大阪城 イルミナージュ『遊女歌舞伎・若衆歌舞伎のエロティシズムは呪術だった?』 

大阪市中央区 大阪城
大阪城イルミナージュ・・・2018年2月25日まで



 大阪城 イルミナージュ
 
大阪城に隈取メイクの歌舞伎役者が登場!

①おおざっぱすぎる(笑)歌舞伎の歴史


歌舞伎の祖は「お国」という女性だとされます。

『当代記』によると、お国の踊りの1シーンに、傾き者が茶屋の女と戯れるシーンがあったということです。
傾き者とは、派手な衣装を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ったりするような人物のことです。

今でいえばこの方々みたいな人のことかな?かっこいいよね❤ ↓ 



茶屋とは色茶屋、茶屋の女とは遊女のことですね。

ですが、安土桃山時代の武将で、蒲生氏・森氏の家臣だった名古屋(那古野) 山三郎(なごや さんさぶろう)が歌舞伎の祖だともいわれていますね。

名古屋 山三郎はとんでもない美少年でしたが、森忠政に井戸宇右衛門殺害を命じられ、井戸宇右衛門に斬りかかるも逆に井戸宇右衛門にやられて死亡しています。
その後、井戸宇右衛門もその場に居合わせた森家の人間に殺されてしまうのですが~。
享年28、または32と伝わります。
名古屋 山三郎の妻、もしくは恋人がお国だったともいわれますが、さて?

お国が始めたかぶき踊は大流行し、遊女屋で行われるようになり、遊女歌舞伎と呼ばれました。

また12歳から17,8歳の少年が演じる若衆歌舞伎なども行われましたが、こちらもエロチックな内容であったと考えられています。
日本では衆道と申しまして、男色はたしなみとされていましたので、若衆歌舞伎はそれは流行ったことでしょうね❤

ところが遊女や若衆をめぐる喧嘩が頻発。幕府は遊女歌舞伎や若衆歌舞伎を禁止してしまうのです。
一説によれば、そうしたことから、女性や若衆ではなく、野郎(成年男子)が演じる野郎歌舞伎が登場したともいわれます。

大阪城イルミナージュ 

②芸能は神事だった?

芸能はもともとは神事だった。私、佳音はそう考えます。

記紀神話に山幸彦・海幸彦の話がありますね。

山幸彦はうっかり海幸彦の釣り針をなくしてしまい、この釣り針を探して竜宮城にやってきました。
釣り針は赤鯛ののどにひっかかっているのが見つかって海幸彦は元の世界に戻ります。
そして海神より授かった塩盈珠で満ち潮にして海幸彦を溺れさせ、海幸彦が助けてくれ、というとやはり海神から塩乾珠で引き潮にして助けました。
九州地方に住んでいた隼人はこの海幸彦の子孫で、海幸彦がおぼれる様子を表現したのが隼人舞になったとされます。

隼人たちは自分たちの祖先である海幸彦が溺れる様子を舞で表現することで、海幸彦の霊に溺れた苦しい経験を思い出させようとしているのではないかと思います。

また奈良豆比古神社で行われている翁舞は、皇位継承権があったのに暗殺された志貴皇子が、ハンセン病をもたらす疫神から、人々にご利益をもたらす文殊菩薩へと化身するようすを描いたものだと思います。

その理由については長くなるので、別ブログのこちらのシリーズをお読みください。→ 翁の謎① 八坂神社 初能奉納 「翁」 『序』 

①~⑲まであります。長いよ~、という方はこちらを読んでね。→ 百毫寺 萩 『志貴皇子 暗殺説』  
                               奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  


大阪城イルミナージュ 

③芸能のルーツはアメノウズメのストリップダンス?


記紀神話に記されたことが事実であると想定すると、そもそも芸能のルーツは天岩戸の前でアメノウズメが躍ったストリップダンスではないでしょうか。

アメノウズメのストリップダンスを見ていた八百万の神々はどっと笑い、天岩戸に籠っていた天照大神は「私がいないのにみんななぜ笑っているのだろう」と不思議に思い、天岩戸を少しあけて外を伺い見たところを外に引っ張り出されました。

大阪城 イルミナージュ

④天照大神は男神だった?

天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から出てきたともいえますね。
女神のストリップに興味を持つのは男だ、よって天照大神は男神だとする説があります。

また各地に天照大神は男神であると伝わっているそうです。
曾根崎心中にも「照る日の神も男神。よけて日負けはよもあらじ。」と書いてあります。
照る日の神とは天照大神のことでしょう。
参照/お初天神 節分祭 『曾根崎心中・大阪三十三所観音巡りの言葉遊びがオモシロイ!』 

大阪城イルミナージュ 花魁道中

 笑撃武踊団のみなさん

⑤男神=荒魂、女神=和魂、御霊=男女双体?

神はその表れ方で、荒魂(神の荒々しい側面)、和魂(神の和やかな側面)、御霊(神の本質)に分けられるといいます。
そして男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
とすれば神の本質である御霊は男女双体となるのではないでしょうか。

御霊神の本質男女双体
荒魂神の荒々しい側面男神
和魂神の和やかな側面女神

とすれば、男神と女神を和合させることは、荒魂と和魂を和合させることであり、和合によって神は御霊になると
そういう呪術なのではないでしょうか?

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⑥和合は呪術だった?

歌舞伎の元祖・お国がエロチックな踊りをしたり、遊女のようなことをしていたのは、そういう呪術的な意味があったからかも。

また陰陽道で男は陽で女は陰、奇数は陽で偶数は陰とされます。
一けたの数字で最も大きい奇数の9がふたつ重なる9月9日は重陽の節句とされ、大変おめでたい日だとされていました。
男と男が和合する衆道はまさしく重陽、ということで衆道歌舞伎はもてはやされたのではないかと思います。
日本で衆道がたしなみとされていたのも、重陽からくるのではないかと思ったりします。

 大阪城イルミナージュ



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[2018/02/16 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 イルミナージュ 『城壁vs堀。防御能力はどちらが優れている?』 

大阪市中央区 大阪城
大阪城イルミナージュ 2018年2月25日まで


大阪城 イルミナージュ


①日本に町を取り囲む城壁がないのは、日本の戦が奴隷獲得を目的にしていなかったから?


ときどき、こんなことを言う人がいます。

日本の戦は関ケ原のような何もないようなところで行われ、人々は手弁当を持って戦見物にやってきた。
日本の民衆は戦いによって被害を受けることがなかったので、戦を余興として楽しんでいた。

外国の城は町全体を取り囲むように城壁がつくられ、城壁の中に大勢の民衆が住んでいた。
これは外国の戦争は領土獲得のほか、奴隷獲得を目的としていたため、民衆を城壁で守る必要があったからだ。

日本の城下町は城壁で囲まれていなかった。
これは日本の戦が領土獲得を目的としていて奴隷獲得を目的にしていなかったため、市民を城壁で守る必要がなかったからだ。

大阪城 イルミナージュ

③関ケ原には領民がすんでいた。

関ヶ原合戦屏風には稲を持って逃げる農民が描かれていますし、「関ヶ原の領民に乱暴したり、放火してはならない」と記された家康が発布した禁制も残っています。

なので、「日本の戦は関ケ原のような何もないところで行われた」というのは間違いです。

間違ったことが正しいこととして多くの人に認識されているというのは、こわいことですね。 

④家康は禁制を出したのは、関ケ原の領主が家康側についていたから。

「でも徳川家康がそんな禁制をだしているということは、家康が民衆を思いやっていた。戦によって民衆が被害を受けることが少なかったということじゃないの」って?

関ケ原の領主は家康側(東軍)についていたのです。
もしも領主が家康と敵対する西軍だったら、家康はこんな禁制を出さなかったのではないでしょうか。

大阪城 イルミナージュ

⑤乱取り

戦国時代から安土桃山時代には、戦いのあと兵士が物や人を奪うという行為が行われており、これを乱取りといいました。
女子供は奴隷にされたり、売られたりしたようです。

この乱取りは、大名が指示して行っていたものではなく、あくまで下っ端の兵士が戦に参加した褒美として認められていたものです。
ですから、大名にとって戦は奴隷獲得が目的でなかったとはいえるかもしれません。
しかし下っ端の兵士の中には奴隷獲得が目的で参加しているものもいたでしょうし、大名も乱取りを認めているのですから「戦は奴隷獲得が目的ではなかった」とはいえないでしょう。

大阪城 イルミナージュ

 
⑥民衆が戦見物をしたのは関ケ原合戦ではなく大津城の戦い

民衆が戦見物をしたとされるのは関ケ原合戦ではなく大津城の戦いで、安全な山の上から戦のようすを眺めたようですよ。


⑦日本の城郭都市は堀で囲まれていた。

日本の城は戦争や都市化などで保存状態が悪く、現存する城の姿は、昔の城の姿とはちがいます。

「城郭都市」という言葉があります。
城郭都市とは城を中心とし、城壁・土塁・堀などで囲まれた都市のことをいいます。

外国の城壁で囲まれた都市はもちろん、城郭都市です。
そして日本の代表的な城、江戸城・大阪城・名古屋城・姫路城なども城郭都市であったとされます。

これらの城の城下町に城壁があったかどうかは浅学のためわかりません。
しかし城下町の周囲には堀があったようです。



動画お借りしました。
動画主さん、ありがとうございます。


0:37あたりを見ると、大天守の周囲、三の丸と文字が記された向かって右側に津田・山澄・勝野と記された区画があります。
これは有力氏族の民家ではないでしょうか。

そしてそれらの民家の下部に濃いグレーの一画があります。
これは城壁または塀ではないのか、と思ったりもしますが、よくわかりません。

しかし三の丸という文字の下にある水色の部分は明らかに堀だと思われます。

申し訳ないですが「城壁がない=民衆を保護する必要がなかった」と結論付けるのは短絡的ではないかと思います。
城壁はなかったかもしれませんが、堀が民衆を保護する役割を担っていたと考えられるからです。

大阪城 イルミナージュ 
⑧大砲の出現で城壁都市は防御システムとして機能しなくなった。

それでは城壁と堀、どちらが防御能力に優れているのでしょうか?。

それは外国で城壁都市がつくられなくなった理由を見てみると、おのずから答えがでるような気がします。

外国で城壁都市がつくられなくなった理由、それは大砲の出現です。
大砲は城壁をやすやすと破壊してしまい、城壁は防御システムとしての意味を失ってしまったのです。

大阪城 イルミナージュ

⑨大坂城がおちたのは堀を埋めたことが原因だった?


1576年、大友宗麟が日本人として初めて大砲(石火矢/フランキ砲)をポルトガル宣教師より入手しています。
1590年代ごろより、日本で大砲の生産が盛んになり、海戦や攻城戦に用いられるようになりました。
1614年には徳川家康が大坂の陣に備えて青銅砲(カルバリン砲)をイギリス・オランダから輸入しています。

しかし徳川家康が大坂城をおとしたのは、その大砲の威力によってではありませんでした。

1614年、家康は大坂冬の陣後の豊臣方との和議の際、「豊臣秀頼の安全」「本領の安堵」などの引き換えとして「二の丸、三の丸の破壊」「惣構の南堀、西堀、東堀を埋め立て」を要求し、これを実行させています。
この後におこった1615年の大坂夏の陣では徳川方兵士は埋められた堀を超えて大阪城乱入に成功し、大坂城は炎上、秀頼は自害して果てています。

この結果からみて、城壁よりも堀のほうが防御システムとしては優秀だと言えると思うのですが、どうでしょう?

大阪城 イルミナージュ

⑩堀は城壁よりも優れた防御システムだった?

城壁は大砲で簡単に破壊することができたようですが、堀を埋めるのは大変で、数時間で埋めるなんてことはできなかったでしょう。
堀を埋めている間に攻撃されてやられてしまうでしょうしね。

船で堀を超えるのは目立ちすぎ、やはり弓や銃を雨のようにあびせられたことでしょう。
また甲冑を身に着けたまま泳ぐ古式泳法があったようですが、やはりすんなりと泳ぎ着くのはむつかしかったのではないでしょうか。

堀は城壁以上の防御システムだったといえるのではないでしょうか。
そして中世の日本には堀に囲まれた中に城下町があり、人々は堀に守られて生活していた。
そういえるのではないかと思います。

大阪城 イルミナージュ(長命寺) 
↑ これは長命寺だと思う。

長命寺-雪2 

長命寺


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[2018/02/14 17:51] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

お初天神 節分祭 『曾根崎心中・大阪三十三所観音巡りの言葉遊びがオモシロイ!』 

 
大阪市北区 お初天神(露天神社)
節分祭・・・2月3日

お初天神 三匹の鬼 
①曾根崎心中

曾根崎心中 ゆかりの地をめぐる  
↑ こちらの記事で曾根崎心中ゆかりの地と物語のあらすじをご紹介しました

元禄16年4月7日(1703年5月22日)、大坂堂島新地天満屋の女郎・お初と内本町醤油商平野屋で奉公する徳兵衛が情死するという事件がありました。

この実際にあった事件を題材として、近松門左衛門が書いた世話物浄瑠璃が曾根崎心中です。


お初天神付近 夕景 
お初天神付近はこんなビル街ですよ。

②曾根崎心中の言葉遊び

http://bunrakuouendan.web.fc2.com/spot-osaka33.html
ネットに原文と思われる文章がありました。

わからないところもたくさんあるんですが、 随所に言葉遊びがちりばめられていて、とても面白い文章なんですね。
【私なりに】現代語訳と解説をしてみました。
あくまで【私なりに】なので、一般的な解釈とは違うかもしれませんし、間違っているかも(間違っていたら教えてね~)?
そこんとこをふまえて読んでくださいね~。
それではいきます!
 ピンク色文字原文青文字私の現代語訳赤文字注釈です。ちょっと長いかもです。

お初天神 だんぢり囃
だんぢり囃子

③三つづつ十と三つの里、三六の十八九


げにや安楽世界より。今この娑婆に示現して。われらがための観世音 仰ぐも高し
まことに安楽世界より、今この娑婆(この世)に現れて、吾等の為の観世音菩薩 仰げば(徳が)高い

高き屋に。のぼりて民のにぎはひを。契りおきてし難波津(なにはづ)や。
(仁徳天皇が)高い建物に登って、民の賑わいを約束された難波津(現在の大阪市中央区付近にあったとされる港)よ
※第16代・仁徳天皇は民の竈から煙が昇っていないのを見て、食べるものがないのだろうと考え、税金を廃止されました。
3年後、民の竈から立ち上る煙を見て「民のかまどは賑いにけり」とおっしゃいました。

お初天神 接待のうどん

接待でうどんをいただきました。ありがとうございます!  

三つづつ十と三つの里。札所札所の霊地霊物 めぐれば。  罪も夏の雲 
3×10=30と3つの里。(大坂三十三所のこと)札所札所の霊地霊仏、廻れば罪も夏の雲
※三つづつ十とは十が3つあるということだと思います。
※夏の雲には積乱雲や積雲があります。罪と積をかけている?
 

暑苦しとて駕籠をはや。をりはのこひ目三六の 十八九なるかほよ花。今咲き出しの。
暑苦しいと籠をはやくおり、乞目(恋ひ目とも。すごろくなどで自分が望んでいる目)3×6=18、9の顔は花のよう。今咲き出したのようだ。 
※乞目は恋目ともいい、恋する乙女・お初の恋する瞳を連想させる。
※三六の十八とは九九、3×6=18。18という数字を導くために九九を用いていている。

お初天神 鬼現る! 
④男神はなぜ初花を避けるの? 

初花に笠は着ずとも。召さずとも。照る日の神も男神。よけて日負けはよもあらじ。
初花は傘を被らなくても、召さず(身につけなくても)、照る日の神は男神、除けて日焼けなんてことはないだろう。
※初花はその季節に初めて咲く花のことで、お初という名前にかけている。初花には初潮という意味もある。
※月経禁忌という習慣がありました。今でも生理中の女性が参加できない神事があったりします。それで男神の日の神はお初を除ける?
※日の神(太陽神)・天照大神は一般的には女神とされていますが、各地で男神として信仰されているそうです。

頼みありける順礼道。西国三十三所にも むかふと。聞くぞありがたき。
頼みがいのある巡礼の道、西国三十三書にも相当すると聞く。ありがたい。 

お初天神 鬼と赤ちゃん 

⑤木札に補陀落とは? 

一番に天満の。大融寺。この御寺の。名もふりし昔の人も。気の融の。大臣の君が。塩竈の浦を。都に堀江漕ぐ。潮汲み舟の跡絶えず。今も弘誓の櫓拍子に。法の玉ぼこ えいえい。
一番は天満の大融寺。このお寺の名も古い、昔の人にも評判だった源融大臣の君が、塩釜の浦を都につくろうとし、堀江を漕いだ、汐汲舟の跡絶えず、今も弘誓(ぐせい/菩薩が衆上を救う誓いをたてること)の櫓拍子(櫓をこぐときの掛け声の拍子)が、仏法の玉鉾(玉のような鉾)エイエイ
※気の融の・・・「とおる」は「評判がいい」という意味もあり、源融《みなもとのとおる》の名前にかける?ちょっと自信ありません。
 
大坂順礼胸に木札の。補陀落や。
大坂巡礼 胸に木札の 補陀落よ。
※補陀落は南方海洋にあるとされる観音浄土。
かつて補陀落渡海といって、出口のない舟に乗り込んで補陀落浄土をめざすという捨身修行が行われていた。
汐汲舟を補陀落船に見立てたのかも。
補陀落は八角形の島とされる。木札が八角形なのかも?

https://www.kobofumi.com/?mode=f5 (八角形の札の写真)

お初天神 鬼と少年たち

大江の岸に打つ波に。白む夜明けの。鳥も二番に長福寺。

大江の岸に打つ波に、白む夜明けの鳥も二番に、長福寺。

※一番鳥が終わって二番鳥が鳴いた。大坂三十三所第二番にかかる

空にまばゆき久方の。光にうつるわが影の あれあれ。走れば走る これこれまた。止れば止る 
空にまばゆい久方の 光に映る我が影が、あれあれ。走れば走る。これこれ また。とまれば止まる。
※久方の・・・光の枕言葉
※「あれあれ」」これこれ」・・・重複寺なので重複する? これも自信ないです・・・。


振りの善し悪し見るごとく。心もさぞや神仏。照らす鏡の神明宮。拝みめぐりて法住寺

動作のよしあし見る如く、心もさぞや神仏、照らす鏡の神明宮。拝み廻って法住寺。
※神明宮の御祭神は天照大神なので、照らす、と言っている?

お初天神商店街を練り歩く鬼2
鬼は商店街へ出て行ってしましました。

⑥あだの悋気や法界寺 

人の願ひもわがごとく 誰をか恋の祈りぞと。あだの悋気や法界寺。
人の願いも自分のことのように、誰かが恋の祈りをしているのかと、恨みに思って嫉妬する法界寺。
※法界とは「あるべき真理」という意味だが、法界悋気は「嫉妬する」という意味なので、「あだの悋気や法界寺」と言っているのだろう。

東はいかに。大鏡寺
東はどうか。大鏡寺
※大坂の東は京なので、大鏡寺の鏡(きょう)に京をかけているとか?ここは自信ないです~。


草の若芽も春過ぎて。おくれ咲きなる菜種や罌栗(けし)の。露にやつるる夏の虫。おのが妻恋ひ。やさしや すしや。
草の若芽も春過ぎて遅れ先の菜種やケシの露にやつれた夏の
自分の妻を恋い、優しいのか、なれなれしいのか。
※罌粟(ケシ)・・・「消し」に掛かって、露の縁語になっている?
※虫(ムシ)・・・無視にかかる?


あちへ飛びつれ こちへ飛びつれ あちや こち風ひたひたひた。
二匹一緒にあっちへ飛び、こっちへ飛び、あちこちに。東風ひたひたひた。
※東風のことをこちといい、あちこちのこちから東風を導いている。

お初天神商店街-練り歩く鬼3 

⑦合わせと袷、子疎くと興徳寺

羽と羽とをあはせの袖の。染めた模様を花かとて 肩に止まればおのづから。紋に揚羽の超泉寺。

羽と羽とあわせの袖の、染めた模様を花かと思って 肩にとまると 紋に揚羽の超泉寺
※あはせ・・・合わせと袷(裏地のついたた着物)をかけている。
※揚羽の超泉寺・・・揚羽の蝶(ちょう)と超泉寺(ちょうせんじ)の「ちょう」をかける。


さて善導寺 栗東寺。
さて善導寺 栗東寺
※善導寺(ぜんどうじ)の「どう」、栗東寺(りっとう)の「とう」で韻をふむ。 

天満の札所残りなく。そなたにめぐる夕立ちの 雲の羽衣。蝉の羽 の。うすき手拭(てのご)ひ。
天満の札所を廻り終え そちらをみまわせば夕立の 雲の羽衣 蝉の羽 のような薄い手ぬぐい。

あつき日に。つらぬく汗の玉造

暑い日に つらぬく汗の玉造
汗の玉と玉造稲荷の玉をかける。つらぬく、とあるのは玉はビーズのように穴があいていてそこに糸を貫いてつなぐため。

稲荷の宮に迷ふとの 闇は理 御仏も。衆生のための親なれば。これぞをばせの興徳寺。
稲荷の宮に迷うという 闇はもっともだ。御仏も、衆生のための親なので、小橋の興徳寺。
※「興徳寺(こうとくじ)」を「子疎く(こうとく)」にかける。これはうまい!座布団2枚!

四方にながめの果てしなく 西に舟路の海深く。波の淡路に消えずも通ふ。沖の潮風。身にしむ鷗。
四方の眺めは果てしなく 西は航路の海深く 波の淡路に消えずに通う 沖の潮風 身にしみるカモメ。
※(泡(あわ)と淡路(あわじ)をかける。

なれも無常の煙にむせぶ。色に焦がれて死なうなら。しんぞこの身はなり次第。

カモメよ、おまえも無常の煙にむせんでいる。 色に焦がれて死ぬのなら、新造この身はなりゆきにまかせよう。
※新造・・・若妻、若い遊女 だけど違う意味かも?

さて。げによい慶伝寺

さて本当によい慶伝寺。
※慶は「めでたい」という意味なので「よい」のかも。

お初天神商店街を練り歩く鬼 

縁に引かれて。またいつか。ここに高津の遍明院。
縁に引かれて またいつか ここに高津の遍明院
※縁(えん)、遍明院(へんみょういん)で「えん」「へん」と韻を踏む。

菩提の種や、上寺町の長安寺から誓安寺
菩提の種よ、上寺町の長安寺から誓安寺。
※種を「植える(うえる)」に上寺町(うえでらまち)」をかける。
※長安寺の安、西安寺の安と韻を踏む。

上りやすなすな 下りやちよこちよこ。上りつ下りつ 谷町筋を。歩みならはず 行きならはねば。所体くづほれ アア恥づかしの。
上りはしなしな 下りはちょこちょこ 上ったりおりたり。谷町筋を。歩きなれず、行きなれないので 着物が着崩れて ああ、恥ずかしい。
※谷町筋沿いに上町台地があり、天王寺七坂と呼ばれる坂がある。

漏りて 裳裾がはらはらはら。はっと翻(かへ)るを うち掻き合はせ。ゆるみし帯を引き締め。引き締め。締めてまつはれ藤の棚。

漏れて 裳裾がはらはらはら。はっと翻るのをうちかきあわせ、緩んだ帯を引き締め、引き締め、締めて巻き付け、藤の棚。
※ 第16番の和勝院 観音堂は、現在は浄円寺(淀川区新北野)へ異動しているが、かつては谷町筋にあり、藤の棚観音を祀っていた。

十七番に重願寺。
 
十七番に重願寺。
※十七番(じゅうななばん)の「じゅう」、重願寺(じゅうがんじ)の「じゅう」と韻を踏む。
※現在は東大阪市にあるが、昔は谷町にあった。

これからいくつ生玉の 本誓寺ぞと伏し拝む。
これからいくつ生玉の 本誓寺ぞと伏し拝む。
※「これからいくつ生きることができるだろう」の「生」と「生玉」の「生」をかける。

数珠につながん菩提寺や。
数珠につなごう菩提寺よ
※菩提樹の実を数珠にすることがある。

Buddhist prayer beads 01
片手念珠27玉(主玉・星月菩提樹、紐房)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABuddhist_prayer_beads_01.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/Buddhist_prayer_beads_01.JPGよりおかりしました。
作者 ja:利用者:pack372sd (自ら撮影) [GFDL (
http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) または CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)], ウィキメディア・コモンズ経由で

⑧六時堂と酉の時


はや天王寺に六時堂 七千 余巻の経堂に 経よむ酉の時ぞとて。
はやくも天王寺の六時堂 七千余巻の経堂で 経よむ酉の時刻
※酉の時刻・・・午後6時ごろ。暮れ六つともいう。六時堂なので酉の時刻といったのだろう。

よその待つ宵 きぬぎぬも。思はでつらき 鐘の声 こん。金堂に講堂や万灯院にともす灯は。
よその人が待つ宵も 共寝した翌朝別れるときに身に着ける互いの服も、私は思わないのでつらい 鐘の音 こん。金堂に講堂や万灯院にともす灯りは。
※きぬぎぬ・・・共寝した翌朝別れるときに身に着ける服のこと
※鐘の音「こん」と金堂の「こん」をかける。
 
影も輝く蝋燭の新清水に しばしとて。やがてやすらふ。

影も輝くろうそくの新清水に しばらくいて やがて休む。
※蝋燭の新清水に・・・「蝋燭の芯(しん)」の「しん」と「新清水(しんきよみず)」の「しん」をかける。

逢坂の 関の清水を汲みあげつ。手にむすびあげ 口すすぎ 無明の酒の酔(ゑ)ひさます。
逢坂の関の清水(しみず)を汲み上げて 手にすくい上げ口すすぎ 無明の酒の酔いさます。
※無明の酒の酔いさます・・・煩悩にとらわれ真理を理解できず、思い惑うことのたとえ

お初天神付近 豆まき 
木々の下風。ひやひやと 右の袖口左の袖へ。とほる煙管に くゆる火も。道のなぐさみ熱からず 吹きて。
木々の下を風が吹き ひやひやと 右の袖口から左の袖へ とおる煙管(きせる)に くすぶる火も 道の気晴らし 熱からず 吹いて
※「風が通る」と「煙管に煙が通る」をかける?ちょっとよくわからないです。

乱るる薄煙。空に消えてはこれもまた。行方も知らぬ。相思ひ草。人忍ぶ草 道草に。日も傾きぬ 急がんと また立ち出づる雲の足。
乱れる薄煙。空に消えては これもまた。行方も知らぬ。 相思い草。人忍ぶ草。(シノブ)道草に。日も傾いた。急ごうとまたたち出る雲の足。
※相思い草・・・煙草の異名
※忍ぶ草・・・シノブ(シダ植物の一種)に「偲ぶ(懐かしむ)」をかける?「忍ぶ(人目をさける)」をかけているのかなあ、とも考えたけど、「相思い草」とあるし、お初が徳兵衛のことを偲んでいるのかなあ、と。


時雨の松の下寺町に 信心深き心光寺
時雨の松の下寺町に 信心深い心光寺
※心光寺(しんこうじ)の「しんこう」を信仰(しんこう)にかける

悟らぬ身さへ大覚寺。さて金台寺 大蓮寺 
悟らぬ身さえ大覚寺 さて金台寺 大蓮寺

※「覚る」と書いて「さとる」と読むので、「悟らぬ身さえ大覚寺」とあるのだろう。
※ 金台寺(こんだいじ)の「だい」、大蓮寺(だいれんじ)の「だい」と韻をふむ。


お初天神 節分祭 護摩供

護摩はすごい迫力でみなさん、火の粉をかぶっておられました。


⑨夢を覚まさん博労の


めぐり。めぐりて これぞはや。三十番に。三津寺の 大慈大悲を頼みにて。かくる仏の御手の糸。
めぐりめぐってもうすでに 三十番に。三津寺の 大慈大悲を頼みにして。死ぬときに導いてくれる仏の御手の糸
※大慈大悲・・・広大無辺な仏の慈悲
※仏と縁をむすぶため、仏の手に結んだ五色の糸を持って祈願するという習慣がある。
平安時代、藤原道長はこの糸を持って臨終を迎えたと伝えられる。
※「三十番」の「三」と「三津寺」の「三」をかける。
※「三津寺(みつてら)」「御手 (みて)」と韻をふむ。


白髪町とよ 黒髪は恋に乱る妄執の。夢をさまさん博労の。


白髪町だとさ(大福院がある)。黒髪は 恋に乱れる妄執(迷いによる執着)の 夢を覚まそう博労の


※白髪町(大阪市北区西堀江付近か?)に大福院があった。
※白髪町から黒髪という言葉を導いている。
※「黒髪」「乱れる」は縁語
夢を食うという想像上の動物「獏(バク)」に「博労(ばくろう)」をかける。博労は地名。

ここも稲荷の神社 仏神水波のしるしとて 甍並べし新御霊に。拝み納まる 

ここも稲荷の神社 仏と神が 水と波のしるしとして (観音堂と社の)甍をならべている 新御霊に。これで拝み納めになる。


※「新御霊(しんごりょう)」の「ごりょう」を 「ご両人(ごりょうにん)/二人の人という意味)」の「ごりょう」に掛けている。それで観音堂と神の社が甍を並べているとと言っているのだろう。

さしも草 くきの蓮葉な世に交じり。
もぐさ くきのはすっぱな(浮薄な) 世に交じる

三十三に御身を変へ 色で 道引き 情(なさけ)で教へ。恋を菩提の橋となし。渡して救ふ観世音 誓ひは。妙(たへ)に ありがたし。

三十三に御身を変え 色で導き 情けで教え 恋を菩提(悟り)の橋として 浄土へ渡して救ってくださる観世音  誓いは大変すぐれていて ありがたい

消防車 
 


そろそろ帰ろうと外に出たら消防車が止まっていました。
誰かが護摩の火や煙を火事と勘違いして消防車を呼んだみたいです。(笑)






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[2018/02/09 18:17] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

曾根崎心中 ゆかりの地をめぐる  


※ウィキペディアのあらすじを読んで、佳音が勝手にセリフを書いたものです(笑)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E5%B4%8E%E5%BF%83%E4%B8%AD


 元禄16年(1703年)のことでございます~。

大坂堂島新地にお初という女郎がいました。

堂島薬師堂 節分 太夫道中

現在の大阪堂島新地 節分お水汲み祭 太夫道中
最高位の遊女・太夫は禿(遊女見習いの童女)を引き連れて客を迎えにいく習慣があり、これを太夫道中といいました。

お初は大坂三十三所巡礼をします。

太融寺 

大坂三十三所 第一番 太融寺


重願寺 桜 

大坂三十三所第17番 重願寺


四天王寺 どやどや2 
大坂三十三所 第20番 四天王寺 六寺禮讃堂 どやどや


四天王寺 経供養 散華 

四天王寺 経供養 
大坂三十三所 第21番 四天王寺 経堂 経供養(通常はお堂の外で行われますが雨天のため堂内で行われました。)


四天王寺 夕景 (合成)

大坂三十三所 第22番 四天王寺 金堂(向かって右)



大阪清水寺

大坂三十三所 第25番 清水寺



三津寺 御堂筋イルミネーション

大坂三十三所 第30番 三津寺 御堂筋イルミネーション


大坂三十三所めぐりを終えたお初は生玉の社を訪れました。

生玉夏祭 獅子神楽

生玉夏祭 太鼓 
生國魂神社 生玉夏祭


そこでばったり、徳兵衛に会いました。

お初「あーっ、徳兵衛さん!」

徳兵衛「ありゃ、お初!」

お初「徳兵衛のバカ!このごろぜんぜん手紙もくれへんやん!」

徳兵衛「ごめん、ごめん。実は大変やってん。
俺、叔父キんとこで働いてるやん。
で叔父キが娘と結婚して店を持てって言うねん。
もちろん断ったんやけど、俺の継母に結納金まで入れてしもて。
それでも断ったら『勘当や、大坂からでてゆけ!』ゆうねん。
なんとか継母から結納金を取り返したんやけど、九平次が『どうしてもお金がいるから貸してくれ。3日で返すから』言うんで金貸してしもてん。」

そこへ九平次がやってきました。

徳兵衛「あっ、九平次!貸した金返せよ♪」

九平次「貸した金?なんのこっちゃ?」



動画おかりしました。ありがとうございます。かっこいい曲ですね♪

徳兵衛「このままでは結納金を横領したと思われる。死んで実の潔白を証明するしかない!」

お初「徳兵衛さんが死ぬなら、私も死ぬ!」

そんないきさつがありまして、徳兵衛とお初は真夜中の曽根崎の露天神の森へやってきました。

お初天神 節分祭 護摩供 

露天神社(お初天神)節分祭

ためらう徳兵衛。

お初「はよう殺して、はようく殺してーーー!」

徳兵衛は短刀でお初を刺し、自分も刺して心中したのでした。

お初天神通り商店街 
曾根崎お初天神商店街


大坂三十三所
第1番宝樹院 太融寺千手観音北区太融寺町
第2番蟠龍寺 阿弥陀如来北区野崎町長福寺から改名
第3番神明宮天照太神

円通院(北区トガノ町)へ遷宮

 第4番法住寺聖観音廃寺
第5番平等院 法界寺観音/阿弥陀如来北区兎我野町
第6番来迎院 大鏡寺十一面観音/阿弥陀如来 吹田市五月が丘南
第7番 超泉寺焼失
第8番善導寺長谷観音/阿弥陀如来北区与力町
第9番栗東寺 十一面観音/釈迦如来北区与力町
第10番玉造稲荷神社宇迦之御魂大神中央区玉造龍海寺(北区同心)へ異動
第11番薬師院 興徳寺準提観音/薬師如来天王寺区餌差町
第12番慶伝寺観音/阿弥陀如来天王寺区餌差町
第13番難波寺 遍明院十一面観音生野区巽北
第14番金字院 長安寺 観音/阿弥陀如来天王寺区城南寺町
第15番安養院 誓安寺観音/阿弥陀如来天王寺区城南寺町
第16番和勝院 観音堂藤之棚観音/歓喜天中央区谷町浄円寺(淀川区新北野)へ異動
第17番当知院 重願寺聖観音/阿弥陀如来東大阪市山手町
第18番本誓寺聖観音/阿弥陀如来天王寺区生玉町
第19番上求院 菩提寺十一面観音/阿弥陀如来天王寺区生玉町
第20番四天王寺 六時堂薬師如来・四天王天王寺区四天王寺
第21番四天王寺 経堂如意輪観音天王寺区四天王寺
第22番四天王寺 金堂救世観音天王寺区四天王寺
第23番四天王寺 講堂十一面観音天王寺区四天王寺
第24番四天王寺 万燈院十一面観音・紙衣仏天王寺区四天王寺別称/紙衣堂
第25番清光院 清水寺十一面千手観音天王寺区伶人町
第26番栄玉院 心光寺 十一面観音/阿弥陀如来天王寺区下寺町
第27番極楽院 大覚寺千手観音/阿弥陀如来天王寺区下寺町
第28番常照院 金台寺十一面観音/阿弥陀如来天王寺区下寺町
第29番極楽院 大蓮寺十一面観音/阿弥陀如来 天王寺区下寺町
第30番大福院 三津寺 十一面観音中央区心斎橋
第31番大福院 十一面観音廃寺
第32番難波神社仁徳天皇
中央区博労町善龍寺(天王寺区下寺町)へ異動
第33番 御霊神社

天照大神荒魂・応神天皇
 津布良彦神・津布良媛神
 源正霊神

中央区淡路町西照寺(天王寺区下寺町)へ異動




動画お借りしました。ありがとうございます!



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[2018/02/07 15:57] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

阿比太神社 節分祭 『阿鼻地獄の神を祀る寺?』 

大阪府箕面市 阿比太神社
節分祭・・・2月3日

阿比太神社 節分祭  

①地名からくる神社名

阿比太神社という神社名はどこからくるのでしょうか?

地名からくる神社名などもありますね。
京都の粟田神社はおそらく粟田氏という氏族の名前からくるんじゃないかと思いますが、住所は粟田口鍛冶町となっています。
大阪の交埜(かたの)神社があるあたりはかつて交野ケ原とよばれていたので、交野ケ原という地名から交埜神社になったのではないでしょうか。

阿比太神社 節分祭 

②阿比太という地名はなかった。

阿比太神社の近所の地名を見てみると、半町、新稲、桜井、桜が丘などがありますが阿比太という地名はありません。
○○が丘とか××荘というような地名は新しい地名だと言われます。
桜が丘というのはたぶん新しい地名ですね。
ということは、桜が丘と地名が変わる前は阿比太という地名だった? 

阿比太神社 節分祭 

と書いてみましたが、たぶんそれはないと思います。
というのは、 阿比太神社にはこんな伝説があるんです。 
 
半町、桜、新稲の村人達は互いに「阿比太神社の神様は自分たちの氏神様」だと言い張って喧嘩がたえなかった。
そこで村ごとに鳥居を献納し、一番早く立派な鳥居を作ったほうが祭りをとりしまることにした。
これを盗み聞きした桜村の九郎兵衛という大工は一夜で鳥居を作りあげ、本殿の前に建てた。
半町、新稲の人達はしかたなく、自分たちの村の方向に向けて鳥居を建てた。
祭を取り仕切る権利は桜村に与えられた。


この伝説に登場するのは半町・桜・新稲という地名のみで、阿比太というのはありません。

また、元禄5年10月の吟味帳にも「半町村、桜村、新稲村より火とぼし掃治人1年替りに勤め来り候」とあって、この史料からも「阿比太」という地名はなかったと考えられますね。 
 
阿比太神社 節分祭  
③阿鼻地獄の阿鼻が阿比に転じた?

「阿比太」が地名でないとすると、「阿比太」とはいったいどういう意味なんでしょうか?

もしかしたら、阿鼻地獄の阿鼻が阿比に転じて阿比太になったなんてことはないかな?

日本では同じものに複数の漢字をあてるということがあったようです。
たとえば奈良の東大寺に転害門(てがいもん)という立派な門がありますが、その周辺の地名を手貝町(てがいちょう)といいますし
大阪の池田市には伊居太神社(いけだじんじゃ)という神社があります。

万葉仮名を生み出したわれわれの祖先は漢字の意味よりも音を重要視していたようです。
とすれば、阿鼻を阿比として表記した可能性もありそうに思えます。

太という漢字は男子の名前の末尾につけられることが多いです。ポン太のようにニックネームのようにも使われますね。
阿鼻地獄にいる男という意味で、阿鼻太となり、それが阿比太に転じたとか?

阿比太神社 節分祭  
④阿鼻地獄とは!


阿鼻地獄とは地獄の最下層にあり、64の目を持つ鬼に舌を抜かれ、100本の釘を打たれ、毒、火を吐く虫、大蛇に責められ、熱鉄の山を登ったり下りたりさせられるのだそうです。 

阿比太神社 節分祭  

⑤阿比太神社の御祭神・スサノオは根の国の王


阿比太神社の御祭神のスサノオは、天照大神にいたずらをした罰で高天原を追放された神です。(つまり堕天使)
高天原を追放されたスサノオは葦原中国に降り立ったとされますが、スサノオは根の国の王としても登場します。
根の国は黄泉の国と同様のものだと考えられています。

で、この根の国に大国主が行くという物語があるのですが、根の国の王・スサノオは大国主を蛇のいる部屋、蜂や百足のいる部屋に閉じ込めたり、大国主のいる野に火を放って焼き殺そうとしたりひどいことをしています。

大国主が根の国で受けた試練はまるで阿鼻地獄の責め苦のようではありませんか~。

阿比太とは阿鼻地獄の王という意味で、阿比太神社の御祭神・スサノオのことなのかも?

阿比太神社 節分祭  
⑥阿比という鳥もいる。

また阿比という鳥もいます。

http://k-yatyou.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-2e4b.html
↑ こちらのブロガーさんがとてもかわいらしく阿比の写真を撮っておられます。

阿比の白い斑点・・・これは謀反人のしるしです。

阿比太神社 節分祭 

というのは、日本書紀にこんな話があるんです。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿が「それは霜ではなく塩で、あなたは殺されて塩を振られているのです」と答えました。


昔謀反の罪で殺された人は塩が振られたそうで、雄鹿は謀反人の比喩ではないかとする説があります。
高天原を追放されたスサノオは謀反人だといえ、古の人々は塩を振ったかのような斑点のある阿比の姿にスサノオのイメージを重ねたのかも。

また阿比は足が後ろのほうについているので「あとあし」と呼ぶ地方もあります。

で、阿比太神社の節分祭では阿鼻地獄を思わせるような火渡りをするのですが、そのあと紙の上に足をおいて型をとります。

阿比太神社 節分祭 足形

足形は「あしあと」と言ってもいいと思いますが、この「あしあと」という言葉をひっくり返すと「あとあし(阿比のこと)」となるじゃーあーりませんかーーー。





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[2018/02/06 10:33] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

市軸稲荷神社  節分祭 『市軸大神は熟れたイチジクの神様?』 

大阪府豊中市 市軸稲荷神社
節分祭・・・2月3日

市軸稲荷神社 お多福ゲート 

わあ~、お多福さんにのみこまれる~~!

①古くより信仰されていた市軸大神


大正15年、伏見稲荷神社の分霊を勧請し、刀根山の地主神・市軸大神と合わせてお祭りして、市軸稲荷神社は創建されました。

創建は大正15年ですが、市軸大神はそれ以前より刀根山の神として信仰されていたということですね。

市軸稲荷神社 お多福さん 
お多福社のご神体・お多福さん

②大根にかんざしをさして祈願する

節分祭では境内にある末社のお多福社のご神体・お多福さんが開帳されています。

なた、お多福さんの頭に飾るかんざしが授与されています。
このかんざしに願い事を書き、『頭いた、頭いた、頭いた』と三度となえ、頭や肩など気になるところをなで
お多福ゲートの横に置かれている大根にかんざしをさして祈願します。

市軸稲荷神社 大根とかんざし 

願い事を書いたかんざし

③お多福と大根

お多福と大根の組み合わせというのが興味深い~。
お多福(お亀)・大根というキーワードから思い出すのは、京都・千本釈迦堂のおかめ節分会です。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼

千本釈迦堂 おかめ節分会 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』  

千本釈迦堂は2月の「おかめ節分会」のほか、12月の「大根焚」も有名ですよ。

千本釈迦堂 大根焚

千本釈迦堂 大根焚 
千本釈迦堂(大報恩寺) 大根焚 『大根焚と聖天さん』 

④大根焚は大聖歓喜天の行事?

大根焚は大聖歓喜天の信仰からくる行事ではないかと思います。

Icon of Shoten

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


大聖歓喜天の好物が大根とされ、東京の待乳山聖天では1月に大根まつりを行ってふろふき大根を授与しています。

待乳山聖天 ふろふき大根

待乳山聖天 大根まつり

⑤男女和合して仏法守護の神になる?

大聖歓喜天は象頭をした男女双体の神で、次のような伝説があります。

人々に祟りをもたらしていたビナヤキャは十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれしビナヤキャ女神に結婚を申し込みます。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うならあなたと結婚しましょう」といいました。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神と結ばれました。


神はその現れ方によって御霊(みたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)にわけられるといいます。
そして和魂は女神を、荒魂は男神を表すとする説があります。
すると御魂とは男女双体なのではないかと思うのです。

聖天さんの伝説は御霊・和魂・荒魂の関係をうまく説明していると思います。

すなわちビナヤキャは荒魂、ビナヤキャ女神は和魂で、男女和合することによって仏法守護の神になったという話だと思うのです。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・聖天さん(ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・ビナヤキャ



⑥キリスト教ではΛは男性を、∨は女性を表す?

ダン・ブラウンの「ダビンチコード」には、キリスト教ではΛは男性を、∨は女性を表すと書いてあったと思います。
Λは△、∨は▽といってもいいと思います。
ダビデの星(六芒星https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hexagram.svg)は男女和合を表すものだと思います。

⑦升組はおかめ、柱は大工の棟梁?

千本釈迦堂には次のような伝説があります。

千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。
棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。
妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。


千本釈迦堂 升

おかめの升組は凹の形をしていますが、これは女神(おかめそのもの)を表しているのではないでしょうか。
そして升組に組み合わせた柱は男神を表すものだと思います。(神様は1柱、2柱と数えますね。)

つまり、大工の棟梁はビナヤキャ、おかめはビナヤキャ女神とイメージが重ねられた結果、千本釈迦堂では聖天さんの行事である大根炊の行事を行っているのではないかという推理です。

おかめ(お多福)と大根はこのように関係が深いので、市軸稲荷神社で大根におかめのかんざしをさす、などという信仰が生じたのではないでしょうか。

⑧市軸大神は割れたイチジクの実の神様?

それにしても、なぜ「頭いた、頭いた、頭いた」と唱えるのでしょうか?
それは市軸大神が果物のイチジクの神でもあるからではないでしょうか。

昔隣の家にイチジクの木があってよくイチジクの実をいただきました。
イチジクってちょっと実が割れているぐらいが食べ時なんですよね。
昔の人はイチジクを見て、割れた人の頭を想像し、それで「頭いた」と唱えるようになったのかも?

市軸稲荷神社 お多福さまのお言葉


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[2018/02/05 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

友呂岐神社 消防車のお祓い 『車のお祓いのルーツは平将門討伐だった?』 


 大阪府寝屋川市 友呂岐神社 成田山不動尊

 
友呂岐神社 消防車 お祓い

①消防車のお祓い


友呂岐神社のお弓行事があった日(友呂岐神社 お弓行事 『絶命した鹿は仁徳天皇の比喩だった?』 )、
お弓行事が始まる(13:00)少し前に友呂岐神社に到着すると
寝屋川市消防団の方々が消防車のお祓いに来られていました。

この日、寝屋川市・枚方市合同の出初式が10時ごろより淀川河川公園であったようなので、
その出初式の帰りに友呂岐神社で消防車のお祓いをしたのかな、と思います。

消防車2

消防車ってパーツもかっこいいんですよね~❤

②大阪成田山不動尊で初めて車のお祓いが行われた。

今ではどこの神社でも車のお祓いをやっていますが、車のお祓いを初めて行ったのはどこなのでしょうか?
それは大阪成田山不動尊だそうです。

大阪の成田山不動尊は寝屋川市にありまして、友呂岐神社のすぐ近くです。
お弓行事が行われる弓場近くでは頻繁にほら貝の音が聞こえていましたが、それは成田山不動尊にやってきていた修験者が吹いていたのでしょう♪

消防車 

成田山不動尊のhpにはこう記されています。

 成田山不動尊(以下:当山)は、日本で初めて人車一体の交通安全を祈念したお寺です。
院内には本堂の他、一度に100台の車両を収容可能な交通安全祈願専用の祈祷殿もあり、お車とご乗車される皆様の安全を、日々お祈りいたしております。


当山の交通安全は、とある信者様へのご祈祷が始まりであったとされています。
香里の街に残された深い傷も癒えぬ終戦の直後、原子爆弾投下があった広島へと疎開したご子息の為、安否確認に現地へと旅立たれるご両親が、道中の車の安全(故障等の災難厄除)を希望された事が、当山での最初の祈祷であったと伝えられています。当時の自動車は故障するのが常で、道中を事故無く辿り着く事が、ドライバーの切なる願いでした。
以後、たくさんの皆様にもご祈祷をご希望いただいたのを受け、昭和24年には自動車交通安全祈願専用の仮堂を設置。交通事故が増加した時代背景も相成り、車両と皆様の道中の安全を災難厄除も兼ねて祈祷させていただくようになりました。

 さらには、皆様の多くのご要望により、本格的な祈祷殿が建立。
以来、数多くのドライバーの皆様に愛され、「交通安全は成田山不動尊へ」と言われるまでに発展し、年間20万台ものお車を祈祷させていただくまでになりました。」


http://www.osaka-naritasan.or.jp/pray/omamori1/ より引用

友呂岐神社 消防車

③平将門の乱を平定した不動尊

成田山不動尊は千葉県にある成田山新勝寺の別院として、昭和9年(1934年)に創建されました。
しかしこの地と成田山新勝寺の関係は古かったそうで、939年にまでさかのぼります。
このとき、関東で平将門の乱がおこりました。
寛朝(かんちょう)大僧正はこれを平定するため、空海によって開眼された不動明王を持って海路で大阪から関東へ向かいました。
関東に到着した寛朝大僧正は、不動明王に祈願して護摩法を行いました。
この霊験によって平将門の乱は平定されたというのです。

実際には、朝廷は将門の乱平定のため、藤原秀郷と平貞盛らを関東に派遣し、戦闘の中、将門は流れ矢にあたって死亡しています。
その一方で僧侶による戦勝祈願もかかせないものだと考えられていたのでしょう。

その後、この不動明王は平将門の乱平定に功績があったとして、成田山新勝寺が創建され、寛朝大僧正が開山となりました。

成田山不動尊 門 
成田山不動尊

④馬の暴走を止めた不動尊

平将門の子孫の相馬氏は繋ぎ馬の紋を用いていました。

CrestOfSoumaClan

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ACrestOfSoumaClan.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/CrestOfSoumaClan.jpg よりお借りしました。
作者 正親町三条 (投稿者自身による作品) [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], ウィキメディア・コモンズ経由で

関西では平将門は朝廷に逆らい「新皇」を名乗った逆賊だととらえるむきが強いですが(私は将門ファンですが~)
関東では平将門は英雄視されているそうですね。

なんでも、平安京の貴族たちが安逸をむさぼっているために将門が乱を計画し、天もこれを認めて黒馬を将門に与えたという伝説が伝えられているそうです。
ところがこの馬は将門しか乗りこなすことができないので、繋いであるというのです。

成田山不動尊 祈祷殿 
成田山不動尊

また「じゃじゃ馬に 常陸の伯父御 くいつかれ 」という川柳があります。
じゃじゃ馬とは平将門、常陸の伯父御とは将門の 伯父の平国香のことです。
このように将門自身が馬に喩えられることも多かったようです。

古には馬は軍事用の乗り物として重要なものでした。
そして平将門は馬に喩えられることが多く、成田山新勝寺の不動明王は平将門の乱を平定しています。

馬の暴走が止められるなら、車の暴走もおさえられるんじゃないか?
そういうわけで成田不動尊は交通安全の神として信仰されたんだったりして?

成田山不動尊と自動車 
成田山不動尊


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[2018/01/10 16:03] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

友呂岐神社 お弓行事 『絶命した鹿は仁徳天皇の比喩だった?』 


大阪府寝屋川市 友呂岐神社
お弓行事 成人の日の前日


友呂岐神社 お弓行事-社殿前で 

二人の若武者が友呂岐神社から弓場をめざして出発!

①仁徳天皇を祀る神社

友呂岐神社は仁徳天皇とコロモコ、菅原道真を祀っています。
友呂岐神社があるあたりは仁徳天皇の別荘
コロモコについてはこちらの記事に書いたので→ なにわ淀川花火大会 『沈まなかったヒョウタン』 
今日は仁徳天皇について書きたいと思いま~す。

友呂岐神社 お弓行事-行列3

②民衆を思いやる政治を行った仁徳天皇

仁徳天皇といえば、新古今和歌集にある次の歌が有名ですね。

みつぎ物ゆるされて、国富めるを御覧じて

高き屋に のぼりて見れば 立つ 民のかまどは にぎはひにけり

民の税金を免じ、国が富んでいるようすをご覧になって
高殿にのぼってみれば煙が立っている。民のかまどは豊かなのだなあ。


仁徳天皇は人家の竈から煙があがっていないのを見て、人々の暮らしの厳しさを思いやり、3年間租税を免税したといいます。
そしてその間は宮殿の屋根の茅も葺き替えなかったといいます。

友呂岐神社 お弓行事-行列2 
情緒のある古い町並みが残っています。

③諡号に徳の字がつく天皇は不幸な死を迎えた天皇?

私は仁徳という諡号に「徳」の字があることが気になっています。
諡号に徳の字がつく天皇は不幸な死を迎えた天皇だといわれているんですね~。

天皇ではありませんが、聖徳太子は子孫が全員斑鳩寺で首をくくって死亡しています。
孝徳天皇は皇太子(中大兄皇子)・皇后・多くの臣下が飛鳥に戻ってしまう中、難波宮に残され、失意の中で病を患って崩御されました。
崇徳天皇は保元の乱をおこして讃岐に流罪となっていますし、安徳天皇は平時子に抱かれて入水しています。

友呂岐神社 お弓行事-行列  

二人ともイケメンですね❤

④絶命した鹿とは仁徳天皇の比喩だった?

こんな話があります。

仁徳天皇陵を造営中、野から鹿が走ってきて絶命し、死んだ鹿の耳の中から百舌鳥が現れた。

この鹿は仁徳天皇を比喩したものではないかと私は思います。

というのは日本書紀にこんな話があるのです。

仁徳天皇は鹿の鳴声を愛していましたが、あるときから鹿の声がぱったりと聞こえなくなりました。
ほどなくして、佐伯部が天皇に鹿を献上しましたが、それは天皇が鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿でした。
天皇はこれに心を痛められ、佐伯部を安芸の渟田に左遷しました。


また日本書記はこの話のあとに、次のような話を続けています。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(トガノの鹿)


雄鹿は仁徳天皇、雌鹿は皇后の比喩のように思えませんか?

友呂岐神社 お弓行事-行列4 
もうすぐお弓行事が始まるよ!


⑤仁徳天皇は謀反の罪で殺されて怨霊になった?

昔、謀反の罪で死んだ人は塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説もあります。
奈良では鹿は神の使いとして保護されていますが
神と怨霊は同義語だともいわれます。
つまり、鹿は怨霊(謀反の罪で死んだ人)の使いであるということで
そう考えると奈良公園でたくさんの鹿が保護されているようすが、たくさんの怨霊が成仏できずに漂っているようにも見えてきますね~。

仁徳天皇は謀反の罪で殺されて怨霊になったと考えられたのではないでしょうか?

梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊だった」と説かれました。
聖徳太子が怨霊となったのは、彼の子孫が全員斑鳩寺で首をくくって自殺したからだというのです。
そして、彼が聖徳太子と褒めたたえられたのは、彼の怨霊をなだめるためではないかと。

友呂岐神社 お弓行事-お祓い

友呂岐神社 お弓行事-甘酒 

お接待で甘酒をいただきました。ありがとうございます!

友呂岐神社 お弓行事 
矢は12本打ちます。12本の矢は1月から12月をあらわしています。

友呂岐神社 お弓行事 
矢が当たった場所から、1月~12月それぞれの月を占います。

友呂岐神社 お弓行事

友呂岐神社 お弓行事

ど真ん中に命中!



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[2018/01/08 19:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

難波宮跡 四天王寺ワッソinなにわの宮 『日本語のルーツは古代韓国語ではないと思う。』 

大阪市中央区 難波宮跡
四天王寺ワッソinなにわの宮跡・・・2017年は11月5日 
http://wasso.net/%E9%96%8B%E5%82%AC%E6%A6%82%E8%A6%81/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%83%AF%E3%83%83%E3%82%BD2017%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0/

四天王寺ワッソ 2


①古代、多くの渡来人たちが日本にやってきた。


古代の日本には朝鮮半島や中国から多くの渡来人がやってきました。
四天王寺ワッソは、武寧王・アメノヒボコ・鑑真など、時代を超えた渡来人を聖徳太子らが出迎えるという内容になっています。
いろんな時代の渡来人がタイムスリップして現代に集まったみたいな?
SFチックでオモシロイですね~。

四天王寺ワッソ7 
②「わっしょい」の語源は「ワッソ」?

かつては谷町9丁目から四天王寺までをパレードしていたそうですが、現在では難波宮で行われています。
祭を「四天王寺ワッソ」というのは、そのときの名残なのでしょう。

ワッソとは現代韓国語で「来た」という意味で、日本の祭などで「わっしょい、わっしょい」というのは渡来人たちが日本に到着して「ワッソ、ワッソ」と喜んだことに由来するという説があります。
しかし、これは語学的根拠にかけるとして疑問視されています。
またいわゆる「韓国起源説」のひとつであるとの批判もあります。

四天王寺ワッソ 6


③「わっしょい」は「和を背負う」?

「わっしょい」の語源は「和を背負う」からくる、ヘブライ語の「エッサ(運ぶ)」からくるなどの説もあるようです。

ワッソ(来た)よりもエッサ(運ぶ)のほうが神輿を運ぶときの言葉としてふさわしいように思えますが
エッサからどうやってワッショイになるのか、ちょっとむりくりっぽい感じもしますね。

あと関西ではあまり「わっしょい、わっしょい」というかけ声はかけていないように思いますが、どうでしょうか。
京都では「ほいっと、ほいっと」、大阪では「べーら べーら べらさっさ」というのが多いように思います。
金峯山寺では「えーらいやっちゃあ」と言っていました。

四天王寺ワッソ8


④幕末から太平洋戦争にかけて、日本から韓国に伝わった言葉


私は日本語しか話せず、韓国語はまるきりわからないのですが
日本語と韓国語は文法も同じだし、よく似た言葉があるそうですね。

例えば、次のような言葉です。
酸素マスク→サンソマスク
安全対策→アンジェンタイサク
家族→カジョク
高速道路→コウソクドロ
市民→シミン

http://yukashikisekai.com/?p=25333

これらの言葉は幕末から太平洋戦争にかけての期間に、日本から韓国に伝わった言葉のようですね。

四天王寺ワッソ 5


⑤古代朝鮮語からの借用語

借用語とよばれるものがあります。
たとえば現代ではテレビ・ラジオ・ミシンなどの言葉がありますが、これらは英語を借用語としてとりいれ、定着したものです。
かるた、てんぷら、ぼたん、ジョーロ、タバなどの言葉のルーツはポルトガル語で、江戸時代にとりいれられたものです。

古代の日本には朝鮮や中国から大勢の渡来人がやってきていましたから、彼らの言葉を取り入れた借用語もあったでしょう。
たとえば母屋(おもや)と言う言葉は、朝鮮語を借用したものではないかという説を読んだことがあります。

しかし借用語はあくまで借用語であって、日本語のルーツだとはいえません。
日本語に「テレビ」「かるた」という言葉があるからといって、日本語のルーツは英語であるとか、ポルトガル語であるとかいうことがおかしいことは容易に理解できるでしょう。

四天王寺ワッソ 3


⑥日本語のルーツは古代韓国語ではないと思う。

イ・ヨンヒさんんが日本語のルーツは古代韓国語ではないかと説かれていますが、これはちょっと納得しがたいです。
(古代、韓国という国はなかったので古代韓国語と言う言葉はおかしいかもしれませんが、イ・ヨンヒさんが古代韓国語と言う言葉を使われているので、あえてそのまま使います。)

というのは、身体語や天体語など基本的な言葉が日本語と韓国語(古語)では全くあわないのです。
ところが、イ・ヨンヒさんは日本語は韓国語からくるとして、次のように説明されています。

a.頭(あたま)→古代韓国語の「アタム(端の丸)」からくる。古代韓国語で頭は「モリ」
b.おでこ→古代韓国語の「デコル(頭)からくる。
c.目→古代韓国語の「メェ(集める)」からくる。
d.まぶしい→古代韓国語の「ヌンブシ(目つぶし)からくる。
e.めんめ→古代韓国語の「メ(鞭)」の幼児語「メンメ」からくる。
f.まつげ→古代韓国語の「合わせ毛(マチゲ)」からくる。
g.家内→古代韓国語の「ガンナイ(女)」からくる。

四天王寺ワッソ 4


古代韓国語で頭・おでこ・目・まぶしい・まつげなどに対応する言葉があるのに、なぜそれらの言葉がそのまま伝わらずに「アタム(端の丸)」から日本語の頭と言う言葉ができたり、「メェ(集める)」から日本語の目という言葉ができたりするのか、その理屈がわかりません。

また、このやり方だと、どんな言葉でもむりくり日本語に結び付けてしまえるでしょう。

gの「家内」は大和言葉ではないですよね?大和言葉では「つま」ではないでしょうか。
家内という言葉は時代が下ってからできた言葉ではないかと思います。
夫は外に出かけて仕事をしますが、妻は家の中にいて家事や育児をします。
そういったところから、日本人が「家」「内」という漢字を組み合わせて「家内」という言葉をつくり、それを音読みにしたのではないでしょうか。
古代韓国語のガンナイは(女)とは関係がなさそうに思えます。

このような言葉はたくさんあります。
例えば電源という言葉がありますが、昔は電気というものはなかったので、最近になって作られた言葉だと思われます。
「電気の源」を略して「電源」とし、それを音読みにしたものでしょう。

最後に、説の批判はいいが、人格批判はやめるべきだということを申し添えておきます。
特に韓国のことになると、賛成にしろ反対にしろ、感情的になって罵詈雑言をあびせる人がいますが、そういうことはやめたほうがいいかと思います。

四天王寺ワッソ  


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[2017/11/04 21:29] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

枚方宿 ふとん太鼓 『伊香色女は卑弥呼、伊香色男は卑弥呼の男弟のイメージで創作された?』 

大阪府枚方市 枚方宿
2017年10月8日 撮影


枚方 ふとん太鼓2 
①枚方宿


江戸時代、江戸の日本橋から三条大橋にいたる東海道に設置された53の宿場を東海道五十三次といいます。
その後1619年に東海道の延長線の、摂津国高麗橋にいたる京街道(大坂街道)に四つの宿場が設置されました。
東海道五十三次に四つの宿場を足して、東海道五十七次と呼ばれました。

その東海道五十七次の56番目の宿が枚方宿です。

意賀美神社-ふとん太鼓 
今も江戸時代の面影を残す枚方宿の町並に、「べーらべーら べらさっさ」というお囃子が聴こえてきましたよ。

意賀美(おがみ)神社の氏子さんたちがふとん太鼓を担いでやってきました!



②伊香色男・伊香色女の邸宅内にあった意賀美神社

現在の意賀美神社は万年寺山にありますが、もともとは現在地より100mほど南にあった伊香色男・伊香色女の邸宅内にあったとされます。
そして万年寺山には須賀神社があったそうです。
須賀神社は流行していた疫病退散祈願を目的として872年に創建されたとされます。
御祭神は牛頭天皇でした。

須賀神社のある万年寺山には万年寺というお寺があったそうです。
江戸時代まで神仏は習合して信仰されており、神宮寺(神社に付属した寺)が建てられることがありました。
万年寺は須賀神社の神宮寺だったのかもしれません。
しかし明治3年、万年寺は廃寺となりました。

また岡村に日吉大社があり、明治42年〈1909年)、須賀神社と日吉大社は意賀美神社に合祀されました。
そしてその翌年、意賀美神社は万年寺山に遷座したということです。

意賀美神社 
意賀美神社 春に撮影したものです。

③意賀美は龗?それとも伊香?

意賀美神社の主祭神は高龗神(たかおかみのかみ)という水神です。
意賀美神社の近くには淀川が流れているので、水神を祀っているのでしょうか。
また意賀美神社という神社名はこの高龗神の「おかみ」からとったのかもしれませんね。

あるいは意賀美神社の「意賀美」は「いがみ」と読むことができ、もともと意賀美神社があったのは伊香色男・伊香色女の邸宅なので、伊香から意賀美神社となったのかもしれません。
(伊香色男は伊香色雄命でイカガシコオ、伊香色女は伊香色謎命でイカガシコメと読むのだと思います。まちがってたら教えて!)

枚方 ふとん太鼓 
③ニギハヤヒの子孫と欠史八代の一・開化天皇

ウィキペディア「意賀美神社(枚方)」によると、伊香色男は開化天皇の時代の人で、ニギハヤヒの5世の子孫で物部氏の遠祖とあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%B3%80%E7%BE%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9E%9A%E6%96%B9%E5%B8%82)#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

またウィキペディア「伊香色謎命」には、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后、父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫、同母兄に伊香色雄命がいると書いてあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%A6%99%E8%89%B2%E8%AC%8E%E5%91%BD

まず孝元天皇の妃となり、孝元天皇が亡くなった後、開化天皇の皇后となっていますね。
開化天皇の父親は孝元天皇、母親は伊香色謎命の叔母の欝色謎命です。
つまり、元ダンナと叔母の間に生まれた子と再婚したというわけで、いまでは考えられないような結婚です。
ですが、古には血の純潔を守るため、近親婚は当たり前だったとする説もあります。

それよりも興味深いと思うのは、伊香色女(伊香色謎命)・伊香色男(伊香色謎命)姉弟がニギハヤヒの子孫だということ、
そして開化天皇が欠史八代といって、実在しなかったのではないかと考えられている八代の天皇の一人だということです。

枚方 ふとん太鼓2 
④欠史八代

欠史八代とは第2代綏靖天皇から第9代開化天皇の8代の天皇のことを言います。
なぜこの8代の天皇が実在しなかったと考えられているのかといえば、
これらの天皇にはほとんど事跡らしいものが記されていないこと、
第10代崇神天皇の和風諡号が初代神武天皇と同じ「ハツクニシラス」であるため、同一人物ではないかと考えられていることなどがあげられます。


枚方 ふとん太鼓3 
⑤初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?

記紀によるとニギハヤヒは初代神武天皇より早く畿内に天下っていたとあります。

またニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは、神武にこんなことを言っています。
「昔、天つ神の子・ニギハヤヒが天の磐船に乗って降臨した。天つ神の子がどうして二人いるのか。」
これを聞いた神武は自分が天つ神の子であることを証明するため、天の羽羽矢と歩靱を見せました。

ニギハヤヒは天孫(天照大神の子孫)だったんですね。
ニギハヤヒが天の磐船に乗って降臨したとされるところには磐船神社(大阪府交野市)がありますが、「天孫降臨の地」と書いたのぼりが建てられていましたね。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 御神体 天磐船

ついでに言っておきますと、意賀美神社のある大阪府枚方市と、磐船神社のある大阪府交野市は隣接しており、古には交野ケ原と呼ばれたところです。
このあたりは肩野物部氏の本拠地だったところとされています。
それで物部氏の神を祀る神社が多いのでしょう。

⑥物部氏の血の濃い天皇

初代神武天皇と10代崇神天皇が同一人物だとすると、9代開化天皇は実在していなかった可能性があります。

そこで、③ニギハヤヒの子孫と欠史八代の一・開化天皇 のところで書いたことを思い出してほしいのです。

開化天皇の母親は伊香色謎命の叔母の欝色謎命で、皇后は伊香色謎命でしたね。

欝色謎命は物部氏の女性なので、開化天皇の母親は物部氏なのです。

そして開化天皇と伊香色謎命の間に生まれたのが、初代神武と同一人物とも考えられている10代崇神天皇で、崇神天皇の母親と祖母は物部氏だということになります。

崇神天皇は物部氏の血の濃い天皇だといえるでしょう。
ただし、父系の先祖はずべて天皇家で、母系が物部氏です。
 
枚方 ふとん太鼓

⑦入り婿王朝

10代崇神天皇の和風諡号ハミマキイリヒコイニエで、11代垂仁天皇の和風諡号はイクメイリヒコイサチといいます。
どちらも諡号に「イリ」とあるところから「イリ王朝」と呼ばれています。

この「イリ王朝」の「イリ」とは「入り婿」のことではないかとする説があります。

そういえば、記紀神話には入り婿になる話が多いですね。
ニニギは葦原中国に天下って葦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと結婚していますし
ニニギの子のホオリ(山幸彦)は龍宮にいき、竜宮の王・ワダツミの娘のトヨタマヒメと結婚しています。

すると、伊香色女と伊香色男は物部王朝の皇女・皇子をモデルとして創作された人物なのかな、と考えたりもします。


枚方 ふとん太鼓


⑧伊香色女は卑弥呼で、伊香色男は卑弥呼の男弟のイメージ?

私は邪馬台国とは物部王朝のことであり、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、卑弥呼の男弟は倭大国魂神=大物主神のことではないかと考えています。
その理由については説明すると長くなるので、こちらの記事を読んでください。↓
崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 

姉・伊香色女は卑弥呼のイメージで、伊香色男は卑弥呼の男弟のイメージで創作されたのかも?

枚方 ふとん太鼓


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[2017/10/11 15:06] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

住吉大社 観月会 『柿本人麻呂は水死していない?』 

大阪市住吉区 住吉大社
2017年10月4日 撮影


住吉大社 観月会 能 
ちょっと早めに行ったら能を見る事ができました。ラッキー♪


①和歌三神


反橋の上で和歌・俳句の入選作品を朗詠したあと、住吉踊・舞楽の奉納がありました。
ここ住吉大社は海の神様として信仰されていますが、和歌の神様でもあるのです。

柿本人麻呂・玉津島姫・住吉明神の三神は和歌三神といい、和歌を守護する神として古くから信仰されてきたのですね~。

住吉大社 観月会 神職たち 

②和歌三神は怨霊だった?

古には神と怨霊は同義語であったなどといわれます。
陰陽道では荒ぶる怨霊は慰霊すればご利益を与えて下さる神に転じると考えるそうです。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊のしわざだと考えられていたのです。

住吉大社 観月会 住吉踊 
住吉踊

そして僧正遍照・在原業平・文屋泰秀・喜撰法師・大友黒主・小野小町のことを六歌仙といいますが、高田祟史さんは「六歌仙とは怨霊である」とおっしゃっています。
その理由は、この6人はいずれも藤原氏と敵対関係にあった人物だと考えられるからです。
詳しいことはコチラの記事を読んでくださいませ~。→ 松尾寺 百合 『七福神の正体は六歌仙+惟喬親王だった?』 

六歌仙が怨霊ならば、和歌三神も怨霊なのではないでしょうか?

住吉大社 観月会 楽人

③「小野小町は衣通姫の流なり」とは「小野小町は美人」という意味ではない?

古今和歌集仮名序には「小野小町は衣通姫の流なり」と記されています。
この衣通姫と和歌三神の一、玉津島姫は同一視されています。

和歌山県和歌の浦に玉津島神社がありますが、ここの御祭神は稚日女命・息長足姫命(神功皇后)・衣通姫命なんですね。
玉津島姫とは、稚日女命・息長足姫命(神功皇后)・衣通姫命の総称ではないかと思えます。

住吉大社 観月会 -振鉾

そしてこの「衣通姫の流」である小野小町が、高田祟史さんがおっしゃるように怨霊であるとすれば、
衣通姫=玉津島=小野小町=怨霊となり、玉津島姫は怨霊なのではないかと思えます。

衣通姫はたいへんな美人であったと記紀には記されています。
それで「衣通姫の流」とは「美人」ということで、「衣通姫の流」である小野小町は美人、と一般的には解釈されています。
ですが、それは間違いだと思います。
「小野小町は衣通姫の流なり」とは、「小野小町は衣通姫と同じ怨霊である」という意味ではないかと思います。

住吉大社 観月会 振鉾

④柿本人麻呂水死説

次に、和歌三神の柿本人麻呂について見てみましょう。

梅原猛さんが著書「皆底の歌」の中で、「柿本人麻呂は刑死させられた。柿本人麻呂は水死させられた。」という説を説いておられます。

柿本人麻呂像はお雛様のように首が抜けるようになっているそうです。
梅原猛さんは、「これは柿本人麻呂が怨霊であるので、像より魂を抜く呪術的なしかけではないか」というようなことを書いておられました。

住吉大社 観月会 雅楽


なるほど、柿本人麻呂は刑死させられたのかもしれません。
ただ、水死ではないと思います。

梅原猛さんが柿本人麻呂が水死したとされるのは、柿本人麻呂の妻が次のような歌を詠んでいるためです。

今日今日と 吾(あ)が待つ君は 石川の 貝に交りて ありといはずやも
(今日か、今日かと私が帰りを待っているあなたは、石川の貝に交ざってしまったというではありませんか。

柿本人麻呂が貝に交ざって死んだということは、水死したということだ、というのです。

住吉大社 観月会 雅楽

gifアニメにすると画質が悪くなちゃいますね。何かいい方法ない?

⑤柿本人麻呂は遊女ととエッチして死んじゃった?

これに対して私はこう考えます。

万葉集には石川女郎という歌人がいて、たいてい男と色恋の歌を贈答しあっています。
一般には古代豪族の石川氏出身の女性だと考えられていますが、江戸時代の国学者の橘守部は「石川とは遊女のことではないか」としておっしゃっています。

私は橘守部の説を支持しますね~。
そして柿本人麻呂の妻が歌に詠んだ「石川の貝に交じりて」の「貝」とは女性器の喩えではないでしょうか。

えっ?柿本人麻呂は石川という遊女ととエッチして死んじゃった?

いえいえ、そういう意味ではないんです。
これを理解するためには聖天さんの伝説を知らねばいけません。

住吉大社 観月会 舞楽

⑥聖天さんと道祖神は習合されている?

聖天さんとは鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身であるビナヤキャ女神の男女双体のみほとけで、ビナヤキャ女神が鬼王ビナヤキャの足を踏みつけるお姿をされています。
鬼王ビナヤキャは疫病をもたらしたり人に祟る神でした。
そこで十一面観音がビナヤキャ女神に姿をかえ、その性的魅力で、鬼王ビナヤキャの祟神としての力を押さえつけているの図なのだと思います。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

道祖神はこの聖天さんと習合されていると思います。

多気山不動尊 道祖神 

道祖神はもともとは中国の道教の神ですが、日本ではサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神とされています。
ただし、ビナヤキャ女神は鬼王ビナヤキャの足を踏みつけていますが、サルタヒコとアメノウズメは手をつなぎあっています。
でもこれ、手をつなぎあっているんじゃなくて、アメノウズメがサルタヒコの手をつかんで押さえつけているの図だと思います。
というのは、古事記にこんな記述があるんです。

a.ニニギはアメノウズメに「サルタヒコを故郷の伊勢に送り、彼の名を伝えて仕え祀れ」といった。
b.サルタヒコは比羅夫貝に手をはさまれて死んだ。

aについて、ニニギはアメノウズメに「サルタヒコに性的に仕えよ」と言ったのだと思います。
bについては、貝は女性器の喩えで、サルタヒコはアメノウズメの女性器に手を挟まれて死んだ、ということだと思います。
サルタヒコはアメノウズメとエッチして死んだとまあそういうことだと思います。

つまり道祖神とはアメノウズメがその性的魅力でサルタヒコの祟る力を抑えこんでいる、そういう神だと思います。
聖天さんは女神が男神の足を踏みつけているのに対し、道祖神は女神が男神の手を押さえつけているというわけです。
   
柿本人麻呂が「石川の貝に交ざって死んだ」というのも、女神の性的魅力によって人麻呂の祟る力が抑えられ、道祖神のように男女双体の神になったというような意味ではないでしょうか。

 住吉大社 観月会 舞楽  

 

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[2017/10/06 13:57] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

なにわ淀川花火大会 『沈まなかったヒョウタン』 

2017年8月6日 撮影

なにわ淀川花火大会2017-8 
①茨田堤

川は大雨が降ると水があふれ出るものでございまして、昔から治水工事は国家の一大事業でございました。
大阪の淀川も例外ではなく、古くは第16代・仁徳天皇が茨田堤(まむたのつつみ)を築いたという記録がございます~。

大阪府門真市の堤根神社境内には茨田堤跡が残されていますよ。

茨田堤

②人柱

茨田堤は難工事でして、どうしても決壊してしまう場所が2か所ありました。
そんなとき仁徳天皇の夢の中に神様があらわれ「武蔵のコワクビ(強頸)と河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)を人柱にすれば工事は成功するだろう」と告げました。
そこでこの二人が人柱にされることになったのです。

昔の人は残酷だったんだなって?
ですが大正3年に開通した常紋トンネルでは、昭和43年の十勝沖地震で損傷した壁の中から大量の人骨が発見されています。
人柱の風習はつい最近まであったんですね~。

なにわ淀川花火大会2017-7

③沈まなかったヒョウタン


さて、茨田堤の工事で人柱に選ばれたコワクビとコロモコの話に戻りましょう。

かわいそうにコワクビは泣きながら川の中に入って没しました。
工事は成功しコワクビの断間(こわくびのたえま)と呼ばれました。

しかし、コロモコはコワクビのように従順な性格ではありませんでした。
ヒョウタンを川に投げ入れ、「神よ、このヒョウタンを沈めてみよ。沈めることができなければ偽りの神だ。」と言いました。
ヒョウタンは沈まず、コロモコは人柱にならずに済みました。
コロモコは人柱になりませんでしたが工事は成功し、コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれました。

なにわ淀川花火大会2017-5

④なぜ川にヒョウタンを投げ入れたのか?

コロモコはなぜ川にヒョウタンを投げ入れたのでしょうか?
それは、次の中国の伝説に基づくものだと思います。

あるとき大洪水がおこって多くの人間が死んでしまいましたが、伏羲と女媧という兄妹は巨大なヒョウタンの中に隠れていたので無事でした。
兄妹は結婚して子供を産み、人類の祖となりました。 


中国版ノアの方舟ですね。

ヒョウタンの中に隠れていた伏羲と女媧は大洪水を免れたので、ヒョウタンは水に沈まないという信仰があったのでしょう。
実際には、ヒョウタンの中に水が入れば沈んでしまうと思いますが。

なにわ淀川花火大会2017-3

⑤コロモコは秦氏だった?

コロモコは「ヒョウタンを沈めることができなければ偽りの神だ」といい、ヒョウタンは沈まなかったので人柱を欲していたのは偽りの神だったということになります。

そのため、コロモコは人柱になりませんでしたが、それでも工事は成功しています。
なぜ工事は成功したのでしょうか?

それはもちろん神の力によるものではなく、治水工事の技術力の成果でしょうね。
で、治水工事といえば思い出すのが秦氏です。

京都桂川に残る葛野大堰は6世紀ごろに渡来人の秦氏によって築かれたとされます。

コロモコは秦氏だったのではないかと思うのです。

なにわ淀川花火大会2017-6

⑥コロモコを祀る友呂岐神社と秦河勝の墓


コロモコは治水工事技術に優れた秦氏だったのではないか、と唐突に言っても「ふーん、そうかもね~」と思われるだけですよね。

でも、私がコロモコが秦氏だったと考えるのは、他にも理由があるんです。

大阪府寝屋川市に仁徳天皇とコロモコ、菅原道真を祀る友呂岐神社があります。

友呂岐神社 
友呂岐神社

友呂岐神社は、仁徳天皇が茨田の屯倉を置き、皇室の別荘が営まれた所とされます。
コロモコも祀られているところをみると、コロモコはこのあたりに住んでいた人なのではないでしょうか。

そしてこの友呂岐神社の近くには太秦という地名もあります。
太秦といえば京都の太秦が有名ですが、太秦にある広隆寺は秦氏の氏寺ですね。

さらに友呂岐神社の近くには川勝町という地名もあり、秦河勝の墓もあります。

秦河勝の墓 

秦河勝の墓


そういった所から、このあたりは秦氏が住んでいたところだと考えられます。

⑦コロモコが信仰していた本当の神とは


秦氏はクリスチャンだという説がありますね。

秦氏の氏寺・広隆寺は別名を太秦寺といいますが、中国ではネストリウス派キリスト教寺院のことを大秦寺といいました。
太秦寺と大秦寺は点があるかないかの違いしかありません。

また広隆寺(太秦寺)に隣接する大酒神社はかつては大闢神社といったそうですが、大闢とはダビデの漢語訳なのです。

大酒神社

大酒神社

コロモコが信仰していた本当の神とはキリストであり、キリストのおかげでコロモコの断間は完成したと、そういう話なのではないでしょうか。

なにわ淀川花火大会2017-4 


なにわ淀川花火大会2017-2 

なにわ淀川花火大会2017 



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[2017/08/08 08:12] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

杭全神社 平野郷夏まつり 『百人一首は魔除けだった?連歌は?』 

大阪市平野区 杭全神社
平野郷夏まつり だんぢり宮入り・・・7月13日

杭全神社 夏祭 だんぢり

①日本で唯一連歌所が残る神社

このあたりにはかつて上田村麻呂の孫・坂上当道の荘園があったそうです。
杭全神社はその坂上当道が862年に創建したと伝えられます。
日本で唯一連歌所が残る神社として有名です。
お祭りのため、境内にはたくさんの出店がでていて、連歌所の写真を撮るどころではありませんでした~。
今度参拝したときに連歌所の写真を撮ってきます。(すいません~。)

杭全神社 夏祭 だんぢり6

②連歌とは!

和歌は上の句(五七五)と下の句(七七)からなる日本の伝統的な詩歌のスタイルですね。
ここから、短連歌という形式が発生します。
短連歌とは、ある人が和歌の上の句を詠み、続く下の句を別の人が詠むというもので、院政期(1086年ー1185年ごろ)にはこうした短連歌の形式が確立していました。
その後、平安末期から鎌倉時代にかけて連歌という形式が発生し、流行しました。

複数の歌人たちが、五七五→七七→五七五→七七・・・と続けて歌を詠んでいくというもので
百句を一作品としたようです。
室町時代には千句や万句を一作品とするようなものもあったみたいです。

杭全神社 夏祭 だんぢり5

③百人一首とは!

百人一首といえば藤原定家が撰んだ小倉百人一首を思い浮かべますが
正確には百人一首というのも、詩歌のスタイルのようですね。
一般には、優れた百人の歌人の歌を一首づつ集めたもの、と解釈され、小倉百人一首以外の作品もあるようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96#.E7.95.B0.E7.A8.AE.E7.99.BE.E4.BA.BA.E4.B8.80.E9.A6.96

杭全神社 夏祭 だんぢり7 
④小倉百人一首はキーワードでつながる。


しかし、織田正吉さんは、「小倉百人一首は単に優れた歌を百首集めたものではなく、キーワードでつながっている。」とおっしゃっています。

たしかに小倉百人一首は同様の語句が用いられた歌が多いです。
江戸時代になって小倉百人一首がかるたになったのも、同様の語句が多くてお手つきを誘いやすい点にゲーム性があるためであると。

子供のころ、我が家では正月に百人一首をやるのが恒例でした。
父は「わが衣手は露に濡れつつ~」と読み上げながら、「わがころもでにゆきはふりつつ」のカードをとる真似をします。
純情だった私は、父より先にそのカードを取って、はい、お手つきです。

杭全神社 夏祭 だんぢり3


⑤小倉百人一首は10次魔法陣だった。


さらに織田正吉さんは「小倉百人一首はクロスワードパズルである」とされ、その後太田明さんが織田正吉さんの説をうけて小倉百人一首が10次魔法陣であることを解明されました。

10次魔法陣とは、縦10×横10の升目に1から100までの数字を入れ、縦横斜め、いずれの和も同じになるように配置したもののことを言います。

小倉百人一首の格歌には1~100までの数字がふられています。
同様の語句で繫がる歌を、縦10×横10の升目に配置していくと、なんとこの10次魔法陣になるのです~!

⑥魔法陣とドーマン


セーマンドーマン2

上は伊勢の海女が魔除けとして用いるセーマン・ドーマンです。図は友人に書いてもらいました。(ありがとう~)

このうち、ドーマンは碁盤の目のような形をしていて、魔法陣のマスのようにも見えますね。
魔法陣とはドーマンのような魔除けなのではないでしょうか?

とすれば、藤原定家は百人一首で10次魔法陣を作ることで、魔除けを行おうとしていたのではないでしょうか。

上賀茂神社 笠懸神事 『藤原家隆、後鳥羽院の笠懸を思い出して歌を詠む?』※追記あり 
説明すると長くなるので、上の記事を読んでいただきたいのですが、藤原定家は承久の乱をおこして隠岐へ配流となった後鳥羽院の生霊を怖れていたように思えます。

百人一首には後鳥羽院の歌もとられていますし、後鳥羽院の流罪先である隠岐に通じる「おき」という言葉を用いた歌も4首あります。
定家は後鳥羽院の生霊から身を護るために百首の歌を10次魔法陣に並べたのではないでしょうか?

杭全神社 夏祭 だんぢり7

⑥連歌と百人一首

連歌は100句で1作品とするものが多く、百人一首は百首で1作品とします。
連歌は直前に詠まれた句につなげて句を詠んでいき、百人一首は同様の語句で歌と歌がつながります。

連歌と百人一首は似ているように思えます。

すると百人一首が魔除けの意味を持っているように、連歌も魔除けを目的として行われたものなのかも?

杭全神社 夏祭 だんぢり4 


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[2017/07/15 11:15] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

観音山公園 機物神社 七夕祭 『山上憶良と山之上』 

大阪府枚方市 観音山公園(中山観音寺跡)・・・枚方市香里ケ丘
大阪府交野市 機物神社
七夕祭・・・7月6日 7月7日

観音寺公園付近 アガパンサス  
観音山公園付近 アガパンサス

①鵲とは白鳥座のこと?

観音山公園近くには人工の川が流れる遊歩道があってこんな説明板が置かれていました。

観音山公園付近 石碑

ここから1kmほど東に天野川(天の川)と呼ばれる川があり、観音山公園と機物神社が対面しています。
といっても、観音山公園と機物神社はかなり距離が離れていますが~。



上の地図の東側、第二京阪道路とJR片町線が交差するあたりに機物神社が、西側香里ヶ丘中央公園の南あたりに観音山公園があります。
5kmほど離れているかな?
郡津駅の西側を南北に流れる川は天野川です。

天野川は天上の天の川を、中山観音寺はアルタイル(牽牛星)を、機物神社はベガ(織女星)を表すものとされ
天野川には牽牛と織姫が年に一度逢瀬を楽しむという合逢橋もあります。

牽牛と織姫は鵲がかける橋を渡って年に一度の逢瀬を楽しむのですが、この説明版の図を見ると、鵲とは白鳥座のことなんですね!
今まで気が付きませんでした~。(バカ)

観音山公園 牽牛 七夕飾り 
観音山公園

機物神社 七夕飾り 
機物神社

②山上憶良と山之上

観音山公園は小高い丘となっていて、丘の上には牛を轢く牽牛の像が建てられています。
牽牛像の隣には歌碑が建てられており、万葉歌人山上憶良(やまのうえのおくら)の歌が刻まれていました。

観音山公園 歌碑 

牽牛(ひこぼし)の 妻迎え船 こぎ出らし 天の川原に 霧の立てるは
(彦星の妻を迎える船が漕ぎ出たらしい。天の川の川原に霧がかかっているのを見ると。)


うーん、山上憶良ね~・・・・

京阪枚方市駅からバスに乗ってここにやってくる途中、「山之上」というバス停があったんですよ。
だけど、山の上ではありません。

で、この地名を調べてみたところ、「枚方丘陵の中腹にあり、天野川から見て高い所にあるため」山之上というとの説があるようです。

ここで毎度おなじみのトンデモ説!
山之上という地名は山上憶良ら山上氏が住んでいたところからくるなんてことはないかな?

枚方は天の川伝説発祥の地だといわれており、山上憶良(660年? - 733年?)よりのちの平安時代には、惟喬親王が在原業平らを連れてこの地をおとづれ、その際在原業平や紀有常らが七夕や天の川の歌を詠んでいます。

そして山上憶良もたくさんの七夕や天の川の歌を詠んでいます。

山上憶良は、皇別氏族(皇室から臣籍降下した氏族)・山上氏の出で、山上という姓は、大和の山辺郷に由来するといわれます。
でも、山辺憶良じゃなくて、山上憶良ですから。
で、山上憶良がたくさんの天の川の歌を詠んでいるのは、自分ちの近くに天野川(天の川)が流れていたからだったりして?

観音山公園付近 紫陽花 


観音山公園付近 紫陽花

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[2017/07/08 19:10] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

堂島薬師堂 節分お水汲み祭② 『お水汲みは修二会の行事?』※追記あり 



大阪市北区 
堂島薬師堂
節分お水汲み祭・・・2月3日


堂島薬師堂 節分お水汲み祭 『節分は日本版ハロウィン?』 
↑ こちらの記事の続きです。

堂島薬師堂 鬼 
節分お水汲み祭

堂島薬師堂の節分お水汲み祭では、新地の街に大勢の鬼が出没します。
難波っ子の鬼のせいか、気さくで乗りのいい鬼さんばかりです。

堂島薬師堂 鬼と山伏

節分お水汲み祭

①お水汲み護符


なぜ「節分お水汲み祭」というのかというと、節分の日、「お水汲み護符」を授与しているからだそうです。

堂島薬師堂 お水汲み 

節分お水汲み祭 たぶん薬師寺のお坊様

「お水汲み護符」とは、奈良・薬師寺の水と堂島川の水を清めたお香水のことで、竹筒に入っています。
堂島薬師堂と奈良の薬師寺は関係があったんですね!

薬師寺 月 

奈良 薬師寺

②修二会のお水取りと関係がある?

もしかしたら堂島薬師堂の「お水汲み」は修二会の「お水取り」と関係があるかもしれませんね。

修二会で有名なのは奈良東大寺二月堂のものですが、修二会の行事のひとつに、「お水取り」があります。
このお水取りに先駆けて、3月2日、若狭神宮寺近くの鵜の瀬でお香水を流す「お水送り」の行事が行われます。
鵜の瀬と二月堂閼伽井屋は繫がっており、10日で、二月堂閼伽井屋にお香水が届くといわれ、3月13日深夜にこのお香水を汲む「お水取り」の行事が行われます。

お水送り 鵜の瀬

鵜の瀬 お水送り

③修二会と節分、お水取りは一連の行事?

「お水取り」の行事は法隆寺でも2月11日に行われています。

夢殿の礼盤(お坊さんが座る台)の下の板を日にあてると、板の裏に水分があふれ出るというのです。
そしてこの水分によってその年が豊作か凶作なのかを占うのだとか。

法隆寺では、この「お水取り」行事の8日前の2月3日(節分)に、修二会の行事である追儺式を行っています。

参照/法隆寺 追儺式 夢殿のお水取り 『法隆寺追儺式とお水取りは一連の行事?』 

法隆寺 追儺式 青鬼

法隆寺 追儺式

③薬師寺 修二会〈花会式)


堂島薬師堂のお水汲み祭では奈良薬師寺と堂島川の水を汲むということですが
この薬師寺でも修二会が行われています。
行われるのは、3月30日から4月5日で、節分ではありませんが。

薬師寺の修二会でも追儺式が行われます。

薬師寺 花会式 追儺 

薬師寺 修二会 追儺

※追記 2月14日に行われる長谷寺のだだおしも修二会の行事でしたね。追加させていただきます。
やはり鬼が松明を持って登場しますよ。


長谷寺 ただおし 赤鬼

④お松明を振り回す童子は鬼?

奈良の新薬師寺でも修二会が行われています。こちらは4月8日に行われています。
追儺式はありませんが、東大寺二月堂と同様の、お松明の行事が行われます。

新薬師寺 お松明

新薬師寺 修二会 お松明

二月堂 修二会 お松明 
東大寺二月堂修二会 お松明

東大寺二月堂修二会のお松明は童子と呼ばれる人によって振り回されます。
鬼は茨木童子・酒呑童子などのように童子と呼ばれますし、京都八瀬の人々は鬼の子孫を称し「八瀬童子」と呼ばれています。
二月堂のお松明を振り回す人は鬼のコスプレはしていませんが、童子と呼ばれているので、鬼を表しているのではないでしょうか。

④薬師如来と修二会


修二会が行われる東大寺二月堂・法隆寺西円堂・薬師寺金堂・新薬師寺のうち、東大寺二月堂の御本尊は十一面観音ですが
他の法隆寺西円堂・薬師寺金堂・新薬師寺の御本尊は薬師如来です。
堂島薬師堂の御本尊も薬師如来です。

⑤まとめ


ややこしくなってきたので、表にまとめます。
寺名御本尊祭名日付松明追儺お水取り
堂島
薬師堂
薬師如来節分お水汲み祭2月3日✕ 
護摩有
? お水汲みが行われる
東大寺
二月堂
十一面観音修二会3月1日~15日✕ 
松明を振る人は童子(鬼?)
〇 3月12日
法隆寺
西円堂
薬師如来修二会2月3日 
〇 2月11日
薬師寺
金堂
薬師如来修二会(花会式)3月30日~4月5日✕ 堂島薬師堂のお水汲みは
薬師寺と堂島川の水を汲む
新薬師寺薬師如来修二会4月8日
松明を振る人は童子(鬼?)
長谷寺十一面観音修二会(だだおし)2月14日


上の表を見ると、他のお寺の修二会行事との類似性から、堂島薬師堂のお水汲みとは、お水取りと同様のものであり
修二会の行事にルーツを持つもののようにも思えます。(思わない?)

堂島薬師堂 黄鬼  

節分お水汲み祭

⑥お水取りと陰陽五行思想

それともお水取りやお水汲みは修二会とは関係なく、単に新春の行事なのかな?

陰陽五行思想では春は木、夏が火、秋が金、冬は水、春夏秋冬の最後の約18日を土(土用)とします。
この中の「冬は水」に注意してください。
水を取ることは、冬を取ることであると昔の人は考えたのかもしれません。
そして水=冬を取ると春がやってくるということだったりして。

堂島薬師堂 赤鬼

 ぎゃーーーーっ!
節分お水汲み祭

堂島薬師堂 お水汲み護符 

節分お水汲み祭



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[2017/02/11 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

堂島薬師堂 節分お水汲み祭 『節分は日本版ハロウィン?』 


堂島薬師堂・・・大阪府大阪市北区堂島1-6
節分お水汲み祭・・・2月3日


堂島薬師堂はどこだ?

堂島薬師堂 鬼大集合

ええーーー!! このみどり館みたいな建物が堂島薬師堂!

堂島薬師堂 護摩

薬師堂の隣では護摩供が行われていました。

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさんたち 太夫道中    
節分のお化け

節分には『お化け』といって変装して町を練り歩く習慣があります。
写真は太夫さんに扮したお化けさんです。
江戸では花魁というそうですが、関西では太夫といいます。
30cmはありそうな駒下駄をはき、八文字を踏んで歩いておられました。

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん 太夫


最近日本でもハロウィンに仮装する習慣が根付いてきましたが、日本には江戸時代末ごろより節分に仮装して練り歩く『お化け』という習慣がありました。
節分の夜には鬼が出ると信じられ、その鬼に狙われないよう、こうした仮装をするのだと考えられています。
昭和になって『お化け』の習慣は廃れてしまったのですが、大阪の北新地では節分の夜に大勢の美しすぐるお化けさんが現れます。

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん


②古代ケルト人と日本人は大晦日に仮装する

ハロウィンは古代ケルト人の祭が起源だと考えられています。
ケルト人は10月31日を1年の終わりだと考えていました。
そしてこの日には死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていたのです。
その際、悪い霊もやってくると考えられ、その悪霊から身を守るため、ハロウィンには仮装する習慣が生じたといわれています。

節分とは暦法・二十四節気の立春の前日のことです。
現在では春とは3月・4月・5月ですが、旧暦では春は1月・2月・3月でした。
従って、立春とは二十四節気の正月であり、その前日の節分は大晦日だといえるでしょう。
(詳しくはこちらの記事をお読みください。→長谷寺 観音万燈会 『冬至、クリスマス、正月、節分の関係』 

ハロウィン…10月31日・・・ケルト人の大晦日
節分・・・・・・・2月3日(新暦)=12月31日(旧暦)・・・旧暦の大晦日


古代ケルト人と日本人は、どちらも大晦日に仮装する習慣があるということになります。
これは偶然なのでしょうか?

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん2  

③秦氏が日本にキリスト教をもたらした?

ハロウィンはキリスト教の行事として根付いています。
日本にキリスト教が伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによってだとされています。
もしかしたら、このときハロウィンの習慣も日本にもたらされたのでしょうか?

しかし、キリスト教の伝来は実はもっと古く、古代渡来人の秦氏がもたらしたとする説もあります。

日本書紀によれば、283年、弓月君が百済より百二十県の人を率いて日本に帰化したのが秦氏であるとしています。

秦氏は百済からやってきたとありますが、それは百済を経由してやってきたということであり、秦氏の故郷は中央アジアにあったキリスト教国『弓月王国』ではないか、と佐伯好朗氏はおっしゃっています。

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん達

④記紀神話と聖書にそっくりな記述が!

また、飛鳥昭雄さんは、記紀神話と聖書の記述がそっくりのところがあると指摘されています。

聖書2日目/神は大空を作り大空の下と大空の上に水を分けました。
古事記神世第2代/豊雲野神 ※豊かな雲は大空の上を、野は大空の下に対応。

聖書3日目/神は地と海を作りました。
古事記神世第3代/宇比地邇神・妹須比智邇神
※宇比地は泥土で海、須比智は砂土で地に対応。

聖書4日目/神は太陽に昼を治めさせ月に夜を治めさせました。
古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神
※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記します。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もあります。
杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。
つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。
妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。

聖書5日目/神は水中生物・鳥を造り、祝福して言いました。生めよ、増えよ。
古事記/神世第5代/意富斗能地神・妹大斗乃弁神
※意富斗・大斗は世界。地は男性・弁は女性の意。つまり「男の世界」「女の世界」。

聖書/6日目/神は獣と人間を造り、造ったものを見て満足しました。
古事記/神世第6代/於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神
※日本書紀では面足尊。地の面が完成したこと。あやに畏し(阿夜訶志古)は賞賛を意味します。つまりすべて完成し、あやに畏しと神が満足したということ。 


大晦日に悪霊(鬼)が出るので、仮装するという習慣が古代ケルト人と日本人に共通しているのは、日本神道がキリスト教の影響を受けたものであるためなのかも?

堂島薬師堂 美しすぐるお化けさん達と浄瑠璃人形 

 堂島薬師堂 龍



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[2017/02/10 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

御堂筋イルミネーション 三津寺 『安積親王を弔う寺?』 


大阪市中央区 三津寺
御堂筋イルミネーション 2017年度は1月9日で終了しました。


御堂筋イルミネーション 
イルミネーションがきらめく御堂筋をぶらぶらとウィンドウショッピングしました。

御堂筋 ハードロックカフェ2
ハードロックカフェ

御堂筋 ハードロックカフェ 




大丸
↑ 大丸

高島屋 

↑ 高島屋

三津寺 御堂筋イルミネーション

↑ 御堂筋には神社やお寺もあります。 写真は三津寺です。

①行基が創建した三津寺

三津寺は744年に聖武天皇の勅命を受けて行基が創建したお寺です。
ここからが本題です(汗~)

②長屋王の変

行基は自殺においこまれた長屋王を弔うために多くの寺を建てた人だと私は考えています。

729年、長屋王は謀反の疑いがあるとされ、厳しい取り調べを受けました。
そしてそれに耐え切れず自害してしまったのです。
長屋王が謀反を企てていたというのは事実ではなく、藤原四兄弟(藤原不比等の息子/武智麻呂、房前、宇合、麻呂)による陰謀であると考えられています。
長屋王の死後、藤原四兄弟は藤原四子政権を樹立し、妹の光明子を聖武天皇の皇后にすることに成功しています。
ところが735年から737年にかけて天然痘が流行り、藤原四兄弟は次々に天然痘をわずらって死亡しました。
藤原四兄弟の死は長屋王の祟りだと噂されました。

御堂筋 マクラーレン 
③行基は長屋王の霊を弔うためにたくさんの寺を建てた?

行基が創建した金剛輪寺の創建年は737年または741年と伝わっていますが。737年は天然痘が流行って藤原四兄弟が死亡した年です。
やはり行基が創建した東光院の創建年は735年ですが、この年、、舎人親王と新田部親王が死亡しています。
735年は天然痘が流行った年であり、舎人親王と新田部親王は長田王の取り調べを行った人物です。
舎人親王と新田部親王の死も藤原四兄弟と同じく長屋王の怨霊のしわざであると考えられたのではないでしょうか。
岩船寺も行基が創建していますが、岩船寺の創建は長屋王が自殺した729年です。
行基は長屋王を弔うためにこれらの寺を創建したのではないでしょうか。

④三津寺は安積親王を弔うための寺が亡くなった年に創建された。

三津寺が創建された744年は聖武天皇の第二皇子・安積親王が亡くなった年です。17歳という若さでした。
死因は脚気だとされています。

聖武天皇と光明皇后の間には第一皇子の基皇子がありましたが、基皇子は生まれてまもなく亡くなりました。
そのため安積親王は皇太子の有力候補でしたが、母親が県犬養広刀自で、当時権力を握っていた藤原氏ではありませんでした。
そこで藤原仲麻呂によって安積親王は毒殺されたという説もあります。

安積親王が亡くなったあと、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が女性として初めての皇太子となっています。
藤原仲麻呂は光明皇后の甥で、光明皇后の信頼も得ていましたので、光明皇后の娘の阿倍内親王が皇太子となり、即位することは都合のいいことだと考えたのではないでしょうか。
しかし、のちに藤原仲麻呂と孝謙天皇(阿倍内親王)は仲たがいするようになり、仲麻呂は孝謙天皇の軍によって斬首されてしまうのですが。

三津寺は安積親王を弔うための寺であり。秘仏の十一面観音は安積親王のおもかげを映したものなのかもしれませんね。

あるいは安積親王が早世したのは長屋王の怨霊の仕業だと考えられ、行基は長屋王を弔うために三津寺を創建したのかも?

御堂筋イルミネーションを映す自動車 

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[2017/01/21 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

堀川戎神社 福娘 しころ 『えべっさんの正体』 


    大阪市北区  堀川戎神社
十日戎・・・1月9日 ~1月11日

堀川戎神社 十日戎 福娘 
天神橋筋商店街を福娘さんたちや宝船が練り歩き、お店に福笹を届けていました。 

①しころ奉納

堀川戎神社境内では関西演芸協会の方々によって「しころ(錣)」が奉納されていました。

上方芝居芸能では正月興行の芝居が終演した際、木戸口で太鼓と双盤を用いて囃しつつ、「ひょっとこ」「おたふく」の面を被った人が「大入り」の字の形になるように踊っていた、と堀川戎神社のhpに説明があります。

写真のひょっとこは手にはたきを持っていますが、このはたきで「大入り」の形をつくるということでしょうか。

「ひょっとこ」と「おたふく」が踊るということですが、私が見に行ったときには「ひょっとこ」がひとりで踊っていました。
「おたふく」役の人が急用で出られなくなったのかも?

堀川戎神社 十日戎 しころ

②榎木神社と榎本神社

参拝を終えて境内をうろうろしていると、ななななんと、「榎木稲荷神社」を発見ーーーーーー!!! 

榎木稲荷神社 

前回の記事、京都ゑびす神社 宝恵かご 舞妓さん 『耳の悪い神』  を読んでくださった人はなぜ私が「榎木稲荷神社」にテンションをあげているのかおわかりいただけると思います。

えべっさん(蛭子神)は耳が悪いので、よく聞こえるように神殿の後ろをたたいて参拝するという習慣があります。
そして奈良・春日大社にある榎本神社も耳が悪いので、柱をたたいて参拝する習慣があります。
そこで、えべっさんと榎本の神は同一神ではないかと私は考えていたのです。

榎木稲荷神社の榎木と榎本は横棒が一本あるかないかの違いしかありませんが、これは偶然なんでしょうか? 

堀川戎神社 十日戎 宝船

③地車稲荷と狸

榎木神社は地車(だんじり)の形をしているので、地車稲荷とも呼ばれていおり、次のような伝説があります。

かつて天満堀川の堀止めに側に榎があり、その根元に木の神・句句廼知神を祀る祠がありました。
榎の大の木の根元には吉兵衛という老狸が住んでいて、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていました。
1839年、その地に本殿・拝殿を造営して正式に榎木神社を創建し、堀川戎神社末社の稲生神社の分霊を合祀しました。
明治40年に堀川戎神社と合併してここに遷座しました。
願い事が叶った夜には地車囃子が聞こえるといわれています。


ふつう、稲荷神社といえば狐ですが、榎木神社は狸なんですね。
四国の稲荷神社も狸なのだそうです。
弘法大師が四国の狐を追い出して、狸を開放したなどとも言われています。

1839年に榎木神社に堀川戎神社末社の稲生神社の分霊が合祀されたり、明治40年に榎木神社と堀川戎神社が合併されたりしていますが、これは戎神と榎木の神=吉兵衛が同一神だという認識を人々が持っていたためではないでしょうか。

堀川戎神社 十日戎 福娘2

④榎本の神は物部守屋?


春日大社にある榎本神社の御祭神は猿田彦神です。
日本書紀には猿田彦は『高天原から葦原中国までを照らす神』だと記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒです。
猿田彦神とニギハヤヒは同一神なのだと思います。

ニギハヤヒは物部王朝の祖神ですが、物部守屋は蘇我氏との戦いの際、榎の上にいたところを矢で射られて死んでいます。
榎本神社とはこの物部守屋のことではないかと私は考えています。

堀川戎神社 十日戎 福娘3

⑤榎木の下に住む吉兵衛狸は物部守屋?

同様に榎木の大木の根本に住む狸の吉兵衛もまた物部守屋のことなのではないでしょうか。

大阪は物部守屋ゆかりの地で聖徳太子が建てた四天王寺は物部守屋の土地を没収して建てられたものです。



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[2017/01/10 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

今宮戎神社 十日戎 『日の神→海の神→商売繁盛の神へと神格を変えた神』 


今宮戎神社・・・大阪市浪速区恵美須西1丁目6-10
十日戎・・・
http://www.imamiya-ebisu.jp/h27hoekago
 
今宮戎 宝恵籠     

宝恵駕行列


①京都八坂神社の氏子、北向蛭子社を今宮に勧請


平安時代ごろから京都の八坂神社境内には北向蛭子社がありました。
そして今宮に移り住んだ八坂神社の氏子が今宮の地に蛭子社をお祀りしたのが今宮戎神社の始まりなのだそうです。

今宮戎 十日戎 文楽

文楽人形も宝恵駕に乗っていました。
  
②蛭子命と事代主命

今宮戎神社の御祭神は事代主命です。

『えべっさん』の総本社である兵庫県の西宮神社の御祭神は蛭子命です。
えべっさんには事代主命を御祭神としているところと、蛭子命を御祭神にしているところがあります。

今宮戎 十日戎 行列 
③入水した事代主命と海に流された蛭子命

事代主命は天照大神が派遣したタケミカヅチに、『国を譲るように』と迫られ、『承知した』といって入水自殺した神様です。

一方、蛭子はイザナギ・イザナミの御子でしたが、3歳になっても脚のたたない身体障害児でした。
そのため、イザナギ・イザナミは蛭子を葦船に乗せて海に流してしまうのです。
ひどい両親ですね!

西宮神社の社伝によれば、葦船に乗せて流された蛭児命は西宮に漂着し、『夷三郎殿』と称されて海の神として祀られたそうです。

今宮戎 十日戎 行列-芸妓さん

蛭子命と事代主命はどちらも海で死んだ神

水死体のことを『えびす』という地方があるそうです。
そして猟の網に水死体がかかると大漁になる、などといわれています。
たった3歳で、しかも身体障害児だった蛭子が海に流され、生きて漂着したとはちょっと考えられません。
蛭子は死に、水死体となって西宮に漂着したのでしょう。

事代主命は海を踏み傾けて入水しており、やはり海で死んだ神です。
蛭子と事代主命は同一神であるという認識が古の人々の中にあったため、事代主命と蛭子はどちらも『えべっさん』として信仰されているのだと思います。

今宮戎 十日戎 福娘さんたち 

⑤蛭子は日子だった?


『蛭子(ひるこ)』は、もともとは『日子』であったのが語呂合わせで『蛭子』にされたのではないかという説もあります。
「『日子』とは太陽神のことです。

太陽神であった『日子』は海に流されて『海の神』となったわけです。

今宮戎 献鯛神事 
大阪木津市場 献鯛神事

⑥蛭子、語呂合わせで商売繁盛の神になる。

さらに蛭子は脚が悪いことから『お足がでない』ということで商売繁盛の神にもなりました。

今宮戎 十日戎 福娘  

 今宮戎 十日戎 福娘さんたち2



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[2017/01/09 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪光のルネサンス2016  『大阪大空襲と地下鉄』 

大阪市中央区 
大阪光のルネサンス2016・・・2016年12月14日〜12月25日 
http://www.hikari-kyoen.com/renaissance/index.html

中央公会堂 光のルネサンス2016② 
中央公会堂  

①レトロ建築


ウィキペディアに1930年代の中之島の写真がありました。

ウィキペディアより 中之島 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANakanoshima_1930.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c8/Nakanoshima_1930.jpg よりお借りしました。

作者 不明 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

写真上の川が土佐堀川、下が堂島川だと思います。
五つある橋のうちいちばん上にあるのが淀屋橋ではないでしょうか。

すると中之島の向かって右上より日銀大阪支店、大阪市役所、中之島図書館、中央公会堂だと思いますが、どうでしょうか?

中之島図書館 ウォールタペストリー 

 
中の島図書館

中央公会堂 光のルネサンス2016

中央公会堂

こちらは旧大阪市役所です。

とても素敵なレトロ建築だったのですが、1982年に取り壊されてしまいました。

大阪市役所 
現在の大阪市役所

残念~。
レトロ建築を維持するのにお金がかかって残しておくのが難しいのでしょうか?

そのあと同地に新しい大阪市役所が建てられましたが、そのほかの日銀、中之島図書館、中央公会堂は1930年代のままです。
 
中之島図書館 ウォールタペストリー
中の島図書館

②大阪大空襲


この写真が撮影されたのちの1945年、大阪大空襲があり阪の町は火の海につつまれました。
ウィキペディアより被害地域を書きだしてみました。

第1回大阪大空襲 ( 3月13日・14日)・・・、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草
第2回大阪大空襲 ( 6月1日)・・・福島駅近辺、福島区大開町、安治川口駅近辺、港区、大阪市立運動場(現在の八幡屋公園)、大正区福町(現在の鶴町5丁目)、東区(現中央区)上町、東雲町、森之宮・玉造
第3回大阪大空襲( 6月7日)・・・都島区高倉町、鶴橋駅付近、天王寺駅付近、城東の大阪陸軍造兵廠、長柄橋、柴島浄水場。
第4回大阪大空襲( 6月15日)・・・阪神本線出屋敷駅付近、国鉄福知山線支線金楽寺駅付近、西淀川区・神崎大橋南詰、鶴橋駅付近、天王寺駅付近。尼崎市、堺市や布施市(現在の東大阪市)、豊中市、守口町(現在の守口市)。
第5回大阪大空襲( 6月26日)・・此花区、住友金属(現在の新日鐵住金)工場
第6回大阪大空襲( 7月10日)・・・堺市、大阪市住吉区、貝塚市
第7回大阪大空襲 ( 7月24日)・・・住友金属工場
第8回大阪大空襲 ( 8月14日)・・大阪陸軍造兵廠、国鉄京橋駅、大阪城

中之島図書館 ウォールタペストリー2 
③避難所として用いられた中央公会堂


どうやら中之島は標的とされていなかったようです。

空襲に用いられた焼夷弾は燃夷剤が燃えることで建物に火災をひきおこすことを目的としています。
日本家屋は木造が多いので、焼夷弾を用いて火災をおこそうという計画だったようです。

中之島の建物は木造でないので標的としなかったのかも?
中央公会堂は大阪大空襲で家を失った方々の避難所として用いられたそうです。



③地下鉄が大阪大空襲で避難してきた人々を乗せて走った?


1945年3月13日夜から翌日未明にかけての米軍による大阪大空襲の際、大阪の地下鉄が運航され、避難してきた人々を梅田や天王寺方面に運んだという話があります。

しかし大阪の地下鉄がそうしたことを行ったという公式な記録は残っていません。

梅田クリスマスツリー 

梅田

④地下鉄に乗って避難したという多数の証言


京都大学名誉教授の村松繁さんは3月13日の大阪大空襲の際、松村さんや大勢の被災者が心斎橋駅から地下鉄に乗って梅田に逃れたとおっしゃっています。

心斎橋 
そのほかにも大勢の人が地下鉄に乗って避難したと証言されています。

地下鉄は終電ののち、電気をとめるのがふつうなのだそうですが
この日は特別な支持があって、電気を送り続けていたと証言された元職員もいるそうです。





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[2016/12/27 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪光のルネサンス 中之島図書館 (住友井桁マークは何を表しているの?) 



大阪市中央区中之島付近
大阪光のルネサンス2016 12月25日まで 
http://www.hikari-kyoen.com/

写真は過去のものです。

中の島図書館 ウォールタペストリー2006   

中の島図書館

すごくノイジーな写真だったので、コントラストをあげてノイズをごまかしました~。(汗)

①中の島図書館

中之島図書館は1904年に住友友純(ともいと)が寄贈したものです。
ネオ・バロック様式というそうですが、太い柱やアーチ状の窓、繊細な彫刻が美しいですね。

中の島図書館 ウォールタペストリー2006②  

中の島図書館

②純友井桁マーク

住友財閥の住友井桁マークは菱型をしています。
三菱財閥のスリーダイヤも菱型ですね。

中の島図書館 ウォールタペストリー2006③

③菱は子孫繁栄・長寿の象徴

菱型といえば雛祭りの菱餅を想いだしますが、菱餅は菱の実でつくられています。
菱は繁殖力が高いので子孫繁栄を象徴する植物であると考えられていました。
また、菱の実を食べて千年長生きした仙人の話があり、長寿の象徴ともされていました。

中央公会堂 
中央公会堂

④撒菱

トウビシの実はとげが2本あります。
またオニビシヒメビシにはとげが四本あります。
忍者が用いた撒菱はこれらを乾かしたものです。

 中央公会堂 

中央公会堂

⑤菱は角をあらわす?

菱紋の名前の由来については、葉の形からくるとも、実の形からくるともいわれています。
けれど菱の葉も実も菱型ではありません。

漢和辞典をひいてみると「夌は音を表し、角のある意からきている」とあります。
菱の実には鋭い角があり、図形の菱形にも鋭角の角があります。
おそらく角のあるものを菱と言っていたのではないでしょうか。

 日本銀行大阪支店 
日本銀行大阪支店

⑥鉱物にも角がある


鉱山で採取する鉱物にも角があります。
自然金黄銅鉱

大阪市役所

⑦菱は鉱物をあらわす?


日本地質学会員の藤井光男氏さんは、桐生市菱地域は古代鉄生産の里であったとしておられます。

鉱物は植物や動物と違って、腐ることがありません。
古の人にとって腐ることのない鉱物は不老不死を象徴するものだったのではないでしょうか。
そして植物の菱は角があるところから鉱物に喩えられ、そのため菱は不老長寿のシンボルとされたのではないでしょうか。

中の島 レトロビル ポット型看板

⑧純友財閥と鉱山開発


住友財閥は伊予の子銅山の開発を推し進めることによって住友財閥へと成長しました。
また三井財閥も鉱山開発を行っていました。
住友井桁マークや三井財閥のスリーダイヤのデザインは鉱物を表しているのではないかと思ったりします。

中の島 レトロビル 窓 



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[2016/12/25 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪天満宮 流鏑馬 『大阪天満宮流・流鏑馬』 


大阪市北区 大阪天満宮
流鏑馬式・・・10月25日 



●オフィス街を駆け抜ける流鏑馬

関西で流鏑馬といえば京都の下鴨神社とか滋賀の近江神宮などが有名です。
下鴨神社や近江神宮には長い参道があり、そこで流鏑馬が行われます。
でも大阪天満宮は表門を入ると目の前に拝殿があり、馬が駆けていけるような長い参道はありません。
大阪天満宮で流鏑馬が行われると聞いたんですが、いったい馬はどこを駆けるのでしょうか?

大阪天満宮の表門から馬に乗った人が出てきましたよ。

大阪天満宮 流鏑馬3 

道の両脇にはオフィスビルがゴミゴミと建ち並んでいます。

大阪天満宮 流鏑馬2 

みめうるわしい殿方ばかりでうれしくなっちゃう~♪(スケベ)

大阪天満宮 流鏑馬1 

もしかして、オフィスビルが建ち並ぶこの道で流鏑馬やるんすか?

こんなところで弓矢放ったらあぶないやん!
と思ったら、半弓で的をたたいて破っていました!

大阪天満宮 流鏑馬4


●大阪天満宮 流鏑馬の起源


大阪天満宮の流鏑馬の起原ははっきりしないそうですが、1588年に流鏑馬を行ったという記録があります。
『難波鑑(1676年)』には失踪する馬上から的を矢で射る様子が記されています。
このころはまだ一般的なスタイルの流鏑馬が行われていたのですね。

『葦の若葉/大田南畝(1801年)』には現在と同じ、馬上から半弓で的を破る流鏑馬の様子が記されています。
1800年ごろの大阪天満宮の周囲はすでに民家などが密集していて、安全を考えて独特の形式が生み出されたのだろう、とのことです。

●松平忠明が天満宮に乗馬を奉納した理由


安土桃山時代、松平忠明という人がいました。

松平忠明は徳川氏の重臣・奥平信昌の四男で、母親は徳川家康の娘・亀姫でした。
つまり松平忠明は家康の外孫だったのですね。
1588年に徳川家康の養子となり、松平姓を賜っています。。
1603年、徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。
1614年に大坂冬の陣、1615年に大坂夏の陣がおこり豊臣氏は滅亡しました。
松平忠明は大阪の陣で手柄をたてて摂津大坂藩10万石の藩主となり、大阪城に入城しました。
そして同年、松平忠明は幕命により乗馬を大阪天満宮の神事に奉納しています。

松平忠明および幕府は大阪天満宮に大阪の陣の勝利祈願をかけていたのでしょう。
そしてそれが叶えられたので乗馬を奉納したのかな、と思ったりします。

大阪天満宮 流鏑馬6 




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[2016/10/25 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

堺祭 阿波踊 『阿波国の神・オオゲツヒメは月の女神だった?』 

大阪府堺市 堺祭 10月第3土曜日、第3日曜日

堺祭 阿波踊3 
堺祭のパレードに阿波踊が登場!

●粟国は粟の生産地だった。

昔、徳島県北部は粟の生産地だったそうで、そのため粟国と呼ばれていたそうです。

こんな伝説もあります。

初代神武天皇に天富命(あめのとみのみこと)という者が仕えていました。
天富命は忌部氏を率い、木国(紀伊の国)の材木を伐採して畝傍山の麓に橿原宮を造営しました。
その後、肥沃な土地を求めて現在の徳島県あたりにやってきて穀・麻種を植えました。(古語拾遺)

●好字令で粟国から阿波国に。

713年に元明天皇が好字令(好字二字化令)を出しました。
好字令とは、諸国の郡名、里名を、好い字の二文字に改めよとするお触れのことです。
なぜ二文字なのかというと、当時の日本がお手本としていた先進国の唐の地名のほとんどが漢字二文字だったので、それの真似をしようとしたわけです。

この結果「波伯吉国」は「伯耆国(ほうきのくに)」、「吉備道中国」は「備中国」、「木国」は「紀伊国」に、「泉国」は「和泉国」となりました。

そして粟国は阿波国となったのです。

堺祭 阿波踊 
●粟国は女神・オオゲツヒメだった。

古事記には、イザナギ・イザナミが兄妹で交わり、次々に国生みを行ったことが記されています。

最初に生んだ子が淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま/淡路島)。
次に生んだのが、伊予之二名島(いよのふたなのしま/四国)
伊予之二名島は身体が一つで顔が四つあり、その顔ごとに名前がある。
伊予の国は愛比売(エヒメ)、讃岐の国は飯依比古(イイヨリヒコ)、粟の国は大宜都比売(オオゲツヒメ)、土佐の国は建依別(タケヨリワケ)。




四国の形を見てみると、四方に張り出した部分があって、なるほど、顔が四つあるように見えます。
古事記が編纂されたのは712年です。
このころすでに四国がだいたいどんな形をしているか知られていたんですね。
昔の人の地理認識能力の高さに驚かされます。

それはともかく、ヒコは男性の名前につけられることが多いです。
また応神天皇は和風諡号をホンダワケノミコトといい、ワケもまた男性の名前につけられるもののようです。
イイヨリヒコ・タケヨリワケは男神でしょう。

ヒメは女性の名前につけられることが多いです。
エヒメ、オオゲツヒメは女神だと考えられます。

粟国(阿波国)は女神だったのです。

堺祭 阿波踊4 
合成と丸わかりですね(汗)


● オオゲツヒメの死体から穀物が生まれた。(古事記)

古事記にはオオゲツヒメに関する次のような伝説があります。

高天原を追放されたスサノオはオオゲツヒメに食べ物を求めました。
オオゲツヒメは鼻・口・尻から食材を取り出し料理をしてスサノオに与えました。
スサノオは「こんな汚いものが食えるか!」と怒ってオオゲツヒメを切り殺しました。
オオゲツヒメの死体の頭から蚕が、目から稲が、耳から粟が、鼻から小豆が、陰部から麦が、尻から大豆が生まれました。

保食神の死体から穀物が生まれた。(日本書紀)

日本書紀にも五穀や養蚕の起源についての神話がありますが、古事記とは若干異なっています。

天照大神は保食神(うけもちのかみ)のもとに月夜見尊(つくよみのみこと)を派遣しました。
保食神は口から吐き出した食材を料理して月夜見尊をもてなしました。
月夜見尊は「こんな汚いものが食えるか!」と怒って保食神を切り殺しました。
天照大神はこれをたいそう怒り、月夜見尊に「もう会わない」と言いました。
そして天照大神と月夜見尊は一日一夜隔てて住むようになりました。
その後、天照大神は天熊人を保食神のもとに派遣しました。
保食神は死んでおり、その死体の頭頂に牛と馬が、額には粟が、眉には蚕が、眼には稗が、腹には稲が、陰部には麦・大豆・小豆が生まれていました。


堺祭 阿波踊

●朝鮮語の掛詞になっていた。

金沢庄三郎さん、田蒙秀さんによれば、日本書紀の五穀・養蚕の起源は朝鮮語で掛詞になっているといいます。

頭(マル)と馬(マラ)
額(チャ)と粟(チョ)
眼(ヌン)と稗(ヌィ)
腹(ぺ)と稲(ピョ)
女陰(ポーティ)と小豆(パト)  
※()は朝鮮語

日本書紀編纂者の中に朝鮮語のわかる人がいたのではないかと考えられています。

●オオゲツヒメは大月姫だった?


オオゲツヒメの名前の「オオ」は「多」、「ゲ」は「ケ(食物)」の意味とされています。
御食とか御饌と書いて「ミケ」と読みますね。その「ミケ」の「ケ」です。

それはそのとおりでしょうが、私はオオゲツヒメは大月姫または多月姫で月の女神でもあるのではないかと考えています。
なんでかって?

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_Foxtail_millet_02.jpg?uselang=ja
上記リンク先は粟の写真です。
粟の穂は三日月の形をしているではありませんか。

堺祭 阿波踊2




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[2016/10/20 20:51] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

堺祭 火縄銃隊 『鉄砲伝来』 



堺祭の大パレードには、全国から七隊もの火縄銃隊がやってくるのです。
これは見逃せない~!

堺祭 種子島鉄砲隊 
種子島火縄銃保存会

種が島火縄銃保存会の方々が発砲するシーンの写真も撮るには撮ったのですが、
ものすごい轟音に体が勝手にびくっと反応してしまい、大きく手振れしてしまいました。大失敗でした~。
今度行くときは耳栓をもって行こう。

以下、にわか知識です。

●八坂金兵衛、娘をポルトガル人に嫁がせて鉄砲の作り方を教わる。


1543年、種子島に中国船が漂着しました。
中国船には明人の五峰、ポルトガル人・牟良叔舎」(フランシスコ)、喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ)が乗っていました。
種子島島主・種子島恵時・時尭親子は二人のポルトガル人から鉄砲挺を購入し、刀鍛冶・八板金兵衛に鉄砲を作らせました。
八板金兵衛は娘・若狭をフランシスコに嫁がせて鉄砲の作り方を教えてもらったそうで、八板家系図に次のように記されているそうです。

若狭 1527年生まれる。
1543年、フランシスコに嫁いでポルトガルに渡る。
1544年ポルトガル船がやってきて金兵衛と若狭は再び会うことが出た。
数日後、若狭は大病にかかって死んだと偽って葬式をおこなった。フランシスコは泣きもしなかった。


この記述は本当のことなのか、作り話なのかわかりませんが、八板金兵衛が苦労の末、鉄砲を作り上げたことは事実でしょう。


堺の橘屋又三郎と、紀州の津田算長が種子島より鉄砲を故郷へ持ち帰ったことで、鉄砲は瞬く間に全国に広まりました。

堺鉄砲隊  
堺火縄銃保存会 と 関ヶ原(合成)

橘屋又三郎は種子島に数年とどまって鉄砲の製造法を学び、堺で鉄砲の製造を始め、「鉄炮又」と呼ばれました。
また根来の芝辻清右衛門が後に堺に移住し、堺は鉄砲の産地へと発展していきました。


根来鉄砲隊 根来寺 
根来鉄砲隊 と 根来寺(合成)

津田算長は紀伊国吐前城主であり、根来寺僧兵の長でした。また「津田流砲術」の祖でもあります。
紀州に戻った津田算長は芝辻清右衛門に鉄砲をつくらせました。
根来寺の僧兵は鉄砲で武装しており根来衆と呼ばれました。
根来鉄砲隊が僧兵の姿をしているのは、このためなのですね。
 
雑賀鉄砲衆 和歌山城 
紀州雑賀(さいか)鉄砲衆 と 和歌山城 (合成)

雑賀衆は紀伊国北西部の五つの地域(五組・五搦)から成る一揆集団です。
根来衆と同様、鉄砲で武装し、織田信長の第一次紀州征伐、豊臣秀吉の第二次紀州征伐に抵抗しました。
しかし秀吉に根来寺は焼き討ちにされ、雑賀衆は壊滅させられました。

彦根鉄砲隊 彦根城2 
彦根鉄砲隊 と 彦根城 (合成)

向かって右は天衝脇立、井伊直政かな?
向かって左は三日月がついています。伊達政宗?
戦国時代の戦に鉄砲はかかせないものとなっていました。

 堺祭 岩国藩鉄砲隊

岩国藩鉄砲隊

岩国藩は現在の山口県岩国市あたりにあった藩です。
岩国藩に伝えられた石田流砲術の継承につとめておられます。
火縄銃は長州筒と呼ばれるものだそうです。
 
会津新撰組 金戒光明寺 
会津新選組銃隊 と 金戒光明寺 (合成)
※金戒光明寺は会津藩の本陣でした。


幕末、京都では尊王攘夷派の浪士たちがテロを起こすなど治安が悪化していました。
そこで幕府は会津藩主・松平容保を京都守護職としました。
その配下で京都の警備活動を行ったのが新選組です。

会津藩と新選組は戊申戦争(新政府軍vs旧幕府軍/1868年 - 1869年)で旧幕府軍に従って戦いましたが苦戦したようです。
その理由として会津藩が最新式の洋式銃を十分に用意できなかったことがあげられます。
写真の新撰組隊士は火縄銃を撃っていますが、幕末に火縄銃は時代遅れだったのです。
しかし戊辰戦争で火縄銃を用いた藩もあったという記述を読みました。
会津は戊辰戦争で火縄銃を用いたのでしょうか?
ともかく幕府軍は敗戦し、これにともなって新選組も解散しました。

ちょっと合成が不自然なのもありますね。すいません~。




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[2016/10/19 22:03] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

原田神社 獅子神事 『天武地震とハレー彗星』  


大阪府豊中市 原田神社
獅子神事・・・10月9日 

原田神社 獅子神事4  
わかりにくいかもしれませんが、袴姿の男性が手に持っているのは獅子頭です。
獅子舞などにもちいられるものです。
長い毛や紙の飾りなどで覆われてしまってほとんど獅子頭の顔が見えません~。


原田神社 獅子神事3 

 これは何とか獅子の顔がわかりますね。ピントが甘いけど(汗)。

●獅子神事

社伝によれば獅子神事の起原は684年まで遡るそうです。
この年、天武天皇が神宝・神鏡・素盞男命御鏡・獅子頭を原田神社に奉納し、同年より1145年まで、悪疫退除のため獅子頭を奉じて各地を回る行事が行われるようになったそうです。

原田神社 布団太鼓 
町ごとに布団太鼓やだんじり、御神輿など様々なものを担いで境内を廻っていました。これは布団太鼓。

●白鳳地震


684年は大変な年でした。
11月29日(グレゴリオ暦)20時から21時ごろ、太平洋沿岸にマグニチュード8クラスの大地震が起きたのです。(白鳳地震・天武地震)

山崩れ、河涌き(液状化現象?)、多くの建物が倒壊し、道後温泉や南紀白浜温泉は土砂に埋もれて湧出が止まりました。
土佐は津波に飲み込まれて田畑約12km2が海中に没し、調を運ぶ船が多数流失するという大参事。

2011年の東日本大震災を思わせるような大災害です。
天武年間にはこのほかにも16回も地震がおきています。

原田神社 キリコ? 

これはキリコかな?

●ハレー彗星出現!


この地震がおきる少し前の684年10月2日(グレゴリオ暦)、日本でハレー彗星が観測されています。




動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

●スサノオは星の神だった?

原田神社の御祭神はスサノオですが、スサノオはイザナギに「大海原を治めよ」と命じられていたり、根の国の王として登場したりいまひとつ神格がはっきりしない神です。

スサノオはもともとは星の神であったが、のちに星の神という神格を奪われたのではないでしょうか。
というのは、記紀に次のような記述があるからです。

イザナギの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれた。

この記述は陰陽道の宇宙観をうけたものだと思います。
陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星としているのです。
(地図では右が東で左が西ですが、これは正しくは向かって右が東、向かって左が西です。地図の側にたつと左が東で右が西となります。)
イザナギの顔は宇宙に喩えられているのですね。
イザナギの顔の中心にある鼻から生まれたスサノオは星の神だということになります。

スサノオは天照大神に悪戯をして高天原を追放された神です。
天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した天津甕星とスサノオは同一神なのかもしれません。


原田神社 だんじり 
だんぢり

ハレー彗星が白鳳地震をひきおこした?

星の神がまがまがしい神なのであれば、彗星もまたまがまがしいものだと考えられたことでしょう。

684年の白鳳地震はハレー彗星がひきおこした。
当時の人々はそう考えたのではないでしょうか。

原田神社 獅子神事5  


手に提灯を持った氏子さんたちは、二列に並んで向かい合い、道筋を作ります。
氏子さんたちが「うおー」と低いうなり声をあげる中、道筋の真ん中を、獅子頭を頭上にかかげた袴姿の青年が物凄いスピードで駆け抜けていきました。

氏子さんたち次々に場所を変えて道筋をつくり、獅子頭は複数人の青年に手渡され、いく筋もの道を駆け抜けていきました。

この神事は、獅子=スサノオがハレー彗星となって夜空を駆け抜けていく様子を表現したものではないでしょうか。

そして獅子=スサノオ=ハレー彗星の神を年に一度解放し、町を練り歩かせ、境内をかけさせることによって慰霊するというのが
原田神社の獅子神事ではないかとおもいます。



原田神社 獅子神事2



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[2016/10/09 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

岸和田だんじり祭 『だんじりの語源は鉋(かんな)からくる?』  

大阪府岸和田市 だんじり祭  
日程は毎年変わるようです。詳しくはこちらをご覧ください。→ 
岸和田だんじり祭  
 
岸和田だんじり祭2 
●だんじりのスピード、年々あがってない?


だんじりが、もの凄いスピードで駆け抜けていきます。
コーナーを曲がるときにはよりスピードをまし、だんじり(地車)の屋根の上で大工方が跳びはねます。かっこええ~。

岸和田だんじり祭


●『だんじり』の語源の諸説

さて『だんじり』とは祭礼に用いられる山車(だし)のことですが、なぜ『だんじり』と言うのでしょうか?
『だんじり』の語源については様々な説があります。

①台を引き摺る→だいずり→だんじり 
②壇(祭壇)の尻(祭壇の奥の部分)を曳く→だんのしり→だんじり
③山や鉾がじりじりと進む→台にじり→だんじり 
(だんじりのルーツは祇園祭の山鉾だと言われています。)
④祭礼を行った後(尻)、壇(山を形どった依代)を海や川に出して神送りをした→壇尻→だんじり
⑤青森や秋田のマタギ言葉で『兎』のことをだんじりという。だんじりをこの兎に喩えた。
⑥壇(祭壇)を運ぶ修羅(石棺を運ぶためのソリを修羅といった)→壇修羅→だんじり
⑦ 1435年、良王親王が親の仇である台尻大隅守(だいじりおおすみのかみ)を討ち取り、人々は『台尻討った』と喜んだ。→ だんじり。


岸和田城とだんじり 
↑ これは合成。ちょっと不自然かも(汗)

●鉋の手元部分のことを台尻という。

淡路島の歴史と神話←こちらのサイトによると『台尻大隅守』の台尻は役職名だとありますが、台尻をgoo辞書で調べてみると『 小銃の銃床の下部の、肩に当てる幅の広い部分。』とありました。
また鉋(かんな)の鉋台の上部を台頭、下部を台尻といいます。
鉋の刃を出したいときには木槌で台尻をたたき、刃が出すぎたときには木槌で台頭をたたくそうです。

岸和田だんじり祭5


●だんじりのからくり


江戸時代の岸和田のだんじりは門をくぐるために、大屋根を上下させるためのからくりが仕掛けられていました。
現在は門が撤去されているのでからくりは不要となったのですが。
からくりを使って大屋根を上げ下げするようすは、鉋の台尻や台頭をたたいて歯を出し入れするのに似ているような気がします。

まただんじりの屋根の上に乗る人のことを『大工方』といい、昔は大工さんが大工方を務めていたそうです。
だんじりと大工さんの関係は深く、大工さんの道具である鉋のパーツの名称から『だんじり』となった可能性もあるのではないでしょうか。 

岸和田だんじり祭3 
夜はだんじりに提灯を飾り、ゆったりと町を流します。
これも風情があってなかなかよいです♪



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[2016/09/17 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 城灯りの景 と 真田陣太鼓 『大阪戦国武将を偲ぶ旅&穴あき銭』  

大阪市中央区 大阪城
大阪市天王寺区 一心寺 安居神社

大阪城 城灯りの景 

↑ 2009年に行われた大阪城『城灯りの景』を撮影したものです。
2013年度は西の丸庭園がモトクロスの大会を行ったため荒れてしまって『城灯りの景』は中止になったそうです。
それ以降、『城灯りの景』は行われていないのかも?
ググっても出てこないので~。

●豊臣秀吉が築城した大阪城

1583年ごろ、羽柴秀吉が大坂城・築城を開始しました。
1598年、秀吉が亡くなり、1599年には豊臣秀頼が大坂城本丸へ居住しました。
五大老の徳川家康も大坂城西の丸で政務を執りました。

ただし、現存する遺構のほとんどは江戸時代に江戸幕府が作ったものだそうです。
それでも秀吉を愛する大阪の人々は、大阪城を「太閤さん(豊臣秀吉のこと)の城」と呼んでいます。

●大阪の陣

1614年、徳川家vs豊臣家の戦い「大阪の陣」が起こりました。
大阪・天王寺公園にある茶臼山は大阪冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村(豊臣方)が本陣を置いたところです。 

●一心寺にある本田忠朝の墓

 一心寺 納骨堂 

↑茶臼山の北に一心寺があります。 

一心寺 本田忠朝の墓  


↑ 一心寺には大坂夏の陣で討死した本田忠朝(徳川方)の墓があります。

本田忠朝は「大坂冬の陣」において飲酒が原因で敗退し、家康より叱責を受けました。
「大坂夏の陣」ではその汚名を挽回するべく、毛利勝永軍に正面から突入して戦死しました。
臨終の際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言ったとか。
現在では本田忠朝は「酒封じの神」として信仰され、本田忠朝の墓には「断酒祈願」をする参拝者が絶えません。
あなたも参拝する?

●真田幸村終焉の地・安居神社

安居神社

↑ 一心寺の北に安居神社があります。
真田幸村は15,000の松平忠直隊を破って家康本陣に攻め込み、家康に自害を考えさせるほどでした。
しかし幸村は安居神社で味方の傷ついた兵士を看病していた際、敵に襲われました。
「わしの首を手柄にされよ」
幸村はそう言い、敵に首を討ちとられました。

●大阪城炎上

1615年5月8日、松平忠直・井伊直孝らの軍勢が大阪城に攻め込みました。
豊臣秀頼と母・淀君は山里曲輪(やまざとくるわ)の隅矢倉に逃げ込みましたが、矢倉に鉄打ち込まれた鉄砲から出火して大坂城は焼け落ちてしまいました。 

大阪城 真田陣太鼓3 

↑ 2009年 大阪城 城灯りの景では、真田陣太鼓の演奏がありました。
太鼓の激しいビートは大坂の陣で散っていった武将たちを思い出させます。

●六文銭
真田陣太鼓の写真に六文銭を描いた旗が見えますね。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_Crest_rokumonsen.svg

亡くなった人が三途の川を渡る際、渡し賃が必要だとして死者に六文を持たせる習慣があり、これを六文銭といいました。
六文銭の六は、生きとし生けるものが輪廻するという六つの世界、六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)にちなむと考えられています。

真田家はこの六文銭をモチーフとした家紋を用いていたのです。

いや、これは六文銭ではない。六連星とよばれた昴(すばる)をあらわしているのではないか、とする説もありますが。

●永楽通寶

戦国時代には永楽通寶などの明より輸入した通貨が用いられていました。
織田信長は永楽通寶をデザインしたものを旗印として用いていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nobunaga_flag.png
リンク先は3つの永楽通寶が描かれた織田家の旗印です。

真田幸村や織田信長がこうした旗印を用いた理由についてはよくわかりません。
おいおい考えてみようと思います。(なんじゃ、そりゃ~)

●穴あき銭は何をデザインしたもの?


でも、この永楽通寶のデザインについては思い当たることがあります。
円形で中央に四角い穴があいた銭は「穴あき銭」「方孔銭」「円形方孔銭」「方孔円銭」などと呼ばれていたようです。

寛永通宝


↑ そういえばうちに古い硬貨があったなあ、と思い出し探してみたところ、寛永通宝が見つかりました。
寛永通宝は江戸時代に流通していたものですが、永楽通寶と同じような穴あき銭です。
ちなみに販売価格は1枚せいぜい数十円から100円くらいで価値のあるものではありません。(中には5万円以上の値がつくものもあるそうです。)

穴あき銭は天円地方のデザインになっています。
天円地方とは古代中国の宇宙観で、天は円形、地は方形であるとする考え方のことです。

 大阪城 城灯りの景2

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[2016/08/31 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

なにわ淀川花火大会  『十三と近藤重蔵』 

8月6日はなにわ淀川花火大会ですね!
今年は用事があって行けないんですが、過去に撮影した写真をご紹介します。  

  淀川 稲妻 

花火が始まる前に夕立が降って稲妻が走ったり~  

淀川河川敷 虹 
夕立のあとに虹がでたり~  

なにわ淀川花火大会2

花火の下を阪急電車が走ったり~  

なにわ淀川花火大会 

月が出たり~

●十三という地名の由来

なにわ淀川花火大会は阪急十三(じゅうそう)駅近くの淀川の河川敷で行われます。
この十三という地名、変な地名だと思いませんか。

十三駅前商店街を抜けたところに神津神社があるのですが、その神津神社のHPに十三の由来についての詳しい説明がありました。
http://kamitsujinja.ec-net.jp/jusonoyurai.html

①十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目だった。

②中津の南浜に住む重蔵という長者が加島へ遊びにいくとき、十三の渡しに舟をつないでいたため

③戦国時代の武将が戦死すると一族郎党妻子すべてが死に、それを憐れんで人々が十三塚を作った。(柳田国
男氏)

④条里制の十三条(天坊幸彦氏)

⑤十三は堤(つつみ)の意味(池田末則氏)

⑥中津の富島という地名からくる。

●近藤重蔵

②の中津の南浜に住んでいた重蔵とは近藤重蔵のことかも、と思います。

近藤重蔵は江戸時代後期の幕臣で、蝦夷地調査、開拓を行った人です。
1808年に江戸城紅葉山文庫の書物奉行となりましたが、あまりに豪胆な性格であったため、1819年に大坂勤番弓矢奉行に左遷されています。
重蔵は大変な女好きで、多くの妾を持ちがあり、下女などにも次々と手をつけていたそうです。

加島の歓楽街で豪遊する重蔵とイメージがぴったりだと思いますがいかがでしょうか。

私は近藤重蔵が大阪のどこに住んでいたのかを調べてみましたが、わかりませんでした。
重蔵という名前の人はたくさんいたと思いますが、無名の重蔵さんが川を舟で渡ったというだけでは伝説には残らないのではないでしょうか。
また遊女屋通いできるほどの重蔵さんとなると、そうはいないと思うのですが。

近藤重蔵は1821年に江戸に戻りましたが、隣家の半之助が重蔵の屋敷をのっとっていました。
屋敷は重蔵に戻されたものの、その後半之助は重蔵に嫌がらせをするようになりました。
1826年、半之助の度重なる嫌がらせにキレた重蔵の息子・富蔵は半之助とその息子を斬るという事件をおこし、八丈島に島流しとなりました。
このとき、父親の重蔵も連座したとして近江国大溝藩に預けられました。
1829年、重蔵は享年59歳で死亡し、死後の1860年に赦免されました。
富蔵は事件から54年後の1880年に赦免されました。

●石川県に重蔵神社があった!

石川県に旅行に行ったとき、重蔵神社というのがあったのでびっくり!
そこから、十三とはトミヒコのことであり、石川の重蔵神社は、
トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう(十三)→じゅうぞう(重蔵)と転訛したのではないかと思いいたりました。

トミヒコとはナガスネヒコともいい、記紀の神武天皇紀に登場する人物で大阪のあたりに住んでいた人物でした。

また石川は漁師が多く、水難で命を落とす人が多かったと考えられますが、水死体のことを土左衛門といいます。

その語源は享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が、大変な肥満体で体の膨れ上がった水死体ににていたためであるなどと言われています。
しかし、この説が絶対正しいとはいいきれません。
語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/to/dozaemon.html)にも、「正確な語源は未詳」と記されています。

私は水死体のことを土左衛門というのは、やはりトミヒコからくるのではないかと思います。
トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう/とさ→どざえもん(水死体)

つまり、トミヒコ(ナガスネヒコ)とは水死体(どざえもん)なのだと思うのですが、
長くなるので、近いうちに石川の重蔵神社の記事を書き、そちらで詳しくご説明したいと思います。

淀川花火大会 


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[2016/08/06 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

住吉大社 住吉祭 『住吉大社とみたらし星』 


大阪市住吉区 住吉大社
住吉祭・・・
http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/natu.html 

住𠮷祭 神輿3   
住𠮷祭 神輿2  

住吉大社の太鼓橋の上を神輿が渡り、神輿渡御が始まります。 

住吉大社 住𠮷祭 武者 
武者行列 

住𠮷祭  

 住吉祭 猿田彦

猿田彦

住𠮷大社 住吉祭 大和川を渡る神輿 
大和川を越えて

住吉祭 船 
行列は紀州街道を南へ、堺の頓宮をめざします。

●住吉大社はみたらし星の神? 


住吉大社は海の神として信仰されていますが、もともとは「みたらし星」の神だったのではないかという説があります。

みたらし星とはオリオン座の三つ星のことです。
そして三つ星のそばにもうひとつ小さい星があって、本当は三つ星ではなく四つ星なのです。

住吉代謝の境内には同じ大きさ、同じ作りの社が四つあり、そのいずれもが本宮とされています。
奥から、底筒男命 (そこつつのをのみこと)を祀る第一本宮、中筒男命 (なかつつのをのみこと)を祀る第二本宮、表筒男命 (うわつつのをのみこと)を祀る第三本宮、第三本宮の東が神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)を祀る第四本宮となっています。
その社の配置がみたらし星の配置に似ているというのです。 

住吉大社 図  

●『筒」 は星の神をあらわしている?

また底筒男命・中筒男命 ・表筒男命の神名にある『筒』は星の神であることを示すものだという説もあります。
『上記(うえつふみ)』という文書の中にたくさんの星の神が登場しますが、トムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などのように、星の神の名前には必ずツツという音がついているのです。

●星の神はなぜ海の神になったの?

現在、住吉大明神には星の神という神格はなく、海の神として信仰されています。
オリオン座の三つ星は真東から昇って真西に沈むので航海の指標とされていました。
海(航海)の神というのは星の神の二次的な神格だといえるのではないでしょうか。 

住吉祭 茅の輪  


堺の頓宮では荒和大祓神事が行われ、巫女さんたちが茅の輪くぐりをしていました。




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[2016/08/01 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪天満宮 天神祭 『村上天皇はなぜ大阪天満宮を創祀したのか』 

大阪市北区 大阪天満宮
天神祭 7月25日

天神祭 猿田彦 

露払役の猿田彦(天狗)

●25に縁の深い菅原道真

大阪天満宮の御祭神・菅原道真は25に縁のある人で、誕生日は6月25日、命日は2月25日です。
そのため、25日は天神さん(菅原道真)の縁日 となっています。
天神祭も天神さんの縁日の7月25日に行われています。 

天神祭 地車 
地車

天神祭 獅子舞 

獅子舞

天神祭 傘踊

傘踊

天神祭 陸渡御5

斎主かな? その後ろは御錦蓋(おきんがい/日傘)
 

天神祭 陸渡御4 

御錦蓋

天神祭 采女  

采女。
みなさんべっぴんさんなんですが、ベールごしに見るとますますべっぴんに見える~♡ 



天神祭 陸渡御7  

鳳神輿 

天神祭の陸渡御って見物人も多いけど、行列に参加している人がそれ以上に多いように感じます。
いったい何人の人が行列に参加しているのやら。

何かわからないのもたくさん~(汗)
知ってる人、教えて!


天神祭 陸渡御6 

天神祭 陸渡御3

天神祭 陸渡御2 

御鳳輩
道真公の御神霊が乗っているそうです。



●菅原道姉怨霊となる

菅原道真は平安時代の政治家で、右大臣にまで上り詰めました。
道真の才覚に嫉妬した左大臣の藤原時平が醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言し、道真は大宰府に左遷となり、数年後失意のうちに死亡しました。

天神祭 陸渡御 

↑ これは菅原道真公の像じゃないかと思うんですが、どうでしょう?

あるとき、清涼殿に落雷があり炎上するという事件がおきました。
また疫病が流行り、天変地異もあり、これらは道真の怨霊の仕業だと考えられました。

清涼殿炎上の3か月後に醍醐天皇は崩御しましたが、死因は道真の怨霊を畏れるあまりノイローゼになったためだとも言われています。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天変地異は怨霊の仕業でひきおこされると昔の日本人は考えていたのです。
そして祟り(怨霊)は神として祭り上げるとご利益を与えてくださる和霊に転じると考えられていました。

●村上天皇が大阪天満宮を創祀したワケ

大阪天満宮を創祀したのは村上天皇ですが、村上天皇は醍醐天皇の皇子です。
醍醐天皇は道真を左遷にした人物ですから、醍醐天皇の子である村上天皇も道真の怨霊を畏れたことでしょう。
末代まで祟ってやる~、なんていいますからね。

村上天皇は道真に祟られては大変、と大阪天満宮を創建したのだと思います。 

天神祭 陸渡御 猩々 

これは猩々だと思います。
猩々とは人間に似た大酒呑みの動物とのこと。
あなたのまわりにも猩々さんいませんか?
 



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[2016/07/25 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

野里住吉神社 一夜官女祭 『岩見重太郎の狒狒退治伝説』 

大阪市西淀川区 野里住吉神社
一夜官女祭・・・2月20日 


●岩見重太郎の狒々(ヒヒ)退治伝説


 野里住吉神社 一夜官女祭

ピンクの着物に冠をかぶったかわいいお稚児さん.たち。
でもこのこのお稚児さんたち、人身御供なんです。

こんな伝説があります。

かつて野里村は風水害と疫病の流行が相次ぎ、『泣き村』と呼ばれていました。
こういったことがおこるのは神様が怒っているからに違いない。
村人たちはそう考え、毎年一人の女性を生贄として神にささげていました。
ある時、この町に岩見重太郎という武士がやってきてこういいました。
「神は人を救うもので人間を犠牲にしたりしない。」
そして乙女の代わりに自分が唐櫃に入りました。
翌朝、村人たちが神社に行くと、武士の姿はなく、境内は血まみれになっていました。
血痕は隣の申村まで続いており、大きな狒々狒々(ひひ)が死んでいました。


野里住吉神社 一夜官女祭 行列2 
●薄田隼人正兼相が犬に喩えられた理由

この話に出てくる岩見重太郎とは桃山時代の武将で、薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)と同一人物とされています。
薄田(すすきだ)は姓で、隼人正(はやとのしょう)はよくわからないんですが、ググってみると官位だとか、通称だと出てきます。(御存じの方、教えてください)
そして名前が兼相(かねすけ)です。

岩見重太郎は小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男ですが、叔父の薄田七左衛門の養子となって全国へ武者修行に出ました。
武者修行を終えたのち、薄田隼人と名乗るようになりました。

小早川隆景の死後浪人となり、のちに豊臣氏に仕官しました。
大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて陣頭指揮を取りましたが戦死しました。

岩見重太郎が狒々退治をしたという話は野里住吉神社だけでなく、各地に伝わっています。
狒々とは大きな猿のような姿をした妖怪で、人間の女性を襲うとされています。

また、早太郎(はやたろう)とか疾風太郎とかいう名前の犬が狒々退治をしたという伝説もあります。

犬の早太郎とは薄田隼人正兼相(岩見重太郎)のことではないか、という説があります。
薄田隼人正兼相(岩見重太郎) の隼人正を語呂合わせで『早』として、『太郎』をつけたのではないかというのですね。

野里住吉神社 一夜官女祭 行列 

薄田隼人正兼相(岩見重太郎) =早太郎、というのはなるほど、と思いますが、なぜ早太郎は犬にされているのでしょうか?

隼人とは南九州の民のことです。
奈良時代、隼人は強制的に都につれてこられて宮門の警備をさせられていましたが、
警備をするにあたり、犬の鳴き声をまねていたそうです。

そのため薄田隼人正兼相は犬の早太郎にされたのではないでしょうか。
謎々だったんですね。

●犬猿の仲?

秀吉はその容貌から「猿」と呼ばれていましたし、たいへん女好きでした。
狒々とは大きな猿の姿をした妖怪で、人間の女性を襲うのでしたね。
狒々とは秀吉のことなのかも?

狒々が秀吉のことだとすると薄田隼人正兼相が秀吉を退治したということになるけど
薄田隼人正兼相は秀吉の臣下で、薄田隼人正兼相が秀吉に逆らったなんて話もない。
おかしいじゃん、とか言われそうですね。

たしかに、薄田隼人正兼相が秀吉に逆らったという話はありません。

犬の早太郎とは薄田隼人正兼相のことだという説があるのでしたね。
犬猿の仲、というように、犬と猿は仲が悪いとされます。

薄田隼人正兼相=犬   豊臣秀吉=猿

それで田隼人正兼相(犬)が狒々(豊臣秀吉)を退治したなどという話ができたのかなあ?などと思ったりします。





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[2016/02/20 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城3Ⅾマッピング 『秀吉はなぜ跡継に恵まれなかったのか?』 


大阪市中央区 大阪城


去年の今頃、大阪城の3Ⅾマッピングを見に行きました。
残念ながら今年は中止だそうです・・・
http://www.asahi.com/articles/ASH9B5DJMH9BPTIL01G.html

大阪城 3Ⅾマッピング 1 

長いことgifアニメの位置合わせのやり方がわからなかったんですが、こちらの記事にやり方が書いてありました。http://pselements12.blogspot.jp/2013/10/gif_30.html
私が使っているのはフォトショップエレメンツ13ですが、同じやり方でできました♪

ただ微妙にずれることもあるので、やはり1枚1枚調節する方法を見つけたいです。

大坂城3dマッピング 5  

●子宝に恵まれなかった豊臣秀吉

大阪城は豊臣秀吉が築いた城で、地元では『太閤さん(秀吉のこと)の城』と言われているそうです。
(1959年の調査で城跡に現存する櫓や石垣は江戸幕府によって建てられたものであることが明らかになったのですが~)

豊臣秀吉はたいへんな女好きで、多くの側室を持っていました。
ところが正室ねねとの間に子供はできず。
側室・南殿との間に秀勝をもうけたともいいますが、秀勝は幼くして亡くなっています。(実在していなかったという説も)
側室・茶々との間に鶴松と秀頼をもうけていますが、鶴松も幼くして死亡。
秀吉亡きあと、秀頼が跡をついで大阪城に住んでいましたが、大坂の陣で江戸幕府軍に攻められ自殺して果てました。
23歳という若さでした。
こうして豊臣家は滅亡してしまいました。

秀吉が多くの側室を持っていたにもかかわらず子宝に恵まれなかったのは、秀吉が男性不妊症であったからではないかとも言われています。
「秀頼も秀吉の子ではない」とする説もあります。

単なる可能性としての話ですが(汗)、秀吉は肥後ずいきを愛用していたため子供ができなかったなんてこともあるのではないか、と思ったりします。

大阪城 3Ⅾマッピング2

●すいき神輿は秀吉の霊が乗る御神輿だった?

秀吉と肥後ずいきの話はこちらの記事に書きました。 北野天満宮 瑞饋祭 『瑞饋祭は肥後ずいき祭?』 
記事の内容をまとめておきます。
 
①秀吉は1587年に北野天満宮で北野大茶会を行ったが、10日間の予定がたった一日で茶会は中止になった。
中止になった理由は、初日の夕方に肥後国一揆がおこったためという説が有力。

②秀吉は肥後を朝鮮や明国への出兵の基地にしようと考え、佐々成政を肥後の領主に任命して『太閤検地』を実施させていた。
その佐々成政に対して肥後北東部の国衆(土地を所有し、民政・軍政を担当していた戦国領主)が一揆をおこした。
秀吉は肥後国に約二万人の軍勢を送り込み、ほとんどの国衆たちは殺された。

③秀吉は1592年に朝鮮出兵を行うが失敗。

④1598年、秀吉は死亡し豊国大明神の神号を与えられる。

⑤1607年、秀吉の後継者の秀頼が秀吉の遺志をついで北野天満宮の本殿をたてる。
この年、北野天満宮の祭礼で初めてずいき神輿(ずいきなどの乾物で作った神輿)が作られた。
ずいき神輿に乗っている神は天神さん(菅原道真)ではなく、豊国大明神=豊臣秀吉ではないか。

北野天満宮 ずいき神輿


⑥秀吉が軍勢を送った肥後の国には『肥後ずいき』という名物がある。
誰かが肥後すいきを女好きの秀吉のおみやげに持ち帰ったのではないか。

大坂城3dマッピング 4  

●アルカロイドとサポニン


肥後ずいきとはハスイモを干して干瓢のように細長くしたものです。
(何に用いるものなのかは、各自で調べてください~笑。)
原材料であるハスイモにはサポニンという成分が含まれています。

http://マカ効能.com/seibun/entry26.html
↑ 上記サイトはマカに含まれるサポニンついての説明文ですが、次のように記されています。


サポニンはアルカロイドによく似た成分の1つです。多くの植物に含まれていることも、効能がある代わりに時には毒性があることも同じです。 
http://マカ効能.com/seibun/entry26.html より引用)

江戸時代には堕胎薬としてほおずきが用いられていたそうです。
陰干ししたほおずきを水でふやかし膣内に入れると、ほおずきに含まれるアルカロイドの成分によって胎児が腐るのだとか。

サポニンにアルカロイドに似た成分があるのであれば、サポニンを含む肥後ずいきにはある程度の避妊効果があったのではないかと思ったりするのですが、どうでしょう?

医薬品の知識にたけた方、教えてください~!

マカであればサポニンなどの有効成分の効能によって精子そのものの量を増やすので・・・・
http://マカ効能.com/seibun/entry26.html より引用)
とありますが、これは服用した場合のことですね。

大阪城 3Ⅾマッピング 2

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[2016/02/18 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 どやどや 『歯ブラシと牛玉宝印の関係』 

大阪市天王寺区 四天王寺
どやどや・・・1月14日

四天王寺 どやどや 

1月に行われる法会のことを修正会(しゅしょうえ)といい、その結願には様々な行事が行われます。
追儺式を行うところもありますが、「どやどや」のような裸祭も修正会の結願に行われることが多いようです。

同日、京都の法界寺では「裸踊り」が行われています。

法界寺 裸踊り 

上の写真は法界寺の裸踊りです。

四天王寺の「どやどや」は天井から撒かれる牛玉宝印を取り合う行事です。
一方、法界寺の裸踊では牛玉宝印が撒かれることはなく、頂礼頂礼(ちょうらいちょうらい)と言いながら、手を上にあげ、おしくらまんじゅうのように体を押し付け合います。

牛玉宝印を撒く撒かないの違いはありますが、法界寺裸踊りと「どやどや」はしぐさがそっくりです。

私は法界寺裸踊りもかつて牛玉宝印のようなものを天井から撒いていたのではないかと考えています。
それがいつのことが牛玉宝印が撒かれなくなり、牛玉宝印を奪い合うしぐさだけが「裸踊り」として残ったのではないでしょうか。

四天王寺 どやどや 

牛玉宝印を奪い合う少年たちに柄杓で水がかけられます。
おそらくこれは水垢離の名残ではないかと思います。

やはり「どやどや」に似た行事に岡山県西大寺の「会陽」がありますが、「会陽」では垢離取場で水垢離を行います。
http://www.saidaiji.jp/website/eyou-activity
また法界寺裸踊りでも水垢離を行っています。
「どやどや」では牛玉宝印争奪戦と浄めの水垢離がいっしょくたにされているのではないでしょうか。

現在の「どやどや」では天井から「牛玉宝印」を投下していますが、
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kenmin/eyo/eyo-jisya-osaka01.htm
↑ こちらのサイトによれば、戦前の「どやどや」では数百本の楊枝とよばれるコリヤナギの枝を投下していたと書いてあります。
そしてその楊枝の先端に牛玉宝印が結び付けられていたようです。

おそらく、枝の投下は危険であるとして牛玉宝印のみ投下するようになったのではないでしょうか。

楊枝とは総楊枝(ふさようじ)、つまり昔の歯ブラシのことだと思います。
日本で現在のような歯ブラシが用いられるようになったのは大正時代のころからで、それまでは総楊枝が用いられていました。
総楊枝は細い木の枝で、この枝の片端をブラシのように噛み裂いて用いていたようです。
釈迦が楊枝を用いていたと記した文献もあり、ずいぶん昔からあったようです。

四天王寺 どやどや2


それにしても、なぜ楊枝に牛玉宝印を結び付けて投下していたのでしょうか?

牛玉宝印とは護符の一種ですが、もともとは漢方薬の五黄を水で溶いて文字を書いていたようです。
皇室には『牛玉宝印は水に溶かして飲む』と伝わっているそうです。
牛玉宝印は薬だったのです。

そして四天王寺で戦前のどやどやに用いられていた楊枝はコリヤナギでできていました。
柳の樹皮には痛みどめの効果があるサルチル酸が含まれています。
この楊枝で歯を磨くと歯痛が抑えられたのかもしれませんね。

つまり、牛玉宝印もコリヤナギで作られた楊枝も薬であったのです。



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[2016/01/17 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

神津神社 十三戎(とみえびす) 『トミヒコと土左衛門と戎の関係』 

大阪市淀川区 神津神社
十三戎(とみえびす)祭・・・http://kamitsujinja.ec-net.jp/tomiebisu.html

十三戎 獅子舞 道中 

大阪のえべっさんといえば今宮戎ですね。
昭和31年、神津神社はこの今宮戎神社の神を勧請し、十三戎(とみえびす)祭を行うようになったそうです。
十三戎というのは、神津神社が十三(じゅうそう)の地に鎮座しているところから命名したのでしょう。

残り福の1月11日に行ってきました。
今宮戎のように大勢の参拝者があるというわけではありませんが、獅子舞の奉納などがあり、とても楽しかったです。
えべっさんの穴場的スポットだと思います~♪

 十三戎 獅子舞 道中3


さてさて十三(じゅうそう)とは変わった地名ですが、神津神社のhphttp://kamitsujinja.ec-net.jp/jusonoyurai.html に「十三の由来」について6つの説が紹介されています。

①十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目だった。
②重蔵(じゅうぞう)という長者が加島へ遊びに行くとき十三の渡し付近に舟をつないでいたため、「重蔵の舟つなぎ場」から「十三」に転じた。
③十三塚があった。
④条里制の十三条だった。
⑤十は「つつ」三は「み」で「つつみ(堤)」の意味である。
⑥淀川の南浜にかつて富島の庄があり、今も富島神社がある。富島の富(とみ)が十三(とみ)に転じたのではないか。

この中で私が注目しているのが②重蔵説と⑥富島説です。

十三戎 獅子舞 蝶 

読み方は違いますが十三と記す地名にに十三湖(じゅうさんこ/青森県津軽半島西岸)という湖があります。
中世、十三湖のほとりには十三湊(とさみなと)があり、安部氏・安藤氏の拠点として栄えました。

安部氏はナガスネヒコの兄・アビヒコを祖とする氏族です。

ナガスネヒコとは古事記や日本書紀に登場する人物で、現在の大阪あたりに住んでいました。
ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていました。

ニギハヤヒは物部氏の祖神であり、初代神武天皇より早く畿内に天下っていました。
ここから機内には神武天皇以前に物部王朝があったとする説があります。
ナガスネヒコもまた物部氏だった可能性が高いと思います。

神武天皇は九州から東征して機内入りし、ニギハヤヒは神武に服してしまいます。
一方ナガスネヒコは神武に抵抗を続けるのですが、なんと自分が神とあがめていたニギハヤヒによって殺されてしまうのです。
 
安倍氏の祖・アビヒコはそのナガスネヒコの兄だとされています。
 
安倍氏とともに十三湊を拠点としていた安藤氏は、安倍氏の安倍貞任の子孫を称しています。
なので遡れば安藤氏もアビヒコにまで繋がります。

アビヒコは神武が東征して機内を征服した際、ナガスネヒコとともに津軽に逃れたとか、単独で津軽に流罪になったなどと言い伝えられています。
ナガスネヒコが物部氏だったとすると兄のアビヒコも物部氏でしょう。

十三戎 獅子舞 

そしてナガスネヒコは別名をトミヒコともいいました。
トミヒコのトミは十三戎の十三(トミ)と同音です。

大阪の十三(じゅうそう)や十三湊(とさみなと)という地名はアビヒコの弟・トミヒコ(ナガスネヒコ)のトミが語源なのかもしれませんね。
つまり、トミヒコのトミに十三という漢字をあて、さらに十三を「じゅうそう」とか「とさ」と読み替えたのではないかということです。
また淀川の南浜にあった富島という地名もまた、トミヒコからくる地名なのではないでしょうか。

そして石川県には重蔵神社があります。
十三(じゅうそう)の地の由来に②重蔵説があったのを思い出してください。
石川のあたりもナガスネヒコ(トミヒコ)と関係する土地であり、神社名が語呂合わせでトミ→十三→重蔵となったのではないでしょうか。
トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう(十三)/とさ(十三)→じゅうぞう(重蔵)

さらに水死体のことを土左衛門といいます。
その語源は享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が、大変な肥満体で体の膨れ上がった水死体ににていたためであるなどと言われています。
しかし、この説が絶対正しいとはいいきれません。
語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/to/dozaemon.html)にも、「正確な語源は未詳」と記されています。
私は水死体のことを土左衛門というのは、やはりトミヒコからくるのではないかと思います。
トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう/とさ→どざえもん(水死体)

つまりトミヒコとは土左衛門(水死体)ではないか、ということです。

 十三戎 お神酒を飲む獅子


と、ここまでは過去記事にすでに書きました。
詳しくは下記記事をお読みいただけると嬉しいです。
能登の旅③ 輪島大祭(重蔵神社)  『トミヒコ→十三(とみ)→十三(じゅうそう)→重蔵(じゅうぞう)』 
能登の旅④ 御陣乗太鼓 『水死体→土左衛門(どざえもん)→どざ→十三→じゅうぞう→重蔵』 

さて、続きにいきましょう~!
長くなってしまいますが、ご容赦を!

水死体のことをエビスという地域があります。
エビスとはイザナギ・イザナミ夫婦が最初に産んだ子供のことです。
ところがエビスは3歳になっても立つことができない身体障害児であったので、イザナギとイザナミはエビスを海に流してしまうのです。

西宮神社の社伝では海に流されたエビスは海神のいる竜宮へ流れ着いたとしていますが、3歳で身体障害児のエビスがたどり着いた竜宮とは死の世界のことでしょう。
エビスは水死体だったのです。
それで水死体のことをエビスという地域があるのでしょう。

そしてえべっさん(エビス)は足が悪いだけでなく、耳も悪いとされ、よく聞こえるように神殿の後ろを叩いてお参りするという習慣があります。

また奈良の春日大社にある榎本明神も耳が悪いので、柱をたたいて参拝する習慣があります。
えべっさんと榎本明神は同一神なのではないでしょうか。

堀川戎神社境内には榎本神社とは一字違いの榎木神社があります。
榎木神社は榎木の大木の下に住む吉兵衛という狸を祀る神社です。

私は吉兵衛とは物部守屋のことではないかと考えています。
というのは物部守屋は蘇我馬子や聖徳太子と戦って、榎木の上で戦の指揮をとっていたところを弓で射落とされて死んだからです。
エビス=物部守屋
(参照/堀川戎神社 福娘 しころ 『えべっさんの正体』 

えびすは海で溺れて死んだんやろ、物部守屋は榎木にいるところを弓で射られて死んでるやん。
死に方が違うやん、えびすと物部守屋は同一神とは言えないやん、と言われるかもしれませんね。

私は昔の人は根の国(黄泉の国と同じ死の世界だと考えられています)と竜宮はどちらも死の国だと考えていたのではないかと思います。
記紀には根の国にスサノオが住んでいたという記述がありますが、イザナギがスサノオに「大海原をおさめよ」と命じているところから竜宮に住む海神とスサノオは同一神だと考えられているからです。
根の国(黄泉の国)には暗いイメージがあるのに対し、竜宮には明るいイメージがありますが。
竜宮とは天国のようなところであると考えられていたのだと思います。
つまり、水死体とは死後、竜宮(天国)に行った人のことを、比喩的に言ったものではないでしょうか。

ここで、トミヒコが物部氏だった可能性が高いことを思い出してください。
トミヒコと物部守屋はどちらも物部氏であり、どちらも天皇家と闘って負けているところから、両者のイメージは重ねられているのではないでしょうか。

エビス=物部守屋=トミヒコ=土左衛門=水死体=エビス

神津神社が昭和31年に今宮戎を勧請して十三戎祭を行うようになった背景には
十三がトミヒコにちなむ地名であり、トミヒコとエビスが同一神であるという認識があったのかも?

 

 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



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[2016/01/15 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

今宮戎神社 十日戎 宵宮祭『えべっさんの正体②』 

大阪市浪速区 今宮戎神社
宵宮祭・・・1月9日 
http://www.imamiya-ebisu.jp/%e5%b9%b3%e6%88%9028%e5%b9%b4%e5%ba%a6%e3%80%80%e3%80%8c%e5%8d%81%e6%97%a5%e6%88%8e%e3%80%8d%e8%a1%8c%e4%ba%8b%e4%b8%80%e8%a6%a7


今宮神社 十日戎 宝恵駕籠

去年、堀川戎神社 福娘 しころ 『えべっさんの正体』  という記事を書きました。

えべっさんは耳が悪いので、よく聞こえるように神殿の後ろをたたいて参拝するという習慣があります。
そして奈良・春日大社にある榎本神社も耳が悪いので、柱をたたいて参拝する習慣があります。
えべっさんと榎本の神は同一神ではないでしょうか?

そして堀川戎神社の境内には榎木稲荷神社があります。
榎木と榎本は横棒が一本あるかないかの違いしかありません。
榎木稲荷神社の神と、榎本神社の神は同一神ではないかと私は思います。

天満堀川の堀止めのそばに榎木の大木があり、その木の下に住む吉兵衛という老狸が住んでいたという伝説があります。
そこに本殿をたてたのが榎木神社だと言われています。
1839年、榎木神社と堀川戎神社末社の稲生神社の分霊が合祀され
明治40年に榎木神社と堀川戎神社が合併されて、榎木神社は現在地に遷宮しています。

全く関係のない神を合祀したりはしないんじゃないかと思うんですね。
戎神と榎木の神=吉兵衛が同一神だという認識を昔の人々は持っていたため、合祀したのではないかと思います。

今宮戎神社 十日戎 福娘2 
春日大社にある榎本神社の御祭神は猿田彦神です。
日本書紀には猿田彦は『高天原から葦原中国までを照らす神』だと記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒです。
天照国照彦の天とは高天原、国とは葦原中國のことなので、「天照国照彦」とは『高天原から葦原中國までを照らす神』という意味となります。
猿田彦神とニギハヤヒは同一神なのでしょう。

ニギハヤヒは物部氏の祖神ですが、587年廃仏派の物部守屋は崇仏派の聖徳太子や蘇我氏戦った際、榎の上にいたところを矢で射られて死んでいます。
榎本神社とはこの物部守屋を祀る神社なのではないでしょうか。
そして榎木の大木の根本に住む狸の吉兵衛とは物部守屋の霊なのではないでしょうか。

今宮戎神社 十日戎 宝恵駕籠2 
587年、物部守屋は榎の上にいるところを矢で射られて死んだという伝説がありますが
この戦いの中で対する聖徳太子はやはり矢で射られそうになったのですが、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。
聖徳太子と物部守屋の伝説は対比しているようです。

聖徳太子は一度に10人の言うことを聞き分けたという伝説もあります。
これは聖徳太子が大変耳がよかった、ということでしょう。
聖徳太子と物部守屋の伝説が対比して作られたとするならば
物部守屋は耳が悪かった、ということになり、耳の悪いえべっさん(恵比寿神)の正体とは物部守屋だということになるのではないかと思うのです。

今宮戎神社 十日戎 宝恵駕籠3jpg

今宮戎神社は推古天皇代に聖徳太子が四天王寺を建立されたとき、西の鎮護として祀られたことに始まるそうです。
その四天王寺には物部守屋を祀る守屋祠があります。


四天王寺 守屋祠


四天王寺は聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢を没収して建てたお寺です。
守屋祠は四天王寺の鎮守の神なのではないでしょうか。

とすれば、西の鎮護として祀られた今宮戎神社の神も物部守屋なのではないか、と思ったりします。



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[2016/01/09 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

OSAKA光のルネサンス 2015 『日本でBLがたしなみとされたのはなぜ?』 

OSAKA光のルネサンス2015
 
中の島図書館 ウォールタペストリー3

↑ 中の島図書館で行われるウォールタペストリーを見るために45分も行列に並びました~。
でもそのかいあって、素晴らしい映像を見ることができましたよ。
三脚は禁止の上、動きが早いのでISO12800で~。 ↓

中の島図書館 ウォールタペストリー2 

中の島図書館 ウォールタペストリー 

↓ 中央公会堂ではプロジェクションマッピングが行われていました。

中央公会堂 光のルネサンス 
歌舞伎の見得(みえ)ですね。オモシロイ♪

中央公会堂 光のルネサンス 歌舞伎 

歌舞伎のルーツは出雲阿国(1572年~?)が行った「かぶき踊り」だとされます。
その後、遊女歌舞伎が全国で行われるようになったそうです。
現在では歌舞伎役者さんは男性ばかりですが、もともとは女性が演じるものだったのですね~。
また、若衆が演じる若衆歌舞伎なども行われていたそうです。
若衆とは衆道(男色のこと)で受け手の側の少年のことです。

これらの歌舞伎はエロチックな内容のものであったそうで、遊女や若衆をめぐる喧嘩や刃傷沙汰が絶えず、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は江戸幕府によって禁止とされてしまいました。
そして野郎頭の青年男子を役者とする野郎歌舞伎が行われるようになったそうです。
野郎頭とは前髪を落として月代(さやかき・・・頭頂部の髪を剃ったもの)を剃った髪型のことで、江戸時代には元服のときにさやかきを剃る習慣がありました。

それにしても、遊女をめぐる喧嘩というのはわかりますが、若衆をめぐる喧嘩が絶えないとは・・・
戦国武将にとって衆道はたしなみであったなどともいいますし、古の日本の殿方たちはなぜこんなにもBLに走ってしまったのでしょうか?

日本のBLは僧が稚児を寵愛する習慣があったことから広まったと考えられています。

でも、私はそれだけではなく、重陽の節句が関係しているのではないか、と思ったりするのです。

古には奇数は陽の数字、偶数は陰の数字だと考えられていました。
そして月と日が同じ一けたの陽の数字になる日(1月7日/1月1日は元旦なので7日とされたのかも?・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)は節句としてお祝いする習慣がありました。
中でも9月9日は、一けたの陽の数字としては最大の数字となるため、重陽の節句として盛大に祝われたそうです。

京都の法輪寺では重陽の節句に菊のしずくを飲んで700歳の長寿を得た菊滋童の舞が行われます。
また菊の花に真綿をかぶせ、この綿についた露を顔にあてると不老長寿になるなどとも信仰されていました。
重陽の節句は不老長寿を願う日であったようです。

どうもこの菊滋童ってBLの匂いがするんですよね~。
菊自体がBLのシンボルですし、菊滋童は帝より法華経の句を書いた枕を賜っているんですね。
帝から枕をもらうというのは、帝の菊滋童がBLの関係であったということなのではないでしょうか?

さきほど奇数は陽の数字、偶数は陰の数字だといいましたが
陰陽道では男は陽、女は陰です。
男と男が重なるBLはまさしく重陽ではありませんか。
つまりBLをたしなむことは不老長寿の呪術だったのではないかと思うのです。


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[2015/12/29 00:38] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

イルミナイト万博-Xmas- 『岡本太郎さんの芸術論を斬らせていただきます。』 

miniさん に「イルミナイト万博-Xmas-」を教えてもらったので行ってきました♪(ありがとうございます!)
イルミナイト万博-Xmas-は今日(12月27日)までです。

イルミナイト万博 Xmas

太陽の塔は、1970年のEXPO'70・大阪万博)のシンボルとして建てられました。
「芸術は爆発だ!」で知られる岡本太郎さんの代表作ですね。

イルミナイト万博 xmas2 

塔百景69


岡本太郎さんの芸術論「日本の伝統(知恵の森文庫)」を読みました。
岡本さんは素晴らしい芸術家だと思います。
ですが申し訳ないのですが、この芸術論は同意しかねました。

この本の中で岡本さんは『古都遍歴』を著した竹山道雄さんの文章を批判しておられます。
岡本さんが批判したのは法隆寺の中門について記した竹山さんの次のような文章です。

「この路をまっすぐに行けば、あの中央の柱につきあたってしまう。
行く手の門は、なかば人を通すようでもあり、通さぬようでもある。
門でありながら塞いでいる。
招じ入れる入り口でありながら拒否している。
・・・・さながらこういっているかのようである。
ここは門である。しかし、なんじがこれを入ることはできぬ。」
(竹山道雄『古都遍歴』より引用)


岡本太郎さんはこれを次のように批判されています。

いったいこの先生は、どんな仕かけの門をほかに知っているというのだろうか。
ただの開放的な通路にはふつう門はつけないものです。
だからとうぜんあらゆる門が閉鎖をも暗示している。
どんな門だって、招くと拒否するという二重の機能をそなえています。
それが門というものなのです。
(こんなバカバカしい説明をしなければならないとは!)
(岡本太郎『日本の伝統(知恵の森文庫)p48より引用)

一般的な門は奇数間に造られます。
しかし法隆寺の中門は一般的なものとは違い、偶数間で作られています。
そのため、門の中央に柱があるという珍しい構造になっています。

法隆寺 中門 五重塔法隆寺 中門
 
竹山さんは法隆寺中門の特殊性に着目したわけですが、
岡本さんは門の中央に柱があろうとなかろうと、柱ごときに意味などないと思っておられるのかもしれません。

しかし、私は竹山さんの観察眼と感性のほうを支持します。

梅原武さんは著書『隠された十字架』において、『門に柱を立てれば閂である』として、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺であるとされました。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって自殺し、聖徳太子の血は絶えてしまいました。
そのため聖徳太子は怨霊になったのではないかというのですね~。

イルミナイト万博 xmas 3

法隆寺西院の本堂には日本最古の四天王寺像が、東院・夢殿には聖徳太子等身大の像とされる救世観音像があります。

仏像の光背は足元に立てた棒にとりつけるのが一般的ですが、法隆寺の四天王像や救世観音は光背が頭に直接打ちつけられています。
梅原武氏は四天王像や救世観音は怨霊封じのために光背が頭に打ちつけられてるのではないかとおっしゃっています。
丑の刻参りで藁人形の頭に釘を打ち込むのとおんなじではないか、というのです。

また、救世観音は長い間秘仏とされとって、救世観音を安置する夢殿はあけると大地震がくると怖れられて長年開扉されたことがありませんでした。
明治になってフェノロサが夢殿を開いたとき、法隆寺の僧侶たちは大地震がくると怖れて逃げていったそうです。

竹山氏は法隆寺の門に『参拝者の拒否』を感じておられますが、梅原氏の説によれば法隆寺の門は『聖徳太子の怨霊が外に出ることを拒否』する門だということになります。

そうではありますが、法隆寺の門の呪術的仕掛けに気づいた竹山氏の感性はたいしたものだと思うのです。


ガンダム 

ららぽーとエキスポシティにはガンダムとシャア専用ザク(あってます?ガンダム見たことないんで~)がいました。
かっこいいですね~♡


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[2015/12/27 13:12] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪光のルネサンス 『一言主大神は日本版イエス・キリストだった?』 

『OSAKA 光のルネサンス2015』についてはこちらをご覧ください。→ http://www.hikari-kyoen.com/renaissance/index.html 
写真は今年のものではなく、過去に撮影したものです。

中央公会堂 光のルネサンス
中央公会堂

前回の記事、京都駅ビル クリスマスイルミネーション2015 『双子のトリック』 で次のようなことをお話ししました。
①イエス・キリストには双子の弟がいた。
②十字架に磔になって死んだのはキリストの双子の弟だったとする説がある。
③キリストが死の直前に叫んだ、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか)』と訳されている。。
『エリ』とはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈された。
この『エリ』(『高い』『より上にある』)とは『神』ではなく、『兄』のことではないかとする説がある。
④キリストは死後3日後に生き返ったとされるが、死んだのは双子の弟であった。キリストの復活は双子のトリックだった。

去年の記事、京都駅ビル クリスマスイルミネーション 2014 『イエス・キリストは太陽神だった。』 では次のようにお話ししました。

①聖書にはキリストの誕生日についての記述はない。
②クリスマスはミトラ教の冬至祭を、キリスト教が取り入れたものだといわれている。
③古代ローマ人が信仰していたミトラ教では、冬至から3日目の12月25日に冬至祭を行う習慣があった。
④冬至とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことである。
その後3日間、太陽は低い位置にとどまったままだが、3日後から再び南中高度をあげていく。
⑤ミトラ教では太陽が南中高度をあげていく25日に太陽の復活を祝って冬至祭を行っていたのではないか。
⑥地球の自転軸が約25800年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ので、古代ローマでは南十字星が見えていた。
とはいえ、古代の地中海沿岸地方で観測される南十字星の南中高度は低かったはずである。
冬至のころの太陽は南中高度が低くなり、南十字星の高度に近づく。
⑦イエスは太陽、イエスが磔になった十字架は南十字星、イエスが死後3日目に復活したのは冬至から3日目に太陽が再び上昇を始めることを比喩したものだとする説がある。

中の島図書館 光のルネサンス
 中の島図書館


日本でも各地で冬至祭が行われています。
一言主神社 一陽来復祭 『一言主大神は木霊(山彦)だった?』 
↑ この記事は奈良の一言主神社の一陽来復祭について記したものです。
一陽来復とは冬至のことです。

一言主神社 一陽来復祭 一言主神社 一陽来復祭


この記事の中で次のような伝説をご紹介しました。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 


私一言主大神とは木霊(山彦)のことだと考えていますが、雄略天皇の双子の兄弟であるともいえます。
雄略天皇と同じいでたちをし、同じ言葉を返してくるのですから。

中の島薔薇園 光のルネサンス 
中の島薔薇園


一言主大神は雄略天皇を長谷まで送っています。
これは一般に、一言主大神と雄略天皇が仲良くなったことを表すものととらえられているようです。
でも、私はそういうことではないと思うんですね。

長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』ですが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。
『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないでしょうか。

つまり、一言主大神は雄略天皇を殺し、死の国へ送っていったということではないかと思うのです。

一言主神社は冬至と関係の深い神社であることをふまえると、次のように考えることができるのではないでしょうか。
雄略天皇・・・・キリストの双子の弟・・・冬至に向かって衰えていく太陽
一言主大神・・・キリスト・・・・・・・・冬至から3日後より勢いを増していく太陽


中央公会堂 光のルネサンス2
中央公会堂

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[2015/12/24 12:06] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

石津太神社 やっさいほっさい 『やっさいほっさいの意味』 

大阪府堺市 石津太(いわつた)神社
やっさいほっさい 12月14日 

石津太神社 やっさいほっさい 獅子舞

今年は獅子舞の奉納もありました。
 

石津太神社 やっさいほっさい 火渡 
火渡りが始まりました!

『日本最古の戎社』を称する石津太神社には次のような伝説があります。

蛭子がここに到着した際、漁師たちが108束の薪を燃やして、蛭子を暖め、手当をしました。


『やっさいほっさい』はこれを再現したものとされ、蛭子役の氏子さんを担いで火の中を走り抜けるという神事です。
火はかなり鎮まっているのですが、氏子さんたちが走り抜けるとものすごい火の粉が舞い上がります。

石津太神社 やっさいほっさい 火渡3 
『やっさいほっさい』という言葉は108束が訛ったものだと言われています。

千葉県木更津市では8月14日に『やっさいもっさい踊り』というイベントが行われているそうです。
『やっさいもっさい』は『やっさいほっさい』に似ています。
『やっさいもっさい』とは『そこのけ、そこのけ』という意味なのだそうです。

『やっさいほっさい』は『やっさいもっさい』と同じく、『そこのけ、そこのけ』という意味なのかも?

蛭子神社の総本社の西宮神社(兵庫県西宮神社)付近ではかつて1月9日夜には蛭子神が市中を廻られるので、忌篭りをする習慣があったそうです。
住民たちが忌篭りをするのは、蛭子神が『そこのけ、そこのけ』と言いながら市中を廻られるからだったりして?

そして12月14日の石津太神社の神事はまさに蛭子神がお渡りになる様子を表したものです。
蛭子神は火の中を渡りながら『そこのけ、そこのけ』とおっしゃっているのかも。

石津太神社 やっさいほっさい 火渡2 
↑ 上の写真はずいぶん前にフィルムで撮ったものです。



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



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[2015/12/15 15:19] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 経供養 『採桑老を舞うと死ぬ?』 

10月22日 四天王寺 経供養

587年、廃仏派の物部氏vs崇物派の蘇我氏の戦争がありました。
聖徳太子は蘇我氏側に参戦していました。
戦争は蘇我氏が勝利し、聖徳太子は物部氏から没収した土地と奴婢をもちいて四天王寺を建てました。

四天王寺 桜紅葉 


2月22日は聖徳太子の命日です。
そのため四天王寺では22日を縁日として様々な行事を行っています。
10月22日の経供養ははじめてお経が日本に伝来したことにちなんで行われています。

通常であれば太子殿の庭で舞楽が奉納されるとのことですが、私が行ったときは小雨が降っていたため庭ではなく太子殿前殿で行われました。

四天王寺 経供養2 
ひときわ異彩を放つ舞がありました。
『採桑老(さいそうろう)』です。

四天王寺 経供養 採桑老

顔面しわだらけの面を被った老人が杖をつき、介添え人につきそわれて登場。

四天王寺 経供養 採桑老2 

老人は不老不死の薬を探し求めて舞います。
この舞はめったに舞われることのない幻の舞と言われているそうで、見ることができてラッキーでした。
なぜめったに舞われることがないのかと言うと、この舞を『舞うと死ぬ』と言い伝わっているからなのだとか!

この舞は唐のころに作られたとか、百済国の採桑翁をモデルに作られ、用明天皇(聖徳太子の父)の御代に大神公持(おがのきんもち)が伝えたなどと言われています。
その後、京方(10世紀ごろより、京方・天王寺方・南都方の3つの楽所がありました)の多家(おおのけ)が伝承しており、いったん途絶えたこともあったのですが、堀河天皇が天王寺方の秦公貞(はたのきんさだ)に命じて継承させたとのことです。
採桑翁は天王寺方と関係の深い舞だったのですね。
その後、旧暦2月22日の聖徳太子の命日の法要である聖霊会において何度か舞われた記録があります。

採桑翁では舞の途中で漢詩を唱えます。
四天王寺の経供養を見に行って写真を撮影したのは随分以前のことなので、漢詩を唱えたのかどうか、記憶にないのですが(汗)その漢詩とは次のようなものです。

三十情方盛 四十気力微 五十至衰老 六十行歩宣
七十杖項栄 八十座魏々 九十得重病 百歳死無疑

三十情方盛・六十行歩宜・七重杖項栄・八十座魏々はすいません、意味がわかりません。(わかる方、教えてください!)
四十気力微は「40歳は気力微かなり」、五十至衰老は「50歳で老い衰える」、九十得重病は「90歳で重病を得る」、百歳死無疑は「百歳で疑いなく死ぬ」でしょうか?

九十と百は縁起が悪いので唱えらえなかったそうです。
「採桑老を舞うと死ぬ」と言われるのはそのためではないかとする説もあります。

採桑老は唐または百済で作られたといわれていますが、日本に伝わり、天王寺方に継承され聖徳太子の命日に行われる四天王寺の聖霊会で舞われることで、採桑老に聖徳太子のイメージが重ねられたのではないかと思います。

梅原猛さんは聖徳太子は怨霊だといっておられます。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えたもののことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていました。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって死にました。
そのため聖徳太子は怨霊になったと梅原氏はおっしゃっています。

「採桑老を舞うと死ぬ」といわれるのは、聖徳太子の怨霊の祟りがあると考えられたからかも?




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[2015/10/22 01:14] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

岸和田だんじり祭 『吉兵衛の霊が駆け抜ける!』 

岸和田だんじり祭 流し撮り 
岸和田だんじり祭を流し撮りで撮ったのですが、背景のゴルフ練習場の網のぼけ方が不十分でしたー。
そこでフォトショップで流し撮り風の加工をしてみました(汗)


えべっさん(恵比寿天)は耳が悪いといわれ、よく聞こえるように神殿の後ろをたたいてお参りするという習慣があります。

なんでえべっさんは耳が悪いと言われているのでしょう?

大阪市北区にある堀川戎神社には榎木稲荷神社があり、社殿はだんじりの形をしています。
そして次のような伝説が伝えらえています。

榎木稲荷神社 

かつて天満堀川の川べりの榎の根元に老狸の吉兵衛が住んでおり、夜な夜なだんじり囃子を奏でていました。

1839年、その地に榎木稲荷神社が創建され、堀川戎神社末社の稲生神社の分霊が合祀されました。
その後明治40年に堀川戎神社に遷座しました。


榎木という名前から、私は物部守屋を思い出します。
587年、神道派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子や聖徳太子と闘い、榎の木の上で指揮をとっていたところを弓で射落とされて死亡したとされます。

初戎にお参りする習慣は特に関西で盛んですが、守屋の本拠地は現在の大阪でした。
大阪四天王寺は守屋の土地を没収して聖徳太子が建てたものですし、森ノ宮という地名は守屋の宮からくるという説もあります。

四天王寺 桜紅葉 
↑ 四天王寺 桜紅葉 塔百景57

四天王寺 守屋祠 
↑ 四天王寺には物部守屋を祀る守屋祠もあります。

榎木明神(榎稲荷神社の神)とは物部守屋のことではないでしょうか。


日本書紀において、聖徳太子は陽、物部守屋は陰として描き分けられているのではないかと私は思います。

聖徳太子は587年の戦いで弓で射られたとき、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。


大聖将軍寺 神妙椋樹 

↑ 大聖将軍寺にはこの伝説をあらわした神妙椋樹があり、椋の木のほらの中に聖徳太子像が置かれています。

一方、守屋は榎の木にいるところを弓で撃ち落とされて死亡したとされます。

椋の木は太い幹を持ち、中にほらができやすいそうです。
一方榎は根元から枝分かれしやすいので幹が太くならず、ほらができにくいとのこと。

また、聖徳太子はこのときまだ13歳、守屋は生年不詳なのではっきりしたことはわかりませんが熟年であったと考えられます。

聖徳太子は1度に10人の言うことを理解することができたというほど耳がよかったといわれます。
聖徳太子と物部守屋が陰陽に描き分けられているのであれば、耳が悪いえべっさんとは守屋のことではないでしょうか。

;陽・・・聖徳太子・・・少年・・・弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた・・・耳がいい
陰・・・物部守屋・・・熟年・・・弓で射られて死亡した・・・耳が悪い?


一般的に稲荷神は狐とされていますが、四国では狐はいないといわれ(実際にはいる)稲荷神は狸とされているそうです。
空海が狸を四国に解放した、などとも言われます。

神はその現れ方で、御魂・和魂・荒魂の3つに分けられ、女神は和魂、男神は荒魂をあらわすとする説があります。

信楽駅の狸 

信楽焼きの狸はたいてい男です。
そして狐が女性に化けるという話はよく聞きますが、男性に化けたとは聞きません。

つまり、狸は男神で荒魂を、狐は女神で和魂を表しているのではないでしょうか。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・狐
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・狸


とすれば、榎木明神は男神であり、荒魂だということになります。
そして榎木明神=物部守屋=狸の吉兵衛ということになるので
吉兵衛が夜な夜なだんじり囃子を奏でていたというのは、荒魂である守屋の霊がだんじり囃子を奏でていたということになります。

大阪にはたくさんのだんじりがありますが、中でも岸和田のだんじりが有名です。

岸和田 だんじり祭 流し撮り2


ちょっとぶれぶれですかね~?(汗)

だんじりのルーツは京都祇園祭の山鉾だといわれますが
祇園祭の山鉾がゆっくりと巡行するのに対し、大阪のだんじりはものすごいスピードで駆け抜けていきます。
これはだんじりに乗っている神様(榎木明神=物部守屋=狸の吉兵衛)が荒魂であるからではないでしょうか。

そして岸和田の昔話にも吉兵衛という男の昔話が伝えられています。
御祭岸和田市のhphttps://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/3/mukashi5-12-danjirikichibe.html
上記にはよれば、次のような話が記されています。

昔、現在の岸和田市並松町あたりに吉兵衛というだんじり好きの男のもとに狸たちが訪れて吉兵衛とともに尻尾で太鼓をたたきました。。
それ以降、祭が終わると風に乗って狸の祭囃子が聴こえてくるようになりました。


だんじり好きの男とは物部守屋の霊のことではないでしょうか。
そして狸は守屋の神使ということでしょう。

1400年以上たっても大阪の人々は守屋を慰霊し続けている。
私にはそんな風に思えるのです。



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[2015/09/24 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

PL花火 『花火のルーツ』 

PL花火芸術

花火は火薬と金属の粉末を混ぜて作ります。
火薬とは熱や衝撃によって急激な燃焼反応をおこす物質のことをいいます。

GWに五箇山上梨の村上家住宅で煙硝厩(えんしょうまや)を見学したことを思い出します。

五箇山 上梨 村上家 煙硝厩

山野草と土を交互に積み重ね、年に3回、山野草・蚕糞・人尿を加えて鋤でまぜて煙硝(火薬原料)を作るということでした。
蚕糞・人尿をまぜるのは、これらに含まれるアンモニアが亜硝酸菌・硝酸菌に作用して硝酸カリウムができるためだと思います。
(理数系に弱いので間違っていたらご指摘ください。)

PL花火芸術6 

紀元前200年ごろ、万里の長城の烽(のろし )台で、薪に硝石(硝酸カリウム)を加 えて烽火をあげていたようで、これが花火のルーツだと言われています。

日本では664年(天智天皇3年)、日本では、九州、壱岐、対馬に烽火(飛ぶ火)が設置されています。

烽火(のろし)は狼烟(のろし)とも書きますが、これは狼の糞を混ぜるようになったためだそうで、鎌倉時代より狼烟と記されるようになったようです。
日本では硝石は採掘されません。
そこでアンモニアから硝酸カリウムを作り燃えやすくするため、狼の糞をまぜたのかもしれませんね。

硝石に硫黄と木炭を混ぜたものを黒色火薬といい、唐の時代(618~907)中国で発明されました。
火薬がヨーロッパに伝わったのは13世紀ごろとされ、武器として用いられたほか、祭の際の花火にも用いられたようです。
日本に黒色火薬が伝来したのは、1543年の鉄砲伝来のときとされます。

↓ 堺祭 根来鉄砲隊

堺祭 根来鉄砲隊    

しかしそれ以前にも、1447年に「唐人」が万里小路時房に花火を見せたと思われる記録があります。
その花火は次のようなものでした。
①火で薄・桔梗・仙翁花・水車などを表現したもの。
②火が縄を伝って行き来する。
③火をつけると走りまわる。
④空中を流星のように飛ぶ。

↓ こちらの写真は多重露光。

PL花火芸術4
塔百景50

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[2015/08/05 00:09] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

枚岡神社 注連縄掛神事(お笑い神事)『天岩戸神話と冬至』 

12月25日はクリスマスですが、この日、 枚岡神社では注連縄(しめなわ)掛神事(お笑い神事)を行っています。

白装束の氏子さんたちが藁で新しい注連縄を作り、古い注連縄を外して新しい注連縄につけかえます。

枚岡神社 注連縄掛神事

そして神職さん、巫女さん、氏子さん、一般の参拝者の方々も注連縄の前に並び、一斉に「あっはっはー」と笑います。

枚岡神社 お笑い神事

この神事は天岩戸神話を再現したものだといわれています。

記紀には次のように記されています。

天照大神は弟・スサノオの悪戯に耐えかねて天岩戸の中に隠れてしまいました。
そこで天岩戸の前アメノウズメがストリップダンスをすると八百万の神が一斉に笑いました。
天照大神は天岩戸の扉を少し開けて『私が岩戸に籠もって世の中は闇だというのに、なぜみな笑っているのか。』と問うと
アメノウズメが『貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです。』と答えました。
アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトが天照大神の前に鏡を差し出したので、天照大神は鏡に映る自分の姿を尊い神だと思い、岩戸をさらに開けました。
それをみはからってアメノタヂカラオがその手ノミコトをとって引きずり出しました。
フトダマノミコトは注連縄を岩戸の入口に張り『注連縄の向こうに入らないで下さい』といいました。


この神事は現在は12月25日に行われていますが、かつては冬至(12月22日)の日に行われていたと伝えられています。

天岩戸神話が何を表すのかについて、2つの説があります。
①日食を表す。
②冬になって衰えた太陽が冬至を境に再び勢いを取り戻していく様子を表す。

枚岡神社の注連縄掛神事が冬至に行われていたということは、天岩戸神話は②の『冬になって衰えた太陽が冬至を境に再び勢いを取り戻していく様子』を表しているのではないでしょうか。

京都駅ビル クリスマスイルミネーション 2014 『イエス・キリストは太陽神だった。』
↑ こちらの記事でクリスマスとはミトラ教の冬至祭をキリスト教がとりいれたものだと書きましたが、注連縄掛神事は日本版冬至祭、日本版クリスマスといえるでしょう。

枚岡神社・・・大阪府東大阪市出雲井町7-16
注連縄掛神事・・・12月25日 午前9時ごろより(確認をお願いします。)

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[2014/12/26 19:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

月見祭 布団太鼓 百舌鳥(もず)八幡宮 『古墳の向きと祭の日の関係』 

百舌鳥八幡宮 布団太鼓

百舌鳥八幡宮の秋祭りは今年(平成26年)は9月13日、14日に行われる予定です。
詳しくはこちらをご覧ください→ 平成26年秋祭

百舌鳥八幡宮 布団太鼓

百舌鳥八幡宮があるあたりには、数多くの古墳があり百舌鳥古墳群と呼ばれています。
百舌鳥八幡宮の西には御廟山古墳もあり、世界一の墓域面積を持つ仁徳天皇陵(大仙陵古墳)もすぐ近くです。 

百舌鳥古墳群 模型  
↑ 堺市役所21階展望ロビーにあった模型です。(見やすくするため一部加工しました。)

現在、応神天皇陵は古市古墳群にある誉田御廟山古墳とされていますが、宮内庁は御廟山古墳を応神天皇陵の第2候補として陵墓参考地に指定しています。

実際、御廟山古墳が応神天皇の御廟であるという伝承があったようで、御廟山という名称は、百舌鳥八幡宮の奥の院、御廟であると考えられたところからくるとも言われています。

『古墳の向きがバラバラなのは、古墳の向きが方位暦になっていて、前方後円墳の主軸の後円部がさししめす位置が、被葬者の命日をあらわしているとする説があります。

方位暦は、1年を360度であらわしたもので、冬至が北、春分が東、夏至が南、秋分が西となります。

応神天皇の命日は西暦310年2月15日となっています。
命日の2月15日は旧暦(太陰暦)ですが、方位暦は太陽の運行に基づくものなので、これを新暦(太陽暦)に換算する必要があります。
ネットを探してみると旧暦を新暦に換算するサイトはたくさんあるのですが、西暦310年を計算できるサイトが見つかりません。
そこで、2001年~2010年の旧暦2月15日を新暦換算してみたところ、旧暦2月15日は新暦3月9日から4月2日ごろと出ました。
ざっくりとした計算ですが、旧暦の310年2月15日はだいたい3月9日ごろから4月2日ごろだと考えていいでしょう。

 ←御廟山古墳の方角を見てください。
方位暦では真東は春分、新暦3月21日ごろをさしています。
御廟山古墳の主軸の後円部の方角は春分から約9度ほど南にずれています。
円は360度で、太陽暦の1年は365日なので、方位暦は365日÷360度=1.01日、1度は約1.01日を示します。
9度は1.01度×9度=9.09日なので、御廟山古墳の主軸の後円部の方角は、だいたい新暦3月21日から9日目の新暦3月30日ごろを示しているということになると思います。。
応神天皇の命日は新暦換算するとと3月9日ごろから4月2日ごろとなりますから、古墳が方位暦をあらわしていると考えた場合、御廟山古墳の主軸の後円部がさししめす方角は、応神天皇の命日とほぼあっていそうです。 
何度も言いますが、ざっくりした計算なんですけどね。
応神天皇の命日が正確に計算できればいいんですが~。


御廟山古墳と方位暦  

現在、応神天皇陵とされている誉田御廟山古墳()の主軸は真南から30度ほど東に傾いているので、方位暦では5月20日ごろとなり、応神天皇の命日とあいません。

さらに古墳の後円部の向きが被葬者の命日を表すとする説では、古墳の前方部は被葬者を祭祀する日であるとしています。

先ほど、『御廟山古墳は百舌鳥八幡宮の奥の院、御廟であると考えられていた。』と書きましたが
百舌鳥八幡宮の祭は『月見祭』といって本来は中秋の日に行われていました。
中秋とは旧暦8月15日のことです。
旧暦8月15日は応神天皇の命日である旧暦2月15日から約半年後となります。
(※旧暦は3年に1度閏月があり、また年によって閏月が異なるなど計算がややこしいです。上記もざっくり計算した場合と考えてください。)

方位暦でみれば、御廟山古墳の後円部は応神天皇の命日である旧暦2月15日ごろを、前方部は旧暦8月15日ごろをさしています。
百舌鳥八幡宮の月祭は、応神天皇の命日から半年後の応神天皇を祭祀する祭だとも考えられます。

うーん、本当の応神天皇陵は誉田御廟山古墳ではなく、百舌鳥古墳群の御廟山古墳なのかもしれませんね。
ただ古墳の向きが命日を表しているという説を証明するのはなかなか難しいでしょうね~。
というのは日本には墓誌を残すという習慣がなかったため、古墳の被葬者の特定が難しく、また太陰暦といっても様々な暦があり、どのような暦を用いて日本書紀に命日が記されているのか、よくわからないからです。




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[2014/09/12 21:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

がんがら火祭 (阪急池田駅周辺)『大、大一の送り火は何を意味しているの?』 


がんがら火祭  

8月24日、阪急池田市周辺でがんがら火祭が行われています。
がんがらと町中に響き渡る鉦の音、松脂の焦げるにおいはどこか懐かしく、なぜか心が高揚してしまいます。

がんがら火は二本の松明を上部で合わせて山型にしたもので、『人』という文字に見えます。
がんがら火はお盆にこの世に戻ってきた死者の霊が池田の町を練り歩くさまを表したものなのではないでしょうか。 
 

がんがら火祭2 

大文字と大一文字の送り火が点火されます。 

がんがら火祭り 

送り火の 『大』や『大一』は何を表すものなのでしょうか。

『大』は星を象ったものだとか、人間を表す、『大』は天で『一』は地を表しているなどの説があります。

『大』は天、『一』は地を表すものであるならば、『大』は男性を、『一』は女性を表しているといってもいいと思います。
八卦では乾の卦は自然では天を表しますが、家族では父(男性)を表します。
坤の卦は自然では地を表しますが、家族では母(女性)を表すからです。

また、中国の神に伏羲、女媧という兄妹で夫婦の神がいますが、兄の伏羲は定規を、妹の女媧はコンパスを持っています。
定規は天を、コンパスは地を表すといわれています。
つまり伏羲は天の神、女媧は地の神というわけです。
 ← 伏羲&女媧の絵

旧暦ではお盆は7月15日を中心として行われており、7月7日の七夕は盆の入りの行事でした。
お盆には死者の霊がこの世に戻ってくると考えられ、その供養を行う習慣がありますね。
いっぽう七夕は牽牛と織姫が1年に1度の逢瀬を楽しむ日とされています。
逢瀬と先祖供養はどう関係があるのでしょうか。

盆の時期には死者の霊が戻ってくると考えられていましたが、死者の霊の中には荒霊のような人に禍をもたらすものもあります。
そのため、このような荒霊を鎮魂する必要があると昔の人々は考えたのでしょう。
そして男女和合は荒霊を鎮魂する方法だと考えられたのではないかと私は思います。

神はその表れ方によって、御霊・和霊・荒霊の3つに分けられるといいます。
そして女神は和霊を、男神は荒霊をあらわしているとする説があります。
ということは御霊とは男女双体ということになりますね。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神


神と霊はほとんど同じものだと考えてもいいと思います。
そして伏羲、女媧は二柱の蛇身の神がからみつく男女双体の姿で現され、伏羲の右手と女媧の左手はつながっていますが
仏教の神・大聖歓喜天もまた男女双体の姿をしています。

この歓喜天の説話を読めば、男女双体の意味がわかると思います。

昔、インドの国中に不幸なできごとが蔓延し、それらはビナヤキャの祟りであるとされた。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。

 ← 歓喜天の絵
上の絵ではわかりにくいですが、歓喜天はビナヤキャ女神が、ビナヤキャの足をふみつける姿で現されます。

日本には道祖神という男女双体の神がいます。。
道祖神は一般的には手をつなぎ合う姿で現されますが、中には足を踏みつけているものや、和合する姿のものもあります。
おそらく伏羲&女媧、歓喜天、道祖神は習合されているのだと思います。

このように、荒霊(男神)に和霊(女神)を和合させることで、御霊(仏法守護の神)となるという考え方が古にはあったのではないかと思います。
そのためお盆の行事として牽牛と織姫が逢瀬を楽しむ七夕の行事があり、がんがら火祭では天=男性を表す『大』と地=女性を表す『大一』の送り火を点火するのではないでしょうか。



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[2014/08/23 21:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭 『星の神が住む交野が原』 

星愛七夕祭り と 平成OSAKA天の川伝説 」の記事に、「大川は地上の天の川だと言われていた。」と書きましたが、大川とは旧淀川の毛馬水門から中之島東端までの通称です。

淀川を東にさかのぼっていくと枚方市で天の川と繋がっています。
枚方市、交野市あたりは平安時代には交野ケ原と呼ばれ、貴族たちが狩猟を楽しんだ場所でした。
天の川はその交野ケ原を流れる川で、天の川をはさんで中山観音寺と機物(はたもの)神社が向かいあっています。
向かいあっているといってもかなり距離がありますが。

そして天の川は天上の天の川に、中山観音寺は牽牛星(アルタイル)、機物神社は織女星(ベガ)になぞらえられていると言われています。
淀川の流域にふたつの天の川伝説があるというのが興味深いです。

7月7日、中山観音寺跡と機物神社で七夕祭がおこなわれ、深夜、天の川にかかる逢合橋で笹が流されます。

なかやまかんのんじあと たなばた 

中山観音寺跡は現在は公園となっていて牽牛の像があります。

なかやまかんのんじあと うしいし


上は中山観音寺跡にある牽牛石(牛石)です。
七夕祭だというのに、私たち以外、参拝者はいませんでした・・・・。
なんで??

はたものじんじゃ


上は機物神社で、境内にはおびただしい数の笹飾りが飾られていました。


こちらは露店も出て、大勢の人がお詣りにやってきていました。

平安時代、惟喬親王が交野ケ原へ狩りにやってきたとき、お供の在原業平や紀有常が歌を詠んでいます。

狩りくらし たなばたつめに 宿からむ 天の河原にわれは来にけり/在原業平
(一日中狩りをして日が暮れてしまった。今夜は棚機女(たなばたつめ)に宿を借りよう。天の川のほとりまで私はやってきたのだから。)

ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ/紀有常
(棚機女は一年に一度やって来る牽牛を待っているのだから、他の人には宿は貸さないでしょう)

これらの歌から、交野ケ原には平安時代より天の川伝説があったことがわかりますね。

交野ケ原は肩野物部氏の本拠地だったところです。
天の川の上流には物部氏の祖・ニギハヤヒを祀る磐船神社もあります。
雲陽誌という書物にはニギハヤヒは星の神だと記されています。

記紀には星の神はたった一柱、天津甕星(別名カカセオ)が登場するだけです。
天津甕星は天照大神の芦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神であると記されています。
星の神がたった一柱しか登場しないのは不自然なので、かつて星の神を信仰していた民がいたが、権力争いに敗れたために星の神は抹殺されたのではないかともいわれています。

そしてニギハヤヒは神武天皇が日向より東征して畿内入りするより以前に天の磐船を操ってこの地に天下っていました。
神武が東征してやってきた際、ニギハヤヒは自分を神として奉じていたナガスネヒコを殺して神武に服しています。
そのため、初代神武天皇より以前に物部王朝があったという説があります。

星の神・天津甕星とニギハヤヒは同一神で、星の神とは物部氏の神のことなのかもしれませんね。
中山観音寺跡・・・大阪府枚方市香里ヶ丘4丁目 
機物神社・・・大阪府交野市倉治1-1-7


[2014/07/08 20:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

星愛七夕祭り と 平成OSAKA天の川伝説 『地上の天の川』 

おおさかてんまんぐう たなばた2

大阪天満宮では七夕の日に星愛七夕祭が行われます。
参拝者たちは境内に設置された7つの茅の輪をくぐって「諸願成就」「学徳向上」「心身健康」「家内安全」「商売繁昌」「厄除」「恋愛成就」を祈願していました。

大阪天満宮は平安時代の政治家、菅原道真を祀る神社です。
901年、藤原時平は醍醐天皇に「菅原道真は謀反を企てている。」と偽りの報告をし、このため菅原道真は大宰府に左遷されることになりました。
道真は摂津中島の大将軍社を参拝してから大宰府に向かい、903年に大宰府で亡くなりました。

949年、村上天皇は、大将軍社のある場所に大阪天満宮を創建しました。
このとき、大将軍社前に突然七本の松が生え、夜になると金色に輝いたという伝説があります。
これは北斗七星に対する信仰に関係する伝説だと思います。

大将軍社(参考資料) 」←こちらのサイトによると、現在、大阪天満宮の隣に星合池がありますが、かつては七夕池・明星池という池もあったようです。
そして、大将軍の神は大白星(金星)の精であると説明されています。

記紀には星の神は天津甕星(別名カカセオ)たった一柱しか登場しません。
そして天津甕星は天照大神に最後まで抵抗した荒々しい神であると記されています。

菅原道真はその天津甕星とイメージが重ねられたということでしょう。

おおかわ たなばた

大阪天満宮の近くには大川が流れ、天満橋がかけられています。
七夕の夜、大川には青い光を放つ玉がたくさん浮かべられ、天の川のようでした。
平成OSAKA天の川伝説 )
大川は「地上の天の川」だと言われていたそうです。
大阪天満宮・・・大阪市北区天神橋2-18
天満橋・・・京阪・大阪市営地下鉄 天満橋駅下車すぐ

[2014/07/06 20:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)