金熊寺 梅 『神のお告げの税金対策?』 


大阪府泉南市 金熊寺 信達神社
2012年3月中旬 撮影


金熊寺 梅

①金峯・熊野の神を祀る寺

金熊寺は、役の行者(634?ー701?)が創建したと伝えられています。
隣にある信達神社は古くは金熊寺大権現宮といい、金熊寺の鎮守でした。

信達神社 
信達神社

昔、海岸にたどりついた神武天皇の像を祀ったのが始まりで、
682年に役小角が金峯・熊野の神を勧請して本殿に合祀したと伝わります。

②金熊寺は金峯山と熊野三山からとった?

金峯とは吉野にある金峯山のことだと思います。
金峯山寺は役行者を開基とする神仏習合の寺院です。

 金峯山寺 蔵王堂 桜

金峯山寺 蔵王堂

熊野には熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)があり、やはり修験道が盛んでした。

おそらく金熊寺という寺名は金峯・熊野からとったのでしょう。
そういえば、熊野三山はお詣りしたことがないなあ~。
近いうちに行ってみたいです。

金熊寺 梅林 

③なぜ梅が植えられたの?


300年ほど前、信達神社の神主・矢野氏に「この地に梅樹を植えると神領益々隆盛となる」のお告げがあり、矢野氏一族によって白梅をメインに2000本の梅が植えられたといいます。

ここに梅が植えられたのは、熊野が紀州(和歌山県)にあることと関係がないでしょうか。
紀州といえば南高梅が有名ですね。

紀州で梅が栽培されるようになったのは、江戸時代とされます。
紀州藩田辺領の農民がやせ地は免租地(租税の一部または全部を免除する土地)となるということで、梅の栽培を始めたといいます。

金熊寺周辺で梅が栽培されるようになったのは300年ほど前ということですから、江戸時代ですね。
紀州藩田辺領と同じく、租税の免除を狙ったのではないでしょうか。

それを神様のお告げがあったなんぞと表現したのでは?

金熊寺 梅林


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[2017/03/23 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 梅 『豊臣秀吉は重瞳だった?(閲覧注意!)』 


大阪市中央区 大阪城
2011年3月撮影

大坂城 梅 
太閤さん(豊臣秀吉)の城と親しまれている大阪城

①豊臣秀吉は重瞳だった?


大阪城 花水木 『六本指の秀吉が指を切断しなかった理由』  

↑ こちらの記事で、豊臣秀吉は六本指であったと書きました。

それだけでなく、豊臣秀吉は重瞳だったという話もあります。

重瞳とは目の中に複数の瞳があることをいいます。

多瞳孔症とか多瞳孔というそうです。
ケースによってはものが二重に見えたりすることがあり、そういう場合は手術をする必要があるということです。
だけど下の動画を見ると美しいです♡



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

②瞳孔膜遺残

上の動画の4:10あたりでミケランジェロのダビデ像のアップが登場します。
ダビデの瞳、とてもキュートなハート形です。
瞳孔膜遺残と説明されています。

http://blog.sannoudaiganka.jp/?eid=140621
こちらのブログによると
胎児が眼球を形成していく過程では瞳孔は膜でおおわれており、だんだん萎縮して消失するが、ときどきこの瞳孔膜が残ってしまうことがあるということです。

また、世の中でもっとも多い先天異常だとあります。

大坂城 梅2

③貴人の相


古代の中国では重瞳は貴人の相とされていたみたいですね。
豊臣秀吉のほか、平清盛、源義経も重瞳だったと記した書物があるそうです。
中国で重瞳は貴人の相とされているのをうけて、事実ではないが、豊臣秀吉・平清盛・源義経らを重瞳であるという設定で物語を描いたと考えられています。

それとも、ダビデのように瞳孔膜遺残だったのかも?

大坂城 梅3

④蒼頡(そうけつ)と方相氏

中国の重瞳の貴人のひとり、 倉頡(そうけつ)の肖像画を見てみましょうー。

File:Cangjie.png

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Cangjie.png よりお借りしました。
作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

倉頡(そうけつ)は漢字を発明したとされる伝説上の人物で、 重瞳四目といわれます。
帝舜・項羽も四つの目で描かれるそうです。

これ ↓ に似ていますね!

吉田神社 節分祭 鬼と方相氏

吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏です。
吉田神社では方相氏は赤鬼・青鬼・黄鬼と闘いますが、平安時代の節分に鬼は登場しません。
平安時代の節分の日には、方相氏がシン子を従えて『鬼やらい」といいながら宮中を練り歩いていたようです。

③方相氏は体内に冬の気をすいこんだあと矢で射られた。


大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。
方相氏の恐ろし気な風貌が鬼と混同されたなどといわれますが、そうではないと私は考えます。

竹田恒泰さんが「雛人形は厄を吸い込むものだった」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。
方相氏も雛人形と同じように厄と言うか、冬の気、鬼の気のようなものを吸い取る役割を担っていたのでしょう。
そして、体いっぱいに冬の気、鬼の気を吸い込ませたあと、方相氏ごと矢で射て冬の気・鬼の気を退治してしまうということだったのではないかと想像します。
方相氏はみがわり人形のようなものだったのだと思います。

大坂城 ひよどり

④方相氏は2体の牛が合体している?


さて、方相氏はなぜ四ツ目なのでしょうか。

以前、ネットで以下のような内容の記事をよみました。今、ぐぐっても見つからないのですが~。(すいません!)

(い)方相氏は中国の天神、蚩蚘(シュウ)ではないか。
(ろ)蚩蚘は炎帝神農氏の子孫であり、兵器を発明し、霧をあやつる力を持つ神。
(は)『帰蔵』は蚩蚘の姿を『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首)』と記す。
(に)『疏首』というのは、首が二つあるということだ。
(ほ)蚩蚘とは二頭の獣が合体した神ではないか。
(へ)そう考えると蚩蚘が『八肱(八つの肘)、八趾(八つの足)』をもっていることの説明もがつく。
(と)『述異記』には『銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ』とある。
(ち)『四つの目』とあるのも二頭が合体しているのだろう。
(り)二頭を合わせると足は8本だが、人の体をしているので、8本の足のうち2本が脚で、残りの6本が手(腕)ということだろう。

すばらしい!
『述異記』に『牛の蹄』とあるので、蚩蚘や方相氏は2頭の獣が合体しているのでしょう。

⑤蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されている?

私は蚩蚘や方相氏は聖天さんと習合されていると思います。


待乳山聖天では聖天さん(大聖歓喜天)をお祀りしています。
聖天さんとは像頭をした男女双体のみほとけです。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんには次のような伝説があります。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 

つまり、聖天さんとは鬼王ビナヤキャ(=マラケラレツ王)とビナヤキャ女神(十一面観音の化身)の男女双体のみほとけなのです。

上の動画をもう一度見てください。
相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音の化身ビナヤキャ女紳です。

⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面


そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


⑤にあげた聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)

蚩蚘や方相氏、中国の倉頡・帝舜・項羽、日本の豊臣秀吉・平清盛・源頼朝らが重瞳とされるのは、
彼らがもともとは荒魂であったが、女神(和魂)と結合して御霊となったと考えられたためではないでしょうか。
そして彼らが貴人と考えられるのは、彼らが御霊であるからではないかと思います。

大坂城 夕景


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[2017/03/21 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

星田妙見宮 紅葉 『妙見大菩薩はたたら製鉄の神だった?』 

   大阪府交野市 星田妙見宮
2016年11月下旬 撮影


星田妙見宮 鳥居 紅葉 
星田妙見宮

●星の町・交野ヶ原

大阪府枚方市・交野市あたりは古には交野ヶ原と呼ばれていました。
在原業平がこんな歌を詠んでいます。

狩りくらし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に われは来にけり
(狩りをしていてすっかり日が暮れてしまった。今夜は織女姫に宿を借りることにしよう。我々は天の川の河原にやってきたのだから。)

在原業平が惟喬親王の狩りのお供をして、渚の院(大阪府枚方市)で詠んだ歌とされます。

京阪御殿山駅の東北に渚の院跡があり、その1kmほど南に天野川という川が流れています。
天野川をはさんで中山観音寺跡と機物(はたもの)神社があり、中山観音寺跡はアルタイル(牽牛星・彦星)、機物神社はベガ(織姫星)を表しているとされます。
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭

また天野川をずっと遡っていくと磐船神社があり、ニギハヤヒが降臨した場所だとされていますが
『雲陽誌』には『ニギハヤヒは星の神である』と記されています。

星田・星が丘など星の字のつく地名もおおいですし、星田神社・天田神社・星の森などもあります。
今日、お話ししたいと思っている星田妙見宮もここにあります。

 星田妙見宮

星田妙見宮 絵馬堂

●2組あったアルタイルとベガに模した寺社

妙見山の頂上近くに星田妙見宮の拝殿があり、その奥に織女石が祀られています。
たぶんこの織女石が御神体なのでしょう。本殿はないようです。

星田妙見宮 織女石 

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)

星田妙見宮から天野川を挟んだ対岸には天田神社があり、天田(豊に実る田)の神を祀っているそうです。今回はお参りできなかったのですが。
で、この天田は牽牛が耕す田で、対岸の織女石は織姫であると考えられたということです。

最近の田おこしは耕運機で行うことがほとんどですが、昔は牛に犂(すき)をひかせて行っていたのです。
つまり牽牛とは牛を牽いて田を耕す神というわけです。

飛鳥坐神社 おんだ祭 田おこし 
飛鳥坐神社 おんだ祭 天狗が牛に犂をひかせて田を耕すシーン


中山観音寺&織物神社のほかにもアルタイル(牽牛星/天田神社)とベガ(織女星/星田妙見宮の織女石)があったのですね~。

●隕石が落下した山

星田妙見宮-説明版

816年、ここに隕石が落ちたことで山が吹き飛ばされ、馬蹄形になっていると説明版に記されています。

星田妙見宮 滝の説明版 

どうやら816年ここに隕石が落ちたというのは、星田妙見宮に伝わっていることのようですね。
正史に記録があるというわけではなさそうです。

そして落ちたのはペルセウス座流星群の母彗星スイフト・タッフル彗星からの隕石であると記されています。

星田妙見宮 登龍の滝 

星田妙見宮 登龍の滝 (わかりづらいですが、写真向かって左の黒っぽく見える縦の筋あたりに水が流れ落ちています。)

ちなみに星田妙見宮には隕石が落ちてきたという伝説はあっても、本物の隕石が存在しているわけではなさそうです。

●古の人々は巨石を空から落ちてきた星だと考えた?


『雲陽誌』には『星降って石となる』という古語があると記されています。
それが隕石であるかどうかは別にして、古の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えたのではないでしょうか。

磐船神社 天の磐船

上の写真は先ほどもご紹介した磐船神社の御神体・天の磐船です。
磐船神社の御祭神はニギハヤヒという物部氏の祖神で、ニギハヤヒはこの天の磐船を操ってここに天下ったとされています。
この石は隕石ではありませんが、古の人は巨石を空から落ちてきた星であると考え、
「ニギハヤヒがこの天の磐船を操って地上に天下った」という物語を創作したのではないでしょうか。

物部氏は鉄鍛冶技術に長けていた?

古事記には天津麻羅(あまつまら)という神が登場します。
先代旧事本紀では次のように記されています。

「倭の鍛師(かなち)等の祖、天津真浦(あまつまうら)」
「物部造等の祖、天津麻良(あまつまら)、阿刀造等の祖、天麻良(あめのまら)」

阿刀氏はニギハヤヒの子のウマシマジノミコトを祖神とする氏族です。
物部氏はニギハヤヒを祖神としているので、同族と考えていいでしょう。
鍛師は鍛冶師のことだと思います。
ここから物部氏は製鉄や鍛冶の技術に長けた氏族だったのではないかと想像されます。



上はたたら吹きの様子を撮影した動画です。(動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。)
映像が大変美しいです。

この動画を見るとわかるようにたたら製鉄は燃えあがる炎の中で行われます。
このたたら製鉄の様子が、夜空に光る星に喩えられたのではないかという説があります。

そして交野ヶ原のあたりには肩野物部氏が住んでいました。

●妙見大菩薩はたたら製鉄の神だった?

星田妙見宮の御祭神はアメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビですがパンフレットによるとこれらの神々は、「仏教では北辰妙見大菩薩、道教では太上神仙鎮宅霊符神という」と書いてあります。

http://www.raifuku.net/special/wolf/details/myoken1.htm

↑ こちらに妙見星神の図像が掲載されています。
妙見星神の上に描かれている星を描いてみました。↓

妙見星神の上部に描かれた星 

上の三つ星は婁(たたらほし/おひつじ座β星)下の七つ星は北斗七星だと思います。

二十八宿
File:Twenty-eight mansions.jpg

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Twenty-eight_mansions.jpg?uselang=ja )よりお借りしました。

たたらというのは古代の製鉄にもちいる鞴(ふいご)のことで、たたら製鉄という言葉もここからきます。

File:Bellows 2 (PSF) generalized.png

ウィキペディアよりお借りした鞴(たたら)の図です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bellows_2_(PSF)_generalized.png?uselang=ja
作者はPearson Scott Foresmanさんです。ありがとうございます。

鞴はこのように三角形の構造になっているので、それに似ているということで「たたらほし」というのでしょう。
頭上にたたらぼしを戴く妙見星神(妙見大菩薩)はたたら製鉄の神なのではないでしょうか?

星田妙見宮 紅葉 

星田妙見宮 参道


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[2016/12/03 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

星田園地 星のブランコ 紅葉 『物部王朝の太陽神』 




↑ 
巨人の真央ちゃんが巨人の舞ちゃんをおっかける!
美人姉妹だよね♡
写真撮りにいきたいところがたくさんでてくるのも嬉しい~。
オモシロイけど、舞ちゃんちょっとかわいそう~。

大阪府交野市 星田園地・磐船神社
2009年11月下旬 撮影


星のブランコ 紅葉3 
●星のブランコ

星田園地の展望台から見下ろすと、見渡す限りオレンジ色の紅葉が広がっていました。
写真に写っている橋は『星のブランコ』と呼ばれています。

●ニギハヤヒを祀る磐船神社

星田園地の近くに磐船神社という神社がありニギハヤヒを祀っています。

磐船神社 天の磐船

上の写真は磐船神社のご神体の『天の磐船』です。

●初代神武天皇より早く天下っていたニギハヤヒ

初代神武天皇は日向より東征をめざしますが、出立の際、シオツチの翁が「東にはニギハヤヒが天の磐船を操ってすでに天下っている。」と発言しています。
磐船神社はこのニギハヤヒが天下った場所だとされています。

ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

ニギハヤヒが操った天の磐船とはUFOのようなものではないか、という人もいます。
ニギハヤヒは天の磐船からこんなオレンジ色の風景を眺めたのかもしれませんね。
 
星のブランコ 紅葉2


●星の神が住む交野ヶ原

大阪府枚方市・交野市のあたりは平安時代には交野ヶ原と呼ばれていました。
交野ヶ原を流れる川は天の川といい、天の川伝説発祥の地であるともいわれています。
天の川を挟んで中山観音寺跡(観音山公園)と機物(はたもの)神社が向かいあっていますが、中山観音寺跡はアルタイル(牽牛星・彦星)、機物神社はベガ(織姫星)を表しているとされます。
中山観音寺跡(牽牛星)と機物神社(織女星) 七夕祭

織姫と牽牛が年に一度の逢瀬を楽しむとされる逢合橋もあります。
逢合橋はコンクリート造りの味もそっけもない橋で絶句しましたが(笑)。

このあたりには星田・星ヶ丘など星の字のつく地名も多いです。

●ニギハヤヒは星の神

ニギハヤヒは物部氏の租神とされますが、かつてこのあたりには肩野物部氏が住んでいました。

物部氏は製鉄・鋳造の技術に長けており、そのため物部氏の神は星の神だとする説があるります。

また雲陽誌という書物には『ニギハヤヒは星の神』だと記されています。


●ニギハヤヒはもともとは太陽神だった?

古事記や日本書紀では単にニギハヤヒと記されていますが、先代旧事本紀では『天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)』と記されています。
また先代旧事本記はニニギの兄・天火明命(アメノホアカリ)と同一の神としています。

ニニギは天照大神の孫で、天照大神に命じられて葦原中国に天下った神です。

本当の天照大神とは天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒのことではないかとする説があります。
ニギハヤヒはもともとは太陽の神であったのに、神武に政権を奪われて夜の神、星の神へと神格を変えられたのではないでしょうか。

星のブランコ 紅葉 



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[2016/12/02 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大威徳寺 紅葉 『牛の盆』 

大阪府岸和田市 大威徳寺
2013年11月下旬撮影

 
大威徳寺 多宝塔 紅葉
塔百景34


●牛の神

牛滝の大威徳寺では牛に乗る姿の大威徳明王が祀られています。
そのため牛の神として信仰を集め、農耕に牛を用いていたころは3月25日・8月25日の祭日には農家は角巻・首たすき・ユタンなどで牛を着飾って大威徳寺にお参りしたそうです。

大威徳寺 牛のレリーフ 

牛の寺らしく、牛をモチーフにしたレリーフがありました。

●旧暦7月7日は牛の節句


大威徳寺は牛滝山山中にありますが、昔は牛滝山の二の滝付近に牛神の祭場もあったようです。

旧暦7月7日は牛の盆、牛の節句ともいわれ、牛神様を祀る習慣がありました。
泥や野菜で牛の人形をつくって祭場に飾り、川で牛を洗い浄めて祭場に連れていき、お参りをしたそうです。

旧安西家住宅 薬研と七夕馬

上の写真は千葉県木更津市の旧安西家住宅に置かれてあった七夕馬です。
大威徳寺の近所では泥や野菜で牛の人形を作ったということですが、このように馬の人形を作る地域もありました。
詳しくはこちらの記事を参照してください。→ 旧安西家住宅 『七夕馬と天然痘』 

●七夕はお盆の入りの行事だった。

現在ではお盆は8月15日を中心に行われていますが、旧暦のお盆は7月15日を中心とした行事でした。
7月7日は七夕ですが、旧暦では七夕はお盆の入りの行事だったのです。
これで『牛の盆』の『盆』の部分はわかりました。

大威徳寺 紅葉2 

●なぜ牛の人形を作ったり、牛を祭場につれていったのか?


七夕は牽牛と織姫が年に1度の逢瀬を楽しむ日とされていますね。
『牛の盆』の『牛』はこの牽牛からくるのではないでしょうか。

牽牛の「牽」は「牽く」と書いて「ひく」と読みます。
「引く」「曳く」などと同じ意味です。

つまり牽牛とは「牛を牽く」という意味で、牛を祭場へつれていくことは、まさしく「牽牛」なのですね。

大威徳寺 本堂 紅葉 

●御霊・荒魂
和魂

さきほど七夕はお盆の入りの行事であると書きましたが、お盆と逢瀬はどう関係があるのでしょうか。

前回も書いたのですが、神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)に分けられるといわれます。
そして男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
すると御霊とは男女双体となると思います。

御霊(神の本質)・・・・・・・・・男女双体
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神
和魂(神の和やかな側面)・・・女神


大威徳寺 錦秋の滝 紅葉 

錦秋の滝 (二の滝ではありません。すいません。)

●サルタヒコと
アメノウズメの物語

男女双体の神といえば道祖神があります。
道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体と神といわれています。
そのサルタヒコとアメノウズメには次のような物語があります。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。
その後、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコを彼の故郷の伊勢へと送り届け、サルタヒコの名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。
ここからアメノウズメは猿女君と呼ばれるようになりました。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)


●アメノウズメはセックスの女神だった。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国へ天下ったのち、アメノウズメに『サルタヒコをもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じています。
『彼(サルタヒコ)の名前を伝えて』というのは、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコと結婚せよ』と命じたということだと思います。
『(サルタヒコに)仕え祭れ』というのは『性的に奉仕せよ』ということでしょう。
アメノウズメは天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせていますし、サルタヒコに出会ったときにも胸を開き、帯をずらして誘惑しています。
アメノウズメはセックスの女神なのです。

●貝は女陰の比喩?

サルタヒコは伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んでいますが、貝は女陰を比喩したものだと思われます。
つまり、サルタヒコはアメノウズメの女陰に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだということでしょう。

道祖神はサルタヒコとアメノウズメが手を繋ぎ合った姿をしていますが、手を繋ぎあっているのではなく、アメノウズメによってサルタヒコの手がおさえつけられ、身動きできなくなった状態を表していたのですね。

●七夕は牽牛が死ぬ日

サルタヒコと牽牛、アメノウズメと織女は習合されているのかもしれません。

お盆には悪い霊も戻ってくると考えられ、そういった悪い霊が祟らないように女神と和合させる必要があると考えられたところから、お盆の入りの行事として七夕があるのだと思います。

そしてサルタヒコはアメノウズメと和合することによって死んでいます。
牽牛も織女と和合することによって死んだのでしょう。
七夕は牽牛が死ぬ日なのです。
それで7月7日は牛の盆とされているのではないでしょうか。

御霊(神の本質)・・・男女双体・・・道祖神
荒魂(神の荒々しい側面)・・・・男神・・・・サルタヒコ・・・・・牽牛
 和魂(神の和やかな側面)・・・女神・・・・アメノウズメ・・・織女

大威徳寺 多宝塔 紅葉2  


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[2016/11/29 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 紅葉 『海上皇子と開成皇子』 

大阪府箕面市 勝尾寺
2006年11月18日(1枚目) 2011年12月4日(1枚目をのぞく) 撮影

勝尾寺 仁王門 紅葉 

●海上皇子と開成皇子

今、前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本を読んでいますが
ちょっと興味深いことが書いてありました。

静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうです。


①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになりました。
その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためです。


勝尾寺の創建説話に光仁天皇の皇子・開成皇子が登場します。
勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし
765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りたというのです。

前田速男さんはこの開成皇子と海上皇子には関係があるのではないかと指摘されています。

勝尾寺 霧 紅葉 

●春日王と春日宮天皇(志貴皇子)は同一人物?

もしかして、海上皇子と開成皇子は同一人物ではなでしょうか?

奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説がありました。
ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されています。
また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思います。
そこから私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えました。

●海上皇子と開成皇子は同一人物?

海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、ということですが
桓武天皇は光仁天皇の皇子なので、開成皇子と桓武天皇は兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになります。
志貴皇子と春日王の例もあるように、開成皇子と海上皇子は同一人物ではないでしょうか?

志貴皇子は施基皇子、志紀皇子とも書きます。
古には音が同じであれば、さまざまな字をあてて名前を表記していたのかもしれません。

勝尾寺 鐘楼 紅葉 

●志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が!

光仁天皇は志貴皇子の皇子です。
志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっています。
そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前があります。
つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになります。
しかも血のつながりのある志貴皇子・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのです。


●後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子

また愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているそうです。

②御殿において白雀を飼はせらる
まさに餌をやらんとすれば飛び放る
再び捕へんとして穢れし大地を踏まる
悪病にかかりて殿を出で
漂泊 旅して東原に至る

これは内容が①の伝説とまったく同じです。
名前は開成皇子となっていて、勝尾寺の創建にかかわった開成皇子と同名です。

②の文書は①の伝説をもとにしてつくられたもので、開成皇子を後醍醐天皇の子と変えたのかもしれませんね。

それともポーの一族のエドガーやメリーベルのように、開成皇子は時を超えて存在しているとか?

勝尾寺 多宝塔 二階堂 紅葉

●勝尾寺には白山信仰があった?

①の海上皇子、②の開成皇子はどちらも白山神社に伝わるもので、勝尾寺の創建は開成皇子とされています。
ということは、もしかして勝尾寺には白山信仰があったのかもしれませんね。

勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説があります。

参照/
勝尾寺 雨 紫陽花 『白い神と黒い神』 

白髪の娘は白山の神をイメージしたものなのかも?

また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘ということですが、越中とは富山県のことです。
富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物なのかな、と思ったりしますが
五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域でした。

 五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落



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[2016/11/18 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 夕景  『豊臣秀吉とBL』 

 大阪市中央区 大阪城
2010年11月7日 撮影


大坂城 夕景

●太閤さんの城


大阪城は『太閤さんの城』と呼ばれています。
太閤とは摂政または関白の職を子弟に譲った人物のことですが、一般に『太閤さん』といえば豊臣秀吉のことをさします。
しかし秀吉が築城した大阪城は1614年の大坂夏の陣で焼失し、現存する櫓や石垣などは江戸幕府によって築造されたものなのだそうです。

豊国神社(長浜)豊公神社 

豊国神社(長浜) 豊公祭


●秀吉はたいへんな女好きだった。

秀吉は当時たしなみとされていた男色には興味がなく、たいへんな女好きで、多くの側室をもっていました。

秀吉が美少年の小姓・池田信輝の三男・羽柴長吉を呼び、「姉か妹はいないか」と聞いたという話は有名ですね。
羽柴長吉があまりに美しいので、彼に姉妹があるとすれば、相当な美女だろうと秀吉は思ったというのです。

 豊国神社(長浜) 豊公祭 

滋賀県長浜市 豊国神社 豊公祭


●秀吉は少しはBLに興味があった?

しかし、最近『BL新日本史』という本を図書館で借りて読んだところ、「秀吉は全く男色に興味がなかったというわけではない。」というようなことが記されていました。
その本は返却期限がきて返してしまったので、ネットで調べてみました。
『石田軍記』に「秀吉と石田三成がBLの関係だった」と記されており、また南方熊楠は「秀吉と織田信忠がBLの関係だった」と言っているそうです。

金剛寺 菊滋童 屏風

菊滋童の屏風 金剛寺(奈良県五條市)


●戦国時代、なぜBLが流行したのか?

戦国時代にBLが流行したのはなぜなのでしょうか。
それは生理的な理由というよりも、信仰上の理由があったのではないかと私は考えています。

最近、町のあちこちで菊が飾られているのを見かけます。
旧暦では今頃が重陽の節句ですね。

9月9日は重陽の節句(菊の節句)でたいへんおめでたい日とされていましたが、
重陽の節句には菊滋童の舞が舞われたり、菊滋童の絵が描かれた屏風が展示されたりします。

周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。


菊滋童は菊の露を飲んで700年の長寿を得たとされる伝説の少年です。
秀吉が朝廷より豊臣姓を賜ったのは天正14年9月9日ですが、吉日ということでこの日が選ばれたのでしょう。

 法輪寺 重陽神事2

重陽神事 菊滋童の舞 (京都 法輪寺)

陰陽道では奇数を陽、偶数を陰とします。
そして性別では男性が陽で、女性が陰です。
男性と男性が重なることはまさしく重陽じゃないですか。

上のgifアニメは能・菊滋童ですが、ウィキペディアの男色のページに次のように記されています。

「この時代に成立した能や狂言には男色がとても多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B#.E5.AE.A4.E7.94.BA.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.9A.E6.AD.A6.E5.A3.AB.E3.81.AE.E7.94.B7.E8.89.B2より引用

そして重陽は不老長寿の象徴なので
BLは不老長寿をもたらす呪術として尊ばれたのではないかと思うのです。
菊は昔からBLの象徴でもありました。

昔の人にとって陰陽道は科学だったそうなので、秀吉も多少はたしなんだのではないかと思います。

金剛寺 菊枕 

菊枕 金剛寺(奈良県五條市)


●不老長寿とは子孫繁栄のこと?

実際には菊滋童のように700年も生きるのは不可能で、不老長寿とは子孫繁栄のことだと聞いたことがあります。
しかし秀吉は子供にめぐまれませんでした。
南殿との間に生まれた長子・羽柴秀勝は6歳で夭折。
淀殿との間に生まれた次男・豊臣鶴松は3歳で夭折。
そこで秀吉は甥の豊臣秀次を養子としましたが27歳のとき秀吉に切腹を命じられて没しました。
秀次を養子としたあと淀殿との間に三男・豊臣秀頼がうまれたため、秀吉は秀次を疎んで切腹を命じたという説があります。
こうして秀吉の死後秀頼は秀吉の跡をつぐのですが、しだいに徳川家康が権力を握るようになっていきます。
そして1615年の大阪夏の陣で、大阪城天守閣は炎上し、秀頼は母親の淀殿とともに自害して果てたのです。
享年23歳でした。
こうして豊臣家は滅亡してしまいました。

秀吉が不老長寿の呪術ともいえるBLにもっと励んでいれば、秀吉の子孫は繁栄したかも?
案外、秀吉の子孫が断絶してしまったため、「秀吉はBLに興味がなかった」などと言われているのだったりして?
んなわけないか。

大坂城 夕景



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[2016/10/30 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

叡福寺 夕景 桜紅葉 『太子廟には鳥が巣をつくらない』 

大阪府南河内郡 叡福寺
2010年11月6日 撮影


叡福寺 多宝塔 夕景 
塔百景25

叡福寺境内の奥に叡福寺北古墳があり、聖徳太子廟に治定されています。
↓ 立派な扉がついていますが、明治時代にコンクリートで塞がれたので中に入ることはできません。

太子廟 

●太子廟七不思議


太子廟には不思議な言い伝えがあり太子廟七不思議と言われています。

①御廟内には松や笹が生えない。
②鳥が巣を造らない。
③大雨が降っても御廟の土が崩れない。
④御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
⑤メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(1054年)に発見された。
⑥御廟の西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふいたものである。
⑦894年、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かく柔らかかった。

叡福寺 仁王像 

●古代、鳥は死の象徴だった?

この太子廟七不思議の中で「②鳥が巣を造らない。」というのが気になっています。

現代人にとって鳥は希望の象徴で「翼ください」なんて歌もありますね。
けれど古代人にとっては鳥は希望の象徴ではなく、死の象徴であったように思われます。

というのは、古事記に「死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立った」「鳥たちがアメノワカヒコの葬儀を執り行う」などの記述があるからです。
またササキという鳥がいますが、これに御をつけるとミササギ(陵)となります。
昔の人は死んだ人の霊は鳥になって空へ飛んでいくと考えたのではないでしょうか。

巨大な前方後円墳が地上からではその形が認識できず、飛行機などに乗って高いところから見下ろすことによってようやくその形が認識できるのも、古墳が鳥の視線を意識して作られているためだと思います。



大阪府堺市 仁徳天皇陵 きれいな前方後円墳の形がわかりますね。



聖徳太子廟 円墳なのだそうですが、こちらは周囲にも木が茂っているせいか、よく形がわかりませんね。


●聖徳太子の棺の中に遺体がなかった。

そして太子廟七不思議にはありませんが、「聖徳太子の棺の中を調べてみたところ遺体がなかった」という伝説もあります。

すなわち「②鳥が巣を造らない。」というのは「棺の中に聖徳太子の遺体はない。」ということなのではないでしょうか。
聖徳太子の遺体はヤマトタケルのように鳥となってとびたっていってしまったと昔の人は考えたために「②鳥が巣を造らない。」などと言われているのではないでしょうか。

叡福寺 桜紅葉 
 
叡福寺境内よりPLの塔を望む

叡福寺境内よりPLの塔を望む。




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[2016/10/29 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

東光院 萩 『天然痘を流行らせる神』  


大阪府豊中市 東光院
2013年9月29日 撮影


東光院 萩 山門 
 

●民衆に火葬の方法を教えた行基

東光院は735年に行基が薬師如来を本尊として開いた寺で、もとは豊崎村(現在の大阪市北区中津)にありました。
大正3年(1914年)に中津から豊中市南桜塚に移ったそうです。

行基は豊崎村で民衆に火葬の方法をはじめて教え、淀川のほとりに群生していた萩の花を供花として霊前に捧げたという伝説が、東光院には伝えられています。

東光院 道了大権現 

 
●東光寺創建と舎人親王・新田部親王の薨去

行基によって東光寺が創建された735年、舎人親王と新田部親王が薨去しています。

舎人親王と新田部親王はどちらも『長屋王の変』に関係する人物です。

●長屋王の変

729年、朝廷に『長屋王が左道を学んで国家を傾けようとしている。』という密告がありました。
左道とは「よくない道」「不謹慎な道」という意味です。
長屋王が不謹慎な呪術を学んでいる、というような意味でしょう。
これを受けて長屋王の取り調べを行ったのが舎人親王と新田部親王だったのです。

厳しい取調べに耐え切れず長屋王は自殺し、妃の吉備内親王と子の膳夫王も共に死にました。

●長屋王の変の真相

当時、長屋王は政界トップの左大臣という地位にあり、また長屋王の子の膳夫王は次期天皇候補ナンバーワンでした。
これを妬んだ藤原四兄弟(藤原不比等の子。武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が長屋王を排斥するために仕組んだ陰謀だったと考えられています。

東光院 萩

●藤原四兄弟、長屋王の祟りで死ぬ。


長屋王の没後、藤原四兄弟は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立しました。
ところが737年に藤原四兄弟は次々に天然痘にかかって亡くなり、長屋王の怨霊の仕業であると噂されました。

●舎人親王・新田部親王の死も長屋王の祟り?

新田部親王と舎人親王が死んだのは四兄弟が死亡する2年前のことでした。
『続日本紀』に二人の死因は記載されていませんが、天然痘が流行ったのは735年から737年だったので、新田部親王と舎人親王も天然痘にかかって亡くなったのではないでしょうか。

すると新田部親王と舎人親王の死も長屋王の怨霊の仕業だと畏れられたことでしょう。

●トガノの鹿

日本書記の『トガノの鹿』の物語では雄鹿が殺されて塩を振られているとありますが、謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人を表しているのではないかとする説があります。

また萩の別名を「鹿鳴草」といい、萩もまた謀反人を表しているのではないかとする説もあります。

萩が咲き乱れる東光院は謀反人を慰霊するための寺なのかもしれませんね。

東光院 萩 階段

●謀反人は庶民として葬られた?

772年に亡くなった道鏡は、弓削氏とされますが、志貴皇子の子だったとする史料もあります。
志貴皇子の子であったとすれば、道鏡は皇族だったということになります。
女帝で子供のなかった孝謙天皇は、次期天皇を道鏡にしたいと考えていましたが
それは道鏡が皇族であったからかもしれません。
(一般には道鏡は皇族であったとは考えられていませんが)
孝謙天皇が急死したのち道鏡は失脚し、下野国へ流罪となって亡くなりました。
そして庶民として葬られたそうです。

それより少し前の729年に自殺した長屋王も庶民として葬られたのかも?
すると、行基が火葬を教え、謀反人の象徴である萩の花を供えた民衆とは長屋王のことで、東光院は長屋王の霊を祀る寺なのではないかなあ、と思えてくるのです。

感染症法第30条

また、感染症法第30条では天然痘患者の死体は原則火葬と決められているようです。
http://www.mhlw.go.jp/kinkyu/j-terr/2004/0514-1/12.html

これは、火葬にすることで、病原菌が他者に伝染しないようにするためでしょう。
もしかして、行基は火葬が天然痘の流行を防ぐことをを知っていたんでしょうか?

東光院 萩 地蔵 



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[2016/10/07 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

淀川 わんど 夕暮 『わんどって何?』  

大阪市旭区 淀川・わんど
2011年10月1日 撮影 (1枚目は10年以上前の9月)

わんど2 
川に細長い砂州のようなものがありますが、これは『わんど』とよばれています。

●かつて川は重要な交通路だった。

アニメ「風立ちぬ」では、牛が飛行機を牽くシーンや、川をたくさんの帆掛け舟が往来する様子がとても印象的でした。
陸上交通が発達していなかったころ、川は重要な交通路であり、多くの船が行き来していたのですね。
淀川にも多くの船が浮かぶ風景が見られたようです。
一寸法師もお椀の舟に乗り、淀川を遡って京へ向かったんですよ。

枚方宿 説明版より 淀川の絵 
枚方宿(説明版より/枚方宿はわんどより上流)

●明治期の淀川改修工事


明治時代、大阪⇔伏見間を蒸気船で繋ぐという計画がもちあがり、淀川の改修工事が行われました。

伏見 京橋あたり 
江戸時代の伏見・京橋あたり(説明版より)

淀川を利用して大阪から伏見へ行くためには、一寸法師のように川を遡る必要があります。
川の流れが急だと川を遡ることが難しいので、川の流れを緩やかにしないといけません。
川は直線的に流れるよりも、くねくねと蛇行して流れる方が流れが穏やかになります。
そこでまず、川を蛇行させる工事が行われました。

次に、川が急カーブを描く部分は、水がぶつかって壊れるのを防ぐため、水制という構造物がたくさん設置されました。
水制とは岸から川へ垂直に伸びる細長い構造物です。
水制と水制の間には、木の小枝や下草を用いた大きなマットをたくさん積み重ねて川底に沈めてあるそうです。
このマットには水流を穏やかにする効果があるのだといいます。

マットには土砂やごみが付着して目詰まりをおこさないように定期的に掃除をしなければいけなかったのではないかと思ったりしますが、実際にはどうだったんでしょうか? 

 わんど3
 
●魚たちの住処となったわんど

現在では淀川を航行する船の姿はほとんど見られなくなりました。

そして長い年月の間に水制の周囲には土砂がたまり、その上に植物が生い茂るようになりました。
現在では『わんど』は魚たちの貴重な住処となっているそうです。

わんど



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[2016/09/12 10:23] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)