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法蔵寺 しだれ桜 『まともな死に方をした人がいない!』 

栃木県日光市 法蔵寺
2016年4月中旬 撮影

法蔵寺 しだれ桜


①法蔵寺

法蔵寺は浄土宗のお寺で、1389年10月に創建された心光院が始まりとされています。
心光院は新田義貞の孫で新田義宗の子の良徳が一族の菩提を弔うために創建したと伝えられています。

法蔵寺 鐘楼 しだれ桜 


②まともな死に方をした人がいない。

新田家の人々はみな悲惨な最後をとげています。

まず新田義貞。

鎌倉幕府を攻撃して滅亡させた人で、その後、後醍醐天皇は建武親政を行います。
もうひとりの倒幕の貢献者・足利尊氏が離反した際には後醍醐天皇方について足利尊氏と闘っています。
しかし越前藤島で戦死しました。

法蔵寺 地蔵 しだれ桜 


次に新田義貞の子の新田義宗。
後醍醐天皇が南朝をおこすと南朝方につき足利氏と対立して敗北。
戦死しました。

法蔵寺 しだれ桜2


義宗の子の貞方は後南朝側についていましたが、潜伏しているところをとらえられて息子の貞邦と共に斬られました。

新田義宗の落胤といわれる岩松満純は、やはり足利氏と対立して敗戦し斬首されています。

得川 親季(世良田政義の子ともされる。)は足利将軍家方の一色氏・細川氏と闘って戦死。

脇屋義則(脇屋義治の嫡男。新田義宗の子で脇屋義治の養子となったとする説がある。)も子・義行とともに殺されたとされます。

まともな死を迎えた者がひとりもいません。

法蔵寺 しだれ桜 ライトアップ2


③十王絵図

法蔵寺には十王絵図があるそうです。(お盆の時期に公開しているとのこと)
十王とは亡者を裁く10人の判官のことで、地獄で鬼たちに苦しめられる亡者の姿が描かれているのだとか。

新田一族の人生は生きながらにしてこの地獄のようなものだったのかも。

法蔵寺を創建したのは新田義宗の子の良徳だといいますが、ウィキペディアには義宗の子として良徳の名前がありません。
義宗の子・貞方、岩松満純・横瀬貞氏・宗親・得川親季・脇屋義則いずれかの法名であるのかもしれませんが
もしかしたら良徳とは新田一族の亡霊の総称だったりして?

法蔵寺 しだれ桜 ライトアップ  



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[2017/04/03 12:35] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

日光杉並木街道 追分地蔵 『二十三夜尊と地蔵菩薩と閻魔大王』 

 
栃木県日光市 日光杉並木街道
撮影・・・2016年5月下旬

日光杉並木街道

●日光杉並木街道

初めて見たとき、防風林なのかなと思いました。
調べてみたところ、どうやら上の写真は日光杉並木街道と呼ばれるもののようです。

松平正綱(1576-1648)が日光東照宮の参道となる3つの街道に杉を植樹したものが、長い年月を経てこんな立派な並木道になったんですね~。

大沢ー日光間16.52km、小倉―今市13.17km、大桑 - 今市間5.72kmの杉並木で世界最長の並木道としてギネスブックに登録されているのだとか。

●追分地蔵

二本の杉並木が合流するところに追分地蔵がありました。
追分とは道がふたつに分かれる場所のことですね。
境内には大きな地蔵菩薩さまがおられました。像高は約2mとのこと。

一般的なお地蔵さまは錫杖と宝珠を持っていますが、胎蔵界大日如来の法界定印を結んでいます。
大日如来の徳を持つお地蔵さまということなんでしょう。

このお地蔵さまは日光含満ヶ淵の親地蔵で、洪水で流されてこの地にきたとも言われています。

追分地蔵 2

●二十三夜尊

境内には二十三夜尊と記された祠がありました。

二十三夜尊?
関西でそのような神仏の名前は聞いたことがありません。(私が知らないだけかも・・・)
見るものすべてが珍しく、ついテンションがあがってしまいます。
 
追分地蔵 二十三夜尊  


女性は堺祭の行列に登場された方です。(合成)


月待行事というものがあるそうですね。

ウィキペディアには次のように記されています。
十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94 より引用

月齢と月の形については、こちらのサイトがわかりやすいと思います。↓
https://www.lib.pref.yamanashi.jp/kosyu/kyozai/geturei/geturei.html

二十三夜尊とは、二十三夜の月を神格化した神なのでしょう。

●二十三夜は地蔵菩薩縁日のイブ?

十五、十六、十九、二十二、二十三という数字には何か意味があると思いますが、よくわかりません。
ただ、二十三夜はお地蔵さまの縁日が二十四日で、その前日にあたることに意味があるのではないかとする説があるようです。

二十三夜尊の祠は追分地蔵の境内にありますから、二十三夜尊の信仰が地蔵菩薩の縁日の前日に関係しているという可能性はありそうです。

追分地蔵


●月待信仰は閻魔大王と関係ある?


地蔵菩薩は地獄にあって亡者の身代わりとなり、地獄の責め苦を受けてくださるという菩薩さまです。
一方、閻魔大王は亡者の生前の行いをジャッジして裁く神様とされています。

地蔵菩薩と閻魔大王は正反対の性格を持っていますが、同体だとされています。

陰陽道ではすべてのものには陰と陽の両面があるとしています。
つまり地蔵菩薩は陽、閻魔大王は陰ということでしょう。

さきほども述べたように、追分地蔵は胎蔵界大日如来の法界定印を結んでおり、大日如来の徳を持つお地蔵さまだと考えられます。

大日如来は天照大神と習合されています。
つまり、追分地蔵は太陽の神なのでしょう。
地蔵菩薩が陽、閻魔大王が陰であるとするのが正しければ、
地蔵菩薩は太陽=陽なので閻魔大王は月=陰だということになると思います。
もしかして、月待信仰って閻魔大王と関係があるのかも?

千本閻魔堂 狂言 鬼の念仏 
千本閻魔堂狂言 中央が閻魔大王

●地獄=黄泉は夜空にあった?

死後の国のことを黄泉の国といいますが、黄泉とは漢語で「地下の泉」を意味する言葉です。
なので、黄泉の国は地下にあるのかなと思っていましたが
そうではなく、黄泉とは月読命(月を神格化した神)の「読」であり、夜空にあると考えられていたのかもしれないですね。

黄泉の国からこの世に戻ったイザナギが禊をしたところ、三柱の神々が生まれました。
天照大神、月読命、スサノオです。

月読命は月を神格化した神だと考えられています。
閻魔大王が月の神だとすれば、月読命と閻魔大王は同一神だということになります。

また月読命という神名の中に「読」とあるのは「黄泉」の意味であるのかも?
とすれば、月読命は黄泉の王ということになり
閻魔大王は地獄=黄泉の大王なので、やはり月読命と閻魔大王は同一神だということになると思うんですが、どうかな?

日光杉並木街道2 
黄色と白の花が咲いていましたが、花の名前がわかりません~(すいません)

●地獄の釜の蓋が開くとは、ペルセウス座流星群のことだった?

以前の記事、花背 松上げ 『お盆とペルセウス座流星群』 にこんなことを書きました。

①ペルセウス座流星群は7月20日頃から8月20日頃にかけて観測され、8月13日がピーク。
②旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事だった。新暦になってからは8月15日を中心として行われることが多い。
旧暦は新暦の約1か月遅れなので、今も昔もペルセウス座流星群が観測される次期にお盆は行われている。
③お盆には地獄の釜が開いて先祖の霊がこの世に戻ってくると考えられていた。
④昔の人々は死んだ人の魂は星になると考え、ペルセウス座流星群を見て、死んだ人の魂が地球に降ってくると考えられたのではないか。

旧暦7月1日は『釜蓋朔日(かまぶたついたち)』と言われ、地獄の釜が開く日だとされていました。
(旧暦は月齢をカレンダーがわりにした暦で、新月の日を1日としていました。)

地獄の釜とは地球から半球の形に見える夜空のことであり
地獄の釜の蓋とは月のことではないでしょうか。
昔の人は新月の日から月がどんどん膨らんでいく様子を、夜空に穴があく、と考え、それを「地獄の釜の蓋が開く」と表現したのではないかと思うのです。

一青窈さんが「月天心」で「満月の穴~♪」と歌っておられたことを思い出します。

そしてペルセウス座流星群は空に空いた穴(月)から、こぼれおちた死んだ人の霊であると考えたのではないでしょうか。

大谷川 

大谷川 夕暮れ


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[2016/06/05 00:00] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

足利学校 野村楓 新緑 『足利学校の創始者は閻魔大王?』 


栃木県足利市 足利学校
撮影 2016年5月中旬

足利学校 門 
今回、足利学校を旅していただくのは、堺祭・時代行列に登場されたハイカラさんたちです。(合成)
髪型や袴がとても可愛らしいですね♡

葉の赤い楓は野村楓と説明板に書いてありました。

足利学校 全景

●足利学校設立者についての諸説


足利学校は前回ご紹介した鑁阿寺からほど近いところにあります。
設立者についてはいろんな説があります。

①奈良時代、下野国の国学(律令制で官人育成を目的として各国に設置された地方教育機関)として設立された。(川上廣樹)
②839年、小野篁によって設立された。(『鎌倉大草紙』)
③12世紀末、足利義兼によって設立された。(『高野春秋編年輯録』に、「足利義兼が足利に寺と学校を持っていた」と記述がある。)
④1432年、上杉憲実によって設立された。(『大日本史』しかし、1432年以前にも足利に学校があったと記述されている。)

●なぜ鎌倉大草紙は設立者を小野篁としているの?

今回は諸説ある中の「②839年、小野篁によって設立された。」について考えてみたいと思います。

足利学校 小野篁像

足利学校には小野篁像が安置されていました。

関西の人にとって小野篁さんはとても親近感があると思います。
京都の六波羅蜜寺や、奈良の矢田寺などを創建したという伝説が伝わっていますね。
身長は188cmとすごく背の高い人だったとか。

ウィキペディアには次のように記されています。
「ただし、篁が下野国に関連する役職に就いたことはなく、また、設立年とされる年には流刑になっていることから、この説には信憑性がないという主張が強い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AD%A6%E6%A0%A1#.E8.AB.96.E4.BA.89 より引用

このウィキペディアの記述は妥当だと思います。
おそらく足利学校は小野篁が設立したものではないでしょう。

それではなぜ『鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)』は小野篁を設立者としているのでしょうか。
(鎌倉大草紙とは、1380年から1479年の関東地方の歴史を記したもので、戦国時代初期に記されたものと考えられています。)

●閻魔大王と小野篁の深ーい関係

利性院 
利性院(閻魔堂)

足利学校の近くに、閻魔大王を祀るお堂がありました。
利性院(閻魔堂)といって、巴町にある法玄寺の末寺なのだとか。
学業成就にご利益があると信仰されているそうです。
学業成就にご利益があるというのが、なんとなく足利学校と関係がありそうに思えます。

この閻魔大王と小野篁には深ーい関係があります。
小野篁は日中は宮中に、夜は閻魔庁に仕えていたという伝説があるんですね。

足利学校 

●小野篁にはなぜ閻魔庁に仕えたという伝説が残されているの?

矢田寺 紫陽花 『閻魔庁に仕えた小野篁』 
↑ こちらの記事にも書いたのですが、

篁は遣唐副使に任ぜられ、遣唐大使・藤原常嗣の船と交換したのですが、交換した船が壊れていたのです。
篁は壊れた船で唐へは行けないと考え、仮病を使って乗船を拒否しました。
そのため篁は838年に隠岐へ流罪となったのですが、1年あまりで許されて帰京しています。

百人一首にある「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟」という歌は
流罪となって隠岐へ向かう時に詠んだ歌です。

平安時代、人々は平安京の中はこの世、平安京の外はあの世だと考えていたと聞いたことがあります。
当時の人々は隠岐という都から遠く離れた隠岐をあの世と考え、そのため篁はあの世の閻魔庁に仕えたなどという伝説が生じたのではないかと思います。

足利学校 地図 
足利学校に展示されていた世界地図。日本の形がーーー!


●下野国は流刑地だった。


岐阜は古には下野国と呼ばれていました。
下野国と聞いて私がまず思い浮かべたのが、道鏡です。
道教は称徳天皇(女性)の寵愛を受けて(私は男女の関係ではなかったと考えていますが)出世しましたが、
称徳女帝が崩御したため失脚し、下野国薬師寺に左遷されたのです。
つまり下野国は流刑地であり、隠岐と同じくあの世であると考えられたのではないでしょうか。

京都の法輪寺では4月13日に「十三まいり」が行われています。
十三になった子供が法輪寺の虚空蔵菩薩さまに詣で、知恵を授けてもらうという行事で別名を「知恵もらい」ともいいます。
お参りをすませて渡月橋を渡るとき、後ろを振り返って法輪寺のほうを見てはいけない。
後ろを振り返るとせっかく授かった知恵をなくしてしまうと言われています。

法輪寺 ライトアップ

法輪寺 

イザナギとイザナミの神話に似ていますね。

イザナギは死んだイザナミを迎えにあの世に行ったのですが、イザナミは「黄泉の大王に相談するので、その間決して振り返って私の姿を見ないでください」と言いました。
けれども、イザナギは辛抱の足りない男で、我慢できなくなってイザナミの姿を見てしまいます。
イザナミの体は腐り、蛆がたかっていました。
それを見たイザナギは恐ろしくなって黄泉の国から逃げ帰ってしまうのです。(なんちゅー男や!)

つまり法輪寺は黄泉の国であり、虚空蔵菩薩は黄泉の大王。
十三まいりとは、黄泉の国を訪れて黄泉の大王より知恵を授けてもらうという意味あいがあるのではないでしょうか。

足利学校 宥座之器 

足利学校にあった「宥座の器(ゆうぎのき)」
孔子が説いた「中庸」を教えるためのものだとか。
私の心はいつもこんな風に満タンになりすぎて、しょっちゅうひっくり返っています・・・・・


閻魔大王は地獄にあって死者を裁く裁判官なので、この黄泉の大王と同一視されたのだと思います。
さらに閻魔庁に仕えたという伝説が残る小野篁は、閻魔大王や黄泉の大王と同一視され
黄泉の大王は知恵を授けてくれる神でもあるところから、足利学校の創始者は小野篁であるなどという伝説が生じたのではないでしょうか。

宥座之器2 



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[2016/06/01 00:00] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

鑁阿寺 栗の花 『栗のいがを手に持つ蛭子女尊』 


栃木県足利市 鑁阿寺(ばんなじ)
撮影 2016年5月中旬


鑁阿寺 山門と太鼓橋 
今回は京都・安井金毘羅遇の櫛祭に登場された古風な着物姿の女性に鑁阿寺を散策していただくことにしました。(つまり合成)

●日本100名城のひとつ


鑁阿寺が日本100名城のひとつだと聞いてびっくり!
天守閣はなく、境内には本堂・多宝塔・鐘楼などがあってお寺そのものという感じなんですが~。

足利氏の祖は源義康とされます。
源義康は前九年の役・後三年の役で活躍した源義家の孫にあたります。
源義家は鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖でもありますね。

12世紀半ばごろ、源義康がこの地に足利氏館を構え、
1196年に源義康の子の足利義兼が足利氏館の中に持仏堂、堀内御堂を建立しました。
ちなみに鑁阿寺の鑁阿とはこの足利義兼の戒名です。

鑁阿寺 本堂

●鑁阿寺の意味

次のように記されたサイトがありました。

『足利の鑁阿寺』(山越忍済/著 足利 鑁阿寺 1970 ※昭和40年5月初版発行)
によれば次のように記載されています。

鑁阿寺は正式にはvana寺で、バンナ寺でもよく、鑁や阿という漢字の発音を梵語(サンスクリット)に代って当てはめたに過ぎない。したがって鑁や阿に漢字的乃至日本文的意味が含まれているのではない。単なる当て字である。すなわちバンナ寺とは大日如来の寺、大日寺のことである。」

先住忍空の名著『足利庄鑁阿寺』(山越忍空/編 足利鑁阿寺 1926)を引用しながら説明しています。


http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000033937 より引用

鑁阿寺とは大日如来の寺だというのですが、サンスクリット語では大日如来は「マハー・ヴァイローチャナであり
これがなぜvanaとなるのかよくわかりません。

●栗のいがを持つ蛭子女尊

本堂裏手には蛭子堂がありました。

鑁阿寺 蛭子社 
蛭子堂は別名を時姫堂ともいい、鑁阿寺を創建した足利義兼の妻・北条時子をお祀りしています。
北条時子は女傑でしられる北条正子の妹だと考えられています。

この北条時子には次のような伝説があります。

夫の義兼が鎌倉に出府していたとき、足利に残っていた時子は侍女の藤野の汲んできた生水を飲みました。
しばらくすると時子のお腹が膨れ、藤野は「時子は足利忠綱と密通して子を孕んだ。」と義兼に言いました。
義兼は時子を疑い、時子は「死後わが身体をあらためよ」と遺言して、建久7年に自害しました。
時子の遺体を調べるとお腹からたくさんの蛭が出てきました。
時子のお腹は大量の蛭のせいで膨らんでいたのです。
義兼は時子を篤く弔い、藤野が汲んで時子に水を飲ませた井戸を塞ぎ、藤野を牛裂きの刑としました。


残念ながらそのお姿を拝することはできませんでしたが、蛭子堂の御本尊は栗のいがを持つ蛭子女尊で
「栗のいがから栗が軽くもげるように安産になる。」と妊婦たちから厚い信仰を得ているのだとか。

上の写真、蛭子堂の上部に白い花をつけているのは栗の木だと思います。

●栗のにおいは○○のにおい?

ハナビルの幼生は大型動物の鼻に寄生するそうですが(ひええ~)
時子のお腹に大量の蛭がいたというのは事実とは思えません。
蛭子はエビスのほか、ヒルコとも読み、蛭のように骨のない体であったところからつけられた名前だと考えられます。
こういったことから、創作された作り話だと思います。

なぜ時子にこのような伝説がのこされているのかは、今後の宿題とさせていただきます。
(宿題がいっぱいあるなあ~・・・汗)

今回は北条時子を祀る蛭子堂の御本尊が、なぜ栗のいがを持っているのかについて考えてみたいと思います。
 
鑁阿寺-栗  
塔百景87

私は風邪ぎみで鼻がつまっており、よくわからなかったんですが、一緒に行った友人が言っていました。
「変なにおいがする。栗のにおいではないか」と。

上の写真、多宝塔の向かって左にも白い花をたくさんつけた木が写っています。
栗の木だと思います。(間違っていたら教えてくださいね~。)

栗の花のにおいを精子のにおいに似ているという人もいます。
どちらもスペルミンという成分を含み、これが独特のにおいを放つようです。

http://matome.naver.jp/odai/2140033727864298501

蛭子女尊が栗のいがを持っているのは、時子が不義密通を疑われたという伝説と関係があるのかも?

●『栗』は『中』という言葉をひきだす言葉


鑁阿寺 御霊屋

また、万葉集を調べてみると、『栗』という言葉は『中』という言葉をひきだす言葉のようです。
なぜかというと栗はいがの中に三つの実が入っているからだとか。

三栗(みつぐり)の、那賀(なか)に向へる、曝井(さらしゐ)の、絶えず通はむ、そこに妻もが/高橋虫麻呂

(那賀の郷の向かいにある曝井の水は絶えまなく湧き、洗濯するために女性たちが通ってくる。
この曝井の水が絶えることがないように、私も絶えず通おう。
この女たちの中に私の妻もいればよいのに。)

よく意味がわからない点もあるんですが、虫麻呂が「絶えず通おう」と言っているのは、女のもとへ通おうという意味だとおもいます。
絶え間なく水が湧き出る井戸は女性のシンボルの比喩なのかも?
そうすると歌の冒頭で「三栗の」と詠んでいるので、栗のにおいから精子のにおいを思い出させ、何やらイミシンな感じもします。

下ネタが多くてすいません~!
記紀や万葉集には下ネタ的なのが多いので、ついこうなってしまいます~。

さて、ウィキペディアの中将姫の項目に次のように書いてあります。

天皇から中将の位を賜ったため、中将姫と言ったとの伝承もあるが、「中」が重要な鍵ではないかとも考えられる。
「中」が例えば「神(仏)と人との仲立ちをする」意味を示している可能性もある。
他に考えられる例としては中大兄皇子、中皇命、忍坂大中姫、中臣氏、中宮?等があげられるが、詳しいことはわかっていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B0%86%E5%A7%AB より引用

もしかすると蛭子女尊が栗のいがを持っているのは、北条時子が神仏と人との仲立ちをする女性だと考えられたためかも?





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[2016/05/31 00:00] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

織姫神社 夜景 『織物の神は性の神だった?』 

栃木県足利市 織姫神社
撮影 2016年5月中旬


栃木の旅が続いています。
カテゴリー違いではありますが、もう少しおつきあいいただけると嬉しいです。

織姫神社 ライトアップ


織姫神社の写真に、堺祭時代行列に登場された方の写真を合成しました。  

●織物の町と織物の神


織姫神社は1705年に創建されました。

18世紀半ばの足利は織物の生産地で、そこで織られた織物は足利織物と呼ばれていました。
そういったところから織物の神である織姫神社が創建されたのでしょう。

御祭神は天御鉾命(あめのみほこのみこと)と八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の二柱です。

●天御鉾命はシャトル(梭)の神?

天御鉾命という神名にある「鉾」とは ↓ こういうもののことを言います。

日光東照宮 百物揃千人武者行列 鉾 

日光東照宮 百物揃千人武者行列

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%9B(ウィキペディア/矛)

鉾は機織りに用いるシャトル(梭/おさ)に似ていないでしょうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%AB_(%E7%B9%94%E7%89%A9)#/media/File:V%C3%A4v,_Skyttlar.jpg

記紀神話によると「スサノオが天の機屋に逆剥ぎにした馬を投げ入れ、それに驚いた織女のひとりがホトを梭(おさ)で傷つけて死んだ」とあります。

天御鉾命は織物に用いるシャトルを神格化した神様なのではないでしょうか。

織姫神社 ライトアップ

●織物は男女の交わりを表す?

http://www.about-tanabata.org/orihime_shrine/
↑ こちらには次のように記されています。

「共に機織(はたおり)を司っているこの神社は、産業振興の神様と呼ばれる一方で、織物が縦糸と横糸が結ばれることで出来上がっていくということから、縁結びの神様としても、広く人々に親しまれています。」
http://www.about-tanabata.org/orihime_shrine/ より引用

シャトルは横糸を通すための道具なので、経糸=八千々姫命、緯糸=天御鉾命であり
織物とは八千々姫命と天御鉾命の交わりを示すものであると古の人は考えたのではないでしょうか。
つまり、八千々姫命と天御鉾命は性の神でもあるというわけです。

中島みゆきさんの「糸」(名曲ですね♪)では 「経糸(たていと)=あなた、緯糸(よこいと)=私」と歌っていますね。
もしかして中島みゆきさんって民俗学に詳しい方なんでしょうか?

織姫神社 紋 

織姫神社の紋

●京の若者と足利の娘の伝説


http://www.about-tanabata.org/orihime_shrine/
↑ こちらには織姫神社の伝説も記されていますね。

足利に住んでいた若い娘が都からやってきた織師に機織を習っているうちに恋仲となりましたが
若者は都に帰ってしまい、娘はいつまでも若者のことを思い続けたというような内容です。

足利の織物技術は京から伝えられたものなのかもしれませんね。

織姫神社 太鼓 


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[2016/05/29 00:07] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

足利フラワーパーク 『大河ドラマ・義経に描かれた茨木童子のイメージ』 


栃木県足利市 足利フラワーパーク
撮影 2016年5月中旬


 足利フラワーパーク キバナフジ

キバナフジ

足利フラワーパークの受付でチケットを買ったら1100円だと言われたので、と少し残念な気分に。
足利フラワーパークって入園料が300円から1700円と、花の咲き具合によってチケット代金が違うんですよ。
入園料1700円のときに来たかったなあ~。
でも藤は終わってましたがキバナフジやバラが見頃で、ライトアップも見ることができて楽しかったです♪

足利フラワーパーク 薔薇2

バラ
 
日本には昔からバラの原種が自生しており、常陸国風土記には次のような記述があります。

「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすため、穴に茨(いばら)を仕掛け、佐伯を穴に追い込んだ。」

まつろわぬ民・土蜘蛛も穴に住んでいたとされますから、佐伯とは土蜘蛛と呼ばれたまつろわぬ民のことなのでしょうか。

磐之媛命陵 杜若 『嫉妬深い皇后と仁徳天皇の死』 
↑ こちらの記事には仁徳天皇が愛していた鹿を佐伯部が殺して仁徳天皇に献上したという話を書きました。
怒った仁徳天皇は佐伯部を安芸国に左遷してしまいました。

足利フラワーパーク 薔薇

バラ

また、日本武尊が東征した際、蝦夷を捕虜として伊勢神宮に献じたのですが
うるさくてかなわなず、次に三輪山山麓に住まわせましたがここでも里人を脅かすなどしたので
景行天皇は彼らを播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波に送りました。
これが佐伯部の起源であるともいいます。

常陸国には茨城(うばらぎ)という地名があり、その地名の由来は茨を仕掛けた穴に佐伯を追い込んだところからくるとされま
す。

足利フラワーパーク キバナフジ  

キバナフジ

平安時代、茨木童子という鬼がいたという伝説があります。
現在の新潟県長岡市出身であるとか、大阪府茨木市出身だとも言われています。
茨木出身なので茨木童子という名前なのかもしれませんが
茨木童子も佐伯のような土蜘蛛であり、蝦夷の佐伯のように穴に茨を仕掛けて追い込まれたため、茨木童子という名前がつけられたのかも?

足利フラワーパーク 芍薬

シャクヤク

さて、皆さまは2005年に放送されたNHKの大河ドラマ「義経」を覚えておられるでしょうか。
このドラマの中に犬神人(いぬじにん/つるめそ)と思われる人々が登場していました。
ドラマの中で犬神人という言葉は使われていなかったですが。

平清盛の邸宅があったのは現在の六波羅蜜寺のあたりで、六波羅蜜寺の近くにある清水坂には中世、犬神人と呼ばれる人々が住んでいました。
犬神人とは祇園社(現在の八坂神社)に隷属し、清掃や警護などを請け負っていた人々のことです。
彼らは大人になっても結髪しない童形でした。
延暦寺に隷属していた民も犬神人と同様、大人になっても結髪しない童形であったため八瀬童子と呼ばれていました。

ドラマ「義経」に登場した犬神人と思われる人物は「五足」という名前でした。
最初はぼさぼさのヘアースタイルでしたが、平清盛に仕えるようになってからは、きれいに切りそろえたおかっぱヘアーになっていました。
平清盛は禿と呼ばれる少年たちをスパイとして用いていたとされます。
禿たちは、結髪しない童形(おかっぱヘアー)で赤い着物をきていたとされます。
五足は清盛に仕えて禿になったという設定だったのでしょう。

清盛が用いた禿とは、犬神人のことであるとする説があります。
犬神人は結髪しない童形でしたが、禿のおかっぱヘアーは童形ですし
犬神人たちは赤い着物を着ていたというのが、その説の論拠です。

足利フラワーパーク 薔薇 ライトアップ2

バラ

さらに、禿になった五足が清盛の頭を剃髪した際、清盛の頭を傷つけ、血がたらーりと流れるというシーンもありました。
おーーーっ、これは茨木童子のイメージではないですかっ!

茨木童子は両親に捨てられ、床屋に拾われたのですが
あるとき客の頭をカミソリで傷つけてしまい、その血をなめたところ大変おいしく感じ、鬼としてめざめたという伝説があるのです。

五足は犬神人だと思われますが、犬神人は結髪しない童形でした。
茨木童子もその「童子」という名前から結髪しない童形であったと考えられます。

五足は犬神人であり、禿であり、茨木童子でもあると、そういう設定なのだと思います。

足利フラワーパーク 薔薇 ライトアップ 水鏡 

バラ

また五足とは別の犬神人と思われる人々が平家に捕えられて腕を着られるというシーンがありました。
これも茨木童子のイメージです!
渡辺綱が茨木童子の腕を切り落としたという伝説があるんです。

「義経」の原作者の宮尾登美子さんは、五足という人物に、禿と犬神人と茨木童子のイメージを重ねておられるのだと思います。



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[2016/05/28 00:00] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

二荒山神社 コバノミツバツツジ 桜  『大黒田道間守は不老長寿の神?』 

撮影 2016年5月中旬

以前、二荒山神社 弥生祭 『アヂスキタカヒコネとヒトコトヌシは同一神だった?』  という記事を書きました。
二荒山神社は日光東照宮の隣にある神社です。

日光東照宮についての記事はコチラ。↓
日光東照宮 例大祭 流鏑馬 神輿渡御 『星の神を祀っているのになぜ日光東照宮?』 
日光東照宮 例大祭 百物揃千人武者行列 『変わっていく神の定義?』 

二荒山神社 中宮祠 狛犬 阿形 コバノミツバツツジ

 二荒山神社 中宮祠

中禅寺湖へ出かけたところ、湖のほとりにも二荒山神社がありました。
日光東照宮の隣にある二荒山神社が本社で、中禅寺湖にあるのは中宮祠なのだそうです。
あと男体山山頂にも二荒山神社があり、こちらは奥宮とのこと。

二荒山神社 中宮祠 狛犬 吽形 コバノミツバツツジ 

二荒山神社 中宮祠

中禅寺湖の水面海抜は1269mで、日本で最も標高の高い場所にある湖です。
そのため春が遅いようで、二荒山神社(中宮祠)境内には八重桜やコバノミツバツツジが咲いていました。



上の地図で場所を確認していただきたいのですが~
地図中央下に中禅寺湖があり、その北に男体山がありますね。
男体山の東北には女峰山、男体山の北には太郎山があります。
日光東照宮は中善寺湖の東、白糸滝という文字の下です。


この三つの山は御神体として信仰され、それぞれ二荒山神社の三柱の神々にあてられています。

男体山(2486m)・・・大己貴命(おおなむちのみこと)・・・・・・・・千手観音・・・・・・・・・父
女峰山  (2464m)・・・田心姫命(たごりひめのみこと)・・・・・・・・阿弥陀如来・・・・・・・・母
太郎山  (2368m)・・・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)・・馬頭観音・・・・・・・・・子

 
日光東照宮の隣には輪王寺(りんおうじ)があります。
輪王寺は日光東照宮と関係の深いお寺です。

輪王寺の三仏堂は修理中でしたが、三仏堂を覆う「素屋根(すやね)」が設けられ、解体修理の様子などを見学することができました。
また御本尊の巨大な阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音を拝することもできました。

日本では明治まで神仏は習合して信仰されていましたので、上の図に示したとおり
大己貴命と千手観音、田心姫命と阿弥陀如来、味耜高彦根命は馬頭観音と同体というわけですね。

二荒山神社 中宮祠 桜 コバノミツバツツジ

二荒山神社 中宮祠


申し訳ない、このブログの中でしつこく何度も書いているんですが、繰り返させていただきます。

神はその現れ方で、御霊(みたま/神の本質)・荒魂(あらたま/神の荒々しい側面)・和魂(にぎたま/神の和やかな側面)の3つに分けられると言われます。
そして女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。

二荒山神社 中宮祠 手水 コバノミツバツツジ 

二荒山神社 中宮祠


すると二荒山神社の御祭神は次のような関係になっているのではないかと思います。

男体山(2486m)・・・大己貴命(おおなむちのみこと)・・・・・・・・千手観音・・・・・・・・・父・・・荒魂
女峰山  (2464m)・・・田心姫命(たごりひめのみこと)・・・・・・・・阿弥陀如来・・・・・・・・母・・・和魂
太郎山  (2368m)・・・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)・・馬頭観音・・・・・・・・・子・・・御霊

二荒山というのは男体山の古名なんです。
二荒山という山名は、荒魂が宿る山にぴったりですね。

二荒山神社 中宮祠 天井画 
二荒山神社 中宮祠 神楽殿の天井画

二荒山神社では七福神の一である大黒天をお祀りしています。
大黒天はもともとはヒンズー教の神でマハーカーラ(大いなる闇という意味)という破壊の神でした。
日本へは最澄が唐より持ち帰ったとされ、最澄が開いた比叡山延暦寺の国宝館にはたくさんの大黒天像が祀られていました。
輪王寺は天台宗のお寺なので、輪王寺と関係の深い二荒山神社で大黒天をお祀りしているのかもしれません。

二荒山神社 本社 大黒天像 

二荒山神社 本社


また、二荒山神社の御祭神の大己貴命とは大国主命の別名です。
大黒天は音が同じであることや、どちらの神も袋を持っていることなどから神道の大国主命と習合されています。
そういったところから、二荒山神社では大黒天をお祀りしているのでしょう。

二荒山神社 本社 大黒田道間守像 

二荒山神社 本社


上の写真は二荒山神社本社の神苑(高天原)にあった大黒田道間守(ダイコクタジマノモリ)という神様の像です。
手にもっているのは非時香菓(ときじくのかくのみ)でしょう。
田道間守(タジマノモリ)という神様がおり、垂仁天皇に命じられて常世国に行き、不老長寿の薬である非時香菓(ときじくのかくのみ)を持ち帰ったとされます。
しかし戻ったときには天皇は崩御されており、田道間守は嘆き悲しんで自害したといいます。
非時香菓はタジマノモリの名前にちなんでタジマノハナとなり、さらにこれが訛って橘になったと言われます。

大黒田道間守は、このタジマノモリと大黒天が合体したような神様なのでしょう。

二荒山神社 本社 神橋 
二荒山神社 本社 雨に煙る神橋

タジマノモリと大黒天には共通点があります。

タジマノモリは不老長寿の薬となる非時香菓を常世の国から持ち帰りましたが、大黒天のルーツであるマハーカーラは不老長寿の薬を持っているとされているのです。

またマハーカーラは片手に 宝物の入った小袋、又は人間の生首を持っていたと聞いた記憶があります。

マハーカーラが持つ不老長寿の薬とは人間の首(髑髏)であり、マハーカーラと習合されている大黒天が持っている袋の中にも不老長寿の薬=髑髏が入っているのではないでしょうか。

また橘が不老長寿の薬とされたのは
それはその丸い実の形が髑髏を思わせるためではないかと思ったりします。

大谷川より男体山・女峰山を望む 

大谷川より男体山(向かって左)女峰山(むかって右/たぶん女峰山だと思うんですが間違っていたら教えてください!)を望む。


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[2016/05/26 00:00] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

霜降高原  つつじ 『つつじは星の花?』 

 
霜降高原 つつじヶ丘 
霜降高原 つつじヶ丘

●羊さんたち、つつじにご用心!

つつじを漢字で書くと躑躅ですが、なんで足がふたつもあるんでしょうか?
躑躅とはもともと漢語で、「行ったり戻ったりする」「躍りあがる」というような意味なのだそうです。
それが何で花の名前になったんでしょうか?

中国の学者・陶弘景(456-536)は「羊が葉を食べると躑躅して死ぬ。それで羊躑躅という名前になった。」と言っています。

大笹牧場 羊 
大笹牧場

草を食む大笹牧場の羊さんたち、つつじを食べないように注意してね~。

うーん、でも子供のころ、つつじの蜜を吸った記憶がありますが、なんともなかったなあ~?

ウィキペディアには次のように書いてあります。
「レンゲツツジには致死性になりうる毒があり、庭木として利用されることもあるので事故を避けるために注意しなければならない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%84%E3%82%B8 より引用

陶弘景が名前をあげた羊躑躅は、和名ではトウレンゲツツジというそうです。

つまり、つつじには毒のあるものとないものがあるということでしょうか?
または、毒性の強いものと弱いものがあるということなのかも?
いずれにせよ、レンゲツツジの蜜は吸わないように気をつけましょうーー。

降り霜降高原 つつじヶ丘3

霜降高原 つつじヶ丘

●つつじの語源

「つつじ」という言葉はもともと日本にあった「やまとことば」なのではないでしょうか。
そして中国で同じ種類の植物を「羊躑躅」と言っていたため、「つつじ」という言葉に「躑躅」の漢字をあてたのではないかと想像します。

とすれば、「つつじ」の語源は何なのでしょうか?

調べてみたところ、いくつもの説があるようです。
①筒状の花が咲くところから。
②「続き咲き木」の意味。
③「綴り茂る」の意味。
④「垂乳(タルルチチ/蕾が乳頭に似ているため)」の意味

●躑躅の花は五芒星に似ている?

八条ヶ池 キリシマツツジ


花の形がわかる写真を撮ってこなかったので、かわりに八条が池の霧島躑躅の写真を載せておきます。(すいません~)


①にあるように躑躅は筒状の花で、花の先が5つにわれています。
私はこの花の形から五芒星を思い出します。

陰陽道で魔除けの呪符とされている記号ですね。
平安時代の陰陽師。安倍晴明が用いた紋です。
安倍晴明が用いた紋は桔梗紋と呼ばれていますが、桔梗も躑躅と同じような筒状の花で、花の先が5つにわれていますね。

蘆山寺 桔梗 

蘆山寺 桔梗

●セーマンドーマン

三重県志摩地方の海女さんたちは魔除けにセーマンドーマンと呼ばれるマークを磯手拭や襦袢に描いています。
このうちセーマンは五芒星、ドーマンは縦棒4本、横棒五本を織物のように交差させたものです。

セーマンドーマン2 

↑ 上の図は友達に造ってもらいました。ありがとうー。


セーマンは安倍晴明、ドーマンは晴明と同時期に活躍した陰陽師のは蘆屋道満からくるとも言われています。


 霜降高原 チロリン村 躑躅2  
チロリン村

●ツツは星の神をあらわす?


日本の星の神は抹殺されてしまったようで、日本書紀には「天津甕星」という神がたった一柱登場するのみです。
しかし『上記(うえつふみ)』という歴史書には、トムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などの星の神が登場します。

『上記』は後世に記された偽書だとされていますが、全ての記述が偽りであるとも言い切れず、古にはトムツツ・アカユツツ・イユキツツと呼ばれる星の神が存在していたのでは、と思ってしまいます。

霜降高原 滝 

霜降の滝


トムツツ・アカユツツ・イユキツツという神名に注意してください。
すべて神名に「ツツ」とありますね。

また大阪の住吉大社の神・底筒男命・中筒男命 ・表筒男命はオリオン座の三ツ星を神格化した神ではないかと言われており
その神殿の配置はオリオン座の三ツ星の配置によくにています。

これは友人に聞いたことですが
「昔の人は星は円筒形をしていると考えていたのではないか」という説があるそうです。

ツツジという言葉の語源は、花の形が筒状であり、また先端が5つにわれているところから五芒星を思わせるため
星=筒(ツツ)というところからつけられたのではないかなあ~、と思ったりします。

大笹牧場 馬 

大笹牧場にて



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[2016/05/25 00:00] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

日光東照宮 例大祭 百物揃千人武者行列 『変わっていく神の定義?』※追記 訂正 

栃木県日光市 日光東照宮
例大祭・・・5月17日・18日

日光東照宮 百物揃千人武者行列 猿田彦

昨日とはうって変わって18日はピーカンの晴れ。
百物揃千人武者行列を最前列で見るため、また長時間待ちましたが、
地元のカメラマンさんたちとおしゃべりして、お祭のことや、栃木の撮影スポットなどを教えてもらったりしたので
とても楽しかった! (ありがとうございました!)

日光東照宮 百物揃千人武者行列 獅子

徳川家康は1616年1月に鷹狩に出かけて倒れ、4月に亡くなりました。

日光東照宮 百物揃千人武者行列 鷹を持つ人々

家康は次のような遺言を残していました。
「久能山に葬ること。一周忌が過ぎたら日光山に神として祀ること。私は江戸の神になるのだっ!」
その遺言に従って家康の遺体は久能山に葬られ、その後日光に改葬されました。
百物揃千人武者行列は家康が東照大権現(徳川家康)の神霊が日光に遷宮される様子を再現したものだと言われます。

日光東照宮 百物揃千人武者行列 馬

 日光は江戸の真北に位置し、陽明門の真上に北極星がくるように設計されています。
また主要伽藍の配置は北斗七星の形になっているとか。
つまり家康は北極星の神となって江戸を守護しようと考えたのでしょう。

日光東照宮 百物揃千人武者行列 鉾

古には神と怨霊は同義語であったと言われ、神として祀られている人物のほとんどは怨霊でした。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りによってひきおこされると考えられていました。
藤原広嗣・井上内親王・早良親王・菅原道真・ 惟喬親王などが神として祀られているのは、彼らが政治的陰謀によって不幸な死を迎え怨霊になったと考えられたためです。

 日光東照宮 百物揃千人武者行列 神輿

なぜ古には神と怨霊は同義語であったのでしょうか?
それは陰陽道の考え方からくるものではないかと私は考えています。
陰陽道では「陰が極まると陽に転じる」と考えます。
怨霊は陰の存在で人々に祟りをもたらしますが、これを陽に転じさせると人々にご利益を与えてくださる神になるというわけです。

 日光東照宮 百物揃千人武者行列 お面を被った人々

奈良時代に政治の実権を握っていた藤原不比等 や、平安時代の権力者・藤原良房、藤原道長らは神として祀られていないと思います。
(もしも彼らを祀る神社があれば教えてくださいね。)

ただし、天皇は不幸な死を迎えていなくとも神として祀られているケースがあるのではないかと思います。
(怨霊になったと考えられ、神として祀られている天皇もいますが)
 
家康は政治的に不幸な死を迎えた怨霊であったとは言えませんね?

 日光東照宮 百物揃千人武者行列 稚児

豊臣秀吉は豊国大明神として豊国神社などに祀られていますが、
豊国大明神という神名は朝廷より与えられたもので、
家康のように「死後神として祀れ」と言ったとはウィキペディアには書かれていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

追記/秀吉は自分を「新八幡」として祀るように」と遺言していたようです。(すいません~)
秀吉の意に反して朝廷が与えたのは「豊国大明神」でしたが。


日光東照宮 百物揃千人武者行列 稚児2

織田信長は生前より「第六天魔王(仏道を妨げる魔王)」と自称していたようです。
信長が第六天魔王を称したということは、自らが「神である」ことを宣言したものであるといえるのではないでしょうか。
信長の死は家康の死よりも34年早い1582年なので、信長は家康よりもはやく自らが神であることを宣言したということになります。

日光東照宮 百物揃千人武者行列 武者
 
そのほか、上杉謙信(1530~1578)が自らを「毘沙門天の転生である」と称しています。

また、戦国武将は摩利支天に対する信仰が厚かったといわれます。
摩利支天とは陽炎を神格化した仏教の神です。
ウィキペディアには次のように記されています。
「 陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E5%88%A9%E6%94%AF%E5%A4%A9 より引用

おそらく戦国武将は、自分自身を「焼けず、濡らせず、傷つかない」摩利支天のイメージと重ね合わせていたことでしょう。

日光東照宮 百物揃千人武者行列 神輿2
 
このように見てみると、もともとは神(または仏)とは怨霊のことであったのが
だんだんと神とは能力のある人間、偉い人間のことであるというふうに認識が変わってきたのかな、と思ったりします。

そして現在では、神とは怨霊のことであるという認識はほとんど失われ、能力のある人間・偉い人間のことを神と言ったりしていますね。

エリック・クラプトンさん、ジェフ・ ベックさん、ジミー・ペイジさんなどは「ギターの神様」と言われていますが、
それは彼らのギターテクがすばらしいためです。
山口百恵さんや浅田真央さんが菩薩と呼ばれているのも、彼女たちが癒し系だからですね。

日光東照宮 伝供 
お旅所では神事が執り行われました。
アナウンスでたぶん「伝供」と言っていたと思います。
バケツリレーのように人から人へ神饌を受け渡しして神前にお供えします。

日光東照宮 八乙女の舞 

↑ 八乙女の舞。
拝殿の中で行われるのでほとんど見えませんでしたが、ちょこっとだけ見えました。


日光東照宮 東遊び   
↑ 東遊び


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[2016/05/23 18:18] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

日光東照宮 例大祭 流鏑馬 神輿渡御 『星の神を祀っているのになぜ日光東照宮?』 


栃木県日光市 日光東照宮
例大祭・・・5月17日・18日


雨だけどせっかく日光まで来たので、東照宮の流鏑馬を見たい!
そう思って出かけたんですが、どしゃぶりの雨でリュックの中までびしょ濡れに~。
それでも雨天決行だというので、ずぶぬれになりながら待っていました。
あまりにひどい雨なので、流鏑馬の開始時刻が1時間遅れ、結局4時間も待ちました。はあ~。

流鏑馬が始まると、ぴたりと雨がやんだ~!

日光東照宮 流鏑馬2 
4時間も待ったのに、場所取りをしくじって、いい写真は撮れませんでした~。
でも、かっこよさに感動したのでよしとしよう。(汗)

日光東照宮 流鏑馬  

東照宮の建物の絢爛豪華さに度肝を抜かれました~。

日光東照宮 五重塔

塔百景86

こんなデコラティブな寺社建築は見たことがないです。

徳川家康は1616年に死亡しました。
家康は次のような遺言を残していました。
「久能山に葬ること。一周忌が過ぎたら日光山に神として祀ること。私は江戸の神になるのだっ!」

その遺言に従って家康の遺体は久能山に葬られ、その後日光に改葬されました。
東照宮は家康を祀る神社なのです。

 
日光東照宮はその絢爛豪華さだけでなく、陰陽道に基づいた設計になっていることで知られています。
江戸の北に位置し、陽明門の真上に北極星がくるようになっているのだとか。

そして東照宮の主要な建物をつなぐと北斗七星の形になるというんですが、主要な建物ってどの建物のことなんでしょうか?
http://www.toshogu.jp/keidai/index.html (境内図)
ご存知の方、教えてください!

日光東照宮2

日本では古くから北辰信仰が盛んでした。

平安時代に坂上田村麻呂が創建した東北の7つの神社(大星神社・浪岡八幡宮・猿賀神社・熊野奥照社・岩木山神社・鹿島神社・乳井神社)の配置は北斗七星になっていますし

加門七海さんが、平将門に関係する7つの神社(鳥越神社・築土神社・水稲荷神社・鎧神社・兜神社・首塚・神田神社)も北斗七星の配置になっていると指摘されています。

なので、東照宮の建物の配置が北斗七星の形になっているというのはさほど驚くべきことではないと思います。
それより不思議なのは、東照宮は家康を北極星の神として祀る神社だと思われるのに、なぜその土地が日光と呼ばれ、神社名も東照宮というのかということです。

もともとこの地は二荒(フタラ)と呼ばれており、これを「ニコウ」と音読して日光になったと言われています。
江戸の北にあって北極星の神を祀るのにふさわしい土地なので、日光という地名なのは我慢して東照宮を建てたのでしょうか?
もしそうだとしても、神社の名前を「東照宮」としているのはなぜなんでしょうか?
陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位置・西を月の定位置・中央を星とするそうです。
「東照宮」という名前は太陽を思わせます。

だいたい、天皇家からして疑問なんですよ。
天皇家は太陽神・天照大神の子孫なのに、なぜ「天皇」なの?
天皇とは道教で北極星をつかさどる最高神のことですが?

日光東照宮 三猿  

以前の記事、薬師寺 朝日  法起寺 月 『太陽と月が結婚すると星が生まれる?』 追記あり  に次のようなことを書きました。

①伏義と女媧には次のような伝説がある。
女媧は伏羲に「私を捕まえることができたら結婚しましょう」といいました。
女媧は木の周囲を回って逃げ、伏羲はあとをおいましたが、なかなか女媧を捕まえることができません。
そこで伏義はいったん止まり、逆に廻って妹を捕まえ、二人は結婚しました。
女媧は出産しましたが、それは肉塊でした。
その肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散り、人間となりました。


②伏義は太陽神、女媧は月神。太陽が月を捕まえるとは、日食である。

③皆既日食のとき、空には星が観測される。

④お盆の習慣が生じたのは、ベルセウス座流星群が流れる様子を見て、先祖の霊が帰ってくると、古の人々が考えたためではないか。
死んだ人の霊は星になると考えられていたのではないか。

⑤「肉塊を切り刻んだところ風が吹いて肉が飛び散って人間となりました。」というのは、人間は人間でも死んだ人間の霊=星のことを言っているのではないか。

日光東照宮

太陽と月が重なると(結婚すると)太陽が砕かれて星になると考えられたのではないでしょうか?
太陽が砕かれるということは、太陽の死を意味します。
太陽は月と結婚すると死んでしまうんですね。
そして太陽が死ぬと輝きが砕かれて無数の星になるというわけです。

月神と結婚した太陽神=死んだ太陽神=星の神

つまり、家康は生きているときは太陽神であったのが
死んでしまったので、星の神になったということではないでしょうか。
こう考えれば、日光東照宮という神社名でありながら、北極星を祀っていることの理由
また天照大神の子孫なのに天皇という称号を用いていることの理由が説明できると思います。

さきほどお話しした、陰陽道の宇宙観を思い出してください。
東が太陽の定位置、西が月の定位置、中央が星でしたね。
太陽は宇宙の中心ではないのです。
宇宙の中心は星であり、星の中でも中央にあって動かない北極星こそが最高神といえるでしょう。
家康は死んで最高神になったということだと思います。

東照宮を建てたことを、天皇家はどう思っていたでしょうか?
「太陽神は天照大神の子孫の天皇家である!天皇が崩御すると北極星の神になるから、天皇というのである! 家康め、けしからん!」
なーんて感じで怒ったりしなかったでしょうか?

日光東照宮 猿田彦 獅子  
夕刻、東照宮の隣にある二荒山神社に行列がやってきました。

 日光東照宮 神輿

御神輿もやってきました。

日光東照宮 八乙女 

可愛らしい八乙女さんたち。

日光東照宮 神輿2 

明日(5月18日)は百物揃千人武者行列です!


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[2016/05/22 00:00] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)