大阪市北区 大阪天満宮 ①厩猿信仰函館山 猿回し 『猿はなぜ馬の守護神とされたのか』 ↑ こちらの記事で次のようなことを書きました。 ①古くから猿は馬の守護神と考えられていた。(厩猿信仰) ②正中年間(1324~1326)成立の石山寺縁起絵巻には、厩につながれた猿が描かれている。 ③十一面観音の長い腕は猿をおもわせる。 ④猿は十一面観音、馬は馬頭観音をあらわしているのではないか。 ⑤十一面観音は花瓶を持っているが花瓶には水が入っているだろう。十一面観音は水の神ではないか。 ⑥馬頭観音は憤怒の表情で、光背は炎で表現されることが多い。馬頭観音は火の神ではないか。 ⑦陰陽五行説の『相克説』では『水剋火(水は火を消す。)』と考える。 水=十一面観音=猿、火=馬頭観音=馬 となるところから、猿は馬の守護神と考えられたのではないか。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hokkeiji_Nunnery_Eleven-Headed_Kwannon_I_(303).jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Hokkeiji_Nunnery_Eleven-Headed_Kwannon_I_%28303%29.jpg Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition [Public domain] ↑ この写真がわかりやすいかな?
猿は膝を曲げて立つので、腕が長く見えますね。
②将門しか乗りこなせない馬 厩猿信仰から、私は繋ぎ馬の紋を思い出してしまいます。
繋ぎ馬の紋は相馬氏の家紋で、相馬氏は平将門の子孫を称しています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ACrestOfSoumaClan.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/CrestOfSoumaClan.jpg 作者 正親町三条 (投稿者自身による作品) [CC BY-SA 4.0 ( https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0 )], ウィキメディア・コモンズ経由で 関西では平将門は朝廷に逆らい「新皇」を名乗った逆賊だととらえるむきが強いですが(私は将門ファンですが~) 関東では平将門は英雄視されているそうですね。 平安京の貴族たちが安逸をむさぼっているために将門が乱を計画し、天もこれを認めて黒馬を将門に与えたという伝説が伝えられています。 ところがこの馬は将門しか乗りこなすことができないので、繋いであるというのです。 また「じゃじゃ馬に 常陸の伯父御 くいつかれ 」という川柳があります。 じゃじゃ馬とは平将門、常陸の伯父御とは将門の 伯父の平国香のことです。 このように将門自身が馬に喩えられることも多かったようです。 北斗七星は天帝の乗り物であるなどと言われます。 天帝にはさまざまな意味がありますが、道教でいう天帝とは北辰(天の北極)を神格化した神のことです。 天帝は天皇大帝ともいいわれます。 ということは、平将門が天帝であり、相馬氏の家紋の繋ぎ馬は北斗七星を表したものだったりして? 馬の形はなんとなく北斗七星を思わせる形をしていませんか? 頭から首が北斗七星の柄杓部分、胴体は持ち手です。 ③繋ぎ馬は北斗七星、二本の杭は北極星、をあらわす? 飛鳥昭雄さんによれば古事記・神世第4代に登場する角杙神・妹活杙神という神名の『杙』とは牛や馬を繋ぎとめておくためのものであるといいます。 ヘブライ語で『角』と『光る』はどちらも『krn』と記します。 つまり角とは光のことで、角杙神とは光りながら地球のまわりを回る神=太陽、妹活杙神の活とは『満ち欠けする』の意で、満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女神=月のことであるというのです。 『杙』は地球で、太陽や月は地球につなぎ留められていると考えるわけですね。 飛鳥さんの説をヒントに考えてみたのですが、繋ぎ馬紋の馬を繋いである杭は北極星を表しているのではないでしょうか。 そして杭につながれている馬は北斗七星を表しているのではないかと思います。 「北極星はひとつだ、でも繋ぎ馬の家紋には杭が二つあるやん」って? 北極星がひとつだというのは現代の感覚ではないかと私は思います。 かつては北極星がふたつあった時代があったかも? ④歳差運動と変化する北極星 地球の北極の延長線上に位置する天球上の場所のことを天の北極(北辰)といいます。 これを神格化したのが天皇大帝(天帝)でしたね。 天の北極にある星のことを北極星といいますが、時期によって北極星は変わります。 北極星が変わるのは、地球が歳差運動といって下図のように独楽がぶれるような動きをしているためです。 地球の歳差運動の周期は約25800年です。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyroscope_precession.gif https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Gyroscope_precession.gif LucasVB [Public domain] この歳差運動が原因で北極星になる星がかわってくるのです。 地球の歳差運動の周期は約25800年です。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Precession_N.gif https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/16/Precession_N.gif Tauʻolunga [CC BY-SA 2.5 ( https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5 )] ↑ 歳差による北極星の変遷の図を見ると、かなり大きな円を描いて北極星が変遷することに驚かされます。
現在の北極星はポラリス(こぐま座α星/上図+2000の文字の向かって左の星)とされていますが、若干天の北極からずれており、天の北極の周囲を小さな円を描いて回っています。
上記図に+2000とか+4000とあるのは西暦だと思います。
武家の家紋は保元平治の時代(1156年以降)説、源頼朝の時代(1192年以降)説などがあります。
平将門が亡くなったのは940年、将門の子孫を称する相馬氏の初代・相馬 師常の生没年は1139-1205です。
そこで、ざっくりと1000年ごろの天の北極をみてみると、特に目立った星がありません。
ポラリスの下にある星はといいます。
天の北極はポラリスとイルドゥンの中間あたりにあったので、杭がふたつあるのではないでしょうか。
⑤こぐま座は猿座? http://shinshizo.com/2012/10/%E9%A6%AC%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8A%E4%B8%96%E8%A9%B1%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E7%8C%BF-%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB-%E7%8C%BF%E3%81%A8%E9%A6%AC/ ↑ こちらのブログに興味深い写真が掲載されています。 神馬をひく猿の像の写真です。 神馬が北斗七星をあらわしているとするならば、猿はこぐま座をあらわしていたりして? こぐま座という名前は西洋でつけられたものです。 一方、厩猿信仰はインドから中国をへて日本に伝わったものですから、子熊ではなく、猿と認識されていた可能性はあります。 こぐま座には長い尻尾がある、日本猿は尻尾が短いといわれるかもしれません。 でも、中国に住んでいるキンシコウや、インドの猿の姿をした神・ハマヌーン、ハマヌーンのモデルとされるハマヌンラングールは尻尾が長いです。VIDEO VIDEO https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hanuman_showing_Rama_in_His_heart.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Hanuman_showing_Rama_in_His_heart.jpg Anant Shivaji Desai [Public domain] そして厩猿信仰はインドから中国をへて日本に伝わったのでしたね。 なので日本においてもこぐま座は猿座であると考えられていた可能性はあります。 つまり、猿が馬を曳く像は、こぐま座が北斗七星を曳くのをあらわした像、いや北斗七星は平将門などの怨霊を象徴する星であり、猿(こぐま座)がその怨霊(北斗七星)が逃げ出さないようにとらえているの図なのではないかと思ったりします。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村
① 花火大会の「鍵屋」「玉屋」という掛け声の由来 東京の花火大会では「鍵屋~」「玉屋~」と掛け声をかける習慣があるそうですね。 そういえば江戸川花火大会に行ったときに、そういう掛け声を聞いたような気がします。 (関西ではそういう習慣はあまりないです。) 「鍵屋」「玉屋」とは、江戸時代の両国川開きの大花火で花火をあげた2件の花火屋の屋号です。 「鍵屋」は六代目弥兵衛の代から両国川開きの大花火をはじめ、八代目鍵屋の時、番頭の清七がのれん分けしてもらって「玉屋」を開きました。 ②鍵屋の創業者 「鍵屋」の創業者・鍵屋弥兵衛は奈良県大塔町篠原の木地師集落に生まれ、三男坊であったため五條の火薬工場に奉公に出ました。 幕府は厳しく火薬を取り締まっており、製造場所も五條・三河など特定地域に制限していたようです。 五條で火薬が製造されていたのは、ここを治めていた松倉重政が1616年に島原城主となって以降、五條新町が天領(江戸幕府の直轄地)となったためではないかと思います。 鍵屋弥兵衛は五條新町の火薬工場で火薬の知識を得たのち、1659年に江戸に向かい、花火師となりました。 家康は鍵屋弥兵衛など一部の花火師を保護していたともいわれていますし、上京間もなく幕府御用達の花火師になっていますので、もしかしたら家康に呼ばれて江戸に向かったのかもしれませんね。 ③ 鍵屋・玉屋と稲荷信仰 「鍵屋」の鍵と「玉屋」の玉。 ここから伏見稲荷大社の狐の像を思い出します。 狐の像が鍵と玉をくわえています。 実は、鍵屋・玉屋という屋号は、稲荷信仰からくるといわれています。 なんでも鍵屋は稲荷神を厚く信仰していたのだとか。 現在も伏見稲荷の門前には「玉屋」さんと言う茶店が残っており、昔は「鍵玉屋」と言う茶屋もあったということです。 https://itp.ne.jp/info/264203586300000899/ ⑤稲荷神は紀氏の神だった? 伏見稲荷大社は秦伊侶具なる人物が創建したと伝わりますが、これはどうやら嘘っぽいです。 もともと伏見稲荷大社がある場所には藤森神社があったのを、空海がここに伏見稲荷大社を建てたため、藤森神社は移転したというのが本当のようです。 藤森大社の祭では、氏子さんたちが神輿を担いで伏見稲荷大社に乗り込んで今でも「土地返せ、土地返せ」というのだとか。 いや、すごいお祭りですね。 また、最古の稲荷社は和歌山県糸我稲荷神社であるとも伝わります。 藤森神社は紀州(和歌山県)を本拠地としていた紀氏の神を祀るともいい、空海は紀氏の土地だけではなく神までも奪ったっぽい? 稲荷神とは紀氏の神なのではないでしょうか? ⑥木地師の祖・惟喬親王の母親は紀氏だった。 鍵屋弥兵衛が大塔町篠原の木地師集落の生まれだったということを思い出してください。 木地師の祖は平安時代の惟喬親王だといわれています。 惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があります。 (実は奈良時代に木製百万塔がろくろを用いて作られているので、事実ではない。) この方の父親は文徳天皇で、母親が紀静子(紀名虎の娘)なのです。 当時、天皇に入内するのは藤原氏の女性が多かったですから、紀氏の母親を持つ親王は珍しかったのです。 文徳天皇には藤原明子(藤原良房の娘)との間には惟仁親王もありました。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えており、これを源信に相談しています。 源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめ、その結果、惟仁親王が皇太子となっています。(のちの清和天皇) ⑦木地師は紀氏の神・稲荷神を信仰していた? 木地師の祖・・・惟喬親王・・・母親が紀静子・・・稲荷神は紀氏の神? そういうわけで木地師は稲荷神を信仰していた、なんてことはないかな? ⑧枚方宿の鍵屋は伏見稲荷を信仰していた? 淀川花火大会は大阪市淀川区十三の淀川で行われていますが、淀川を京都方面へ、東にさかのぼっていくと枚方宿に鍵屋があります。 江戸時代、淀川は京都伏見と大坂を結ぶ水上交通が栄え、三十石舟が往来していました。 また枚方は宿場町でもあり、当時より枚方には多くの旅人が訪れていました。 鍵屋はそういった旅人が利用する料理旅館で平成9年まで営業していました。 現在は資料館となっています。 「鍵屋」は、その創業を天正年間と伝えられ(事実かどうかは不明)、1773年の「御済配書写」の中に、鍵屋当主とみられる「鍵屋太兵衛」の名前が登場します。 江戸時代、苗字を名乗っていいのは公家・武士で、一般的に庶民は苗字を名乗ることができなかったそうです。 ですが、苗字がなかったわけではなく、主人から苗字を賜ったり、地名を苗字として名乗ったりしていたようです。 商人は屋号を苗字のように用いたりしたということなので花火師の鍵屋弥兵衛も宿屋の鍵屋太兵衛も屋号を名乗っていたのではないかと思います。 そして鍵屋と名乗ったのは江戸の花火師の『鍵屋」「玉屋」、伏見の茶店「玉屋」「鍵玉屋」と同様、鍵屋太兵衛が稲荷神を深く信仰していたからかもしれませんね。 枚方には紀氏の荘園もたくさんあったようです。http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-2222.html 鍵屋太兵衛は紀氏であった可能性もありそう? 鍵屋(枚方宿) ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
大阪市西成区 生根神社玉手のだいがく・・・7月24日、25日 ①だいがくは玉手の天神祭? 7月24日、25日は天神祭ですが、同じ日、玉出では「玉出のだいがく」が行われます。 天神祭は菅原道真を祀る大阪天満宮の祭礼です。 道真の命日は旧暦2月25日なので、天満宮の縁日は25日とされています。 天神祭の本宮が7月25日なのはそのためです。 生根神社では明治初年に筑前天満宮を合祀しており、主祭神は少彦名命・蛭児命・菅原道真です。 玉出のだいがくが天神祭と同じ日なのは、玉出のだいがくが道真を慰霊するお祭りだからなのかもしれませんね。 ②だいがくって何? たくさんの提灯をつるした大きな立て物がだいがくです。 だいがくは台楽または台額と記されますが、語源は不明です。 ③旧暦が用いられていた時代、祭礼はいつだった? 旧暦が用いられていた時代には天神祭は6月25日に行われていました。 生根神社の祭礼はどうだったんでしょうか。 現在7月に行われている祭は旧暦6月に行われていた夏祭りであるとし、生根神社の玉出のだいがくにも触れられているサイトがあったのですが、現在記事をみつけることができません。 kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstre... ですが、どうやら玉出のだいがくも旧暦では6月25日に行われていたっぽいですね。 ③玉手のだいがくはお盆の行事? 旧暦7月は新暦換算すると8月です。 旧暦7月1日は釜蓋朔日といいお盆のシーズンの始まりでした。 7月7日の七夕はお盆の入りの行事だったのです。 さきほど天神祭についてお話しましたが、古くは7月7日に船渡御が行われていたそうです。 天神祭はお盆の行事であったのかも。 すると天神さん(菅原道真)の縁日に行われている玉出のだいがくもお盆の行事だったのかもしれませんね。 祭礼日が6月25日だと、あと6日で釜蓋朔日だし。 たくさんの提灯の灯りは迎え火の意味合いがあるのだったりして。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
大阪市北区 大阪天満宮 星合七夕祭・・・7月7日 ①大阪天満宮の伝統行事・七夕祭が平成7年に復活! 地下鉄扇町駅を下車すると夫婦橋があります。 この夫婦橋から天神橋筋商店を天満天神七夕祭のパレードが出発しました。 天満天神とは「天満の天神さん」、すなわち、大阪天満宮のことです。 「天満の天神さん」の「天満」は地名だと思います。 大阪天満宮の住所は天神橋ですが、大阪天満宮の南は天満という町名なのです。 といっても、天満という地名の由来は大阪天満宮の天満からくるんじゃないかと思いますがw。 大阪天満宮の七夕祭は飛鳥時代より大将軍社で行われていたそうです。 もともと大阪天満宮の土地には大将軍社があり、平安時代、村上天皇の御代になって、ここに菅原道真公を祀る天満宮が建てられました。 大阪天満宮は大将軍社の土地を借りている、つまり賃貸なのだそうで、 現在でも年初めに大将軍社に「祖(そ)」という借地料をおさめる神事を行っているということです。(暁祭/ふつぎょうさい) 戦国時代に大将軍社の七夕祭は途絶えてしまい、江戸時代になって菅原道真の誕生日である6月25日に祭を復興させたのですが 6月25日の祭は菅原道真の徳を偲ぶ祭であったので、あらためて平成7年に七夕祭を復興させたということです。 ②大将軍は天津甕星? 大将軍社の祭が七夕祭はであったということは、大将軍社は星の神様だったということですね。 大将軍は星神天大将軍と呼ばれる神様で、方位を司るとされます。 『暦林問答集』には「大将軍とは『新撰陰陽書』によると太白の精なり。 3年ごとに四方を巡り12年で元の位置に戻る」と記されています。 太白とは金星のことです。 大将軍は中国由来の神で、のち日本で陰陽道の神として信仰されるようになりました。 そして日本における基本的な信仰形態は習合(異なる宗教の神を同一視する)でした。 大将軍は仏教においては他化自在天として信仰されました。 また仏教の神・明星天子はずばり金星を神格化した神ですから、大将軍と明星天子の習合もあったでしょう。 それでは大将軍は神道のどの神と習合されていたのでしょうか。 大将軍は金星の神です。 日本の神で金星の神は何という神様なのでしょうか。 意外なことに記紀神話には星の神は一柱しか登場しません。 天津甕星(別名カカセオ)です。 星の神が天津甕星たった一柱しかいないのは、星を信仰する氏族がいたが、政権交代があって星の神は抹殺されたためではないかともいわれています。 天津甕星は天照大神の芦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神と記紀には記述されており、金星を神格化したものではないかともいわれています。 大将軍は記紀に登場する唯一の星神・天津甕星と習合して信仰されていたことでしょう。 すてきな笑顔をありがとう。 ③菅原道真は日本版ゼウスだった? 菅原道真は藤原時平の讒言によって醍醐天皇に大宰府へ流罪とされた人物です。 そして死後、疫病の流行や天災などが相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業と考えられました。 天照大神の芦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神・天津甕星と、菅原道真は習合されたのでしょう。 大阪天満宮では茅の輪くぐりも行われていました。 しかし、菅原道真は雷神でもあり、清涼殿に落雷がおちて炎上した事件は雷神となった道真の怨霊の仕業であると考えられました。 ギリシャ神話で雷を武器としている神といえばゼウスですが、ゼウスは雷神ではなく天空の神です。 道真も天空を司る神だと考えると辻褄があうかもしれません。 天空の神なので、雷神になったり、また大将軍=金星=天津甕星など星の神にも変身するということではないでしょうか。 そう考えると天満宮という名前の意味も説明できるように思います。 天満宮とは天空を雷や星などで満たす神、という意味ではないでしょうか。 関連記事/八坂神社 石見神楽 天神 『道真は天神?雷神?天満って何?』 ⑥星合池・七夕池・明星池はみたらし星をあらわしている? 星合池 http://bittercup.web.fc2.com/04osaka/myoujiike.html 上記サイトに掲載されている地図(南が上)を見ると星合池(合星と右から記されています。)があり、その西に七夕池・明星池があります。 この付近に霊松があり、大阪天満宮の御祭神・菅原道真菅が明星(金星)になって松の梢に降りたとき、明星池にその姿が写ったという伝説があります。 七夕池・明星池は明治のころはあったそうなんですが、現存していません。 星合池の星合という言葉は、牽牛と織姫が逢瀬を楽しむという伝説を思い出させます。 明星池の明星とは金星ですね。 七夕星とは織女星(ベガ)と彦星(アルタイル)のことです。 七夕池が細長い形をしているのは、織女星(ベガ)と彦星(アルタイル)ふたつの星が合わさっていると考えられたためかもしれません。 また星合池・七夕池・明星池の配置はみたらし星(オリオン座の三つ星)を思わせます。 住吉大社はみたらし星を神格化した神をまつっているのではないかともいわれています。 ⑦大川(天満川)は天神さんの川 大阪市中を西流する大川は、かつては「天満川」とも呼ばれ、その川面に満天の星を映す様子は“地上の天の川”のようでした。 まさに「天満ちる川」だったのです。 そして、大川右岸にあった「明星池」「七夕池」「星合池」の名は、この辺りが七夕の夜に星辰崇拝を行ったことを伝えています。 http://www.osaka-amanogawa.com/concept.html より引用 「大川」が「天満川」と呼ばれていたのは、大川の近くに大阪天満宮があるためだと思います。 大阪天満宮から天神橋筋商店街を南に500mほどいくと天神橋があります。 天神とは「天満の天神さん」=大阪天満宮のことでしょう。 この天神橋の下を流れる大川が天満川と呼ばれていたということは、大川は大阪天満宮の川だという認識が人々にあったということでしょうね。 大阪天満宮の祭礼・天神祭の船渡御が行われるのも大川だし。 大川 OSAKA天の川伝説 水につかると青く光る玉を大川に投げ入れて祈願します。みなさまに幸せが訪れますように! ⑧大川が天の川なら大阪天満宮はベガ、お旅所はアルタイル? と、ここまで考えて思い出したのは、奈良県橿原市にある春日神社・八幡神社の配置です。 参照/ほうらんや火祭 『ほうらんや火祭は七夕の行事だった?』 上の図を見ていただくとおわかりいただけるように、曽我川は天の川に、春日神社はベガ(織女星)に、八幡神社はアルタイル(彦星)になそらえられているように思えます。 もしかして大川(天満川)は天の川、大阪天満宮はアルタイルかベガに喩えられているのではないか? すると、大川の対岸にアルタイルまたはベガに相当するものがある? 天神橋から大川を西に行くと、西区となります。 この西区松島のあたりにかつて大阪天満宮の御旅所があったそうです。 (かつての松島は木津川と尻無川に挟まれた中州の島であったようです。)
大阪天満宮とかつて松島にあったお旅所は大川(安治川)を挟んで対面しており、ベガとアルタイルになぞらえたようにも見えます。
枚方市 観音山公園近くの説明版 https://www.astroarts.co.jp/special/2006summer/image/starchart.jpg https://www.astroarts.co.jp/special/2006summer/constellation-j.shtml 上記、アストロアーツの図を見ると、6月の23時ごろ、7月の21時ごろ、8月の19時ごろ、東の空を見上げると、天の川が横方向に流れ、アルタイルとベガが天の川ごしに対面しています。
「東の方角に見た夏の大三角」の図は、地上から星空を見上げたものです。
星が天球にはりついており、天球の上から神様が見下ろしたとすると、アルタイル・ベガの位置関係は逆になります。
すなわち、地上から夜空を見上げた時、アルタイルが右でベガが左となりますが
天球の上から天球を見下ろした際には、アルタイルが左でベガが右に見えるはずです。
すると、大阪天満宮はベガ、御旅所はアルタイルをあらわしている?(ちょっと無理っぽいかw)
もしもそうであれば、大川の船渡御は白鳥座の役割をはたしていそうです。
織女星と彦星は年に一度かささぎがかける橋を渡って逢瀬を楽しむといわれますが
古の人々は天の川にかかる白鳥座をかささぎと見たのではないでしょうか。
そして天神祭で大川を渡御する船は、天の川にかかるかささぎの橋のイメージだったりしないかな、と考えたりしました。
でも、あんまり自身なしw。
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大阪府交野市 磐船神社 十種(とぐさ)祭・・・5月5日 ①端午の節句はニギハヤヒの節句? ニギハヤヒを御祭神とする磐船神社。
磐船神社の祭礼って「もしかしたら5月5日じゃないかなあ」と思ってたんですが、あたりでした♪
なんで5月5日が磐船神社の祭礼だと思ったのかって?
②お雛様=天照大神、お内裏様=スサノオ、三人官女=宗像三女神、五人囃子=五柱の男神?雛人形はお内裏様(男雛と女雛)、それに三人官女と五人囃子を飾りますね。
女雛は天照大神、男雛はスサノオの像ではないかと私は考えています。
(正確にはお雛様はアメノウズメ、お内裏様はサルタヒコ=ニギハヤヒの像といういことになると思いますが、これについてはおいおい説明します。)
天照大神とスサノオは姉弟ですが、きょうだいで契って子を産んでいます。
天照大神はスサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)を噛みくだき、ふっと息をふくと宗像三女神(タギリヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメ)が生まれました。
次にスサノオが天照大神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」をかみ砕き、ふっと息をふくと、五柱の男神(アメノオシホミミ・アメノホヒ・アマツヒコネ・イクツヒコネ・クマノクスビ)が生まれました。
雛人形の三人官女は宗像三女神ではないかと思います。
宗像三女神を祀る市比売神社では3月3日に『ひいな祭』を行っており、宗像三女神と雛祭には関係がありそうに思えますね。
市比売神社 ひいな祭 すると五人囃子は五柱の男神(アメノオシホミミ・アメノホヒ・アマツヒコネ・イクツヒコネ・クマノクスビ)なのではないでしょうか?
③ 雛人形は星の神だった? 古事記によれば、天照大神とスサノオは天の安河をはさんで子産みをしたとあります。
天の安河とは天の川のことではないでしょうか。
すると、天照大神は織女星(ベガ)、スサノオは牽牛星(アルタイル)ということになります。
天照大神は太陽神なのに織女星って変な気もしますが、神はそのときどきで神格を変えると考えることができるかもしれません。
また、三人官女はみたらし星(オリオン座の三つ星)、五人囃子はスバル(プレアデス星団)なのかも。
雛人形とは星の神々だった可能性が大です。
プレアデス星団 https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3APleiades_large.jpg よりお借りしました。 作者 NASA, ESA, AURA/Caltech, Palomar Observatory The science team consists of: D. Soderblom and E. Nelan (STScI), F. Benedict and B. Arthur (U. Texas), and B. Jones (Lick Obs.) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 大きく目立つ星が5つありますね。 ⑤天の川伝説発祥の地で、磐船神社の側に川が流れているのですが、その川の名前を天の川といい、天の川をはさんで機物神社と中山観音寺跡が対面しています。
参照/
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭 『星の神が住む交野が原』 機物神社は織女星、中山観音寺跡は牽牛星になぞらえられているといわれ、このあたりは日本における天の川伝説発祥の地といわれています。
他にも天の川伝説発祥の地と称する場所はいくつかあるんですが、磐船神社は初代神武天皇が畿内入りするより早くニギハヤヒが天下ったとされている歴史の古い場所なので、
この地が天の川伝説発祥の地である可能性は高いと思います。
また、雲陽誌という書物によれば、磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは星の神と記されています。
⑥ スサノオとニギハヤヒは同一神? 記紀神話では女神の天照大神と男神のスサノオがうけいの子産みをしたとありますが、スサノオとニギハヤヒは同一神ではないかと私は考えています。
船場俊昭さんは次のようにおっしゃています。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは「輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)」という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。
ニギハヤヒもスサノオもどちらも星の神なのです。
雛人形 神 星 お内裏様 (女雛) 天照大神 織女星(ベガ) ※天照大神とスサノオは天の安川をはさんでうけいの子産みをしている。 お内裏様 (男雛) スサノオ=ニギハヤヒ(どちらも星の神) 牽牛星(アルタイル) ※天照大神とスサノオは天の安川をはさんでうけいの子産みをしている。 ※ニギハヤヒを祀る磐船神社は天の川のほとりにある。 三人官女 宗像三女神(天照大神とスサノオのうけいの子産みで生まれた。スサノオの子) みたらし星 (オリオン座の三つ星) 五人囃 アメノオシホミミ アメノホヒ アマツヒコネ イクツヒコネ クマノクスビ(5柱とも天照大神とスサノオのうけいの子産みで生まれた。天照大神の子) すばる(プレアデス星団)
⑦三人官女は天照大神の、五柱の男神はスサノオの分身?神が子を産むとは、神が分身をつくるということではないかとする説があります。
宗像三女神はスサノオの刀から生まれたのでスサノオの子、五柱の男神は天照大神の珠から生まれたので天照大神の子とされていますが
宗像三女神は天照大神が、五柱の男神はスサノオが産んでいますので
宗像三女神は天照大神の分身、五柱の男神はスサノオの分身のようにも思えます。
そして3月3日がアメノウズメの分身・宗像三女神にちなんで女の子の日なのであれば、5月5日はニギハヤヒの分身・五柱の男神の日となるのではないか?
そんな風に考えたのですが、どうでしょう?
⑧ ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
大阪市北区 大阪天満宮 天満天神えびす祭 1月9日~1月11日 ①1月10日はえべっさんの誕生日?北野天満宮の境内に蛭子大神を祀る蛭児遷殿があり、十日えびすが行われています。
さて、 なぜ十日えびすは10日なのでしょうか。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11119117726?__ysp=5Y2B5pel44GI44Gz44GZIOOBquOBnDEw5pel 上記、ちえぶくろには「えべっさん」の誕生日が1月10日だからと書いてあります。
でも「えべっさん」を祀る神社の御祭神は蛭子大神のほか、事代主の場合もありますので、どちらの神様の誕生日かわからないですね?
また記紀神話に蛭子大神または事代主の誕生日は書いてないんじゃないかと思います。(間違ってたら教えてね~)
②1月10日は何の日? 十日えびすのほかに、1月10日は何の日なのかを調べてみました。
110番の日 110が1月10日に通じる。 干瓢の日 干瓢の「干」の字を分解すると「一」と「十」になる。 糸の日 1(い)10(とう)で糸(いと)となる。 糸引き納豆の日 同上 インテリア検定の日 1(イン)10(テ)リア。 初金毘羅 毎月10日は金比羅の縁日で、一年最初の縁日は「初金比羅」という。
③えべっさんは釣糸を垂れてるけど・・・ちょっと苦しいかw 1(い)10(とう)で糸(いと)の日、とかオモシロイ!
そういえば、「えべっさん」は岩に座って糸を垂れて鯛をつっていますね。
それで1月10日が「えべっさん」なのかな? ちょっと苦しいかw
長田神社 蛭子(向かって左)と大黒(向かって右) ③1月10日は初金毘羅 1月10日は初金毘羅でもあるのですね。
金毘羅は金毘羅大権現を祀る神社です。
像頭山松尾寺には次のような説話が伝えられています。
大宝年間、役小角が象頭山に登った際、天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住む護法善神・金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭って開山しました。
つまり金毘羅大権現とはクンビーラのことだと考えていいと思います。
クンビーラはガンジス川に住む鰐を神格化した水神です。
そのため、金毘羅大権現は海の神様、海上交通の神様として信仰を集めました。
金毘羅講といって講金を積み立て、講員の中から選ばれた代表が参拝する習慣がありました。
「こんぴら狗」といって犬に祈願札や幟をつけて、見ず知らずの人に代参してもらう習慣もあったようです。
「こんぴら狗」を松尾寺に金毘羅さんに連れていくとご利益があると信じられていたので、親切に連れていってくれる人があったようですね。
また、流し樽(舟)に賽銭を入れて金毘羅権現に祈願する木札や幟とともに放つという習慣もあったようです。
こちらも、見つけた人が代参することになっていたようです。
香川県 金刀比羅宮(琴平神社または金比羅神社の総本宮/江戸時代までは象頭山松尾寺金光院だった。)
④金毘羅大権現=えびす神? このように書いているうちに、金毘羅大権現とえびす神は同一神ではないかという思いが強くなってきました。
金毘羅大権現もえびす神もどちらも海の神ですし、縁日も十日で同じです。
そういえば、こんな歌がありますね。
♪こんぴらふねふね 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ♪
七福神の乗る宝船を思わせますね。みなさんご存じのように、えびす神は七福神の一柱です。(ほかは大黒天・布袋尊・弁財天・毘沙門天・福禄寿・寿老人)
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大阪府貝塚市 水間寺 千本つき餅・・・1月2日、3日 ①聖武天皇の病を回復させた観音さま 水間寺にはこんな創建説話がありますよ。
聖武天皇が病気になられた時、夢に観音様が現れました。 天皇が行基に夢にあらわれた場所へ行かせると、観音の化身である16人の童子が現れました。 行基が童子に誘われて滝へ行くと、滝の中に一寸八分(約6cm)の観音像がありました。 白髪の仙人が現れてこの観音像を行基に下さいました。するとまもなく天皇の病は回復しましたた。 天平16年(744年)、天皇は行基に滝の側に堂をつくるように命じました。 行基は16人の童子とともに生活しながらお堂を完成させました。 この伝説はつまり、水間寺の観音様が聖武天皇の病を回復させたと言いたいのだと思います。
この伝説によれば、水間寺の創建は744年ですが、このほかに和銅元年(708年)に創建されたという説もあります。
滝の中におられた一寸八分の観音様は絶対秘仏で、残念ながら拝観することはできません。
②水間寺創建年(744年)に安積親王薨去。 水間寺の創建年は744年もしくは708年とされています。
これは実際に創建された年ではなく、この年におこったなんらかの事件と水間寺の創建に関わりがあって、その年を創建年としているのだとも考えられます。
調べてみたところ、744年には安積親王(あさかしんのう/728-744)が薨去しています。
安積親王は聖武天皇の第2皇子で、母親は県犬養広刀自です。
安積親王が生まれてすぐに、聖武天皇の第1皇子で皇太子だった基皇子が夭逝しました。
安積親王が皇太子となってもよさそうなものですが、738年、聖武天皇の皇女である阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子しました。
女性天皇はいますが、女性で皇太子になったのは阿部内親王だけだと思います。
阿倍内親王の母親は藤原光明子、光明皇后でした。
もちろん阿倍内親王の異例の立太子は藤原氏のおもわくによるものだと考えられるでしょう。
藤原氏としては非藤原系の安積親王を皇太子にするくらいなら、藤原氏の血をひく安倍内親王を皇太子にするほうがいいと考えたのだと思います。
その後、安積親王は744年に脚気になってその2日後に急死しました。17歳でした。
安積親王は藤原仲麻呂に毒殺されたという説もあります。
③藤原仲麻呂の乱 749年、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位して孝謙天皇(女帝)となりました。
光明皇太后のために紫微中台が設けられ、藤原仲麻呂が長官となりました。
仲麻呂は皇太后の信任を得てますます権力を強めていきます。
758年、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇(大炊王/天武天皇のの皇子・舎人親王の七男。母は当麻老の娘・当麻山背。)が即位しました。
淳仁天皇の即位は藤原仲麻呂の推挙をうけたものでした。
同年、仲麻呂は右大臣となり、恵美押勝の名を与えられています。
760年、藤原仲麻呂は人臣初の太政大臣となりますが、同年、光明皇太后が逝去し、仲麻呂は後ろ盾を失ってしまいます。
762年、弓削道鏡が孝謙上皇の寵愛を受けるようになります。
藤原仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を絶つようにと進言させました。
しかし孝謙上皇はこの進言にキレて、出家して尼となり、道鏡と男女の関係ではないことをアピールしました。
また、孝謙上皇は『今の天皇は小事を行え。大事と賞罰は自分が行う』と宣言し、天皇から政権を取り上げたのです。
764年、藤原仲麻呂は反乱を計画しましたが、密告により発覚して処刑されました。(藤原仲麻呂の乱)
766年、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となりました。
吉備真備が右大臣、藤原永手が左大臣になりました。
④ 藤原南家は 安積親王の怨霊をおそれた? ②に書いたように、水間寺が創建された744年には安積親王が薨去しています。
水間寺とは安積親王の怨霊を祀る寺で、聖武天皇の病気は安積親王の怨霊の仕業だと考えられたのではないでしょうか。
③で安積親王は藤原仲麻呂に毒殺されたという説があると書きました。
藤原仲麻呂は藤原不比等の孫で、藤原四兄弟の藤原 武智麻呂の子でした。
藤原 武智麻呂は藤原南家の祖です。
これが事実だとすれば安積親王の怨霊をもっとも畏れたのは藤原南家だと考えられますね。
水間寺は江戸時代には岸和田藩主岡部氏の帰依を受けました。
岡部氏は藤原南家の出です。
岡部氏が水間寺に帰依したのは、自分たちが藤原仲麻呂の血を引いているからではないでしょうか。
⑤餅をつく16人の若者は創建説話に登場する16人の童子にちなむ? 本堂横の渡り廊下には二つの臼がおかれてあって、それぞれ8人、合計16人の若者がお餅をついていました。
この行事は『千本撞き餅』といい、「行基がこの地にやってきて、白髪の仙人より本尊・聖観世音の尊像をいただいたとき、童子らがこれを祝福してお餅をついたのが始まり」だとされています。
16人の若者が餅をつくのは、水間寺の創建説話に登場する16人の童子にちなんだものであったと考えられますね。
⑥16人の童子は16柱の怨霊?八卦では童子は艮(丑寅)の符です。
丑寅は方角では鬼が出入りする方角、鬼門の東北をあらわします。
したがって童子とは鬼(怨霊)を意味するものであるともいわれます。
茨木童子、酒呑童子などのように鬼が童子と呼ばれているのはそのためであるというのです。
石清水八幡宮 追儺式 節分の鬼が虎皮のパンツをはき、牛の角を生やしているのは丑寅をあらわすともいわれます。
もともと追儺式とは大みそかに行われる行事であり、丑=12月、寅=1月で、追儺式の鬼は年の変わり目=丑寅を表しているのだと思います。
行基の前に現れた16人の童子も怨霊ではないでしょうか。
16柱の怨霊は聖観世音の尊像をいただいたお祝いにお餅をついたといいますが、本当は憎き藤原仲麻呂を懲らしめようとお餅をついたのだったりして?
正月の餅つきの臼は女性、杵は男性をイメージしたものであり、餅つきとは男女和合を意味していると言われますね。
そして鎌倉初期に成立した『水鏡』に次のような話が記されています。
藤原仲麻呂には東子という美しい娘がいた。 鑑真が『東子は千人の男と会う相を持っている』と予言した。 父親の藤原仲麻呂がクーデターに失敗したとき、鑑真の予言は実現し、東子は千人の男にレイプされた。 失明していた鑑真がどうやって相を見たのかという疑問もあり、これが史実かどうかわかりません。
ですが、このような話が流布していたことは事実でしょう。
『千本撞き餅』はこの水鏡の話を再現したものなのではないかと思いました。
つまり、臼は仲麻呂の娘・東子で、餅をつく杵は東子と会った千人の男性なのでは、と思うわけです。
16柱とあるのは、藤原氏は他氏排斥で有名なので、安積親王以外にも多くの怨霊を生み出していたことを表していると思います。
たとえば長屋王も藤原氏の陰謀で自殺に追いやられたと考えられています。
長屋王の話は長くなるので、次の記事をお読みください。
岩船寺 紅葉 『長屋王、皇位継承の神となる?』 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
大阪市住之江区南港北 ATC 大阪市消防出初式・・・1月6日 ①出初式の歴史 江戸時代の江戸は1601年~1867年の267年間に大火49件、小火を含めると1798件もおこっており、家事は江戸の名物といっていいほどの有様でした。
そこで幕府は1643年に大名火消(消防を大名の課役とする)の制度を設けました。
しかし、1657年におこった明暦の大火では3万人~10万人の犠牲者をだしてしまいました。
そこで翌1658年に幕府直轄の消防組織・定火消が制度化されました。
これは4000石以上の旗本から4名を選び、臥煙(がえん/火消人足)とともに火消屋敷に居住して消防活動を行うというものです。
1659年1月4日、老中・稲葉正則と定火消4組が上野東照宮に集結して儀式を行いました。
これを出初と呼んでいます。
以降、毎年1月4日に上野東照宮で定火消による出初が行われるようになっていったのです。
パレードの主役はかっこいい消防車たちです(擬人化しちゃってる~)。 ↑↓ これらの消防車はどのような機能を備えているのでしょうか?知ってる方、教えて! 1718年、町人の消防組織・町火消が制度化されました。
1720年、江戸の町を20~30町ごとにわけて「いろは組」47組(のちに1組増加して「いろは四十八組」となる)と、16組の火消組合が設けられました。
(「いろは組」47組は隅田川西部を担当、16組の火消組合は東の本所・深川を担当)
町火消も出初を行うようになりましたが、武家火消の出初と区別するため文字をひっくり返して初出といいました。
ジャズのことを「ズージャー」、ホモのことを「モーホー」などとひっくり返して言うことがありますが、そのルーツは「出初→初出」にあるのか?(ちょっと違うかw)
町火消の初出も毎年1月4日に行われました。
明治時代になると、武家火消は廃止されました。
町火消は消防組39組と改められ、奉行所←東京府所属→東京警視庁安寧課消防掛所属と変遷します。
こうして明治8年1875年1月4日、第1回東京警視庁消防出初式が行われました。
大正5年(1916年)から1月6日の開催となりました。
下の錦絵は第1回東京警視庁消防出初式のようすを描いたものです。
東京名所八代洲町警視庁火消出初階子乗之図(荒井喜三郎)作者/歌川広重(3代目) 明治8年の出初式を描いた錦絵 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hiroshige_hikeshi.jpg よりお借りしました。 ↑ この旗は纏をイメージしてデザインされていますね。(上の錦絵に五六などと記されているのが纏) ②出初式で梯子の曲乗りが行われるのはなぜ? 江戸時代、加賀藩前田家が江戸藩邸で抱えていた火消は加賀鳶、喧嘩鳶と呼ばれ、出初で梯子の曲乗り等を行いました。
上の錦絵にも梯子の曲乗りのようすが描かれていますし、現在でも東京や石川の出初式で行われていますね。(大阪市はありません)
なぜ梯子なのかというと、破壊消火といって延焼を防ぐため、火災現場周囲の建物・構造物を破壊したりしていたのです。
その際、梯子を利用したのでしょうね。
加賀鳶の鳶は鳶職〈高所で建築作業をする職業)の鳶だと思います。
破壊消火は高所での建築作業になれている鳶職が行うことが多かったのではないでしょうか。
また、上の錦絵にそれぞれの組を象徴する纏(まとい/旗印の一)が掲げられていますが、江戸時代にはこの纏をあげて組内の町を練り歩き、木遣り歌を詠ったりしていたようです。
「木遣り」とは「木を運ぶ」という意味で、重い木や石を大勢で運ぶ際に、息をあわせるために唄われていました。
纏が重いので、木遣り歌を詠っていたのでしょうか。
それもあるかもしれませんが、木遣り歌を詠うのは、梯子の曲乗りと同様、消火活動が建築と関係があるためかもしれません。
千本釈迦堂のおかめ節分に行った際、番匠保存会の方々がったものを「木遣り唄」を詠っていましたね。
番匠とは古の建築工のことです。
③おかめ=建築の女神、ひょっとこ=建築の男神?京都の千本釈迦堂には棟梁(長井飛騨守高次)の妻・阿亀(おかめ)の伝説が伝えられています。
また関西では上棟式におかめ御幣を用いる習慣があり、おかめは建築の女神だといえます。
北野経王堂 願成就寺に飾られたおかめ御幣おかめとペアになっているのはひょっとこなので、阿亀の夫の棟梁・長井飛騨守高次はひょっとこのイメージと重ねられていると考えられます。
ひょっとこの語源にはいろんな説がありますが、その中に民話に登場するヒョウトクからくるというのがあります。
強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。 ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。 そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。 そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。 ヒョウトクという名前は聖徳(ショウトク)に似ているじゃないですか~。
そして、聖徳太子は建築の神として信仰されています。
たとえば、世界最古の企業といわれる金剛組では、聖徳太子像に合掌してから朝礼を行っています。
金剛組の創建は578年。聖徳太子が四天王寺を建てる際に百済より招かれた宮大工の金剛重光が創業者です。
おかめが建築の女神なら、ひょっとこは建築の男神なのではないでしょうか。
(長井飛騨守高次/阿亀の夫・棟梁=ひょっとこ=聖徳太子=建築の神)
④
建築の神は防火の神でもある? またひょっとこは火男がなまったものだとする説もあり、京都の伝統行事・六斎念仏の演目・祇園囃子にはひょっとが登場して巻物を広げるとそこには「火の用心」と記されています。
梅津六斎 祇園囃に登場するひょっとこ 梅津六斎 祇園囃にはひょっとこの相方のおかめも登場しますよ。 建築の神が防火の神でもあるのは、建築物をこわすことで延焼を防ぐことができる(破壊消火)ためでしょう。
建築の神とは建築物そのものでもあり、建築の神が犠牲になって(建築物を破壊する)延焼を防いでくださる。
そのような信仰があったのではないかと私は考えます。
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