粟田神社 粟田祭 神幸祭 『藤原氏の土地乗っ取り伝説』 

京都市東山区 粟田神社
粟田祭 神幸祭 体育の日

粟田神社 神輿 

①粟田神社のふたつの創建説話


粟田神社にはふたつの創建説話が伝えられています。

a.876年、神祇官と陰陽寮が「今年、兵災があり、秋には疫病が流行るでしょう」と占ったため、清和天皇は全国の神社に祈祷を命じました。
この際、出羽守・藤原興世は感神院祇園社(現在の八坂神社)に祈願しました。
満願の夜、興世の枕元に大己貴神(大国主命の別名)があらわれ「祇園の東北に我を祀れば、国家と民は安全になるだろう。」と告げました。
こうして粟田神社が創建されました。


b.粟田氏が氏神として粟田神社を創建した。

粟田神社 神輿2 
②皇別氏族・粟田氏

粟田氏は第5代孝昭天皇の皇子・天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命を始祖とし、大和の添上郡(奈良市東部)や,山城の愛宕郡粟田郷(京都市東山区)などに住んでいたそうです。

粟田神社は京都市東山区粟田口鍛冶町にあり、粟田氏はこの粟田神社付近に住んでいたと考えられます。
皇別氏族ぐらいになると氏神(祖神)を祀るくらいのことはしそうです。

だけど、aの創建説話では粟田神社は藤原興世が創建したということになっていますね。

粟田神社 神輿3

③藤原氏の土地乗っ取り伝説

藤原氏には土地を乗っ取ったというような伝説がいくつかあります

c.武甕槌命は春日野の地主である榎本の神に『この土地を地尺だけ譲ってほしい』と言いました。
榎本の神は『三尺くらいなら』と承諾しました。
ところが武甕槌命は広大な土地に囲いをしたので、榎本の神は『話が違う』と抗議しました。
武甕槌命は『私は地下三尺と言ったのに、あなたが聞き取れなかったのです。』といっいました。
しかし榎本の神が住むところがないと困るので
、春日大社本殿のすぐそばに社を作りました。

藤原氏の氏神は春日大社で、タケミカヅチ・フツヌシ・アメノコヤネノミコト・ヒメガミを祀っています。
タケミカヅチ・フツヌシ・アメノコヤネノミコト・ヒメガミの四柱の神は総称して春日明神と呼ばれています。

つまり、春日大社の神=藤原氏の神が榎本の神の土地を奪ったということになると思います。


d.氷室の神さまの土地に、春日の神さまが若宮祭のお旅所を作ったため、相撲をとって決着をつけた。

 粟田神社 太鼓と猿田彦

④鞍馬寺は紀氏の寺だったのを藤原氏が奪った?


鞍馬寺にはこんな創建説話が伝えられています。

e.藤原伊勢人の夢の中に貴船の神が現れ、鞍馬寺をつくるようにと言った。

貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。
賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないかと思います。

粟田神社 猿田彦

ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

紀氏の神が、藤原氏に寺を作れ、なんて言うもんですかね?
どうやら貴船神社は紀氏の神を祀る神社だというのが真実のようです。

どうも鞍馬寺ももともと紀氏の寺だったのを、のちに藤原氏に奪われたように思えます。

粟田神社 鉾

⑤八坂神社は牛頭天皇の総本社ではなかった?

粟田神社の南にある八坂神社は牛頭天皇の総本宮を称していますが、兵庫県姫路市の広峰神社(兵庫県姫路市広嶺山52)もまた牛頭天皇の総本宮を称しています。。

広峰神社側の資料には次のようにあります。

①869年疫病が流行り、藤原基経が播磨国の牛頭天皇を都に勧請した。
②京都四条にある元祇園梛神社(京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2)は、この時、牛頭天王の乗る御輿を梛の林中に置いて祭ったことが始まりである。

梛神社
 
③京都に着いた牛頭天王は北白川の東光寺に祭られた。
④その後、藤原基経が八坂にあった邸宅を寄進して感神院祇園社を建立し、牛頭天王を遷座した。
⑤しかし疫病はおさまらず、広峯神社の社人を都に招いて白幣祭を行わせたところ疫病はおさまった。
⑥この白幣祭が祇園御霊会のルーツである。
また神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などは、神様を廣峯神社から八坂神社へ移した際に神様が休憩された所と伝わっています。

粟田神社 鉾さし

八坂神社は鎌倉時代に入ってから広峯神社が言い出したことだとしているようですが、神様が休憩された所まで残っているので
廣峯神社の言い分のほうが筋が通っているように思えます。

粟田神社 鉾さし


こんなに藤原氏が土地や神を奪ったというような伝説があるところをみると、粟田神社は粟田氏の氏神を祀る神社だったのに、あとから藤原氏が土地と神様を奪ったんじゃないかなあ、と疑ってしまいます。

粟田神社 神輿4


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[2017/10/13 11:12] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

晴明神社 晴明祭 『賀茂氏はトリカブト氏?』 

京都市上京区 晴明神社
晴明祭・・・秋分の日


晴明神社 清明祭 神輿 
① 晴明は鬼の幻覚を見たの?

平安時代の陰陽師・安倍晴明は夢枕莫さんの小説や岡野玲子さんの漫画で有名ですね!
最近ではフィギュアスケータ―の羽生結弦さんが演じる『『SEIMEI』がフィギュアスケートファンを痺れさせています。

安倍晴明には様々な超人めいた伝説が伝えられています。
その伝説のひとつにこんなのがあります。

晴明は幼少のころ、賀茂忠行に陰陽道を学んでいました。
ある夜、晴明は忠行の供をして下京辺りを通りかかりました。
忠行が眠り込んでいる牛車の後を晴明は歩いていたのですが、ふと見ると鬼の姿が見えました。
晴明は忠行を起こして鬼を見たことを告げました。
忠行は車を止めさせ、法術で鬼から姿が見えないようにしました。
そして晴明を陰陽師の才能ありとして陰陽道のすべてを教えました。


うーん、これはまあ、作り話か、事実であるとすれば晴明は幻覚を見たということではないでしょうか。

晴明神社 清明祭 矛

②賀茂氏はトリカブト氏?


いつもトンデモ説の話ばかりしていますが、今回は特にトンデモ度が高いので、さらーっと聞き流してくださいね。
間違っても事実だなどと考えないでねー。

賀茂氏は安倍氏と並ぶ陰陽道の宗家ですが、賀茂という名前にちょっとひっかかるんですよね。

賀茂氏は鴨氏と記されることもありますが、鴨という漢字を分解すると甲+鳥となりますね。
これを右からよむと「トリカブト」となります。

トリカブトという植物がありますが、これは大変な猛毒で、少しの量で死にいたってしまいます。
トリカブトは別名「附子(ブス)」といいます。
ちなみに容姿の醜い女性をブスというのは、トリカブトに含まれるアコニチンにより、顔の表情筋が付随となってしまうことに由来するといわれます。

鴨氏という名前の由来は、このトリカブトと関係ないでしょうかね~?

晴明神社 清明祭 八乙女

③陰陽師は薬物のプロフェッショナルだったりする?

賀茂忠明の弟子だった安倍晴明には、鬼を見たという話以外にも超人的なことをしたという話がたくさん伝えられています。
陰陽師は天文学・暦学などのプロフェッショナルですが、トリカブトなど薬物のプロフェッショナルでもあったとしたら、超人的な伝説のいくつかはとけるかもしれません。

晴明神社 清明祭


③晴明の不思議伝説はやばい薬によるものだったりする?


晴明が鬼を見たというのが幻覚であったなら、それは幻覚作用をもたらす朝鮮朝顔から作ったやばい薬をやっていたことが原因かもしれません。
(ちなみに大麻に幻覚作用があるというのは間違いだといわれています。)

その他、晴明は式神を家事に使っていたとか、手を使わずに蛙をぺちゃんこに潰したなどの伝説があります。
これらももしかしたら薬による幻覚だったのかも?


晴明神社 清明祭 維新鼓笛隊 

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[2017/09/28 21:56] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

車折神社 重陽祭 『裂けた牛車の車』 

都市右京区 車折神社
重陽祭・・・9月9日

車折神社 重陽祭 舞人2 

9月9日は重陽の節句です

①なぜ車折神社という神社名なの?

車折神社は清原頼業(きよはらのよりなり/1122~1189年/平安時代の貴族・儒学者)の廟があった場所とされます。
その後、清原頼業の法名にちなむ寺・宝寿院が建立されたそうです。
清原頼業の廟は桜の宮と呼ばれていました。

その後、後嵯峨天皇〈1220~1270)が桜の宮の前を通ったところ、牛が動かなくなり牛車の轅(ながえ)が折れたので、清原頼業の霊に「車折大明神」の神号と「正一位」の神位を贈ったということです。

轅とは牛車の前方に長く突き出ている2本の棒のことです。

葵祭 牛車  

またある人が牛車に乗って宮前を通ったところ、車が避けてしまったため、車折神社という神社名がつけられたとも伝わります。

車折って『八つ裂きの刑』という意味なんですけどね~。
参照/車折神社 桜 大酒神社 木漏れ日 『八つ裂きの刑神社と極刑神社?』 ※追記あり 

車折神社 重陽祭 舞人3 

重陽の節句は菊の節句とも呼ばれます。

②承久の変で流罪となった上皇たちと天皇

88代後嵯峨天皇は83代土御門天皇の皇子で、82代後鳥羽天皇の孫にあたる方です。

1221年、後鳥羽天皇(このとき土御門天皇に譲位していたので正しくは後鳥羽上皇)は兵を招集して鎌倉幕府の執権・北条義時を追討しようとしました。(承久の変)
しかし幕府軍に敗れて隠岐の島に流罪となってしまいました。
後鳥羽上皇の皇子の順徳上皇は変に関与したとして佐渡島に流罪。
83代土御門上皇は変に関与していませんでしたが、自ら望んで土佐国への流罪を受けられました。
当時の天皇は順徳天皇の皇子の85代仲恭天皇でしたが、廃されました。
そして後鳥羽天皇の同母兄・守貞親王(後高倉院)の皇子の後堀河天皇が86代天皇として即位し、守貞親王が院政を行うことになりました。
その後、後堀河天皇の皇子の四条天皇が即位しました。

文章だとややこしいですが、系図を見るとぱっと理解できると思います。

系図 
③後嵯峨天皇はなぜ即位することができたのか?

繰り返しまーす。

後鳥羽上皇は承久の変で幕府軍に負けて流罪となり、後鳥羽上皇の皇子の土御門上皇・順徳上皇は流罪。
後鳥羽上皇の孫で順徳上皇の皇子の仲恭天皇は廃されました。
後鳥羽上皇の同母兄の後高倉院の皇子・後堀河天皇が即位し、続いて後高倉院の孫で後堀河天皇の皇子・四条天皇が即位。
そのまま後高倉院の子孫が皇位を継承すると思いきや、四条天皇の次にはなんと流罪となった土御門天皇の皇子の後嵯峨天皇が即位しています。
そう、後嵯峨天皇は車折神社の由緒に登場する方ですね。

なぜ後嵯峨天皇は即位することができたのでしょうか?

車折神社 重陽祭 舞人 

菊のしずくを飲んで700歳の長寿を得た菊滋童の説話から、不老長寿を祈ります。


④平城上皇のとばっちりを受けて臣籍降下した在原業平

薬子の変(嵯峨天皇vs平城上皇)のケースでは、敗れた平城上皇は出家、平城上皇の皇子の阿保親王は太宰府に流罪となりました。
阿保親王は許されて都に戻ったのち、子供の臣籍降下を申し出ています。
おそらく阿保親王は子供の臣籍降下を申し出ることで、朝廷に逆らう気持ちがないことを示そうとしたんでしょうね。
この阿保親王の子供が在原業平です。

つまり在原業平は本来であれば天皇になってもおかしくはない高貴な生まれであったのに、祖父・平城上皇のとばっちりを受けて臣籍降下したわけです。

後嵯峨天皇は在原業平と同様の境遇であったといえます。
祖父の後鳥羽上皇が変をおこし敗れて流罪、父・土御門天皇は流罪となったわけですから。
それなのに後嵯峨天皇は即位しています。

車折神社 重陽祭 舞人

⑤四条天皇急死、後鳥羽上皇の血統から天皇を選ぶ

土御門天皇が流罪となったのち、後嵯峨天皇は母方の大叔父・土御門定通に育てられました。
土御門家は没落し、貧しい生活を送ったようです。

1242年、四条天皇が12歳で崩御してしまいました。
もちろん四条天皇に子供はありませんでしたし、男兄弟もいませんでした。

四条天皇の父・後堀河天皇の兄弟は全員出家していました。
そこで後鳥羽上皇の血統から天皇を選ぶことにしたというのです。

九条道家らは順徳天皇の子の忠成王を天皇に押しました。
一方、北条氏は承久の変にかかわった順徳天皇の子を皇位につけるのはよくないといて、承久の変にかかわらなかった土御門天皇の皇子・後嵯峨天皇を推したのです。

うーん、でも後堀川天皇の出家した兄弟を還俗、即位させると言う方法もあったはずです。
桓武天皇の同母弟の早良親王は出家していましたが、還俗して桓武天皇の皇太子となっていますね。
早良親王は藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となったので、即位することはなかったんですが~。

実は北条氏は後嵯峨天皇と親戚でした。後嵯峨天皇の養父・土御門定通の側室が北条重時の同母妹だったのです。
それで北条氏は後嵯峨天皇を天皇につけたいと思っていたのではないでしょうか。


車折神社 重陽祭 楽人 

楽人たちも菊の簪をつけています。


⑥後嵯峨天皇、四条天皇を呪う?

車折神社にはふたつの伝説がありましたね。

a.後嵯峨天皇が桜の宮の前を通ったところ、牛が動かなくなり牛車の轅(ながえ)が折れたので、清原頼業の霊に「車折大明神」の神号と「正一位」の神位を贈った.

b.またある人が牛車に乗って宮前を通ったところ、車が避けてしまったため、車折神社という神社名がつけられた。

私はもともとの伝説はbだったのではないかと思います。

車折神社 桜 大酒神社 木漏れ日 『八つ裂きの刑神社と極刑神社?』 ※追記あり 
↑ こちらの記事に書いたように、車折神社は秦氏が祭祀する神社で、神社名は『八つ裂きの刑』からつけられたものであったのではないでしょうか。
御祭神は広隆寺の近くにある大酒神社と同じ秦酒公だったかも?
ちなみに大酒神社はもともとは大闢神社といいましたが、大闢とは極刑という意味です。

そしてその後、車折神社に清原頼業の廟がつくられたので、御祭神が清原頼業に変わってしまったとか?
北野天満宮なども、もとは別の神が祀られているところに祀られ、境内にはもともとの神を祀る地主神社があります。

で、北条氏か御嵯峨天皇がこの車折神社に祈願をしたのではないかと思うのです。
「四条天皇が崩御しますように!そうすれば御嵯峨天皇が次期天皇になれる!」と。

その呪いがかなえられて、四条天皇は崩御したと考えられたのではないでしょうか。

車折神社 重陽祭 楽人 
つまりb.の伝説の「ある人」とは四条天皇のことであり、「牛車の車が裂けた」とは「四条天皇が崩御し、後堀河天皇~四条天皇と続く血統が絶える」ことの比喩ではないかと思うのです。

菅原道真の死体を牛車に乗せて運んだところ、突然牛が動かなくなったので、その地に道真の遺体を葬ったという伝説もあります。
牛車をひく牛が動かなくなるというのは、死を暗示しているようにも思えます。

a.のほうの伝説は、本当は御嵯峨天皇は「四条天皇が乗っている牛車が裂けるように祈願していた」とするのが正しいのに、いつのまにか話がひっくり返り「後嵯峨天皇の乗っていた牛車の轅が折れた」と話がひっくり返ってしまったのではないでしょうか?


車折神社 重陽祭 菊酒 

菊酒


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[2017/09/11 19:59] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

江文神社  八朔踊 『大原雑魚寝は呪術だった?』 


京都市左京区  江文神社
八朔踊・・・ 9月1日に近い土曜日

江文神社 子供たちの八朔踊2 
夕刻より子供さんたちの八朔踊が始まりました。

①八朔は『田の実の節句』

八朔とは旧暦の8月1日のことですね。
旧暦は新暦より約一か月遅れとなるので、新暦換算すると9月ごろが八朔です。

八朔は早稲の穂が実るころです。
江文神社の近くの田んぼでも稲が実っていましたよ。

農民の間には、お世話になった人々へ初穂をお贈る風習がありました。
初穂=田の実ということで、八朔は『田の実の節句』と言われることもありました。。
『田の実』は語呂合わせで『頼み』に通じるので、武家や公家の間でも、八朔に贈り物をする習慣が生じたと考えられています。

②八朔踊


地域の氏神の祭祀に携わる村落内の組織のことを宮座といいます。
八朔踊はそういった宮座行事です。

江文神社の宮座には長男は15歳、次男以下は17歳で加入するのがしきたりで、主にそういった若い青年たちによって踊られます。

江文神社 八朔踊-行列 
午後8時ごろより青年たちによる八朔踊がはじまりまーす。

③道念音頭は声明と関係ある?


曲は道念音頭といって楽器を用いない独特のものです。

道念の意味を調べてみたところ、①道徳の観念、②道義心・求道心。③僧侶の妻。とありました。
道念音頭の道念は②の道義心・求道心を意味しているのではかと思います。

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道念音頭を歌っていた素敵なお嬢さんが歌詞を記した冊子を見せてくださいました。(ありがとうございます!)
恋人たちが京都めぐりをする歌だということでした。
いいですね~。たまにはカメラ持っていかずに京都でデートしたい!
(カメラ持っていくと写真撮るのに夢中になって、男は二の次になってしまう~)

えー、ここ大原は昔から融通念仏や天台声明が盛んに行われていました。
声明とは仏典に節をつけたもののことです。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

日本版アカペラのゴスペルというべきか…。美しいですね!

アカペラで歌う道念音頭は、この声明と関係ないですかね?

江文神社 八朔踊

④大原雑魚寝

かつて江文神社には節分の夜に雑魚寝する習慣があって大原雑魚寝と呼ばれていました。

むかし井出(かつて江文神社のあたりの地名を井出といった)の大淵に大蛇があらわれて人を食べるので、村中の男女は節分の日に江文神社の拝殿に参籠したといわれています。
そして、この夜にどのような情事があっても見逃したということです。

残念ながらというべきか(笑)、この習慣は明治以前に禁止になりました。

古代の日本には歌垣と呼ばれるフリーセックスの習慣があり、そのようすが歌にも詠まれています。

……率(あども)ひて 未通女壮士(おとめおとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ刊歌(かがい)に 人妻に 吾(あ)も交はらむ 吾が妻に 人も言問(ことと)へ……(高橋虫麻呂)

大原雑魚寝はこの歌垣の伝統をひきつぐものであったのかもしれませんね。

江文神社 八朔踊2

⑤歌垣や大原雑魚寝は荒霊と和霊を和合させる呪術だった?


歌垣は単なる乱交パーティーではなく、信仰からくる習慣ではないかと思います。

神はその現れ方によって、御霊(神の本質)、荒魂(神の荒々しい側面)、和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれます。

そして男神は荒魂、女神は和魂をあらわしているのではないかとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


聖天さんという像頭・男女双体のみほとけがいます。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんには次のような伝説があります。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 

聖天さんは仏教の神ですが、江戸時代まで神仏は習合されて信仰されていました。
この聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)

つまり、荒魂と和魂を和合させて男女双体の神とすることが、荒魂を鎮めて御霊とする呪術ではないかと思うのです。
歌垣や大原雑魚寝はそういった呪術的意味合いから行われていたのではないでしょうか?


江文神社 八朔踊



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[2017/09/04 23:13] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

梅宮大社 嵯峨天皇祭 六斎念仏 『越後さらしは 浄めの神事?』 


京都市右京区 梅宮大社
嵯峨天皇祭・・・8月最後の日曜日


嵯峨天皇祭の目玉はなんといっても梅津六斎会による六斎念仏~♪ 

梅宮大社 梅津六斎 獅子 

①越後さらし

梅津六斎 越後さらし 

六斎念仏の演目のひとつ、『越後さらし』。
細長い白い布を両手で持ち、激しく振り回すと、布は様々な形に変化します。
あるときは波のように、あるときは龍のようにも見えます。

新潟県新潟市南区(旧西蒲原郡月潟村)を発祥とする大道芸に『越後獅子』があります。
越後獅子を六斎の演目としている六斎会もあります。
『越後さらし』は『越後獅子』のフィナーレとして最後に行われていました。
六斎念仏の『越後さらし』はこの『越後獅子』から独立させたものだと思います。

梅宮大社 梅津六斎 越後さらし 

②雪さらしの漂泊効果

越後の伝統工芸・越後上布を作るのにかかせない作業として雪さらしがあります。

雪は溶けて水となり、さらに水は気化して水蒸気となります。
そこへ直射日光が照りつけ、また雪が日光を反射して、水蒸気が強い紫外線を受けると、水蒸気(H2O)の一部が水素(H)と酸素(O)に解離します。
この酸素(O)はオゾン(O3)または酸素ガス(O2)となりますが、オゾンには漂白作用があり、雪さらしをすることによって布が漂白されるのです。

先人たちのすばらしい知恵ですね!



動画お借りしました。
動画主さん、ありがとございます。

長い布の端を二人で持って雪の上で振っていますね。
越後さらしとはこれをモチーフにしたものではないかと思います。 

③振ることは浄めの儀式だった?

祇園祭 棒振り

↑ 祗園祭の綾傘鉾の棒振りです。
大昔にネガで撮影したものを安物のスキャナーで読み取ったものなので画質が悪くてすいません。

棒振りとは赤熊の髪形をした者がバトントワラーのように棒を振るパフォーマンスのことで、こうすることで道を浄めることができるとされています。
どうやら振るということにはその場を浄めるという意味があるようです。

松尾大社 八朔祭 六斎念仏 祇園囃子 棒振り 

↑ こちらは松尾大社で行われた嵯峨野六斎会「祇園囃子」の棒振り。

雪さらしをして布を真っ白にする様子を表現していると思われる「越後さらし」の演目には浄めの神事という意味合いがあるのではないでしょうか。 

梅津六斎会にも「祇園囃子」の演目はありますが、棒振りはなかったと思います。(京都にはいくつかの六斎会があり、六斎会によって行う演目が異なります。また同じ演目でも内容が少しづつ違っています。)

梅宮大社 梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ 
梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ 

 梅宮大社 梅津六斎 祇園囃子 おかめ 

梅津六斎 祇園囃子 おかめ

↑ 祇園囃子のひょっとことおかめ




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[2017/08/31 16:08] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

小塩の上げ松 『夜空は黄泉の国の世界?』 

京都市右京区京北小塩町
上げ松・・・8月23日に近い土曜日

小塩-百日紅

百日紅が咲く静かな里・小塩

①小塩の上げ松

前回の記事広河原 松上げ 『松上げはなぜ地蔵盆に行われているの?』 で『松上げ』の行事についてご紹介しましたが、
同様の行事を『上げ松』と言う地域もあります。
美山町の盛郷・川合・殿、そして京北小塩町では『上げ松』と言っています。

小塩の上げ松 燈篭木を立てる

綱をひっぱって燈篭木(とうろぎ)を立てます。

小塩の上げ松 燈篭木を立てる人々 

小塩の上げ松 松明 

↑ 松明。これに火をつけ、くるくる回して燈篭木のてっぺんに取り付けた「もじ(逆円錐形に杉葉等を詰めたもの)」をめがけて放り投げるんですね~。

小塩-空き缶ランタン 
田んぼの周囲にはたくさんの空き缶を利用したランタンがぶら下げられていて手作り感があふれています。

小塩 夕日に照らされた木々  
夕日に照らされて山が赤く染まり

 小塩 夕焼け 
谷間には鮮やかな夕焼雲が。

午後8時ごろより、上げ松の行事が始まります。

小塩の上げ松  
空き缶ランタンに火がともると空き缶とは思えない美しさ~!(写真下部の点状の光が空き缶ランタン)

②お盆とペルセウス座流星群

8月1日は釜蓋朔日といい、地獄の釜が開く日とされます。
そしてご先祖さまの霊が地獄からこの世に戻ってくると信じられていました。

お盆(旧暦7月1日~15日ごろ、新暦では8月1日~15日ごろ)の時期はペルセウス座流星群(新暦7月20日ごろから8月20日ごろ。8月13日がピーク)が観測される時期と重なっています。
古の人々は星を死んだ人の霊、たくさんの流星がふる様子を死んだ人の霊がこの世に戻ってくると考えて、お盆の習慣が生じたのではないかと私は考えています。

Leonidas sigloXIX

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ALeonidas_sigloXIX.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Leonidas_sigloXIX.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

上はしし座流星群を描いた絵ですが、写真の松上げの様子に似ていませんか。
ただし、流星が上から下に流れるのに対して、松上げは下から上に放り投げられます。
松上げはお盆(8月1日~8月15日ごろ)に流星になって戻ってきた死者の霊を、地蔵盆である8月24日に天に戻す行事ではないかと私は考えました。

④地獄が天上にあるのは変?


うーん、でも地獄や黄泉の世界は地下にあるんですよね。
地獄の釜が開いて死んだ人の霊が空から流星になって戻ってくるって変かも?
もしかして私の考えは間違ってる?
それがずっと心にひっかかっていました。

面不動鍾乳洞4 

地獄は鍾乳洞のイメージ? 詳しくはこちらの記事を読んでね。↓
洞川温泉 面不動鍾乳洞 『鍾乳洞は黄泉の国?』 

⑤「読」は「黄泉」と同音

月の神の名前は月読命といいます。
太陰暦は月齢をベースにした暦で、月を見れば今日が何日かわかります。
月が三日月なら3日、半月なら7日、満月なら15日というふうに。

月読命の「読」とは、このように月を読んで日にちを知るところからくる言葉ではないかと思います。

しかし、同時に「読」は「黄泉」と同音で、月は黄泉の国を表しているようにも思えます。

北野天満宮 三光門 月と兎 
北野天満宮 三光門 月とうさぎ

⑥根の国の王・スサノオは星の神?

天照大神・月読命・スサノオはいずれもイザナギの子として生まれました。
イザナギは「天照大神は高天原を、月読命は夜の食国を、スサノオは大海原をおさめよ」と言っています。

ところが記紀神話にはスサノオが大海原をおさめたという記述がありません。
スサノオは海の神ではなく、根の国の王として登場します。
記紀神話には海の神として海神が登場し、スサノオと海神は同一神と考えられたりもしていますが。

船場俊昭さんは次のようにおっしゃています。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。

根の国とは黄泉の国と同様のものと考えられています。

ということは、根の国の王=黄泉の国の王=星の神であると考えられると思います。

⑦スサノオは星の神から黄泉の神へと神格を変えられた?

またイザナギに「夜の食国をおさめよ」と命じられた月読命は、記紀神話の中にあまり登場しません。

日本書紀では月読命は天照大神に命じられて保食神のもとへ行きますが、保食神が口から出したもので月読命をもてなそうとしたため、「けがらわしい」と怒って保食神を殺してしまったとあります。

古事記では食物の神・オオゲツヒメが口や尻から出したものでスサノオをもてなそうとしたので、怒ったスサノオがオオゲツヒメを殺したと言う話があります。

もともと夜の食国=黄泉の国=根の国をおさめていたのは月読命だったのではないでしょうか。
それをのちに、星の神であるスサノオを夜の食国=黄泉の国=根の国の神へと神格を変えたのが古事記の物語のように思えます。

⑧古の人々は空は地球の周囲を回転していると考えていた?

もしかして、古代の中国や日本では空は地球の周囲を回転していると考えられていたのではないでしょうか。
空が地球の周囲を回転していると考えないと、西に沈んだ太陽が、翌日東から昇ってくるのはなぜなのか、納得できないと思うんですよね。

そして、地獄=黄泉の国=根の国は日中は地下(地球の下)にあるが、夜になると天上に昇ってくると考えられていたのかも?

黄泉の国 図 

⑨地獄の釜とは月のことだった?

だとすれば、釜蓋朔日(旧暦7月1日)に開く地獄の釜とは月のことではないでしょうか。
朔日とは新月のことで月齢は0です。
このときほとんど月は見えませんが、この日からどんどん月は膨らんでいくので、朔日は地獄の釜が開く日だといってもよさそうです。

そして旧暦7月15日は満月で、地獄の釜が最大に開く日です。

ペルセウス座流星群はこの開いた月の釜の中から、地上に向けて飛んでくると考えられたのではないでしょうか。


小塩の上げ松 着火の瞬間 
燈篭木は15メートルもあるので、燈篭木の先端の『もじ』に松明を乗せるのはたいへんです~。
やっと『もじ』に松明が届きましたよ。

小塩の上げ松  
大きな炎が上がってすごい迫力でした!



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[2017/08/30 17:19] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

広河原 松上げ 『松上げはなぜ地蔵盆に行われているの?』 

京都市左京区広河原
広河原松上げ・・・8月24日

広河原 松上げ 
①広河原 松上げ

お盆のころ、松上げという行事を行う地域があります。
以前、花背や雲ヶ畑の松上げをご紹介しました。
花背 松上げ 『お盆と人形流しとペルセウス座流星群』  
雲ヶ畑 松上げ 『あちこちにある惟喬親王の隠棲地』 

今回は広河原の松上げの写真をご紹介しま~す。

広河原 松上げ-松明をとりつける 
河原に立てられた無数の竹に松明を取り付けていきます。(地松)

①愛宕信仰にちなむ行事

松上げは京都市右京区の愛宕神社の信仰にちなむ行事だといわれています。



松上げの行事は主に京都~丹波~若狭にかけて行われていますが、それはこれらの地域が愛宕信仰の厚い地域だったということではないかと思います。

また山間部に多いところから、山火事を防ぐため、火伏の神である愛宕の神に祈願するという目的があったと考えられています。

広河原 松上げ

太鼓と鉦が鳴り響く中、 保存会の方々が手に持った松明をくるくる回し燈籠木をまがけて松明を放り投げます。

②愛宕の神は勝軍地蔵と習合されていた。

花背の松上げは8月15日ですが、多くの松上げは8月24日に行われます。
雲ヶ畑や広河原の松上げも8月24日です。

8月24日は地蔵盆ですね。
なぜ松上げは地蔵盆に行う地域が多いのでしょうか?

愛宕の神(愛宕権現)は勝軍地蔵と習合して信仰されていました。

Atago Gongen

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cd/Atago_Gongen.png よりお借りしました。
作者 Hidenobu Tosa, 土佐秀信 (http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/316/index.html) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

勝軍地蔵とは、役小角が泰澄と京都の愛宕山に上った際に現れたとされる地蔵菩薩です。

勝軍地蔵は龍樹菩薩・富楼那尊者・毘沙門天・愛染明王を伴って大雷鳴とともに現れたそうですよ。
清水寺の延鎮が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天に坂上田村麻呂の戦勝祈願を行ったとも伝えられます。
どうも勝軍地蔵とは戦勝祈願にご利益があると信仰された地蔵のようですね。

愛宕の神はこの勝軍地蔵と習合されているため、地蔵盆に松上げを行うのではないでしょうか。

広河原 松上げ-着火 

松明が燈籠木の上に乗って燃え始めました。

③地蔵菩薩は閻魔大王と同体

さらに地蔵菩薩は閻魔大王と同体だと言われます。

閻魔大王は死者を裁く地獄の裁判官です。
一方、地蔵菩薩は地獄で亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けて下さるみほとけとされます。

なんで閻魔大王と地蔵菩薩が同体?
正反対やん?

閻魔大王は亡者を裁いた分だけ、自らも同じ地獄の責め苦を受けると言われています。
ということは、閻魔大王も地蔵菩薩も、どちらも地獄の責め苦を受けるわけで、なるほど両者は同体なのだと納得です。


鬼来迎 閻魔  

鬼来迎の閻魔大王(広済寺)


④松上げはなぜ地蔵盆(8月24日)に行われることが多いの?

8月1日は釜蓋朔日といい、地獄の釜が開く日とされます。
そしてご先祖さまの霊が地獄からこの世に戻ってくると信じられていました。

お盆(旧暦7月1日~15日ごろ、新暦では8月1日~15日ごろ)の時期はペルセウス座流星群(新暦7月20日ごろから8月20日ごろ。8月13日がピーク)が観測される時期と重なっています。
古の人々は星を死んだ人の霊、たくさんの流星がふる様子を死んだ人の霊がこの世に戻ってくると考えてお盆の習慣が生じたのではないかと私は考えています。

Leonidas sigloXIX

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ALeonidas_sigloXIX.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Leonidas_sigloXIX.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

上はしし座流星群を描いた絵ですが、写真の松上げの様子に似ていませんか。
ただし、流星が上から下に流れるのに対して、松上げは下から上に放り投げられます。
松上げは流星になって戻ってきたご先祖様の霊を天に戻す行事のように思えるのです。

詳しくはこちらの記事をお読みください。↓
花背 松上げ 『お盆と人形流しとペルセウス座流星群』  

さらに地獄の裁判官・閻魔大王と地蔵菩薩は同体とされるので、地蔵菩薩の縁日である8月24日に死んだ人の霊を地獄に戻す行事として松上げは行われているのかも?

広河原 松上げ-倒れる松明

最後は保存会の方々が綱で燈籠木をひっぱって倒します。

広河原 松上げ-盆踊り

松上げが終わると観音堂で盆踊りが始まります。
腰をまげて踊るしぐさが色っぽい~。


広河原 松上げ-行列  
殿方も行列を作って観音堂にやってきます。

広河原 松上げ-行列 太鼓 

広河原 松上げ-盆踊り 
まだまだ盆踊りは続きます。



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[2017/08/28 14:38] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 


①黒主山

7月24日は祇園祭後祭の山鉾巡行がありますね。
後祭で巡行する山鉾のひとつに黒主山があります。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2

17日の前祭山鉾巡行と24日の後祭山鉾巡行は逆回りで巡行するんですね。
写真は数年前に撮影したもので、このとき後祭山鉾巡行は行われていませんでした。
24日、黒主山は写真とは逆向きで巡行することになります。

上の写真ではわかりにくいのですが、桜の木の下には花を見上げる老人の人形が置かれています。
下の写真は後祭宵山で撮影した黒主山の御神体・大友黒主です。

祇園祭 黒主山 御神体


②謡曲志賀と古今和歌集仮名序・真名序

黒主山は謡曲・志賀をテーマにした山です。

今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む大友黒主に出会います。
黒主は和歌の徳を語って消え去ります。(志賀)


古今和歌集仮名序は大友黒主について次のように記しています。

大友黒主は そのさまいやし いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし
(大友黒主はその様子が賎しい。 薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。)


謡曲「志賀」は古今和歌集仮名序の文章からインスピレーションを得て創作されたものなのでしょう。

それにしても、「そのさまいやし」とか「薪追へる山びとの花のかげにやすめるがごとし」とはどいう意味なのでしょうね?

さて古今和歌集にはかなで記された「仮名序」のほかに漢文で記された「真名序」があります。
真名序は仮名序とだいたい同じ内容ですが、微妙に表現が異なっている部分もあります。
たとえば大友黒主については次のようになっています。

大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山

③百人一首では猿丸大夫は5番、6番は?

ここに『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とあります。
『大友黒主の歌は猿丸大夫に次いで優れている。』というような意味なんでしょうか?よくわかりません。

でも鎌倉時代の天才歌人である藤原定家はその意味を知っていたにちがいありません。

というのは、古今和歌集仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされているのですが
紀貫之は古今伝授の創始者です。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことです。
伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、主に口伝で行われました。
藤原定家は父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けています。
定家は和歌の極意を知っていたのです。

大友黒主は六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)の一です。
藤原定家が撰んだ秀歌集・百人一首には遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町の歌は採られていますが、大友黒主の歌は採られていません。

もしかすると大友黒主とはニックネームのようなもので、本名は別にあるんじゃないか。
定家は本名で黒主の歌を百人一首に採用しているのではないか。
そう私は考えました。

百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られています。
もしかしたら定家は真名序の『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 という文章を受けて、猿丸大夫の歌の次に大友黒主の歌をもってきているのではないでしょうか?

さっそくは百人一首を調べてみました。
百人一首では猿丸大夫は5番でした。
その次・・・6番は大伴家持でした!

黒主山 宵山


大友黒主は大伴黒主とも記されます。
また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じといってもいい歌を詠んでます。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』といいます。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことです。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りとはいえないと思います。
このことからも、大友(大伴)黒主と大伴家持は同一人物ではないかと思うのです。

大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄でした。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないでしょうか。

須賀神社 ささげ祭
須賀神社 角豆(ささげ)祭 行列

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっています。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったと推測されます。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないでしょうか。

真名序には『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とありますが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだと思います。
『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、という意味です。

黒主山 宵山2  


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[2017/07/23 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

祇園祭 山鉾巡行 菊水鉾 『菊慈童と不老長寿』 



祇園祭 菊水鉾 

①百鬼夜行は陰、それを陽に転じたのが山鉾巡幸?


祇園祭 山鉾巡行 『山鉾巡行と百鬼夜行』  
↑ こちらの記事にこんなことを書きました。

①山鉾のうち、太子山の聖徳太子、占出山の神宮皇后、黒主山の大友黒主、菊水鉾の菊慈童は怨霊ではないか。
②怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。
③怨霊が祟らないように慰霊し、神として祀ったもののことを御霊という。
④百鬼夜行は陰で、それを陽に転じたのが山鉾巡行だったりして?

聖徳太子が怨霊であるとする梅原武さんの説については上の記事をお読みください。

②菊の葉の露を飲んで700歳の長寿を得た菊滋童


今日は菊水鉾の菊慈童についてお話ししたいと思います。

祇園祭 菊水鉾2  

上の写真の山鉾に乗せられている人形が菊慈童です。
菊慈童とは700歳の長寿であったという中国の伝説に登場する少年です。能の演目にもなっていますよ~。

鉾の前懸は皆川月華作の「飛鶴図」です。

祇園祭 菊水鉾


魏の文帝 はレッケン山に不老長寿の薬が流れているという噂をきき、「様子を見てまいれ」と臣下を山に行かせました。
山には不思議な少年がおり「私は周の穆王に仕えていました。」と言いました。
周は700年も前の時代です。
少年はさらに穆王より賜ったという枕を見せました。
その枕に記された経文を菊の葉に書くと、その葉より滴る露は不老長寿の薬となりました。
少年はその露を飲んで700歳の長寿をえていたのでした。


京都の法輪寺では9月9日に重陽神事を行っており、菊慈童の舞が奉納されます。

法輪寺 重陽神事

③惟喬親王、法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる。

平安時代、この法輪寺に惟喬親王が籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があります。

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社では惟喬親王を木地師の祖として祀っています。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師が用いるろくろを発明したというのです。

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っています。


木地師資料館 惟喬親王像2 

上の写真は木地師資料館に安置されていた惟喬親王像です。
惟喬親王は大きな茶椀を持っています。
木地師がろくろを用い作った茶碗には漆を塗りますね。
それで法輪寺には惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったなどという伝説が伝えられているのかもしれません。

渡月橋より法輪寺を望む
法輪寺

③漆と即身仏

しかし、それだけではなく、漆は不老長寿にも関係していそうです。

昔、即身仏になることを目指した人が大勢いました。
今でもいくつかのお寺で即身仏が祀られていますね。

即身仏になる目的は、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れたとき、生き返ってその聖業に参加するためだといいます。
ひからびた即身仏が生き返ったという物語も残されています。
おそらく生き返るためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。

即身仏となるためには木食といって、五穀を絶ち、木の皮や実だけを食べるという修行を行いました。
その後、漆を飲んで入定したと言われます。
漆には防腐作用があり、死後腐りにくくするために漆を飲んだと言われます。

法輪寺 重陽神事4
法輪寺 重陽神事

④漆と髑髏(どくろ)本尊

また真言立川流ではドクロに漆を塗って髑髏本尊を作りますが、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目にドクロは命を持って語りだすとされています。
ドクロは生き返るということでやはり不老長寿と関係がありそうです。

法輪寺 重陽神事2
法輪寺 重陽神事

⑤重なる菊滋童と惟喬親王のイメージ

うむむ~、すると菊慈童が飲んでいた露とは漆ではないか。
惟喬親王が法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が残されているのは、惟喬親王が即身仏やドクロ本尊と関係があるからではないか。
法輪寺で重陽の節句に菊慈童の舞が奉納されるのは、菊慈童と惟喬親王のイメージが重ねられているからではないか。
などと思えてくるのです。

惟喬親王は世継ぎ争いに敗れた政治的に不幸な身の上で、御霊として玄武神社や惟喬神社に祭られています。
つまり惟喬親王は怨霊だったのです。

菊水鉾にはそんな惟喬親王の霊が乗っているようにも思えるのです。

玄武神社 やすらい祭2

玄武神社 やすらい祭


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[2017/07/19 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

京都駅ビル 祇園祭イルミネーション  『祇園祭とノアの方舟は関係ない?』 

 
JR京都駅に降り立つと祇園囃子が聞こえてきました。

↓ お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。


大階段では張子の犬がお出迎え。

京都駅ビル 張子の犬 

あれっ、長刀鉾が現れましたよ。

京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 長刀鉾

山鉾巡幸が始まりました!

京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 山鉾巡幸 

こんなところで山鉾巡幸が見れるとは思いませんでした。上の動画の祇園囃子を聞きながら見ていただくといいかも。

京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 山鉾巡幸 


①祇園祭山鉾巡行はノアの箱舟がアララト山に漂着した日?

祇園祭・山鉾のタペストリーは西洋的なものが多くてびっくりします。

祇園祭 霰天神山 
霰天神山

祇園祭 白楽天山 タペストリー 
白楽天山

祇園祭 鶏鉾 
鶏鉾

祇園祭 鯉山 
鯉山

祇園祭 函谷鉾 
函谷鉾

ここほんとに日本なの?って思っちゃいますよね。

で、山鉾巡行が行われる7月17日はノアの方舟がアララト山に漂着した日で、祇園祭ははそれを祝う行事だとする説があります。
祇園祭の山鉾に船の形をしたものがあるのも、それを裏付けるというのです。

 祇園祭 山鉾巡行 船鉾
船鉾

②日ユ道祖論

いわゆる日ユ同祖論(日本人とユダヤ人は共通の先祖を持つという説)といわれるものですね。

共通の先祖を持っているかどうかはわかりませんが、日本神道とユダヤ教は似ているところがあります。
たとえば修験道では額に兜巾ときん)をつけますね。

 宝山寺 柴燈護摩供
宝山寺

ユダヤの人々は祈るとき額にヒラクティリー(テフリン)なるものをつけるのですが、
うむむ~、似ている~

佐伯好郎さんは渡来人の秦氏はバルバシ湖の近くにあったキリスト教国・弓月王国出身でクリスチャンだったのではないかと説かれました。
応神天皇の御代、百済より弓月君(ゆづきのきみ)が大勢の民を率いて日本に帰化したとされます。
秦氏は京都の太秦を本拠地とし、太秦寺(広隆寺)を氏寺としていましたが
唐におけるネストリウス派キリスト教の寺院のことを大秦寺と言いました。
太秦と大秦は点があるかないかの違いしかありません。
そこで佐伯氏は太秦寺とはネストリウス派キリスト教寺院であったのではないかとされました。

しかしネストリウス派キリスト教が唐に伝わるのは431年のエフェソス公会議以降のことで
秦氏が日本へ渡来したのはそれ以前と考えられ、時代考証があわないとされています。

その後、佐伯氏は秦氏はネストリウス派キリスト教徒ではなく、原始キリスト教徒だったと自説を訂正しましたが
彼の説は認められることなく、現在に至っています。
私は佐伯氏の説を支持していますが~。

京都駅ビル スイカ 

 ③祇園祭山鉾巡幸はノアの箱舟とは関係ない。

私は秦氏はキリスト教徒だったと考えますが、祇園祭山鉾巡幸はノアの方舟とは関係ないかも?と思います。

日本では明治から新暦が用いられるようになり、それに伴って祭りの日にちが替えられたケースが多いのです。
山鉾巡幸はかつては旧暦6月17日に行っていたのを、新暦を用いるようになってから7月17日に改めたそうです。


京都駅ビル 朝顔 


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[2017/07/17 13:29] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)