祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 


①黒主山

7月24日は祇園祭後祭の山鉾巡行がありますね。
後祭で巡行する山鉾のひとつに黒主山があります。

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山2

17日の前祭山鉾巡行と24日の後祭山鉾巡行は逆回りで巡行するんですね。
写真は数年前に撮影したもので、このとき後祭山鉾巡行は行われていませんでした。
24日、黒主山は写真とは逆向きで巡行することになります。

上の写真ではわかりにくいのですが、桜の木の下には花を見上げる老人の人形が置かれています。
下の写真は後祭宵山で撮影した黒主山の御神体・大友黒主です。

祇園祭 黒主山 御神体


②謡曲志賀と古今和歌集仮名序・真名序

黒主山は謡曲・志賀をテーマにした山です。

今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む大友黒主に出会います。
黒主は和歌の徳を語って消え去ります。(志賀)


古今和歌集仮名序は大友黒主について次のように記しています。

大友黒主は そのさまいやし いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし
(大友黒主はその様子が賎しい。 薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。)


謡曲「志賀」は古今和歌集仮名序の文章からインスピレーションを得て創作されたものなのでしょう。

それにしても、「そのさまいやし」とか「薪追へる山びとの花のかげにやすめるがごとし」とはどいう意味なのでしょうね?

さて古今和歌集にはかなで記された「仮名序」のほかに漢文で記された「真名序」があります。
真名序は仮名序とだいたい同じ内容ですが、微妙に表現が異なっている部分もあります。
たとえば大友黒主については次のようになっています。

大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)

祇園祭 山鉾巡幸 黒主山

③百人一首では猿丸大夫は5番、6番は?

ここに『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とあります。
『大友黒主の歌は猿丸大夫に次いで優れている。』というような意味なんでしょうか?よくわかりません。

でも鎌倉時代の天才歌人である藤原定家はその意味を知っていたにちがいありません。

というのは、古今和歌集仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされているのですが
紀貫之は古今伝授の創始者です。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことです。
伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、主に口伝で行われました。
藤原定家は父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けています。
定家は和歌の極意を知っていたのです。

大友黒主は六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)の一です。
藤原定家が撰んだ秀歌集・百人一首には遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町の歌は採られていますが、大友黒主の歌は採られていません。

もしかすると大友黒主とはニックネームのようなもので、本名は別にあるんじゃないか。
定家は本名で黒主の歌を百人一首に採用しているのではないか。
そう私は考えました。

百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られています。
もしかしたら定家は真名序の『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 という文章を受けて、猿丸大夫の歌の次に大友黒主の歌をもってきているのではないでしょうか?

さっそくは百人一首を調べてみました。
百人一首では猿丸大夫は5番でした。
その次・・・6番は大伴家持でした!

黒主山 宵山


大友黒主は大伴黒主とも記されます。
また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じといってもいい歌を詠んでます。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)


古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』といいます。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことです。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りとはいえないと思います。
このことからも、大友(大伴)黒主と大伴家持は同一人物ではないかと思うのです。

大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄でした。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないでしょうか。

須賀神社 ささげ祭
須賀神社 角豆(ささげ)祭 行列

また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっています。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったと推測されます。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないでしょうか。

真名序には『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とありますが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだと思います。
『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、という意味です。

黒主山 宵山2  


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[2017/07/23 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

祇園祭 山鉾巡行 菊水鉾 『菊慈童と不老長寿』 



祇園祭 菊水鉾 

①百鬼夜行は陰、それを陽に転じたのが山鉾巡幸?


祇園祭 山鉾巡行 『山鉾巡行と百鬼夜行』  
↑ こちらの記事にこんなことを書きました。

①山鉾のうち、太子山の聖徳太子、占出山の神宮皇后、黒主山の大友黒主、菊水鉾の菊慈童は怨霊ではないか。
②怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。
③怨霊が祟らないように慰霊し、神として祀ったもののことを御霊という。
④百鬼夜行は陰で、それを陽に転じたのが山鉾巡行だったりして?

聖徳太子が怨霊であるとする梅原武さんの説については上の記事をお読みください。

②菊の葉の露を飲んで700歳の長寿を得た菊滋童


今日は菊水鉾の菊慈童についてお話ししたいと思います。

祇園祭 菊水鉾2  

上の写真の山鉾に乗せられている人形が菊慈童です。
菊慈童とは700歳の長寿であったという中国の伝説に登場する少年です。能の演目にもなっていますよ~。

鉾の前懸は皆川月華作の「飛鶴図」です。

祇園祭 菊水鉾


魏の文帝 はレッケン山に不老長寿の薬が流れているという噂をきき、「様子を見てまいれ」と臣下を山に行かせました。
山には不思議な少年がおり「私は周の穆王に仕えていました。」と言いました。
周は700年も前の時代です。
少年はさらに穆王より賜ったという枕を見せました。
その枕に記された経文を菊の葉に書くと、その葉より滴る露は不老長寿の薬となりました。
少年はその露を飲んで700歳の長寿をえていたのでした。


京都の法輪寺では9月9日に重陽神事を行っており、菊慈童の舞が奉納されます。

法輪寺 重陽神事

③惟喬親王、法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる。

平安時代、この法輪寺に惟喬親王が籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があります。

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社では惟喬親王を木地師の祖として祀っています。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師が用いるろくろを発明したというのです。

木地師資料館 惟喬親王像  

木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っています。


木地師資料館 惟喬親王像2 

上の写真は木地師資料館に安置されていた惟喬親王像です。
惟喬親王は大きな茶椀を持っています。
木地師がろくろを用い作った茶碗には漆を塗りますね。
それで法輪寺には惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったなどという伝説が伝えられているのかもしれません。

渡月橋より法輪寺を望む
法輪寺

③漆と即身仏

しかし、それだけではなく、漆は不老長寿にも関係していそうです。

昔、即身仏になることを目指した人が大勢いました。
今でもいくつかのお寺で即身仏が祀られていますね。

即身仏になる目的は、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れたとき、生き返ってその聖業に参加するためだといいます。
ひからびた即身仏が生き返ったという物語も残されています。
おそらく生き返るためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。

即身仏となるためには木食といって、五穀を絶ち、木の皮や実だけを食べるという修行を行いました。
その後、漆を飲んで入定したと言われます。
漆には防腐作用があり、死後腐りにくくするために漆を飲んだと言われます。

法輪寺 重陽神事4
法輪寺 重陽神事

④漆と髑髏(どくろ)本尊

また真言立川流ではドクロに漆を塗って髑髏本尊を作りますが、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目にドクロは命を持って語りだすとされています。
ドクロは生き返るということでやはり不老長寿と関係がありそうです。

法輪寺 重陽神事2
法輪寺 重陽神事

⑤重なる菊滋童と惟喬親王のイメージ

うむむ~、すると菊慈童が飲んでいた露とは漆ではないか。
惟喬親王が法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が残されているのは、惟喬親王が即身仏やドクロ本尊と関係があるからではないか。
法輪寺で重陽の節句に菊慈童の舞が奉納されるのは、菊慈童と惟喬親王のイメージが重ねられているからではないか。
などと思えてくるのです。

惟喬親王は世継ぎ争いに敗れた政治的に不幸な身の上で、御霊として玄武神社や惟喬神社に祭られています。
つまり惟喬親王は怨霊だったのです。

菊水鉾にはそんな惟喬親王の霊が乗っているようにも思えるのです。

玄武神社 やすらい祭2

玄武神社 やすらい祭


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[2017/07/19 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

京都駅ビル 祇園祭イルミネーション  『祇園祭とノアの方舟は関係ない?』 

 
JR京都駅に降り立つと祇園囃子が聞こえてきました。

↓ お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。


大階段では張子の犬がお出迎え。

京都駅ビル 張子の犬 

あれっ、長刀鉾が現れましたよ。

京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 長刀鉾

山鉾巡幸が始まりました!

京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 山鉾巡幸 

こんなところで山鉾巡幸が見れるとは思いませんでした。上の動画の祇園囃子を聞きながら見ていただくといいかも。

京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 山鉾巡幸 


①祇園祭山鉾巡行はノアの箱舟がアララト山に漂着した日?

祇園祭・山鉾のタペストリーは西洋的なものが多くてびっくりします。

祇園祭 霰天神山 
霰天神山

祇園祭 白楽天山 タペストリー 
白楽天山

祇園祭 鶏鉾 
鶏鉾

祇園祭 鯉山 
鯉山

祇園祭 函谷鉾 
函谷鉾

ここほんとに日本なの?って思っちゃいますよね。

で、山鉾巡行が行われる7月17日はノアの方舟がアララト山に漂着した日で、祇園祭ははそれを祝う行事だとする説があります。
祇園祭の山鉾に船の形をしたものがあるのも、それを裏付けるというのです。

 祇園祭 山鉾巡行 船鉾
船鉾

②日ユ道祖論

いわゆる日ユ同祖論(日本人とユダヤ人は共通の先祖を持つという説)といわれるものですね。

共通の先祖を持っているかどうかはわかりませんが、日本神道とユダヤ教は似ているところがあります。
たとえば修験道では額に兜巾ときん)をつけますね。

 宝山寺 柴燈護摩供
宝山寺

ユダヤの人々は祈るとき額にヒラクティリー(テフリン)なるものをつけるのですが、
うむむ~、似ている~

佐伯好郎さんは渡来人の秦氏はバルバシ湖の近くにあったキリスト教国・弓月王国出身でクリスチャンだったのではないかと説かれました。
応神天皇の御代、百済より弓月君(ゆづきのきみ)が大勢の民を率いて日本に帰化したとされます。
秦氏は京都の太秦を本拠地とし、太秦寺(広隆寺)を氏寺としていましたが
唐におけるネストリウス派キリスト教の寺院のことを大秦寺と言いました。
太秦と大秦は点があるかないかの違いしかありません。
そこで佐伯氏は太秦寺とはネストリウス派キリスト教寺院であったのではないかとされました。

しかしネストリウス派キリスト教が唐に伝わるのは431年のエフェソス公会議以降のことで
秦氏が日本へ渡来したのはそれ以前と考えられ、時代考証があわないとされています。

その後、佐伯氏は秦氏はネストリウス派キリスト教徒ではなく、原始キリスト教徒だったと自説を訂正しましたが
彼の説は認められることなく、現在に至っています。
私は佐伯氏の説を支持していますが~。

京都駅ビル スイカ 

 ③祇園祭山鉾巡幸はノアの箱舟とは関係ない。

私は秦氏はキリスト教徒だったと考えますが、祇園祭山鉾巡幸はノアの方舟とは関係ないかも?と思います。

日本では明治から新暦が用いられるようになり、それに伴って祭りの日にちが替えられたケースが多いのです。
山鉾巡幸はかつては旧暦6月17日に行っていたのを、新暦を用いるようになってから7月17日に改めたそうです。


京都駅ビル 朝顔 


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[2017/07/17 13:29] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

貴船神社 貴船祭 『貴船祭でなぜ出雲神楽が奉納されるの?』 

京都市左京区 貴船神社
貴船祭 6月1日


貴船神社 貴船祭 お祓い 
貴船祭のはじまり、はじまり~。

貴船神社 貴船祭 御神輿

御神輿は貴船神社の奥の院へと向かいます。

①貴船神社の神は北極星の神?

貴船神社 貴船祭 千度詣

奥の院では船形石の周囲を子供たちがお千度詣をします。
私もやりました。
このとき、お千度詣をすると子供たちはポッキーがもらえまして、大人なのに私にもくださいました。(ありがとうございます!)

走田神社のお千度詣も右回りでしたが、(走田神社 お千度詣り 弓構 『お千度詣り、弓講は妙見菩薩に関連する行事だった?』 
ここ貴船神社のお千度詣も右回りですね!


明石散人さんが龍安寺の石庭とはカシオペア座を表したものではないか、という説を説いておられます。安寺石庭の謎/講談社文庫)
明石散人さんの本は読んでいないので詳しい内容は知らないのですが、竜安寺の石庭はカシオペア座を左右反転させたような形をしています。  

龍安寺 石庭 レイアウト

 カシオペア               
 星が天球に貼りついているものとして、神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は龍安寺石庭のような形に見えますね。

また神様が天球の上から眺めるとすべての星は北極星に対して右回りに回っているように見えるはずです。
お千度詣は人を星になぞらえ、北極星の周囲をめぐる星々をイメージしたものではないかと考えたのです。
すると、走田神社の神殿や貴船神社の船形石は北極星になぞらえたものだということになりますね。

船形石は皇母・玉依姫が乗ってきた船が人目を忌んで石に包まれたものだと言われています。

貴船神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)ですが、高龗神と玉依姫は習合されているのではないでしょうか。
貴船の神様は北極星の神なのかも?

②古代には兄妹婚はスタンダードだった?

お千度詣が終わると出雲神楽が始まりました。

出雲神楽 櫛稲田姫 アシナヅチ テナヅチ

中央はクシナダヒメ、クシナダヒメの左右にいるのはクシナダヒメの両親・アシナヅチ・テナヅチです。
アシナヅチ・テナヅチは兄妹であり、また夫婦でもあります。

日本神話には兄妹または姉弟の夫婦が結構登場しますね。
イザナギ&イザナミは兄妹の夫婦、天照大神&スサノオは姉弟の夫婦です。
さらに中国の神伏義&女媧も兄妹の夫婦ですね。

19代允恭天皇の子の木梨軽皇子&軽大郎女の兄妹は近親相姦に陥り、それが原因で軽皇子は失脚したとされますが
もっと昔には兄妹または姉弟の結婚はスタンダードだったという説があります。
近親婚は障害児を生みやすいということが知られていなかった古においては、血の純潔を守るために兄妹または姉弟の結婚は普通に行われていたというのです。

③貴船祭ではなぜ出雲神楽が奉納されているの?


貴船神社 貴船祭 出雲神楽 八岐大蛇2

クシナダヒメを食べてしまおうと八岐大蛇がやってきましたよ!

貴船神社 貴船祭 出雲神楽 八岐大蛇

酒と女をよこせーーーー!

貴船神社 貴船祭 出雲神楽

スサノオは八俣大蛇に酒を呑ませ、大蛇が酔っぱらって眠ってしまったところをみはからって
十握剣でおろちを斬って退治しました。 
まったく酒と女には用心しなくちゃ、ですね~。

貴船神社 貴船祭 出雲神楽

なんで貴船祭では出雲神楽が奉納されているんでしょうか?

④八坂神社 石見神楽奉納


見たことはないんですが、八坂神社では石見神楽が奉納されているそうですね。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます♪

こちらも貴船神社の神楽と同じく、スサノオの八岐大蛇退治をテーマにしたものだと思います。
八坂神社の御祭神はスサノオなので、縁があるということでこの神楽を行っているのではないでしょうか。

⑤貴船神社は紀氏の神?

貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。
賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。

そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないでしょうか。

ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

どうやら貴船神社は紀氏の神を祀る神社だというのが真実のようです。

⑥紀氏の祖神はスサノオ?

記紀などによると、紀氏の始祖は孝元天皇の子孫で武内宿禰の子・紀角となっています。
しかし紀氏の先祖はスサノオだとする文献もあるそうです。
そういうわけでスサノオが登場する出雲神楽が奉納されているのではないでしょうか?

貴船神社 貴船祭 出雲神楽 八岐大蛇



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[2017/06/02 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 競馬 『乗尻はなぜ舞楽の衣装を身に着けているの?』 


京都市北区 上賀茂神社
競馬(くらべうま)・・・5月5日


上賀茂神社 競馬-行列 
上賀茂神社の社家町に騎乗した人が現れました。 今日は上賀茂神社の競馬(くらべうま)の日なのです。

上賀茂神社 競馬 警護衆 
上賀茂神社の参道には馬場が設けられ埒と呼ばれる柵が作られています。
上の写真は埒の中を練り歩く警護衆。

上賀茂神社 競馬5

競馬がスタート!

舞楽の衣装を身に着ける乗尻

馬に乗ってる人のことを乗尻(のりじり)といいます。
乗尻は左右に分かれています。
左方は打毬(たぎゅう/オレンジ色の衣装)、右方は狛鉾(こまぼこ/緑色の衣装)の舞楽装束を着けて競馬を行うんですよ~。

最初のレースは競馬の故事より、左方が必ず勝つようになっています。(出来レースやん~笑)

二番からは先の勝負で勝った組の馬が先馬、負けた組の馬が追馬で、追馬は一馬身ほど遅れてスタートします。
勝負の楓と呼ばれる楓があるのですが、この勝負の楓を過ぎた時点で一馬身の差が縮まっていれば追馬の勝ち、差が開いていれば先馬の勝ちです。

それにしても舞楽の衣装きて馬に乗るって乗りにくくないんでしょうか?
そもそも、なんで舞楽の衣装を着るの?

上賀茂神社 競馬3 
 ②左舞と右舞

舞楽には『左方の舞』と『右方の舞』があります。
その違いは、リベラルと保守・・・ではありません。
おおざっぱに言うと中国系のものを左舞(さまい)、朝鮮半島系のものを右舞(うまい)といっているようです。
また中国系の音楽は唐楽、朝鮮半島系の音楽は高麗楽というとのこと。
衣装は左舞が赤系統、右舞は緑系統を用います。
左舞は舞台後方左側から舞人が現れ、右舞は舞台後方右側から現れます。
ほかにも、左舞はメロディにあわせて振付されており、右舞はリズムにあわせて振りつけられているなどの違いがあるそうです。

今度舞楽を見るときには、そういった点にも注意して鑑賞したいです。
左舞右舞
音楽唐楽(中国系)高麗楽(朝鮮半島系)
衣装赤系統緑系統
登場舞台後方左側から舞台後方右側から
振付メロディにあわせてあるリズムにあわせてある


上賀茂神社 競馬2

②舞楽は武官たちの武技の競技の余興だった?

なぜ舞楽は左舞と右舞に分けられているのでしょうか。

それは、宮中の武官である近衛府の官人(宮中の武官)たちが、左右に分かれてさまざまな武技を競っていたことに関係があると考えられています。
舞楽や雅楽はその余興であったとのことです。

すると、まず競馬という武技があって、その余興として打毬・狛鉾の舞が舞われていたのを、一体化して打毬・狛鉾の衣装を着て競馬をするようになったのかも?
みなさんはどうお考えになりますか?

上賀茂神社 競馬4 

 上賀茂神社 競馬 



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[2017/05/11 14:27] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

下鴨神社 流鏑馬 『下鴨神社の流鏑馬と端午の節句には関係がなかった~』※追記あり※タイトル変更しました。 

京都市左京区 下鴨神社
流鏑馬神事 5月3日

下鴨神社 流鏑馬-馬車

糺の森を馬車がゆっくりと進んでいきます。

下鴨神社 流鏑馬2

流鏑馬神事がはじまるよ!

 下鴨神社 流鏑馬 
①流鏑馬神事は端午の節句と関係がある?


下鴨神社の流鏑馬神事は葵祭の前儀として行われています。
でも、5月5日の端午の節句に近い5月3日に行われていることから、『端午の節句(5月5日)』とも関係が深そうに思えます。

下鴨神社 流鏑馬4


『端午の節句』は『菖蒲の節句』ともいいますね。
中国では菖蒲の刃が刀の形に似ていることなどから男子にとって縁起のいい植物だとされていました。
日本で『端午の節句』に菖蒲が使われ始めたのは奈良時代、聖武天皇のころからだとされます。
宮中では菖蒲を髪に飾った人々が天皇より薬玉を賜わる習慣があったようです。(葵祭では葵と桂の葉を髪に飾りますが)

で、鎌倉時代ごろより、菖蒲が尚武(武道・武勇を重んじること)に通じるということで、武士が『端午の節句』に流鏑馬を行うようになったとされます。

現在でも『端午の節句』のころに流鏑馬を行っている神社があります。(鹿島神社など)

下鴨神社 流鏑馬3

②薬狩

飛鳥時代にまで遡ると5月5日に宮廷行事として薬狩をする習慣がありました。
薬狩とは、女性は野に出て薬草を摘み、男性は鹿の袋角をとるものです。
鹿の袋角は鹿茸(ろくじょう)といい、不老長寿の妙薬とされているとのことです。

http://www.narayado.info/nara/kusurigari.html
上記リンク先に、古代の薬狩を再現した人形の写真が掲載されています。
それを見ると、男性の人形が弓で鹿を射ようとしています。
騎乗はしていませんが、弓を射るのは『端午の節句』の古くからの習慣だったといえるかも?

 下鴨神社 流鏑馬-平安装束2

 ↑ ↓ 平安装束を身に着けての流鏑馬

下鴨神社 流鏑馬-平安装束 
【追記】
葵祭の起源を調べたところ、次のようなことがわかりました。

567年、風水害によって五穀が実らなかったので、伊吉の若日子に占わせました。
占いの結果、風水害は賀茂の神々の祟りであるとされ、4月の吉日に祭礼を行いました。
午に鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実りました。

ここに「4月の吉日に祭礼を行った」とあります。
これは旧暦4月と言うことだと思います。
現在の葵祭は新暦5月に行われていますが、旧暦は新暦よりも約1か月遅れなので新暦を用いるようになった明治以降に祭礼日を新暦5月にしたのだと思います。

一方、端午の節句はもともと旧暦5月5日に行われていたもので、葵祭と端午の節句には関係はないということになりますね。
すいませんでした~。



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[2017/05/09 15:54] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 雪と幸在祭 『幸在祭は鎮花祭?』 


京都市帰宅 上賀茂神社
幸在(サンヤレ)祭・・・2月24日

上賀茂神社 幸在祭

①幸在祭

上賀茂地域では15歳になった男子を「あがり」といいます。
あがりになった男子は2月10日ごろより、毎晩鉦太鼓に合わせて町を練り歩く習慣があったそうです。
現在では2月24日の日中に町を練り歩き、山の神、太田神社、上賀茂神社に参拝しているようです。
  
「あがり」になった少年は大島紬の羽織を着て太鼓を打ち鳴らしながら練り歩きます。
写真向かって左の3人の少年が「あがり」です。
まだ「あがり」に達しない13歳未満の子供たちも鉦や太鼓を持って行列に加わります。

上賀茂神社 幸在祭2

②やすらい祭

私はこの行列を見て、玄武神社や今宮神社で4月8日に行われている「やすらい祭」を思い出しました。
  
玄武神社 やすらい祭

玄武神社 やすらい祭

衣装などはずいぶん異なりますが、幸在祭の行列と同じく鉦や太鼓を持っていますね。

昔の人々は疫病神は桜の花びらにのって散り広がると考えていました。
そこで奈良の大神神社で鎮花祭を行うようになりました。
やすらい祭りはこの鎮花祭と念仏踊りが結びついたものと考えられています。

念仏踊りとは鉦や太鼓を打ち鳴らしながら踊るもののことをいいます。

赤いかつらをかぶった人は鬼と呼ばれていますが、鬼たちは神社の境内や氏子さんの家の門前で念仏踊りをします。

上賀茂神社 幸在祭3

③艮=鬼=童子


艮(丑寅)は方角では東北で、鬼の出入りする方角とされています。
また八卦では艮の符は童子とされます。

艮=鬼=童子 

となり、やすらい祭の鬼と、幸在祭の「あがり」より年齢が下の子供は同様のものとみなすことができます。
こう考えると、やすらい祭と幸在祭はますます似ているように感じられます。

上賀茂神社 幸在祭4

④幸在(サンヤレ)祭とサンヤレ踊り


上賀茂神社の幸在祭は鎮花祭と関係があるのかもしれません。
というのは、滋賀県草津市では5月に各地でサンヤレ踊りが行われているのですが、サンヤレ踊とは疫病神を追い払うために鉦・太鼓・笛で囃して疫病神を追い祓う踊りとされているからです。



動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!

2月にはまだ桜は咲きません。
梅の花が咲き始めるころなので、上賀茂神社の幸在祭は梅の花を鎮める行事と成人式が合わさった行事なのかも?

上賀茂神社 幸在祭5 

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[2017/02/24 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 燃灯祭 『小松と玉箒草は夫婦和合を意味している?』 


京都市北区 上賀茂神社
燃灯祭(乙子神事)・・・2月の2番目の子の日(2017年は2月18日)


① 燃灯祭

上賀茂神社 燃灯祭2
 
狩衣姿の斎員さんたちが行列を作って御阿礼野(みあれの)へと向かいます。
一般の参拝者も自由に参列できるということなので、私も行列の後ろについていきました。
このごろ伝統行事に関心を持つ人が増えたのか、結構たくさんの人が見学に訪れていましたよ。

御阿礼野は上賀茂神社の境内の裏手にあります。
途中ゴルフ場の中を横ぎるのには面食らいましたが~。
ゴルフプレー中の方々は御阿礼野へ向かう人々が行き過ぎるまで待ってくださいました。(ありがとうございます!)

上賀茂神社 燃灯祭 
御阿礼野に到着して一礼。

上賀茂神社 燃灯祭3 
斎員さんたちは、小松を引きます。

上賀茂神社 燃灯祭4 
小松を引いたのち、境内に戻り、土舎(つちのや)に向かいます。

上賀茂神社 燃灯祭5 

ちょっとわかりにくいですが、斎員さんたちは小松に玉箒草(燃灯草)を添えて紙に包んでいます。

②多紫草から田村草になった?

玉箒草(燃灯草)はアザミに似た紅紫色の花を8月から10月ごろに咲かせます。
玉箒草というのは古名で、現在は田村草と呼ばれています。

田村草の写真はこちら→ http://www.hana300.com/tamura.html

古名の玉箒は、花後に多数の実がつく様子が箒(ほうき)に似ているところからくるのではないか、そしてそれが転訛して田村草になったのではないかといわれています。
また、その花が美しい紫色なので、多くの紫色の花をつける草、多紫草から田村草になったのだという説もあります。

③恋する女は紫色に染まる

万葉集に次のような歌があります。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)


紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤としました。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味でしょうか。

こんな歌もあります。

紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも.
( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに)


大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に贈った有名な歌ですね。

この2首を鑑賞すると、恋する女が美しく瞳を輝かせるようすを『紫』といっているように思えるのです。

④松=待つ=弥勒菩薩?

京都・太秦にある広隆寺の弥勒菩薩像は赤松で作られていますが、赤松で造られた仏像は広隆寺の弥勒菩薩像だけです。

File:Maitreya Koryuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


弥勒菩薩は56億7000万年後に現れるとされる未来仏です。
弥勒菩薩は56億7000万年の間、復活を待っている仏だともいえるでしょう。
広隆寺の弥勒菩薩が赤松で作られているのは、『松』が『待つ』に通じるからではないでしょうか。

⑤聖徳太子は弥勒菩薩の化身?

広隆寺の弥勒菩薩は聖徳太子が秦河勝に与えたものだという伝説があります。
この伝説は、聖徳太子が弥勒菩薩の化身であると考えられていたことを示すものだと私は思います。

⑥聖徳太子は怨霊である


そして梅原武氏は『聖徳太子は怨霊である』とおっしゃっています。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、死後このような人は怨霊となって祟り、天災や疫病の流行を引き起こすと考えられていました。

聖徳太子自身は不幸な死を迎えたように思えませんが、彼の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって自害しています。

法隆寺 夕景 

法隆寺

聖徳太子等身大の像と伝わる法隆寺の救世観音像の頭には直接釘で光背が取り付けられています。
光背は足元に棒をたてて、その棒にとりつけるのが普通で、法隆寺像は極めて異常な像形なのです。
そこで梅原氏は『法隆寺の救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像』であると説かれました。

怨霊=聖徳太子=弥勒菩薩=待つ=松
となり、松は怨霊を表すものだと考えられるのではないでしょうか。

⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面


そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御魂・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


詳しくはこちらの記事をお読みください。→飛鳥 勧請綱と田植え 『道祖神と大聖歓喜天は習合されている?』

⑦男女和合は怨霊を守護神にする呪術?

大聖歓喜天という仏教の神は象頭の男女双体のおすがたをしています。



大聖歓喜天は祟りをもたらす鬼王ビナヤキャが、十一面観音の化身であるビナヤキャ女神を抱くことによって仏法守護の神となったものです。

そして、ウィキペディアの祟り神の項目には次のように記されています。
「祟り神は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。(上記サイトより引用)

祟り神は怨霊といってもいいでしょうが、この祟り神(怨霊・荒霊)を守護神にするための呪術が、男女和合なのではないかと思います。

⑧小松は男(荒霊)、玉箒草は女(和霊)をあらわしている?

燃灯祭では小松を男神=荒魂=祟り神、玉箒草を女神=和魂と見立て、男女和合(小松と玉箒草をセットにする)させることで、祟り神(小松)を守護神にするという意味合いを持っているのではないでしょうか。

とすると小松は男(荒霊)、玉箒草は女(和霊)を表しているのではないでしょうか。

多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

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[2017/02/23 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

智積院 梅 『長谷川等伯 松林図屏風は不老不死を表している?』 


京都市東山区 智積院
撮影 2017年 2月中旬

智積院 金堂 梅 

智積院 金堂

①鶴松にささげられた桜楓図


智積院がある場所には、豊臣家ゆかりの禅寺・があり、1601年に家康がこの祥雲寺を与えました。
そこで玄宥はその祥雲寺の土地に、もと紀州・根来にあった智積院を復興させました。

現在の智積院収蔵庫には祥雲寺の客殿にあった長谷川等伯一派の障壁画が残されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%BA%E7%A9%8D%E9%99%A2#.E6.96.87.E5.8C.96.E8.B2.A1
↑ ウィキペディアに障壁画の写真が掲載されています。

智積院障壁画 桜図 

智積院障壁画 楓図 模写

上2枚は大書院に飾られている複製障壁画・桜楓図で上が楓図(長谷川等伯筆)、下が桜図長谷川久蔵筆)です。

祥雲寺は1591年にわずか3歳でなくなった秀吉の子・鶴松の菩提を弔うために建てられたお寺です。
桜楓図は幼くして亡くなった鶴松にささげられたものだといえるでしょう。

②息子・久蔵、26歳で亡くなる。

智積院の桜図を描いた長谷川久蔵は、長谷川等伯の息子です。
この久蔵も1593年に26歳の若さで亡くなってしまいました。

また1598年には等伯のパトロン・豊臣秀吉も亡くなりました。

③松林図屏風

鎮長谷川等伯といえば、『松林図屏風』 ですよね!

File:Pine Trees.jpg

松林図・右隻
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3APine_Trees.jpg よりお借りしました。
長谷川等伯 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

File:Hasegawa Tohaku, Pine Trees.jpg

松林図左隻
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AHasegawa_Tohaku%2C_Pine_Trees.jpg よりお借りしました。
長谷川等伯 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

無駄なものを限りなく削り、余白を多く残していています。
強烈なインパクトの静けさを感じるというか、とても不思議な絵です。

年記がないので制作年代は未詳ですが、作風から1593年~1595年ごろに描かれたものではないかと考えられています。
等伯の息子・久蔵が亡くなったころで、悲しみにくれる等伯が自分自身のために描いたとも言われます。

また故郷の能登の海岸の松林を描いたのではないかとも言われていますよ。

智積院 鐘楼  
智積院 鐘楼

⑤松林図は草稿?

松林図にはいくつかの謎があります。

1.紙継ぎのずれがある。
2.左右で紙幅の寸法が異なっている。
3.通常の屏風絵に使われる頑丈な雁皮紙ではなく、きめの荒い薄手の料紙を用いている。
4.画面両端の「長谷川」「等伯」印が基準印と異なる
5.松林図によく似た「月夜松林図」が存在する。
※月夜松林図は この方のブログで見ることができます。
http://cardiac.exblog.jp/12919526/
松林図には山が描かれていますが、月夜松林図には満月が描かれています。また紙の裏に墨を塗ってあります。

そのため、屏風絵ではなく襖絵だったのではないかとか、草稿ではないかともいわれています。

⑥松林図と月夜松林図は月山を表している?

ですが、わたしは「松林図は月夜松林図の草稿ではなく、2枚はワンセットになっている」と考えます。
月夜松林図に描かれた月と、松林図に描かれた山は謎々になっているのではないでしょうか。
つまり、月と山で月山を意味しているのではないかと思うのです。

月山とは山形県中央部にある山で、月山神社があります。参拝したことはないんですが~。


智積院-明王殿 梅 
智積院 明王殿

⑦山形県は即身仏のメッカ

そして山形県は即身仏のメッカとして知られています。

http://www.asahi-kankou.jp/kankou/spot_syuinroku.html
http://yamagatakanko.com/log/?l=348168

ウィキペディアは日本の即身仏として18例をあげています。
県別に見ると、山形県8例、新潟県4例、神奈川県・京都府・福島県・茨城県・長野県・岐阜県がそれぞれ1例で、山形県がダントツで多いのです。

※岩手県の奥州藤原氏の3例は自然ミイラではなく人工ミイラとする説もあるので、カウントしていません。)
http://www.saisyouji.jp/saisyo-ji/contents-sokusinbutu-navi.html#zenkoku
←こちらのサイトでは日本には24例の即身仏があるとしています。

即身仏とは五穀を絶って木食(木の実や木の皮を食べる)修行を行ったのち、生きたまま地下の穴倉に入った僧侶の亡骸のことで、
江戸時代に盛んにおこなわれたとされます。

しかし、夏高温多湿になる日本では亡骸を腐らせないようにするのは至難の業で、腐敗してしまった即身仏もたくさんあったと考えられています。

山形県に多くの即身仏が残されているのは、寒冷な気候ということもありますが
水銀土壌が関係しているともいわれます。

さきほど、即身仏になるためには五穀を絶って木食(木の実や木の皮を食べる)修行を行うと書きましたが
水銀土壌で育った木の実や木の皮には水銀が多く含まれています。
その水銀の防腐作用によって死体が腐ることなく保存されたのではないかというのです。

⑧なぜ人は即身仏になろうとしたのか

なぜ人は即身仏になろうとしたのでしょうか。
それは56億7000万年後に弥勒菩薩があらわれるとき、その聖業に参加するためであると聞いたことがあります。
弥勒菩薩の聖業に参加するためには生き返らなければならない。
そして生き返るためには、魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないかと思います。

水木しげるさんの「今昔物語集」(平安時代に成立したと考えられている古典をもとに水木しげるさんが漫画にしたもの)に、こんな話がありました。


死神が閻魔大王から指令を受けてaを殺しにいったところ、まちがって同姓同名のbを殺してしまいます。
そこで、本来殺すべきだったaを殺し、すでに殺されていたbは、生き返ってもいいということになりました。
ところが、すでにbの死体が火葬されてしまっていたため、やむなくbはaの肉体をかりて生き返りました。


この話は古の人々が、生き返るためには肉体が必要であると考えていたのだろうと推測させます。

⑨桜や楓ははかなさを、松は不老不死を表す?

桜楓図と松林図は対照的ですね。
現代人の多くは、桜楓図には生命力を、松林図には死のイメージを感じるのではないでしょうか。

しかし、古の人々はこれとは逆のイメージを感じたのではないかと思うんですね。

桜や楓は華やかですが、あっという間に散ってしまいます。
一方、松は1年中青々としていて散りません。
そういったところから桜や楓にははかなさを、松には不老不死のイメージを持っていたのではないでしょうか。

⑩松林図・月夜松林図には久蔵生き返りの願いが込められていた?

長谷川等伯はわが子・久蔵が生き返るようにとの願いをこめて松林図・月夜松林図を描いたのではないでしょうか。

月と山=月山=即身仏=不老不死
松=1年中青い葉を茂らせる=不老不死

そういえば智積院にはこんな絵も展示されていましたよ。

智積院 布袋唐子嬉戯の図 


布袋唐子喜戯の図 月樵(げっしょう)道人

布袋は弥勒菩薩の化身だと言われています。

参照/
智積院 さつき 『布袋はなぜ大勢の子供たちと戯れているの?』 




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[2017/02/17 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 紀元祭 蹴鞠 『中大兄皇子の脱げた沓』 

 
 京都市北区 上賀茂神社
紀元祭・・・2月11日


 京都市東山区 泉涌寺

①上賀茂神社 紀元祭

建国記念日の2月11日、上賀茂神社では紀元祭が行われ、蹴鞠の奉納などがありました。

写真はフィルムで10年以上前に撮影したものです。

上賀茂神社 蹴鞠 

②中大兄皇子の脱げた沓

蹴鞠といえば中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)の逸話を思い出しますね。
そう、蹴鞠をしていて脱げた中大兄皇子の沓を中臣鎌足が拾ってさしだした という逸話です。
これをきっかけに二人は親密な仲となり、共謀して当時の権力者・蘇我入鹿を暗殺したとされます。

天智天皇(中大兄皇子)には沓にまつわる不思議な伝説も伝えられています。

天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出しましたが、いつまでたっても戻りませんでした。
後日履いていた沓だけが見つかったので、その沓が落ちていた所を山陵にしました。(扶桑略記・平安時代末)


この伝説から天智天皇は暗殺されたなんて説もあるようですね。

談山神社 鎌足像 

談山神社 中臣鎌足像

③奈良の都は天武系天皇の都だった。


でも、私はこの伝説は天智天皇が暗殺されたということを伝えようとした伝説ではないと思います。

天智天皇は病を患って672年に崩御されました。
その後、大友皇子(天智天皇の子)vs大海人皇子(天智天皇の弟)の皇位継承をめぐる戦争がおきました。
これを壬申の乱といいます。
勝利した大海人皇子は673年に即位して天武天皇となりました。

その後、奈良時代には、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)と天武系の天皇が続きました。
奈良の都は天武系天皇の都だったのですね。

 奈良奥山ドライブウェーより大仏殿・興福寺五重塔を望む

奈良 東大寺大仏殿と興福寺五重塔


④天武系天皇の血筋絶え、天智系天皇が復活。

しかし称徳天皇は女帝で結婚が許されなかったため、子供がありませんでした。
そのため、ここで天武系の天皇の血筋はたえてしまいました。

そして称徳天皇の次には天智天皇の皇子の光仁天皇が即位しました。
光仁天皇以降はずっと天智系の天皇が続きました。

⑤財政難なのに平安京遷都したのはなぜ?

光仁天皇の皇子の桓武天皇は784年に長岡京に、794年に平安京に遷都しています。
しかし当時の朝廷はたいへんな財政難におちいっていたといわれています。
それにもかかわらずなぜ桓武天皇は長岡京、平安京と2度も遷都したのでしょうか。

京都御所 平安装束の女性たち 
京都御所 ※現在の京都御所は平安京遷都当時の御所とは場所がちがいます。


⑥平安京は天智系天皇の都

『奈良の仏教勢力から逃れるため、平安京に遷都した。』私は学校でそう習いました。
最近の歴史の教科書は『奈良の怨霊から逃れるため』と教えているようです。
たしかにそういう理由もあったかもしれません。
しかし桓武天皇は天武系の天皇の都だった平城京に住むのが嫌だったので長岡京、平安京に遷都したという側面もあるのではないでしょうか。

⑦わずか10年で長岡京から平安京に遷都した理由

ちなみにわずか10年で長岡京から平安京に遷都したのは、次のような理由からだと考えられています。

785年に長岡京造長岡宮使の藤原種継暗殺事件がおきました。
桓武天皇の同母弟の早良親王が首謀者とされ、乙訓寺に幽閉されました。

乙訓寺 牡丹 

乙訓寺(長岡京市)

早良親王はハンガーストライキを決行し、淡路へ配流となる船上で亡くなりました。

その後、桓武天皇の近親者が相次いでなくなったり、皇太子が病になるなど不幸なできごとがおきました。
そしてその原因を陰陽師に卜わせたところ、早良親王の怨霊の仕業とされました。
そういったことから、長岡京は早良親王の怨霊がすむ都と考えられたのでしょう。
そこで、長岡京を捨て、新たな都・平安京を作って遷都したと考えられています。

泉涌寺 雪2 
泉涌寺 ※泉涌寺には歴代天皇の位牌が安置されているはずなんですが・・・

⑦天皇が天武系から天智系に戻ったのは藤原氏の策略だった?

もしかして、天武系の天皇から天智系の天皇に戻ったのは、藤原氏の策略だったりしないでしょうか?

というのは、中臣鎌足(藤原鎌足)の子の藤原不比等は天智天皇の後胤であると信じられていたからです。

中臣鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、 その時鏡王女はすでに天智天皇の子供である不比等を身ごもっていたと記した史料があるのです。
真偽はともあれ、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたことでしょう。

とすれば、天皇を天智系に戻したいと考えるのは当然のことと思われます。

実際、称徳天皇の次代の天皇として天智天皇の孫にあたる光仁天皇を押したのは、中臣鎌足の孫で藤原不比等の子である藤原百川や藤原永手でした。

雲龍院 雪2 
泉涌寺 別院 雲龍院

⑧泉涌寺には天武系天皇の位牌がない。

京都の泉涌寺には38代天智天皇、49代光仁天皇から124代昭和天皇までの位牌が安置されているそうです。
天智天皇の次の39代は弘文天皇ですが、これは壬申の乱で大海人皇子に敗れた大友皇子のことです。
大友皇子が即位していたかどうかはよくわかっておらず、弘文天皇という諡号は明治3年に追贈されたものです。
弘文天皇の位牌がないのはこのためでしょう。

あと40代から48代までの天皇の位牌がありませんが、これらは全員天武系の天皇です。
つまり天武系天皇の位牌がすっぽり抜けているのです。
こういったあたりにも天皇家(天智系)や藤原氏が天武系天皇を忌み嫌っているようすがうかがえるように思います。

雲龍院 雪 

泉涌寺 別院 雲龍院


⑨「沓が脱げる」の意味

「沓が脱げる」
というのは比喩的表現で、『天智天皇の子孫が皇位を継承できなかった。』という意味なのではないでしょうか。
また、「鎌足が天智天皇に脱げた沓を差し出した。」は「藤原氏が天武系天皇を廃し、天智系天皇が皇位継承できるようにした」という意味なのではないでしょうか。
すると「天智天皇が馬にのってでかけ、いつまでも戻らなかった」というのは「天智系の天皇が皇位につかない時代(天武系の天皇の時代)が長く続いた」という意味ではないかと思えます。

ウィキペディアの中臣氏の項目に「古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。」と書いてあります。
「天智天皇の沓のあるところに陵を造った。」という伝説も比喩的表現で、「天智系天皇を擁立した藤原氏(中臣氏)の土地である山科に天智天皇の陵を造った。」という意味ではないでしょうか。

泉涌寺-陵

泉涌寺 境内にある陵


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[2017/02/14 12:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)