阪急池田市駅周辺
がんがら火祭・・・8月24日(2020年は中止)
①池田の町を死者が練り歩く?
がんがらと町中に響き渡る鉦の音、松脂の焦げるにおいはどこか懐かしく、なぜか心が高揚してしまいます。
がんがら火は二本の松明を上部で合わせて山型にしたもので、『人』という文字に見えます。
がんがら火はお盆にこの世に戻ってきた死者の霊が池田の町を練り歩くさまを表したものなのではないでしょうか。
大文字と大一文字の送り火が点火されます。

②大は天で、一は地?
送り火の 『大』や『大一』は何を表すものなのでしょうか。
『大』は星を象ったものだとか、人間を表す、『大』は天で『一』は地を表しているなどの説があります。
『大』は天、『一』は地を表すものであるならば、『大』は男性を、『一』は女性を表しているといってもいいと思います。
陰陽の考え方では、天が陽で、地が陰。
また、日が陽で、月が陰。
男が陽で、女が陰となっているからです。
また、八卦では乾の卦は自然では天を表しますが、家族では父(男性)を表します。
坤の卦は自然では地を表しますが、家族では母(女性)を表します。
③逢瀬と先祖供養の関係は?

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
旧暦ではお盆は7月15日を中心として行われており、7月7日の七夕は盆の入りの行事でした。
お盆には死者の霊がこの世に戻ってくると考えられ、その供養を行う習慣がありますね。
いっぽう七夕は牽牛と織姫が1年に1度の逢瀬を楽しむ日とされています。
逢瀬と先祖供養はどう関係があるのでしょうか。
盆の時期には死者の霊が戻ってくると考えられていましたが、死者の霊の中には荒霊のような人に禍をもたらすものもあります。
そのため、このような荒霊を鎮魂する必要があると昔の人々は考えたのでしょう。
そして男女和合は荒霊を鎮魂する方法だと考えられたのではないかと私は思います。
神はその表れ方によって、御霊・和霊・荒霊の3つに分けられるといいます。
そして女神は和霊を、男神は荒霊をあらわしているとする説があります。
ということは御霊とは男女双体ということになりますね。
御霊・・・神の本質・・・男女双体
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神
神と霊はほとんど同じものだと考えてもいいと思います。
そして伏羲、女媧は二柱の蛇身の神がからみつく男女双体の姿で現され、伏羲の右手と女媧の左手はつながっていますが
仏教の神・大聖歓喜天もまた男女双体の姿をしています。
この歓喜天の説話を読めば、男女双体の意味がわかると思います。
昔、インドの国中に不幸なできごとが蔓延し、それらはビナヤキャの祟りであるとされた。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。 上の絵ではわかりにくいですが、歓喜天はビナヤキャ女神が、ビナヤキャの足をふみつける姿で現されます。
日本には道祖神という男女双体の神がいます。。
道祖神は一般的には手をつなぎ合う姿で現されますが、中には足を踏みつけているものや、和合する姿のものもあります。
おそらく伏羲&女媧、歓喜天、道祖神は習合されているのだと思います。
このように、荒霊(男神)に和霊(女神)を和合させることで、御霊(仏法守護の神)となるという考え方が古にはあったのではないかと思います。
そのためお盆の行事として牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ七夕の行事があり、がんがら火祭では天=男性を表す『大』と地=女性を表す『大一』の送り火を点火するのではないでしょうか。
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淀川河川公園にて
↑ この車は何という車なのかな?消防指揮車?消防指令車? ご存じの方、教えてください!
中に入ると・・・・
おお~~、キャンピングカーみたいですね。
ソファーはマットレスを引き出してベッドにもなる仕掛け。テーブルは写真向かって右のように畳んでしまっておける。
シックな色合いでインテリア性も〇。
この向かい側は・・・・
キッチンになっていました!
冷蔵庫、電子レンジ、流し台もある。リビングスペース、キッチンスペースともに収納スペースもたっぷり。
キッチンの向かって左横は・・・
洗面台兼シャワールーム。モニターの裏側はトイレ。ここで生活できそうですね。
さらにこの奥は・・・・
ベンチと簡易ベッドかな?簡易ベッドは使わないときは壁側に倒して収納できるようになっているんだと思います。
インテリアのヒントになるアイデアがたくさん。
レスキュー車はデッドスペース0設計。
運転席向かって右の棚は・・・・

こんな風に90度回転させて引き出すことができます。

ご覧のように裏側にも収納できます。これなら裏側の道具もとりだしやすくていいですね。
工具をこんな風に収納したい!
高い場所にある収納ケースは、↑ こんな風に引き出してひっかけて固定できるので取り出しやすい~。
狭いスペースもムダなく活用。
反対側はこんな感じ。
救急車もこんな機会がないとめったに乗れないので。
医療器具がたくさん積まれています。
天井部分のネット収納はグッドアイデアですね。
消防隊員の方々が親切に説明してくれるのでとても楽しかったです。ありがとうございました!
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大阪府枚方市 日置天神社
2019年10月20日 撮影
日置天神社の秋祭のはじまり、はじまり~♪①交野ケ原に残る惟喬親王の伝説
前回、天田神社の由緒書に次のように書いてあるということをお話ししました。
「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。」
「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、」とありますが、その宮廷貴族の中に紀有常、在原業平らがいます。
彼らは惟喬(これたか)親王の寵臣であり、惟喬親王のお供をして狩にやってきて、歌会を開いたという話が伊勢物語などに記されています。
大阪府交野市・枚方市あたりはかつては交野ケ原と呼ばれていました。
そして枚方市には惟喬親王の伝説がいくつか残されています。
↑
渚の院です。(保育園の隣にあって鐘楼が残っているだけです。)
ここで惟喬親王・紀有常・在原業平らは歌会を開きました。
↑ 上は枚方市茄子作南町にある本尊掛松跡。
1321年、融通念仏宗中興の法明上人が男山八幡(石清水八幡宮)の神よりお告げを受けて、深江の庵室(現大阪市東成区南深江 法明寺)より男山へ向かっていたところ、ここで、同じ夢告げを受けた八幡宮の使者に出会い、十一尊天得如来画像を授けられたと伝えられます。
この茄子作という地名の由来について、ここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。
そしてここ、日置天神には次のような伝説が伝えられています。
惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願しました。

日置天神社には8台ものだんぢりが残されていて、秋祭に公開されています。
そのうち1台は氏子さんたちによって町を引き回されます。
氏子さん方に、いろいろなことを教えていただきました。ありがとうございました。
だんじりの彫刻については、「わからない」ということでした。
引き回されるだんじりの側面に、鷹の彫刻が。惟喬親王の愛鷹にちなむものでしょうか?
正面はこんな感じです。菊の彫刻が惟喬親王を思わせます。
大皇器地祖神社は木地師の祖として惟喬親王を祀っていますが、神紋が十六菊なんですよね。
この彫刻の花びら数えてみたら20弁で、数がちがいますがw
↑ これはひきまわさない別のだんじりですが、巻物を持っているのが、惟喬親王を思わせます。
というのは、惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があるのです。
巻物持っているのは女性ですが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えているので!
詳しくは別ブログの次のシリーズをお読みください。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html全部読む時間がない方はこちらを読んでいただけると嬉しいです♬
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』 
さあ、だんじりが出発しますよ~。
ながらくだんじりの引き回しは行われていなかったとのことですが、数年前から復活したそうです。嬉しいね。
②石清水八幡宮は惟喬親王を祀る神社?天田神社 秋祭 『肩野物部氏の土地が石清水八幡宮の所領だったのはなぜ?』 ↑ こちらの記事にはこんなことを書きました。
a.天田神社あたり(森地区)は石清水八幡宮の所領であった。ことがわかりました。
b.森地区の氏子さん方は石清水八幡宮の勅祭石清水祭に御先払神人として奉仕もされている。
c.石清水八幡宮と交野ケ原は物部氏でつながる?
石清水八幡宮ー応神天皇を祀るーーーーーーーー物部氏が祭祀する神社
交野ケ原(天田神社も交野ケ原にあった)―――肩野物部氏が住んでいた。
しかし、cは間違いである可能性が大であることに気がつきました。(すいません!)
石清水八幡宮と交野ケ原は物部氏でつながる、と書きましたが、
石清水八幡宮は紀氏と関係の深い神社なのでした。
以前の記事に書いているのに、忘れていました(汗)
永観堂(禅林寺) 雪 『惟喬親王のおもかげを映す阿弥陀如来』 ↑こちらの記事に書いたのですが、石清水八幡宮は清和天皇の勅願によって創建されたと伝わります。
そしてその石清水八幡宮の神主は代々紀氏の世襲なのです。
清和天皇と紀氏はあまり折り合いがよさそうには思われません。
実は清和天皇は惟喬親王の異母弟なんですね。
文徳天皇は紀静子との間に惟喬親王を、藤原明子との間に惟仁親王をもうけていました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談をしますが、源信は権力者である藤原明子の父・藤原良房を憚って天皇をいさめたそうです。
こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。
この惟仁親王がのちの清和天皇です。
日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていました。
石清水八幡宮の神主が紀氏なのは、石清水八幡宮が政治的に不遇であった惟喬親王の霊を祭る神社だからではないか、と私は思います。(だから、そう思ってるなら忘れるなって~)
③八幡神は皇位継承の神託を下す神?八幡神とは応神天皇・比咩大神・神功皇后の三柱の総称です。
神功皇后は和風諡号をオキナガタラシヒメといい、タラシ王朝(物部王朝?)の14代仲哀天皇の皇后です。
そして応神天皇の父親は仲哀天皇、母親は神功皇后なのですが
イザサワケという気比神社の神と名前を交換したという話などがあり、どうも応神天皇あたりで政権交代してるっぽく感じます。
応神天皇は、その身をひくことで、別の人物の皇位継承をもたらした神なのではないでしょうか。
奈良時代に宇佐八幡宮神託事件があり、「道鏡を皇位につけるべし」とか、「道鏡を皇位につけてはいけない」などと神託を下しています。
相反する神託ですが、皇位継承に関する神託であることは共通しています。
惟喬親王はその身をひくことで、清和天皇に皇位継承をもたらしました。
石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないでしょうか。
すると、物部氏の神を祀る交野市の天田神社付近が紀氏が祭祀する石清水八幡宮の所領であったのはなぜなのか、もういちど原点に戻って考える必要がありそうです。(汗)
それについては次回。
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大阪府交野市 天田神社
秋祭 10月第2日曜日(確認をお願いします。)

①天田神社の御祭神、ニギハヤヒから住吉神に変わる?
天田神社の御祭神は上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后 です。
これらの神々は大阪市の住吉大社にも祀られており、総称して住吉明神といわれています。
天田神社の由緒書には次のように書いてありました。
「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。」
もともと天田神社の御祭神はニギハヤヒだったのが、平安時代ごろに住吉神に変わったというのです。
②住吉大神と大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩は同一神
ニギハヤヒは物部氏の祖神で、天田神社からほど近い場所にある磐船神社の御祭神です。
この磐船神社の境内には、大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩像が刻まれています。
この4体のみほとけは「住吉大神」と呼ばれています。
磐船神社 住吉大神みほとけなのに、住吉大神?
仏なのか神なのか、どっちやねん!と思われるかもしれませんが
明治まで神仏は習合されて信仰されてきました。
祖の神仏習合のベースとなったのが本地垂迹説です。
本地垂迹説とは日本古来の神々は、仏教の神々が衆上を救うため、仮に姿を現したものであるとする考え方のことで
御仏の仮の姿である日本古来の神々のことを権現、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏といいます。
つまり、住吉大神(底筒男命・中筒男命 ・表筒男命・神功皇后)は、大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩が衆上を救うために仮にこの世にあらわしたものであり
住吉大神(底筒男命・中筒男命 ・表筒男命・神功皇后)のもともとの正体は大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩であると考えられたということですね。
住吉大神と大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩は同一神であるといってもいいでしょう。
③船の神つながり?
御祭神が変わるというのは実はそんなに珍しいことではないように思います。
調べものなどをしていると、よくそういう話がでてきます。
ただ、全く関係のない神様を御祭神にする、というようなことはしないのではないかと思ったりします。
ニギハヤヒと住吉神は関係があるのではないでしょうか。
由緒書では「磐船の神も海に関係があると考えられ」とあります。
住吉神社の総本社・住吉大社は現在は海岸線から随分と離れていますが、かつては神社のすぐ近くまで海であったといわれます。
長い年月の間に大和川が運ぶ土砂が堆積して住吉大社からどんどん海岸線が遠ざかっていったようなんですね。
そして住吉大社は海の神、航海の神として信仰されています。
③住吉大社はみたらし星の神?
しかし住吉大社は三ツ星の神ではないか、ともいわれています。
住吉大社の社殿のレイアウトがみたらし星(オリオン座の三つ星)に似ているというのです。(みたらし星は上図のように小さい星があって実は星四つで構成されています。)
④住吉神はタラシ王朝の神?住吉大社の第四本宮は14代仲哀天皇の皇后・神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)をお祀りしています。
もしかして、第一本宮、第二本宮、第三本宮に祀られている底筒男命・中筒男命 ・表筒男命とは、12代景行天皇(おお
たらしひこおしろわけのすめらみこと)、13代成務天皇(わか
たらしひこのみこと)、仲哀天皇(
たらしなかつひこのすめらみこと)のことなのではないでしょうか?
景行天皇・成務天皇・仲哀天皇は和風諡号に「たらし」とあるところから、「タラシ王朝」などともよばれます。
(神功皇后も和風諡号を「おきながたらしひめのみこと」といい、「たらし」がつきます。)
住吉神はタラシ王朝の神ではないかと思ったりします。
⑤タラシ王朝は物部王朝?
前回の記事、
天田神社 秋祭 『肩野物部氏の土地が石清水八幡宮の所領だったのはなぜ?』 に書いたように、
14代仲哀天皇の皇后・神功皇后は物部王朝の人物ではないかと思います。
すると「タラシ王朝」も物部王朝ではないかと考えられます。
神功皇后も仲哀天皇も「タラシ王朝」の人間で結婚したとなれば近親婚ですが、かつて近親婚はあたり前のように行われていたようです。
古代エジプトにおいても同複の兄妹、姉弟で夫婦になるということが行われていました。
その理由としては、血の純潔を守るという意識が強かったからではないかといわれています。
⑥ニギハヤヒも住吉明神も物部王朝の神そしてニギハヤヒは物部氏の祖神とされます。
つまり、住吉明神もニギハヤヒも物部氏の神なので、同一視されたということかもしれません。
磐船神社 ご神体 天の磐船
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天田神社 秋祭り
10月第2日曜日(確認をお願いいます。)
①星田妙見宮は織女星、天田神社は彦星
以前、星田妙見宮をお参りして以来、天田神社の秋祭にぜったい行きたい、と思っていました♪
星田妙見宮と天田神社は天の川をはさんで対面しています。
星田妙見宮には織女石(たなばたいし/おりめいし)呼ばれる巨岩があり、七夕伝説の織女星(ベガ)に喩えられます。
そして天田神社は彦星(アルタイル)に喩えられています。
そして、次のように伝えられてます。
このあたりの土地が肥えて作物が豊かにとれるところから甘野、天の川は甘野川、甘野にある田は天田と呼ばれていた。
そして甘田に他の神を祀って甘田宮とした。
七夕信仰から、甘野川は天の川、となり、天田は牽牛が耕す田と考えられた。
牽牛は牛飼いとされますが、昔は田おこしの際には牛を牽いて田を耕していましたから、牽牛は田の神と考えられたんでしょうね。
実はこのあたりにはもう1ペア、織女星&彦星に喩えられた場所があります。
機物神社と中山観音寺跡です。
これについては、次の記事をお読みください。
観音山公園 機物神社 七夕祭 『山上憶良と山之上』
②石清水八幡宮所領
調べてみたところ、このあたり(森地区)は石清水八幡宮の所領であったことがわかりました。
平安時代の三宅山荘園の遺構も発掘されています。
森地区の氏子さん方は石清水八幡宮の勅祭石清水祭に御先払神人として奉仕もされているそうです。
③石清水八幡宮と交野ケ原は物部氏でつながる?
天田神社付近が石清水八幡宮の所領であったと聞いて、テンションあがる、あがる!
石清水八幡宮の御祭神は応神天皇ですが、実は私は応神天皇とは物部氏の人物なのではないかと考えているのです。
そして、かつて交野ケ原と呼ばれたこのあたり(大阪府交野市・枚方市付近)は、古には肩野物部氏が住んでいた地域だったのです。
石清水八幡宮ー応神天皇を祀るーーーーーーーー物部氏が祭祀する神社
交野ケ原(天田神社も交野ケ原にあった)―――肩野物部氏が住んでいた。
こうしてみると、物部氏繋がりで、天田神社近付近が石清水八幡宮の所領となったのではないかと思えます。
※追記
と、書きましたがこれは間違いである可能性大です。すすすすいません!詳しくは、こちらの記事をお読みください。
日置天神社 秋祭 『だんじりの彫刻は惟喬親王の伝説をイメージしたもの?』
はあ~、よっぱらっちゃったよ~③応神天皇は物部氏の人物?私が「応神天皇は物部氏の人物なのではないか」と考えている理由についても、以前の記事に書いたのですが、下にまとめておきます。
い.神武=崇神=応神?石清水八幡宮の御祭神の一、誉田別尊(ほんだわけのみこと)とは、第15代応神天皇のことです。
初代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇は同一人物だとする説がありますよ。
a.神武と崇神はどちらも和風諡号が「ハツクニシラス」といいます。
ハツクニシラスがふたりいるのはおかしい。よって、神武=崇神。
b.応神天皇は神功皇后が三韓出兵した際、神功皇后のお腹の中にいました。
神宮皇后は朝鮮から九州の宇美に戻って応神天皇を出産します。
そして九州から畿内へ戻るのですが、そのルートが神武東征のルートと重なるので、神武=応神。
c.神武=崇神(a)かつ 神武=応神(b) ∴神武=崇神=応神
獅子さんもおのみなさいな。ろ・名前を交換することは政権交代を意味している?古事記にこんな話があります。
武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「御子(応神天皇)と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。
翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。
御子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。
イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。これは政権交代を意味する物語ではないでしょうか?
伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市の気比神宮に鎮座する神です。
応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされたという話なのでは?
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたということではないでしょうか?
ああああ・・・足がもつれる~は・神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?応神天皇と同一人物と思われる神武天皇は九州から東征して畿内入りするのですが、畿内には神武天皇よりはやくニギハヤヒという神が天下っていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったという説があります。
ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは神武と対峙しますが、ニギハヤヒはナガスネヒコをうらぎって神武につき、ナガスネヒコは神武に殺されたと記紀は記しています。
ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。
コラー、ひょっとこ!棒で頭つつくな!に.卑弥呼は日女命=倭迹迹日百襲姫命でニギハヤヒの孫籠神社の系図によれば、始祖ニギハヤヒの9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とあります。
この日女命が魏志倭人伝に登場する卑弥呼ではないかといわれています。
また倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と同じぐらいです。
箸墓は前方後円墳ですが、魏志倭人伝は、卑弥呼の墓が前方後円墳だとは記していません。
しかし近年の研究でもともと円墳であったものを、前方後円墳に作り直した可能性が浮上しています。
ほ.神功皇后=卑弥呼
日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。
39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」
40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」
43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」
http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)
我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのですね!
私は神宮皇后とは卑弥呼をモデルに創作された人物で、実在していなかったのではないかと思います。
そして10代崇神天皇の叔母で箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だと思うので
卑弥呼=日女命(ニギハヤヒの9代目の孫)=倭迹迹日百襲姫命(籠神社の系図に日女命の別名と記されている)=神功皇后
ということになると思います。
最後は仲良しにw
へ.応神天皇は二人いた?
すると神功皇后とはニギハヤヒの9代目の孫・日女命のことであり、ニギハヤヒは物部氏の祖なので、神功皇后は物部王朝の女王ということになります。
そして神功皇后の御子である応神天皇もまた物部王朝の王であったということになりますが、イザサワケと名前を交換して(政権交代して)しまった?
もともとのイザサワケとは天皇家の人間だったのではないでしょうか。
ところが物部王朝の応神天皇がイザサワケとなり、天皇家のイザサワケが応神天皇とすり替わってしまったのでは?
言い換えれば、物部王朝の応神天皇と、天皇家の応神天皇、ふたりの応神天皇がいたのではないかということです。
と.八幡神は物部王朝の応神天皇?
八幡神は天皇家の応神天皇ではなく、物部王朝の応神天皇だと思います。
八幡宮にはたいてい神功皇后も祀られていますが、彼女も物部王朝の女性だと考えられますので。
また、日本には怨霊信仰がありました。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。
そこで怨霊が祟らぬように神として祭ったのです。
「天皇は神として祀られているケースが多い」と思っている方が結構いらっしゃいますが
その多くは明治以降の国家神道重視の政策の中で創建されたもので、(神武天皇を祀る橿原神宮・天智天皇を祀る近江神宮・桓武天皇を祀る平安神宮など)
古より神として祀られていた天皇はそんなに多くないと思います。
応神天皇は例外で、古くから八幡神として祀られていましたが、それは応神天皇が物部王朝の天皇であり、政治的に不幸な死を迎えた天皇(ニセモノの応神天皇に政権を奪われた)だからではないでしょうか。
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