京都市北区 平野神社 桜花祭 4月10日 ①百済の神を祭る神社平野神社の御祭神は今木神・久度神・古開神・比売神の4柱です。
もともとの御祭神は今木神・久度神・古開神の3柱でしたが、9世紀に比売神をあわせてまつるようになったそうです。
今木神・久度神・古開神って聞いたことのない神様たちですね。どんな神様なのでしょうか?
実は今木神は聖明王、久度神は仇首(きゅうしゅ)王、古開王は沸流王のことなのだそうです。
聖明王とは百済第26代の王(? ~554年)、仇首王(?~- 234年)。
沸流王は百済の開祖・温祚王の兄です。異伝によれば、沸流王が百済の開祖であるともいいますが。
今木神はもともとは大和国で、桓武天皇生母の高野新笠の祖神として祀られていたみたいですね。
782年には平城京の田村後宮で祀られていたようです。
高野新笠は百済系氏族の和(やまと)氏の女性だったのですね~。
平安京遷都に伴ってこの今木神を大内裏からほど近い場所に祀ったのが平野神社の創建とされます。
②今木の双墓 今木神と聞いて、私が頭に思い浮かべるのは今木の双墓です。
日本書紀によれば、蘇我蝦夷と入鹿は生前に今来の土地に双墓をつくったとあります。
奈良県御所市に今来という地名があり、大字古瀬小字ウエ山に隣り合って存在する水泥古墳と泥塚穴古墳が蝦夷、入鹿の双墓ではないかと言われていますが、時代があわないとの指摘もあります。
③今木の双墓はどこにある? 黒岩重吾さんは蘇我蝦夷・入鹿の墓、今木の双墓は梅山古墳(現・欽明天皇陵)ではないかとしておられます。
現在の梅山古墳が前方後円墳になっているのは江戸時代に改修されたためで、それ以前の絵には双円墳が描かれているというのです。
黒岩さんが見た絵と同じかどうかわかりませんが、こちらのサイトの下に古い欽明天皇陵を描いた絵が掲載されています。 →
☆ 上から見下ろした絵なら古墳の形がはっきりわかりますが、横から見た絵なので古墳の形がはっきりわかりません。
双円墳のようにも、崩れた前方後円墳のようにも見えます。
私は今木の双墓とは飛鳥にある鬼の俎・鬼の雪隠(1基の石室とする説もありますが、2基の石室とする説もあります。)もしくは高松塚古墳・キトラ古墳ではないかと考えていますが~
飛鳥の彼岸花 と 鬼の雪隠(せっちん)・鬼の俎(まないた) 『暴かれた古墳』 ④蘇我蝦夷・入鹿は今木神(聖明王)を信仰していた?それはさておき、なぜ蘇我蝦夷・入鹿はなぜ今木に双墓をつくったのでしょうか。
それは今木が今木神を祀る土地であったからではないかと思います。
蘇我氏は崇仏派でした。
そして仏教伝来は552年または538年、百済の聖明王が伝えたとされています。
崇物派の蘇我氏にとって日本に仏教を伝えた聖明王は聖人であったことでしょう。
今木神とは聖明王のことでしたね。
蘇我蝦夷・入鹿は崇拝する今木神のもとで永眠したいと考えたのではないでしょうか。
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[2018/04/03 11:00]
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加茂船屋 ひなまつり・・・JR加茂駅周辺 最近、民家を公開して雛人形を飾るというイベントが各地で行われていますが、これ、すごくいいですね!
道でうろうろしていると家の中から住民の方が、おいでおいでと手招きしてくださったり
コーヒーをいれてくださったり、雛人形のことや町の歴史のことなんかを教えてくださったり、すごく親切なんです。
今年は奈良の大和郡山と京都の加茂船屋のひなまつりイベントに行きましたが、とてもいい思い出ができました。
みなさん、ありがとうございました!
①同じ顔をした男女ペアの市松人形は双子? 雛祭りに男女の市松人形を飾ったりすることがありますね。
7段飾りや御殿飾りもいいですが、↓ こういう市松人形のペアというのもかわいいですね。
ありゃ~、男の子も女の子も同じ顔をしていますね?
ネットを検索しても男女が同じ顔をした人形のペアがたくさんでてきますよ。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%B8%82%E6%9D%BE%E4%BA%BA%E5%BD%A2+2%E4%BD%93+%E5%90%8C%E3%81%98%E9%A1%94 ↑ こちらは前回ご紹介した大和郡山市の和菓子店・菊屋さんに置かれてあった人形です。
なぜ男女ペアの人形は同じ顔をしているのでしょうか?
男女ペアの人形は双子?
②男女の一卵性双生児 男女の双子は二卵性双生児で、一卵性双生児は同性のみだと思っていましたが
ごくごくまれに、男女の一卵性双生児が生まれるそうです。
もともとはともにXY染色体をもつ男性だったのが、片方がY染色体を欠損し、その結果XOとなって女性となってしまうそうです。
よくわからないのですが(すいません~)、染色体がXOというのはターナー症候群(ターナー女性)といわれるものだではないかと思います。
身長が低かったり、第二次性徴がみられなかったり遅れたりすることがあり、まれに男女の一卵性双生児として生まれるケースがあるということです。
ですが、みなさん、ふつうに社会生活をおくっておられるそうですよ。
VIDEO または性染色体がXXYで、XまたはY染色体がそれぞれ別に落とされて、性別が異なる一卵性多胎児が生まれるというケースも考えられるとのことです。
ですが、二卵性双生児でも兄妹または姉弟なので、よく似ているということはありそうです。
ローラさんも双子のお兄様がおられますが、とてもよく似ておられます❤(美形兄妹ですね)
③お雛様は天照大神、お内裏様はスサノオ? 私はお雛様は天照大神、お内裏様はスサノオで、三人官女は宗像三女神、五人囃は五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)ではないかと考えています。
宗像三女神と五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)は
天照大神とスサノオが「うけいの子産み」をして生んだ神々です。
④うけいって何? うけいとは、『Àならば〇〇』『bならば××』のように前もって宣言を行い、ÀBいずれが起こるかでものごとを占うことを言います。
たとえば子供のころ「明日天気になあれ」といって靴を蹴り投げ、上向きに落ちたら晴れ、下向きに落ちたら雨などと占いました。
これなどもうけいですね。
⑤盟神探湯もうけいの一種? 古代には盟神探湯(くがたち)という裁判が行われていましたが、これもうけいの一種といえるかもしれません。
盟神探湯ではは煮えたぎる熱湯に手をいれて、火傷しなければ正しく、火傷をすれば正しくないと判断されました。
もちろん、これは誤った迷信的な判断法です。
⑥天照大神とスサノオのうけいの子産み 天照大神とスサノオは、スサノオに邪心があるかどうかを、生まれた子供の性別によって判定しました。
天照大神がスサノオの十拳剣をうけとってかみ砕き、ふっと息をふいたところ生まれたのが宗像三女神です。
スサノオが天照大神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」をうけとってかみ砕き、ふっと息をふいたところ生まれたのが5柱の男神です。
宗像三女神はスサノオの十拳剣から生まれたのでスサノオの子、5柱の男神は天照大神の珠から生まれたので天照大神の子とされました。
そして、スサノオの子が女神だったので、スサノオには邪心がないと占われたのです。
⑦古には兄妹婚は当たり前だった? 天照大神とスサノオは兄妹でありかつ、夫婦でもあるのです。
古には血の純潔を守るため同じ父親・同じ母親を持つ兄妹または姉弟の結婚はふつうにあったともいわれています。
細川智栄子さんの漫画「王家の紋章」でも姉のアイシスが弟のメンフィスを異性として愛していますね。
メンフィスはキャロルを愛しているので、アイシスの片思いなのですが。
引眉をして殿上眉を描き、お歯黒をした三人官女。 ④天照大神と月読命・スサノオは3つ子だった? 天照大神とスサノオは兄弟です。
黄泉の国から戻ったイザナギが禊をし、左目を洗ったところ天照大神が、右目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオが生まれたのです。
天照大神・月読命・スサノオが生まれたのは時間的に差がなく、天照大神・月読命・スサノオは3つ子だとも考えられます。
このうち月読命ななぜか記紀神話にはあまり登場しないのですが~。
同じ顔をした男女ペアの人形は雛祭に飾られるので、女は天照大神、男はスサノオの神像だと考えられます。
そして天照大神・月読命・スサノオは3つ子だと考えられるので、男女ペアの人形は同じ顔に作られるのかも?
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[2018/03/09 10:55]
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京都市上京区 大報恩寺(千本釈迦堂) おかめ節分会・・・2月3日 ①おかめ節分会この日のおかめ像は赤い傘をさし、山吹色の着物を着ておめかしをしていました。
大報恩寺になぜおかめの像があるんでしょうか。
それはここに大工の棟梁とおかめの伝説が伝えられているからです。
千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。 棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。 棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。 妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。 大報恩寺本堂 矢印が示す場所に升受けがある。 本堂の大柱を見ると、たしかに枡受けがあります。
このような伝説があるので、大報恩寺の節分会は『おかめ節分会』と呼ばれているのでしょう。
②応仁の乱の戦火をまぬがれた寺 大報恩寺は1223年、義空上人が釈迦念仏道場として開きました。
この付近は西陣と呼ばれますが、それは『応仁の乱(1467-1477)』で西軍の陣が置かれたことに由来します。
このとき千本釈迦堂にも兵火が及びましたが、奇跡的にも焼失をまぬがれました。
「応仁の乱で焼けなかったのはおかめのご利益にちがいない」と、人々は噂したことでしょうね。
③飛騨守が大工? だけど、このおかめ伝説、ちょっとひかかるんだなあ~。
それは、おかめの夫の大工の棟梁、長井飛騨守高次についてです。
飛騨守というのは役職名です。
古代から中世にかけて、朝廷は各地に国司という行政官を派遣していました。
その国司には、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの役職がありました。
つまり、長井飛騨守高次とは、飛騨守、飛騨の国司なわけです。
飛騨守という役職についている役人が兼業で大工の棟梁をやったりする?
飛騨は過疎地帯であったため、租庸調(税金)のうち庸調が免除されていました。
そのかわり、飛騨の人々は大工として挑発されたので、大工業が発達していきました。
おかめは神なので、おかめの夫の長井飛騨守高次も神なのではないでしょうか。
その大工の神を飛騨守としたのは、飛騨が大工業が発達した地域だからではないかなあと思ったりします。
④建築の神・聖徳太子 建築の神として信仰されているのは聖徳太子です。
世界最古の企業は大阪にある金剛組だといわれています。
創業はなんと飛鳥時代の578年で、四天王寺からほど近い場所にあります。
四天王寺 聖徳太子は四天王寺を創建するために百済より3人の宮大工を招きましたが、そのうちのひとり、金剛重光(柳重光)によって金剛組は創業されました。
以前、テレビで金剛組の朝礼風景を見たことがあります。
事務所には厨子が置いてあって、中に聖徳太子像が安置されていました。
社員たちは厨子の前に並び、まず聖徳太子に合掌してから朝礼を始めるのです。
金剛組の朝礼風景は、今でも聖徳太子が建築の神として信仰されていることを示していますね。
もしかして大工の棟梁・長井飛騨守高次って聖徳太子の化身じゃないの?
⑩ひょっとこは聖徳太子? おかめとペアになっている神といえばひょっとこですよね。
ひょっとこの語源にはいろんな説がありますが、その中に民話に登場するヒョウトクからくるというのがあります。
強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。 ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。 そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。 そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。 ヒョウトクという名前は聖徳(ショウトク)に似ているじゃないですか~。
⑪大報恩寺の太子堂 大報恩寺を出ようと門の方へ向かって歩いていくと、門の手前に小さなお堂がありました。
お堂の上部には、太子堂と記した額がかけられています。
お堂の額には太子堂と記されていますが、説明板は「北野経王堂 願成就寺」となっていました。
説明板には次のような内容が記されています。
1391年、明徳の乱がおこった。
1392年、足利義満は明徳の乱の戦没者を悼んで北野経王堂 願成就寺という大寺を建てた。
北野経王寺 願成就寺では、毎年10月、10日間に渡って万部経会を行って戦没者を供養していた。
江戸時代に荒廃し、1671年に解体縮小されて小堂となったのがこのお堂である。
説明板には、このお堂になぜ太子堂という額がかけられているのかの説明はありませんでした。
でも、太子って聖徳太子のことじゃないかなあ?
『ひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子』という推理はそうトンデモ説ではないかも?
北野経王堂 願成就寺に飾られたおかめ御幣(関西では上棟式におかめ御幣を用います。)
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[2018/02/04 00:00]
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北野天満宮 北野追儺狂言・・・2月3日 ①北野追儺狂言と踊念仏と鉢叩き 梅の枝を持った神職さんたちが神楽殿に登場。
神職さんと茶筅売りたちが瓢箪をたたいて謡います。
これは踊念仏ですね~。
踊念仏とは鉦・太鼓・瓢(ひょうたん)などを叩いて念仏を唱えるもので、平安時代に空也上人が始めたといわれています。
空也堂の空也忌などで現在も行われていますよ。↓
空也堂 空也歓喜踊躍念仏 また北野追儺狂言は『鉢叩き』でもあります。
空也堂の僧侶たちは鉢や瓢箪を叩きながら和讃を唱えるなどして金銭を得ていたのです。
そのため、彼らは『鉢叩き』と呼ばれていました。
特に年末(旧暦11月13日から大晦日まで)に瓢箪を叩きながら手作りの茶筅を売り歩く習慣が近年までありました。
空也堂の僧以外にもこれを行う者が出てきたようで、江戸時代には門付け芸(人家の門前で芸能を行って金品をもらうこと)となり、広く全国で行われたようです。
この習慣のことも『鉢叩き』と呼ばれています。
②節分に年末の風物詩・鉢叩きが演じられる理由 つまり、鉢叩きは年末の風物詩ということですね。
年末の風物詩である鉢たたきをなんで節分にやってるのかって?
かつての日本では旧暦と、1太陽年を24に分割した二十四節気という暦を併用していました。
で、節分とはもともとは二十四節気の立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味する言葉だったんですが、しだいに立春の前日のことをさすようになりました。
二十四節気の新年は立春(新暦の2月4日ごろ)で、立春の前日の節分は二十四節気の大晦日だったのです。
それで節分の日に年末の風物詩である鉢叩きをやっているのですね。
⑤福部の神=瓢の神?鬼が登場―――!
次に福の神が現れました。すると福の神が何をしたわけでもないのに、鬼は調伏されてしまいました。
鬼は豆をまかれてどこかへ逃げていきました。
北野天満宮の境内に福部社があります。
この福部社の神が、鬼を追い払う様子を狂言にしたものが北野追儺狂言なのだそうです。
福部社の神がお多福の面をつけているところに注目!
福部(ふくべ)は語呂合わせで、瓢(ふくべ)に通じます。
瓢とは狂言の中で茶筅売りたちがたたいていた瓢箪(ひょうたん)のことです。
そしてお多福の顔は瓢箪に似ています。
福部の神は語呂合わせで瓢の神に転じた結果、瓢(瓢箪)のような顔をしているのではないでしょうか。
さらに福部(ふくべ)=瓢(ふくべ)の神は語呂合わせから福の神としても信仰されるようになったのではないかと思います。
北野天満宮で狂言を楽しんだあとは千本釈迦堂のおかめ節分へgo!(近所です。)↓ 千本釈迦堂 おかめ節分 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
[2018/02/03 07:58]
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京都市左京区 下鴨神社 節分祭・・・ 2月3日 下鴨神社 追儺弓神事 ①的の黒丸は鬼をあらわしている?射手たちが次々に的を射ていきます。
写真を撮り忘れたんですが(すいません)、的は長方形で、赤地に黒の丸でした。
以前、テレビで同様の神事を見たことがあります。どこの神社だったかは忘れたんですが~(すいません!)
その神社ではいったん的に『鬼』という文字を書き、その文字を塗りつぶすようにして黒丸を描いていました。
下鴨神社の的の黒丸の下にも鬼という文字が隠されているかも?
下鴨神社 追儺弓神事 ②ヤタガラスを射るって罰当たりじゃない? 関東地方などで同様の神事がさかんに行われていて、鬼射 (おびしゃ)・備射(びしゃ)・飛射(むしゃ)・奉射(ほうしゃ)などと呼ばれているようです。
実際におびしゃを見たことがないのでよくわからないんですが、中にはヤタガラスを描いた的なんかもあるみたいですね。
おびしゃの的は陰陽になっていると書いてある記事がありました。
的が陰陽になっているとはどういうことなんでしょう?
表にウサギ、裏にヤタガラスが描かれているとか?(詳しい方、教えて~!)
ヤタガラスとは記紀神話に登場する三本足の大きなカラスで、初代神武天皇を熊野から大和へ道案内したとされます。
で、ヤタガラスはここ下鴨神社の御祭神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の化身だとされているのです~。
ヤタガラスは神様の化身なんですね。
そのヤタガラスを矢で射るってなんか罰当たりのように思えませんか?
下鴨神社 追儺弓神事 ③ヤタガラスは鬼だった? ①で的の黒丸は鬼をあらわすのではないかと書きました。
すると、下鴨神社の追儺弓神事の的に描かれたヤタガラスも鬼?
ヤタガラスを化身とする賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)も鬼?
下鴨神社は鬼を祀る神社なんでしょうか?
④ヤタガラスとは鎮められた死霊だった。 古事記には死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立ったという記述がありますし
鳥たちがアメノワカヒコの葬儀を執り行うという記述もあって、鳥は死のイメージが強いです。
またササキという鳥がいますが、これに御をつけるとミササギ(陵)となりますね。
↑ 全長103メートルのナガレ山古墳です。このくらいの大きさだったら、地上からでもなんとなく形がわかるんですが・・・
↑ 全長840メートルの仁徳天皇陵(木が生い茂って丘のように見える部分)は境市庁舎21階展望ロビーから見ても、ぜんぜん前方後円墳だとはわかりません。
ですが鳥が仁徳天皇陵の真上に飛び上がって見下ろしたとすると、前方後円墳の形がはっきりとわかりますね。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。 Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で ⑤怨霊をまつりあげると和霊になる。 陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀ればご利益を与えてくださる和霊に転じると考えるそうです。
すなわち、ミサキ神とは、元怨霊であったが、慰霊されて和霊に転じたものだということでしょう。
⑥数字の8は復活を意味している? 梅原猛さんは数字の8は復活を意味する数字だとしておられます。
八咫鏡は死んだ天照大神を復活させた鏡。
八角墳や八角堂は死んだ人の魂の復活を願って作られたものであるというのです。
八角堂 (法隆寺 夢殿)https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AHoryu-ji36s3200.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/39/Horyu-ji36s3200.jpg よりお借りしました。 作者 663highland (投稿者自身による作品) [GFDL ( http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html ), CC-BY-SA-3.0 ( http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/ ) または CC BY 2.5 ( http://creativecommons.org/licenses/by/2.5 )], ウィキメディア・コモンズ経由で ⑦天照大神は怨霊だった? さきほど八咫烏とは死霊が鎮められたミサキ神であるとお話ししました。
鎮める必要がある死霊とは、怨霊でしょう。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊によってひきおこされると考えられていました。
さらに、八咫烏とは復活した太陽神だと考えられるので、太陽神・天照大神は怨霊だということになります。
下鴨神社 古神符焼納神事 ⑧本当の天照大神とはニギハヤヒだった? 「えーっ、天照大神って天皇家の祖神やん~。天皇家の祖神が怨霊?」
とかいう声が聞こえてきそうです。
初代神武天皇より早く、ニギハヤヒという神が天下っていたと記紀には記されています。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、畿内には物部王朝があったのではないかとする説があります。
そして先代旧事本紀ではニギハヤヒは天照國照彦天火明櫛饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、ニギハヤヒが本当の天照大神だとする説があって、私はこれを支持しています。
磐船神社 ご神体 天の磐船 (ニギハヤヒはこの船を操ってここに天下ったとされます。) 天皇家の祖神の天照大神が女神というのがミソです。
記紀神話には入り婿になる話が多いです。
天照大神の孫のニニギは葦原中国に天下ってオオヤマツミの娘のコノハナサクヤヒメと結婚していますし
ニニギとコノハナサクヤヒメの間に生まれたホオリ(山幸彦)は竜宮に行き、海神の娘・トヨタマヒメと結婚しています。
神武は九州から東征して畿内にやってきて、物部王朝の女性と結婚したのではないでしょうか。
天照大神が物部王朝の神で男神であるとすれば、男性の神武は同性の天照大神と結婚することができません。
当然、神武の子孫は天照大神の血をひいていないので、天照大神の子孫を名乗ることができませんね。
ですが天照大神を女神とし、神武がその女性と結婚したとしましょう。
神武の子孫の母親は天照大神なので、神武の子孫が天照大神の子孫と称してもウソではないということになります。
こんなストーリーが思い浮かびます。
物部王朝の王はだいだい天照大神としてあがめられる習慣があった。 九州から東征してやってきた神武は巧妙な手口で物部王朝の王を女性にした。 こうして天照大神は女神となった。 神武は天照大神とあがめられる物部王朝の女王と結婚し、入り婿となることで政権を物部氏より奪い取った。 なんか邪馬台国を思い出しますね。
邪馬台国の女王・卑弥呼には男弟があったということですが、本来ならばこの男弟が王となるべきところを女王がたっています。
魏志倭人伝は女王は独身だと伝えますが、その一方で卑弥呼には宗女・トヨがいるとしています。
宗女・トヨがいるということは女王は結婚していたのではないでしょうか。
その相手が神武?
こちらの記事もお読みいただけると嬉しいです。↓
崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 ※ 初代神武、第10代崇神は和風諡号がどちらも「ハツクニシラス」で同一人物ではないかといわれています。
天照大神や復活した太陽神八咫烏は天皇家の神ではないので、弓で射たりするのではないでしょうか。
いくらなんでも天皇家の祖神を弓で射たりはしないと思います。
下鴨神社 古神符焼納神事 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
[2018/02/02 16:37]
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京都市東山区 粟田神社 粟田祭 神幸祭 体育の日 ①粟田神社のふたつの創建説話粟田神社にはふたつの創建説話が伝えられています。
a.876年、神祇官と陰陽寮が「今年、兵災があり、秋には疫病が流行るでしょう」と占ったため、清和天皇は全国の神社に祈祷を命じました。 この際、出羽守・藤原興世は感神院祇園社(現在の八坂神社)に祈願しました。 満願の夜、興世の枕元に大己貴神(大国主命の別名)があらわれ「祇園の東北に我を祀れば、国家と民は安全になるだろう。」と告げました。 こうして粟田神社が創建されました。 b.粟田氏が氏神として粟田神社を創建した。 ②皇別氏族・粟田氏 粟田氏は第5代孝昭天皇の皇子・天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命を始祖とし、大和の添上郡(奈良市東部)や,山城の愛宕郡粟田郷(京都市東山区)などに住んでいたそうです。
粟田神社は京都市東山区粟田口鍛冶町にあり、粟田氏はこの粟田神社付近に住んでいたと考えられます。
皇別氏族ぐらいになると氏神(祖神)を祀るくらいのことはしそうです。
だけど、aの創建説話では粟田神社は藤原興世が創建したということになっていますね。
③藤原氏の土地乗っ取り伝説 藤原氏には土地を乗っ取ったというような伝説がいくつかあります
c.武甕槌命は春日野の地主である榎本の神に『この土地を地尺だけ譲ってほしい』と言いました。 榎本の神は『三尺くらいなら』と承諾しました。 ところが武甕槌命は広大な土地に囲いをしたので、榎本の神は『話が違う』と抗議しました。 武甕槌命は『私は地下三尺と言ったのに、あなたが聞き取れなかったのです。』といっいました。 しかし榎本の神が住むところがないと困るので、春日大社本殿のすぐそばに社を作りました。 藤原氏の氏神は春日大社で、タケミカヅチ・フツヌシ・アメノコヤネノミコト・ヒメガミを祀っています。 タケミカヅチ・フツヌシ・アメノコヤネノミコト・ヒメガミの四柱の神は総称して春日明神と呼ばれています。 つまり、春日大社の神=藤原氏の神が榎本の神の土地を奪ったということになると思います。d.氷室の神さまの土地に、春日の神さまが若宮祭のお旅所を作ったため、相撲をとって決着をつけた。 ④鞍馬寺は紀氏の寺だったのを藤原氏が奪った?鞍馬寺にはこんな創建説話が伝えられています。
e.藤原伊勢人の夢の中に貴船の神が現れ、鞍馬寺をつくるようにと言った。 貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。
賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないかと思います。
ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。
平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。 紀氏の神が、藤原氏に寺を作れ、なんて言うもんですかね?
どうやら貴船神社は紀氏の神を祀る神社だというのが真実のようです。
どうも鞍馬寺ももともと紀氏の寺だったのを、のちに藤原氏に奪われたように思えます。
⑤八坂神社は牛頭天皇の総本社ではなかった? 粟田神社の南にある八坂神社は牛頭天皇の総本宮を称していますが、兵庫県姫路市の広峰神社(兵庫県姫路市広嶺山52)もまた牛頭天皇の総本宮を称しています。。
広峰神社側の資料には次のようにあります。
①869年疫病が流行り、藤原基経が播磨国の牛頭天皇を都に勧請した。
②京都四条にある元祇園梛神社(京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2)は、この時、牛頭天王の乗る御輿を梛の林中に置いて祭ったことが始まりである。
③京都に着いた牛頭天王は北白川の東光寺に祭られた。 ④その後、藤原基経が八坂にあった邸宅を寄進して感神院祇園社を建立し、牛頭天王を遷座した。 ⑤しかし疫病はおさまらず、広峯神社の社人を都に招いて白幣祭を行わせたところ疫病はおさまった。 ⑥この白幣祭が祇園御霊会のルーツである。
また神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などは、神様を廣峯神社から八坂神社へ移した際に神様が休憩された所と伝わっています。
八坂神社は鎌倉時代に入ってから広峯神社が言い出したことだとしているようですが、神様が休憩された所まで残っているので
廣峯神社の言い分のほうが筋が通っているように思えます。
こんなに藤原氏が土地や神を奪ったというような伝説があるところをみると、粟田神社は粟田氏の氏神を祀る神社だったのに、あとから藤原氏が土地と神様を奪ったんじゃないかなあ、と疑ってしまいます。
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[2017/10/13 11:12]
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京都市上京区 晴明神社 晴明祭・・・秋分の日 ① 晴明は鬼の幻覚を見たの? 平安時代の陰陽師・安倍晴明は夢枕莫さんの小説や岡野玲子さんの漫画で有名ですね!
最近ではフィギュアスケータ―の羽生結弦さんが演じる『『SEIMEI』がフィギュアスケートファンを痺れさせています。
安倍晴明には様々な超人めいた伝説が伝えられています。
その伝説のひとつにこんなのがあります。
晴明は幼少のころ、賀茂忠行に陰陽道を学んでいました。 ある夜、晴明は忠行の供をして下京辺りを通りかかりました。 忠行が眠り込んでいる牛車の後を晴明は歩いていたのですが、ふと見ると鬼の姿が見えました。 晴明は忠行を起こして鬼を見たことを告げました。 忠行は車を止めさせ、法術で鬼から姿が見えないようにしました。 そして晴明を陰陽師の才能ありとして陰陽道のすべてを教えました。うーん、これはまあ、作り話か、事実であるとすれば晴明は幻覚を見たということではないでしょうか。
②賀茂氏はトリカブト氏?いつもトンデモ説の話ばかりしていますが、今回は特にトンデモ度が高いので、さらーっと聞き流してくださいね。
間違っても事実だなどと考えないでねー。
賀茂氏は安倍氏と並ぶ陰陽道の宗家ですが、賀茂という名前にちょっとひっかかるんですよね。
賀茂氏は鴨氏と記されることもありますが、鴨という漢字を分解すると甲+鳥となりますね。
これを右からよむと「トリカブト」となります。
トリカブトという植物がありますが、これは大変な猛毒で、少しの量で死にいたってしまいます。
トリカブトは別名「附子(ブス)」といいます。
ちなみに容姿の醜い女性をブスというのは、トリカブトに含まれるアコニチンにより、顔の表情筋が付随となってしまうことに由来するといわれます。
鴨氏という名前の由来は、このトリカブトと関係ないでしょうかね~?
③陰陽師は薬物のプロフェッショナルだったりする? 賀茂忠明の弟子だった安倍晴明には、鬼を見たという話以外にも超人的なことをしたという話がたくさん伝えられています。
陰陽師は天文学・暦学などのプロフェッショナルですが、トリカブトなど薬物のプロフェッショナルでもあったとしたら、超人的な伝説のいくつかはとけるかもしれません。
③晴明の不思議伝説はやばい薬によるものだったりする?晴明が鬼を見たというのが幻覚であったなら、それは幻覚作用をもたらす朝鮮朝顔から作ったやばい薬をやっていたことが原因かもしれません。
(ちなみに大麻に幻覚作用があるというのは間違いだといわれています。)
その他、晴明は式神を家事に使っていたとか、手を使わずに蛙をぺちゃんこに潰したなどの伝説があります。
これらももしかしたら薬による幻覚だったのかも?
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[2017/09/28 21:56]
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都市右京区 車折神社
重陽祭・・・9月9日
9月9日は重陽の節句です 。
①なぜ車折神社という神社名なの? 車折神社は清原頼業(きよはらのよりなり/1122~1189年/平安時代の貴族・儒学者)の廟があった場所とされます。
その後、清原頼業の法名にちなむ寺・宝寿院が建立されたそうです。
清原頼業の廟は桜の宮と呼ばれていました。
その後、後嵯峨天皇〈1220~1270)が桜の宮の前を通ったところ、牛が動かなくなり牛車の轅(ながえ)が折れたので、清原頼業の霊に「車折大明神」の神号と「正一位」の神位を贈ったということです。
轅とは牛車の前方に長く突き出ている2本の棒のことです。
またある人が牛車に乗って宮前を通ったところ、車が避けてしまったため、車折神社という神社名がつけられたとも伝わります。
車折って『八つ裂きの刑』という意味なんですけどね~。
参照/
車折神社 桜 大酒神社 木漏れ日 『八つ裂きの刑神社と極刑神社?』 ※追記あり 重陽の節句は菊の節句とも呼ばれます。 ②承久の変で流罪となった上皇たちと天皇88代後嵯峨天皇は83代土御門天皇の皇子で、82代後鳥羽天皇の孫にあたる方です。
1221年、後鳥羽天皇(このとき土御門天皇に譲位していたので正しくは後鳥羽上皇)は兵を招集して鎌倉幕府の執権・北条義時を追討しようとしました。(承久の変)
しかし幕府軍に敗れて隠岐の島に流罪となってしまいました。
後鳥羽上皇の皇子の順徳上皇は変に関与したとして佐渡島に流罪。
83代土御門上皇は変に関与していませんでしたが、自ら望んで土佐国への流罪を受けられました。
当時の天皇は順徳天皇の皇子の85代仲恭天皇でしたが、廃されました。
そして後鳥羽天皇の同母兄・守貞親王(後高倉院)の皇子の後堀河天皇が86代天皇として即位し、守貞親王が院政を行うことになりました。
その後、後堀河天皇の皇子の四条天皇が即位しました。
文章だとややこしいですが、系図を見るとぱっと理解できると思います。
③後嵯峨天皇はなぜ即位することができたのか? 繰り返しまーす。
後鳥羽上皇は承久の変で幕府軍に負けて流罪となり、後鳥羽上皇の皇子の土御門上皇・順徳上皇は流罪。
後鳥羽上皇の孫で順徳上皇の皇子の仲恭天皇は廃されました。
後鳥羽上皇の同母兄の後高倉院の皇子・後堀河天皇が即位し、続いて後高倉院の孫で後堀河天皇の皇子・四条天皇が即位。
そのまま後高倉院の子孫が皇位を継承すると思いきや、四条天皇の次にはなんと流罪となった土御門天皇の皇子の後嵯峨天皇が即位しています。
そう、後嵯峨天皇は車折神社の由緒に登場する方ですね。
なぜ後嵯峨天皇は即位することができたのでしょうか?
菊のしずくを飲んで700歳の長寿を得た菊滋童の説話から、不老長寿を祈ります。 ④平城上皇のとばっちりを受けて臣籍降下した在原業平 薬子の変(嵯峨天皇vs平城上皇)のケースでは、敗れた平城上皇は出家、平城上皇の皇子の阿保親王は太宰府に流罪となりました。
阿保親王は許されて都に戻ったのち、子供の臣籍降下を申し出ています。
おそらく阿保親王は子供の臣籍降下を申し出ることで、朝廷に逆らう気持ちがないことを示そうとしたんでしょうね。
この阿保親王の子供が在原業平です。
つまり在原業平は本来であれば天皇になってもおかしくはない高貴な生まれであったのに、祖父・平城上皇のとばっちりを受けて臣籍降下したわけです。
後嵯峨天皇は在原業平と同様の境遇であったといえます。
祖父の後鳥羽上皇が変をおこし敗れて流罪、父・土御門天皇は流罪となったわけですから。
それなのに後嵯峨天皇は即位しています。
⑤四条天皇急死、後鳥羽上皇の血統から天皇を選ぶ 土御門天皇が流罪となったのち、後嵯峨天皇は母方の大叔父・土御門定通に育てられました。
土御門家は没落し、貧しい生活を送ったようです。
1242年、四条天皇が12歳で崩御してしまいました。
もちろん四条天皇に子供はありませんでしたし、男兄弟もいませんでした。
四条天皇の父・後堀河天皇の兄弟は全員出家していました。
そこで後鳥羽上皇の血統から天皇を選ぶことにしたというのです。
九条道家らは順徳天皇の子の忠成王を天皇に押しました。
一方、北条氏は承久の変にかかわった順徳天皇の子を皇位につけるのはよくないといて、承久の変にかかわらなかった土御門天皇の皇子・後嵯峨天皇を推したのです。
うーん、でも後堀川天皇の出家した兄弟を還俗、即位させると言う方法もあったはずです。
桓武天皇の同母弟の早良親王は出家していましたが、還俗して桓武天皇の皇太子となっていますね。
早良親王は藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となったので、即位することはなかったんですが~。
実は北条氏は後嵯峨天皇と親戚でした。後嵯峨天皇の養父・土御門定通の側室が北条重時の同母妹だったのです。
それで北条氏は後嵯峨天皇を天皇につけたいと思っていたのではないでしょうか。
楽人たちも菊の簪をつけています。⑥後嵯峨天皇、四条天皇を呪う? 車折神社にはふたつの伝説がありましたね。
a.後嵯峨天皇が桜の宮の前を通ったところ、牛が動かなくなり牛車の轅(ながえ)が折れたので、清原頼業の霊に「車折大明神」の神号と「正一位」の神位を贈った.
b.またある人が牛車に乗って宮前を通ったところ、車が避けてしまったため、車折神社という神社名がつけられた。
私はもともとの伝説はbだったのではないかと思います。
車折神社 桜 大酒神社 木漏れ日 『八つ裂きの刑神社と極刑神社?』 ※追記あり ↑ こちらの記事に書いたように、車折神社は秦氏が祭祀する神社で、神社名は『八つ裂きの刑』からつけられたものであったのではないでしょうか。
御祭神は広隆寺の近くにある大酒神社と同じ秦酒公だったかも?
ちなみに大酒神社はもともとは大闢神社といいましたが、大闢とは極刑という意味です。
そしてその後、車折神社に清原頼業の廟がつくられたので、御祭神が清原頼業に変わってしまったとか?
北野天満宮なども、もとは別の神が祀られているところに祀られ、境内にはもともとの神を祀る地主神社があります。
で、北条氏か御嵯峨天皇がこの車折神社に祈願をしたのではないかと思うのです。
「四条天皇が崩御しますように!そうすれば御嵯峨天皇が次期天皇になれる!」と。
その呪いがかなえられて、四条天皇は崩御したと考えられたのではないでしょうか。
つまりb.の伝説の「ある人」とは四条天皇のことであり、「牛車の車が裂けた」とは「四条天皇が崩御し、後堀河天皇~四条天皇と続く血統が絶える」ことの比喩ではないかと思うのです。
菅原道真の死体を牛車に乗せて運んだところ、突然牛が動かなくなったので、その地に道真の遺体を葬ったという伝説もあります。
牛車をひく牛が動かなくなるというのは、死を暗示しているようにも思えます。
a.のほうの伝説は、本当は御嵯峨天皇は「四条天皇が乗っている牛車が裂けるように祈願していた」とするのが正しいのに、いつのまにか話がひっくり返り「後嵯峨天皇の乗っていた牛車の轅が折れた」と話がひっくり返ってしまったのではないでしょうか?
菊酒 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
[2017/09/11 19:59]
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京都市左京区 江文神社 八朔踊・・・ 9月1日に近い土曜日 夕刻より子供さんたちの八朔踊が始まりました。 ①八朔は『田の実の節句』 八朔とは旧暦の8月1日のことですね。
旧暦は新暦より約一か月遅れとなるので、新暦換算すると9月ごろが八朔です。
八朔は早稲の穂が実るころです。
江文神社の近くの田んぼでも稲が実っていましたよ。
農民の間には、お世話になった人々へ初穂をお贈る風習がありました。
初穂=田の実ということで、八朔は『田の実の節句』と言われることもありました。。
『田の実』は語呂合わせで『頼み』に通じるので、武家や公家の間でも、八朔に贈り物をする習慣が生じたと考えられています。
②八朔踊地域の氏神の祭祀に携わる村落内の組織のことを宮座といいます。
八朔踊はそういった宮座行事です。
江文神社の宮座には長男は15歳、次男以下は17歳で加入するのがしきたりで、主にそういった若い青年たちによって踊られます。
午後8時ごろより青年たちによる八朔踊がはじまりまーす。 ③道念音頭は声明と関係ある?曲は道念音頭といって楽器を用いない独特のものです。
道念の意味を調べてみたところ、①道徳の観念、②道義心・求道心。③僧侶の妻。とありました。
道念音頭の道念は②の道義心・求道心を意味しているのではかと思います。
[高画質で再生] 江文神社 八朔踊 [
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VPS 道念音頭を歌っていた素敵なお嬢さんが歌詞を記した冊子を見せてくださいました。(ありがとうございます!)
恋人たちが京都めぐりをする歌だということでした。
いいですね~。たまにはカメラ持っていかずに京都でデートしたい!
(カメラ持っていくと写真撮るのに夢中になって、男は二の次になってしまう~)
えー、ここ大原は昔から融通念仏や天台声明が盛んに行われていました。
声明とは仏典に節をつけたもののことです。
VIDEO 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
日本版アカペラのゴスペルというべきか…。美しいですね!
アカペラで歌う道念音頭は、この声明と関係ないですかね?
④大原雑魚寝 かつて江文神社には節分の夜に雑魚寝する習慣があって大原雑魚寝と呼ばれていました。
むかし井出(かつて江文神社のあたりの地名を井出といった)の大淵に大蛇があらわれて人を食べるので、村中の男女は節分の日に江文神社の拝殿に参籠したといわれています。
そして、この夜にどのような情事があっても見逃したということです。
残念ながらというべきか(笑)、この習慣は明治以前に禁止になりました。
古代の日本には歌垣と呼ばれるフリーセックスの習慣があり、そのようすが歌にも詠まれています。
……率(あども)ひて 未通女壮士(おとめおとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ刊歌(かがい)に 人妻に 吾(あ)も交はらむ 吾が妻に 人も言問(ことと)へ……(高橋虫麻呂) 大原雑魚寝はこの歌垣の伝統をひきつぐものであったのかもしれませんね。
⑤歌垣や大原雑魚寝は荒霊と和霊を和合させる呪術だった?歌垣は単なる乱交パーティーではなく、信仰からくる習慣ではないかと思います。
神はその現れ方によって、御霊(神の本質)、荒魂(神の荒々しい側面)、和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれます。
そして男神は荒魂、女神は和魂をあらわしているのではないかとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。
御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神 聖天さんという像頭・男女双体のみほとけがいます。
VIDEO 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!
聖天さんには次のような伝説があります。
インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。 牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 群臣や人民が王に反旗を翻すと、 王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。 そ の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。 そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。 女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 聖天さんは仏教の神ですが、江戸時代まで神仏は習合されて信仰されていました。 この聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。
御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天) 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神) 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)つまり、荒魂と和魂を和合させて男女双体の神とすることが、荒魂を鎮めて御霊とする呪術ではないかと思うのです。 歌垣や大原雑魚寝はそういった呪術的意味合いから行われていたのではないでしょうか? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村 続きを読む
[2017/09/04 23:13]
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京都市右京区 梅宮大社 嵯峨天皇祭・・・8月最後の日曜日嵯峨天皇祭の目玉はなんといっても梅津六斎会による六斎念仏~♪
①越後さらし 六斎念仏の演目のひとつ、『越後さらし』。
細長い白い布を両手で持ち、激しく振り回すと、布は様々な形に変化します。
あるときは波のように、あるときは龍のようにも見えます。
新潟県新潟市南区(旧西蒲原郡月潟村)を発祥とする大道芸に『越後獅子』があります。
越後獅子を六斎の演目としている六斎会もあります。
『越後さらし』は『越後獅子』のフィナーレとして最後に行われていました。
六斎念仏の『越後さらし』はこの『越後獅子』から独立させたものだと思います。
②雪さらしの漂泊効果越後の伝統工芸・越後上布を作るのにかかせない作業として雪さらしがあります。
雪は溶けて水となり、さらに水は気化して水蒸気となります。
そこへ直射日光が照りつけ、また雪が日光を反射して、水蒸気が強い紫外線を受けると、水蒸気(H2O)の一部が水素(H)と酸素(O)に解離します。
この酸素(O)はオゾン(O3)または酸素ガス(O2)となりますが、オゾンには漂白作用があり、雪さらしをすることによって布が漂白されるのです。
先人たちのすばらしい知恵ですね!
VIDEO 動画お借りしました。
動画主さん、ありがとございます。
長い布の端を二人で持って雪の上で振っていますね。
越後さらしとはこれをモチーフにしたものではないかと思います。
③振ることは浄めの儀式だった? ↑ 祗園祭の綾傘鉾の棒振りです。
大昔にネガで撮影したものを安物のスキャナーで読み取ったものなので画質が悪くてすいません。
棒振りとは赤熊の髪形をした者がバトントワラーのように棒を振るパフォーマンスのことで、こうすることで道を浄めることができるとされています。
どうやら振るということにはその場を浄めるという意味があるようです。
↑ こちらは松尾大社で行われた嵯峨野六斎会「祇園囃子」の棒振り。
雪さらしをして布を真っ白にする様子を表現していると思われる「越後さらし」の演目には浄めの神事という意味合いがあるのではないでしょうか。
梅津六斎会にも「祇園囃子」の演目はありますが、棒振りはなかったと思います。(京都にはいくつかの六斎会があり、六斎会によって行う演目が異なります。また同じ演目でも内容が少しづつ違っています。)
↑ 祇園囃子のひょっとことおかめ
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[2017/08/31 16:08]
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京都市右京区京北小塩町 上げ松・・・8月23日に近い土曜日 百日紅が咲く静かな里・小塩
①小塩の上げ松 前回の記事
広河原 松上げ 『松上げはなぜ地蔵盆に行われているの?』 で『松上げ』の行事についてご紹介しましたが、
同様の行事を『上げ松』と言う地域もあります。
美山町の盛郷・川合・殿、そして京北小塩町では『上げ松』と言っています。
綱をひっぱって燈篭木(とうろぎ)を立てます。
↑ 松明。これに火をつけ、くるくる回して燈篭木のてっぺんに取り付けた「もじ(逆円錐形に杉葉等を詰めたもの)」をめがけて放り投げるんですね~。
田んぼの周囲にはたくさんの空き缶を利用したランタンがぶら下げられていて手作り感があふれています。
夕日に照らされて山が赤く染まり
谷間には鮮やかな夕焼雲が。
午後8時ごろより、上げ松の行事が始まります。
空き缶ランタンに火がともると空き缶とは思えない美しさ~!(写真下部の点状の光が空き缶ランタン)
②お盆とペルセウス座流星群 8月1日は釜蓋朔日といい、地獄の釜が開く日とされます。
そしてご先祖さまの霊が地獄からこの世に戻ってくると信じられていました。
お盆(旧暦7月1日~15日ごろ、新暦では8月1日~15日ごろ)の時期はペルセウス座流星群(新暦7月20日ごろから8月20日ごろ。8月13日がピーク)が観測される時期と重なっています。
古の人々は星を死んだ人の霊、たくさんの流星がふる様子を死んだ人の霊がこの世に戻ってくると考えて、お盆の習慣が生じたのではないかと私は考えています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ALeonidas_sigloXIX.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Leonidas_sigloXIX.jpg よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
上はしし座流星群を描いた絵ですが、写真の松上げの様子に似ていませんか。
ただし、流星が上から下に流れるのに対して、松上げは下から上に放り投げられます。
松上げはお盆(8月1日~8月15日ごろ)に流星になって戻ってきた死者の霊を、地蔵盆である8月24日に天に戻す行事ではないかと私は考えました。
④地獄が天上にあるのは変?うーん、でも地獄や黄泉の世界は地下にあるんですよね。
地獄の釜が開いて死んだ人の霊が空から流星になって戻ってくるって変かも?
もしかして私の考えは間違ってる?
それがずっと心にひっかかっていました。
地獄は鍾乳洞のイメージ? 詳しくはこちらの記事を読んでね。↓ 洞川温泉 面不動鍾乳洞 『鍾乳洞は黄泉の国?』 ⑤「読」は「黄泉」と同音 月の神の名前は月読命といいます。
太陰暦は月齢をベースにした暦で、月を見れば今日が何日かわかります。
月が三日月なら3日、半月なら7日、満月なら15日というふうに。
月読命の「読」とは、このように月を読んで日にちを知るところからくる言葉ではないかと思います。
しかし、同時に「読」は「黄泉」と同音で、月は黄泉の国を表しているようにも思えます。
北野天満宮 三光門 月とうさぎ ⑥根の国の王・スサノオは星の神?天照大神・月読命・スサノオはいずれもイザナギの子として生まれました。
イザナギは「天照大神は高天原を、月読命は夜の食国を、スサノオは大海原をおさめよ」と言っています。
ところが記紀神話にはスサノオが大海原をおさめたという記述がありません。
スサノオは海の神ではなく、根の国の王として登場します。
記紀神話には海の神として海神が登場し、スサノオと海神は同一神と考えられたりもしていますが。
船場俊昭さんは次のようにおっしゃています。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。
根の国とは黄泉の国と同様のものと考えられています。
ということは、根の国の王=黄泉の国の王=星の神であると考えられると思います。
⑦スサノオは星の神から黄泉の神へと神格を変えられた? またイザナギに「夜の食国をおさめよ」と命じられた月読命は、記紀神話の中にあまり登場しません。
日本書紀では月読命は天照大神に命じられて保食神のもとへ行きますが、保食神が口から出したもので月読命をもてなそうとしたため、「けがらわしい」と怒って保食神を殺してしまったとあります。
古事記では食物の神・オオゲツヒメが口や尻から出したものでスサノオをもてなそうとしたので、怒ったスサノオがオオゲツヒメを殺したと言う話があります。
もともと夜の食国=黄泉の国=根の国をおさめていたのは月読命だったのではないでしょうか。
それをのちに、星の神であるスサノオを夜の食国=黄泉の国=根の国の神へと神格を変えたのが古事記の物語のように思えます。
⑧古の人々は空は地球の周囲を回転していると考えていた? もしかして、古代の中国や日本では空は地球の周囲を回転していると考えられていたのではないでしょうか。
空が地球の周囲を回転していると考えないと、西に沈んだ太陽が、翌日東から昇ってくるのはなぜなのか、納得できないと思うんですよね。
そして、地獄=黄泉の国=根の国は日中は地下(地球の下)にあるが、夜になると天上に昇ってくると考えられていたのかも?
⑨地獄の釜とは月のことだった? だとすれば、釜蓋朔日(旧暦7月1日)に開く地獄の釜とは月のことではないでしょうか。
朔日とは新月のことで月齢は0です。
このときほとんど月は見えませんが、この日からどんどん月は膨らんでいくので、朔日は地獄の釜が開く日だといってもよさそうです。
そして旧暦7月15日は満月で、地獄の釜が最大に開く日です。
ペルセウス座流星群はこの開いた月の釜の中から、地上に向けて飛んでくると考えられたのではないでしょうか。
燈篭木は15メートルもあるので、燈篭木の先端の『もじ』に松明を乗せるのはたいへんです~。
やっと『もじ』に松明が届きましたよ。
大きな炎が上がってすごい迫力でした!
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[2017/08/30 17:19]
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京都市左京区広河原 広河原松上げ・・・8月24日 ①広河原 松上げ お盆のころ、松上げという行事を行う地域があります。
以前、花背や雲ヶ畑の松上げをご紹介しました。
花背 松上げ 『お盆と人形流しとペルセウス座流星群』 雲ヶ畑 松上げ 『あちこちにある惟喬親王の隠棲地』 今回は広河原の松上げの写真をご紹介しま~す。
河原に立てられた無数の竹に松明を取り付けていきます。(地松) ①愛宕信仰にちなむ行事 松上げは京都市右京区の愛宕神社の信仰にちなむ行事だといわれています。
松上げの行事は主に京都~丹波~若狭にかけて行われていますが、それはこれらの地域が愛宕信仰の厚い地域だったということではないかと思います。
また山間部に多いところから、山火事を防ぐため、火伏の神である愛宕の神に祈願するという目的があったと考えられています。
太鼓と鉦が鳴り響く中、 保存会の方々が手に持った松明をくるくる回し燈籠木をまがけて松明を放り投げます。 ②愛宕の神は勝軍地蔵と習合されていた。 花背の松上げは8月15日ですが、多くの松上げは8月24日に行われます。
雲ヶ畑や広河原の松上げも8月24日です。
8月24日は地蔵盆ですね。
なぜ松上げは地蔵盆に行う地域が多いのでしょうか?
愛宕の神(愛宕権現)は勝軍地蔵と習合して信仰されていました。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cd/Atago_Gongen.png よりお借りしました。
作者 Hidenobu Tosa, 土佐秀信 (
http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/316/index.html ) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
勝軍地蔵とは、役小角が泰澄と京都の愛宕山に上った際に現れたとされる地蔵菩薩です。
勝軍地蔵は龍樹菩薩・富楼那尊者・毘沙門天・愛染明王を伴って大雷鳴とともに現れたそうですよ。 清水寺の延鎮が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天に坂上田村麻呂の戦勝祈願を行ったとも伝えられます。 どうも勝軍地蔵とは戦勝祈願にご利益があると信仰された地蔵のようですね。 愛宕の神はこの勝軍地蔵と習合されているため、地蔵盆に松上げを行うのではないでしょうか。 松明が 燈籠木の上に乗って燃え始めました。 ③地蔵菩薩は閻魔大王と同体 さらに地蔵菩薩は閻魔大王と同体だと言われます。 閻魔大王は死者を裁く地獄の裁判官です。 一方、地蔵菩薩は地獄で亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けて下さるみほとけとされます。 なんで閻魔大王と地蔵菩薩が同体? 正反対やん? 閻魔大王は亡者を裁いた分だけ、自らも同じ地獄の責め苦を受けると言われています。 ということは、閻魔大王も地蔵菩薩も、どちらも地獄の責め苦を受けるわけで、なるほど両者は同体なのだと納得です。 鬼来迎の閻魔大王(広済寺)④松上げはなぜ地蔵盆(8月24日)に行われることが多いの? 8月1日は釜蓋朔日といい、地獄の釜が開く日とされます。 そしてご先祖さまの霊が地獄からこの世に戻ってくると信じられていました。 お盆(旧暦7月1日~15日ごろ、新暦では8月1日~15日ごろ)の時期はペルセウス座流星群(新暦7月20日ごろから8月20日ごろ。8月13日がピーク)が観測される時期と重なっています。 古の人々は星を死んだ人の霊、たくさんの流星がふる様子を死んだ人の霊がこの世に戻ってくると考えてお盆の習慣が生じたのではないかと私は考えています。https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ALeonidas_sigloXIX.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Leonidas_sigloXIX.jpg よりお借りしました。 作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 上はしし座流星群を描いた絵ですが、写真の松上げの様子に似ていませんか。 ただし、流星が上から下に流れるのに対して、松上げは下から上に放り投げられます。 松上げは流星になって戻ってきたご先祖様の霊を天に戻す行事のように思えるのです。 詳しくはこちらの記事をお読みください。↓花背 松上げ 『お盆と人形流しとペルセウス座流星群』 さらに地獄の裁判官・閻魔大王と地蔵菩薩は同体とされるので、地蔵菩薩の縁日である8月24日に死んだ人の霊を地獄に戻す行事として松上げは行われているのかも?最後は保存会の方々が綱で 燈籠木をひっぱって倒します。
松上げが終わると観音堂で盆踊りが始まります。 腰をまげて踊るしぐさが色っぽい~。 殿方も行列を作って観音堂にやってきます。 まだまだ盆踊りは続きます。※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
[2017/08/28 14:38]
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①黒主山 7月24日は祇園祭後祭の山鉾巡行がありますね。
後祭で巡行する山鉾のひとつに黒主山があります。
17日の前祭山鉾巡行と24日の後祭山鉾巡行は逆回りで巡行するんですね。
写真は数年前に撮影したもので、このとき後祭山鉾巡行は行われていませんでした。
24日、黒主山は写真とは逆向きで巡行することになります。
上の写真ではわかりにくいのですが、桜の木の下には花を見上げる老人の人形が置かれています。
下の写真は後祭宵山で撮影した黒主山の御神体・大友黒主です。
②謡曲志賀と古今和歌集仮名序・真名序 黒主山は謡曲・志賀をテーマにした山です。 今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む大友黒主に出会います。 黒主は和歌の徳を語って消え去ります。(志賀) 古今和歌集仮名序は大友黒主について次のように記しています。
大友黒主は そのさまいやし いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし (大友黒主はその様子が賎しい。 薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。) 謡曲「志賀」は古今和歌集仮名序の文章からインスピレーションを得て創作されたものなのでしょう。
それにしても、「そのさまいやし」とか「薪追へる山びとの花のかげにやすめるがごとし」とはどいう意味なのでしょうね?
さて古今和歌集にはかなで記された「仮名序」のほかに漢文で記された「真名序」があります。
真名序は仮名序とだいたい同じ内容ですが、微妙に表現が異なっている部分もあります。
たとえば大友黒主については次のようになっています。
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文) ③百人一首では猿丸大夫は5番、6番は? ここに『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とあります。
『大友黒主の歌は猿丸大夫に次いで優れている。』というような意味なんでしょうか?よくわかりません。
でも鎌倉時代の天才歌人である藤原定家はその意味を知っていたにちがいありません。
というのは、古今和歌集仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされているのですが
紀貫之は古今伝授の創始者です。
古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことです。
伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、主に口伝で行われました。
藤原定家は父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けています。
定家は和歌の極意を知っていたのです。
大友黒主は六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)の一です。
藤原定家が撰んだ秀歌集・百人一首には遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町の歌は採られていますが、大友黒主の歌は採られていません。
もしかすると大友黒主とはニックネームのようなもので、本名は別にあるんじゃないか。
定家は本名で黒主の歌を百人一首に採用しているのではないか。
そう私は考えました。
百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られています。
もしかしたら定家は真名序の『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 という文章を受けて、猿丸大夫の歌の次に大友黒主の歌をもってきているのではないでしょうか?
さっそくは百人一首を調べてみました。
百人一首では猿丸大夫は5番でした。
その次・・・6番は大伴家持でした!
大友黒主は大伴黒主とも記されます。
また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じといってもいい歌を詠んでます。
白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主 (白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。) 白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持 (白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。) 古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』といいます。
本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことです。
大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りとはいえないと思います。
このことからも、大友(大伴)黒主と大伴家持は同一人物ではないかと思うのです。
大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄でした。
仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないでしょうか。
須賀神社 角豆(ささげ)祭 行列
また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっています。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったと推測されます。
仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないでしょうか。
真名序には『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とありますが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだと思います。
『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、という意味です。
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[2017/07/23 00:00]
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①百鬼夜行は陰、それを陽に転じたのが山鉾巡幸?祇園祭 山鉾巡行 『山鉾巡行と百鬼夜行』 ↑ こちらの記事にこんなことを書きました。
①山鉾のうち、太子山の聖徳太子、占出山の神宮皇后、黒主山の大友黒主、菊水鉾の菊慈童は怨霊ではないか。
②怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。
③怨霊が祟らないように慰霊し、神として祀ったもののことを御霊という。
④百鬼夜行は陰で、それを陽に転じたのが山鉾巡行だったりして?
聖徳太子が怨霊であるとする梅原武さんの説については上の記事をお読みください。
②菊の葉の露を飲んで700歳の長寿を得た菊滋童今日は菊水鉾の菊慈童についてお話ししたいと思います。
上の写真の山鉾に乗せられている人形が菊慈童です。
菊慈童とは700歳の長寿であったという中国の伝説に登場する少年です。能の演目にもなっていますよ~。
鉾の前懸は皆川月華作の「飛鶴図」です。
魏の文帝 はレッケン山に不老長寿の薬が流れているという噂をきき、「様子を見てまいれ」と臣下を山に行かせました。 山には不思議な少年がおり「私は周の穆王に仕えていました。」と言いました。 周は700年も前の時代です。 少年はさらに穆王より賜ったという枕を見せました。 その枕に記された経文を菊の葉に書くと、その葉より滴る露は不老長寿の薬となりました。 少年はその露を飲んで700歳の長寿をえていたのでした。京都の法輪寺では9月9日に重陽神事を行っており、菊慈童の舞が奉納されます。
③惟喬親王、法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる。 平安時代、この法輪寺に惟喬親王が籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があります。
大皇器地祖神社 大皇器地祖神社では惟喬親王を木地師の祖として祀っています。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師が用いるろくろを発明したというのです。
木地師資料館の惟喬親王像 下の女性と男性が轆轤を使って器を作っています。 上の写真は木地師資料館に安置されていた惟喬親王像です。
惟喬親王は大きな茶椀を持っています。
木地師がろくろを用い作った茶碗には漆を塗りますね。
それで法輪寺には惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったなどという伝説が伝えられているのかもしれません。
法輪寺 ③漆と即身仏 しかし、それだけではなく、漆は不老長寿にも関係していそうです。
昔、即身仏になることを目指した人が大勢いました。
今でもいくつかのお寺で即身仏が祀られていますね。
即身仏になる目的は、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れたとき、生き返ってその聖業に参加するためだといいます。
ひからびた即身仏が生き返ったという物語も残されています。
おそらく生き返るためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。
即身仏となるためには木食といって、五穀を絶ち、木の皮や実だけを食べるという修行を行いました。
その後、漆を飲んで入定したと言われます。
漆には防腐作用があり、死後腐りにくくするために漆を飲んだと言われます。
法輪寺 重陽神事 ④漆と髑髏(どくろ)本尊 また真言立川流ではドクロに漆を塗って髑髏本尊を作りますが、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目にドクロは命を持って語りだすとされています。
ドクロは生き返るということでやはり不老長寿と関係がありそうです。
法輪寺 重陽神事 ⑤重なる菊滋童と惟喬親王のイメージ うむむ~、すると菊慈童が飲んでいた露とは漆ではないか。
惟喬親王が法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が残されているのは、惟喬親王が即身仏やドクロ本尊と関係があるからではないか。
法輪寺で重陽の節句に菊慈童の舞が奉納されるのは、菊慈童と惟喬親王のイメージが重ねられているからではないか。
などと思えてくるのです。
惟喬親王は世継ぎ争いに敗れた政治的に不幸な身の上で、御霊として玄武神社や惟喬神社に祭られています。
つまり惟喬親王は怨霊だったのです。
菊水鉾にはそんな惟喬親王の霊が乗っているようにも思えるのです。
玄武神社 やすらい祭※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
[2017/07/19 00:00]
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JR京都駅に降り立つと祇園囃子が聞こえてきました。
↓ お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
VIDEO 大階段では張子の犬がお出迎え。
あれっ、長刀鉾が現れましたよ。
山鉾巡幸が始まりました!
こんなところで山鉾巡幸が見れるとは思いませんでした。上の動画の祇園囃子を聞きながら見ていただくといいかも。
①祇園祭山鉾巡行はノアの箱舟がアララト山に漂着した日? 祇園祭・山鉾のタペストリーは西洋的なものが多くてびっくりします。
霰天神山 白楽天山 鶏鉾 鯉山 函谷鉾 ここほんとに日本なの?って思っちゃいますよね。
で、山鉾巡行が行われる7月17日はノアの方舟がアララト山に漂着した日で、祇園祭ははそれを祝う行事だとする説があります。
祇園祭の山鉾に船の形をしたものがあるのも、それを裏付けるというのです。
船鉾 ②日ユ道祖論 いわゆる日ユ同祖論(日本人とユダヤ人は共通の先祖を持つという説)といわれるものですね。
共通の先祖を持っているかどうかはわかりませんが、日本神道とユダヤ教は似ているところがあります。
たとえば修験道では額に兜巾ときん)をつけますね。
宝山寺 ユダヤの人々は祈るとき額に
ヒラクティリー (テフリン)なるものをつけるのですが、
うむむ~、似ている~
佐伯好郎さんは渡来人の秦氏はバルバシ湖の近くにあったキリスト教国・弓月王国出身でクリスチャンだったのではないかと説かれました。
応神天皇の御代、百済より弓月君(ゆづきのきみ)が大勢の民を率いて日本に帰化したとされます。
秦氏は京都の太秦を本拠地とし、太秦寺(広隆寺)を氏寺としていましたが
唐におけるネストリウス派キリスト教の寺院のことを大秦寺と言いました。
太秦と大秦は点があるかないかの違いしかありません。
そこで佐伯氏は太秦寺とはネストリウス派キリスト教寺院であったのではないかとされました。
しかしネストリウス派キリスト教が唐に伝わるのは431年のエフェソス公会議以降のことで
秦氏が日本へ渡来したのはそれ以前と考えられ、時代考証があわないとされています。
その後、佐伯氏は秦氏はネストリウス派キリスト教徒ではなく、原始キリスト教徒だったと自説を訂正しましたが
彼の説は認められることなく、現在に至っています。
私は佐伯氏の説を支持していますが~。
③祇園祭山鉾巡幸はノアの箱舟とは関係ない。 私は秦氏はキリスト教徒だったと考えますが、祇園祭山鉾巡幸はノアの方舟とは関係ないかも?と思います。
日本では明治から新暦が用いられるようになり、それに伴って祭りの日にちが替えられたケースが多いのです。
山鉾巡幸はかつては旧暦6月17日に行っていたのを、新暦を用いるようになってから7月17日に改めたそうです。
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[2017/07/17 13:29]
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京都市左京区 貴船神社 貴船祭 6月1日 貴船祭のはじまり、はじまり~。
御神輿は貴船神社の奥の院へと向かいます。
①貴船神社の神は北極星の神? 奥の院では船形石の周囲を子供たちがお千度詣をします。
私もやりました。
このとき、お千度詣をすると子供たちはポッキーがもらえまして、大人なのに私にもくださいました。(ありがとうございます!)
走田神社のお千度詣も右回りでしたが、(
走田神社 お千度詣り 弓構 『お千度詣り、弓講は妙見菩薩に関連する行事だった?』 )
ここ貴船神社のお千度詣も右回りですね!
明石散人さんが龍安寺の石庭とはカシオペア座を表したものではないか、という説を説いておられます。安寺石庭の謎/講談社文庫)
明石散人さんの本は読んでいないので詳しい内容は知らないのですが、竜安寺の石庭はカシオペア座を左右反転させたような形をしています。
星が天球に貼りついているものとして、神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は龍安寺石庭のような形に見えますね。 また神様が天球の上から眺めるとすべての星は北極星に対して右回りに回っているように見えるはずです。 お千度詣は人を星になぞらえ、北極星の周囲をめぐる星々をイメージしたものではないかと考えたのです。 すると、走田神社の神殿や貴船神社の船形石は北極星になぞらえたものだということになりますね。 船形石は皇母・玉依姫が乗ってきた船が人目を忌んで石に包まれたものだと言われています。 貴船神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)ですが、高龗神と玉依姫は習合されているのではないでしょうか。 貴船の神様は北極星の神なのかも?②古代には兄妹婚はスタンダードだった? お千度詣が終わると出雲神楽が始まりました。 中央はクシナダヒメ、クシナダヒメの左右にいるのはクシナダヒメの両親・アシナヅチ・テナヅチです。 アシナヅチ・テナヅチは兄妹であり、また夫婦でもあります。
日本神話には兄妹または姉弟の夫婦が結構登場しますね。
イザナギ&イザナミは兄妹の夫婦、天照大神&スサノオは姉弟の夫婦です。
さらに中国の神
、 伏義&女媧も兄妹の夫婦ですね。
19代允恭天皇の子の木梨軽皇子&軽大郎女の兄妹は近親相姦に陥り、それが原因で軽皇子は失脚したとされますが
もっと昔には兄妹または姉弟の結婚はスタンダードだったという説があります。
近親婚は障害児を生みやすいということが知られていなかった古においては、血の純潔を守るために兄妹または姉弟の結婚は普通に行われていたというのです。
③貴船祭ではなぜ出雲神楽が奉納されているの? クシナダヒメを食べてしまおうと八岐大蛇がやってきましたよ!
酒と女をよこせーーーー!
スサノオは八俣大蛇に酒を呑ませ、大蛇が酔っぱらって眠ってしまったところをみはからって
十握剣でおろちを斬って退治しました。
まったく酒と女には用心しなくちゃ、ですね~。
なんで貴船祭では出雲神楽が奉納されているんでしょうか?
④八坂神社 石見神楽奉納見たことはないんですが、八坂神社では石見神楽が奉納されているそうですね。
VIDEO 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます♪
こちらも貴船神社の神楽と同じく、スサノオの八岐大蛇退治をテーマにしたものだと思います。
八坂神社の御祭神はスサノオなので、縁があるということでこの神楽を行っているのではないでしょうか。
⑤貴船神社は紀氏の神? 貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。
賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないでしょうか。
ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。
平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。 どうやら貴船神社は紀氏の神を祀る神社だというのが真実のようです。
⑥紀氏の祖神はスサノオ? 記紀などによると、紀氏の始祖は孝元天皇の子孫で武内宿禰の子・紀角となっています。
しかし紀氏の先祖はスサノオだとする文献もあるそうです。
そういうわけでスサノオが登場する出雲神楽が奉納されているのではないでしょうか?
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[2017/06/02 00:00]
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京都市北区 上賀茂神社 競馬(くらべうま)・・・5月5日 上賀茂神社の社家町に騎乗した人が現れました。 今日は上賀茂神社の競馬(くらべうま)の日なのです。
上賀茂神社の参道には馬場が設けられ埒と呼ばれる柵が作られています。
上の写真は埒の中を練り歩く警護衆。
競馬がスタート!
①
舞楽の衣装を身に着ける乗尻 馬に乗ってる人のことを乗尻(のりじり)といいます。
乗尻は左右に分かれています。
左方は打毬(たぎゅう/オレンジ色の衣装)、右方は狛鉾(こまぼこ/緑色の衣装)の舞楽装束を着けて競馬を行うんですよ~。
最初のレースは競馬の故事より、左方が必ず勝つようになっています。(出来レースやん~笑)
二番からは先の勝負で勝った組の馬が先馬、負けた組の馬が追馬で、追馬は一馬身ほど遅れてスタートします。
勝負の楓と呼ばれる楓があるのですが、この勝負の楓を過ぎた時点で一馬身の差が縮まっていれば追馬の勝ち、差が開いていれば先馬の勝ちです。
それにしても舞楽の衣装きて馬に乗るって乗りにくくないんでしょうか?
そもそも、なんで舞楽の衣装を着るの?
②左舞と右舞 舞楽には『左方の舞』と『右方の舞』があります。
その違いは、リベラルと保守・・・ではありません。
おおざっぱに言うと中国系のものを左舞(さまい)、朝鮮半島系のものを右舞(うまい)といっているようです。
また中国系の音楽は唐楽、朝鮮半島系の音楽は高麗楽というとのこと。
衣装は左舞が赤系統、右舞は緑系統を用います。
左舞は舞台後方左側から舞人が現れ、右舞は舞台後方右側から現れます。
ほかにも、左舞はメロディにあわせて振付されており、右舞はリズムにあわせて振りつけられているなどの違いがあるそうです。
今度舞楽を見るときには、そういった点にも注意して鑑賞したいです。
左舞 右舞 音楽 唐楽(中国系) 高麗楽(朝鮮半島系) 衣装 赤系統 緑系統 登場 舞台後方左側から 舞台後方右側から 振付 メロディにあわせてある リズムにあわせてある
②舞楽は武官たちの武技の競技の余興だった?なぜ舞楽は左舞と右舞に分けられているのでしょうか。
それは、宮中の武官である近衛府の官人(宮中の武官)たちが、左右に分かれてさまざまな武技を競っていたことに関係があると考えられています。
舞楽や雅楽はその余興であったとのことです。
すると、まず競馬という武技があって、その余興として打毬・狛鉾の舞が舞われていたのを、一体化して打毬・狛鉾の衣装を着て競馬をするようになったのかも?
みなさんはどうお考えになりますか?
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[2017/05/11 14:27]
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京都市左京区 下鴨神社 流鏑馬神事 5月3日 糺の森を馬車がゆっくりと進んでいきます。
流鏑馬神事がはじまるよ!
①流鏑馬神事は端午の節句と関係がある?下鴨神社の流鏑馬神事は葵祭の前儀として行われています。
でも、5月5日の端午の節句に近い5月3日に行われていることから、『端午の節句(5月5日)』とも関係が深そうに思えます。
『端午の節句』は『菖蒲の節句』ともいいますね。
中国では菖蒲の刃が刀の形に似ていることなどから男子にとって縁起のいい植物だとされていました。
日本で『端午の節句』に菖蒲が使われ始めたのは奈良時代、聖武天皇のころからだとされます。
宮中では菖蒲を髪に飾った人々が天皇より薬玉を賜わる習慣があったようです。(葵祭では葵と桂の葉を髪に飾りますが)
で、鎌倉時代ごろより、菖蒲が尚武(武道・武勇を重んじること)に通じるということで、武士が『端午の節句』に流鏑馬を行うようになったとされます。
現在でも『端午の節句』のころに流鏑馬を行っている神社があります。(鹿島神社など)
②薬狩 飛鳥時代にまで遡ると5月5日に宮廷行事として薬狩をする習慣がありました。
薬狩とは、女性は野に出て薬草を摘み、男性は鹿の袋角をとるものです。
鹿の袋角は鹿茸(ろくじょう)といい、不老長寿の妙薬とされているとのことです。
http://www.narayado.info/nara/kusurigari.html 上記リンク先に、古代の薬狩を再現した人形の写真が掲載されています。
それを見ると、男性の人形が弓で鹿を射ようとしています。
騎乗はしていませんが、弓を射るのは『端午の節句』の古くからの習慣だったといえるかも?
↑ ↓ 平安装束を身に着けての流鏑馬 【追記】 葵祭の起源を調べたところ、次のようなことがわかりました。
567年、風水害によって五穀が実らなかったので、伊吉の若日子に占わせました。
占いの結果、風水害は賀茂の神々の祟りであるとされ、
4月 の吉日に祭礼を行いました。
午に鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実りました。
ここに「4月の吉日に祭礼を行った」とあります。
これは旧暦4月と言うことだと思います。
現在の葵祭は新暦5月に行われていますが、旧暦は新暦よりも約1か月遅れなので新暦を用いるようになった明治以降に祭礼日を新暦5月にしたのだと思います。
一方、端午の節句はもともと旧暦5月5日に行われていたもので、葵祭と端午の節句には関係はないということになりますね。
すいませんでした~。
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[2017/05/09 15:54]
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京都市帰宅 上賀茂神社 幸在(サンヤレ)祭・・・2月24日 ①幸在祭 上賀茂地域では15歳になった男子を「あがり」といいます。
あがりになった男子は2月10日ごろより、毎晩鉦太鼓に合わせて町を練り歩く習慣があったそうです。
現在では2月24日の日中に町を練り歩き、山の神、太田神社、上賀茂神社に参拝しているようです。
「あがり」になった少年は大島紬の羽織を着て太鼓を打ち鳴らしながら練り歩きます。
写真向かって左の3人の少年が「あがり」です。
まだ「あがり」に達しない13歳未満の子供たちも鉦や太鼓を持って行列に加わります。
②やすらい祭 私はこの行列を見て、玄武神社や今宮神社で4月8日に行われている「やすらい祭」を思い出しました。
玄武神社 やすらい祭 衣装などはずいぶん異なりますが、幸在祭の行列と同じく鉦や太鼓を持っていますね。
昔の人々は疫病神は桜の花びらにのって散り広がると考えていました。
そこで奈良の大神神社で鎮花祭を行うようになりました。
やすらい祭りはこの鎮花祭と念仏踊りが結びついたものと考えられています。
念仏踊りとは鉦や太鼓を打ち鳴らしながら踊るもののことをいいます。
赤いかつらをかぶった人は鬼と呼ばれていますが、鬼たちは神社の境内や氏子さんの家の門前で念仏踊りをします。
③艮=鬼=童子艮(丑寅)は方角では東北で、鬼の出入りする方角とされています。
また八卦では艮の符は童子とされます。
艮=鬼=童子
となり、やすらい祭の鬼と、幸在祭の「あがり」より年齢が下の子供は同様のものとみなすことができます。
こう考えると、やすらい祭と幸在祭はますます似ているように感じられます。
④幸在(サンヤレ)祭とサンヤレ踊り上賀茂神社の幸在祭は鎮花祭と関係があるのかもしれません。
というのは、滋賀県草津市では5月に各地でサンヤレ踊りが行われているのですが、サンヤレ踊とは疫病神を追い払うために鉦・太鼓・笛で囃して疫病神を追い祓う踊りとされているからです。
VIDEO 動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!
2月にはまだ桜は咲きません。
梅の花が咲き始めるころなので、上賀茂神社の幸在祭は梅の花を鎮める行事と成人式が合わさった行事なのかも?
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[2017/02/24 00:00]
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京都市北区 上賀茂神社 燃灯祭(乙子神事)・・・2月の2番目の子の日(2017年は2月18日) ① 燃灯祭 狩衣姿の斎員さんたちが行列を作って御阿礼野(みあれの)へと向かいます。
一般の参拝者も自由に参列できるということなので、私も行列の後ろについていきました。
このごろ伝統行事に関心を持つ人が増えたのか、結構たくさんの人が見学に訪れていましたよ。
御阿礼野は上賀茂神社の境内の裏手にあります。
途中ゴルフ場の中を横ぎるのには面食らいましたが~。
ゴルフプレー中の方々は御阿礼野へ向かう人々が行き過ぎるまで待ってくださいました。(ありがとうございます!)
御阿礼野に到着して一礼。
斎員さんたちは、小松を引きます。
小松を引いたのち、境内に戻り、土舎(つちのや)に向かいます。
ちょっとわかりにくいですが、斎員さんたちは小松に玉箒草(燃灯草)を添えて紙に包んでいます。
②多紫草から田村草になった? 玉箒草(燃灯草)はアザミに似た紅紫色の花を8月から10月ごろに咲かせます。
玉箒草というのは古名で、現在は田村草と呼ばれています。
田村草の写真はこちら→
http://www.hana300.com/tamura.html 古名の玉箒は、花後に多数の実がつく様子が箒(ほうき)に似ているところからくるのではないか、そしてそれが転訛して田村草になったのではないかといわれています。
また、その花が美しい紫色なので、多くの紫色の花をつける草、多紫草から田村草になったのだという説もあります。
③恋する女は紫色に染まる 万葉集に次のような歌があります。
紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰 (海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。) 紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤としました。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味でしょうか。
こんな歌もあります。
紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも. ( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに) 大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に贈った有名な歌ですね。
この2首を鑑賞すると、恋する女が美しく瞳を輝かせるようすを『紫』といっているように思えるのです。
④松=待つ=弥勒菩薩? 京都・太秦にある広隆寺の弥勒菩薩像は赤松で作られていますが、赤松で造られた仏像は広隆寺の弥勒菩薩像だけです。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。 作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 弥勒菩薩は56億7000万年後に現れるとされる未来仏です。
弥勒菩薩は56億7000万年の間、復活を待っている仏だともいえるでしょう。
広隆寺の弥勒菩薩が赤松で作られているのは、『松』が『待つ』に通じるからではないでしょうか。
⑤聖徳太子は弥勒菩薩の化身? 広隆寺の弥勒菩薩は聖徳太子が秦河勝に与えたものだという伝説があります。
この伝説は、聖徳太子が弥勒菩薩の化身であると考えられていたことを示すものだと私は思います。
⑥聖徳太子は怨霊であるそして梅原武氏は『聖徳太子は怨霊である』とおっしゃっています。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、死後このような人は怨霊となって祟り、天災や疫病の流行を引き起こすと考えられていました。
聖徳太子自身は不幸な死を迎えたように思えませんが、彼の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって自害しています。
法隆寺 聖徳太子等身大の像と伝わる法隆寺の救世観音像の頭には直接釘で光背が取り付けられています。
光背は足元に棒をたてて、その棒にとりつけるのが普通で、法隆寺像は極めて異常な像形なのです。
そこで梅原氏は『法隆寺の救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像』であると説かれました。
怨霊=聖徳太子=弥勒菩薩=待つ=松
となり、松は怨霊を表すものだと考えられるのではないでしょうか。
⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神 神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。
御魂・・・神の本質 和魂・・・神の和やかな側面 荒魂・・・神の荒々しい側面 そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。
御魂・・・神の本質・・・男女双体 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神 詳しくはこちらの記事をお読みください。→
飛鳥 勧請綱と田植え 『道祖神と大聖歓喜天は習合されている?』 ⑦男女和合は怨霊を守護神にする呪術? 大聖歓喜天という仏教の神は象頭の男女双体のおすがたをしています。
VIDEO 大聖歓喜天は祟りをもたらす鬼王ビナヤキャが、十一面観音の化身であるビナヤキャ女神を抱くことによって仏法守護の神となったものです。
そして、ウィキペディアの
祟り神 の項目には次のように記されています。
「祟り神は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。(上記サイトより引用)
祟り神は怨霊といってもいいでしょうが、この祟り神(怨霊・荒霊)を守護神にするための呪術が、男女和合なのではないかと思います。
⑧小松は男(荒霊)、玉箒草は女(和霊)をあらわしている? 燃灯祭では小松を男神=荒魂=祟り神、玉箒草を女神=和魂と見立て、男女和合(小松と玉箒草をセットにする)させることで、祟り神(小松)を守護神にするという意味合いを持っているのではないでしょうか。
とすると小松は男(荒霊)、玉箒草は女(和霊)を表しているのではないでしょうか。
多気山不動尊 道祖神毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2017/02/23 00:00]
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京都市北区 上賀茂神社 紀元祭・・・2月11日 京都市東山区 泉涌寺 ①上賀茂神社 紀元祭 建国記念日の2月11日、上賀茂神社では紀元祭が行われ、蹴鞠の奉納などがありました。
写真はフィルムで10年以上前に撮影したものです。
②中大兄皇子の脱げた沓 蹴鞠といえば中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)の逸話を思い出しますね。
そう、
蹴鞠をしていて脱げた中大兄皇子の沓を中臣鎌足が拾ってさしだした という逸話です。
これをきっかけに二人は親密な仲となり、共謀して当時の権力者・蘇我入鹿を暗殺したとされます。
天智天皇(中大兄皇子)には沓にまつわる不思議な伝説も伝えられています。
天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出しましたが、いつまでたっても戻りませんでした。 後日履いていた沓だけが見つかったので、その沓が落ちていた所を山陵にしました。(扶桑略記・平安時代末) この伝説から天智天皇は暗殺されたなんて説もあるようですね。
談山神社 中臣鎌足像 ③奈良の都は天武系天皇の都だった。でも、私はこの伝説は天智天皇が暗殺されたということを伝えようとした伝説ではないと思います。
天智天皇は病を患って672年に崩御されました。
その後、大友皇子(天智天皇の子)vs大海人皇子(天智天皇の弟)の皇位継承をめぐる戦争がおきました。
これを壬申の乱といいます。
勝利した大海人皇子は673年に即位して天武天皇となりました。
その後、奈良時代には、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)と天武系の天皇が続きました。
奈良の都は天武系天皇の都だったのですね。
奈良 東大寺大仏殿と興福寺五重塔④天武系天皇の血筋絶え、天智系天皇が復活。 しかし称徳天皇は女帝で結婚が許されなかったため、子供がありませんでした。
そのため、ここで天武系の天皇の血筋はたえてしまいました。
そして称徳天皇の次には天智天皇の皇子の光仁天皇が即位しました。
光仁天皇以降はずっと天智系の天皇が続きました。
⑤財政難なのに平安京遷都したのはなぜ? 光仁天皇の皇子の桓武天皇は784年に長岡京に、794年に平安京に遷都しています。
しかし当時の朝廷はたいへんな財政難におちいっていたといわれています。
それにもかかわらずなぜ桓武天皇は長岡京、平安京と2度も遷都したのでしょうか。
京都御所 ※現在の京都御所は平安京遷都当時の御所とは場所がちがいます。 ⑥平安京は天智系天皇の都 『奈良の仏教勢力から逃れるため、平安京に遷都した。』私は学校でそう習いました。
最近の歴史の教科書は『奈良の怨霊から逃れるため』と教えているようです。
たしかにそういう理由もあったかもしれません。
しかし桓武天皇は天武系の天皇の都だった平城京に住むのが嫌だったので長岡京、平安京に遷都したという側面もあるのではないでしょうか。
⑦わずか10年で長岡京から平安京に遷都した理由 ちなみにわずか10年で長岡京から平安京に遷都したのは、次のような理由からだと考えられています。
785年に長岡京造長岡宮使の藤原種継暗殺事件がおきました。
桓武天皇の同母弟の早良親王が首謀者とされ、乙訓寺に幽閉されました。
乙訓寺(長岡京市) 早良親王はハンガーストライキを決行し、淡路へ配流となる船上で亡くなりました。 その後、桓武天皇の近親者が相次いでなくなったり、皇太子が病になるなど不幸なできごとがおきました。 そしてその原因を陰陽師に卜わせたところ、早良親王の怨霊の仕業とされました。 そういったことから、長岡京は早良親王の怨霊がすむ都と考えられたのでしょう。 そこで、長岡京を捨て、新たな都・平安京を作って遷都したと考えられています。 泉涌寺 ※泉涌寺には歴代天皇の位牌が安置されているはずなんですが・・・ ⑦天皇が天武系から天智系に戻ったのは藤原氏の策略だった? もしかして、天武系の天皇から天智系の天皇に戻ったのは、藤原氏の策略だったりしないでしょうか? というのは、中臣鎌足(藤原鎌足)の子の藤原不比等は天智天皇の後胤であると信じられていたからです。 中臣鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、 その時鏡王女はすでに天智天皇の子供である不比等を身ごもっていたと記した史料があるのです。 真偽はともあれ、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたことでしょう。 とすれば、天皇を天智系に戻したいと考えるのは当然のことと思われます。 実際、称徳天皇の次代の天皇として天智天皇の孫にあたる光仁天皇を押したのは、中臣鎌足の孫で藤原不比等の子である藤原百川や藤原永手でした。 泉涌寺 別院 雲龍院 ⑧泉涌寺には天武系天皇の位牌がない。 京都の泉涌寺には38代天智天皇、49代光仁天皇から124代昭和天皇までの位牌が安置されているそうです。 天智天皇の次の39代は弘文天皇ですが、これは壬申の乱で大海人皇子に敗れた大友皇子のことです。 大友皇子が即位していたかどうかはよくわかっておらず、弘文天皇という諡号は明治3年に追贈されたものです。 弘文天皇の位牌がないのはこのためでしょう。 あと40代から48代までの天皇の位牌がありませんが、これらは全員天武系の天皇です。 つまり天武系天皇の位牌がすっぽり抜けているのです。 こういったあたりにも天皇家(天智系)や藤原氏が天武系天皇を忌み嫌っているようすがうかがえるように思います。 泉涌寺 別院 雲龍院⑨「沓が脱げる」の意味 「沓が脱げる」 というのは比喩的表現で、『天智天皇の子孫が皇位を継承できなかった。』という意味なのではないでしょうか。 また、「鎌足が天智天皇に脱げた沓を差し出した。」 は「藤原氏が天武系天皇を廃し、天智系天皇が皇位継承できるようにした」という意味なのではないでしょうか。 すると「天智天皇が馬にのってでかけ、いつまでも戻らなかった」 というのは「天智系の天皇が皇位につかない時代(天武系の天皇の時代)が長く続いた」という意味ではないかと思えます。 ウィキペディアの中臣氏 の項目に「古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。」と書いてあります。「天智天皇の沓のあるところに陵を造った。」 という伝説も比喩的表現で、「天智系天皇を擁立した藤原氏(中臣氏)の土地である山科に天智天皇の陵を造った。」という意味ではないでしょうか。泉涌寺 境内にある陵 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2017/02/14 12:00]
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京都市東山区 八坂神社 節分祭…2月2日、3日 ①八坂神社 節分祭 2月2日と2月3日、八坂神社では節分祭が行われ、舞妓さんや楽人さんたちによって豆まきが行われます。
舞妓さんたちがやってきました。コート姿がかわいい~~♡
舞殿で豆まきが行われました。
②蘇民将来伝説 八坂神社の御祭神はスサノオで、武塔神(牛頭天皇)と習合されています。
武搭神には次のような伝説があります。
神代の昔、蘇民将来と巨旦将来という二人の兄弟がありました。 蘇民将来は貧乏で巨旦将来は金持ちでした。 あるとき武搭神が「宿を貸してほしい」といって巨旦将来のもとを訪ねましたが、巨旦将来は宿を貸しませんでした。 次に武搭神が蘇民将来のもとを訪れると蘇民将来は快く宿をかし、あたたかく武塔神をもてなしました。 武塔神は蘇民将来に「疫病が流行ったときには茅の輪をつけなさい。」と言って帰られました。 後に疫病が流行り、蘇民将来の子孫は茅の輪をつけました。 武塔神は茅の輪をつけた蘇民将来の子孫は疫病から守りましたが、巨旦将来の子孫をはじめ、茅の輪をつけていない者はみな死んでしまいました。 八坂神社ではこの伝説にちなみ、7月の祇園祭の際には『蘇民将来子孫也』と記したお札を授与しています。
祇園祭 花笠巡行 ③笑門の注連縄と平将門 さて、祇園あたりの民家には『笑門』というお札をつけた注連縄を1年中飾っている家がたくさんあります。
伊勢神宮があるあたりでも同様の注連飾をかけるそうです。
伊勢の注連縄は『笑門』の他に『商売繁盛』と書いたものや『蘇民将来子孫家門』と書かれたものもあるそうです。
なぜ祇園では『笑門』と記した注連縄をかけるのでしょうか。
『蘇民将来子孫家門』を略すと『将門』となりますが、逆賊とされる平将門に通じるので、『笑門』になったとする説があり、私はこの説を支持しています。
この日はおこぼではなく草履をはいていましたよ。
④将門の首伝説 平将門は関東に独立国を作り新皇を名乗りました。
そこで朝廷は940年に将門追討の軍をおくり、将門は流れ矢に当たって死にました。
将門の首は京に持ち帰られて鴨川のほとりに晒されました。
将門の首が晒された場所は現在の南座あたりだとも言われています。
ここから将門の首は飛び上がり、鴨川を超えて膏薬図子に落ちたという伝説もあります。
将門の首は事あるごとに近隣住民に祟りました。
そこで空也上人はここに念仏道場を立て、将門の霊を慰めたと言われています。
膏薬図子には神田神宮と称する小さな祠があり、「天慶年間、平将門ノ首ヲ晒した所也。」と説明書があります。
(京都市下京区四条通新町西入ル 下ル新釜座町 ) ↓
将門の首を晒したのは南座あたりではなくて、膏薬図子なんでしょうか?
将門の首を晒した場所が膏薬図子あたりだとしても、ここは祇園から近い場所です。
南座や膏薬図子は八坂神社からほど近い場所にあり、平将門は怨霊として畏れられた人物でした。
祇園の人々は将門の怨霊をそれは恐れたことでしょう。
そこで、『『蘇民将来子孫家門』を略すと『将門』となるのを、語呂合わせで『笑門』としたのではないかと思うのです。
その後、将門の首は故郷の東国まで飛んでいったという伝説があります。
東京都千代田区にある将門の首塚は、将門の首が落ちた場所だと言われています。
将門の首塚 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/02/01 00:00]
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京都府八幡市 石清水八幡宮 鬼やらい神事・・・毎年変わります ①鬼やらい神事 そろそろ節分ですね!
1月29日、石清水八幡宮では一足早く鬼やらい神事が行われたようです。(日程は毎年変わります。写真は過去のものです。)
鬼が出たよ!
鬼は子供たちを脅してさんざん泣かせたあと、石清水八幡宮の拝殿へ向かいます。
私は鬼とか妖怪とか怨霊が大好き!
なので「鬼、がんばれ!」と心の中で声援をおくります。(笑)
しかし豆を蒔かれて鬼はやっつけられてしまいます。
②ヤチマタ基金 鬼やらい神事のあと、心を入れ替えた鬼たちはボランティアでヤチマタ基金の募金を呼び掛けていました。
ヤチマタ基金とは京都府神社庁が行っている、交通災害遺児への奨学助成を目的とした基金のことです。
http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/yachimata.html ヤチマタ基金のヤチマタはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメという神様の名前からつけたものだそうです。
③ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメはもののけの侵入を防ぐ神 ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメについては ↓ こちらの記事にも書きました。
石清水八幡宮 雪 『青山祭は疫神スサノオを風葬にするお祭りだった?』 石清水八幡宮で1月18日に行われている青山祭は、明治以前は道饗祭(みちあえのまつり)とか、疫神祭とも呼ばれていましたが
この道饗祭とはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミを祀って、都や宮城にもののけなどが入らないように祈る神事でしたね。
ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメはもののけの侵入を防ぐ神なのです。
ヤチマタは「八衢」と書き
、 たくさんの道が分かれている所のことをいいます。
石清水八幡宮 青山祭 ④「道切り」はヤチマタヒコ・ヤチマタヒメの信仰から生じた風習? 上の記事を書いたところ、
aunt carrotさん がメールを下さり、横須賀市長井町荒井の道切りについて教えてくださいました。
ありがとうございました!
こんな神事があるよ~、とか教えていただけるとすごく嬉しいです。
VIDEO 動画、お借りしました! ありがとうございます。
道切りは、疫病や魔性のものなどの災厄が村や里に入ることを防ぎ、禁圧するための呪術習俗です。現在、道切りの行事の多くは廃れ、三浦半島では長井の荒井のみで伝承されています。 https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0120/movie_channel/rekisi/16.html より引用 道饗祭は宮中にもののけなどが侵入しないようにと行われていた行事ですが、「道切り」もこの道饗祭と同様の意味を持つものなんですね。
ということは、「道切り」はヤチマタヒコ・ヤチマタヒメの信仰から生じた風習ではないかと思えます。
↓ こちらの写真はaunt carrotさんのブログ、
Aunt Carrot’sBlog より許可を得てお借りしたものです。(ありがとうございます!)
とてもいい写真ですね~♪
向かって左から、藁で作った刀、片方だけのワラジ、さいころ、藁で作った蛇が注連縄につるされています。
⑤サイコロは塞の神をあらわす? 「道きり」につるすものの中で、一番興味深く思ったのはサイコロです。
サイコロは塞の神(さいのかみ)の語呂合わせではないでしょうか。
ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミは同一の神とされ、塞の神と呼ばれているのです。
クナドノカミは「岐の神」と書き、悪霊が村や集落に入ってくるのを防ぐ神です。
⑧語呂合わせで神格を変える神 つまり、塞の神は語呂合わせでサイコロの神になったのではないかと思うのです。
このように語呂合わせで神格を広げた神は他にもあります。
例えば、和歌の神・柿本人麻呂は人丸と呼ばれることもあり
「ひとまる→火止まる」で防火の神に、「ひとまる→人産まれる」で安産の神へと神格を広げています。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/01/31 00:00]
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京都市東山区 三十三間堂 通し矢・・・1月日曜(年によって日程は変わります。) ①三十三間堂の通し矢 三十三間堂の建物は南北に長く、125メートルもの長さがあります。
江戸時代には三十三間堂の軒下で『通し矢』が盛んに行われました。
上は歌川豊春が描いた『通し矢』の様子です。
ウィキペディア(
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toshi-ya_00.jpg?uselang=ja ) よりお借りしました。
お堂の軒下から矢を射ていますね。
現在の『通し矢』は、お堂の前の広場に数人が横並びになって矢を射ています。
特に成人女性が振袖袴姿で強さと美しさを競い合う様は新春の風物詩となっています。
2017年の三十三間堂の『通し矢』は1月15日に行われたようです。
(写真は過去のものです。)
この日、堂内は無料開放されます。
金色に輝く1001体の千手観音像は圧巻でした!
ウィキペディア(
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kusakabe_Kimbei_1364_Sanjiu.JPG?uselang=ja )よりお借りしました。
②柳のお加持は修正会の結願の行事 また堂内では『柳のお加持』も行われています。
『柳のお加持』とは柳の枝で頭をさすったり、密教の灌頂 の儀式のように柳の枝で頭の上に3滴ほどの水を注ぎかけるというものです。
『柳のお加持』を受けると頭痛が治ると言われています。
三十三間堂には次のような伝説が伝えられています。
後白河法皇は観音様より次のような夢のお告げを受けました。 『あなたの前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶でした。 その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでおり、髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏にあたるので上皇の頭が痛むのだ』と。 早速川を調べさせたところ、髑髏が見つかりました。 上皇はその髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁としました。 そうしたところ、上皇の頭痛は平癒しました。 この日、堂内で行われる『柳のお加持』はこの伝説にちなむものなのでしょうか。
私はそうではなく、『柳のお加持』は修正会の結願の行事であり、そこから後白河の伝説は作られたのではないかと思います。
正月に各寺院で行われる法要のことを修正会といいます。
③四天王寺どやどや・法界寺裸踊りは修正会結願の行事だった。 ↑ 上は大阪・四天王寺で1月14日に行われている「どやどや」です。
天井からまかれた牛玉宝印を裸の男性たちが奪い合うという行事です。
↑ 京都・法界寺の法界寺裸踊りです。
牛玉宝印は天井から撒かれず、社務所で授与しています。
しかし、四天王寺のどやどやにそっくりです。
法界寺裸踊りでもかつては四天王寺のどやどやと同じように牛玉宝印を奪い合っていたのではないでしょうか。
それがいつしか、牛玉宝印は社務所で授与するようになり、奪い合うしぐさのみが裸踊りとして残ったのではないかと思います。
↑法界寺裸踊りでは行事終了後、三十三間堂と同様の柳のお加持が行われました。
奈良・念仏寺の『陀々堂の鬼はしり
』 も四天王寺の『どやどや』や『法界寺裸踊り』と同じく、1月14日に行われています。
見に行ったことはまだないんですが。
そして『陀々堂の鬼はしり
』 は修正会結願の行事だということです。
ということは、同じ日に行われる『どやどや』や『法界寺裸踊り』も修正会結願の行事名のだと思います。
三十三間堂の通し矢は現在は日程が定まっていませんが、少し前までは1月15日(成人の日)に行われていました。
そして修正会の行事と思われる法界寺裸踊りと同様の柳のお加持が行われるところから、三十三間堂の柳のお加持も修正会の行事だと考えられます。
●牛玉宝印は牛黄で文字を書いたものだった。 VIDEO 岡山県西大寺の『会陽』は現在では2月の第三土曜日に行われていますが、かつては旧正月元日より14日の間行われていました。
西大寺の会陽も修正会の結願(最終日)の行事だといえるでしょう。
『会陽』では闇の中で投牛玉と宝木が堂内に投下されると、すさまじい宝木争奪戦が繰り広げられます。
宝木は2本のみで、牛玉紙が巻いてあります。
修正会の結願では牛玉宝印が授与されることが多いのですが、宝木は木製の牛玉宝印だといえるでしょう。
牛玉宝印はもともとは漢方薬である牛黄で文字が記されたもので、皇室には『牛玉宝印は水に溶かして飲む』と伝わっているそうです。
牛玉宝印は薬だったのです。
●柳には痛み止め効果がある。 投牛玉は枝牛玉・串牛・投牛ともいい、柳の細い木片5~6本を束にして牛玉紙を巻いたもので、100束ほどが投下されます。
この柳の樹皮には痛みどめの効果があるサルチル酸が含まれています。
もともとは投牛玉はしがむものだったのかもしれません。
柳のお加持は修正会の行事であり、柳は頭痛に薬効があったところから、後白河法皇の頭痛伝説は創作されたのではないでしょうか。
ただし、柳のお加持のように柳の枝で頭をさすっても、頭痛は治りません。
柳は飲んで初めて痛み止めとしての効能を発揮します。
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[2017/01/18 00:00]
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京都市伏見区 法界寺 法界寺裸踊り・・・1月14日 ①法界寺裸踊り 水垢離を行った男たちが本堂にあがり、「頂礼、頂礼」と言いながら背中を押し付けあって踊ります。
写真は子供さんたちの裸踊りですが成人男性の裸踊りもあります。
②四天王寺 どやどや 同じ日、大阪の四天王寺では『どやどや』という行事が行われています。
天井からまかれた牛玉宝印を裸の男性たちが奪い合うという行事です。
③西大寺 会陽 また岡山県の西大寺では『会陽』といって、やはり裸の男性たちが宝木(木製の牛玉宝印)を奪い合う行事があります。
http://www.optic.or.jp/saidaijicci/eyo/eyo_index.html http://www.okayama-cci.or.jp/activation/saidaijieyou.html VIDEO 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。すばらしい動画だと思います。
④法界寺裸踊り・どやどや・会陽は同様の行事? 西大寺の会陽は参加者の数がはんぱないですが、四天王寺のどやどやはこの会陽と同様の行事だと思います。
そして私は法界寺裸踊りももともとは会陽やどやどやと同様の行事だったのではないかと思います。
法界寺の行事では天井から牛玉宝印をまくということは行われていません。
牛玉宝印は社務所で授与しているようです。
しかし、法界寺裸踊りで手を上にあげて踊る男性たちの姿は、牛玉宝印や宝気を奪い合う会陽やどやどやの男性たちの姿とそっくりではありませんか。
もともとここ法界寺でも天井から撒かれる牛玉宝印を奪い合っていたのではないでしょうか。
ところがいつしか牛玉宝印は社務所で授与されるようになり、奪い合うしぐさが踊りとして残ったのではないかと思ったりします。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2017/01/14 00:00]
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京都府京都市東山区 京都ゑびす神社 十日えびす・・・ http://www.kyoto-ebisu.jp/tooka.html 京都ゑびす神社 宝恵かご社参 ②えべっさんは耳が悪いので社殿の裏を叩いて参拝する。 『えべっさん』は耳が悪いと言われています。
なので参拝する際には『えべっさん』に聞こえるように社殿の裏を叩いて参拝します。
大阪の今宮戎神社にも同様の習慣があります。
京都ゑびす神社の社殿の裏を叩いて参拝する人々③榎本の神も耳が悪い。 奈良・春日大社にある榎本神社にもそんな習慣がありましたね。
榎本神社 榎本の神はタケミカヅチに『土地を三尺譲ってほしい』といわれ、承諾しました。 ところがタケミカヅチの言う三尺とは地下三尺という意味だったのです。 こうして榎本の神は広大な神域をタケミカヅチに奪われてしまいました。榎本の神を祀る祠は春日大社本殿のそばにありますが、榎本の神は耳が遠いので、柱を叩き、祠を回って参拝する習慣があります。
京都ゑびす神社 宝恵かご社参 ④榎本の神=猿田彦=ニギハヤヒ? 榎本神社の御祭神は猿田彦です。
記紀によれば、猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀の記述で、記紀では単に、ニギハヤヒとなっています。
京都ゑびす神社 宝恵かご社参 ⑤榎本の神は物部氏の神だった?ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代天皇の神武が日向から東征して畿内入りする以前に天下っていたとされます。
ここから神武以前に物部王朝があったとする説もあります。
つまり猿田彦とニギハヤヒは同一神だと考えられます。
ということは榎本の神は物部氏の神なのだと思います。
京都ゑびす神社 ⑥陰陽に描き分けられた物部守屋と聖徳太子 飛鳥時代、物部守屋という人物がいました。
587年、排仏派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子や聖徳太子と戦い、榎の枝で指揮をとっていたところ、迹見赤檮に矢で射られて死亡しました。
一方の聖徳太子も矢で射られそうになりましたが、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。
大聖将軍寺 神妙椋樹. 物部守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられているのです。
聖徳太子は1度に10人の言うことを聞き分けることができるほど耳がよかったという伝説もあります。
物部守屋と聖徳太子が陰陽に描き分けられているのであれば、物部守屋は耳が悪いのではないでしょうか?
⑦榎本の神=えべっさん=物部守屋? 榎本の『本』を漢和辞典でひくと『下の意を表す。』とあります。
榎本の神とは、榎の木の上にいたところを矢で射られた守屋は木から落ちて榎の本(下)にいる神という意味で、物部守屋のことなのではないでしょうか。
そして同じように耳が悪いとされている『えべっさん』の正体も物部守屋だったりして?
京都ゑびす神社 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2017/01/08 00:00]
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京都府南丹市 瑠璃渓 京都イルミエール・・・2016年10月29日(土) ~ 2017年4月9日(日) http://www.kyoto-illumiere.com/ ①デュアルオーロラショー照明が消え、人工的に発生させた霧が会場にたちこめます。
その霧をスクリーンにして色鮮やかな映像が映し出されるデュアルオーロラショー。
大迫力の映像に心躍ります。
②オーロラ オーロラとは天体の極域付近に発生する大気の発光現象のことです。
地球以外の惑星でも、大気と地磁気があれば発生するそうですよ。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/07/02/wild-light-show_n_10781986.html ↑ 必見! 木星に発生した巨大オーロラ
オーロラ発生のメカニズムはまだよくわかっていない点もありますが、現在ではだいたい次のように考えられています。
太陽から地球に吹き付ける太陽風(プラズマ状の電気を帯びた粒の流れ)によって、地球の磁気圏は太陽と逆方向に流されています。
この太陽風の粒は地球の磁場を通り抜けることができません。 しかし、北極や南極付近の磁力線は地球に対して垂直になっているため、地球に入ってきます。 この太陽風の粒が地球から100~400kmのところで酸素原子や窒素分子などと衝突して光を出します。③「眠れる森の美女」はなぜオーロラ姫なのか? オーロラといえば「眠れる森の美女」のオーロラ姫を思い出します。 なぜ「眠れる森の美女」のヒロインはオーロラ姫という名前なんでしょうね? ④オーロラは暁の神・アウロラが語源だった。 オーロラの語源はローマ神話の暁の神・アウロラとされています。 なぜ北極・南極付近で空がカーテン状に発光する現象に、暁の神・アウロラの名前がつけられたのかはよくわかっていないようですが 17世紀ごろからオーロラと呼ばれるようになったと考えられています。 暁とは日の出前の暗い空のことをさす言葉です。 眠れる森の美女は、魔法にかけられて100年間眠り続けていたのですが、王子さまのキスで目を覚まします。 美女が眠り続けることは夜をあらわしているのではないでしょうか。 しかし、美女は王子様のキスで目を覚ますので、夜明け前ということで暁の神・アウロラと同じ名前のオーロラと名付けられたのではないかと思います。 ↑ 結露フィルターで撮影(笑) 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2017/01/07 00:00]
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京都市左京区 下鴨神社 蹴鞠始め 1月4日 ①下鴨神社と大神神社に伝わる同じ伝説 『山城国風土記』の賀茂神社縁起に 次のように記されています。
伝説1 ある日川から丹塗りの矢が流れてきました。 玉依姫がこれを持ち帰り、枕元に置いて寝るとやがて妊娠し、別雷命が生まれました。 別雷命は上賀茂神社に、玉依姫の父親の賀茂建角身命と玉依姫は下鴨神社に祀られています。
これと全く同じ伝説が奈良の大神神社にも伝わっています。
伝説2 大神神社の御祭神のる大物主命は丹塗りの矢に姿を変え、用を足しに川へやってきたセヤダタラヒメのほとを突きました。 セヤダタラヒメが矢を持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれ、ヒメタタライスズヒメ(イスケヨリヒメ)が生まれました。 ヒメタタライスズヒメは後に神武天皇の后となりました。 大神神社 拝殿②松尾大社は上賀茂神社の父神様だった? 京都の松尾大社では9月の初めに八朔相撲が行われています。
この八朔相撲は、松尾大社の御祭神・大山咋神が、子息である上賀茂神社の別雷命に見せるために始めたと言われています。
また上賀茂神社では重陽の節句の9月9日に『からす相撲』が行われていて、これは別雷命が松尾の親神様にみせるためであると言われています。
つまり、松尾大社のの御祭神・大山咋神は上賀茂神社の御祭神・別雷命の父神様だということですね。
③大物主命は秦氏だった? 記紀に次のような話が記されています。
崇神天皇代、疫病が流行したとき天皇の夢に大物主神が現れて 『疫病の流行は自分の仕業である。私の子である大田田根子を神官とすれば、疫病は収まるだろう。』 と告げました。 早速、大田田根子を探したところ、八尾付近で見つかりました。 また大物主神と活玉依姫との間に生まれた者であることも判明しました。 そこで大田田根子を大神神社の神官としたところ、疫病は収まりました。 大田田根子は多氏の人物ではないか、とする説があります。
多氏の出自はよくわかっていませんが、渡来人の秦氏と関係が深いと考えられています。
そして松尾大社は秦氏の氏神とされています。
とすれば、大田田根子の父親の大物主神は秦氏なのでしょうか?
④大物主神は物部氏だった? でも私は大物主とは物部氏の神だと思います。
物部氏の祖神のニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦火明
櫛玉 饒速日命と記されています。
そして大神神社の御祭神・大物主の正式名称は倭大物主
櫛 甕
魂 命といいます。
櫛・玉(魂)が同じなので、ニギハヤヒと大物主は同一神ではないかという説があるためです。
⑤神殿がないのは物部氏の祭祀スタイル?また大物主を祀る大神神社は神殿がなく拝殿より直接三輪山を拝む祭祀スタイルですが、ニギハヤヒを祀る磐船神社も大神神社と同様、神殿がなく拝殿より直接御神体である巨岩を拝みます。
磐船神社 拝殿と御神体『天の磐船』 また肩野物部氏の本拠地であった交野ケ原(大阪府枚方市・交野市あたり)にある片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社も神殿がなく、拝殿よりその奥にある沼を拝みます。
片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社 神殿がないのは物部氏の祭祀スタイルなのではないでしょうか。
⑥玉依姫は秦氏だった?そして伝説①では玉依姫、伝説③では活玉依姫と似たような名前の女性が登場しています。
神は複数の神名を持つケースがありますが、伝説①の玉依姫と伝説③の活玉依姫は同一神ではないでしょうか。
玉依姫=活玉依姫 また伝説①と伝説②は全く同じ話なので、伝説①の玉依姫と伝説②のセヤダタラヒメも同一神だと思います。
玉依姫=セヤダタラヒメ だとすれば玉依姫と活玉依姫とセヤダタラヒメは同一神ということになります。
玉依姫=活玉依姫=セヤダタラヒメ 私は玉依姫とは秦氏の女性なのではないかと思います。
そうであれば大物主と玉依姫の間にできた子供が秦氏の多氏である理由がわかります。
秦氏は物部氏と姻戚関係になることによって、物部氏の神を奪ってしまったのかも?
秦氏には紀氏の祖神を奪ったと思われるフシもあるんですよね~。
亀岡祭 鍬山神社 『仲が悪い鍬山宮と八幡宮』 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2017/01/04 00:00]
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糸魚川の火災で被害を受けられた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
京都駅のクリスマスイルミネーションは、階段の縁に取り付けられた電球がクリスマスツリーやサンタクロースの映像を作り出します。
階段を歩く人の姿もほのぼのとした気持にさせてくれます。
①クリスマスはミトラ教の冬至祭をキリスト教がとりいれたもの。クリスマスはイエス・キリストの誕生日だとされていますが、実は聖書にはキリストの誕生日についての記述はないのです。
クリスマスは異教であるミトラ教の冬至祭を、キリスト教が取り入れたものだといわれています。
古代ローマ人が信仰していたミトラ教では、冬至から3日目の12月25日に冬至祭を行う習慣がありました。
その後、ローマではミトラ教は衰え、変わってキリスト教が信仰されるようになっていくのですが
ミトラ教の冬至祭はキリスト教のキリスト生誕の日として受け継がれました。
②ミトラ教ではなぜ冬至の3日後に冬至祭をおこなっていたの? 冬至は12月22日です。
ミトラ教ではなぜ冬至の日ではなく、冬至から3日後の12月25日に冬至祭を行っていたのでしょうか?
冬至とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことです。
その後3日間、太陽は低い位置にとどまったままですが、3日後に再び南中高度をあげていきます。
そこで太陽が南中高度をあげていく25日に太陽の復活を祝って冬至祭を行ったのではないでしょうか。
③古代ローマでは南十字星が見えていた。現在、地中海沿岸あたりでは南十字星は見えませんが、
地球の自転軸が約25800年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ので、
古代ローマでは南十字星が見えていたそうです。
④冬至のころの太陽は南十字星の位置に近づく。 とはいえ、古代の地中海沿岸地方で観測される南十字星の南中高度は低かったはずです。
そして冬至のころの太陽は南中高度が低くなり、南十字星の高度に近づきます。
⑤イエスは太陽神だった。そしてイエスは死後3日目に復活して生きながらにして昇天したとされています。
ここからイエスは太陽、イエスが磔になった十字架は南十字星、イエスが死後3日目に復活したのは冬至から3日目に太陽が再び上昇を始めることを比喩したものだとする説があります。
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[2016/12/24 00:07]
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京都市北区 不思議不動院 南瓜供養・・・12月21日(確認をお願いします。) ほら貝を吹く修験者は宝山寺の護摩供に登場された方です。(合成) ①かぼちゃ大師 不思議不動院の『かぼちゃ大師堂』には『かぼちゃ大師』と呼ばれる弘法大師像がお祭りされているということなんですが
残念ながら扉が閉められていました。
50年ほど前に醍醐寺より賜ったものだそうです。
②かぼちゃ大師のお告げその弘法大師像の御霊移しの儀を執り行う前夜、初代院主・酒井圓心師がお祈りをしていると、
『私はかぼちゃ大師である。我が法徳によって無事息災に人々を救おう。』
とお告げがあったそうです。
これ以降、この像を『かぼちゃ大師』と称し、冬至の日にかぼちゃ供養が行われるようになりました。
この日、境内ではかぼちゃの煮物をいただくことができます。
③かぼちゃという名前の由来はカンボジアだった。 日本のかぼちゃは、16世紀中頃ポルトガル船によってカンボジアからもたらさました。
『かぼちゃ』という名前はカンボジアに由来するといわれています。
④冬至とかぼちゃ 冬至にかぼちゃを食べる習慣は江戸時代中期ごろに生じたとされ、
冬至にかぼちゃを食べると中風(脳卒中)にならない、風邪を引かない、金運がよくなるなどと信じられていたようです。
⑤冬至に『ん』のつくものを食べると『運(うん)』を呼び込める。冬至にかぼちゃを食べるのはなぜなんでしょうか。
かぼちゃは本来は夏の野菜ですが、貯蔵がききます。
そこで野菜が不足する冬にかぼちゃを食べてビタミンを補給したのだとか、いわれています。
また冬至には『ん』のつくものを食べると『運(うん)』が呼びこめるとも言われています。
かぼちゃは『なんきん』とも言い、『ん』がつきますね。
大根も『ん』がつみます。
12月にはあちこちで大根焚行事が行われますが、大根焚も冬至にちなむ行事なのかも?
⑥吉太郎大明神 境内のあちこちに狸の像が置かれていました。
帰宅後、調べてみたところ狸谷山不動院前の坂を上ったところに狸谷山不動院の奥の院があり、そこに吉太郎大明神が祀られているようです。
そんなこととは知らなかったのでお参りしないで帰ってきてしまいました。
残念ーーー。ちゃんと調べてから行けばよかった。
吉太郎大明神は四国のおくろさん(狸神)を勧請したものなのだとか。
不思議不動院の近所の民家で祀られていたおくろさん
⑦四国の稲荷神社は狸を祀っている。四国には狐はいないといわれ(実際にはいます。)通常、稲荷神の神使は狐なんですが、四国では狸が稲荷神とされているそうです。
空海が四国に狸を解放した、などともいわれています。
狸谷山不動院が四国のおくろさん(狸神)を勧請した理由がなんとなく見えてきましたね。
⑧ 伏見稲荷大社は 紀氏の神と土地を奪った? 稲荷神社の総本宮は京都伏見の伏見稲荷大社です。
伏見稲荷大社があるあたりは、もともとは山城国紀伊郡といい、紀氏の土地であったようです。
ところがしだいに藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられています。
伏見稲荷大社の南に藤森神社がありますが、この藤森神社はもともとは伏見稲荷大社がある場所にあったそうです。
ところが伏見稲荷大社を創建するために藤森神社は移転させられています。
なので、伏見稲荷大社付近の人々は今も藤森神社の氏子がほとんどなのだとか。
藤森神社の祭礼では、氏子さんたちが御輿を担いで伏見稲荷大社にやってきて「土地返せ 地所返せ」と囃したてるそうですよ。
また伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神のほか、四大神をお祭りしています。
柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神神々のことだということです。(式内社調査報告)
五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神です。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られている神とあります。紀伊国とは紀州のことです。
そして記紀の記述によれば、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としており
大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとあります。
紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのでしょう。
そして紀州は紀氏の本拠地でした。
五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられるでしょう。
⑨紀氏の土地と神を奪ったのは空海だった? 『稲荷大名神流記』には次のように記されています。
816年4月ごろ、空海は紀州の田辺の宿で翁に出会いました。 翁は「私は以前あなたにあったことのある神である。あなたには威徳がある。私の弟子になるとよい。」といいました。 空海はこう答えました 「私は密教を広めたいと思っています。あなたは仏法でそれを守ってください。東寺であなたを待っています。」 翁と空海は仲睦まじく語らい、約束をかわして別れました。 823年1月19日、空海は東寺を賜り真言道場としました。 4月13日、紀州の神が東寺にやってきたので空海は大喜びしてもてなし、神として鎮まっていただきました。 伏見稲荷大社は空海が創建した東寺の鎮守なんですよね。
東寺の五重塔を建てるのに用いた木材は稲荷山から切り出したものだといいます。
『稲荷大名神流記』は紀州の神は自ら望んで東寺にやってきたと記しますが、本当かなあ?
伏見稲荷大社周辺に住む人々が伏見稲荷大社の氏子になっていなかったり、移転さえられた藤森神社の祭礼で伏見稲荷神社に乗り込んで「土地返せ、地所返せ」とはやし立てたりするところから察するに
かなり強引なやり方で土地と神は奪われたのではないかと思えるんですが。
空海は紀氏から土地を奪った首謀者のひとりなのではないでしょうか。
藤森神社 ●狐は和魂、狸は荒魂?神はその現れ方で御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)に分けられるといいます。
また、女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。
そして狐はたいてい女性に化けますし、狸は信楽焼きの狸の容貌などを見ると男性的です。
つまり、狐は和霊で、狸は荒霊を示しているのではないかと思います。
御霊・・・神の本質 和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・狐 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・狸 「空海が四国に狸を解放した。」というのは、「空海が荒魂(狸)を都から追い出して四国の地に追いやった」という意味ではないかと思います。 このように弘法大師(空海)と狸の関係は深いように思われます。 『不思議不動院』は『かぼちゃ大師』を祀っているところから、弘法大師と関係の深いは四国のおくろさん(狸)を勧請したのではないかなあと思ったりします。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2016/12/23 00:00]
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●12月13日は正月準備を始める日早いものでもう2016年も残りわずか。
12月13日は正月準備を始める「正月事始め」の日とされていますね。
みなさん、そろそろ大掃除は始めていますか?
私はまだぜんぜんやっておりません~。
いつも年内に大掃除が終わらないので、今年の大掃除はパスして来年になってからやろうかなんて考えてます。(汗)
●事始めの挨拶回りこの日、祇園では「事始め」の挨拶回りをする習慣があります。
舞妓さんや芸妓さんはお師匠さんに一足早く『おめでとうさんどす』と新年の挨拶し、お師匠さんは『おきばりやす』と言葉をかけて新しい扇を下さるのだそうです。
●六波羅蜜寺の隠れ念仏始まる 六波羅蜜寺では隠れ念仏の行事が12月13日から大晦日まで行われます。
(六波羅蜜寺の隠れ念仏の見学はできますが、撮影禁止です。)
六波羅蜜寺 隠れ念仏は日没後に始まります。(時間はきちんと決まっていません。)
六波羅蜜寺は平将門を慰霊するための寺で、空也が刻んだと伝わる十一面観音は平将門の霊封じ込めの像ではないかと私は考えているのですが
(詳しくはこちらの記事をお読みください↓
六波羅蜜寺 追儺式 『六波羅蜜寺に表れた土蜘蛛の正体は平将門だった?』※書き直しました。 )
平将門の霊に2週間も念仏をあげつづけて慰霊しなければ、正月が迎えられないということなんでしょうね。
隠れ念仏で十一面観音に献じられたお茶に梅干しと結び昆布を入れたものを新年に皇服茶として参拝者に授与されます。
六波羅蜜寺 皇服茶 ●北野天満宮の大福梅の授与も始まる 六波羅蜜寺だけでなく、京都では正月に大福茶(梅干しをいれたお茶。皇服茶とも。)を飲む習慣があり
北野天満宮でも12月13日より大福茶に用いる大福梅の授与が始まります。
北野天満宮で求めた大福梅。 ●お屠蘇は『蘇という鬼を屠る』という意味 北野天満宮では大福梅のほかにお屠蘇なども授与していました。
お屠蘇というのはみなさんご存知のように正月に飲むものですが、お屠蘇とは『蘇という鬼を屠る』という意味なのだそうです。
カープファンの友人がカープvsヤクルトの試合を見に行ったら
「飲め、飲め」といってヤクルトが配られていたと言っていました。
『飲む』という言葉には『水などの飲料を体内に摂取する』という意味のほか、『相手を圧倒する』という意味もあります。
カープファンの人たちがヤクルトを飲んで応援するのは、『ヤクルトを圧倒する』というおまじないなのでしょう。
そして『お屠蘇』の『蘇』は『鬼』だというのですが、東北は鬼が出入りする方角『鬼門』として忌まれてきました。
東北は干支では丑寅です。
干支で12か月をあらわすと、12月が丑、1月が寅なので、丑寅は1年の変わり目ということになります。
つまり、蘇=鬼=1年の移り変わりということで、お屠蘇を飲んで新年を迎えるというおまじないだと考えられると思います。
●梅は1年の変わり目を表している?すると京都の人々が正月に大福茶(皇服茶)を飲むのも、お屠蘇を飲むのと同じく、新年を迎えるおまじないなのではないでしょうか?
http://www.hana300.com/ume000.html ↑ こちらのサイトに「1月1日と2月3日の 誕生花(梅)。」と書いてあります。
1月1日は元旦、2月3日は節分です。
江戸時代までの日本では旧暦と二十四節気のふたつの暦を用いていました。
二十四節気とは1太陽年を二十四等分したものです。
二十四節気では立春(2月4日ごろ)を新年としていました。
江戸時代までの日本には正月が2回あったわけですね。
節分はこの立春の前日のことで、二十四節気の大晦日ということになります。
そしておおざっぱにいって、旧暦は新暦の約1か月遅れなので
旧暦の1月1日は新暦換算すると2月ごろとなり、節分とだいたい同時期でした。
梅の花はだいたい2月ごろより咲き始めるので、1年の変わり目をあらわす植物だと考えられたのではないでしょうか。
●王福茶は怨霊を飲むおまじない?また梅は北野天満宮の御祭神・菅原道真のシンボルでもあり、紋も星梅鉢門です。
道真を祀る天満宮には決まって梅が植えられていますね。
北野天満宮 梅 道真は藤原時平の讒言で大宰府に左遷となった人で、死後怨霊になったと畏れられた人です。
怨霊は祀り上げると神になるという信仰があり、現在では菅原道真は学問の神として信仰されていますが、もともとは怨霊だったのです。
怨霊=鬼=丑寅=1年の変わり目
怨霊=菅原道真=梅
ということで、京都では梅干しをいれたお茶を飲んで、正月を迎えるのでは?
六波羅蜜寺のところでお話しした平将門は、東国に独立国をつくったため謀反人として殺された人物でやはり怨霊です。
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[2016/12/13 07:00]
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京都市上京区 千本釈迦堂 (大報恩寺) 大根焚 12月7日 8日(有料) ●お釈迦さまが悟りを開いた日 12月8日は釈尊が悟りを開いた日とされ、千本釈迦堂の大根焚はこれにちなむ行事だとされます。
12月8日には成道会法要も行われます。
なぜ千本釈迦堂では大根焚きを行っているのでしょうか?
●京都各地で行われる大根焚 冬の京都では各地で大根焚が行われます。
了徳寺では報恩講(親鸞の命日の法要)の大根焚が12月9日~10日、三千院の初午大根焚が2月8日 ~ 11日に行われます。
嵯峨聖天の大根供養は毎年小雪を含む2日間です。(日にちは変更になってるかもしれないので確認してくださいね。)
●大根焚は聖天さんにちなむ行事だった? 上の写真は東京の待乳山聖天です。
巾着袋と違い大根は聖天さんのシンボルです。
どこの聖天さんに行っても、多少のデザインの違いはあってもこんな感じのンボルが用いられています。
聖天さん(歓喜天) とは鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神(十一面観音の化身)の男女双体の神です。
聖天さんの紋が違い大根なのは、鬼王ビナヤキャは大根と牛と人肉が好物だったとされるところからくるのだと思います。
待乳山聖天では1月7日に大根まつりを行っており、ふろふき大根を授与しているそうです。
嵯峨聖天でもの大根供養を行っていますし、大根焚きはもともとは聖天さんの行事だったのではないでしょうか?
●千本釈迦堂の大工の棟梁と阿亀の伝説そして千本釈迦堂には大工の棟梁と棟梁の妻・阿亀の伝説が伝えられています。
千本釈迦堂の本堂を建てるとき棟梁が謝って柱を短く切ってしまいました。 妻の阿亀が柱の長さが足りない分を枡組を作って補ったらどうかとアドバイスし、本堂は完成しました。 しかし阿亀は女の助言を受け入れたことが知られたら夫の恥になると思い、本堂が完成する前に自害してしまいました。 上の写真を見ると本堂の柱に枡組がついていますね。
たぶんこれのことを言っていると思います。
●に∧は男性、∨は女性 ベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』に∧は男性、∨は女性を表すと書いてあったように記憶しています。
枡とは凹で女性を、柱とは凸で男性を表しているのではないでしょうか。
すると枡(凹)と柱(凸)が合体している千本釈迦堂の柱は男女和合の象徴であるということになります。
そういったところから、千本釈迦堂は聖天さんのイメージと重ねられ、大根焚きの行事を行うようになったのではないでしょうか。
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[2016/12/08 00:18]
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京都市中京区 空也堂 空也忌・・・11月第2日曜日 ●空也踊躍念仏 11月第2日曜日、空也堂では空也忌が行われ、空也踊躍念仏が行われます。
踊躍念仏とは鉦や太鼓をたたきつつ踊りながら念仏を唱えるというもので、空也が創始したといわれています。
●空也堂創建説話 空也堂には次のような創建説話が伝わっています。
空也は鹿の鳴声を愛していましたが、あるとき平定盛がその鹿を殺してしまました。 空也は大変悲しんで、鹿の毛皮で衣を作り,角を杖の頭につけて念仏を唱えました。 定盛は鹿を殺したことを悔い、空也の弟子となって空也堂を立て、空也を開基としました。 ●トガノの鹿 同じような話が日本書紀にあります。
仁徳天皇は鹿の鳴声を愛していましたが、あるときから鹿の声がぱったりと聞こえなくなりました。 ほどなくして、佐伯部が天皇に鹿を献上しましたが、それは天皇が鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿でした。 天皇はこれに心を痛められ、佐伯部を安芸の渟田に左遷しました。また日本書記はこの話のあとに、次のような話を続けています。
雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。 翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(トガノの鹿) ●雄鹿は謀反人の比喩 謀反の罪で殺された人は塩が振られることがあり、雄鹿とは謀反人の比喩だとする説があります。
鹿の夏毛には白い斑点がありますが、これが塩や霜に喩えられたのでしょう。
すると平定盛が殺した空也が愛していた鹿とは謀反人だということになります。
●平定盛と平貞盛は同一人物 創建説話に登場する平定盛とは平貞盛のことです。
平定盛と平貞盛は別人だと思っている人もいるようですが、空也堂に平貞盛焼き捨ての兜なるものが残っているので間違いありません。
●平将門の乱を平定した平貞盛平貞盛は平将門のいとこで、将門が東国で乱を起こしたとき、藤原秀郷とともに討伐に向かった人物です。
平将門は平貞盛・藤原秀郷らの軍との戦いの中で流れ矢にあたって死亡し、その首は京に持ち帰られて鴨川のほとりに晒されました。
つまり平定盛(平貞盛)が殺した鹿とは平将門のことだと思います。
千本六斎会による六斎念仏の奉納もありました。
空也は六斎念仏の祖ともされています。
●平将門鎮魂に情熱を注いだ空也 そして空也は将門の祟りを鎮魂するために念仏道場をたてるなど、将門の鎮魂に熱心な僧侶でした。
(詳しくはこちらをお読みください→
迎稱寺 萩 『平将門の怨霊』 )
このように見てみると、空也堂は平将門を鎮魂するための寺ではないかと思えるのです。
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[2016/11/14 00:00]
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嵐山渡月橋一帯 嵐山紅葉祭・・・11月第2日曜日 桂川に今様舟、平安管弦舟など様々な舟が桂川に浮かべられ、それぞれの舟上で催しが行われます。
平安管弦舟 嵯峨狂言・頼光と土蜘蛛 今様船 桂川のほとりでは夕霧太夫のお練りが行われました。
今日はこの夕霧太夫についてお話ししたいと思います。
よくこんな高い下駄はいて歩けますね!
●夕霧大夫道中 江戸の吉原遊郭では最高位の遊女のことを花魁といったそうですが、京や大阪では太夫といいました。
二人の少女の後ろを歩く女性が夕霧太夫、二人の少女は禿(かむろ)です。
禿とは遊郭に住んで太夫の身の回りの世話などをしていた遊女見習いの童女のことを言います。
役肌寒い季節なのに太夫さんは素足で、高さ20cmはありそうな三枚歯の高下駄をはき、八文字を踏みながらゆっくりと練り歩いていきました。
「八文字を踏む」というのがどんな歩き方かというのは、下の動画の0:18あたりからがわかりやすいです。
VIDEO 動画おかりしました。 動画主さん、ありがとうございます。
江戸時代、太夫は新造・禿を従えて引手茶屋まで客を迎えに行く習慣があり、道中と言いました。
この行事はこれを再現したものです。
●花街と夕霧大夫 夕霧は京都島原にあった扇屋の太夫でした。
島原にはかつては置屋が約50軒、揚屋が約20軒あったそうですが、今は揚屋の『角屋』が一軒残っているだけだそうです。
『角屋』、見にいきたいと思いながらずるずるとそのままになっています。
近いうちに見に行こう。
置屋とは遊女を雇いいれる店のことで、遊女は置屋で生活しました。
揚屋とは客が遊女と遊ぶ場所のことです。
のちに扇屋が大阪の新町に移転したので、夕霧も新町の太夫になりました。
夕霧大夫はたいへんな美人で芸事にも秀でていましたが、20代でその短い生涯を終えました。
夕霧の墓は各地にありますが、渡月橋から歩いて15分ほどのところにある清凉寺にも墓があります。
●夕霧七年忌 夕霧の死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎がたくさん作られました。
その中のひとつに夕霧七年忌(近松門左衛門)があります。
夕霧が亡くなってから七年目のこと。 藤屋伊左衛門は夕霧との間にできたおせきと言う娘を大坂・新町の廓に身売りさせました。 伊左衛門は夕霧に瓜二つの島原の難波太夫を身受けしたいと思っており、その揚げ代の残金15両を支払うためでした。 あるとき伊左衛門はおせきを尋ねて新町に行き、そこで偶然、難波太夫に出会いました。 難波は伊左衛門の揚げ代の残金を支払うために新町に住み替えていたのでした。 親切な親方の計らいで、伊左衛門はおせきと難波は廓から連れて帰ることができました。 遊女を身受けするために娘を遊郭に売るなんてなんちゅうひどい父親や!!
でも、この物語のテーマはそういうことではなく、別のところにあると私は考えています。
●真言立川流 真言立川流という仏教の宗派がかつてありました。
江戸時代に邪教であるとして迫害され、消滅したとされていますが。
立川流では人間の髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作りました。
そしてその髑髏本尊を袋の中に入れて7年間抱いて寝ることで、
8年目 に髑髏は命を持つようになると考えられていたようです。
●8は復活を意味する数字 梅原猛さんは「
8 は復活を意味する数字」だと言っておられます。
八角墳や八角堂は死者の復活を祈ってつくられたものではないかというのですね。
●計算があわない「七転び八起き」 『七転び八起き』という言葉がありますが、七回転んだら起きるのも八回で計算があいません。
●七で転じて8で復活する?転ぶという言葉には「物事の成り行きが別の方向に向かう」という意味もあります。
『七転び八起き』とは「七で転じて、八で復活する」という意味ではないでしょうか。
『夕霧七年忌』の物語は、夕霧の死後7年目の話です。
現在では生まれたばかりの赤ん坊は0歳ですが、かつては1歳としていました。
これは生後1年目に突入したという意味で1歳としていたのだと思います。
同様に考えれば、七回忌は死後8年目に突入する日だと考えられます。
『夕霧七年忌』の物語のテーマは、『夕霧が死後8年目に難波太夫として復活した』ということなのではないでしょうか。
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[2016/11/13 00:00]
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京都市上京区 京都御所 京都御所では春と秋に一般公開を行っていましたが、最近、通年公開になりましたね。
紅葉や雪の御所を見てみたい~。
写真は2006年の秋の一般公開を撮影したものです。
碁を打っていますね。 碁は7世紀ごろ中国より日本へ伝わったとのことです。 源氏物語や枕草子にも碁について記されているそうです。 藤原佐為は実在したか? ●大内裏 天皇が住み、儀式や執務を行う宮殿のことを内裏といい、禁中・禁裏・御所ともいわれていました。
内裏の周囲には官庁が並び、その周囲が大垣で囲まれていました。
その大垣で囲まれた場所を大内裏といいます。平安宮ともいいます。
●平安時代の大内裏は2kmほど西にあった。 平安京が作られた当時の大内裏(は現在の千本通りと丸太町通りが交差するあたりにありました。
現在の京都御所から2kmほど西ですね。
今は児童公園に『大極殿遺跡』の石碑があるだけで当時のおもかげを忍ぶものはないようです。
庭では蹴鞠が行われていました。
●里内裏 大内裏の建物は落雷や火災などでたびたび被害を受けています。
最初のころは被害を受けるたびに再建されていたのですが、11世紀ごろには天皇は里内裏に住むようになりました。
里内裏とは仮皇居として用いられた天皇外戚(藤原氏)の邸宅のことです。
1227年、大内裏のほとんどを焼失する火災が発生して以降、再建されることはありませんでした。
現在の京都御所はこうした里内裏のひとつで1331年に光厳天皇が里内裏としてから550年間にわたって使用されてきたものです。
●天皇家には大内裏の修復費用がなかった? 大内裏の建物が修復されなくなった理由についてネットを調べたところ「天皇家にお金がなかったから」というのがありました。
しかし平安京を建都する際にも天皇家にはお金はなかったと思います。
なにせ平安京遷都の10年前に莫大な費用をつぎこんで長岡京を建都したばかりだったのですから。
785年に桓武天皇の弟で皇太子だった早良親王が藤原種継暗殺に関与したとして長岡京の乙訓寺に幽閉されるという事件がおきました。
早良親王は無実を主張してハンガーストライキを決行し、流罪となって淡路へ向かう船の上で憤死されました。
長岡京がわずか10年で捨てられ平安京に遷都したのは、早良親王の怨霊がすむ長岡京から逃れるためであったと言われています。
そして平安京建都にかかる莫大な費用と土地は秦氏が提供したと言われています。
●自分たちの邸宅に天皇を住まわせた藤原氏一方、天皇外戚の藤原氏は多くの荘園を持っていましたから、相当なお金持ちだったのではないかと思います。
藤原氏が大内裏を作って天皇家に献上するという方法もあったはずですが、そうはされていません。
藤原氏の邸宅に住んでもらったほうが天皇を御するのに都合がいいと藤原氏は考えていたということなのではないでしょうか。
清涼殿には采女装束を身に着けたマネキンが飾られていました。 采女とは本来は天皇の食事や身の回りのお世話などをする女官のことでしたが、平安時代以降はすたれ、特別な行事(大嘗祭など)の時に給仕をする官職のことを采女というようになりました。 采女が写真のような装束を着用していたのは江戸時代中期ごろからだと考えられています。 青海波の模様の袖が清々しくていいなあ~ 。
●菅原道真に恨まれた土地 930年、都は大変な干害に見舞われました。
そのため御所の清涼殿で干害対策会議が行われたのですが、その最中、突然激しい雷雨となり雷が清涼殿を直撃するという事件がありました。
多くの死傷者が出ましたが、その死傷者の中には901年の菅原道真左遷(藤原時平の讒言により醍醐天皇が菅原道真を大宰府に左遷した事件。)にかかわった人物が多数いました。
そのため清涼殿への落雷は道真の怨霊の仕業だと考えられました。
醍醐天皇はこの清涼殿落雷事件の3か月後に崩御されましたが、それは道真の怨霊をおそれるあまりノイローゼになったのが原因ではないかといわれています。
1221年の大内裏の火災もまた菅原道真の怨霊の仕業だと考えられたのかも?
そのため「この土地は菅原道真に恨まれている」として大内裏は再建されずに放置されたのではないかと思ったりします。
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[2016/11/05 00:00]
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京都市上京区 護王神社 亥の子祭・・・11月1日 ●亥子祭平安時代、亥の日・亥の刻(10月の亥の日、午後10時ごろ)に亥子餅を食べると病気にならないという信仰があり、宮中において玄猪(げんちょ)の儀式が行われていました。
亥子祭はこの平安時代の宮中行事を再現したものです。
護王神社の舞殿に十二単姿の女房が四人、束帯姿の殿上男が四人登場し、聖上を取り囲むようにして席につきます。、
聖上が「神奈月時雨のあめのあしごとに我がおもふことかなへつくつく」と唱えながら小さな臼と柳の杵で餅をつきます。
殿上男たちは「いのちつくつかさ」女房たちは「いのちつくさいわい」 と唱えます。
その後、人々は餅を献上するため、行列をつくって御所へ向かいました。
●正史と喰い違いをみせる「護王神社絵巻」 護王神社の外壁には絵巻物風のパネルが沢山展示されていました。
タイトルは『護王神社絵巻』となっていて、769年の宇佐八幡宮神託事件について記されていました。
護王神社の御祭神は和気清麻呂と清麻呂の姉の広虫なのですが、彼らはこの宇佐八幡宮神託事件に大きく関わった人物なのです。
※ピンク色の文字は、護王神社絵巻に記された文章を転記したものです。 そのころ弓削道鏡という僧侶がいて政治に口出しをして勝手なことをしていました。 役人たちは恐れてご機嫌を取るだけでした。 ある時、宇佐八幡宮のお告げとして「道鏡を天子さまにするように」と伝えた者がありました。 そこで天子さまは清麻呂公をお呼びになって 「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」 と言いつけられました。 絵巻向かって左にはピンク色の僧衣を着た人物が描かれています。これが道鏡でしょう。。
道鏡の後ろには御簾があって、その中から女物の着物の裾が見えています。
これが天子さま、称徳天皇だと思われます。
天子さまは女性だったのです。
道鏡は清麻呂に『わしの望みがかなったなら、おまえを重い役にしてやるからよろしく頼む。』と言いました。 ※
ウィキペディア の説明は正史の記録をもとに記述したものだと思いますが、このような記述はありません。
宇佐に着いた清麻呂公は八幡宮に一心にお祈りしました。 すると 「我が国は神代から君と家来の区別がはっきりと決まっている。 どんなことがあっても家来を天子さまにすることはできない。道にそむく者は早く追払ってしまえ。」 という神様のお告げがありました。 清麻呂公は都に帰り、神様のお告げを天子さまにお答えしました。 道鏡は怒って清麻呂公を大隈国へ、広虫姫を備後国へ流しました。 ※ウィキペディアの説明では、清麻呂の奏上に怒って流罪としたのは道鏡ではなく、称徳天皇となっています。
道鏡は清麻呂公を途中で殺そうと思い、家来に追いかけさせました。 その時、急に大嵐になったのでみんな逃げてしまいました。 ※このような記述もウィキペディアにはありません。
清麻呂公は大隈国で少しの間も天子さまのことを忘れません。 藤原百川はお米を送って慰めました。 広虫姫が備後国で暮らしていた時、都から干し柿が届きました。 姫が育てた子供たちが送ってくれたのでした。 ※藤原百川がお米を送ったというのは、『百川伝』にも記されているので史実とみていいと思います。
1年あまりたちました。 天子さまからお使いがあって、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻されることになりました。 頭を下げているのが和気清麻呂でしょう。
その前に座っているのは天子さまの使者でしょうか?
護王神社絵巻が正史の記述と違うからといって、護王神社絵巻の内容が嘘だとはいえません。
ですが、正史と内容が違うということはきちんと認識しておいたほうがいいでしょう。
●護王神社絵巻に書いていないこと。 あることがらについて、故意に話さないということは、世の中で頻繁に行われます。
護王神社絵巻は単に護王神社に伝わる伝説をそのまま描いただけで、故意ではないと思いますが
ものすごく重要なことが抜けています。
天子さまからお使いがあって、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻されることになりました。 とありますね。
ここにある「天子さま」とは誰のことでしょうか?
「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」と和気清麻呂にいいつけた天子さま、つまり称徳天皇のことだと思いませんか。 ところが称徳天皇のことではないのです。 宇佐八幡宮信託事件があった翌年の770年、称徳天皇は急病を患って崩御されました。
看病のため称徳天皇に近づけたのは女官の吉備由利だけで、病回復のための祈祷も行われていません。
こうしたことから称徳天皇は暗殺されたのではないかとする説があります。
さらに称徳天皇の遺勅には「白壁王を天皇とすべし」と記されてありました。
この遺勅は藤原永手や藤原百川らがとりかえたものと考えられています。
その結果、藤原永手・藤原百川らが推挙した白壁王が即位して光仁天皇となり、道鏡は下野国へ流罪となり数年後に亡くなりました。
和気清麻呂の罪が許されたのは称徳天皇が崩御されたあとのことで、光仁天皇の意思によるものだったのです。
絵巻の文章は称徳天皇も光仁天皇もどちらも「天子さま」としており、称徳天皇が崩御されたことについては一言も触れられていません。
なので宇佐八幡宮神託事件についてご存じない方がこの『護王神社絵巻』をよむと、天子さまはひとりだと勘違いしかねないんじゃないかなあ~?
上の絵の女性は称徳天皇ではありえません。(このときすでに崩御されているので。)
●道鏡は皇族だった? 道鏡の父親は志貴皇子だとしている史料もあり、そうであれば道鏡は皇族であって正当な皇位継承権があったということになります。
とすれば称徳天皇が和気清麻呂の奏上にかんかんになって怒った理由もわかります。
詳しくはこちらの記事を参考にしてください。→
奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』 道鏡は平将門・足利尊氏らとともに日本三大悪人のひとりに数えられたりしますが、本当にそうなのでしょうか?
道鏡の地元・大阪府八尾市には「道鏡を知る会」があり、道鏡の名誉回復に努力されているそうです。
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[2016/11/01 00:00]
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京都市上京区 北野天満宮 余香祭 10月29日 北野天満宮 本殿●醍醐天皇、道真の詩に感激して更衣を与える。 今ごろは旧暦では9月9日の重陽の節句の時期にあたります。
北野天満宮にも大輪の菊がお供えされていました。
900年菅原道真公は重陽の節句の翌日、9月10日の宴の際に歌を詠んだそうです。
「秋思」という題だというので、たぶん、この漢詩のことじゃないかと思います。(ちがってたら指摘をお願いします!)
秋思詩 (しゅうしのし )
丞相(じょうしょう)年を度(わた)って 幾ばくか楽思(らくし)せる今宵(こんしょう)物に觸れて 自然に悲しむ 聲寒き絡緯(らくい) 風の吹く處 葉の落つる梧桐(ごどう) 雨の打つ時 君は春秋に富み 臣は漸く老いたり 恩は涯岸(がいがん)無くして 報ゆる 猶(なお)遲し知らず此の意 何が安慰(あんい)せん 酒を飲み琴を聽き 又詩を詠ず 右大臣を拝命し年を越したが、政務に負われ、どれほど楽しい思いをしただろうか。 今宵も何かにつけて自然に悲しく思う。 もの寂しい虫の音、秋風の吹くところに。 葉が落ちる青桐、雨が降る夜に。 わが君は若く、私は老いていくばかり。 君の恩にはまだ報いることができていない。 このやるせない心を何が慰めてくれるであろうか、自分にはわからない。 ただ酒を飲み、琴を聴き、また詩を吟詠するばかりである。 この詩を聞いた醍醐天皇は感激されてご道真にご自身のご更衣を与えました。
大阪天満宮に展示されていた人形 ●道真、去年の秋を思い出し、残り香を拝する。 ところが、その翌年、藤原時平の讒言によって道真は大宰府に流刑となってしまうのです。
そして、道真は9月10日に「重陽後一日」の詩を詠みました。
去年の今夜 清涼に待す 秋思の詩篇 獨り斷腸 恩賜の御衣は今此こに在り 捧持して 毎日餘香を拝す 去年の今夜は清涼殿の宴で、醍醐天皇のお傍にはべっていた私。 「秋思」という題で私は詩を詠んだの。 思い出すとはらわたがちぎれてしまいそうだわ。 あの時、あなたからいただいた着物は、今も大事にしているわ。 毎日、こうしてその着物をとりだして、匂いをかいでいるのよん。 あなたの匂いがまだ残っているから。 余香祭はこれにちなむ行事で、本殿で全国から寄せられた詞を披露します。
大阪天満宮に展示されていた人形 ●乙女チック道真?重陽の節句の翌日に詠んだ歌だそうですが、重陽の節句は菊の節句ともいわれます。
菊はBLの象徴(菊座を検索!)ですし、道真は醍醐天皇を愛していたのかも。(きゃー♡)
離れ離れになっても、道真は醍醐天皇を偲び続けているのでしょうか。
なんとも乙女チックな道真さん?
大阪天満宮に展示されていた人形 ●道真、怨霊になる。903年、道真は大宰府で亡くなりました。
道真の死後、都では不幸な事件が相次ぎました。
909年、醍醐天皇に讒言をした藤平時平が39歳という若さで病死。
913年、源光が狩の際、泥沼で溺死。源光も道真左遷にかかわったとされています。
923年、醍醐天皇の皇太子・保明親王が薨去。
醍醐天皇は保明親王の子の慶頼王を皇太子としましたが、925年にわずか4歳で夭逝。
930年には清涼殿に落雷があり、多くの死傷者が出ました。
これらの一連の事件は道真の怨霊の仕業と考えられました。
清涼殿落雷事件の3か月後、醍醐天皇は崩御されました。
死因は道真の怨霊に怯えるあまり、ノイローゼになったためとも言われています。
北野天満宮 余香祭 烏帽子には菊が飾られています。 ●思い出の清涼殿雷が落ちた清涼殿は、醍醐天皇と道真にとって思い出の場所でした。
醍醐天皇は重陽の節句に清涼殿で宴を開き、ここで道真が秋思詞を詠んだのでした。
その清涼殿に雷が落ちるなんて、これはもう道真が雷神になって復讐しにきたにちがいないと思ったことでしょうね。
●桜散り老い来る道高田祟史さんは和歌とは呪術だったとおっしゃっています。
在原業平が藤原基経の四十歳の算賀にこんな歌を詠んで送っています。
桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに (桜の花よ、散り乱れてあたりを霞ませておくれ。『老い』が通って来ると聞く道が、花に紛れてしまうように。) この歌は一見、基経を気遣う歌のようでありますが、
五七五七七の冒頭の漢字をつなげてみると…桜散老来道(桜散り老い来る道)になると高田祟史さんはおっしゃっています。
つまり在原業平は藤原基経に対して
「桜が散ると、老いがやってくる。基経め、さっさと老いぼれて死にやがれ~」と歌を詠んだということですね。
● 醍醐天皇の着物は 藁人形がわりにされた? 道真が詠んだのは和歌ではなく漢詩ですが、漢詩も和歌同様、呪術的に用いられることがあったのではないでしょうか。
道真の「重陽後一日」の詩、一見すると乙女心を読んだかのようですが、そうじゃないかも~。
醍醐天皇の着物は、醍醐天皇を模した藁人形のようなものだといってもいいでしょう。
そしてその醍醐天皇の形代ともいうべき着物の匂いを毎日かいでいる道真。
ときどきなら乙女チックですんでも、毎日となれば、すごい執念です。
それも、はらわたがちぎれるような思いで匂いをかいでいる。
まるでストーカーのようです。(ちょっとストーカーとはちがうか?)
だんだん、不気味になってきましたね。
北野天満宮 本殿 ●醍醐天皇がノイローゼになったのは道真のストーカー行為が原因だった?道真は醍醐天皇に対する乙女チックな恋心を詩に詠んだのではなく、猛烈な恨み心を詠んだのではないでしょうか。
最初にあげた現代語訳は間違いかもしれません。
次のように訳すべきかも。
去年の今夜は清涼殿の宴で、醍醐天皇のお傍にはべっていた私。 「秋思」という題で私は詩を詠んだ。 それなのに、醍醐天皇は藤原時平の讒言を真に受けて私を大宰府に左遷した。 思い出すとはらわたがちぎれてしまいそうだ。憎き、醍醐天皇め! あの時、醍醐天皇からいただいた着物がここにある。 この着物は醍醐天皇の形代である。 毎日、こうして着物をとりだして、醍醐天皇の匂いをかいでは、恨んでやるのだ!こんな歌を詠まれたら、醍醐天皇でなくてもノイローゼになりそう? 北野天満宮 楼門 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2016/10/31 00:00]
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鍬山神社・・・京都府亀岡市上矢田町上垣内22-2 亀岡祭・・・10月23日から25日 亀岡祭の宵宵宮の日、亀岡の町を訪ねました。
祭囃子を聞きながら情緒ある町を散策すると、十一基の山鉾が次々に現れます。
おでんやぜんざい、お神酒などの接待を行っている山もあり、いろいろ御馳走になりました。
亀岡のみなさん、ありがとうございました!
●亀岡盆地は湖だった。 亀岡祭は鍬山神社の祭礼ですが、鍬山神社には次のような伝説が伝えられています。
亀岡盆地が湖だった頃、大己貴命が八人の神様とともに樫船に乗り、鍬で浮田の峡を切り開き肥沃な農地を作りました。大己貴命が切り開いた浮田の峡とは保津峡のことです。
実際、亀岡盆地が過去湖だったことを示す地層が発見されているそうです。
●大己貴命と誉田別尊 鍬山神社の御祭神は大己貴命と誉田別尊ですが、誉田別尊が祀られたのは709年の創建から456年後の1165年のことです。
もともとは大己貴命を祀る神社だったのでしょう。
誉田別尊とは応神天皇=八幡神のことです。
八幡は「ハチマン」のほか「ヤハタ」「ヤワタ」とも読まれ、渡来人の秦氏が祭祀する神だと考えらえています。
『日本書紀』には『応神14年、弓月君が応神天皇の助けを得て百済より百二十県の人を率いて帰化した。』と記されています。
秦氏が日本にやってこれたのは応神天皇の援助があったからこそで、そういったことから秦氏は応神天皇を神として崇めていたのでしょうか。
●土木・治水の技術力に長けていた秦氏 保津川流域には秦氏が大勢住んでいました。
鍬山神社に誉田別尊を祀ったのは秦氏でしょう。
秦氏は土木・治水の技術力に長けた氏族で、渡月橋の下にある葛野大堰は秦氏が作ったものです。
保津峡の治水工事なども行ったことでしょう。
●秦氏の神乗っ取り計画 保津峡を作った大己貴命は秦氏が祀る神・誉田別尊と同一神なのかな、と最初は思いました。
けれどもそう思わせることが目的で秦氏は鍬山神社に誉田別尊を祀ったのかもしれません。
つまり秦氏は鍬山神社の神をのっとるのが目的で鍬山神社に誉田別尊を祀ったのではないか、ということです。
というのは秦氏には神をのっとった前科があるのです。
京都の藤森神社は紀氏の祖神を祀る神社で、もともとは伏見稲荷大社がある場所にあったそうですが、その地に秦氏が祭祀する伏見稲荷神社が建てられたため移転したのだそうです。
これは本来は紀氏の神であった稲荷山の神を、秦氏がのっとったということでしょう。
詳しくはこちらの記事をお読みください →
藤森神社 紫陽花 『紀氏の祖神を祀る寺』 鍬山神社ももともとは他の氏族が祀る神社であったのを、秦氏がのっとろうとして誉田別尊を祀ったのではないかと思ってしまいます。
鍬山神社に伝わる次の伝説はこれを伝えるものではないかと思えるのです。
1165年、八幡宮を鍬山宮の隣に祀っていたところ、雷雨の発生や鳩と兎の争いがあり、八幡宮を杉谷に遷したところ収まりました。 1609年、鍬山宮と八幡宮を隣合わせに祀りましたが、争いを防ぐために両宮の間に小池が設けられました。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2016/10/24 00:00]
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[2016/10/23 00:00]
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京都市左京区 由岐神社 鞍馬の火祭・・・10月22日 ●大地震と天慶の乱 昨日、中国地方で大きな地震がありましたね。関西も結構揺れました。
被害にあわれた方々に心よりお見舞い申しあげます。
939年ごろ、都は大地震にみまわれ、また天慶の乱が起きるなどしました。
天慶の乱とは平将門の乱と藤原純友の乱のことで、同時期におきたので天慶の乱と総称されています。
また出羽で俘囚(朝廷の支配に属した蝦夷のこと)が反乱を起こしており、これも天慶の乱と呼ばれています。
939年は朝廷にとって大変な年だったのです。
●由岐明神の遷宮 940年9月9日、朱雀天皇はそれまでは御所で祭っていた由岐明神を鞍馬に遷宮させました。
それはもちろん939年におこったもろもろの悪いことを払拭するという意味合いがこめられたものだったのでしょう。
由岐明神の遷宮の行列は無数の松明を携え、その行列は十町(約1キロ)に及びました。
『鞍馬の火祭』はこの遷宮の様子を再現したものだといわれています。
●山中なのに船頭篭手?下の写真の男性が腕につけているのは船頭篭手(せんどうごて)です。
船頭篭手は船頭の力強い腕力を表すために身に着けているとされていますが、
鞍馬は山なのに船頭ってちょっと違和感があります。
鞍馬川という川が流れていますが川を渡る船の船頭さんなんでしょうか?
鞍馬川って水量がそんなに多くないと思いますが、保津川の急流下りをするような船が中世には鞍馬川を渡っていたのでしょうか?
●由岐明神は藤原純友の乱平定を目的として遷宮された? 940年由岐明神が遷宮してきたのは9月9日ということですが、9月9日は旧暦だと思うので、これを新暦に直すと1940年10月12日となります。
平将門は940年3月25日に討死し、由岐明神が鞍馬に遷宮してきたときすでに平将門の乱は鎮圧されていました。
しかし、このとき藤原純友の乱はまだ鎮圧できていませんでした。
由岐明神を鞍馬に遷宮させたのは、由岐明神に立派な社殿を奉り、また都の東北におくことで鬼門封じとし、藤原純友の乱を鎮圧させようという呪術的な目的があったのではないでしょうか。
●藤原純友は海賊の棟梁だった。藤原純友は海賊の棟梁で、海賊を率いて乱を起こしました。
当時の海賊がどのようないでたちをしていたのかわかりませんが
もしかして鞍馬の人々が祭礼で身に着けているような船頭篭手をつけていたのかも?
鞍馬の人々のいでたちは藤原純友率いる海賊のいでたちなのではないでしょうか?
941年5月、朝廷の派遣した軍が純友軍を破りました。
純友は小舟に乗って伊予に逃れましたが、同年6月に捕らえられ、獄中で死亡しました。
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[2016/10/22 09:00]
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京都市北区 上賀茂神社 笠懸神事 10月第3日曜日 ●後鳥羽院が催した笠懸 笠懸とは馬上から鏑矢を放って的をいるものです。
流鏑馬(やぶさめ)とどう違うのか、よくわかりません。ご存知の方、教えてください!
1214年、後鳥羽院が上賀茂神社に行幸した際、笠懸(かさがけ)が催されました。
後鳥羽院は武芸が得意だったので、笠懸に興味があったのでしょう。
笠懸は流鏑馬よりも実践的なんだとか。
1221年、後鳥羽院は王権復権のため鎌倉幕府軍と戦っています。(承久の変)
後鳥羽院が武芸に熱心だったのは、鎌倉幕府軍と戦うたの準備だったのかもしれませんね。
しかし後鳥羽院は敗れ、隠岐に流罪となりました。
その後、上賀茂神社では長年笠懸が行われることはありませんでした。
復興したのは2005年だそうです。
●後鳥羽院と藤原定家・藤原家隆後鳥羽院は武芸のほか和歌も得意でした。
この時代の代表的歌人・藤原定家や藤原家隆とも交流がありました。
1200年、定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽院から新古今和歌集の撰者に任命されました。
ところが、歌の選定をめぐり定家は後鳥羽院と争ってしまいます。
1220年、怒った後鳥羽院は定家の歌会への参加を禁じました。
でもこのことは定家にとって災い転じて福となったのです。
先ほども述べたように、1221年、後鳥羽院は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからです。
承久の乱後、定家は後鳥羽院とは一切の連絡を絶ちました。そして官位をあげ、歌壇の頂点に立ったのです。
一方、定家の兄弟弟子である家隆は変後も隠岐の後鳥羽院と連絡をとりつづけました。
●「荒き波風」「そよ風」「夕凪」を無風状態に転じた定家の歌 織田正吉さんは、後鳥羽院と藤原家隆・藤原定家の歌は風をテーマとして対応しているのではないか、とおっしゃっています。
われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹け/後鳥羽院 (私は、新任の島守である。隠岐の荒き波風よ、それを心得て吹くがよい。) 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける /藤原家隆 (風が戦ぐならの小川の夕暮れ。夏越祓の禊をする風景だけが夏のしるしなのだなあ。) こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ/藤原定家 (いくら待っても訪れてこない恋人を待ちこがれている私は、あの松帆の浦(淡路島)で夕なぎの頃焼くという藻塩のように、身もこがれるほど に苦しんでいます。隠岐の荒い波風は承久の変に敗れた後鳥羽院の怒りの心を表しているのでしょう。
この後鳥羽院の怒りを静めてほしいという気持ちから、家隆は「そよ風」、定家は「夕凪(夕方の無風状態)」を歌に詠んだのではないかというのですね。
●お盆で戻ってくる霊の気配を詠んだ藤原家隆 家隆の歌について、もう少し詳しく見てみることにしましょう。
風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける /藤原家隆 (風が戦ぐならの小川の夕暮れ。夏越祓の禊をする風景だけが夏のしるしなのだなあ。) この歌は上賀茂神社の夏越神事を詠んだ歌で、一般的には次のように現代語訳されます。
「涼しい風がそよぐならの小川はすっかり秋らしい気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。」 と。
でもこの訳は間違いだと私は思います。
夏越神事は旧暦の六月の晦日に行われる行事でした。新暦に換算すると7月ごろです。
旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていたのです。
つまり旧暦では最も暑い時期に秋の始まりを迎えていたわけで、家隆は涼しい風が吹いたからすっかり秋らしくなったと歌を詠んだのではないと思うんです。
夏越神事が行われる6月晦日の翌日は7月1日、この日はは釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていました。
釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日であのことであり、この日からお盆が始まるとされていました。
家隆は楢の葉がざわつくようすに、お盆であの世からこの世に戻ってきた霊の気配を感じたのではないでしょうか。
(参照/
上賀茂神社 夏越神事 『旧暦の夏の終わりはお盆の始まり』 )
上賀茂神社 夏越神事 ● 楢葉守 上賀茂神社の禊川が「ならの小川」呼ばれているのは楢の木がたくさん植えられているからだそうです。
そこで『楢』を古語辞典でひいてみると『楢葉守=ならの木の葉を守る神』とあり、文例に『楢葉守の祟りなし(浄瑠璃・会津山・近松)』がひかれていました。
古には楢葉守という神が存在すると考えられていたということがわかります。
しかもその神は祟る神、怨霊なんですね!
お盆には先祖の霊とともに悪霊も戻ってくると考えられていたといいます。
楢の木をざわざわと戦がせたのは楢葉守でしょうか?
笠には赤い顔をした人形の頭のようなものがついていました。これは何でしょうか? ※追記 キャロットさんが教えてくださいました。ありがとうございました。鬼面といって魔除けなのだそうです。 上賀茂神社の笠懸神事は武田流で行われました。小笠原流では鬼面はついていないとのことです。 流鏑馬の写真を撮るのがうまいキャロットさんのブログはこちら→Aunt Carrot’s Blog ●
新島守と楢葉守 後鳥羽院が詠んだ歌は
われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹け でしたね。
家隆の
風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける という歌の中には楢葉守という言葉は出てきませんが、どうやら楢の葉を戦がせたのは楢葉守のしわざのようです。
そういうわけで、二つの歌は「新島守」と「楢葉守」で対応しているように思えます。
新島守とは後鳥羽院のことですが、楢葉守もまた後鳥羽院のことを指しているように思えます。
荒い波風を吹かせる後鳥羽院の怨霊は、上賀茂神社の夏越神事によって穢れが祓われ、風の勢いが弱まってそよ風になったという意味なのかも?
●生霊 家隆の歌は詞書から1229年に詠んだ歌であることがわかります。
1221年の承久の変から8年目ですね。
後鳥羽院の生没年は1180年-1239年なので、家隆がこの歌を詠んだとき、まだ後鳥羽院は生きておられました。
ですが、源氏物語には六条御息所が生霊になって葵上を殺してしまうという話があります。
楢の葉をざわつかせたのは後鳥羽院の生霊だったのかも?
あるいは後鳥羽院の呪いが楢葉守となって楢の葉をざわつかせたのかもしれません。
●家隆はなぜ上賀茂神社の夏越祓の歌を詠んだのか。 夏越祓の行事は上賀茂神社だけで行われる神事ではなく、多くの神社で行っています。
それなのに家隆はなぜ上賀茂神社の夏越祓の歌を詠んだのでしょうか。
家隆は1214年に後鳥羽院が上賀茂神社で催した笠懸を思い出し、それで上賀茂神社の夏越祓の歌を詠んだのではないでしょうか?
腕を伸ばしてライブビュー撮影するしか仕方なく・・・。 翌日、肩が凝って熱まで出て一日寝込みました~。腕力をきたえなきゃね~(とほほ) 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2016/10/18 01:39]
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京都市伏見区 城南宮 城南祭(神幸祭)・・・10月第3日曜日 ●三光の紋 鉾や旗にあしらわれている紋は城南宮の御神紋で「三光の紋」といいます。
日、月、星をデザインしたものだとされています。
●三光の紋は陰陽道の宇宙観を表している? 三光の紋は、向かって左が三日月、向かって右が小さな丸、中央が大きな丸になっています。
陰陽道の宇宙観では東を太陽の定位置、西を太陽の定位置、中央を星としています。
三光の紋はこの陰陽道の宇宙観をデザインしたものではないでしょうか。
●左が太陽で右が月。 日本書記や古事記に次のような話があります。
黄泉の国から戻ったイザナギが禊をしたとき、左目を洗うと天照大神が、右目を洗うとから月読命が、鼻を洗うとスサノオが生まれた。地図では左が西で右が東です。
でもそれは正確には向かって左が西で、向かって右が東なんです。
地図の側にたつと左が東で、右が西になります。
この記述も陰陽道の宇宙観に基づくものだと思います。
イザナギの顔が宇宙なんですね。
とすればイザナギの顔(=宇宙)の中心から生まれたスサノオは星の神だということになります。
船場俊昭さんは次のようにおっしゃています。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。
●薬師三尊像も陰陽道の宇宙観をあらわしている?薬師三尊像(薬師寺)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Triad_of_Yakushi_Nyorai.JPG?uselang=ja よりお借りしました。
仏像の安置形式に薬師三尊像があります。
薬師三尊像では中央に薬師如来を置き、薬師如来の左(向かって右)には日光菩薩、薬師如来の右(向かって左)には月光菩薩を配置します。
これも陰陽道の宇宙観に基づいた配置だといえるのではないでしょうか。
左(東)・・・太陽・・・天照大神・・・日光菩薩 中央・・・・・ 星・・・ スサノオ・・・薬師如来 右(西)・・・ 月・・・ 月読命・・・月光菩薩 ●三光の紋の大きな丸は星を表す?ここでもう一度、三光の紋を見てください。
中央にある大きな丸が太陽、向かって左下の三日月型が月、向かって右下の小さな丸が星だとされていますが
私は大きな丸が星で、小さな丸が太陽ではないか、と思います。
その理由は、ふたつあります。
①陰陽道の宇宙観では中央が星の定位置だが、三光の紋は大きな丸が中央にある。
②薬師三尊像において、中尊の薬師如来(星の神だと考えられる)は一回り大きく作られている。
●神功皇后は星の神城南宮では神宮皇后を祀っていますが、神宮皇后は大阪の住吉大社の御祭神でもあります。
住吉大神((底筒男命、中筒男命、表筒男命、神宮皇后の総称)はみたらし星(オリオン座の三つ星/実際には星は四つあります。)を神格化した神ではないかといいう説があります。
住吉大社の社殿は↓の図のようになっていますが、この社殿の並びはオリオン座の三つ星を表しているのではないか、というのです。
このように神宮皇后は星の神であると考えられます。
そして城南宮ではこの神宮皇后を主祭神としています。
主祭神のシンボルを神紋の端に配置したりするかなあ?
主祭神のシンボルは神紋の中央にもってくると考えるのが自然だと思います。
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[2016/10/16 00:00]
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京都市南区 六孫王神社 宝永祭・・・体育の日 (確認をお願いします。) ☆ 六孫王神社の氏子さん方にはおにぎりまでごちそうになり、ありがとうございました。 美味しかったです!
●清和源氏の祖・源基経六孫王神社の御祭神は源経基です。
源経基は清和源氏の祖とされている人物です。
源経基は清和天皇の第六皇子・貞純親王の子で、六男の孫なので皇室では六孫王と呼ばれていました。
経基は15歳のとき元服し、その際先例に従って臣籍降下し、源の姓を賜わりました。
しかし経基は臣籍降下させられたことがとても不満だったようです。
●臣籍降下させる基準 当時の朝廷で臣籍降下させる規準とはどういうものなのだったのでしょうか。
嵯峨天皇・仁明天皇・文徳天皇・清和天皇の皇子たちのうち、皇后を母に持つ皇子が臣籍降下した例はありません。
それ以外の皇子の多くは臣籍降下し、皇子が臣籍降下しない場合でも、皇子の子、すなわち天皇の孫にあたる王の多くが臣籍降下しています。
経基は清和天皇の第六皇子・貞純親王の子なので、源経基の臣籍降下は当然のことのように思われます。
●源 経 基は陽成天皇の孫で元平親王の子だった? ところが、経基は清和天皇の第六皇子・貞純親王の子ではなく、実は陽成天皇の子・元平親王の子だとする文書の写しが発見されています。(石清水八幡宮田中家文書)
星野恒氏は石清水八幡宮田中家文書の記録から、次のようにおっしゃっています。
「陽成天皇は凶暴性があるとして藤原基経に退位させられている。
清和源氏はそのように評判が悪い天皇の子孫を名乗るのを憚って一代前の清和天皇の子孫を名乗ったのではないか」と。
塔百景22 ●陽成天皇には凶暴性があった? 876年、陽成天皇は9歳で即位しましたが在位中に一人も正式な妃を入内させていません。
これは前例のないことでした。
そして、884年、17歳のとき源益を殴殺するという事件をおこした結果、凶暴性ありとして摂政の藤原基経に退位させられています。(源経基に藤原基経・・・ややこしいですね~。)
●陽成天皇の父親は在原業平だった? 私は陽成天皇に凶暴性があったということを、頭から信用することはできないと思っています。
というのは、陽成天皇は清和天皇の子ではなく、在原業平の子ではないかとする説があるからです。
陽成天皇の父は清和天皇、母は藤原高子だとされていますが、伊勢物語には在原業平と藤原高子がが駆け落ちしたという記述があります。
高子はすぐに兄の藤原基経に連れ戻されてしまい、駆け落ちは未遂に終わるのですが。
のちに高子の兄の基経は陽成天皇の摂政となりました。
ふつうに考えれば基経の甥・陽成天皇が天皇であることは、基経にとって都合のいいことであったはずです。
陽成天皇が殺生事件を起こしたというのが仮に本当だったとしても、普通なら全力で事件のもみ消しにかかるところではないでしょうか。
それをあえて退位させているところをみると、陽成天皇は業平の子供だったのではないかと思ってしまいます。
在原業平は清和天皇の異母兄の惟喬親王の寵臣であり、惟喬親王を担ぎ上げてクーデターを企てていたとする説もあって、藤原基経とは犬猿の仲だったと想像されます。
そのため、陽成天皇が業平の子であると知った基経は陽成天皇を退位させたのではないでしょうか。
●皇太子になれたかもしれないのに! 陽成天皇は退位後に藤原遠長女とのあいだに元良親王と元平親王という皇子をもうけました。
陽成天皇の后妃の中で藤原氏の女性は藤原遠長女だけであり、陽成天皇が若くして退位しなければ、藤原遠長女が皇后となっていたことでしょう。。
そうであったならば元平親王は天皇となり、元平親王の子の源経基が皇太子になる可能性もありました。
経基の不満はそこにあったのではないでしょうか。
塔百景23毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪
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[2016/10/10 00:00]
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京都市上京区 北野天満宮 瑞饋祭(ずいきまつり)・・・10月1日~5日 ●藤原時平の讒言で流刑となった菅原道真 北野天満宮の御祭神・菅原道真は大変優れた人物だったといわれています。
それに嫉妬した藤原時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言をしました。
醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、道真は大宰府に左遷となりました。
大宰府に流刑となった数年後の903年、道真は失意の中、大宰府で死亡しました。
道真の亡きがらは牛車に乗せられて運ばれましたが、途中牛が動かなくなりました。
その場所に道真は葬られ、その上に社をたてたのが大宰府天満宮だといいます。
行列の牛車は道真の亡きがらが運ばれていくシーンを再現したものなのでしょう。
●ずいき神輿 すいき神輿の屋根は芋茎で葺いてあり、乾物で飾り付けられています。
瑞饋祭の『瑞饋』とは『最高の喜びを込めた贈り物』という意味で、平安時代、村上天皇の御代より始まったといわれています。
●豊臣秀頼の北野天満宮本殿建設とずいき神輿秀吉は1587年に北野天満宮で北野大茶会を行いましたが、10日間の予定がたった一日で茶会は中止になってしまいました。
茶会が中止になった理由にについては諸説ありますが、初日の夕方に肥後国一揆がおこったためという説が有力です。
秀吉は肥後を朝鮮や明国への出兵の基地にしようと考え、佐々成政を肥後の領主に任命して『太閤検地』を実施させていました。
その佐々成政に対して肥後北東部の国衆(土地を所有し、民政・軍政を担当していた戦国領主)が一揆をおこしたのです。
秀吉は肥後国に約二万人の軍勢を送り込み、ほとんどの国衆たちは殺されました。
その後秀吉は1592年に朝鮮出兵を行いましたが、失敗に終わりました。
そして6年後の1598年、秀吉は死亡し、豊国大明神の神号を与えられました。
1607年、秀吉の後継者の秀頼が秀吉の遺志をついで北野天満宮の本殿をたてました。
この年、初めてずいき神輿は作られました。
●ずいき神輿は秀吉の乗り物? 北野天満宮の御祭神・菅原道真の霊はさきほどの牛車に乗っていると思います。
ずいき神輿に乗っている神は菅原道真とば別の神、豊国大明神(豊臣秀吉)ではないでしょうか。
私がこのように考えるのは、秀吉の後継者の秀頼が北野天満宮の本殿を建てたのと、初めてずいき神輿が作られたのがほぼ同じタイミングだからです。
ずいき神輿は芋茎で屋根を葺いてあります。
瑞饋祭の『瑞饋』に『芋茎』をかけたのでしょう。
●肥後ずいき♡ 秀吉は肥後国一揆を鎮圧するために肥後に軍勢を送りましたが、肥後の国には『肥後ずいき』という名物があります。
「女好きの秀吉さまはきっとお喜びになるだろう」なーんて感じで、誰かが肥後すいきをおみやげに持ち帰ったりしなかったですかね~。
※『肥後ずいきって何?』なんて聞かないでね~。(笑)
祭見物をする舞妓さんたち夢窓疎石(1275-1351 禅僧)が次のような歌を詠んでいます。
いもの葉に 置く白露の たまらぬは これや随喜の 涙なるらん 現代語訳はご自身でなさってくださいね~。(汗~)表の意味と裏の意味がありますよ~。
『肥後ずいき』の『ずいき』はこの歌からつけられたともいいます。
食用の『ずいき』はハスイモやサトイモを乾燥させたもので、やはり夢窓疎石の歌からその名前がついたといわれています。
そして秀吉は当時たしなみとされていた男色には興味がなく、たいへんな女好きで、多くの側室をもっていました。
瑞饋祭は本当は肥後すいき祭だったりして?
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[2016/10/03 00:21]
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京都市左京区 下鴨神社 名月管弦祭 中秋の日 ●琵琶法師ってこんな感じ?式次第をもらいそこねたので、よくわからないんですが(しっかりせいー)
ナントカ琵琶とアナウンスがありました。
義仲がどうの~、と弾き語っていたように思います。
琵琶法師が平家物語を弾き語っていたのは、こんな感じだったのかな、としみじみ聞き入りました。
内容はほとんどわからなかったけど。(なんじゃ、そりゃ)
●平家物語にも登場する白拍子たち 平家物語には白拍子たちも登場しますね。
平清盛は妓王とか仏御前といった白拍子を寵愛していましたし、源義経はやはり白拍子の静御前を妾にしていました。
白拍子とは男装をして舞を舞う芸能のことです。
リンク先は葛飾北斎が描いた白拍子とのことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%8B%8D%E5%AD%90#/media/File:Shizuka-gozen_in_her_farewell_dance_to_Yoshitsune.jpg 葛飾北斎の絵から抜け出してきたかのような白拍子が舞台に登場しました。
●白拍子のルーツは巫女だった。 白拍子のルーツは巫女だとも言われます。
巫女は現在では参拝者に鈴を振って舞ったり、授与品を授与したりしていますね。
でも、昔の巫女にはもっと重大な役割がありました。
憑依です。
自らの体に神を憑かせ、神の言葉をつげるわけですね。
今でも恐れ山のイタコさんなどは、体に死者の霊をつかせ、死者の言葉を語ったりしているそうです。
私はオカルト好きなんですが、オカルトを信じてるわけじゃないんですよ。
古代の巫女さんやイタコさんが憑依するというのは、一種の自己暗示じゃないかと思います。
かくゆう私も自己暗示にかかりやすい体質でして、コックリさんとかやると無意識にコイン動かしてるんですね。
他の人がみんなコインから指を放して、私の指だけになってもコイン動いてました~。
●白拍子が男装の麗人である理由白拍子が魅力的に見える理由のひとつに男装があると思います。
宝塚の男役なんかもすごいかっこいいですよね。
女装の男性はあんまり好みじゃないですが、美しい殿方は好きです♡(男くさい殿方も好きですが♡)
hideさんとか、デビッドボーイさんとか、若き日の沢田研二さんとか。美輪明宏さんも若いころは女性よりもきれいでした。
中世的なものに人は惹かれるんだと思う。
さて、白拍子はなぜ男装をしているのでしょうか。
ウィキペディアには次のように記されています。
神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が参観征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%8B%8D%E5%AD%90#.E6.AD.B4.E5.8F.B2 より引用
そうすると白拍子は男神を憑依させているので男装をしているのかもしれませんね。
●かつて芸能は神事だった。 巫女や白拍子は舞を舞うなどの芸能を行っていましたが、これは彼女たちが神を憑依させる存在であったことと関係があると思います。
芸能は現在では単なる娯楽ですが、古には芸能は神事であったということです。
たとえば能「翁」は「能というよりは神事である」と言われています。
翁とは志貴皇子のことであり、「翁」は志貴皇子の霊を慰めるために演じられたものだと思います。
(これについては次の記事を参照してください。
中秋の名月と采女祭 采女神社 『猿沢池の采女伝説のモデルとは?』 )
●巫女や白拍子は遊女だった。さらに巫女や白拍子は遊女でもありました。
巫女や白拍子が神を憑依させる存在であるということと、彼女たちが遊女であるということも関係があるのではないかと私は考えています。
このブログで何度も書いてるのでしつこいとか言われそうですが~(笑)
神はその現れ方で、御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)に分けられると言われます。
そして和魂は女神、荒魂は男神ではないかとする説があります。
すると御霊は男女が和合したお姿、男女双体ということになると思います。
御霊(神の本質)・・・・・男女双体 和魂(神の和やかな側面)・・・女神 荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神古には男女が和合することは荒魂を和魂と和合させて御霊へと昇華させる神事であると考えられていたのではないかと思ったりします。
歌垣という古代のフリーセックスの習慣もそういうことで行われていたのではないでしょうか。
それで巫女や白拍子などの神に仕える女性は遊女でもあったのかも?
あっ、白拍子の、女性が男装している姿は男女双体をあらわしているのかもしれませんね。
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[2016/09/18 00:24]
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京都市右京区 大覚寺・・・京都府嵯峨大沢町4 観月の夕べ 中秋を含む3日間 ●嵯峨天皇の月見の会にちなむ行事 大覚寺の観月の夕べは、平安時代、中秋の日に嵯峨天皇(786-842)が大沢池に龍頭鷁首舟を浮かべて月見の会を行ったことにちなむ行事です。
大沢池は大覚寺の東にある広大な池です。
塔百景19えーっ。大覚寺の東に広沢池がある?ということは、上の写真はカメラを西に向けて撮ったんじゃないの?
満月の日、京都での月の出は午後5時ごろで、月の入は翌日の午前3時半ごろやん。
上の写真はもう月が沈みそうなんで午前3時ごろ?そんな遅い時間に観月会やってるのって?
おっしゃるとおり。上の写真はウソです~。
大沢池には舟が浮かびますが、多宝塔の前をよこぎるなんてことはなく、これもウソです~。(合成)
●名古曽の滝 えー、大沢池の北に『名古曽の滝』の跡があります。
水は一滴も流れていない、枯れた滝の跡です。
百人一首に
瀧の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なお聞えけれ (この瀧の音は聞こえなくなってから随分たつが、その評判は流れ伝わって今も人々の語り草となっている。) という歌があります。
藤原公任(966-1041)が、この『名古曽の滝』を詠んだ歌です。
「滝の音は絶えて久しくなりぬれど」とあるので、公任の時代、すでに滝は枯れてしまっていたのでしょう。
ちょっと月大きすぎ?
●大沢池は月見に適した場所 嵯峨天皇が大沢池で月見を行ったのちも、ここで月見が行われたかどうかわかりません。
ですが、大沢池は平坦な土地にあって空を遮る高い山などがないので、月見をするには最適の場所だったのではないかと思います。
広い池に月が映るのも趣がありますしね。
瀧の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なお聞えけれ この歌の詞書には、『大覚寺に人々あまたまかりたりけるに,古き瀧を詠み侍りける』とあります。
観月会で大勢の人が集まっているときに詠んだ歌なのかも、と思ってしまいます。
●三舟の才 『大鏡』に藤原公任に関する『三舟の才』というエピソードが記されています。
あるとき、藤原道長が大堰川に漢詩の舟・管絃の舟・和歌の舟を出しました。 そして、漢詩の舟には漢詩の名人を、管絃の舟には管絃の名人を、和歌の舟には和歌の名人を乗せました。 道長は公任には『自分で乗る舟を選ぶように』と言いました。 公任は和歌の舟を選び、 小倉山 嵐の風の 寒ければ もみぢの錦 きぬ人ぞなき と歌を詠んで賞賛されました。 しかし公任は『漢詩の舟を選んでおけば、もっと名声が上がったのに』と悔やみました。 ●大堰川 大堰川は京都府を流れる淀川水系の川ですね。
京都市右京区京北地区流域は上桂川、南丹市園部地区流域は桂川、南丹市八木地区から亀岡市付近では大堰川、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは保津川、嵐山から南は再び「桂川」というそうです。
ややこしい~。
上の地図で亀岡市とあるあたりが大堰川と呼ばれる流域ですね。
大沢池は愛宕山とある表示のところから南東6~7kmあたりです。
●大堰川の舟遊びを思い出して詠んだ歌? 藤原公任は広沢池の観月会にでかけ、で大沢の池に浮かぶ龍頭鷁首舟を見て大堰川の舟遊びを思い出し、大沢池のほとりにある『名古曽の滝』にかけて
瀧の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なお聞えけれ と詠んだのではないでしょうか。
つまりこの和歌の意味は『大堰川の舟遊びは昔のことになってしまいましたが、いまだにあのときの『三舟の才』のエピソードは人々の語り草になっています』という意味ではないかと思うのです。
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[2016/09/15 00:00]
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京都市西京区 法輪寺 重陽神事 9月9日 ●菊の被綿 ↓ これは何でしょう?
菊の被綿(法輪寺) 古には奇数は陽、偶数は陰の数字と考えられていました。
9は一桁の数字では最も大きな数字なので、陽が極まった数字であるとして、9月9日は「重陽の節句」とされていました。
「重陽の節句」は「菊の節句」とも呼ばれていますよ。
重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、綿についた雫で体を撫でると長寿になると言われていました。
これを「菊の被綿(きせわた)」といいます。
上の写真は菊に綿を被せたものだったのですね。
●700歳の長寿を得た菊滋童 なんで「菊の被綿」などという習慣が生じたのでしょうか。
それは700歳の長寿を得た菊滋童の伝説からきます。
菊滋童の像(法輪寺) 周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。 穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。 菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。 そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。 法要のあと、菊滋童の舞が舞われました。 ●穆王と菊滋童はBLだった。 菊滋童が穆王の枕を超えた、という点に注意してください。
穆王は菊滋童を寵愛していたとありますが、これは単に「かわいがっていた」という意味ではなく、「BLの関係にあった」ということでしょう。(きゃー♡)
●♂と♂が重なることはまさしく重陽 陰陽では男は陽、女は陰です。
♂と♂が重なることはまさしく重陽だといえるのではないでしょうか?
つまりBLは長寿の妙薬ということだと思います。
日本で男色がたしなみとされていたのはそのためでは?
●軍配は魂を呼び寄せる呪具だった。 菊滋童は手に軍配団扇のようなものをもって舞っていますね。
軍配団扇というより団扇かな?
唐招提寺の『うちわまき』で用いられる団扇に似ています。
http://narashikanko.or.jp/event/index.php?m=d&id=67 団扇はもともとは魂を呼び寄せるための呪具だったと聞いたことがあります。
菊滋童が御本尊の前で繰り返し団扇を振っているのを見ていると
御本尊の魂を蘇らせようとしているのではないか、と思えてきました。
菊滋童が700歳の長寿を生きることができたのは、繰り返し何度も死んでは蘇ったためだったりして?
●軍配団扇を持つ布袋 そういえば、京都・六道の辻にある西福寺の門前には軍配団扇を持つ布袋像が置かれています。
布袋像はサンタクロースのように大きな袋を持つ姿が多いですが、このように軍配を持つ姿の布袋もあるようです。
以前、布袋で画像検索したら、このような姿の布袋像がいくつか出てきました。
布袋は中国に実在した僧で、死後に姿を見かけられています。
布袋は一旦死んだあと、生き返ったということだと思います。
布袋が弥勒菩薩の化身とされるのも、布袋が生き返ったからだと私は考えています。
弥勒菩薩は56億7000万年後に復活する(生き返る)菩薩とされていますので。
西福寺の布袋が軍配団扇を持っているのは、死者の魂を呼び寄せるためではないでしょうか。
六道珍皇寺 迎鐘 西福寺の近所には死者の魂を呼び寄せるという六道珍皇寺の鐘があり、お盆には「迎鐘」といってこの鐘をついてお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のこと)をお迎えするという習慣がありますね。
西福寺にも迎鐘があります。
西福寺 迎鐘 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪ にほんブログ村 にほんブログ村
[2016/09/11 11:24]
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京都府福知山市大江町 皇大神社・ 豊受大神社 元伊勢八朔祭・・・9月第一日曜日 ●元伊勢ってなあに? 現在、伊勢神宮内宮に天照大神が、外宮には豊受大御神が鎮座していますが、伊勢に鎮座するまで、何度も鎮座地を変えています。
一時的に天照大神または豊受大御神が鎮座していた場所を元伊勢といいます。
京都府福知山市大江町の皇大神社と豊受大神社もこうした元伊勢とされています。
元伊勢八朔祭は江戸時代に大干ばつがあり、雨乞いをしたのが始まりだといわれています。
皇大神社に大名行列がやってきました。
空中を舞っているのは鳥毛といって大名行列の際に用いられる道具でした。
氏子さんが空中に放り投げた鳥毛を、別の氏子さんがキャッチします。
こうして鳥毛を人から人へと投げ渡しながら町内を練り歩き、神社へやってきます。
↑ こちらは豊受大神社に向かう氏子さんたちです。
神社へ到着しましたよ。
●雨乞いと大名行列 大名行列の列順と道具 ← こちらのサイトに大名行列の大鳥毛が描かれていますが、皇大神社・豊受大神社の八朔祭と同じように鳥毛を放り投げています
愛知県豊川市赤坂町の雨乞いまつり(宮道天神社祭礼)においても大名行列が行われています。
また、奈良春日大社の春日若宮様はを天押雲根命という名前で水徳の神として信仰されていましたが、春日若宮おん祭でも大名行列が行われます。
春日若宮おん祭は過去に何回か行ったことがあるのですが、ぜーーんぶ雨や雪でお渡り中止になりました。(涙)
そういうわけで写真がないので、動画をお借りしました。 動画主さん、ありがとうございます。
うまく撮れていて、祭の賑わいを肌身に感じることができますね♪
VIDEO 16:50くらいのところを見てください。
大名行列のようすですが、皇大神社や豊受大神社と同じようにひとりが鳥毛を放り投げ、もうひとりがキャッチしています。
衣装もよく似ていますね。
どうやら雨乞いと大名行列の鳥毛には関係がありそうですね」。
なぜ大名行列に鳥毛が用いられるのかはわかりませんが(汗~)
●鳥毛は台風をあらわしている? 回転する鳥毛は小さな台風のようにも見えました。
台風の写真 旧暦の八朔(8月1日)ごろ、台風がよくやってきます。
元伊勢八朔祭は雨乞いがルーツです。
台風の神を町に招いて雨を降らせようということなのかな、と思ったりしました。
先日の台風で被害を受けられた方々に心よりお見舞い申し上げます。
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[2016/09/03 00:00]
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京都府京都市西京区 松尾大社 八朔祭・・・9月の第一日曜日 松尾大社の土俵で八朔相撲が行われていました。
↑ 赤ちゃん土俵入り。
大声で泣く子もいれば、きょとんとして全然泣かない子もいます。
赤ちゃんのときからみんな個性があるんですね~。
このごろ女神輿が増えましたが、華やかでいいですね♪
境内に御霊太鼓の音が響き渡ります。
●八朔ってなあに?朔は朔日(1日)の略で、八朔とは旧暦の8月1日のことをいいます。
旧暦は新暦の約1か月遅れなので、旧暦ではちょうど今ごろが八朔になります。
今、田んぼでは稲が実って頭を垂れつつありますね。
そういう時期なので『田の実の節句』ともいい、農民の間でお世話になった人々へ初穂を贈る風習がありました。
『田の実』は語呂合わせで『頼み』に通じることから、武家や公家の間でも、八朔に贈り物をする習慣が生じたと言われています。
旧暦は新暦の約1か月遅れとなるので、現在では八朔祭は9月の初旬に行っている神社が多いです。
八朔祭は全国各地で行われていますが、相撲が行われることが多いです。
東京都府中市宮町にある大國魂神社では、天正十八年(1590)8月1日に徳川家康が江戸城に入ったことを記念して八朔相撲が始められたとしています。
●六斎念仏と八朔 夕刻より、嵯峨野六斎念仏保存会の皆様によって六斎念仏が奉納されました。
仏教では8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日を六斎日(ろくさいにち)とし、この日は悪鬼がでる縁起の悪い日なので念仏を唱えて精進潔斎するべき日とされていました。
六斎念仏はかつてはこの六斎日に行われていました。
祇園囃子という演目に登場する棒振り。
祇園祭の綾傘鉾の巡行の際にも同じような棒振りが登場して京都の町を練り歩きますよ。
うーん、でも六斎念仏って今ではお盆の行事になってるんですけどね。
その六斎念仏がなぜ八朔祭で行われるのでしょうか?
四つ太鼓
●お盆と八朔は一連の行事だった? お盆とは旧暦の7月15日を中心に行われる先祖供養の習慣のことをいいます。
現在では新暦8月15日を中心に行われることが多いですね。
そして八朔とは旧暦8月1日のことです。
もしかして、お盆と八朔は一連の行事だったのではないかと私は考えました。
そう思って調べてみたところ次のようなことがわかりました。
① 近世の京都・大阪・江戸では、盆灯籠を盆月が終わったのち8月3日まで灯し続ける風習があった。
② 八朔(8月1日)をお盆の行事の最後とする地域がある。
③ 大阪府三島郡では、月遅れの九月一日を『八朔盆』とし、盆の終わりとしている。
④ 新潟県蒲原郡では八朔を『盆朔日(ぼんついたち)』と呼び、お供米といって米一升を寺に持っていく。
⑤ 富山県の『風の盆』は8月1日~3日(現在は9月1日~3日)に行われている。」
やはりお盆と八朔は一連の行事だったのですね~。
獅子
●8は復活を意味する数字? 梅原猛氏は8は復活を意味する数字ではないかとおっしゃっています。
八角堂や八角墳は死者の復活を願って作られたものではないかというのです。
旧暦7月のお盆で供養された先祖の霊は、旧暦8月に復活して神となり、農作物などの実りをもたらすと考えられていたのではないでしょうか。
それで八朔は『田の実の節句』となり、さらに語呂合わせで『頼みの節句』になったのではないかと思います。
徳川家康が八朔に江戸城に入城したのは、八朔が復活を意味する大変おめでたい日とされていたためだと思います。
獅子と土蜘蛛 画質の悪かったり、背景がぶれたりしているのがありますね~。すいません~。
こういう風にやったらいいよー、とかアドバイスあったらお願いします。
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[2016/09/02 00:00]
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京都市左京区花脊八桝町 松上げ 8月15日日没後
●精霊送り行事「松上げ」 暗闇の中、行列がやってきました。
松上げは精霊送りの行事です。
河原にたてられた約1000本の松明が点火されます。
中央にある高さ約20mの大傘をめがけて松明を投げ上げると、大傘に火がついてめらめらと燃え上がります。
手に持った松明をぐるぐる回し勢いをつけて投げ上げるので、地面近くには小さい円形の光の軌跡ができています。
大傘が燃えて倒れると、あたりは闇に包まれました。
そして夜空をひとつ、ふたつと流れ星が流れていきました。
ペルセウス座流星群です。
●ベルセウス座流星群 ペルセウス座流星群は7月20日頃から8月20日頃にかけて観測され、8月13日がピークです。
☆ ←これはしし座流星群を描いた絵ですが、なんとなく松上げ(写真4枚目)に似ていると思いませんか。
●お盆はベルセウス座流星群が観測される時期に行われる。 旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事でした。
新暦になってからは8月15日を中心として行われることが多いです。
旧暦は新暦の約1か月遅れなので、今も昔もペルセウス座流星群が観測される次期にお盆は行われていたということになります。
●流星は死んだ人の魂だと考えられていた? お盆にはお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のことを京都ではこう言います。)がこの世へ帰ってくると考えられていました。
なぜお盆にはお精霊さんがこの世へ帰ってくるなどと考えらえたのでしょうか。
昔の人々は死んだ人の魂は星になると考えていたようで、今でも亡くなった人のことを「星になった」などといいます。
ペルセウス座流星群でたくさんの星が降るようすを、死んだ人の魂がこの世に戻ってくると考えられたのではないでしょうか。
そして松上げは精霊送りの行事だとされますが、この世の戻ってきたお精霊さん=流星を空に戻す行事のように思えるのです。
●夏越神事の人形流しとペルセウス座流星群旧暦では7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といい、この日地獄の釜が開くと考えられていました。
釜蓋朔日の前日の6月晦日には、茅の輪くぐりをしたり人形(ひとがた)を川にながす夏越の祓が行われていました。
私は夏越神事はお盆を迎えるための行事ではないかと考えています。
お盆には先祖の霊だけでなく、悪い霊も戻ってくると考えられていました。
そのため、夏越の祓をして身を清める必要があると考えられたのではないでしょうか。
詳しくはこちらの記事を参照してください。→
上賀茂神社 夏越神事 『旧暦の夏の終わりはお盆の始まり』 旧暦では6月晦日は夏の終わりで7月から秋でした。新暦換算すると約1か月遅れの8月です。
そして1年を24に分割した二十四節気では8月7日ごろを立秋としています。
下鴨神社で立秋の前日に行われる矢取神事では人形を撒きますので、夏越の祓の一種だと考えられます。
下鴨神社 矢取神事 神職さんによってまかれるおびただしい数の人形。
これもベルセウス座流星群に似ていると思いませんか。
つまり、人形が星というわけです。
人形=死者の霊=ベルセウス座流星群であり、これを川に流して浄めるのが夏越の祓なのではないでしょうか?
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[2016/08/16 00:00]
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