祇園祭 宵宮・・・7月14日~16日
①壬生六斎念仏講中はなぜ綾傘鉾の囃子方を奉仕しているの? 祇園祭 宵山 綾傘鉾イケメンさんが登場して、かっこよく口上を述べます。ばちっと決まっていますね! 祇園祭 宵山 綾傘鉾
綾傘鉾の棒振り囃子が始まりましたよ。 綾傘鉾の囃子方は壬生六斎念仏講中によって奉仕されています。 六斎とは太鼓や鉦をかき鳴らしつつ踊ったり、土蜘蛛などの芸能を行うもので、空也上人が創始者とされています。 参照/ 土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち 六斎念仏は京都のお盆の風物詩で、壬生六斎、千本六斎、中堂寺六斎、嵯峨六斎、梅津六斎など多くの六斎会があります。 壬生六斎念仏は古より京都の壬生地域で行われていました。 祇園祭の山鉾町は四条通の烏丸駅付近にありますが、壬生地域は烏丸駅から1.5kmほども離れています。 そんな離れた場所にある壬生地域の壬生六斎念仏講中がなぜ綾傘鉾の囃子方を奉仕しているのでしょうか? 祇園祭 宵山 綾傘鉾 ②元祇園梛神社・隼神社お盆の季節、壬生六斎を見ようと壬生寺に行ったことがあります。 阪急四条大宮駅で下車し、四条通を西へ向かい、少し南に入ったところに壬生寺があります。 その南に入る角に神社(京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2 )があり、二本の石柱に、「元祗園梛神社」「隼神社」と記されていました。 その石柱を見て、ひらめいたことがあり、「おーーーーっ」と思いました。 梛神社(向かって左)と隼神社(向かって右) ③八坂神社の神はもとは梛神社で祀られていた。梛木神社の説明板には興味深いことが記されていました。 私が興味深く思った点を要約して書き出してみます。 a.868年に京で疫病が流行したので、播磨の広峰神社より牛頭天皇を京都に勧請して鎮疫祭を行った。 b.このとき、その神輿を梛の囃子において祀ったのが梛神社のはじまり。 c.のちに牛頭天皇を八坂神社に移した。 d.このとき風流傘をたて、鉾をふり、音楽を奏して八坂神社に送った。(祇園祭の起源) e.隼神社(御祭神/タケミカヅチ、フツヌシ)は蛸薬師坊城にあったが、1918年にこの地に移された。 ④牛頭天皇、広峰神社より勧請されて、梛神社→東光寺→八坂神社と遷座した?過去に何度か書きましたが、京都の八坂神社と兵庫県姫路市の広峰神社はどちらも牛頭天皇(素戔嗚尊)の総本社を称しています。 ですが広峰神社側の資料、伊呂波字類抄、二十二社註式、播磨国勝地実録、岡崎神社の史料などを照合すると、次のような経緯で牛頭天皇は江坂神社に勧請されたということになりそうです。 い・869年疫病が流行り、藤原基経が播磨国の牛頭天皇を都に勧請した。 ろ・京都四条にある元祇園梛神社(京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2)は、この時、牛頭天王の乗る御輿を梛の林中に置いて祭ったことが始まりである。 は・京都に着いた牛頭天王は北白川の東光寺に祭られた。 に・その後、藤原基経が八坂にあった邸宅を寄進して感神院祇園社を建立し、牛頭天王を遷座した。(現在の八坂神社)
また神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などは、神様を廣峯神社から八坂神社へ移した際に神様が休憩された場所と伝わっています。 祇園祭 宵山 綾傘鉾p ⑤隼神社は隼人の神だった。梛神社の隣には隼神社がありますが、隼神社は奈良にもあって、角振明神・角振隼明神・椿本神社とも呼ばれています。 『奈良市史社寺編』には次のように記されています。 『隼神とは、火酢芹命(ほすせりのみこと)のことである。 これは隼人族の祖であり、海幸彦とも呼ばれ、神武天皇の祖父で山幸彦とも言われている、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の兄にあたる。 兄・海幸彦は、弟・山幸彦との戦いに敗れて、代々、宮城の警固に任じられた。 勝利した山幸彦は、天皇家の元を築いたと記紀で伝えられている。』 隼神とは隼人の祖神だったのです。 奈良 隼神社京都の隼神社の御祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)でしたね。 奈良の隼神社の御祭神は火酢芹命(隼神)と、角振神(火酢芹命の御子)となっていて御祭神は違います。 御祭神が異なるので別の神社だと思うのは間違いで、両者には深い関係があります。 平安京遷都のときに隼神社が平安京に分祀されたという記録があるんですね。 そしてこれが蛸薬師坊城にあった隼神社のことだと考えられています。 つまり、隼神社はもともと奈良にあり、平安京遷都に伴って京都の蛸薬師坊城に分祀されたということでしょう。 京都の隼神社も奈良の隼神社と同じく、隼人の祖神を祀る神社だと考えられます。 蛸薬師坊城は現在の中京区壬生御所ノ内町のことで、現在の隼神社からほんのわずかばかり北です。 大正7年(1918年)蛸薬師坊城から梛神社境内に移されていますが、隼神社は平安時代以降、ずっと壬生の地にあったのです。 隼神社が京都に分祀されたとき、隼人たちもいっしょに京都へやってきたのではないかと、私は考えます。 隼神社は隼人の祖神です。そして先祖の霊はその子孫が祭祀すべきと考えられていたからです。
祇園祭 宵山 綾傘鉾⑥まつろわぬ民・隼人隼人とは古代薩摩や大隅(現在の鹿児島県)に住んでいたまつろわぬ民のことです。 記紀には次のような物語があり、隼人の先祖は火照命(海幸彦)だとされています。 海幸彦は海で魚を獲り、山幸彦はは山で鳥や獣を獲って暮らしていました。 あるとき、山幸彦は海幸彦の釣り針をなくしてしまい、釣り針をさがして海神のすむ竜宮へやってきました。 山幸彦は海神の娘である豊玉姫と結婚し、しばらくそこで楽しく過ごしました。 3年たって赤鯛の喉から海幸彦の釣り針が見つかり、山幸彦はもとの世界へと帰ることにしました。 このとき海神は山幸彦に次のように言いました。 『海幸彦が攻めてきたならば、塩満玉を出しなさい。大水がでて、海幸彦は溺れるだろう。 海幸彦が謝ったなら塩乾玉を出しなさい。水がひいて海幸彦は助かるだろう。』 山幸彦がもとの世界に戻ったのち、海幸彦はどんどん貧しくなり、悪い心を持つようになって山幸彦を攻めてきました。 山幸彦は海神に言われたように塩満玉をだして海幸彦を溺れさせ、海幸彦が許しを請うと塩乾玉を出して救いました。 海幸彦は、ホオリに仕えて昼夜お守りすると言いました。 ホデリは隼人の祖であり、今でも隼人はホデリが溺れた時の仕種を演じて仕えています。 祇園祭 宵山 綾傘鉾p ⑦火酢芹命=火照命(海幸彦)?⑥の話を読んで、「あれっ?」と思った方もおられると思います。 もう一度『奈良市史社寺編』の記述を見てみましょう。 『隼神とは、火酢芹命(ほすせりのみこと)のことである。 これは隼人族の祖であり、海幸彦とも呼ばれ、神武天皇の祖父で山幸彦とも言われている、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の兄にあたる。 兄・海幸彦は、弟・山幸彦との戦いに敗れて、代々、宮城の警固に任じられた。 勝利した山幸彦は、天皇家の元を築いたと記紀で伝えられている。』 と書いてありますね。 記紀によれば、ニニギとコノハナノサクヤヒメの長男が火照命(海幸彦)、次男が火酢芹命、三男が彦火火出見命(山幸彦)です。 しかし『奈良市史社寺編』では火酢芹命が海幸彦であると書いてあります。 『奈良市史社寺編』は記述を間違えたのでしょうか? 私はこの記述は間違いとはいえないと思います。 火酢芹命は誕生の時に名前が登場するだけで、その後は一切出てこず、不自然です。 火酢芹命と火照命(海幸彦)は同一神なのではないでしょうか。 なぜ一柱の神を二柱にわけたのかよくわかりませんが、弟が兄を打ち負かすなんてケシカランというような考え方があったのかも? 祇園祭 宵山 綾傘鉾p ⑧山幸彦=天皇家、海幸彦=物部氏?山幸彦は天孫ニニギの三男で神武の祖父なので、天皇家の先祖ですね。 するとニニギの長男である海幸彦は、ニニギと同じく天孫でありながら、神武に皇位を奪われたニギハヤヒのイメージと重なります。 ニギハヤヒは物部氏の祖神です。 山幸彦は天皇家を象徴する人物、海幸彦は物部氏を象徴する人物として書かれているのではないでしょうか。 祇園祭 宵山 綾傘鉾p ⑨九州甘木と大和に類似した地名が。九州の甘木地方と大和地方には類似した地名が多くあり、またその位置関係も類似しているという指摘があり ここから物部氏は九州からやってきた一族ではないかとする説があります。 甘木という地名も気になります。 肩野物部氏が本拠地としていた大阪府交野市・枚方市を流れる川を天野川といいますが、もともとは『うましの川』だったといわれています。 物部氏の祖神はウマシマジノミコトであるし、どうも『うまし』という言葉は物部氏を表す言葉のように思えます。 甘木ももともとは『うまぎ』だったのではないかと思ってしまいます。 祇園祭 宵山 綾傘鉾p ⑩隼人は物部氏?また九州の大宰府は流刑地であり、多くの謀反人が九州へ配流されています。 隼人とは九州に住んでいた物部氏または、九州に流罪となった物部氏のことだったりして? ⑪隼人の強制移住隼人は度々反乱をおこしたため、朝廷は隼人たちを畿内に移住させる政策をとりました。 畿内に移住させられた隼人たちは、ヤマト王権の支配をうけ、隼人司に属しました。 そして朝廷の警護・祭祀・相撲・竹細工の製作などを行っていました。 大隅隼人が住んだという現在の京田辺市には『大住』の地名が残っています。 ということは、隼人たちは特定地域に定住させられたのではないでしょうか。 もと隼神社があった蛸薬師坊城付近にも隼人たちは強制移住させられたのかも? 山鉾巡行 綾傘鉾
⑫畿内に移住した隼人のその後隼人司はしだいに形骸化していきました。 隼人司が形骸化したのちの隼人たちはどうなったんでしょうか? 私は隼人たちは非人となったのではないか、と考えました。 非人といっても江戸時代の身分制度の非人ではありません。 中世、畿内には寺社に隷属する民がおり、非人と呼ばれていたのです。 非人たちは死体の埋葬・神社の清掃・警備・神事などを行っていました。 隼人たちは、『俳優(わざおき)の民』であったとされますが、俳優とはこっけいな動作をして歌い 舞い、神や人を慰め楽しませることで、芸能の一種です。 現在では芸能は単なる娯楽ですが、中世には芸能は神事であり、非人たちによって行われていたようです。 山鉾巡行 綾傘鉾⑬犬神人京都では清水坂にすんでいた犬神人と呼ばれる非人が有名です。 犬神人は祇園社(現在の八坂神社)に隷属する非人でした。 犬神人は「弦召せ」と言って弓の弦を売り歩いていたので「つるめそ」とも呼ばれていました。 犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな この川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様を詠んだものです。 一遍聖絵に犬神人の絵が描かれていますが、結髪せず、口には白いマスクをつけています。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg よりお借りしました。 <a title="覚如 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で" href=" https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"><img width="256" alt="犬神人 本願寺聖人伝絵" src=" https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"></a> 上は本願寺聖人絵伝に描かれた犬神人です。 ⑭祇園祭の起原は梛神社から八坂神社に遷宮する祭?隼神社の隣に鎮座する梛神社は元祇園社と呼ばれ、ここから現在の八坂神社の地に移ったと考えられます。 祇園祭は八坂神社の祭礼ですが、梛神社の由緒によれば、『神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀したとき当地の住人は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。 これが後の祗園会(祗園祭)の起源と伝えられる。』とあります。 現在、祇園祭の際、壬生六斎念仏講中が祇園囃を奉仕しています。 綾傘鉾は他の山鉾とは違って、傘鉾ですね。(ほかに傘鉾は四条傘鉾もあります。) 綾傘鉾が傘鉾なのは、梛神社の由緒にある風流傘をルーツにするものではないでしょうか。 ⑮狗人と犬神人
また山鉾巡行では綾傘鉾では結髪せず、口に白いマスクをした人が棒振りをして渡御する道を清めます。 これは八坂神社に隷属していた犬神人と同じいでたちです。 山鉾巡行 綾傘鉾日本書紀には『海幸彦は狗人(いぬひと)として仕えた』とあります。 祗園社の非人は犬神人と呼ばれており、どうも関係がありそうに思えます。 また大正7年(一九一八)蛸薬師坊城から梛神社の隣に隼神社を遷宮したのは、祇園社と隼神社には関係があるという認識があったからではないでしょうか。 ⑰隼には角が生えていないのに角振隼明神とはこれいかに?奈良の隼神社のもう一柱の神である角振隼明神という神名は妙ですね。 隼には角なんか生えてないですやん~。 角振とは祇園社の御祭神・牛頭天王のことではないでしょうか。 牛頭天皇の神像には角が生えたものが多いです。 そして牛頭天皇と隼人を合体させた神名が角振隼明神なのでは? ●狗人=隼人が犬神人のルーツ? 次のように考えると辻褄が合うのではないかと思いますが、どうでしょう? 古代、畿内には物部王朝があったが、日向より東征してやってきた神武天皇に政権を奪われた。 神武に抵抗した物部王朝の王は殺され、その子孫の多くは九州に流罪となった。 これが隼人のルーツである。
奈良時代、平城京近くに隼神社が作られ、火酢芹命(隼神)と、角振隼神(火酢芹命の御子)が祀られた。 火酢芹命(隼神)とは海幸彦のことで、隼人の祖神である。 角振隼神とは牛頭天皇(スサノオ)のことであった。
スサノオは天照大神と対立して高天原を追放されている。 天照大神は天皇家の祖神とされるので、天照大神と対立したのは物部氏と考えられる。 また船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったとしておられる。 そして物部氏の祖神ニギハヤヒは雲陽誌によれば星の神だと記述がある。 スサノオとは大物主神のことである。 隼人は物部氏の子孫だと考えると彼らがスサノオ=牛頭天皇=角振隼神を祀っていたことの筋が通る。
隼人たちは九州から強制移住させられて、隼神社の近所に住んでいたのだろう。 というのは先祖の霊は子孫が祀ることによって慰霊することができると考えられていたためである。 また彼らは宮中の警備にもあたったと考えられるが、隼神社から平城宮はそう距離が離れていない。 宮中で警護する際、彼らは犬の鳴き声をまねた。 ここから隼人は狗人と呼ばれた。
平安京遷都に伴って隼神社は壬生の地に分祀した。 当然、壬生の隼神社を祭祀するために、何人かの狗人たちが壬生の地に移転したことだろう。 繰り返すが、先祖の霊は子孫が祀るべきであると考えられていたからである。
貞観十一年(八六九)京の都に疫病が流行し、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(現在の兵庫県姫路市)から壬生の地に勧請して鎮疫祭を行った。 これが梛神社である。 奈良・隼神社の御祭神の角振隼神とはスサノオ=牛頭天皇であった。 そのため、隼神社からほどちかい場所に祇園社は作られ、またスサノオの子孫である狗人たちによって祭祀された。
その後、祇園社は八坂に遷宮した。 祇園社を祭祀するために狗人の何人かは祇園社近くの清水坂に移転した。 隼人は祇園社の御祭神・スサノオの子孫でもあるため、彼らが祭祀する必要があったためである。 彼らは狗人から転じて犬神人と呼ばれた。 山鉾巡行 綾傘鉾まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
祇園祭 宵山 7月14日~7月16日 山鉾巡行 7月17日
①かつら男ほく鉾頭に月がかかっている? よく見ると月は飾りでした。梅雨空の隙間から差し込んだ夕日が鉾の飾りの月を本物の月のように輝かせていたのでした。 月を鉾頭にいただくその鉾は月鉾と呼ばれています。 天王坐には月読尊をお祭りしていますよ。 古には月鉾は「かつら男ほく(ほこ)」と呼ばれていたそうです。 「かつら男ほく」は漢字では「桂男鉾」と書くのだと思います。 ②中国人は月のクレーターの影を『桂を刈る男』に喩えた。中国・唐代の書『西陽雑俎』によれば、「桂男」は月に住んでいる人間(桂男という名前から察するに男性なのでしょう。)で、名前は呉剛。 仙法を学んだ罪で月にある月宮殿で500丈(約1500メートル)もの高さの桂(モクセイ)を刈っているとあります。 モクセイの樹高は3-6m、雌雄異株で、約4㎜ほどの花には香気があるということです。 日本では月には兎が住んで餅つきをしているといわれています。 月のクレーターが作りだす影を兎が餅つきをする姿に喩えたのです。 中国では薬草をつく兎、ヒキガエル、蟹などに見立てるそうですが、 桂を伐る男も、月のクレーターの形を見立てたものだったりして? ③伯牙と木こりの鍾子期桂男の話を聞いて、私は昨日の記事 祇園祭 宵山 伯牙山 『琴の名人・伯牙は鳴沙山を擬人化したものだった?』 に書いたことを思い出しました。 春秋時代、伯牙は古琴を弾く名手であった。船で遠出した彼は中秋の夜、偶然きこりの鍾子期に出会う。伯牙が弾く一曲ごとに、鍾子期はその曲の内容と、そこに込めた伯牙の気持ちを言い当てた。2人は船上で、お互い胸の内を打ち明け、兄弟の契りを結び、1年後、再びこの場所で出会うことを約束した。翌年の中秋、伯牙は約束の場所で演奏していたが、鍾子期の姿は見えなかった。鍾子期はすでにこの世を去っていたのだ。鍾子期は亡くなる前、自分の魂が伯牙と約束した場所で会えるように、岸辺に埋葬させたことを、伯牙は後に知った。 伯牙は鍾子期の墓前に来て、泣きながら琴を弾いた。周りを取り囲んだ観衆は、手をたたき笑いさざめいた。伯牙は天を仰ぎ、大きくため息をついて、「鍾子期がいなくなった今、誰が私の琴の音を理解してくれるだろうか」と、古琴の弦を切り、たたき壊してしまった。(2005年12月号より)(写真・文=魯忠民)
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2008-09/02/content_148510.htm より引用
伯牙山ご神体 拍牙 手には琴を壊す斧を持っています。
③伯牙は鳴沙山を擬人化したもの?
鳴沙山は風が吹くと砂が鳴る山だそうで、日本の鳴き砂と同様のメカニズムで音をたてると考えられています。 ただし日本の鳴き砂は海岸にあるのに対し、鳴沙山は砂漠にある山です。
日本の鳴き砂で有名な琴引浜には、鳴き砂文化館があり、そこにブーミングサンドの装置があるそうです。 鳴き砂のことを英語でブーミングサンドというのでしょう。
何やら恐ろし気な音ですが、日本の有名な鳴き砂の浜を琴引浜というところから、私は琴の名手・伯牙敦煌にある鳴沙山(めいさざん)を擬人化したものではないかと考えました。
④何やら関係がありそう?伯牙と月牙泉。
敦煌の鳴沙山の前には月牙泉があるそうです。
「月牙」は中国語で三日月を意味します。 月牙泉は砂漠の中のオアシスで、三日月に加工された池があります。
伯牙と月牙泉は伯が共通します。 また、伯牙は中秋の夜(陰暦8月15日、満月の夜)きこりの鍾子期に出会ったとあり、月牙泉をイメージさせます。
⑤鍾子期は月で木を伐る桂男?
昨日の記事 祇園祭 宵山 伯牙山 『琴の名人・伯牙は鳴沙山を擬人化したものだった?』 を書いた時点では、 鍾子期が木こりであるということにどういう意味があるのか、わかりませんでした。
また伯牙=鳴沙山とすると、伯牙が琴をひかなくなったというのは「鳴沙山が鳴らなくなった」という意味になります。 しかし、鳴沙山は現在でも鳴っているようなので、伯牙=鳴沙山とするのは間違いなのか、とも考えました。
ですが桂男の話を聞いてピンときました! 木こりの鍾子期とは月に住んで桂を伐っている桂男ではないでしょうか。

⑥桂男は満月に近い日に現れる。
伯牙と鍾子期が出会ったのは中秋(陰暦8月15日)とあります。 陰暦は月齢をベースとした暦で、 新月の日は1日、三日月の日は3日、満月(十五夜)の日が15日のように、月齢(月相)によって日にちがきまっています。
桂男は満月に近いときにはその形が見えますが、三日月など月が部分的にしか見えないときには形がわかりませんね。 だから、伯牙と鍾子期が出会ったのは中秋(陰暦8月15日)だったと考えることができます。
伯牙と鍾子期は1年後に再開を約束しました。 ということは来年の旧暦8月15日に会おう、と約束したということですね。
⑦雨が降ると鳴沙山の砂は鳴らないのでは?
この日は満月なので伯牙と鍾子期は再開をはたすことができたはずですが、月=桂男=鍾子期が死んでしまって会うことができなかったとあります。
鳴沙山があるあたりは砂漠なので乾いた気候なのでしょうが、再開を約束した日はたまたま雲がでて月=桂男=鍾子期を隠していたのではないでしょうか。 また雲は雨を降らせ、湿度があがったため、風が吹いても鳴沙山の砂は鳴らなかったのではないでしょうか。
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祇園祭宵山 7月14日~16日
①聞き手を失って古琴をひかなくなった伯牙伯牙山は中国の伯牙という人のエピソードをテーマとした山です。 中国春秋時代、晋に伯牙という古琴の名人がいました。 伯牙が琴をひき、楚の鍾子期がそれを聞きました。 伯牙が太山を思って琴をひくと、鍾子期は「高く険しい太山のようだ。」と言いました。 伯牙が流水を思ってきくと鍾子期は「勢いよく流れる流水のようだ」と言いました。 しかし鍾子期は亡くなってしまい、伯牙は「琴を聞かせる人はもういなくなってしまった」と考えて琴を壊し、生涯琴を弾きませんでした。 (『知音』呂氏春秋) 伯牙山 ご神体 拍牙像 手に琴を壊す斧を持っています。次のように記されたサイトもありました。 春秋時代、伯牙は古琴を弾く名手であった。船で遠出した彼は中秋の夜、偶然きこりの鍾子期に出会う。伯牙が弾く一曲ごとに、鍾子期はその曲の内容と、そこに込めた伯牙の気持ちを言い当てた。2人は船上で、お互い胸の内を打ち明け、兄弟の契りを結び、1年後、再びこの場所で出会うことを約束した。翌年の中秋、伯牙は約束の場所で演奏していたが、鍾子期の姿は見えなかった。鍾子期はすでにこの世を去っていたのだ。鍾子期は亡くなる前、自分の魂が伯牙と約束した場所で会えるように、岸辺に埋葬させたことを、伯牙は後に知った。 伯牙は鍾子期の墓前に来て、泣きながら琴を弾いた。周りを取り囲んだ観衆は、手をたたき笑いさざめいた。伯牙は天を仰ぎ、大きくため息をついて、「鍾子期がいなくなった今、誰が私の琴の音を理解してくれるだろうか」と、古琴の弦を切り、たたき壊してしまった。(2005年12月号より)(写真・文=魯忠民)
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2008-09/02/content_148510.htm より引用
鍾子期は木こりとなっています。 そして二人は中秋の夜に出会い、兄弟の契りを結び、1年後の再開を約束したものの、鍾子期はすでに亡くなっていた。 鍾子期は自分の魂が伯牙と約束した場所で会えるように岸辺に埋葬するよう遺言しており、遺言は実行された、というのです。 ただし、こちらの話のほうは出典がわかりません。

伯牙山のお飾り場となっている杉本家住宅 ②琴柱のない琴と琴柱のある箏(こと)
上の写真の提灯や幕に描かれている紋は箏(こと)の柱(じ)をデザインしたものですね。 箏の柱は琴柱、箏の駒ともいい、箏の弦の音程調節に用いられる可動式の支柱のことです。

伯牙山 お飾り場 杉本家住宅に展示されていた和琴の琴柱
箏は琴と混同されがちですが、琴のほうは琴柱がなく、指で弦をおさえて音程をきめるのだそうです。
伯牙は古琴の名人だったとありますが、古琴は琴柱を用いる箏ではなく、琴柱を用いない琴です。 日本で和琴と呼ばれているものは琴柱を用いる箏なので、混同されたのでしょうか。
古琴を演奏している動画があったのでお借りしました。 琴柱がなく、弦を指で押さえて引いていますね。美しく響く音色にうっとりです~。
③琴をお引きください!
琴といえば私は仲哀天皇の物語を思い出します。
第14代・仲哀天皇は、筑紫の訶志比宮(かしひのみや)で熊曽国(南九州)を討とうとして琴を弾き、武内宿祢が沙庭で神託を請いました。 すると神功皇后が神がかりして住吉明神の神託を告げました。 「西の方に国あり。そこには金銀のほか、輝くような珍しい宝がたくさんある。その国を従わせよう。」 天皇は「高い所に登り、西の方を見てもただ大海が見えるだけだ」といいました。 すると神は怒り、「お前なんかに国を治める資格ないよ!お前なんか死んじゃえ!」といいました。 武内宿祢は天皇に「琴をお引きください!」と言いましたが、琴の音が聞こえなくなり、天皇は崩御されていました。 その後神功皇后が神託に従って三韓出兵したくさんの宝物を持って帰りました。
 伯牙山 お飾り場 杉本家住宅に展示されていた和琴
④鳴き砂で吉凶を占っていたのでは?
仲哀天皇は筑紫の訶志比宮にいまいたが、訶志比宮は福岡市東区香椎付近にあったと考えられています。 そして福岡県には姉子の浜・恋の浦・勝浦浜・白石浜(福岡県福津市)など鳴き砂で有名な浜があります。 鳴き砂とは仲哀天皇が弾く琴の音、あるいは仲哀天皇の声そのものであると考えられてこの物語は作られたのかも?
吉備津神社では鳴釜神事といって、火にかけた釜の音で吉凶を占う神事があります。 この鳴釜神事と同じく、鳴き砂の音で、ものごとの吉凶を占っていたのではないでしょうか。
 鳴き砂で有名な琴引浜
⑤伯牙は鳴沙山を擬人化したもの?
すると伯牙も鳴き砂を擬人化したものではないか、と思えてきました。 調べてみると、中国(かんしゅくしょう)敦煌(とんこう)に鳴沙山(めいさざん)という砂山があり、風が吹くと砂が泣くような音がするということがわかりました。 ほかにも、ハミ市伊州や新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州(しょうきつかいぞくじちしゅう)モリ・カザフ自治県にも鳴沙山と呼ばれる山があるそうです
↑ 敦煌の鳴沙山の前には月牙泉があるそうです。
「月牙」は中国語で三日月を意味します。 砂漠の中のオアシスで、三日月に加工された池があります。
伯牙と月牙泉は伯が共通します。 また、①の話を思い出してください。 伯牙は中秋の夜、きこりの鍾子期に出会ったとあり、月牙泉をイメージさせます。
中秋とは陰暦8月15日のことです。 陰暦は月齢をベースとした暦です。 すなわち、新月の日は1日、三日月の日は3日、満月(十五夜)の日が15日のように、月齢(月相)によって日にちがきまっています。
伯牙は月牙泉と関係があるんじゃないかと思うのはトンデモですかねw。 
⑥鳴沙山は鳴らない?
伯牙は琴を壊して二度と演奏しなかったということですが、 伯牙=鳴沙山とすれば、鳴沙山はかつては風が吹くと砂が鳴っていたが、いつのまにか鳴らなくなったということでしょうか?
日本の鳴き砂などでもゴミがたまったりすると鳴らなくなるので、掃除をしていると聞きます。
ウィキペディアには次のように記されています。
鳴るためにはゴミ(浮遊性の植物起源のゴミは含まない)が少ない必要があり、また、自然界の鳴き砂は粒度範囲が限られ(地質学で砂と定義されている粒度範囲)1mm以上の砂、200µm以下の砂の鳴り砂、鳴き砂はないようである。 海浜の工事(波消しブロックを設置したり、岬の工事等)などのために海流が変化し砂の成分構成(鉱物成分や粒度分布など)が変わってしまうと鳴らなくなる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E3%81%8D%E7%A0%82 より引用
鳴沙山はかっては鳴っていたが、今は鳴らなくなってしまったのでしょうか?
次のような書き込みもありました。
鳴沙山とはいえ、鳴らない。普通の砂漠と一緒。おそらく、数十人が一緒に滑ると、鳴るのかなと思う。
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g303695-d2297317-r312977256-Mingsha_Shan_Echoing_Sand_Mountain-Dunhuang_Gansu.html より引用
ですが、下の動画は風が吹いて砂が鳴っている音のようにも聞こえます。(中国語はわかりません・・・汗)
↓ こちらは琴引浜の鳴き砂文化館に設置されているブーミングサンドの装置だそうです。
伯牙山 タペストリー

伯牙山近くに会った雰囲気のあるロウジ(路地・・・京都弁ではロウジと発音します。)
祇園祭 宵山 月鉾 『月鉾を調べたら伯牙山の謎がとけた?』 へつづく~
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・ 旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
祇園祭 宵山・・・7月14日~17日
①祇園祭とノアの箱舟は関係ない?
岩戸山の前の古民家では岩戸山のタペストリーなどが展示されていました。 下の写真のタペストリーにはveniceと書いてあります。 祇園祭のタペストリーにはこういう日本的でないものがすごく多いです。 ギリシャ神話を題材にしたものもあり、山鉾巡行が行われる7月17日はノアの箱舟がアララト山に漂着した日なので 山鉾巡行はノアの箱舟をテーマにしたものではないかとする説もありますね。 山鉾の中には船鉾もありますし。 でも残念!山鉾巡行はかつては旧暦6月17日に行っていたのを、新暦を用いるようになってから7月17日に改めたのです。 ですから山鉾巡行はノアの箱舟とは関係ないかと思います。 ただし17日が共通するというのは少し気になります。 旧暦6月17日ごろは梅雨、もしくは梅雨明けにさしかかるころなので、ノアの箱舟の話にある大雨・洪水をイメージさせますしね。 京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 『祇園祭とノアの方舟は関係ない?』
②岩戸山の天照大神は男神このブログで何度もしつこく「各地に天照大神は男神だと伝わっている。」「天照大神は男神だとする説がある。」 と書きました。 「天照大神は男神』その証拠がなんとっ!祇園祭岩戸山にあったのです。 ちょっとわかりにくいですが、ご神体が三体祀られていますよ。 ↑ 向かって左は天手力男(アマノタジカラヲ)。 天岩戸に隠れた天照大神が岩戸を少しあけて外を覗きこんだところを引っ張り出したのが天手力男です。 ↑ 向かって右はイザナギ。 イザナギは天照大神の父親ですね。 イザナギとイザナミは夫婦となって国産み、神産みをしましたが、イザナミは火の神・カグツチを産んだ際にホトに火傷をおって死に、黄泉の国へ行ってしまいました。 イザナギは黄泉の国へいきイザナミに「帰ってきておくれ」といいますが、イザナミの腐り蛆のわいた姿に愛情が覚め、この世に逃げ帰ってしまいます。 そして川で禊をし、右目を洗ったところ天照大神が、左目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオが生まれました。 ↑ そして中央は天照大神ですが、男神です! 陰陽の考え方では「万物には陰陽両面がある。」と考えます。 天体は太陽が陽で月は陰。性別では男が陽で女が陰です。 ですから太陽は男神のほうが陰陽道の考え方からしてもぴったりくるのです。 | 天地 | 性別 | 天体 | 光度 | 天気 | 生死 | 陰 | 地 | 女 | 月 | 暗 | 雨 | 死 | 陽 | 天 | 男 | 太陽 | 明 | 晴 | 生 | ③本当の天照大神は物部氏の祖神・ニギハヤヒ?天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしみかたま にぎはやひ の みこと)という神様が本当の天照大神ではないかとする説があります。 天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命というのは先代旧事本紀の記述で、記紀では単にニギハヤヒとなっています。 物部氏の祖神で、初代神武天皇より早く畿内に天下っていたとされる神様です。 ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていて、あとからやってきた神武と対決します。 しかしニギハヤヒは神武に服し、ナガスネヒコはニギハヤヒに殺されたと記紀には記されています。 この説話から、初代神武天皇以前、日本には物部王朝があったのではないかとも言われています。 ③アメノウズメ=月読命?
↑ 展示物の中にこんなポスターがありました。 ↑ お面も展示されていましたよ。 7月14日、岩戸山では「岩戸山天岩戸のカミあそび」と称して、アメノウズメノミコト(天宇受売命・天鈿女命)が舞う神楽「天岩戸開き」を奉納しているそうです。 ポスターはこれを撮影したもので、展示されていた小面の面はアメノウズメだったのですね。 アメノウズメはおたふくのお面が用いられることもありますが、御香宮の祭礼でもアメノウズメの面として小面が用いられていました。 御香宮に飾られていたサルタヒコとアメノウズメサルタヒコは天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命と同一神だと思います。 というのは、サルタヒコは「高天原から葦原中国までを照らす神」と記紀に記されているのです。 高天原は天、芦原中国は国で「高天原から葦原中国までを照らす神」は「天照国照彦」ということになるからです。 御香宮のサルタヒコ&アメノウズメは、天照大神(天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命)&アメノウズメでもあるということになります。 日本の同祖神は猿田彦とアメノウズメの男女双体の神とされます。 多気山不動尊 道祖神天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味をもって岩戸からでてきた。よって天照大神とは男である。 とする説があります。 どうも(天照大神=照国照彦火明櫛甕玉饒速日命=サルタヒコ)とアメノウズメは夫婦のようです。 すると、天照大神は太陽神なので、アメノウズメは月の神ではないかと思えます。 もう一度②であげた陰陽表をはっておきますね。 | 天地 | 性別 | 天体 | 光度 | 天気 | 生死 | 陰 | 地 | 女 | 月 | 暗 | 雨 | 死 | 陽 | 天 | 男 | 太陽 | 明 | 晴 | 生 |
記紀神話には月の神として月読命が登場します。 アメノウズメと月読命は同一神ではないでしょうか? ④太陽と月が結婚すると星の神になる。中国に伏義と女媧という神様がいます。 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg よりお借りしました。 作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で↑ この図をみると二神の周囲に星宿図のようなものが描かれ、上中央には菊の紋のようなものが、下中央にはクロワッサンのようなものが描かれています。 菊の紋のように見えるのは太陽、クロワッサンのように見えるものは月ではないでしょうか。 五盔墓4号墳の壁画に描かれた絵では、伏義が持ち上げている円の中には八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれています。 八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられていました。 伏義と女媧には次のような伝説があります。 伏羲が妹の女媧にプロポーズしたところ、女媧は「私を捕まえることができたら結婚しましょう」といいました。 女媧は木の周囲を回って逃げ、伏羲はあとをおいました。 けれど、なかなか女媧を捕まえることができません。 そこで伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえました。 こうして伏義と女媧は結婚しました。 やがて女媧は出産しましたが、それは肉塊でした。 その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散り、人間となりました。 伏義は陽、女媧は陰の神だと考えられますが、伏義は太陽神、女媧は月神であるとも考えられます。 太陽(伏義)が月(女媧)をなかなか捕まえられないのは当然ですね。 太陽が月を捕まえるとは、太陽と月が重なること、日食のことでしょう。 古代中国では紀元前4世紀の天文学者・石申が月と太陽の相対位置から日食を予測する方法を説いています。 日食とは太陽と月が重なっておきる現象であるということは古くから知られていたのだです。 伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえたとありますが、太陽は止まることはないし、逆に廻ることはありません。 これは目の錯覚を表現したものではないでしょうか。 太陽や月は東から西に進みますが、日食の影は西から東に進むので、太陽が逆に廻ったように錯覚したのではないかと思います。 ↓ こちらの動画を見ると日食の影が西から東へ(右上から左下へ)進んでいくのがわかります。 ※『太陽や月は東から西に進みますが、日食の影は西から東に進むので、太陽が逆に廻ったように錯覚したのではないかと思います。』と書きましたが、 上の動画を見ると西から東へ進んでいるのは太陽というよりは月のほうのように見えますね・・・。 伏義=陰/月・大地なんでしょうか?2012年の金環日食では、かなり暗くはなりましたが、夜のように真っ暗にはなりませんでした。 しかし皆既日食では日没後20分から30分くらいたった程度に暗くなり、明るい星であれば観測されるそうです。 「やがて女媧は出産しました」とありますが、女媧が生んだものとは、日食がもたらすものことでしょう。 日食の結果、闇が生じて星が見えます。 「その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となりました。」 とありますが、夜空にきらめく無数の星は、切り刻んだものが飛び散ったかのように見えます。 死んだ人の霊は星になると考えられていたのではないでしょうか。 お盆の習慣が生じたのは、ベルセウス座流星群が流れる様子を見て、先祖の霊が帰ってくると、古の人々が考えたためだと思います。 「肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となりました。」というのは、人間は人間でも死んだ人間の霊=星のことを言っているのだと思います。 もう一度伏義と女媧の絵を見てみましょう。 伏義(太陽)と女媧(月)が蛇身の下半身をからませあい、その周囲にはたくさんの星が描かれています。 これは日食のようすを描いたものではないでしょうか。 道祖神はもともとは中国の神なので、伏義(太陽)と女媧(月)が和合した姿をした神なのだと思います。 そしてそれが日本に伝わって、サルタヒコ’(太陽)とアメノウズメ(月)が和合した神として信仰されたのでしょう。 太陽と月が結婚するというのは日食のことで、日食になると暗くなって星が見えますから、道祖神は星の神です。 北にあって動かない北極星や真東からのぼって真西に沈むオリオン座の三ツ星は航海の指標とされていました。 太陽や月は日によって位地が変わるので航海の指標にはふさわしくなかったのです。 航海の指標とされた星の神を道祖神と呼ぶのはなるほどと思えます。 岩戸山 山鉾巡行 山の屋根にはイザナギが祀られています。
⑤イザナギ、陽の神→天の神→太陽神→生の神と変化する。と、このように考えてみたところ、岩戸山のご神体としてイザナギが祀られている理由がわかったような気がしました。 岩戸山で天照大神として祀られている男神はニギハヤヒ=猿田彦だと考えられます。 そして7月14日の神楽では山の前でアメノウズメの神楽が奉納されます。 これは太陽神(天照大神=ニギハヤヒ=サルタヒコ)を月神(アメノウズメ)と和合させて星の神とする儀式なのではないでしょうか。 そして天照大神の父・イザナギもイザナミと和合しています。 イザナギとイザナミは天の浮桟橋(うきさんばし)でアメノヌボコを降ろして、海をかき回すと、海水がしたたってオノゴロ島ができました。 私はイザナギは天の神、イザナミは地の神だと思います。 イザナギは天の神なので北極星を中心として天を動かす力を持っていたのではないでしょうか。 そしてその天を動かす力が地上にも影響した結果、鳴門の渦潮が生じたと昔の人は考えたのではないかと思います。 星は左回り、鳴門の渦潮は右回りが多い(左回りもある)と言われるかもしれませんが、それは地上にいる私たちが向きを変えて見ているからです。 つまり私たちは星を見るときには上向きに、鳴門の渦潮を見るときには下向きに見ていますね。 でも天球に星が張り付いているものと仮定し、その天球の上から見ると星の回転も、鳴門の渦潮の回転も右回りに見えるはずです。 イザナミが国(本州・四国・九州など)を産むことができたのは、イザナミが大地(地球)の神だからでしょう。 そして鳴門の渦潮は地の神・イザナミの巨大な女陰だと考えられたのではないでしょうか。 赤ちゃんは生まれてくるとき右回りに回転しながらお母さんの膣の中から出てきます。 鳴門の渦潮は左回転もあるそうですが、多くは右回転なのだそうです。 鳴門の渦潮おのごろ島とは鳴門の渦潮の近くにある島のことだと思います。 イザナギとイザナミはおのごろ島に成り立ち、大きな柱をたてました。 そしてイザナギは右回りに、イザナミは左回りに回って出会い、エッチしようということになりました。 このくだり、④に書いた伏義&女媧の物語に似ていますね。 女媧は木の周囲を回って逃げ、伏羲はあとをおいました。 けれど、なかなか女媧を捕まえることができません。 そこで伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえました。 こうして伏義と女媧は結婚しました。おのごろ島に立てた柱とは地球そのもの、その周囲をまわるイザナギや伏羲は太陽、イザナミや女媧は月ということでしょう。 これを思いついたのは飛鳥昭雄さんが、記紀神話と聖書の記述がそっくりであるとして、次のように指摘されていたからです。 聖書2日目/神は大空を作り大空の下と大空の上に水を分けました。 古事記神世第2代/豊雲野神 ※豊かな雲は大空の上を、野は大空の下に対応。 聖書3日目/神は地と海を作りました。 古事記神世第3代/宇比地邇神・妹須比智邇神 ※宇比地は泥土で海、須比智は砂土で地に対応。 聖書4日目/神は太陽に昼を治めさせ月に夜を治めさせました。 古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神 ※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記します。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もあります。 杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。 つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。 妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。 聖書5日目/神は水中生物・鳥を造り、祝福して言いました。生めよ、増えよ。 古事記/神世第5代/意富斗能地神・妹大斗乃弁神 ※意富斗・大斗は世界。地は男性・弁は女性の意。つまり「男の世界」「女の世界」。 聖書/6日目/神は獣と人間を造り、造ったものを見て満足しました。 古事記/神世第6代/於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神 ※日本書紀では面足尊。地の面が完成したこと。あやに畏し(阿夜訶志古)は賞賛を意味します。つまりすべて完成し、あやに畏しと神が満足したということ。 杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。 つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。 妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。 とあるところに注意してくだい。 | 天地 | 性別 | 天体 | 光度 | 天気 | 生死 | 陰 | 地 | 女 | 月 | 暗 | 雨 | 死 | 陽 | 天 | 男 | 太陽 | 明 | 晴 | 生 |
おそらくイザナギは陽の神、イザナミは陰の神なのでしょう。 アメノヌボコを海に差し入れてかき回したとき、イザナギは天、イザナミは地の神に転じました。 そして国産みをする際には、イザナギは太陽、イザナミは月の神に転じています。(二神が柱をたててまわっているため) つまり、イザナギは天照大神に、イザナミは月読命に転じたということです。 それで、岩戸山では天照大神とともにイザナギも祀っているのではないでしょうか。 ついでに書いておくと、そのごイザナギは生の神、イザナミは死の神へと転じています。 イザナギとイザナミは夫婦となって国産み、神産みをしましたが、イザナミは火の神・カグツチを産んだ際にホトに火傷をおって死に、黄泉の国へ行ってしまったのです。 イザナギは黄泉の国へいきイザナミに「帰ってきておくれ」といいますが、イザナミの腐り蛆のわいた姿に愛情が覚め、この世に逃げ帰ってしまったのです。 イザナギは黄泉平坂に大きな石を置いてあの世とこの世を隔てました。 イザナミは石の向こう側から「あなたの国の人を一日1000人殺してやる」と言うと、伊邪那岐命は「 それならば私は産屋を建て、1日1500の子を産ませよう」と言いました。一日1000人殺してやる・・・死の神 1日1500の子を産ませよう・・・生の神 ↑ 岩戸山山鉾巡行でイザナギが屋根に祀られるのは、イザナギが天の神だからではないでしょうか。⑥アメノタジカラヲは太陽・月の日周運動をおこす神太陽と月が重なって起きる日食は、ほおっておくと終わり、太陽は再び明るく照らすようになります。 なぜほおっておくと日食は終わるのかというと、太陽や月が日周運動をしているからです。 ということは天照大神を引っ張り出したアメノタジカラヲは太陽や月の日周運動をおこす神なのでしょう。 ⑤で北極星には夜空を回転させる力があると書きましたが、太陽や月はこれとは異なる動きをするので、別の神としてアメノタジカラヲという神を創作したのではないでしょうか。 ただ、イザナギは天の神なので、北極星の神・太陽の神・月の神・太陽と月の日周運動をひきおこす神はイザナギの分身だと考えられると思います。 ⑦天照大神・月読命・スサノオはなぜイザナギ一柱から生まれたのか?
イザナギとイザナミは夫婦となって国産み、神産みをしましたが、イザナミは火の神・カグツチを産んだ際にホトに火傷をおって死に、黄泉の国へ行ってしまいました。 イザナギは黄泉の国へいきイザナミに「帰ってきておくれ」といいますが、イザナミの腐り蛆のわいた姿に愛情が覚め、この世に逃げ帰ってしまいます。 そして川で禊をし、右目を洗ったところ天照大神が、左目を洗ったところ月読命が、鼻を洗ったところスサノオが生まれました。天照大神・月読命・スサノオはイザナギ一柱から生まれています。 ⑥のように考えたとき、なぜイザナギ一柱から天照大神・月読命・スサノオが生まれたのかという謎もとけます。 スサノオは「イザナギに大海原を治めよ」と命じられていたり、「母(イザナミ)のいる根の国にいった」と記されていたり、神格がはっきりしません。 おそらく記紀は改竄されています。 スサノオの本当の神格は星の神だと思います。 というのは陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位地、西を月の定位地、中央を星としているそうなんです。 そして地図では東が左で、西が右です。 「東が右で西が左じゃないの」といわれるかもしれませんが、それは正しくは「東は向かって右、西は向かって左」です。 地図の側にたてば東が左で西が右になります。 記紀の記述は陰陽道の宇宙観をあらわしているのだと思います。 そして、太陽・月・星があるのは天であって、地にはありません。 それでイザナギが単独で天照大神・月読命・スサノオを産んだという話になっているのではないでしょうか。 長刀鉾
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祇園祭宵山 7月14日~16日
①芦刈は「悪し刈り」?蘆刈山は能「芦刈」をテーマにした祇園祭の山です。 能「芦刈」は次のような話です。 都で乳母をしていた女が舟で難波の浦まで行き、そこから故郷・摂津の国(現在の大阪府)日下の里へ着きました。 女の夫・日下左衛門の家を訪ねると、日下左衛門はいませんでした。 貧しさから家にいられなくなり、行方不明となってしまったようです。 女は日下左衛門を探し出すことを決意します。 女はこのあたりで評判の芦売りを見にいきました。 芦売りの男は狂乱の動き(カケり)をしたのち、「自分は都の人とゆかりがある」「昔この地に仁徳天皇の御殿があったため、御津(みつ)という地名になった」などと話をしています。 女は、芦売りに芦を持って来させ、芦売りの顔を見ると日下左衛門でした。 男も女が妻であることに気が付いて逃げようとします。女は男に近づいて「あなたを迎えにきたのです」と告げました。 男は烏帽子と直垂を着けて姿を変えて舞を舞い、女と男はともに都へ向かいました。
「芦」は「悪し」にかかり、「芦刈」は「悪しを刈る」という意味もありそうに思えます。
芦刈山ご神体②日下の里はどこ?日下の里は東大阪市日下町のことでしょうか。 海岸線から随分離れていますが、昔の大阪湾は現在の内陸部まで入り込んでいたのです。 淀川や大和川が運んでくる大量の土砂で堆積し、また干拓工事などが行われて現在のように平野が広がったとされています。 そして生駒山麓の現在の日下あたりに草香江と呼ばれる入江があったようです。 しかし、この日下の里がどこにあったのかについては、不明とされています。
③御津御津についてぐぐってみると、滋賀県大津市坂本、三重県度会(わたらい)郡二見町、兵庫県南西部、島根県松江市などもでてきますが、これは当然、 難波(大阪)の港津・御津のことでしょう。 現在、大阪市中央区に御津八幡宮や御津寺がありますが、日下左衛門の妻は日下からこのあたりまでやってきたのでしょうか? 三津寺は御津八幡宮の神宮寺であったとか、御津八幡宮は三津寺の鎮守であったなどといわれています。 三津寺御津八幡宮の創建については、諸説あります。 a.天平時代, 大仏殿建立に際し 九州の宇佐から勧請した宇佐八幡を奈良のほか、この地にも祀った。 b.749年、孝謙天皇が八幡大神の神託を受けて勅使を佐八幡宮に派遣した。その勅使が平城京に帰京する際、ここに立ち寄った。その場所に三津八幡具を建立した。 ※孝徳天皇と称徳天皇は同一人物で、769年に「道鏡を次期天皇にすべし」との神託があり、これを確認するために勅使として和気清麿をおくっています。 しかし749年とあるので、これとば別のときに宇佐八幡へ勅使を派遣したのかもしれません。 c.860年、宇佐八幡宮を男山に遷座する際、立ち寄った旧跡なので神社を創建した。の時 西海より初めて此の地に到る その旧跡であるが故に ここに祭った d.仁徳天皇が浪速に都をおいた頃、 味原の郷にあった神社を後世ここに移した。 御津八幡宮・三津寺の南の高津高校(大阪市天王寺区餌差町)には高津宮跡碑があり、ここが仁徳天皇皇居跡とされます。 味原は天王寺区にある地名です。 ④日下左衛門は仁徳天皇の霊?能では古のことや由来などを語った人物が、実は古のことや由来にかかわる人物の霊だった、という話がたくさんあります。 たとえば「高砂」では肥後国阿蘇の宮の神主・友成が出会った老夫婦は、高砂の相生の松の由来などを語りますが、実は老夫婦は相生の松の精だったのです。 ということは、もしかして日下左衛門って、仁徳天皇の霊? 従者「いかに申し候。さて御津の浜とはいづくにて候ふぞ 蘆売「忝くも御津の浜の御在所はあれにて候 従者「不思議やな。なにとて忝きなんどとは仰せ候ふぞ 蘆売「あら。なにともなや。さらば何とて御津の浜とはおん尋ね候ぞ。忝くも仁徳天皇この難波の浦に大宮作りし給ふ。おん津と書いて御津の浜とは申すなり 従者「げに面白き謂われかな。皇居なりつる浦なれば。御津の浜とは理なり 蘆売「波涛海辺の大宮なれば。漁村にともす篝火までも。禁裏雲居の御火かと見えて。上雲上の月卿より。下万民の民間までも。有り難かりし恵みぞかし。や。あれ御覧ぜよ御津の浜に。網子調ふる網船の。えいやえいやと寄せ来るぞや (能『蘆刈』)
芦刈山の荷茶屋(にないちゃや)/かつてこの函に茶道具をいれて山鉾巡行に同伴し、人々の喉の渇きを潤したとのこと。⑤芦が池水路仁徳天皇と芦には何か関係があるのか、と思って調べてみると、堺市に芦ヶ池水路がありました。 向陵公園(堺区向陵東町3丁)から仁徳天皇陵に至る、約1.4キロメートルの水路です。 現在の水源は井戸水ですが、かつては狭山池から水を引き、仁徳天皇陵の濠、環濠集落堺の濠(内川・土居川)を経て大阪湾に注いでいたそうです。 この水路が芦が池水路というのは、たまたまなのかもしれませんがw。 芦刈山 山鉾巡行(7月17日)⑥芦の仮ねの一夜ゆえ難波江の 蘆のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう) (難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)
百人一首にあるこの歌で芦の小屋で仮の一夜を過ごしたのはは、遊女と解釈されています。 あ、皇嘉門院別当という人は崇徳天皇の皇后・皇嘉門院に仕えていた女性で(別当は役職名)遊女ではありません。 彼女が遊女のことを歌に詠んだ、ということですね。 平安時代の大江匡房の『遊女記』によれば、 「難波江・淀川の水運で栄えた江口・神崎・川尻・室・蟹島には遊女がおり 小舟で通行する船に近づいて客をとっていた。遊女の小舟は水面がみえないほど多かった。」 とあります。 日下左衛門の妻は芦を刈って作った小屋で春を売る遊女だったのかも? 舞洲より大阪湾(難波江)を望む。⑦男女和合は荒魂と和魂を和合させて御霊に転じる呪術?神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれます。 そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があります。 すると神の本質である御霊とは男女双体ということになると思います。 荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神 和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神 御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体 男女が関係を持つことは、荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させることで、御霊に転じさせる呪術であったのではないかと私は考えています。 真言立川流ではドクロ本尊の前でエッチを繰り返すという呪法を行っていたそうですが、これも荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させることで、御霊に転じさせる呪術だったのではないでしょうか?
芦刈山の古いご神体でしょうか?眉毛や髭が失われていますが、顔がご神体にそっくりです。首だけというのが怖いですがw。⑧仁徳天皇は怨霊だった?諡号に「徳」の字のつく天皇は怨霊だといわれます。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病の流行や天災は怨霊のしわざによって引き起こされると考えられていました。 そういえば崇徳天皇は保元の乱をおこして敗れて讃岐に流罪となっていますし、 安徳天皇は平家没落のとき、祖母に抱かれて壇ノ浦に入水して崩御されています。 承久の乱をおこして鎌倉幕府に敗れた後鳥羽院は、顕徳院とも呼ばれていました。 このうち、崇徳・後鳥羽(顕徳院)はいずれも怨霊伝説があります。 すると仁徳天皇もまた怨霊であったのか? 日本書紀はやたら仁徳天皇をほめちぎっていますが、それは仁徳天皇が怨霊だからでは? (怨霊を批判すると祟られると考えられていたことでしょう。) 仁徳天皇は、民の竈から煙があがっていないのを見て、3年間租税を免除し、その間は宮殿の屋根の茅も葺き替えなかったという話は有名ですね。 日下左衛門は貧乏で家に住めなくなった、とありますが、 日下左衛門は仁徳天皇であり、租税を免除して屋根の茅をふきかえることができず、 それで家(宮)に住めなくなり、芦刈をしていたというのが、能「芦刈」のテーマなのではないでしょうか? 仁徳天皇の宮は大阪市天王寺区餌差町の高津宮跡碑あたりで、日下左衛門が住んでいた日下ではないのがおかしいですがw。 菊水鉾

月鉾
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祇園祭宵山 7月14日~16日
①太子山と奇応丸太子山の前に雰囲気のある店が。 かつては薬屋さんだったのでしょう。 奇応丸の看板があげられています。 関西の人なら「ひや きおーがん♪」と歌われるCMソングを1度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。 「ひや」は「樋屋」で「樋屋製薬会社」という会社名、「奇応丸」は赤ちゃんの夜泣き・疳の虫に効能があるとされる薬です。 奇応丸は奈良時代に鑑真が6度目の渡航で来日に成功した歳、戒律とともに日本に伝えたとされる生薬です。 のちに東大寺の太鼓を修理した際、腔裏(こうり)にその製法が記されており、これをもとに奇応丸が作られるようになったといわれます。 太子山を祀る山鉾町に奇応丸があったのは偶然なんでしょうか? 私には聖徳太子と奇応丸には関係があったのではないかと思えるのです。その理由をお話しします。 ②疳の虫封じの寺社京都や大阪に虫封じにご利益があるとされる寺社があります。↓ 1 | 北向虫八幡神社(京都) | 桂川の草津湊にあったが1872年に伏見の田中神社境内(明治5年)に遷宮 平安時代、藤原安子が憲平親王(後の冷泉天皇)の癇の虫治癒祈願し効果があった。 社殿が北を向いているのは平安京鎮護のためといわれる。 | 2 | 三十三間堂(京都) | 三十三間堂の僧侶が夢のお告げで夜泣泉(よなきせん)を発見した。 すすり泣きに似ているので夜泣泉の名前がある。 冷たく、おなかをこわさない。枯れることがない。 夜泣泉の隣には夜泣地蔵がある。 お地蔵様の前掛けを持ち帰り、幼児の枕に敷くと、夜泣きが治るという。 | 3 | 剣神社(京都) | 願掛けの期間中は飛び魚を断って祈願する。 疳の虫と神、白山姫命を祀る。 | 4 | 壬生寺(京都) | 塔頭・中院の夜泣き地蔵(おせき地蔵)が幼児の夜泣きにご利益あり。 | 5 | 三宅八幡宮(京都) | 通称虫八幡。子供の疳の虫除けや夜泣きにご利益がある | 6 | 自性院(大阪) | |
谷町筋付近 自性院 ③夜泣き地蔵=お石地蔵=お咳地蔵?
壬生寺の「夜泣き地蔵」は「おせき地蔵」とも呼ばれているそうです。 「おせき地蔵」は石像なので「お石地蔵」となり、ここからさらに「お咳地蔵」に転じたのではないでしょうか。 自性院は大坂の谷町筋近くにあるお寺ですが、このあたりはかつて日想観の聖地でした。 日想観とは沈みいく夕日を見て西国浄土に思いをはせるという仏教の修業のことを言います。 日想観の信仰の中心地は四天王寺でしたが。その四天王寺には牛王尊を祀る「石神堂」があります。  牛王尊とは厄神の牛頭天皇ではないかと思いますが、その牛王尊=石神ということだと思います。 さらに 四天王寺境内には「咳(せき)の地蔵尊」があります。 咳の地蔵尊は牛王尊=石神と関係のある地蔵尊ではないかと思います。 石は「せき」と読むので、石神は咳の地蔵尊に変化したのではないでしょうか。 実際、ミシャクジ様を咳を治してくれる神として信仰しているところもあります。(横浜市の社宮司社) そして、壬生寺の夜泣き地蔵=おせき地蔵が疳の虫にご利益があると信仰されているということは、 四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊も疳の虫にご利益があると信仰され、 その四天王寺の牛王尊=石神=咳の地蔵尊に関係する仏さまを自性院ではお祭りしているのではないかと私は考えました。 ④ミシャクジ様は疳の虫を切る神石神とは御石神(ミシャクジ)様のことだと思います。 このミシャクジ様について、次のような内容の書き込みを見つけました。 1.諏訪大社の御祭神はミシャグジ様(御石神様)。 2.疳の虫とつながりがあるとされ、ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた紙を お供えするという風習がある。 3.昔は疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用した。https://hobby7.5ch.net/test/read.cgi/occult/1162037686/ №26 ミシャクジ様と疳の虫を切る儀式との関係については明確に記されていませんが、 ミシャグジ様にはさみの絵をお供えする習慣があったということは、ミシャクジ様は疳の虫を切ってくださる神様、という信仰があったということでしょう。 そしてハリガネムシ(針金のような形をした虫)を疳の虫に喩え、これをはさみで切る儀式をミシャクジ様の前で行ったということではないかと思います。 祇園祭 太子山⑤ミシャグジ様に奉納する杓子をひっくり返せば燗をする徳利の形にミシャグジ様が疳の虫治癒の神様でもあるとすれば、なぜミシャグジさまは疳の虫治癒に霊験があると考えられたのでしょうか。 ミシャグジ様は杓子(シャクシ/しゃもじ)の音に通じるため、杓子を奉納する習慣があります。 滋賀県の多賀大社にはしゃもじを奉納する習慣がありますが、多賀大社もミシャグジ様と関係があるのでしょう。 胡宮神社には青龍山山頂に胡宮の磐座(いわくら)があり、多賀大社の奥の院と呼ばれているそうです。 磐座の神は石神ですね。 多賀大社前にある多賀屋さんの看板は多賀大社に奉納するしゃもじを象ったものです。 このしゃもじをひっくり返すとお燗(かん)の徳利のような形になりますね。 それで、燗→疳の虫となったのかも? 参照/ 谷町筋付近はお寺だらけ!『疳の虫祈願の神様。その正体は?』 ※追記 酒をつぐことを「酌(しゃく)」といいますね。 御石神(みしゃくじ)の「しゃく」を語呂合わせで酌にかけたのかも? さらに杓子には切断した頭部のイメージがあるので、「酒を断つ」神様となったのかもしれません。 「杓子に切断した頭部のいめーじがある」については長くなるので、以下の記事をお読みください。 多賀大社 『糸切餅は胡弓をデザインしたものだった?」 ⑥本多忠朝の墓にしゃもじを奉納するのはなぜ?そう考えると、四天王寺近くにある一心寺に祀られている本多忠朝の墓にしゃもじが奉納されている理由が説明できます。 本多忠朝は本多忠朝はお酒が大好きで、そのため冬の陣では負けてしまい、家康にこっぴどく叱られたそうです。 それで名誉挽回とばかりに夏の陣では頑張ったのですが、討ち死にし 死ぬ間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれています。 しゃもじは酒の燗の形に似ています。 それで酒絶ちの神・本多忠朝にしゃもじを奉納するのではないでしょうか。  一心寺 本多忠朝の墓 ⑦石神=聖徳太子?四天王寺は聖徳太子が建てた寺なので、石神=ミシャクジ様=咳の神=疳の虫の神の正体は聖徳太子なのでしょうか。 そういえば、聖徳太子を祀っている奈良県明日香村の橘寺にもしゃもじが奉納されていました。 すると、聖徳太子をご神体とする太子山の山鉾町に疳の虫の薬・奇応丸を販売する薬屋があるのは偶然ではないかもしれません。 奇応丸を販売する薬屋は疳の虫封じの神として聖徳太子を信仰しており、そのため祇園祭で太子山を奉仕しているのではないかとも思えます。 祇園祭 太子山 ご神体(聖徳太子像)⑧神殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイル?ですが、四天王寺にはは物部守屋を祀る守屋祠もあります。
聖徳太子は崇仏派蘇我氏vs廃仏派物部氏の戦いで蘇我氏側で参戦しました。 戦いは蘇我氏側が勝利し、聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢を用いてたてたのが四天王寺なのです。 かつて神仏は習合して信仰されていました。 四天王寺に守屋祠があるということは、四天王寺は守屋の怨霊を鎮魂するための寺ではないかとも思えるのです。

そして奈良県天理市には石上神宮があります。 石上神社は物部氏が祭祀擦る神社ですが、石上という神社名は石神を思わせます。

石上神宮
また大阪府交野市・枚方市あたりにはかつて肩野物部氏が住んでいましたが、ここには本殿がなく磐座などをご神体とする神社が多いです。(磐船神社・星田妙見宮・片埜神社の境外社・瘡神社など) 天理市の石上神宮には現在は本殿がありますが、かつては本殿はなく拝殿奥の土地をご神体としていたのです。(布留高庭または御本地)
どうも神殿をつくらない古いタイプの神社は物部氏の祭祀によるものではないかと思えるのです。
そして石神=磐座であり、石神=みしゃくじとは物部氏の神ではないかとも思えます。
磐船神社 ご神体 天の磐船
⑨大神神社は物部氏の神を祀っている?
神殿を持たない神社といえば奈良県桜井市の大神神社が有名ですね。 大神神社の御祭神・大物主は別名を倭大物主櫛甕魂命といいます。 そして物部氏の祖神・ニギハヤヒは別名を天照国照彦火明櫛玉饒速日命といい、櫛と魂(玉)が同じなので、二神は同一神ではないかとする説があります。
大神神社は物部氏の神を祀っているのではないか。 そう思えるのです。
大神神社 ご神体の三輪山
⑩菅原道真は十一面観音の生まれ変わり
北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺のご本尊は道真御作と伝えられています。 しかし、東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられています。
天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことだと思います。 本地仏とは本地垂迹説からくる言葉です。 本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものであるとする考え方です。 そして仏教の神が仮にこの世に姿をあらわした日本古来の神々のことを「権現」、 日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを「本地仏」といいました。 つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味になると思います。
東向観音寺
すると、「道真御作」というのは本当に道真が十一面観音を刻んだという意味ではなく、「怨霊として(道真の死後、疫病や天災があいつぎ、これらは道真の怨霊の仕業と考えられました。)人々に畏れられた道真が成仏して十一面観音になった」という意味ではないかと思えます。
そして大神神社の神宮寺だった平等寺では聖徳太子御作の十一面観音をご本尊としていました。 平等寺の十一面観音が聖徳太子御作だというのも、怨霊として畏れられた聖徳太子が成仏して十一面観音になった」という意味ではないかと思えます。
ですが、神殿をもたない大神神社は物部氏の神社ではないかとも思えます。
どうも聖徳太子と物部守屋のイメージが重なります。 もしかして聖徳太子と物部守屋って同一人物?
平等寺
⑪陰陽に描き分けられた守屋と聖徳太子
下図に示したように守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられています。
聖徳太子 | 物部守屋 | 少年 | 大人 | 崇仏派 | 廃仏派 | 弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた。 | 榎木の木の上にいるところを弓で射られて死んだ。 |
聖徳太子と物部守屋が同一人物だというのはあまりにもトンデモで、物部守屋は陰、聖徳太子は陽の存在とされているため、 イメージが重なって見えるのかもしれません。
祇園祭 宵山 ↑ ↓
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京都市左京区 須賀神社 角豆祭・・・5月第2日曜日 ①牛頭天皇を祀る神社須賀神社は1142年、に鳥羽上皇の后・美福門院(藤原得子/ふじわらのなりこ)が建てた歓喜光院の鎮守として創祀されました。 もともとは現在の平安神宮あたりにあり、岡崎の東天王社(岡崎神社(おかざきじんじゃ))に対して、西天王社(西天皇社)と呼ばれていました。 天王というのは牛頭天王のことだと思います。 牛頭天皇は祇園精舎の守護神で、スサノオと習合されています。 須賀神社の御祭神はスサノオと櫛稲田比売命ですね。 その後鎌倉時代末期・北条高時の反乱時に吉田神楽岡・吉田大元宮西下に移ったようです。 現在地には1924年に移転しました。 ②角豆と隠元の違い角豆祭の角豆(ささげ)とは豆の一種です。 http://noupro.jp/sasage-ingen上のページに角豆(ささげ)と隠元(いんげん)の違いについて説明されています。 角豆は隠元に似ていますが、隠元よりもさやが細長いです。 隠元のように、若いさやを野菜として利用することもでき、乾燥した実は小豆の代わりとして赤飯に用いたりするようです。 隠元は京都宇治にある萬福寺を創建した中国の僧侶が来日の際、日本にもちこんだと言われています。 隠元という名前は、この僧侶の名前が隠元隆琦であるところからつけられました。 隠元が日本にやってきたのは江戸時代の1654年なので、隠元が日本で食べられるようになったのはこれ以降ということになりますね。 いっぽう、角豆が日本に伝わったのは9世紀ごろと考えられています。 角豆のツルにたくさんのさや豆が実るように、氏子地区の子孫繁栄を願うことから角豆祭と呼ばれているということです。 角豆祭の由来などはぐぐったりしてみましたが、わかりませんでした。 ですが、角豆が日本に伝わったのは9世紀ごろと言うことなので、角豆祭は須賀神社が創建された1142年まで遡ることができるかもしれません。 ③近衛天皇(美福門院の子)、子を残さず16歳で崩御須賀神社を創建した美福門院(藤原得子/1117-1160)は藤原長実の娘で、藤原長実の死後の1134年に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになりました。 美福門院は鳥羽上皇との間に3女をもうけていますが、皇子は体仁親王だけでした。 1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇(父/鳥羽天皇 母/待賢門院・藤原璋子)に退位を迫り、体仁親王が即位しました。(近衛天皇) 美福門院は従兄弟・藤原伊通の娘・呈子を養女とし、さらに関白・藤原忠通の養女として近衛天皇に入内させました。 これは藤原頼長の養女・多子が近衛天皇に入内したことに対抗する目的がありました。 呈子は近衛の子を身ごもったかに見えましたが、残念ながら創造妊娠でした。 その後近衛天皇は16歳で崩御してしまい、子供もありませんでした。 ここで美福門院の血は皇統から絶えてしまったわけです。 ④美福門院、後白河天皇の子・守仁親王を養子としてかわいがる。美福門院は雅仁親王(父/鳥羽天皇、母待賢門院・ 藤原璋子)の子・守仁親王(のちの二条天皇)を養子として、我が子のように後見をしています。 守仁親王も父・雅仁よりも美福門院との関係のほうが親密であったようです。 そして美福門院は本来ならば守仁親王に即位させたかったのですが、将来守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、守仁親王の父・雅仁親王が即位しました(後白河天皇)。 後白河はとんでもない遊び人で、父・鳥羽上皇から「天皇の器でない」といわれるような人物であったようですが、実子の守仁親王が美福門院にかわいがられたことで天皇の地位につくことができたわけです。 | | | | 待賢門院(藤原璋子) | | | | | | | | | | | ー | 近衛(16歳で崩御) | | | 白河 | ー | 堀河 | ー | 鳥羽 | | 崇徳(実は白河の子?) | | | | | | | | | < | | | | | | | | 美福門院(藤原得子) | | 後白河 | ー | 二条(美福門院の養子) |
③保元の乱1156年、鳥羽上皇が崩御すると、保元の乱がおきます。 崇徳上皇・藤原頼長らが、朝廷に対してクーデターを起こしたのです。 崇徳は鳥羽の子ということになっていますが、実は鳥羽の祖父・白河の子だといわれています。 鳥羽は美福門院より早く待賢門院(藤原璋子)を后としていましたが、待賢門院は白河とできており、崇徳はその子供だというのです。 鳥羽は崇徳を、叔父にして子、という意味で叔父子と呼んで嫌っていたといわれます。 また鳥羽は崇徳に退位をせまって美福門院との間にできた近衛を即位させたおりにも、崇徳に院政ができないように細工をしており(近衛は崇徳の養=皇太子として即位する予定だったが、近衛は崇徳の皇太弟となっていた。近衛が皇太弟では崇徳は院政ができない)、崇徳はストレスがたまっていたのでしょう。 また藤原頼長は近衛天皇が崩御したさい、美福門院らに「頼長が呪詛して近衛を殺した」と讒言されて失脚していて、頼長も相当腹立たしく思っていた野だと思います。 保元の乱は、朝廷側が勝利しました。  ④平治の乱保元の乱の後、朝廷では信西(藤原 通憲)が権力を持ちました。 信西の妻が後白河の乳母であった関係で、信西は後白河の養父のような存在であったのです。 美福門院は信西と話し合いをして(仏と仏との評定/美福門院も真西も出家していたのでこう呼ばれている。)二条天皇を即位させました。 このことによって、朝廷は二条天皇親政派と後白河上皇院政派に分裂、対抗するようになります。 実の親子が別々の派閥に担ぎ上げられて対立したわけですね。 さらに後白河上皇院政派の中で、信西に不満を持つ派閥が分裂して3つの派閥が形成されます。 a. 二条天皇親政派(信西に不満) b. 後白河上皇院政派で反信西派(信西に不満) c. 後白河上皇院政派で親信西派そして、「b.後白河上皇院政派で反信西派」の藤原信頼は信西を襲撃するため、源義朝と手を結びます。 源義朝は保元の乱の際の恩賞が不満で朝廷に不満をもっていたとされます。 一方、信西は平家と手を結び、平家の武力を利用していました。
1159年12月9日の夜、平清盛が熊野へ行幸している隙をねらい、源義朝・藤原信頼は院御所・三条殿を襲いました。
源義朝らは、後白河上皇らを皇居内へ連れ込み、二条天皇と共に軟禁状態にしました。 信西は襲撃前に逃げていましたが、発見されて斬首されました。
a. 二条天皇親政派(信西に不満)は、反信西という点では藤原信頼と考えが共通していました。 しかし信西がなくなったので、藤原信頼に協力する理由がなく、むしろ二条天皇を人質にとる藤原信頼を敵対視していました。
そして二条天皇親政派(二条天皇の側近)の藤原惟方(これかた)・藤原経宗(つねむね)は平清盛に協力を要請、清盛もこれを受け入れます。
平清盛は、藤原信頼に従うと見せかけて油断させたところで、12月25日の夜、二条天皇を女装させて平清盛の邸宅のある六波羅へと避難させました。
後白河天皇も仁和寺へと脱出することに成功しています。
12月26日、二条天皇は藤原信頼・源義朝らへの追討宣旨を出しました。 平清盛軍は藤原信頼が占拠する内裏(皇居)を襲撃。藤原信頼・源義朝は死亡し、清盛軍が勝利しました。
⑤二条天皇親政派勝利なのに、後白河の皇統がつづく。
清盛軍が勝利したということは、二条天皇親政派が勝利したということです。 dすが皇位継承も二条天皇の系統が続いた・・・・とはなりませんでした。
二条天皇のあと、二条天皇の子である六条天皇が即位します。 しかし、その後は、高倉天皇(後白河天皇の子)→安徳天皇(高倉天皇の子)→後鳥羽天皇(高倉天皇の子)→土御門天皇(後鳥羽天皇の子)→順徳天皇(後鳥羽天皇の子)→仲恭天皇 と後白河天皇の血が続いています。 なんでこうなっちゃったのか?
こう書くとわかります。
二条天皇(父・後白河/母・源懿子)1158年即位 ↓ 六条天皇(父・二条天皇/母・伊岐致遠女)1165年即位 即位年齢 1歳 二条天皇死の間際に六条を強引に即位させ、23歳で崩御。 後白河が院政を行う。 ↓ 高倉天皇(父・後白河天皇/母・平滋子)1168年即位 ↓ 安徳天皇(父・高倉天皇/母・平徳子)1180年即位 ↓ 後鳥羽天皇(父・高倉天皇/母・藤原殖子)1183年即位 ↓ 土御門天皇(父・後鳥羽天皇/母・源在子)1198年即位 ↓ 順徳天皇(父・後鳥羽天皇/母・藤原重子)1210年即位 ↓ 仲恭天皇(父・順徳天皇/母・九条立子)1221年即位 ↓
二条は23歳で崩御したのですが、死の間際に我が子・六条を即位させました。 しかし六条はこのときわずか1歳で親政を行うのはムリ、ということで後白河が院政をおこなったのです。 その後、後白河は平時信の娘・滋子(平清盛の妻・時子の異母妹)との間に高倉をもうけて即位させました。 高倉は平清盛の娘・徳子を妻として安徳をもうけ、安徳は高倉の譲位を受けて即位したというわけです。
後白河は長生き(65歳)したのと、平家の娘を妻にしたのが幸いした?
ともあれ、角豆のツルにたくさんのさや豆が実るように、氏子地区の子孫繁栄を願うことから角豆祭と呼ばれているということですが、 美福門院の子孫が皇統に続かなかったのは皮肉な感じがしますね。

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京都市東山区 法住寺 2019年のつり雛展は終了しました。
①雛飾りはミニチュアの宮中先日、「チコちゃんに叱られる」を見ていたら、「お内裏さまは、上段の二人、お雛さまは雛人形全員」と言っていました。 やー、ぼーっと生きてましたね! 内裏とは古代の都城内の天皇の私的スペースのことです。 日本ではある建物に住んでいる人のことを、住んでいる建物の名前で呼んだりすることがあります。 例えば、惟喬親王は小野宮という広大な屋敷に住んでおり、自身も「小野宮」と呼ばれていました。 つまり、お内裏様とは内裏に住んでいる人という意味なのです。 つまり、お内裏様の男雛は天皇、お内裏様の女雛は皇后だということですね。 そういえば、下段に左大臣・右大臣の雛人形も飾りますね。 雛段は宮中のミニチュアだともいえます。 そういえばミニチュアの御殿の中に飾る雛人形もありますね。 ②京雛は男雛が東(太陽の定位置)、女雛が西(月の定位置)
法住寺に展示されている雛人形はすべて、お内裏様の男雛が向かって右、女雛が向かって左でした。 これ、京雛の特徴だそうですね。御所の玉座の位置に基づくもので、本来こう並べるのが正しいとされます。 「向かって右」というのは、お雛様に対面する人間から見た場合ですが、本来の右左は対象物から見て決定されます。 当たり前ですが、向かって右=左です。 そして古来、左は右より上位とされてきました。 右大臣・左大臣の位を比較しても、左大臣が上位ですね。 「天子南面す」といいますが、お内裏さまが南を向いて座ったとき、左手が東で、右手が西になります。 陰陽道では東は太陽の定位置、西は月の定位置とするそうです。 本来であれば、雛段も南向きに置くべきなんでしょうね。 で、天皇は太陽神・天照大神の子孫なので、左=東=太陽の定位置に置くということなのでしょう。 また、下記陰陽表のように、 陽ー太陽ー東―男性 陰ー月―西―女性 なので、向かって右(左)に男雛を置くというのは道理にかなっているように思えます。 ③関東雛が京雛と配置が逆なのは、大正天皇の即位の礼が原因?貞明皇后は欠席では?
大正天皇は即位の礼の際、洋装であったため、西洋のスタイルで貞明皇后の向かって左(右)に立たれたため、関東雛は京雛と配置が逆になっているといわれます。 でも、本当にそうでしょうか? 大正天皇の即位の礼に、貞明皇后は懐妊中で欠席されたんじゃなかったでしょうか。 https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC_%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD写真があるんじゃないかとネットで探してみましたが見つかりませんでした。 もし見つかったら、ご報告いたします。 ④お茶やヨガでは、「右が陽、左が陰」としている?また、ウィキペディアの陰陽表に次のようにありました。 陰陽 | 天体 | 東西 | 南北 | 左右 | 性別 | 陽 | 太陽 | 東 | 南 | 右 | 男 | 陰 | 月 | 西 | 北 | 左 | 女 |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BDなんと、 陽ー太陽ー東― 南― 右ー 男性陰ー月―西― 北ー 左ー 女性となっています。 また『天子南面す』というのは、天子は北=北極星の方角にたっているということです。 天子は男性で陽なので、当然南北では北が陽だと思いましたが、北は陰となっています。 ウィキペディアの間違い? そう思って調べてみると中国最古の養生書・『黄帝内経』には「左が陽、右が陰」と書いてあるようです。 ですが、お茶やヨガでは、「右が陽、左が陰」としているようで、ウィキペディアの間違いだとはいいきれないようです。 そうであるなら、陰である左(向かって右)が女性でも筋は通っているように思えます。 ⑤鏡のマジックで左右が反転する?そういえば、天照大神は女神でしたね。 天照大神は太陽神(陽)ですが、女神(陰)です。 天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸でてきた、女神のストリップに興味を持つのは男神だ、よって天照大神は男神だとする説があります。 さらに、その天照大神は八咫鏡に映った自分の姿を見て天岩戸から出て来たともいえます。 鏡のマジックといえるかもしれません。 鏡は左右逆転して映ります。 その結果、本来左に座すべき男神が右側に座すこととなり さらに、男神は太陽神という神格を失ってしまい、女神が太陽神ということになったのかもしれません。 古事記の中に描かれている物語は、鏡の国の物語なのかも? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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京都市上京区 千本閻魔堂 千本閻魔堂狂言・・・2月3日
鬼の念仏 ①額烏帽子幽霊が頭につけている三角の白い布。 これ「額烏帽子(ひたいえぼし)」「天冠(てんかん・てんがん/仏教用語)」「頭巾(ずきん)」「髪隠し」「紙冠(かみかぶり)」などと呼ばれています。 額烏帽子について、「はてなキーワード」には次のようにあります。 死装束で、頭につけられる白い三角巾。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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