中の島公園 バラ 『バンパネラを捕らえるバラの罠』 

 大阪市中央区 中之島公園
撮影 2017年5月中旬 2008年5月中旬 

中の島公園 バラ 
2017年撮影

①バンパネラはバラが苦手だった。


国営ひたち海浜公園 ネモフィラ 『吸血鬼 紫女』 
↑ こちらの記事で萩尾望都さんの漫画「ポーの一族」についてお話ししました。
「ポーの一族」の主人公の美少年・エドガーはバンパネラ(吸血鬼)なのですー。

バンパネラが住むポーの村にはたくさんのバラが植えられていて、バンパネラたちはバラのスープを飲みます。
エドガーやアラン、メリーベルはバラのエッセンスをいれた紅茶を飲んだりしていましたね。
バンパネラは人の血とバラが好き。
長年そう思っていました。

ところが!
どうやらバンパネラがバラが好きだというのは萩尾望都さんの創作のようで
実際には吸血鬼はバラが苦手だそうです。

昔、ルーマニアや他の国では吸血鬼を発生っさせないように墓の周りに野ばらを植えていたそうです。

http://soranouta.fc2web.com/kikaku11/kikakuvanp-02.htm より引用

薔薇は魔女や人狼、吸血鬼などの様々な悪に対して、強力な力を持っている。薔薇の花は悪の眷属の肌を焼き、香は魔物を退ける。
ルーマニアとトランシルヴァニアでは、死体の上に野薔薇をひと枝置くことで、吸血鬼の誕生を防いだ。墓の上に置くと、吸血鬼の行動を防ぐ事が出来る。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/8574/dora4.htm より引用

吸血鬼だけでなく、人狼や魔女もバラが苦手のようです。
魔物全般がバラが苦手なのでしょう。

中の島公園 バラ2 
2017年撮影

②死体をセイヨウサンザシの杭で打ち付ける!

死体を杭で打ち付けるという行為は物質的に肉体を破壊するほか、死体を大地につなぎ止め、二度と起き上がることのないようにし、魂と肉体を完全に分離するという象徴的な意味も含む。
使用される杭の材質はトネリコ・ビャクシン・クロウメモドキ・セイヨウサンザシ・ポプラなどで、中でも特にセイヨウサンザシが最良とされる。
セイヨウサンザシはバラ科の潅木・低木で、冬の終わりと春の訪れを告げる植物として「良き希望」のシンボルとされた。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/6586/taijihou.html より引用

バンパネラを退治するためには心臓に杭をうちこみますが、その杭に最適なのがバラ科のセイヨウサンザシだというのも興味深いですね。
バンパネラはバラが苦手なのは、バラ科のセイヨウサンザシの杭で心臓を打ち抜かれたくないからだといえるかも。

中の島公園 バラ5 
2008年 撮影

③日本の土蜘蛛もバラ(茨)が苦手?
 
日本にも古くからバラの原種が自生しており、常陸国風土記には次のような記述があります。

「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすため、穴に茨(いばら)を仕掛け、佐伯を穴に追い込んだ。」

記紀や風土記には土蜘蛛と呼ばれる人も登場します。
この土蜘蛛も「穴に住む」と記されています。
佐伯と土蜘蛛は同一のものなのかもしれませんね。

中の島公園 バラ3
2008年 撮影

④土蜘蛛とは斬首された人の死霊?


一般に土蜘蛛は未開の民族のことだと考えられています。
でも、私は土蜘蛛とは斬首された人の死霊のことではないかと考えています。

その理由を説明しますね~♪

⑤亀石はドクロを模した石だった?


葛城一言主神社に『亀石』と呼ばれる石があります。

一言主神社 亀石

一言主神社 亀石

亀石と呼ばれる石は飛鳥にもありますが、妖怪ぬらりひょんの頭部にそっくりです。

亀石

飛鳥 亀石

妖怪ストリート ぬらりひょん 

妖怪ストリート ぬらりひょん〈中央)

飛鳥や一言主神社にある亀石とはドクロを模した石なのではないでしょうか。

⑥蜘蛛は頭部のない昆虫?


一言主神社には『土蜘蛛の塚』と呼ばれる石もあります。

一言主神社 土蜘蛛の塚  

土蜘蛛の塚

一言主神社の『土蜘蛛の塚』の下には土蜘蛛の胴体が、神殿の下には頭部が埋められていると言われています。

一言主神社の境内は山の中腹にあって長い階段を上っていくと神殿があるのですが、亀石がある場所はこの階段の下です。

一言主神社 階段

亀石は神殿の下にあるといえなくもありません。
『土蜘蛛の塚』が土蜘蛛の胴体を埋めた場所ならば、『亀石』は土蜘蛛の頭部を埋めた場所ではないでしょうか。

もう一度、『土蜘蛛の塚』の写真を見てみましょう。

一言主神社 土蜘蛛の塚

土蜘蛛の塚は上の写真の角度から見るとふたつのふくらみがあるように見え、蜘蛛の体に似ているように思えます

蜘蛛の体 

昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれていますが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされています。

土蜘蛛の塚に亀石をくっつけると、昆虫のような形になりますね。

それで閃いたのですが、昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないでしょうか。
そして斬首されて首のない人の死霊のことを土蜘蛛と呼んだのではないかと思うのです。

これが正しければ、土蜘蛛も吸血鬼や人狼と同様の魔物だということになります。

西洋の吸血鬼はバラ科のセイヨウモッコウの杭で打たれ、日本の土蜘蛛は茨が仕掛けられた穴に追い込まれる・・・

バラは洋の東西を問わず、魔物退治に効果的な植物であると考えられたようです。
それはバラの茎に鋭いトゲがあるためではないでしょうか。

⑦六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛は斬首された平将門の霊?

六波羅蜜寺 追儺式3 
六波羅蜜寺 追儺式に登場した土蜘蛛

節分の追儺式には鬼が登場するのが一般的ですが、六波羅蜜寺の追儺式には土蜘蛛が登場します。

六波羅蜜寺を創建した空也は平将門の怨霊を熱心に慰霊した人でした。
平将門は東国に独立国をつくりましたが、朝廷が派遣した藤原秀郷・平貞盛らの軍と戦って戦死しました。
将門の首は京に持ち帰られて晒されました。将門は首のないゾンビ、土蜘蛛だったのです。
六波羅蜜寺の追儺式に登場する土蜘蛛は将門の霊ではないかと思ったりします。

中の島公園 バラ4 
2008年 撮影



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[2017/05/22 16:36] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 桜 『勝尾寺は鰹寺?』 

大阪府箕面市 勝尾寺
撮影 2017年4月24日

勝尾寺 多宝塔 しだれ桜

①王に勝った寺

727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)がここに草庵を築き、765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしました。 
777年、開成は大般若経600巻の書写をやり遂げ、この場所に弥勒寺を創建しました。
780年、妙観が十一面千手観世音菩薩立像を刻み、本尊として安置しました。
880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜りました。
しかし、「王に勝った寺」とはあまりに畏れ多いとして、「王」を「尾」として勝尾寺と号したそうです。

勝尾寺 多宝塔 石楠花

②勝尾寺での祈祷もむなしく、清和天皇は881年に崩御されていた!

いやー、この話はおかしいですね!
というのは、「880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があった」というのですが、翌年の881年、清和天皇は崩御されているんですよね~。

清和天皇は858年、9歳で即位しました。
平家物語には惟仁親王(清和天皇)と惟喬親王のどちらを皇太子にするかでもめたことが記されています。
876年、第一皇子の陽成天皇に譲位し、879年に出家して畿内巡幸の旅をしました。
880年、丹波国水尾の地で絶食を行うなど厳しい苦行を行っています。
その後左大臣源融の別邸棲霞観で発病し、881年、粟田の円覚寺で崩御されました。

880年、清和天皇は苦行を行ったせいで病となり、そのため行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行ったのでしょう。
ですが清和天皇は崩御されてしまったので、行巡の祈祷は効験があったとはいえなくはないですか?

勝尾寺 多宝塔 桜

③「王に勝った寺」は日本語的におかしい。


また清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜ったというのもおかしいですね。

もしも本当に行巡の祈祷の効験があったのなら、「王に勝った寺」というのは日本語的におかしいです。
「王の病に勝った寺」と言うべきで、勝尾寺という寺名の由来を「勝王寺からくる」とするのは、ちょっとこじつけっぽく思えてしまう~。

また、実際には清和天皇はそのまま崩御されたので、行巡の祈祷の効験はなかったといいうことになります。

行巡が「清和天皇、死ね!」と祈祷していたと考えると「王(天皇)に勝った寺」というのは筋が通りそうに思えますが~(笑)

正確に言うと清和天皇は天皇であって王でもありませんしね。

王とはもともとは君主を意味する言葉でしたが、日本では国の君主には天皇と言う称号が使われていますね。
天皇の子の男子で、親王宣下を受けた者は親王と呼ばれました。
王とは天皇の子の男子ではあっても親王宣下をうけていない者のことを言いました。

勝尾寺-二階堂 しだれ桜

④勝尾寺は鰹寺?

勝尾寺という寺名は勝王寺からくるのではなく、もともとは鰹寺でそれが転じて勝尾寺になったのではないかと想ったりもします。

えーーっ、勝尾寺があるのは山の中やん、それなのになんで鰹なのって?

⑤ハンセン病にかかった皇子

①で765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしたと書きましたね。
開成は「かいじょう」と読み、静岡県磐田市の白山神社の創建説話に登場する海上皇子(戒成皇子/桓武天皇の第四皇子)と関係があるのではないかと前田速男さんが指摘されています。

また愛知県新城市の白山神社の創建説話には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子が登場します。
こちらの開成皇子は勝尾寺の開成と同じ字ですね。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子
で、海人皇子と開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられています。
開成皇子は何の病になったのかわかりませんが海人皇子についてはハンセン病になったとされています。

3人の父親は異なりますが、ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるのではないでしょうか。

勝尾寺 山門  

⑥実際にハンセン病にかかったわけではない、と思う。


日本書紀にトガノの鹿という話が記されています。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(トガノの鹿)

鹿の夏毛には白い斑点があります。
その白い斑点が霜や塩に喩えられたのでしょう。

そして謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説があります。

また日本書紀は次のような話もあります。


612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。

ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

つまり、次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないかと思います。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

⑦ハンセン病の古名のひとつ、カタヰ。


ハンセン病は古にはらい病、ナリンボ、ドス、カタヰ(カタイ)などとも言ったそうです。
海上皇子という名前は海の魚を想起させますし、魚偏に堅いと書けば鰹となりますね。

そういうわけで、鰹寺から勝尾寺になったのではないかと思ったりするんですが、あまりにトンデモですかね?

 勝尾寺 鐘楼 桜


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[2017/04/25 16:36] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

金熊寺 梅 『神のお告げの税金対策?』 


大阪府泉南市 金熊寺 信達神社
2012年3月中旬 撮影


金熊寺 梅

①金峯・熊野の神を祀る寺

金熊寺は、役の行者(634?ー701?)が創建したと伝えられています。
隣にある信達神社は古くは金熊寺大権現宮といい、金熊寺の鎮守でした。

信達神社 
信達神社

昔、海岸にたどりついた神武天皇の像を祀ったのが始まりで、
682年に役小角が金峯・熊野の神を勧請して本殿に合祀したと伝わります。

②金熊寺は金峯山と熊野三山からとった?

金峯とは吉野にある金峯山のことだと思います。
金峯山寺は役行者を開基とする神仏習合の寺院です。

 金峯山寺 蔵王堂 桜

金峯山寺 蔵王堂

熊野には熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)があり、やはり修験道が盛んでした。

おそらく金熊寺という寺名は金峯・熊野からとったのでしょう。
そういえば、熊野三山はお詣りしたことがないなあ~。
近いうちに行ってみたいです。

金熊寺 梅林 

③なぜ梅が植えられたの?


300年ほど前、信達神社の神主・矢野氏に「この地に梅樹を植えると神領益々隆盛となる」のお告げがあり、矢野氏一族によって白梅をメインに2000本の梅が植えられたといいます。

ここに梅が植えられたのは、熊野が紀州(和歌山県)にあることと関係がないでしょうか。
紀州といえば南高梅が有名ですね。

紀州で梅が栽培されるようになったのは、江戸時代とされます。
紀州藩田辺領の農民がやせ地は免租地(租税の一部または全部を免除する土地)となるということで、梅の栽培を始めたといいます。

金熊寺周辺で梅が栽培されるようになったのは300年ほど前ということですから、江戸時代ですね。
紀州藩田辺領と同じく、租税の免除を狙ったのではないでしょうか。

それを神様のお告げがあったなんぞと表現したのでは?

金熊寺 梅林


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[2017/03/23 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 梅 『豊臣秀吉は重瞳だった?(閲覧注意!)』 


大阪市中央区 大阪城
2011年3月撮影

大坂城 梅 
太閤さん(豊臣秀吉)の城と親しまれている大阪城

①豊臣秀吉は重瞳だった?


大阪城 花水木 『六本指の秀吉が指を切断しなかった理由』  

↑ こちらの記事で、豊臣秀吉は六本指であったと書きました。

それだけでなく、豊臣秀吉は重瞳だったという話もあります。

重瞳とは目の中に複数の瞳があることをいいます。

多瞳孔症とか多瞳孔というそうです。
ケースによってはものが二重に見えたりすることがあり、そういう場合は手術をする必要があるということです。
だけど下の動画を見ると美しいです♡



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

②瞳孔膜遺残

上の動画の4:10あたりでミケランジェロのダビデ像のアップが登場します。
ダビデの瞳、とてもキュートなハート形です。
瞳孔膜遺残と説明されています。

http://blog.sannoudaiganka.jp/?eid=140621
こちらのブログによると
胎児が眼球を形成していく過程では瞳孔は膜でおおわれており、だんだん萎縮して消失するが、ときどきこの瞳孔膜が残ってしまうことがあるということです。

また、世の中でもっとも多い先天異常だとあります。

大坂城 梅2

③貴人の相


古代の中国では重瞳は貴人の相とされていたみたいですね。
豊臣秀吉のほか、平清盛、源義経も重瞳だったと記した書物があるそうです。
中国で重瞳は貴人の相とされているのをうけて、事実ではないが、豊臣秀吉・平清盛・源義経らを重瞳であるという設定で物語を描いたと考えられています。

それとも、ダビデのように瞳孔膜遺残だったのかも?

大坂城 梅3

④蒼頡(そうけつ)と方相氏

中国の重瞳の貴人のひとり、 倉頡(そうけつ)の肖像画を見てみましょうー。

File:Cangjie.png

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Cangjie.png よりお借りしました。
作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

倉頡(そうけつ)は漢字を発明したとされる伝説上の人物で、 重瞳四目といわれます。
帝舜・項羽も四つの目で描かれるそうです。

これ ↓ に似ていますね!

吉田神社 節分祭 鬼と方相氏

吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏です。
吉田神社では方相氏は赤鬼・青鬼・黄鬼と闘いますが、平安時代の節分に鬼は登場しません。
平安時代の節分の日には、方相氏がシン子を従えて『鬼やらい」といいながら宮中を練り歩いていたようです。

③方相氏は体内に冬の気をすいこんだあと矢で射られた。


大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。
方相氏の恐ろし気な風貌が鬼と混同されたなどといわれますが、そうではないと私は考えます。

竹田恒泰さんが「雛人形は厄を吸い込むものだった」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。
方相氏も雛人形と同じように厄と言うか、冬の気、鬼の気のようなものを吸い取る役割を担っていたのでしょう。
そして、体いっぱいに冬の気、鬼の気を吸い込ませたあと、方相氏ごと矢で射て冬の気・鬼の気を退治してしまうということだったのではないかと想像します。
方相氏はみがわり人形のようなものだったのだと思います。

大坂城 ひよどり

④方相氏は2体の牛が合体している?


さて、方相氏はなぜ四ツ目なのでしょうか。

以前、ネットで以下のような内容の記事をよみました。今、ぐぐっても見つからないのですが~。(すいません!)

(い)方相氏は中国の天神、蚩蚘(シュウ)ではないか。
(ろ)蚩蚘は炎帝神農氏の子孫であり、兵器を発明し、霧をあやつる力を持つ神。
(は)『帰蔵』は蚩蚘の姿を『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首)』と記す。
(に)『疏首』というのは、首が二つあるということだ。
(ほ)蚩蚘とは二頭の獣が合体した神ではないか。
(へ)そう考えると蚩蚘が『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)』をもっていることの説明もがつく。
(と)『述異記』には『銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ』とある。
(ち)『四つの目』とあるのも二頭が合体しているのだろう。
(り)二頭を合わせると足は8本だが、人の体をしているので、8本の足のうち2本が脚で、残りの6本が手(腕)ということだろう。

すばらしい!
『述異記』に『牛の蹄』とあるので、蚩蚘や方相氏は2頭の獣が合体しているのでしょう。

⑤蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されている?

私は蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されていると思います。


待乳山聖天では聖天さん(大聖歓喜天)をお祀りしています。
聖天さんとは像頭をした男女双体のみほとけです。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんには次のような伝説があります。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 

つまり、聖天さんとは鬼王ビナヤキャ(=マラケラレツ王)とビナヤキャ女神(十一面観音の化身)の男女双体のみほとけなのです。

上の動画をもう一度見てください。
相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音の化身ビナヤキャ女紳です。

⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面


そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


⑤にあげた聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)

蚩蚘や方相氏、中国の倉頡・帝舜・項羽、日本の豊臣秀吉・平清盛・源頼朝らが重瞳とされるのは、
彼らがもともとは荒魂であったが、女神(和魂)と結合して御霊となったと考えられたためではないでしょうか。
そして彼らが貴人と考えられるのは、彼らが御霊であるからではないかと思います。

大坂城 夕景


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[2017/03/21 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

星田妙見宮 紅葉 『妙見大菩薩はたたら製鉄の神だった?』 

   大阪府交野市 星田妙見宮
2016年11月下旬 撮影


星田妙見宮 鳥居 紅葉 
星田妙見宮

●星の町・交野ヶ原

大阪府枚方市・交野市あたりは古には交野ヶ原と呼ばれていました。
在原業平がこんな歌を詠んでいます。

狩りくらし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に われは来にけり
(狩りをしていてすっかり日が暮れてしまった。今夜は織女姫に宿を借りることにしよう。我々は天の川の河原にやってきたのだから。)

在原業平が惟喬親王の狩りのお供をして、渚の院(大阪府枚方市)で詠んだ歌とされます。

京阪御殿山駅の東北に渚の院跡があり、その1kmほど南に天野川という川が流れています。
天野川をはさんで中山観音寺跡と機物(はたもの)神社があり、中山観音寺跡はアルタイル(牽牛星・彦星)、機物神社はベガ(織姫星)を表しているとされます。
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭

また天野川をずっと遡っていくと磐船神社があり、ニギハヤヒが降臨した場所だとされていますが
『雲陽誌』には『ニギハヤヒは星の神である』と記されています。

星田・星が丘など星の字のつく地名もおおいですし、星田神社・天田神社・星の森などもあります。
今日、お話ししたいと思っている星田妙見宮もここにあります。

 星田妙見宮

星田妙見宮 絵馬堂

●2組あったアルタイルとベガに模した寺社

妙見山の頂上近くに星田妙見宮の拝殿があり、その奥に織女石が祀られています。
たぶんこの織女石が御神体なのでしょう。本殿はないようです。

星田妙見宮 織女石 

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)

星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸には天田神社があり、天田(豊に実る田)の神を祀っているそうです。今回はお参りできなかったのですが。
で、この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたということです。

最近の田おこしは耕運機で行うことがほとんどですが、昔は牛に犂(すき)をひかせて行っていたのです。
つまり牽牛とは牛を牽いて田を耕す神というわけです。

飛鳥坐神社 おんだ祭 田おこし 
飛鳥坐神社 おんだ祭 天狗が牛に犂をひかせて田を耕すシーン


中山観音寺&織物神社のほかにもアルタイル(牽牛星/天田神社)とベガ(織女星/星田妙見宮の織女石)があったのですね~。

●隕石が落下した山

星田妙見宮-説明版

816年、ここに隕石が落ちたことで山が吹き飛ばされ、馬蹄形になっていると説明版に記されています。

星田妙見宮 滝の説明版 

どうやら816年ここに隕石が落ちたというのは、星田妙見宮に伝わっていることのようですね。
正史に記録があるというわけではなさそうです。

そして落ちたのはペルセウス座流星群の母彗星スイフト・タッフル彗星からの隕石であると記されています。

星田妙見宮 登龍の滝 

星田妙見宮 登龍の滝 (わかりづらいですが、写真向かって左の黒っぽく見える縦の筋あたりに水が流れ落ちています。)

ちなみに星田妙見宮には隕石が落ちてきたという伝説はあっても、本物の隕石が存在しているわけではなさそうです。

●古の人々は巨石を空から落ちてきた星だと考えた?


『雲陽誌』には『星降って石となる』という古語があると記されています。
それが隕石であるかどうかは別にして、古の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えたのではないでしょうか。

磐船神社 天の磐船

上の写真は先ほどもご紹介した磐船神社の御神体・天の磐船です。
磐船神社の御祭神はニギハヤヒという物部氏の祖神で、ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったとされています。
この石は隕石ではありませんが、古の人は巨石を空から落ちてきた星であると考え、
「ニギハヤヒがこの天の磐船を操って地上に天下った」という物語を創作したのではないでしょうか。

物部氏は鉄鍛冶技術に長けていた?

古事記には天津麻羅(あまつまら)という神が登場します。
先代旧事本紀では次のように記されています。

「倭の鍛師(かなち)等の祖、天津真浦(あまつまうら)」
「物部造等の祖、天津麻良(あまつまら)、阿刀造等の祖、天麻良(あめのまら)」

阿刀氏はニギハヤヒの子のウマシマジノミコトを祖神とする氏族です。
物部氏はニギハヤヒを祖神としているので、同族と考えていいでしょう。
鍛師は鍛冶師のことだと思います。
ここから物部氏は製鉄や鍛冶の技術に長けた氏族だったのではないかと想像されます。



上はたたら吹きの様子を撮影した動画です。(動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。)
映像が大変美しいです。

この動画を見るとわかるようにたたら製鉄は燃えあがる炎の中で行われます。
このたたら製鉄の様子が、夜空に光る星に喩えられたのではないかという説があります。

そして交野ヶ原のあたりには肩野物部氏が住んでいました。

●妙見大菩薩はたたら製鉄の神だった?

星田妙見宮の御祭神はアメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビですがパンフレットによるとこれらの神々は、「仏教では北辰妙見大菩薩、道教では太上神仙鎮宅霊符神という」と書いてあります。

http://www.raifuku.net/special/wolf/details/myoken1.htm

↑ こちらに妙見星神の図像が掲載されています。
妙見星神の上に描かれている星を描いてみました。↓

妙見星神の上部に描かれた星 

上の三つ星は婁(たたらほし/おひつじ座β星)下の七つ星は北斗七星だと思います。

二十八宿
File:Twenty-eight mansions.jpg

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Twenty-eight_mansions.jpg?uselang=ja )よりお借りしました。

たたらというのは古代の製鉄にもちいる鞴(ふいご)のことで、たたら製鉄という言葉もここからきます。

File:Bellows 2 (PSF) generalized.png

ウィキペディアよりお借りした鞴(たたら)の図です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bellows_2_(PSF)_generalized.png?uselang=ja
作者はPearson Scott Foresmanさんです。ありがとうございます。

鞴はこのように三角形の構造になっているので、それに似ているということで「たたらほし」というのでしょう。
頭上にたたらぼしを戴く妙見星神(妙見大菩薩)はたたら製鉄の神なのではないでしょうか?

星田妙見宮 紅葉 

星田妙見宮 参道


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[2016/12/03 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

星田園地 星のブランコ 紅葉 『物部王朝の太陽神』 




↑ 
巨人の真央ちゃんが巨人の舞ちゃんをおっかける!
美人姉妹だよね♡
写真撮りにいきたいところがたくさんでてくるのも嬉しい~。
オモシロイけど、舞ちゃんちょっとかわいそう~。

大阪府交野市 星田園地・磐船神社
2009年11月下旬 撮影


星のブランコ 紅葉3 
●星のブランコ

星田園地の展望台から見下ろすと、見渡す限りオレンジ色の紅葉が広がっていました。
写真に写っている橋は『星のブランコ』と呼ばれています。

●ニギハヤヒを祀る磐船神社

星田園地の近くに磐船神社という神社がありニギハヤヒを祀っています。

磐船神社 天の磐船

上の写真は磐船神社のご神体の『天の磐船』です。

●初代神武天皇より早く天下っていたニギハヤヒ

初代神武天皇は日向より東征をめざしますが、出立の際、シオツチの翁が「東にはニギハヤヒが天の磐船を操ってすでに天下っている。」と発言しています。
磐船神社はこのニギハヤヒが天下った場所だとされています。

ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

ニギハヤヒが操った天の磐船とはUFOのようなものではないか、という人もいます。
ニギハヤヒは天の磐船からこんなオレンジ色の風景を眺めたのかもしれませんね。
 
星のブランコ 紅葉2


●星の神が住む交野ヶ原

大阪府枚方市・交野市のあたりは平安時代には交野ヶ原と呼ばれていました。
交野ヶ原を流れる川は天の川といい、天の川伝説発祥の地であるともいわれています。
天の川を挟んで中山観音寺跡(観音山公園)と機物(はたもの)神社が向かいあっていますが、中山観音寺跡はアルタイル(牽牛星・彦星)、機物神社はベガ(織姫星)を表しているとされます。
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭

織姫と牽牛が年に一度の逢瀬を楽しむとされる逢合橋もあります。
逢合橋はコンクリート造りの味もそっけもない橋で絶句しましたが(笑)。

このあたりには星田・星ヶ丘など星の字のつく地名も多いです。

●ニギハヤヒは星の神

ニギハヤヒは物部氏の租神とされますが、かつてこのあたりには肩野物部氏が住んでいました。

物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説があるります。

また雲陽誌という書物には『ニギハヤヒは星の神』だと記されています。


●ニギハヤヒはもともとは太陽神だった?

古事記や日本書紀では単にニギハヤヒと記されていますが、先代旧事本紀では『天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)』と記されています。
また先代旧事本記はニニギの兄・天火明命(アメノホアカリ)と同一の神としています。

ニニギは天照大神の孫で、天照大神に命じられて葦原中国に天下った神です。

本当の天照大神とは天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒのことではないかとする説があります。
ニギハヤヒはもともとは太陽の神であったのに、神武に政権を奪われて夜の神、星の神へと神格を変えられたのではないでしょうか。

星のブランコ 紅葉 



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[2016/12/02 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大威徳寺 紅葉 『牛の盆』 

大阪府岸和田市 大威徳寺
2013年11月下旬撮影

 
大威徳寺 多宝塔 紅葉
塔百景34


●牛の神

牛滝の大威徳寺では牛に乗る姿の大威徳明王が祀られています。
そのため牛の神として信仰を集め、農耕に牛を用いていたころは3月25日・8月25日の祭日には農家は角巻・首たすき・ユタンなどで牛を着飾って大威徳寺にお参りしたそうです。

大威徳寺 牛のレリーフ 

牛の寺らしく、牛をモチーフにしたレリーフがありました。

●旧暦7月7日は牛の節句


大威徳寺は牛滝山山中にありますが、昔は牛滝山の二の滝付近に牛神の祭場もあったようです。

旧暦7月7日は牛の盆、牛の節句ともいわれ、牛神様を祀る習慣がありました。
泥や野菜で牛の人形をつくって祭場に飾り、川で牛を洗い浄めて祭場に連れていき、お参りをしたそうです。

旧安西家住宅 薬研と七夕馬

上の写真は千葉県木更津市の旧安西家住宅に置かれてあった七夕馬です。
大威徳寺の近所では泥や野菜で牛の人形を作ったということですが、このように馬の人形を作る地域もありました。
詳しくはこちらの記事を参照してください。→ 旧安西家住宅 『七夕馬と天然痘』 

●七夕はお盆の入りの行事だった。

現在ではお盆は8月15日を中心に行われていますが、旧暦のお盆は7月15日を中心とした行事でした。
7月7日は七夕ですが、旧暦では七夕はお盆の入りの行事だったのです。
これで『牛の盆』の『盆』の部分はわかりました。

大威徳寺 紅葉2 

●なぜ牛の人形を作ったり、牛を祭場につれていったのか?


七夕は牽牛と織姫が年に1度の逢瀬を楽しむ日とされていますね。
『牛の盆』の『牛』はこの牽牛からくるのではないでしょうか。

牽牛の「牽」は「牽く」と書いて「ひく」と読みます。
「引く」「曳く」などと同じ意味です。

つまり牽牛とは「牛を牽く」という意味で、牛を祭場へつれていくことは、まさしく「牽牛」なのですね。

大威徳寺 本堂 紅葉 

●御霊・荒魂
和魂

さきほど七夕はお盆の入りの行事であると書きましたが、お盆と逢瀬はどう関係があるのでしょうか。

前回も書いたのですが、神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)に分けられるといわれます。
そして男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
すると御霊とは男女双体となると思います。

御霊(神の本質)・・・・・・・・・男女双体
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神
和魂(神の和やかな側面)・・・女神


大威徳寺 錦秋の滝 紅葉 

錦秋の滝 (二の滝ではありません。すいません。)

●サルタヒコと
アメノウズメの物語

男女双体の神といえば道祖神があります。
道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体と神といわれています。
そのサルタヒコとアメノウズメには次のような物語があります。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。
その後、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコを彼の故郷の伊勢へと送り届け、サルタヒコの名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。
ここからアメノウズメは猿女君と呼ばれるようになりました。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)


●アメノウズメはセックスの女神だった。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国へ天下ったのち、アメノウズメに『サルタヒコをもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じています。
『彼(サルタヒコ)の名前を伝えて』というのは、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコと結婚せよ』と命じたということだと思います。
『(サルタヒコに)仕え祭れ』というのは『性的に奉仕せよ』ということでしょう。
アメノウズメは天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせていますし、サルタヒコに出会ったときにも胸を開き、帯をずらして誘惑しています。
アメノウズメはセックスの女神なのです。

●貝は女陰の比喩?

サルタヒコは伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んでいますが、貝は女陰を比喩したものだと思われます。
つまり、サルタヒコはアメノウズメの女陰に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだということでしょう。

道祖神はサルタヒコとアメノウズメが手を繋ぎ合った姿をしていますが、手を繋ぎあっているのではなく、アメノウズメによってサルタヒコの手がおさえつけられ、身動きできなくなった状態を表していたのですね。

●七夕は牽牛が死ぬ日

サルタヒコと牽牛、アメノウズメと織女は習合されているのかもしれません。

お盆には悪い霊も戻ってくると考えられ、そういった悪い霊が祟らないように女神と和合させる必要があると考えられたところから、お盆の入りの行事として七夕があるのだと思います。

そしてサルタヒコはアメノウズメと和合することによって死んでいます。
牽牛も織女と和合することによって死んだのでしょう。
七夕は牽牛が死ぬ日なのです。
それで7月7日は牛の盆とされているのではないでしょうか。

御霊(神の本質)・・・男女双体・・・道祖神
荒魂(神の荒々しい側面)・・・・男神・・・・サルタヒコ・・・・・牽牛
 和魂(神の和やかな側面)・・・女神・・・・アメノウズメ・・・織女

大威徳寺 多宝塔 紅葉2  


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[2016/11/29 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 紅葉 『海上皇子と開成皇子』 

大阪府箕面市 勝尾寺
2006年11月18日(1枚目) 2011年12月4日(1枚目をのぞく) 撮影

勝尾寺 仁王門 紅葉 

●海上皇子と開成皇子

今、前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本を読んでいますが
ちょっと興味深いことが書いてありました。

静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうです。


①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになりました。
その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためです。


勝尾寺の創建説話に光仁天皇の皇子・開成皇子が登場します。
勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし
765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りたというのです。

前田速男さんはこの開成皇子と海上皇子には関係があるのではないかと指摘されています。

勝尾寺 霧 紅葉 

●春日王と春日宮天皇(志貴皇子)は同一人物?

もしかして、海上皇子と開成皇子は同一人物ではなでしょうか?

奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説がありました。
ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されています。
また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思います。
そこから私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えました。

●海上皇子と開成皇子は同一人物?

海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、ということですが
桓武天皇は光仁天皇の皇子なので、開成皇子と桓武天皇は兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになります。
志貴皇子と春日王の例もあるように、開成皇子と海上皇子は同一人物ではないでしょうか?

志貴皇子は施基皇子、志紀皇子とも書きます。
古には音が同じであれば、さまざまな字をあてて名前を表記していたのかもしれません。

勝尾寺 鐘楼 紅葉 

●志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が!

光仁天皇は志貴皇子の皇子です。
志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっています。
そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前があります。
つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになります。
しかも血のつながりのある志貴皇子・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのです。


●後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子

また愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているそうです。

②御殿において白雀を飼はせらる
まさに餌をやらんとすれば飛び放る
再び捕へんとして穢れし大地を踏まる
悪病にかかりて殿を出で
漂泊 旅して東原に至る

これは内容が①の伝説とまったく同じです。
名前は開成皇子となっていて、勝尾寺の創建にかかわった開成皇子と同名です。

②の文書は①の伝説をもとにしてつくられたもので、開成皇子を後醍醐天皇の子と変えたのかもしれませんね。

それともポーの一族のエドガーやメリーベルのように、開成皇子は時を超えて存在しているとか?

勝尾寺 多宝塔 二階堂 紅葉

●勝尾寺には白山信仰があった?

①の海上皇子、②の開成皇子はどちらも白山神社に伝わるもので、勝尾寺の創建は開成皇子とされています。
ということは、もしかして勝尾寺には白山信仰があったのかもしれませんね。

勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説があります。

参照/
勝尾寺 雨 紫陽花 『白い神と黒い神』 

白髪の娘は白山の神をイメージしたものなのかも?

また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘ということですが、越中とは富山県のことです。
富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物なのかな、と思ったりしますが
五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域でした。

 五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落



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[2016/11/18 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 夕景  『豊臣秀吉とBL』 

 大阪市中央区 大阪城
2010年11月7日 撮影


大坂城 夕景

●太閤さんの城


大阪城は『太閤さんの城』と呼ばれています。
太閤とは摂政または関白の職を子弟に譲った人物のことですが、一般に『太閤さん』といえば豊臣秀吉のことをさします。
しかし秀吉が築城した大阪城は1614年の大坂夏の陣で焼失し、現存する櫓や石垣などは江戸幕府によって築造されたものなのだそうです。

豊国神社(長浜)豊公神社 

豊国神社(長浜) 豊公祭


●秀吉はたいへんな女好きだった。

秀吉は当時たしなみとされていた男色には興味がなく、たいへんな女好きで、多くの側室をもっていました。

秀吉が美少年の小姓・池田信輝の三男・羽柴長吉を呼び、「姉か妹はいないか」と聞いたという話は有名ですね。
羽柴長吉があまりに美しいので、彼に姉妹があるとすれば、相当な美女だろうと秀吉は思ったというのです。

 豊国神社(長浜) 豊公祭 

滋賀県長浜市 豊国神社 豊公祭


●秀吉は少しはBLに興味があった?

しかし、最近『BL新日本史』という本を図書館で借りて読んだところ、「秀吉は全く男色に興味がなかったというわけではない。」というようなことが記されていました。
その本は返却期限がきて返してしまったので、ネットで調べてみました。
『石田軍記』に「秀吉と石田三成がBLの関係だった」と記されており、また南方熊楠は「秀吉と織田信忠がBLの関係だった」と言っているそうです。

金剛寺 菊滋童 屏風

菊滋童の屏風 金剛寺(奈良県五條市)


●戦国時代、なぜBLが流行したのか?

戦国時代にBLが流行したのはなぜなのでしょうか。
それは生理的な理由というよりも、信仰上の理由があったのではないかと私は考えています。

最近、町のあちこちで菊が飾られているのを見かけます。
旧暦では今頃が重陽の節句ですね。

9月9日は重陽の節句(菊の節句)でたいへんおめでたい日とされていましたが、
重陽の節句には菊滋童の舞が舞われたり、菊滋童の絵が描かれた屏風が展示されたりします。

周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。


菊滋童は菊の露を飲んで700年の長寿を得たとされる伝説の少年です。
秀吉が朝廷より豊臣姓を賜ったのは天正14年9月9日ですが、吉日ということでこの日が選ばれたのでしょう。

 法輪寺 重陽神事2

重陽神事 菊滋童の舞 (京都 法輪寺)

陰陽道では奇数を陽、偶数を陰とします。
そして性別では男性が陽で、女性が陰です。
男性と男性が重なることはまさしく重陽じゃないですか。

上のgifアニメは能・菊滋童ですが、ウィキペディアの男色のページに次のように記されています。

「この時代に成立した能や狂言には男色がとても多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B#.E5.AE.A4.E7.94.BA.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.9A.E6.AD.A6.E5.A3.AB.E3.81.AE.E7.94.B7.E8.89.B2より引用

そして重陽は不老長寿の象徴なので
BLは不老長寿をもたらす呪術として尊ばれたのではないかと思うのです。
菊は昔からBLの象徴でもありました。

昔の人にとって陰陽道は科学だったそうなので、秀吉も多少はたしなんだのではないかと思います。

金剛寺 菊枕 

菊枕 金剛寺(奈良県五條市)


●不老長寿とは子孫繁栄のこと?

実際には菊滋童のように700年も生きるのは不可能で、不老長寿とは子孫繁栄のことだと聞いたことがあります。
しかし秀吉は子供にめぐまれませんでした。
南殿との間に生まれた長子・羽柴秀勝は6歳で夭折。
淀殿との間に生まれた次男・豊臣鶴松は3歳で夭折。
そこで秀吉は甥の豊臣秀次を養子としましたが27歳のとき秀吉に切腹を命じられて没しました。
秀次を養子としたあと淀殿との間に三男・豊臣秀頼がうまれたため、秀吉は秀次を疎んで切腹を命じたという説があります。
こうして秀吉の死後秀頼は秀吉の跡をつぐのですが、しだいに徳川家康が権力を握るようになっていきます。
そして1615年の大阪夏の陣で、大阪城天守閣は炎上し、秀頼は母親の淀殿とともに自害して果てたのです。
享年23歳でした。
こうして豊臣家は滅亡してしまいました。

秀吉が不老長寿の呪術ともいえるBLにもっと励んでいれば、秀吉の子孫は繁栄したかも?
案外、秀吉の子孫が断絶してしまったため、「秀吉はBLに興味がなかった」などと言われているのだったりして?
んなわけないか。

大坂城 夕景



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[2016/10/30 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

叡福寺 夕景 桜紅葉 『太子廟には鳥が巣をつくらない』 

大阪府南河内郡 叡福寺
2010年11月6日 撮影


叡福寺 多宝塔 夕景 
塔百景25

叡福寺境内の奥に叡福寺北古墳があり、聖徳太子廟に治定されています。
↓ 立派な扉がついていますが、明治時代にコンクリートで塞がれたので中に入ることはできません。

太子廟 

●太子廟七不思議


太子廟には不思議な言い伝えがあり太子廟七不思議と言われています。

①御廟内には松や笹が生えない。
②鳥が巣を造らない。
③大雨が降っても御廟の土が崩れない。
④御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
⑤メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(1054年)に発見された。
⑥御廟の西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふいたものである。
⑦894年、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かく柔らかかった。

叡福寺 仁王像 

●古代、鳥は死の象徴だった?

この太子廟七不思議の中で「②鳥が巣を造らない。」というのが気になっています。

現代人にとって鳥は希望の象徴で「翼ください」なんて歌もありますね。
けれど古代人にとっては鳥は希望の象徴ではなく、死の象徴であったように思われます。

というのは、古事記に「死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立った」「鳥たちがアメノワカヒコの葬儀を執り行う」などの記述があるからです。
またササキという鳥がいますが、これに御をつけるとミササギ(陵)となります。
昔の人は死んだ人の霊は鳥になって空へ飛んでいくと考えたのではないでしょうか。

巨大な前方後円墳が地上からではその形が認識できず、飛行機などに乗って高いところから見下ろすことによってようやくその形が認識できるのも、古墳が鳥の視線を意識して作られているためだと思います。



大阪府堺市 仁徳天皇陵 きれいな前方後円墳の形がわかりますね。



聖徳太子廟 円墳なのだそうですが、こちらは周囲にも木が茂っているせいか、よく形がわかりませんね。


●聖徳太子の棺の中に遺体がなかった。

そして太子廟七不思議にはありませんが、「聖徳太子の棺の中を調べてみたところ遺体がなかった」という伝説もあります。

すなわち「②鳥が巣を造らない。」というのは「棺の中に聖徳太子の遺体はない。」ということなのではないでしょうか。
聖徳太子の遺体はヤマトタケルのように鳥となってとびたっていってしまったと昔の人は考えたために「②鳥が巣を造らない。」などと言われているのではないでしょうか。

叡福寺 桜紅葉 
 
叡福寺境内よりPLの塔を望む

叡福寺境内よりPLの塔を望む。




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[2016/10/29 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)