして閼伽池に向かって祈ったところ日光菩薩、月光菩薩十二神将を随えた薬師如来の姿が現れました。
この話を聞いた仁明天皇はこの地に勅願寺の建立を命じられました。
薬師如来が放った光が、仁明天皇がおられる京都の宮中に向かって、西方を明るく照らしたため「西明寺」と名付けられました。
また東には青龍、西には白虎、南には朱雀、北には玄武と四柱の聖獣が住むとされます。
西明寺は湖東にあるため、東の青龍が住む場所ということで「龍應山」と名付けられました。


西明寺(湖東) 二天門 紅葉 

西明寺 二天門

西明寺 二天門 増長天 

二天門 増長天

西明寺 二天文 持国天

二天門 持国天

●東は薬師如来、中央は池、西は阿弥陀如来


京都府木津川市加茂町西小札場にある浄瑠璃寺を思い出します。
浄瑠璃寺の境内には池があり、池の東には三重塔があって薬師如来が、池の西の本堂には阿弥陀如来が祀られているのです。



池の西の細長い建物が浄瑠璃寺本堂です。池を挟んだ東に三重塔があります。


薬師如来は東方浄瑠璃世界に住んで現世の苦しみを除く仏、阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主とされています。
それで浄瑠璃寺では池の東に薬師如来、池の西に阿弥陀如来を祀っているのですね。

東・・・・・薬師如来
中央・・・池
西・・・・・阿弥陀如来


●三修上人は阿弥陀如来の化身?

西明寺は琵琶湖の東にあって薬師如来を祀っています。
そして西明寺を創建した三修上人は琵琶湖の西岸を歩いていたとあります。

東・・・・・薬師如来・・・西明寺
中央・・・池・・・・・・・・・琵琶湖
西・・・・阿弥陀如来・・・三修上人?


三修上人は伊吹山の弥高寺を開山したともされる伝説的な行者ですが、もしかして三修上人はて阿弥陀如来の化身であると考えられていたのでしょうか?

  西明寺(湖東) 門 紅葉

西明寺 門(庭園出入り口)


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[2016/11/10 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

百済寺 (湖東三山) 紅葉 『百済寺はキリスト教寺院だった?』 


滋賀県東近江市 百済寺(ひゃくさいじ)
2008年11月16日 撮影


百済寺 紅葉 
●依智秦氏の氏寺


百済寺には次のような創建説話が伝わっています。

606年、聖徳太子はに慧慈とともに湖東を訪れた際、東の山中に瑞光を発見しました。
山中に入ってみると上半分の幹が切られて光明を放つ杉の巨木が立っており、猿が木の実をお供えしていました。
慧慈は聖徳太子に「百済・龍雲寺の十一面観音はこの伐られた上半分の木を用いて作られたものである」と言いました。
太子はこの根の付いたままの木に十一面観音を刻みました。


百済寺のhpには次のようにも記されています。
『その中心は依智(エチ)秦公で一族の氏寺としてひときわ高い山中に百済寺が建立されました。』

百済寺は依智秦氏一族の氏寺だというのです。
依智秦氏(えちはたうじ)は渡来人・秦氏の傍系氏族だと考えられています。

百済寺 紅葉3


●秦氏は百済人?新羅人?

『日本書紀』(283年)には、「秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人々を率いて日本に帰化した。」と記されています。
この記事を読むと、依智秦氏の氏寺が百済寺というのはもっともだと思われます。
百済寺の十一面観音が百済の龍雲寺の十一面観音と同じ木を用いて刻まれているという伝説も、ああなるほど、と思います。

ところが!
秦氏の居住地から発掘される瓦は『新羅系』がほとんどなんですよ。
そういうわけで、秦氏が百済からやってきたというのは疑問視されています。

新羅は日本と敵対していたため、秦氏は百済からやってきたと偽り、自分たちの氏寺にも百済という名前を付けたのでしょうか?

●秦氏の故郷は弓月王国?

またかつて中央アジアに弓月王国というキリスト教国があり、秦氏はこの弓月王国からやってきたという説もあります。
秦氏はキリスト教徒だったのかも?

広隆寺   
  広隆寺

京都の広隆寺は秦氏の氏寺で。かつては太秦寺とも呼ばれていました。
太秦から「、」を除いた大秦はローマの漢語訳、大秦寺は景教(ネストリウス派キリスト教)の教会の漢語訳です。

飛鳥昭夫さんは太秦(ウズマサ)はアラム語の『イシュ・メシャ(イエス・キリスト)』からくるのではないかとおっしゃっています。
アラム語は紀元前500年~600年頃にシリア地方、メソポタミアでに用いられていたヘブライ語と同系統の言語です。

百済寺 紅葉2 
●秦氏が信仰する弥勒菩薩とはイエス・キリストだった?

百済寺には白鳳時代の金銅製弥勒菩薩半跏思惟像があるそうですが、新羅から秦氏の氏寺・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像にそっくりな金銅製弥勒菩薩半跏思惟像 が発見されています。

この広隆寺や新羅の弥勒菩薩半跏思惟像の手の印はネストリウス派キリスト教徒の印と同じであると指摘されています。
http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu3/05miroku01.html
↑とても面白い記事です。もしも広告が出たらスキップしてください。

弥勒菩薩とは東洋版・イエスキリストなのではないでしょうか?

●キリストは太陽神だった?


キリスト教のクリスマスはミトラ教の冬至祭を取り入れたものだと言われています。
ミトラ教とは古代ローマの太陽神ミトラスに対する信仰のことです。

地球の歳差運動(コマが振れるように地球の自転軸が揺れる現象のこと)の関係で、かつて北半球でも空の低い場所に南十字星が見えていたそうです。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

そして冬至の太陽の南中高度は南十字星が出るあたりにまで低くなります。
そういう状態が3日間続いたのち、太陽は再び南中高度をあげていきます。

太陽の南中高度の変化2
そこで、次のような説があります。

キリストが十字架にかけられたというのは、太陽の南中高度が南十字星の位置にくることをあらわしており
キリストが死後3日後に復活するのは、冬至から3日後の再び太陽が南中高度をあげていくことを比喩したものではないかと。

冬至は12月22日ごろです。そして太陽が再び南中高度をあげていくのが3日後の12月25日、クリスマス(キリストの誕生日)です。


●ミスラ神・ミトラス神・弥勒菩薩(マイトレーヤ)

弥勒菩薩はサンスクリット語でマイトレーヤといいますが、マイトレーヤは古代インド・イランで信仰されていた太陽神・ミスラがルーツだといわれています。

そして、このミトラ教は古代インド・イランのミスラ神の信仰の影響を受けたものです。

ということは、

ミスラ神=ミトラス神・・・太陽神
ミスラ神=弥勒菩薩・・・太陽神
ミトラス神=イエスキリスト・・・太陽神
∴イエスキリスト=弥勒菩薩・・・太陽神?


百済寺の金銅製弥勒菩薩半跏思惟像をぜひ拝観してみたいです。

百済寺 池 紅葉 



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[2016/11/09 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

桂浜の彼岸花 と 琵琶湖夕景 『日本の彼岸花は一株の彼岸花が株分けされて広まった?』 


滋賀県高島市今津町 桂浜園地 ヴォーリス通り
撮影 2014年9月20日

桂浜 彼岸花
 
●日本の彼岸花は三倍体のため種子ができにくい。

日本の彼岸花は三倍体のため、種子ができにくいそうです。
そういえば、彼岸花が結実しているのって見たことがないかも。

●三倍体って何?

以下、ニワカ知識です。

日本の彼岸花は三倍体だと言われています。
三倍体とは染色体を3セット持つ生物のことです。
一般的に動物は二倍体ですが、植物には三倍体、四倍体なんていうのも存在しているそうです。

二倍体とは父方から1セット、母方から1セットの染色体を受け継いで2セットの染色体を持つ生物のことです。
二倍体の植物は1セットの染色体を持つ花粉(父方)と胚嚢(母方)を作り、これが受精すると2セットの染色体を持つ新しい細胞ができ、種子を作ります。

ところが三倍体の植物は父方・母方の染色体の数があわないため、正常な減数分裂ができず、種子ができにくいそうです。

桂浜 彼岸花2 
●彼岸花には二倍体のものもある。

彼岸花の原産地と考えられている中国には三倍体の彼岸花のほか、二倍体で種ができる彼岸花もあるそうです。
また、日本にも数は少ないようですが二倍体で種ができる彼岸花があるようで
彼岸花を種から育てたという記録がありました。

http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/sizen/higanb_tane.html

今津郵便局

ヴォーリス通り 今津郵便局跡

●コヒガンバナとは二倍体の彼岸花?


上のサイトには育てているのはコヒガンバナであると書いてあります。
コヒガンバナとはなんでしょうか?
次のように記されたサイトがありました。
 
ヒガンバナより小形という意味だが、外見上の違いはない。違うのは、このコヒガンバナには種ができること。生物学的には細胞の染色体数が基本数の二倍の二倍体。ヒガンバナは三倍体で種ができない。
http://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_1717.htm より引用

どうも二倍体の彼岸花のことを、コヒガンバナといっているようです。

今津基督教会館 

ヴォーリス通り 
今津基督教会館

●日本の彼岸花はたった一株の彼岸花が株分けされて広まった?

以前、彼岸花についてネットで調べていたところ、「日本の彼岸花は中国よりもたらされた一株の彼岸花が株分けされて広まった」と記されたサイトがたくさんありました。

なぜ一株の彼岸花が株分けされたと考えられるのか、その理由については、次のように説明されているものがありました。
日本の彼岸花はすべて三倍体である。
三倍体の彼岸花は珍しい。
ゆえに、たった一株の彼岸花が株分けされ北海道をのぞく日本全国に広まったと考えられる。

でも彼岸花の原産地と考えられている中国にも三倍体の彼岸花はあるとのことなので
複数株の三倍体の彼岸花が日本にもたらされたと考えたほうが自然だと思います。

琵琶湖 夕景

『ヴォーリス通り』の東にある民家の脇から琵琶湖の浜に出てみると、東の空なのに夕焼け雲が。 

●遺伝的に同一とは?

以前、ウィキペディアには次のように記されていました。
「日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。また三倍体であるため種子で増えることができない。」
(ウィキペディアより引用 ※現在は書き直されています。) 

2016年9月18日現在、ウィキペディアの記事は次のように書き直されています。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であるとされるが、このことがただちに中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えることはできない。三倍体であるため一般に種子で増えることができないため、持ち込まれた複数のヒガンバナが中国ですでに遺伝的に同一であることは充分にあり得るためである。

ここに「日本に存在する彼岸花はすべて遺伝的に同一である」とありますが、遺伝的に同一とは具体的にどういうことなのでしょうか?
日本の彼岸花が全て(実際には二倍体もあるので全てとはいえない。)三倍体であるということでしょうか?
このあたり、ちょっとよくわかりません。
 
琵琶湖 夕景2 


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[2016/09/19 18:53] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

正明寺 万灯会 『惟喬親王を偲ぶ万灯会?』 

滋賀県蒲生郡日野 正明寺
万灯会・・・8月5日~8月15日 (確認をお願いします。)

正明寺 万灯会 
正明寺では8月5日から8月15日まで万灯会を行っています。
(檀家さんがお茶をいれてくださいました。ありがとうございました!) 
 
正明寺 万灯会2


● 後水尾天皇の勅願寺

正明寺は飛鳥時代、聖徳太子が創建した寺だと伝わっています。
戦国時代の戦火を受けて消失しましたが、江戸時代に黄檗宗の寺として再興され、後水尾天皇の勅建寺となりました。 

正明寺 魚梆 

正明寺には黄檗宗総本山の萬福寺と同様の魚梆(ぎょほう)がありました。
萬福寺の魚梆はこちら→

●漆器の産地だった城下町・日野

1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、日野は城下町として整備されました。
日野には木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展しました。
当時の日野には『日野市』という市場町がありました。
日野市は上の市と下の市から成り、上の市には世神(渡世の神)である惟喬親王が、下の市では市神が祀られていたそうです。

木地師資料館 惟喬親王像2 

木地師資料館の惟喬親王像

●上の市で惟喬親王が祀られていた理由


惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師の用いる轆轤(ろくろ)を発明したとか、京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったなどという伝説があります。
そういったことから、惟喬親王は木地師の祖とされ信仰されていました。
上の市で世神として惟喬親王が祀られていたのはそのためでしょう。 


木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っています。



●御霊として祀られた惟喬親王

惟喬親王(844- 897)は文徳天皇の第一皇子で母親は紀名虎の娘の静子でした。
文徳天皇には藤原良房の娘・明子との間に第四皇子の惟仁親王(のちの清和天皇)もありました。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子にしたいと考えており、これを源信に相談しました。
源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめたそうです。
こうして世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は出家して小野の地に隠棲し、のちに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)、玄武神社、惟喬神社などに御霊として祀られました。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社

御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことです。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた者のことで、疫病や天災や怨霊の仕業で引き起こされると考えられていました。
惟喬親王はかつて怨霊として畏れられていたということでしょう。
ウィキペディア「祟り神」によれば「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である」
と記されています。

●清和天皇にイメージを重ねた後水尾天皇

後水尾天皇という諡号は遺諡(遺詔によって自ら決める追号)によって贈られたものなのですが、水尾とは清和天皇の異称です。

徳川光圀の『西山随筆』には、「兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であることからこの諡号を自ら選んだのだろう」とあります。

後水尾天皇には良仁親王という異母兄がおり、豊臣秀吉の後押しを受けて皇位継承者とされていました。
ところが秀吉が死亡して徳川家康が政治の実権を握ると、家康の後押しによって後水尾天皇が皇位継承者とされたのです。

後水尾天皇は自らを清和天皇のイメージとかさね、清和天皇との世継ぎ争いに敗れた惟喬親王を祀り上げることで自らの守護神にしようと考えたのではないでしょうか。
そのため惟喬親王に対する信仰の強い日野の正明寺を勅願寺としたのではないかと思ったりします。 

そんなことを考えていると、たくさんの灯りは惟喬親王を慰霊するためのもののように思えてきました。


正明寺 万灯会3



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[2016/08/11 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

唐崎神社 御手洗祭 『宇志丸は牛丸?』  

滋賀県大津市 唐崎神社

7月27日、28日は唐崎神社の「みたらし祭」です!

唐崎神社 みたらし祭 
湖上焚上神事。
古い御札やお守りなどを焚きあげて清めます。 

唐崎神社 みたらし祭 手筒花火

そのあと、手筒花火神事が行われました。(7月28日のみ)

●琴御館宇志丸
 
633年、琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)という人がこの地に住み、地名を「唐崎」と名付けたそうです。
その後、天智天皇が奈良の三輪山から大己貴神を大津に勧請した際、神は琵琶湖を渡りこの地に降り立ったといわれています。
唐崎神社は日吉大社の摂社ですが、日吉大社の西本宮の御祭神が大己貴神ですね。

●琴御館宇志丸の娘・別当命

唐崎神社が創建されたのは持統天皇の御代の697年で、琴御館宇志丸の妻・女別当命(わけすきひめのみこと)を御祭神としています。

唐崎神社 みたらし祭 手筒花火2


●池や湖のほとりには女神が祀られる。

日本では水神は大抵女神とされていて、池や湖のほとりには弁財天やイチキシマヒメが祀られています。
唐崎神社は琵琶湖のほとりにあるということで、やはり女神の女別当命を祀っているのでしょう。

●女別当命は琴御館宇志志丸の和魂?


神はその現れ方で、御霊(神の本質)、荒魂(神の荒々しい側面)、和魂(神の和やかな側面)にわけられると言われますが、
男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説があります。

女別当命とは荒霊である琴御館宇志志丸の和霊なのではないでしょうか。

●宇志丸は牛丸?

琴御館宇志丸の宇志丸とは牛丸で、牛頭天皇と関係があるのかもと思ったりします。
牛頭天皇とは京都八坂神社の御祭神で、疫神として畏れられた神です。
唐崎神社の御手洗祭と同時期に行われる祇園祭はこの牛頭天皇を慰霊する祭です。 

唐崎神社 みたらし祭 手筒花火3 

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[2016/07/28 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

烏丸半島 蓮 『俵藤太の百足退治伝説 』 ※追記あり 

滋賀県草津市 烏丸半島蓮群生地
滋賀県大津市 雲住寺
2008年7月22日撮影

追記/aunt carrotさん に教えてもらったんですが(ありがとうございました!)
、今年の烏丸半島の蓮はほぼ全滅のようです~。
http://kanko-kusatsu.com/info/hasu-2/


烏丸半島 蓮 

烏丸半島の蓮の群生。
まるでピンクの波のよう~。
向こうに見えているのは三上山です。

●三上山に残る俵藤太の百足退治伝説


三上山には俵藤太のムカデ退治伝説が残り、「ムカデ山」とも呼ばれています。 

俵藤太 ムカデ退治の図 

瀬田の唐橋 説明板より


俵藤太のムカデ退治伝説とは次のようなものです。

瀬田の唐橋に大蛇が横たわっており、人々は恐れて橋を渡ることができませんでした。
しかし俵藤太は大蛇を踏みつけて橋を渡りました。
その夜、美しい娘が藤太のもとへ訪ねてきました。
娘は琵琶湖の龍神で、藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えていたのでした。
娘は藤太に「三上山のムカデに苦しめられているので助けてください」と言いました。
そこで藤太が三上山に行くと、山を7巻き半する大ムカデが現れました。
藤太は八幡神に祈って矢を射、それが大ムカデに命中しました。
藤太はムカデ退治のお礼にと、龍神の娘から米の尽きない俵をもらいました。
またのちに藤太は朝廷より平将門の乱平定を命じられましたが、龍神のおかげで将門の弱点を見破り、討ち取ることができました。


俵藤太というのは、彼が龍神から米のつきない俵をもらったところからつけられた愛称で、本名は藤原秀郷といいます。

●男体山の百足退治伝説

下野国には、大ムカデに姿を変えた男体山を、猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという伝説があるそうです。
 
おー、男体山!
栃木県・二荒山神社の御神体ですね!
参照/二荒山神社 コバノミツバツツジ 桜  『大黒田道間守は不老長寿の神?』 


男体山 
 向かって左が男体山

下野国は秀郷の本拠地であり、この伝説をベースに秀郷のムカデ退治伝説は作られたのではないかと言われています。

●蒲生氏は藤原秀郷の子孫だった。

なぜ滋賀の三上山を舞台にして秀郷の百足退治伝説は作られたのでしょうか?? 

雲住寺 百足供養塔 

勢田の唐橋の東詰に雲住寺というお寺があり、境内には百足(ムカデ)供養堂がありました。
雲住寺は1408年に城主・蒲生高秀蒲生氏が創建したお寺なのだそうですが、この蒲生高秀は藤原秀郷の14代目の子孫なのだそうです。

秀郷のムカデ退治伝説が滋賀にあるのは、秀郷の子孫・蒲生氏が城主だったことと関係があるのかもしれませんね。



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[2016/07/19 14:52] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

箱館山 百合 『竹生島はなぜ信仰されたのか』  

滋賀県高島市 箱館山百合園
2012年7月22日 撮影

函館山 百合 

●竹生島は瓢箪島?


箱館山の百合園から琵琶湖に浮かぶ竹生島が見えていました。
「ひょっこりひょうたん島」みたい!

竹生島は古くから信仰の対象とされていましたが、それは瓢箪みたいな島の形とも関係があるのではないかと思います。

函館山 百合2

●中国版ノアの箱舟

中国に次のような伝説があります。

あるとき大洪水がおこって多くの人間が死んでしまいましたが、伏羲と女媧という兄妹は巨大な瓢箪の中に隠れていたので無事でした。
兄妹は結婚して子供を産み、人類の祖となりました。 


中国版ノアの方舟ですね。

函館山 百合 リフト 

●なぜ伏羲と女媧は瓢箪に隠れたの?

さて、なぜ伏羲と女媧は瓢箪に隠れたのでしょうか?

先日、ザ・ピーナッツの伊藤ユミさんの訃報が報じられましたが
ザ・ピーナッツは双子の女性デュオでした。
ピーナッツのさやにはふたつのふくらみがあって、中に二つの豆が入っているのでザ・ピーナッツというユニット名をつけたのでしょう。

瓢箪もピーナッツと同じく2つのふくらみがありますね。
伏羲と女媧は蛇身で、伏羲の右手と女媧の左手がつながった姿で描かれることがあります。 (図→  )
ふくらみの大きいほうが伏羲、ちいさいほうが女媧ということなのではないでしょうか。

●道祖神と伏羲&女媧


道祖神はもともとは中国の神で、男神と女神が手をつなぎ合う姿で表されます。
道祖神の男神は伏羲、女神は女媧と同一神なのではないかと思ったりします。

瓢箪は伏羲&女媧、または道祖神を想起させるため、瓢箪に似た形の島や岩が信仰の対象とされたのではないでしょうか。


多気山不動尊 道祖神 

多気山不動尊(栃木県) 道祖神




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[2016/07/18 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)