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阪急電車 十三付近 『十三という地名は13番目の月の神からくる?』 


大阪市 阪急十三駅付近

阪急電車 十三大橋2

撮り初めは撮り鉄でw
  
①「十三という地名の由来


十三(じゅうそう)駅前商店街を抜けたところに神津神社があるのですが、その神津神社のHPに十三(じゅうそう)という地名の由来についての詳しい説明がありました。
http://kamitsujinja.ec-net.jp/jusonoyurai.html

①十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目だった。

②中津の南浜に住む重蔵という長者が加島へ遊びにいくとき、十三の渡しに舟をつないでいたため

③戦国時代の武将が戦死すると一族郎党妻子すべてが死に、それを憐れんで人々が十三塚を作った。(柳田国男氏)

④条里制の十三条(天坊幸彦氏)

⑤十三は堤(つつみ)の意味(池田末則氏)

⑥中津の富島という地名からくる。


十三渡し跡

このうち、②の重蔵という長者からくるという説については、こちらの記事でかきました。

なにわ淀川花火大会  『十三と近藤重蔵』 
重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 
神津神社 十三戎(とみえびす) 『トミヒコと土左衛門と戎の関係』 

石川県に重蔵神社という神社があるのにはびっくりです。
重蔵とは十三のあて字であり、十三はトミヒコ(ナガスネヒコの別名)やドザエモン(土佐衛門)の事だと思います!

神津神社 
神津神社

②13時は『頭のおかしい人間』


今日は十三について、重蔵=トミヒコ=ドザエモンとは別の仮説についてお話ししたいと思います。

随分以前ですが、ネットでこんな内容の記事を読みました。
アドレスをメモっておかなかったので、いま探してもみつかりません。(すいません!)

東京スカイツリーの高さが634mなのは、は武蔵(ムサシ)という地名の語呂合わせである。
中国でも同様の語呂合わせが行われている。
『8』が縁起がいいとされるのは、広東語で『発財(儲かりまっか」)』の『発』の発音に近いから。
『4』は『死』に通じるので縁起が悪い
『54』は『我死(私は死ぬ)』に通じるのでやはり縁起が悪い。
『250』は『間抜け』に通じるので料金設定に250は用いない。
上海では『13点』といえば『13時』という意味だが、時計の表示は12時までしかない。
そのためで『13時』は『頭のおかしい人間』をさす。

阪急電車 十三大橋3

③欧米で忌まれている13という数字


欧米では13という数字は大変忌まれている数字です。
なぜ欧米で13が忌まれるのかというと、イエス・キリストが磔刑になったのが13日の金曜日だったからだとも言われています。
しかし、共観福音書では 15 日、ヨハネによる福音書では 14 日となっていて実際には13日ではないとされます。

他には次のような説があります。

①キリストの最後の晩餐に 13 人の人がいたため。
②北欧神話の、12 人の神が祝宴をしていた時、13 人目の招かれざる客・ロキがやってきてバルドルを殺したという伝説からくる。
③キリスト教から追放された魔女・フリッグが 11 人の魔女と悪魔を招いて毎週金曜日に悪事を企んでいた。
④フィリップ 4 世がテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕したのが、1307年10月13日の金曜日だった。


十三大橋北詰 地蔵 
十三橋北詰 交通安全地蔵尊

④十三詣

日本では13日は虚空蔵菩薩の縁日とされており、関西では4月13日に13歳になった子供が虚空蔵菩薩を参拝する『十三詣』が行われています。

十三詣のルーツは京都の法輪寺だと思いますが、法輪寺の前には桂川が流れていて渡月橋という橋がかけられています。
法輪寺で十三詣をした子供は橋を渡りきるまで法輪寺を振り返ってみてはいけないと言われています。
この言い伝えは、黄泉の国へイザナミを迎えにいったイザナギの話を思い出させますね。

イザナギはイ死んだイザナミを迎えに、黄泉の国へ行き、イザナミににもとの世界へ帰ろうと言った。
イザナミは黄泉の大王に相談するので、しばらく待っているように、またその間決して振り返って私を見ないでくださいとイザナギに言った。
ところがイザナギは我慢できなくなって振り返ってイザナミの姿を見てしまう。
イザナミの体は腐り、蛆がわいていた。
それを見たイザナギは恐ろしくなって逃げ帰り、姿を見られたイザナミは怒ってイザナギを追いかけた。
イザナギはイザナミに桃の実をなげつけるなどして、なんとかもとの世界に帰ってこれた。


つまり、法輪寺は黄泉の国、地獄で、渡月橋の下を流れる桂川は三途の川のイメージなのだと思います。

渡月橋より法輪寺を望む 

渡月橋より法輪寺を望む

⑤大国主は根の国を振り返らずこの世へ戻った?


また、大国主が根の国(黄泉の国と同一のものだと考えられている)を訪れるという話があります。

大国主が根の国を訪れ、根の国の大王・スサノオに様々な試練を与えられる。
しかし最終的には大国主はスサノオの太刀と弓矢を手に入れ、スサノオの娘・スセリヒメを連れて根の国を逃げ出した。
スサノオは逃げる大国主に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。この野郎め」と言った。

おそらくスサノオは根の国をふりかえらずにこの世へ戻ってきたのでしょう。
それでスサノオは太刀と弓矢を手に入れたばかりか、スサノオから知恵も授かったのだと考えられますね。

法輪寺の十三詣はこれを再現した行事なのではないでしょうか。
法輪寺が黄泉の国=根の国だとしたら、やはり十三詣をする13日は忌むべき日だといえるのではないでしょうか。
13日が忌むべき日だからこそ、参拝する習慣が生じたとも考えられます。

とすれば13を忌むべき数字だとするのは世界共通だということになるかもしれませんね。

淀川 ヘリコプター

⑥イエスの12人の弟子は12か月を表している?

キリストは太陽を比喩したものだとする説があります。
キリストの誕生日が12月25日とされているのは、ミトラ教の冬至祭に便乗したものだとされます。
冬至とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことです。

ここからキリストは太陽、磔刑に用いられた十字架は南十字星を、キリストが死後3日後に復活したとされるのは冬至に南中高度が最も低くなった太陽がその3日後から再び南中高度をあげていくことを意味しているとする説がありますよ。

ということは最後の晩餐に登場するイエスの12人の弟子は1月から12月までの月を表しているのではないかと思ったりします。

十三大橋下の通路(中津側) 
十三大橋下のトンネル状の通路に夕照がさしこんだ!

⑦イエスの弟子は13人いる?

ところが!
ダビンチの最後の晩餐の素描にはイエスを除いて、なんと13人の人物が描かれていて一人多いのです!

死後3日目に復活したとされるイエス・キリストは双子であったという説があります。
その説によると、キリストには双子の弟があり、十字架にかけられたのは弟のほうだったというのです。

磔になったイエスは死ぬ直前、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』とに叫びました。
『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は、『わが神、わが神。どうしてしをお見捨てになったのですか』と訳されています。
エリとはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈されたようですが
『高い』『より上にある』とは『兄』のことではないか、イエスのかわりに磔になったイスキリが『兄さん、兄さん、どうして私を見捨てるのか』と言ったのではないか、というのです。

12使徒については次のようになっています。

マルコマタイルカ使徒言行録ヨハネ
シモン・ペトロ(B1)シモン・ペトロ(B1)シモン・ペトロ(B1)ペトロヨハネの子シモン・ペトロ(B1)
ゼベダイの子ヤコブ(B2)ゼベダイの子ヤコブ(B2)ゼベダイの子ヤコブヤコブ(B2)ゼベダイの子たち(!)(?)
ヨハネ(B2)ヨハネ(B2)ヨハネヨハネ(B2)イエスに愛された弟子(?)
アンデレ(B1)アンデレ(B1)アンデレ(B1)(!)アンデレ(!)アンデレ(B1)
フィリポ(!)フィリポ(!)フィリポ(!)フィリポ(?)フィリポ
バルトロマイ(!)バルトロマイ(!)バルトロマイ(!)バルトロマイ(!) 
    ナタナエル
マタイ(!)徴税人マタイマタイ(!)マタイ(!) 
トマス(!)トマス(!)トマス(!)トマス(!)ディディモ・トマス
アルファイの子ヤコブ(!)アルファイの子ヤコブ(!)アルファイの子ヤコブ(!)アルファイの子ヤコブ(!) 
タダイ(!)タダイ(!)   
  ヤコブの子ユダ(!)ヤコブの子ユダ(!)(イスカリオテでない)ユダ
熱心者のシモン(!)熱心者のシモン(!)熱心党員と呼ばれたシモン(!)熱心党のシモン(!) 
イスカリオテのユダイスカリオテのユダイスカリオテのユダ イスカリオテのシモンの子ユダ
   マティア 

注:

(B) は兄弟関係を表す。
  • (!)は、ただ1回のみの言及。
  • (?) は、他の文書内の使徒と同一人物であるかわからないもの。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92#十二使徒 より引用

イエスの十二使徒は文献によって微妙に違っているようです。
そして十二使徒のひとりにトマスという人物がいますが、トマスとはアラム語で双子という意味です。
教会非公認の外伝といわれる福音書には「トマスはイエスの双子」と記されているそうです。

もともとイエスの使徒は12人ではなく13人であったのではないでしょうか。
つまり、1年12か月のところ、そこからはみでた13番目の月を擬人化した使徒がいた。
そしてそれがイエスの双子のトマスだったということなのでは?

イエスの十二使徒が文献によって異なっているのは、13人のところを無理やり12人に収めようとしたところからはみだしてしまった人物が生じたからではないでしょうか?

 阪急電車 十三大橋4

⑧記紀は聖書に似ている。

飛鳥昭雄さんによると、記紀神話と聖書の記述がそっくりのところがあるそうです。

聖書1日目/ 神は光と闇を分け光を昼、闇を夜と呼んだ。
古事記神世第1代/天之御中柱主神
※キリスト教の三位一体説は『生命の樹』で説明される。
生命の樹は三本の柱からなるとされ、中央が最も高くなり、左右に同じ高さの柱がある。
中央を「均衡の柱」左を「慈悲の柱」右を「峻厳の柱」と言う。
神を柱と表現するのはキリスト教も日本神道も同じ。(左右は均衡の柱からみて)
「天之御中柱主神」というのは生命の樹の均衡の柱を意味するのではないか。

聖書2日目/神は大空を作り大空の下と大空の上に水を分けた。
古事記神世第2代/豊雲野神 ※豊かな雲は大空の上を、野は大空の下に対応する。

聖書3日目/神は地と海を作った。
古事記神世第3代/宇比地邇神・妹須比智邇神
※宇比地は泥土で海、須比智は砂土で地に対応する。

聖書4日目/神は太陽に昼を治めさせ月に夜を治めさせた。
古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神
※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記す。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もある。
杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。
つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。
妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。

聖書5日目/神は水中生物・鳥を造り、祝福して言った。生めよ、増えよ。
古事記/神世第5代/意富斗能地神・妹大斗乃弁神
※意富斗・大斗は世界。地は男性・弁は女性の意。つまり「男の世界」「女の世界」。

聖書/6日目/神は獣と人間を造った。造ったものを見て満足した。
古事記/神世第6代/於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神
※日本書紀では面足尊。地の面が完成したこと。あやに畏しは賞賛を意味する。つまりすべて完成し、あやに畏しと神が満足したのである。 

キリスト教は1549年フランシスコ・ザビエルによってもたらされたとされますが、5世紀ごろ日本にやってきた渡来人の秦氏がもたらしたんじゃないかという説がありますよ。
秦氏は朝鮮からやってきたと記紀には記述がある。
しかし、秦氏の首長に弓月君という人物がおり、秦氏のもともとの故郷は中央アジアにあった弓月王国というキリスト教国ではないかとも言われています。

秦氏の氏寺の広隆寺は太秦寺ともいいますが、大秦寺とは中国におけるネストリウス派キリスト教(景教)の教会のことです。
太秦と大秦は、点があるかないかの違いしかありません。

石切神社 
石切神社

⑨「虚空見つ日本の国」と発言したニギハヤヒは虚空蔵菩薩のイメージと重ねられた?

13日を縁日とする虚空蔵菩薩はイエスの身代わりになって死んだイエスの双子の弟とイメージが重ねられているのではないでしょうか。。

ニギハヤヒは天磐船を操って大和に天下り、『虚空見つ日本の国』と言っています。
ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代神武は日向から東征するとき「東にはニギハヤヒがすでに天の磐船を操って天下っている」と発言しています。
ここから神武以前に物部王朝があったという説があります。
ニギハヤヒは太陽神の地位を神武に譲った神だと言えると思いますが、ニギハヤヒと虚空蔵菩薩はイメージが重ねられているのではないでしょうか。

すなわち、虚空蔵菩薩=ニギハヤヒは1年の中で存在しない13ヶ月目の神ということなのではないでしょうか?

ニギハヤヒを祀る神社に石切神社がありますが、青森県戸来村にはイエスの弟・イスキリがイエスの身代わりになって磔になったと伝わっています。

なぜトマスではなく、イスキリという名前になっているのでしょうか?
石切を東北の人が発音するとイスキリとなりそうです。
ニギハヤヒ=石切さんはイエスの双子の弟ということで、イスキリとなったんだったりして?

石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 

そして十三という地名は、イスキリ=石切さん=ニギハヤヒが十三番目の月野神であるところからくるのかもしれません。

十三=トミ=トミヒコ=ナガスネヒコ(トミヒコはナガスネヒコの別名)であるとも考えられますが
ナガスネヒコはニギハヤヒを神と奉じており、関係が深いです。


阪急電車 十三大橋


  
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[2020/01/05 11:57] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

野崎観音(慈眼寺) 『深野池は調整池だった?』※追記あり 

大阪府大東市 野崎観音 (慈眼寺)

野崎観音 
※南太郎さんからメールでアドバイスをいただいたので(ありがとうございます!)追記を入れておきます。
(赤字部分)

①野崎まいりは~ 屋形船でまいろ~


野崎小唄ってご存知ですか?
東海林太郎さんが歌ってヒットした曲で、「野崎まいりは~ 屋形船でまいろ~」と歌います。

野崎まいりとは、5月の無縁経法要(有縁無縁すべてのものに感謝の読経を捧げる行事)に野崎観音を参拝することをいいます。

「屋形舟でまいろ」とはどういうことでしょうか?
車で野崎観音までやってきましたが近くに屋形舟が浮かぶような川はありませんでしたが?

野崎観音2

②中世から江戸時代に存在していた深野池

実は中世から江戸時代までこのあたりに深野池という池がありました。
この池は寝屋川市南部~門真市東~大東市中央部~東大阪市北部~四条畷市西部にまたがる大変大きな池だったそうです。
大阪から屋形船で川をさかのぼり、深野池までいく参拝者が大勢いたそうで、「野崎まいりは屋形船でまいろ」と歌っているわけですね。

1689年貝原益軒の『南游紀行』に次のように書かれているそうです。(要約文/改行は筆者による)

「ふかうの池は深野池と書く。
池の広さは南北2里(1里は4km弱)、東西1里、湖に似ている。
その中に島があり三ケという村がある。
三ケの村には漁家が7-80戸あり田畑もある。
この島は南北20町(1町は100⃣m強)、東西5-6町ある。
この池には鯉、鮒、鯰、はす、わたか、えび、鰻、つがに等が多い。
漁船が多く毎日漁に出て魚を大坂に売る。
また、蓮、芡実、葦が多く、皆採り用いて助けとする。
ことに菱が多く、これを採って飯や団子や粥にして食べたり、菓子にしたり売ったりする。
深野池の周りには約42村があるという。この池の水は大和川に流れる。
川下より毎日商船が訪れ、大坂までは2里ある。」


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E9%87%8E%E6%B1%A0 よ引用

Old yamato riv

 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Old_yamato_riv.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Old_yamato_riv.jpgよりお借りしました。
枚岡市 [Public domain]


③深野池が失われたことで水害がおきた?

1704年、大和川の付け替え工事が行われ、大和川水系の水が流れ込まないようになりました。
水位が減少したため真宗大谷派・難波別院などによって新田開発が行われ、深野池は失われたということです。

上の地図の「新開」と書いてある池は新開池で、現在の鶴見区東南部~東大阪市北西部~大東市南西部に広がっていました。

太古には大阪湾はこのあたりまで入り込んでいたのですが、淀川水系・大和川水系から大量の土砂が運ばれ、淡水化して河内湖になりました。
中世になると深野池・
新開池という二つの大きな池になりました。

新開池の出口は西の徳庵で、この場所は土砂が堆積していたこともあって、頻繁に洪水が起きていました。
これを解消するため1655年、徳庵から西の今福まで運河が掘られました。(徳庵井路)
1661年、新開池の中に堤を作り六郷井路の水路、五箇井路がつくられました。

1704年の
大和川の付け替え工事では新開池の推量も減少し、鴻池善右衛門宗利が伊勢より農民を移住させて開墾しまいた。(鴻池新田)

ですが、その後、大雨が降ると生駒山から大量の水が大東市中部あたりの土地の低い場所に集中し、川が決壊して浸水してしまう被害がたびたびおこりました。
特に1972年の水害は大東市広範囲に被害をもたらし裁判にもなりました。
この裁判は大東水害訴訟と呼ばれ、被害をうけた住民らが国・大阪府・大東市に提訴しました。
結果は住民らの敗訴でした。

大東市は上の地図の北条・野崎・南条・寺川・中垣内・岸和田・赤井などのあたりです。
深野池があったあたりで、深野池の跡地だったため土地が低かったのではないかと思うのですが、どうでしょう?

野崎観音より大阪方面を望む2 
野崎観音よりのぞむ  中世~江戸時代にはここから深野池が見えたことでしょう。

また、深野池は調整池の役割を荷っていたのかも、と思います。

調整池とは集中豪雨などがあった際、一時的に水をためておく池のことです。
調整池に水をためておくことで、河川の洪水・決壊を防ぐわけです。

深野池は大きな池だったので、貯水能力も相当あったことでしょう。

現在、この地域では遊水池(洪水時、河川の流水を一時的に氾濫させる土地)として深北緑地がつくられました。
また調整池がつくられ、中世から江戸時代にあった深野池と同じ名前が付けられました。

最近は公園や駐車場が洪水時に遊水地として機能するようにつくられたものもありますね。

2019年の台風19号で日産スタジアムも冠水しましたが、もともと大雨の時などに水をためる遊水地となるように設計されていたそうです。
https://togetter.com/li/728338

野崎観音より大阪方面を望む 
野崎観音よりのぞむ 中世以前にはここから河内湖が見えていたのでしょうね。

野崎観音-夕景




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[2019/12/26 21:02] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

交野天神社 紅葉 『継体天皇は紀氏と関係ある?』 


大阪府枚方市 交野天神社

交野天神 拝殿2 
交野天神社 拝殿

①交野天神

交野天神社は閑静な住宅街の中にあり光仁天皇・天児屋根命・菅原道真をお祭りしてます。
『続日本紀』や『石清水神宮縁起』に「787年、桓武天皇が交野に父・光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けた」という記述があり、それがこの交野天神の創建だと考えられています。
天児屋根命は中臣氏の祖神で、中臣鎌足は中大兄皇子より藤原姓を賜ったので、藤原氏の氏神である春日大社にも祀られ春日明神と呼ばれています。
菅原道真は901年に藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、903年に大宰府で没しました。
その後、都では疫病の流行、天災などが相次ぎ、それらは菅原道真の怨霊の仕業であるとして、怨霊を鎮めるため北野天満宮や大阪天満宮などが作られました。

そう考えると、藤原氏の祖神の天児屋根命と菅原道真を祀っているのはおかしなことに思えます。
しかし、ずっとのちの時代になって、そういった藤原氏と道真の因果関係の記憶などが人々の心の中から薄れてからのち、ともに祀られるようになったのかもしれません。

②継体天皇と鍛冶

交野天神 貴船神社2 
交野天神社 境内

神社の奥まったところに小高い丘があり、階段のふもとに「継体天皇樟葉宮地」と刻まれた石碑が建てられていました。
交野天神は継体天皇樟葉宮の跡地であるという伝承もあるのです。

継体天皇の和風諡号(しごう)は日本書紀は男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記は袁本杼命(をほどのみこと)と記しています。

ヲホドとは小火床であり、鍛冶に関係があるのではないかとも言われています。
火床とは鍛冶をするための簡単な炉のことです。

交野天神社からそう離れてはいない枚方市岡本町に下井戸跡があり、案内板に次のように記されているようです。

「枚方宿4カ村の内、岡村の地下水は鉄気が多く飲料水に適さなかったため、古来より万年寺山や別子丘陵に取水の元井戸を掘り、導水管により水を供給していました。」

https://ja.localwiki.org/hirakata/%E4%B8%8B%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%B7%A1より引用

また枚方に茄子作という地名がありますが、惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

鈴は土で作られることもありますが、金属で作られることが多いです。

また、鈴は錫をあらわしているのかもしれません。

このようにこの土地は古くは鍛冶と関係があったのではないかと思われるふしがあります。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

③継体天皇即位は新王朝か?

継体天皇は応神天皇の五世孫で、近江の高島で生まれ、.越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったとされます。

継体天皇の即位について、次のように記したサイトがありました。

 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。
男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。
彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。
そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。
そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。
男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。

http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/umakai.htmlより引用

大神社 
交野天神社 大神社  御祭神は天照大御神 と 神武天皇

まとめると次のような内容になるかと思います。

a.男大迹 の王(のちの継体天皇)は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた。
b.男大迹 の王57歳のとき、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去して後継者がなかった。
c.大伴金村らは仲哀天皇の末裔・倭彦王を丹波から迎えて後継者にすることにし、迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった
d.、大伴金村は応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送った。
e.男大迹 の王も討伐軍かと疑い、使者を河内馬飼首荒籠のもとへ送った。そして軍が討伐ではなく迎えのためであることを確認し樟葉宮で即位した。

継体という漢風諡号は奈良時代になってつけられたものですが、新王朝という認識があったことから『継体』という諡号をつけたのではないかという説があります。

これが正しければ、よく右寄りの人がいう「一系万世」は事実ではないということになります。

継体天皇即位は新王朝なのでしょうか?
私はこの説はありえると思います。

交野天神 説明板

交野天神社 説明板

④神武天皇=応神天皇?

初代神武天皇は日向から東征して畿内入りしたとされます。
一方、15代応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが、このルートが神武東征ルートと重なるところから
二天皇は同一人物ではないかとする説があります。

⑤応神天皇は二人いた?

記紀は15代応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。
名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。

ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。

ツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、
気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのではないかと思ったりするのですが?

四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

⑥継体天皇はイザサワケ大神と関係がある?

気比神宮は福井県敦賀市にあったのでしたね。
そして、応神天皇の5世孫である継体天皇は越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったのでした。
継体天皇はなぜ、越前三国で育ったのでしょうか?
それは継体天皇がイザサワケ大神と関係のある神だからではないでしょうか?

継体天皇が関係あるのは、もともとのイザサワケ大神なのか?それとも名前を交換したあとのイザサワケ大神なのか?

日本書紀は名前を交換するという説話を掲載するなどして、読者を混乱させようとしているように思えます。

⑦樟葉宮伝承地と貴船神社

②のところに貼った写真の、階段を上っていくと貴船神社があり、その神社の傍らにも「継体天皇樟葉宮跡伝承地」と刻んだ石碑がたっています。

交野天神 貴船神社 
交野天神社 貴船神社

貴船神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)と継体天皇です。
兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神で、もともとは紀船神社だったのではないでしょうか。

なぜ継体天皇樟葉宮跡伝承地にその貴船神社があって継体天皇を祀っているのでしょうか?

『日本書紀』に次のような内容が記されています。

507年、継体天皇、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位。
511年、筒城宮(京都府京田辺市)に遷都
518年、弟国宮(京都府長岡京市)に遷都
526年、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都

http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-33.html
上のサイトに、紀氏の荘園が記されていますが、「古代京都府南部」としるされています。
京田辺・長岡京などは紀氏の荘園があったようです。

また枚方の天田神社は紀氏が祭祀する石清水八幡宮の所領だったとされ、紀氏の母親をもつ惟喬親王の別荘・渚の院もありました。

石清水八幡宮が創建されたり、惟喬親王が渚の院で歌会を開いたりしたのは平安時代ですが、それ以前から紀氏の土地であったため天田神社付近が紀氏の所領になったり、惟喬親王の別荘がつくられたりしたのかも?

そして継体天皇が樟葉宮で即位したのも紀氏と関係があるような気がしたりもします。

交野天神 拝殿屋根を支える天邪鬼 

交野天神社 拝殿をささえる天邪鬼






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[2019/12/25 21:42] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

金剛寺 紅葉 『改竄された神話?神武東征はニギハヤヒ東征だった?』 


大阪府東大阪市 金剛寺

①石切駅から金剛寺へ

石切劔箭神社→石切参道商店街→石切大仏→千手寺とやってきたところまでお話ししました。

石切の旅、過去記事はこちらです。

石切参道商店街 『南極老人星の神はなぜ二神いるの?』 
石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 
千手寺 紅葉 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 

千手寺をさらに昇っていくと石切駅です。

石切駅 

石切駅

石切駅からさらに坂道を登っていくと観光客の姿はまばらに。
でも、ここから先にもお社などがたくさんあります。

黒熊明神、赤目明神、太郎明神 
黒熊明神、赤目明神、太郎明神 

熊繁大神 

熊繁大神

白光大神2 
白光大神

石光観世音 
石切観世音

途中であったお姉さんが(たぶん撤饌の)綿菓子をくれました。(ありがとうございます!)
そして「ここから20分ほど行ったところに切奥之院金剛寺というお寺があるよ」と教えてくれたので、山道を登っていくことに。

白光大神 

白光大神から金剛寺へ向かう道

金剛寺 一の鳥居 

どんどん山道になっていきますよ。鳥居には白姫大神と書いてありました。

金剛寺 二の鳥居 
まだまだ登っていきますよ~。

金剛寺 

これはなんでしょう?庚申塔かな?文字が刻んでありましたが、植物が絡みついたりしていて全然読めませんでした~。

金剛寺3 

ようやく金剛寺に到着しました。

金剛寺は明治後期の創建で弁財天をお祭りしているそうです。
創建は比較的新しいですが、古より神武天皇腰掛け石と言い伝わる石があるとのことです。
(写真撮り損ねました~。こちらの方のブログに写真がありましたのでリンク貼らせていただきます。
http://pachyderm.blog54.fc2.com/blog-entry-192.html

②神武天皇腰掛石

この神武天皇腰掛け石について、次のように記したサイトがありました。

A.また当山には開基以前より神武天皇腰掛け石と言い伝わる石があり、
これはその昔、神武天皇が日本国を統一せんが為、港より討伐に向かわれし際、
その戦いが思うに任せず、石に腰掛けて思案の末、
東(太陽)に向かって矢を放ってはならぬと、この地を下り、東側に回られた。


https://blog.goo.ne.jp/051006250510/e/52c784b802196fee920f2807b0a5b4b2 より引用

ウィキペディアには次のように記されています。

B.戊午年2月、彦火火出見尊たちは吉備国から東へ向かい難波の碕に至った。
3月に河内国日下邑の青雲白肩津から龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めなかった。
そこで東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(大和国)へ入ろうとし、この地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦った。
戦いに利なく、長兄の五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。そして日の神の子孫の自分たちが日に向かって(東に向かって)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟ることとなった。彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 より引用

Bのウィキペディアの記事は記紀をもとに記したものだと思います。

白肩津は東大阪市日下町あたりだと考えられています。
胆駒山は生駒山のことです。
孔舎衛坂は大阪府と奈良県の境の坂。現在の暗)峠または善根寺越ではないかといわれています。 
金剛寺は石切劔箭神社から坂を上った東あたりにあります。(地図では生駒山上遊園地の「生」の文字の西あたり)






ここで注意したいのは、古代の地形が現在とはかなり異なっていたということです。
大阪湾は大きく現在の内陸部にまで入り込み、河内湖とよばれていました。
現在の大阪市は上町台地あたりのみが陸地として存在していたのです。
そして現在の東大阪市は海からは遠く離れていますが、古代にはこのあたりまで海が迫ってました。

孔舎衛坂は額田駅と平岡駅の中間あたりから東に向かってのびる道、または日下町の北が善根寺町で、そのあたりから東に延びる道だと考えられています。

金剛寺2

③食い違う伝説

A・Bを読み比べて疑問に思うことがあります。
現在の石切劔箭神社や金剛寺のあたりは長髄彦が支配する土地で、神武はその長髄彦との闘いに負けたのです。
それなのに、長髄彦の土地にある石に腰かけて考える、などという余裕があったのでしょうか?

また、Aの伝説では「(神武は)この地を下り、東側に回られた。」とあります。
石切の東は奈良なので、石切の山をおりて東にある奈良に回ったという意味かと思われます。

ところがBの伝説では「彦火火出見尊(神武)は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。 」となっています。

草香津は白肩津のことだと考えられています。
神武は船で東征したと思われますので、船をつないだ港に戻ったのでしょう。
つまり、奈良のある東にではなく、西にある河内湖の草香津に向かい、そののち、海路南へ向かったということです。

そののち、神武は陸路熊野越えをし、奈良側から西に向かって長髄彦軍と対峙するのです。

このAとBの差はどこから生じたのでしょうか?

石切奥之院弁天瀧 

石切奥之院弁天瀧と書いてあります。

④神武東征はニギハヤヒ東征だった?

神武東征といいますが、実はそれはニギハヤヒの東征ではないかと私は思ったりします。

ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代神武天皇が日向より東征して畿内入りする以前より、畿内に天下っていたと記紀(古事記・日本書紀)には記されています。
ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

そして15代応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが
そのルートがと神武東征ルートと重なるので、神武と応神は同一人物とする説があります。

記紀は15代応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。
名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。
ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。
ツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのではないかと思えます。


四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

そしてすでに述べたように応神=神武と考えられるわけですが、応神天皇は渡来人の神の可能性が高い伊奢沙和気大神と名前を交換しています。
神武は本当は対馬海流に乗って朝鮮半島から敦賀にやってきた渡来人の伊奢沙和気大神であったのが、物部氏の神・応神天皇と名前を交換して大和朝廷の支配者になったんだったりして?

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峰に天下ったとされます。
そしてその後大和国(奈良県)に移ったとされます。

ニギハヤヒが天下ったとされるのは大阪府交野市の磐船神社で、石切神社の北にあってそんなに離れた場所ではありません。
そして磐船神社の東は奈良です。

Aの伝説「この地を下り、東側に回られた。」の主語は神武ではなくニギハヤヒとしたほうがぴったりきそうに思えます。

そもそも石切神社の御祭神はニギハヤヒですし、ニギハヤヒが磐船神社から南の石切あたりにやってきて、ここから東の奈良に移ったとも考えられるかもしれません。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

⑤ニギハヤヒは九州から畿内へやってきた。

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峯に天下ったとされますが、いったいニギハヤヒはどこからやってきたのでしょうか?

これについて船場俊昭さんは九州・筑紫地方としておられます。
ニギハヤヒは物部氏の祖神ですが
筑紫地方は物部氏が住んでいたところで、北九州筑後平野と大和周辺には酷似した地名が80か所以上もあるとのことです。

築後春日田原山田市上山田玖珠天瀬久留米朝倉加美三輪雲堤筑前高田小田三井池田平群郷野方草ヶ江
大和春日田原山田上山田国栖天ヶ瀬久米朝倉賀美三輪雲梯大和高田織田三井池田平群郷額田日下

そして、九州からやってきた物部氏が故郷の地名を大和につけたのではないかというのです。
しかし、大和の地名が先にあって九州の地名があとについたという可能性もあるので、検証が必要ですね。

石切駅付近より 
石切駅付近より大阪方面を望む。かつてはここから河内湖が見えていたのでしょうね。





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[2019/12/24 17:59] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

千手寺 紅葉 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 



大阪府東大阪市 千手寺


石切神社

石切劔箭神社

①千手寺

新石切駅から石切劔箭神社へ。 石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 
石切劔箭神社から石切参道商店街の緩やかな坂をのぼると・・・石切参道商店街 『南極老人星の神はなぜ二神いるの?』 

石切大仏があります。

石切大仏 

石切大仏

石切は精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の創業地で、
そのサカンポーの4代目・阪本昌胤さんが石切大仏を建立したそうです。

そういえば石切商店街にこんな ↓ 看板がありました。店自体はありませんでしたが、看板のみ残してあるのでしょう。

石切参道商店街3

石切大仏からさらに登っていくと千手寺があります。

千手寺

千手寺

②維喬親王=惟喬親王、維仁親王=惟仁親王

千手寺について、次のように記されているサイトがありました。

当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、この地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
 また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊とした。
 その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
 いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登場するこの寺の寺伝は一大叙事詩でもある。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社



http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage175.htmより引用

ここに維喬親王(これたかしんのう:844~897)とありますが、これは惟喬親王のまちがいでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
上記ウィキペディアに惟喬親王について記されていますが、生没年も同じですし、文徳天皇の第1皇子というのも同じです。
また第4皇子を維仁親王(後の清和天皇)としていますが、こちらも惟仁親王のまちがいではないかと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
あるいは維喬親王・維仁親王のように記すこともあったのかもしれませんが、ネット上でそういった表記は他に見たことはありません。

もしかしたら千手寺では惟喬親王・惟仁親王ではなく維喬親王・維仁親王と伝えているのかもしれません。

ですが、維喬親王は惟喬親王、維仁親王は惟仁親王と考えて間違いはないでしょう。
ややこしくなるので、以下、維喬親王・維仁親王ではなく惟喬親王、惟仁親王と記します。

惟喬親王像 

惟喬親王像 (木地師の里)

③惟喬親王の乱

②でご紹介した記事に「惟喬親王の乱で、堂宇は灰燼に帰した。」とあります。

私は惟喬親王については大変興味があり、いろいろ調べて記事をたくさん書いています。
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-1641.html?q=%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B&charset=utf-8


ですが「惟喬親王の乱」というのはウィキペディアにも書いてありませんし、他のサイトでもそういうことがあったと書いてある記事は読んだことがありません。

上の記事でも次のように記しています。

「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。」


しかし、私は「惟喬親王の乱」がなかったとはいいきれないと思います。

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社 

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社

④藤原氏vs紀氏のバトル!

「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかった」について、もう少し詳しく記しておきます。

文徳天皇は紀静子(紀名虎の娘)との間に第一皇子の惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に第四皇子の惟仁親王をもうけていました。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者・藤原良房を憚って天皇をいさめました。

こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。

平家物語などに次のように記されています。

藤原良房と紀名虎はいずれの孫(惟仁親王vs惟喬親王)を立太子させるかでもめ、高僧による祈祷合戦、相撲などによるバトルを繰り返した末、藤原良房が勝利し、惟仁親王が立太子した。

この話は史実ではありません。というのは惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからです。
しかし藤原氏と紀氏に確執があったことは確かでしょう。

千手寺2

⑤惟喬親王の歌会はのろいの会だった?

紀名虎の子で紀静子の兄(つまり惟喬親王の叔父)・紀有常、在原業平は惟喬親王の寵臣でした。
世継争いに敗れた惟喬親王は紀有常や在原業平をお供として交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)に狩をしにやってきて、渚の院(枚方市)で桜をめでつつ歌会を催すなどしています。

これについて、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は文学の世界に情熱を傾けたのだろう、と一般にはいわれています。

しかし、そうではなく、彼らは歌会と称して藤原氏をのろっていたのではないかというような意味のことを高田祟史さんがおっしゃっていました。

私は彼の説を支持します。

たとえば伊勢物語「渚の院」の段ににこんな歌が掲載されています。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき ※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


この2首は藤原良房が詠んだ次の歌に対応していると思います。

染殿の后のおまへに花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房

(染殿の后の前の花瓶に桜の花がいけてあるのを見て詠んだ。
年をとって年齢は老いてしまった。そうではあるが、花を見れば悩むことはない。)


「染殿の后」とは良房の娘、明子のことです。

娘を入内させて生まれた子供を天皇とし、天皇の外祖父になるというのが、藤原氏の権力掌握の常套手段でした。
藤原良房は娘の明子を桜の花にたとえたのでしょう。
つまり、良房は、「明子がいる限り、わが世は安泰だ」と歌を詠んだわけです。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)


この歌は、「明子がいなければ、春の心はもっとのどかなものだっただろうに」という意味ではないでしょうか。

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
(散るからこそ、桜はめでたいのだ。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


こちらの歌は「桜が必ず散るように、この世に永遠というものはない。藤原氏も必ず衰退するだろう。」という意味だと思います。

古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていました。
つまり歌は文学などではなく呪術であったと考えられます。

惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないでしょうか。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜

⑥なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているの?

また、枚方市には茄子作という地名がありここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

惟喬親王は鉄鋼鋳造と関係が深そうに思えます。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

また大阪府三島郡島本町広瀬には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っています。

なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのでしょうか?
鍛冶屋がつくるものは、現在では包丁などが主ですが、かつては刀や弓矢などの武器をつくっていました。

惟喬親王と在原業平は挙兵するため、武器を製造していたため、鍛冶屋の祖神として祀られているのではないでしょうか。

粟辻神社

粟辻神社

⑦腰掛石は怨霊の執念がしみついた石?

在原業平腰掛石 

千手寺 在原業平腰掛石

千手寺境内には在原業平腰掛石がありました。

腰掛石と呼ばれるものはほかの寺にもあります。

宇多天皇が創建した京都の仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説があります。

道真は藤原時平の讒言により流罪となりました。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとしました。
しかし宇多上皇は留守でした。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていましたが、会うことができないまま大宰府へ流されていきました。


仁和寺 菅公腰掛石

仁和寺 菅公腰掛石

また奈良の手向山八幡宮にも菅公腰掛石があります。

道真は宇多天皇の行幸に付き従って手向山八幡宮へやってきてこんな歌を詠んだとされます。


このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)


手向け山八幡宮 紅葉

手向山八幡宮

『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛かります。

幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣がありました。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけますが、これが幣だと思います。

一言主神社 天狗と幣を撒く人

幣(一言主神社にて)

道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていただと思います。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたということでしょう。

菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物でした。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れました。

醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣、藤原時平は左大臣になりました。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっており、道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進でした。

道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言しました。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟です。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていました。

醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡しました。

大阪天満宮 人形 

大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形

その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられました。

⑦菊野大明神

京都市中京区に法雲寺という寺があり、境内に菊野大明神が祀られています。

菊野大明神

菊野大明神


ご神体は深草少将が腰掛けたという石だといいますが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわかりませんでした~。

深草少将は小野小町に「百夜通したならば100日目に会ってあげてもよくってよ」と言われて実行したのですが、99日目の夜に死んでしまったとされます。

深草少将腰掛石にはその恨み籠もっているので男女の仲を裂くといわれています。

すると、官公腰掛石は官公の恨みが籠った石ではないかと思えます。
そして在原業平腰掛石もまた、業平の恨みが籠った石なのではないでしょうか?

千手寺 在原業平腰掛石 
千手寺 在原業平腰掛石

千手寺-石切観音 水子地蔵 
千手寺-石切観音 水子地蔵




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[2019/12/23 16:17] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

石切参道商店街 『南極老人星の神はなぜ二神いるの?』 


大阪府東大阪市 石切参道商店街



新石切駅付近




新石切駅から望む山にはまだ紅葉の彩が。

石切神社


石切さん(石切劔箭神社)でお参りしたあとは・・・・


①おどろおどろしく、不思議で、楽しい石切参道商店街

おどろおどろしく、不思議で、楽しいところ。石切参道商店街。
土産物屋、漢方薬屋、占いの店などが雑然と並んでいます。

石切参道商店街13

中でも目をひくのがこの占いの店。↓

石切七福神

中に入ってみると、とにかく雑多ないろんな神様が祀られています。『千と千尋の神隠し』を思い出す?、
二宮金次郎もいるし!(二宮金次郎って神様だったのかw)

石切参道商店街9


石切参道商店街10

②頭部が瓢箪型の福禄寿

福禄寿の像もありました。↓

石切参道商店街 福禄寿

石切七福神 福禄寿

七福神のメンバーは蛭子・大黒・布袋・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人の七柱ですが、このうち福禄寿も寿老人も南老人星を神格化した神とされます。

福禄寿は筒の様な長い頭のお姿であらわされることが多いですが、写真のように頭の上にもうひとつ頭がついたようなお姿であらわされることもあります。
滋賀県の西教寺にもこういう福禄寿が置いてありましたね。
瓢箪のようにも見える?

石切参道商店街 布袋

石切七福神 布袋

③福禄寿はふたつの頭部をもつ神様?

中国に瓢箪にまつわる次のような伝説があります。

二人の兄妹、伏羲と女媧が雷神を助けたところ、雷神がお守りをくれました。
このお守りを土に埋めると芽がでてみるみる内に大きくなり瓢箪の実がなりました。
あるとき大洪水がおこって地上の人類はみな死にましたが、兄妹は瓢箪の中に逃れていたので助かりました。
のちに二人の兄妹は結婚して夫婦となりました。

瓢箪はふたつのふくらみがくっついたような形をしています。
大きいふくらみは伏義を、小さいふくらみは女媧をあらわしているのではないでしょうか。

②でのべたように、福禄寿と寿老人はどちらも南極老人星の神とされます。
南極老人星の神は二柱いるのです。

福禄寿の頭部が瓢箪型をしているのは、福禄寿と寿老人、二柱の神が合体していることをあらわしているのではないでしょうか。

寿老人のほうは頭に長い頭巾のようなものをかぶっていますが、もしかしたら頭巾の下にはもうひとつ頭があるのかもw

石切七福神 ポスター 

石切七福神のポスター(文字は筆者がいれました。)


④南極老人星は南の低い位置に出る。

南極老人星とはカノープス(りゅうこつ座α星)という星のことで、連星でも、見かけ上の連星(北斗七星のミザールとアルコルなど)でもありません。

それなのに、なぜ南極老人星の神は二柱いるのでしょうか。

南極老人星は南の空の非常に低い位置に出ます。

Canopus seen from Tokyo

東京から見たカノープス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Canopus_seen_from_Tokyo.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/55/Canopus_seen_from_Tokyo.jpg よりお借りしました。
Nikm [Public domain
]

赤緯マイナス52度42分に位置するため、南半球では容易に観測できるが、北半球では原理的には北緯37.3(=90-52.7)度以北では南中時でも地平線の下に隠れて見ることができない。
ただし、大気を通るときの屈折があるため、北限はわずかに北上する。
日本では東北地方南部より南の地域でしか見ることはできない。
角度では可能とされる地域であっても、北緯36度の東京の地表では南の地平線近く2度程度、北緯35度の京都でも3度程度の高さにしか上らず、地上からの光害や、大気を通る距離も長いため全天でシリウスに次いで明るいとは思えないほどに減光して赤くなり、見つけることはより困難となる。本州よりは高い位置に観測でき、九州南部の鹿児島では6度程度、沖縄の那覇では10度程度の高さまでのぼる。
南緯37.3度以南、たとえばp-ストラリアのメルボルンでは、年中沈まない周極星になる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%B9より引用

石切参道商店街12

⑤北半球でも南十字星が見えていた時期があった。

現在、北半球から南十字星は見えませんが、地球の歳差運動の影響で、過去に北半球でも南十字星が見えていた時代があったそうです。

天の北極にある星のことを北極星といいますが、時期によって北極星は変わります。
北極星が変わるのは、地球が歳差運動といって下図のように独楽がぶれるような動きをしているためです。
地球の歳差運動の周期は約25800年です。

Gyroscope precession

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyroscope_precession.gif
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Gyroscope_precession.gif よりお借りしました。
LucasVB [Public domain] 

石切参道商店街

⑥キリストは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、十字架は南十字星の比喩?

そしてイエスキリストは十字架にかけられて3日後に復活したとされますね。
これについて、イエスキリストは太陽の比喩、十字架は南十字星の比喩ではないかとする説があります。

冬至にむかって太陽はどんどん南中高度をさげていき、南十字星の位置にまで達する地域があったことでしょう。
「キリストが十字架にかけられた」のは、これを意味しているのではないかというのです。

またキリストは死後3日目に復活していますが、これは冬至から3日目に再び太陽が南中高度をあげていくことをあらわしているのではないかとしています。

 
石切参道商店街5

⑦トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、キリストは冬至から3日後より南中高度をあげていく太陽?

そしてキリストスにはトマスという双子の兄弟がいたという説があります。

トマスとはアラム語の「双子」という意味です。
また「トマス行伝」にはトマスのことを「メシアの双子、至高者の使徒」、
「剣闘者トマスの書」では、トマスはイエスに「私の双子の兄弟」と呼びかけられています。

そしてキリストが十字架にかけられて死んだというが、実は双子のトマスがキリストの身代わりになったのであり
トマスの死後3日後に、キリストがしゃあしゃあと姿を現し、人々はキリストが生き返ったと錯覚したのではないかという説もあります。

これも⑥のような比喩かもしれません。

すると、トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽
キリストは冬至から3日目より南中高度を上げていく太陽
ということになると思います。

石切参道商店街2

⑧南極老人星は南十字星と同じく冬至の太陽の南中高度の低さをあらわす?

南極老人星は南十字星と同じく、南中高度が低くなった太陽の位置の目安とされたのではないでしょうか。
そして福禄寿と寿老人は南極老人星の神というよりは、南中高度が南極老人星に近づいた冬至のころの太陽を擬人化したものだったりして?

つまり福禄寿と寿老人のうち片方は冬至に向かって南中高度をさげ南極老人星に近づいていく太陽、
もう片方は冬至から3日目より南中高度をあげ南極老人星から離れていく太陽を神格化した神ではないかと思うのです。
       

石切参道商店街8       

不安な気持ちになる建物w

⑨鹿は死を、鶴(白鳥)は復活を意味する?

それでは福禄寿と寿老人のうち、どちらが南中高度をさげていく太陽で、どちらが南中高度をあげていく太陽なんでしょうか?

南中高度を下げていく太陽は寿老人で、南中高度をあげていく太陽は福禄寿だと思います。

というのは、寿老人は鹿を、福禄寿は鶴をつれているとされるんですね。

日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があります。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)


一方、鶴は大空高く舞い上がる動物なので、南中高度をあげていく太陽にふさわしく思えます。

石切参道商店街11


石切参道商店街3


石切参道商店街7

石切駅

商店街を歩いて石切駅までやってきました。

石切参道商店街6





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[2019/12/20 16:40] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 

大阪府東大阪市 石切劔箭神社

※読み直してみたら、順番がめちゃめちゃになっていて、説明も足りていなかったので書き直しました。
すいませーん。

石切神社絵馬殿

①石切劔箭神社


「石切さん」と親しまれ、いつ訪れてもたくさんの参拝客でにぎわっている石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)。

社家・木積家には、神社の創建について次のように伝わっているそうです。

皇紀2年、生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊(ニギハヤヒ)を奉祀したのが神社の起源。
崇神天皇代、現本社に可美真手命(ウマシマジノミコト)が奉祀された。


しかし進藤治氏は、「石切さんには長髄彦がお祀りされていると伝承されている」とおっしゃっています。

これらの神々について、記紀は次のように伝えています。

ニギハヤヒは初代神武天皇よりも早く天の磐船を操って畿内に天下ったとされる神で
ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていました。
ナガスネヒコは妹のトミヤスヒメをニギハヤヒに嫁がせ、二人の間にウマシマジノミコトという御子が生まれました。
ところがそこへ九州から神武が東征してやってきました。
神武はナガスネヒコ軍に敗れ、南から迂回して畿内入りする作戦をとりました。
こうして再び神武とナガスネヒコは対決の時を迎えました。
ナガスネヒコは神武に「あなたは天孫だというが、ニギハヤヒも天孫であり、私は長年ニギハヤヒを神として奉じてきた。天孫は二人もいるのか」といいました。
ニギハヤヒは自分が天孫である証拠に、天の羽羽矢と歩靱(かちゆき)を見せました。
ナガスネヒコはそれでも納得しなかったので、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺しました。


ナガスネヒコは神武にではなく、ニギハヤヒに殺されたとあります。
ということは、ニギハヤヒは神武に服していたとそういうことでしょう。


石切神社 絵馬殿 神像2 

②石切はアイヌ語の長髄彦?

このあたりでは生駒石という硬質の花崗岩が採掘されていました。
そして採石場のことを石切といいました。
なので、石切という神社名は、このあたりの地名からつけられたのではないかとずっと思っていました。

ところが前述の進藤治氏は次のように言っておられるそうです。
「石切」は「 i-si-kir・i 」でアイヌ語で「長髄彦」という意味であると。

大山元氏も「 i-si-kiri 」はアイヌ語で「その・長い・彼の足」という意味だとおっしゃっています。

石切神社 絵馬殿 神像

③アイヌ語と日本語はかなりちがうといわれているけど?

これを聞いてうーん?とうなってしまったのは、アイヌ語と日本語はかなりちがうと聞いたことがあったからです。
琉球語と日本語は似ているんですけどね。
身体語・天体語などの基本的な言葉が日本語とアイヌ語では音韻対応していないのです。

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E%2F%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%AA%E8%AA%9E%E5%BD%99%E3%81%A8%E5%AE%9F%E7%94%A8%E4%BE%8B-1616870

東北地方にもアイヌ語を語源とする地名がありますが
東北地方は地理的に近いこともあってかつてアイヌ人が住んでいた可能性があります。
もしくは交流があったため、アイヌ語の地名が残っているのかもしれません。
しかし近畿地方はアイヌが住んでいた北海道からは遠いです。

ただ、アイヌ語で神社の名前や地名をつけることはあったかもしれません。


石切神社 本殿と渡り廊下 
④キリストの弟・イスキリ

そんなことを考えているうちに「イシキリ」って「イスキリ」に似てるやん、と気がつきました。
イシキリを東北弁でいうとイスキリと訛りそうじゃないですか。

青森の戸来村にキリストの墓があることをご存じの方は多いと思います。
キリストの墓といいますが、丸い塚がふたつあり、ひとつはキリストの墓、もうひとつはキリストの弟・イスキリの墓とされています。

ふたつの塚がある場所は「キリストの里公園」として整備されており、説明版には次のような内容が記されているとのこと。

公園の説明板によると、イエス・キリストは21歳の時に来日し、神学修行を重ねた。33歳の時にユダヤに戻って伝道を行ったが受け入れられず、十字架刑に処されそうになる。だが、弟のイスキリが身代わりとなって死に、キリスト本人はシベリア経由で日本に戻り、現在は新郷村の一部となっている戸来(へらい)村で106歳まで生きた。二つの墓のうち、一つはキリストを埋葬したもので、もう一つはイスキリの遺髪を納めた墓だという。


https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00658/より引用

石切神社-本殿 

イエスに双子の兄弟がいたという話は他にもあります。

ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、ヤコブ、タダイ、シモン、ユダの十二人をイエスの十二弟子といいます。
のちにユダが裏切ってイエスの十二弟子にはマッテヤが加わるのですが。

ここにトマスという人物が登場しますが、トマスとはアラム語の「双子」という意味なんです。

また福音書では、兄弟がいる場合は、アンデレをペトロの兄弟、ヨハネをヤコブの兄弟というように、兄弟の名前を記しているのですが、トマスの兄弟は記されていません。

そして「トマス行伝」にはトマスのことを「メシアの双子、至高者の使徒」、
「剣闘者トマスの書」では、トマスはイエスに「私の双子の兄弟」と呼びかけられているということです。

イエスは十字架に磔になって死にましたが、その3日後に生き返ったとされます。
しかし一度死んだ人間が生き返るというのは普通では考えられないことだし、生き返ったのは双子のトリックだと考えると納得できる部分があります。

しかし、戸来村の伝承では、キリストの双子の兄弟はトマスではなく、イスキリになっています。
トマスとイスキリは似ても似つかない全く違う名前です。
なぜ戸来村の伝説ではキリストの双子の兄弟の名前をイスキリとしているのでしょうか。

もしかして、石切がなまってイスキリとなったんだったりして??


石切神社 千羽鶴 
⑥北半球でも南十字星が見えていた時期があった。

現在、北半球から南十字星は見えませんが、地球の歳差運動の影響で、過去に北半球でも南十字星が見えていた時代があったそうです。

天の北極にある星のことを北極星といいますが、時期によって北極星は変わります。
北極星が変わるのは、地球が歳差運動といって下図のように独楽がぶれるような動きをしているためです。
地球の歳差運動の周期は約25800年です。

Gyroscope precession

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyroscope_precession.gif
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Gyroscope_precession.gif
LucasVB [Public domain] 


⑦キリストは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、十字架は南十字星の比喩?

そしてイエスキリストは十字架にかけられて3日後に復活したとされますね。
これについて、イエスキリストは太陽の比喩、十字架は南十字星の比喩ではないかとする説があります。

冬至にむかって太陽はどんどん南中高度をさげていき、南十字星の位置にまで達する地域があったことでしょう。
「キリストが十字架にかけられた」のは、これを意味しているのではないかというのです。

またキリストは死後3日目に復活していますが、これは冬至から3日目に再び太陽が南中高度をあげていくことをあらわしているのではないかとしています。

石切神社 亀2

⑧トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、キリストは冬至から3日後より南中高度をあげていく太陽?

そしてキリストスにはトマスという双子の兄弟がいたという説があります。

トマスとはアラム語の「双子」という意味です。
また「トマス行伝」にはトマスのことを「メシアの双子、至高者の使徒」、
「剣闘者トマスの書」では、トマスはイエスに「私の双子の兄弟」と呼びかけられています。

そしてキリストが十字架にかけられて死んだというが、実は双子のトマスがキリストの身代わりになったのであり
トマスの死後3日後に、キリストがしゃあしゃあと姿を現し、人々はキリストが生き返ったと錯覚したのではないかというんですね。

しかし、これも⑥のような比喩かもしれません。

すると、トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽
キリストは冬至から3日目より南中高度を上げていく太陽
ということになると思います。


 石切神社 亀

亀のお腹に願い事を書いて奉納します。

⑨雄略天皇はイスキリ、一言主大神はキリストだった?

そう考えると、日本の雄略天皇と一言主大神の伝説が気になってきます。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、
向かいの山の方から、『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と同じ言葉が返ってきました。


雄略天皇と全く同じ言葉を返す一言主大神とは木霊(山彦)の神ではないでしょうか。

一言主大神は葛城山の中腹にある一言主神社に祀られていますが、
この葛城山から金剛山にいたるダイヤモンドトレールと呼ばれる道では木霊(山彦)がよく聞こえるそうなので
このような話が作られたのだと思います。

石切神社 山茶花と狸の像

雄略天皇と一言主大神の話には続きがあります。

雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 


古代には、名前を問われたほうが先に名乗る、というようなしきたりがあったのかもしれませんね。

一言主大神は雄略天皇を長谷まで送っています。
これは一般に、一言主大神と雄略天皇が仲良くなったことを表すものととらえられているようです。
でも、私はそういうことではないと思います。

長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』ですが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。
『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないでしょうか。

長谷という地名は葬送の地を意味していると聞いたこともあります。
今でも長谷寺の奥の院あたりにはたくさんのお墓があります。

つまり「名前を問われたほうが先に名乗る」というようなしきたりがあったのに、
雄略天皇がうっかり「それぞれが自分の名を名乗って矢を放とう」と言ったので
木霊(山彦)である一言主大神はまず自分が名を名乗る必要が生じたため、
実体のある神となって名を名乗り、雄略天皇を矢で射た。
そして一言主大神は死んだ雄略天皇を黄泉の国へ連れて行ったという話ではないかと思います。

で、この一言主大神と雄略天皇を祀る一言主神社には御神木の大イチョウがあります。
そして一言主神社では冬至の日に一陽来復祭を行っています。
たぶん、一陽とイチョウをかけてあるのでしょう。
すなわち、一言主大神と雄略天皇は太陽神ということだと思います。

ただし、雄略天皇は冬至にむかって勢力が衰えていく太陽(一言主大神に殺されたと思われるので)、一言主大神は冬至から勢力を伸ばしていく太陽でしょう。

そして、雄略天皇と一言主大神は全く同じいでたちをしているので、双子の兄弟であるとも考えられます。

雄略天皇は日本版トマス、一言主大神は日本版キリストということにならないでしょうか。

また太陽神・天照大神は天皇家の祖神ですから、冬至の話になぞって政権交代をあらわした物語であるようにも思えます。

石切神社 蛙の像 

⑩ニギハヤヒは天照大神だった?

ここで石切神社の御祭神・ニギハヤヒに登場していただきましょう。

先代旧事本紀ではニギハヤヒは天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命と表記されています。
また天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味を持って出てきたという風にも読めますが

「女神のストリップダンスに興味を持つのは男神だ、よって天照大神は男神で、天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命である」とする説があります。

石切さん=ニギハヤヒ=天照大神=太陽神

しかし、ニギハヤヒは神武に政権を譲った太陽神ではないので、キリストではなく、キリストの身代わりになったトマスのイメージにかさなります。

そして、キリストの墓・イスキリの墓がある青森県は物部氏やナガスネヒコと関係が深い土地です。

ナガスネヒコにはアビヒコという兄がおり、記紀ではナガスネヒコは殺されたことになっていますが、
ナガスネヒコとアビヒコは青森の弘前まで逃れたなどという伝説があるのです。

 キリストの弟・イスキリは石切さんからとったもののようにも思えますが、やっぱりトンデモ説かなw

石切神社 お百度ひも 

お百度ひも。
一周まわるごとに一本折り曲げて数をカウントします。


石切神社 お百度まいり



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[2019/12/18 19:48] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

施福寺  紅葉 『施福寺を創建したのは行満大明神?』 

大阪市和泉市 施福寺
2013年11月23日 撮影

施福寺 紅葉7 
①僧・行満

槇尾山施福寺は飛鳥時代、欽明天皇(509-571年)の勅願によって行満が創建したと伝わります。
日本への仏教伝来は552年または538年とされ、百済の聖王より伝えられたと考えられています。
そして施福寺は仏教伝来後、まもない時期に創建されたということになりますね。

行満でぐぐっても、僧侶の名前としてはあまりヒットしません。
そのかわり、大行満・行満大明神などがでてきます。

施福寺 紅葉4

②大行満は千日回峰行をした人

大行満とは密教・修験道で、千日回峰行をした人に与えられる称号です。

千日回峰行とは千日間かけて霊山を巡拝行することで、比叡山の相応和尚によって始められました。

回峰行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠を被り、白装束をまといます。
千日回峰行は一度始めたら途中でやめることができないとされ、行半ばで挫折した場合には自ら命を絶つものとされています。
白装束をまとうのはそのためであると言われます。

施福寺 紅葉6

千日回峰行に要する期間は7年間。
1年目から3年目までは、毎年100日間、1日に30キロ歩いて260箇所を礼拝します。
4年目と5年目は、同じく30キロを200日礼拝します。
その後、9日間の断食・断水・不眠・不臥の“堂入り”に入り、不動真言を唱えつづけるとのこと。
6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復を加えて、1日約60キロの行程を100日。
7年目の前半は比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼する84キロを100日。
最後の100日間は、1年目と同じく1日30キロをめぐり満行となります。

施福寺 紅葉2

施福寺は天台宗で、天台宗の総本山は比叡山延暦寺です。
延暦寺の創建は788年で、施福寺は延暦寺よりも創建が古いです。
(欽明天皇の勅願によって創建された寺なので、仏教伝来の538年から欽明天皇が崩御した571年の間に創建されたと考えられますね。)
日本の寺院は宗派を途中で変えることがしばしばありますので、施福寺が天台宗であっても不思議はないです。

施福寺 紅葉3 
③行満大明神

行満大明神を祀っているのは三重県鈴鹿市山本町の椿大神社です。参拝したことはないのですが~。

椿大神社の主祭神は猿田彦大神、相殿に皇孫・瓊々杵尊、幡千々姫命を、配祀に天之鈿女命、木花咲耶姫命を、前座に行満大明神を祀っています。

行満大明神は猿田彦の神裔で、修験神道の元祖。役行者を導いた神ということです。

大行満とは密教・修験道で、千日回峰行をした人に与えられる称号でしたね。
すると、施福寺を創建した僧・行満とは修験道の祖・行満大明神のことであるのかも?

施福寺 紅葉 

施福寺 紅葉8 



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[2019/11/06 18:39] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

とよのコスモスの里 『コスモスの花びらは5枚だった?』 


大阪府豊野郡 とよのコスモスの里
2018年10月8日 撮影

とよのコスモス園4

①コスモスは秩序をもってバランスよく花びらが並んでいる植物?

コスモスの語源はギリシャ語のコスモス(宇宙、秩序)であり、ラテン語でコスモスとは「秩序ある宇宙観」のことを言うそうです。

コスモスは中南米原産です。

メキシコ在住のスペイン出身聖職者がコスモスをみて、花びらが秩序をもってバランスよく並んでいることから、ギリシャ語のコスモス(調和)と名付けたといわれます。

??
秩序なくぐちゃぐちゃに花びらがついている植物ってありますか?
ひまわりにしろ、菊にしろ、ほとんどの花は秩序をもってバランスよく花びらがついていると思いますが?

とよのコスモス園5

②花びらの枚数とフィボナッチ数列

花びらの枚数について調べてみたところ、「フィボナッチ数列」が出てきました。

数学とか算数は苦手でして、フィボナッチ数列という言葉は始めて聞いたんですがw


最初の数字と2番目の数字を足して3番目の数字とします。
次に2番目の数字と3番目の数字を足して4番目の数字、3番目の数字と4番目の数字を足して5番目の数字にするという具合に続いていく数列のことです。

例えば、こんな具合です。

番目計算式計算合計
0番目
1番目
2番目0番目+1番目0+1
3番目1番目+2番目1+1
4番目2番目+3番目1+2
5番目3番目+4番目2+3
6番目4番目+5番目3+5
7番目5番目+6番目5+813
8番目6番目+7番目8+1321
9番目7番目+8番目13+2134
10番目8番目+9番目21+3455

このように、1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89・・・・のように続いていきます。

とよのコスモス園3  

③どんな花であったとしてもその花びらは、3、5、8、13、21枚になっている?

https://logmi.jp/business/articles/157794
上のサイトには次のように記されています。

「どんな花であったとしてもその花びらは、3、5、8、13、21枚になっています。」

へえー、そうなのか!子供のとき6枚の花弁がついた花の絵とか描いていたのは、間違いだったんだ!

などと最初は思いましたが、いろいろ調べてみたところ、「どんな花であったとしてもその花びらは、3、5、8、13、21枚になっています。」というのは間違いではないかと思いいたりました。

 とよのコスモス園2

④紫陽花の花は5枚だった。

紫陽花の花びらは4枚やんか!

しかし、これは正しくは「がく」のようですね。
装飾花(生殖機能がなく、動物を誘うための構造が発達しているもの)といったりもするようです。
中央部のボッチは花ですが、めしべとおしべが不完全なため、実がならないとのこと。

紫陽花の野生種はガクアジサイで、装飾花は周囲のみで、中央部には実のなる花が集まっています。
ガクアジサイの中央部の花は5枚のびら、10本の雄しべと1本の雌しべを持っています。

さきほど、「ほとんどの植物の花びらはこのフィボナッチ数列が示す数字、3、5、8、13、21枚になっている」と書きましたが、
ガクアジサイの花びらは5枚なので、これにちゃんとあてはまっていますね。

ガクアジサイでないアジサイはガクアジサイを品種改良して全てを装飾花にしたものだそうです。

紫陽花とバッタ

⑤ヒマワリの花びらの枚数は舌状花も管状花も5枚

ヒマワリはたくさんの花びらがついていますね。何枚あるんでしょうか?

ヒマワリは菊科の植物です。
菊科の植物は大変種類が多く、春咲きのヒナギク,ベニバナ,フキ,ヨモギ,ノアザミ,夏咲きのガーベラ,マーガレット,ダリアなども菊科です。

菊科の花は小さな花が集まって一つの花のように見えます。
このような花を頭花または頭状花というそうです。

頭花は舌状花と管状花の2種類の花からなります。
周辺部にある花びらのように見える部分が舌状花です。
花弁のように見える部分は、それぞれが一つの花ですがおしべがないとのこと。
アジサイの装飾花のように結実しない花なのだと思います。

内側の部分は筒状花といい、おしべとめしべがあって結実するということです。

肝心の花びらの数ですが、菊科の花の、舌状花も管状花も花びらは5枚だそうです。

外側の花は1枚の花弁のように見えますが、よく見ると筋が入っています。
花弁がくっついているのです。
このように花びらが別れずくっついている花のことを合弁花というそうな。

内側の筒状花はたいへん小さいので確認しにくいのですが、虫メガネや顕微鏡で見ると花弁が5枚になっているのが確認できるそうです。
ヒマワリなどの大型の花であれば、肉眼でも確認できるようです。

あとタンポポは舌状花だけ,アザミは管状花だけとのこと。

佐用 ひまわり畑3 

⑥花びらが4枚・6枚、7枚の植物

ですが、
http://arufa-7.cocolog-nifty.com/blog/cat39191762/
上記ブログによると、花びらが4枚の植物としてドクダミ・ナヨクサフジ・オオカワヂシャ・マユミ・ニシキギ・クレマチス・ライラック・ハナミズキなど多数の植物の名前があげられています。

http://arufa-7.cocolog-nifty.com/blog/cat39191765/index.html?optimized=0
花びらが6枚の花としても、ホテイアオイ・タマスダレ・ザクロ・アマリリス・ニワゼキショウ・オオツルボ・シラン・カキツバタ・カラタネオガタマ・クレマチスなどがあるようです。

本薬師寺 布袋葵 

ホテイアオイ

花弁が7枚の植物についても調べてみると
ツマトリソウが7枚とでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%82%A6

カラスウリ(本来は5枚)・クレマチス(本来は9枚)・クチナシ(本来は6枚)の中に、花びらが7枚なのがあったという記事もありました。

京都駅ビル くちなし 

ここにあげた植物も菊のように舌状花と筒状花があり、舌状花は筒状花ではなびらの数は5枚なんでしょうか?
ひとつひとつ調べると相当な時間を要するので、少しづつ調べていきたいと思っています。

http://arufa-7.cocolog-nifty.com/blog/cat39191916/index.html
ちなみに花びらが8枚の植物としては、クレマチス・アネモネ・ヤエカシワバアジサイなどがあるようです。

⑦コスモスの花びらは8枚ではなく5枚だった!

⑤でヒマワリは菊科であり、舌状花と管状花、2種類の花があることを書きましたが
実はコスモスも菊科で、周囲の八枚の花びらのように見える部分は一つの花で、5枚の花びらがくっついた合弁花です。

そして内側の部分は管状花で、5枚のはなびらをもっているということです。

 
とよのコスモス園





↑ すごく面白い動画です。おすすめ!



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[2019/10/15 12:48] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

成田山不動尊 夕景『将門関連七神社は北斗七星をあらわしていない?』 


大阪府寝屋川市 成田不動尊



成田不動尊2

①平将門の乱平定に功績があった不動明王を祀る寺 

939年、関東で平将門の乱がおこりました。
寛朝(かんちょう)大僧正はこれを平定するため、空海によって開眼された不動明王を持って海路で大阪から関東へ向かいました。
関東に到着した寛朝大僧正は、不動明王に祈願して護摩法を行いました。
この霊験によって平将門の乱は平定されたというのです。

実際には、朝廷は将門の乱平定のため、藤原秀郷と平貞盛らを関東に派遣し、戦闘の中、将門は流れ矢にあたって死亡しています。
その一方で僧侶による戦勝祈願が功を奏した側面もあると考えられていたのでしょう。

その後、この不動明王は平将門の乱平定に功績があったとして、成田山新勝寺が創建され、寛朝大僧正が開山となりました。
昭和9年(1934年)千葉県にある成田山新勝寺の別院として大阪府寝屋川市に成田山不動尊が創建されました。

成田不動尊3 

②将門関連七神社を結ぶと北斗七星の形になる?


東京には平将門に関連する神社がたくさんあり、それをつなぐと北斗七星の形になると、加門七海さんが指摘しておられるそうです。本は読んでいないのですが~。

だけど私にはいまひとつしっくりこないです。
その理由をお話しします。

将門関連 七神社  
結構いい加減な地図ですw

③龍安寺石庭はカシオペア座を表している?


明石散人さんが京都・龍安寺の石庭とはカシオペア座を表したものではないか、とおっしゃっているそうです。(龍安寺石庭の謎/講談社文庫)
この本も読んでいないのですが(汗)、龍安寺石庭がカシオペア座を表したものだというのは、なるほど、と思います。           

カシオペア  
                       
龍安寺 石庭 レイアウト

石庭もカシオペア座もアルファベットのМの形をしていますが、石庭は向かって左側が広いのに対し、カシオペア座は向かって右側が広くなっていますね。
でも、天球(地球を中心としその上に広がる空を球と見立てたもの。惑星や恒星は天球上にはりついていると考える。)の上に神様がいるとして、神様が天球の上からカシオペアを見たとすると、私たちが地球上から眺めるのとは左右逆転したカシオペア座(向かって左側が広い)が見えるはずです。



拝観者が石庭を眺める広縁はカシオペア座や天の川よりも高い位置にある天上をあらわしているのでしょうか。
つまり広縁空石庭を望む人は、天上人というわけです。

④江戸の町は天の北極をあらわす?

すべての星は天の北極を中心にして左回りに回ります。
まるで天の北極星には夜空を回転させるパワーがあるかのようですね。
星が天球に張り付いているものとし、神様が天球の上から眺めたと想定した場合、すべての星は天の北極を中心に右回りに回るように見えるはずです。
江戸の町は江戸城を中心に「の」の字を描くように堀が掘られていますが、これは江戸の町が天の北極になぞらえられているのではないでしょうか。

ファイル:Edo hori.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_hori.png
よりお借りしました。
江戸中心部の堀、門等配置略図。著作権切れ(パブリックドメイン)の絵図の画像を
Safkanさんが加工されたものです。

⑤筑波山=カシオペア座

筑波山はⅯ字形をした山でカシオペア座に似ています。

Mt.Tsukuba

西側から望んだ筑波山
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMt.Tsukuba.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Mt.Tsukuba.jpgよりお借りしました。
作者 RESPITE (photo by RESPITE) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で



カシオペア 

上図は地球上からカシオペア座を見上げた図です。
⑦で説明したように、天球の上からカシオペア座を見下ろしたと想定すると、上の図を左右反転させないといけませんね。
するとカシオペア座は、下の図のように向かって右の山が高く、向かって左の山が低くなります。

カシオペア座

筑波山の南南西にある江戸から筑波山を望んでも、向かって右の山が高く、向かって左の山が低く見えるはずです。
筑波山はカシオペア座になぞらえられているのではないでしょうか。

⑥富士山=北斗七星?

江戸が北極星、筑波山がカシオペア座ならば北斗七星も何かに喩えられていそうですが
将門関連の七神社は北極星に近すぎるので、別のところにあると思います。

北斗七星は変形された形で祀られることが多いようです。
星田妙見宮では境内に北斗七星の神を祀っていますが、北斗七星の形になっていません。


星田妙見宮 境内図

星田妙見宮 境内図 (文・禄・巨・貧・破・武・廉とあるのが北斗七星の神だが北斗七星の形に配置されていない。)

日本には筑波山・江戸・富士山のほかにも、カシオペア・天の北極・北斗七星になぞらえた場所が複数あるように思われます。
これについては長くなるので、下記記事をお読みいただきたいのですが、
三上山・男体山・赤城山など、どうやら、湖のそばにある台形の山を北斗七星になぞらえることが多かったようです。

カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑮ 日光にもあったカシオペアと北斗七星、北極星 
カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑮日振島・鳴門の渦潮・三上山に仕掛けられた壮大な呪術 

富士山の北には富士五胡があります。




また、その位置関係からみても、江戸を天の北極、筑波山をカシオペアとすると、富士山は北斗七星を表しているように思えます。

北斗七星 カシオペア座 こぐま座 




上の地図の赤印のところが筑波山です。 

北斗七星  

北斗七星は右側部分が霞んだ富士山の形のようにも見えますね。

⑦北極星を含む星座・こぐま座
 
北斗七星・こぐま座・カシオペア座2 
    

 現在、天の北極に近い場所にポラリスという星があり、北極星と呼ばれています。
そして、上の図のように、北極星ポラリスは周辺の星と組み合わさってこぐま座を形成しています。
こぐま座は北斗七星に似た形をしています。

そして将門関連七神社の近くには江戸城(現在の皇居)があります。

 将門関連 七神社

江戸城が天の北極を表すと考えると、将門関連七神社はこぐま座をあらわしている?
でも形はこぐま座よりも北斗七星に似ていますね。
それにこぐま座だとすると柄杓のコップ部分が上向(南向き)になるはずですが、将門関連七神社は下向き(北向き)になっています。


また将門関連七神社といいますが、
将門関連神社はほかにもあり、下の図には将門に関係する神社として11か所マーカーがたてられています。



 
11か所ある神社から7つのみを選び出して北斗七星またはこぐま座の形になっていると主張してもこじつけっぽく思えます。

将門に関連する神社が7つしかなく、それらが北斗七星やこぐま座の形をつくっているのであれば、こじつけだとは思わないのですが。
将門関連七神社が北斗七星またはこぐま座の形になっているというのは、偶然そうなったにすぎないのではないかと思えなくもないです。

これ以上の考察は11神社について詳しく調べ、加門七海さんの本も読んでみないと前にすすめそうにありません。
ということで、今回はここで筆をおきますw。


成田不動尊


東大寺 三月堂 百日紅 『将門魔法陣は存在したか?』  へつづく~



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[2019/09/28 00:09] 大阪府 | TB(0) | CM(0)