上賀茂神社 競馬 『乗尻はなぜ舞楽の衣装を身に着けているの?』 


京都市北区 上賀茂神社
競馬(くらべうま)・・・5月5日


上賀茂神社 競馬-行列 
上賀茂神社の社家町に騎乗した人が現れました。 今日は上賀茂神社の競馬(くらべうま)の日なのです。

上賀茂神社 競馬 警護衆 
上賀茂神社の参道には馬場が設けられ埒と呼ばれる柵が作られています。
上の写真は埒の中を練り歩く警護衆。

上賀茂神社 競馬5

競馬がスタート!

舞楽の衣装を身に着ける乗尻

馬に乗ってる人のことを乗尻(のりじり)といいます。
乗尻は左右に分かれています。
左方は打毬(たぎゅう/オレンジ色の衣装)、右方は狛鉾(こまぼこ/緑色の衣装)の舞楽装束を着けて競馬を行うんですよ~。

最初のレースは競馬の故事より、左方が必ず勝つようになっています。(出来レースやん~笑)

二番からは先の勝負で勝った組の馬が先馬、負けた組の馬が追馬で、追馬は一馬身ほど遅れてスタートします。
勝負の楓と呼ばれる楓があるのですが、この勝負の楓を過ぎた時点で一馬身の差が縮まっていれば追馬の勝ち、差が開いていれば先馬の勝ちです。

それにしても舞楽の衣装きて馬に乗るって乗りにくくないんでしょうか?
そもそも、なんで舞楽の衣装を着るの?

上賀茂神社 競馬3 
 ②左舞と右舞

舞楽には『左方の舞』と『右方の舞』があります。
その違いは、リベラルと保守・・・ではありません。
おおざっぱに言うと中国系のものを左舞(さまい)、朝鮮半島系のものを右舞(うまい)といっているようです。
また中国系の音楽は唐楽、朝鮮半島系の音楽は高麗楽というとのこと。
衣装は左舞が赤系統、右舞は緑系統を用います。
左舞は舞台後方左側から舞人が現れ、右舞は舞台後方右側から現れます。
ほかにも、左舞はメロディにあわせて振付されており、右舞はリズムにあわせて振りつけられているなどの違いがあるそうです。

今度舞楽を見るときには、そういった点にも注意して鑑賞したいです。
左舞右舞
音楽唐楽(中国系)高麗楽(朝鮮半島系)
衣装赤系統緑系統
登場舞台後方左側から舞台後方右側から
振付メロディにあわせてあるリズムにあわせてある


上賀茂神社 競馬2

②舞楽は武官たちの武技の競技の余興だった?

なぜ舞楽は左舞と右舞に分けられているのでしょうか。

それは、宮中の武官である近衛府の官人(宮中の武官)たちが、左右に分かれてさまざまな武技を競っていたことに関係があると考えられています。
舞楽や雅楽はその余興であったとのことです。

すると、まず競馬という武技があって、その余興として打毬・狛鉾の舞が舞われていたのを、一体化して打毬・狛鉾の衣装を着て競馬をするようになったのかも?
みなさんはどうお考えになりますか?

上賀茂神社 競馬4 

 上賀茂神社 競馬 



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[2017/05/11 14:27] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

下鴨神社 流鏑馬 『下鴨神社の流鏑馬と端午の節句には関係がなかった~』※追記あり※タイトル変更しました。 

京都市左京区 下鴨神社
流鏑馬神事 5月3日

下鴨神社 流鏑馬-馬車

糺の森を馬車がゆっくりと進んでいきます。

下鴨神社 流鏑馬2

流鏑馬神事がはじまるよ!

 下鴨神社 流鏑馬 
①流鏑馬神事は端午の節句と関係がある?


下鴨神社の流鏑馬神事は葵祭の前儀として行われています。
でも、5月5日の端午の節句に近い5月3日に行われていることから、『端午の節句(5月5日)』とも関係が深そうに思えます。

下鴨神社 流鏑馬4


『端午の節句』は『菖蒲の節句』ともいいますね。
中国では菖蒲の刃が刀の形に似ていることなどから男子にとって縁起のいい植物だとされていました。
日本で『端午の節句』に菖蒲が使われ始めたのは奈良時代、聖武天皇のころからだとされます。
宮中では菖蒲を髪に飾った人々が天皇より薬玉を賜わる習慣があったようです。(葵祭では葵と桂の葉を髪に飾りますが)

で、鎌倉時代ごろより、菖蒲が尚武(武道・武勇を重んじること)に通じるということで、武士が『端午の節句』に流鏑馬を行うようになったとされます。

現在でも『端午の節句』のころに流鏑馬を行っている神社があります。(鹿島神社など)

下鴨神社 流鏑馬3

②薬狩

飛鳥時代にまで遡ると5月5日に宮廷行事として薬狩をする習慣がありました。
薬狩とは、女性は野に出て薬草を摘み、男性は鹿の袋角をとるものです。
鹿の袋角は鹿茸(ろくじょう)といい、不老長寿の妙薬とされているとのことです。

http://www.narayado.info/nara/kusurigari.html
上記リンク先に、古代の薬狩を再現した人形の写真が掲載されています。
それを見ると、男性の人形が弓で鹿を射ようとしています。
騎乗はしていませんが、弓を射るのは『端午の節句』の古くからの習慣だったといえるかも?

 下鴨神社 流鏑馬-平安装束2

 ↑ ↓ 平安装束を身に着けての流鏑馬

下鴨神社 流鏑馬-平安装束 
【追記】
葵祭の起源を調べたところ、次のようなことがわかりました。

567年、風水害によって五穀が実らなかったので、伊吉の若日子に占わせました。
占いの結果、風水害は賀茂の神々の祟りであるとされ、4月の吉日に祭礼を行いました。
午に鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実りました。

ここに「4月の吉日に祭礼を行った」とあります。
これは旧暦4月と言うことだと思います。
現在の葵祭は新暦5月に行われていますが、旧暦は新暦よりも約1か月遅れなので新暦を用いるようになった明治以降に祭礼日を新暦5月にしたのだと思います。

一方、端午の節句はもともと旧暦5月5日に行われていたもので、葵祭と端午の節句には関係はないということになりますね。
すいませんでした~。



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[2017/05/09 15:54] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 雪と幸在祭 『幸在祭は鎮花祭?』 


京都市帰宅 上賀茂神社
幸在(サンヤレ)祭・・・2月24日

上賀茂神社 幸在祭

①幸在祭

上賀茂地域では15歳になった男子を「あがり」といいます。
あがりになった男子は2月10日ごろより、毎晩鉦太鼓に合わせて町を練り歩く習慣があったそうです。
現在では2月24日の日中に町を練り歩き、山の神、太田神社、上賀茂神社に参拝しているようです。
  
「あがり」になった少年は大島紬の羽織を着て太鼓を打ち鳴らしながら練り歩きます。
写真向かって左の3人の少年が「あがり」です。
まだ「あがり」に達しない13歳未満の子供たちも鉦や太鼓を持って行列に加わります。

上賀茂神社 幸在祭2

②やすらい祭

私はこの行列を見て、玄武神社や今宮神社で4月8日に行われている「やすらい祭」を思い出しました。
  
玄武神社 やすらい祭

玄武神社 やすらい祭

衣装などはずいぶん異なりますが、幸在祭の行列と同じく鉦や太鼓を持っていますね。

昔の人々は疫病神は桜の花びらにのって散り広がると考えていました。
そこで奈良の大神神社で鎮花祭を行うようになりました。
やすらい祭りはこの鎮花祭と念仏踊りが結びついたものと考えられています。

念仏踊りとは鉦や太鼓を打ち鳴らしながら踊るもののことをいいます。

赤いかつらをかぶった人は鬼と呼ばれていますが、鬼たちは神社の境内や氏子さんの家の門前で念仏踊りをします。

上賀茂神社 幸在祭3

③艮=鬼=童子


艮(丑寅)は方角では東北で、鬼の出入りする方角とされています。
また八卦では艮の符は童子とされます。

艮=鬼=童子 

となり、やすらい祭の鬼と、幸在祭の「あがり」より年齢が下の子供は同様のものとみなすことができます。
こう考えると、やすらい祭と幸在祭はますます似ているように感じられます。

上賀茂神社 幸在祭4

④幸在(サンヤレ)祭とサンヤレ踊り


上賀茂神社の幸在祭は鎮花祭と関係があるのかもしれません。
というのは、滋賀県草津市では5月に各地でサンヤレ踊りが行われているのですが、サンヤレ踊とは疫病神を追い払うために鉦・太鼓・笛で囃して疫病神を追い祓う踊りとされているからです。



動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!

2月にはまだ桜は咲きません。
梅の花が咲き始めるころなので、上賀茂神社の幸在祭は梅の花を鎮める行事と成人式が合わさった行事なのかも?

上賀茂神社 幸在祭5 

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[2017/02/24 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 燃灯祭 『小松と玉箒草は夫婦和合を意味している?』 


京都市北区 上賀茂神社
燃灯祭(乙子神事)・・・2月の2番目の子の日(2017年は2月18日)


① 燃灯祭

上賀茂神社 燃灯祭2
 
狩衣姿の斎員さんたちが行列を作って御阿礼野(みあれの)へと向かいます。
一般の参拝者も自由に参列できるということなので、私も行列の後ろについていきました。
このごろ伝統行事に関心を持つ人が増えたのか、結構たくさんの人が見学に訪れていましたよ。

御阿礼野は上賀茂神社の境内の裏手にあります。
途中ゴルフ場の中を横ぎるのには面食らいましたが~。
ゴルフプレー中の方々は御阿礼野へ向かう人々が行き過ぎるまで待ってくださいました。(ありがとうございます!)

上賀茂神社 燃灯祭 
御阿礼野に到着して一礼。

上賀茂神社 燃灯祭3 
斎員さんたちは、小松を引きます。

上賀茂神社 燃灯祭4 
小松を引いたのち、境内に戻り、土舎(つちのや)に向かいます。

上賀茂神社 燃灯祭5 

ちょっとわかりにくいですが、斎員さんたちは小松に玉箒草(燃灯草)を添えて紙に包んでいます。

②多紫草から田村草になった?

玉箒草(燃灯草)はアザミに似た紅紫色の花を8月から10月ごろに咲かせます。
玉箒草というのは古名で、現在は田村草と呼ばれています。

田村草の写真はこちら→ http://www.hana300.com/tamura.html

古名の玉箒は、花後に多数の実がつく様子が箒(ほうき)に似ているところからくるのではないか、そしてそれが転訛して田村草になったのではないかといわれています。
また、その花が美しい紫色なので、多くの紫色の花をつける草、多紫草から田村草になったのだという説もあります。

③恋する女は紫色に染まる

万葉集に次のような歌があります。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)


紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤としました。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味でしょうか。

こんな歌もあります。

紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも.
( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに)


大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に贈った有名な歌ですね。

この2首を鑑賞すると、恋する女が美しく瞳を輝かせるようすを『紫』といっているように思えるのです。

④松=待つ=弥勒菩薩?

京都・太秦にある広隆寺の弥勒菩薩像は赤松で作られていますが、赤松で造られた仏像は広隆寺の弥勒菩薩像だけです。

File:Maitreya Koryuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


弥勒菩薩は56億7000万年後に現れるとされる未来仏です。
弥勒菩薩は56億7000万年の間、復活を待っている仏だともいえるでしょう。
広隆寺の弥勒菩薩が赤松で作られているのは、『松』が『待つ』に通じるからではないでしょうか。

⑤聖徳太子は弥勒菩薩の化身?

広隆寺の弥勒菩薩は聖徳太子が秦河勝に与えたものだという伝説があります。
この伝説は、聖徳太子が弥勒菩薩の化身であると考えられていたことを示すものだと私は思います。

⑥聖徳太子は怨霊である


そして梅原武氏は『聖徳太子は怨霊である』とおっしゃっています。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、死後このような人は怨霊となって祟り、天災や疫病の流行を引き起こすと考えられていました。

聖徳太子自身は不幸な死を迎えたように思えませんが、彼の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって自害しています。

法隆寺 夕景 

法隆寺

聖徳太子等身大の像と伝わる法隆寺の救世観音像の頭には直接釘で光背が取り付けられています。
光背は足元に棒をたてて、その棒にとりつけるのが普通で、法隆寺像は極めて異常な像形なのです。
そこで梅原氏は『法隆寺の救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像』であると説かれました。

怨霊=聖徳太子=弥勒菩薩=待つ=松
となり、松は怨霊を表すものだと考えられるのではないでしょうか。

⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面


そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御魂・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


詳しくはこちらの記事をお読みください。→飛鳥 勧請綱と田植え 『道祖神と大聖歓喜天は習合されている?』

⑦男女和合は怨霊を守護神にする呪術?

大聖歓喜天という仏教の神は象頭の男女双体のおすがたをしています。



大聖歓喜天は祟りをもたらす鬼王ビナヤキャが、十一面観音の化身であるビナヤキャ女神を抱くことによって仏法守護の神となったものです。

そして、ウィキペディアの祟り神の項目には次のように記されています。
「祟り神は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。(上記サイトより引用)

祟り神は怨霊といってもいいでしょうが、この祟り神(怨霊・荒霊)を守護神にするための呪術が、男女和合なのではないかと思います。

⑧小松は男(荒霊)、玉箒草は女(和霊)をあらわしている?

燃灯祭では小松を男神=荒魂=祟り神、玉箒草を女神=和魂と見立て、男女和合(小松と玉箒草をセットにする)させることで、祟り神(小松)を守護神にするという意味合いを持っているのではないでしょうか。

とすると小松は男(荒霊)、玉箒草は女(和霊)を表しているのではないでしょうか。

多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

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[2017/02/23 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

智積院 梅 『長谷川等伯 松林図屏風は不老不死を表している?』 


京都市東山区 智積院
撮影 2017年 2月中旬

智積院 金堂 梅 

智積院 金堂

①鶴松にささげられた桜楓図


智積院がある場所には、豊臣家ゆかりの禅寺・があり、1601年に家康がこの祥雲寺を与えました。
そこで玄宥はその祥雲寺の土地に、もと紀州・根来にあった智積院を復興させました。

現在の智積院収蔵庫には祥雲寺の客殿にあった長谷川等伯一派の障壁画が残されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%BA%E7%A9%8D%E9%99%A2#.E6.96.87.E5.8C.96.E8.B2.A1
↑ ウィキペディアに障壁画の写真が掲載されています。

智積院障壁画 桜図 

智積院障壁画 楓図 模写

上2枚は大書院に飾られている複製障壁画・桜楓図で上が楓図(長谷川等伯筆)、下が桜図長谷川久蔵筆)です。

祥雲寺は1591年にわずか3歳でなくなった秀吉の子・鶴松の菩提を弔うために建てられたお寺です。
桜楓図は幼くして亡くなった鶴松にささげられたものだといえるでしょう。

②息子・久蔵、26歳で亡くなる。

智積院の桜図を描いた長谷川久蔵は、長谷川等伯の息子です。
この久蔵も1593年に26歳の若さで亡くなってしまいました。

また1598年には等伯のパトロン・豊臣秀吉も亡くなりました。

③松林図屏風

鎮長谷川等伯といえば、『松林図屏風』 ですよね!

File:Pine Trees.jpg

松林図・右隻
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3APine_Trees.jpg よりお借りしました。
長谷川等伯 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

File:Hasegawa Tohaku, Pine Trees.jpg

松林図左隻
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AHasegawa_Tohaku%2C_Pine_Trees.jpg よりお借りしました。
長谷川等伯 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

無駄なものを限りなく削り、余白を多く残していています。
強烈なインパクトの静けさを感じるというか、とても不思議な絵です。

年記がないので制作年代は未詳ですが、作風から1593年~1595年ごろに描かれたものではないかと考えられています。
等伯の息子・久蔵が亡くなったころで、悲しみにくれる等伯が自分自身のために描いたとも言われます。

また故郷の能登の海岸の松林を描いたのではないかとも言われていますよ。

智積院 鐘楼  
智積院 鐘楼

⑤松林図は草稿?

松林図にはいくつかの謎があります。

1.紙継ぎのずれがある。
2.左右で紙幅の寸法が異なっている。
3.通常の屏風絵に使われる頑丈な雁皮紙ではなく、きめの荒い薄手の料紙を用いている。
4.画面両端の「長谷川」「等伯」印が基準印と異なる
5.松林図によく似た「月夜松林図」が存在する。
※月夜松林図は この方のブログで見ることができます。
http://cardiac.exblog.jp/12919526/
松林図には山が描かれていますが、月夜松林図には満月が描かれています。また紙の裏に墨を塗ってあります。

そのため、屏風絵ではなく襖絵だったのではないかとか、草稿ではないかともいわれています。

⑥松林図と月夜松林図は月山を表している?

ですが、わたしは「松林図は月夜松林図の草稿ではなく、2枚はワンセットになっている」と考えます。
月夜松林図に描かれた月と、松林図に描かれた山は謎々になっているのではないでしょうか。
つまり、月と山で月山を意味しているのではないかと思うのです。

月山とは山形県中央部にある山で、月山神社があります。参拝したことはないんですが~。


智積院-明王殿 梅 
智積院 明王殿

⑦山形県は即身仏のメッカ

そして山形県は即身仏のメッカとして知られています。

http://www.asahi-kankou.jp/kankou/spot_syuinroku.html
http://yamagatakanko.com/log/?l=348168

ウィキペディアは日本の即身仏として18例をあげています。
県別に見ると、山形県8例、新潟県4例、神奈川県・京都府・福島県・茨城県・長野県・岐阜県がそれぞれ1例で、山形県がダントツで多いのです。

※岩手県の奥州藤原氏の3例は自然ミイラではなく人工ミイラとする説もあるので、カウントしていません。)
http://www.saisyouji.jp/saisyo-ji/contents-sokusinbutu-navi.html#zenkoku
←こちらのサイトでは日本には24例の即身仏があるとしています。

即身仏とは五穀を絶って木食(木の実や木の皮を食べる)修行を行ったのち、生きたまま地下の穴倉に入った僧侶の亡骸のことで、
江戸時代に盛んにおこなわれたとされます。

しかし、夏高温多湿になる日本では亡骸を腐らせないようにするのは至難の業で、腐敗してしまった即身仏もたくさんあったと考えられています。

山形県に多くの即身仏が残されているのは、寒冷な気候ということもありますが
水銀土壌が関係しているともいわれます。

さきほど、即身仏になるためには五穀を絶って木食(木の実や木の皮を食べる)修行を行うと書きましたが
水銀土壌で育った木の実や木の皮には水銀が多く含まれています。
その水銀の防腐作用によって死体が腐ることなく保存されたのではないかというのです。

⑧なぜ人は即身仏になろうとしたのか

なぜ人は即身仏になろうとしたのでしょうか。
それは56億7000万年後に弥勒菩薩があらわれるとき、その聖業に参加するためであると聞いたことがあります。
弥勒菩薩の聖業に参加するためには生き返らなければならない。
そして生き返るためには、魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないかと思います。

水木しげるさんの「今昔物語集」(平安時代に成立したと考えられている古典をもとに水木しげるさんが漫画にしたもの)に、こんな話がありました。


死神が閻魔大王から指令を受けてaを殺しにいったところ、まちがって同姓同名のbを殺してしまいます。
そこで、本来殺すべきだったaを殺し、すでに殺されていたbは、生き返ってもいいということになりました。
ところが、すでにbの死体が火葬されてしまっていたため、やむなくbはaの肉体をかりて生き返りました。


この話は古の人々が、生き返るためには肉体が必要であると考えていたのだろうと推測させます。

⑨桜や楓ははかなさを、松は不老不死を表す?

桜楓図と松林図は対照的ですね。
現代人の多くは、桜楓図には生命力を、松林図には死のイメージを感じるのではないでしょうか。

しかし、古の人々はこれとは逆のイメージを感じたのではないかと思うんですね。

桜や楓は華やかですが、あっという間に散ってしまいます。
一方、松は1年中青々としていて散りません。
そういったところから桜や楓にははかなさを、松には不老不死のイメージを持っていたのではないでしょうか。

⑩松林図・月夜松林図には久蔵生き返りの願いが込められていた?

長谷川等伯はわが子・久蔵が生き返るようにとの願いをこめて松林図・月夜松林図を描いたのではないでしょうか。

月と山=月山=即身仏=不老不死
松=1年中青い葉を茂らせる=不老不死

そういえば智積院にはこんな絵も展示されていましたよ。

智積院 布袋唐子嬉戯の図 


布袋唐子喜戯の図 月樵(げっしょう)道人

布袋は弥勒菩薩の化身だと言われています。

参照/
智積院 さつき 『布袋はなぜ大勢の子供たちと戯れているの?』 




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[2017/02/17 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 紀元祭 蹴鞠 『中大兄皇子の脱げた沓』 

 
 京都市北区 上賀茂神社
紀元祭・・・2月11日


 京都市東山区 泉涌寺

①上賀茂神社 紀元祭

建国記念日の2月11日、上賀茂神社では紀元祭が行われ、蹴鞠の奉納などがありました。

写真はフィルムで10年以上前に撮影したものです。

上賀茂神社 蹴鞠 

②中大兄皇子の脱げた沓

蹴鞠といえば中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)の逸話を思い出しますね。
そう、蹴鞠をしていて脱げた中大兄皇子の沓を中臣鎌足が拾ってさしだした という逸話です。
これをきっかけに二人は親密な仲となり、共謀して当時の権力者・蘇我入鹿を暗殺したとされます。

天智天皇(中大兄皇子)には沓にまつわる不思議な伝説も伝えられています。

天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出しましたが、いつまでたっても戻りませんでした。
後日履いていた沓だけが見つかったので、その沓が落ちていた所を山陵にしました。(扶桑略記・平安時代末)


この伝説から天智天皇は暗殺されたなんて説もあるようですね。

談山神社 鎌足像 

談山神社 中臣鎌足像

③奈良の都は天武系天皇の都だった。


でも、私はこの伝説は天智天皇が暗殺されたということを伝えようとした伝説ではないと思います。

天智天皇は病を患って672年に崩御されました。
その後、大友皇子(天智天皇の子)vs大海人皇子(天智天皇の弟)の皇位継承をめぐる戦争がおきました。
これを壬申の乱といいます。
勝利した大海人皇子は673年に即位して天武天皇となりました。

その後、奈良時代には、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)と天武系の天皇が続きました。
奈良の都は天武系天皇の都だったのですね。

 奈良奥山ドライブウェーより大仏殿・興福寺五重塔を望む

奈良 東大寺大仏殿と興福寺五重塔


④天武系天皇の血筋絶え、天智系天皇が復活。

しかし称徳天皇は女帝で結婚が許されなかったため、子供がありませんでした。
そのため、ここで天武系の天皇の血筋はたえてしまいました。

そして称徳天皇の次には天智天皇の皇子の光仁天皇が即位しました。
光仁天皇以降はずっと天智系の天皇が続きました。

⑤財政難なのに平安京遷都したのはなぜ?

光仁天皇の皇子の桓武天皇は784年に長岡京に、794年に平安京に遷都しています。
しかし当時の朝廷はたいへんな財政難におちいっていたといわれています。
それにもかかわらずなぜ桓武天皇は長岡京、平安京と2度も遷都したのでしょうか。

京都御所 平安装束の女性たち 
京都御所 ※現在の京都御所は平安京遷都当時の御所とは場所がちがいます。


⑥平安京は天智系天皇の都

『奈良の仏教勢力から逃れるため、平安京に遷都した。』私は学校でそう習いました。
最近の歴史の教科書は『奈良の怨霊から逃れるため』と教えているようです。
たしかにそういう理由もあったかもしれません。
しかし桓武天皇は天武系の天皇の都だった平城京に住むのが嫌だったので長岡京、平安京に遷都したという側面もあるのではないでしょうか。

⑦わずか10年で長岡京から平安京に遷都した理由

ちなみにわずか10年で長岡京から平安京に遷都したのは、次のような理由からだと考えられています。

785年に長岡京造長岡宮使の藤原種継暗殺事件がおきました。
桓武天皇の同母弟の早良親王が首謀者とされ、乙訓寺に幽閉されました。

乙訓寺 牡丹 

乙訓寺(長岡京市)

早良親王はハンガーストライキを決行し、淡路へ配流となる船上で亡くなりました。

その後、桓武天皇の近親者が相次いでなくなったり、皇太子が病になるなど不幸なできごとがおきました。
そしてその原因を陰陽師に卜わせたところ、早良親王の怨霊の仕業とされました。
そういったことから、長岡京は早良親王の怨霊がすむ都と考えられたのでしょう。
そこで、長岡京を捨て、新たな都・平安京を作って遷都したと考えられています。

泉涌寺 雪2 
泉涌寺 ※泉涌寺には歴代天皇の位牌が安置されているはずなんですが・・・

⑦天皇が天武系から天智系に戻ったのは藤原氏の策略だった?

もしかして、天武系の天皇から天智系の天皇に戻ったのは、藤原氏の策略だったりしないでしょうか?

というのは、中臣鎌足(藤原鎌足)の子の藤原不比等は天智天皇の後胤であると信じられていたからです。

中臣鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、 その時鏡王女はすでに天智天皇の子供である不比等を身ごもっていたと記した史料があるのです。
真偽はともあれ、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたことでしょう。

とすれば、天皇を天智系に戻したいと考えるのは当然のことと思われます。

実際、称徳天皇の次代の天皇として天智天皇の孫にあたる光仁天皇を押したのは、中臣鎌足の孫で藤原不比等の子である藤原百川や藤原永手でした。

雲龍院 雪2 
泉涌寺 別院 雲龍院

⑧泉涌寺には天武系天皇の位牌がない。

京都の泉涌寺には38代天智天皇、49代光仁天皇から124代昭和天皇までの位牌が安置されているそうです。
天智天皇の次の39代は弘文天皇ですが、これは壬申の乱で大海人皇子に敗れた大友皇子のことです。
大友皇子が即位していたかどうかはよくわかっておらず、弘文天皇という諡号は明治3年に追贈されたものです。
弘文天皇の位牌がないのはこのためでしょう。

あと40代から48代までの天皇の位牌がありませんが、これらは全員天武系の天皇です。
つまり天武系天皇の位牌がすっぽり抜けているのです。
こういったあたりにも天皇家(天智系)や藤原氏が天武系天皇を忌み嫌っているようすがうかがえるように思います。

雲龍院 雪 

泉涌寺 別院 雲龍院


⑨「沓が脱げる」の意味

「沓が脱げる」
というのは比喩的表現で、『天智天皇の子孫が皇位を継承できなかった。』という意味なのではないでしょうか。
また、「鎌足が天智天皇に脱げた沓を差し出した。」は「藤原氏が天武系天皇を廃し、天智系天皇が皇位継承できるようにした」という意味なのではないでしょうか。
すると「天智天皇が馬にのってでかけ、いつまでも戻らなかった」というのは「天智系の天皇が皇位につかない時代(天武系の天皇の時代)が長く続いた」という意味ではないかと思えます。

ウィキペディアの中臣氏の項目に「古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。」と書いてあります。
「天智天皇の沓のあるところに陵を造った。」という伝説も比喩的表現で、「天智系天皇を擁立した藤原氏(中臣氏)の土地である山科に天智天皇の陵を造った。」という意味ではないでしょうか。

泉涌寺-陵

泉涌寺 境内にある陵


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[2017/02/14 12:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

八坂神社 節分祭 『祇園で笑門の注連縄をかけるのはなぜ?』 

京都市東山区 八坂神社
節分祭…2月2日、3日


①八坂神社 節分祭

2月2日と2月3日、八坂神社では節分祭が行われ、舞妓さんや楽人さんたちによって豆まきが行われます。

八坂神社 コート姿の舞妓さん  

舞妓さんたちがやってきました。コート姿がかわいい~~♡

  八坂神社 節分祭

舞殿で豆まきが行われました。

②蘇民将来伝説

八坂神社の御祭神はスサノオで、武塔神(牛頭天皇)と習合されています。
武搭神には次のような伝説があります。

神代の昔、蘇民将来と巨旦将来という二人の兄弟がありました。
蘇民将来は貧乏で巨旦将来は金持ちでした。
あるとき武搭神が「宿を貸してほしい」といって巨旦将来のもとを訪ねましたが、巨旦将来は宿を貸しませんでした。
次に武搭神が蘇民将来のもとを訪れると蘇民将来は快く宿をかし、あたたかく武塔神をもてなしました。
武塔神は蘇民将来に「疫病が流行ったときには茅の輪をつけなさい。」と言って帰られました。
後に疫病が流行り、蘇民将来の子孫は茅の輪をつけました。
武塔神は茅の輪をつけた蘇民将来の子孫は疫病から守りましたが、巨旦将来の子孫をはじめ、茅の輪をつけていない者はみな死んでしまいました。


八坂神社ではこの伝説にちなみ、7月の祇園祭の際には『蘇民将来子孫也』と記したお札を授与しています。

祇園祭 花笠巡行 宮川町 
祇園祭 花笠巡行

③笑門の注連縄と平将門

さて、祇園あたりの民家には『笑門』というお札をつけた注連縄を1年中飾っている家がたくさんあります。

注連縄 



伊勢神宮があるあたりでも同様の注連飾をかけるそうです。
伊勢の注連縄は『笑門』の他に『商売繁盛』と書いたものや『蘇民将来子孫家門』と書かれたものもあるそうです。

なぜ祇園では『笑門』と記した注連縄をかけるのでしょうか。
『蘇民将来子孫家門』を略すと『将門』となりますが、逆賊とされる平将門に通じるので、『笑門』になったとする説があり、私はこの説を支持しています。

八坂神社 舞妓さん

この日はおこぼではなく草履をはいていましたよ。

④将門の首伝説

平将門は関東に独立国を作り新皇を名乗りました。
そこで朝廷は940年に将門追討の軍をおくり、将門は流れ矢に当たって死にました。
将門の首は京に持ち帰られて鴨川のほとりに晒されました。
将門の首が晒された場所は現在の南座あたりだとも言われています。

ここから将門の首は飛び上がり、鴨川を超えて膏薬図子に落ちたという伝説もあります。
将門の首は事あるごとに近隣住民に祟りました。
そこで空也上人はここに念仏道場を立て、将門の霊を慰めたと言われています。

膏薬図子には神田神宮と称する小さな祠があり、「天慶年間、平将門ノ首ヲ晒した所也。」と説明書があります。
(京都市下京区四条通新町西入ル 下ル新釜座町 ) ↓ 

神田明神

将門の首を晒したのは南座あたりではなくて、膏薬図子なんでしょうか?


将門の首を晒した場所が膏薬図子あたりだとしても、ここは祇園から近い場所です。

南座や膏薬図子は八坂神社からほど近い場所にあり、平将門は怨霊として畏れられた人物でした。
祇園の人々は将門の怨霊をそれは恐れたことでしょう。
そこで、『『蘇民将来子孫家門』を略すと『将門』となるのを、語呂合わせで『笑門』としたのではないかと思うのです。

その後、将門の首は故郷の東国まで飛んでいったという伝説があります。
東京都千代田区にある将門の首塚は、将門の首が落ちた場所だと言われています。

将門の首塚

将門の首塚

 
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[2017/02/01 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

岩清水八幡宮 鬼やらい神事 & 横須賀市 道切り 『ヤチマタの神とサイコロの関係』 

京都府八幡市 石清水八幡宮
鬼やらい神事・・・毎年変わります


①鬼やらい神事

そろそろ節分ですね!
1月29日、石清水八幡宮では一足早く鬼やらい神事が行われたようです。(日程は毎年変わります。写真は過去のものです。)

石清水八幡宮 鬼やらい神事2 

鬼が出たよ!

石清水八幡宮 鬼やらい神事  

鬼は子供たちを脅してさんざん泣かせたあと、石清水八幡宮の拝殿へ向かいます。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき

私は鬼とか妖怪とか怨霊が大好き!
なので「鬼、がんばれ!」と心の中で声援をおくります。(笑)
しかし豆を蒔かれて鬼はやっつけられてしまいます。

②ヤチマタ基金

鬼やらい神事のあと、心を入れ替えた鬼たちはボランティアでヤチマタ基金の募金を呼び掛けていました。

石清水八幡宮 鬼やらい神事 鬼の募金活動 
  ヤチマタ基金とは京都府神社庁が行っている、交通災害遺児への奨学助成を目的とした基金のことです。
 http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/yachimata.html

ヤチマタ基金のヤチマタはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメという神様の名前からつけたものだそうです。

石清水八幡宮 鬼やらい神事 鬼の募金活動2

③ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメはもののけの侵入を防ぐ神

ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメについては ↓ こちらの記事にも書きました。

石清水八幡宮 雪 『青山祭は疫神スサノオを風葬にするお祭りだった?』 


石清水八幡宮で1月18日に行われている青山祭は、明治以前は道饗祭(みちあえのまつり)とか、疫神祭とも呼ばれていましたが
この道饗祭とはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミを祀って、都や宮城にもののけなどが入らないように祈る神事でしたね。

ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメはもののけの侵入を防ぐ神なのです。
ヤチマタは「八衢」と書きたくさんの道が分かれている所のことをいいます。

石清水八幡宮 青山祭 
石清水八幡宮 青山祭

④「道切り」はヤチマタヒコ・ヤチマタヒメの信仰から生じた風習?

上の記事を書いたところ、aunt carrotさん がメールを下さり、横須賀市長井町荒井の道切りについて教えてくださいました。
ありがとうございました!
こんな神事があるよ~、とか教えていただけるとすごく嬉しいです。



動画、お借りしました! ありがとうございます。

道切りは、疫病や魔性のものなどの災厄が村や里に入ることを防ぎ、禁圧するための呪術習俗です。現在、道切りの行事の多くは廃れ、三浦半島では長井の荒井のみで伝承されています。
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0120/movie_channel/rekisi/16.html より引用

道饗祭は宮中にもののけなどが侵入しないようにと行われていた行事ですが、「道切り」もこの道饗祭と同様の意味を持つものなんですね。

ということは、「道切り」はヤチマタヒコ・ヤチマタヒメの信仰から生じた風習ではないかと思えます。

↓ こちらの写真はaunt carrotさんのブログ、Aunt Carrot’sBlog より許可を得てお借りしたものです。(ありがとうございます!)

20150523ko013.jpg

とてもいい写真ですね~♪

向かって左から、藁で作った刀、片方だけのワラジ、さいころ、藁で作った蛇が注連縄につるされています。

⑤サイコロは塞の神をあらわす?

「道きり」につるすものの中で、一番興味深く思ったのはサイコロです。
サイコロは塞の神(さいのかみ)の語呂合わせではないでしょうか。

ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミは同一の神とされ、塞の神と呼ばれているのです。

クナドノカミは「岐の神」と書き、悪霊が村や集落に入ってくるのを防ぐ神です。

⑧語呂合わせで神格を変える神

つまり、塞の神は語呂合わせでサイコロの神になったのではないかと思うのです。

このように語呂合わせで神格を広げた神は他にもあります。

例えば、和歌の神・柿本人麻呂は人丸と呼ばれることもあり
「ひとまる→火止まる」で防火の神に、「ひとまる→人産まれる」で安産の神へと神格を広げています。



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[2017/01/31 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

三十三間堂 通し矢 『牛黄と柳の薬効』 

京都市東山区 三十三間堂
通し矢・・・1月日曜(年によって日程は変わります。)

 三十三間堂 通し矢 
 
①三十三間堂の通し矢

三十三間堂の建物は南北に長く、125メートルもの長さがあります。
江戸時代には三十三間堂の軒下で『通し矢』が盛んに行われました。

File:Toshi-ya 00.jpg

上は歌川豊春が描いた『通し矢』の様子です。

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toshi-ya_00.jpg?uselang=ja) よりお借りしました。

お堂の軒下から矢を射ていますね。
現在の『通し矢』は、お堂の前の広場に数人が横並びになって矢を射ています。
特に成人女性が振袖袴姿で強さと美しさを競い合う様は新春の風物詩となっています。

2017年の三十三間堂の『通し矢』は1月15日に行われたようです。
(写真は過去のものです。)

この日、堂内は無料開放されます。
金色に輝く1001体の千手観音像は圧巻でした!

File:Kusakabe Kimbei 1364 Sanjiu.JPG

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kusakabe_Kimbei_1364_Sanjiu.JPG?uselang=ja)よりお借りしました。

②柳のお加持は修正会の結願の行事

また堂内では『柳のお加持』も行われています。
『柳のお加持』とは柳の枝で頭をさすったり、密教の灌頂 の儀式のように柳の枝で頭の上に3滴ほどの水を注ぎかけるというものです。
『柳のお加持』を受けると頭痛が治ると言われています。

三十三間堂には次のような伝説が伝えられています。

後白河法皇は観音様より次のような夢のお告げを受けました。
『あなたの前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶でした。
その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでおり、髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏にあたるので上皇の頭が痛むのだ』と。
早速川を調べさせたところ、髑髏が見つかりました。
上皇はその髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁としました。
そうしたところ、上皇の頭痛は平癒しました。


この日、堂内で行われる『柳のお加持』はこの伝説にちなむものなのでしょうか。

私はそうではなく、『柳のお加持』は修正会の結願の行事であり、そこから後白河の伝説は作られたのではないかと思います。

正月に各寺院で行われる法要のことを修正会といいます。

③四天王寺どやどや・法界寺裸踊りは修正会結願の行事だった。

四天王寺 どやどや2

↑ 上は大阪・四天王寺で1月14日に行われている「どやどや」です。
天井からまかれた牛玉宝印を裸の男性たちが奪い合うという行事です。

法界寺裸踊り2

↑ 京都・法界寺の法界寺裸踊りです。
牛玉宝印は天井から撒かれず、社務所で授与しています。
しかし、四天王寺のどやどやにそっくりです。
法界寺裸踊りでもかつては四天王寺のどやどやと同じように牛玉宝印を奪い合っていたのではないでしょうか。
それがいつしか、牛玉宝印は社務所で授与するようになり、奪い合うしぐさのみが裸踊りとして残ったのではないかと思います。

ほうかいじ やなぎのおかじ  
↑法界寺裸踊りでは行事終了後、三十三間堂と同様の柳のお加持が行われました。

奈良・念仏寺の『陀々堂の鬼はしりも四天王寺の『どやどや』や『法界寺裸踊り』と同じく、1月14日に行われています。
見に行ったことはまだないんですが。
そして『陀々堂の鬼はしりは修正会結願の行事だということです。
ということは、同じ日に行われる『どやどや』や『法界寺裸踊り』も修正会結願の行事名のだと思います。

三十三間堂の通し矢は現在は日程が定まっていませんが、少し前までは1月15日(成人の日)に行われていました。
そして修正会の行事と思われる法界寺裸踊りと同様の柳のお加持が行われるところから、三十三間堂の柳のお加持も修正会の行事だと考えられます。

●牛玉宝印は牛黄で文字を書いたものだった。



岡山県西大寺の『会陽』は現在では2月の第三土曜日に行われていますが、かつては旧正月元日より14日の間行われていました。

西大寺の会陽も修正会の結願(最終日)の行事だといえるでしょう。

『会陽』では闇の中で投牛玉と宝木が堂内に投下されると、すさまじい宝木争奪戦が繰り広げられます。

宝木は2本のみで、牛玉紙が巻いてあります。
修正会の結願では牛玉宝印が授与されることが多いのですが、宝木は木製の牛玉宝印だといえるでしょう。
牛玉宝印はもともとは漢方薬である牛黄で文字が記されたもので、皇室には『牛玉宝印は水に溶かして飲む』と伝わっているそうです。
牛玉宝印は薬だったのです。

三十三間堂 通し矢2

●柳には痛み止め効果がある。

投牛玉は枝牛玉・串牛・投牛ともいい、柳の細い木片5~6本を束にして牛玉紙を巻いたもので、100束ほどが投下されます。
この柳の樹皮には痛みどめの効果があるサルチル酸が含まれています。
もともとは投牛玉はしがむものだったのかもしれません。

柳のお加持は修正会の行事であり、柳は頭痛に薬効があったところから、後白河法皇の頭痛伝説は創作されたのではないでしょうか。

ただし、柳のお加持のように柳の枝で頭をさすっても、頭痛は治りません。
柳は飲んで初めて痛み止めとしての効能を発揮します。

三十三間堂 通し矢3 

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[2017/01/18 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

法界寺裸踊り 『法界寺裸踊りは牛玉宝印争奪戦のなごり?』 


京都市伏見区 
法界寺
法界寺裸踊り・・・1月14日


法界寺裸踊り2

①法界寺裸踊り

水垢離を行った男たちが本堂にあがり、「頂礼、頂礼」と言いながら背中を押し付けあって踊ります。
写真は子供さんたちの裸踊りですが成人男性の裸踊りもあります。

法界寺-水垢離

②四天王寺 どやどや

同じ日、大阪の四天王寺では『どやどや』という行事が行われています。
 
四天王寺 どやどや2

天井からまかれた牛玉宝印を裸の男性たちが奪い合うという行事です。

③西大寺 会陽

また岡山県の西大寺では『会陽』といって、やはり裸の男性たちが宝木(木製の牛玉宝印)を奪い合う行事があります。
http://www.optic.or.jp/saidaijicci/eyo/eyo_index.html
http://www.okayama-cci.or.jp/activation/saidaijieyou.html



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。すばらしい動画だと思います。

④法界寺裸踊り・どやどや・会陽は同様の行事?

西大寺の会陽は参加者の数がはんぱないですが、四天王寺のどやどやはこの会陽と同様の行事だと思います。
そして私は法界寺裸踊りももともとは会陽やどやどやと同様の行事だったのではないかと思います。

法界寺の行事では天井から牛玉宝印をまくということは行われていません。
牛玉宝印は社務所で授与しているようです。
しかし、法界寺裸踊りで手を上にあげて踊る男性たちの姿は、牛玉宝印や宝気を奪い合う会陽やどやどやの男性たちの姿とそっくりではありませんか。

もともとここ法界寺でも天井から撒かれる牛玉宝印を奪い合っていたのではないでしょうか。
ところがいつしか牛玉宝印は社務所で授与されるようになり、奪い合うしぐさが踊りとして残ったのではないかと思ったりします。

法界寺裸踊り 
 


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[2017/01/14 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)