四天王寺 紫陽花 『迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したものだった?』 


大阪市天王寺区 四天王寺
2017年6月13日 撮影


四天王寺 紫陽花2

①四天王寺は物部守屋の土地と奴婢をもちいて建立された。

587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争がありました。(丁末の乱)
聖徳太子は蘇我馬子側に参戦していました。
戦争は蘇我馬子が勝利し、聖徳太子は物部守屋の土地と奴婢をもちいて四天王寺を建立したのです。

もりやほこら

四天王寺の境内には守屋祠があり、物部守屋が祀られています。

②聖徳太子が中に隠れた木はなぜ椋の木なの?

聖徳太子は弓矢で射られそうになったとき、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。

大聖将軍寺 神妙椋樹 

大聖将軍寺 神妙椋樹

上の写真は大聖将軍寺(大阪府八尾市)の神妙椋樹です。
聖徳太子が椋の樹の中に隠れたという伝説をあらわしたものですね。

昔の人は現代人とはくらべものにならないくらい鋭い自然観察眼を持っていたと思います。

現代人は例えば「ひまわり」だったら、夏休みをイメージしたり、その黄色い色から元気のよさをイメージしたりするぐらいが限界です。

でも昔の人は違います。

なぜ、聖徳太子が椋の木に隠れたという伝説を作ったのか。
それは椋の木は樹洞ができやすいという性質があることを、知っていたからだと思います。

四天王寺 紫陽花4

②守屋はなぜ樹洞に隠れることができなかったのか。

一方、物部守屋は榎の木に登り指揮をしていたところを弓で射られて死亡したとされます。

http://www.jugemusha.com/jumoku-zz-enoki.htm(榎の写真が掲載されています。)

聖徳太子が中に隠れたという椋は榎に似ているので、椋榎とも呼ばれます。
姿形は似ていても、榎は樹洞ができにくいのではないかと思います。
(ウィキペディアには「椋は樹洞ができやすい」と説明がありますが、榎についてはそのような説明はありませんので)

そういうわけで、同じように弓矢で射られても、聖徳太子は近くにあったのが椋の木だったため樹洞の中に隠れることができ、守屋は榎に上っていたので樹洞がなく、中に隠れることができず死んでしまったという話が作られたのではないでしょうか。

四天王寺 紫陽花3

③迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したもの?

榎の木の上にいる守屋を弓で射たのは迹見赤檮(とみのいちい)だとされます。
迹見赤檮は彦人皇子または聖徳太子の舎人とされます。

でも、この迹見赤檮(とみのいちい)という名前は偽名っぽいなあ、と思います。

イチイという樹がありますね。

イチイは学名をtaxus cuspidataといいますが、taxusはギリシャ語で「弓」、 cuspidataは「急に尖った」という意味だそうです。
ヨーロッパではロングボウという弓をイチイの木で作るそうです。

イチイの木を用いると、張力がある強力な弓が作れるそうです。

日本では竹と木を組み合わせた複合弓のほか、丸木弓も用いられていたようです。
もしかしたら、イチイを用いた弓が作られていたのかもしれません。

迹見赤檮(とみのいちい)とは弓を擬人化したものなのかも?

四天王寺 紫陽花

④アイヌのイチイの弓

アイヌではイチイを使って弓を作っていたようです。

アイヌとは北海道・樺太・千島列島・カムチャッカ半島に住んでいた民族で、蝦夷(かつて関東・東北・北海道に住んでいた大和朝廷に従わない民)と関係があるのではないかとする説もあります。

また、物部氏の祖神・ニギハヤヒを神として奉じていたナガスネヒコ(別名トミヒコ)は、日向からやってきた神武に敗れ、
トミヒコの兄のアビヒコが東北に逃れたのが、蝦夷の安倍氏だともいわれます。

アイヌとは蝦夷であり、また神武や蘇我氏に敗れた物部氏だと考えるのは、あまりにトンデモかなあ?

迹見赤檮(とみのいちい)の迹見(とみ)とはナガスネヒコの別名・トミヒコからくるもので
アイヌであり、蝦夷であり、物部氏であるトミヒコの弓矢で、物部守屋は射られたということだったりして?

四天王寺 夕景 合成 




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[2017/06/22 10:56] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

一心寺 ジャカランダ 『後白河法皇は夕日の中に何を見たのか』 

大阪市天王寺区 一心寺
2017年6月13日 撮影

一心寺 ジャカランダ 
一心寺

①源空庵は日想観を修する草庵だった?


1185年春、浄土宗の開祖・法然は四天王寺西門の坂に源空庵という草庵を結びました。
法然がここに草庵を結んだのは、四天王寺別当・慈円の要請を受けたためで、これが一心寺の始まりだといいます。
その後、後白河法皇’(1127~1192)がここを訪れて法然とともに日想観を修したといいます。

 一心寺 仁王門

一心寺

日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法だということです。
極楽浄土は西方にあると考えられており、日想観はその極楽浄土を拝むという意味合いがあったのでしょう。

歌人の藤原家隆も1236年に病を患って出家し、このあたりに夕日庵を結んで日想感を行ったと伝えられます。
現在、夕日庵の跡地には家隆塚があります。

家隆塚  
家隆塚

ここから考えて、法然が結んだ源空庵は、日想観を修するための草庵であったと考えられます。

②かつて上町台地から海に沈む夕日が見えていた。

このあたりは上町台地と呼ばれる高台で、逢坂・愛染坂・口縄坂など多くの坂があります。

口縄坂 夜景

口縄坂

今これらの坂の上にたって西の方角を望むと、林立するビル群が見えるばかりで、海は全く見えません。
ですが、かつては林立するビル群のあたりは海であり、海に沈みゆく夕日が見えたというのですね。

赤い夕陽
 

上の写真は淡路島慶野松原の夕景ですが、かつて一心寺付近の坂の上に立つとこんな感じの風景が見えていたのではないかなあと想像します。

それが長い年月を経る間に大和川や淀川などの川が運ぶ土砂が堆積し、海が陸に変わってしまったそうです。

一心寺 ジャカランダ2 

一心寺


③西方極楽浄土へ旅立った安徳天皇と平家


さて、なぜ法然は日想観を修するためと考えられる源心庵をここに作ったのでしょうか。

源心庵を設けた1185年、壇ノ浦の戦いで平家は源氏に敗れ、滅亡しています。
もはやこれまでと悟った平家の人々は次々に海に飛び込んで自殺してしまったのです。

平家物語には次のように記されています。

安徳天皇「どこへ行くの?」
平時子「弥陀の浄土へまいりましょう。波の下にも都があるのですよ。」

こうして安徳天皇(父・高倉天皇、母・平徳子)は祖母の平時子に抱かれて入水しました。


安徳天皇と平家は西方極楽浄土へ向かったのです。




上の地図を見てください。
源空庵(現在の一心寺)があったのは【大阪】の文字があるあたりです。
壇ノ浦古戦場跡は源空庵から見て、少し南にずれますが、ほぼ西の方角にあたります。

つまり、源空庵は壇ノ浦の戦いで入水した平家の霊を日想観を修することによって慰霊するために作られたのではないかと思うわけです。

源空庵で後白河法皇と法然は、壇ノ浦の波の下にある都=弥陀の浄土に沈んだ平家の霊と、安徳天皇の霊を慰霊するために
日想観を行ったのではないかと。

壇ノ浦の戦いで平家が滅んだあと、後白河法皇は源氏の指揮官だった源義経を院御厩司に任じています。
平家滅亡には後白河法皇もからんでいたわけです。

耳無し芳一の説話は、平家の怨霊が信仰されていたことを物語るものでしょう。
後白河は相当平家の霊を怖れたことでしょうね。

一心寺 骨仏 
一心寺 開眼されたばかりの第14期骨仏(平成19年から28年までに納骨された骨で作られた仏さまです。)


④半日で完成した鴨長明の庵

源空庵が作られたのは1185年春とウィキペディアは記しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BF%83%E5%AF%BA#.E6.B2.BF.E9.9D.A9
「1185年春」の出典は記されておらず、また春が旧暦なのか新暦なのかわかりません。

壇ノ浦の戦いがあったのは、1185年4月25日ということです。
4月25日は新暦では春ですね。

旧暦では3月24日となります。

旧暦では1月・2月・3月が春、4月・5月・6月が夏、7月・8月・9月が秋、10月・11月・12月が冬でした。
旧暦3月24日はぎりぎりで春、あと1週間足らずで夏になります。

壇ノ浦の戦いからわずか1週間しかないやん!
その間に庵を結ぶなんて無理、無理!

と思うかもしれませんが、これがそうでもないんですよ~。

方丈記で有名な鴨長明(1155~1216)が住んでいた庵は組み立て式で車二輌で運搬可能だったそうです。
この庵は2~3人の大工さんがいれば半日で組み立て可能だったとか。

河合神社 復元された鴨長明の方丈

河合神社にある復元された鴨長明の方丈


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[2017/06/14 20:05] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛井寺(ふじいでら) 藤 『725年に何があった?』 

 
大阪府藤井寺市・・・葛井寺
2007年5月初旬 撮影


葛井寺 藤 

①1041本の手を持つ観音さま


毎月18日に天平時代の乾漆千手観音坐像(十一面千手千眼観世音菩薩像)が開扉されます。
(写真→ 
国宝ですよ~♪

千手観音の腕は四十二本のものが多いです。
胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うと考えられ、「25×40=1,000」というわけです。
なんか、ずるい。(笑)

ですが実際に1000本の腕を持つ像として作られたものもあります。
奈良・唐招提寺、京都寿宝寺の千手観音などがそうです。 

ここ葛井寺の千手観音は合掌する本手のほか、脇手は持物をもつ大手38本、小手1001本(右500本、左501本)で1041本の腕を持っています。
顔立ちもとても美しくて私のもっとも好きな仏像のひとつです。

葛井寺 白藤 

②葛井氏と阿保親王・在原業平の関係


寺伝では、葛井寺は聖武天皇の勅願により725年に行基が創建し、平安時代に平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとしています。

平城天皇は同母弟の嵯峨天皇と対立して810年「薬子の乱」をおこした方ですね。
平城天皇は嵯峨天皇に敗れて出家され、平城天皇の皇子・阿保親王は「薬子の乱」に連座したとして大宰府に左遷されました。
824年、ようやく許されて帰京したあと、桓武天皇の皇女・伊都内親王を妃としました。
826年、阿保親王は自らの子供たちの臣籍降下を願い出て認められ、在原姓を賜りました。
そのひとりが在原業平です。

しかし、百済辰孫王の後継氏族である白猪氏(のち葛井に改名)の氏寺として創建されたとも考えられています。
阿保親王の母親は葛井道依の娘の葛井藤子でした。
そのため、阿保親王が再興したなどといわれているのかもしれませんね。
また、在原業平が奥の院を造営したともいわれます。

葛井寺 藤2
③こんなにある!725年に行基が創建した寺。

葛井寺の創建が725年と聞いて、私は「また725年やー!」と思いましたね。
というのは、725年に行基が創建した寺と言うのが結構たくさんあるんです。

私が参拝したお寺では、奈良県御所市の船宿寺や大阪府枚方市の久修園院なども行基が725年に創建したお寺でした。

船宿寺 本堂 大手毬

船宿寺

久修園院 夕景 

久修園院

かつて久修園院の近くにあった山崎橋も行基が725年にかけたといわれています。

橋本渡舟場 道標 

山崎橋がなくなったあと、渡しがあったようですが、現在は山崎橋も渡しもありません。

あと、静岡県袋井市の尊永寺も725年行基の創建としています。

行基の創建とはしていませんが、宇佐八幡宮(大分県)や新田神社(鹿児島県)も725年の創建です。
もっと調べれば他にも725年創建の寺社があるかもしれません。
もし御存知でしたら教えていただけると嬉しいです!

③725年に何があった?

いくら行基が精力的な人物であったとしても、同じ年に奈良県御所市・大阪府藤井寺市・大阪府枚方市・静岡県袋井市に寺を建て、山崎橋までかけるのは無理じゃないでしょうか。
場所も離れてるし~。

少なくともこれらの寺や橋が725年につくられたというのは事実ではなく、
何かの縁起担ぎで創建年を725年としたのではないかと思います。

725年には国家にとって何か重大なことがあったのではないでしょうか?

④蝦夷の反乱


724年に蝦夷が反乱を起こし、陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害されています。
4月、藤原宇合が持節大将軍に任命され反乱の鎮圧に向かい、11月に戻っています。
725年、藤原宇合は功績を認められて従三位・勲二等を受けたということは、蝦夷の乱は一応鎮圧できたということでしょうか。
でもまあ、その後も蝦夷はたびたび反乱をおこしていますけどね。

724年には朝廷は蝦夷鎮圧の軍事的拠点として多賀城(宮城県)を創建しています。

725年に行基が創建したとされる寺は、蝦夷の怨霊封じのために作られたのかも?



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[2017/05/26 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

中の島公園 バラ 『バンパネラを捕らえるバラの罠』 

 大阪市中央区 中之島公園
撮影 2017年5月中旬 2008年5月中旬 

中の島公園 バラ 
2017年撮影

①バンパネラはバラが苦手だった。


国営ひたち海浜公園 ネモフィラ 『吸血鬼 紫女』 
↑ こちらの記事で萩尾望都さんの漫画「ポーの一族」についてお話ししました。
「ポーの一族」の主人公の美少年・エドガーはバンパネラ(吸血鬼)なのですー。

バンパネラが住むポーの村にはたくさんのバラが植えられていて、バンパネラたちはバラのスープを飲みます。
エドガーやアラン、メリーベルはバラのエッセンスをいれた紅茶を飲んだりしていましたね。
バンパネラは人の血とバラが好き。
長年そう思っていました。

ところが!
どうやらバンパネラがバラが好きだというのは萩尾望都さんの創作のようで
実際には吸血鬼はバラが苦手だそうです。

昔、ルーマニアや他の国では吸血鬼を発生っさせないように墓の周りに野ばらを植えていたそうです。

http://soranouta.fc2web.com/kikaku11/kikakuvanp-02.htm より引用

薔薇は魔女や人狼、吸血鬼などの様々な悪に対して、強力な力を持っている。薔薇の花は悪の眷属の肌を焼き、香は魔物を退ける。
ルーマニアとトランシルヴァニアでは、死体の上に野薔薇をひと枝置くことで、吸血鬼の誕生を防いだ。墓の上に置くと、吸血鬼の行動を防ぐ事が出来る。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/8574/dora4.htm より引用

吸血鬼だけでなく、人狼や魔女もバラが苦手のようです。
魔物全般がバラが苦手なのでしょう。

中の島公園 バラ2 
2017年撮影

②死体をセイヨウサンザシの杭で打ち付ける!

死体を杭で打ち付けるという行為は物質的に肉体を破壊するほか、死体を大地につなぎ止め、二度と起き上がることのないようにし、魂と肉体を完全に分離するという象徴的な意味も含む。
使用される杭の材質はトネリコ・ビャクシン・クロウメモドキ・セイヨウサンザシ・ポプラなどで、中でも特にセイヨウサンザシが最良とされる。
セイヨウサンザシはバラ科の潅木・低木で、冬の終わりと春の訪れを告げる植物として「良き希望」のシンボルとされた。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/6586/taijihou.html より引用

バンパネラを退治するためには心臓に杭をうちこみますが、その杭に最適なのがバラ科のセイヨウサンザシだというのも興味深いですね。
バンパネラはバラが苦手なのは、バラ科のセイヨウサンザシの杭で心臓を打ち抜かれたくないからだといえるかも。

中の島公園 バラ5 
2008年 撮影

③日本の土蜘蛛もバラ(茨)が苦手?
 
日本にも古くからバラの原種が自生しており、常陸国風土記には次のような記述があります。

「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすため、穴に茨(いばら)を仕掛け、佐伯を穴に追い込んだ。」

記紀や風土記には土蜘蛛と呼ばれる人も登場します。
この土蜘蛛も「穴に住む」と記されています。
佐伯と土蜘蛛は同一のものなのかもしれませんね。

中の島公園 バラ3
2008年 撮影

④土蜘蛛とは斬首された人の死霊?


一般に土蜘蛛は未開の民族のことだと考えられています。
でも、私は土蜘蛛とは斬首された人の死霊のことではないかと考えています。

その理由を説明しますね~♪

⑤亀石はドクロを模した石だった?


葛城一言主神社に『亀石』と呼ばれる石があります。

一言主神社 亀石

一言主神社 亀石

亀石と呼ばれる石は飛鳥にもありますが、妖怪ぬらりひょんの頭部にそっくりです。

亀石

飛鳥 亀石

妖怪ストリート ぬらりひょん 

妖怪ストリート ぬらりひょん〈中央)

飛鳥や一言主神社にある亀石とはドクロを模した石なのではないでしょうか。

⑥蜘蛛は頭部のない昆虫?


一言主神社には『土蜘蛛の塚』と呼ばれる石もあります。

一言主神社 土蜘蛛の塚  

土蜘蛛の塚

一言主神社の『土蜘蛛の塚』の下には土蜘蛛の胴体が、神殿の下には頭部が埋められていると言われています。

一言主神社の境内は山の中腹にあって長い階段を上っていくと神殿があるのですが、亀石がある場所はこの階段の下です。

一言主神社 階段

亀石は神殿の下にあるといえなくもありません。
『土蜘蛛の塚』が土蜘蛛の胴体を埋めた場所ならば、『亀石』は土蜘蛛の頭部を埋めた場所ではないでしょうか。

もう一度、『土蜘蛛の塚』の写真を見てみましょう。

一言主神社 土蜘蛛の塚

土蜘蛛の塚は上の写真の角度から見るとふたつのふくらみがあるように見え、蜘蛛の体に似ているように思えます

蜘蛛の体 

昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれていますが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされています。

土蜘蛛の塚に亀石をくっつけると、昆虫のような形になりますね。

それで閃いたのですが、昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないでしょうか。
そして斬首されて首のない人の死霊のことを土蜘蛛と呼んだのではないかと思うのです。

これが正しければ、土蜘蛛も吸血鬼や人狼と同様の魔物だということになります。

西洋の吸血鬼はバラ科のセイヨウモッコウの杭で打たれ、日本の土蜘蛛は茨が仕掛けられた穴に追い込まれる・・・

バラは洋の東西を問わず、魔物退治に効果的な植物であると考えられたようです。
それはバラの茎に鋭いトゲがあるためではないでしょうか。

⑦六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛は斬首された平将門の霊?

六波羅蜜寺 追儺式3 
六波羅蜜寺 追儺式に登場した土蜘蛛

節分の追儺式には鬼が登場するのが一般的ですが、六波羅蜜寺の追儺式には土蜘蛛が登場します。

六波羅蜜寺を創建した空也は平将門の怨霊を熱心に慰霊した人でした。
平将門は東国に独立国をつくりましたが、朝廷が派遣した藤原秀郷・平貞盛らの軍と戦って戦死しました。
将門の首は京に持ち帰られて晒されました。将門は首のないゾンビ、土蜘蛛だったのです。
六波羅蜜寺の追儺式に登場する土蜘蛛は将門の霊ではないかと思ったりします。

中の島公園 バラ4 
2008年 撮影



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[2017/05/22 16:36] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 桜 『勝尾寺は鰹寺?』 

大阪府箕面市 勝尾寺
撮影 2017年4月24日

勝尾寺 多宝塔 しだれ桜

①王に勝った寺

727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)がここに草庵を築き、765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしました。 
777年、開成は大般若経600巻の書写をやり遂げ、この場所に弥勒寺を創建しました。
780年、妙観が十一面千手観世音菩薩立像を刻み、本尊として安置しました。
880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜りました。
しかし、「王に勝った寺」とはあまりに畏れ多いとして、「王」を「尾」として勝尾寺と号したそうです。

勝尾寺 多宝塔 石楠花

②勝尾寺での祈祷もむなしく、清和天皇は881年に崩御されていた!

いやー、この話はおかしいですね!
というのは、「880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があった」というのですが、翌年の881年、清和天皇は崩御されているんですよね~。

清和天皇は858年、9歳で即位しました。
平家物語には惟仁親王(清和天皇)と惟喬親王のどちらを皇太子にするかでもめたことが記されています。
876年、第一皇子の陽成天皇に譲位し、879年に出家して畿内巡幸の旅をしました。
880年、丹波国水尾の地で絶食を行うなど厳しい苦行を行っています。
その後左大臣源融の別邸棲霞観で発病し、881年、粟田の円覚寺で崩御されました。

880年、清和天皇は苦行を行ったせいで病となり、そのため行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行ったのでしょう。
ですが清和天皇は崩御されてしまったので、行巡の祈祷は効験があったとはいえなくはないですか?

勝尾寺 多宝塔 桜

③「王に勝った寺」は日本語的におかしい。


また清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜ったというのもおかしいですね。

もしも本当に行巡の祈祷の効験があったのなら、「王に勝った寺」というのは日本語的におかしいです。
「王の病に勝った寺」と言うべきで、勝尾寺という寺名の由来を「勝王寺からくる」とするのは、ちょっとこじつけっぽく思えてしまう~。

また、実際には清和天皇はそのまま崩御されたので、行巡の祈祷の効験はなかったといいうことになります。

行巡が「清和天皇、死ね!」と祈祷していたと考えると「王(天皇)に勝った寺」というのは筋が通りそうに思えますが~(笑)

正確に言うと清和天皇は天皇であって王でもありませんしね。

王とはもともとは君主を意味する言葉でしたが、日本では国の君主には天皇と言う称号が使われていますね。
天皇の子の男子で、親王宣下を受けた者は親王と呼ばれました。
王とは天皇の子の男子ではあっても親王宣下をうけていない者のことを言いました。

勝尾寺-二階堂 しだれ桜

④勝尾寺は鰹寺?

勝尾寺という寺名は勝王寺からくるのではなく、もともとは鰹寺でそれが転じて勝尾寺になったのではないかと想ったりもします。

えーーっ、勝尾寺があるのは山の中やん、それなのになんで鰹なのって?

⑤ハンセン病にかかった皇子

①で765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしたと書きましたね。
開成は「かいじょう」と読み、静岡県磐田市の白山神社の創建説話に登場する海上皇子(戒成皇子/桓武天皇の第四皇子)と関係があるのではないかと前田速男さんが指摘されています。

また愛知県新城市の白山神社の創建説話には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子が登場します。
こちらの開成皇子は勝尾寺の開成と同じ字ですね。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子
で、海人皇子と開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられています。
開成皇子は何の病になったのかわかりませんが海人皇子についてはハンセン病になったとされています。

3人の父親は異なりますが、ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるのではないでしょうか。

勝尾寺 山門  

⑥実際にハンセン病にかかったわけではない、と思う。


日本書紀にトガノの鹿という話が記されています。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(トガノの鹿)

鹿の夏毛には白い斑点があります。
その白い斑点が霜や塩に喩えられたのでしょう。

そして謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説があります。

また日本書紀は次のような話もあります。


612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。

ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

つまり、次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないかと思います。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

⑦ハンセン病の古名のひとつ、カタヰ。


ハンセン病は古にはらい病、ナリンボ、ドス、カタヰ(カタイ)などとも言ったそうです。
海上皇子という名前は海の魚を想起させますし、魚偏に堅いと書けば鰹となりますね。

そういうわけで、鰹寺から勝尾寺になったのではないかと思ったりするんですが、あまりにトンデモですかね?

 勝尾寺 鐘楼 桜


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[2017/04/25 16:36] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

金熊寺 梅 『神のお告げの税金対策?』 


大阪府泉南市 金熊寺 信達神社
2012年3月中旬 撮影


金熊寺 梅

①金峯・熊野の神を祀る寺

金熊寺は、役の行者(634?ー701?)が創建したと伝えられています。
隣にある信達神社は古くは金熊寺大権現宮といい、金熊寺の鎮守でした。

信達神社 
信達神社

昔、海岸にたどりついた神武天皇の像を祀ったのが始まりで、
682年に役小角が金峯・熊野の神を勧請して本殿に合祀したと伝わります。

②金熊寺は金峯山と熊野三山からとった?

金峯とは吉野にある金峯山のことだと思います。
金峯山寺は役行者を開基とする神仏習合の寺院です。

 金峯山寺 蔵王堂 桜

金峯山寺 蔵王堂

熊野には熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)があり、やはり修験道が盛んでした。

おそらく金熊寺という寺名は金峯・熊野からとったのでしょう。
そういえば、熊野三山はお詣りしたことがないなあ~。
近いうちに行ってみたいです。

金熊寺 梅林 

③なぜ梅が植えられたの?


300年ほど前、信達神社の神主・矢野氏に「この地に梅樹を植えると神領益々隆盛となる」のお告げがあり、矢野氏一族によって白梅をメインに2000本の梅が植えられたといいます。

ここに梅が植えられたのは、熊野が紀州(和歌山県)にあることと関係がないでしょうか。
紀州といえば南高梅が有名ですね。

紀州で梅が栽培されるようになったのは、江戸時代とされます。
紀州藩田辺領の農民がやせ地は免租地(租税の一部または全部を免除する土地)となるということで、梅の栽培を始めたといいます。

金熊寺周辺で梅が栽培されるようになったのは300年ほど前ということですから、江戸時代ですね。
紀州藩田辺領と同じく、租税の免除を狙ったのではないでしょうか。

それを神様のお告げがあったなんぞと表現したのでは?

金熊寺 梅林


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[2017/03/23 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 梅 『豊臣秀吉は重瞳だった?(閲覧注意!)』 


大阪市中央区 大阪城
2011年3月撮影

大坂城 梅 
太閤さん(豊臣秀吉)の城と親しまれている大阪城

①豊臣秀吉は重瞳だった?


大阪城 花水木 『六本指の秀吉が指を切断しなかった理由』  

↑ こちらの記事で、豊臣秀吉は六本指であったと書きました。

それだけでなく、豊臣秀吉は重瞳だったという話もあります。

重瞳とは目の中に複数の瞳があることをいいます。

多瞳孔症とか多瞳孔というそうです。
ケースによってはものが二重に見えたりすることがあり、そういう場合は手術をする必要があるということです。
だけど下の動画を見ると美しいです♡



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

②瞳孔膜遺残

上の動画の4:10あたりでミケランジェロのダビデ像のアップが登場します。
ダビデの瞳、とてもキュートなハート形です。
瞳孔膜遺残と説明されています。

http://blog.sannoudaiganka.jp/?eid=140621
こちらのブログによると
胎児が眼球を形成していく過程では瞳孔は膜でおおわれており、だんだん萎縮して消失するが、ときどきこの瞳孔膜が残ってしまうことがあるということです。

また、世の中でもっとも多い先天異常だとあります。

大坂城 梅2

③貴人の相


古代の中国では重瞳は貴人の相とされていたみたいですね。
豊臣秀吉のほか、平清盛、源義経も重瞳だったと記した書物があるそうです。
中国で重瞳は貴人の相とされているのをうけて、事実ではないが、豊臣秀吉・平清盛・源義経らを重瞳であるという設定で物語を描いたと考えられています。

それとも、ダビデのように瞳孔膜遺残だったのかも?

大坂城 梅3

④蒼頡(そうけつ)と方相氏

中国の重瞳の貴人のひとり、 倉頡(そうけつ)の肖像画を見てみましょうー。

File:Cangjie.png

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Cangjie.png よりお借りしました。
作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

倉頡(そうけつ)は漢字を発明したとされる伝説上の人物で、 重瞳四目といわれます。
帝舜・項羽も四つの目で描かれるそうです。

これ ↓ に似ていますね!

吉田神社 節分祭 鬼と方相氏

吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏です。
吉田神社では方相氏は赤鬼・青鬼・黄鬼と闘いますが、平安時代の節分に鬼は登場しません。
平安時代の節分の日には、方相氏がシン子を従えて『鬼やらい」といいながら宮中を練り歩いていたようです。

③方相氏は体内に冬の気をすいこんだあと矢で射られた。


大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。
方相氏の恐ろし気な風貌が鬼と混同されたなどといわれますが、そうではないと私は考えます。

竹田恒泰さんが「雛人形は厄を吸い込むものだった」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。
方相氏も雛人形と同じように厄と言うか、冬の気、鬼の気のようなものを吸い取る役割を担っていたのでしょう。
そして、体いっぱいに冬の気、鬼の気を吸い込ませたあと、方相氏ごと矢で射て冬の気・鬼の気を退治してしまうということだったのではないかと想像します。
方相氏はみがわり人形のようなものだったのだと思います。

大坂城 ひよどり

④方相氏は2体の牛が合体している?


さて、方相氏はなぜ四ツ目なのでしょうか。

以前、ネットで以下のような内容の記事をよみました。今、ぐぐっても見つからないのですが~。(すいません!)

(い)方相氏は中国の天神、蚩蚘(シュウ)ではないか。
(ろ)蚩蚘は炎帝神農氏の子孫であり、兵器を発明し、霧をあやつる力を持つ神。
(は)『帰蔵』は蚩蚘の姿を『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首)』と記す。
(に)『疏首』というのは、首が二つあるということだ。
(ほ)蚩蚘とは二頭の獣が合体した神ではないか。
(へ)そう考えると蚩蚘が『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)』をもっていることの説明もがつく。
(と)『述異記』には『銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ』とある。
(ち)『四つの目』とあるのも二頭が合体しているのだろう。
(り)二頭を合わせると足は8本だが、人の体をしているので、8本の足のうち2本が脚で、残りの6本が手(腕)ということだろう。

すばらしい!
『述異記』に『牛の蹄』とあるので、蚩蚘や方相氏は2頭の獣が合体しているのでしょう。

⑤蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されている?

私は蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されていると思います。


待乳山聖天では聖天さん(大聖歓喜天)をお祀りしています。
聖天さんとは像頭をした男女双体のみほとけです。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんには次のような伝説があります。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 

つまり、聖天さんとは鬼王ビナヤキャ(=マラケラレツ王)とビナヤキャ女神(十一面観音の化身)の男女双体のみほとけなのです。

上の動画をもう一度見てください。
相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音の化身ビナヤキャ女紳です。

⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面


そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


⑤にあげた聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)

蚩蚘や方相氏、中国の倉頡・帝舜・項羽、日本の豊臣秀吉・平清盛・源頼朝らが重瞳とされるのは、
彼らがもともとは荒魂であったが、女神(和魂)と結合して御霊となったと考えられたためではないでしょうか。
そして彼らが貴人と考えられるのは、彼らが御霊であるからではないかと思います。

大坂城 夕景


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[2017/03/21 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

星田妙見宮 紅葉 『妙見大菩薩はたたら製鉄の神だった?』 

   大阪府交野市 星田妙見宮
2016年11月下旬 撮影


星田妙見宮 鳥居 紅葉 
星田妙見宮

●星の町・交野ヶ原

大阪府枚方市・交野市あたりは古には交野ヶ原と呼ばれていました。
在原業平がこんな歌を詠んでいます。

狩りくらし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に われは来にけり
(狩りをしていてすっかり日が暮れてしまった。今夜は織女姫に宿を借りることにしよう。我々は天の川の河原にやってきたのだから。)

在原業平が惟喬親王の狩りのお供をして、渚の院(大阪府枚方市)で詠んだ歌とされます。

京阪御殿山駅の東北に渚の院跡があり、その1kmほど南に天野川という川が流れています。
天野川をはさんで中山観音寺跡と機物(はたもの)神社があり、中山観音寺跡はアルタイル(牽牛星・彦星)、機物神社はベガ(織姫星)を表しているとされます。
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭

また天野川をずっと遡っていくと磐船神社があり、ニギハヤヒが降臨した場所だとされていますが
『雲陽誌』には『ニギハヤヒは星の神である』と記されています。

星田・星が丘など星の字のつく地名もおおいですし、星田神社・天田神社・星の森などもあります。
今日、お話ししたいと思っている星田妙見宮もここにあります。

 星田妙見宮

星田妙見宮 絵馬堂

●2組あったアルタイルとベガに模した寺社

妙見山の頂上近くに星田妙見宮の拝殿があり、その奥に織女石が祀られています。
たぶんこの織女石が御神体なのでしょう。本殿はないようです。

星田妙見宮 織女石 

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)

星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸には天田神社があり、天田(豊に実る田)の神を祀っているそうです。今回はお参りできなかったのですが。
で、この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたということです。

最近の田おこしは耕運機で行うことがほとんどですが、昔は牛に犂(すき)をひかせて行っていたのです。
つまり牽牛とは牛を牽いて田を耕す神というわけです。

飛鳥坐神社 おんだ祭 田おこし 
飛鳥坐神社 おんだ祭 天狗が牛に犂をひかせて田を耕すシーン


中山観音寺&織物神社のほかにもアルタイル(牽牛星/天田神社)とベガ(織女星/星田妙見宮の織女石)があったのですね~。

●隕石が落下した山

星田妙見宮-説明版

816年、ここに隕石が落ちたことで山が吹き飛ばされ、馬蹄形になっていると説明版に記されています。

星田妙見宮 滝の説明版 

どうやら816年ここに隕石が落ちたというのは、星田妙見宮に伝わっていることのようですね。
正史に記録があるというわけではなさそうです。

そして落ちたのはペルセウス座流星群の母彗星スイフト・タッフル彗星からの隕石であると記されています。

星田妙見宮 登龍の滝 

星田妙見宮 登龍の滝 (わかりづらいですが、写真向かって左の黒っぽく見える縦の筋あたりに水が流れ落ちています。)

ちなみに星田妙見宮には隕石が落ちてきたという伝説はあっても、本物の隕石が存在しているわけではなさそうです。

●古の人々は巨石を空から落ちてきた星だと考えた?


『雲陽誌』には『星降って石となる』という古語があると記されています。
それが隕石であるかどうかは別にして、古の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えたのではないでしょうか。

磐船神社 天の磐船

上の写真は先ほどもご紹介した磐船神社の御神体・天の磐船です。
磐船神社の御祭神はニギハヤヒという物部氏の祖神で、ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったとされています。
この石は隕石ではありませんが、古の人は巨石を空から落ちてきた星であると考え、
「ニギハヤヒがこの天の磐船を操って地上に天下った」という物語を創作したのではないでしょうか。

物部氏は鉄鍛冶技術に長けていた?

古事記には天津麻羅(あまつまら)という神が登場します。
先代旧事本紀では次のように記されています。

「倭の鍛師(かなち)等の祖、天津真浦(あまつまうら)」
「物部造等の祖、天津麻良(あまつまら)、阿刀造等の祖、天麻良(あめのまら)」

阿刀氏はニギハヤヒの子のウマシマジノミコトを祖神とする氏族です。
物部氏はニギハヤヒを祖神としているので、同族と考えていいでしょう。
鍛師は鍛冶師のことだと思います。
ここから物部氏は製鉄や鍛冶の技術に長けた氏族だったのではないかと想像されます。



上はたたら吹きの様子を撮影した動画です。(動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。)
映像が大変美しいです。

この動画を見るとわかるようにたたら製鉄は燃えあがる炎の中で行われます。
このたたら製鉄の様子が、夜空に光る星に喩えられたのではないかという説があります。

そして交野ヶ原のあたりには肩野物部氏が住んでいました。

●妙見大菩薩はたたら製鉄の神だった?

星田妙見宮の御祭神はアメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビですがパンフレットによるとこれらの神々は、「仏教では北辰妙見大菩薩、道教では太上神仙鎮宅霊符神という」と書いてあります。

http://www.raifuku.net/special/wolf/details/myoken1.htm

↑ こちらに妙見星神の図像が掲載されています。
妙見星神の上に描かれている星を描いてみました。↓

妙見星神の上部に描かれた星 

上の三つ星は婁(たたらほし/おひつじ座β星)下の七つ星は北斗七星だと思います。

二十八宿
File:Twenty-eight mansions.jpg

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Twenty-eight_mansions.jpg?uselang=ja )よりお借りしました。

たたらというのは古代の製鉄にもちいる鞴(ふいご)のことで、たたら製鉄という言葉もここからきます。

File:Bellows 2 (PSF) generalized.png

ウィキペディアよりお借りした鞴(たたら)の図です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bellows_2_(PSF)_generalized.png?uselang=ja
作者はPearson Scott Foresmanさんです。ありがとうございます。

鞴はこのように三角形の構造になっているので、それに似ているということで「たたらほし」というのでしょう。
頭上にたたらぼしを戴く妙見星神(妙見大菩薩)はたたら製鉄の神なのではないでしょうか?

星田妙見宮 紅葉 

星田妙見宮 参道


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[2016/12/03 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

星田園地 星のブランコ 紅葉 『物部王朝の太陽神』 




↑ 
巨人の真央ちゃんが巨人の舞ちゃんをおっかける!
美人姉妹だよね♡
写真撮りにいきたいところがたくさんでてくるのも嬉しい~。
オモシロイけど、舞ちゃんちょっとかわいそう~。

大阪府交野市 星田園地・磐船神社
2009年11月下旬 撮影


星のブランコ 紅葉3 
●星のブランコ

星田園地の展望台から見下ろすと、見渡す限りオレンジ色の紅葉が広がっていました。
写真に写っている橋は『星のブランコ』と呼ばれています。

●ニギハヤヒを祀る磐船神社

星田園地の近くに磐船神社という神社がありニギハヤヒを祀っています。

磐船神社 天の磐船

上の写真は磐船神社のご神体の『天の磐船』です。

●初代神武天皇より早く天下っていたニギハヤヒ

初代神武天皇は日向より東征をめざしますが、出立の際、シオツチの翁が「東にはニギハヤヒが天の磐船を操ってすでに天下っている。」と発言しています。
磐船神社はこのニギハヤヒが天下った場所だとされています。

ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

ニギハヤヒが操った天の磐船とはUFOのようなものではないか、という人もいます。
ニギハヤヒは天の磐船からこんなオレンジ色の風景を眺めたのかもしれませんね。
 
星のブランコ 紅葉2


●星の神が住む交野ヶ原

大阪府枚方市・交野市のあたりは平安時代には交野ヶ原と呼ばれていました。
交野ヶ原を流れる川は天の川といい、天の川伝説発祥の地であるともいわれています。
天の川を挟んで中山観音寺跡(観音山公園)と機物(はたもの)神社が向かいあっていますが、中山観音寺跡はアルタイル(牽牛星・彦星)、機物神社はベガ(織姫星)を表しているとされます。
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭

織姫と牽牛が年に一度の逢瀬を楽しむとされる逢合橋もあります。
逢合橋はコンクリート造りの味もそっけもない橋で絶句しましたが(笑)。

このあたりには星田・星ヶ丘など星の字のつく地名も多いです。

●ニギハヤヒは星の神

ニギハヤヒは物部氏の租神とされますが、かつてこのあたりには肩野物部氏が住んでいました。

物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説があるります。

また雲陽誌という書物には『ニギハヤヒは星の神』だと記されています。


●ニギハヤヒはもともとは太陽神だった?

古事記や日本書紀では単にニギハヤヒと記されていますが、先代旧事本紀では『天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)』と記されています。
また先代旧事本記はニニギの兄・天火明命(アメノホアカリ)と同一の神としています。

ニニギは天照大神の孫で、天照大神に命じられて葦原中国に天下った神です。

本当の天照大神とは天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒのことではないかとする説があります。
ニギハヤヒはもともとは太陽の神であったのに、神武に政権を奪われて夜の神、星の神へと神格を変えられたのではないでしょうか。

星のブランコ 紅葉 



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[2016/12/02 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大威徳寺 紅葉 『牛の盆』 

大阪府岸和田市 大威徳寺
2013年11月下旬撮影

 
大威徳寺 多宝塔 紅葉
塔百景34


●牛の神

牛滝の大威徳寺では牛に乗る姿の大威徳明王が祀られています。
そのため牛の神として信仰を集め、農耕に牛を用いていたころは3月25日・8月25日の祭日には農家は角巻・首たすき・ユタンなどで牛を着飾って大威徳寺にお参りしたそうです。

大威徳寺 牛のレリーフ 

牛の寺らしく、牛をモチーフにしたレリーフがありました。

●旧暦7月7日は牛の節句


大威徳寺は牛滝山山中にありますが、昔は牛滝山の二の滝付近に牛神の祭場もあったようです。

旧暦7月7日は牛の盆、牛の節句ともいわれ、牛神様を祀る習慣がありました。
泥や野菜で牛の人形をつくって祭場に飾り、川で牛を洗い浄めて祭場に連れていき、お参りをしたそうです。

旧安西家住宅 薬研と七夕馬

上の写真は千葉県木更津市の旧安西家住宅に置かれてあった七夕馬です。
大威徳寺の近所では泥や野菜で牛の人形を作ったということですが、このように馬の人形を作る地域もありました。
詳しくはこちらの記事を参照してください。→ 旧安西家住宅 『七夕馬と天然痘』 

●七夕はお盆の入りの行事だった。

現在ではお盆は8月15日を中心に行われていますが、旧暦のお盆は7月15日を中心とした行事でした。
7月7日は七夕ですが、旧暦では七夕はお盆の入りの行事だったのです。
これで『牛の盆』の『盆』の部分はわかりました。

大威徳寺 紅葉2 

●なぜ牛の人形を作ったり、牛を祭場につれていったのか?


七夕は牽牛と織姫が年に1度の逢瀬を楽しむ日とされていますね。
『牛の盆』の『牛』はこの牽牛からくるのではないでしょうか。

牽牛の「牽」は「牽く」と書いて「ひく」と読みます。
「引く」「曳く」などと同じ意味です。

つまり牽牛とは「牛を牽く」という意味で、牛を祭場へつれていくことは、まさしく「牽牛」なのですね。

大威徳寺 本堂 紅葉 

●御霊・荒魂
和魂

さきほど七夕はお盆の入りの行事であると書きましたが、お盆と逢瀬はどう関係があるのでしょうか。

前回も書いたのですが、神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)に分けられるといわれます。
そして男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
すると御霊とは男女双体となると思います。

御霊(神の本質)・・・・・・・・・男女双体
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神
和魂(神の和やかな側面)・・・女神


大威徳寺 錦秋の滝 紅葉 

錦秋の滝 (二の滝ではありません。すいません。)

●サルタヒコと
アメノウズメの物語

男女双体の神といえば道祖神があります。
道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体と神といわれています。
そのサルタヒコとアメノウズメには次のような物語があります。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。
その後、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコを彼の故郷の伊勢へと送り届け、サルタヒコの名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。
ここからアメノウズメは猿女君と呼ばれるようになりました。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)


●アメノウズメはセックスの女神だった。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国へ天下ったのち、アメノウズメに『サルタヒコをもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じています。
『彼(サルタヒコ)の名前を伝えて』というのは、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコと結婚せよ』と命じたということだと思います。
『(サルタヒコに)仕え祭れ』というのは『性的に奉仕せよ』ということでしょう。
アメノウズメは天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせていますし、サルタヒコに出会ったときにも胸を開き、帯をずらして誘惑しています。
アメノウズメはセックスの女神なのです。

●貝は女陰の比喩?

サルタヒコは伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んでいますが、貝は女陰を比喩したものだと思われます。
つまり、サルタヒコはアメノウズメの女陰に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだということでしょう。

道祖神はサルタヒコとアメノウズメが手を繋ぎ合った姿をしていますが、手を繋ぎあっているのではなく、アメノウズメによってサルタヒコの手がおさえつけられ、身動きできなくなった状態を表していたのですね。

●七夕は牽牛が死ぬ日

サルタヒコと牽牛、アメノウズメと織女は習合されているのかもしれません。

お盆には悪い霊も戻ってくると考えられ、そういった悪い霊が祟らないように女神と和合させる必要があると考えられたところから、お盆の入りの行事として七夕があるのだと思います。

そしてサルタヒコはアメノウズメと和合することによって死んでいます。
牽牛も織女と和合することによって死んだのでしょう。
七夕は牽牛が死ぬ日なのです。
それで7月7日は牛の盆とされているのではないでしょうか。

御霊(神の本質)・・・男女双体・・・道祖神
荒魂(神の荒々しい側面)・・・・男神・・・・サルタヒコ・・・・・牽牛
 和魂(神の和やかな側面)・・・女神・・・・アメノウズメ・・・織女

大威徳寺 多宝塔 紅葉2  


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[2016/11/29 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)