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蔵王堂光福寺 久世六斎 『空飛ぶ鉢の正体とは』 


京都市南区 蔵王堂光福寺
八朔祭・・・8月31日


蔵王堂光福寺では毎年8月31日に八朔祭が行われており、久世六斎会の人々によって六斎念仏が奉納されています。

六斎念仏って何?という方はこちらをクリックしてください
。→『京都のお盆は六斎念仏! 阿弥陀寺 嵯峨野六斎 』

八朔って何?という方はこちらをクリックしてください。→ 
『祇園白川 八朔 舞妓さんと芸妓さん 』

蔵王堂光福寺 祇園囃子 
①蔵王堂光福寺に伝わる浄蔵の伝説

平安時代、浄蔵貴所は吉野山大峰山で修行を終えて帰ろうとしていたところ、蔵王権現が現れて「連れて帰ってほしい」とおっしゃったので、浄蔵は蔵王権現を背負って帰りました。
途中、浄蔵は桂川にを落としてしまいました。
その鉢が流れ着いた場所で蔵王権現は動かなくなったので浄蔵はそこに寺を建てました。


この浄蔵がたてた寺が蔵王堂光福寺だと伝わっています。
奈良県吉野山の金峯山寺に蔵王堂があり、蔵王権現を祀っています。
蔵王堂光福寺という寺名はここからつけたのでしょう。

蔵王堂光福寺 獅子

②八(鉢)に縁の深い浄蔵

浄蔵はたいへん8に縁の深い人物でした。

3月8日に、文章博士・三善清行の八男として生まれ、東山の八坂の塔を法力でな直しています。
さらに浄蔵が創建した光福寺で行われている祭は八朔祭です。

また八の音は鉢に通じますが、光福寺の創建説話にもが登場しています。
浄蔵は托鉢のを飛ばして食べ物を集めていたという話もあります。
 
蔵王堂光福寺 六斎念仏2

②鉢=八は頭(ドクロ、首)を意味している?

鉢を飛ばしたという話は奈良の朝護孫子寺に伝わる『信貴山縁起絵巻』にも記されています。
そして頭のことを鉢ということがありますが、蘇我入鹿や平将門、玄昉らの首が飛んだという伝説があります。
浄蔵が鉢を飛ばしたという伝説があるのは、浄蔵が頭・・・髑髏と関係が深いからではないかと私は考えています。

蔵王堂光福寺 六斎念仏 

③吉野は髑髏信仰があった?

浄蔵は吉野山大峰山で修行をしていたということですが、吉野山にある金峯山寺の塔頭に竜王院(脳天大神)があり、頭の神様として信仰されています。
その脳天大神には狛犬ならぬ狛蛙が置かれています。 ↓

龍王院 狛蛙

 吉野の蔵王堂では蛙飛び行事も行われています。↓

 蔵王堂 蛙飛行事3

亀石
 
↑ 飛鳥の亀石は亀ではなく蛙ではないかともいわれていますが、亀や蛙よりももっと妖怪・ぬらりひょんに似ています。
 
妖怪ストリート ぬらりひょん 

↑ 上は京都の大将軍商店街(妖怪ストリート)に置かれてあった妖怪・ぬらりひょんの人形ですが、眉間に皺があるところまで亀石にそっくりです。

飛鳥の亀石は髑髏を象ったものであり、龍王院(脳天大神)に狛蛙が置かれているのは、蛙が人間の頭蓋骨=髑髏に似ているためではないでしょうか。

どうも吉野は髑髏に関する信仰の深い土地だったのではないでしょうか?
そして吉野で修行をした浄蔵は髑髏を用いる呪術を会得して京に戻ったということなのかも?

蔵王堂光福寺 土蜘蛛  


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[2019/08/31 23:02] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

西福寺 地獄絵公開 『西福寺の布袋は頭に膏薬を塗っている?』 



京都市東山区 西福寺
地獄絵公開・・・8月7日~8月10日(確認をお願いします。)


西福寺 六道の辻 
    
①六道の辻

愛宕おたぎ)の寺もうち過ぎぬ、六道の辻とかや。げに恐ろしやこの道は冥途に通うなるものを心ぼそ鳥辺山・・・(謡曲・熊野より)

古より十字路(辻)は、あの世とこの世が交わる場所だと考えられていました。
中でも特に西福寺・六波羅蜜寺・六道珍皇寺があるあたりの辻は『六道の辻』と呼ばれて畏れられていました。

六道とは仏教において生きとし生けるものが死後永遠に輪廻すると考えられた6つの世界、すなわち地獄道・餓鬼道・鬼畜道・修羅道・人間道・天上道のことです。

かつてこのあたりは鳥辺野の葬送地の入り口に当たり、六道にちなむ6つの寺院-六道珍皇寺・西福寺(地蔵堂)・六波羅蜜寺・愛宕念仏寺・姥堂・閻魔堂-があり、これらの寺では死者に引導を引き渡す役割を担っていたそうです。
愛宕念仏寺は移転、姥堂・閻魔堂は現存せず、現在は六道珍皇寺・西福寺・六波羅蜜寺の三寺があります。 )

8月7日から10日、京都では迎鐘を鳴らしてお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のこと)をお迎えする習慣があり、六道詣と呼ばれています。
六道珍皇寺の迎鐘が有名ですが、西福寺や六波羅蜜寺にも迎鐘があります。

西福寺 迎鐘 

西福寺 迎え鐘

②布袋は弥勒菩薩の化身


西福寺の門前には布袋さんの石像が立ち、参拝する人を出迎えていました。

西福寺 布袋像

西福寺の布袋さんは右手に軍配を持ち、左手を頭の上に載せていました。
布袋像は袋を持っているものが多いですが、西福寺像のように軍配を持つ像もたくさんあります。

布袋は中国に実在した遊行僧で釈契此(しゃくかいし)という名前でした。
大きな袋を背負って各地を遊行し、もらったものは何でもその袋の中にいれていました。
仏教ではご法度の生臭物も、布袋は貰い受けたといいます。

布袋は『弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々』という文を残していて、ここから、布袋は弥勒の化身であると言われるようになったとされます。
弥勒菩薩とは56億7000万年後に復活するといわれる仏様です。

しかし私は布袋が弥勒菩薩の生まれ変わりだとされたのは、死後に復活したからだと思います。
というのは布袋には死後にその姿を目撃されたという話が残されているのですね~。
死後に姿を目撃されたというのは、死んだ布袋が生き返ったというですよね。

西福寺 地獄絵 
西福寺 地獄絵

③布袋の袋の中には髑髏が入っている?

宇治・萬福寺の布袋尊が持つ袋の大きさはちょうど髑髏が入っていそうな大きさです。

復活するのに髑髏はかかせないものだと考えられていたようで、例えば真言立川流では、髑髏に漆や和合水(精液と愛液の混合液)を塗り重ねて髑髏本尊を作るということです。
そしてその髑髏本尊を袋の中に入れ、7年間抱いて寝ることで、8年目に髑髏は命を持つようになると考えられました。

布袋の袋の中には髑髏が入っているのではないでしょうか?

萬福寺 布袋  

萬福寺 布袋尊

④軍配は魂を呼び寄せる呪具

西福寺の布袋は袋を持たず、かわりに軍配を持っていますね。

軍配は正しくは軍配団扇といいます。
現在の団扇は暑い日に扇いで風を起こすためのものですが、古には魂を呼び寄せるための呪具でもあったのです。

この六道の辻あたりは普段は観光客もまばらですが、お盆の時期には六道参りをする人々で賑わいます。

西福寺では地獄絵が公開され、すぐ近くにある六道珍皇寺ではお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のこと)をお迎えするために迎え鐘をつく人が大勢訪れます。

西福寺の布袋像はお精霊さんの魂を呼び寄せるために軍配団扇を持っているのではないでしょうか。

西福寺 地獄絵4  

西福寺 地獄絵


⑤頭をさする布袋像


布袋像にはいろいろな像があります。

a.頭のてっぺんを指差すもの。
b.子供に頭をさすってもらっているもの。
c.自分で頭をさすっているもの。(西福寺の布袋像はこれですね。)

これらの像は、布袋と髑髏信仰に何か関係があるのではないかと思ってしまいます。

西福寺 地獄絵3   

西福寺 地獄絵

⑥京都の盆歌

bの布袋の頭をさする子供は、もう片方の手に小さな小鉢のようなものを持っていました。
これをふまえて京都の盆歌を味わってみてください。

さのやの糸桜 
盆にはどこもいそがしや 
東のお茶屋のかどぐちに 赤前だれに繻子の帯 
ちょっと寄らんせ はいらんせ
きんちゃくに 金がない 
のうてもだんない はいらんせ 
おう辛気 こう辛気 
よいさっさ よいさっさ 
これから八丁 十八丁 
八丁目のこぐりは こぐりにくいこぐりで 
頭のてっぺん すりむいて 
一貫膏薬 二貫膏薬 
それで治らな 一生の病じゃ


子供が手に持っている小鉢には膏薬が入っているのではないでしょうか。
そして子供は布袋の頭をさすっているのではなく、布袋が頭のてっぺんをすりむいたので膏薬を塗っているのでは?

西福寺の門前にある布袋像は自分の頭をさすっているのではなく、すりむいた頭の傷に膏薬を塗っているのではないかと思います。

ここはあの世とこの世が交わると言われる六道の辻で、お盆の時期に最も賑わいます。
すると西福寺の布袋像は京都の盆歌と関係があると考えるのが自然だと思います。

さのやの糸桜 
盆にはどこもいそがしや 


河内音頭では『さーのよいやーさっさ』と囃すように、『さのや』は囃子言葉だとも考えられています。
しかし私は『さのや』とは(株)植藤造園の経営者・佐野藤右衛門のことではないかと思います。
植藤造園は創業天保3年という老舗で、代々相続者が藤右衛門の名を襲名します。
15代佐野藤右衛門氏は桜の保存に貢献し桜守と呼ばれた人物で、円山公園の祗園枝垂桜は15代佐野藤右衛門によって植えられました。
さのやの糸桜とは祗園枝垂桜のことではないでしょうか。
ところが、お盆の時期には桜は咲いていません。
花街で働くの女性のことを祗園枝垂桜に喩えたのではないでしょうか。

西福寺 熊野歓心十戒図 

西福寺 熊野観心十戒図



東のお茶屋のかどぐちに 赤前だれに繻子の帯 
ちょっと寄らんせ はいらんせ
きんちゃくに 金がない 
のうてもだんない はいらんせ 
おう辛気 こう辛気 
よいさっさ よいさっさ 


現在の花街は芸妓遊びをするところですが、かつての花街には芸妓の他に娼妓もいました。
お茶屋とは団子を食べる店のことではなくて、芸妓や娼妓を呼ぶ店のことです。

『東のお茶屋のかどぐちに』の『東』とは京都の東、つまり祗園や宮川町のことだと思います。
かつて祇園や宮川町では赤前だれに繻子の帯をしめた妓が客の呼び込みをしていたといいます。
妓が『旦那、ちょっと寄っていきなさいよ』と呼び込みをします。
『巾着に金がない』と断ったけれど、『無くてもいいからお入りなさい。』『もう、じれったいなあ、早くお入んなさいよ。』 と 妓はしつこく誘います。

西福寺 壇林皇后九相図 
西福寺 壇林皇后九相図

これから八丁 十八丁 
八丁目のこぐりは こぐりにくいこぐりで 
頭のてっぺん すりむいて 
一貫膏薬 二貫膏薬 
それで治らな 一生の病じゃ

『洛中洛外図屏風』にも描かれているそうですが、京都ではかつて町の四辻には頑丈な木戸(町の門)が設けられていて、夜間には閉門されたそうです。
『八丁 十八丁 八丁目のこぐりは』の『こぐり』とはこの木戸のことでしょう。
宮川町などのお茶屋で遊んだ放蕩息子は夜遅くに帰宅しようとしますが木戸が閉まっています。
そのため番子にお金を握らせて潜り戸を開けさせて、帰宅したといわれます。

八丁目の潜り戸は狭くて通りにくかったので、頭のてっぺんをすりむいたのでしょう。
頭の傷、もしくは女遊びは膏薬を一貫・二貫塗っても治らなければ、一生治らないと。

西福寺 天井画

西福寺 天井画
天井画や壁画は展示されている地獄絵とは真逆の美しいイメージ。


子供が歌うにはちょっとエロいですねw。
子供たちは意味などわからず、歌ってたのでしょう。

私も子供のころ、かごめかごめや通りゃんせなどの唱歌を、意味もわからず歌っていました。
(不思議な歌詞で、実は今もよくわかりませんw。
下駄隠しはちょっとわかる?
なばなの里 プロジェクションマッピング くまモンと熊本 『下駄隠しのナゾ』 

西福寺 壁画 
西福寺 壁画

⑦八は復活を意味する数字

『八丁 十八丁 八丁目のこぐりは』とあって、やたら『八』が出てくるのが気になりますね。

梅原猛さんは数字の八は復活を意味する数字だとおっしゃっています。
八角墳や八角堂は死者の復活を祈って作られたものではないかというのですね~。

確かにそう考えると辻褄の会う言葉がたくさんあります。

『八咫鏡』は天岩戸に籠もった天照大神を岩戸から出すのに用いられた鏡のことです。
死んだ天照大神を復活させた鏡なので、復活を意味する八を用いて『八咫鏡』と言うのではないでしょうか。

『八咫烏』は中国や韓国では太陽の中に描かれることが多いです。
『八咫烏』とは復活した太陽神だと考えると辻褄があう。
『八咫烏』は天孫・神武天皇を道案内した烏ですが、神代には猿田彦という神が天孫・ニニギを葦原中国へ道案内したという話があります。
猿田彦は高天原から葦原中国までを照らす神であると記されています。
それにぴったりくる名前を持つ神がいます。
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。
この神が本当の天照大神だという説もあります。
サルタヒコと八咫烏とはどちらも天孫(ニニギ・神武)の道案内をしているので同一神だと考えられます。
つまり八咫烏とは復活した太陽神・ニギハヤヒのことだと、こう導くことができると思います。

西福寺 檀林皇后像 

西福寺 檀林皇后像

⑧真言立川流

さて、このようなエロい歌がなぜ盆歌なのでしょうか。
もしかしたら、それは真言立川流と関係があるかも?

真言立川流では、髑髏に漆や和合水(精液と愛液の混合液)を塗り重ねて髑髏本尊を作ります。
そしてその髑髏本尊を袋の中に入れ、7年間抱いて寝ることで、8年目に髑髏は命を持つようになると考えられました。

そしてお盆には死者の魂が復活してこの世に戻ってくると考えられていました。

木戸を潜りぬけようとしたのは死者の髑髏だったのではないでしょうか?
で、花街で娼妓と交わり、あの世とこの世が交わる辻を潜り抜けることでこの世に蘇ろうとしたんだったりして?


西福寺 

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[2019/08/20 17:41] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

五山送り火 鳥居型 燈籠流し『古の人々は月に平将門の面影を見た?』 

京都市右京区 広沢池
五山送り火・・・8月16日


※西山から五山送り火を見たいと思って、ロケハンにいったのですが、結局どこに行ったら見えるのかわからずじまい。
ご存じの方、教えてください!

広沢池 夕景 
広沢池の夕暮れ。まもなく精霊流し&五山送り火が始まります。

五山送り火 鳥居型2 
①五山送り火

8月16日、五山送り火。
五山の送り火は大文字(如意ヶ岳)・左大文字(左大文字山)・舟形(船山)・妙法(松ヶ崎西山・東山)・鳥居形(曼荼羅山)に火を燃やし、精霊送りする京都のお盆の行事です。

広沢池からは鳥居形を望むことができ、それにあわせて精霊流しが行われています。

②広沢池は月見の景勝地だった。

広沢池は別名を遍照寺池といいます。
989年、寛朝僧正が朝原山の麓に遍照寺を建立しましたが、その際本堂の南に庭池として造られたのが広沢池(遍照寺池)だと伝えられています。
(秦氏がため池として作ったとする説もあります。)

精霊流しの灯篭は参拝者が遍照寺におさめ、回向してもらった上で広沢池に流されます。(ネット予約、申し込みもできるようです。)

広沢池は古には月見の景勝地として有名であったようで、この地で多くの歌が詠まれています。

その中に源頼政の歌もあります。

遍照寺の月を見て

いにしへの 人は((みぎわ))に 影たえて 月のみすめる 広沢の池/源頼政
(古の人は水際で月を愛でたものだが、今は人影もなく、ただ月ばかりが澄んでいる。)


五山送り火 鳥居型 

③古の人は月に平将門の面影を重ねた?

古の人はなぜ広沢池で月見をしたのでしょうか。

「そりゃー、池に月が映ってきれいやからやん」って?
それはそうですが、私は月見にはもっと深い意味があったのではないかと思います。

遍照寺を創建した寛朝僧正は宇多天皇の孫にあたり。939年には朱雀天皇の勅命を受けて下総の国(千葉県)で平将門の乱平定の祈祷を行っています。
そうしたところ直ちに乱は平定され、その地に東国鎮護を目的として成田山新勝寺が建立されました。

981年、円融天皇が病になった際には、寛朝僧正は宮中で病気平癒の祈祷を行いました。
すると不動明王があらわれ、天皇の病は回復したということです。

成田山新勝寺のご本尊は不動明王です。
981年にあらわれた不動明王とは成田山新勝寺のご本尊の不動明王だと考えられます。

そして陰陽道ではあらぶる怨霊は十分に慰霊することで人々にご利益を与えてくださる和魂に転じると考えます。
さらに江戸時代まで、神仏は習合して信仰されていました。

成田山新勝寺の不動明王とは、幾多の怨霊伝説が残る平将門を供養することによって、東国鎮護の仏・不動明王に転じたものではないかと考えます。

つまり、円融天皇の病は平将門の怨霊の祟りであり、寛朝僧正が祈祷によって平将門の怨霊を不動明王に転じさせたので円融天皇の病は回復したということではないでしょうか。

その8年後の989年に遍照寺は創建されています。
ご本尊は十一面観音ですが、不動明王も祀られていて、広沢不動尊とも呼ばれています。

遍照寺の不動明王は平将門のイメージに重ねられているのではないでしょうか。

すると、遍照寺の庭池である広沢池に移る月、それは平将門のイメージであり、古の人々は平将門を供養する意味で月見を行っていたのではないかと思えるのです。

いや、もっと広く、謀反人と月のイメージを重ねたというべきかもしれません。

広沢池 精霊流し

④藤原道長は永遠に欠けることのない月を歌に詠んだ?

これに対して、こんな反論があるかもしれません。

藤原道長がこんな歌読んでいます。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
(この世を私の世だと思う。今宵の満月のように欠けているところなど何もないのだ。)


これは月を栄光の象徴として詠んだ歌であって、月は謀反人の象徴だとはいえないのではないかと。

月は満ち欠けをしますね。
道長は満ち欠けをする月ではなく満月の状態を歌に詠んでいるのです。
実際にはありえませんが、明日には欠ける月ではなく、永遠に欠けることのない月を歌に詠んだと言ってもいいかもしれません。

古の人が広沢池で月を愛でたのは望月(満月)であったかもしれません。
ですが、それは道長が詠んだ欠けることのない月ではなく、明日には欠けてしまう月だとみな知っているので哀れみをこめて月を愛でたのではないかと思ったりします。

五山送り火 鳥居型3 


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[2019/08/18 22:24] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

壬生寺 中堂寺六斎『弁慶のモデルは酒呑童子?』 


京都市中京区 壬生寺
中堂寺六斎奉納 8月16日


中堂寺六斎 
 
①橋弁慶


中堂寺六斎では橋弁慶の演目があります。

橋弁慶という能の演目がありますが、それを六斎の演目としてとりいれたのでしょうか。

能の橋弁慶は次のようなストーリーになっています。

弁慶は五条天神に丑の刻詣を行っていたが、従者が「少年が千人斬りをしているので、今日は参詣しないほうがいい」と進言しました。
弁慶は逆に退治しようと出かけました。
弁慶は女装した牛若丸にあい、斬りかかったがどうしてもかなわず、弁慶は牛若丸の家来となりました。


一般によく知られている話では、弁慶が千本の武器を集めるために通行人を襲っており、そこへ通りかかった牛若丸と戦うとなっていますが、能ではその逆で千人斬りをしているのは牛若丸のほうなんですねw

もともとの話はどちらなんでしょう?

名称未設定_パノラマ1


 ②弁慶は複数の比叡山僧兵をモデルに創作された?

弁慶は吾妻鏡1185年11月3日条に源義経の郎党として名前が記されています。
なのでそういう名前の義経の郎党は実在していたとも考えられますが、弁慶の話のほとんどは後世の創作のようですね。

『吾妻鏡』や『玉葉』には次のような話が記されています。

源義経が都落ちしたあと、比叡山の僧兵(悪僧)が義経を庇護した。
その中の俊章(しゅんしょう)が義経を奥州まで案内した。
1188年8月17日、千光房七郎が悪徒浪人を集めて悪行を働いてお尋ね者になる。
1189年1月13日、比叡山の僧兵・千光房七郎(せんこうぼう しちろう)が北条時定に捕らえられた。


これら複数の比叡山僧兵たちがモデルとなって弁慶伝説が作られたとする説もあります。

 名称未設定_パノラマ1


③鬼子として生まれた弁慶

弁慶の父親は熊野別当で、弁しょう(義経記)とか弁心(弁慶物語)という名前だったとされます。
この弁しょう(または弁心)が二位大納言の娘を強奪し、この娘が弁慶を産んだとされます。

弁慶は母親の胎内に
18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いたとか、大変大きな赤ちゃんで生まれたとき3歳児くらいの体つきだったなどといわれます。
生まれたときすでに髪は肩のあたりまであり、奥歯も前歯も生えそろっていたとか。
父は弁慶を鬼子だと考えて殺そうとしましたが、叔母が引き取って鬼若と名付け、京で育てたということです。

中堂寺六斎 棒振り

中堂寺六斎 棒振り 
 
④鬼子

古には親に似ていない子供や異様で姿え生まれた子供、特に歯が生えて生まれた子供のことを鬼子といいました。

歯が生えるのは通常生後4か月~6か月後ですが、1000人に2人くらいの確立で歯が生えてうまれてくることがあるそうでで、新生児歯(魔歯)といいます。

群馬県山田郡では歯が一本はえて生まれた子供は捨てて近所の人に拾ってもらっていたそうです。
二本の場合逆に出世相であるといわれました。

生後10か月で歯の生えた子供は「塔婆」と呼び、三つ辻に捨てて人に頼んで拾ってもらうというようなこともしていたようです。

愛知県田峯では、鬼子が生まれると親子のうちの一方が死ぬと言われ、鬼子が生まれると殺されていたそうです。

屋久島では鬼子の歯を折って、鬼子ではなかったことにしていたのだとか。

中堂寺六斎
 
⑤鬼は生まれたときから歯がはえそろっていた。

鬼といえば酒呑童子が有名ですね。
酒呑童子の伝説は各地で様々に伝わっているようですが、新潟県では越後国の鍛冶屋の息子で、母親の胎内に16か月おり、生まれたとき歯と髪が生えそろっていたといいます。
生まれてすぐ歩き出し、言葉も話せたのだとか。

茨木童子という鬼もいますが、彼も生まれたときから歯が生えそろっていたとされます。

酒呑童子や茨木童子などの鬼は鬼子を誇張して創作されたものなのかもしれませんね。

中堂寺六斎2

⑥弁慶は酒呑童子をモデルに創作された?

弁慶は比叡山の僧兵でしたが、酒呑童子は比叡山の稚児であったという話が伝わります。
弁慶も酒呑童子も生まれながらにして歯が生えそろっていて、体もおおきかったといわれます。
弁慶という人物は実在していたかもしれませんが、弁慶の物語のモデルは酒呑童子だったりして?

中堂寺六斎2 

中堂寺六斎 

中堂寺六斎 

中堂寺六斎 

中堂寺六斎 獅子



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[2019/08/15 21:41] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

二条城 プロジェクションマッピング 『二条城の東西南北はなぜずれているの?』 

京都市中京区 二条城

二条城のミステリー、それは・・・

このごろ二条城には夜な夜な妖怪があらわれるのです!

二条城
 
 
二条城には妖怪を超えるミステリーがあります。
それはなんとっ!二条城の東西南北がちょっとずれているのです!

①二条城は東西南北がちょっとずれている。


平安京は碁盤の目のように南北の通りと東西の通りが交差するように作られました。
現在の京都の町も南北の通りと東西の通りが交差しており、平安京の名残をとどめています。
それにあわせて建物も北面は正確に北を向き、東面は正確に東、南面は正確に南、西面は正確に西を向いて建てられていることが多いです。

ところが、二条城はそうなっていません。
下の地図を見ればおわかりいただけるようにちょっと東にずれているのです。

なぜ二条城はずれているのでしょうか?




②平安京は天の北極から真北を定めて作られた?

平安京は北極星から真北を定めて造京したとする説があります。
しかし私は北極星から真北を定めたのではなく、天の北極から北を定めたのではないかと思います。

北極星とは北極の延長線上にある星のことで、時期によって北極星は変わります。
北極星が変わるのは、地球が歳差運動といって下図のように独楽がぶれるような動きをしているためです。

Gyroscope precession

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyroscope_precession.gif
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Gyroscope_precession.gif
LucasVB [Public domain] よりお借りしました。

この歳差運動が原因で北極星になる星がかわってくるのです。

地球の歳差運動の周期は約25800年です。

Precession N

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Precession_N.gif
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/16/Precession_N.gif よりお借りしました。
Tauʻolunga [CC BY-SA 2.5 (
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5)]

↑ 歳差による北極星の変遷の図を見ると、かなり大きな円を描いて北極星が変遷することに驚かされます。

現在の北極星はポラリス(こぐま座α星/上図+2000の文字の向かって左の星)です。
平安京建都ごろの北極星は何だったのでしょうか。

上記リンクさきの図に+2000とか+4000とあるのは西暦だと思います。
この図で794年ごろを見てみると特に目立った星がありません。
794年ごろ、人々はどの星を北極星としていたのでしょうか?(わかる方、教えてください)

ただ飛鳥時代から陰陽寮がおかれて天体観測を行っていますから、天の北極の位置は正確にわかっていたのではないでしょうか?

二条城 プロジェクションマッピング 妖怪

③徳川家康が西洋の方位磁石を用いて北を決めた?

二条城の東西南北がずれている理由については、二条城を築造した徳川家康が西洋の方位磁石(コンパス)を用いたためではないかといわれています。

地球の自転軸と天体表面が交差する2点のうち片方を真北(しんぼく)といいます。
平安京はこの真北を天の北極から定めてつくられたようです。

一方、磁石が指し示す北は磁北といい、現在の日本中心部では、真北に対して磁北が約7度西側にずれています。

「あれっ、二条城は真北に対して西じゃなくて東にずれてるやん?」と思われたかもしれませんが、磁北はころころと位置を変化させるのですね。

磁北とは地球の磁力の北のことをいいます。
磁力は地表とマントルの摩擦、マントル内の対流・摩擦で生まれます。
そして地表とマントルの摩擦、マントル内の対流・摩擦は変化するので、磁北は一定ではなく変化するのです。

海洋プレートの古地磁気の研究によれば、数万年~数十万年の頻度でN極とS極が反転しているそうで、これをポールシフトといいます。
(ときどきポールシフトを地軸の逆転と勘違いしている人がいますが、地軸ではなく磁極の逆転なので注意してください。)

1613年、平戸でサリングという人が磁北のずれを測定したそうです。
このとき、磁北は真北に対し東に「2度50分」ぶれていたそうですが、このぶれは、現在の二条城のぶれとほぼ一致しています。

しかし徳川家康が二条城の築城を始めたのは1601年でサリングの測定より10年以上前のことになります。
渡辺真経氏は、二条城創建時の磁北のぶれは東に約1度であったとしています。

二条城 プロジェクションマッピング 石垣?

④方位磁石のルーツ・指南魚は中国で発明された。


方位磁石のルーツは3世紀の中国で、指南魚と呼ばれていました。
これが11世紀ごろヨーロッパに伝わって羅針盤が作られたといわれています。

曽公亮(そこうりょう)が著した『武経総要(ぶきょうそうよう)』には次のような説明があります。

a.鉄の針を熱する。
b.aを南北方向に置いて冷やして磁化させ、た磁針をつくる。
c.bを魚の形をした木にとりつける。
d.cを水に浮かせると魚の口が南をしめす。

https://www.jp.tdk.com/techmag/inductive/200807/index.htm
↑ こちらに指南魚の図があります。

そこで疑問が生じます。

日本に西洋のコンパスが伝わる前に、中国の指南魚が伝わっていたのではないか?

894年の遣唐使計画は菅原道真によって休止となり、それ以降行われていません。
907年に唐が滅んだあと、五代十国時代をへて960年に宋(北宋)がおこります。
10世紀から13世紀にかけて日宋貿易が行われました。

ですから、西洋のコンパスが日本に伝わる前に中国の指南魚が日本に伝わっていた可能性はないとはいえません。
ですが、ぐぐってみましたが指南魚が日本に伝わって用いられていたというような記述がみつかりません。
調べたりないのかもしれませんが。

二条城 プロジェクションマッピング 友禅

⑤常に真北の逆方向(南)をしめす指南車

史書には「黄帝(伝説的人物)が戦のために指南車をつくらせた」と記されています。

しかしこの指南車は磁石を用いるものではありません。
たぶん次のようにして作ったのだと思います。(まちがってたら教えてね)

まず天の北極から真北を求めます。その真逆の方向が南になりますね。
そして指南車を南向きに置いて、車を動かします。
そのまままっすぐ進めば車は南に向かっていることになります。
しかしカーブなどがあると左右の車輪の回転に差が生じます。
その差を利用して、指南車の台の上に乗せた人形が常に南をさすように動きます。

工学はまるきりわからないので、車輪の回転の差をどのように作用させて人形が常に南をさすように置いたのかまではわかりません。(わかる方、教えてください!)

指南車は最初に置いた方向を指し示すので、常に西や北を指し示すことも可能です。

これは日本にも伝わって、658年には指南車が作られたという記録があります。
しかしこれは常に真北の逆方向(南)を示す道具で、磁北を示す指南魚やコンパスとは別のものですね。



⑥紀元前3世紀の中国の指南の杓で天然磁石が用いられていた。

指南車では磁北を知ることはできません。
しかし磁北を知ることのできる道具として、紀元前3世紀ごろの中国ですでに指南の杓(しゃく)というものが造られていました。

https://www.jp.tdk.com/techmag/inductive/200807/index.htm

↑ リンク先に指南の杓の図があります。
スプーンは天然の磁石を用いているそうです。
スプーンの柄のほうが南を指す仕組みになっているようです。


この指南の杓が日本に伝わっていたという可能性はあるでしょうか?

平安時代の陰陽師は六壬式という占いを行っており、これに六壬栻盤(りくじんちょくばん)を用いていたようです。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chokuban.svg?uselang=ja

リンク先に六壬栻盤の図があります。指南の杓に似ていますが、北斗七星に模した天然磁石を用いたスプーンではなく、北斗七星の図が書かれているだけです。

洛中洛外図

⑦平安時代の日本人は磁北を知っていたか?

平安時代の日本人は真北と磁北の違いをわかっていたでしょうか?
発掘調査で指南の杓もしくは指南魚のようなものが出てきたとか、文献に記されているということはないんでしょうか。
このあたりネットでぐぐった程度ではよくわかりませんでした。

遣隋使・遣唐使によって多くの書物や知識が日本に持ち込まれていますし
遣唐使廃止後も日宋貿易が行われているので、やはりそれに伴って多くの書物や知識が日本に持ち込まれたと考えられます。

でも指南魚の製法が伝わっていたら、航海の際に用いられたのではないかと思います。
江戸時代の裏針と呼ばれる羅針盤はでてきますが、江戸時代以前どうだったのか、そのあたりのこともわかりませんでした。

日本人は平安京が東西南北をきっちりあわせて作られていることから真北は知っていたと思いますが、
磁北の存在や真北と磁北の違いについてわかっていたかどうかについては結局わかりませんでした~。

二条城 プロジェクションマッピング 蹴鞠

⑧二条城がずれているのは鬼門除け?

ですので徳川家康が西洋のコンパスを用いて二条城をたてたので向きがずれたという可能性はあります。
でも他の理由も考えられます。

建物を東西南北をきっちりあわせてつくると東北の角ができます。
東北の角は鬼が出いりする角として忌まれ、東北の角を作らないような工夫がされた建物があります。

京都御所の塀の東北部は鬼門の角を作らないように内側にへこませてあります。
さらに、「去る」にかけてあるのか、塀の屋根の下に猿の像が置かれてあり、「猿が辻」と呼ばれています。

猿が辻 
猿が辻↓↑

猿が辻 猿の像 

猿が辻は内側をへこませて東北の角をつくらないようにしたのですが、ずらすことによって鬼門除けとしたケースがあります。
石清水八幡宮では東北の角をつくらないように、建物の土台の石組み部分をずらしているのです。


石清水八幡宮  鬼門封じ 
石清水八幡宮

二条城が3度ずれているのは、石清水八幡宮の鬼門除けをさらに発展させ、建物や敷地などのすべてをずらしたものだったりして?

二条城 プロジェクションマッピング 竹に友禅


二条城



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[2019/08/12 22:59] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

京の七夕 友禅流し 

 
京都市東山区 鴨川(三条付近)


友禅流し

①友禅流し

鴨川で友禅流しをやっていました。
といってもこれは観光用のパフォーマンスです。

明治35年ごろより、鴨川で友禅流しが行われるようになったのですが、
昭和30年ごろより、水質汚濁の原因になるとしてしだいに行われなくなったのです。
昭和46年、水質汚濁防止法が施行され、河川での友禅流しは禁止となりました。

友禅流しは、友禅染をする際の製造工程のひとつです。

友禅流し

②友禅染製造工程

a.下絵を描く。下絵用のインクにはツユクサ科のオオボウシバナの花弁から抽出した液体を用いる。
この液体は水によって容易に洗い流すことができる。

b. 下絵の上から防染剤(米糊やゴム糊)を用い、一定の太さの輪郭線(糸目)を描く。

c.輪郭線で囲まれた模様に筆や刷毛で染料をのせる。(色挿し)
にじみを防止するため、一つの色を染めて乾かした後に次の色をのせる。

d.80°C以上の高温で20分から40分、蒸気を当て、生地に染料を定着させる。(蒸し)

e.防染剤で模様全体を覆い、生地全体の地の色を染める(地染め)
藍など発酵させて作った染料の場合、酵素の働きをよくするため高温多湿の夏などに行う。

f.川で糊や余分な染料を落とす。(友禅流し)
寒い時期に行うことが多い。

友禅流し 
③高温にすると染料が定着しやすいのかな?

私はかつてステンシル(型染)をやってみたことがあるのですが
型をつかって模様に色をつけたあと、高温のアイロンで色を定着させると、説明書にありました。
瓶などにステンシルする際には電子レンジでチンするといいそうです。

友人にステンシルの型を貸したさい、やり方を教えたのですが、「アイロンをかける」と説明するのを忘れてしまい
洗濯したらすぐ色がとれてしまったといっていました。(ごめんなさい)

高温にすると色が定着しやすいのかな?
染料の種類によるのかも?

京の七夕 

④大寒の水が友禅染に適している?

あと、なんで?と思うのは、友禅流しを寒い時期に行うのはなぜか?ということです。

糊は高温のほうが溶けやすいですよね。
低音だとでんぷん質の糊は固まってしまわないのかな?

うーん、でも洋服についたガムなんかは冷やして固めてとったりもしますね?

低音の水のほうが、オオボウシバナの花弁から抽出した下書き用インクが落ちやすいとか?

低温の水のほうが発色がいいと書かれたサイトもありましたが、なぜ低音にすると発色がよくなるのでしょうか?
染色の科学は難しいーーー。

いろいろ調べていくと、大寒の水が友禅流しには適している、というような書き込みもありました。

友禅染 
 
二条城では京友禅フェアをやっていました。

⑤大寒って何?

大寒は二十四節気のひとつです。

二十四節気とは一太陽年を二十四等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称をつけたものです。

具体的に説明しましょう。

1年は365日ですね。

これを24等分すると、365日÷24=15.2日となりますので、15.2日ごとに1年を24分割するわけです。
15.2日というのは中途半端な数字ですが、この分割点を含む日に、立春・雨水・啓蟄などの名前をつけるということだと思います。

2019年の二十四節気は次のようになっています。

小寒1月06日 0時39分
大寒1月20日 18時00分
立春2月04日 12時14分
雨水2月19日 8時04分
啓蟄3月06日 6時10分
春分3月21日6時58分
清明4月05日10時51分
穀雨4月20日17時55分
立夏5月06日4時03分
小満5月21日16時59分
芒種6月06日8時06分
夏至6月22日0時54分
小暑7月07日18時21分
大暑7月23日11時50分
立秋8月08日4時13分
処暑8月23日19時02分
白露9月08日7時17分
秋分9月23日16時50分
寒露10月08日23時06分
霜降10月24日2時20分
立冬11月08日2時24分
小雪11月22日23時59分
大雪12月07日19時18分
冬至12月22日13時19分

上の表を見るとおわかりいただけるように、大寒は1年でもっとも寒い時期です。

友禅染 龍 

二条城 京友禅フェア

⑥大寒の水は腐らない。

967年施行の延喜式には次のように記されています。

大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。

大寒は立春(春の始まり、1年の始まり)につながる季節であり、春の準備をする季節だったともいえるのではないでしょうか。

また「寒の水」は清らかで霊力があるとか、腐らないと考えられており、感仕込みの醤油・味噌なども珍重されたということです。

寒い時期に友禅流しをすると本当に発色がよくなるのかどうかわかりませんが(ご存じの方、教えてください!)
「寒の水」は清らかで霊力があり、腐らないと考えられていたため、大寒のころに友禅流しをやっていたのかも?

大寒のころに「寒稽古」「寒中水泳」等を行って心身を鍛えようという考え方もあったようで、そういったところから大寒の友禅流しも行われたとか?

友禅染2 
二条城 京友禅フェア


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[2019/08/09 23:09] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

祇園祭 宵山 占出山 『神功皇后はなぜ鮎で占いをしたのか?』 

祇園祭宵山・・・7月14日~16日

占出山 宵山 

①「あゆ」をと書く由来になった伝説?

占出山という山の名前は、神功皇后が三韓征伐に出立するにあたり、玉嶋川(松浦川/肥後国松浦)魚釣りをして戦を占ったところ、たちまち鮎がつれたという伝説にもとづきます。

ちなみに中国で鮎はナマズのことだそうで
日本でアユを鮎と書くのは、神功皇后の上記伝説よりくるものだといわれています。

ただし、アユを鮎と書く由来については、アユが縄張りを持つ魚なので、「占拠(土地や建物を占有すること)」「独占(ひとりじめすること)」の意味からくるとも言われています。

占出山 ご神体 

占出山のご神体・神功皇后

②昔の人の観察眼はすごい!


私はつねづね、「昔の人の観察眼はすごいなあ」と思っています。

現在のjpopなどで動植物や天体などの語を歌詞に含むものは多いです。
ですが、それはちょっとしたイメージだけのものではないでしょうか。(jpop好きだし、それが悪いと言っているわけではありません。)

例えば「桜」なら春、淡いピンク色、卒業式、はかなさ(1週間ほどで散ってしまうので)
マワリなら夏・黄色・元気、コスモスは秋・パステルカラー・寂し気くらいのイメージですかね。

しかし古の人は動植物、天体などにもっと深い意味をもたせていたように思われるのです。
たとえば・・・・

●鹿→謀反人→謀反の罪で殺された人は塩を振られることがありました。鹿の夏毛の斑点を塩に喩えたのでしょう。

大仏殿 鹿 
●ジンベエザメ(えびすザメ)→ジンベエザメがやってくると鰯やカツオもいっしょにやってきて大漁になることからえびすザメと呼ばれたのではないかと思います。海遊館  『じんべえさまと鹿の共通点は?』 


海遊館 ジンベエザメ2

●土蜘蛛→斬首された人→昆虫は頭部・胸部・腹部の3つのパーツで構成されますが、蜘蛛は頭胸部・腹部の2つのパーツで構成されます。昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないでしょうか。
梨木神社 萩 『浮穴媛のこどもたち』 

蜘蛛の体 

●獏(マレーバク)→体が黒と白の2色なのが、陰陽に喩えられたのでは。それで悪い夢(陰)を食べてよい夢(陽)に転じるなどと考えられたのかも
駅 桜 パンダ列車 『パンダはなぜ獏と同一視されたのか?』 



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!


③三韓、百済・新羅・高句麗を、土地を占有しようとする鮎に喩えた?

神功皇后が戦を占うのに鮎釣占いをしたのにも深い理由がありそうです。

さきほど述べたように、アユを鮎と書く由来については、アユが縄張りを持つ魚なので、「占拠(土地や建物を占有すること)」「独占(ひとりじめすること)」の意味からくるとも言われているのでしたね。

つまり、三韓、百済・新羅・高句麗を、土地を占有しようとする鮎に喩えたのではないでしょうか。
そして土地を占有しようとする鮎は次々に釣り上げることができたので、百済・新羅・高句麗などの国は倭国のものになるだろうと、そう占ったのではないかと思います。

占出山 霞ニ新羅古鏡図 
占出山 宮島 三十六歌仙 
占出山 タペストリー-三十六歌仙 松島図 

占出山 タペストリー-三十六歌仙 天橋立 

占出山 タペストリー 

占出山 蔵 

占出山 お飾り場 

占出山 山鉾巡行 
山鉾巡行 占出山


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[2019/07/29 23:03] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

綾傘鉾 宵山 山鉾巡行 『祇園祭の警備をしていた犬神人と隼人の関係を考えてみた』 


祇園祭 宵宮・・・7月14日~16日


①壬生六斎念仏講中はなぜ綾傘鉾の囃子方を奉仕しているの?

綾傘鉾口上

祇園祭 宵山 綾傘鉾

イケメンさんが登場して、かっこよく口上を述べます。ばちっと決まっていますね!

綾傘鉾-太鼓

祇園祭 宵山 綾傘鉾

綾傘鉾の棒振り囃子が始まりましたよ。

綾傘鉾の囃子方は壬生六斎念仏講中によって奉仕されています。

六斎とは太鼓や鉦をかき鳴らしつつ踊ったり、土蜘蛛などの芸能を行うもので、空也上人が創始者とされています。
参照/土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち 

六斎念仏は京都のお盆の風物詩で、壬生六斎、千本六斎、中堂寺六斎、嵯峨六斎、梅津六斎など多くの六斎会があります。

壬生六斎念仏は古より京都の壬生地域で行われていました。

祇園祭の山鉾町は四条通の烏丸駅付近にありますが、壬生地域は烏丸駅から1.5kmほども離れています。
そんな離れた場所にある壬生地域の壬生六斎念仏講中がなぜ綾傘鉾の囃子方を奉仕しているのでしょうか?

 綾傘鉾-鉦

祇園祭 宵山 綾傘鉾

②元祇園梛神社・隼神社

お盆の季節、壬生六斎を見ようと壬生寺に行ったことがあります。
阪急四条大宮駅で下車し、四条通を西へ向かい、少し南に入ったところに壬生寺があります。
その南に入る角に神社(京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2 )があり、二本の石柱に、「元祗園梛神社」「隼神社」と記されていました。

その石柱を見て、ひらめいたことがあり、「おーーーーっ」と思いました。

元祇園梛神社・隼神社 
梛神社(向かって左)と隼神社(向かって右)
 
③八坂神社の神はもとは梛神社で祀られていた。


梛木神社の説明板には興味深いことが記されていました。
私が興味深く思った点を要約して書き出してみます。

a.868年に京で疫病が流行したので、播磨の広峰神社より牛頭天皇を京都に勧請して鎮疫祭を行った。
b.このとき、その神輿を梛の囃子において祀ったのが梛神社のはじまり。
c.のちに牛頭天皇を八坂神社に移した。
d.このとき風流傘をたて、鉾をふり、音楽を奏して八坂神社に送った。(祇園祭の起源)
e.隼神社(御祭神/タケミカヅチ、フツヌシ)は蛸薬師坊城にあったが、1918年にこの地に移された。

 元祇園梛神社


隼神社 

④牛頭天皇、広峰神社より勧請されて、梛神社→東光寺→八坂神社と遷座した?


過去に何度か書きましたが、京都の八坂神社と兵庫県姫路市の広峰神社はどちらも牛頭天皇(素戔嗚尊)の総本社を称しています。

ですが広峰神社側の資料、伊呂波字類抄、二十二社註式、播磨国勝地実録、岡崎神社の史料などを照合すると、次のような経緯で牛頭天皇は江坂神社に勧請されたということになりそうです。

い・869年疫病が流行り、藤原基経が播磨国の牛頭天皇を都に勧請した。
ろ・京都四条にある元祇園梛神社(京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2)は、この時、牛頭天王の乗る御輿を梛の林中に置いて祭ったことが始まりである。 
は・京都に着いた牛頭天王は北白川の東光寺に祭られた。
に・その後、藤原基経が八坂にあった邸宅を寄進して感神院祇園社を建立し、牛頭天王を遷座した。(現在の八坂神社) 


また神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などは、神様を廣峯神社から八坂神社へ移した際に神様が休憩された場所と伝わっています。

綾傘鉾-太鼓

祇園祭 宵山 綾傘鉾p 

⑤隼神社は隼人の神だった。

梛神社の隣には隼神社がありますが、隼神社は奈良にもあって、角振明神・角振隼明神・椿本神社とも呼ばれています。  

『奈良市史社寺編』には次のように記されています。

『隼神とは、火酢芹命(ほすせりのみこと)のことである。
これは隼人族の祖であり、海幸彦とも呼ばれ、神武天皇の祖父で山幸彦とも言われている、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の兄にあたる。
兄・海幸彦は、弟・山幸彦との戦いに敗れて、代々、宮城の警固に任じられた。
勝利した山幸彦は、天皇家の元を築いたと記紀で伝えられている。』

隼神とは隼人の祖神だったのです。

隼神社(椿本神社)

奈良 隼神社

京都の隼神社の御祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)でしたね。
奈良の隼神社の御祭神は火酢芹命(隼神)と、角振神(火酢芹命の御子)となっていて御祭神は違います。

御祭神が異なるので別の神社だと思うのは間違いで、両者には深い関係があります。
平安京遷都のときに隼神社が平安京に分祀されたという記録があるんですね。
そしてこれが蛸薬師坊城にあった隼神社のことだと考えられています。

つまり、隼神社はもともと奈良にあり、平安京遷都に伴って京都の蛸薬師坊城に分祀されたということでしょう。

京都の隼神社も奈良の隼神社と同じく、隼人の祖神を祀る神社だと考えられます。

蛸薬師坊城は現在の中京区壬生御所ノ内町のことで、現在の隼神社からほんのわずかばかり北です。
大正7年(1918年)蛸薬師坊城から梛神社境内に移されていますが、隼神社は平安時代以降、ずっと壬生の地にあったのです。

隼神社が京都に分祀されたとき、隼人たちもいっしょに京都へやってきたのではないかと、私は考えます。
隼神社は隼人の祖神です。そして先祖の霊はその子孫が祭祀すべきと考えられていたからです。 

綾傘鉾-太鼓2 

祇園祭 宵山 綾傘鉾


⑥まつろわぬ民・隼人

隼人とは古代薩摩や大隅(現在の鹿児島県)に住んでいたまつろわぬ民のことです。
記紀には次のような物語があり、隼人の先祖は火照命(海幸彦)だとされています。

海幸彦は海で魚を獲り、山幸彦はは山で鳥や獣を獲って暮らしていました。
あるとき、山幸彦は海幸彦の釣り針をなくしてしまい、釣り針をさがして海神のすむ竜宮へやってきました。
山幸彦は海神の娘である豊玉姫と結婚し、しばらくそこで楽しく過ごしました。
3年たって赤鯛の喉から海幸彦の釣り針が見つかり、山幸彦はもとの世界へと帰ることにしました。
このとき海神は山幸彦に次のように言いました。
『海幸彦が攻めてきたならば、塩満玉を出しなさい。大水がでて、海幸彦は溺れるだろう。
海幸彦が謝ったなら塩乾玉を出しなさい。水がひいて海幸彦は助かるだろう。』
山幸彦がもとの世界に戻ったのち、海幸彦はどんどん貧しくなり、悪い心を持つようになって山幸彦を攻めてきました。
山幸彦は海神に言われたように塩満玉をだして海幸彦を溺れさせ、海幸彦が許しを請うと塩乾玉を出して救いました。
海幸彦は、ホオリに仕えて昼夜お守りすると言いました。
ホデリは隼人の祖であり、今でも隼人はホデリが溺れた時の仕種を演じて仕えています。
 

 
綾傘鉾 棒振り 

祇園祭 宵山 綾傘鉾p 

⑦火酢芹命=火照命(海幸彦)?

⑥の話を読んで、「あれっ?」と思った方もおられると思います。

もう一度『奈良市史社寺編』の記述を見てみましょう。

『隼神とは、火酢芹命(ほすせりのみこと)のことである。
これは隼人族の祖であり、海幸彦とも呼ばれ、神武天皇の祖父で山幸彦とも言われている、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の兄にあたる。
兄・海幸彦は、弟・山幸彦との戦いに敗れて、代々、宮城の警固に任じられた。
勝利した山幸彦は、天皇家の元を築いたと記紀で伝えられている。』

と書いてありますね。

記紀によれば、ニニギとコノハナノサクヤヒメの長男が火照命(海幸彦)、次男が火酢芹命、三男が彦火火出見命(山幸彦)です。
しかし『奈良市史社寺編』では火酢芹命が海幸彦であると書いてあります。

『奈良市史社寺編』は記述を間違えたのでしょうか?
私はこの記述は間違いとはいえないと思います。

火酢芹命は誕生の時に名前が登場するだけで、その後は一切出てこず、不自然です。
火酢芹命と火照命(海幸彦)は同一神なのではないでしょうか。

なぜ一柱の神を二柱にわけたのかよくわかりませんが、弟が兄を打ち負かすなんてケシカランというような考え方があったのかも?

 綾傘鉾 棒振り

祇園祭 宵山 綾傘鉾p 

⑧山幸彦=天皇家、海幸彦=物部氏?

山幸彦は天孫ニニギの三男で神武の祖父なので、天皇家の先祖ですね。
するとニニギの長男である海幸彦は、ニニギと同じく天孫でありながら、神武に皇位を奪われたニギハヤヒのイメージと重なります。
ニギハヤヒは物部氏の祖神です。
山幸彦は天皇家を象徴する人物、海幸彦は物部氏を象徴する人物として書かれているのではないでしょうか。

綾傘鉾 棒振り 

祇園祭 宵山 綾傘鉾p 

⑨九州甘木と大和に類似した地名が。

九州の甘木地方と大和地方には類似した地名が多くあり、またその位置関係も類似しているという指摘があり
ここから物部氏は九州からやってきた一族ではないかとする説があります。
甘木という地名も気になります。
肩野物部氏が本拠地としていた大阪府交野市・枚方市を流れる川を天野川といいますが、もともとは『うましの川』だったといわれています。
物部氏の祖神はウマシマジノミコトであるし、どうも『うまし』という言葉は物部氏を表す言葉のように思えます。
甘木ももともとは『うまぎ』だったのではないかと思ってしまいます。

綾傘鉾 棒振り 

祇園祭 宵山 綾傘鉾p 

⑩隼人は物部氏?


また九州の大宰府は流刑地であり、多くの謀反人が九州へ配流されています。
隼人とは九州に住んでいた物部氏または、九州に流罪となった物部氏のことだったりして?

⑪隼人の強制移住

隼人は度々反乱をおこしたため、朝廷は隼人たちを畿内に移住させる政策をとりました。

畿内に移住させられた隼人たちは、ヤマト王権の支配をうけ、隼人司に属しました。
そして朝廷の警護・祭祀・相撲・竹細工の製作などを行っていました。

大隅隼人が住んだという現在の京田辺市には『大住』の地名が残っています。
ということは、隼人たちは特定地域に定住させられたのではないでしょうか。

もと隼神社があった蛸薬師坊城付近にも隼人たちは強制移住させられたのかも?

祇園祭 山鉾巡行 綾傘鉾 
山鉾巡行 綾傘鉾


⑫畿内に移住した隼人のその後


隼人司はしだいに形骸化していきました。
隼人司が形骸化したのちの隼人たちはどうなったんでしょうか?

私は隼人たちは非人となったのではないか、と考えました。
非人といっても江戸時代の身分制度の非人ではありません。
中世、畿内には寺社に隷属する民がおり、非人と呼ばれていたのです。

非人たちは死体の埋葬・神社の清掃・警備・神事などを行っていました。

隼人たちは、『俳優(わざおき)の民』であったとされますが、俳優とはこっけいな動作をして歌い 舞い、神や人を慰め楽しませることで、芸能の一種です。
現在では芸能は単なる娯楽ですが、中世には芸能は神事であり、非人たちによって行われていたようです。

山鉾巡行 綾傘鉾3 
山鉾巡行 綾傘鉾

⑬犬神人

京都では清水坂にすんでいた犬神人と呼ばれる非人が有名です。
犬神人は祇園社(現在の八坂神社)に隷属する非人でした。
犬神人は「弦召せ」と言って弓の弦を売り歩いていたので「つるめそ」とも呼ばれていました。

犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな 

この川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様を詠んだものです。

一遍聖絵に犬神人の絵が描かれていますが、結髪せず、口には白いマスクをつけています。


犬神人 本願寺聖人伝絵

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg よりお借りしました。

<a title="覚如 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で" href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"><img width="256" alt="犬神人 本願寺聖人伝絵" src="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"></a>

上は本願寺聖人絵伝に描かれた犬神人です。

⑭祇園祭の起原は梛神社から八坂神社に遷宮する祭?

隼神社の隣に鎮座する梛神社は元祇園社と呼ばれ、ここから現在の八坂神社の地に移ったと考えられます。

祇園祭は八坂神社の祭礼ですが、梛神社の由緒によれば、『神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀したとき当地の住人は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。
これが後の祗園会(祗園祭)の起源と伝えられる。』とあります。

現在、祇園祭の際、壬生六斎念仏講中が祇園囃を奉仕しています。
綾傘鉾は他の山鉾とは違って、傘鉾ですね。(ほかに傘鉾は四条傘鉾もあります。)

綾傘鉾が傘鉾なのは、梛神社の由緒にある風流傘をルーツにするものではないでしょうか。

狗人と犬神人

また山鉾巡行では綾傘鉾では結髪せず、口に白いマスクをした人が棒振りをして渡御する道を清めます。
これは八坂神社に隷属していた犬神人と同じいでたちです。

山鉾巡行 綾傘鉾2 
山鉾巡行 綾傘鉾

日本書紀には『海幸彦は狗人(いぬひと)として仕えた』とあります。
祗園社の非人は犬神人と呼ばれており、どうも関係がありそうに思えます。

また大正7年(一九一八)蛸薬師坊城から梛神社の隣に隼神社を遷宮したのは、祇園社と隼神社には関係があるという認識があったからではないでしょうか。

⑰隼には角が生えていないのに角振隼明神とはこれいかに?

奈良の隼神社のもう一柱の神である角振隼明神という神名は妙ですね。
隼には角なんか生えてないですやん~。

角振とは祇園社の御祭神・牛頭天王のことではないでしょうか。
牛頭天皇の神像には角が生えたものが多いです。
そして牛頭天皇と隼人を合体させた神名が角振隼明神なのでは?

●狗人=隼人が犬神人のルーツ?


次のように考えると辻褄が合うのではないかと思いますが、どうでしょう?

古代、畿内には物部王朝があったが、日向より東征してやってきた神武天皇に政権を奪われた。
神武に抵抗した物部王朝の王は殺され、その子孫の多くは九州に流罪となった。
これが隼人のルーツである。

奈良時代、平城京近くに隼神社が作られ、火酢芹命(隼神)と、角振隼神(火酢芹命の御子)が祀られた。
火酢芹命(隼神)とは海幸彦のことで、隼人の祖神である。
角振隼神とは牛頭天皇(スサノオ)のことであった。

スサノオは天照大神と対立して高天原を追放されている。
天照大神は天皇家の祖神とされるので、天照大神と対立したのは物部氏と考えられる。
また船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったとしておられる。
そして物部氏の祖神ニギハヤヒは雲陽誌によれば星の神だと記述がある。
スサノオとは大物主神のことである。
隼人は物部氏の子孫だと考えると彼らがスサノオ=牛頭天皇=角振隼神を祀っていたことの筋が通る。

隼人たちは九州から強制移住させられて、隼神社の近所に住んでいたのだろう。
というのは先祖の霊は子孫が祀ることによって慰霊することができると考えられていたためである。
また彼らは宮中の警備にもあたったと考えられるが、隼神社から平城宮はそう距離が離れていない。
宮中で警護する際、彼らは犬の鳴き声をまねた。
ここから隼人は狗人と呼ばれた。

平安京遷都に伴って隼神社は壬生の地に分祀した。
当然、壬生の隼神社を祭祀するために、何人かの狗人たちが壬生の地に移転したことだろう。
繰り返すが、先祖の霊は子孫が祀るべきであると考えられていたからである。

貞観十一年(八六九)京の都に疫病が流行し、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(現在の兵庫県姫路市)から壬生の地に勧請して鎮疫祭を行った。
これが梛神社である。
奈良・隼神社の御祭神の角振隼神とはスサノオ=牛頭天皇であった。
そのため、隼神社からほどちかい場所に祇園社は作られ、またスサノオの子孫である狗人たちによって祭祀された。

その後、祇園社は八坂に遷宮した。
祇園社を祭祀するために狗人の何人かは祇園社近くの清水坂に移転した。
隼人は祇園社の御祭神・スサノオの子孫でもあるため、彼らが祭祀する必要があったためである。
彼らは狗人から転じて犬神人と呼ばれた。


山鉾巡行 綾傘鉾

山鉾巡行 綾傘鉾



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[2019/07/26 10:47] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

祇園祭 宵山 月鉾 『月鉾を調べたら伯牙山の謎がとけた?』 

祇園祭 宵山 7月14日~7月16日
山鉾巡行 7月17日

祇園祭 宵山 月鉾3

①かつら男ほく

鉾頭に月がかかっている?
よく見ると月は飾りでした。梅雨空の隙間から差し込んだ夕日が鉾の飾りの月を本物の月のように輝かせていたのでした。

月を鉾頭にいただくその鉾は月鉾と呼ばれています。
天王坐には月読尊をお祭りしていますよ。

古には月鉾は「かつら男ほく(ほこ)」と呼ばれていたそうです。
「かつら男ほく」は漢字では「桂男鉾」と書くのだと思います。

祇園祭 宵山 月鉾2

②中国人は月のクレーターの影を『桂を刈る男』に喩えた。


中国・唐代の書『西陽雑俎』によれば、「桂男」は月に住んでいる人間(桂男という名前から察するに男性なのでしょう。)で、名前は呉剛。
仙法を学んだ罪で月にある月宮殿で500丈(約1500メートル)もの高さの桂(モクセイ)を刈っているとあります。

モクセイの樹高は3-6m、雌雄異株で、約4㎜ほどの花には香気があるということです。

日本では月には兎が住んで餅つきをしているといわれています。
月のクレーターが作りだす影を兎が餅つきをする姿に喩えたのです。

中国では薬草をつく兎、ヒキガエル、蟹などに見立てるそうですが、
桂を伐る男も、月のクレーターの形を見立てたものだったりして?

月と兎

③伯牙と木こりの鍾子期


桂男の話を聞いて、私は昨日の記事  祇園祭 宵山 伯牙山 『琴の名人・伯牙は鳴沙山を擬人化したものだった?』 に書いたことを思い出しました。

春秋時代、伯牙は古琴を弾く名手であった。船で遠出した彼は中秋の夜、偶然きこりの鍾子期に出会う。伯牙が弾く一曲ごとに、鍾子期はその曲の内容と、そこに込めた伯牙の気持ちを言い当てた。2人は船上で、お互い胸の内を打ち明け、兄弟の契りを結び、1年後、再びこの場所で出会うことを約束した。

翌年の中秋、伯牙は約束の場所で演奏していたが、鍾子期の姿は見えなかった。鍾子期はすでにこの世を去っていたのだ。鍾子期は亡くなる前、自分の魂が伯牙と約束した場所で会えるように、岸辺に埋葬させたことを、伯牙は後に知った。

伯牙は鍾子期の墓前に来て、泣きながら琴を弾いた。周りを取り囲んだ観衆は、手をたたき笑いさざめいた。伯牙は天を仰ぎ、大きくため息をついて、「鍾子期がいなくなった今、誰が私の琴の音を理解してくれるだろうか」と、古琴の弦を切り、たたき壊してしまった。(2005年12月号より)(写真・文=魯忠民)

http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2008-09/02/content_148510.htm より引用

伯牙山 ご神体2 

伯牙山ご神体 拍牙 手には琴を壊す斧を持っています。

③伯牙は鳴沙山を擬人化したもの?

鳴沙山は風が吹くと砂が鳴る山だそうで、日本の鳴き砂と同様のメカニズムで音をたてると考えられています。
ただし日本の鳴き砂は海岸にあるのに対し、鳴沙山は砂漠にある山です。

日本の鳴き砂で有名な琴引浜には、鳴き砂文化館があり、そこにブーミングサンドの装置があるそうです。
鳴き砂のことを英語でブーミングサンドというのでしょう。



何やら恐ろし気な音ですが、日本の有名な鳴き砂の浜を琴引浜というところから、私は琴の名手・伯牙敦煌にある鳴沙山(めいさざん)を擬人化したものではないかと考えました。

④何やら関係がありそう?伯牙と月牙泉。


敦煌の鳴沙山の前には月牙泉があるそうです。




「月牙」は中国語で三日月を意味します。 月牙泉は砂漠の中のオアシスで、三日月に加工された池があります。

伯牙と月牙泉は伯が共通します。
また、伯牙は中秋の夜(陰暦8月15日、満の夜)きこりの鍾子期に出会ったとあり、牙泉をイメージさせます。

祇園祭 月鉾

⑤鍾子期は月で木を伐る桂男?

昨日の記事 祇園祭 宵山 伯牙山 『琴の名人・伯牙は鳴沙山を擬人化したものだった?』 を書いた時点では、
鍾子期が木こりであるということにどういう意味があるのか、わかりませんでした。

また伯牙=鳴沙山とすると、伯牙が琴をひかなくなったというのは「鳴沙山が鳴らなくなった」という意味になります。
しかし、鳴沙山は現在でも鳴っているようなので、伯牙=鳴沙山とするのは間違いなのか、とも考えました。

ですが桂男の話を聞いてピンときました!
木こりの鍾子期とは月に住んで桂を伐っている桂男ではないでしょうか。

祇園祭 宵山

⑥桂男は満月に近い日に現れる。

伯牙と鍾子期が出会ったのは中秋(陰暦8月15日)とあります。
陰暦は月齢をベースとした暦で、
新月の日は1日、三日月の日は3日、満月(十五夜)の日が15日のように、月齢(月相)によって日にちがきまっています。

桂男は満月に近いときにはその形が見えますが、三日月など月が部分的にしか見えないときには形がわかりませんね。
だから、伯牙と鍾子期が出会ったのは中秋(陰暦8月15日)だったと考えることができます。

伯牙と鍾子期は1年後に再開を約束しました。
ということは来年の旧暦8月15日に会おう、と約束したということですね。

⑦雨が降ると鳴沙山の砂は鳴らないのでは?


この日は満月なので伯牙と鍾子期は再開をはたすことができたはずですが、月=桂男=鍾子期が死んでしまって会うことができなかったとあります。

鳴沙山があるあたりは砂漠なので乾いた気候なのでしょうが、再開を約束した日はたまたま雲がでて月=桂男=鍾子期を隠していたのではないでしょうか。
また雲は雨を降らせ、湿度があがったため、風が吹いても鳴沙山の砂は鳴らなかったのではないでしょうか。

祇園祭 山鉾巡行 月鉾 

祇園祭 山鉾巡行 月鉾




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[2019/07/22 16:35] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

祇園祭 宵山 伯牙山 『琴の名人・伯牙は鳴沙山を擬人化したものだった?』 


祇園祭宵山 7月14日~16日
 
伯牙山 宵山 

 ①聞き手を失って古琴をひかなくなった伯牙


伯牙山は中国の伯牙という人のエピソードをテーマとした山です。

中国春秋時代、晋に伯牙という古琴の名人がいました。
伯牙が琴をひき、楚の鍾子期がそれを聞きました。
伯牙が太山を思って琴をひくと、鍾子期は「高く険しい太山のようだ。」と言いました。
伯牙が流水を思ってきくと鍾子期は「勢いよく流れる流水のようだ」と言いました。
しかし鍾子期は亡くなってしまい、伯牙は「琴を聞かせる人はもういなくなってしまった」と考えて琴を壊し、生涯琴を弾きませんでした。
(『知音』呂氏春秋)


伯牙山 ご神体2 

伯牙山 ご神体 拍牙像 手に琴を壊す斧を持っています。

次のように記されたサイトもありました。

春秋時代、伯牙は古琴を弾く名手であった。船で遠出した彼は中秋の夜、偶然きこりの鍾子期に出会う。伯牙が弾く一曲ごとに、鍾子期はその曲の内容と、そこに込めた伯牙の気持ちを言い当てた。2人は船上で、お互い胸の内を打ち明け、兄弟の契りを結び、1年後、再びこの場所で出会うことを約束した。

翌年の中秋、伯牙は約束の場所で演奏していたが、鍾子期の姿は見えなかった。鍾子期はすでにこの世を去っていたのだ。鍾子期は亡くなる前、自分の魂が伯牙と約束した場所で会えるように、岸辺に埋葬させたことを、伯牙は後に知った。

伯牙は鍾子期の墓前に来て、泣きながら琴を弾いた。周りを取り囲んだ観衆は、手をたたき笑いさざめいた。伯牙は天を仰ぎ、大きくため息をついて、「鍾子期がいなくなった今、誰が私の琴の音を理解してくれるだろうか」と、古琴の弦を切り、たたき壊してしまった。(2005年12月号より)(写真・文=魯忠民)

http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2008-09/02/content_148510.htm より引用

鍾子期は木こりとなっています。
そして二人は中秋の夜に出会い、兄弟の契りを結び、1年後の再開を約束したものの、鍾子期はすでに亡くなっていた。
鍾子期は自分の魂が伯牙と約束した場所で会えるように岸辺に埋葬するよう遺言しており、遺言は実行された、というのです。
ただし、こちらの話のほうは出典がわかりません。

杉本家住宅

伯牙山のお飾り場となっている杉本家住宅

 
②琴柱のない琴と琴柱のある箏(こと)

上の写真の提灯や幕に描かれている紋は箏(こと)の柱(じ)をデザインしたものですね。
箏の柱は琴柱、箏の駒ともいい、箏の弦の音程調節に用いられる可動式の支柱のことです。

伯牙山 琴柱

伯牙山 お飾り場 杉本家住宅に展示されていた和琴の琴柱


箏は琴と混同されがちですが、琴のほうは琴柱がなく、指で弦をおさえて音程をきめるのだそうです。

伯牙は古琴の名人だったとありますが、古琴は琴柱を用いる箏ではなく、琴柱を用いない琴です。
日本で和琴と呼ばれているものは琴柱を用いる箏なので、混同されたのでしょうか。



古琴を演奏している動画があったのでお借りしました。
琴柱がなく、弦を指で押さえて引いていますね。美しく響く音色にうっとりです~。

③琴をお引きください!

琴といえば私は仲哀天皇の物語を思い出します。

第14代・仲哀天皇は、筑紫の訶志比宮(かしひのみや)で熊曽国(南九州)を討とうとして琴を弾き、武内宿祢が沙庭で神託を請いました。
すると神功皇后が神がかりして住吉明神の神託を告げました。
「西の方に国あり。そこには金銀のほか、輝くような珍しい宝がたくさんある。その国を従わせよう。」
天皇は「高い所に登り、西の方を見てもただ大海が見えるだけだ」といいました。
すると神は怒り、「お前なんかに国を治める資格ないよ!お前なんか死んじゃえ!」といいました。
武内宿祢は天皇に「琴をお引きください!」と言いましたが、琴の音が聞こえなくなり、天皇は崩御されていました。
その後神功皇后が神託に従って三韓出兵したくさんの宝物を持って帰りました。


伯牙山 琴
 
伯牙山 お飾り場 杉本家住宅に展示されていた和琴

④鳴き砂で吉凶を占っていたのでは?


仲哀天皇は筑紫の訶志比宮にいまいたが、訶志比宮は福岡市東区香椎付近にあったと考えられています。
そして福岡県には姉子の浜・恋の浦・勝浦浜・白石浜(福岡県福津市)など鳴き砂で有名な浜があります。

鳴き砂とは仲哀天皇が弾く琴の音、あるいは仲哀天皇の声そのものであると考えられてこの物語は作られたのかも?

吉備津神社では鳴釜神事といって、火にかけた釜の音で吉凶を占う神事があります。
この鳴釜神事と同じく、鳴き砂の音で、ものごとの吉凶を占っていたのではないでしょうか。

 琴引浜 采女(合成)
 
鳴き砂で有名な琴引浜

⑤伯牙は鳴沙山を擬人化したもの?

すると伯牙も鳴き砂を擬人化したものではないか、と思えてきました。
調べてみると、中国(かんしゅくしょう)敦煌(とんこう)に鳴沙山(めいさざん)という砂山があり、風が吹くと砂が泣くような音がするということがわかりました。
ほかにも、ハミ市伊州や新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州(しょうきつかいぞくじちしゅう)モリ・カザフ自治県にも鳴沙山と呼ばれる山があるそうです



↑ 敦煌の鳴沙山の前には月牙泉があるそうです。

「月牙」は中国語で三日月を意味します。 砂漠の中のオアシスで、三日月に加工された池があります。

伯牙と月牙泉は伯が共通します。
また、①の話を思い出してください。
伯牙は中秋の夜、きこりの鍾子期に出会ったとあり、月牙泉をイメージさせます。

中秋とは陰暦8月15日のことです。
陰暦は月齢をベースとした暦です。
すなわち、新月の日は1日、三日月の日は3日、満月(十五夜)の日が15日のように、月齢(月相)によって日にちがきまっています。

伯牙は月牙泉と関係があるんじゃないかと思うのはトンデモですかねw。

伯牙山 ご神体

⑥鳴沙山は鳴らない?

伯牙は琴を壊して二度と演奏しなかったということですが、
伯牙=鳴沙山とすれば、鳴沙山はかつては風が吹くと砂が鳴っていたが、いつのまにか鳴らなくなったということでしょうか?

日本の鳴き砂などでもゴミがたまったりすると鳴らなくなるので、掃除をしていると聞きます。

ウィキペディアには次のように記されています。

鳴るためにはゴミ(浮遊性の植物起源のゴミは含まない)が少ない必要があり、また、自然界の鳴き砂は粒度範囲が限られ(地質学で砂と定義されている粒度範囲)1mm以上の砂、200µm以下の砂の鳴り砂、鳴き砂はないようである。
海浜の工事(波消しブロックを設置したり、岬の工事等)などのために海流が変化し砂の成分構成(鉱物成分や粒度分布など)が変わってしまうと鳴らなくなる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E3%81%8D%E7%A0%82 より引用

鳴沙山はかっては鳴っていたが、今は鳴らなくなってしまったのでしょうか?

次のような書き込みもありました。

鳴沙山とはいえ、鳴らない。普通の砂漠と一緒。おそらく、数十人が一緒に滑ると、鳴るのかなと思う。

https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g303695-d2297317-r312977256-Mingsha_Shan_Echoing_Sand_Mountain-Dunhuang_Gansu.html
より引用

ですが、下の動画は風が吹いて砂が鳴っている音のようにも聞こえます。(中国語はわかりません・・・汗)



↓ こちらは琴引浜の鳴き砂文化館に設置されているブーミングサンドの装置だそうです。





伯牙山 タペストリー 
伯牙山 タペストリー

伯牙山付近のろうじ

伯牙山近くに会った雰囲気のあるロウジ(路地・・・京都弁ではロウジと発音します。)

祇園祭 宵山 月鉾 『月鉾を調べたら伯牙山の謎がとけた?』 へつづく~



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[2019/07/21 15:14] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)