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足立の花火 『道祖神の招きを受けて旅立った松尾芭蕉』 

2017年7月22日 撮影

足立の花火2

①松尾芭蕉はここから旅立った。


東京都足立区の荒川で『荒川の花火』が行われます。
花火会場の近くには千住という地名があり、ここから松尾芭蕉は『奥の細道』の旅に旅立ったとされます。

足立の花火8

②道祖神の招きを受けたのに、芭蕉は道祖神をお詣りしなかった?

『奥の細道』の序文はこうです。

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅をすみかとす。
古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やや年も暮れ、、春立てる霞の空に白川の関こえんと、
そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。

足立の花火7

ここに「道祖神のまねきにあひて」とあるからには、松尾芭蕉は道祖神をお詣りしたのだろう、と思いませんか?
ところが、奥の細道をざっと斜め読みしてみたところ、芭蕉が道祖神をお詣りしたという記録はありません。

道祖神ってのは旅の守護神です。
「道祖神の招きを受けて」とは「旅の神様に招かれて=旅に出たくなって」という意味で「道祖神がお詣りにこい」と誘ったという意味ではないんでしょうか?

足立の花火4 

③男体山と女峰山は男女双体の神

いえいえ、松尾芭蕉はちゃんと道祖神をお詣りしていると私は思います。

松尾芭蕉は日光を訪れています。




地図中央下に中禅寺湖があり、その北に男体山がありますね。
男体山の東北には女峰山、男体山の北には太郎山があります。
日光東照宮は中善寺湖の東、白糸滝という文字の下です。

男体山 
向かって左が男体山

この三つの山は御神体として信仰され、それぞれ二荒山神社の三柱の神々にあてられています。

男体山(2486m)・・・大己貴命(おおなむちのみこと)・・・・・・・・千手観音・・・・・・・・・父
女峰山  (2464m)・・・田心姫命(たごりひめのみこと)・・・・・・・・阿弥陀如来・・・・・・・・母
太郎山  (2368m)・・・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)・・馬頭観音・・・・・・・・・子

そして、道祖神は男女双体の神です。

多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

男体山(大己貴命)が男神、女峰山  (田心姫命)が女神なので、二荒山神社の御祭神は男女双体だといえるのではないでしょうか?

足立の花火5

④多次元同時存在の法則


「日本では道祖神の男神はサルタヒコで女神はアメノウズメやん、大己貴命&田心姫命は道祖神じゃないやん」って?

でも日本の信仰はルーズで、仏教の神と神道の神を習合したり、神道の異なる神を同一視したりすることが多いです。

足立の花火3

籠神社の宮司・海部光彦氏は多次元同時存在の法則なるものを説いておられます。

【多次元同時存在の法則】

①神に適用されるものであり、原則として実在の人間には適用できない
②神の世界は時間と空間を超越する
③神は分身を創ることがある
④神の分身は別名で表現される
⑤同じ名前の神は同一神である

私はこれに「⑥同様のことをしている神は同一神である」というのをくわえたいですが。

そして海部光彦氏は、「最終的には、八百万の神々のすべてが、天照大神に集約される仕組みになって いる」とおっしゃっています。

足立の花火6 
足立の花火


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[2017/08/11 15:41] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

柴又帝釈天(題経寺) 葛飾納涼花火大会 『帝釈天と庚申信仰の関係は?』 

東京都葛飾区 柴又帝釈天
2017年7月25日 撮影

柴又帝釈天 門前町

①柴又帝釈天の庚申信仰


私、生まれも育ちも葛飾柴又ではございません。
柴又帝釈天で産湯も使っておりませんが、人情溢れる柴又の町に憧れてやってまいりました。
姓は車、名は寅子。(canonからとって佳音にしたけど、かわいすぎた~。寅子にすればよかった~)
人呼んでフーテンの寅子と発します~。

柴又帝釈天 三猿 
柴又帝釈天の駐車場には三猿の石像がたくさん~。

庚申信仰では猿が庚申の使いであると考えられていました。

柴又帝釈天には日蓮が刻んだ帝釈天の仮本尊があると伝わっていましたが、長年行方不明になっていました。
1779年日敬が本堂の修理を行った際、棟木の上から発見され、その日が庚申の日だったことから、庚申の日が縁日とされ、庚申まいりの習慣が生じたと言われます。

葛飾納涼花火大会3

②まずは干支のお勉強

古より暦・時間・方位などに干支を用いる習慣がありました。
干支とは十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞です。

十干・・・甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸
十二支・・・・子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥

この干支で日にちを表す場合、初日が甲子、二日目が乙丑、3日目が丙寅、4日目が丁卯、5日目が戊申、6日目が己巳、7日目が庚午、8日目が辛未、9日目が壬申、10日目が癸酉となります。
11日目は甲戌、12日目は乙亥、13日目は丙子と続き、60日目が癸亥。
61日目には一巡して甲子に戻ります。

葛飾納涼花火大会

 
音読み訓読み意味本義
こうきのえ木の兄草木の芽生え、鱗芽のかいわれ
いつ、おつきのと木の弟陽気がまだ伸びない
へいひのえ火の兄陽気の発揚
ていひのと火の弟陽気の充溢
つちのえ土の兄“茂”に通じる。陽気による分化繁栄
つちのと土の弟“紀”に通じ、分散を防ぐ統制作用
こうかのえ金の兄結実、形成、陰化
しんかのと金の弟陰による統制の強化
じんみずのえ水の兄“妊”に通じる。陽気を下に姙む
みずのと水の弟揆”に同じ。生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を待つ。

十二支音読み訓読み本義
“孳” 陽気が発現
ちゅううし“紐” 生命エネルギーの結合
いんとら“演” 形をとっての発生
ぼう“冒”に通じる。開発
しんたつ“震”、“申” 生の活動
“已”に通じる。陽盛の極、陰に移ろうとする。
うま“忤(さからう)”に通じる、上昇する陰と下退する陽との抵触
ひつじ“昧” 陰気の支配
しんさる陰気の支配
ゆうとり酒熟して気が漏れる。陰気が熟する。
じゅついぬ恤”、“滅”である。統一退蔵。
がい“核” 生命の完全な収蔵含蓄

陰陽五行思想では万物は木火土金水の5つの要素からなると考えます。
十干の甲(きのえ/木の兄)乙(きのと/木の弟)などはこの陰陽五行からくるものです。

葛飾納涼花火大会4

③庚申信仰とは!

②で干支とは十干と十二支を組み合わせたもので、60通りの組み合わせがあることが理解できました。
庚申(かのえさる、こうしん)はこの干支の60通りある組み合わせのひとつなんですね~。

庚申の庚は「かのえ(金の兄)」、庚申の申は「陰気の支配」を表します。

金はゴールドなので、よいものだろうと思うかもしれませんが、音響五行思想では金属をあらわします。
金属は冷たく、また武器の原料となるところから、「冷酷」「危険」などの意味を持ちます。

そういえば方位神に金神がいますが、金神がいる方位はすべて凶とされていますね。

庚・・・かのえ(金の兄)・・・冷酷・危険
申・・・陰気の支配

とまあ、こんな感じで、庚申というのは凶の日だと考えられたんでしょうね。

葛飾納涼花火大会2

で、道教では人間の体内に三尸が住むと考えられていました。
この三尸は庚申の日、眠った人間の体内から抜け出し、天帝にその人の悪さを告げ口すると言われていました。
そのため、庚申の夜には人々が集まって徹夜をする習慣ができました。

葛飾納涼花火大会5

④帝釈天と庚申信仰の関係?

庚申信仰では青面金剛という神像を本尊としますが、柴又帝釈天で青面金剛をお祀りしているとは聞きません。
駐車場の三猿と一緒に石像があったのみです。
おそらく駐車場にあった三猿や青面金剛の像は柴又帝釈天で庚申詣が盛んになったのちに作られたものではないでしょうか。

寺伝では仮本尊の帝釈天が棟木の上で見つかったのが庚申の日だったため、庚申詣でが盛んになったとしていますが
庚申の日に仮本尊が見つかる確率は1/60と低いです。
寺伝は庚申の日を仮本尊・帝釈天の縁日とするために脚色した可能性が高いと思います。

また柴又帝釈天だけでなく、日本では帝釈天の縁日は庚申の日とされています。
日本ではもともと帝釈天と庚申信仰が関連付けられていたのではないでしょうか。

これが正しいと仮定すると、なぜ帝釈天と庚申信仰が関連づけられたのかという疑問が生じますね。

帝釈天は天主帝釈・天帝・天皇とも呼ばれます。
そして庚申信仰とは、庚申の日、三尸が眠った人間の体内から抜け出し、天帝にその人の悪さを告げ口するのを避けるため、徹夜をする習慣のことでしたね。
三尸が告げ口をする相手こそが天帝=帝釈天ということなのでしょう。

そういったところから、柴又帝釈天に庚申詣の習慣が生じたのではないでしょうか。

葛飾納涼花火大会6 
富士山があらわれた!

柴又駅 

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[2017/08/04 18:21] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

浅草神社 浅草寺 三社祭 『丸〆猫はなぜ三毛猫なの?』 


東京都台東区 浅草寺
三社祭・・・5月第3週の金・土・日曜日

三社祭7 
①浅草神社は招き猫発祥の地?

商売繁盛の縁起物に招き猫ってありますよね。
招き猫発祥の地については、豪徳寺(東京都世田谷区)・自性院(東京都新宿区)・伏見稲荷(京都府伏見区)など、いくつかの説があります。
その中に浅草神社を招き猫発祥の地とする説もあります。

老婆が猫を飼っていましたが、貧しさから猫を手放しました。
あるとき老婆の夢枕に猫が現れ、「私の人形を作るにゃん!そしたら福徳があるにゃん!」と言いました。
そこで老婆は今戸焼の猫の人形を作り、三社様(浅草神社)で売ったところ、飛ぶように売れ、評判になりました。(武江年表/1852年)

浅草観音猫の由来/浅草寺梅園院境内でひねり土人形を造っていた老夫婦の愛猫が、小鳥を殺したことに罪悪感を感じて井戸に身投げしました。
その後老婆の夢枕に猫が現れ「おばあさんの病気を治すにゃん!」と言いました。
老婆が猫の人形を拝んだところたちまち病が治りました。(藤岡屋日記 嘉永5年「1852年」の項)

②丸〆猫

File:Characters from Plays as Merchants and Customers, from the series Flourishing Business in Balladtown 02.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/51/Characters_from_Plays_as_Merchants_and_Customers%2C_from_the_series_Flourishing_Business_in_Balladtown_02.jpg よりお借りしました。

歌川広重 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


上は歌川広重の『浄るり町繁花の図(部分)より丸〆猫』です。

「金銭や福徳を丸く勢〆ると」という縁起かつぎから、後ろに「丸に〆」の陽刻があるそうです。

三社祭5 

③ブチから三毛猫に?

広重が描いた丸〆猫は白地に黒のブチのように見えます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E3%80%86%E7%8C%AB#/media/File:%E4%BB%8A%E6%88%B8%E7%84%BC_%E4%B8%B8%E3%80%86%E7%8C%AB_%E5%98%89%E6%B0%B8%E5%AE%89%E6%94%BF%E9%A2%A8%E5%9E%8B.JPG

リンク先の写真は今戸焼 丸〆猫 嘉永安政風型と書いてありますが、やはり白地に黒ブチですね。

ところが、昭和戦前型は三毛猫になっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E3%80%86%E7%8C%AB#/media/File:%E4%BB%8A%E6%88%B8%E7%84%BC_%E4%B8%B8%E3%80%86%E7%8C%AB_%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%9E%8B.JPG

もともとは白地に黒ブチだったのが、しだいに三毛猫の丸〆猫が作られるようになったのかも?
もしかしたら三社様(浅草神社)の社名にちなんで三毛猫になったんだったりして?

招き猫も三毛猫ですね。

File:Manekineko1003.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Manekineko1003.jpg?uselang=ja#metadata よりお借りしました。

④三毛猫は聖観音の化身?

浅草神社の御祭神は土師真中知命・檜前浜成命・檜前武成命の三柱です。
つまり丸〆猫の三毛は土師真中知命・檜前浜成命・檜前武成命を表しているのではないかという推理です。

628年、隅田川で漁をしていた檜前浜成・檜前武成の網に聖観音がかかりました。
土師真中知が僧となって自宅を寺とし、この聖観音を祀ったのが浅草寺とされます。

藤岡屋日記によれば丸〆猫は浅草観音猫ということですから、浅草寺の聖観音の化身でもあるということですね。

三社祭2
 

三社祭6


三社祭3 
三社祭4 
三社祭


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[2017/05/27 00:05] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

待乳山聖天 大根まつり 『聖天さんと人日の節句』 


東京都台頭区 待乳山聖天
大根まつり・・・1月7日


待乳山聖天 巾着 
①大根まつり

1月7日、浅草の待乳山聖天では大根まつりが行われ、参拝者に風呂吹き大根がふるまわれます。

待乳山聖天では聖天さん(大聖歓喜天)をお祀りしています。
聖天さんとは像頭をした男女双体のみほとけです。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

②聖天さんはなぜ大根が好物なの?

聖天さんは大根が好物だとされ、待乳山聖天では二股大根のモチーフがいたるところにあります。
なぜ聖天さんの好物が大根だとされているのでしょうか?

大根は直根の先端にある生長点が石ころなどにあたると、側根が肥大して二股になってしまうことがよくあるそうです。
古の人々は二股の大根を、二本の大根がくっついていると考えたのではないでしょうか。
それで大根は好物というよりも、男女双体の聖天さんにふさわしいシンボルであると考えられたのではないかなあ、などと思ったりします。

待乳山聖天 二股大根


③1月7日(人日)は犯罪者の刑罰を行わない日。

待乳山聖天の大根まつりが行われる1月7日は人日です。

古代中国では奇数を陽の数字、偶数を陰の数字としていました。
月と日が一桁の数字で同じ奇数になる日は、陽+陽=陰になるとして、避邪の行事を行っていました。
これを五節句といいます。
ただし1月1日は元旦なので、1月7日を節句としていました。
すなわち、五節句とは1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日のことを言います。

待乳山聖天 奉納された大根 

待乳山聖天を参拝する人は大根を奉納して祈願します。


そして1月七日を人日の節句、3月3日を上巳の節句、5月5日を端午の節句、7月7日を七夕の節句、9月9日を重陽の節句とも言いました。

1月7日を人日と言うのは、古代中国で1月1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪〈豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日、7日を人の日としていたことに由来します。

そしてそれぞれの日にはその動物を殺さないという習慣がありました。
1月7日の人日には犯罪者の刑罰を行ない日とされていました。

待乳山聖天-引換券 

大根の切り口をデザインした素敵な紋

④聖天さんの伝説

聖天さんには次のような伝説があります。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 

つまり、聖天さんとは鬼王ビナヤキャ(=マラケラレツ王)とビナヤキャ女神(十一面観音の化身)の男女双体のみほとけなのです。

上の動画をもう一度見てください。
相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音の化身ビナヤキャ女紳です。

待乳山聖天 大根まつり 3


⑤鬼王ビナヤキャは犯罪者?

人日に待乳山聖天で大根まつりが行われているのは偶然ではないと思います。
聖天さんの男神である鬼王ビナヤキャ=マラケラレツ王は生きた人間を食べる犯罪者だったといえるでしょう。
そのため犯罪者の処刑を行わない人日に、鬼王ビナヤキャの供養として大根まつりが行われているのではないでしょうか?

待乳山聖天 大根まつり-行列 

待乳山聖天 大根まつり-2

待乳山聖天 大根まつり 

お下がりの大根をふろふき大根にして参拝者にふるまわれます。

待乳山聖天 ふろふき大根 
袋に入っているのはお持ち帰り用の大根です。

待乳山聖天 桜レール 

桜レール


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[2017/01/13 00:25] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

東五反田 目黒川 イルミネーション 『ジョージ・マイケルと言霊』 

東京都品川区 東五反田 目黒川 イルミネーション

品川 東五反田 クリスマスイルミネーション


①ジョージ・マイケル、クリスマスに亡くなる。


毎年、クリスマスにはワム!のラスト・クリスマスが流れますね。
今年はクリスマスの翌日、12月26日にもラジオでワム!の曲が何回も流されていました。
この日、12月25日にワム!のジョージ・マイケルが亡くなったと報じられたためです。

それにしてもラスト・クリスマスを歌ったジョージ・マイケルがクリスマスの日に亡くなるなんて・・・

品川 東五反田 クリスマスイルミネーション2 
人物は堺祭の時代行列に参加されていた方々です。(合成)


②言霊信仰

古の日本では口に出した言葉には実現させる力があると考えられていました。
これを言霊信仰と言います。

③掛詞は言葉の意味を変える呪術だった?

和歌のテクニックのひとつに掛詞があります。
掛詞はひとつの言葉にもうひとつの意味をもたせることで、歌に二重の意味をもたせるテクニックとされます。

たとえば

花のいろは 移りにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに/小野小町


上の歌の「ながめ」は「物思いにふける」と「長雨」のふたつの意味を持つとされます。

品川 東五反田 クリスマスイルミネーション3  


現代にも残る言霊信仰

ジョージ・マイケルの死について、「ラスト・クリスマスの曲にひかれたのかな」というツイッターを読みました。
多くの人が同じようなことを思ったと思います。
これは現代にも残る言霊信仰ですね。

⑤「去年のクリスマス」が「クリスマスが最後の日になった」に転じた?

ジョージ・マイケルが歌った「ラスト・クリスマス」の「ラスト」は「去年」という意味で、「ラスト・クリスマス」とは「去年のクリスマス」という意味です。

しかし、「ラスト」には「最後」という意味もあります。

それで、「ラスト・クリスマス」は「去年のクリスマス」から「クリスマスが最後の日になった」と言う意味に転じた結果
ジョージ・マイケルはクリスマスの日に亡くなってしまった・・・・。

紀貫之や藤原定家が生きていたら「ジョージ・マイケルはまさしく歌仙だ!」と言うかも?


ジョージ・マイケルさんの冥福を心よりおいのりします。
素敵な曲をたくさん歌ってくださってありがとうございました。
ジョージ・マイケルさんの曲はこの先何千年も愛され続けるでしょう。




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[2016/12/28 00:00] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

明治神宮外苑 イチョウ 『イチョウを公孫樹と書くのはなぜ?』 


東京都渋谷区 明治神宮 外苑
2016年11月下旬 撮影


明治神宮外苑 公孫樹並木2 

恋人たちがそぞろ歩く明治神宮外苑

●イチョウを公孫樹と書くのは「孫の代になってようやく実がなる」という意味?

イチョウは「銀杏」のほか、「公孫樹」の漢字があてられることもあります。
イチョウは生長が早く寿命も長いが、実がなるまでも 長く、植えてから孫の代になってようやく実がなるため公孫樹と書くのだと言われたりします。

明治神宮外苑 公孫樹並木 

明治神宮 外苑


●公孫氏

私が公孫樹と聞いて思い浮かべるのは中国・三国時代の公孫氏です。
三国時代とは魏・呉・蜀漢が対立していた時代のことですね。

●卑弥呼は公孫氏だった?

中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻に烏丸鮮卑 東夷伝倭人条があります。
略して魏志倭人伝と呼ばれています。
この魏志倭人伝の中に倭国に邪馬台国があり、女王卑弥呼が君臨していると記されていることは皆さんご存知の通りです。

卑弥呼の名が記されているのは魏志倭人伝だけではありません。
後漢書・晋書・三国史記なども卑弥呼について記しています。

この中の『
晋書』巻九十七 「四夷伝(よんいでん)」 に次のように記されているそうです。

争乱に明け暮れる倭に一人の女王が擁立され王となって 乱が収まった。
その女王の名を卑弥呼と云う。
彼女は、かつて西晋(せいしん)の始祖・宣帝(せんてい)に滅ぼされた公孫氏であった。


本当に卑弥呼が公孫氏であったのかどうかはわかりませんが。
もし仮に卑弥呼が公孫氏であるというのが事実でなくても、古の日本人が晋書を読んで『卑弥呼は公孫氏である』と信じていた可能性は大です。

箸墓古墳 桜
 
卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳

●卑弥呼=日女命=天照大神


卑弥呼は日女命(ひめのみこと)のことだとする説があります。
日女命という名前は太陽の女神・天照大神を思わせる名前です。
日女命とは籠神社で発見された海部氏系図に登場する人物で、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫です。
そしてその脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていたのです。

籠神社 
籠神社

卑弥呼=日女命=天照大神は物部氏の神だった?

彦火明命は海部氏の祖神で、ニギハヤヒと同一神であると伝えられているそうです。
ニギハヤヒとは物部氏の祖神です。
海部氏は物部氏の一派だということでしょう。
そし彦火明命の9代目の孫・日女命=倭迹迹日百襲姫命=天照大神も物部氏の神だということになりますね。

●初代神武以前、畿内には物部王朝があった?

初代神武天皇は日向にすんでいたのですが、東征して機内入りしました。
そしてそれ以前に畿内にはニギハヤヒが天の磐船を操って天下っていたとされます。
さきほど述べたようにニギハヤヒは物部氏の祖神です。
そのため神武以前畿内には物部王朝があったとする説があります。

磐船神社 天の磐船  

磐船神社御神体 天の磐船(ニギハヤヒがこれに乗って天下ったとされます。)

●初代神武天皇と10代崇神天皇は同一人物だった?


初代神武天皇と10代崇神天皇はどちらも和風諡号を「ハツクニシラス」といいます。
ここから二人は同一人物とする説があります。

●神武=崇神は物部王朝に婿入りした?

10代崇神天皇には「ハツクニシラス」のほか、「ミマキイリヒコイニエ」という和風諡号もあります。
11代垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリビコイサチ」といい、どちらも諡号に「イリ」とあるので「イリ王朝」と呼ばれています。
そしてこの「イリ」とは「入り婿」を意味するとする説があります。

天孫ニニギ(神武天皇の曾祖父)は葦原中国に天下って、葦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと結婚していますし
ホオリ(神武天皇の祖父)は竜宮へ行って海神の娘トヨタマヒメと結婚しています。

これらの神話は神武=崇神が物部王朝に婿入りしたことを反映して創作されたのではないでしょうか。

●本当の天照大神は男神だった?


物部氏の祖神・ニギハヤヒは別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、
ニギハヤヒが本当の天照大神だとする説があります。

天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味を持って岩戸から出てきますが、
女神のストリップに興味を持つのは男だ、よって天照大神は男神だとする説もあります。

●日本の太陽神・天照大神はなぜ女神とされているの?

太陽神を女神とするのは世界的に見ても大変珍しいそうです。
なぜ日本の太陽神は女神なのでしょうか。

そして、天照大神の子孫を称する天皇家は、代々男系で皇位を継承しています。
女性天皇もいましたが、持統・斉明(皇極)・元明は既婚で中継ぎの天皇としての即位でした。
独身で即位した元正・孝謙(称徳)天皇は結婚が許されなかったようで生涯独身でした。

次のように考えると、なぜ天照大神が女神で、天皇家は代々男系なのかの筋が通ると思います。

畿内にはもともと物部王朝があり、畿内の人々は物部氏の男神・天照大神を信仰していた。
そして国を治めるのは天照大神の血筋の者以外認められないとする風潮があった。
日向からやってきた神武=崇神は物部王朝に婿入りすることで政権を乗っ取った。
しかし婿入りした神武=崇神は天照大神の血をひいていない。
そこで、神武=崇神は天照大神を女神にすることを思いついた。
天照大神を女神にすれば、天照大神の婿となった自分の子孫は天照大神の子孫と称することができるではないか。

●物部氏は公孫氏だった?

晋書に卑弥呼は公孫氏だと記されていることは、すでに述べたとおりです。
卑弥呼とは日女命のことで、日女命は彦火明命=ニギハヤヒの9代目の孫です。
そしてニギハヤヒは物部氏の祖神なので、卑弥呼=日女命もまた物部氏の女性です。
ということは、物部氏は公孫氏?

●イチョウは一陽の木

葛城一言主神社 イチョウ 黄葉 『イチョウと一陽来復』 
↑ こちらの記事で、私はイチョウは一陽の木で、冬至に向かって衰え行く太陽になぞらえた木であると書きました。

太陽は日本では赤で描かれることが多いですが、本来の色は黄色です。
黄色いイチョウの葉は太陽の光をあらわしており、イチョウの葉が散っていくことは冬に向かって衰えていく太陽を表しているのではないかと考えたのです。

冬に向かって衰えていく太陽は、天皇家に政権を乗っ取られた物部氏を喩えるのにぴったりです。
そういうわけで、冬に向かって黄色い葉を散らしていく一陽の木・イチョウは物部氏に喩えられ、物部氏=公孫氏ということで公孫樹の字があてられているのだったりして?

一言主神社 公孫樹2

一言主神社 公孫樹

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[2016/12/07 00:00] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

富士山 夕景色と朝景色 『関東に北極星・カシオペア座・北斗七星が存在していた?』 

東京都新宿区 東京都庁
撮影 2016年11月下旬


皇居3 
皇居 (江戸城跡)

●江戸は四神相応の地に作られた?

江戸は四神相応の地に作られていると聞いたことがあります。
四神とは玄武(北の守護神)・朱雀(南の守護神)・青龍(東の守護神)・白虎(西の守護神)の四聖獣のことをいいます。
詳しい説明はこちら→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E

そして玄武は丘陵(山)、朱雀は湖沼(海)、青龍は川、白虎は大道に棲むといわれ、
北に丘陵(山)、南に湖沼(海)、東に川、西に大道がある土地を四神相応の地といい、大変縁起のいい場所とされます。

平安京の北には船岡山・南には巨椋池(現存せず)・東には鴨川・西には山陰道があり、四神相応の地といえるでしょう。
(平安京は四神相応の地に作られていないとする説もありますが)

で、江戸の町は北に富士山・南に江戸湊・東に平川・西に東海道があるので四神相応の地だというのです。
えっ??
ちょっ、ちょっと、待ったーーー!

富士山 夕景

上の写真は東京都庁展望ロビーより富士山の夕景を撮影したものです。富士山の背後に広がっているのは夕焼けに染まった西の空です。



上の地図を見ればわかるように、富士山(赤印)の位置は江戸(東京)の西南西で、江戸の北ではないんですが?
なぜ、富士山が江戸の北にあるなどと言われているのでしょうか?

江戸の北には麹町台地があり、麹町台地が玄武の丘陵に相当するとする説もあるそうですが、
江戸の町が作られたとき麹町台地は削られ平な土地にされたそうです。
玄武という聖獣が棲む山を削るとは思えないし、削って平らにしてしまったら四神相応の地ではなくなってしまうという反論をネット上で読みました。

また江戸の北にある麹町台地に登れば富士山が見えるので、富士山が玄武の丘陵に相当するとの説もあるようですが、皆さんこれを聞いて納得できますか?
私には納得できないです!
江戸の町を作った徳川家康や家康のブレーン・天海がそんないい加減な人間だったとはとても思えないです。

ですが、家康や天海が江戸の町をここに定めたのは、富士山の位置を考慮した上でのことではないかと私は考えています。

長くなりますが、詳しく説明しますね。もし興味があったら読んでください。

●日振島はカシオペア座になぞらえられていた?

愛媛県宇和島市の日振島はカシオペア座を左右反転させたような形をしています。



図①
北斗七星 カシオペア座


カシオペア座のWは向かって左側のVが広いのに対し、日振島のWは向かって右側のVが広くなっていますね。
ですが星が天球に貼りついているものとして、天にいる神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は日振島と同じように向かって右側のVが広い形に見えるはずです。

図②



●鳴門の渦潮は北極星になぞらえられていた?

で、図③に示すように日振島がカシオペア座だとすると、鳴門の渦潮は北極星になぞらえるのにちょうどいいんじゃないかと思ったわけです。

全ての星は北極星を中心にして回ります。
それはまるで北極星に夜空を回転させるパワーがあるかのようで、鳴門の渦潮は北極星にぴったりじゃないかと。

鳴門の渦潮はほとんど右回りだそうです。(まれに左回りもあるそうです。)
夜空の星は北極星を中心にして左回りに回りますが、日振島はカシオペア座と左右が逆転しています。
日振島は図②で示したように、天球に貼りついたカシオペア座を天球の上から眺めた形になっています。
天球の上から天球にはりついた星を眺めるとすれば、夜空の回転方向も左回りではなく右回りに見えるはずです。

また古の日本は九州から関東あたりまでで、ちょうど鳴門の渦潮あたりが日本の中心になります。

図③
日振島 三上山 鳴門の渦潮  

●琵琶湖は北斗七星になぞらえられていた?

琵琶湖には三上山にすむムカデを藤原秀郷が退治したという伝説があるのですが、
藤原秀郷は平貞盛とともに平将門の乱平定に派遣された人物です。
琵琶湖のほとりの三上山にすむムカデとは平将門を比喩したものではないでしょうか。

そして加門七海さんが東京の将門関連史跡の鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社をつなぐと北斗七星の形になっていると指摘されています。

北斗七星は水をくむ柄杓の形をしていますから、湖である琵琶湖は北斗七星になぞらえらえたのではないでしょうか。
そして、平将門は北斗七星の神だと言うことで、藤原秀郷の三上山のムカデ退治伝説は生じたのではないかと思います。

●江戸は徳川家康が作った新たな北極星の都市だった?


江戸は平安京のような条坊制の町ではなく、江戸城を中心に「の」の字を描くように堀が作られています。

ファイル:Edo hori.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_hori.png
よりお借りしました。
江戸中心部の堀、門等配置略図。著作権切れ(パブリックドメイン)の絵図の画像をSafkanさんが加工されたものです。

「の」の字は鳴門の渦潮と同じ右回りです。
徳川家康
および天海が江戸の町を「の」の字を描くような町にしたのは、日本に江戸という新たな北極星をつくり、江戸を中心として日本をまわそうという呪術であったのではないかと私は考えました。

●筑波山はカシオペア座になぞらえられた?


江戸が北極星だとすると、カシオペア座や北斗七星になぞらえた場所が江戸の近くにも設定されているのではないでしょうか。

File:Mt.Tsukuba.jpg

上の写真は西側から望んだ筑波山です。
ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mt.Tsukuba.jpg?uselang=ja)よりお借りしました。
RESPITEさんが撮影されたものです。

図④
カシオペア 

カシオペア座は北極星の下にあるときは錨の形に似ているので錨星、北極星の上にあるときは山形に見えるので山形星と呼ばれました。
図④は地球上から山形星を見上げた図です。(ヘタクソな図ですいません。)
図④を左右反転させると、向かって右の山が高く、向かって左の山が低くなりますね。
筑波山の南南西にある江戸から筑波山を望んでも、向かって右の山が高く、向かって左の山が低く見えるはずです。
筑波山はカシオペア座になぞらえられているのではないでしょうか。



上の地図の赤印のところが筑波山です。 
筑波山・東京(江戸)・富士山の位置関係に注目してください。
江戸を北極星、筑波山をカシオペアとすると、富士山は北斗七星を表しているように思えませんか。

北斗七星  

北斗七星は右側部分が霞んだ富士山の形のようにも見えますね。

そういえば、さきほど私は琵琶湖は北斗七星になぞらえられたのではないかと書きましたが
大ムカデが住んでいたとされる琵琶湖のほとりの三上山は近江富士と呼ばれています。
琵琶湖が北斗七星なのではなくて、三上山が北斗七星かもしれませんね。

カシオペア 北斗七星 左右反転の図

●一富士・二鷹・三茄子は金・銀・銅の隠語?

初夢で見ると縁起のいいものとして「一富士・二鷹・三茄子」といいます。
私はこれらは鉱物の隠語ではないかと考えています。
その理由は以下のとおりです。

①栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
②鷹は鷹の爪ではないか。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
③富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。

※坑道は鉱脈に沿って様々な方向に枝分かれして彫られ、ムカデ穴と呼ばれていました。
様々な方向に枝分かれする坑道はたくさんの実をつける茄子や鷹の爪・房になって咲く藤の花にも似ているように思えます。

富士山の北西の毛無山には富士金山もあります。



●富士山はたたら吹きの炉に喩えられた?

歴史史料に富士山が噴火したという記録が残されており、かつて富士山は活発な火山活動をしていたことがわかります。
私は下の動画のたたら吹きの炉をみて、火を噴く富士山を思い浮かべてしまいました。
活発な火山活動をする富士山はたたら吹きの炉に喩えられたのではないでしょうか。

そして先ほどのべたように、一富士は金を意味する隠語ではないかと私は考えているのですが
富士山は天然のたたら吹きの炉であり、富士山の火山活動によって金が作りだされると古の人々は考えたのではないかと思うのです。
(ぐぐってもでてこなかったんですが、砂金を熔解するためには砂鉄と同様炉を用いたと思われますし、鞴で風を送る必要があったと思います。)



●北斗七星は鉱山に関係する星座ではないか?


http://www.raifuku.net/special/wolf/details/myoken1.htm

↑ こちらに妙見星神の図像が掲載されており、下図のような星が描かれています。


妙見星神の上部に描かれた星 

上の三つ星は婁(たたらほし/おひつじ座β星)下の七つ星は北斗七星だと思います。

二十八宿
File:Twenty-eight mansions.jpg

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Twenty-eight_mansions.jpg?uselang=ja )よりお借りしました。


File:Bellows 2 (PSF) generalized.png

ウィキペディアよりお借りした鞴(たたら)の図です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bellows_2_(PSF)_generalized.png?uselang=ja
作者はPearson Scott Foresmanさんです。

鞴はこのように三角形の構造になっており、それに似ているということで「たたらほし」というのでしょう。
妙見星神は北極星の神であると同時に、鉱山を司る神でもあるのではないでしょうか。
とすれば、たたら星の上に描かれた北斗七星もまた鉱山に関係する星だったりして?

●北斗七星の升は炉、持ち手部分はノロ?

上のたたら吹きの動画の7:46あたりに、炉の下部にあるホド穴からノロ(鉄さい)とよばれる鉄の滓がでてくるシーンがあります。
北斗七星の升は炉、北斗七星の持ち手部分はノロだと考えられたのではないかと思ったりしました。

富士山 夕景2

●筑波山はカシオペア、富士山は北斗七星、その中心にある江戸は北極星?

家康と天海は、筑波山をカシオペア、富士山を北斗七星に見立て、その中心にある江戸を北極星に見立て、江戸を渦を撒く町として作ったのではないかなあ?

朝日に輝く富士山 
浦安より撮影した富士山。
観覧車が朝日を受けて輝いていました。



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[2016/12/05 00:03] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

朝護孫子寺 湯島聖堂 紅葉 『亀甲紋と虎』 

東京都文京区 湯島聖堂(2016年11月17日 撮影)
奈良県奈良県生駒郡平群町 朝護孫子寺 (2008年11月23日 撮影)

湯島聖堂 紅葉2 

湯島聖堂

東京の地下鉄ってとても親切ですね!
今回、地図も持たずに東京の町をウロウロしたんですが
地下鉄の職員さんに行き方を訪ねたら、タブレットで調べて最寄り駅を教えてくれるんです!
おかげで地図なしでも東京観光楽しめました♪ ありがとうございました~。

そうこうして神田明神を目指し、御茶ノ水で下車してとことこ歩いていたんですが
途中、とても紅葉の美しい所があったので寄ってみることに。湯島聖堂です。

湯島聖堂 紅葉 

湯島聖堂

●孔子廟

湯島聖堂は生類憐みの令を出したことで有名な江戸幕府5代将軍徳川綱吉が建てた孔子廟だそうです。
徳川綱吉さんは儒学などの学問が大変好きな将軍様であったのだとか。
孔子廟とは孔子を祀る霊廟のことで、日本では儒学の学校に孔子廟が作られることが多かったそうです。

湯島聖堂 大成殿 
湯島聖堂 大成殿

●亀甲紋と虎

美しい紅葉とともに私の目を釘つけにしたのが大成殿の扉の亀甲紋と屋根に置かれた虎の像です。

湯島聖堂 亀甲紋 

湯島聖堂 大成殿 屋根の虎 
●朝護孫子寺の毘沙門亀甲と張り子の虎

奈良の朝護孫子寺の紋は毘沙門亀甲といいます。↓

File:Bisyamonkikkou3.svg

毘沙門亀甲紋 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bisyamonkikkou3.svg?uselang=ja よりお借りしました。
作者はLife of Rileyさんです。(ありがとうございます)

で、朝護孫子寺には大きな張り子の虎もあるんです。(写真がなくてすいません~)

朝護孫子寺 紅葉 
朝護孫子寺

亀甲紋と虎がある湯島聖堂は毘沙門天の信仰と何か関係があるのかも?

●ムカデは毘沙門天の使い

朝護孫子寺にはこんなものもあります。↓

朝護孫子寺 額

 朝護孫子寺 ムカデのレリーフ
 
ムカデが描かれた額とレリーフです。

朝護孫子寺になぜこんなのがあるのかというと、ムカデは毘沙門天の使いとされているのです。

毘沙門天はもともとはインドの神クベーラで、夜叉を使役して貴金属や宝石を採掘させる神でした。
クベーラは鉱山の神だといってもいいのではないでしょうか。

そして坑道のことを俗語でムカデ穴といいます。
ムカデが毘沙門天の使いだというのはこのためでしょう。

●三上山に残る俵藤太の百足退治伝説

ムカデといえば、琵琶湖のほとりにある三上山の、「俵藤太のムカデ退治伝説」を思い出します。 

俵藤太 ムカデ退治の図 
瀬田の唐橋の説明板より

俵藤太が三上山の大ムカデを退治したというのです。

俵藤太というのは、彼が龍神から米のつきない俵をもらったところからつけられた愛称で、本名は藤原秀郷といいます。
藤原秀郷とは平貞盛とともに平将門を討伐した人物です。
もしかして三上山の大ムカデとは平将門?

●平将門の乱

平将門は「新皇」と称し東国に独立国をつくった人物です。
しかし940年、朝廷が派遣した平貞盛・藤原秀郷らの軍と戦っている最中、流れ矢に当たって死亡しました。
将門の首は京へ持ち帰られ、鴨川のほとりで晒されました。
将門の首が晒された場所には小さな祠があり「神田明神 天慶年間 平将門ノ首ヲを晒シタ所也」と記したプレートがとりつけられています。

神田明神 

神田明神(京都市下京区)


その後、将門の首は空へ舞い上がり故郷へ向かって飛び去ったという伝説があります。
そして故郷へ戻った将門の首が墜ちたところが、将門の首塚だと言われています。

今回の旅で念願だった将門の首塚も参拝することができました。

将門の首塚 
将門の首塚(東京都千代田区)

小さな塚ですが、次から次へと参拝者が訪れては線香をあげ、熱心に拝んでおられました。
平将門は今も東京の人々からあつーく信仰されているのですね!

●湯島聖堂の東北に神田明神が!

湯島聖堂には亀甲紋と虎はありましたが、百足を刻んだものなどは見当たりませんでした。

そのかわりというべきか、湯島聖堂のすぐ近くに神田明神があります。



神田明神はオオナムチノミコト、スクナヒコナノミコト、そして平将門を祀る神社です。

神田明神 本殿

神田明神

平将門の体は鉄でできていたという伝説があります。
そういったところから将門は鉱山の神、ムカデの神としても信仰されたのかもしれません。

そして亀甲紋と虎のある湯島聖堂は、神田明神と関係が深いのかもしれないなあ、と思ったりしました。

湯島聖堂 入徳門 紅葉 
湯島聖堂 入徳門

※安井金毘羅宮の櫛祭に登場された着物姿の女性を写真に合成させていただきました。


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[2016/11/23 00:00] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

赤山禅院 増上寺 紅葉  『神田明神は鬼門封じ、増上寺は裏鬼門封じって本当?』 

京都市左京区 赤山禅院
滋賀県大津市 延暦寺
東京都港区 増上寺
東京都千代田区 神田明神


●延暦寺・赤山禅院は平安京の鬼門封じの寺


東北は鬼が出入りする方向(鬼門)であるとして古より忌まれてきました。



上は京都近辺の地図です。
比叡山延暦寺・赤山禅院は平安京(京都)の鬼門封じの寺と言われます。
平安京の大内裏は現在の京都御所よりも西の千本通り沿いにありました。
上の地図で千本通りは京都御所から2筋西の南北に伸びる通り(北野白梅町駅のある通り)のことです。
この位置から赤山禅院・比叡山を見ると、これらは確かに東北の方角にあるといってよさそうです。

赤山禅院 紅葉2 
赤山禅院

赤山禅院 紅葉 
赤山禅院

延暦寺 追儺式 

延暦寺 追儺式(12月31日)平安京の鬼門封じの寺の追儺式って感慨深い~。

●神田明神は江戸の鬼門封じで増上寺は江戸の裏鬼門封じ?

神田明神は江戸の鬼門封じ、増上寺は江戸の裏鬼門封じだと言われます。
裏鬼門とは南西のことで、裏鬼門も縁起の悪い方向だとされていたのです。

実際に神田明神と江戸城(皇居)の位置関係を見てみましょう。(江戸の中心は江戸城でしょう。)



江戸城は現在の皇居で、千代田区の文字のある緑色部分です。

次に江戸城と増上寺の位置関係を見てみます。




うーーん、江戸城から見て神田明神は鬼門の東北というよりは北北東、増上寺は裏鬼門の南西というよりは南南西ではないでしょうか?

多少のずれはあるんじゃないかって?

そうではありますが、神田明神も増上寺も江戸時代にわざわざ移転させてまでこの位置にしてるんですよ。
神田明神が鬼門封じ、増上寺が裏鬼門封じの寺ならもっときっちりと東北または南西に近い位置に移転させるのではないでしょうか?

神田明神 本殿 
神田明神 (人物は京都・安井金毘羅宮の櫛祭に登場された方々です。/合成)

増上寺と東京タワー 
増上寺と東京タワー

●江戸は北極星になぞらえた町


前回、私は江戸の町が「の」の字に作られたのは、江戸の町が北極星になぞらえた町だからではないかとお話ししました。

江戸の町が作られるまでは鳴門の渦潮が北極星になぞらえられていたと私は考えます。
なぜ鳴門の渦潮が北極星なのかというと、
愛媛県の西に日振島という島があって、その日振島がカシオペア座の形をしているんです。



図①
北斗七星 カシオペア座

カシオペア座のWは向かって左側のVが広いのに対し、日振島のWは向かって右側のVが広くなっていますね。
だけど上図のカシオペア座は地球上から空を見上げたときの形です。
星が天球に貼りついているものとして、天にいる神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は日振島と同じように向かって右側のVが広い形に見えるはずです。

図②



で、図③に示すように日振島がカシオペア座だとすると、鳴門の渦潮は北極星になぞらえるのにちょうどいいんじゃないかと思ったわけです。

全ての星は北極星を中心にして回ります。
それはまるで北極星に夜空を回転させるパワーがあるかのようで、鳴門の渦潮は北極星にぴったりじゃないかと。

鳴門の渦潮はほとんど右回りだそうです。(まれに左回りもあるそうです。)
夜空の星は北極星を中心にして左回りに回りますが、日振島はカシオペア座と左右が逆転しています。
日振島は図②で示したように、天球に貼りついたカシオペア座を天球の上から眺めた形になっています。
天球の上から天球にはりついた星を眺めるとすれば、夜空の回転方向も左回りではなく右回りに見えるはずです。

また古の日本は九州から関東あたりまでで、ちょうど鳴門の渦潮あたりが日本の中心になります。

図③
日振島・渦潮・将門関連史跡 

将門関連史跡のある東京を北斗七星、日振島をカシオペア座だとすると、北極星↔北斗七星間の距離がありすぎますね。
もしかしたら、琵琶湖が北斗七星になぞらえらえていたのかもしれません。
琵琶湖には三上山にすむムカデを藤原秀郷が退治したという伝説があるのですが、
藤原秀郷は平貞盛とともに平将門の乱平定に派遣された人物です。
琵琶湖のほとりの三上山にすむムカデとは平将門のことなのかもしれません。

そして徳川家康および天海が江戸の町を「の」の字を描くような町にしたのは、日本に江戸という新たな北極星をつくり、江戸を中心として日本をまわそうという呪術であったと私は考えました。

●神田明神は北斗七星、増上寺はカシオペア座?

私は江戸は北極星になぞらえられたのではないかといいましたが、江戸の中心の江戸城が北極星なのかもしれません。
もう一度、図①をはっておきます。

図①
北斗七星 カシオペア座


江戸城を北極星として見たとき、神田明神は北斗七星、増上寺に見立てられるようにも思えます。

●将門は北斗七星の神だった

もちろん空は北極星を中心にして回っていますから、カシオペア座が上に来て北斗七星が下にくるということもあります。
ですが、神田明神のほうが北斗七星だと私は思います。
というのは、加門七海さんが将門関連史跡の鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社をつなぐと北斗七星の形になっていると指摘されていますし
将門の子孫を称する相馬家は家紋に『繋ぎ馬』を使用していました。↓

File:CrestOfSoumaClan.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CrestOfSoumaClan.jpg?uselang=ja より引用
作者/正親町三条さん (ありがとうございます)

私は繋ぎ馬の紋は北斗七星を表しているのではないかと思います。
馬の頭から首にかけては北斗七星の枡の部分、胴の部分は持手部分ではないでしょうか。

増上寺 紅葉 
東京タワーより増上寺を望む




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[2016/11/22 00:00] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

皇居(江戸城跡) 紅葉 『江戸は北極星になぞらえた町だった?』※追記あり 

東京都千代田区 皇居(江戸城跡)
撮影 2016年11月18日


あんまりいい写真ではなく本来ならばボツにするところなんですが
江戸について書きたい記事があったのでご勘弁ください~。(大汗)
 
皇居 正門石橋

皇居 正門石橋


●「の」の字を描く江戸の町

現在の皇居は徳川家が居城としていた江戸城跡にあります。

1600年、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、1603年には江戸城に江戸幕府を開きました。

平城京や平安京は碁盤の目のように南北の大路と東西の大路が交差する条坊制の都市でした。
大宰府や多賀城も条坊制で作られています。

しかし家康は江戸を条坊制にはしませんでした。
江戸城を中心に「の」の字を描くように堀を作ったのです。

家康には天台僧の南光坊天海というブレーンがいました。
この天海が家康に江戸の町づくりについてあれこれ助言をしたと言われています。

ファイル:Edo hori.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_hori.png
よりお借りしました。
江戸中心部の堀、門等配置略図。著作権切れ(パブリックドメイン)の絵図の画像をSafkanさんが加工されたものです。

●「の」の字はうず巻きで日本の中心をあらわす?

家康や天海はなぜ条坊制で町づくりを行わず、「の」の字を描く町にしたのでしょうか。

結論から先に申し上げると
それは江戸を新たな日本の中心にするためだったのではないかと私は考えています。
つまり「の」の字は渦巻きを表しており、江戸の渦巻きを中心にして日本が回るという呪術的仕掛けなのではないかと思うのです。

詳しく説明しますね。

皇居2 
●日振島はカシオペア座に喩えられていた?

京都の鞍馬寺境内に由岐神社があります。
由岐神社はもともとは宮中にあったのですが、天慶3年9月9日(940年10月12日)に鞍馬へ遷宮されました。
10月22日に行われている鞍馬の火祭は、由岐神社が遷宮される際の行列を再現したものだと言われています。

鞍馬の火祭が江戸とどう関係あるのかって?
まあまあ、もう少し話を聞いてください。

このころ、東国では平将門の乱が、南海では藤原純友の乱がおこり、朝廷は乱の平定に頭を悩ませていました。
朝廷は平貞盛・藤原秀郷らを東国へ派遣します。
平将門は彼らと戦っている最中、流れ矢に当たって死亡しました。
こうして平将門の乱は平定されました。
天慶3年2月14日〈940年3月25日)のことでした。

その後、7か月ほどたった天慶3年9月9日(940年10月12日)に由岐神社が鞍馬に遷宮されたわけですが
このとき、まだ藤原純友の乱は平定されていませんでした。
そこで由岐明神が鞍馬へ遷宮されたのは、藤原純友の乱平定を祈願するためではないかと私は考えました。
そして鞍馬の火祭は藤原純友の霊が海賊たちによって鞍馬に運ばれている様子を表しているのではないか、と思ったのです。
藤原純友は海賊の首領だったのです。

鞍馬の火祭

向かって右の男性が腕につけているのが船頭篭手


鞍馬の火祭では氏子さんは腕に船頭篭手(せんどうごて)をつけていますが、鞍馬は山中なのに船頭って違和感があります。
氏子さんのいでたちは藤原純友率いる海賊のいでたちではないかと私は考えました。

で、鞍馬の火祭ではチョッペンといって、二人の青年があおむけになって脚をV字に開脚するという儀式があります。
二人でV字開脚するので、Wの形に見えますね。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

藤原純友が本拠地としていた日振島はこんな ↓ 形をしています。



チョッペンは日振島を表していると思うのですが、どうでしょう?

そして日振島はカシオペア座にも似ています。

図①
カシオペア座

カシオペア座のWは向かって左側のVが広いのに対し、日振島のWは向かって右側のVが広くなっていますね。
だけど上図のカシオペア座は地球上から空を見上げたときの形です。
星が天球に貼りついているものとして、天にいる神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は日振島と同じように向かって右側のVが広い形に見えるはずです。

図②


●チョッペンは天辺の方言?

宮崎地方では天辺(てっぺん)のことをチョッペンと言うそうです。
空の天辺にあるカシオペア座という意味で、チョッペンの儀というのかも?

●錨星

古の日本では、カシオペア座は北極星より下にあってW字形のときは錨星、北極星より上にあってⅯ字形のときは山形星と呼ばれていました。

図③
カシオペア座 錨星 山形星  

錨とは綱や鎖をとりつけて海底や川底に沈めるもののことで、海賊の首領・藤原純友と関係が深そうに思えます。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E9%8C%A8 (錨の画像)

●鳴門の渦潮は北極星を表す

加門七海さんは、将門関連史跡の鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社をつなぐと、北斗七星の形になると指摘されています。

藤原純友がカシオペア座の神ならば平将門は北斗七星の神だといえるでしょう。

日振島(藤原純友の本拠地)・・・カシオペア座
鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社(将門関連史跡)・・・北斗七星

カシオペア座と北斗七星は北斗七星をはさんで図④のように対面しています。

図④

北斗七星 カシオペア座

ここまで考えて、思いついたことがありました。
日本のどこかにカシオペア座と北斗七星をつなぐ北極星があるのではないか?
そう思って地図をにらんでみると、日振島と将門関連史跡を結ぶ線上に鳴門の渦潮があるではありませんか~。

図⑤
日振島・渦潮・将門関連史跡   

詳しい説明は省きますが、鳴門の渦潮はほとんど右巻なのだそうです。(まれに左巻もあります。)



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

天空の星々は北極星を中心にして左回りに回ります。
ですが、 図②のように、星々が天球にはりついており、その天球の上から神様が地球を見下ろしたと考えると
神様には、星は右回りに回っているように見えるはずです。

日振島(藤原純友の本拠地)・・・カシオペア座
鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社(将門関連史跡)・・・北斗七星
鳴門の渦潮・・・北極星

古の人々は、日振島をカシオペア座、鳴門の渦潮を北極星に喩え、北斗七星の位置に将門関連史跡を定めたのかも?

そして日振島(藤原純友の本拠地/カシオペア座)と将門関連史跡(鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社/北斗七星)は鳴門の渦潮(北極星)に繋ぎ止め、その祟りを封じるという呪術が仕掛けられていたのではないかと思います。

そうだとすれば、これはなんとも壮大な呪術です。

●ちょっと言い訳~

図⑤の日振島↔鳴門の渦潮間の距離と、将門関連史跡↔鳴門の渦潮間の距離を比べてみると、将門関連史跡↔鳴門の渦潮間の距離の方がかなり長いですね。

カシオペア↔北極星間、北斗七星↔北極星間の距離はこんなには差がありません。

日本の正確な地図を作ったのは伊能忠敬で、地図が完成したのは伊能忠敬の死後の1821年のことです。
ですがそれ以前に用いられていた行基図にあてはめてみても、やはり日振島↔鳴門の渦潮間の距離よりも、将門関連史跡↔鳴門の渦潮間の距離のほうがかなり長いです。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyokizu.jpg(行基図)

北斗七星は将門関連史跡よりももう少し西の何かになぞらえられているかもしれません。

※追記

琵琶湖のほとりの三上山にすむムカデを藤原秀郷が退治したという伝説があります。
藤原秀郷は平貞盛とともに平将門討伐に派遣された人物です。
三上山にすむムカデとは平将門を比喩したものかもしれません。
すると琵琶湖が北斗七星に喩えられていたのかも?

●江戸は北極星になぞらえた町

ようやく江戸の「の」の字に戻ることができます。

昔の日本の最南端は九州、最北端は関東あたりまででした。
なので鳴門の渦潮あたりがちょうど日本の中心だったのです。

徳川家康と天海は、日本の中心を新たに江戸にしようと考えたのではないかと思います。
そのため、江戸を条坊制ではなく、「の」の字の町(渦巻きの町と言ってもいいでしょう。)としたのではないでしょうか。



上の地図を見ても東京(江戸)は北海道~九州のほぼ中心になっていますね。

江戸は北極星になぞらえた町として作られたのではないでしょうか?

皇居 

皇居3

皇居 堀

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/11/21 00:00] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)