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仁右衛門島 走る波 夕景 『仁右衛門島の頼朝・日蓮伝説の真相?』 


千葉県鴨川市 仁右衛門島
2016年11月13日 撮影


グランプリファイナルのネイサン・チェン、すごすぎ!
四回転ルッツ+トリプルトウループ、四回転フリップ、四回転トウループ+ダブルトウループ、四回転トウループ
と四回転ジャンプ4回入れた鬼構成で、ノーミス!
ジャンプだけでなく、表現力もあるし氷上のプリンシパルという感じ。しびれる~♡♡
https://www.youtube.com/watch?v=E7WYruLQXas


仁右衛門島  
●仁右衛門島に残る日蓮と源頼朝の伝説

千葉県鴨川市は房総半島の南東に位置し、海岸に立つと太平洋が広がっています。
その太平洋上に仁右衛門島があります。
といっても、海岸からの距離はせいぜい30メートルほどなんですが。
泳いで渡れそうですよ。泳げないけど。(なんじゃ、そりゃ)



時間がなかったので島には渡らなかったのですが
この島は個人所有で、平野仁右衛門家が一軒あるのみだそうです。
島主は代々平野仁右衛門を襲名しているそうで、現在の島主は推定38代目なのだとか。

仁右衛門島にはふたつの伝説があります。

①1180年に石橋山の戦いに敗れた源頼朝(生没年/1147-1199)は船で安房の仁右衛門島にやってきて、島主に助けられ平家から身を隠した。
②仁右衛門島東部の神楽石で日蓮(生没年/1222-1282)が朝日を拝んだ。

関西には平家や源義経の伝説は残されていても、源頼朝の伝説は聞いたことがありません。(私が聞いたことがないだけかもですが。)
なんだか、ワクワクしますね~。

鴨川 波


●平野家は江戸時代に和泉国からやってきた?

平野家は江戸時代に和泉国からこの地へ移転してきたとする記録が残されています。
ところが源頼朝や日蓮は江戸時代より前の鎌倉時代の人物です。

石橋島の戦いで敗れた源頼朝が船で安房に逃れてきたのは正史に記録がありますし、日蓮は安房の生まれです。
なので、源頼朝や日蓮がこの仁右衛門島にやってきた可能性はあります。
ですが、平野仁右衛門が源頼朝を助けたというのはちょっと信じられません。
記録のほうが間違っていて、平野家は鎌倉時代すでに仁右衛門島に住んでいたという可能性もなくはないんですが。

仁右衛門島2

●平野家は天台宗から日蓮宗に改宗した。

平野家はもともと天台宗であったのが、のちに日蓮宗に改宗したと言われています。

そして日蓮宗の開祖は日蓮で、1253年に清澄山(鴨川市)の旭森山頂に立日の出に向かって「何妙法蓮華経」と題目を唱えたといいます。

平野家は日蓮宗の熱心な信者だったのでしょう。
そこで清澄山の旭森山頂に立って日の出を拝んだという日蓮の話をベースに、舞台を仁右衛門島に置き換えて伝説が作られたのではないでしょうか。

平野家が自らそういう伝説を作ったのかもしれませんし、近所の人がそんな風に噂したのかもしれません。

鴨川 海岸 日没

●頼朝は法華経を厚く信仰していた?

次に頼朝の伝説について考えてみましょう~。

石橋山の戦いで敗れた頼朝は洞窟の中で法華経を唱えていた、そのため敵から逃れることができたと言われています。
(仁右衛門島には頼朝が隠れたという洞窟がありますが、法華経を唱えた洞窟が仁右衛門島なのかどうかはわかりません。)

日蓮宗では「南無妙法蓮華経」と唱えますね。
「南無」とはサンスクリット語の漢語訳で、「帰依します」という意味です。
そして「妙法蓮華経」は法華経のことです。
したがって「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依します。」という意味になります。

日蓮が生まれたのは源頼朝の死後20年ほどたってからなので、頼朝の時代に日蓮宗はありませんでした。(法華経への信仰はありました。)
しかし先ほどお話ししたように、日蓮宗は南無妙法蓮華経(法華経に帰依する)と唱える宗派なので
後の時代の日蓮宗を信仰する人は、洞窟の中で法華経を唱え続けた頼朝の話に感銘を受けたことでしょうね。
特に安房は日蓮が生まれた場所ですし、頼朝が船で安房に逃れてきた場所でもあるのでなおさらでしょう。

この頼朝が洞窟の中で法華経を唱え続けたという話をベースとし
熱心な日蓮宗の信者である平野家が所有する仁右衛門島を舞台に置き換えて
頼朝の伝説は創作されたのではないでしょうか?

 鴨川 海岸 夕景

●日蓮は源頼朝を信仰していたのでは?

日蓮が「南無妙法蓮華経」と唱えたのも、案外、源頼朝が洞窟で法華経を唱え続けたということにちなむものだったのかも。

なぜこう思うかというと、安房で生まれた日蓮は、かつてこの地に逃れてきた頼朝が洞窟の中で法華経を唱え続けたという話をよく知っていたはずだと思うからです。

また日蓮曼荼羅に八幡神と天照大神が描かれているそうなんですが、八幡神というのは源氏の氏神なんです。
そして神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内には白旗神社があるそうです。行ったことないんですがー。
白旗神社という社名は源氏が白旗を用いていたことに由来します。
そして白旗大明神は源頼朝の神号です。

日蓮は八幡神と、法華経を信仰していた源頼朝のイメージを重ねていたのではないか。
そのため八幡神が描かれた日蓮曼荼羅が作られたのではないか、と思ったりするわけです。

鴨川 海岸 夕景 



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[2016/12/14 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

浦安散歩 紅葉 『火山はなぜ女神に喩えられたのか?』 

2016年11月16日 撮影


千葉県浦安市といえばディズニーランドですが、ディズニーランド以外の浦安を知りたくて町を歩いてみました。

●浦安は漁師町だった。

浦安 稲荷神社 紅葉 
稲荷神社

稲荷神社には「大鯨の御社」ありました。

浦安 稲荷神社 大鯨の御社 

稲荷神社 大鯨の御社

昔、このあたりは漁師町で、東京湾にはときどき鯨が迷い込んできたそうです。

浦安魚市場 
浦安魚市場

旧大塚家住宅 
旧大塚家住宅

茅葺屋根の旧大塚家住宅は裕福な漁師さんの家だったそうです。

浦安 旧大塚家住宅 人形 
旧大塚家住宅内部

浦安 清滝神社 
清瀧神社


浦安 大蓮寺 紅葉 
大蓮寺

浦安 花蔵院 イチョウ 
花蔵院


浦安 豊受神社 
豊受神社

浦安 豊受神社 富士塚 
豊受神社 富士塚

●富士塚

豊受神社・清瀧神社・稲荷神社には富士塚がありました。
鳥居には「浅間神社」と書いてありますね。
浅間神社って関西ではあまり見かけません。

浦安には江戸川沿いに富士見という地名があります。




この日は残念ながら見えませんでしたが、天気がいい日にはこのあたりから富士山が見えるのでしょう。

浅間神社というのは富士山の神・浅間大神(コノハナノサクヤヒメ)を祀る神社なのです。

●浅間は火山を意味する言葉?

浅間神社って長野県の浅間山の神様を祀る神社なのかと思っていました。(汗~)

浅間山は火山で2015年にも噴火していますが、かつて富士山も活発に火山活動をしていたようで781年、800年~802年、864年、1707年に噴火したという記録が残されています。

アイヌ語で「アサマ」は「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味であり、富士山の神を浅間大神というのは富士山が火山であるからだとする説があります。

浅間山とはそのものずばり火山という意味だというわけですね。

●火の中で出産したコノハナサクヤヒメ

浅間大神とはコノハナサクヤヒメのことだとされていますが、これはなぜなのでしょうか?

コノハナサクヤヒメとはオオヤマツミの娘です。

天孫ニニギが高天原から葦原中国に天下った際、オオヤマツミは二人の娘・イワナガヒメとコノハナサクヤヒメをニニギの妻として差し出しました。

面食いだったニニギは美しい妹のコノハナサクヤヒメは妻として娶りましたが、姉のイワナガヒメはブサイクだとして送り返してしまいました。
オオヤマツミは大変残念がってこう言いました。
「天孫の世が繁栄するようにとの願いをこめてコノハナサクヤヒメを、天孫が長寿を得られるようにとイワナガヒメを差し出したのに!」
そういうわけで天皇の寿命は短くなってしまったそうです。

ニニギの妻となったコノハナノサクヤビメは一夜で身篭りました。
するとニニギは「本当にオレの子か?国津神の子なんじゃないか?」と疑いました。
コノハナサクヤヒメは、「天津神ニニギの本当の子なら何があっても無事に産まれてくるはずですわ!」といい
産屋に火を放ちました。
そして燃え盛る産屋の中でホデリ・ホスセリ・ホオリの三柱御子を産みました。


ちなみに、ホオリの孫が初代天皇の神武天皇です。

火山の噴火口は女神の女陰というわけで、火山である富士山の神はコノハナサクヤヒメとされたのではないでしょうか。


浦安より富士山を望む 
別の日に浦安から撮影した富士山です。


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[2016/11/24 10:32] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

旧安西家住宅 『七夕馬と天然痘』 

千葉県木更津市 旧安西家住宅 

●旧安西家住宅

旧安西家住宅 外観

丘の上に茅葺屋根の家を発見!

旧安西家住宅 農作業の道具

使い込まれた農作業の道具が置いてあります。

旧安西家住宅 外観2 
ちょっとお邪魔させていただきましょう~♪

旧安西家住宅 竃 

玄関を入ると、土間の奥に素敵なカントリーキッチン(竃)が!

旧安西家住宅 竹でできた水道の蛇口 

水道の蛇口は竹でできていました。

旧安西家住宅 囲炉裏 
土間をあがったところには囲炉裏がありました。
古民家が好きであちこち見に行ってますが、関西では囲炉裏がある民家をみかけたことがありません。
関西はとにかく夏が暑いため囲炉裏が作られなかったようです。
かわりに火鉢が用いられることが多かったそうです。

山口家住宅 関東長火鉢 

↑ これは大阪府堺市の和田家住宅。写真向かって右に関東長火鉢が置かれています。

旧安西家住宅 仏壇 
黒光りするフローリングの床。写真中央にあるのは仏壇です。

旧安西家住宅 梁 

太くて立派な梁。

旧安西家住宅  
床の間のある部屋。案内板には「おく」と書かれています。

旧安西家住宅 薬研と七夕馬 
写真向かって左は薬研(やげん)。
漢方薬の原料となるハーブなどを砕くための道具です。

写真むかって右は七夕馬だと思います。

●七夕馬

千葉県では旧暦7月7日にマコモなどで作った七夕馬を作る習慣があったそうです。
子供たちがこの七夕馬を牽いて草を刈りに行き、刈った草を七夕馬に背負わせて家に帰るのだとか。

七夕馬は四つ脚につくられることもありますが、写真のように前脚のみというケースもありました。
参照/https://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku/tanabatauma/tokatsu.htm

なぜ子供が七夕馬を牽いて草を狩りにいくのでしょうか。
その意味については不明とのことです。

●草神から瘡神に転じた神社

瘡神社 

↑ 大阪府枚方市・片埜神社の境外社に瘡(くさがみ)神社です。
瘡神社は次のような伝説を伝えます。

菅原道真が無実の罪で流罪となり大宰府へ向かう途中、この地で道真の馬が倒れました。
道真は馬を地元の人に託して大宰府へ向かいました。
地元の人は手厚く介抱しましたが、馬は死んでしまいました。
馬が埋葬された場所には馬の好物である草がたくさんお供えされ、「草神様」と呼ばれるようになりました。
この「草神」が「瘡(くさ)神」に転じて「瘡神社」となり、皮膚病にご利益があると信仰されました。


瘡とは皮膚病のことですが、天然痘を意味するものでもあったのではないかと思います。
日本書紀には「瘡発でて死る者――身焼かれ、打たれ、摧かるるが如し」と記されており、天然痘の病状を記したものではないかと考えられています。

天然痘は疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいい、豆粒状の丘疹が全身にできます。

現在では種痘によって天然痘は撲滅されたとされますが、天然痘は近年まで猛威をふるっていた恐ろしい伝染病でした。
奈良時代には藤原四兄弟が天然痘に感染して死亡していますし
孝明天皇(1831-1867)の死因も天然痘であると記録されています。

七夕は牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる日ですが
牛頭天王(スサノオと習合されている)は疫神とされていました。
そして牽牛と牛頭天王はどちらも名前に「牛」とあるので同一視されていたのではないでしょうか。
つまり、牽牛は疫神であり、瘡をもたらす神であると考えらえていたのではないかと思うのです。

七夕馬をひいて子供たちが草を刈りいくのは、草を刈ることが、瘡(くさ)を刈るに通じると考えられたためではないでしょうか。
そして草が好物の馬は、瘡(くさ)を食べてくれる神として信仰されていたため、草刈りに牽いていかれたのではないかと思います。



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[2016/08/30 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

木更津 みなと祭 花火 『鈴森に表れたろくろ首の正体とは?』 

千葉県木更津市 木更津港
木更津港まつり花火大会・・・8月15日

木更津花火4

やっさいもっさい踊りの翌日は花火大会です!

木更津 花火6

●證誠寺の狸囃子伝説の真相?

木更津港からほど近いところに、「證誠寺の狸囃子」の舞台、證誠寺があります。

證誠寺と信楽焼の狸 
證誠寺に狸の幽霊?(狸は紫香楽で撮影したものです。合成。)

昔、證誠寺は「鈴森」と呼ばれる竹藪が生い茂る場所にあり、一つ目小僧やろくろ首などの妖怪が出没していたそうな。
実は鈴森に棲む狸たちが妖術で化けていたのです。
しかし新しくやってきた和尚は一つ目小僧やろくろ首を見ても驚きません。
そこで狸たちは和尚を驚かせてやろうと、證誠寺の庭でお腹をぽんぽこと打って歌い踊りました。
すると和尚は驚くどころか、庭に出て三味線を弾きだしました。
こういうことが3日ほど続きましたが、4日目には狸たちは現れず、翌朝大狸が腹を破って死んでいたので和尚は大狸を懇ろに弔いました。

木更津 花火3

木更津 やっさいもっさい踊り  『狸の踊り念仏?』 

こちらの記事に次のようなことを書きました。

①稲荷神は狐とされるが狸のこともある。

②證誠寺の近くに八剣八幡神社がありますが、その末社・三社神社は御嶽神社 ・三峰神社 ・稲荷神社を祀っている。
この稲荷神社の神使が證誠寺に表れた狸ではないか。

③狐はたいてい女性に化ける。狸は男性的な容姿をしている。(信楽焼きの狸など)

④神はその現れ方で御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つにわけられる。
そして和魂は女神、荒魂は男神とする説がある。
狐は女神で和魂、狸は男神で荒魂なのではないか。
御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・狸
和魂・・・・・・神の和やかな側面・・・・女神・・・狐


⑤證誠寺の狸囃子では「つ~つ~月夜だ みな出て来い来い来い~♪ 」と歌う。
月夜とは15日ごろである。
狸たちは旧暦お盆の7月15日に證誠寺の庭に表れたのではないか。

⑥お盆にはご先祖様の霊だけでなく、悪霊も帰ってくると考えられていた。狸とはお盆に帰ってきた悪霊ではないか。

⑦狸はお腹をぽんぽこと叩いたとあるが、太鼓は悪霊を退散させることができると考えられていた。
狸たちは腹鼓を叩くことによって自分たちを退散させてしまったというのが「證誠寺の狸囃子」伝説の意味ではないか。


木更津 花火2 

●狸が化けたろくろ首の正体とは?


昔、證誠寺は「鈴森」と呼ばれる竹藪が生い茂る場所にあり、一つ目小僧やろくろ首などの妖怪が出没していたそうな。
実は鈴森に棲む狸たちが妖術で化けていたのです。

證誠寺からほど近い場所にある八剣八幡神社。
その境内にある三社神社の御祭神の一、稲荷神社が狸の正体ではないかと私は考えましたが、
この八剣八幡神社の前に弁才天厳島神社があります。
時間がなくて写真撮れなかったんですが~(すいません~)



※證誠寺は地図南の矢那川の文字の北にあります。


この弁才天厳島神社の神様ろくろ首の正体ではないかと思います。
なんでかって? 

木更津 花火  

●弁才天と宇賀神

喜光寺 宇賀神

上の写真は奈良・喜光寺境内にある弁天堂の御神体・宇賀神王です。

宇賀神は人頭蛇身でとぐろをまくお姿で表され、弁才天と習合されていることが多いのです。

この宇賀神がとぐろをとき、蛇体を伸ばしたお姿を想像してみてください。
頭部にながーい首がついたろくろ首になりますね。

木更津 花火5 

木更津港



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[2016/08/22 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

広済寺 鬼来迎 『お盆で戻ってきた霊を慰める芝居』 

千葉県山武郡 広済寺
鬼来迎(きらいごう)・・・8月16日

鬼来迎 浄め


たくさんの枝で飾り付けたナチュラル感あふれる舞台。
そこへ素朴なお面をつけた人が登場し、お米のようなものを撒きました。
舞台を清めているようですね。

●地獄を訪れると地獄の力を授かる?

鬼来迎 虫封じ


虫封じ。
母親鬼が赤ちゃんを抱っこすることで、赤ちゃんの疳の虫が治まると考えられているようです。

赤ちゃんは地獄の鬼に抱っこされてるわけですね。
地獄というのは恐ろしいところですが、地獄を訪れると地獄の力を授かるとも考えられていたのではないかと思います。

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/oni.html
↑ こちらのサイトには次のように記されています。
「地獄で亡者を責める役柄の鬼は,千葉県匝瑳(そうさ)郡光町の広済寺で行われる鬼来迎(きらいごう)に登場するが,この鬼に責めてもらった病弱な者は,鬼の持つ霊力によって健康になるという信 仰もある。」
上記サイトより引用

記紀神話では大国主命が根の国(死後の国のことだと考えられています。)を訪れ、根の国の王・スサノオより太刀・弓矢・スサノオの娘のスセリヒメを奪ってもとの国へ戻っています。

スサノオは大国主命を追いかけてきましたが、最後には「その大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。」と大国主命にアドバイスしています。

大国主命は根の国へ行って根の国の力を授かったといっていいでしょう。

●藤原鎌足のために塔をつくった鎌足の子・定慧

鬼来迎 閻魔

地獄の裁判官・閻魔大王と書記官の冥官が登場。

鬼来迎 冥官 


親より早く死んだ子供が賽の河原で親のために石を積んで塔を作っていると、鬼が現れて塔を壊してしまいます。
そこへ地蔵菩薩が現れて子供を鬼から救ってくださいます。


鬼来迎 子供の亡者を救う地蔵菩薩

この話は「賽の河原和讃」でおなじみですね。

鬼来迎 地蔵菩薩と子供の亡者

この話のルーツは藤原鎌足の子の定慧ではないかと私は考えています。

奈良の談山神社に十三重塔がありますが、この塔は678年に亡き父・鎌足のために、鎌足の子の定慧と藤原不比等が建てたとされます。
鎌足が死亡したのは669年のことです。
ところが定慧は鎌足が死亡する3年前の666年に死亡していて、十三重塔が建てられた678年にこの世にはいなかったのです。
このとき不比等は生きていました。

つまり、談山神社の十三重塔は不比等と定慧の幽霊がたてたということになります。

談山神社 雨 

談山神社 十三重塔

親の供養はその子孫がするべきだと考えられていましたが、不比等は鎌足の実の子ではなく、天智天皇の落胤だという説があります。
実際に十三重塔を建てたのは不比等でしょうが、不比等は鎌足の実の子ではないため、すでに死亡していた定慧の幽霊が十三重塔をたてたということにしたのではないでしょうか。

そして定慧が創建したと伝わる聖林寺や大善寺では地蔵菩薩を御本尊としていて、定慧と地蔵菩薩の関係はとても深いのです。

●罪人でも救ってくださる観音様

鬼来迎 釜茹でにされる亡者

前世に悪事を働いた亡者が、釜茹でにされたり、鬼に責められたりします。

鬼来迎 黒鬼と亡者

そこへ観音菩薩が登場して、鬼から亡者を救ってくださいます。

鬼来迎 観音菩薩と鬼と亡者

●親より早く死んだ妙西信女と悪行を悔いた 椎名安芸守


鎌倉時代初めごろ、石屋和尚はこの地で、「妙西信女」という17歳の娘が地獄で鬼たちに責めたてられる夢を見ました。
翌日、石屋和尚は娘の墓参りに来た椎名安芸守にこの話をしました。
すると椎名安芸守は自分の悪行を悔い、娘の菩提を弔うため、石屋和尚を開山として広済寺を創建したと伝わります。

椎名安芸守の娘・妙西信女は定慧と同じく親より先に死んだ子供だったのですね。
鬼来迎で賽の河原で子供たちが地蔵菩薩に救われる場面が演じられるのは、地獄で鬼に責めたてられる妙西信女を救うためなのでしょう。

また釜茹でにされ、鬼に責められる亡者は椎名安芸守のイメージとも重なりますね。
椎名安芸守はなにか悪行を行ったようですから、地獄で鬼たちに責められることをそれは畏れたことでしょう。
しかし、観音菩薩が罪人である自分を救ってくださると考えることで、椎名安芸守は心の平安を得ることができたのではないでしょうか。

●今と昔では倫理観が異なっていた?

罪人でも救われるという信仰はありがたい反面、「観音様が救ってくださるので罪をおかしてもかまわない」みたいな考えを招きかねないような?

他氏排斥で多くの人に無実の罪をきせておとしめた藤原氏。
その藤原氏が多くの寺を創建しているのは、そういった考え方からくるものではないかと思います。

昔の人の倫理観は現代人の倫理観とちがっていました。

たとえば庚申の日に眠ると体の中から三尸の虫が抜け出して天帝に告げ口をすると信じられており
庚申の日には眠らずに過ごすという風習がありました。

現代の倫理観では「三尸の虫に告げ口をされないよう、よい行いをしよう」と考えると思いますが
昔の人は庚申の日に眠らなければよい、と考えたのですね~(笑)

鬼来迎 虫封じ 



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[2016/08/21 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

木更津 やっさいもっさい踊り  『狸の踊り念仏?』 

千葉県木更津市 證誠寺 八剣八幡神社
やっさいもっさい踊り・・・8月14日

やっさいもっさい 3

●證誠寺の狸囃子伝説

證誠寺

しょしょしょじょじ~ 證誠寺(しょじょじ)の庭は~ つ~つ~月夜だ みな出て来い来い来い~♪ 

「證誠寺の狸囃子」の舞台、證誠寺です。

昔、證誠寺は「鈴森」と呼ばれる竹藪が生い茂る場所にあり、一つ目小僧やろくろ首などの妖怪が出没していたそうな。
実は鈴森に棲む狸たちが妖術で化けていたのです。
しかし新しくやってきた和尚は一つ目小僧やろくろ首を見ても驚きません。
そこで狸たちは和尚を驚かせてやろうと、證誠寺の庭でお腹をぽんぽこと打って歌い踊りました。
すると和尚は驚くどころか、庭に出て三味線を弾きだしました。
こういうことが3日ほど続きましたが、4日目には狸たちは現れず、翌朝大狸が腹を破って死んでいたので和尚は大狸を懇ろに弔ったとのことです。

やっさいもっさい-鳳神ヤツロギ  
證誠寺からほど近い富士見通に狸・・・じゃなかった(すいません~)、「やっさいもっさい踊り」のダンサーさんたちが出てきましたよ~。

やっさいもっさい 鳳神ヤツロギ ウシオラとヤジューロウ 

かっこいいコスプレ集団は千葉テレビで放送されている『鳳神ヤツルギ』に登場されている方々だとか。

やっさいもっさい 4


●狸は稲荷神?

やっさいもっさい 美しすぐる狸さん 

超カワイイ狸さんを発見~♡

證誠寺の狸囃子伝説に登場する狸とは稲荷神ではないかと思います。

お稲荷さんって狐じゃないのって?
お稲荷さんの神使は狐とされていますが、狸の場合もあります。
四国の稲荷神社の神様はほとんど狸だといわれていますし、大阪・堀川戎神社境内にある榎木稲荷神社の神様も地車囃子を奏でる吉兵衛という狸です。

八剣八幡神社

證誠寺の近くに八剣八幡神社がありますが、その末社・三社神社は御嶽神社 ・三峰神社 ・稲荷神社を祀っています。
この稲荷神社の神使が證誠寺の庭でぽんぽこと腹鼓を打って歌い踊っていた狸なのではないでしょうか?

●狐は女神で狸は男神?

やっさいもっさい2 

こちらの狸さんもかわいい~♪

神はその現れ方で御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つにわけられるとされます。
そして和魂は女神、荒魂は男神とする説があります。

また狐はたいてい女性に化けますし、信楽焼きの狸などを見ると狸は男性的な要望をしています。
つまり、狐は女神で和魂、狸は男神で荒魂なのではないでしょうか。

御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・狸
和魂・・・・・・神の和やかな側面・・・・女神・・・狐


●狸たちはお盆でこの世に戻ってきた悪霊だった?

やっさいもっさい -顔なし

證誠寺の狸囃子では「つ~つ~月夜だ みな出て来い来い来い~♪ 」と歌っていますね。
旧暦では月齢がそのまま日にちとなっていますから、月夜とは15日ごろのことだと思います。
もしかしたら、旧暦お盆の7月15日に狸たちは證誠寺の庭に表れたのかもしれません。

やっさいもっさい-1

 
かわいいゾンビさんもいたよ~!


お盆にはご先祖様の霊だけでなく、悪霊も戻ってくると考えられていました。
狸が男神で荒魂だとすれば、狸は悪霊だと言ってもいいでしょう。
證誠寺に現れた狸たちは、そんなお盆にこの世に戻ってきた悪霊のことなのではないでしょうか。

●狸の踊念仏?

狸たちは腹鼓を打って歌い踊ったとされますが、太鼓をたたいて歌い踊るのは踊念仏です。

空也堂 空也踊躍念仏 
空也堂 空也踊躍念仏


踊念仏は平安時代に空也上人がはじめ、鎌倉時代に一遍上人によって広められました。

太鼓を叩きながら歌い踊ることで悪霊を退散させることができると考えられていたようで
京都・六波羅蜜寺の追儺式では中堂寺六斎会の人々が太鼓を叩いて土蜘蛛を退治します。

六波羅蜜寺 追儺式3 
六波羅蜜寺 追儺式

悪霊=狸たちは踊り念仏をすることで、自らを退散させてしまった、という話なのではないかと思います。

やっさいもっさい-鳳神ヤツロギ スニーカーフィアー 

やっさいもっさい-鳳神ヤツロギ ウシオラ 

かわいい~♡

やっさいもっさい-鳳神ヤツロギ ピローフィアー 



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[2016/08/20 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)