静岡県熱海市 熱海温泉
2017年6月中旬撮影
①お宮は寛一を外国に留学させるため富豪へ嫁いだ?熱海といえば金色夜叉ですよねえ~。
寛一・お宮の銅像もありましたよ。
金色夜叉は明治時代に尾崎紅葉が書いた小説ですね。
間寛一は若くして両親を失い、父の友人である鴫沢家にひきとられて育てられました。
そして鴫沢家の一人娘・宮は寛一の許嫁とされていたのです。
ところが、富豪の富山唯継が宮を気に入り、宮を妻にしたいと申し出ます。
宮の心は迷い、そのまま母親と熱海旅行にでかけます。
そこへ事情を知った寛一があらわれ、寛一とお宮は散歩しつつ口論となります。
そして寛一がお宮を蹴り飛ばす有名なシーンへ。
金色夜叉の歌詞では、お宮は「寛一を外国に留学させるため、父母の教えに従って富山に嫁ぐ」と言っていますね。
https://www.youtube.com/watch?v=HdpMmEn8--g
②お宮はダイヤモンドに目がくらんで富豪に嫁いだでも、
http://konjiki.choice8989.info/index.html#mokuji上記、「現代版金色夜叉」を読むと、そうではないです。
たしかに、お宮の父親は「お宮を嫁にやり、寛一はヨーロッパに留学してから身を固めさせたい」というようなことを言っています。
しかし、次の様にも記されています。
別れた後の貫一をさほどまでに慕ってはいたものの、過ちを改めて身の純潔を守り、心を決めてその恋に突き進もうとはしなかったのである。彼女の胸にはそこまでの覚悟はなかったのだ。
恋に焦がれつつも信念を貫こうとはせず、つまらない結婚をしようとしてるのだと思いながらも、強いて今更拒絶しようともしない。恋しいあの人に思いを馳せ、この人の裕福さを惜しみ、結局何も決断しなかったのだ。
http://konjiki.choice8989.info/main/kohen2.htmlより引用
お宮は既に裕福さに飽きてしまっていた。そもそも彼女がこの家に嫁いだのは、迷える若い娘が華やかで豊かな生活ができる身分を一途に願ったからである。最初から夫への愛情みたいなものなんて、あっても良いし、無くってもこれまた良いと、ほとんど無用なモノのように軽んじていたのだ。
今となってはその願いは通じた。しかも富に飽き飽きしてしまった彼女には、纏わりつく愛情が煩わしくて仕方ない。影を追い掛けるよりも儚い昔の恋を却って想い、心密かに胸を焦がしていたのである。
http://konjiki.choice8989.info/main/kohen3.htmlより引用はい、お宮はダイヤモンドに目がくらんで富豪の富山と結婚したんですね~。
歌のほうはなんで「貴方を洋行さすがため~」にしたんでしょうかね。
ダイヤモンドに目がくらむ女性ははしたない、と考えて原作とは違う筋にしたんでしょうか。
だけど「貴方を洋行さすがため~」だと薄っぺらい話になってしまいますね。
「迷える若い娘が華やかで豊かな生活ができる身分を一途に願ったからである。」の方がリアリティがあって文学として価値があると思います!
このときお宮は19歳。
まだ若くて、自分が望んでいるものをきちんと見極めることができなかったんでしょう。
若い人にはありがちなことです。
いや、相当年齢を重ねても、人間は過ちをおかしがちです。
こういうことから目をそらさずに切りこんでこそ、文学といえるよね。
③貴金属を採掘する夜叉寛一は熱海でお宮と別れたのち、鴫沢家を出、大学もやめてしまいお宮への復讐のため闇金業の鰐淵の手下となって働きます。
冷酷であくどい取り立てが恨みを買い、殴られて大けがを負ってしまいます。
鰐淵も自宅に放火され、妻とともに死亡しました。
お宮は富山との間に子をもうけるも、生後間もなく肺炎を患って亡くなってしまいます。
そして富山と結婚して初めて寛一を愛していることに気づき、苦しみます
夜叉とは財宝の神・クベーラ(毘沙門天)の眷属で、クベーラは夜叉を使役して貴金属や宝石を採掘させていました。
金色夜叉とはお金に翻弄されたあさはかな人間のことを言っているのかもしれません。
つまり、金色夜叉とは、寛一のことであり、鰐淵のことであり、お宮のことのようにも思われます。

④美人クリームの謎々赤樫満枝という登場人物がでてきますが、彼女は「美人クリーム」とあだ名をつけられています。
なんで「美人クリーム」なのかというと、彼女は高利貸し業を営んでいるので、高利貸し=氷菓子=アイスクリーム、
そして大変な美人なので「美人クリーム」というわけです。
こういう謎々は平安時代にはすでにあり、「白髪」のことを「九十九髪(つくもかみ)」と言ったりしました。
そのココロは、99=100-1、九十九=百引く一=白。
うまい!座布団2枚!
金色夜叉が著されたのは明治時代ですが、明治時代の人々はこういう洒落た謎かけをやっていたということなんでしょうか?
このごろはこんな粋なニックネームをつけることはあまりありませんね。
⑤雅俗折衷文金色夜叉は雅俗折衷文といって、地の文は文語体で、会話文は口語体で記されています。
文語体は寺社の説明板などでときおり見かけますが、今はほとんど使わないので、意味がわからなくてちんぷんかんぷんです。
そのほか、変体仮名や草書などもほとんど使われませんね。
そのせいで、明治維新の坂本龍馬の手紙が現代人にはほとんど読めないです。
百田
尚樹さんが「韓国ではハングルばかり使われていて、漢字が読めなくなっている」と批判していましたが
日本人も「文語体や草書が読めなくなっている」のです。
メクソ、ハナクソを笑う状態かも~?
来年の今月今夜の月を、僕の涙で曇らせてみせる~!
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[2017/07/01 20:03]
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静岡県河津町 下田町
2月中旬 撮影
河津①伊豆の踊子の舞台・河津
河津町って川端康成の『伊豆の踊り子』の舞台なんですね。
学生は、静岡県伊豆市の修善寺温泉・湯ヶ島温泉
から天城峠(静岡県伊豆市と賀茂郡河津町の境にある峠)にある天城トンネルを越えたところで、旅芸人一行と道連れとなり、湯ヶ野温泉(静岡県賀茂郡河津町)・下田(静岡県賀茂郡河津町)へ向かいます。
旅芸人一行の中には14歳の少女・薫がおり、学生は薫に恋心を抱きます。
学生は天城峠の茶屋の老婆から、「旅芸人は誘われればどこにでも泊まる」と聞いた話を思い出し
湯ヶ野温泉の宿で、薫が男客に汚されると眠れない夜を過ごします。
しかし、翌朝、朝湯につかっていると、川向うの湯殿から裸で手を振る薫を見つけて、学生は「薫はまだ子供なんだ」と嬉しくなってしまう・・・みたいな筋ですね。
大正ぐらいの日本を舞台としているようですが、そのころの日本には旅芸人がいたのですね。
下田 京都白峯神宮で小町踊を踊っていたお嬢さんを合成②乞食・旅芸人 立ち入るべからず鰐淵晴子さんが薫を演じた映画「伊豆の踊子」を見たことがありますが
旅の途中で「乞食・旅芸人 立ち入るべからず」と記された立て看板に遭遇するというシーンがありました。

踊子号
③乞食とみほとけ乞食とは、物乞いをして生活をする人のことです。
私が子供のころ、乞食は普通にいました。
歩道橋の上や駅の横などに座り込み、ご自身の前に箱を置いていました。
中には手足がない人もいて、憐れんだ人が箱の中にお金をいれるのです。
お寺で、みほとけの前に賽銭箱が置かれているのに似ていると言うと怒られちゃうかな?
ですが、かつてハンセン病患者は文殊菩薩の化身とされており
非人宿に捨てられたハンセン病患者は一般の非人よりも多くの喜捨を得たといわれています。
つまり、古の人々はハンセン病患者を文殊菩薩の化身=みほとけとみなし、ハンセン病患者に喜捨をすると、自分自身によいことが返ってくると信じていたということだと思います。
かつて歩道橋の上で乞食をしていた人に金銭などをめぐむ人々の心理も、ハンセン病患者に喜捨する人々の心理と同じだと思います。
大坂城 托鉢の僧
④乞食という言葉は仏教用語だった。もともと乞食という言葉は仏教用語なんです。
僧侶がお金もうけのために仕事をすることはよいことであるとは考えられていなかったようで
乞食(こつじき)を行って食べ物などを得ていたのです。
現在でも僧侶が寺の門前や橋の上など鉢を持って立っていることがありますね。
これを托鉢(たくはつ)といいますが、托鉢は乞食(こつじき)と同様のものです。
伊豆急行 キンメダイ博物館 車両④芸能は乞食の所業だった。日本を代表する芸能のひとつに『能』がありますね。
能は世阿弥(1363?〜1443?)によって大成されたといわれますが、この世阿弥にはこんなエピソードが残されています。
大変な美少年だった世阿弥は将軍・足利義満の寵愛を受けていました。(BLだよね♡)
義光は 祇園祭の桟敷(さじき)に世阿弥(藤若)を同席させており、これに対して三条公忠(さんじょうきんただ)が日記の中で批判しています。
「散楽者」で「乞食の所行」する世阿弥を、将軍義光が同席を許すとはとんでもないことだ!三条公忠は芸能を行って金銭を得るものは乞食である、と言っているのです。
『伊豆の踊子』に登場する旅芸人一行は、宴会の席などに呼ばれて三味線を弾き、太鼓を打ち、踊り歌うことによって収入を得ていた人々でした。
現在、エアロスミスやエックスジャパンがワールドツアーを行って金銭を得ても、彼らを乞食だと言う人はいませんが
かつて芸能を行って金銭を得ることは乞食の所業だと考えられていたのですね。
それで「乞食、旅芸人 立ち入るべからず」と立て看板が立てられていたのでしょう。
伊豆急行 キンメダイ博物館 車両⑤なぜ芸能をする人は差別されたのか「散楽者」で「乞食の所行」する世阿弥を、将軍義光が同席を許すとはとんでもないことだ!この三条公忠の言葉から、当時、芸能人に対する差別意識があったことがわかります。
なぜ芸能人は差別されたのでしょうか。
芸能は現在では単なる娯楽ですが、古には神事であったと考えられます。
古には神と怨霊は同義語であったといわれます。
また、怨霊が祟らないように祀ったものが神であるともいわれます。
神事とは、怨霊を鎮めるための行事だといえるのではないでしょうか。
芸能とは神事であったと考えられるので、芸能とは怨霊を鎮めるためのものだったと考えられます。
そして、「先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべき」とする考え方がありました。
ということは、芸人は怨霊の子孫だということになります。
そういうわけで芸人は差別されたのではないでしょうか。
河津 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/02/20 00:00]
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