善水寺 節分会星祭 『青鬼はなぜ熊手を持っているの?』 

  滋賀県湖南市 善水寺
節分会星祭・・・2月3日


①善水寺 節分会星祭

善水寺 節分会星祭5

護摩がたかれます。

善水寺 節分会星祭3 

鬼参上!

善水寺 節分会星祭2 

鬼は僧侶の法力によって三毒消除されます。

善水寺 節分会星祭   

三毒とは、貪欲(むさぼりの毒)、瞋恚(しんに/いかりの毒)、愚痴(愚かさの毒)のことをさします。

善水寺 節分会星祭 豆まき 

②鬼熊手

もう一度、2枚目の写真を見てください。青鬼は手に熊手を持っていますね。
なぜ青鬼は手に熊手を持っているのでしょうか?

調べてみると熊手は別名を鬼熊手ともいうようです。
妖怪・百鬼夜行シリーズ ← こちらのサイトには熊手という妖怪が紹介されています。『熊の手が妖怪に化けたもの』と説明されています。

③神武天皇、熊の化け物に出会って気絶する。

日本書紀には次のような内容が記されています。

初代神武天皇は日向に住んでいましたが、あまりに国の端だということで、東征して畿内入りをめざしました。
白肩の津(東大阪付近?)で神武天皇は船を降りて上陸しましたが、地元の豪族・ナガスネヒコと戦って敗走しました。
神武天皇はいったん南に迂回して、そこから北上して畿内入りする計画をたてました。
神武は熊野で大きな熊の化け物にあい、毒気にあてられて気絶してしまいました。


古の人々は熊を恐ろしい化け物であると考えたようです。
すると、青鬼は熊の妖怪なのかも?

④おまえ百まで、わしゃ九十九まで

また「おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで」と謡う俗謡があります。
これは謡曲『高砂』からくるものと考えられていますが、謡曲『高砂』では尉は『くまで』を、姥は『ほうき』を手に持っています。

尉が『くまで』を持っているのは『きゅうじゅうくまで』という意味、
姥が『ほうき』を持っているのは『掃く→ひゃく(百)』に掛けてあるといわれています。

善水寺 節分会星祭4
⑤九十九(つくも)神

ということは、『くまで』は『九十九』を意味するものであるとも考えられますが、『九十九』は『つくも』ともよみます。
『つくも』とは『次、百(つぎもも)』という意味だそうです。
そして器物は百年たつと精霊が憑いて妖怪になるとと考えられており、このような器物の妖怪のことを『つくも神(九十九神・付喪神)』といいます。
青鬼が熊手を持っているのは、鬼が『つくも神』であることを現しているのかも?

皆様はどう思われますか?

善水寺 節分会星祭6

鬼のお加持


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[2017/02/06 01:25] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

延暦寺 追儺式 『マハーカーラ(大いなる闇)はなぜ厨房の神になったのか』 

滋賀県大津市 延暦寺
鬼追式・・・12月31日 午後11時ごろより


深夜の行事で寒かったのですが、甘酒や大根焚の接待があり体がぽかぽか温もりました。
ありがとうございました♪

①延暦寺 追儺式

延暦寺 追儺式 黄鬼

黄鬼は笑い鬼で、『むさぼりの心』を

延暦寺 追儺式 青鬼

青鬼が泣き鬼で『"ねたみ"の心』を
延暦寺 追儺式 無明鬼と赤鬼
 

赤鬼は怒り鬼で"『怒りの心』を表しているそうです。

延暦寺 追儺式   
法師の法力によって心を入れ替えた赤鬼・青鬼・黄鬼は力を合わせて無明鬼を倒します。
灰色の着物に黒い面を被っているのが『無明鬼』です。

無明鬼が退治されるとまもなく、新年がやってきました。

②闇の神、厨房の神になる。


追儺式のあと比叡山国宝殿に行ってみると、数点の大黒天像が安置されていました。

大黒天はもとはヒンズー教のマハーカーラという神でした。
マハーカーラとは『大いなる闇』という意味で、シヴァ神の化身とされ、破壊・戦闘の神でした。
ところがマハーカーラはしだいに厨房の神へと神格を変えていきました。

唐の僧義浄が著した「大唐南海寄帰内法伝」には
『インドの寺院の台所の柱には、金の袋を持ち、像高二尺から三尺(約60~90センチ)ほどのマハーカーラが祀られている。
油で拭かれて黒くなっている。 』
と記されています。

日本へは遣唐使だった最澄が持ち帰り、ここ延暦寺の厨房の神として祀ったのが最初と伝えられています。

③闇の神はなぜ厨房の神になったのか?

マハーカーラはなぜ厨房の神となったのでしょうか?

厨房では火を扱うため、ときとして火事になることがあります。
マハーカーラは『大いなる闇』なので、火消しにぴったりの神として信仰されるようになったのではないでしょうか。

④無明鬼はマハーカーラだった?

そして追儺式に登場する『無明鬼』とはマハーカーラ(大いなる闇)と同一神なのではないでしょうか。

延暦寺 追儺式2

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[2016/12/31 00:26] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大津祭 曳山巡幸 『ギリシャの神様と日本の神様、仏様を習合しちゃった?』 

 
滋賀県大津市 天孫神社
大津祭 → 
大津祭の歴史と日程

大津祭2

●大津祭の粽は食べられます。

曳山から粽やてぬぐいなどが蒔かれます。
祇園祭の粽も昔はこんなふうに山鉾の上から撒いていたそうですね。

節分の豆なんかもそうですが、私はとろいのでようとらないんです。
でも友人がとった粽をくれました。(ありがとうー)
祇園祭の粽とちがって中にはおもちが入っていて食べられるんですよ~。

大津祭 獅子

●分断されたタペストリー

1613年、伊達政宗の命をうけて支倉常長がヨーロッパを訪問した際、5点シリーズのベルギーブリュッセル製タペストリーを貰い受けました。

この5点シリーズのうち2枚は分断され、それぞれ所有者が別になっています。

①加賀前田育徳会(東京)
②増上寺(東京)
③祇園祭(京都)鯉山
④分割されて祇園祭(京都)白楽天山・大津祭(滋賀)月宮殿山・龍門滝山へ。
⑤分割されて祇園祭鶏鉾・霰天神山(京都)・長浜曳山祭(滋賀)鳳凰山へ。

大津祭

タペストリーを切ってしまうなんてケシカランと思いますが
他にも1919年に佐竹本三十六歌仙絵巻が歌人ごとに切り離されたりしていますね。

佐竹本三十六歌仙絵巻(鎌倉時代)が切り離されたのは、高価すぎて切り離さないと売れなかったためだそうです。
タペストリーが分断されたのもこのような経済的事情があったのかもしれません。

今は文化財保護法でそういうことは禁止されています。

●祇園祭鯉山

それではタペストリーを見てみましょう。たぶんオリジナルではなく、復元されたものだと思いますが。
まずは③の祇園祭鯉山から。

祇園祭 鯉山

祇園祭は日本の伝統的な祭ですが、このタペストリーは全く日本的ではありません。
そのミスマッチ感がオモシロイ。

●祇園祭白楽天山・大津祭月宮殿山・龍門滝山

次に④の分断されたタペストリーの写真を見てみましょう。

祇園祭 白楽天山 

↑ 祇園祭 白楽天山
 ↓

祇園祭 白楽天山 タペストリー

大津祭 月宮殿山 

↑ 大津祭 月宮殿山

大津祭 龍門滝山

↑ 大津祭 龍門滝山

タペストリーを分断するのはケシカランかもしれませんが、こうして遠く離れた別の場所にそれぞれが現存しているというのは感動的ですね。

●祇園祭鶏鉾・祇園祭霰天神山・長浜曳山祭鳳凰山


⑤の祇園祭鶏鉾・園祭霰天神山・長浜曳山祭鳳凰山の写真にいってみよー。

※長浜曳山祭は行ったことがないので、長浜曳山祭の鳳凰山はこちらをご覧ください。↓
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/introduction/houou.php

祇園祭 鶏鉾

↑ 祇園祭 鶏鉾

祇園祭 霰天神山 

↑ 祇園祭 霰天神山


●ギリシャの神々と日本の神々を習合しちゃった?

祇園祭は八坂神社のお祭で、八坂神社の御祭神はスサノオ。
大津祭は天孫神社のお祭で、御祭神は彦火火出見尊です。
そのお祭にこの西洋的なタペストリーを用いるというのはある意味すごいです。

タペストリーはギリシャの詩人・ホメロが著した『イーリアス』『オデュッセイア』をテーマにしたもだそうです。
もしかして、昔の日本人はギリシャの神と日本の神を習合していたのかも?

大津祭 桜熊山 
ギリシャの神々と仏様も習合しちゃった?

加賀前田育徳会と芝増上寺の2枚のタペストリーは伊達家から徳川家に献上されたものです。
その後、1枚は徳川家によって菩提寺だった増上寺に献上され、もう一枚は前田利常に徳川秀忠の次女が嫁いだ縁で徳川家から前田家に贈られたのではないか、と考えられています。

残念ながら芝増上寺のものは明治の火災で焼失してしまいました。
消失前は増上寺の本尊後ろにかけられていたそうです。
タペストリーがお寺の本尊の後ろにかけてあったというのはびっくりです。

日本人はインドの神様(仏教)も中国の神様(道鏡)も日本の神様もいっしょくたで、何でもかんでも習合して信仰してましたが
ギリシャの神様と仏さまも習合しちゃった、ということなんでしょうか?


大津祭



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[2016/10/13 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

米原曳山祭 子供歌舞伎 『少年はなぜ神聖視されたのか』 ※追記あり 


滋賀県米原市 
米原曳山祭・・・体育の日を含む三連休


●米原子供歌舞伎

古い民家が立ち並ぶ細い道を、曳山が曳かれてやってきます。
曳山は御殿のような造りになっていて、その中で子供歌舞伎が行われます。 

米原子供歌舞伎 松翁山

↑ 2013年、松翁山で上演された「神霊矢口の渡し」です。
ヒロイン役の男の子の色っぽさにしびれます♡♡
j歌舞伎義太夫さんの語りもすばらしいです。

●人形振り

もともと人形浄瑠璃・文楽の演目だったものを歌舞伎の演目としたものがあります。
このような演目のものを「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」というそうです。
義太夫狂言では俳優が人形の動きをまねて演じる『人形振り』が演じられます。 

米原子供歌舞伎 松翁山-人形振り2   

米原子供歌舞伎 松翁山-人形振り

●生き稚児は神の使い?

芝居が終わると大人の男性が子供の役者を抱きかかえて山からおろします。
祇園祭の長刀鉾に乗る生き稚児を剛力さんが肩に乗せて移動させるのと同じですね。 

米原子供歌舞伎 松翁山2 

長刀鉾 生き稚児 

祇園祭 長刀鉾
 

祇園祭・長刀鉾には生き稚児と呼ばれる少年を乗せますが、そのほかの鉾(菊水鉾、月鉾、函谷鉾など)には人形が乗せられています。
これらの人形は生き稚児の代用で、もともとは長刀鉾と同様生き稚児を乗せていました。 

祇園祭 函谷鉾

祇園祭 函谷鉾(生き稚児ではなく、人形が乗せられています。)

祇園祭の生き稚児や子供歌舞伎の俳優さんたちはは神の使いなので、地面に足をつけてはいけないと考えられたのではないでしょうか。

米原子供歌舞伎 寿山 

米原子供歌舞伎 寿山 

●童子は艮=鬼をあらわす?

少年が神聖視されたのは世俗に汚されていないためでしょうが、それだけではないと思います。

丑寅は方角では東北で、東北は鬼の出入りする方角=鬼門とされています。
また鬼の温羅は別名を丑寅御前といい、艮=丑寅は鬼そのものをさす言葉でもあったように思われます。

そして丑寅=艮は八卦では童子を表しています。
つまり、童子=艮=鬼、なのだと思います。

節分の鬼は結髪していませんが、結髪しないのは子供の髪型で童形(どうぎょう)といわれます。 

千本釈迦堂 おかめ節分 鬼

千本釈迦堂 おかめ節分 

京都・八瀬の人々は鬼の子孫と称し、かつては大人になっても結髪しない童形であったため八瀬童子と呼ばれていました。
ここから考えても、童子は鬼を表していると思います。

そして鬼は怨霊と言ってもいいと思いますが、日本では怨霊と神とは同義語であったといわれます。
怨霊=祟り神は祀り上げることでご利益を与えてくださる神に転じるというような信仰が古の日本にはあったのです。

子供歌舞伎に登場する少年たちは、鬼でありまた神であると信仰されていたのではないでしょうか。

↓舞台の縁側部分は折り畳み式になっていて、俳優さんが縁側を通るときは大人の男性が縁の下に入って縁側を支えます。
まさしく縁の下の力持ちですね。 


米原子供歌舞伎 松翁山3

ただ縁側を支えるというだけなら縁の下に太い柱などを置いてもよさそうなものです。
わざわざ人が支えているのは、その上で演技をする子供の役者さんたちを神聖視しているからではないでしょうか。

●『縁の下の力持ち』の語源

「縁の下の力持ち」の語源は大阪・四天王寺で経供養の際、聖霊院の庭で「縁の下の舞」が行われたことからくるとも言われています。
「縁の下」は建物の縁の下にある庭で行うことを意味しているのだと思います。
経供養の舞は昔は非公開だったそうで、そこから人目につかないところで骨を折ることに例えられたというのです。

四天王寺 経供養 
四天王寺 経供養(この日は雨天のため、建物の中で行われました。)
今は誰でも経供養の舞を見学することができます。


案外、「縁の下の力持ち」の語源は米原子供歌舞伎の舞台を支える人の姿が語源なのかもよ。

米原子供歌舞伎 旭山  

※追記 友達に「これ踊ってるの?」と言われちゃったので解説しておきます。
ピンクの着物の女性が赤い着物の女性を小刀で刺そうとしたのを
赤い着物の女性が小刀を奪い、逆にピンク色の着物の女性の背中を刺すシーンです。
赤い着物の女性はピンク色の着物の女性に子供を殺されたので、その復讐なのかも。
わかりにくくてすいません~。


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[2016/10/12 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

豊国神社(長浜) 豊公祭 『日本のトラはなぜ絶滅してしまったの?』 


滋賀県長浜市 
豊国神社
豊公祭 2010年10月10日 撮影

豊国神社(長浜) 豊公祭7  
●セロリを日本に伝えた加藤清正

皆さんが一番好きな野菜は何ですか?
私はセロリが一番好きです♡
苦手だという人も多いですが、あの独特の香り。
茎のところを生でバリバリ・・・ああ~、おいしいーーー。
葉っぱをみりんと醤油で佃煮にしてもいいですね♪ ごはん何倍でも食べれてしまいます。

このセロリを日本に初めて持ち込んだのは加藤清正だといわれています。
加藤清正は豊臣秀吉の家臣で、朝鮮に出兵して日本に帰国する際、セロリを持ち帰ったというんですね。

豊国神社では豊臣秀吉のほか、この加藤清正や木村重成、事代主大神もお祀りしています。

豊国神社(長浜) 豊公祭6

●加藤清正の虎退治

また、加藤清正は朝鮮に出兵した際、虎退治をしたという伝説も残されています。
ウィキペディアには「本来は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている。」とありますが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3#.E6.96.87.E7.A6.84.E3.83.BB.E6.85.B6.E9.95.B7.E3.81.AE.E5.BD.B9より引用

豊国神社(長浜) 豊公祭3

●朝鮮にはアムールトラが生息していた。

昔、朝鮮にはアムールトラが生息していたそうです。
今も北朝鮮にはアムールトラがいるともいわれています。

しかし、現在では、アムールトラは絶滅の危機に瀕しており、個体数は500頭程度だといわれています。

豊国神社(長浜) 豊公祭2

日本書紀や万葉集やにも登場する虎

また日本書紀546年(欽名6年)には、妻子を伴って百済へ使した膳臣巴提便(かしわでのおみはてび)が我が子を奪ったトラを殺し、皮をはいで持ち帰ったと記されています。

万葉集にも虎を読んだ歌が3首あります。

虎に乗り、古屋を越えて青淵に 蛟龍(みつち)捕り来)む、剣太刀もが/境部王
(虎に乗り、古屋を超えて青い淵にいる蛟龍(龍になろうとしている動物。大洪水をおこすとされる。)をとらえることができる剣大刀があればいいのに。)


豊国神社(長浜) 豊公祭 

あとの2首は長歌で、一首は柿本人麻呂が詠んだ高市皇子の挽歌の中に「高市皇子が統率する軍が吹く笛の音が、吠える虎のようだ」とあります。

もう一首は「韓国のトラを生け捕りにして八つ持ってきなさい。その皮を畳にして平群の山で行われる薬猟の際に用いましょう」と詠んでいます。

「韓国のトラを生け捕りにして」とあるところを見ると、奈良時代の日本には虎はいなかったのでしょう。

飛鳥時代・奈良時代をさらにさかのぼる3世紀ごろの日本には邪馬台国という国があったと魏志倭人伝は記していますが
その中にも「牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。」と記されています。

 豊国神社(長浜) 豊公祭5

●大古の日本にはトラがいた。


かつて日本列島は大陸と陸続きだったといわれます。
朝鮮に虎がいたのなら、日本にも虎がいたのではないかと考えるのは当然のことでしょう。

 縄文時代よりさらに時代をさかのぼった洪積世後期の地層(静岡県。約2万年前)から人骨片と一緒にトラの化石が発見されているそうです。

豊国神社(長浜) 豊公祭4 

●絶滅した日本列島のトラ

どうやら日本列島のトラは絶滅したようです。
なぜ日本列島のトラは絶滅したのでしょうか?

ウィキペディアには次のように記されています。

アムールトラ1頭あたり1,000平方キロ(東京都の面積の半分)の森林が必要だとされるが、沿海地方では森林伐採が進みタイガの面積が30%も減少するなど、その生息地が脅かされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9#.E7.B5.B6.E6.BB.85.E3.81.AE.E5.8D.B1.E6.A9.9F.E3.81.AB.E7.80.95.E3.81.99.E3.82.8B.E3.82.A2.E3.83.A0.E3.83.BC.E3.83.AB.E3.83.88.E3.83.A9
より引用

アムールトラは大型の肉食動物で、猪や鹿、熊などを捕食します。
1頭あたり1,000平方キロの森林が必要だというのは、アムールトラの食糧となるこれらの動物が1,000平方キロはないと十分に捕食できないということなのでしょう。

現在の日本の国土の面積は37万8000平方kmとされます。
アムールトラ一頭あたり1,000平方キロ必要とのことですので、37万8000平方kmを1,000平方kmで割ると
37万8000÷1000=378
となり、日本には378頭しか生息できないことになります。
また、3世紀ごろであっても日本列島の国土のすべてが森林というわけではなかったでしょうし、さらに生息できる頭数は減ります。

だけど朝鮮半島もそんなに広くはないですね。
虎が大陸から朝鮮半島に移動してくることができたということでしょうか?

豊国神社(長浜) 豊公祭 浅井三姉妹  
●アムールトラは日本の暑さに対応できなかった?

現在、アムールトラは寒冷な土地に生息しています。
現在、韓国にアムールトラはいないそうですが、韓国も日本に比べると寒いそうですね。(行ったことないので、わからないんですが)

http://www.asia-tourist.info/korea/trip/climate/climate01.html
↑ こちらにソウルの年間の気温をグラフにしたものがありました。
12月の最低気温は-3.4度、1月の最低温度気温は-6.1度、2月の最低気温は-4.1度となっています。
これは寒いですね!

また夏30度を超える月はありませんね。
夏35度を超えるのが当たり前の関西からすればものすごく涼しいです。

日本海流という暖流が流れているせいで、日本は韓国に比べて温暖だといわれています。
アムールトラは日本の暑さになじめなかったのかも?

また魏志倭人伝によると、「土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。」と書いてあります。
もしかして3世紀ごろの日本は今より暖かかったのかな?

魏志倭人伝には「倭国の位置は會稽や東治の東」とも記されています。
(東治は東冶の間違いだとする説が有力です。)
これは現在の福建省あたりで、福建省の東は沖縄あたりになってしまいます。

それで邪馬台国は沖縄にあったとか、混一疆理歴代国都之図(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E4%B8%80%E7%96%86%E7%90%86%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E9%83%BD%E4%B9%8B%E5%9B%B3)のように3世紀の日本列島は南北が逆転しており、福建省の東あたりにあったという説もあります。





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[2016/10/11 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

建部大社 船幸祭 花火  『青垣と青柴垣と風葬』 

滋賀県大津市 武部大社
8月17日・・・船幸祭


 建部大社 船幸祭 船渡御 
船渡御。 
写真上部に写っているのは瀬田の唐橋です。 

建部大社 船幸祭 花火 

船の上から小さな花火が打ち上げられました。
こういうのも風情があっていいなあ~。 

 
建部大社 船幸祭 花火2 

午後8時20分ごろより花火が始まりました。
花火ってきれいだけど、夏の花火は送り火のようにも感じられてしみじみとした気持ちになりますね。 

 建部大社 船幸祭 神輿

  
●ヤマトタケルの御子が創祀した神社

建部大社は景行天皇46年にヤマトタケルの御子・建部稲依別命(タケベイナヨリワケノミコ)が創祀したと伝わっています。

建部稲依別命はヤマトタケルの妃・フタジヒメと東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山に住んでおり、その地に父・ヤマトタケルを祀っていましたが、675年に近江の守護神として、現在地へ遷座したそうです。
ヤマトタケルは大和の生まれですが、近江と関係の深い人物だったのかもしれませんね。

建部大社 船幸祭 女神輿


●ヤマトタケルの東国平定にちなむ船幸祭


ヤマトタケルは父・景行天皇に命じられて九州の熊襲武、出雲の出雲武を征伐し、さらに東国を平定する旅にでかけます。
建部神社の船幸祭はその東国平定の旅にちなむものだと言われています。

●ヤマトタケルの死

ヤマトタケルはさらに伊吹山の神を征伐するために出かけますが、神の化身である白い大猪が氷雨を降らし、ヤマトタケルは病を患ってしまいます。
ヤマトタケルは病身で大和を目指し、能煩野(三重県亀山市〉で国偲び歌を詠んで亡くなりました。

倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し麗し
(大和はこの国の中でもっともすばらしいところ。山が重なりあって青垣のようだ。山に囲まれている。大和は美しい。)


●青垣と青柴垣と風葬


ここに青垣とありますが、私は青垣ときいて青柴垣を思い出してしまいます。

☆ ←こちらのサイトには次のように記されています。

「大国主神が国譲りして、「八十クマデに隠りましき」とありま すが、「クマデ」というのは、のち「青柴垣」と書かれるように、柴を沢山立て た中に死体が入っていたということです。
今でも土葬の周りにたくさん柴を立て る風習が紀伊半島、とくに高野山周辺の村村によく残っていて、高野山などの墓は青く茂っています。 」

ヤマトタケルが大和は青垣のようだと詠ったのは、「大和は風葬の際用いる青柴垣のように山が連なっていて、墓場にちょうどいい」という意味ではないかと思ったりします。

建部大社 船幸祭 花火3



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[2016/08/17 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

比叡山延暦寺 法灯花 琵琶湖花火大会 『茄子は銅の隠語?』  

滋賀県大津市 延暦寺
琵琶湖花火大会 8月8日 (
http://hanabi-map.com/shiga/biwako-hanabi/


もうだいぶ前のことですが、すごく暑い日だったので、比叡山延暦寺の夜間拝観に行こう、ということになりました。
比叡山は地上より数度気温が低くて避暑には最適です♪

延暦寺 根本中堂 

境内ではライトアップが行われていました。
大胆なカラーリングのライトアップにびっくり!

法灯花というイベントでしたが、ググっても昔の記事しか出てこないので、ここ数年は行われていないのではないかと思います・・・。

延暦寺 大日如来

延暦寺 千手観音 

延暦寺 阿弥陀如来 

延暦寺 阿弥陀三尊    

根本中堂は撮影禁止ですが、その他の仏像は写真撮影okということで撮らせていただきました。 

比叡山より琵琶湖花火大会を望む 
比叡山から琵琶湖花火大会のようすを眺めることができました!

●琵琶湖の源五郎鮒伝説

琵琶湖には次のようなの伝説がありますね。

源五郎が植えたナスビの苗は翌日には天まで届き、茄子(ナスビ)が鈴なりになっていました。
源五郎はつるを登って雲の上にいき、雷神の仕事を手伝って雲の上から水をまいて雨を降らせました。
ところがうっかり水が入った瓶をひっくりかえし、水は全部下界に落ちて琵琶湖になりました。
源五郎は湖で溺れている人を見て笑っていましたが、雲から落ちて湖にはまってしまいました。
源五郎は湖でもがいているうちに鮒になってしまいました。
これが琵琶湖の固有種の源五郎鮒です。


●茄子は銅の隠語?

源五郎は茄子の苗を植えたとありますが、茄子とは銅の隠語ではないかと私は考えています。

愛媛県から徳島県にかけ、銅山川と言う川が流れていますが、銅山川流域の愛媛県新居浜市には別子銅山がありました。
この川からほど近いところに「なすび平」という地名があります。
また栃木県の足尾銅山の近くには「那須高原」があります。

銅は酸化すると黒っぽくなったり、緑青がふいて青っぽくなったりしますが、もともとは新しい10円玉のように赤紫色をしています。
その色を茄子に喩えたのではないでしょうか。

坑道は百足の足のようにたくさん伸びていることから百足穴といわれています。
源五郎が植えた苗は翌日には茄子が鈴なりになったとありますが
鈴なりになった茄子もまた坑道の比喩ではないかとも思います。

●源五郎鮒と昆虫のゲンゴロウの共通点


ゲンゴロウという昆虫がいますが、源五郎鮒と昆虫のゲンゴロウには共通点があります。
どちらも菱型の体型をしているのです。

以前ネットで 「山相図・自然銅数種の図」というのを見たのですが(現在は公開されていないようです。)
キャラメルのような形をした銅が描かれていて、銅の上面や側面が菱型に見えていました。

 
図 
↑ こんな感じだったと思います。

また水銀の鉱脈がある山の絵にも菱形がたくさん並んでいました。

図2 

下手な図ですいません~!

おそらく辰砂(水銀)を露天掘にしたあとでしょう。
上から見ると長方形か正方形なのでしょうが、横から見るので菱形に見えているのだと思います。

菱形は鉱物を表しているのではないでしょうか。

滋賀県には土倉鉱山などがあり、銅の採掘がおこなわれていました。
源五郎の伝説はこのようなことを背景に作られたものではないかと思います。


●武田菱は鉱山を表す?

戦国武将武田氏の家紋は武田菱ですが
http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_taked.html
武田氏は金山を持っていたことで知られています。

武田菱も鉱山を表しているのではないでしょうか?

延暦寺 仏画 




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[2016/08/08 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』 

滋賀県大津市 近江神宮
かるた祭 ・かるた開きの儀・・・平成28年1月10日 http://oumijingu.org/publics/index/127/

近江神宮には少し早く着きすぎてしまい、かるた祭が始まるまでにはかなり時間があったのですが
神職さんが神座殿まで案内してくださり、暖房も入れてくださったので待ち時間を暖かく過ごすことができました。
ありがとうございました!

近江神宮 かるた祭

近江神宮の御祭神は天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)です。
天命開別大神というのは中大兄皇子(第38代天智天皇)のことです。

鎌倉時代に藤原定家が選集した小倉百人一首には百首の歌にそれぞれ1~100までの番号が振られています。
小倉百人一首の1番の歌は天智天皇が詠まれた「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」という歌です。

そういったところから、近江神宮では1月にかるた祭が行われています。

采女装束の姫たちはスローモーションのようにゆっくりと、そして優雅に腕を伸ばして札をとっていきます。

近江神宮 かるた祭2

天智天皇は飛鳥時代の人物で、万葉集に4首の歌が残されています。
でも「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は万葉集にはありません。
この歌は958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されています。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられています。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないのですが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。

なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられてたのでしょうか?

一般には次のように考えられています。
心優しい天智天皇が、農民の気持ちになってそのつらさを読んだと考えるにふさわしい歌であるためだと。

近江神宮 かるた祭3

でも私の考えはこれとは違います。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
後撰和歌集の撰者たちはこの歌を「死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌」であると考えたのではないでしょうか。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこりました。
天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の同母弟の大海人皇子が皇位をめぐって争ったのです。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられています。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年なのです。

古事記によると、大国主神が国譲りして、「八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠りましき」とあります。
これは大国主神が風葬された様子を記したもので、古には柴を沢山立てた中に死体を葬る風葬の習慣があったと考えられています。

また万葉集に次のような歌があります。

荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き浜辺を しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が(柿本人麻呂)
(荒磯の上に仮小屋を作ってみると、波の音が頻繁に聞こえる浜辺を枕として荒々しい岩の床に伏している人がいる)

荒床とは、風葬するときに死体の下に敷くむしろのことなのだそうです。
すると「荒磯の上につくったいほり(仮小屋)」とは風葬するときに死体を安置する建物のことなのではないでしょうか。

天智天皇の時代、天皇は一定期間、殯宮に安置されるのが一般的でした。
でも壬申の乱がおこったために、天智天皇には殯宮さえ作られなかったのかもしれません。
天智天皇の死体は一般庶民が風葬されるのと同じような状態になっていたのではないでしょうか。

つまり
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
この歌の「かりほの庵」とは風葬するときに死体を安置する粗末な建物であり、あまりに粗末であるため雨漏りがして死体がぐっしょりと濡れていると、死んだ天智天皇の霊が嘆いている歌であると
後撰集の撰者たちは考えたのではないかと私は思います。

壬申の乱では、大海人皇子が勝利して即位し(天武天皇)、追い詰められた大友皇子は自害して果てました。
そのため大友皇子の父・天智天皇は反逆者の父であるとして長年埋葬されることもなく、放置されていたのかも?


こちらの記事も読みいただけると嬉しいです♪→ 藤原京跡 コスモス 蓮 『持統天皇の歌の謎が解けた!』 



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[2016/01/13 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

八相宮 大野木豊年太鼓踊 『菅原道真が行った雨乞いの踊り』 

10月11日 八相宮 大野木豊年太鼓踊

八相宮 大野木豊年太鼓踊3

雨乞いのお祭りです。

八相宮 大野木豊年太鼓踊2


年配の方も、若い人も、子供たちも、みんなお揃いの衣装を身にまとって太鼓を打ち鳴らしながら踊り続けます。
長時間踊りっぱなしなので相当シェイプアップ効果ありそうです。
特に年配の方がすごくお元気に踊っておられるのにびっくり!

髄心院 出雲風流花踊 
↑ 京都の髄心院で奉納された出雲風流花踊です。こちらも雨乞いの踊りです。
 大野木豊年太鼓踊と同じように手に太鼓を持っていますね。
太鼓を打ち鳴らして雨乞いをするのは、太鼓の音を雷鳴に喩えたものだと考えられています。

空也堂 空也忌 踊躍念仏

↑ 太鼓や鉦を打ち鳴らしながら踊るといえば、空也堂で行われている踊念仏を思い出します。
平安時代の僧・空也は太鼓や鉦を打ち鳴らして踊りながら南無阿弥陀仏と唱える念仏踊の創始者だとされています。

雨乞いの踊りである大野木豊年太鼓踊や出雲風流花踊はこの念仏踊に似ています。

念仏踊には大きく分けて二つのパターンがあるそうです。
①踊り手と歌い手が分かれているもの
②自ら念仏を唱えながら踊るもの

空也が始めた念仏踊りは②です。
①は菅原道真が讃岐で行った雨乞いの踊りがルーツとされます。
のちに流罪となって讃岐に屋って来た法然上人がこの踊りを見て、念仏を唱えさせたと伝わります。
香川県の『滝宮の念仏踊』として今もその伝統が引き継がれているそうです。
一度見に行ってみたいです。
https://www.youtube.com/watch?v=n8H1m8Nt65U


大野木豊年太鼓踊や出雲風流花踊は①の歌い手と踊り手が別の念仏踊だったと思います。
(ちょっと記憶があいまいですいません~)

でも、たぶん菅原道真が雨乞いの踊りを行ったというのは事実ではないと私は考えています。

菅原道真は藤原時平の讒言によって太宰府に流罪となり、その地で失意のうちに亡くなりました。
その後、都では疫病が流行り、天災が相次ぎました。
また干ばつが続き、清涼殿で干ばつ対策会議を開いていたところ、にわかに暗雲がたちこめ、清涼殿に落雷が落ち炎上するという事件が発生しました。
この事件は菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた結果、菅原道真は雷神であるという信仰が生じます。

雷神は雨を降らせる神でもあります。
そのため讃岐の人々は菅原道真に祈願して雨乞いを行ったということなのではないかと思います。

八相宮 大野木豊年太鼓踊
 

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[2015/10/16 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

八幡堀まつり ライトアップ 『秀次の命日がお盆の中日って本当?』 



1585年、豊臣秀吉は関白に就任すると、甥(同母姉の子)の秀次に近江の蒲生郡・甲賀郡・野洲郡・坂田郡・浅井郡の5郡を与えました。
こうして秀次は17歳という若さで43万石の大名となりました。

秀次は蒲生郡の現在の近江八幡市に居城を構えることにしました。

日牟禮八幡宮 
↑ 日牟禮八幡宮です。
1590年、豊臣秀次は八幡山城を築くために、上の八幡宮を下の社に合祀しました。

八幡堀2

↑ 豊臣秀次が八幡山城の城下町に作った水路・八幡堀です。
なんとも歴史の古い水路だったのですね~。

1589年、秀吉53歳のとき、淀殿との間に鶴松という男子が誕生しました。
ところが鶴松は1591年、2歳で夭逝してしまいました。
秀吉は「自分にはもう跡取りは生まれない」と諦め、秀次を跡継ぎにしようと考えたようです。
秀吉は秀次を養嗣子とし、二代目関白としたのです。

八幡堀 店

ところが2年後の1593年、淀殿が秀頼を出産しました。
秀吉は甥の秀次ではなく、実子の秀頼を後継者にしたいと考えるようになりました。

1595年8月20日(文禄4年7月15日)、秀次は謀反を企てているとの疑いをかけられ、切腹に追い込まれました。享年28歳でした。
多くの家臣も切腹したり斬首されたりしました。

秀次の死後、秀吉は三条河原で秀次の子4名、姫君、側室・侍女・乳母ら39名を斬首しました。

毎年秀次の命日の7月15日に、滋賀県近江八幡市の八幡山で、秀次の供養が行われているそうです。

旧暦7月15日はお盆の中日です。
新暦では月遅れの8月15日をお盆の中日としている地域も多いですが、旧暦ではお盆の中日は7月15日だったのです。

秀吉はあえてお盆の中日を選んで秀次に切腹命令出したのかも?
それとも秀次の死後、お盆の中日である7月15日が秀次の命日であるとこじつけられたのかもしれません。

というのは3月21日は春彼岸の中日ですが、小野小町や和泉式部など多くの歴史上の有名人の命日が3月21日であるとの旨が、梅原猛さんの本に記されていたからです。

3月21日は春分の日で、真西に太陽が沈みます。
そのため西方極楽浄土を思い浮かべる日想観の修行を行うのによいとされ、先祖供養をする習慣が生じた、という説があります。
多くの歴史上の有名人の命日が3月21日になっているのは、この日が先祖供養をする彼岸の日だからでしょう。
 
7月15日が命日だという歴史上の有名人も探せば大勢いるかもしれません。

日本では先祖の霊はその子孫が慰霊するべき、とされています。
古事記や日本書紀にも疫病をもたらした祟り神・大物主を子孫であるオオタタネコが祀ったところ天下泰平になったという記述があります。

ところが、秀次の妻子は皆殺しされ、秀次の霊を慰霊するべき子孫がいません。
井沢元彦さんが「聖徳太子が怨霊になったのは聖徳太子の子孫が全員斑鳩寺で首をくくり慰霊するべき子孫がいなかったためではないか」という旨の文章を書いておられたと思います。
これと同じで秀次は死後怨霊になったと考えられたのではないでしょうか。

「雨月物語」の仏法僧という物語では、旅の親子が高野山で豊臣秀次の怨霊に出会うという話だそうです。(秀次は高野山で切腹したので)
また三条河原では秀次の一族の霊鬼が彷徨ったという話もあります。

通常、死んだ人は初七日や二七日などの法要を行って49日で成仏すると考えられています。
しかし秀次は子孫も全員殺されて法要する子孫がないので成仏しないと考えられたのではないでしょうか。

一般的にお盆は7月13日に迎え火をたいてご先祖様の霊をお迎えし、16日に送り火をたいてご先祖様の霊をあの世へお送りするとされていいます。

7月15日が命日だと、死んだその日のうちに霊は戻ってきて翌日には帰ってしまうので、恐ろしい怨霊の命日は7月15日がちょうどいいと考えられたのかなあ?なんぞと思ったりします。

八幡堀 

秀次が築城した八幡山城は秀吉が壊してしまいましたが、八幡堀は残されました。
たくさんの灯りは、まるで秀次のために献灯されたかのように思えます。

白雲館

↑ 八幡堀の前には白雲館が建てられています。

八幡堀まつり・・・2015年は9月19日、20日に行われるようです。(確認をお願いします。)



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[2015/09/19 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)