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宇治神社 萬福寺 紅葉 『宇治は招魂の術ゆかりの地?』 


京都府宇治市 宇治神社 萬福寺


宇治神社 
宇治神社

①菟道稚郎子命の伝説


宇治神社は菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)をお祭りする神社です。

 日本書記にこんな話がありますよ。

第15代応神天皇の皇子・菟道稚郎子命は百済阿直岐と王仁を師として典籍を学びました。
応神天皇28年、高句麗よりの上表文に「高麗王、日本国に教ふ」とあったのを、失礼であるとして破り捨てています。
応神天皇は菟道稚郎子命を寵愛し、応神天皇40年、彼を皇太子としました。
応神天皇41年、応神天皇は崩御されました。
しかし 菟道稚郎子命は即位せず、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)と互いに皇位を譲り合いました。
もうひとりの異母兄・大山守皇子は皇太子になれなかったことを恨んで菟道稚郎子命を殺そうと挙兵しました。
しかし大鷦鷯尊がこれに気が付いて菟道稚郎子命に伝えました。
菟道稚郎子命は渡し守に扮し、大山守皇子が宇治川を渡る船を転覆させました。
大山守皇子は助けを請いますが、水死してしまいました。
 菟道稚郎子命は屍をひきあげ、次のような歌を詠みました。

ちはや人 菟道の渡に 渡手に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末辺は 妹を思ひ出 苛なけく そこに思ひ 悲しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀
ちはやひと うぢのわたりに わたりでに たてる あづさゆみまゆみ いきらむと こころはもへど いとらむと こころはもへど もとへは きみをおもひで すゑへは いもをおもひで いらなけく そこにおもひ かなしけく ここにおもひ いきらずそくる あづさゆみまゆみ


上の歌の現代語訳を千人万首というサイトでは次のように記しています。

宇治川の渡りに、川を渡る浅瀬に、立っている、梓の木と檀の木。その木を伐ろうと、心には思うけれど、取ろうと、心には思うけれど、一方には君を思い出し、他方には妻を思い出し、痛々しく、あれにつけては思い出し、可哀想にと、これにつけては思い出し、伐らずに来てしまった、梓弓・檀の木を。

【語釈】◇ちはや人 「宇治」の
枕詞◇い伐らむと 梓も檀も弓に用いた樹であるので、通常なら弓を作るために伐るのであるが、古事記の文脈に即せば、木を伐ることは兄大山守命を殺すことの隠喩となる。◇君を思ひ出 この「君」は古事記の物語に沿って考えれば、父応神天皇をさすか。◇妹を思ひ出 同じくこの「妹」は大山守命の妻をさすと考えられる。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/ujiwaki.html より引用

この後、菟道稚郎子命は菟道宮に住まい、3年間大鷦鷯尊と皇位を譲り合いました。
しかし、長期間天皇がいなければ天下の煩いになると思い、自殺しました。
大鷦鷯菟道稚郎子命尊は難波から菟道宮に至り、菟道稚郎子命の遺体に招魂の術を施しました。
菟道稚郎子命は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び死んでしまいました。

この話のテーマは次のようなものでしょうか。

前半―自らの命を狙った大山守皇子の死をも悼む菟道稚郎子命のやさしさ。
後半ー大鷦鷯尊に皇位を譲るため自殺した菟道稚郎子命のやさしさ。

私はなんか偽善ぽいなあ、と思いましたがw
でも同時に違う観点で、興味深い話だとも思いました。

宇治 朝霧橋 
宇治川 朝霧橋

②「木を伐ることは兄大山守命を殺すことの隠喩」ならば水死させているので「梓弓・檀の木を伐らなかった」とはいえなくないか?


まず、前半の「自らの命を狙った大山守皇子の死をも悼む菟道稚郎子命」について。

千人万首の語釈では

◇い伐らむと 梓も檀も弓に用いた樹であるので、通常なら弓を作
るために伐るのであるが、古事記の文脈に即せば、木を伐ることは兄大山守命を殺すことの隠喩となる。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/ujiwaki.htmlより引用

とあります。

菟道稚郎子命が渡し守に扮して、大山守皇子が宇治川を渡る船を転覆させたので、大山守皇子は死んでしまったのです。
それなのに、「君(天皇?)や妻(大山守命の妻)を思い出して、彼らがどんなに悲しむだろうかと思って、梓弓・檀の木を伐らずにきた(殺さなかった)」とはどういうことなんだ?とツッコミを入れたくなりませんか?

まあ、これは「今まで君(天皇?)や妻(大山守命の妻)を思い出して、彼らがどんなに悲しむだろうかと思って、大山守皇子を殺さなかったが、ついに殺してしまった。」という意味かもしれません。


宇治川

宇治川

③招魂の術で蘇生した菟道稚郎子命

次に後半の大鷦鷯尊に皇位を譲るため自殺した菟道稚郎子命について。
皇位を譲るため自殺までしなくていいと思いますが、
この点よりも気になるのが「大鷦鷯が菟道稚郎子命の遺体に招魂の術を施すと菟道稚郎子命は蘇生した。」という部分です。

萬福寺 

萬福寺

宇治には萬福寺という寺があり、布袋を弥勒菩薩そのものであるとして祀っています。
弥勒菩薩はゴータマ・ブッダの次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で56億7000万年後にあらわれるとされます。

ブッダとは悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人のことです。

布袋は中国に実在した僧ですが、死後に姿を見かけられたという話が残されています。
死後に姿を見かけられたっていうのは、布袋が生き返ったということだと思います。(実際には布袋は双子だったのを、人々が「布袋は生き返った」と勘違いしたんだと思いますが)
その布袋が弥勒菩薩と同体であるということは、弥勒菩薩もまた生き返るみほとけということではないかと思ったりします。

つまり、釈迦がブッダとして存在する世の中は終わりを告げるが、釈迦は再び生き返る。それが弥勒菩薩ではないかということです。

萬福寺の創建は1661年ですが、なぜ宇治の地に創建されたのでしょうか?
それは宇治に 菟道稚郎子命が蘇生したという伝説があったからではないでしょうか?

萬福寺 布袋 

萬福寺 布袋像

④「わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 」の本当の意味とは?


宇治の喜撰山には喜撰洞があり、喜撰法師が住んだ洞だと伝えられています。

喜撰法師はこんな歌を詠んでいますね。

わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり

この歌について、小説家の高田祟史さんは「QED六歌仙の暗号」の中で次のように言っておられます。
(以下、ネタバレとなりますので、知りたくないという方はここより先を読まないようにお願いしますねっ。)

萬福寺

萬福寺 ↑↓

萬福寺2




わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり


高田祟史さんは「宇治は都の辰巳ではない、都の辰である」とし、歌は「わが庵は都の辰」で切れ、「巳しかぞすむ」で一つの文節を作っているのではないかとしておられます。

そして「巳しかぞすむ」は「己鹿ぞすむ」であり、「鹿」は「ろく」都読むので、「己鹿ぞすむ」は「みろくぞすむ(弥勒ぞすむ)」という意味ではないかというのです。

④宇治は都の辰ではなく都の辰巳が正しいのでは?

当時の平安宮(平安京の大内裏)は二条城付近にありました。
そして喜撰山に喜撰洞が喜撰法師の棲んだ庵のあとではないかと思います。

二条城から宇治の喜撰洞の方角を確認してみると、申し訳ないですがが都の辰というのは厳しいのではないかと思いました。
やはり都の辰巳というのが正しいように思えます。





干支 方角

⑤「もののな」の高度なテクニック

④で述べたように「わが庵は都の辰」とはいいがたいと思います。
ですが、「わが庵は都の辰巳 しかぞ住む』の中に、「みろく」という言葉をよみとられたのは、高田祟史さんの素晴らしい発見だと思います。

この歌の中から「みろく」という言葉を読み取るのがむつかしいのは、ひとつは「わが庵は/都の辰巳/しかぞ住む」と「巳」と「しか」の間で文節が切れていることがあります。
さらに、「しか」を漢字に変換して「鹿」とし、「鹿」を「ろく」と読むという発想はなかなか思い浮かびません。

和歌のテクニックのひとつに『もののな』があります。
もののなとは、ある事物の名称を、意味に関係なく歌の中に詠み込むことを言います。

たとえば「あしひきの 山たちはなれ ゆく雲の 宿り定めぬ 世にこそありけれ」という歌がありますが、この歌の中に「たちばな」という言葉が読み取れますね。

「わが庵は都の辰巳 鹿ぞ住む』の中に「みろく」を発見するのは難しく、高度な「もののな」のテクニックだといえるのではないでしょうか。

奈良公園 鹿の親子

⑥ばれないように詠むのが大事

高田祟史さんは和歌は文学ではなく呪術だとおっしゃっていたと思います。

和歌ではないのですがが、言葉を呪術として用いた例として
1610年、徳川家康が方広寺の鐘名「国家安康」「君臣豊楽」に激怒したというエピソードがあります。

方広寺 鐘銘 

方広寺鐘銘

「国家安康だと?私(家康)の名前を切っているじゃないか!
「君臣豊楽子孫殷昌だと?豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、という意味ではないか!
けしからんーーーー!」

こう家康は怒り、豊臣家を滅亡させてしまいました。

現代人はこれを家康のいちゃもんだと考えがちですが、私は豊臣秀頼が本当に家康が指摘したような呪術を用いて鐘銘を刻んだ可能性があると思います。

言霊信仰とは口に出した言葉は実現する力があるとする信仰のことです。

ポジティブなことを言葉にすればポジティブなことがおき、ネガティブなことを言葉にすればネガティブなことがおきるとすれば
憎い相手を言葉の力によって貶めたいと考えるのは当然のことですね。

この事件は言葉に呪術をこめる伝統があったことを物語っているように思えます。
「国家安康」「君臣豊楽」とはなかなかうまい呪術を考えたものですね。
しかし相手にばれてしまうと、怒りをかって豊臣家のように滅ぼされてしまいます。
呪術は相手にばれないように慎重にかける必要があったのです。

喜撰法師の「もののな」のテクニックはすごいですね。
この歌に『巳鹿→みろく」と言う言葉が隠されていることに気付いた人は、高田祟史さんひとりだけかもしれません。
 

  萬福寺3 
萬福寺




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[2020/01/23 16:33] 京都府 | TB(0) | CM(0)

柿屋と古老柿 『平安時代、古老柿は朝廷の祭礼で用いられていたかも?』 

京都府綴喜郡宇治田原町 柿屋
2019年12月1日 撮影


宇治田原 柿屋4 
①柿屋と古老柿

宇治田原に出かけた目的のひとつは、柿屋を見ることでした。
どこに行ったら柿屋を見ることができるのかな?
あっ、ありましたよ! ラッキーでした。

柿屋とは、宇治田原の名産品・古老柿をつくるための設備で、藁で作ってあります。
刈り取った稲藁を使うんじゃないでしょうか。

毎年11月ぐらいになると刈り取りの終わった田圃に建てられます。
土地の有効活用ですね。
藁の屋根は風が抜けるのでつぶれにくく、結露もたれないという利点があるそうです。

古老柿に用いられるのは「鶴の子柿」という渋柿です。
このあたりは宇治茶の生産地で茶畑が多いのですが、その茶畑の霜よけとして古くから植えられてきたものだということです。

宇治田原 茶畑

作り方は次のとおり。

1.先端が二股になった竹竿で、「鶴の子柿」という小ぶりの渋柿を収穫する。
2.柿のへたをとって皮をむき、柿屋の棚に並べて15~20日乾燥させる。雨の日は柿を濡れない場所に移動させる。
3.夕方になったらシートやむしろでくるむ。こうすることで内部の水分とともに糖分が表にでてきて白くなる。
4.柿屋から柿をおろし、むしろに広げ、箕の上で柿をころころと回転させる。(この作業を「柿を躍らせる」という。
最近は専用の機械を用いて行っている。

古老柿

↑ 柿を躍らせる作業をされているところだと思います。

②孤娘柿伝説

この古老柿は禅定寺のご本尊の十一面観音が娘に化けて村人に製法を教えたという伝説があります。
そのため「孤娘柿(一人の娘の意)」とも呼ばれるそうです。

伝説では「村人が娘のあとをつけると、禅定寺近くの岩場で娘の姿は見えなくなり、かわって十一面観音が姿を現し」とあり
平成5年、禅定寺境内の美女石近くに「おとめ観音(柿の木観音)」像が作られたそうです。

以前、禅定寺は参拝したことがあるんですが、おとめ観音のことは全くしらず、参拝しませんでした。
残念ながら今回も禅定寺は参拝できなかったので、次回はこのおとめ観音を参拝しにいってみたいです。

乙女観音像の写真はこちらにありました。→ 
http://zenjyoji.jp/infomation1027.html
禅定寺については以前の記事に書いています。→
禅定寺 紅葉 柿 『象に乗った大威徳明王 と アシカの顔の獅子』 

禅定寺 池

禅定寺

③禅定寺の大威徳明王は藤原詮子のイメージ?

大威徳明王はふつう、水牛に乗ったお姿をされているのですが 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Daiitoku_myoo_painting.jpg 
禅定寺の大威徳明王(藤原時代)は象に乗っておられました。

一般的に普賢菩薩は象に乗ったお姿をされています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fugen.jpg
賢菩菩薩は女人成仏を説く法華経に登場する菩薩なので女性から厚く信仰されていました。

禅定寺の大威徳明王は普賢菩薩の徳を持ったみほとけなのかもしれません。

禅定寺は991年、藤原兼家によって創建されました。
991年は藤原兼家の娘・藤原詮子( せんし/あきこ)が出家した年です。

詮子は第64代円融天皇の女御で、980年に天皇の第一皇子・懐仁親王(のちの一条天皇)を産みました。
ところが990年に関白藤原頼忠の娘・ 遵子( じゅんし/のぶこ)が円融天皇の皇后となってしまいました。
そのため詮子は東三条邸にひきこもり、円融天皇に会おうとしませんでした。
その後、986年に詮子の子、・懐仁親王が即位して一条天皇となり、詮子は皇太后となりました。
991年、円融法皇が崩御されると、詮子は出家して、皇太后を辞し、女院となりました。

詮子は一条天皇の母親としておおいに政治に介入したそうです。
また、詮子は弟の道長をかわいがり、兄道隆・道兼が没したのち、執政者に道長を押しました。
そのため、兄一家は没落したと言われています。

禅定寺の象に乗った大威徳明王は詮子のイメージでつくられたものなのかもしれませんね。

宇治田原 柿屋 
④古老柿は朝廷の祭礼で用いられていたかも?

干し柿は弥生時代から作られていると考えられていますが、
日本における史料への初出は927年の延喜式で、祭礼用の菓子としての干柿の記述があります。
延喜式とは律令の施行細則を記したもので、神祇官という朝廷の祭祀を司る官庁のことです。
延喜式に記された干柿とは朝廷の祭礼に用いるものでしょう。

その干柿はどこから調達されたものなのでしょうか。

平安時代、禅定寺付近は藤原氏の別荘があった土地なのだそうです。
禅定寺を創建した兼家、または娘の詮子もこの付近にはやってきたことがあったでしょう。
そして村人がから献上された古老柿を朝廷の祭礼に用いていたなんてことがあったかもしれませんね。

宇治田原 柿屋2
 
宇治田原 柿屋3

食べてみたい!



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[2019/12/07 19:00] 京都府 | TB(0) | CM(0)

猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その②』 


京都府綴喜郡宇治田原町 猿丸神社
2019年12月1日 撮影


猿丸神社 拝殿 
猿丸神社 拝殿

猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その①』   よりつづきます~


⑧黒鬼になった猿丸太夫と大友黒主

前回の記事①に、古今和歌集真名序に「大友黒主之哥、古猿丸大夫之次也(大友黒主の歌は古の猿丸太夫の次である)」
と記されていると書きました。

一般にこれは歌風について記されたものだと考えられていますが、私はそうではないと考えていました。

百人一首で猿丸太夫は5番で、その次の6番は大伴家持です。(百人一首のそれぞれの歌には1~100までの番号がふられています。)

百人一首は藤原定家が撰んだものですが、定家は古今和歌集真名序の「大友黒主之哥、古猿丸大夫之次也」を受けて、猿丸太夫の次に大伴家持を持ってきたのではないかと私は考えました。

そう、つまり大友黒主とは大伴家持のことではないかと考えたのです。

そう考えた理由は古今和歌集真名序だけではなく、ほかにも次のような理由がありました。

a大友黒主と大伴家持はよく似た歌を詠んでいる。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)
b.大友黒主は大伴黒主と記されることもある。
こちらのサイトでは大伴黒主となっている。→ https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kuronusi.html
c大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。

真名序に『(大友黒主は)頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは「死体が掘り出されたこと」、『鄙し』は『死体が腐って卑しい」という意味ではないか。
dhttp://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされる。
大伴黒主という名前は、家持の死体が黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないか。

下に記した奈良豆比古神社の伝説は、弓削浄人は能・翁の創始者であると読めます。

志貴皇子(天智天皇の皇子)の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は心をこめて春日王の看病をした。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。 (※浄人王は臣籍降下して弓削浄人となったという意味では?)
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれない。


その翁の三番叟は黒式尉といって黒い面をつけて舞います。

八坂神社 翁 黒式尉

八坂神社 翁 三番叟

そして三番叟を舞う彫刻や狂言が残されています。

新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 レリーフ 三番叟と同じ烏帽子をかぶり同じ鈴と扇をもっている。

奈良豆比古神社の伝説は、弓削浄人が翁舞のルーツであると言っているように思えますが
翁は翁(白式尉)・千歳・三番叟(黒式尉)3つの舞から構成されており、その中でも三番叟(黒式尉)と弓削浄人(=猿丸太夫?)は関係が深いように思えます。

そして黒式尉(三番叟)が黒い面をつけているのは、dの「乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)」の状態ではないかとも考えられます。

つまり、大伴家持(大友黒主)も弓削浄人(猿丸太夫=三番叟)もdの黒鬼状態になったのですが、
時代順に並べると弓削浄人(猿丸太夫)が先で、大伴家持(大友黒主)が次です。

それで真名序は「大友黒主の歌は古の猿丸太夫の次である」と記しているのかも?

猿丸神社 狛猿  

猿丸神社 狛猿 これも三番叟のようにみえますね。

⑨下野国にのこる猿丸伝説

また猿丸伝説は日光にも伝えられています。

あるとき下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が神域をめぐって争った。
このとき、鹿島明神のアドバイスを得て、女体権現は鹿の姿となってあらわれた。
そして、小野に住む弓の名手で朝日長者の孫の小野猿丸(猿丸太夫)を呼び、その加勢によって勝利した。
こうして猿と鹿は下野国都賀郡日光で住むことを赦され、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神になった。
下野国都賀郡・日光二荒山神社の神職・小野氏はこの「猿丸」を祖とするという。


大谷川より男体山・女峰山を望む 
大谷川より男体山・女峰山を望む 女体権現とは女峰山を神格化した神だと思います。

弥生祭 花家体 門前にて

二荒山神社

日光は下野国にありました。

下野国は弓削道鏡が流罪となったところでしたね。
もしかしたら猿丸太夫とはひとりではなく弓削浄人、弓削兄弟のことをさしているのかもしれません。

そのように考えると、なぜ日光に猿丸太夫の伝説があるのかの説明がつくと思います。

猿丸太夫が弓の名手とあり、弓を製作する弓削部を統率した弓削氏をにおわせているようにも思えます。

また下野国河内郡とありますが、弓削氏の本拠地は河内国です。河内郡という地名は河内国からきているのかも?

猿丸神社 鳥居 

猿丸神社

⑨志貴皇子と春日王は同一人物だった?

⑧で奈良豆比古神社の伝説についてお話ししましたが、『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんはこれとは別の語りを伝承しておられるとのことです。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈った。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面だった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


ハンセン病を患ったのはオレンジ色で示した⑧の伝説では志貴皇子の子の春日王となっていますが⑨の伝説では志貴皇子となっています。

春日王は田原太子とも呼ばれており、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇と呼ばれていました。
春日王と志貴皇子は同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇族でこのようなケースは他に例がないと思います。
春日王と志貴皇子は同一人物なのではないでしょうか。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

⑩志貴皇子暗殺説

奈良にある百毫寺は志貴皇子の邸宅跡と伝わり、境内にはたくさんの萩が植えられています。

百毫寺 萩2 
白毫寺

境内には万葉歌碑が建てられています。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)


百毫寺 万葉歌碑 
笠金村という人が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌です。

本のタイトルや著者名を忘れてしまったのですが(すいません!)
以前図書館で借りた本に「志貴皇子暗殺説」について記されていました。
その内容は次のようなものでした。

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。

また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。
萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。

謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。

笠金村は「高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに 」と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。
のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。

猿丸神社 歌碑 

猿丸神社歌碑 

⑪鹿が踏み分けているのは楓ではなく秋萩だった?

古今和歌集は読んでいただくとおわかりいただけるのですが、隣あった和歌は同じ語句が用いられています。

たとえば、こんな風です↓

1.年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ/在原元方
2. 袖ひちて むすびし水の こぼれるを 春立つ今日の 風やとくらむ/紀貫之
3.春霞  立てるやいづこ  み吉野の  吉野の山に  雪は降りつつ/よみ人知らず
4.雪の内に  春はきにけり  うぐひすの  こほれる涙  今やとくらむ/二条后


1番の「春は来にけり(春は立春のこと。陰暦では1月2月3月が春だった)は、2番の「春立つ(立春)」につながります。
2番の「春立つ」は3番の「春霞」の春と「立てる」につながります。
3番の「春霞」は4番の「春はきにけり」の春に、「雪はふりつつ」の雪は「雪の内に」の雪につながっていきます。

5.梅が枝に  きゐるうぐひす  春かけて  鳴けども今だ  雪は降りつつ/よみ人知らず
6.春たてば  花とや見らむ  白雪の  かかれる枝に  うぐひすの鳴く/素性法師


4番の「うぐひす」「雪」と同じ語句が5番の歌にもありますね。
5番に「梅が枝」とあるので、6番の「花」は「梅の花」を意味しています。
また5番と6番はどちらにも「枝」「うぐひす」「雪」「鳴く(鳴けども)」という同じ語句があって、繋がっています。

それでは古今和歌集にある「奥山に」の歌は前後の歌とどのようにつながっているのかをみてみましょう。

秋上
214. 山里は 秋こそことに  わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216  秋はぎに うらびれをれば  あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず


214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっていますね。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じです。

しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられています。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになります。

また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されています。

a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん


こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようです。
(未確認。すいません~。番号もつけられているのかもしれませんが、わからないので、仮にabcとしておきます。)

こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになります。

私は猿丸太夫とは弓削浄人、弓削道鏡ふたりの兄妹の総称ではないかと考えましたが、
ここにもうひとり、兄妹の父親・志貴皇子を加える必要があるかもしれません。
つまり、猿丸太夫とは父親の志貴皇子と志貴皇子の二人の兄弟・弓削浄人、弓削道鏡の総称ではないかということです。
(※『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されています。
また奈良豆比古神社の伝説によれば、弓削浄人(浄人王)の父親は志貴皇子の子の春日王となっていますが、
志貴皇子の別名は春日宮天皇・田原天皇、春日王の別名は田原太子で同じ名前なので、志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと思います。)

「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思えます。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく


奈良大文字送り火 

奈良大文字送り火は高円山に点火される。

⑫藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首を志貴皇子作として鑑賞すると・・・

古今和歌集では「奥山に」の歌は詠み人しらずとなっていますが、百人一首では猿丸太夫が詠んだことになっています。

また前回の記事猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その①』  ②で、
平安中期の藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首も、猿丸太夫=志貴皇子と考えればぴったりくるように思えます。

●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)

これは高円山に葬られた志貴皇子の霊が詠んだ歌のように思えます。

●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入ったいたのだった)
こちらは志貴皇子の霊が、自らの死を読んだ歌のように思えます。
※暗くなったので夜になったと思っていたが、私は高円山に葬られていたのだった?

●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)

※私が葬られた高円山の萩の黄葉を踏み分けて鹿が鳴いているのを聞くと、わが身があわれに思えてくることだ?

春日宮天皇陵 
春日宮天皇(志貴皇子)陵へ向かう長い参道


春日宮天皇陵2 
春日宮天皇(志貴皇子)陵

⑭天智天皇が詠むのにふさわしい歌なので天智天皇御製とした

死んだ志貴皇子の霊が和歌を詠んだりできるはずがない、といわれそうなので、それについて説明しておきます。
古には著作権という考え方はありませんでした。
そこで、Aという人が詠んだとするのにふさわしいと考えられる歌の作者をAとする、というようなケースがありました。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)

この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されています。。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられています。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。

詳しくはこちらの記事をお読みください。近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』 

猿丸神社 奉納された瘤のある木 
猿丸神社には瘤のある木がたくさん奉納されていました。

⑮猿丸神社はなぜ瘤取りの神として信仰されているのか?


猿丸神社は瘤取りの神として信仰されており、瘤のある樹木の枝がたくさん奉納されていました。
なぜ猿丸神社は瘤取りの神として信仰されているのでしょうか。

奈良豆比古神社には、春日王または志貴皇子がハンセン病にかかったという伝説があるのでしたね。
ハンセン病になると結節 と呼ばれる瘤ができることがあったそうです。

また瘤はおとが鼓舞に通じますが、鼓舞のもともとの意味は「鼓を打って舞を舞う」ことです。
そこから転じて「大いに励まし気持ちを奮いたたせること」を鼓舞というようになったようです。

八坂神社 翁 白式尉

八坂神社 翁 白式尉 鼓を打って舞う。まさしく鼓舞ですね。


鼓を打って舞を舞うというのは、まさしく猿楽のことです。
そしてその猿楽のルーツともいうべき翁舞は、弓削浄人または志貴皇子がハンセン病治癒を願って行ったものでした。

猿丸太夫=父親の志貴皇子と志貴皇子の二人の兄弟・弓削浄人、弓削道鏡の総称
と考えると、猿丸神社が瘤取りの神として信仰されている理由もとけそうに思えますが、どうでしょう?



奈良豆比古神社 うそぶきの面 

奈良豆比古神社には古い能面が数多く展示されていましたが、その中に額右に瘤のあるうそぶきの面もありました。




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[2019/12/06 15:21] 京都府 | TB(0) | CM(0)

猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その①』  


京都府綴喜郡宇治田原町 猿丸神社
2019年12月1日 撮影

猿丸神社 拝殿

①謎の歌人・猿丸太夫

奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/猿丸太夫

百人一首にもとられているこの歌の作者、猿丸太夫の実体はほとんどわかっていません。

猿丸太夫という歌人の名前が初めて文献に登場するのは古今和歌集真名序(古今和歌集には仮名でかかれた序文の仮名序と漢文でかかれた序文の真名序のふたつがあります。)です。

古今和歌集真名序には次のように記されています。
「大友黒主之哥、古猿丸大夫之次也(大友黒主の歌は古の猿丸太夫の次である)」

次とありますが、これだけでは何の次なのかさっぱりわかりませんね。

そして古今和歌集真名序に猿丸太夫と記されてはいますが、古今和歌集には猿丸太夫の歌は一首もありません。
それだけでなく、万葉集にも、その後の勅撰集にも猿丸太夫の名前はないし、正史にも登場しません。

『猿丸大夫集』という歌集がありますが、万葉集の異体歌と古今集のよみ人しらず歌ばかりで、本当に猿丸太夫が詠んだと確認できる歌は一首もないとされています。

猿丸神社 手水

②古今和歌集詠み人知らずの歌は猿丸太夫が詠んだ歌?

平安中期の藤原公任は猿丸太夫を『三十六人撰』の一人に選び、代表歌として三首選んでいます。

●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)

●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入ったいたのだった)

●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)

さきほど猿丸太夫の歌は古今集に1首もないといいましたが、この3首は古今和歌集に掲載されています。
ただし作者は猿丸太夫ではなく、よみ人知らずとなっています。

また藤原盛房の『三十六人歌仙伝』に「延喜の御宇、古今集を撰せらるの日に臨みて
()の大夫の歌多く()の集に載す。(醍醐天皇代、古今集撰集に際し、猿丸大夫の歌が多く古今集に載せられた)」

藤原清輔の歌学書『袋草紙』には「猿丸大夫集の歌多くもつてこれを入れ、読人知らずと称す」とあります。

『猿丸大夫集』と『古今和歌集』のよみ人しらずの歌は同じ歌が24首ありますが、この24首は猿丸太夫が詠んだ歌である可能性があります。

猿丸神社 夫婦猿

③猿丸太夫と柿本人麻呂は同一人物?

猿丸太夫といえば、梅原猛さんの「水底の歌」を思い出します。
梅原猛さんは次のように唱えました。

769年に和気清麻呂が称徳天皇の怒りをかって「別部穢麻呂」と改名されられて流罪になったケースがある。
これと同様、柿本人麻呂も皇族の怒りを買い、改名させられて水死させられたのではないか。
『続日本紀』708年の項に柿本猨の死亡記事があるが、この柿本猨は柿本人麻呂と同一人物ではないかと。

しかし井沢元彦さんは、当時、動物を名前につけた例はあるとして
『柿本猨は柿本人麻呂が改名させられたものではない』としておられるようです。
(井沢元彦さんの「猿丸幻視行」を読んでいないので、詳しいことはわかりませんが)

私は飛鳥時代の蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿などは蔑称ではないかと考えています。

馬子とは馬をひいて荷物を運ぶ仕事をする人のことです。
蝦夷は東北に住むまつろわぬ民のことです。
入鹿は音が海豚に通じます。
古事記には大量の鼻を傷つけられた海豚が浜にうちあげられていたという話がり、政治的敗者の象徴とされているように思えます。

しかし、私の考えは、梅原猛さんがおっしゃる柿本人麻呂=柿本猨=猿丸太夫説とは違います。

猿丸神社 参道

④猿丸太夫=弓削浄人とする伝説を発見!

http://nangokutosa.blog47.fc2.com/blog-entry-1786.html

上のブログにに高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓がある、と記されています。
そして、説明板に次のように記されているようです。

佐川町指定文化財 猿丸太夫伝説の墓

元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)は、位人臣を極めた兄弓削道鏡の失脚により、土佐の地に流され、ここ猿丸山に居住したといわれている。

佐川における猿丸太夫(弓削浄人)の墓の伝説は、彼の流罪の年、宝亀元年(770)から数えて千二百年余りを経ていて奈良朝時代から夢の跡が長く伝わっているのは他にない。

平成四年三月一日建立
高知県文化財保存事業
佐川町教育委員会


上記ブログより引用

おお!弓削浄人!
たしかに猿丸太夫を弓削浄人と考えると腑に落ちる点があります!

⑤宇佐八幡神託事件

道鏡という人物の名前を聞いたことがあると思います。
僧侶ですが、俗姓が弓削なので、しばしば弓削道鏡といわれます。

奈良時代末期の769年、宇佐八幡神託事件がありました。
当時の天皇は女帝の称徳天皇でしたが、独身で子供がありませんでした。
(独身で即位した女性天皇は元正・孝謙(重祚して称徳)・明正・後桜町の4名いるが、全員独身。独身で即位した女性天皇は結婚してはならないとするしきたりがあったように思われます。)
称徳天皇は、僧の道教を次期天皇にしたいと考えていました。
そんなとき宇佐八幡宮で「道教を次期天皇にすべし」という信託がおりました。
称徳天皇はこれを確かめるため、和気清麻呂を宇佐に派遣しましたが
和気清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし(早い話が道鏡を次期天皇にしてはいけないということ)」という神託を持ち帰って称徳天皇に奏上しました。
これを聞いた称徳天皇はカンカンになって怒り、和気清麻呂別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)、和気清麻呂の姉・広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させ、流罪としたのです。
しかし、翌年の770年に称徳天皇は急病を患って崩御し(殺説あり)、これによって道鏡は失脚して下野へ流罪となりました。

弓削浄人とはこの道鏡の弟で、土佐へ流罪となりました。

護王神社絵巻 
護王神社絵巻
向かって右側の人物が和気清麿、向かって左のピンク色の僧衣が道鏡、道鏡の後ろの御簾から女物の着物の裾が見えているのが称徳天皇だと思われます。

⑥道鏡と弓削浄人は志貴皇子の子だった?

奈良市の奈良豆比古神社に次のような伝説が伝えられています。

㈠志貴皇子(天智天皇の皇子)の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していました。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は心をこめて春日王の看病をしていました。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈りました。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かいました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊されました。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれません。


「桓武天皇は春日王の子の浄人王に弓削首夙人の名と位を与えた」とあります。
「与えた」というと「なにかいいものをもらった」かのように錯覚しますが
浄人王は皇族であったのに臣籍降下させられて、弓削姓を与えられ弓削浄人と呼ばれるようになったということではないかと思います。
みなさん、弓削浄人という名前には聞き覚えがありますね。
そう、道鏡の弟の名前が弓削浄人なのでしたね!

『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されています。

伝説では浄人王・安貴王は春日王の子とされていますが、私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと思います。
というのは、志貴皇子は春日宮天皇・田原天皇ともよばれており、春日王は田原太子とも呼ばれていて二人は同じ名前なのです。
また、地元にはハンセン病になったのは、春日王ではなく志貴皇子であるとの伝承も伝えられています。

道鏡の俗名はわかっていないのですが、安貴(㈠の伝説に登場する春日王の子。浄人王の兄弟)という名前だったのではないでしょうか?

これが正しければ、道鏡は志貴皇子の子で天智天皇の孫だということになります。

⑦翁舞と猿楽

奈良豆比古神社には「翁舞」と呼ばれる伝統芸能が伝えられています。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉(三人翁)

そしてほとんど同じ内容のものが能の演目にあり「翁」と呼ばれています。
ただし、三人翁ではなく翁は一人です。

八坂神社 翁 白式尉

八坂神社 翁 白式尉

能は江戸時代までは猿楽と呼ばれていました。
また、翁舞・翁とも、は翁・千歳・三番叟の3つの舞からなりますが、猿がこの三番叟の恰好をした像や狂言があります。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉
 
新日吉神社 猿のレリーフ

新日吉神社 レリーフ


千本閻魔堂狂言 靭猿

千本閻魔堂狂言に登場した猿

そして猿楽のルーツともいえる翁舞を舞ったのが弓削浄人なので、弓削浄人と猿は大変関係が深いわけです。



猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その②』 につづきます~




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[2019/12/05 13:31] 京都府 | TB(0) | CM(0)

永谷宗円生家 茶宗明神社 『喜撰法師が飲んだお茶の色は何色?』 


宇治田原町湯屋谷 永谷宗円生家 茶宗明神社
2019年12月1日 撮影


永谷宗円 生家2  
永谷宗円生家

①やんたんって何?

「やんたん」ってMBSの深夜放送「MBSヤングタウン」のことじゃないの?
確かに「MBSヤングタウン」は略して「やんたん」と言われていますが、今日お話しする「やんたん」はこれではなく、京都府宇治田原町にある「やんたん」のことですw。
宇治田原町には湯屋谷という地名があり、正式には何と読むのか知りませんが(汗)、地元では「やんたん」と呼ばれているそうです。

このあたりは宇治茶の生産地で、たくさんの茶畑がありますよ。
また日本緑茶の祖と呼ばれる永谷宗円の生家(復元)もあります。

永谷宗円 生家 
永谷宗円生家

永谷宗円生家の隣には茶宗明神社があり、永谷宗円を祀っています。(昭和29年、大神宮社に合祀されました。)

茶宗明神社 

茶宗明神社

②お茶は緑色なのに、なぜグリーンではなくブラウンを茶色というの?

煎茶の製法に青製煎茶製法というものがあります。
この青製煎茶製法について、ネットでぐぐっていろいろなサイトを読んでみると説明が微妙に食い違っています。
そのため、はっきりしないのですが、たぶん、こういうこと↓ ではないかと思います。(間違いがあったら教えてくださいね。)

かつてのお茶の製法では、茶の芽を釜でいったのち、むしろに広げて手足でもみ、日光で乾燥させていたようです。
こうしてできたお茶は「釜炒り茶」といい、茶葉が黒っぽくなるので青製煎茶製法に対して黒製とも呼ばれます。

1738年、永谷宗円は、茶葉を煎るのではなく蒸し、焙炉(ほいろ)を使って乾燥させながら手で茶葉をもむという製造方法を考案しました。
この結果、茶葉は黒っぽくならず、現在のような緑色のものになりました。
これを青製煎茶製法といいます。

永谷宗円 生家-ほいろ 

永谷宗円生家 ほいろ


たぶん茶葉が黒っぽくならないのは、釜でいらずに蒸しているためだと思いますが、これについては、後に⑤のところで、もう少し詳しく述べます。

茶葉をそのまま放置しておくと酸化して茶色くなります。
これを防ぐために、蒸して酸化をとめることを殺青というそうです。

昔から「お茶は緑色なのに、なぜグリーンではなくブラウンの事を茶色と言うんだろう?」と疑問に思っていましたが、もともとお茶とは茶色をしたものだったんですね。

永谷宗円 生家6 
永谷宗円生家

③本当に青製煎茶製法は永谷宗円が考案したものなのか?

ですが、ウィキペディアには青製煎茶製法を永谷宗円が考案したというのは、次のような理由から、伝説で史実ではない可能性があると記されています。

a.同時代の文献資料から「釜炒りから蒸し製への移行」や「茶葉を揉み乾かす工程」を宗円が初めて導入したものではないと考えられる。

b.「ほいろ」の上で茶葉を揉みながら乾かす作業は、明治時代に鉄の枠組みを持つ「ほいろ」が登場したことで初めて可能になった。
江戸時代までの「ほいろ」は、竹の骨組みに和紙を貼り付けたものであり、耐久性にかけていた。

そして永谷宗円の本当の功績は、宇治田原の茶(宇治茶)を、江戸で直販するルートを開拓したことだと記されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E8%B0%B7%E5%AE%97%E5%86%86

永谷宗円なくして宇治田原の発展はなかったということですね。

永谷宗円 生家-5 
永谷宗円生家

④日本のお茶の歴史

お茶は奈良時代、平安時代に遣唐使によって唐より持ち帰られたと考えられており
『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」とあります。
このころの茶は餅茶であったと考えられています。

餅茶については⑤で説明します。

「吾妻鏡」によれば、1214年、栄西は、お茶に「喫茶養生記」をそえて源実朝に献上したとに記されています。
「喫茶養生記」には、宋代に作られていた蒸し製の散茶(茶葉をひいて粉にしたもの)製法についての記述があります。
これにお湯を注ぎ、茶筅で泡立てていたようです。抹茶のルーツといえるかもしれませんね。

明恵上人(1173-1232)は、京都栂尾の高山寺に茶を植え 最古の茶園を作ったとされます。
足利義満(1358-1408)、豊臣秀吉(1537-1598)らが宇治茶を保護し、安土桃山時代には、宇治で覆下栽培が始まり、抹茶の原料である碾茶に加工されました。

15世紀後半に村田珠光(1423~1502)は「侘茶(わびちゃ)」を考案、
武野紹鴎(たけのじょうおう、1502~1555)、千利休(1522~1591)らが侘茶を「茶の湯」へと発展させました。

 茶宗明神社4

茶宗明神社

⑤餅茶 塾茶 生茶 緑茶

④に嵯峨天皇に献上されたお茶は餅茶であると書きました。
餅茶
[とは、丸餅を模した緊圧茶(茶葉を圧縮して固めたもの)で、直径は約20cmもあったようです。
これを削って用いていたようですね。

110601 204646

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:110601_204646.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cb/110601_204646.jpgよりお借りしました。
静葉 [CC BY-SA 3.0 (
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)] 

上は緊圧茶を撮影したもので、プーアル茶の餅茶、碑茶、沱茶、小沱茶ということです。

プーアル茶には、加熱によって酸化発酵を緩めた緑茶を麹禁で発酵させた「熟茶」と、経年により熟成させた「生茶」があるそうです。
写真は塾茶だと思います。

生茶はいったん緑茶を加熱(たぶん蒸しているのではないかと思います。写真を見ると緑色をしているので。)するようですが、完全に酵素を殺すほどには加熱しないようです。
そのため、その後天日乾燥をすることで、酵素発酵させてつくるようです。(機械乾燥させると緑茶になる)

この生茶を多湿な状態に置き、菌によって発酵をさせて作るものが塾茶なのだと思います。

②で「たぶん茶葉が黒っぽくならないのは、釜でいらずに蒸しているためだと思います。」と書きました。
焙じ茶は茶色い色をしているように、釜でいると茶色い色になるのは確かだと思います。
しかし、どうやら、蒸せば緑色のお茶になるというわけでもなさそうですね。
蒸し時間なども関係するのかもしれません。

また、蒸したあと天日干しすると、酵素が残って発酵がすすみ、黒っぽい色になるようです。
日本の煎茶は蒸したあと、ほいろの上で手でもみながら乾燥させることで、酵素が残らなくなるということでしょうか。
ちょっと専門知識が不足しているのでよくわかりません(汗)

茶宗明神社3 
茶宗明神社

⑥喜撰法師が飲んだお茶は黒っぽい茶だった?

平安時代の歌人に喜撰法師がいますが、喜撰法師は「わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢやまと人の言うなり」という歌を詠んでおり、また宇治に喜撰洞があって、喜撰法師が住んだ庵とはこの喜撰洞であるとも言われています。
そして、喜撰とはお茶の隠語でもありました。上喜撰というお茶の銘柄もありましたね。

喜撰法師は平安時代ごろの人物だと考えられています。
喜撰法師の時代はお茶は高級品で、飲めたのは上流貴族くらいだったでしょう。
また喜撰法師がお茶を飲んだとすれば、やはり平安時代の人物・嵯峨天皇が飲んだのと同じような餅茶で、黒っぽいお茶だったのではないでしょうか。

そして、喜撰洞は写真をみると横穴の洞窟になっているようですが、即身仏となるべく入定した場所は喜撰洞のような洞窟であることがあったようです。

仏隆寺 入定石窟 

上は仏隆寺の入定石窟ですが、やはり横穴になっています。

喜撰法師は入定したのではないかと私は考えています。
これについては話すと長くなるので、次の記事をお読みください。
私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・  『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』 

入定するためには木食といって木の皮や木の実のみをたべる木食という修行を行い、漆のお茶を飲んで入定したといわれます。
漆を飲むことで、胃の中のものを吐き出し、さらにうるしには防腐効果があるので、死後腐りにくい体になる効果が期待されたようです。

https://tutayayome.exblog.jp/16784666/
↑ この方のブログに、漆のお茶の写真が掲載されています。
記事をよむと、おいしいと書いてあり、吐いたとは書いていませんw。

もしかしたら記事にあるような煮だしたお茶ではなく、天然樹脂塗料の漆をそのまま飲んだのかもしれません。
漆塗りの色といえば、黒か朱ですが、黒は漆に酸化鉄粉や煤、朱はベンガラや辰砂を顔料として漆にまぜたものです。
漆本来の色は乳白色だそうですが、酸化鉄粉などをまぜた黒っぽい漆を入定する前に飲んだのだったりして?

漆塗りの歴史は古く、縄文時代すでにそういった記述があったようです。
喜撰法師が生きていた平安時代には、漆塗りの銘品が数多く作られています。

また、喜撰がお茶の隠語とされたり、お茶の銘柄になっているのは、彼が漆のお茶を飲んで入定したことにちなむのではないか、などと考えたりもします。

死後腐らない即身仏になることを、昔の人は不老不死と考えていたように思います。
(即身仏に湯をかけたら生き返ったという話があったと思います。)

つまり、茶の湯は不老不死になるまじないとして行われていたのではないかと思ったりするわけです。

茶宗明神社-2 

茶宗明神社


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[2019/12/03 18:28] 京都府 | TB(0) | CM(0)

勝林寺 紅葉 『大原問答を聞いていた聴衆って誰?』 

京都府左京区 勝林寺
2019年11月16日 撮影

勝林院 
①天台声明

勝林院は835年、円仁が創建し、唐で学んだ声明を伝えたとされます。

その後すたれますが、1013年、寂源によって復興され、声明研鑽の地となりました。
大原の声明は「天台声明」「魚山声明」と呼ばれました。

声明とは仏典に節をつけた仏教音楽のことです。

【天台声明】



↑ なに言ってるのかわからないけど、美しいですね。
本堂の中にあるボタンを押すと声明が流れるようなシステムになっていて、声明聞きながら参拝することができますよ。

この天台声明、浄土宗や浄土真宗などの声明の原型なのだそうです。

【浄土声明】



②大原問答


1186年、顕真は法然を勝林寺に招きました。そして僧らは法然に12の難問を投げかけました。(大原問答)

法然が「念仏すれば誰でも極楽浄土にいける」と説いたとき、本尊の阿弥陀如来が光を放ち、法然の正しさを証明しました。
かねてより、この阿弥陀如来は光を放って正しさを証明するため「証拠の阿弥陀」と呼ばれていたのです。

聴衆は「念仏すれば誰でも極楽浄土にいける」ことを知って大喜びし、三日三晩、念仏を唱え続けたということです。

勝林院 本堂 
11月夕方に本堂の扉開けると西日でご本尊が光放っているように見えます。

③三日三晩、念仏を唱え続けた聴衆って誰?

三日三晩、念仏を唱え続けた聴衆って誰?

「そりゃー、勝林院の僧侶だろ?」
「いや 『誰でも極楽浄土にいける』ことで喜んだってんだから、村人じゃないのか?坊さんは修行してるから極楽浄土にいけるだろう?」

私は、大原問答を聞いていたのは壇ノ浦の戦いで海に沈んだ平家の亡霊ではないかと思います。

1185年、源氏vs平家の壇ノ浦の戦いがありました。この戦いで平家は敗れ、次々に海に身をなげて亡くなったのです。
建礼門院は安徳天皇を抱いて海に身を投じましたが、とらえられてしまいました。
建礼門院は出家し、大原の寂光院に隠棲して平家一門の菩提を弔いつづけました。
寂光院は勝林院のすぐ近くです。

で、大原問答は壇ノ浦の戦いの翌年の1186年です。

勝林院 鐘楼

④耳なし法一の説話が物語る平家への怨霊信仰

耳なし芳一の話を思い出してください。
大勢の平家の亡霊が成仏できずに、芳一が弾き語る「平家物語」を聞いていたのでしたね。

耳なし芳一は小泉八雲の「怪談」にある話ですが、八雲は1782年の一夕散人(いっせきさんじん)著『臥遊奇談』第二巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」を参考にしたと考えられています。

1782年は1185年の壇ノ浦の戦いから600年ほどのちですが、それ以前から平家の亡霊は人々におそれられていたであろうと想像します。

平安時代には、菅原道真や平将門などの怨霊が恐れられていました。
怨霊とは政治的に不幸な死を迎えたもののことで、天災や疫病の流行は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていたのです。
壇ノ浦の戦いで多くの平家の人間が入水自殺し、大量に怨霊が生まれてしまったわけです。
平家の大量死はそれは恐れられたことでしょう。

勝林院2 
⑤平将門を慰霊した時宗の僧侶たち

また、「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土にいける」という考え方は時宗にもありましたが、時宗の僧侶たちは平将門の慰霊に情熱を注いでいるように見えます。
これについては長くなるので、次の記事をお読みください。
土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち 

法然が開いた浄土宗も時宗同様、怨霊を慰霊するという目的をもっていたのかも?

【おまけ・・・勝林院付近のスナップ】

勝林院付近2 
勝林院付近 
勝林院  
実光院 


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[2019/11/22 22:22] 京都府 | TB(0) | CM(0)

古知谷阿弥陀寺 紅葉 『即身仏と油』 

京都市左京区 小知谷阿弥陀寺
2019年11月16日 撮影

古知谷阿弥陀寺 門2

①体質を樹脂質化する?

三千院の北に小知谷阿弥陀寺があります。
紅葉シーズン、三千院あたりはたいへんな人出ですが、古知谷阿弥陀寺は観光客もまばらで静寂につつまれています。
穴場ですよっ。

そんな静かな古知谷阿弥陀寺には、開基・弾誓の即身仏が安置されています。

ウィキペディアによると「弾誓は1613年に62歳で示寂した」とあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%B7%A6%E4%BA%AC%E5%8C%BA)
ということは、1613年に入定したということなんですかね?

堂内にあった説明板には次のように記されていました。
「開基弾誓上人は穀絶ち塩絶ちのすえ、松の実 松の皮を食べ 体質を樹脂質化した後 念仏三昧をもって生きながら石窟の二重になった石棺の中に入り・・・。」

樹脂とはアカマツ・カラマツなどの樹木から分泌される粘り気のある液体、またはそれが空気に触れて酸化して固まったもののことで、
例としては松脂や琥珀などがあげられます。

「体質を樹脂質化する」というのがどういう状態のことを言っているのか、よくわかりませんが
松の実や松の皮を食べていたということなので、当然松脂も体内に摂取したことでしょう。
それを「体質を樹脂質化する」と言っているのかもしれませんね。

是非お姿を拝んでみたい!しかし石室に安置されていて、お姿を拝むことはできません。

古知谷阿弥陀寺 門

即身仏になるために防腐剤が用いられていた?

即身仏となるためには木食といって、五穀を断ち、木の皮や木の実のみを食べる修業を行いました。
こうして体から脂肪を落とし、死後腐りにくい体をつくるというのです。

弾誓上人が松の実や皮を食べたのは木食修行だったんですね。

即身仏のメッカといえば山形の湯殿山ですが、湯殿山は水銀土壌だそうで、ここで育つ木の皮や実は水銀濃度が高いと言われます。
水銀には防腐作用があり、そのため即身仏が数多く残ったのではないかと言われます。
もちろん、寒冷な気候も影響したでしょうね。

また入定する前に漆のお茶を飲むということもされていたようです。
こうすることによって、胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐作用で腐りにくくなったといわれます。

古知谷阿弥陀寺 枯山水

③樹脂は防腐剤だった?

調べてみると古代エジプトのミイラで防腐剤が使用されていたということがわかりました。

英ヨーク大学の考古学者スティーブン・バックレー博士によると
現在、イタリア・トリノのエジプト博物館に保管されている古代エジプトのミイラは次のようなレシピから作られる防腐剤を使用されているということです。。

●植物性油:おそらくゴマ
●植物か根からの「バルサム(樹脂の一種)のような」抽出液:ガマ属の植物由来とみられる
●植物性ののり:アカシアから抽出されたとみられる糖
●針葉樹の樹脂:おそらく松ヤニ

樹脂を油と混ぜると殺菌特性が備わり、遺体を腐敗から守ってくれる。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45204722

京都大原は平安京があったあたりに比べるとかなり寒冷な気候だと思います。
紅葉も早いですし、雪も結構降るみたいですね。
しかし、山形とはくらべものにならないでしょう。
やはり太原は温暖な気候で、即身仏となるには不向きな気候だと思います。

それなのに、即身仏が残っているとされるのは、樹脂と油をまぜた防腐剤が用いられていたのかもしれませんね。


古知谷阿弥陀寺 茶室

④長木を発明した神官の正体とは?

ここ大原には惟喬親王が隠棲したとも伝わります。(隠棲地は別の場所だとする説もありますが。)
そして惟隆親王は、嵐山の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があります。

また宇治に喜撰法師が籠ったという喜撰洞がありますが、喜撰法師とは紀名虎または紀有常のことだとする説があります。
(私は喜撰法師とは紀名虎の娘で、紀有常の妹の紀静子を母親に持つ惟喬親王の事である可能性もあるかなと思っていますが)
喜撰洞とは喜撰法師が入定した洞窟ではないかと私は考えています。
喜撰というのはお茶の隠語としても用いられていますが、それは喜撰法師が漆のお茶を飲んで入定したことから隠語として用いられているのではないかと思ったりもします。

と、このように考えてみたとき、離宮八幡宮に伝わる次のような伝説を思い出してしまいます。

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになった。

長木の図

離宮八幡宮 説明板より


離宮八幡宮の神官が長木を発明したのは859~877年ということですが、惟喬親王の生没年は844~897年です。
また、惟喬親王は木地師の祖とされ、巻物が転がるのを見て木地師が用いる轆轤(ろくろ)を発明したという伝説があります。

惟喬親王が木地師の祖とされるのは、彼が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説からくるのかもしれません。
木地師が作ったお椀には漆を塗って仕上げますので。

そしてこの木地師が用いる轆轤は、棒に綱を巻き付けて用いる点が油を搾る長木に構造がよく似ています。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館にて 女性が轆轤の棒を回転させ、男性が棒の先端に取り付けた刃物で器を削っています。

また離宮八幡宮はもともと石清水八幡宮があった場所であり、石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲です。
日本では先祖の霊は子孫が祭祀擦るべきという考え方がありました。
つまり、石清水八幡宮や離宮八幡宮は紀氏の血の濃い惟喬親王の霊を慰霊する神社ではないかと思うのです。

そういったことから、私は伝説に登場する長木という搾油器を発明した神官とは惟喬親王のことではないかと考えています。


これが正しいと仮定して、なぜ惟喬親王は搾油器を発明したなどという伝説があるのか考えてみてください。

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説も残りますが、これは入定する際、漆のお茶を飲むことと関係がありそうに思えます。

すると、搾油器を発明したという伝説は、その油と松脂などの樹脂をまぜて防腐剤として用いたことから生じた伝説なのかも、と思えます。

https://karaage.info/2016/03/23/195251/

↑ こちらのブログには廃油が防腐剤がわりになる、との旨が記されています。

また油は樹脂化するとの記事もネット上にたくさん見つかります。

古知谷阿弥陀寺 茶室2 



古知谷阿弥陀寺 渡り廊下 
古知谷阿弥陀寺  

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[2019/11/18 22:06] 京都府 | TB(0) | CM(0)

清涼寺 紅葉 源融『光源氏のモデルは誰?』 


京都市右京区 清凉寺
2012年11月25日
2017年11月18日 撮影


清凉寺

①源融の別荘地

清凉寺がある場所には、かつて嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822 - 895)の別荘・栖霞観(せいかかん)がありました。
源融没後896年に、源融の子息が阿弥陀三尊像を安置して棲霞寺としました。
945年、重明親王(醍醐天皇第4皇子)妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置しました。
51代平城天皇
50代桓武天皇52代嵯峨天皇54代仁明天皇55代文徳天皇56代清和天皇57代陽成天皇
源融58代光孝天皇59代宇多天皇60代醍醐天皇61代朱雀天皇
53代淳和天皇62代村上天皇63代冷泉天皇
重明親王
源高明

 
985年、東大寺の僧・奝然(“ちょうねん”938-1016)は宋へ渡航中の、台州の開元寺で現地の仏師に釈迦如来像を作らせました。
古代インドの優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせた霊像を模刻したものといわれ、
インド - 中国 - 日本と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれていますよ。

987年、奝然は京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺を建立する計画を建てました。
しかし延暦寺の反対によって実現せず、1016年に奝然は没しました。
のち、奝然の弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に五台山清凉寺を創建しました。

清涼寺 門


②源融は光源氏のモデル?

源融は光源氏のモデルではないかともいわれています。

源融(822 - 895)は嵯峨天皇の皇子として生まれましたが、嵯峨天皇は多くの子女があり財政を圧迫したため、仁明天皇をのぞいてほとんどの皇子を臣籍降下させました。

源融は順調に昇進して左大臣にまで上り詰めましたが、藤原基経が摂政になったため、融は職を辞しました。

884年、陽成天皇が譲位する際、融は「自分も皇胤なので天皇候補にはいる」と主張しましたが、藤原基経は「臣籍降下した者が皇位についた例はない」と退けたというエピソードが残ります。

光孝天皇即位後、融は政務に復帰しています。
光孝天皇が崩御した後、藤原基経は臣籍降下していた源定省を皇籍に復帰させて即位させました。(宇多天皇)

891年、関白太政大臣・藤原基経が没すると、融は再び太政官のトップに立ち、895年に薨去しました。

なぜ源融は光源氏のモデルだと考えられているのでしょうか。
その理由は主に次の2点のようです。

a.天皇の子で兄妹が帝となっているのに、自らは臣籍降下した。
b...源氏物語の舞台は、源融ゆかりの地
源氏物語の中で、紫の上が源氏四十の賀を記念して薬師仏供養を行った場所が、「嵯峨野の御堂」ですが、嵯峨野の御堂とは清凉寺のことだといわれています。
また、源氏物語に登場する光源氏の住まい「六条院」や、夕顔の段に登場する「某の院」のモデルは六条河原院(現在の渉成園)だと考えられているとのことです。

清凉寺 聖徳太子殿 

③光源氏のモデルは源高明?

光源氏のモデルは源高明(914~983)だとする説もあります。

源高明は醍醐天皇の第10皇子で、母親は源周子です。
920年、7歳のときに臣籍降下しました。

源高明は藤原師輔の三女を妻としていましたが亡くなってしまい、次に藤原師輔の五女を妻としました。
こういったことから、藤原師輔との関係が良好で、師輔の姉・中宮安子(村上天皇の中宮)にも重用されました。
高明は自分の娘を安子が生んだ為平親王の妃とし、ますます関係を深めました。
968年安子がうんだ憲平親王が即位して冷泉天皇となり、高明は左大臣となりました。

冷泉天皇の皇太子の有力候補は同母弟・為平親王でしたが、為平の弟・守平親王(のちの円融天皇)が立てられました。
これは源高明が権力を握ることを恐れた藤原氏の策謀であったとされます。
師輔は960年に、安子は964年に亡くなっており、高明は二人の後押しを得ることができない状態におかれていたのです。

969年、源満中と藤原善時が橘繁延と源連の
謀反を密告しました。
右大臣藤原師尹( もろただ)は関係者を逮捕しましたが、この中に高明の従者・藤原千晴(藤原秀郷の子)がいました。
そのため、高明も謀反に連座したとして大宰府へ流罪となりました。(安和の変)

972年、高明は罪を許されて帰京しますが、政界に復帰することは無く葛野に隠棲し、
982年、69歳で薨去しました。

高明が光源氏のモデルとされている理由は次のようなものです。

a.天皇の子で兄妹が帝となっているのに、自らは臣籍降下した。

b.源氏物語に朱雀帝・冷泉帝が登場するが、朱雀天皇は源高明の異母弟、冷泉天皇は源高明の異母兄。

清涼寺 門2 

③せめて物語の中で幸福な人生を送れるように

私は光源氏は、源融、源高明ら、政治的に不幸であった複数の源氏たちをモデルに創作された人物ではないかと思います。

光源氏は一度は須磨に流罪となっていますが、のち自分の子の冷泉帝が即位し、冷泉帝より准太上天皇の位を送られています。
(冷泉帝は桐壺帝の子で、光源氏とは異母兄弟ということになっていますが、実は光源氏と藤壺の間にできた不義の子なんですね~。それで父親を臣下とすることに悩んだ冷泉帝が准太上天皇の位を送ったのです。)

それに対して源融は天皇になる資格があると主張したにもかかわらず認められず、源孝明は大宰府に流罪となり、幸福な人生を送ったとはいいがたいです。

そのため、せめて物語の中で幸福な人生を送れるようにと記された物語なのではないでしょうか。

清涼寺 本堂


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[2019/11/15 22:26] 京都府 | TB(0) | CM(0)

三千院 紅葉 『惟喬親王はなぜ鍛冶屋の祖として信仰されているの?』 

 

京都市左京区 三千院
2014年11月8日 撮影

三千院-往生極楽院2

①大原は惟喬親王が隠棲した小野の里?

8世紀、比叡山に円融房が建立されました。
その後、円融房は移転を繰り返したのち、1871年(明治4年)に大原後に移転、三千院と称しました。

三千院の境内には阿弥陀三尊像を安置する往生極楽院(旧称・極楽院)があります。
脇侍の観音菩薩・勢到菩薩が大和座りをしていることで有名な美しい像です。

http://www.sanzenin.or.jp/guide/index.html

極楽は ここにこそあらめ みほとけの やまとずわりの もろひざの上/土岐善麿

うまいこと詠みますね!

三千院-往生極楽院

この往生極楽院は1871年に三千院が移転してくるよりはるか以前、平安末期よりここにあったとされます。
三千院と極楽往生院はもともとは別の寺院だったのですね。

三千院が移転してくる以前の大原は隠棲の地として有名で、このブログにもよく登場する惟喬親王が病を患って出家し、隠棲した小野の里は大原であるともいわれています。
ただし小野の里は大原のほか、近江との説もあります。

三千院の近くに惟喬親王の墓があるそうですが、参拝したことがありません。
木地師の里などにも惟喬親王の墓はあり、こちらの方は参拝したことがあるのですが。

惟喬親王-墓2 
金龍寺高松御所の隣にある惟喬親王の墓

惟喬親王-墓

筒井峠にある惟喬親王の墓

②惟喬親王は木地師・漆・鍛冶屋搾油器(?)の祖

さて、この惟喬親王ですが、いろいろなものの祖として信仰されています。

有名なのは木地師の祖としての信仰ですね。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て、ろくろを発見したというのです。
 

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた巻物

また、京都の法輪寺には惟喬親王が籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が伝わり
惟喬親王は漆の祖としても信仰されています。

粟辻神社では鍛冶屋の祖として惟喬親王と在原業平を祀っています。

京都の大山崎にある離宮八幡宮はある神官が搾油器を発明したと伝わり、油の祖としてあがめられていますが
搾油器を発明した神官とは惟喬親王のことではないかと私は考えています。

その理由は次のとおり。

a.搾油器の構造はろくろに似ている。

b.離宮八幡宮は石清水八幡宮と関係が深い神社だが、石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲だった。
日本では先祖の霊は子孫が祀るべきと考えられており、惟喬親王の母親は紀静子だった。

長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

 ③惟喬親王は虚空蔵菩薩のイメージと重ねられた?

なぜ惟喬親王はいろいろなものの祖であると信仰されているんでしょうか?

おそらく惟喬親王は虚空蔵菩薩とイメージが重ねられているのだと思います。

虚空蔵菩薩は知恵の神として信仰されていて、空海が虚空蔵求聞持法を修して記憶力抜群になったというのは有名な話。
だから、漆とかろくろ(搾油器も?)を発明したなどという伝説が作られたのではないでしょうか。

三千院4 
④惟喬親王と鍛冶の関係

惟喬親王が鍛冶師の祖というのは、粟辻神社を参拝して初めて聞きました。
ですが大阪府枚方市に残る惟喬親王の伝説からも、惟喬親王と鍛冶の関係を思わせます。

枚方市の茄子作という地名は、ここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子といいますね。
徳川家ゆかりの駿河国での高いものの順(富士山、愛鷹山、初物のなすの値段)など様々な説がありますが
私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えています。

栃木県那須町の近くには足尾銅山があります。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山があります。
銅は茄子色をしています。
そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないでしょうか。
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うわけです。

鷹は鷹の爪のことでしょう。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないでしょうか。

藤は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思います。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思います。

大阪府枚方市には茄子作のほかに藤田川(とうだがわ)・高田(こうだ)・という地名があり、一富士・二鷹・三茄子が揃っているんです。

鈴は金属のスズを表しているのかもしれませんし、愛鷹は鷹の爪=水銀を表しているようにも思えます。

三千院3 

④水銀は不老不死寿の妙薬だった。

高野山には水銀の鉱脈があるそうで、それで高野山(高は「たか」とよむ。)という地名がつけられたとする説もあります。

水銀はかつて不老不死の妙薬と考えられていました。
実際には水銀を体内に大量に摂取すると水俣病になったりして不老不死どころか体に悪いのですが~。

空海が高野山を欲したのは水銀の鉱脈があったからだとする説もあります。
空海は高野山の奥の院に入定しました。
入定とは即身仏となるべく、石室などに籠ることをいいます。
入定する際には五穀をたち、木の皮や木の実のみを食べる木食という修行を行います。
脂肪を減らして死後腐りにくい体にすることを目的としていますが、水銀濃度の高い土壌で育った木や木の実には多くの水銀が含まれるということです。
そして水銀の防腐作用で、さらに腐りにくい体になるといわれます。

即身仏のメッカといえば湯殿山ですが、湯殿山の土壌の水銀濃度は高いということです。

古の人は腐らない体を不老不死と考えたのではないでしょうか。
多くのみほとけが金色に彩色されているのは、みほとけは腐らない金属の体を持っているということではないかと思います。

三千院-朱雀門 
⑤漆のお茶

私は惟喬親王も即身仏になるべく入定したのではないかと考えています。
さきほど、惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があることをお話ししましたが
入定する際には漆のお茶をのむというのです。
こうすることによって胃の中に残ったものをはき、さらに漆の防腐作用で死後腐りにくい体になるのだとか。

惟喬親王が鍛冶屋の祖としても信仰されているのは、彼が腐らない金属の体になったと考えられたんだったりして?
 
三千院2

三千院-弁財天 

三千院の弁財天像の足元に小さな祠が。中をのぞいてみると・・・

三千院-玄武? 

亀と蛇の像がありました。玄武?

そういえば惟喬親王は玄武神社の御祭神でもありました。

玄武神社 やすらい祭 『胴体がなく、首の長い神様』 

この亀と蛇の像は惟喬親王をイメージして作られたものなのかも?

三千院 
 


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[2019/11/08 13:35] 京都府 | TB(0) | CM(0)

離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』 


京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮
2017年11月23日 撮影


離宮八幡宮 外観 
①天王山は女山?


平安時代、清和天皇は夢の中で、「九州の宇佐八幡宮より八幡神を京へご遷座せよ」というお告げを聞きました。
清和天皇は夢告げに従い、僧・行教に、八幡神の遷座を命じました。
早速行教は宇佐に向かい八幡神を奉じて帰京する途中、山崎の津で夜の山(神降山)に霊光が光るのを見ました。
その地を掘ると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建することにしました
こうして859年に「石清水八幡宮」が創祀されました。

その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の地の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになりました。

http://rikyuhachiman.org/sinryouezu.html
↑ こちらに江戸時代に描かれた離宮八幡宮の絵が掲載されています。
神殿の背後に小高い山が描かれていますが、これが神降山なのでしょう。

現在、離宮八幡宮の北にJR山崎駅があります。
そのさらに北に天王山がありますが、この天王山が神降山なんでしょうか?
天王山の中腹に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ/元山崎天王社)があって、オオヤマツミ・スサノオを祀っていますが
元々の祭神は山崎神・酒解神ということです。

離宮八幡宮の御祭神は、本殿=応神天皇、左殿=酒解大神(さかとけのおおかみ)、別称大山祇神(おおやまつみしん)、右殿=比売三神ということで、自玉手祭来酒解神社と御祭神がかぶっていますので
この天王山が神降山なのかも?(間違っていたら教えてくださーい!)

姫路城は姫山・鷺山に築かれているとのことですが、姫路城の隣には男山があるんですよ。
これと同じように、石清水八幡宮が鎮座しているのは男山ですが、これに対して女山みたいなのがあるのではないかと私は常々思っていました。

もしかして、天王山は女山?



②油祖

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになったと伝わります。
全国にこの製油技術が広まると、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜り、油の専売特許を得ました。
油を商うためには、離宮八幡宮の許状が必要であったそうです。

離宮八幡宮 油祖像 
③油を搾るしくみ
長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

向かって右下の短い棒に縄を巻き付けることによって、上部の長い棒を下にさげて力を加え、荏胡麻の油を搾るんですね。
長木 模型

離宮八幡宮 説明板より

写真向かって右の縦についている長い棒は、縄を巻き付ける道具だと思います。
この棒を前後させることによって縄を巻き付けている短い棒を回転させるのでしょう。
工学に詳しい友人に聞いたところ、逆回転防止の歯車がとりつけられているのではないか、とのこと。
長木 説明 
④搾油器とろくろ


この搾油器「長木」は木地師が用いるろくろに似ています。

ろくろ 

木地師の里 ろくろ

どちらも棒にロープが巻き付けられていますね。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。

山崎 油売り 

離宮八幡宮 説明板より

⑤「長木」を発明したのは惟喬親王?

上の絵は木地師資料館に展示されていた掛け軸で、「器地轆轤之祖神 惟喬親王命尊像」と記されていますね。

惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したという伝説があります。

しかしこの伝説は事実ではありません。
奈良時代に作られたろくろびきの百万塔が残されているからですw

ですが「惟喬親王がろくろを発明した」と人々が信じたことは間違いないでしょう。

そして、先ほどものべたように、離宮八幡宮の神官が発明した搾油器の構造はろくろに似ています。

ずばり、搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないでしょうか。
惟喬親王はろくろを発明したのと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのでは?

というのは、石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王は異母兄弟なんですよ。

どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子です。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかったのです。
しかし、時の権力者は藤原良房。源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めました。
こうして清和天皇が皇太子についたわけで、二人の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるんです。

山崎 油売り2

離宮八幡宮 説明板より

⑥八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神

宇佐八幡宮は奈良時代には「道鏡を天皇とするべし」とか「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下しています。
どうやって信託を下したんでしょうね?
巫女に託宣するのかな?

それはわかりませんが、とにかく二つの皇位継承に関する神託をくだしたわけです。

また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣がありました。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのでしょう。

で、八幡宮の主祭神である応神天皇は、伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と、応神天皇の名前を交換したという話があります。(古事記)

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思えます。
これは政権交代を意味する物語ではないでしょうか。

離宮八幡宮 門

初代神武天皇が東征して畿内入りするよりも早く、ニギハヤヒという神が天下っていたと記紀には記されています。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前に物部王朝があったという説があります。

また応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが
そのルートが神武東征ルートと重なるので、同一人物ではないかとする説もあります。

記紀は神武は天皇家の人間で九州から東征してやってきたとしていますが、九州から東征してやってきたのは物部氏だったのかもしれません。

実際の天皇家は九州からではなく福井県敦賀あたりからやってきたのだったりして?

すると応神天皇が皇位継承の神として信仰されているのは、
彼が物部王朝の王であったが、彼が身を引いたため、イザサワケが皇位について政権交代したため、
だとも考えられますね。

そして惟喬親王も身をひくことで、清和天皇の即位をもたらしたと考えられたのではないかと思います。

清和天皇の生没年は850~881年です。
石清水八幡宮が創建された859年、清和天皇はまだ9歳です。
石清水八幡宮の創建には清和天皇の外祖父・藤原良房が関わっていると考えるのが妥当だと思います。

そして藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭ったということではないでしょうか。

日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとする考え方がありました。
石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲です。
このことも、「藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭った」という説を裏付けると思います。

離宮八幡宮 神馬 

⑥惟喬親王の水無瀬の離宮

また近所には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っています。

そして伊勢物語の第八十二段には、こんな話が記されていますよ。

惟喬親王は在原業平や紀有常らの寵臣とともに、水無瀬離宮から交野ケ原へ向かい、渚の院で歌会を開いたと。

水無瀬は惟喬親王ゆかりの地なんですね。
そして、水無瀬は離宮八幡宮から近いです。
離宮八幡宮という名前は、嵯峨天皇の離宮があったところからつけられたといいますが、本当は惟喬親王の離宮があったところからつけられたんだったりして?

 粟辻神社


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[2019/11/01 23:36] 京都府 | TB(0) | CM(0)