大阪府枚方市 常称寺
①親鸞と結婚した九条兼実の娘・玉日 雪の降る常称寺。
近所の方にうかがったところ、このあたりで雪が積もるなんてことはめったにないということでした。
浄土真宗のお寺だとかで、浄土真宗の開祖・親鸞の像が置いてありました。
※門前の石碑には「存覚上人~」とありますが、像は親鸞だと思います。
守口市の存覚上人旧跡・光明寺にも同様の像があり、親鸞聖人像とされているようなので。
https://moriguchi.club/zonkaku-shounin-koumyouji/
親鸞さん、雪をかぶって寒そうですね~。
親鸞さんといえば僧侶として初めて妻帯したことで有名ですね。
こんな話がありますよ。
九条兼実「女人を絶った僧が唱える念仏と、俗にまみれた私が唱える念仏は功徳が違うのではないでしょうか。」
法然「出家の称える念仏も弥陀回向。在家の称える念仏も弥陀回向。回向の念仏に変わりはありません。
阿弥陀様の本願は、悪人・女人です。
私も愚かな法然として念仏を称えています」
九条兼実「後の世の人々が私のように迷わないように、法然様のお弟子さんと私の娘を結婚させていただけないでしょうか。」
法然「綽空(親鸞のこと)、九条兼実公の婿となられよ。そして在家の人々の先達になれ」
そういったいきさつがあり、1203年10月5日に31歳の親鸞は兼実の末娘・玉日18歳と結婚しました。
京都市伏見区深草直違橋の西岸寺はかつて藤原忠通(1097~1164)が建立した法性寺小御堂があり
1207年親鸞が越後に流罪となってから、玉日がここに住み、ここで没したと伝わり、墓が建てられているということです。
茨城県結城市にも「玉日姫の墓」があるようです。
越後へ流された親鸞をおって玉日は侍女・白川局とともに結城にやってきて、親鸞の教えを広め、1254年にこの地で没したと伝えられています。
②恵信尼と玉日は別人だった?
親鸞の妻に恵信尼がいます。
かつては恵信尼と玉日は同一人物だと考えられていたこともあったそうです。
しかし1921年に恵信尼が娘・覚信尼(かくしんに)に宛てた手紙等(恵信尼文書)が発見されました。
その内容から恵信尼は三善為則(みよしためのり)の娘であると判明しました。
玉日は九条兼実の娘だと言い伝えられていたので、恵信尼と玉日は別人ではないかとか、玉日は伝説上の人物ではないかなどといわれるようになったようです。
③玉日の墓の発掘調査
2012年京都市伏見区の西岸寺の玉日の墓を発掘調査したところ、人骨と骨つぼが発見されました。
人骨は火葬されているため埋葬年代や性別の判断ができないということです
この墓は1852年に九条家が御廟所を改葬したという記録があり、骨つぼの製作時期と一致しているとのこと。
うーん、これは玉日の実在を裏付ける根拠としては決定打とはいいがたいような~?
④「親鸞聖人伝絵」「正明伝」の食い違い
「親鸞聖人伝絵」では、流罪を許された親鸞は法然が亡くなったことを聞き、京に帰る理由がなくなったとして関東に向かったとしているそうです。
ところが高田派の「正明伝」では、流罪を許された親鸞が法然上人の墓と玉日姫の墓に参った様子が記されているとのこと。
親鸞は4男3女をもうけています。
範意〈印信〉/玉日の子?(本願寺系図別本による) | ―娘‐―源伊(範意の孫) |
小黒女房 | |
善鸞/玉日の子?(本願寺系図別本による) | |
明信〈栗沢信蓮房〉 | |
有房〈益方大夫入道〉 | |
高野禅尼 | |
覚信尼 | ー覚惠(覚信尼の子)ー覚如(覚恵の子)ー存覚・従覚 ー唯善(覚信尼の子、覚恵の異父弟) |
覚如は父・覚恵の異父弟・唯善、玉日の子・範意の娘の子源伊との間で相続争いをしていたと言われます。
そのため、「親鸞聖人伝絵」は、玉日姫の墓参りをわざと省いたのではないかとする説があります。
一方、山田文昭は「正明伝」は偽作だとしています。
その根拠は「正明伝」に突然怪奇談が五つも表れるからということのようです。
梅原猛氏は、怪奇談は当時の怨霊信仰から考えて、怪綺談が登場するのは当然であるとして、「正明伝」は偽作ではないとされました。
また、親鸞が善鸞に充てた手紙に「継母に言い惑わされたると書かれた事、殊にあさましきことなり」と書いていることから
恵心尼は親鸞の2番目の妻であるとする説もあるようです。
本願寺系図の別本には、「印信(範意)」並び「善鸞」は「母月輪関白兼実公女」とあるということです。
親鸞は、流罪となる前に九条兼実公の娘・玉日との間に「印信(範意)」「善鸞」の二男子をもうけ、
流罪後に三善為則の娘、恵信尼公との間に四人の子をもうけたのではないかというのです。
新潟にはこの四名の子らの名前「栗沢」「益方」「高野」「小黒」の地名が存在しているそうです。
玉日は親鸞流罪の約2年のちに京で亡くなってしまったので、越後之介三善為則の娘恵信尼公が玉日姫に代わってり越後へおもむき親鸞の世話をしたのではないかとしています。(当時遠流には妻をともなう習わしでした。)
⑤玉日は室町時代になって初めて史料に登場する。
今井 雅晴 さんは「親鸞の妻 玉日は実在したのか?―父とされる関白九条兼実研究を軸に (歴史を知り、親鸞を知る) 」という本の中で次のようなことを述べておられるそうです。
⑴玉日が史料に登場するのは、室町時代の『親鸞聖人御因縁』『親鸞聖人御因縁秘伝鈔』
⑵九条兼実の娘は任子のみとされる。
⑶玉日が兼実の娘であったとすれば、兼実は天皇の后とするため画策したはずである。
⑷玉日は実在しない架空の人物ではないか。
そのほかにも玉日を実在の人物ではないとする説の論拠として、次のようなものがあります。
⑸九条兼実の日記「玉葉」に玉日のことは書かれていない。
⑥玉日実在説、玉日虚構説まとめ
たぶん(曖昧ですいません。実際に本を読んだだけでなく、ネットでぐぐった知識だけで語っているので)
玉日実在説、玉日虚構説は下のようにまとめられるのかなと思います。
玉日実在説 | 玉日虚構説 |
玉日の記録がないのは、僧侶の妻帯が憚られたため | 玉日が史料に登場するのは、室町時代 九条兼実の日記にも玉日のことは記されていない。 |
さて、どちらが正しいのか?
後の時代に、当時の権力者・九条兼実と親鸞を結び付けて玉日の物語が創作されたような気もしますが
もっとつっこんで考えないと、これだけでは結論だせないなあ、と思いました。
玉日が実在したと考えると、兼実は玉日が生まれたときから親鸞の妻にしようと考えてはいなかったと思われます。
兼実は日記に玉日のことを記したが、のちになって兼実もしくは別の人によってその部分が削除されたと考えるのが妥当だと思います。
不自然に日記の記述が削除された跡などはあるのかどうか、というのが気になります。
さんはどうお考えになりますか?
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大阪府交野市 獅子窟寺
ここが獅子窟寺参道の登り口。丁石がおいてありました。一丁は約109mなので、6丁は約654mです。
長い坂道なので息がきれますよ。はあはあ。
↑牛臥石。
↑ これは仁王門あと。
1615年、大坂夏の陣の際、獅子窟寺は豊臣方への加勢を拒否し、そのため焼き討ちにあって、全山十二院を消失したと伝えられます。
仁王門もこのとき焼失したそうです。
到着ーーーー!
①八丁三所伝説
黄檗宗の僧・月潭が著した『獅子窟寺記』(1692年)には次のように記されているそうです。
獅子窟寺は文武天皇の頃、役行者が開山し、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建した。
天長年間(824 - 833年)には空海が当地で仏眼仏母の修法を行った。境内に空海が修法を行ったと伝わる獅子窟があるということなので、探してみましょうー。
A

下の地図に獅子の岩とあるあたりです。
向かって左の立て看板には「獅子の岩へお参りされるかたは石垣がくずれる恐れがありますので上のほうよりお参りください」と書いてあります。
写真右手に短い階段があって岩の上に登れるようになっています。


↑ 登ったところにはこんな岩が。弁財天と記した旗が立てられていました。

↑ さらに木の根の階段を登っていくと

↑ これは巨大なマラ石だよねw
だけど、獅子窟がない~。
ここじゃなくて、奥の院のほうなのかな?と思って山道を歩いていきましたが、
帰宅後調べてみたら、このマラ石から一段おりたところ(急な段差があって階段もなかったです~)に獅子窟はあったようです(涙)。

↑ これは写真Aの立て看板の後ろあたりにあった岩。どうやらこの岩の後ろあたりに獅子窟はあるみたいですね。
そういうわけで場所がわからなくて写真撮れなかったので、リンクをはっておきます(汗)。
https://omairi.club/spots/82293/point空海は獅子窟で仏眼仏母の修法を行ったそうですが、仏眼仏母について、ウィキペディアには次のように記されています。
「仏眼仏母 (ぶつげんぶつも)、(梵: बुद्धलोचना [buddhalocanā])は、仏教、特に密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化したものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E7%9C%BC%E4%BB%8F%E6%AF%8D より引用
次のように記したサイトもありました。
「金剛界大日如来が、胎蔵界に入った瞑想した境地が、一字金輪(ボロン)ですが、
胎蔵界大日如来が、金剛界に入って瞑想した境地をあらわしたのが、仏眼仏母といわれています。」
https://ameblo.jp/ronjanzensin/entry-12145864529.htmlより引用
獅子窟が金剛界で、空海は胎蔵界大日如来としてここで瞑想したということでしょうか?
でも案内図 ↓をみると、「獅子の岩(女岩)と書いてあるので、獅子窟は胎蔵界で、空海は金剛界大日如来じゃないか、と思えます。(胎蔵界は女性の子宮を意味する。)
うーん?
交野市のhpには次のように記されています。
八丁三所
平安時代、私市の獅子窟寺(ししくつじ)で弘法大師が修行していた折、天から北斗七星が、星田の3か所に降りたという言い伝えのある場所。 その場所は、星田の光林寺(こうりんじ)、星の森、妙見山(みょうけんざん)で、それぞれの間の距離がほぼ八丁(約880m)にあたることから、名付けられたという。
https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2018031500015/ より引用
空海が獅子窟寺で修法を行ったのは嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)の頃だとする記事もありました。
②昔の人は巨岩を落ちてきた星だと考えた?
昔の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えていたのではないかと思います。
雲陽誌という書物に次のような内容が記されています。
島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒ(物部氏の祖神)の石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。
獅子窟寺から南へ直線距離で1kmほどの場所に磐船神社があります。
磐船神社はニギハヤヒを祀る神社で天の磐船という巨岩をご神体としています。
磐船神社 天の磐船
ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峰に天下ったとされ、この磐がその天の磐船だと考えられています。
ニギハヤヒが天の磐船を操って天下ったというのは、この巨岩は空から降ってきた星だと考えられたということではないかと思います。
そう考えると、ニギハヤヒが星の神とされていることも説明できます。
この磐船神社も獅子窟寺同様、巨岩がごろごろしておりまして、磐の間を通り抜ける岩窟廻りなどを体験することができますよ。
(雨天などは中止になることもあるので、確認の上おでかけすることをおすすめします。)
こちらからバーチャル岩窟廻りができます。↓
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/gankutu.html
獅子窟寺奥の院へ向かう道
④星の神は敗者の神
記紀神話に星の神は一柱しか登場しません。
天津甕星という神さまのみです。
ですが住吉明神は星の神ではないかと考えられています。
住吉明神とは底筒男命・中筒男命 ・表筒男命・神功皇后の総称ですが、神名にある『筒』は星の神であることを示すものだという説があります。
『上記(うえつふみ)』という文書の中に、トムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などとあり、星の名前には必ずツツという音がついているためです。
記紀神話に星の神が一柱しか登場しないのは、星の神が抹殺されたのではないかともいわれています。
そして星の神・天津甕星は天照大神の葦原中国(日本列島。たぶん北海道・沖縄は省く)平定に最後まで抵抗した荒々しい神、と記されています。
天照大神は葦原中国を平定して天孫であるニニギを天下らせていますので、天津甕星は天照大神に負けた神だと考えられると思います。
そして大阪府交野市あたりは古には肩野物部氏が住んでいた土地であり、
物部氏の祖神で磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは神武より早く畿内に天下っていたのですが
のちに向からやってきた神武に服したと、記紀には記されています。
交野には星の伝説が数多くあり、星の町と呼ばれますが、
それは敗者・物部氏が住んでいた土地であり、またその土地の山には巨岩(昔の人は巨岩を落ちてきた星だと考えていたと思います。)が無数にあることに由来していると思います。
奥の院へ向かう道は巨岩がごろごろしていました。
⑤薬子の変
さて、空海はなぜ獅子窟寺で修法を行ったのでしょうか?
空海が獅子窟寺で修法を行ったのは嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)の頃ということでしたが
810年には薬子の変がおこっています。
806年、桓武天皇が崩御して平城天皇が即位しましたが、809年に病を患い、病の原因を占ったところ、早良親王の祟りとでました。
早良親王は桓武天皇の同母弟で桓武天皇の皇太子でしたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして淡路に流されていく途中、憤死しました。
我が子に皇位をつがせたいと願う桓武天皇の陰謀との説もあります。
このような経緯をへて平城天皇は即位したので、早良親王の怨霊をそれは恐れたことでしょう。
そして、早良親王の怨霊を避けるため、同母弟の嵯峨天皇に譲位しました。
810年、平城上皇は平城京へ移りますが、上皇の寵臣である藤原仲成・薬子兄弟は複位をもくろんでいました。
そして平城京の平城上皇vs平安京の嵯峨天皇が対立し、二所朝廷と呼ばれる状態となってしまいます。
そして平城上皇は平城京遷都の詔を出すにいたりますが、嵯峨天皇はこれを拒否します。
平城上皇は挙兵しますがあっけなくとらえられ、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害しました。
平城上皇は出家して空海より灌頂(密教の儀式。頭に水をそそぐ。)を受けています。
そのほか、大勢がこの事件に関与したとして処分を受けています。
奥の院へ向かう道 巨岩
家系 | 氏名 | 官位など | 処罰内容 |
---|
皇族 | 平城上皇 | 太上天皇 | 自主的に出家、大権の喪失 |
皇族 | 高岳親王 | 皇太子 | 廃太子 |
皇族 | 阿保親王 | 四品 | 大宰員外帥へ左遷 |
皇族 | 礒野王 | 従五位上・図書頭 | 伊豆権守へ左遷 |
皇族 | 田口王 | 従五位下 | 土佐権守へ左遷 |
皇族 | 真菅王 | 従五位下 | 壱岐権守へ左遷 |
藤原式家 | 藤原薬子 | 正三位・尚侍 | 尚侍を解任、のち自殺 |
藤原式家 | 藤原仲成 | 従四位下・参議 | 佐渡権守へ左遷、のち射殺 |
藤原式家 | 藤原安継 | 従五位下・大舎人助 | 薩摩権守へ左遷 |
藤原式家 | 藤原貞本 | 従五位下・大蔵大輔 | 飛騨権守へ左遷 |
藤原式家 | 藤原永主 | | 日向国へ流罪 |
藤原式家 | 藤原山主 | | 日向国へ流罪 |
藤原式家 | 藤原藤主 | | 日向国へ流罪 |
藤原北家 | 藤原真夏 | 正四位下・参議 | 伊豆権守次いで備中権守へ左遷 |
藤原北家 | 藤原真雄 | 従四位下・左馬頭 | 伊予守へ左遷、のち備前守に転任 |
紀氏 | 紀田上 | 従四位下・尾張守 | 佐渡権守へ左遷 |
紀氏 | 紀良門 | 従五位下・越後守 | 肥前権介へ左遷 |
その他 | 多入鹿 | 従四位下・参議 | 讃岐権守へ左遷、のち安芸守、讃岐権守に転任 |
その他 | 菅野庭主 | 正五位上・木工頭 | 安房権守へ左遷 |
その他 | 大中臣常麻呂 | 従五位上・兵部少輔 | 備前権守へ左遷、のち伊予守に転任 |
その他 | 大伴和武多麻呂 | 従五位上・左近衛少将 | 武蔵権介へ左遷、のち日向権守に左遷 |
その他 | 御室是嗣 | 従五位上 | 大隅権守へ左遷、のち筑後権介に左遷 |
その他 | 御室氏継 | 従五位上 | 薩摩権守へ左遷 |
その他 | 安倍清継 | 従五位下・越前介 | 安芸権守へ左遷、のち伯耆国へ流罪 |
その他 | 当麻鱸麻呂 | 従五位下 | 淡路権守へ左遷 |
その他 | 安曇広吉 | 従五位下 | 伊予権介へ左遷 |
その他 | 百済王愛筌 | 越前権少掾 | 安房国へ流罪 |
その他 | 永野浄津 | | 越前国へ流罪 |
その他 | 伊勢安麻呂 | | 能登国へ流罪 |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89 より引用
この大勢の処分された人々の霊を弔うため、空海は獅子窟で仏眼仏母の修法をおこなったなんてことないですかね~?
神泉苑御霊会で崇神天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使・橘逸勢・文屋宮田麻呂が慰霊されていますが、
観察使とは藤原仲成のことではないかなどともいわれていますよ。
神泉苑で慰霊されたということは、彼らは御霊(怨霊)だということになりますが。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、天災や疫病の流行は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。
嵯峨天皇代になにか天災・疫病の流行などがあり、それらは薬子の変で処分された人々の怨霊の仕業だと考えられたので、
空海が修法を行ったんだったりして?
奥の院へ向かう道 巨岩④奥の院は巨岩がごろごろしていた。
奥の院へ向かう道は細くて険しい山道もありました~。
が、木の幹に太いロープを結び付けてくださっている場所などもあり、心遣いに感謝です!
奥の院といっても、建物があるわけではなく、大きな岩がごろごろと存在しているのです。
そのひとつひとつが薬子の変で処罰された人々の霊のように思えてきたw
↑ 弥勒岩?鏡岩?

登れるようになっていました。
⑤遭難しかけるwそろそろ境内に戻ろうと引き返したのですが、どこでどう道をまちがったのか?歩いた記憶のない道にきてしまい・・・・
道が二股にわかれているところまで引き返し、もう一方の道を行ってみましたが、こちらの道も歩いた記憶がないw。
でも「私市駅→」と書いてある看板があったので、友人と相談してそっちのほうに行ってみよう、ということになりました。
途中、ものすごい急こう配があり、お尻で滑りおりるようにしておりてみると、「獅子窟寺→」の看板がありました。
ほっとしたのもつかの間、倒木で道が塞がれています~(涙)。
戻ろうかとも思ったけど、あの急こう配を上る自信がなかったので、獅子窟寺とは逆方向に道を下っていくことにしました。
道沿いにも巨岩が積み重なった場所などありましたが、不安な気持ちが勝ってしまって写真を撮るどころではありませんでした~。
日は傾いてくるし、こんなところで遭難したら恥ずかしいしー。
だけど20分くらい歩いたら、ガードレールが見えてきて、さらに歩くと民家が見えてきました。ヨカッタ、ヨカッタ。
私市駅付近に降りて来たのです。
そこから歩いて河内森近くの駐車場に止めてあった車まで戻りました。
みなさんも、獅子窟寺の奥の院に行かれる際はご注意ください!

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ですが「惟喬親王の乱」というのはウィキペディアにも書いてありませんし、他のサイトでもそういうことがあったと書いてある記事は読んだことがありません。
上の記事でも次のように記しています。
「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。」しかし、私は「惟喬親王の乱」がなかったとはいいきれないと思います。
千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社④藤原氏vs紀氏のバトル!
「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかった」について、もう少し詳しく記しておきます。
文徳天皇は紀静子(紀名虎の娘)との間に第一皇子の惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に第四皇子の惟仁親王をもうけていました。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者・藤原良房を憚って天皇をいさめました。
こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。
平家物語などに次のように記されています。
藤原良房と紀名虎はいずれの孫(惟仁親王vs惟喬親王)を立太子させるかでもめ、高僧による祈祷合戦、相撲などによるバトルを繰り返した末、藤原良房が勝利し、惟仁親王が立太子した。この話は史実ではありません。というのは惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからです。
しかし藤原氏と紀氏に確執があったことは確かでしょう。
⑤惟喬親王の歌会はのろいの会だった?紀名虎の子で紀静子の兄(つまり惟喬親王の叔父)・紀有常、在原業平は惟喬親王の寵臣でした。
世継争いに敗れた惟喬親王は紀有常や在原業平をお供として交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)に狩をしにやってきて、渚の院(枚方市)で桜をめでつつ歌会を催すなどしています。
これについて、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は文学の世界に情熱を傾けたのだろう、と一般にはいわれています。
しかし、そうではなく、彼らは歌会と称して藤原氏をのろっていたのではないかというような意味のことを高田祟史さんがおっしゃっていました。
私は彼の説を支持します。
たとえば伊勢物語「渚の院」の段ににこんな歌が掲載されています。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき ※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)この2首は藤原良房が詠んだ次の歌に対応していると思います。
染殿の后のおまへに花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房
(染殿の后の前の花瓶に桜の花がいけてあるのを見て詠んだ。
年をとって年齢は老いてしまった。そうではあるが、花を見れば悩むことはない。)
「染殿の后」とは良房の娘、明子のことです。
娘を入内させて生まれた子供を天皇とし、天皇の外祖父になるというのが、藤原氏の権力掌握の常套手段でした。
藤原良房は娘の明子を桜の花にたとえたのでしょう。
つまり、良房は、「明子がいる限り、わが世は安泰だ」と歌を詠んだわけです。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)
この歌は、「明子がいなければ、春の心はもっとのどかなものだっただろうに」という意味ではないでしょうか。
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
(散るからこそ、桜はめでたいのだ。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)
こちらの歌は「桜が必ず散るように、この世に永遠というものはない。藤原氏も必ず衰退するだろう。」という意味だと思います。
古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていました。
つまり歌は文学などではなく呪術であったと考えられます。
惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないでしょうか。
渚の院 淡墨桜
⑥なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているの?
また、枚方市には茄子作という地名がありここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。
惟喬親王は鉄鋼鋳造と関係が深そうに思えます。
本尊掛松(枚方市茄子作)
また大阪府三島郡島本町広瀬には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っています。
なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのでしょうか?
鍛冶屋がつくるものは、現在では包丁などが主ですが、かつては刀や弓矢などの武器をつくっていました。
惟喬親王と在原業平は挙兵するため、武器を製造していたため、鍛冶屋の祖神として祀られているのではないでしょうか。

粟辻神社
⑦腰掛石は怨霊の執念がしみついた石?
千手寺 在原業平腰掛石
千手寺境内には在原業平腰掛石がありました。
腰掛石と呼ばれるものはほかの寺にもあります。
宇多天皇が創建した京都の仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説があります。
道真は藤原時平の讒言により流罪となりました。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとしました。
しかし宇多上皇は留守でした。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていましたが、会うことができないまま大宰府へ流されていきました。

仁和寺 菅公腰掛石
また奈良の手向山八幡宮にも菅公腰掛石があります。
道真は宇多天皇の行幸に付き従って手向山八幡宮へやってきてこんな歌を詠んだとされます。
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)

手向山八幡宮
『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛かります。
幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣がありました。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけますが、これが幣だと思います。

幣(一言主神社にて)
道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていただと思います。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたということでしょう。
菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物でした。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れました。
醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣、藤原時平は左大臣になりました。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっており、道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進でした。
道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言しました。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟です。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていました。
醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡しました。
大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形
その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられました。
⑦菊野大明神
京都市中京区に法雲寺という寺があり、境内に菊野大明神が祀られています。
菊野大明神
ご神体は深草少将が腰掛けたという石だといいますが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわかりませんでした~。
深草少将は小野小町に「百夜通したならば100日目に会ってあげてもよくってよ」と言われて実行したのですが、99日目の夜に死んでしまったとされます。
深草少将腰掛石にはその恨み籠もっているので男女の仲を裂くといわれています。
すると、官公腰掛石は官公の恨みが籠った石ではないかと思えます。
そして在原業平腰掛石もまた、業平の恨みが籠った石なのではないでしょうか?
千手寺 在原業平腰掛石
千手寺-石切観音 水子地蔵
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