海遊館  『じんべえさまと鹿の共通点は?』 


大阪市港区 海遊館

 
海遊館 食事中のジンベエザメ 

食事中のジンベエザメ  ※画質が悪くてすいません~。


①普通の度合いを超えた甚だしい奴

「ジンベエザメっちゅう名前は、着物の甚兵衛からくるらしいな。」

「一般的にはそう言われてるけど、逆とちゃうかなあ?着物の甚兵衛はジンベエザメに似てるとこから名前がついたんとちゃう?」

「なんで?」

「着物の甚兵衛はなんで甚兵衛というんやと思う?」

「甚兵衛っちゅう名前の人が着てたとか聞いたで。」

「『甚』という漢字には『はなはだしい、普通の度合いを超えた』という意味があるねんて。
『兵衛』は『〇〇太』とか『✖✖太郎』とかの『太』『太郎』と同じで、ニックネーム的に男性の名前の後ろにつけるやん。」

「やられてのびてるから『のび太』、たぬきやから『ポン太』、お菓子の名前で『たこべえ』ゆうのがあったっけか。」

「そう、それで普通の度合いを超えたはなはだしい奴なんで甚兵衛となったんとちゃう?」

「ジンベエザメは世界最大の魚(全長20mにもなるという。)やから、たしかに普通の度合いをはるかに超えてるといえるかもな。」

海遊館 説明板 
海遊館に展示されていた説明版


海遊館 ジンベエザメ2

ジンベエザメ

海遊館 イルカ 
イルカ


②日本人は古くからジンベエザメを知っていた。


「着物の甚兵衛ができたんは江戸時代やろ、
着物の甚兵衛がジンベエザメから名前がついたんやとしたら、江戸時代の人はジンベエザメを知っとったいうことになるやん。
ジンベエザメは日本の近海におったん?熱帯に住んでるっちゅうイメージが強いねんけど。」

「ジンベエザメは熱帯・亜熱帯だけじゃなく、温帯の海にも生息するってウィキペディアに書いてあったよ。

それに、関東方面では『えびすざめ』って呼ばれとったみたい。
なんで『えびすざめ』かってーと、ジンベエザメの周囲にはいつもイワシ・カツオが群れてるねん。
ジンベエザメもイワシ・カツオもプランクトンを主食にしてるんで。

そやけど、昔の人はジンベエザメがイワシやカツオをつれてくると考えたんやと思う。
それで、ジンベエザメを福の神と信仰したんとちゃうかな。
七福神のうち、海の神様はえべっさん(えびす神のことを関西ではえべっさんと言います)やん。」

「えべっさんはイザナギ・イザナミの長子として生まれたけど、3歳になってもたたれへん身体障害児やったんで、葦舟に乗せて流されたんやったっけか。
えべっさんは竜宮にたどりついて海神に育てられたけど、神の御子やいうことで地上に戻された。
そのえべっさんを祀るのが西宮戎神社。
なるほど、それでふつうの度合いをはるかに超えた甚だしい奴、ジンベエザメは海の神様で『えびすさめ』か。
確かに、そういう信仰は最近のものとは思われへんな。」

海遊館 ジンベエザメ イルミネーション2

③妖怪・ジンベエサマ

「せやろ、ほんで、宮城県金華山沖にジンベエサマっちゅう妖怪がでるねんて。
すごく大きくて船の下で船をささえてたりして、ジンベエサマが現れたら大漁になると言われてる。」

「そのジンベエサマの正体はジンベエザメやな!」

海遊館 ジンベエザメ イルミネーション 

④金華山の鹿とジンベエザメの斑点は謀反の罪で殺された人をあらわしている?

「金華山は、島全体が黄金山神社の神域で、奥州三霊場のひとつやねんて。
行ったことないけど。
で、神の使いやゆうことで鹿が保護されてる。」

「奈良みたいやな。
俺も金華山は行ったことないけど、奈良には行ったことある。
奈良はたいへんや、神の使いやゆうて保護されてるもんで、町中に鹿がおる。
夜、奈良公園あたりを運転してたら急に鹿が飛び出してきて危うくはねるとこやった。
鹿せんべい持ってる外人さんがようさんの鹿に囲まれて悲鳴あげてることもあったなあ~。

前に言うてたな、鹿は謀反で殺された人の喩やって。
えーと、日本書紀の『トガノの鹿』やったけか。
雄鹿が雌鹿に『全身に霜が降る夢を見た』ゆうたら、雌鹿が『それは霜ではなく塩で、あなたは殺されて塩を振られているのです』と答えた。

んで、昔、謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあったとか。」

「そう、鹿の夏毛に斑点があるやん、あの斑点を塩に喩えたんじゃないかと思うねん。」

「黄金山神社の神様ゆうのは、謀反で殺された人の霊なんかなあ?」

「そうやね~。
ほんで、ジンベエザメにも斑点があるやん。」

「そうか、鹿と同じくジンベエザメも謀反で殺された人の霊やと昔の人は考えたんやろな。」

大仏殿 鹿 
東大寺 大仏殿 鹿

「ジンベエザメやクジラのことを『えびす』という地域があるけど、ほかにも『えびす』と呼ばれてるものがあるねん。』


「何?」


「水死体。
水死体のことを『えびす』とゆうて、水死体があがると大漁になるとかいう信仰がある地域もあった。」


「つまり、葦舟に乗せて流された蛭子がたどりついた竜宮とは死の国のことで、地上に戻され、西宮戎神社で祀られてる蛭子とは水死体ちゅうことやな!」


さてさて、金華山に祀られている神様とはどのような神なのでしょうか?
それについてはこれから考えてみます。(汗~)

海遊館 うつぼ  

ウツボ

海遊館 アザラシ 

アザラシ



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[2018/02/19 13:23] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

節分in海遊館! 


大阪市港区 海遊館
2017年1月下旬 撮影


海遊館 ハコフグ2

今日は節分にぴったりな、すぎょい魚たちを紹介するよ!

海遊館 オニダルマオコゼ

↑ オニダルマオコゼ フジツボみたいな目がチャーミングですね♪

海遊館 青鬼コスプレのダイバーさん

↑ なんと水槽の中に鬼が!一緒に記念写真を撮ってくれたり、手を振ってくれたり、優しい鬼さんです。

海遊館 セイルフィンプレコ 
セイルフィンプレコ 虎のパンツをはいていますね。

海遊館 クリオネ 

↑ 角のあるかわいい鬼、クリオネ。 

堂島薬師堂 黄鬼 

堂島薬師堂 一本角の鬼

海遊館 一角

↑ 一本角といえば一角・・・と思ったけど、これ角じゃなくて牙なんだって。

海遊館 ヨツメウオ

↑ 京都の節分では四ツ目の方相氏が鬼を祓うことが多いですが、同じく四ツ目のヨツメウオ。

吉田神社 方相氏 と しん子 
吉田神社 方相氏

海遊館 ふさぎんぼ

↑ フサギンボ。善水寺の節分の鬼に似てない?

善水寺 節分会星祭3 

善水寺

海遊館 オオカミウオ 
オオカミウオ。この子たちも善水寺の鬼に似ています。(特に青鬼)善水寺の鬼ってもしかして魚?

海遊館 赤鬼コスプレのダイバーさん 

 
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[2018/01/30 18:27] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

千早赤阪村 水仙の丘『ナルキッソスはエーコーに殺された?』 


大阪府千早赤阪村 水仙の丘
2015年1月下旬 撮影


千早赤阪村 水仙の丘3

①ナルキッソスの物語

水仙の学名・ナルキッソスはギリシャ神話に登場する美少年・ナルキッソスからきます。
ナルシストの語源となった方ですね。

ナルキッソスはアプロディーテーに魔法をかけられ、愛された相手を拒むようになりました。
エーコーはヘーラーに他人の言葉を繰り返すことしかできないように魔法をかけられていました。
ナルキッソスはそんなエーコーを退屈に思い、振ってしまいます。
侮辱を罰する神・メネシスはこれを見て、ナルキッソスが自分しか愛せないように魔法をかけました。
ナルキッソスは泉に映った自分に恋し、水面に映った自分に口づけしようとして泉に落ちて死にました。
ナルキッソスが死んだあと、水辺には水仙の花が咲いていました。

Narcissus-Caravaggio (1594-96) edited

カラヴァッジオ
によって描かれたナルキッソス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANarcissus-Caravaggio_(1594-96)_edited.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/29/Narcissus-Caravaggio_%281594-96%29_edited.jpg よりお借りしました。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で"


②エーコーは木霊の神


他人の言葉を繰り返すことしかできないエーコーとは木霊(山彦)を神格化した神だと思います。

千早赤阪村 水仙の丘4

③日本の木霊の神・一言主大神


日本にも木霊の神と思われる神がいます。一言主大神です。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、
向かいの山の方から、『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と同じ言葉が返ってきました。

雄略天皇と全く同じ言葉を返す一言主大神とは木霊(山彦)の神ではないでしょうか。

一言主神社のある葛城山から金剛山にいたるダイヤモンドトレールと呼ばれる道では木霊(山彦)がよく聞こえるそうなので
このような話が作られたのだと思います。

一言主神社 公孫樹

一言主神社 

④一言主大神は鏡に映った雄略天皇?

一言主大神は雄略天皇と同じ言葉を返すだけでなく、同じいでたちをしているのです。
一言主大神は鏡に映った雄略天皇ではないでしょうか?

そういえばナルキッソスは水鏡に映った自分に口づけをしようとして泉に落ちて死んだのでしたね。


千早赤阪村 水仙の丘2 

⑤木霊の神が現実の人になった理由

そして雄略天皇は一言主大神の話には続きがあります。


雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 

古代には、名前を問われたほうが先に名乗る、というようなしきたりがあったのかもしれませんね。

それで木霊(山彦)の神・一言主大神は雄略天皇より先に名乗ることになり、現実の人間になってしまったということだと思います。

千早赤阪村 水仙の丘

⑥雄略天皇は一言主大神に殺されていた?

一言主大神は雄略天皇を長谷まで送っています。
これは一般に、一言主大神と雄略天皇が仲良くなったことを表すものととらえられているようです。
でも、私はそういうことではないと思います。

長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』ですが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。
『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないでしょうか。

長谷という地名は葬送の地を意味していると聞いたこともあります。
今でも長谷寺の奥の院あたりにはたくさんのお墓があります。

つまり「名前を問われたほうが先に名乗る」というようなしきたりがあったのに、
雄略天皇がうっかり「それぞれが自分の名を名乗って矢を放とう」と言ったので
木霊(山彦)である一言主大神はまず自分が名を名乗る必要が生じたため、
実体のある神となって名を名乗り、雄略天皇を矢で射たということだと思います。

長谷寺 宵牡丹 

長谷寺 牡丹


⑦日本神話はギリシャ神話の影響を受けている?

ギリシャ神話と日本神話にはよく似た話が結構あります。たとえば下のような例です。

●ギリシャ神話
オルフェウスは死んだ妻・エウリュディケをつれ戻すために冥界に行きました。
冥界の王ハデスはオルフェウスに「地上に着くまで後ろを振り返ってはいけない」と言いました。
しかしオルフェウスは後ろから妻が本当についてきているのかと心配になり後ろを振り返ってしまい、工ウリュディケは冥界に連れ戻されてしまいました。
オルフェウスは川に身を投げてなくなりました。


日本書紀
イザナギは死んだ妻・イザナミを連れ戻すために黄泉の国に行きました。
イザナミは「黄泉の大王に相談してくるので、その間決して振り返って私を見ないでください。」と言いました。
しかしイザナギは我慢できなくなって振り返り、イザナミの姿を見てしまいました。
イザナミの体は膨れ上がり蛆がわいていました。
こわくなったイザナギは黄泉の国から逃げ帰りました


面不動鍾乳洞4 
面不動鍾乳洞 石筍
黄泉の国でイザナギが櫛の歯を折って投げると、筍が生えてきたという話があります。黄泉の国とは鍾乳洞のイメージ?


⑧ナルキッソスはエーコーに殺された?

私は雄略天皇と一言主大神の話はギリシャ神話の、エーコーとナルキッソスの物語の影響を受けたものだと思います。

ナルキッソスと同じ言葉を繰り返すエーコーは、ナルキッソスと同じ姿をしていたのではないでしょうか。
一言主大神が雄略天皇と同じ姿をしていたように。

ということは、泉に映ったナルキッソスとはエーコーでもあると考えらえると思います。

そしてナルキッソスはエーコーに殺されてしまったのでしょう。
雄略天皇が自分の木霊である一言主大神に殺されてしまったように。

一言主神社 天狗・神職・お多福・翁のお練り2 

一言主神社 秋季大祭 


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[2018/01/20 14:50] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

久安寺 紅葉 『隼人は戌(北西)なのになんで九州は南西にあるの?』 

大阪府池田市 久安寺
撮影 2011年12月4日


久安寺 紅葉4

①猪早太の意の猪は干支の戌亥(いぬい/乾)を、早太は隼人をあらわす? 

久安寺 躑躅 『妖怪・鵺と猪早太』 
↑ こちらの記事にこんなことを書きました。

a.久安寺は平安時代に賢実上人が鳥羽天皇の皇后の安産祈願を行ったところだと伝えられる。
その結果、皇后は近衛天皇をお産みになられた。

b.この近衛天皇が鵺(ぬえ)に怯えたという話が平家物語に記されている。
鵺とは頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という鵺と呼ばれる怪物で、源頼政は弓で鵺を射、郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留めた。
その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流した。

c.鵺伝説で鵺を太刀でしとめた郎党の名前は猪早太だった。
、早太は隼人(古代、九州に住んでいた民。畿内に強制移住させられ、犬の鳴き声をまねて宮廷の警備の仕事をさせられていた。)を表すとする説がある。

この中のc、「猪は干支の戌亥(いぬい/乾)を、早太は隼人(古代、九州に住んでいた民。畿内に強制移住させられ、犬の鳴き声をまねて宮廷の警備の仕事をさせられていた。)を表すとする説」が私はすごく気になっていました。

久安寺 紅葉6

②乾は北西、隼人が住んでいた九州は南西

乾(戌亥)は方角では北西をあらわします。
しかし隼人が住んでいた九州は京からみて南西です。

干支 方角

九州は京から見て南西(未申/ひつじさる)の方角にあるのに、なぜ九州に住んでいる民が犬(=戌=北西)の鳴きまねをするの?

猪早太(戌亥=乾)とは、鵺(未申=坤)が陽に転じたものなのか、などとも考えてみたり
昔の日本列島は混一疆理歴代国都之 図のように南北が逆転していたのか、などとも考えてみました。

KangnidoMap

混一疆理歴代国都之 図

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKangnidoMap.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/KangnidoMap.jpg よりお借りしました。
作者 Kim Sahyung, Lee Moo, Lee Hui (...) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


③太陽は曲線を描いて南西→北西へ動く。

乾=戌亥は犬と猪ですね。
で、猪は摩利支天の神使とされています。
摩利支天は陽炎を神格化した神とされますが、原語のMarīcīは太陽や月の光線を意味する言葉なので、
摩利支天とは太陽の光を神格化した神だと考えていいと思います。

そこで太陽の動きについて調べていて、下の動画を見つけました。



動画、お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます。

私は理数系が苦手なもので(恥~)、太陽は東から西へ直線運動で進むと思っていたんです!
でもそうじゃなかったんですね。
東から出た太陽は弧を描いて、いったん南西(未申)に進み、それから北西(戌亥)に進んでいくのですねー。

それで南西にある九州は太陽が向かう方角ということで、畿内につれてこられた隼人たちは犬の鳴き声をまねて警備の仕事をしたのかも。

久安寺 紅葉2 

久安寺 紅葉 

久安寺 紅葉5 



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[2017/12/13 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

一心寺 紅葉 『浄土宗と日想感と聖徳太子信仰』 


大阪市天王寺区 一心寺
2013年11月下旬 撮影

一心寺 納骨堂 
一心寺

①法然、四天王寺西門近くに草庵を結ぶ。

浄土宗の開祖は法然(1133年ー1212年)ですね。
1185年、この法然が四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結びました。
これが一心寺のルーツです。もちろん一心寺は浄土宗ですよ。
その後、後白河法皇’(1127年~1192年)がここを訪れて、法然とともに日想観を修したと伝えられています。

日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法だということです。

淀川や大和川が運んでくる大量の土砂によって平地が増え、現在の海岸線ははるか遠くになってしまったのですが
かつて四天王寺の西門から海が眺められたといわれます。
そして四天王寺周辺ではこの日想感がさかんに行われていたようです。

極楽浄土は西方にあると考えられており、日想観はその極楽浄土を拝むという意味合いがあったのでしょう。

法然が結んだ源空庵とは日想観を行うための草庵であったのかもしれませんね。

法然は「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、人は誰でも極楽浄土に行くことができると説きました。
そんな法然の浄土教の思想にぴったりマッチする土地が四天王寺付近だったということなのかなあと思います。

一心寺 本堂 
一心寺

②藤原家隆、四天王寺西門近くに草庵を結ぶ。

法然だけでなく、歌人の藤原家隆も1236年に病を患って石像寺(釘抜き地蔵)で出家し、その後四天王寺近くの夕日庵に移って日想感を修したといわれます。

現在、その夕日庵跡には家隆塚がありますよ。

家隆塚  
家隆塚




③家隆山石像寺


藤原家隆が出家したという石像寺は京都西陣にあります。
もとは真言宗だったそうですが、重源(1121~1206)によって浄土宗に改められています。
家隆が出家したのは1236年なので、そのときはすでに浄土宗だったんですね。

で、家隆がここで出家したため石像寺は山号を家隆山といいます。

家隆は浄土宗だった石像寺で出家したのち、四天王寺近くの夕日庵に移って日想観を行っていますし
それ以前には浄土宗の開祖・法然が四天王寺近くに源空庵を結び、やはり日想観を行っています。
どうも日想観というのは浄土宗と関係が深いように思われますね。

四天王寺は現在は和宗、かつて天台宗だったこともあるようですが、浄土宗であったことはないと思います。
それでも法然が源空庵を結んだのは四天王寺別当の慈円の要請を受けてのことでしたし
四天王寺と浄土宗は関係が深いといえるかもしれません。

日本の仏教は簡単に宗派を変えるなど、もともと宗派に大してこだわりがなかったのかもしれません。

石像寺 門

石像寺

④石像には聖徳太子信仰があった?

四天王寺は聖徳太子が建立した寺ですが
家隆が出家した石像寺にも聖徳太子信仰があったと思われるふしがあります。

石像寺は「釘抜き地蔵」と呼ばれており、次のような伝説が伝えられています。

a.遣唐使として唐に渡った弘法大師は、日本へ石を持ち帰り、地蔵菩薩を彫った。
そして「人々の諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願した。
いろいろな苦しみを抜きとってくださるお地蔵様「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまって「くぎぬき」になった。


b.室町時代、両手の痛みに悩む大
商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。
お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世でわら人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。
商人が目覚めると手の痛みは治っていた。

この伝説にちなみ、石像寺境内にはくぎ抜きと5寸釘をモチーフとした絵馬がたくさん奉納され、お堂の壁一面にかけらています。

石像寺 絵馬

石像寺

聖徳太子は建築の神としても信仰されており、四天王寺近くにある金剛組のは578年、聖徳太子が四天王寺を建立するため百済よりま招いた宮大工・金剛重光が創業したとされています。
もちろん金剛組は世界最古の企業ですよ。

金剛組では今も朝礼の際、厨子をあけ、聖徳太子像を拝んでいます。

紀伊国屋道林の手のひらから釘を抜いてくれた地蔵菩薩とは聖徳太子なのではないでしょうか。
そして石像寺で出家し夕日庵で日想観を行った藤原家隆もまた聖徳太子を信仰していたのではないかと思ったりします。


一心寺 

一心寺

一心寺 本多忠朝の墓 

一心寺 本多忠朝の墓



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[2017/12/12 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 紅葉 『茶臼山古墳は暴かれた墓?』 


大阪市天王寺区 四天王寺
2013年11月下旬 撮影

四天王寺 桜紅葉


①長持形石棺蓋

四天王寺の宝物館の横になにか置いてありますよ。
手前の細長いのは西門石鳥居の笠石(1294年造)で、鳥居の最上部に使用されていたものだそう。

四天王寺 長持型石棺蓋 西門石鳥居の笠石


奥にあるのは石棺の蓋です。

四天王寺 長持型石棺蓋


説明板には次のように記されていました。

荒陵(あらはか/現在の茶臼山付近)から出土したものとされる。
いつのころからか四天王寺境内に移されて亀井堂東の小溝に架けられ、
江戸時代にはその橋を渡ると安産になると評判になり、四天王寺の七不思議の一つとして言い伝えられてきたが、
明治時代になって古墳時代の石棺の蓋であることが判明してからは移転し、保管されている。


長持型石棺とは主に古墳時代中期に作られたと考えられている石棺です。

古墳時代とは3世紀中頃から7世紀頃をさします。
古墳時代中期は5世紀ぐらいですね。
大阪府堺市の仁徳天皇陵もこのころ作られたと考えられています。

四天王寺 南鐘堂 公孫樹


②茶臼山古墳



長持型石棺が出土したという茶臼山古墳は前方後円墳とされていますが、「古墳ではない」とする説もあります。
「茶臼山古墳は古墳ではない」とする説の論拠は、1986年に発掘調査で埴輪や葺石が出土しなかったということにあります。
しかし2009年の発掘調査では水銀朱が塗られた石室のようなものが発掘されたと発表されています。
四天王寺にある長持型石棺も茶臼山古墳から出土したと伝わっていますし、やはりこれは古墳なのではないでしょうか。

とすれば、なぜ埴輪や葺石が出土しなかったのでしょうか?

 四天王寺 門 公孫樹

③暴かれた古墳

梅原猛さんは中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、奈良県明日香村にある石舞台古墳も暴かれた墓ではないかとおっしゃっています。

石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされていますが、馬子の孫の蘇我入鹿は自分の屋敷を宮門(みかど)と呼ばせるなど天皇のように振る舞っているのがけしからんとして、645年に中大兄皇子に斬殺されています。
翌日、入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺しました。

馬子の墓は謀反人・入鹿の祖父の墓だとして暴かれ、盛り土が取り除かれて石室がむき出しの状態にされたのかも。

石舞台古墳 小焼け

石舞台古墳


④茶臼山古墳は暴かれた古墳?

587年、崇仏派の蘇我氏vs排仏派の物部氏の戦いがありました。
結果、物部氏が負け、蘇我氏側についていた聖徳太子は物部氏から没収した土地と奴婢を用いて四天王寺を建立しました。
四天王寺付近は物部氏の土地だったのですね。

茶臼山古墳は四天王寺西南にある石鳥居から西南に360mほどのところにあります。
茶臼山古墳は物部氏を葬った古墳だったのではないでしょうか。

物部氏は謀反人であり、茶臼山古墳は謀反人を葬った墓であるとして葺石ははがされ、埴輪も撤去されたのではないでしょうか。
さらに石室から石棺も持ちだされ、石棺の中の遺体はどこかに捨てられたのかもしれません。
そして石棺は橋として用いることで、人々に踏みつけられることになっててしまったのでは?

四天王寺 夕景 (合成) 

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[2017/12/10 18:40] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

水面回廊 淀川 夕景 『関ヶ原の戦い・・・民衆が合戦見物したというのは本当?』※追記あり 

大阪府枚方市 水面回廊 淀川
2017年12月初旬 撮影


①水面回廊

水面回廊

水面回廊は昭和初期に作られた農業用水路を、平成8年に出口雨水幹線として整備したものです。




淀川の南の水色の線状に見えるのが水面回廊で寝屋川まで2.8kmの遊歩道が続いています。

三十石舟が浮かんでいますね。

②『くらわんか舟』のルーツは関ヶ原の戦いまで遡る?

かつて淀川は大阪と京都を結ぶ重要な交通路で舟が盛んに往来していました。

淀川夕景に広重の浮世絵を合成  
淀川夕景に安藤広重が描いた「くらわんか舟」(説明版より)を合成してみた。

その舟の乗客たちに「食らわんか 食らわんか(「食べへんのか、食べる銭もないんか~」というニュアンス)」と言って飲食物を売る小舟があり、「くらわんか舟」と呼ばれていたのです。

すごいもの言いですね~。

東海道中膝栗毛にも出てくるそうです。

「飯食はんかい。酒飲まんかい。サアサア、みな起きくされ。よう臥さる奴らぢゃな」
と『くらわんか舟』の主ががなりたて、
弥次が「イヤ、こいつらア、云はせておきゃア、途方もねえ奴らだ。横面張り飛ばすぞ」と返すシーンがあるのだとか。

そのルーツは戦国時代、関が原の戦いにまで遡るとされます。
このとき、徳川軍の物資補給に協力したので、徳川幕府より営業特権を与えられたというのです。

関ヶ原の合戦は農民が住んでいるところで行われた。

そういうわけでかなり強引ですが、関ヶ原合戦の話です。(汗~)

関ヶ原 堺火縄銃保存会

関ヶ原の写真に堺祭に登場した堺火縄銃保存会の方々を合成。

 ときどき、こんなことを言う人がいます。

「日本の戦は関ヶ原のようななにもないところで行った。したがって農民に迷惑をかけていない。」

これはまちがいだと思います。
友人が歴史秘話ヒストリアというテレビ番組を録画したビデオを貸してくれたのですが、それによれば
当時の検地帳が残っており、当時の関ケ原には8つの村があって2000人ほどの人が住んでいたことがわかっているというのです。

また野上町に観音堂跡があり、合戦の際、この場所に住民たちが避難したと言い伝わっているといいます。

関ヶ原合戦屏風には稲を持って逃げる農民が描かれています。
戦後、家康が発布した禁制も残っています。

その禁制には、関ヶ原の領民に乱暴したり、放火してはならないと記されています。

つまり関ヶ原は何もないところだったというのはまちがいで、農民たちが住んでおり、戦によって農民たちが被害を受けたと考えられます。

※追記
関ヶ原の領主・竹中重門は始め西軍でしたが関ヶ原合戦のときは東軍に寝返っていました。
もし関ヶ原の領主が西軍だったら家康は禁制を出さず、領民は奴隷にされていたかもしれません。


関ヶ原 
関ヶ原 


関ヶ原合戦陣形図 
関ヶ原に置かれていた関ヶ原合戦陣形図

④見物人が集まったのは関ヶ原合戦ではなく大津城攻防戦だった。


こんなことを言う人もいます。

「関ヶ原の戦いでは手弁当を持った見物人が集まったり、屋台が出たりした。
戦において農民が攻撃されることはなかったためである。」

これは関ヶ原合戦ではなく、その前に起こった大津城の戦いのことのようです。
当初西軍だった京極高次は、突如東軍につくことを宣言し、本拠地の大津城に籠りました。
西軍はこれを平定するため毛利元康・立花宗茂・小早川秀包、筑紫広門らの大軍で責めさせました。
京極高次は降伏して高野山に出家しましたが、大津城を開城した日が関ヶ原合戦の当日で、西軍の戦力が分散されて東軍有利をもたらしました。
そのため東軍の総大将・徳川家康は高次を呼び戻して若狭一国・8万5000石を与えています。

大津城は京より山ひとつ超えた場所にあります。
山から合戦を見るのであれば安全だし、大津城には秀吉の側室や淀殿の妹など有名人がいたということで見物人が集まったんでしょうね。







https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9f/Sekigaharascreen.jpg/1280px-Sekigaharascreen.jpg?uselang=ja よりお借りしました。

上の図は関ヶ原合戦屏風図です。
ちょうど高台から見下ろしたように描かれていますね。
こんな感じで見れるんだったら怖がりの私でも見に行きたくなってしまうかも。

淀川夕日 

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[2017/12/09 00:12] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

交野山 観音岩 紅葉 『観音岩は織女岩?』 

大阪府交野氏 交野山(こうのざん)
2017年12月初旬 撮影


①交野山観音岩に登る。

↓ 交野山の上に巨岩が! 山を登ってみることにしましょう~!

交野山  
交野カントリークラブ近くの駐車場に車を止めて登ればすぐ山頂につきました。15分くらいかな~。

交野山 観音岩

これが下から見えていた岩ですね!でっかい!
岩の反対側にはこんな梵字が刻まれていました。↓

観音岩 梵字 

交野山より大阪方面を望む  
↑ 岩に登って大阪方面を望むとこんな感じです。
岩が絶壁になってるので怖くて足がすくむよ~。

交野山 梵字  
↑ これは上の巨岩とは別の石です。

②機物神社は織女、中山観音寺は牽牛

交野山のふもとには機物(はたもの)神社があります。

機物神社 七夕飾り 
機物神社(2017年7月7日撮影)

ここから1kmほど西に天野川(天の川)と呼ばれる川があり、機物神社は天野川の向うにある中山観音寺跡(観音山公園)と天野川をはさんで対面しています。
といっても、観音山公園と機物神社はかなり距離が離れていますが~



上の地図の東側、第二京阪道路とJR片町線が交差するあたりに機物神社が、西側香里ヶ丘中央公園の南あたりに中山観音寺跡があります。
5kmほど離れているかな?
郡津駅の西側を南北に流れる川は天野川です。

天野川は天上の天の川を、中山観音寺はアルタイル(牽牛星)を、機物神社はベガ(織女星)を表すものとされ
天野川には牽牛と織姫が年に一度逢瀬を楽しむという合逢橋もあります。


観音山公園 牽牛 七夕飾り

中山観音寺跡 2017年7月7日撮影

参照/観音山公園 機物神社 七夕祭 『山上憶良と山之上』 

この中山観音寺跡に牽牛石という石があります。


中山観音寺 牽牛石 
牽牛石

③観音岩は織女石?

7月7日に機物神社へ参拝したとき、神社の関係者の方に聞いてみました。
「中山観音寺には牽牛石がありますが、機物神社には織女石はないんですか」と。
「そういうものがあると聞いたことはないですねえ~」とお答えいただきました。
境内を探してみても、それらしいものは見つかりません。
でも、牽牛石があるなら織女石もあってしかるべきじゃないでしょうか。

もしかして、交野山の観音岩が織女石なんだったりして?


交野山 
1枚目の写真とは違う場所から交野山を撮影。ちょっとわかりにくいけど、山頂に観音岩が見えています。


④大きな女神と小さな男神

ずいぶん大きさが違うやんって?

でも二月堂には大観音と小観音があって、かなり大きさが異なりますが、一対のものとされています。

え、なになに? 女の織女石のほうが男の牽牛石より大きいのっておかしいやんって?

少彦名神と大穴持命(大国主の別名)がきょうだいの契りをかわしてともに国造りをしたという神話があります。
少彦名神はががいもの実をふたつ割りにした船にのり、みそささいという小鳥の皮を着ていた小さな神様です。
神名に彦とあるので男神なのでしょう。

それに対して大穴持命はその神名から巨人のように思われますが、大穴持命・・・大きな穴を持つ神とは女神だと思います。

大穴持命は大国主神の別名です。
大国主神は男神ですが、日本の神は性別がルーズです。

能「三輪」では三輪明神は女神として登場しますし(記紀神話では男神)、聖徳太子が親鸞の夢の中に現れて「私が女に生まれ変わってあなたの妻になりましょう」と言ったという話もあります。

男神は荒魂(神の荒々しい側面)を、女神は和魂(神の和やかな側面)をあらわすとする説があります。

和魂である女神を大きく、荒魂である男神を小さくすることで、疫病や天災などを鎮めようとしたのではないでしょうか。

交野山より望む 
 


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[2017/12/07 15:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 紅葉 『日本の城郭都市と乱取り』  

大阪市中央区 大阪城(大坂城)
2009年 11月下旬 撮影

 
大坂城 紅葉
大阪城

①豊臣大坂城の周囲は約約7.8km、江戸城の周囲は約15.8km


大阪城はすごく広いです。
外周3kmぐらいあると思います。
レンタル自転車とかあったら移動が楽でいいのになあ~、と思うことがあります。



グーグルマップをみると堀がめぐらされている様子がわかりますね。
現在この堀がめぐらされている一帯は大阪城公園として整備されています。

大阪城は太閤さん(豊臣秀吉)の城といわれますが、現存する遺構は徳川氏によって作られたものがほとんどです。
徳川氏は豊臣秀吉がつくった大坂城を破壊し、盛り土をした上に新しい大坂城をつくったのです。

http://www.toyotomi-ishigaki.com/hideyoshi/index.html
↑ こちらのサイトには、もともとの大阪城の規模は現在よりも広く、2km四方にもおよぶ大城郭だったと書いてあります。

城郭とは城、または城と郭(くるわ/城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域)の総称です。

江戸城はもっと大きかったんですよね。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1291227312?__ysp=5rGf5oi45Z%2BOIOWkp%2BmYquWfjiDlpKfjgY3jgZU%3D
↑ こちらのサイトには秀吉の築いた大坂城の総構えは周囲約7.8km、家光の寛永期で完成をした江戸城は内郭で約7.8km、外郭では約15.8kmで大阪城の2倍と書いてあります。

皇居 正門石橋 
江戸城(皇居) 

②城郭都市

江戸城、大坂城は城郭都市だといえるでしょう。
城郭都市とは、城壁・土塁・堀などで周囲を囲んだ都市のことです。



上の写真はスペイン・アビラの町です。

ウィキペディアよりお借りしました。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Murallas_de_%C3%81vila.jpg?uselang=ja
ありがとうございます。

城壁で囲まれた中に民家がたくさんありますね。
このアビラも城郭都市です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%83%AD%E9%83%BD%E5%B8%82
上記ウィキペディアには城郭都市の説明の中に日本の「総構え」があり、
その例として江戸城・大坂城・名古屋城・姫路城・郡山城・広島城・彦根城・福岡城・長浜城・甲府城・金沢城・犬山城・伏見城・米沢城・長岡城・松江城・高知城があげられています。

大坂城 紅葉2 
大阪城

③城下町を戦乱から防護する城郭都市

ウィキペディアに次の様に記されています。

世界各国の大半の城郭都市は、城壁に囲まれた中に
城と街が存在する。
それに対し、日本では堺や寺内町のような堀と土塁で囲まれた都市や町は早くから存在していたものの、初期の城下町では領主の居城のみが堀と城壁に囲まれ、街自体は城壁には囲まれていなかった。
しかし、日本においても城下町が発展すると、経済的および政治的価値が上昇し、それにともない城下町を戦乱から防護する必要性が生じた。
そのため町を堀と塁壁で囲む総構えの構築が増加してゆき、次第に城郭都市化していく傾向をみせた。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BAより引用

※塁壁とはとりでを囲む壁のことです。

そういえば、豊臣秀吉は京都の町をお土居で囲みましたね。京都の町も聚楽第を中心とした城郭都市であったといえるかもしれません。

北野天満宮 御土居2 

北野天満宮に残るお土居

④外国の城には市民が住んでいたが、日本のお城には殿様一家しか住んでいなかった?

武田邦彦さんが次のように書いておられます。

日本のお城は実に奇妙である。なにしろ城がとても小さく、どんなに大きな名古屋城、熊本城なども1000人も住めないぐらいの大きさだ。そ
れに対して、外国の城というとまったく規模が違う。中国では北京城、南京城、トルコのイスタンブールの城、フランスのパリの城壁・・・
どれもこれも威風堂々として、城の中に数万人から数10万人の市民を全部、収容できる。

なんで日本の城は世界でももっとも小さいのだろうか?

外国の城には市民が住んでいたが、日本のお城には不思議なことに殿様一家しか住んでいなかった?! 

簡単に言うと、外国の戦争は「領土獲得より、奴隷獲得」であり、日本の戦争は「領土獲得だけ」だったからだ。


http://takedanet.com/archives/1013802913.html より引用


うう~ん、申し訳ないですが、武田さんは勘違いされていないでしょうか。

a.外国の城には市民が住んでいたが

これは外国の城と、城壁で囲まれた城郭都市について語っておられるのだと思います。

b.日本のお城には不思議なことに殿様一家しか住んでいなかった?! 

①~③で私たちは、堀や土塁などで囲まれた日本の城郭都市には城下町があり領民が住んでいたということを見てきました。
もしも、ウィキペディア等の記述に間違いがありましたら、ぜひ教えて下さい。
「殿様一家しか住んでいなかった」とおっしゃっているので、これは城郭都市の中の天守閣について語っておられるのでしょう。

外国の城郭都市と、日本の城郭都市の中の一部分である天守閣を比較しても意味がないと思うんですが。

「外国の城郭都市には市民が住んでいた.
初期の日本の城は居城だけしかなかったが、城下町が発達すると日本でも市民が住む町を堀や塁壁で囲む城郭都市が形成された。」
というのが正しいのではないかと思えます。

武田さんがあげておられる名古屋城も、ウィキペディアは城郭都市の例としてあげています。

上に掲載したスペインのアビラの城壁が作られたのは、1085年、イスラム教徒に占領されていた町をカスティーリャ=レオン王・アルフォンゾ6世が奪還したあと、アルフォンソ6世の娘婿ラモン・デ・ボルゴーニャによってとされます。
今も城壁がよく保存されていますね。

ところが日本では空襲を受けて多くの建物が破壊されたり、町が近代化する中で、城郭都市が古の姿をとどめているケースが少ないということだと思います。
武田さんの他にも、同じようなことを言う人がいますが、それは現代の城の姿を頭に思い浮かべるためではないでしょうか。

大坂城 紅葉3

⑤乱取り

武田さんは次のようにもおっしゃっています。

c.外国の戦争は「領土獲得より、奴隷獲得」であり、日本の戦争は「領土獲得だけ」だったからだ。

しかしながら、ウィキペディアには次のような記述があります。

戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取)と呼称された。

当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人狩りの戦利品が戦後、市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。

凶作・水害・疫病が起こると、大名は食料獲得のため隣国へ戦争をした。
その結果として領土を獲得し、家臣団に与えて下剋上の芽を摘み取った。
その上で、戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、女・子供をさらい売り払うか奴隷にするかした。
女性奴隷の一部は、交易を行うポルトガルによって欧州やタイ、カンボジアに性奴隷として売られた。
人身売買の相場は、通常2貫文(約30万円)であったが、大量に乱取りが行われる戦の直後は25文(約4千円)に急落した。
女性を強姦し、抵抗する者は殺した。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E5%A6%A8%E5%8F%96%E3%82%8A より引用

日本でも戦争に負けると領民が奴隷にされることがあったようですね。

大阪城 夕景 


※追記

下の動画を見ると、えどじだい名古屋城天守閣の周囲に民家があり、民家の外側に堀がめぐらされているのが確認できます。
城壁の有無はわかりませんが、堀も防御システムのひとつだと考えられます。
1870年(明治3年)に徳川慶勝が新政府に名古屋城の破却を申し出ていますので、それまで名古屋城には尾張徳川氏が住んでいたのではないかと思います。

名古屋城は城郭都市だったのです。



動画お借りしました。
動画主さん、ありがとうございます。



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[2017/11/20 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

神峰山寺 紅葉『開成皇子とジンベエザメ』 


大阪府高槻市 神峰山寺
2017年11月4日 撮影


神峯山寺 紅葉


①開成皇子→謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

神峰山寺は役小角によって開かれ、774年、光仁天皇が開成皇子に命じて中興させたお寺です。
開成皇子、キターーーーーーーー!
私がいまもっとも心ときめかせているお方、それが開成皇子なのですね~。

開成皇子は箕面の勝尾寺の開基でもあります。

神峯山寺 紅葉2


以前の記事、勝尾寺 桜 『勝尾寺は鰹寺?』 に私はこんなことを書きました。

a.727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)が箕面に草庵を築き、765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りした。777年、開成が弥勒寺(勝尾寺の前身)を創建した。

b.清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」になったというが、「王に勝った寺」というのは日本語としておかしい。
「王の病に勝った寺」と言うべきである。
勝尾寺という寺名の由来を「勝王寺からくる」とするのは、こじつけっぽい。

c.清和天皇は天皇であって王ではない。
王とは天皇の子の男子ではあっても親王宣下をうけていない者のことである。

d.開成は「かいじょう」と読み、静岡県磐田市の白山神社の創建説話に登場する海上皇子(戒成皇子/桓武天皇の第四皇子)と関係があるのではないか。(前田速男氏の指摘)

e.愛知県新城市の白山神社の創建説話には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子が登場する。

f.海上皇子と開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられている。
開成皇子は何の病になったのかわからないが、海上皇子はハンセン病になったとされている。

ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるのではないか。
神峯山寺大阪府高槻市開成皇子光仁天皇に命じられ神峯山寺を開く
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子

gに追記させていただきます。

志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になったという伝説がありますが、志貴皇子の子として、海上王(本朝皇胤紹運録)または海上女王(続日本紀)という名前が記録されています。

h.斑点のある鹿は謀反人の比喩ではないか?
雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(日本書紀・トガノの鹿)

鹿の夏毛には白い斑点がある。その白い斑点が霜や塩に喩えられたのだろう。
そして謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説があります。

i.斑点のある動物はハンセン病の比喩ではないか?


612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。(日本書紀)

神峯山寺 回向堂 紅葉


ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

つまり、次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないか。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

j.ハンセン病は古にはらい病、ナリンボ、ドス、カタヰ(カタイ)などとも言った。
海上皇子という名前は海の魚を想起させ、魚偏に堅いと書けば鰹となる。
鰹寺から勝尾寺になったのではないか?

勝尾寺 多宝塔 二階堂 紅葉 
勝尾寺

②普通の度合いをはるかに超えた奴、ジンベエザメ。

①を念頭に置いて、続きを読んでくださいね。

Requin baleine

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ARequin_baleine.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Requin_baleine.JPG よりお借りしました。
作者 zclemz (投稿者自身による作品) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

ジンベエザメの体にもまた斑点がありますね。

着物の甚兵衛に似ているのでジンベエザメの名前がついたのではないかといわれていますが、私は逆じゃないかと思います。
甚兵衛の甚を調べてみると次のようにあります。


甚という漢字を調べてみたところ、次のようにありました。


①「はなはだしい(普通の度合いをはるかに超えている、ひどい)」
②「はなはだ(普通の度合いをはるかに超えているさま、非常に、ひどく、大変)」
③「「何」の意味を
表す疑問詞。なに。なんの。いかなる。なんぞ。」
④「非常に楽しい」

https://okjiten.jp/kanji1607.html より引用

つまり甚兵衛とは「普通の度合いをはるかに超えた奴」「ウルトラマン」というような意味になりますが、ジンベエザメは体調10mにもなることのある巨大な魚です。
まさしく「普通の度合いをはるかに超えた奴」ではありませんか。

着物の甚兵衛はジンベエザメに似ているところからその名前が付けられたのではないでしょうか。

神峯山寺 釈迦堂 紅葉 
③ジンベエザメはえびすざめだった。

ジンベエザメは茨木県では「いびすさが」「じんべ」、千葉県、神奈川県、静岡県では「えびすざめ」、福井県では「じんべい」、高知県では「さめ」、鹿児島県では「くじらぶか」、沖縄県では「みずさば」などと呼ばれていました。
ジンベエザメは古来より日本各地の海で観測されていたのでしょう。

栃木県ではアブラツノサメのことを「さがんぼう」というそうです。
茨木県の「いびすさが」の「いびす」は「えびす」、「さが」は「さめ」という意味で、千葉・神奈川・静岡の「えびすざめ」と同じ意味ではないでしょうか。

ジンベエザメの周囲には同じプランクトンを食べるイワシやカツオが常に群れているそうです。
そのため、ジンベエザメの姿を見かけると大漁になると考えられ、「えびすざめ」と呼ばれたのではないかと考えられています。 

神峯山寺 本堂 紅葉2


④鰹を連れてくる開成皇子

『ジンベエザメの周囲には同じプランクトンを食べるイワシやカツオが常に群れている』という点に注目してください。
やはり勝尾寺は鰹寺からくるのではないでしょうか?

開成(開成皇子・海上皇子)は謀反人であり、その死体にふられた塩がハンセン病を思わせるところから、ハンセン病をもたらす怨霊であると考えられたのだと思います。
ジンベエザメは体に斑点があるところからハンセン病を患った(実際には死体に塩がふられれているのですが)開成皇子の化身であると考えられていたのではなでしょうか。

そして、陰陽道では災いをもたらす荒魂は慰霊することでご利益をもたらす和霊に転じると考えられていました。
開成の化身であるジンベエザメは鰹をつれて姿をあらわし、大漁をもたらしてくれる。
そういうわけで、鰹寺となり、勝尾寺になったのではないかと思ったりします。

うーん、やっぱりトンデモ説?

神峯山寺 本堂 紅葉




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[2017/11/08 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

天保山大観覧車 海遊館 『ジンベエザメとはウルトラマン?』 


天保山大観覧車  




天保山大観覧車の近くに海遊館があります。(赤い台形模様のある建物が海遊館)

海遊館といえば、有名なのがジンベエザメです。

File:Requin baleine.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Requin_baleine.JPG?uselang=ja よりお借りしました。

大観覧車のイルミネーションにもジンベエザメが現れ、夢中になって撮影しました。
ですが、ほとんど写っていないというか、ジンベエザメの形が認識できないというか??目ではちゃんとジンベエザメの姿が見えてるのに。
みなとみらいの観覧車に現れたピカチュウは撮れたんだけどなあ~。
撮影のコツなど、どなたかアドバイスください!
  
天保山大観覧車

①ジンベエザメはえびすざめだった。


ジンベエザメは世界最大の魚ですが、プランクトン・小魚・海草などを食べ、また動きが緩慢なので一般的なサメと比較して危険性が少ないとされていますね。

熱帯・亜熱帯・温帯の海に広く生息するということです。

茨木県では「いびすさが」「じんべ」、千葉県、神奈川県、静岡県では「えびすざめ」、福井県では「じんべい」、高知県では「さめ」、鹿児島県では「くじらぶか」、沖縄県では「みずさば」などと呼ばれていたようです。
ということは、古来より日本各地の海で観測されていた魚だといえるでしょうね。

栃木県ではアブラツノサメのことを「さがんぼう」というそうです。
茨木県の「いびすさが」の「いびす」は「えびす」、「さが」は「さめ」という意味で、千葉・神奈川・静岡の「えびすざめ」と同じ意味ではないでしょうか。

ジンベエザメの周囲には同じプランクトンを食べるイワシやカツオが常に群れているそうです。
そのため、ジンベエザメの姿を見かけると大漁になると考えられ、「えびすざめ」と呼ばれたのではないかと考えられています。 

天保山大観覧車 

②ジンベイサマ


宮城県金華山沖に伝わる海の怪物・ジンベイサマの正体はジンベエザメではないかといわれています。

 宮城県に伝わる妖怪。
 金華山沖に現われるというもので、その大きさは首尾が分からないほど巨大です。また、蛇のような長い姿をしているとも言われています。
 船の下に潜りこんで、船を支えることがあるとされ、ジンベイサマが船の下にいるときは海の水が淡く光るそうですが、光っているところを竿で突くと沈んでいきます。
 ジンベイサマが現われると鰹がたくさん獲れるとも言われていますが、人にとって有益な面だけでなく、恐ろしい面もあります。ジンベイサマが船を越えると、船に油が溜まって沈没してしまうのだそうです。


http://fragezeichen.web.fc2.com/mononoke/03/jinbeisama.htmlより引用

ジンベイサマは巨大な体をしており、ジンベイサマが出るとカツオが大漁になるといわれています。

天保山大観覧車 
③ジンベエとは「とんでもなく大きな奴」という意味では?

ジンベエザメは漢字では甚兵衛鮫、甚平鮫などと記し、体の模様が甚平という着物に似ているためこの名前があると言われます。
着物の甚平は今では様々な柄・』色がありますが、もともとは藍染が多かったんでしょうね。
https://www.rakuten.ne.jp/gold/kimonomachi/yukata/jinbei/gallery06.html
殿方がこういうのを着ている姿は、きりっと見えてなかなか素敵だと思います♡

語源については、私は逆なんじゃないかと思います。
着物の甚平は、ジンベエザメに似てるから甚平と呼ばれているのではないでしょうか。

甚という漢字を調べてみたところ、次のようにありました。

①「はなはだしい(普通の度合いをはるかに超えている、ひどい)」
②「はなはだ(普通の度合いをはるかに超えているさま、非常に、ひどく、大変)」
③「「何」の意味を
表す疑問詞。なに。なんの。いかなる。なんぞ。」
④「非常に楽しい」

https://okjiten.jp/kanji1607.html より引用


天保山大観覧車

「兵衛」は次のような意味だそうです。

日本古代の律令制のもとで,天皇に近侍し,宿衛等の任にあたった者。
和名を〈つわもののとねり〉といい,左右の兵衛府に各400人が所属した。

https://kotobank.jp/word/%E5%85%B5%E8%A1%9B-613105 より引用


~左衛門、~右衛門、~左兵衛、~右兵衛といった名前は、
律令時代に衛府に配備された人々が徴用期間を終えて帰郷した際、
任を終えた証として所属していた部署名にちなんだ名前を名乗るようになったのが
はじまりといわれている。とりわけ名誉ある名として領民階級の間でも尊ばれた。

時代が下った後も武士階級、町人階級問わず広く用いられたが、武士階級が仮名なのに対して、
諱を持たぬ町人の場合は正真正銘の本名として用いられた。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7714589.html より引用

男子の名前に〇〇彦とか、〇〇太郎などとつけることがありますが、兵衛はこの彦や太郎と同じような意味なんですね。

甚兵衛という名前は、普通の度合いを超えたはなはだしく大きな奴、というような意味でつけられたのではないでしょうか。
英語でいうと甚兵衛はウルトラマンですね。 

天保山大観覧車 
 


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[2017/09/25 21:42] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪府咲洲庁舎展望台より 『元良親王と京極御息所の不倫の真相?』 

  大阪市住之江区 大阪府咲洲庁舎
2017年9月中旬 撮影


南港大橋 夕景 
あべのハルカスより港大橋・大阪府咲州庁舎(向かって左の高層ビル)を望む

大阪府咲洲庁舎展望台にのぼると大阪の町だけでなく、東に神戸、明石海峡大橋、淡路島、西には堺泉北工業地帯、関空までも望むことができます。

港大橋とあべのハルカス 

港大橋(大阪市港区↔住之江区)とあべのハルカス(大阪市阿倍野区 向かって右の高層ビル)

①みおつくし

眼下に広がる大阪市。その市章は「澪標(みおつくし)」です。

Emblem of Osaka, Osaka

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AEmblem_of_Osaka%2C_Osaka.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Emblem_of_Osaka%2C_Osaka.svg よりお借りしました。
作者 waketasu1977 (大阪市章1894年4月制定) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

大阪ドーム  
大阪ドーム〈大阪市西区)

大阪港は川の河口に開かれています。
そのため、今はどうかわかりませんが、古には水深が浅く座礁する危険性のある個所がたくさんあったようです。
澪標とは船がそういった水深の浅い場所を避けて通ることができるようにするための標識で、澪(航路)との境界に並べて設置されていました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%AA%E6%A8%99#/media/File:Miotsukushi_in_Osaka.JPG
↑ 澪標の写真

長居スタジアム

長居スタジアム(大阪市東住吉区)

②みをつくしても 逢はんとぞ思ふ

この澪標を詠んだ有名な歌が百人一首にありますね。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたにお会いしたいと思います。)

名神高速道路の吹田サービスエリアの中元良親王の歌碑があるとのことなので、今度見にいってみたいです。

スカイビル 

梅田スカイビル〈大阪市北区)

③不倫の恋を詠んだ歌

実はこれ、不倫の恋の歌なんですよ。
「後撰集」の詞書には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」とあります。

「事いできて後に」とは「不倫がばれた後」という意味、「京極御息所」とは宇多天皇の寵妃で藤原時平の娘の藤原褒子(ふじわらのほうし)のことです。

最近、不倫がばれると「一線を超えていない」とかなんとか言い逃れしようとする人が多くて、粋じゃないな~と思います。
元良親王のように批判を恐れず、人妻に対する情熱を熱く語る人がひとりぐらいいてもいいのに、と思ってしまう~。


太陽の塔 と osaka wheel-2

太陽の塔とosaka wheel(大阪市吹田市)

④元良親王は京極御息所を愛していたわけではなかった?

ただ、元良親王は30人以上の女性との恋愛歌を詠んでいて、京極御息所ひとりだけを愛したというわけではなさそうです。
また、本当に京極御息所を愛していたのかについても疑問です。
元良親王はある目的をかなえるために京極御息所を利用したのではないか、と私は考えています。

みなと堺グリーン広場と大阪ガス泉北(製)第2工場 
みなと堺グリーン広場/手前 と 大阪ガス泉北 第2工場/奥(大阪府堺市)

⑤在原業平と藤原高子の駆け落ちの真相


元良親王はなかなかの色好みであったようですが、他に平安時代の色好みと言えば在原業平ですよね。

在原業平と元良親王はよく似ています。
というのは在原業平は清和天皇に入内する予定だった藤原高子と駆け落ちをしているんですね。

しかし業平は高子のことが好きで好きで仕方なかったということではなかったようです。
というのは古今集詞書に次のようにあるのです。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

これは「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味です。

大平和祈念塔 
大平和祈念塔 (大阪府富田林市)


業平と高子が駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は、清和天皇の子ではなく、業平の子ではないかとする説があります。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともあります。

百人一首かるた

業平は自分の血をひく子供を高子に生ませ、自分の血を引く子が清和天皇の皇子として育てられ、自分の血をひく子が皇位につくことを目的として、高子と関係を持ったのだと思います。
また、そうして生まれたのが陽成天皇ではないでしょうか。

参照/龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 

二上山と葛城山 
二上山(向かって左)と葛城山(向かって右)

⑥ばれた業平の計画

おそらく業平の策略は高子の兄で摂政だった高子藤原基経にばれたのでしょう。
陽成天皇は9歳で即位しましたが、源益を殴殺したとして17歳で退位させられているからです。
そして基経は陽成天皇の大叔父にあたる光孝天皇を即位させました。

関西国際空港 
関西国際空港(大阪府泉佐野市・大阪府泉南郡田尻町・泉南市にまたがる)

⑦元良親王は在原業平の孫だった?

元良親王はこの陽成天皇の皇子で、宇多天皇は光孝天皇の皇子です。
元良親王は業平の計画がばれなければ、自分が天皇になれたかもしれないのにと、宇多天皇を憎く思ったかもしれません。

私の考えが正しければ、陽成天皇は在原業平の子であり、元良親王は在原業平の孫です。
そして元良親王は本当の祖父・業平と同じことをしようとしたのではないかと思うのです。

あかしかいきょうおおはし さきしま てんぼうだいより ずっこ

明石海峡大橋 手前は神戸空港


⑧元良親王と京極御息所の不倫の真相

元良親王は宇多天皇の寵妃・藤原褒子に自分の子を宇多天皇の皇子として産ませ、その子を皇位につけることで、皇位継承の血筋に自分の血を残そうとしたのではないでしょうか。

しかし、藤原褒子が産んだ子が皇位につくことはなく、宇多天皇と藤原 胤子の間に生まれた醍醐天皇が即位し、元良親王の野望が叶うことはありませんでした。

夢洲 舞洲 
舞洲(向かって右) 夢洲(向かって左)

もう一度元良親王の歌を鑑賞してみましょう。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ/元良親王
(こんなに思い悩んでしまった今はもうどうなってもいい。難波の海の澪標の言葉どおり、身を尽くして(身を滅ぼして)もあなたにお会いしたいと思います。)


思い悩んでいたのは、褒子に対する恋にではなく、なんとか自分の血をひく子を宇多天皇の皇子として褒子に産ませたい、という計画についてではないでしょうか。

天保山大観覧車 
天保山大観覧車

ところが、褒子との密会がばれてしまい、「もうどうなってもいい」とやけのやんぱちになってしまったのでしょう。
処分されようがどうされようがかまうものか。とにかく褒子に自分の子を産ませてやるぜ!
みたいな意味で、歌を詠んだのかも、と思ったりします。

夢舞大橋

夢舞大橋

 あべのハルカスと通天閣 
通天閣〈大阪市浪速区) と あべのハルカス〈大阪市阿倍野区)


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[2017/09/21 13:07] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

あべのハルカス屋上庭園より望む 安部晴明神社 『セーマン・ドーマンと胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅』 

大阪市阿倍野区  あべのハルカス16階 屋上庭園
2017年9月上旬 撮影

あべのハルカス16階屋上庭園より大阪市内を望む写真を撮ってみました。
ただ、屋上庭園は北向きなので、阿部野区の風景を見る事はできません。

一心寺 あべのハルカス16階より

一心寺(天王寺区

①阿倍野の地名の由来

阿倍野という地名の由来については3つの説あります。

a.古代このあたりを領有していた阿部氏からくる。
b.山部赤人の歌からくる。

阿倍の島 鵜の住む磯に 寄する波 間なくこのころ 大和し想ほゆ
(阿倍の島の鵜の棲む磯に寄せる波のように、絶え間なくこの頃大和を思い出しています。)


藤原範兼編『五代集歌枕』では阿倍の島は摂津国にあるとしています。

ただ、この歌が阿倍野の地名の由来というのはちょっとおかしくないですか?
山部赤人は阿倍の島という島について歌を詠んだわけで、ということは当時、阿部の島と呼ばれる島があったと言うことになると思います。
すると、「山部赤人の歌からくる」というよりは「山部赤人が歌に詠んだ阿倍の島からくる」というべきだと思うんですが。

c.古地名の「東生郡餘戸郷(ひがしなりぐんあまべごう)」の「餘戸(あまべ)が阿倍野と転じた。

このうちaの阿倍氏からくるとする説が有力です。

四天王寺 あべのハルカス16階より望む 
四天王寺(天王寺区)

②安倍晴明生誕の地


阿倍野区には安倍晴明神社がありますよ。
社伝によれば、安倍晴明神社は安倍晴明生誕の地だということです。

安倍晴明神社 
阿倍晴明神社

安倍晴明神社 阿倍晴明像 

阿倍晴明神社 阿倍晴明像

③セーマン・ドーマン


安倍晴明といえば五芒星、桔梗印ですよね!

伊勢志摩の海女たちはセーマン・ドーマンという魔除けを身につけていました。

 セーマンドーマン

セーマンは阿倍晴明を、ドーマンは芦屋道満を表していると言われています。
芦屋道満は阿倍晴明と同じ陰陽師で、芦屋道満のライバルとされています。(ただし実在したかどうかは不明です。)

④胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅

実はこの日、あべのハルカス美術館で開催されている西大寺展を見に行ったのです。
西大寺展では松井寺の種子両界曼荼羅図(胎蔵界)と久修園院の両界曼荼羅図(金剛界)が並べて展示されていました。

両界曼荼羅とは胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅ふたつの総称です。
胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅はたいていペアで制作されます。

↓ 胎蔵界曼荼羅です。(東寺)

Taizokai

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ATaizokai.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Taizokai.jpg よりお借りしました。
作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


文殊院


釈迦院






遍知院



中台
八葉院
持明院
虚空蔵院
蘇悉地院


「中台八葉院の周囲には、遍知院、持明院、釈迦院、虚空蔵院、文殊院、蘇悉地(そしつじ)院、蓮華部院、地蔵院、金剛手院、除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぶ)院、またの名は最外(さいげ)院が位置する。これは、内側から外側へ向かう動きを暗示していて、大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという。」


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%95%8C%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85#.E8.83.8E.E8.94.B5.E6.9B.BC.E8.8D.BC.E7.BE.85 より引用(図・文とも)


↓ 金剛界曼荼羅

File:Kongokai.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Kongokai.jpg?uselang=ja
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kongokai.jpg?uselang=ja よりお借りしました。



四印会


一印会


理趣会


供養会


成身会


降三世会


微細会


三昧耶会

降三世
三昧耶会

中心になる成身会の中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。大日如来の東・南・西・北には
阿閦(あしゅく)・宝生如来阿弥陀如来不空成就如来の4如来が位置する(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来という)。各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%95%8C%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85#.E9.87.91.E5.89.9B.E7.95.8C.E6.9B.BC.E8.8D.BC.E7.BE.85 より引用(図・文とも)

大坂城 あべのハルカス16階より望む 

大坂城(中央区)


⑤セーマン・ドーマンは両界曼荼羅図を表している?

松井寺の種子両界曼荼羅図(胎蔵界)と久修園院の両界曼荼羅図(金剛界)が並んで展示されているのを見て、私は「これってセーマン・ドーマンに似てない?」と思いました。

セーマンの五芒星の形は、胎蔵界曼荼羅の同心円状に広がる世界をあらわしているようでもありますし
ドーマンの碁盤の目のような形は、升目の数は違いますが、金剛界曼荼羅の構成に似ていませんか?

南港大橋 夕景

港大橋(港区~住之江区)

通天閣 夕景 
通天閣(天王寺区)
これは阿倍野歩道橋橋の上から撮影しました。




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[2017/09/17 13:41] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

岩湧寺 秋海棠 『役小角とはモーゼのことだった?』 

大阪府河内長野市 岩湧寺
2015年9月初旬 撮影


岩湧山を登っていくと、道端のあちこちに可憐な秋海棠の花が咲いていました。
秋海棠はまるで岩湧寺への道しるべのようです。

岩湧寺 参道 秋海棠 
↑ さらに歩いていくと秋海棠の大群生が!
  
岩湧寺 秋海棠 
↑ 岩湧寺の多宝塔が見えてきました。

①修験道の開祖・役小角が開いた岩淵寺

岩淵寺は大宝年間(701年~703年)に修験道の開祖・役小角(役行者)が開いたとされるお寺です。
修験道とは日本古来の山岳信仰に仏教・神道・儒教・陰陽道などを融合した日本独自の神仏習合の宗教のことです。

岩湧寺 多宝塔 秋海棠 


岩湧寺 白い秋海棠 

珍しい白い秋海棠の花


②山伏の頭巾はユダヤのヒラクティリーに似ている。


ユダヤ人のラビ(ユダヤ教聖職者)、トケイヤー氏は、京都で修験道の山伏さんの姿を見て『すっかり人生が変わってしまった』と記しておられます。
山伏の姿があまりにも『ユダヤ的』であるのに衝撃を受けたのだとか。

私はトケイヤー氏の驚きがわかります。
というのは、私もヒラクティリー(※文字をクリックするとリンク先が開きます。テフリンともいいます。)をつけて神に祈るたユダヤ人の写真を見て、びっくりしたからです。

↓ ヒラテクティリーは修験道の山伏さんの頭巾(ときん)に似ています~!

宝山寺 柴燈護摩供
 
宝山寺 般若窟柴燈大護摩供


 ③トケイヤー氏の日ユ同祖論


トケイヤー氏はこのほかにも、次のような指摘をされていました。

a.山伏は法螺貝を吹くが、ユダヤ人はショーファールという羊の角笛を吹く。

堂島薬師堂 鬼と山伏

堂島薬師堂 節分お水汲み祭


b.山伏もユダヤ人も山を聖なる修行の場としている。
c.山伏は錫杖を持っているが、旧約聖書に登場する大祭司アロンは『アロンの杖』を持っていた。
d.天狗は山伏の格好をし、赤ら顔で鼻が高いが、赤ら顔で鼻が高いのはユダヤ人的な顔立ちである。
 
行者祭 天狗と花火 

洞川温泉 行者祭に登場した天狗

e.天狗は手に山の上で神から授かった巻物『虎の巻』を持っている。
旧約聖書によればモーゼがシナイ山で神ヤーウェから授かった十戒が記された文書を『トーラー』と記されている。
『トーラー』は巻物の形態をしていたとされる。

f.祇園祭山鉾巡行は7月17日に行われるがノアの箱舟がアララト山に漂着したのも7月17日である。
祇園祭はノアの箱舟が漂着した日を祝う行事ではないか。

fについては以前の記事、京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 『祇園祭とノアの方舟2』 に記したように、山鉾巡幸が7月17日になったのは新暦を用いるようになってからで、旧暦では6月17日に行っていたので、ノアの箱舟とは関係がないかも、と思います。

④キリスト教は5世紀ごろ、秦氏によって日本に伝えられた?

キリスト教が日本に伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによってとされていますが
5世紀ごろ、秦氏によってネストリウス派キリスト教が伝えられていた、とする説があります。
秦氏の氏寺・広隆寺は太秦寺といいますが、中国ではネストリウス派キリスト教寺院のことを大秦寺といいました。
太秦寺と大秦寺は点があるかないかの違いしかありません。

広隆寺

広隆寺


⑤役小角は日本版モーゼ?

もしかして虎の巻の語源はモーゼが神から授かった『トーラー』?

山伏が身につける麻の上下を鈴懸(すずかけ)というのですが、鈴はついていません。
それなのになぜ鈴懸というのか、ずっと疑問に思っていました。

旧約聖書に神ヤハウェがアロンに祭服について指示したという記述があります。
『上着にはカラフルな毛糸でつくったざくろの飾りと、金の鈴を交互につけなさい。』

もしかして鈴懸の語源はアロンの祭服?

一条戻橋

一条戻り橋(山伏は合成)


モーゼとはBC 13世紀ごろの人物で、ユダヤの民を率いてエジプトを脱出したとされる英雄です。
そのモーゼの像をミケランジェロが彫っていますが、なんと頭に角が生えています。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d1/Moses_%28Michaelangelo_-_San_Pietro_in_Vincoli_-_Rome%29.jpg

役小角という名前は頭に角が生えたモーゼからくるのかも?(つまり役小角は日本版モーゼ?)

金峯山寺 役行者 前鬼 後鬼 
金峯山寺 役小角・前鬼・後鬼像

役小角の像は角が生えていませんが、役小角は夫婦の鬼(夫が前鬼、妻が後鬼)を従えています。
上の写真の前鬼・後鬼は角が生えていませんが、前鬼・後鬼は角が生えた姿で表されることが多いです。

龍泉寺 前鬼 

↑ 洞川温泉 龍泉寺の前鬼像

龍泉寺 後鬼 

洞川温泉 龍泉寺の後鬼像 
女のはずなのにヒゲがはえてる~。私も生えてるけど。(え?)
※龍泉寺では狛犬のかわりに前鬼・後鬼の像が置かれていました。


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[2017/09/04 18:13] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪市の渡し(千本松・落合下・落合上) 夕景 『今も現役!大阪の渡し』 

①水の都・大阪に今も残る渡し

かつて大阪は水の都といわれ、多くの川が流れていました。
現在は埋め立てられたり、暗渠にされたりして川もずいぶん減っていますが。
淀屋橋・肥後橋・心斎橋・京橋など橋のつく地名や駅が多いのはそのためです。
大阪の町には橋がたくさんありましたが、渡しもたくさんありました。
明治40年、大阪市内には29の渡船場がありました。
現在でも8か所の渡船場があり、大阪市が運営しています。

渡船場マップはこちら→ http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000011244.html

大阪の千本松・落合下・落合上に今も残っている渡しを見にいきました。

②千本松渡船場


地下鉄岸里駅よりバスに乗って南津守で下車。徒歩5分で千本松渡船場に到着。

江戸時代、幕府はここに石の堤を築き松並木を植えたそうです。
千本松の名称はこれに由来します。
「摂津名所図会大成」に「右塘(つつみ)に数株の松を植列ぬるゆえに俗に木津川の千本松といふ洋々たる蒼海に築出せし松原の風景は彼の名に高き天橋立三保の松原などもほかならず覚ゆ・・・」とあります。

 千本松の渡しは大正時代の中頃に設けられたと考えられています。

運賃は無料です。
私も乗ってみました。1分ほどで向う岸の大正区に到着。

大正区側より見た千本松渡船場 ↓
 
落合下渡船場2

工場萌え~な風景です。

③落合下渡船場

千本松渡船場から歩いて落合下渡船場に向かいます。(バス便なし)

大正区側より見た落合下渡船場。 ↓

落合下渡船場 
船には座席はなくフラットになっています。
バイクはダメですが、自転車は乗船ok。

天保10年(1839年)の大坂湊口新田細見図にもここの渡しの記載があるそうです。

④落合上渡船場

落合下渡船場より再び船に乗って西成区側へ。
ここからまた歩いて落合上渡船場へ。(バス便なし。)

落合上渡船場 

船の上から京セラドームや木津川水門が見えました。

京セラドーム 

木津川水門   

⑤千本松大橋と渡し


あかん~、夕日が沈んでしまう~!
上落合渡船場(大正区側)よりダッシュで千本松渡船場へ戻り、船に乗りましたが、夕日は沈んでしまいました・・・。

夕日には間に合わなかったけど、今年一番の夕焼け空を見ることができました!

千本松渡船場  夕景 

船の上に架かっている橋は千本松大橋(通称 めがね橋)。
歩行者も渡ることができ、千本松の渡しは廃止が決定したのですが、住民たちの要望によって復活したそうです。

千本松大橋は航路高33mもあります。
大型船が運行するため、通常の橋は建てられなかったとのことです。

人々の生活に根付いた渡しが、いつまでもあってほしいなあ~。

千本松渡船場付近 


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[2017/08/09 10:08] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

久修園院 合成写真 夕景 『日本の地球球体説』 ※追記あり 


大阪府枚方市  久修園院
2015年7月 撮影


京阪電車の車窓から見える久修園院の風景をいつも楽しみにしていました。
ところが、あるとき久修園院の前にユンボなどの機械が置かれていました。
何か建物でも建てるんでしょうか?
建物が建ってしまうと、もう京阪電車の車窓から久修園院を見ることができません。
建物が建つ前にカメラにおさめておかねば!
そう考えて写真を撮りに行ったのですが・・・

ははは~。
なんともすごい写真~。
工事が始まる前に写真を撮っておいたらよかった~。 ↓


久修園院 

仕方ないので合成してみた。(汗) ↓

久修園院 合成 
①1680年ごろに作られた天球儀と地球儀

久修園院は725年に行基が開いたとされる古刹です。
1614年、大阪夏の陣で多くの堂塔が焼けましたが、1680年に石清水八幡宮大乗院の僧・宗覚律師が復興しました。

お寺には宗覚律師が作られた天球儀と地球儀があります。
1680年ごろ、すでに日本人は地球は球状であると認識していたのですね。

久修園院 夕景 
裏側から撮影。
建物が建ったら、空が見えなくなってこの風景も見ることができなくなってしまいますね。 


②地球球体説は南蛮貿易とともに日本に伝わった?

織田信長(1534年~1582年) が宣教師に地球が球体であることを教えられて納得したという逸話も残っており、地球球体説は南蛮貿易とともに日本に伝わったと考えられています。

③紀元前6世紀ごろよりあった地球球体説

地球球体説は紀元前6世紀ごろよりあり、アリストテレス (BC 384 年~BC 322 年) クラウディオス・プトレマイオス ( 90 年 ~ 168 年) ほか、大勢の科学者が地球は球体であると説いています。

その理由は次のようなものでした。

①海上から陸を眺めると、低い土地より高い山のほうが先に見える。
②陸から航海する船を眺めると、まず船のマストが見え、そのあと 船体が見える。
③北の方に移動すれば、 太陽は低くなり、北極星は高くなる。
④月食の際、地球が月に丸い影を落とす。

久修園院 夕景


④地球が球体であると考えていた日本人は昔からいたのでは?


うーん、とすれば織田信長よりもっと昔の時代から、地球が球体をしていると考えていた日本人がいたのではないかと思えます。
船乗りは星を航海の指標としていましたから、①~④のような現象が起こることはよく知っていたと思われます。
また流罪などで遠方へ旅をした経験のある人物なども地球が丸いことに気が付いていたかも?


久修園院 雪4 
↑ 2017年1月撮影。この時点では建物は建っていなかったのですが、今年の6月ごろまた工事をしていました。
今はどうなっているのかな?

 
※追記
最近、京阪電車に乗ったところ、スーパーができていました。
残念ながらもう京阪電車の車窓から久修園院を見ることはできません。




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[2017/07/31 00:58] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

山田池公園 花菖蒲 夕景 『なぜアイリスは虹と結び付けられたのか?』 

大阪府枚方市 山田池公園
2017年6月18日 撮影


山田池公園 花菖蒲5

 ①アイリスは虹の女神の名前だった。

ギリシャ神話にこんな話があります。

イーリスは太陽神ゼウスの妻・ヘラの侍女として仕えていました。
ところがイーリスを気に入ったゼウスは、何度もイーリスに求婚します。
困ったイーリスはヘラに「遠くへ行かせて下さい」と頼みました。
ヘラは七色に輝く首飾りを与え、イーリスに「使者となりなさい」と命じ、神の酒三滴をイ―リスの頭にふりかけ、虹の女神に変えました。
そのとき酒のしずくが地上に落ちてアイリスの花が咲きました

イーリスは虹を架け橋として天上と地上を行き来しました。

アイリス(あやめ)という名前はこの虹の女神・イーリスからつけられたと言われます。

山田池公園 花菖蒲4

②アイリスはなぜ虹と結び付けられたのか?

なぜ、アイリスは虹の女神の名前がつけられたのでしょうか?
それはもちろん、①のギリシャ神話によるものですが、
そもそもギリシャ神話はなぜ虹の女神とアイリスを結び付けているのでしょうか?
どんな花でもよくて適当にアイリスを虹の女神と結び付けたというわけではなく、アイリスが虹にふさわしい特徴を持っているためではないかと思うわけです。

山田池公園 花菖蒲3 
③アイリスは虹のように様々な色がある?

調べてみたところ、アイリスの花の色が虹のように様々な色があるから、と説明されたサイトがありました。

ウィキペディアに様々なアイリス属の写真がありました。↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%83%A1%E5%B1%9E#.E3.82.AE.E3.83.A3.E3.83.A9.E3.83.AA.E3.83.BC

虹のように様々な色があるかな?

全ての種類のアイリスの写真が掲載されているわけではないと思いますが、
少なくともここの写真を見る限り、虹のように様々な色があるということはないように思えます。
ほとんど紫か黄色ですね。

山田池公園 花菖蒲6

③虹彩のこともアイリスという。

虹彩(目の色のついた部分)のこともアイリスといいます。
なぜ虹彩のことをアイリスというのでしょうか?

知恵袋の回答に次のようにありました。

Irisといえばギリシャ神話の虹の女神。
光の量を調節して網膜に届けるこの器官を、虹の女神から借用した名前で呼んだのです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115950486 より引用

山田池公園 花菖蒲2

④杉田玄白は虹彩を島晴と呼んだ。

また、次のようにも記されています。

日本で最初の精密な解剖学書として知られる杉田玄白・著の「解体新書」では、黒目の部分を海に浮かぶ島になぞらえて「島晴」として訳しているそうです。
しかし、解体新書の元となったのオランダ語の書"Ontleedkundige Tafelen(日本語通称:ターヘル・アナトミア)"では、上記のとおりirisと表記されています。
これを踏まえて、杉田玄白の弟子、大槻玄沢は自著の「重訂解体新書」にて、黒目の名称を「虹彩」と改めています


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115950486 より引用

この回答者さん、博識ですね!

山田池公園 花菖蒲

⑤アイリスは水中の架け橋?

杉田玄白が虹彩を水に浮かぶ島になぞらえて「島晴」と訳しているのが興味深いです。
アイリスは水中や湿地に育つものが多いです。
山田池公園の花菖蒲も池の中で栽培されています。

日本神話・因幡の白兎では、サメが並んで作った橋の上をうさぎが渡るという話がありますね。

古代ギリシャ人は、水中に咲くアイリスを架け橋(虹)とみなしたのかも?

山田池-夕景

山田池


コピースタンプで鉄塔を消したかったけど、うまく消せなかった~。



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[2017/06/29 13:20] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 紫陽花 『迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したものだった?』 


大阪市天王寺区 四天王寺
2017年6月13日 撮影


四天王寺 紫陽花2

①四天王寺は物部守屋の土地と奴婢をもちいて建立された。

587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争がありました。(丁末の乱)
聖徳太子は蘇我馬子側に参戦していました。
戦争は蘇我馬子が勝利し、聖徳太子は物部守屋の土地と奴婢をもちいて四天王寺を建立したのです。

もりやほこら

四天王寺の境内には守屋祠があり、物部守屋が祀られています。

②聖徳太子が中に隠れた木はなぜ椋の木なの?

聖徳太子は弓矢で射られそうになったとき、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。

大聖将軍寺 神妙椋樹 

大聖将軍寺 神妙椋樹

上の写真は大聖将軍寺(大阪府八尾市)の神妙椋樹です。
聖徳太子が椋の樹の中に隠れたという伝説をあらわしたものですね。

昔の人は現代人とはくらべものにならないくらい鋭い自然観察眼を持っていたと思います。

現代人は例えば「ひまわり」だったら、夏休みをイメージしたり、その黄色い色から元気のよさをイメージしたりするぐらいが限界です。

でも昔の人は違います。

なぜ、聖徳太子が椋の木に隠れたという伝説を作ったのか。
それは椋の木は樹洞ができやすいという性質があることを、知っていたからだと思います。

四天王寺 紫陽花4

②守屋はなぜ樹洞に隠れることができなかったのか。

一方、物部守屋は榎の木に登り指揮をしていたところを弓で射られて死亡したとされます。

http://www.jugemusha.com/jumoku-zz-enoki.htm(榎の写真が掲載されています。)

聖徳太子が中に隠れたという椋は榎に似ているので、椋榎とも呼ばれます。
姿形は似ていても、榎は樹洞ができにくいのではないかと思います。
(ウィキペディアには「椋は樹洞ができやすい」と説明がありますが、榎についてはそのような説明はありませんので)

そういうわけで、同じように弓矢で射られても、聖徳太子は近くにあったのが椋の木だったため樹洞の中に隠れることができ、守屋は榎に上っていたので樹洞がなく、中に隠れることができず死んでしまったという話が作られたのではないでしょうか。

四天王寺 紫陽花3

③迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したもの?

榎の木の上にいる守屋を弓で射たのは迹見赤檮(とみのいちい)だとされます。
迹見赤檮は彦人皇子または聖徳太子の舎人とされます。

でも、この迹見赤檮(とみのいちい)という名前は偽名っぽいなあ、と思います。

イチイという樹がありますね。

イチイは学名をtaxus cuspidataといいますが、taxusはギリシャ語で「弓」、 cuspidataは「急に尖った」という意味だそうです。
ヨーロッパではロングボウという弓をイチイの木で作るそうです。

イチイの木を用いると、張力がある強力な弓が作れるそうです。

日本では竹と木を組み合わせた複合弓のほか、丸木弓も用いられていたようです。
もしかしたら、イチイを用いた弓が作られていたのかもしれません。

迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したものなのかも?

四天王寺 紫陽花

④アイヌのイチイの弓

アイヌではイチイを使って弓を作っていたようです。

アイヌとは北海道・樺太・千島列島・カムチャッカ半島に住んでいた民族で、蝦夷(かつて関東・東北・北海道に住んでいた大和朝廷に従わない民)と関係があるのではないかとする説もあります。

また、物部氏の祖神・ニギハヤヒを神として奉じていたナガスネヒコ(別名トミヒコ)は、日向からやってきた神武に敗れ、
トミヒコの兄のアビヒコが東北に逃れたのが、蝦夷の安倍氏だともいわれます。

アイヌとは蝦夷であり、また神武や蘇我氏に敗れた物部氏だと考えるのは、あまりにトンデモかなあ?

迹見赤檮(とみのいちい)の迹見(とみ)とはナガスネヒコの別名・トミヒコからくるもので
アイヌであり、蝦夷であり、物部氏であるトミヒコの弓矢で、物部守屋は射られたということだったりして?

四天王寺 夕景 合成 




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[2017/06/22 10:56] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

一心寺 ジャカランダ 『後白河法皇は夕日の中に何を見たのか』 

大阪市天王寺区 一心寺
2017年6月13日 撮影

一心寺 ジャカランダ 
一心寺

①源空庵は日想観を修する草庵だった?


1185年春、浄土宗の開祖・法然は四天王寺西門の坂に源空庵という草庵を結びました。
法然がここに草庵を結んだのは、四天王寺別当・慈円の要請を受けたためで、これが一心寺の始まりだといいます。
その後、後白河法皇’(1127~1192)がここを訪れて法然とともに日想観を修したといいます。

 一心寺 仁王門

一心寺

日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法だということです。
極楽浄土は西方にあると考えられており、日想観はその極楽浄土を拝むという意味合いがあったのでしょう。

歌人の藤原家隆も1236年に病を患って出家し、このあたりに夕日庵を結んで日想感を行ったと伝えられます。
現在、夕日庵の跡地には家隆塚があります。

家隆塚  
家隆塚

ここから考えて、法然が結んだ源空庵は、日想観を修するための草庵であったと考えられます。

②かつて上町台地から海に沈む夕日が見えていた。

このあたりは上町台地と呼ばれる高台で、逢坂・愛染坂・口縄坂など多くの坂があります。

口縄坂 夜景

口縄坂

今これらの坂の上にたって西の方角を望むと、林立するビル群が見えるばかりで、海は全く見えません。
ですが、かつては林立するビル群のあたりは海であり、海に沈みゆく夕日が見えたというのですね。

赤い夕陽
 

上の写真は淡路島慶野松原の夕景ですが、かつて一心寺付近の坂の上に立つとこんな感じの風景が見えていたのではないかなあと想像します。

それが長い年月を経る間に大和川や淀川などの川が運ぶ土砂が堆積し、海が陸に変わってしまったそうです。

一心寺 ジャカランダ2 

一心寺


③西方極楽浄土へ旅立った安徳天皇と平家


さて、なぜ法然は日想観を修するためと考えられる源心庵をここに作ったのでしょうか。

源心庵を設けた1185年、壇ノ浦の戦いで平家は源氏に敗れ、滅亡しています。
もはやこれまでと悟った平家の人々は次々に海に飛び込んで自殺してしまったのです。

平家物語には次のように記されています。

安徳天皇「どこへ行くの?」
平時子「弥陀の浄土へまいりましょう。波の下にも都があるのですよ。」

こうして安徳天皇(父・高倉天皇、母・平徳子)は祖母の平時子に抱かれて入水しました。


安徳天皇と平家は西方極楽浄土へ向かったのです。




上の地図を見てください。
源空庵(現在の一心寺)があったのは【大阪】の文字があるあたりです。
壇ノ浦古戦場跡は源空庵から見て、少し南にずれますが、ほぼ西の方角にあたります。

つまり、源空庵は壇ノ浦の戦いで入水した平家の霊を日想観を修することによって慰霊するために作られたのではないかと思うわけです。

源空庵で後白河法皇と法然は、壇ノ浦の波の下にある都=弥陀の浄土に沈んだ平家の霊と、安徳天皇の霊を慰霊するために
日想観を行ったのではないかと。

壇ノ浦の戦いで平家が滅んだあと、後白河法皇は源氏の指揮官だった源義経を院御厩司に任じています。
平家滅亡には後白河法皇もからんでいたわけです。

耳無し芳一の説話は、平家の怨霊が信仰されていたことを物語るものでしょう。
後白河は相当平家の霊を怖れたことでしょうね。

一心寺 骨仏 
一心寺 開眼されたばかりの第14期骨仏(平成19年から28年までに納骨された骨で作られた仏さまです。)


④半日で完成した鴨長明の庵

源空庵が作られたのは1185年春とウィキペディアは記しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BF%83%E5%AF%BA#.E6.B2.BF.E9.9D.A9
「1185年春」の出典は記されておらず、また春が旧暦なのか新暦なのかわかりません。

壇ノ浦の戦いがあったのは、1185年4月25日ということです。
4月25日は新暦では春ですね。

旧暦では3月24日となります。

旧暦では1月・2月・3月が春、4月・5月・6月が夏、7月・8月・9月が秋、10月・11月・12月が冬でした。
旧暦3月24日はぎりぎりで春、あと1週間足らずで夏になります。

壇ノ浦の戦いからわずか1週間しかないやん!
その間に庵を結ぶなんて無理、無理!

と思うかもしれませんが、これがそうでもないんですよ~。

方丈記で有名な鴨長明(1155~1216)が住んでいた庵は組み立て式で車二輌で運搬可能だったそうです。
この庵は2~3人の大工さんがいれば半日で組み立て可能だったとか。

河合神社 復元された鴨長明の方丈

河合神社にある復元された鴨長明の方丈


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[2017/06/14 20:05] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛井寺(ふじいでら) 藤 『725年に何があった?』 

 
大阪府藤井寺市・・・葛井寺
2007年5月初旬 撮影


葛井寺 藤 

①1041本の手を持つ観音さま


毎月18日に天平時代の乾漆千手観音坐像(十一面千手千眼観世音菩薩像)が開扉されます。
(写真→ 
国宝ですよ~♪

千手観音の腕は四十二本のものが多いです。
胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うと考えられ、「25×40=1,000」というわけです。
なんか、ずるい。(笑)

ですが実際に1000本の腕を持つ像として作られたものもあります。
奈良・唐招提寺、京都寿宝寺の千手観音などがそうです。 

ここ葛井寺の千手観音は合掌する本手のほか、脇手は持物をもつ大手38本、小手1001本(右500本、左501本)で1041本の腕を持っています。
顔立ちもとても美しくて私のもっとも好きな仏像のひとつです。

葛井寺 白藤 

②葛井氏と阿保親王・在原業平の関係


寺伝では、葛井寺は聖武天皇の勅願により725年に行基が創建し、平安時代に平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとしています。

平城天皇は同母弟の嵯峨天皇と対立して810年「薬子の乱」をおこした方ですね。
平城天皇は嵯峨天皇に敗れて出家され、平城天皇の皇子・阿保親王は「薬子の乱」に連座したとして大宰府に左遷されました。
824年、ようやく許されて帰京したあと、桓武天皇の皇女・伊都内親王を妃としました。
826年、阿保親王は自らの子供たちの臣籍降下を願い出て認められ、在原姓を賜りました。
そのひとりが在原業平です。

しかし、百済辰孫王の後継氏族である白猪氏(のち葛井に改名)の氏寺として創建されたとも考えられています。
阿保親王の母親は葛井道依の娘の葛井藤子でした。
そのため、阿保親王が再興したなどといわれているのかもしれませんね。
また、在原業平が奥の院を造営したともいわれます。

葛井寺 藤2
③こんなにある!725年に行基が創建した寺。

葛井寺の創建が725年と聞いて、私は「また725年やー!」と思いましたね。
というのは、725年に行基が創建した寺と言うのが結構たくさんあるんです。

私が参拝したお寺では、奈良県御所市の船宿寺や大阪府枚方市の久修園院なども行基が725年に創建したお寺でした。

船宿寺 本堂 大手毬

船宿寺

久修園院 夕景 

久修園院

かつて久修園院の近くにあった山崎橋も行基が725年にかけたといわれています。

橋本渡舟場 道標 

山崎橋がなくなったあと、渡しがあったようですが、現在は山崎橋も渡しもありません。

あと、静岡県袋井市の尊永寺も725年行基の創建としています。

行基の創建とはしていませんが、宇佐八幡宮(大分県)や新田神社(鹿児島県)も725年の創建です。
もっと調べれば他にも725年創建の寺社があるかもしれません。
もし御存知でしたら教えていただけると嬉しいです!

③725年に何があった?

いくら行基が精力的な人物であったとしても、同じ年に奈良県御所市・大阪府藤井寺市・大阪府枚方市・静岡県袋井市に寺を建て、山崎橋までかけるのは無理じゃないでしょうか。
場所も離れてるし~。

少なくともこれらの寺や橋が725年につくられたというのは事実ではなく、
何かの縁起担ぎで創建年を725年としたのではないかと思います。

725年には国家にとって何か重大なことがあったのではないでしょうか?

④蝦夷の反乱


724年に蝦夷が反乱を起こし、陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害されています。
4月、藤原宇合が持節大将軍に任命され反乱の鎮圧に向かい、11月に戻っています。
725年、藤原宇合は功績を認められて従三位・勲二等を受けたということは、蝦夷の乱は一応鎮圧できたということでしょうか。
でもまあ、その後も蝦夷はたびたび反乱をおこしていますけどね。

724年には朝廷は蝦夷鎮圧の軍事的拠点として多賀城(宮城県)を創建しています。

725年に行基が創建したとされる寺は、蝦夷の怨霊封じのために作られたのかも?



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[2017/05/26 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

中の島公園 バラ 『バンパネラを捕らえるバラの罠』 

 大阪市中央区 中之島公園
撮影 2017年5月中旬 2008年5月中旬 

中の島公園 バラ 
2017年撮影

①バンパネラはバラが苦手だった。


国営ひたち海浜公園 ネモフィラ 『吸血鬼 紫女』 
↑ こちらの記事で萩尾望都さんの漫画「ポーの一族」についてお話ししました。
「ポーの一族」の主人公の美少年・エドガーはバンパネラ(吸血鬼)なのですー。

バンパネラが住むポーの村にはたくさんのバラが植えられていて、バンパネラたちはバラのスープを飲みます。
エドガーやアラン、メリーベルはバラのエッセンスをいれた紅茶を飲んだりしていましたね。
バンパネラは人の血とバラが好き。
長年そう思っていました。

ところが!
どうやらバンパネラがバラが好きだというのは萩尾望都さんの創作のようで
実際には吸血鬼はバラが苦手だそうです。

昔、ルーマニアや他の国では吸血鬼を発生っさせないように墓の周りに野ばらを植えていたそうです。

http://soranouta.fc2web.com/kikaku11/kikakuvanp-02.htm より引用

薔薇は魔女や人狼、吸血鬼などの様々な悪に対して、強力な力を持っている。薔薇の花は悪の眷属の肌を焼き、香は魔物を退ける。
ルーマニアとトランシルヴァニアでは、死体の上に野薔薇をひと枝置くことで、吸血鬼の誕生を防いだ。墓の上に置くと、吸血鬼の行動を防ぐ事が出来る。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/8574/dora4.htm より引用

吸血鬼だけでなく、人狼や魔女もバラが苦手のようです。
魔物全般がバラが苦手なのでしょう。

中の島公園 バラ2 
2017年撮影

②死体をセイヨウサンザシの杭で打ち付ける!

死体を杭で打ち付けるという行為は物質的に肉体を破壊するほか、死体を大地につなぎ止め、二度と起き上がることのないようにし、魂と肉体を完全に分離するという象徴的な意味も含む。
使用される杭の材質はトネリコ・ビャクシン・クロウメモドキ・セイヨウサンザシ・ポプラなどで、中でも特にセイヨウサンザシが最良とされる。
セイヨウサンザシはバラ科の潅木・低木で、冬の終わりと春の訪れを告げる植物として「良き希望」のシンボルとされた。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/6586/taijihou.html より引用

バンパネラを退治するためには心臓に杭をうちこみますが、その杭に最適なのがバラ科のセイヨウサンザシだというのも興味深いですね。
バンパネラはバラが苦手なのは、バラ科のセイヨウサンザシの杭で心臓を打ち抜かれたくないからだといえるかも。

中の島公園 バラ5 
2008年 撮影

③日本の土蜘蛛もバラ(茨)が苦手?
 
日本にも古くからバラの原種が自生しており、常陸国風土記には次のような記述があります。

「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすため、穴に茨(いばら)を仕掛け、佐伯を穴に追い込んだ。」

記紀や風土記には土蜘蛛と呼ばれる人も登場します。
この土蜘蛛も「穴に住む」と記されています。
佐伯と土蜘蛛は同一のものなのかもしれませんね。

中の島公園 バラ3
2008年 撮影

④土蜘蛛とは斬首された人の死霊?


一般に土蜘蛛は未開の民族のことだと考えられています。
でも、私は土蜘蛛とは斬首された人の死霊のことではないかと考えています。

その理由を説明しますね~♪

⑤亀石はドクロを模した石だった?


葛城一言主神社に『亀石』と呼ばれる石があります。

一言主神社 亀石

一言主神社 亀石

亀石と呼ばれる石は飛鳥にもありますが、妖怪ぬらりひょんの頭部にそっくりです。

亀石

飛鳥 亀石

妖怪ストリート ぬらりひょん 

妖怪ストリート ぬらりひょん〈中央)

飛鳥や一言主神社にある亀石とはドクロを模した石なのではないでしょうか。

⑥蜘蛛は頭部のない昆虫?


一言主神社には『土蜘蛛の塚』と呼ばれる石もあります。

一言主神社 土蜘蛛の塚  

土蜘蛛の塚

一言主神社の『土蜘蛛の塚』の下には土蜘蛛の胴体が、神殿の下には頭部が埋められていると言われています。

一言主神社の境内は山の中腹にあって長い階段を上っていくと神殿があるのですが、亀石がある場所はこの階段の下です。

一言主神社 階段

亀石は神殿の下にあるといえなくもありません。
『土蜘蛛の塚』が土蜘蛛の胴体を埋めた場所ならば、『亀石』は土蜘蛛の頭部を埋めた場所ではないでしょうか。

もう一度、『土蜘蛛の塚』の写真を見てみましょう。

一言主神社 土蜘蛛の塚

土蜘蛛の塚は上の写真の角度から見るとふたつのふくらみがあるように見え、蜘蛛の体に似ているように思えます

蜘蛛の体 

昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれていますが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされています。

土蜘蛛の塚に亀石をくっつけると、昆虫のような形になりますね。

それで閃いたのですが、昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないでしょうか。
そして斬首されて首のない人の死霊のことを土蜘蛛と呼んだのではないかと思うのです。

これが正しければ、土蜘蛛も吸血鬼や人狼と同様の魔物だということになります。

西洋の吸血鬼はバラ科のセイヨウモッコウの杭で打たれ、日本の土蜘蛛は茨が仕掛けられた穴に追い込まれる・・・

バラは洋の東西を問わず、魔物退治に効果的な植物であると考えられたようです。
それはバラの茎に鋭いトゲがあるためではないでしょうか。

⑦六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛は斬首された平将門の霊?

六波羅蜜寺 追儺式3 
六波羅蜜寺 追儺式に登場した土蜘蛛

節分の追儺式には鬼が登場するのが一般的ですが、六波羅蜜寺の追儺式には土蜘蛛が登場します。

六波羅蜜寺を創建した空也は平将門の怨霊を熱心に慰霊した人でした。
平将門は東国に独立国をつくりましたが、朝廷が派遣した藤原秀郷・平貞盛らの軍と戦って戦死しました。
将門の首は京に持ち帰られて晒されました。将門は首のないゾンビ、土蜘蛛だったのです。
六波羅蜜寺の追儺式に登場する土蜘蛛は将門の霊ではないかと思ったりします。

中の島公園 バラ4 
2008年 撮影



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[2017/05/22 16:36] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 桜 『勝尾寺は鰹寺?』 

大阪府箕面市 勝尾寺
撮影 2017年4月24日

勝尾寺 多宝塔 しだれ桜

①王に勝った寺

727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)がここに草庵を築き、765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしました。 
777年、開成は大般若経600巻の書写をやり遂げ、この場所に弥勒寺を創建しました。
780年、妙観が十一面千手観世音菩薩立像を刻み、本尊として安置しました。
880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜りました。
しかし、「王に勝った寺」とはあまりに畏れ多いとして、「王」を「尾」として勝尾寺と号したそうです。

勝尾寺 多宝塔 石楠花

②勝尾寺での祈祷もむなしく、清和天皇は881年に崩御されていた!

いやー、この話はおかしいですね!
というのは、「880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があった」というのですが、翌年の881年、清和天皇は崩御されているんですよね~。

清和天皇は858年、9歳で即位しました。
平家物語には惟仁親王(清和天皇)と惟喬親王のどちらを皇太子にするかでもめたことが記されています。
876年、第一皇子の陽成天皇に譲位し、879年に出家して畿内巡幸の旅をしました。
880年、丹波国水尾の地で絶食を行うなど厳しい苦行を行っています。
その後左大臣源融の別邸棲霞観で発病し、881年、粟田の円覚寺で崩御されました。

880年、清和天皇は苦行を行ったせいで病となり、そのため行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行ったのでしょう。
ですが清和天皇は崩御されてしまったので、行巡の祈祷は効験があったとはいえなくはないですか?

勝尾寺 多宝塔 桜

③「王に勝った寺」は日本語的におかしい。


また清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜ったというのもおかしいですね。

もしも本当に行巡の祈祷の効験があったのなら、「王に勝った寺」というのは日本語的におかしいです。
「王の病に勝った寺」と言うべきで、勝尾寺という寺名の由来を「勝王寺からくる」とするのは、ちょっとこじつけっぽく思えてしまう~。

また、実際には清和天皇はそのまま崩御されたので、行巡の祈祷の効験はなかったといいうことになります。

行巡が「清和天皇、死ね!」と祈祷していたと考えると「王(天皇)に勝った寺」というのは筋が通りそうに思えますが~(笑)

正確に言うと清和天皇は天皇であって王でもありませんしね。

王とはもともとは君主を意味する言葉でしたが、日本では国の君主には天皇と言う称号が使われていますね。
天皇の子の男子で、親王宣下を受けた者は親王と呼ばれました。
王とは天皇の子の男子ではあっても親王宣下をうけていない者のことを言いました。

勝尾寺-二階堂 しだれ桜

④勝尾寺は鰹寺?

勝尾寺という寺名は勝王寺からくるのではなく、もともとは鰹寺でそれが転じて勝尾寺になったのではないかと想ったりもします。

えーーっ、勝尾寺があるのは山の中やん、それなのになんで鰹なのって?

⑤ハンセン病にかかった皇子

①で765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしたと書きましたね。
開成は「かいじょう」と読み、静岡県磐田市の白山神社の創建説話に登場する海上皇子(戒成皇子/桓武天皇の第四皇子)と関係があるのではないかと前田速男さんが指摘されています。

また愛知県新城市の白山神社の創建説話には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子が登場します。
こちらの開成皇子は勝尾寺の開成と同じ字ですね。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子
で、海人皇子と開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられています。
開成皇子は何の病になったのかわかりませんが海人皇子についてはハンセン病になったとされています。

3人の父親は異なりますが、ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるのではないでしょうか。

勝尾寺 山門  

⑥実際にハンセン病にかかったわけではない、と思う。


日本書紀にトガノの鹿という話が記されています。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(トガノの鹿)

鹿の夏毛には白い斑点があります。
その白い斑点が霜や塩に喩えられたのでしょう。

そして謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説があります。

また日本書紀は次のような話もあります。


612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。

ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

つまり、次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないかと思います。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

⑦ハンセン病の古名のひとつ、カタヰ。


ハンセン病は古にはらい病、ナリンボ、ドス、カタヰ(カタイ)などとも言ったそうです。
海上皇子という名前は海の魚を想起させますし、魚偏に堅いと書けば鰹となりますね。

そういうわけで、鰹寺から勝尾寺になったのではないかと思ったりするんですが、あまりにトンデモですかね?

 勝尾寺 鐘楼 桜


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[2017/04/25 16:36] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

金熊寺 梅 『神のお告げの税金対策?』 


大阪府泉南市 金熊寺 信達神社
2012年3月中旬 撮影


金熊寺 梅

①金峯・熊野の神を祀る寺

金熊寺は、役の行者(634?ー701?)が創建したと伝えられています。
隣にある信達神社は古くは金熊寺大権現宮といい、金熊寺の鎮守でした。

信達神社 
信達神社

昔、海岸にたどりついた神武天皇の像を祀ったのが始まりで、
682年に役小角が金峯・熊野の神を勧請して本殿に合祀したと伝わります。

②金熊寺は金峯山と熊野三山からとった?

金峯とは吉野にある金峯山のことだと思います。
金峯山寺は役行者を開基とする神仏習合の寺院です。

 金峯山寺 蔵王堂 桜

金峯山寺 蔵王堂

熊野には熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)があり、やはり修験道が盛んでした。

おそらく金熊寺という寺名は金峯・熊野からとったのでしょう。
そういえば、熊野三山はお詣りしたことがないなあ~。
近いうちに行ってみたいです。

金熊寺 梅林 

③なぜ梅が植えられたの?


300年ほど前、信達神社の神主・矢野氏に「この地に梅樹を植えると神領益々隆盛となる」のお告げがあり、矢野氏一族によって白梅をメインに2000本の梅が植えられたといいます。

ここに梅が植えられたのは、熊野が紀州(和歌山県)にあることと関係がないでしょうか。
紀州といえば南高梅が有名ですね。

紀州で梅が栽培されるようになったのは、江戸時代とされます。
紀州藩田辺領の農民がやせ地は免租地(租税の一部または全部を免除する土地)となるということで、梅の栽培を始めたといいます。

金熊寺周辺で梅が栽培されるようになったのは300年ほど前ということですから、江戸時代ですね。
紀州藩田辺領と同じく、租税の免除を狙ったのではないでしょうか。

それを神様のお告げがあったなんぞと表現したのでは?

金熊寺 梅林


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[2017/03/23 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 梅 『豊臣秀吉は重瞳だった?(閲覧注意!)』 


大阪市中央区 大阪城
2011年3月撮影

大坂城 梅 
太閤さん(豊臣秀吉)の城と親しまれている大阪城

①豊臣秀吉は重瞳だった?


大阪城 花水木 『六本指の秀吉が指を切断しなかった理由』  

↑ こちらの記事で、豊臣秀吉は六本指であったと書きました。

それだけでなく、豊臣秀吉は重瞳だったという話もあります。

重瞳とは目の中に複数の瞳があることをいいます。

多瞳孔症とか多瞳孔というそうです。
ケースによってはものが二重に見えたりすることがあり、そういう場合は手術をする必要があるということです。
だけど下の動画を見ると美しいです♡



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

②瞳孔膜遺残

上の動画の4:10あたりでミケランジェロのダビデ像のアップが登場します。
ダビデの瞳、とてもキュートなハート形です。
瞳孔膜遺残と説明されています。

http://blog.sannoudaiganka.jp/?eid=140621
こちらのブログによると
胎児が眼球を形成していく過程では瞳孔は膜でおおわれており、だんだん萎縮して消失するが、ときどきこの瞳孔膜が残ってしまうことがあるということです。

また、世の中でもっとも多い先天異常だとあります。

大坂城 梅2

③貴人の相


古代の中国では重瞳は貴人の相とされていたみたいですね。
豊臣秀吉のほか、平清盛、源義経も重瞳だったと記した書物があるそうです。
中国で重瞳は貴人の相とされているのをうけて、事実ではないが、豊臣秀吉・平清盛・源義経らを重瞳であるという設定で物語を描いたと考えられています。

それとも、ダビデのように瞳孔膜遺残だったのかも?

大坂城 梅3

④蒼頡(そうけつ)と方相氏

中国の重瞳の貴人のひとり、 倉頡(そうけつ)の肖像画を見てみましょうー。

File:Cangjie.png

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Cangjie.png よりお借りしました。
作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

倉頡(そうけつ)は漢字を発明したとされる伝説上の人物で、 重瞳四目といわれます。
帝舜・項羽も四つの目で描かれるそうです。

これ ↓ に似ていますね!

吉田神社 節分祭 鬼と方相氏

吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏です。
吉田神社では方相氏は赤鬼・青鬼・黄鬼と闘いますが、平安時代の節分に鬼は登場しません。
平安時代の節分の日には、方相氏がシン子を従えて『鬼やらい」といいながら宮中を練り歩いていたようです。

③方相氏は体内に冬の気をすいこんだあと矢で射られた。


大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。
方相氏の恐ろし気な風貌が鬼と混同されたなどといわれますが、そうではないと私は考えます。

竹田恒泰さんが「雛人形は厄を吸い込むものだった」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。
方相氏も雛人形と同じように厄と言うか、冬の気、鬼の気のようなものを吸い取る役割を担っていたのでしょう。
そして、体いっぱいに冬の気、鬼の気を吸い込ませたあと、方相氏ごと矢で射て冬の気・鬼の気を退治してしまうということだったのではないかと想像します。
方相氏はみがわり人形のようなものだったのだと思います。

大坂城 ひよどり

④方相氏は2体の牛が合体している?


さて、方相氏はなぜ四ツ目なのでしょうか。

以前、ネットで以下のような内容の記事をよみました。今、ぐぐっても見つからないのですが~。(すいません!)

(い)方相氏は中国の天神、蚩蚘(シュウ)ではないか。
(ろ)蚩蚘は炎帝神農氏の子孫であり、兵器を発明し、霧をあやつる力を持つ神。
(は)『帰蔵』は蚩蚘の姿を『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首)』と記す。
(に)『疏首』というのは、首が二つあるということだ。
(ほ)蚩蚘とは二頭の獣が合体した神ではないか。
(へ)そう考えると蚩蚘が『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)』をもっていることの説明もがつく。
(と)『述異記』には『銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ』とある。
(ち)『四つの目』とあるのも二頭が合体しているのだろう。
(り)二頭を合わせると足は8本だが、人の体をしているので、8本の足のうち2本が脚で、残りの6本が手(腕)ということだろう。

すばらしい!
『述異記』に『牛の蹄』とあるので、蚩蚘や方相氏は2頭の獣が合体しているのでしょう。

⑤蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されている?

私は蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されていると思います。


待乳山聖天では聖天さん(大聖歓喜天)をお祀りしています。
聖天さんとは像頭をした男女双体のみほとけです。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんには次のような伝説があります。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 

つまり、聖天さんとは鬼王ビナヤキャ(=マラケラレツ王)とビナヤキャ女神(十一面観音の化身)の男女双体のみほとけなのです。

上の動画をもう一度見てください。
相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音の化身ビナヤキャ女紳です。

⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面


そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


⑤にあげた聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)

蚩蚘や方相氏、中国の倉頡・帝舜・項羽、日本の豊臣秀吉・平清盛・源頼朝らが重瞳とされるのは、
彼らがもともとは荒魂であったが、女神(和魂)と結合して御霊となったと考えられたためではないでしょうか。
そして彼らが貴人と考えられるのは、彼らが御霊であるからではないかと思います。

大坂城 夕景


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[2017/03/21 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

星田妙見宮 紅葉 『妙見大菩薩はたたら製鉄の神だった?』 

   大阪府交野市 星田妙見宮
2016年11月下旬 撮影


星田妙見宮 鳥居 紅葉 
星田妙見宮

●星の町・交野ヶ原

大阪府枚方市・交野市あたりは古には交野ヶ原と呼ばれていました。
在原業平がこんな歌を詠んでいます。

狩りくらし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に われは来にけり
(狩りをしていてすっかり日が暮れてしまった。今夜は織女姫に宿を借りることにしよう。我々は天の川の河原にやってきたのだから。)

在原業平が惟喬親王の狩りのお供をして、渚の院(大阪府枚方市)で詠んだ歌とされます。

京阪御殿山駅の東北に渚の院跡があり、その1kmほど南に天野川という川が流れています。
天野川をはさんで中山観音寺跡と機物(はたもの)神社があり、中山観音寺跡はアルタイル(牽牛星・彦星)、機物神社はベガ(織姫星)を表しているとされます。
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭

また天野川をずっと遡っていくと磐船神社があり、ニギハヤヒが降臨した場所だとされていますが
『雲陽誌』には『ニギハヤヒは星の神である』と記されています。

星田・星が丘など星の字のつく地名もおおいですし、星田神社・天田神社・星の森などもあります。
今日、お話ししたいと思っている星田妙見宮もここにあります。

 星田妙見宮

星田妙見宮 絵馬堂

●2組あったアルタイルとベガに模した寺社

妙見山の頂上近くに星田妙見宮の拝殿があり、その奥に織女石が祀られています。
たぶんこの織女石が御神体なのでしょう。本殿はないようです。

星田妙見宮 織女石 

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)

星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸には天田神社があり、天田(豊に実る田)の神を祀っているそうです。今回はお参りできなかったのですが。
で、この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたということです。

最近の田おこしは耕運機で行うことがほとんどですが、昔は牛に犂(すき)をひかせて行っていたのです。
つまり牽牛とは牛を牽いて田を耕す神というわけです。

飛鳥坐神社 おんだ祭 田おこし 
飛鳥坐神社 おんだ祭 天狗が牛に犂をひかせて田を耕すシーン


中山観音寺&織物神社のほかにもアルタイル(牽牛星/天田神社)とベガ(織女星/星田妙見宮の織女石)があったのですね~。

●隕石が落下した山

星田妙見宮-説明版

816年、ここに隕石が落ちたことで山が吹き飛ばされ、馬蹄形になっていると説明版に記されています。

星田妙見宮 滝の説明版 

どうやら816年ここに隕石が落ちたというのは、星田妙見宮に伝わっていることのようですね。
正史に記録があるというわけではなさそうです。

そして落ちたのはペルセウス座流星群の母彗星スイフト・タッフル彗星からの隕石であると記されています。

星田妙見宮 登龍の滝 

星田妙見宮 登龍の滝 (わかりづらいですが、写真向かって左の黒っぽく見える縦の筋あたりに水が流れ落ちています。)

ちなみに星田妙見宮には隕石が落ちてきたという伝説はあっても、本物の隕石が存在しているわけではなさそうです。

●古の人々は巨石を空から落ちてきた星だと考えた?


『雲陽誌』には『星降って石となる』という古語があると記されています。
それが隕石であるかどうかは別にして、古の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えたのではないでしょうか。

磐船神社 天の磐船

上の写真は先ほどもご紹介した磐船神社の御神体・天の磐船です。
磐船神社の御祭神はニギハヤヒという物部氏の祖神で、ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったとされています。
この石は隕石ではありませんが、古の人は巨石を空から落ちてきた星であると考え、
「ニギハヤヒがこの天の磐船を操って地上に天下った」という物語を創作したのではないでしょうか。

物部氏は鉄鍛冶技術に長けていた?

古事記には天津麻羅(あまつまら)という神が登場します。
先代旧事本紀では次のように記されています。

「倭の鍛師(かなち)等の祖、天津真浦(あまつまうら)」
「物部造等の祖、天津麻良(あまつまら)、阿刀造等の祖、天麻良(あめのまら)」

阿刀氏はニギハヤヒの子のウマシマジノミコトを祖神とする氏族です。
物部氏はニギハヤヒを祖神としているので、同族と考えていいでしょう。
鍛師は鍛冶師のことだと思います。
ここから物部氏は製鉄や鍛冶の技術に長けた氏族だったのではないかと想像されます。



上はたたら吹きの様子を撮影した動画です。(動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。)
映像が大変美しいです。

この動画を見るとわかるようにたたら製鉄は燃えあがる炎の中で行われます。
このたたら製鉄の様子が、夜空に光る星に喩えられたのではないかという説があります。

そして交野ヶ原のあたりには肩野物部氏が住んでいました。

●妙見大菩薩はたたら製鉄の神だった?

星田妙見宮の御祭神はアメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビですがパンフレットによるとこれらの神々は、「仏教では北辰妙見大菩薩、道教では太上神仙鎮宅霊符神という」と書いてあります。

http://www.raifuku.net/special/wolf/details/myoken1.htm

↑ こちらに妙見星神の図像が掲載されています。
妙見星神の上に描かれている星を描いてみました。↓

妙見星神の上部に描かれた星 

上の三つ星は婁(たたらほし/おひつじ座β星)下の七つ星は北斗七星だと思います。

二十八宿
File:Twenty-eight mansions.jpg

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Twenty-eight_mansions.jpg?uselang=ja )よりお借りしました。

たたらというのは古代の製鉄にもちいる鞴(ふいご)のことで、たたら製鉄という言葉もここからきます。

File:Bellows 2 (PSF) generalized.png

ウィキペディアよりお借りした鞴(たたら)の図です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bellows_2_(PSF)_generalized.png?uselang=ja
作者はPearson Scott Foresmanさんです。ありがとうございます。

鞴はこのように三角形の構造になっているので、それに似ているということで「たたらほし」というのでしょう。
頭上にたたらぼしを戴く妙見星神(妙見大菩薩)はたたら製鉄の神なのではないでしょうか?

星田妙見宮 紅葉 

星田妙見宮 参道


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[2016/12/03 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

星田園地 星のブランコ 紅葉 『物部王朝の太陽神』 




↑ 
巨人の真央ちゃんが巨人の舞ちゃんをおっかける!
美人姉妹だよね♡
写真撮りにいきたいところがたくさんでてくるのも嬉しい~。
オモシロイけど、舞ちゃんちょっとかわいそう~。

大阪府交野市 星田園地・磐船神社
2009年11月下旬 撮影


星のブランコ 紅葉3 
●星のブランコ

星田園地の展望台から見下ろすと、見渡す限りオレンジ色の紅葉が広がっていました。
写真に写っている橋は『星のブランコ』と呼ばれています。

●ニギハヤヒを祀る磐船神社

星田園地の近くに磐船神社という神社がありニギハヤヒを祀っています。

磐船神社 天の磐船

上の写真は磐船神社のご神体の『天の磐船』です。

●初代神武天皇より早く天下っていたニギハヤヒ

初代神武天皇は日向より東征をめざしますが、出立の際、シオツチの翁が「東にはニギハヤヒが天の磐船を操ってすでに天下っている。」と発言しています。
磐船神社はこのニギハヤヒが天下った場所だとされています。

ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

ニギハヤヒが操った天の磐船とはUFOのようなものではないか、という人もいます。
ニギハヤヒは天の磐船からこんなオレンジ色の風景を眺めたのかもしれませんね。
 
星のブランコ 紅葉2


●星の神が住む交野ヶ原

大阪府枚方市・交野市のあたりは平安時代には交野ヶ原と呼ばれていました。
交野ヶ原を流れる川は天の川といい、天の川伝説発祥の地であるともいわれています。
天の川を挟んで中山観音寺跡(観音山公園)と機物(はたもの)神社が向かいあっていますが、中山観音寺跡はアルタイル(牽牛星・彦星)、機物神社はベガ(織姫星)を表しているとされます。
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭

織姫と牽牛が年に一度の逢瀬を楽しむとされる逢合橋もあります。
逢合橋はコンクリート造りの味もそっけもない橋で絶句しましたが(笑)。

このあたりには星田・星ヶ丘など星の字のつく地名も多いです。

●ニギハヤヒは星の神

ニギハヤヒは物部氏の租神とされますが、かつてこのあたりには肩野物部氏が住んでいました。

物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説があるります。

また雲陽誌という書物には『ニギハヤヒは星の神』だと記されています。


●ニギハヤヒはもともとは太陽神だった?

古事記や日本書紀では単にニギハヤヒと記されていますが、先代旧事本紀では『天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)』と記されています。
また先代旧事本記はニニギの兄・天火明命(アメノホアカリ)と同一の神としています。

ニニギは天照大神の孫で、天照大神に命じられて葦原中国に天下った神です。

本当の天照大神とは天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒのことではないかとする説があります。
ニギハヤヒはもともとは太陽の神であったのに、神武に政権を奪われて夜の神、星の神へと神格を変えられたのではないでしょうか。

星のブランコ 紅葉 



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[2016/12/02 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大威徳寺 紅葉 『牛の盆』 

大阪府岸和田市 大威徳寺
2013年11月下旬撮影

 
大威徳寺 多宝塔 紅葉
塔百景34


●牛の神

牛滝の大威徳寺では牛に乗る姿の大威徳明王が祀られています。
そのため牛の神として信仰を集め、農耕に牛を用いていたころは3月25日・8月25日の祭日には農家は角巻・首たすき・ユタンなどで牛を着飾って大威徳寺にお参りしたそうです。

大威徳寺 牛のレリーフ 

牛の寺らしく、牛をモチーフにしたレリーフがありました。

●旧暦7月7日は牛の節句


大威徳寺は牛滝山山中にありますが、昔は牛滝山の二の滝付近に牛神の祭場もあったようです。

旧暦7月7日は牛の盆、牛の節句ともいわれ、牛神様を祀る習慣がありました。
泥や野菜で牛の人形をつくって祭場に飾り、川で牛を洗い浄めて祭場に連れていき、お参りをしたそうです。

旧安西家住宅 薬研と七夕馬

上の写真は千葉県木更津市の旧安西家住宅に置かれてあった七夕馬です。
大威徳寺の近所では泥や野菜で牛の人形を作ったということですが、このように馬の人形を作る地域もありました。
詳しくはこちらの記事を参照してください。→ 旧安西家住宅 『七夕馬と天然痘』 

●七夕はお盆の入りの行事だった。

現在ではお盆は8月15日を中心に行われていますが、旧暦のお盆は7月15日を中心とした行事でした。
7月7日は七夕ですが、旧暦では七夕はお盆の入りの行事だったのです。
これで『牛の盆』の『盆』の部分はわかりました。

大威徳寺 紅葉2 

●なぜ牛の人形を作ったり、牛を祭場につれていったのか?


七夕は牽牛と織姫が年に1度の逢瀬を楽しむ日とされていますね。
『牛の盆』の『牛』はこの牽牛からくるのではないでしょうか。

牽牛の「牽」は「牽く」と書いて「ひく」と読みます。
「引く」「曳く」などと同じ意味です。

つまり牽牛とは「牛を牽く」という意味で、牛を祭場へつれていくことは、まさしく「牽牛」なのですね。

大威徳寺 本堂 紅葉 

●御霊・荒魂
和魂

さきほど七夕はお盆の入りの行事であると書きましたが、お盆と逢瀬はどう関係があるのでしょうか。

前回も書いたのですが、神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)に分けられるといわれます。
そして男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
すると御霊とは男女双体となると思います。

御霊(神の本質)・・・・・・・・・男女双体
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神
和魂(神の和やかな側面)・・・女神


大威徳寺 錦秋の滝 紅葉 

錦秋の滝 (二の滝ではありません。すいません。)

●サルタヒコと
アメノウズメの物語

男女双体の神といえば道祖神があります。
道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体と神といわれています。
そのサルタヒコとアメノウズメには次のような物語があります。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。
その後、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコを彼の故郷の伊勢へと送り届け、サルタヒコの名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。
ここからアメノウズメは猿女君と呼ばれるようになりました。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)


●アメノウズメはセックスの女神だった。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国へ天下ったのち、アメノウズメに『サルタヒコをもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じています。
『彼(サルタヒコ)の名前を伝えて』というのは、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコと結婚せよ』と命じたということだと思います。
『(サルタヒコに)仕え祭れ』というのは『性的に奉仕せよ』ということでしょう。
アメノウズメは天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせていますし、サルタヒコに出会ったときにも胸を開き、帯をずらして誘惑しています。
アメノウズメはセックスの女神なのです。

●貝は女陰の比喩?

サルタヒコは伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んでいますが、貝は女陰を比喩したものだと思われます。
つまり、サルタヒコはアメノウズメの女陰に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだということでしょう。

道祖神はサルタヒコとアメノウズメが手を繋ぎ合った姿をしていますが、手を繋ぎあっているのではなく、アメノウズメによってサルタヒコの手がおさえつけられ、身動きできなくなった状態を表していたのですね。

●七夕は牽牛が死ぬ日

サルタヒコと牽牛、アメノウズメと織女は習合されているのかもしれません。

お盆には悪い霊も戻ってくると考えられ、そういった悪い霊が祟らないように女神と和合させる必要があると考えられたところから、お盆の入りの行事として七夕があるのだと思います。

そしてサルタヒコはアメノウズメと和合することによって死んでいます。
牽牛も織女と和合することによって死んだのでしょう。
七夕は牽牛が死ぬ日なのです。
それで7月7日は牛の盆とされているのではないでしょうか。

御霊(神の本質)・・・男女双体・・・道祖神
荒魂(神の荒々しい側面)・・・・男神・・・・サルタヒコ・・・・・牽牛
 和魂(神の和やかな側面)・・・女神・・・・アメノウズメ・・・織女

大威徳寺 多宝塔 紅葉2  


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[2016/11/29 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 紅葉 『海上皇子と開成皇子』 

大阪府箕面市 勝尾寺
2006年11月18日(1枚目) 2011年12月4日(1枚目をのぞく) 撮影

勝尾寺 仁王門 紅葉 

●海上皇子と開成皇子

今、前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本を読んでいますが
ちょっと興味深いことが書いてありました。

静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうです。


①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになりました。
その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためです。


勝尾寺の創建説話に光仁天皇の皇子・開成皇子が登場します。
勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし
765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りたというのです。

前田速男さんはこの開成皇子と海上皇子には関係があるのではないかと指摘されています。

勝尾寺 霧 紅葉 

●春日王と春日宮天皇(志貴皇子)は同一人物?

もしかして、海上皇子と開成皇子は同一人物ではなでしょうか?

奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説がありました。
ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されています。
また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思います。
そこから私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えました。

●海上皇子と開成皇子は同一人物?

海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、ということですが
桓武天皇は光仁天皇の皇子なので、開成皇子と桓武天皇は兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになります。
志貴皇子と春日王の例もあるように、開成皇子と海上皇子は同一人物ではないでしょうか?

志貴皇子は施基皇子、志紀皇子とも書きます。
古には音が同じであれば、さまざまな字をあてて名前を表記していたのかもしれません。

勝尾寺 鐘楼 紅葉 

●志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が!

光仁天皇は志貴皇子の皇子です。
志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっています。
そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前があります。
つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになります。
しかも血のつながりのある志貴皇子・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのです。


●後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子

また愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているそうです。

②御殿において白雀を飼はせらる
まさに餌をやらんとすれば飛び放る
再び捕へんとして穢れし大地を踏まる
悪病にかかりて殿を出で
漂泊 旅して東原に至る

これは内容が①の伝説とまったく同じです。
名前は開成皇子となっていて、勝尾寺の創建にかかわった開成皇子と同名です。

②の文書は①の伝説をもとにしてつくられたもので、開成皇子を後醍醐天皇の子と変えたのかもしれませんね。

それともポーの一族のエドガーやメリーベルのように、開成皇子は時を超えて存在しているとか?

勝尾寺 多宝塔 二階堂 紅葉

●勝尾寺には白山信仰があった?

①の海上皇子、②の開成皇子はどちらも白山神社に伝わるもので、勝尾寺の創建は開成皇子とされています。
ということは、もしかして勝尾寺には白山信仰があったのかもしれませんね。

勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説があります。

参照/
勝尾寺 雨 紫陽花 『白い神と黒い神』 

白髪の娘は白山の神をイメージしたものなのかも?

また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘ということですが、越中とは富山県のことです。
富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物なのかな、と思ったりしますが
五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域でした。

 五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落



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[2016/11/18 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 夕景  『豊臣秀吉とBL』 

 大阪市中央区 大阪城
2010年11月7日 撮影


大坂城 夕景

●太閤さんの城


大阪城は『太閤さんの城』と呼ばれています。
太閤とは摂政または関白の職を子弟に譲った人物のことですが、一般に『太閤さん』といえば豊臣秀吉のことをさします。
しかし秀吉が築城した大阪城は1614年の大坂夏の陣で焼失し、現存する櫓や石垣などは江戸幕府によって築造されたものなのだそうです。

豊国神社(長浜)豊公神社 

豊国神社(長浜) 豊公祭


●秀吉はたいへんな女好きだった。

秀吉は当時たしなみとされていた男色には興味がなく、たいへんな女好きで、多くの側室をもっていました。

秀吉が美少年の小姓・池田信輝の三男・羽柴長吉を呼び、「姉か妹はいないか」と聞いたという話は有名ですね。
羽柴長吉があまりに美しいので、彼に姉妹があるとすれば、相当な美女だろうと秀吉は思ったというのです。

 豊国神社(長浜) 豊公祭 

滋賀県長浜市 豊国神社 豊公祭


●秀吉は少しはBLに興味があった?

しかし、最近『BL新日本史』という本を図書館で借りて読んだところ、「秀吉は全く男色に興味がなかったというわけではない。」というようなことが記されていました。
その本は返却期限がきて返してしまったので、ネットで調べてみました。
『石田軍記』に「秀吉と石田三成がBLの関係だった」と記されており、また南方熊楠は「秀吉と織田信忠がBLの関係だった」と言っているそうです。

金剛寺 菊滋童 屏風

菊滋童の屏風 金剛寺(奈良県五條市)


●戦国時代、なぜBLが流行したのか?

戦国時代にBLが流行したのはなぜなのでしょうか。
それは生理的な理由というよりも、信仰上の理由があったのではないかと私は考えています。

最近、町のあちこちで菊が飾られているのを見かけます。
旧暦では今頃が重陽の節句ですね。

9月9日は重陽の節句(菊の節句)でたいへんおめでたい日とされていましたが、
重陽の節句には菊滋童の舞が舞われたり、菊滋童の絵が描かれた屏風が展示されたりします。

周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。


菊滋童は菊の露を飲んで700年の長寿を得たとされる伝説の少年です。
秀吉が朝廷より豊臣姓を賜ったのは天正14年9月9日ですが、吉日ということでこの日が選ばれたのでしょう。

 法輪寺 重陽神事2

重陽神事 菊滋童の舞 (京都 法輪寺)

陰陽道では奇数を陽、偶数を陰とします。
そして性別では男性が陽で、女性が陰です。
男性と男性が重なることはまさしく重陽じゃないですか。

上のgifアニメは能・菊滋童ですが、ウィキペディアの男色のページに次のように記されています。

「この時代に成立した能や狂言には男色がとても多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B#.E5.AE.A4.E7.94.BA.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.9A.E6.AD.A6.E5.A3.AB.E3.81.AE.E7.94.B7.E8.89.B2より引用

そして重陽は不老長寿の象徴なので
BLは不老長寿をもたらす呪術として尊ばれたのではないかと思うのです。
菊は昔からBLの象徴でもありました。

昔の人にとって陰陽道は科学だったそうなので、秀吉も多少はたしなんだのではないかと思います。

金剛寺 菊枕 

菊枕 金剛寺(奈良県五條市)


●不老長寿とは子孫繁栄のこと?

実際には菊滋童のように700年も生きるのは不可能で、不老長寿とは子孫繁栄のことだと聞いたことがあります。
しかし秀吉は子供にめぐまれませんでした。
南殿との間に生まれた長子・羽柴秀勝は6歳で夭折。
淀殿との間に生まれた次男・豊臣鶴松は3歳で夭折。
そこで秀吉は甥の豊臣秀次を養子としましたが27歳のとき秀吉に切腹を命じられて没しました。
秀次を養子としたあと淀殿との間に三男・豊臣秀頼がうまれたため、秀吉は秀次を疎んで切腹を命じたという説があります。
こうして秀吉の死後秀頼は秀吉の跡をつぐのですが、しだいに徳川家康が権力を握るようになっていきます。
そして1615年の大阪夏の陣で、大阪城天守閣は炎上し、秀頼は母親の淀殿とともに自害して果てたのです。
享年23歳でした。
こうして豊臣家は滅亡してしまいました。

秀吉が不老長寿の呪術ともいえるBLにもっと励んでいれば、秀吉の子孫は繁栄したかも?
案外、秀吉の子孫が断絶してしまったため、「秀吉はBLに興味がなかった」などと言われているのだったりして?
んなわけないか。

大坂城 夕景



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[2016/10/30 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

叡福寺 夕景 桜紅葉 『太子廟には鳥が巣をつくらない』 

大阪府南河内郡 叡福寺
2010年11月6日 撮影


叡福寺 多宝塔 夕景 
塔百景25

叡福寺境内の奥に叡福寺北古墳があり、聖徳太子廟に治定されています。
↓ 立派な扉がついていますが、明治時代にコンクリートで塞がれたので中に入ることはできません。

太子廟 

●太子廟七不思議


太子廟には不思議な言い伝えがあり太子廟七不思議と言われています。

①御廟内には松や笹が生えない。
②鳥が巣を造らない。
③大雨が降っても御廟の土が崩れない。
④御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
⑤メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(1054年)に発見された。
⑥御廟の西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふいたものである。
⑦894年、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かく柔らかかった。

叡福寺 仁王像 

●古代、鳥は死の象徴だった?

この太子廟七不思議の中で「②鳥が巣を造らない。」というのが気になっています。

現代人にとって鳥は希望の象徴で「翼ください」なんて歌もありますね。
けれど古代人にとっては鳥は希望の象徴ではなく、死の象徴であったように思われます。

というのは、古事記に「死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立った」「鳥たちがアメノワカヒコの葬儀を執り行う」などの記述があるからです。
またササキという鳥がいますが、これに御をつけるとミササギ(陵)となります。
昔の人は死んだ人の霊は鳥になって空へ飛んでいくと考えたのではないでしょうか。

巨大な前方後円墳が地上からではその形が認識できず、飛行機などに乗って高いところから見下ろすことによってようやくその形が認識できるのも、古墳が鳥の視線を意識して作られているためだと思います。



大阪府堺市 仁徳天皇陵 きれいな前方後円墳の形がわかりますね。



聖徳太子廟 円墳なのだそうですが、こちらは周囲にも木が茂っているせいか、よく形がわかりませんね。


●聖徳太子の棺の中に遺体がなかった。

そして太子廟七不思議にはありませんが、「聖徳太子の棺の中を調べてみたところ遺体がなかった」という伝説もあります。

すなわち「②鳥が巣を造らない。」というのは「棺の中に聖徳太子の遺体はない。」ということなのではないでしょうか。
聖徳太子の遺体はヤマトタケルのように鳥となってとびたっていってしまったと昔の人は考えたために「②鳥が巣を造らない。」などと言われているのではないでしょうか。

叡福寺 桜紅葉 
 
叡福寺境内よりPLの塔を望む

叡福寺境内よりPLの塔を望む。




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[2016/10/29 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

東光院 萩 『天然痘を流行らせる神』  


大阪府豊中市 東光院
2013年9月29日 撮影


東光院 萩 山門 
 

●民衆に火葬の方法を教えた行基

東光院は735年に行基が薬師如来を本尊として開いた寺で、もとは豊崎村(現在の大阪市北区中津)にありました。
大正3年(1914年)に中津から豊中市南桜塚に移ったそうです。

行基は豊崎村で民衆に火葬の方法をはじめて教え、淀川のほとりに群生していた萩の花を供花として霊前に捧げたという伝説が、東光院には伝えられています。

東光院 道了大権現 

 
●東光寺創建と舎人親王・新田部親王の薨去

行基によって東光寺が創建された735年、舎人親王と新田部親王が薨去しています。

舎人親王と新田部親王はどちらも『長屋王の変』に関係する人物です。

●長屋王の変

729年、朝廷に『長屋王が左道を学んで国家を傾けようとしている。』という密告がありました。
左道とは「よくない道」「不謹慎な道」という意味です。
長屋王が不謹慎な呪術を学んでいる、というような意味でしょう。
これを受けて長屋王の取り調べを行ったのが舎人親王と新田部親王だったのです。

厳しい取調べに耐え切れず長屋王は自殺し、妃の吉備内親王と子の膳夫王も共に死にました。

●長屋王の変の真相

当時、長屋王は政界トップの左大臣という地位にあり、また長屋王の子の膳夫王は次期天皇候補ナンバーワンでした。
これを妬んだ藤原四兄弟(藤原不比等の子。武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が長屋王を排斥するために仕組んだ陰謀だったと考えられています。

東光院 萩

●藤原四兄弟、長屋王の祟りで死ぬ。


長屋王の没後、藤原四兄弟は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立しました。
ところが737年に藤原四兄弟は次々に天然痘にかかって亡くなり、長屋王の怨霊の仕業であると噂されました。

●舎人親王・新田部親王の死も長屋王の祟り?

新田部親王と舎人親王が死んだのは四兄弟が死亡する2年前のことでした。
『続日本紀』に二人の死因は記載されていませんが、天然痘が流行ったのは735年から737年だったので、新田部親王と舎人親王も天然痘にかかって亡くなったのではないでしょうか。

すると新田部親王と舎人親王の死も長屋王の怨霊の仕業だと畏れられたことでしょう。

●トガノの鹿

日本書記の『トガノの鹿』の物語では雄鹿が殺されて塩を振られているとありますが、謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人を表しているのではないかとする説があります。

また萩の別名を「鹿鳴草」といい、萩もまた謀反人を表しているのではないかとする説もあります。

萩が咲き乱れる東光院は謀反人を慰霊するための寺なのかもしれませんね。

東光院 萩 階段

●謀反人は庶民として葬られた?

772年に亡くなった道鏡は、弓削氏とされますが、志貴皇子の子だったとする史料もあります。
志貴皇子の子であったとすれば、道鏡は皇族だったということになります。
女帝で子供のなかった孝謙天皇は、次期天皇を道鏡にしたいと考えていましたが
それは道鏡が皇族であったからかもしれません。
(一般には道鏡は皇族であったとは考えられていませんが)
孝謙天皇が急死したのち道鏡は失脚し、下野国へ流罪となって亡くなりました。
そして庶民として葬られたそうです。

それより少し前の729年に自殺した長屋王も庶民として葬られたのかも?
すると、行基が火葬を教え、謀反人の象徴である萩の花を供えた民衆とは長屋王のことで、東光院は長屋王の霊を祀る寺なのではないかなあ、と思えてくるのです。

感染症法第30条

また、感染症法第30条では天然痘患者の死体は原則火葬と決められているようです。
http://www.mhlw.go.jp/kinkyu/j-terr/2004/0514-1/12.html

これは、火葬にすることで、病原菌が他者に伝染しないようにするためでしょう。
もしかして、行基は火葬が天然痘の流行を防ぐことをを知っていたんでしょうか?

東光院 萩 地蔵 



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[2016/10/07 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

淀川 わんど 夕暮 『わんどって何?』  

大阪市旭区 淀川・わんど
2011年10月1日 撮影 (1枚目は10年以上前の9月)

わんど2 
川に細長い砂州のようなものがありますが、これは『わんど』とよばれています。

●かつて川は重要な交通路だった。

アニメ「風立ちぬ」では、牛が飛行機を牽くシーンや、川をたくさんの帆掛け舟が往来する様子がとても印象的でした。
陸上交通が発達していなかったころ、川は重要な交通路であり、多くの船が行き来していたのですね。
淀川にも多くの船が浮かぶ風景が見られたようです。
一寸法師もお椀の舟に乗り、淀川を遡って京へ向かったんですよ。

枚方宿 説明版より 淀川の絵 
枚方宿(説明版より/枚方宿はわんどより上流)

●明治期の淀川改修工事


明治時代、大阪⇔伏見間を蒸気船で繋ぐという計画がもちあがり、淀川の改修工事が行われました。

伏見 京橋あたり 
江戸時代の伏見・京橋あたり(説明版より)

淀川を利用して大阪から伏見へ行くためには、一寸法師のように川を遡る必要があります。
川の流れが急だと川を遡ることが難しいので、川の流れを緩やかにしないといけません。
川は直線的に流れるよりも、くねくねと蛇行して流れる方が流れが穏やかになります。
そこでまず、川を蛇行させる工事が行われました。

次に、川が急カーブを描く部分は、水がぶつかって壊れるのを防ぐため、水制という構造物がたくさん設置されました。
水制とは岸から川へ垂直に伸びる細長い構造物です。
水制と水制の間には、木の小枝や下草を用いた大きなマットをたくさん積み重ねて川底に沈めてあるそうです。
このマットには水流を穏やかにする効果があるのだといいます。

マットには土砂やごみが付着して目詰まりをおこさないように定期的に掃除をしなければいけなかったのではないかと思ったりしますが、実際にはどうだったんでしょうか? 

 わんど3
 
●魚たちの住処となったわんど

現在では淀川を航行する船の姿はほとんど見られなくなりました。

そして長い年月の間に水制の周囲には土砂がたまり、その上に植物が生い茂るようになりました。
現在では『わんど』は魚たちの貴重な住処となっているそうです。

わんど



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[2016/09/12 10:23] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

杭全神社 平野郷夏まつり  『猿田彦はニギハヤヒと同一神だった?』  

●杭全神社 夏祭

大阪市平野区にある杭全神社では7月11日から14日まで夏祭が行われます。
9代のだんじりが町内をかけまわるだんじり祭として有名なんですが、写真がないので(汗)
今日は7月14日の神輿渡御について書きます。

杭全神社 夏祭 (全興寺)

  
全興寺門前に神輿が置かれ神事が行われました。
全興寺には駄菓子屋さん博物館や地獄堂があります。

杭全神社 御神輿 

平野は平安時代に征夷大将軍だった坂上田村麻呂の次男・坂上広野が領主として開発した古い町です。

●祭の先導をつとめる猿田彦


猿田彦(天狗)が人力車に乗って町中を練り歩きました。

杭全神社 夏祭 猿田彦 

猿田彦の扇で頭を撫でてもらうとご利益があるといわれています。
日本神話では猿田彦神は天孫ニニギを高天原から葦原中国まで道案内した神なので、祭の行列では先導役を担うことが多いですね。

●高天原から葦原中国までを照らす神


日本神話には猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」と記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。

「天」は「高天原」、国は「葦原中国」で、「天照国照」は「高天原から葦原中国までを照らす神」と読めます。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という神名は先代旧事本紀にある記述で、古事記や日本書紀では単にニギハヤヒとなっています。
ニギハヤヒは、ニニギの子孫である初代神武天皇が東征して畿内入りするより以前に、天の磐船を操って畿内に天下っていた神です。

●初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?

磐船神社 天の磐船
 
磐船神社
 
大阪府交野市にはこのニギハヤヒを祀る磐船神社があり、天の岩船と呼ばれる巨岩を祀っています。

ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、畿内には神武以前に物部王朝があったという説もあります。

●本当の天照大神はニギハヤヒだった?

各地の神社などに天照大神は男神だという伝承があります。
また陰陽道では太陽は陽なので、陰の女性が太陽神・天照大神であるというのは矛盾があります。
そこで陽である男神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒが本当の天照大神だとする説もあります。

ニギハヤヒは東征してやってきた神武に服したと、古事記や日本書紀には記されています。
自分の国を「どうぞ」といって他人に差し出す国王はいないでしょう。
神武とニギハヤヒは壮絶な国取合戦を行ったことでしょう。

●猿田彦はニギハヤヒの和魂だった?

しかし猿田彦とニギハヤヒ(=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)が同一神だとすると、猿田彦=ニギハヤヒはライバル・神武の先祖のニニギを、自分の国に案内したということになります。

猿田彦神はニニギに祟りこそすれ、葦原中国に案内なんてする? おかしいやん?
とか言われそうです。

陰陽道では祟り神(荒魂)は神として祀りあげると、ご利益を与えてくださる和魂に転じると考えます。
ニニギを道案内した猿田彦とは、祟り神(荒魂)・ニギハヤヒを神として祀りあげることで、和霊に転じさせた神なのではないでしょうか?


杭全神社 御神輿2 
 

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[2016/07/11 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 雨 紫陽花 『白い神と黒い神』 


勝尾寺 紫陽花 三宝荒神社 

大阪府箕面市 勝尾寺
撮影2010年7月3日


●白髪を黒髪に変えた三宝荒神

雨の日、勝尾寺を参拝しました。
上の写真は三宝荒神社です。

1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説があります。

●旗本菅沼隠越中守と五箇村菅沼集落

旗本というのは江戸時代の武士の身分のひとつです。
越中とは現在の富山県のこと、守とは国司のことです。

すると、菅沼隠というのが人名なんでしょうか?
それとも隠という言葉に何か意味があるんでしょうか?

富山県五箇村に世界遺産に登録されている菅沼集落があるんですが、関係あるのかも?
御存じの方、教えてください~。

五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落

●白鳥とカラス

えー、勝尾寺の荒神さまが娘の白髪を黒髪にしたという伝説についてですが
私はこの白と黒には何か意味があるのではないかと考えています。
記紀神話には白鳥とカラスの物語があります。

白鳥の物語のほうは、死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立ったというものです。
カラスの物語は、三本脚の八咫烏が初代神武天皇を道案内するという話です。

●死んだ人の霊は鳥になる?

このブログで何回か書きましたが、死んだ人の霊は鳥になって天に向かう、と古の人は考えていたのではないでしょうか。
巨大な前方後円墳は、地上から見たのではその形を認識することができませんが
高い空を飛ぶ鳥の視線であればその形を容易に認識できるでしょう。
ナスカの地上絵なども同様だと思います。

馬見丘陵 模型

馬見丘陵 模


●死に装束は白


死んだヤマトタケルが白鳥になったという物語についてですが、古より死に装束は白でした。
幽霊さんなども白い死に装束を着ていますね。

千本閻魔堂狂言 閻魔庁 鬼と亡者
 
千本閻魔堂狂言 

●八咫烏は復活した太陽神?

八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれます。

そして、梅原猛さんは「8」という数字は復活を意味する数字ではないかとおっしゃっています。
八角堂や八角墳は死者の復活を願って作られたのではないかというのですね。

そういえば、天の岩戸に籠った天照大神が外に出てくる際に用いられた鏡も八咫鏡といって、八の字が用いられています。
天岩戸に籠るというのは、死んで石室に葬られているイメージです。
天照大神は死んで石室に葬られていたのでしょう。
そしてその天照大神を生き返らせた(復活させた)鏡なので八咫鏡というのではないでしょうか。

だとすれば、八咫烏とは一旦死んで復活した太陽神のことではないでしょうか。

●白は死者の霊、黒は神として生き返った霊?

死んだヤマトタケルの霊が白鳥、死んで生き返った太陽神の霊が烏(黒鳥)。
ということは、白は死者の霊、黒は神として生き返った霊、ということではないかと思います。

●能・翁の白式尉・黒式尉


奈良豆比古神社の翁舞には白式尉・黒式尉が登場します。
これも白と黒ですね。

●志貴皇子はハンセン病をもたらす疫病神(荒魂)だった?

奈良豆比古神社の語り部さんは次のような言い伝えを伝承しているそうです。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方でした。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそいました。
赤い衣装は天皇の印です。
 
奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
上の写真は奈良豆比古神社の翁舞です。
白式尉の面を被った三人の翁が登場します。
このうち、中央が志貴皇子・左(向かって右)が左大臣・右(向かって左)が右大臣ということなのでしょう。

志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈りました。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていました。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞いました。
これが翁舞のはじめです。

私は志貴皇子はハンセン病をもたらす疫病神だと考えられていたのではないかと思います。
貧乏神はいかにも貧乏そうな姿をしているように、ハンセン病をもたらす疫病神はハンセン病を患った姿をしていると考えられたのではないかと思うのです。

●黒式尉は農業神だった?

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉 

奈良豆比古神社の翁舞は能「翁」のルーツではないかと私は考えているのですが
能の「翁」では、黒式尉は地固めの足拍子をしたり、種まきのような所作をするそうです。
奈良豆比古神社の翁舞においても黒式尉(三番叟)の舞がありますが、足拍子はありました。
種まきのような所作はわかりませんでしたが、見落としたのかもしれません。(しっかりせい~)

ともあれ、黒式尉の舞は豊作祈願の舞であり、白式尉が疫病神であるのに対し、農業神だといえるでしょう。

●白式尉は荒魂、黒式尉は和魂?

神はその現れ方で御霊(みたま)・荒魂(あらたま)・和魂(にぎたま)の3つに分けられるといいます。

御霊・・・神の本質
荒魂・・・神の荒々しい側面
和魂・・・神の和やかな側面

荒魂は男神、和魂は女神とする説があり、私はその説を指示しています。
このブログの中にもさんざん書きました。

が、必ずしも荒魂は男神、和魂は女神でないケースもあるのかな、と思います。
女の幽霊が祟ったというような怪談がありますが、祟り神は荒魂ですからね。

翁舞においては、白式尉は荒魂、黒式尉は和魂ではないかと思います。

●旗本菅沼隠越中守の娘は荒霊から和霊になった?

旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説に戻りましょう。

旗本菅沼隠越中守の娘はこのときすでに死んでいて、荒魂(怨霊)だったのではないでしょうか。
それを白髪と表現しているのではないでしょうか。

ところが勝尾寺の荒神さんの力によって、娘は和魂になり、それを黒髪と表現しているのではないかと思ったりします。

勝尾寺 紫陽花 本堂

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[2016/07/02 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

夕陽丘の夕景 夜景 『日想観は守屋を極楽浄土に送る行事だった?』 

大阪市天王寺区 四天王寺 一心寺 口縄坂


一心寺 仁王門


斬新なデザインの一心寺山門。夕焼け空は合成です~。


●夕陽丘と日想観

上町台地の西に位置するこのあたりは夕陽丘と呼ばれています。
夕陽丘という地名は、1236年に歌人の藤原家隆がこのあたりに『夕陽庵(せきようあん)』をもうけ、「日想観」を修したことに由来すると言われています。

「日相観」とは沈む夕日を拝み、西方浄土に思いをよせる修行です。

藤原家隆の墓 

天王寺区夕陽丘町にある家隆塚(伝藤原家隆墓)

現在では上町台地から見下ろしても林立するビルが見えるばかりですが、平安時代には海が見えたというのですね~。
夕陽丘から望む海に沈みいく夕陽は、それは美しかったことでしょうね。

ちぎりあれば 難波の里に やどり来て 波の入り日を おがみつるかも/藤原家隆
(前世より因縁があったので、難波の里に住み、波の向うに沈み行く夕陽を拝んでいるのだなあ。)

四天王寺は「日相観」の修行の中心地であり、現在でも毎年9月21日の彼岸の日に大勢の人が集まって夕陽を拝む日相観の行事を行っているそうです。

四天王寺 夕景 合成 

四天王寺夕景。これも合成っすー。(汗~)

●なぜ四天王寺で日相観が盛んに行われたのか?

今日は、なぜ四天王寺で日相観が盛んに行われたのかについて考えてみたいと思います。
西の海に太陽が沈むからじゃないのって?
それはそうですが、西の海に太陽が沈む場所って他にもたくさんあると思うんですね。

また、仏教寺院はほぼ東西南北をほぼきっちり会わせて作られていることが多いので
太陽が真西に沈む彼岸の日に西門に立つと、高い建物や山がない限り沈みゆく夕陽をみることができるはずなんですね。
上町台地にある四天王寺からだと夕陽を望みやすいというのはあったでしょうけど。

●四天王寺には物部守屋に対する信仰があった?


以前の記事、四天王寺 紫陽花 一心寺 ジャカランタ 『ミシャグジ神の正体は物部守屋だった?』 で述べたように
四天王寺境内には守屋祠があり、物部守屋に対する信仰があったと思います。

守屋祠 

●咳の地蔵尊=ミシャグジ神=物部守屋?

四天王寺 咳の地蔵尊 
また四天王寺には「咳の地蔵尊」があります。
名古屋市の石神社ではミシャグジという神様に杓子を奉納する習慣があります。
横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、やはり杓子を奉納する習慣があり、咳の病に霊験あらたかと伝えられています。
ここからミシャグジ神=石神であり、(石は「しゃく」ともよむので、御石神→ミシャクジン→ミシャグジと転訛したのかも)
石と咳はどちらも「セキ」と読むので、石神→セキガミ→咳神 と転じたのではないかと考えました。

長野県諏訪大社上社の南西6kmほどの場所には守屋神社があり、物部守屋を祀っています。
そして諏訪大社上社(タケミナカタを祀る)の御神体・守屋山の頂上にある磐座は守屋神社の奥宮ともされています。

守屋山が守屋神社(物部守屋を祀る)の奥宮であり、かつ諏訪大社上社の御神体であるということは
物部守屋とタケミナカタは同一神なのではないでしょうか。

③物部守屋=タケミナカタ

さらに、諏訪大社のもともとの御神体はミシャグジ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神であるとする説もあるのです。
④物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神

というわけで、四天王寺の咳の地蔵尊とはミシャグジ神であり、物部守屋の霊のことなのではないかと推論するわけです。
⑤物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神

●ミジャグジ神=蛇神?

ミジャグジ神は、白蛇の姿をしているなどと言われています。

⑥ミジャグジ神=白蛇
⑤物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神
なので
⑦物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神=蛇神

●太陽神は蛇神

世界各地に太陽神を蛇神とする信仰があります。
でも蛇は細長い形をしており、太陽は丸いです。
姿形は似ても似つかないのに、なぜ蛇が太陽神であるなどとされているのでしょうか。

三室戸寺 宇賀神

上の写真は三室戸寺にある宇賀神ですが、これを見て、なぜ蛇が太陽神なのかわかったような気がしました。

http://oomiwa.or.jp/about/miwayama/#linktop
↑ 大神神社のHPに大神神社のご神体である三輪山の日の出の写真が掲載されています。

この写真と上の宇賀神の写真を見比べてみてください。
三輪山は蛇がとぐろを巻くおすがただといわれています。
すると宇賀神の頭部と、三輪山の頂近くに昇った太陽が重なって見えてしまいます。
宇賀神の頭部は山の頂に昇った太陽を擬人化したものではないでしょうか。

⑧蛇神=太陽神

●物部守屋は太陽神だった?

⑧蛇神=太陽神
かつ
⑦物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神=蛇神
なので
⑦物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神=蛇神=太陽神

となり、物部守屋は太陽神だと考えられるのではないかと思うのです。

ただし、物部守屋は登りゆく太陽神ではなく、沈みゆく太陽神だと思います。

587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争で、守屋側は敗戦し、守屋は戦死したからです。

四天王寺で日相観が行われていたのは、四天王寺の沈みゆく太陽神=守屋祠に祀られた物部守屋が西方浄土で成仏することを願う行事だったのではないでしょうか。

口縄坂 夜景 

口縄坂。今は林立するビルが見えるばかりですが、昔はここから海が見えたのですね。

 




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[2016/06/26 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 勝鬘院(しょうまんいん) 夕景 口縄坂 夜景『多宝塔の形は何を表している?』 

大阪市天王寺区 四天王寺・勝鬘院(しょうまんいん)・口縄坂
 
 四天王寺 夕日

四天王寺 (合成)塔百景90


●勝鬘院の起源は四天王寺の施薬院だった。

四天王寺の北側、勝山通りの 坂道をとことことこと登っていきますと、多宝塔が見えてきます。
勝鬘院の多宝塔です。
手前に見えているお堂は四天王寺支院の真光院です。

愛染堂 夕景2 

勝鬘院多宝塔と真光院 塔百景91




593年、聖徳太子が四天王寺内に施薬院という福祉施設を開きました。
病人やけが人に薬を与えて治療する施設ですかね。
これが勝鬘院の起源であるとされています。

四天王寺の南には四天王寺病院がありますが、こちらもこの施薬院を継承するものだとされています。

四天王寺の西にある建設会社・金剛組は聖徳太子が創業者で、世界最古の企業とされていますし
1400年以上を経た今になっても聖徳太子に起源を持つ会社や病院が存在しているなんて、聖徳太子の影響力って本当に半端ないですね。

●勝鬘院の多宝塔は聖徳太子が創建したというけれど・・・

勝鬘院の多宝塔は593年に聖徳太子が創建し、1597年に豊臣秀吉によって再建されたとされています。
もしかしたら聖徳太子が多宝塔を建てたというのは事実かもしれませんが、そうだとしても、おそらくそれは現在のような形のものではなかったと思います。

というのは、ウィキペディアに次のように記されているからです。

「初重を平面方形、二重を平面円形とする二層塔は日本独自の形式であり、平安時代初期に空海が高野山に建立を計画していた毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)にその原型が求められる。この塔は空海の没後に完成し、その後も何度か焼失と倒壊を繰り返して、現在高野山にある塔(大塔または根本大塔と呼ばれる)は昭和12年(1937年)に再建された鉄筋コンクリート造のものである。この塔の創建時の形態は、現在の多宝塔に近いものであったと考証されている。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%AE%9D%E5%A1%94#.E5.A4.9A.E5.AE.9D.E5.A1.94.E5.BD.A2.E5.BC.8F.E3.81.AE.E8.B5.B7.E6.BA.90より引用

初重を平面方形、二重を平面円形とする二層塔を初めて建てたのは空海だというんですね~。
聖徳太子は空海より前の飛鳥時代の人物です。

高野山 壇上伽藍 根本大塔  

高野山 根本大塔

多宝塔という言葉は法華経にでてくるそうです。
この法華経の成立時期については諸説あるようですが、紀元100年~150年といわれているようなので、聖徳太子の時代にはあったのでしょう。
もしも聖徳太子が多宝塔を建てたというのが事実なら、それはどんな形をしていたんでしょうか?

 ●多宝塔は天円地方を表している?

現在の日本で多宝塔と呼ばれているのは、初重平面が方形、上重平面が円形の二層塔です。
この形は何を意味しているのでしょうか。

愛染堂 夕景

勝鬘院 多宝塔  塔百景92

私はこの形から天円地方(てんえんちほう)を思い出してしまいます。
天円地方とは古代中国の宇宙観で、天を円、地を方とする考え方です。

●伏儀と女媧の持ち物が逆になっているのはなぜ?

中国に伏儀と女媧という兄妹または夫婦とされる神がいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E3%82%AB#/media/File:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
↑ こちらはウィキペディアに掲載されている伏儀と女媧の図です。
女媧は手にコンパスを、男神の伏義は手に直角定規をもっていますね。

女媧が手に持つコンパスは円なので天、伏儀が手に持つ直角定規は方なので地。
あれれ、でも陰陽道では天は陽、地は陰とされています。
そして男性が陽、女性が陰なので、持ち物が逆じゃないの?

陽・・・天/男性
陰・・・地/女性

なぜ持ち物が逆になっているのかについては諸説あるようですが、私は記紀神話にある次の物語がそれを説くヒントになるのではないかと思います。

高天原にやってきたスサノオを、天照大神は「高天原を奪いにきたのではないか」と疑いました。
そこでスサノオは疑いをはらすために『誓約(うけい)の子産み』をしようと言いました。
まず天照大神がスサノオの物実(ものざね)である十拳剣(とつかのつるぎ)を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像三女神)が生まれました。
次にスサノオが天照大神の物実である『八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠』を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から 五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)が生まれました。
スサノオの十拳剣からうまれた三柱の女神はスサノオの子、天照大神のみすまるの珠からうまれた五柱の男神は天照大神の子とされました。
スサノオは「私の心に邪心がないので、私の産んだ子は女神だったのです。」といいました。


ここに「物実(ものざね)」という言葉が出てきますが、物実とは「物事のもとになるもの」を意味します。

そして天照大神が産んだ子は、スサノオの十拳剣から生まれたので、スサノオの子、
スサノオが産んだ子は、天照大神のみすまるの珠から生まれたので、天照大神の子としたというのですね。

コンパスは伏儀の物実、直角定規は女媧の物実であり、伏儀と女媧は夫婦神なので、相手の物実を持っているのかもしれません。

●多宝塔は男女和合を表している?

方が女性、円が男性であれ、方が男性で円が女性であれ、多宝塔の形・・・方と円が重なっているのは、男女和合を示すものではないかと思ったりします。

このブログで何度も書いているんですが(しつこいとか言わないでね~)
神はその現れ方で御霊・和魂・荒魂に分けられるとされ、女神は和魂、男神は荒魂であるとする説があります。

御魂・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


そして明治に神仏分離令が出されるまで、神仏は習合して信仰されていました。

多宝塔は男神と女神の和合をあらわす塔なのではないでしょうか?

またウィキペディアには次のように書いてあります。
「多宝塔は、「法華経」見宝塔品第十一に出てくるもので、釈迦が霊鷲山で法華経を説法していると多宝如来の塔が湧出し、中にいた多宝如来が釈迦を讃嘆し半座を空け、二如来が並座したとされることに由来する。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%AE%9D%E5%A1%94#.E5.A4.9A.E5.AE.9D.E5.A1.94.E3.81.AE.E5.87.BA.E5.85.B8 より引用

みほとけに性別はないといわれますが、釈迦は男性なので、多宝如来って女性なのでは?
そして釈迦と多宝如来が並座したとは、釈迦と多宝如来が和合したということを意味していたりして?


勝鬘院は愛染堂ともよばれ愛染明王をおまつりしていますが、愛染明王は男女和合・恋愛成就にご利益があるとされています。
そう考えると、勝鬘院と多宝塔の組み合わせはぴったりだと思えるんですが、とんでもですか?

口縄坂 夜景2 

愛染堂より徒歩10分ほどのところにある口縄坂

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[2016/06/23 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 紫陽花 一心寺 ジャカランタ 『ミシャグジ神の正体は物部守屋だった?』 

大阪市天王寺区 四天王寺・一心寺
撮影 2016年6月19日


 
四天王寺の境内をぶらぶらお散歩。

四天王寺 紫陽花 


●四天王寺は物部守屋の土地と奴婢をもちいて建立された。


587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争がありました。
聖徳太子は蘇我馬子側に参戦していました。
戦争は蘇我馬子が勝利し、聖徳太子は物部守屋の土地と奴婢をもちいて四天王寺を建立したのです。
 
四天王寺 咳の地蔵尊 
●四天王寺のミシャグジ神?


おや?「咳の地蔵尊」と書いてありますね。
これはもしかして、ミシャグジ神では?

多賀大社 桜 『お多賀杓子とミシャグジ』 
↑ こちらの記事に書いたんですが

名古屋市南区の石神社ではミシャグジという神様に杓子を奉納する習慣があります。同様の信仰は各地にあるようです。

横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されています。

そこで私はミシャグジ神とは石の神であり(石神社がミシャグジとして信仰されているところから)、石→セキ→咳と言う語呂合わせから咳の神に転じたのではないかと推理しました。

四天王寺  亀の池

●石上神宮は石神(ミシャグジ)?


先ほども述べたように、四天王寺は物部守屋の土地と奴婢を用いて建立した寺です。
この辺りはもともとは物部氏の土地であったのでしょう。

奈良県天理市にある石上神宮は物部氏が祭祀する神社でした。
あれっ? もしかして石上神宮の石上とは「石神」が転じたもので、ミシャグジとは物部氏の神様なんじゃないの?
 
四天王寺 中門 
●洩矢神=ミシャグジ=物部守屋?

長野県諏訪地方では洩矢神(もりやしん、もれやしん)が厚く信仰され、ミシャグジ神と同一視されることもあるそうです。
洩矢と守屋って発音がいっしょやん?

で、この洩矢神後裔が守矢氏で、代々諏訪大社の神長官を務めてきたというんですね~。
そしてこの守矢氏が守ってきた「七本の峯のたたえ」はミシャグジ神が降りる木だと言われているそうです。

「七本の峯のたたえ」とは何のことなのか、よくわからないのですが(汗~)
http://www.toho-motoneta.net/index.php?%B1%CC%CC%F0%BF%DB%CB%AC%BB%D2%2F%C5%DA%C3%E5%BF%C0%A1%D6%BC%B7%A4%C4%A4%CE%C0%D0%A4%C8%BC%B7%A4%C4%A4%CE%CC%DA%A1%D7
↑ こちらのサイトに次のような内容が記されたサイトがありました。

諏訪七木(すわしちぼく)

①桜湛(さくらたたえ)
②真弓湛(まゆみたたえ)・・・檀(まゆみ)。
③峯湛(みねのたたえ)・・・峰タタイノ木。樹齢200年程のイヌザクラが現在は峯湛の木とされている。現存している。
④檜湛(ひくさたたえ) ・・・干草タタイノ木。
⑤松木湛(まつのきたたえ)
⑥橡木湛(とちのきたたえ) ・・・栃の木。
⑦柳湛(やなぎたたえ)


 諏訪大社上社の御神体は‘守屋’山とされているそうですが、守屋山って物部守屋と同じ名前ですよね。

さらに諏訪大社上社の南西6kmほどの場所には守屋神社があり、物部守屋を祀っています。
そして諏訪大社上社の御神体・守屋山に頂上にある磐座は守屋神社の奥宮ともされているのです。

守屋神社では諏訪大社との関係は否定されているそうですが、私には関係がありそうに思えるなあー。

つまり、次のように推測するわけです。
①守屋山の頂上にある磐座に降臨する神=洩矢神=ミシャグジ神物部守屋の霊
②守屋山を御神体とする諏訪大社上社=物部守屋を祀る神社
③代々諏訪大社の神長官を務めた守矢氏=洩矢神の後裔=物部守屋の後裔

四天王寺の境内には守屋祠もあります。

もりやほこら 

そこで、さらに次のように推測します。

④四天王寺は守屋の霊を慰霊するための寺であり、守屋に対する信仰があった。
⑤①で説明したように、洩矢神=ミシャグジ神物部守屋の霊だと考えられる。
⑥四天王寺にはかつてミシャグジ神に対する信仰があったが、なんらかの理由で咳の地蔵尊におきかえられた。

●一心寺にもミシャグジ神が鎮座していた?


四天王寺からとことこと歩いて数分、一心寺にやってきました。

一心寺は1185年に四天王寺の別当・慈円の要請を受けて法然が草庵を結んだのが始まりとされます。
一心寺は四天王寺と関係の深いお寺なんですね。

このあたりは大阪の陣の舞台となったところで、大阪夏の陣・天王寺・岡山の戦いで討ち死にした本多忠朝の墓があります。
 
一心寺 本田忠朝の墓 ジャカランタ3

本多忠朝の墓(上の写真の五輪塔)の周囲にはジャカランダの花が咲いていました。
きれいだと思ったけど、最盛期には紫色の桜のようにぎっしり花がつくみたいですね。
来年はジャカランダの最盛期に参拝したいです。

えーー、本多忠朝はお酒が大好きで、そのため冬の陣では負けてしまい、家康にこっぴどく叱られたそうです。
それで名誉挽回とばかりに夏の陣では頑張ったのですが、討ち死にし 死ぬ間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれています。
史実ではなく、伝説じゃないかと思いますが。

そんなわけで本多忠朝の墓は「酒封じの神」として信仰され、禁酒祈願に訪れる人が大勢いるとのことです。

一心寺 本田忠朝の墓 ジャカランタ

その本多忠朝の墓所に、たくさんのしゃもじが奉納されていました。
おお、これもまさしく「ミシャグジ神」に対する信仰です。

本多忠朝の墓は大きな石の五輪塔なので、石神として信仰され、そのためしゃもじを奉納する習慣が生じたのではないでしょうか?

また四天王寺にはミシャグジの信仰があったと推測されるので、四天王寺と関係の深い一心寺でもミシャグジが信仰されるよういなったのかもしれません。

いやまて、本多氏と本田氏はもともと同族であったともいうし、もしかしたら本田善光と関係があるのかも?

本田善光は物部守屋が難波の堀江に流した仏像を持ち帰り、善光寺に祀ったとされる人物です。

宮元 健次さんが、『善光寺の謎 (祥伝社黄金文庫)』という本の中で次のような意味のことを書いておられるそうです。

①善光寺内陣に守屋柱と呼ばれている柱がある。
②戒壇めぐりを行うことは、守屋柱を一周し、錠(独鈷)によって守屋柱に宿る守屋の霊を封じることである。
③善光寺は物部守屋を慰霊するための寺である。
(参照/善光寺 門前町 ライトアップ 『善光寺は物部守屋を慰霊する寺だった?』 

もしかして本田善光とは物部氏であり、本多氏の祖も物部氏だったりして?


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[2016/06/21 00:08] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

水月公園 花菖蒲 『こうもりの形をしたあずまや』  


大阪府池田市 水月公園
撮影 2011年6月11日


水月公園 花菖蒲


●蘇州より贈られたあずまや 

大阪府池田市と中国蘇州市は友好都市を締結している関係から、蘇州市より池田市に斉芳亭が贈られました。

蘇州市には明・秦時代の古い庭園があり、蘇州古典園林と呼ばれています。
斉芳亭は蘇州古典園林のひとつ、拙政園の六角亭をモデルに作られたものだそうです。

●こうもりを表す瓦

蘇州古典園林に留園という庭園もあり、可亭というあずまやがあります。
斉芳亭はこの可亭にも似ています。

可亭の屋根の軒先には丸みを帯びた逆三角形の瓦が飾られているそうですが、この瓦は蝙蝠(こうもり)を表すものなのだとか。
(蝙蝠→
蝙蝠の翼は三角形を連ねたような形をしていますね。
で、止まるときには逆さになっているので、逆三角形なのかも?

実際に可亭を見たことがないので、どんな瓦なのかわからないのですが、斉芳亭の屋根にも丸みを帯びた逆三角形の瓦が使われています。

また斉芳亭の屋根の形そのものも、蝙蝠を思わせる形のようだと思いませんか?→

水月公園 花菖蒲2


●中国ではこうもりは縁起がいいものとされていた。

日本では蝙蝠は気味が悪いものというイメージが強いですが、中国では「ピェンフー」と発音し、「フー」とは福のことなので、縁起がいいものだとされています。
百年以上生きたネズミがコウモリになるともいわれ、長寿のシンボルでもあります。

中国では卍(まんじ)や桃をくわえた蝙蝠の絵が描かれることがありました。
卍は万と同じ音なので、蝙蝠が卍をくわえると『万福』、桃は寿のシンボルなので蝙蝠が桃をくわえるとは『寿福』の意味なのだそうです。

そういえば斉芳亭の屋根の下の部分のデザインは卍になっています。
またよく見えなかったのですが、逆三角形の瓦には寿の文字が書いてあるそうです。 

水月公園 説明 


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[2016/06/14 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 花水木 『六本指の秀吉が指を切断しなかった理由』  

大阪市中央区 大阪城
撮影 2013年4月18日


大阪城 花水木 白

●秀吉は六本指だった

太閤さん(豊臣秀吉)の城として大坂人に愛されている大阪城。

以前の記事、大阪城 桜 『豊臣秀吉は六本指でバセドウ病だった?』  で豊臣秀吉は六本指(多指症)だったと書きました。
これはルイス・フロイスの『日本史』や前田利家の『国租遺言』に記されていることなので、たぶん事実ではないかと思います。
多指症は結構多く、秀吉の時代、多指症は幼いうちに切断していたようです。
しかし秀吉は指を切断することはせず、天下人になるまで六本指であることを隠しもしなかったということです。

●織田信長が秀吉を気に入っていた理由

そんな秀吉が仕えていたのが織田信長です。
秀吉は信長の草履を懐にいれて温めるなど、細やかな気配りができる人物であり信長は大変秀吉を気に入っていたようです。

ですが、信長が秀吉を気に入っていたのは気配りができるというほかに、秀吉が6本指だったこともあるのではないかと思ったりします。

ルイス・フロイスが書いた書簡の中に「織田信長は第六天魔王と称した。」と記されています。

第六天魔王とは仏教の修行を妨げる悪魔のことです。
なるほど、信長は多くの寺や仏像を破壊し、多くの僧侶を殺害した信長に、第六天魔はぴったりなニックネームだと思います。

第六天魔王について、もう少し詳しく調べてみました。

仏教には六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)や十界(六道の上に声聞界・緑覚界・菩薩界・仏界をくわえたもの)という世界観があります。


上から順に並べてみましょう。
仏界ー菩薩界ー緑覚界ー声聞界ー天上界ー人間界ー修羅界ー畜生界ー餓鬼界ー地獄界
ピンク色文字が六界、六界に青色文字を加えたものが十界

十界のうち、人間界から地獄界までを俗界といいます。


仏界ー菩薩界ー緑覚界ー声聞界ー天上界ー人間界ー修羅界ー畜生界ー餓鬼界ー地獄界
ピンク色文字が俗界

ですが、天上界はさらにいくつもの段階に分かれ、下部の六つの天(他下自在天・仏楽天・兜率天・忉利天・夜摩天・四天王衆天)は俗界に含まれます。


この六つの天の中の最上位、他下自在天のことを第六天といい、信長はその第六天に住む魔王であると称したわけです。

そういうわけで、信長は六という数字が気に入っており、六本の指を持つ秀吉を気に入ったのではないかと思います。
もしかすると、秀吉は信長が六という数字が好きだと察して、指を切断しなかったのかも?


大阪城 花水木 赤  
しかし天下人となった秀吉の肖像画は、右手の親指(秀吉は親指が2本あった)は隠すように描かれています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toyotomi_hideyoshi.jpg

天下人となった秀吉はなぜ急に六本指を隠すようになったのでしょうか。
もしかして、第六天魔王を称した信長より自分は上位の天の王である、ということを示したかったのかも?

造幣局 桜 

大阪城へ行った帰りは造幣局の通り抜けへ。




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[2016/04/18 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 桜 『豊臣秀吉は六本指でバセドウ病だった?』 

大阪市中央区 大阪城
撮影 2013年4月3日

桜ほど美しい花はないけど、桜ほど撮るのがむつかしい花はないね~(とほほ~)

大阪城 しだれ桜 

●豊臣秀吉は六本指だった

太閤さんの寺として大阪市民に親しまれている大阪城です。
(とはいうものの、現在の遺構はほとんど徳川氏によるものなんですが)

今、井上慶雪さんの「本能寺の変 88の謎/祥伝社黄金文庫)を読んでいます。
それで知ったのですが豊臣秀吉って右手が六本指だったそうですね。
ウィキペディアにも記されていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89#.E5.AE.B9.E5.A7.BF

これはトンデモ説でもなんでもなく、フロイスの『日本史』や前田利家の『国租遺言』に記されているとのことです。
親指が2本あって織田信長には「六ツめ」と呼ばれていたそうですが、天下人になるまで隠しもしなかったそうです。

秀吉のことは別に好きでも嫌いでもありませんが、六本指を隠さず堂々としている点はいいですね。

私も生まれつき手の指が曲がっています。
幼いころはじゃんけんでチョキとかパーを出すと驚かれるので嫌でしたが、いつのころからか気にならなくなりました(笑)。

調べてみたら結構、多指症の人って多いんですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%8C%87%E7%97%87
http://matome.naver.jp/odai/2141934471676391101
http://jp.reuters.com/article/brazil-6-finger-family-idJPKBN0EY0FW20140623
みなさん、堂々としていてかっこいいです!

大阪城 桜


●豊臣秀吉はバセドウ病だった?


さてフロイスの「日本史」には豊臣秀吉の容姿について、次のようなことも書かれているそうです。
「目が飛び出しており、シナ人のようにヒゲが少なかった。」

目が飛び出すというのは、バセドウ病の症状ですが・・・・。

秀吉はヒゲが少なかったそうですが、こんな風に記されたサイトがありました。

一部の男性では、精子数の減少が起こり、そのため不妊となる場合もあります。若い思春期の男性が甲状腺機能亢進症になった場合、正常な思春期の発達が遅れることがあります。ひげや恥毛が生えてこなかったり、性器が大きくならないこともあります。
http://www.j-tajiri.or.jp/book/c/c08/より引用

ウィキペディア「甲状腺機能亢進症」には次のように記されています。

甲状腺機能亢進症(こうじょうせんきのうこうしんしょう)とは、甲状腺内組織の活動が異常に活発になることにより、トリヨードサイロニン(T3)又はサイロキシン(T4)、或いは両方の甲状腺ホルモンの分泌量(活性)が過剰になる疾患である。

甲状腺機能亢進症の原因として多いのはバセドウ病である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%8A%B6%E8%85%BA%E6%A9%9F%E8%83%BD%E4%BA%A2%E9%80%B2%E7%97%87より引用

そういえば秀吉は女好きだったのに、子宝に恵まれませんでした。
茶々が鶴松・秀頼という子供を産んでいますが、服部英雄氏は「秀頼受胎時、秀吉は名護屋にいたので秀頼の父親は秀吉ではない」との説を説いておられるそうです。

大阪城 大川より 桜

秀吉はバセドウ病だったのかも?



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



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[2016/04/12 00:44] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

願昭寺 紅葉 『目白不動と五色不動』 

大阪府富田林市 願昭寺
2015年12月14日 撮影

願昭寺 紅葉 
ずっとこの塔は滝谷不動の塔だろう、と勝手に思い込んでいたのですが~
滝谷不動のHPを見ると多宝塔はあっても五重塔または三重塔はありませんでした~!
(おっちょこちょいにも程がある~)
どうやら、この塔は願昭寺の五重塔のようです。

願昭寺は真言宗系の新宗教・八宗兼学真修教(はっしゅうけんがくしんしゅうきょう)の大本山なのだそうです。
昭和27年に開山したそうですよ。

ウィキペディアには次のように記されています。

八宗兼学とは、特定の宗旨宗派に偏しない教えで、釈迦如来の教えを八宗の教義を基として兼修することを意味する。八宗とは、わが国古代仏教諸宗の南都六宗と天台宗・真言宗の八宗のことを指す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%98%E6%98%AD%E5%AF%BA#.E6.A6.82.E8.A6.81より引用
※南都六宗・・・三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗・律宗

願昭寺は別名を目白不動といい、目白不動尊を御本尊としています。

東京には目白のほか、目黒・目黄・目赤・目青不動もあって五色不動と総称されています。
江戸幕府三代将軍・家光が天海僧正のアイデアをとりいれ、江戸城の周囲に五か所の不動尊をおいたのが、五色不動とされます。

ウィキペディアには次のように記されています。
「5色となっているのは五行思想の五色(ごしき)からと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E4%B8%8D%E5%8B%95#.E4.BC.9D.E8.AA.AC
五行説では万物は木火土金水よりなると考え、木は青、火は赤、土は黄、金は白、水は黒であらわされます。

しかし、http://www.tokyo-kurenaidan.com/gosgiki.htm←こちらのページには次のように説明されています。
「宇宙のすべての現象は、地、水、火、風、空の五つからなるとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色といわれます。」
http://www.tokyo-kurenaidan.com/gosgiki.htmより引用。

こちらの五色は仏教で万物を形成するとされる五つの元素・地水火風空のことでしょう。

五行説の五色なのか、仏教の五色なのか、どちらなんでしょうか?

また五行説では木(青)は東、火(赤)は南、土(黄)は中央、金(白)は西、水(黒)は北を表すとされます。
仏教(真言密教・不空伝)の五色では、青が東、赤が南、黄が中央、白が西、黒が北で五行説と同じです。
仏教(真言密教・善無畏伝)では黄が東、赤が南、青が中央、白が西、黒が北で、黄と青が入れ替わっています。

http://www.tokyo-kurenaidan.com/gosgiki.htm
上記サイトの下のほうに五不動の位置を示した地図が掲載されています。
『東京』という文字のあるあたりが江戸城(皇居)です。
目黒が南、目赤が北にあるなど、五色に基づいた配置にはなっていないようです?

それはさておき、願昭寺はなぜ目白不動を御本尊としたのでしょうか?
関西にある寺なので西=白、ということなんでしょうか?
目黒・目黄・目赤・目青不動もあるのでしょうか?

今回は遠くから伽藍を眺めただけなので、近いうちに参拝したいと思います。
そうするとなにかわかるかも。

願昭寺 紅葉2 
塔百景65

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[2015/12/17 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

枚方宿 菊 淀川 夕景 『9月9日はなぜ菊の節句とされたのか』 

枚方宿
撮影 2015年11月5日

枚方宿 菊 


枚方駅を下車し、西へ向かって歩いていくとビオルネがあります。
ビオルネからさらに西へ向かうと突然江戸時代にタイムスリップ!


ここは江戸時代に枚方宿という宿場町だったところです。
街道沿いの家々には菊の花が飾られていました。

菊は枚方市の市花とされています。
2005年まで枚方パークで菊人形展が行われていたことに由来するのでしょうか。

枚方宿 菊2 
 

菊人形は江戸時代松から明治にかけ、東京本郷の団子坂で園芸業者によって行われるようになったとされます。
その後、団子坂では廃れますが、福島県・山形県などで菊人形展が行われるようになりました。
大阪では京阪電気鉄道が枚方パークで毎年秋に菊人形展を開くようになりました。
2005年で終了となりましたが~。

枚方宿 鍵屋 菊


菊人形はかつて9月9日の重陽の節句を盛大に祝っていたことの名残だとされます。

奇数は陽の数字、偶数は陰の数字とされ、同じ奇数が月と日で重なる日(3月3日、5月5日、7月7日。1月1日は元旦と重なるので1月7日とされたようです。)は節句として祝う行事が行われていました。
(もともとは避邪の行事であったとされていますが)

9はひとけたの陽の数字としては最大の数字なので「重陽の節句」といわれました。

五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)はそれぞれ植物と結び付けられて行事が行われました。

1月7日・・・七草の節句
3月3日・・・桃の節句
5月5日・・・菖蒲の節句
7月7日・・・笹の節句
9月9日・・・菊の節句

枚方宿 鍵屋 菊2


旧暦の節句のころに見頃になる植物ということなのでしょうが、それだけでなく、謎かけになっているのかもしれません。
例えば9月9日は九九(クク)なのでキクの節句になったのではないかなあ、と思ったりするのです。

白山神社の御祭神とされている菊理媛は「キクリヒメ」のほか「ククリヒメ」とも読まれています
菊は「くく」とも読まれていたのですね。

じゃあ、ほかのはどうなんだ、と言われれば、うーん?わからないです・・・(汗)。

枚方宿は淀川の堤の上に作られており、陸運だけでなく水運も盛んでした。
三十石船に「くらわんか舟」が近寄って飲食物を売っていたとか。

くらわんか舟と言われるのは「飯食らわんか、飯食う金もないのか」と高飛車な態度で飲食物を売っていたことに由来します。
私だったら、こんなこと言われたら絶対買わないです・・・。

淀川 夕景 

毎度、とんでも説にお付き合い下さりありがとうございました!



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[2015/11/10 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

枚方市穂谷 コスモス 『そうめんは天の川を模したものだった?』 

穂谷 稲穂 

枚方市穂谷の休耕田にパステルカラーのコスモスが揺れていました。

穂谷 コスモス

穂谷では江戸時代よりそうめん作りが盛んで、現在でもは3件の家でそうめんが作られているそうです。
11月から3月ごろにかけて、庭先にそうめんを干す風景が見られるとのことです。
こちらもぜひ見に行ってみたいです。

しもがもじんじゃ みたらしまつり おそなえ

↑ 上の写真は京都・下鴨神社の御手洗祭のお供えです。
御手洗団子とそうめんがお供えされています。

御手洗祭りは『土用の丑』の行事ですが、『土用の丑』とは何なのでしょうか。

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水とされています。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいます。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。

陰陽五行説には『相生説』と『相克説』があります。

『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説です。

『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説のことです。

『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

『土用の丑』の習慣については、様々な説がありますが、『水剋火』、すなわち夏の火性を冬の水性で緩和しようとするのが『土用の丑』の習慣だと考えてまず間違いないと思います。

『土用の丑』には鰻を食べる習慣がありますが、本来、鰻の旬は冬なのです。
そのため経営不振に陥った鰻屋に、平賀源内が『本日、土用の丑』と書いた紙を店先に貼るようにアドバイスしたというエピソードは有名ですね。
その結果、鰻は飛ぶように売れたということです。
本来、冬の食べ物である鰻を夏に食べるということは、夏の火性を冬の水性で緩和することだといえるでしょう。
平賀源内のキャッチコピーは当時の人々に陰陽五行説の『水剋火』を思い起こさせる効果があったということだと思います。 

ということは、下鴨神社のみたらし祭も夏の火性を冬の水性で緩和する目的で行われるものなのでしょう。
私は神前に供えられたみたらし団子はみたらし星を模したものではないかと思います。

みたらし星とは冬の星座であるオリオン座の三ツ星のことです。
みたらし団子は5本串にさされていて、3つではありません。
しかし、オリオン座の三ツ星の傍には小さい星があって、本当は三つ星ではなく四つ星なのです。
大阪の住吉大社の社はこの三ツ星を模した配置になっていると言われています。
(参照/住吉大社 住吉祭 『住吉大社とみたらし星』 


住吉大社 社のレイアウト 

みたらし団子にうついて、次のような伝説があります。

「 後醍醐天皇が、下鴨神社の境内の御手洗池で水をすくうと、泡が1つ浮き上がりました。
その後、しばらくして4つの泡が浮き上がってきました。
みたらし団子はこの水玉を模したもので、 一番上の団子は人間の頭を、他の四つは体を現しているといわれます。」

みたらし団子の伝説の、あとで浮き上がってきた四つの泡はみたらし星をあらわしているのではないかと思います。
 先に浮き上がってきた泡が何を表しているのかについてはよくわかりません・・・(汗)

そしてこれが肝心なのですが、オリオン座は冬の星座で、陰陽五行説では水性になります。
このオリオン座の三つ星を模したみたらし団子を食べることで、夏の火性を緩和しようとするのが『みたらし祭』の意味だと思います。

足を水につけるのは、足と書いて『たらし』とよみ、『みたらし星』と音が通じるからではないかと思います。

みたらし団子がみたらし星を模したものであるならば、そうめんは天の川を模したものではないでしょうか。
http://ryutao.main.jp/film_fuyuno.html

そこで枚方市の穂谷の話に戻りますが、このあたりはかつて肩野物部氏の本拠地だったところです。
天の川伝説発祥の地ともいわれ、その名もずばり天野川と呼ばれる川が流れ、天野川をはさんで織女星(ベガ)を模した機物神社と牽牛星(アルタイル)を模した中山観音寺が対峙しています。

また星田、星が丘など星の字のつく地名が多く、交野市の磐船神社の御祭神で物部氏の祖神・ニギハヤヒは雲陽誌という書物に星の神だと記されています。

穂谷の人々がそうめん作りを始めたのは、そうめんに適した気候ということもあるでしょうが
近くを流れる天野川にちなんで、ということだったのかも?

穂谷 紅葉 
穂谷では紅葉が始まっていました。



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[2015/10/24 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

市民ふれあいの里 タイワンリス 『リスの木食修行?』 

タイワンリス

タイワンリスを見ていたら、ロシア民謡の「黒い瞳」を思い出しました。
プルシェンコの「黒い瞳」もよかったなあ~。

タイワンリス 子供から餌をもらう 
こんなにかわいいリスですが、「リスは魔物である」という伝説があります。
といっても、タイワンリスはもともと日本に住んでいなかったので、魔物とされたのはニホンリスだと思いますが。

リスを一匹殺すと無数のリスが現れるというのです。
リスが修験道の山伏になって現れ占いをするという伝説もあります。

タイワンリス 壁にはりつく

なんでリスが山伏なんでしょうか?

タイワンリス 木の実を食べる 

前脚で木の実を持って食べるリス。

タイワンリス 木をかじる

この子は木の枝をかじっているのかな。

リスの門歯は人間の爪や髪の毛のように伸び続けるそうです。
そのため木など硬いものをかじって歯をすり減らしているのだとか。

巣箱や木の枝などには、リスがかじって凹んだところがたくさんありました。

木食といって、五穀を絶ち、木の実や木の皮、草を食べるという修験道の行があります。
リスは木の実を食べたり、木をかじったりするところから、木食を行う修験道の山伏に喩えられたのではないでしょうか。

即身仏となるためにも木食は行われました。
木食を行って体脂肪を減らすと死後腐りにくい体になるためです。

しかし高温多湿の日本では即身仏となることは難しく、入定した多くの行者の死体は腐ってしまったようです。

即身仏のメッカといえば山形県の湯殿山ですが、この地域の土壌は水銀濃度が高いのだそうです。
水銀には防腐作用があります。
そのためこの地域の木の実や木の皮、草などを食べると水銀が体内にたまって死後腐りにくい体になったと言われています。

一度即身仏を参拝したいです。

たいわんりす 眠そう 

お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったよ~。

市民ふれあいの里・・・大阪狭山市東野東1-32-2 


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[2015/09/20 00:52] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

玉出のだいがく 『だいがくは玉出の天神祭?』 



7月24日、25日は天神祭ですが、同じ日、大阪市西成区玉出の生根神社では「玉出のだいがく」が行われます。

gifアニメを作ってみました。

玉出のだいがく

http://www.bannerkoubou.com/anime/  ← こちらのサイトですごく簡単に作れました!
ちょっと建物動いたり、後ろの木が突然明るくなったりしていますが~(汗)
自動で位置あわせができるともっといいけど、タダでこんなのが作れるってちょっと嬉しい♪

天神祭は菅原道真を祀る大阪天満宮の祭礼です。
道真の命日は旧暦2月25日なので、天満宮の縁日は25日とされています。
天神祭の本宮が7月25日なのはそのためです。

生根神社では明治初年に筑前天満宮を合祀しており、主祭神は少彦名命・蛭児命・菅原道真です。
玉出のだいがくが天神祭と同じ日なのは、玉出のだいがくが道真を慰霊するお祭りだからなのかもしれませんね。

玉出のだいがく

たくさんの提灯をつるした大きな立て物がだいがくです。
だいがくは台楽または台額と記されますが、語源は不明です。

旧暦が用いられていた時代には天神祭は6月25日に行われていました。
生根神社の祭礼はどうだったんでしょうか。
kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstre...
↑ こちらのサイトによると、現在7月に行われている祭は旧暦6月に行われていた夏祭りであるとし、生根神社の玉出のだいがくにも触れられています。
どうやら玉出のだいがくも旧暦では6月25日に行われていたっぽいですね。

玉出のだいがく2

旧暦7月は新暦換算すると8月です。
旧暦7月1日は釜蓋朔日といいお盆のシーズンの始まりでした。
7月7日の七夕はお盆の入りの行事だったのです。
さきほど天神祭についてお話しましたが、古くは7月7日に船渡御が行われていたそうです。
天神祭はお盆の行事であったのかも。
すると天神さん(菅原道真)の縁日に行われている玉出のだいがくもお盆の行事だったのかもしれませんね。
たくさんの提灯の灯りは迎え火の意味合いがあるのだったりして。



生根神社・・・大阪市西成区玉出西二丁目1 
玉出のだいがく・・・7月24日・25日


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[2015/07/30 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪国際空港 夕景 『空港敷地内に多数の飛び地がある理由』 

モリタさんに撮影地などいろいろ教えてもらって(まねっこして・・・汗)大阪国際空港に飛行機を撮りにいきました。
モリタさあーん、ありがとう~。
モリタさんの情感あふれる飛行機の写真はこちらです。 → しょうもないブログ(おもしろいブログです♡)

大阪国際空港 夕陽5

ジェット機 ↓
大阪国際空港 夕陽

大阪国際空港という名称ですが、騒音問題などがあって現在は国内便のみで、敷地は大阪府池田市・大阪府豊中市・兵庫県伊丹市にまたがっています。

プロペラ機 ↓
大阪国際空港 夕陽4

大阪国際空港内には豊中市・伊丹市・池田市それぞれの飛び地が6カ所あります。

さらにこの池田市の飛び地の中に豊中市の飛び地があり二重飛び地となっているところも。
そしてこれらの飛び地の境界は直線で構成される多角形になっています。
http://ratio.sakura.ne.jp/uploads/2011/11/20111113nikkei.jpg

2011年11月13日の日本経済新聞に『大阪・伊丹空港、飛び地また飛び地の謎。(大阪社会部 舩越純一)』という記事が掲載されました。
その記事には次のような内容が記されていました。

①飛び地の境界が直線になっているのは奈良期の条里制の名残ではないか。(伊丹市立博物館館長・小長谷正治氏談)

https://www.google.co.jp/maps/@34.7841092,135.440327,5409m/data=!3m1!1e3
上は大阪国際空港の航空図ですが、土地が升目状に区切られているのがわかりますね。

②「享保16年小坂田村絵図」の伊丹市ゆかりの貴人の墓所が、現在の伊丹市の飛び地になっている。
享保16年は1731年なのでら、280年前から飛び地が存在していた。
http://ratio.sakura.ne.jp/uploads/2011/11/20111113nikkei.jpg

③明治初期、ターミナルビル近辺には北今在家村や小阪田村など村が5つほどあったが、段階的に現在の3市に集約された。
空港拡張工事が進む中、1967年に3市は飛び地の境界線を画定させた。

④ 江戸期、一帯に似た名称の村が多数あり、それらが合併を重ねた。
似た名称の村が近接して存在した理由は、太閤検地の際に徴税しやすくしようと、大きな村を細かく分割したのが原因ではないか。
別の村となったところに自分の田畑があり、飛び地として代々引き継いだのではないか。(大阪大学教授・村田路人氏談)

大阪国際空港 夕陽6

↑ 東の空も夕焼けで染まりました。


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[2015/07/26 12:50] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

成田山大阪別院明王院 夕景 『成田山不動院と京阪電車』 




大阪府寝屋川市にある成田山大阪別院明王院(成田山不動院)の山門の向うに、夕日が沈んでいきました。

成田山 門 木漏れ日


平安時代、平将門は東国に独立国をつくって新皇を名乗りました。
朝廷は寛朝(将門討伐のために藤原秀郷・平貞盛らを東国へ派遣します。(平将門の乱)
また寛朝(かんちょう)大僧正が都から大阪へ向かい、さらに大阪から船で関東へと向かっています。
寛朝は空海が開眼した不動明王を持参し、護摩法を行って平将門の乱を鎮圧したとされます。
実際に乱を平定したのは藤原秀郷・平貞盛らなのですが、古には乱の平定は神仏の御加護を得たものであると考えられたのでしょう。
乱が鎮圧されたので寛朝は都へ戻ろうとしましたが不動明王は動かず、寛朝にこの地にとどまるようにとお告げしました。
こうして成田山新勝寺(千葉県成田市)が創建されました。

成田山 鐘楼 夕焼け 
↑ 鐘楼

成田山 本堂 夕焼け 
↑ 本堂

成田山 太子堂 夕焼け 
↑ 太子堂

成田山新勝寺は関西の人々からも厚く信仰されていました。
大正時代には千日前に成田山不動堂があったそうです。
昭和9年、京阪電気鉄道株式会社が香里遊園地跡地の土地を一部の寄進し、成田山大阪別院明王院(成田山不動尊)が創建されました。

京阪電車の車内に成田山のお札が掛けられているのはこのためだったんですね~。


成田山 祈祷殿 
↑ 上の写真の向かって左は祈祷殿、向かって右は茶室菅相庵です。

成田山不動院は日本で初めて自動車の祈祷殿を設けました。
現在では自動車の交通安全祈願に訪れる人が多いです。

成田山 山門 夕焼け

↑ 山門

大阪府寝屋川市成田西町10-1


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[2015/07/05 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

池田城 百合 『池田勝正が罰せられなかった理由』 




池田城跡の百合が満開でした。(6月14日)

池田城 百合3

とてもきれいなんですが、ちょっと窮屈そう~。

池田城 百合2   

↑ 池田城跡に建てられた模擬天守です。
でも、池田城はこのような天守を持つ城ではなかったようで、模擬天守内に展示されていた再現図には平屋建ての切妻屋根の建物が描かれていました。

池田城の築城年代ははっきりとはわかっていませんが、1336年の古文書に「池田城」とあり、このころ築かれたのではないかとする説があります。
代々、池田氏が城主を務めました。

以下、寝言だと思って読んでください~。(汗)

1568年、池田勝正は織田信長に抵抗し、池田城は織田軍の攻撃を受けて落城しました。

ところが信長は池田勝正を罰せず、それどころか加増されて領地安堵しています。
なんで信長は勝正を罰さなかったのでしょうか?

池田氏といえば、織田信長の乳母・養徳院の父は池田政秀、夫は池田恒利という人でした。
信長は養徳院を敬愛していたと伝わります。
養徳院は池田氏の女性だったわけですが、美濃池田氏で、摂津池田氏とは別です。

しかし遡っていくと全く関係がないわけでもないんですね。

源頼光(土蜘蛛退治をしたという伝説が残る人です。)の子孫・源頼政(鵺退治をしたという伝説が残る人です。)の弟・源仲光の曾孫(ややこしい~)の池田泰継の代に摂津池田氏と美濃池田氏に分かれたと言われているのです。

古いことなので事実かどうかわかりませんが、信長にはそういう認識があり、敬愛する養徳院の同族だということで罰しなかったなんてことがあるかも?ないかも?

池田城 百合

池田城跡公園・・・池田市城山町3-46

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[2015/06/27 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

城北公園 花菖蒲 鴨 『八咫烏(鴨建角身命)の正体』 


aunt carrotさん、暖かいメールをありがとうございました!
すぎょく、嬉しかったです~!!

城北公園 花菖蒲 鴨2

城北公園の花菖蒲園では鴨が気持ちよさそうに泳いでいました。

城北公園 花菖蒲

鴨という名前を持つ神様がいます。
鴨建角身命(かもたけつぬのみこと)といい、京都の下鴨神社に祭られている神様です。

↓ 下鴨神社

下鴨神社 蹴鞠始め

鴨建角身命は賀茂氏の始祖とされています。

初代神武天皇は日向に住んでいましたが、あまりに国の端であるということで東征し、機内入りをめざしました。
そして河内国へ上陸し、地元の豪族・ナガスネヒコの軍と戦いますが、敗れます。
そこで神武天皇はいったん南に迂回して紀州から上陸することにしました。
神武は熊野を北上しますが、この際、鴨建角身命が八咫烏となって現れ、神武天皇を道案内しました。

咫は大きさを示す単位で、八は一般には大きな数字を表すと考えられています。
八咫烏とは大きな烏という意味だとされています。

しかし梅原武さんは「八は復活する数字」だとし、「八角墳は死者の復活を願って作った古墳、八角堂は死者の復活を祈って作ったお堂のことではないか」とおっしゃっています。

そういえば、八咫鏡は天岩戸にこもった天照大神を復活させた鏡のことですね。

神武天皇を道案内したのは八咫烏ですが、神武の先祖にあたるニニギという神が高天原から葦原中国へ天下る際、猿田彦という神が道案内しています。

猿田彦は天狗の姿をしています。
そしてニニギを道案内した神なので、祭りの行列では先導役とされることが多いです。
↓ 下の写真は大阪市平野区杭全神社の平野夏祭の猿田彦神です。

平野夏祭 猿田彦と子供

猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記述があります。
これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命です。
天は高天原、国は葦原中國のことなので、「天照国照彦」とはまさしく「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味になります。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命という神名は先代旧事本紀の記述で、古事記や日本書紀では単に饒速日命(ニギハヤヒ)となっています。
この天照国照彦火明櫛玉饒速日命は男神で、本当の天照大神ではないかという説があります。
天岩戸にこもった天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味をもって天岩戸から出てきますが、女神のストリップダンスに興味を持つのは男神だ、というのです。

さらに天照国照彦火明櫛玉饒速日命は物部氏の祖神とされているので、初代神武以前に物部王朝があったとする説もあります。

猿田彦と八咫烏はどちらも天孫の道案内をしているところから、同一神ではないかと私は考えます。

八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多いです。
つまり、八咫烏とは復活した太陽神・ニギハヤヒなのではないかと思います。

神武以前に物部王朝があったとすれば、神武が初代天皇となったとき、物部王朝の王族は神武に服従するか、殺されるか、または未開の地へ逃げるなどしたことでしょう。
その物部王朝の祖神であるニギハヤヒ=猿田彦=八咫烏は神武に祟りこそすれ、神武の道案内などするはずがない、と思われるかもしれません。

しかしウィキペディアの祟り神の項目には次のように記されています。

「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。」

つまり、猿田彦や八咫烏とはニギハヤヒという祟り神を手厚く祀り上げることで、協力な守護神に転じさせた神のことではないかと私は考えています。

城北公園 花菖蒲 鴨

それにしても鴨建角身命は鴨なのに、なぜ烏に化身したんでしょうね?

城北公園・・・大阪市生江3-29


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[2015/06/25 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

千早赤坂村 棚田 夕景 『楠木正成は怨霊だった』 


 千早赤阪村 棚田

千早赤阪村の棚田に夕陽が沈んでいきました。

赤坂城跡

棚田のそばには「赤坂城跡」と記された石碑が建てられていました。
赤坂城とありますが、赤坂城と呼ばれる城は上赤坂城(千早赤阪村上赤阪)と下赤坂城(千早赤阪村森屋)がありました。
この石碑が建てられているのは下赤坂城があった場所です。
どちらの城も楠木正成が建てたものです。

1331年、後醍醐天皇は倒幕を志して笠置山で挙兵しました。
後醍醐天皇に加担した楠木正成はこの地に下赤坂城を築いて挙兵しましたが、にわかづくりの下赤坂城は落城してしましました。

正成は金剛山に潜伏し、下赤坂城を奪還しますが再び落城します。
その後、上赤坂城・千早城を本拠として楠木軍は幕府軍と戦い続けました。

1333年、鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇が建武の親政を行います。
楠木正成は後醍醐天皇の信任をえて建武の親政を支えました。
しかし不公平な恩賞に不満が出るなど建武の親政はうまくいきませんでした。
そんな中、足利尊氏が離反します。
後醍醐天皇は尊氏討伐を命じます。
1336年、尊氏は『摂津豊島河原の戦い』で新田軍に敗れ九州に下りますが、勢力を盛り返し光厳上皇を奉じてふたたび京に向かいます。
新田義貞・楠木正成の軍は『湊川の戦い』で尊氏軍と戦いますが敗れ、楠木正成と弟の正季とともに自害しました。

勝利した尊氏は室町鎌倉を開き、光厳上皇の兄の光明天皇が即位します。(北朝)
一方、後醍醐天皇は吉野に南朝を開きましたが、南朝はしだいに衰退し、1392年に南朝は解消されました。

南木神社 鬼瓦

上の写真は千早赤阪村にある建水分神社 の摂社・南木神社の鬼瓦ですが、武士の顔になっていますね。
平成16年に南木神社社殿改修工事を行っていますので、そのときに造られたものではないでしょうか。
南木神社は楠木正成をお祭りする神社なので、楠木正成の顔を鬼瓦にしたのだと思います。
創建は正成が亡くなった翌年の1337年です。
正成は湊川神社(神戸市中央区)の御祭神でもありますね。

古には神と怨霊は同義語であったといわれます。
怨霊が祟らないように祀ったのが神であるというのです。
正成は死後怨霊になったと考えられていたではないでしょうか。
太平記にも正成の怨霊が美女に化けて大森彦七盛長(湊川の戦いで足利側についていた武将)を襲ったという物語が記されているそうです。

ちはやあかさかむら ゆうけい 
 

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[2015/06/23 00:21] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)