雲龍院 河津桜 『BL掛軸?』 (18禁 笑) 

京都市東山区 雲龍院
2016年3月3日 撮影


雲龍院 河津桜3

①謎々掛軸

泉涌寺の塔頭・雲龍院にはこんな ↓ 掛け軸があります。
この二点の掛け軸はいずれも謎々なのだそうです。

雲龍院 掛軸 

②謎々その1

まずは向かって右側の掛け軸の謎解きから。

「ち」が五つ→ちご(稚児)
「も」が五つ→いつも
「の」が三つ→のみ(飲み)
「た」が八つ→たや

つなげて読むと、「ちごのさけいつものみたや(稚児の酒いつも飲みたや)」となります。

 雲龍院 河津桜4

③謎々その2

次に向かって左側の掛け軸を考えてみましょう~。

a.「林下祖師半身」は「林の下に祖師が半身を現す」と読みますが、林の下の漢字は「祖」です。
「祖」は分解すると「示」と「且」に分かれます。
この「祖」が半身を表すので「示」のみをとります。
すると、「林」+「示」で「禁」となります。

b.「水辺尊者頭脚隠」は「水辺で尊者が頭と脚を隠す」と読みます。
「水辺」はさんずい(氵)、「尊」の頭は「2つの点」、脚は「寸」なので、尊からこれらをとると「酉」です。
「氵」と「酉」を合わせると、「酒」になります。

a=禁、b=酒で「禁酒」となります。

 雲龍院 河津桜2

③稚児灌頂♡


これね~、単に酒を飲むなという意味ではないと思うんですよ。
BLのことばっかり考えてるスケベ―だからそう思うのかもですが~(汗)

稚児というのはもともとは子供という意味ですが、寺院で稚児といえば少年修行僧のことをいいました。

少年修行僧は、僧侶の男色の相手も務めていました。(汗)

天台宗でははじめて僧侶の相手をする稚児に対し、初夜の直前に稚児灌頂(ちごかんじょう)という儀式が行われていました。
この儀式を受けた稚児は観音菩薩の化身であるとされ、僧侶はこの稚児灌頂を受けた稚児とならば交わることが許されていたのです。

「稚児の酒いつも飲みたや」とは「稚児を抱きたい」と言う意味で、「禁酒」は「稚児を抱いてはならない」という意味だったりして?

雲龍院 河津桜 
④僧侶はなぜBLに走ったのか?

僧侶は女性との性交が禁じられていたため、稚児との男色に走ったのではないかといわれますが
私は僧侶の男色は呪術的なものであったのではないかと考えています。

9月9日は重陽の節句ですが、700歳の長寿を得た菊滋童の伝説にちなみ、菊酒を飲んだりする習慣があります。

の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。

菊滋童が穆王の枕を超えた、という点に注意してください。
穆王は菊滋童を寵愛していたとありますが、これは単に「かわいがっていた」という意味ではなく、「BLの関係にあった」ということでしょう。(きゃー♡)

で、陰陽では男は陽、女は陰です。
♂と♂が重なることはまさしく重陽だといえるのではないでしょうか?
つまりBLは長寿の妙薬ということだと思います。
僧侶たちがBLに走ったのはそのためではないでしょうか?

 法輪寺 重陽神事2 

法輪寺 菊滋童の舞


⑤菊はBLの象徴だった?

薔薇族という言葉は1971年に創刊されたそっち系の雑誌の名前が薔薇族とかいうところからくるみたいですね。
古には菊がBLのシンボルだったと思います。菊門とかいう言葉もあるしな~。
と思ったら庭の砂で菊が描かれていました!

雲龍院 灯篭  
そういえば、雲龍院は皇室と関係の深い泉涌寺の塔頭でした。
皇室の紋といえば菊ですね。
あれれ?皇室の象徴ってBLなの?




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[2017/03/19 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

長岡天満宮 梅  『長岡天満宮は長岡京の裏鬼門封じの神社?』 

京都府長岡京市 長岡天満宮
2017年3月中旬撮影

長岡天満宮 梅 
長岡天満宮

①長岡京遷都と藤原種継暗殺事件


784年、桓武天皇は平城京から長岡京に遷都しました。
785年、長岡京で造宮使の藤原種継が暗殺されるという事件がおきました。

取り調べの結果、大伴継人、佐伯高成らが事件に関与したとされ、斬首されました。
万葉集の編者として知られる大伴家持はこの事件の首謀者であるとされました。
大伴家持は藤原種継暗殺事件がおこる約一か月前に亡くなっていたのですが、墓を掘り返して死体を流罪としています。
えげつない~。
また桓武天皇の同母弟の早良親王もこれに関与したとされ、長岡京の乙訓寺で幽閉されました。
早良親王は無実を主張してハンガーストライキを決行し、淡路に流罪となる途中の船上で憤死したと伝わります。

乙訓寺 牡丹 

乙訓寺

②早良親王、怨霊になる!


早良親王の死後、桓武天皇の后・藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子、桓武天皇の母親(早良天皇の母親でもあります。)がら相次いで病死。
また桓武天皇が皇太子とした安殿親王が発病しました。
これらは早良親王の怨霊の祟りであるとされました。

錦水亭 紅梅2 
長岡天満宮前にある八条ヶ池

③桓武天皇、わずか10年で長岡京を棄て、平安京へ遷都。


桓武天皇は早良親王の霊を慰霊するため、何度か儀式を行いました。
しかしその効果なく、大雨で川が氾濫する事件がおきます。

桓武天皇「弟よ、これだけ慰霊してもまだ祟るのか!」
和気清麻呂「天皇、もうこれ以上長岡京にいることはムリです。長岡京は怨霊の住み着く都になってしまったのです。遷都いたしましょう!」
桓武天皇「でも、まだ遷都して10年だし~、お金もないし~」
和気清麻呂「お金なら秦氏が出すと言っておりますので」
桓武天皇「するする!遷都する!今すぐする!」

てなことで、桓武天皇はわずか10年で長岡京を棄て、平安京へ遷都したのでした。ベンベン。

八条池 紅白の梅 
長岡天満宮前にある八条ヶ池

④菅原道真、怨霊になる。


時は流れて901年、右大臣だった菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となり、903年に大宰府でなくなりました。
その後、都では疫病が流行し、醍醐天皇の皇太子が次々に亡くなるなどしました。
そしてこれらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられ、道真を慰霊するため、各地に天満宮が作られました。
長岡天満宮もそうした天満宮のひとつです。

菅原道真は現在では学問の神として受験生から厚く信仰されていますが、もともとは怨霊だったのですね。
怨霊は神として祀り上げるとご利益を与えて下さる神に転じるという信仰があったようで、それで道真は怨霊から学問の神へと転身したのだと思います。

八条池 夕景 
八条が池 トランペットの練習をしている方がいて「ムーンリバー」や葉加瀬太郎さんの「ひまわり」などを演奏してくれたので
とてもすてきな撮影タイムになりました♪ ありがとう~。






⑤長岡天満宮は長岡京の裏鬼門封じの神社だった?

長岡天満宮は長岡京の南西のはずれに位置していたとされます
東北は鬼門、南西は裏鬼門です。

鬼門とは鬼が出入りする方角です。裏鬼門も鬼門同様縁起の悪い方角とされていました。

平安京から見て東北には蝦夷、南西には隼人というまつろわぬ民が住んでいました。
それで鬼門と裏鬼門は忌まれたのではないかと思ったりします。

また、道真が亡くなった大宰府や、早良親王が流刑になった淡路島も平安京の南西にありますね。
(早良親王は淡路へ向かう船上でなくなりましたが、そのまま淡路島に運ばれ葬られたようで、淡路島に早良親王の墓があります。)

長岡天満宮は長岡京の裏鬼門封じの神社として作られたのではないでしょうか。



長岡天満宮は長岡天神の文字の西、緑色の部分です。


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[2017/03/18 00:54] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

城南宮 梅 『城南宮と方違』 


京都市伏見区 城南宮
2017年3月初旬 撮影


城南遇 神苑 しだれ梅 
城南宮といえばしだれ梅が有名なんだけど、どうやって撮ったらいいのか、いつも悩む~。
 
①藤森神社、伏見稲荷大社に土地を奪われて移転する。

伏見稲荷大社 千本鳥居 雪 
伏見稲荷大社

現在伏見稲荷大社のある場所には古くは紀氏の神を祀る藤森神社がありました。
ところが平安時代に伏見稲荷大社がその地に鎮座することになったため、藤森神社は現在地に移転しました。

伏見稲荷大社鎮座にともなう藤森神社の移転はスムーズに行われたのではなく、伏見稲荷大社側がかなり強引な手法を用いて行われたようです。
そのため、今でも伏見稲荷大社近辺の住民は藤森神社の氏子だといいますし

藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び
稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返すそうです。

藤森神社 蹴鞠3 
藤森神社

氏子さん方にはこんな話が伝わっているそうです。

稲荷山はが藤森神の土地だったが、稲荷神が俵1つ分の土地を貸してほしいと言った。
俵一つ分くらいならと許可すると、稲荷神は、持っていた俵を解いて長い縄にし、その縄で囲んだ土地を借りた。
しかし期限が来ても返さないので、祭礼の際に「土地返せ」と言っている。

すごいお祭りだなあ~。 


城南宮 梅2 
城南宮 唐渡天満宮

②天皇家・藤原氏・空海が藤森神社の土地を奪った?


伏見稲荷大社は東寺の鎮守とされています。
東寺は鎮護国家のため、嵯峨天皇によって建設が始まったのち、空海に下賜された寺です。
つまり、藤森神社は天皇家や空海に土地を奪われたということでしょう。
当時の天皇家は藤原氏と密接な関係がありましたので、天皇家・藤原氏・空海が藤森神社の土地を奪ったといったほうが適切でしょうか。

空海は東寺五重塔に用いる木材を稲荷山から伐りだしています。
東寺の五重塔は日本最大の仏塔で高さは54.8mもあります。
その五重塔に用いる心柱に適切な木材が稲荷山以外にはなかったため、稲荷山を手に入れる必要があったのではないかと想像します。

東寺 桜 ライトアップ 
東寺

③藤森神社の移転によって真幡寸神社も移転する。

そういうわけで藤森神社は伏見稲荷大社に土地を奪われて現在地に移転することになったわけですが、そこには真幡寸(まはたき)神社がありました。
真幡寸神社は藤森神社に土地を譲って移転しました。
これが城南宮です。

④城南宮も藤森神社同様、紀氏の神社だった?


藤森神社と城南宮の間に土地の貸借にまつわるトラブルなどの伝説は残されていません。

そして藤森神社と城南宮には同様の伝説が伝えられています。

a.神功皇后が新羅を攻略する折りの旗を御神体として奉納した。
b.平安京遷都の際,王城鎮護のため国常立尊を合祀した。

同様の伝説が残されているということは、城南宮も紀氏の神社だったのかな?

城南宮 梅 
城南宮 神楽殿

⑤城南宮、鳥羽離宮に取り込まれる。


平安末期の院政期には城南宮の周囲に鳥羽離宮が造営されました。
鳥羽離宮は白河上皇・鳥羽上皇らが院政を行った場所です。
城南宮は鳥羽離宮の一部となり、鳥羽離宮は城南離宮とも呼ばれたといいます。

もし、城南宮が紀氏の神社だったとしたら、院政期には天皇家にその土地や神々が奪われていたということになりますね。

⑥方違

白河上皇は9回に及ぶ熊野御幸を行っており、その後、鳥羽上皇が21回、後白河上皇が33回(34回とも)、後鳥羽上皇が28回熊野御幸を行っています。
そのほか、崇徳上皇・後嵯峨上皇も熊野御幸を行っています。
上皇だけでなく、貴族たちも熊野詣を行ったようです。

そして熊野詣をする際には城南離宮で潔斎し、またここに泊まってから熊野へ向かっていたようです。
城南離宮に泊まったのは、方違(かたたがえ)を目的としていたとされます。

城南宮 神輿殿 梅 
城南宮 神輿殿 

⑥方違って何?

古の人々は、目的地に天一神・太白・大将軍・金神・王相の方位神がいる場合、いったん別の方角にいって一泊し
翌日、そこから目的地を向かうという面倒なことをしていました。
これは陰陽道の占いによるものです。

さらに天一神・太白・大将軍・金神・王相は定まった方角にいるのではなく、周期的に方角を変えるとされていました。

えっ?
神様が定まった位置にいるのではないということは、城南宮の位置が熊野に対して吉の方角ではなく、凶の方角になることもあったということなんじゃないの?

⑦方忌呪術の簡略化?

コトバンクは世界大百科事典内の城南宮の言及として、次のように記しています。

「…庶民社会では方違神社参詣の俗信が興り,禁忌の方向に対して舎宅を構えたり,窓や垣を開いたり塞いだり,あるいは旅行・回船の門出などをなすものは,この神社に参れば方違の意味が生ずるとするもので,大阪府堺市の方違神社は有名である。

京都では洛南鳥羽の城南宮(真幡寸(まはたき)神社)が有名で,禁忌の方向に造作したり,転宅したりするとき,境内の土を持ち帰ってまけば,祟りを避けられるという。

かくて方忌呪術の簡略化の結果は方違本来の意味をまったく一変させてしまったのである。…」

https://kotobank.jp/word/%E5%9F%8E%E5%8D%97%E5%AE%AE-1339966

⑧熊野詣の際、城南宮に立ち寄っていた理由

古の人々は熊野詣の方違を目的にしていたというよりは、熊野へ出立するにあたり潔斎の目的でここに立ち寄っていたのではないでしょうか。

なんでかって?

④で、城南宮は紀氏の神だったのではないか、と書きました。
紀氏は紀州を本拠地としていました。

そして熊野もまた紀州にあり、熊野の神も紀氏の神である可能性が大です。

つまり、人々は紀氏の神がすむ熊野へ詣でるにあたり、紀氏の神・城南宮にお詣りをしていたのではないか。

そんな風に私は考えているわけです。

城南宮 絵馬殿 梅 
城南宮 絵馬殿



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[2017/03/10 01:40] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

京都駅ビル 雛祭 イルミネーション 『菱餅の菱形は何を意味しているの?』 

京都市下京区 京都駅ビル
2016年3月初旬 撮影

 
 京都駅ビル 雛祭イルミネーション 雛人形 
何回もやりなおして作ったけど、いまいちだった~。

①菱餅

雛祭には菱餅を飾りますね。
菱餅と皆さんご存知のように、赤・白・緑の三色の菱形をしたお餅のことですね。

赤いお餅はクチナシの実で色を付け桃の花を、白いお餅には菱の実を入れ残雪を、緑の草餅はヨモギをいれ若草を表すと言われます。

京都駅ビル 雛祭イルミネーション 菱餅カラー 

②菱餅の形は何をあらわしているの?

菱形の形はなにをあらわしているのかについては諸説あります。

a.菱の実を食べて1000年の生きた仙人の話にちなむ
b 小笠原氏の家紋・三階菱
c 大地をあらわす
d 心臓の形

③菱ってどんな植物?

トウビシの実はとげが2本あります。
またオニビシヒメビシにはとげが四本あります。

武田菱など、菱紋の名前の由来については、葉の形からくるとも、実の形からくるともいわれています。

④菱は角をあらわす?

漢和辞典をひいてみると「夌は音を表し、角のある意からきている」とあります。
菱の実には鋭い角があり、図形の菱形にも鋭角の角があります。
おそらく角のあるものを菱と言っていたのではないでしょうか。

 京都駅ビル 雛祭イルミネーション 桃

⑤鉱物にも角がある

鉱山で採取する鉱物にも角があります。
自然金黄銅鉱

⑥菱は鉱物をあらわす?

日本地質学会員の藤井光男氏さんは、桐生市菱地域は古代鉄生産の里であったとしておられます。

鉱物は植物や動物と違って、腐ることがありません。
古の人にとって腐ることのない鉱物は不老不死を象徴するものだったのではないでしょうか。
そして植物の菱は角があるところから鉱物に喩えられ、そのため菱は不老長寿のシンボルとされたのではないでしょうか。

⑦菱餅は女性器をあらわす?


菱餅は女性器を表すという説もありますね。
で、甘酒は精液だとかなんとか(笑)

これはもうそのとおりだと思いますね。
いろんな伝統行事や道祖神(神像のほか、男性器・女性器を象った石なども道祖神と呼ばれています。)なんかを見ていると、昔の日本人って性に対してオープンだったんだなあ~、と思いますもん。

古代には歌垣といってフリーセックスの習慣もあり、高橋虫麻呂という人がこんな歌を詠んでいます。

率(あども)ひて 未通女壮士(おとめおとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ刊歌(かがい)に 人妻に 吾(あ)も交はらむ 吾が妻に 人
も言問(ことと)へ
(誘いあって若い男女が集まる刊
歌で、ぼく、人妻を抱いちゃおう~。君もぼくの奥さん抱いていいよん♪)

また、京都の江文神社には大原雑魚寝という習慣がありました。
もちろん現在はそういう習慣は廃れましたが、与謝蕪村(1716-1784)が大原雑魚寝の歌を詠んでいるところから察するに、少なくとも江戸時代まではこの習慣があったと考えられると思います。
 
性に対して閉鎖的になったのは最近のことなのではないでしょうか?

⑧貝も女性器をあらわしている?


また雛祭には蛤のお吸い物を食べる習慣がありますが、貝というのも女性器を比喩したものだと思います。

道祖神は、日本ではサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神とされていますが
「サルタヒコは貝に手を挟まれて溺れて死んだ」と記紀には記されています。
これは、サルタヒコがアメノウズメの性的魅力に溺れて死んだということを比喩的に表現したものだと思います。

道祖神は手をつなぎあう男女の神像で表されることがありますが
これは手をつなぎあっているのではなくて、サルタヒコがアメノウズメに手を押さえつけられているの図なのだと思います。

多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

⑧昔の日本人が性に対してオープンであったことを示す写真 いろいろ


飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言

飛鳥坐神社 おんだ祭の夫婦和合の狂言

飛鳥坐神社 むすひの神石

飛鳥坐神社 むすびの神石

 飛鳥 勧請綱 雌綱 田植

奈良県明日香村 勧請縄 雌綱(女性器をかたどったもの)
 
飛鳥 勧請綱 雄綱

 奈良県明日香村 勧請縄 雄綱 (男性器を象ったもの)

マラ石 
奈良県明日香村 マラ石

信楽駅の狸

信楽焼の狸


川治温泉 おなで石 

川治温泉 おなで石(おなで石は祠の中の石ではなく、祠の手前にある四角い石)





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[2017/03/05 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

貴船神社 雪 ライトアップ 『貴船神社は紀船神社だった?』 


京都市左京区  貴船神社
2015年2月初旬 撮影



貴船神社では以前、1月と2月の雪が積もった日にライトアップしていました。
残念ながら今は行っていないと聞きました。

①船形石

貴船神社から貴船川をさらに上流に向かって歩いていくと貴船神社の奥の院があり、境内には船形石という石があります。
(奥の院のライトアップはしていません。)

この船形石には次のような伝説があります。

反正天皇の時代、黄色い船にのり、黄色い服を着た神が難波の津に降りたち、次のように言いました。
『私は皇母玉依姫(神武天皇の母)である。私の船が止まるところに祠を作るように』 と。
船は蜑女崎(尼崎)、菟道川、鴨川を経て鞍馬川と貴船川の合流点に達し、貴船川を遡り、霊境吹井のある場所に鎮座しました。
これが黄船の宮となったと伝わり、奥の院にある船形石はその船が人目を忌んで石に包まれたものです。

貴船神社 天津磐境 雪

 ②上賀茂神社の第2摂社

京都の貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。

上賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないでしょうか。

貴船神社 雪4

③貴船神社は紀氏の神?


ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

「紀氏が自身の守り神に祈願した」ということは貴船神社の神は紀氏の神だということでしょう。
また紀氏の本拠地・紀州は森林資源に恵まれており、紀氏はその森林資源を生かした造船技術に長けていたといわれます。

貴船神社はもともとは紀氏の氏神を祀る神社なのではないでしょうか?

貴船神社 雪2 
④玉依姫は紀氏の神?


ホツマツタエという書物では、紀氏の祖神はソサノオであるとしています。
紀伊半島の南部を昔ソサといい、ソサで生まれたのでソサノオと名付けられたというのです。

そして玉依姫は海神の娘とされていますが、海神とスサノオは同一神とみなされることが多いです。
というのはスサノオは父のイザナギに「大海原をおさめよ」と命じられているからです。
大海原をおさめる神は海神である、ということですね。

とすれば、海神=スサノオ(ソサノオ)の娘・玉依姫は紀氏の神だということになります。

 ⑤ホツマツタエ

ホツマツタエは後世の偽書、いわゆる古史古伝のひとつだとされ、信憑性にかけるとされています。
しかし古事記や日本書紀などの正史は為政者の都合のいいように書き換えられているという指摘もあります。

貴船神社 雪 


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[2017/02/27 11:18] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

永観堂(禅林寺) 雪 『惟喬親王のおもかげを映す阿弥陀如来』 


京都市左京区 永観堂
2010年12月 撮影


永観堂 雪 

永観堂

雪の永観堂には訪れる人もまばらで、静かな冬の京都の旅となりました。

①清和天皇の勅命で創建された寺

永観堂は正式な寺名は禅林寺(ぜんりんじ)といいます。

853年、空海の高弟・真紹が故・藤原関雄の邸宅跡を買い取って寺院としたことに始まります。
当時は私寺を建立することは禁じられていたので、863年に清和天皇より定額寺(奈良時代、平安時代に官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜りました。
このとき清和天皇はわずか13歳でした。

京都・八幡にある石清水八幡宮も清和天皇の勅命によって創建された神社です。
石清水八幡宮の創建は860年で、清和天皇は10歳でした。

石清水八幡宮 本殿 
石清水八幡宮

②清和天皇との惟喬親王の世継ぎ争い

清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となりました。
そして858年、わずか8歳で即位しました。
もちろん8歳の子供に政治がとれるはずはなく、実際の政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていました。
永観堂や石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えられるでしょう。

文徳天皇には清和天皇のほかに第一皇子の惟喬(これたか)親王がありました。
清和天皇の母親は藤原良房の娘の藤原明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘の紀静子でした。
文徳天皇は惟喬親王のほうを皇太子につけたいと考えていました。
そしてこれを源信に相談しましたが、源信は藤原良房をはばかって文徳天皇をいさめたそうです。
永観堂 雪2 
 
永観堂

③御霊として祀られた惟喬親王


政治的に不幸だった惟喬親王は御霊として大皇器地祖神社 (おおきみきじそじんじゃ)、玄武神社や惟喬神社などに祀られています。

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社

御霊とは、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいいます。
つまり、惟喬親王は怨霊であったということです。
 
④「永観遅し」と声をかけた阿弥陀如来


その後、1072年に永観という僧侶が禅林寺に入ると、禅林寺は阿弥陀信仰の寺となっていきました。
禅林寺が永観堂と呼ばれるのは、この永観に由来しています。

禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は後ろを振り返った珍しいおすがたをしておられます。
http://www.eikando.or.jp/jiho_phot/mikaeriamida.jpg

そして次のような伝説があります。

永観が念仏を唱えながらこの阿弥陀如来の周囲を歩いていたところ、阿弥陀様が永観と一緒に歩きだしました。
永観が驚いて歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って「永観遅し」と言いました。
それ以来、阿弥陀如来は振り返った姿となりました。

永観堂 多宝塔 雪 

永観堂


⑤石清水八幡宮の神主を紀氏が世襲したのはなぜ?

①で、清和天皇が創建した神社として石清水八幡宮をご紹介しました。
この石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していました。

さきほどお話した惟喬親王の外祖父は紀名虎であり、紀名虎は藤原良房とは政治上のライバルでした。
平家物語にはいずれの孫を立太子させるかで紀名虎と藤原良房がもめ、バトルを繰り返したと記されています。
清和天皇が誕生したときすでに紀名虎は亡くなっているので実話ではないとされていますが、
紀氏と藤原氏の間に確執があったことは事実でしょう。

そうであるのに藤原良房はなぜ石清水八幡宮の神主を紀氏としたのでしょうか。

永観堂 雪3
  
永観堂

⑥先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべき

日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていました。

古事記にも「大物主神が祟り、その子のオオタタネコが大物主神を祀るお大神神社の神主になったところ、大物主神の祟りがおさまった」と記されています。

どうやら先祖の霊は子孫が祭祀したり供養したりしないと祟ると考えられていたようですね。

石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないでしょうか。

永観堂 雪4  
永観堂

⑦永観は紀氏だった。

永観は文章生・源国経の子で、のち石清水八幡宮別当・元命の養子となっています。
元命は紀氏を称して石清水八幡宮の別当となっているので、その養子となった永観もまた血のつながりはなくとも紀氏の人間だといえるでしょう。

永観は惟喬親王の菩提を弔うために禅林寺に入り、惟喬親王の霊が成仏するように「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたのではないでしょうか。
そして、禅林寺のみかえり阿弥陀如来は惟喬親王をイメージしたものなのではないかなあ、と思ったりします。

永観堂 雪-日暮れ 
永観堂

雪がふりしきる中、静かに日が暮れていきました。



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[2017/02/18 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

京都駅ビル バレンタインデー イルミネーション 『飛鳥坐神社のおんだ祭とバレンタインデー』 

京都市南区 京都駅ビル

 京都駅ビル イルミネーション2

①バレンタインデーの由来はウァレンティヌス司祭が処刑された日

次のような話があります。

古代ローマ帝国のクラウディウス2世がは軍の指揮が下がるという理由で結婚を禁じていました。
ところが、ウァレンティヌスが不法に男女を結婚させていたので、
クラウディウス2世はウァレンティヌスをユノの祝日である2月14日に処刑しました。
これがバレンタインデーのルーツだといわれています。

ただし、当時のローマ帝国が男女の結婚を禁じていたとする史料などはなく、この話は真実ではないと考えられています。

京都駅ビル バレンタイン イルミネーション

②結婚の女神・ユノの祝日と古代の合コン(?)ルペリカリア祭


なぜウァレンティヌスを2月14日に処刑したのかというと、この日が結婚の女神・ユノの祝日であったからだとされています。

これも真偽はわかりませんが、古代ローマでは若い男性と女性は別々に暮らしていたといわれます。
2月14日は結婚の女神・ユノの祝日で、この日、ローマの女たちは自分の名前を書いた紙を壺の中にいれました。

翌2月15日はルペリカリア祭でした。
ルペリカリア祭は結婚の女神ユノや豊穣の神マイアを崇拝する祭だということです。

この日、男たちは壺から紙を1枚ひき、紙に名前が記されていた女性と祭の間一緒にいるという習わしになっていました。
古代ローマの合コンといったところでしょうか。

祭の後、結婚する男女が多かったそうです。

京都駅ビル イルミネーション

③ルペリカリア祭と飛鳥坐神社のおんだ祭

ルペリカリア祭では、男たちが山羊や犬の皮を裂いて作った鞭で女たちを叩くという儀式が行われていました。
そして、鞭で打たれると子供を授かるなどと信仰されていたそうです。

ええーーーっ、それって飛鳥坐神社のおんだ祭とおんなじやん!
飛鳥坐神社では鞭ではなく、竹のささらのほうなもので参拝者のお尻叩きます。

飛鳥坐神社 おんだ祭 
飛鳥坐神社 おんだ祭

男も女も子供もおかまいなしに叩かれますが、もともとは女性のお尻を叩いていたんじゃないかと思います。
というのは、「叩かれると安産になる」などと言われているからです。

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 
飛鳥坐神社では夫婦和合の狂言も行われています♡

ね、ルペリカリア祭と一緒でしょ。

しかも、飛鳥坐神社のおんだ祭は2月第1日曜日に行われていて、ルペリカリア祭と日程も近いです。

参照/飛鳥座神社 おんだ祭 『おんだ祭はサルタヒコを鎮魂する儀式だった?』 
④異教の祭をキリスト教の祭に

ルペリカリア祭はローマの神々に由来する祭ですが、ウァレンティヌス司祭はキリスト教の聖職者とされています。

もともと、ローマ帝国は多神教でしたが、ナザレのイエス(生没年紀元前2年~紀元後33年)の死後、彼の弟子たちがイエスの教えをキリスト教としてローマ帝国などに布教しました。
ところが、キリスト教にとって異教の祭であるルペリカリア祭は民衆に大変人気のある祭であり
これをキリスト教にとりこむために①でお話ししたような伝説をでっち上げて2月14日をバレンタインデーとしたのかもしれませんね。

京都駅ビル イルミネーション2 

⑤シルクロードを通じて飛鳥にルペリカリア祭が伝わった?

唐招提寺や法隆寺の柱はエンタシスといわれる古代ギリシャの建築様式が日本に伝わったと考えられています。
古代ギリシャは古代ローマが栄える以前のヨーロッパで栄えましたが、のちに古代ローマに支配されるようになります。

古代ギリシャの建築様式が日本に伝わっていたのなら、古代ローマの風習が日本に伝わっていたとしてもおかしくはありません。

また、キリスト教が日本に伝来したのは、1549年、フランシスコ・ザビエルによってとされていますが、
佐伯好郎氏は秦氏によって古代の日本にすでにキリスト教が伝えられていたと唱えられました。

ネストリウス派キリスト教は東へも伝わり、唐代の中国では景教と呼ばれました。

またネストリウス派キリスト教が伝わる以前、日本に原始キリスト教が伝わっていたとする説もあります。

景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院は大秦寺と呼ばれていました。
これに「、」をつければ太秦寺となりますが、京都太秦の広隆寺はかつて太秦寺と呼ばれていて、キリスト教寺院だったのではないかと言われていますね。

広隆寺の有名な弥勒菩薩の手の印は、壁画に描かれたキリスト教徒の手の印と同じであるという指摘もあります。

http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu3/05miroku01.html
↑とても面白い記事です。もしも広告が出たらスキップしてください。

そして「大秦寺」の「大秦」とはローマの漢語訳なのです。


もしかして、飛鳥坐神社のおんだ祭はローマのルペリカリア祭の影響を受けている?

京都駅ビル イルミネーション 


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[2017/02/15 09:26] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

法住寺 梅 『日本国第一の大天狗』 

京都市東山区 法住寺
2017年2月中旬撮影


法住寺 梅 
竜宮城の入り口?
いえいえ、法住寺の竜宮門です。

①後白河上皇の御所・法住寺殿

法住寺は988年、藤原為光が創建したお寺です。
1161年、法住寺を中心に後白河上皇の御所が作られ、法住寺殿と呼ばれました。

法住寺殿は広大な敷地を有し、南殿、西殿、北殿の三御所、東小御堂、不動堂、千手堂などのお堂が立ち並んでいたそうです。

現在の法住寺の隣には三十三間堂がありますが、これも法住寺殿の仏堂でした。

三十三間堂 通し矢 

三十三間堂 通し矢

②日本国第一の大天狗

源頼朝が後白河のことを『日本国第一の大天狗』と悪口を言っています。
なぜ頼朝は後白河を『日本国第一の大天狗』と言ったのでしょうか。

②今様を歌いすぎ、鳥羽上皇に「即位の器量ではない」と言われる。


1127年、後白河は鳥羽上皇の第四皇子として生まれました。
1141年、同母兄の崇徳が鳥羽上皇の譲位を受けて即位します。

第四皇子の後白河は皇位継承とは無縁であったためか、たいへんな遊び人であったようですね。
特に今様が好きだったようです。
今様を現代語訳すると「現代流行歌」となります。
とにかく歌ばかり歌っていて、声が出なくなったりはしょっちゅうだったみたいですよ。

現代にもこんな人、いますね。(ハーイ!)

後白河のあまりの「今様」好きに父親の鳥羽上皇は「即位の器量ではない」と言ったとか。(愚管抄)
同母兄の崇徳は後白河を「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」とけちょんけちょんにけなしています。(平治物語)

法住寺 梅2 
③保元の乱

後白河の兄・崇徳天皇は鳥羽上皇に命じられて、1141年に異母弟(母親は藤原得子)の近衛天皇に譲位します。
このとき、譲位の宣命は「近衛は崇徳の皇太子」となるはずだったのが、「皇太弟」となっていました。
これはとても重大なことでした。
近衛が崇徳の皇太子であれば、崇徳は院政を行うことができたのですが、皇太弟では院政を行うことができなかったのです。

なぜこんなことになったのかというと、どうやら崇徳は父親の鳥羽に嫌われていたみたいなんですね。

崇徳は鳥羽の本当の子供ではなく、鳥羽の祖父の白河法皇の子だったようです。
もちろん系図では鳥羽の子とされていますが。

白河法皇は養女にしていた藤原璋子を、孫の鳥羽に入内させたのですが
このとき璋子は白河法皇の子を宿していた。それが崇徳だと言われています。
鳥羽は崇徳のことを、「叔父にして子」という意味で「叔父子」と呼んでいたそうです。
崇徳、かわいそう!平安時代の宮中って乱れてますね~。

1155年、近衛天皇は16歳で崩御してしまいます。
このとき崇徳はもう一度自分が天皇になるか、自分の息子の重仁親王の即位を期待したはずです。
ところが、鳥羽上皇に「即位の器量ではない」と言わしめたできそこないの弟・後白河が即位してしまったのです。

後白河が即位したのは、後白河の息子の二条が藤原得子の養子となっていたからです。
鳥羽上皇は璋子よりも得子のほうを愛していたので、得子の養子の二条を天皇にしたかったんでしょうね。

ですが、このときまだ二条は3歳で幼かったのです。
それで父親の後白河が中継ぎの天皇として即位したわけです。

崇徳はこれに堪忍袋を切らし、後白河に対して挙兵します。(保元の乱)
結果、崇徳は敗れて讃岐へ流罪となりました。

法住寺 梅 

↑ こちらの写真は2016年3月初旬撮影です。(先日はまだ全然咲いていませんでした。)

④崇徳、生きながら天狗になる。

讃岐に流罪となった崇徳は反省して、五部大乗経を写本して、これを後白河に送りました。
ところが後白河は「呪詛がこめられているんじゃないの?」と疑ってこれを讃岐に送り返してしまいます。

崇徳激怒!

崇徳は舌を噛み切り、写本に血で、次のように書き込んだそうです。
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

私は日本国の大魔縁(天狗道に堕ちた者?)となって、天皇を平民にし、平民を天皇にしてやる!
みたいな意味でしょうか。

そののち、平治の乱がおこって平家が権力を掌握し、さらには源頼朝が鎌倉幕府を開いて朝廷の権力は低下していくことになるので
崇徳の言葉どおりになってしまったといえるかも・・・。

そして崇徳は髪を伸ばし、爪も切らず、生きながら天狗になったと保元物語には記されています。

法住寺 身代わり不動尊大祭 天狗 
法住寺 身代わり不動尊大祭 天狗

⑤後白河は崇徳以上の天狗だった。

以上のことをふまえて源頼朝が後白河に対して「日本国第一の大天狗」と言ったことを考えてみるとオモシロイですね。
(「日本国第一の大天狗」とは高階泰経に対して言った言葉ではないかとする説もありますが)

後白河の兄、崇徳は生きながら天狗になった。
しかし後白河は崇徳以上の大天狗である、という意味でしょう。

頼朝が後白河を大天狗と評したのは、後白河が人を欺くはかりごとばかりしていた、という意味だと考えられているようですが
これについてはもっとじっくりと考えてみたいと思います。


後白河法皇法住寺陵 
法住寺の奥には後白河上皇の陵がありますよ。






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[2017/02/13 13:48] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

吉田神社 鬼やらい神事 『正義のヒーロー・方相氏を射るってどういうこと?』 

京都市左京区  吉田神社
鬼やらい神事・・・2月2日 18時より 
                    

① 吉田神社 鬼やらい神事

陽が沈み闇に包まれた吉田神社境内。
あちこちで子供が泣く声が聴こえます。

吉田神社 節分祭 赤鬼

鬼が登場!
吉田神社 節分祭 青鬼 
 
さきほど聞こえていたのは、鬼に脅された子供の鳴き声だったのでしょう~。

吉田神社 節分祭 黄鬼 

コスプレのルーツ?

②方相氏

吉田神社 方相氏 と しん子 
おおーーーっ、ひときわ恐ろし気な鬼?四ツ目だし!

いえ、これは鬼ではなく方相氏といいます。
方相氏のあとにつづく10人の童子はシン子(シンの字は人偏に辰)と呼ばれています。

吉田神社 節分祭 鬼と方相氏

方相氏が手に持った鉾をかざすと、その法力で鬼たちはへろへろになって逃げていきました。
方相氏は鬼を退治する正義のヒーローだったのです。

岡野玲子さんの漫画「陰陽師」には源 博雅が方相氏に扮するシーンがありましたね。
『陰陽師』は平安時代の都を舞台とする物語です。

方相を射る?

平安時代後期の人物、大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。
なんと、鬼を追い払ってくれる正義のヒーロー、方相氏を射るというのです。

ええーーっ?方相氏って正義のヒーローなのに、弓で射て殺しちゃうんですか?

吉田神社 方相氏 と しん子 

④平安時代の追儺式に鬼は登場しなかった。

枕草子や源氏物語などに追儺式の様子が記されています。
それらの文献から、平安時代の追儺式は次のようなものだったと考えられています。

追儺式は戌の刻(午後八時頃)に始まる。
天皇は紫辰殿に出御し、陰陽師が祭文を読みあげる。
次に方相氏が二十人ほどのシン子を従えて登場する。
方相氏は四つ目の黄金の面を着け、真っ赤な衣装(或いは上が黒、下が赤とも)を纏う。
方相氏は大舎人の中から体格のいいものが選ばれた。
方相氏は矛と盾を持ち、矛を地面に打ち鳴らして『鬼やらい、鬼やらい』と唱えて宮中を歩き回る。
その後に殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続いた。
これは桃や葦にも邪気を祓う力があるとされていたためである。


ピンク色の文字の部分をよーく読んでみてほしいのですが
平安時代の追儺式に方相氏とシン子は登場しますが、鬼は登場しませんね。

岡野玲子さんの漫画『陰陽師』でも追儺式に鬼は出てきませんでした。
追儺式に鬼が登場するようになるのは、平安時代よりも後の時代になってからなのでしょう。

⑤大寒の日、牛を牽く童子の像を立てる。

967年施行の延喜式には次のように記されています。

大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。


なぜこのようなことをするのでしょうか。

牛は干支の丑を表すものだと思います。
丑は12月を表します。

そして童子は八卦で艮(丑寅)をあらわす符です。
丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわします。

つまり、『牛を牽く童子』は、『丑(12月)を艮(丑寅/1年の変わり目)』で、目には見えない冬の気を視覚化したものなのではないでしょうか。

⑥『牛を牽く童子の像』は身代わり人形?

そして日本には『身代わり人形』『身代わり地蔵』などの信仰がありました。
人形やお地蔵さまが人間の身代わりになって災難をうけてくれるという信仰ですね。
↓ こちらは市比売神社・ひいなまつりの、人形に息を吹きかけて穢れを移す神事です。

市比売神社 天児人形2 

↓ こちらは下鴨神社の雛流しです。
人形を川に流して、厄を祓うという神事です。

下鴨神社 流し雛

これらの行事は『身代わり人形』の信仰によるものだと言えるでしょう。

『牛を引く童子の像も『身代わり人形』で、その像の中に冬の気を吸い込むことで、冬の気が宮中に入るのを阻止すると考えられたのではないでしょうか。

⑥方相氏+シン子=牛を牽く童子

角のある方相氏は牛ではないでしょうか。
そしてシン子は童子なので、これは『牛を牽く童子』そのものではないかと思います。

大寒の日、諸門に建てられた『牛を牽く童子の像』は冬の気をいっぱいに吸いこんだのち、節分に撤去されます。
ですが、像の中に吸い込みきれない冬の気があると考えられ、方相氏とシン子は宮中を練り歩いてその体内に冬の気を吸い込んでいるのではないでしょうか。

そして方相氏がその体内に冬の気を十分に吸ったところで、
大江匡房の『江家次第』に『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とあるように、矢を射て殺してしまうということなのでは。

吉田神社 節分祭 赤鬼 


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[2017/02/02 00:09] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

石清水八幡宮 雪 『青山祭は疫神スサノオを風葬にするお祭りだった?』 

京都市八幡市 石清水八幡宮

①石清水八幡宮 青山祭

男山の麓にある頓宮殿に見慣れないものが。

石清水八幡宮 青山祭

これは1月18日に行われる青山祭の祭場です。
訪れたのは1月15日でしたが、すでに青山祭の祭場が準備されていたのです。

石清水八幡宮 本殿 
石清水八幡宮 本殿

②道饗祭・疫神祭


明治以前、青山祭は道饗祭(みちあえのまつり)とか、疫神祭とも呼ばれていたそうです。

道饗祭とはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミを祀って、都や宮城にもののけなどが入らないように祈る神事です。

ヤチマタは「八衢」と書きたくさんの道が分かれている所のことをいいます。
クナドノカミは「岐の神」と書き、悪霊が村や集落に入ってくるのを防ぐ神です。

ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミは同一の神とされ、塞の神と呼ばれています。
なんだかキリスト教の三位一体みたいですね。

疫神とは疫病をもたらす神のことです。

石清水八幡宮  鬼門封じ 

石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ


石清水八幡宮 鬼門封じ 

③青山祭は風葬を表している?

☆ ←こちらのサイトに次のように記されています。

大国主神が国譲りして、「八十クマデに隠りましき」とありま すが、「クマデ」というのは、のち「青柴垣」と書かれるように、柴を沢山立て た中に死体が入っていたということです。

http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/98-1.html より引用

以前、ネットで「石清水八幡宮の青山祭は風葬を表している」と書いてあるのを読んだ記憶があるのですが、今ググってみてもみつかりません。

ですが、青山祭の祭場は柴をたくさん立ててあり、その中に遺体が置けるほどのスペースが設けられています。

青山祭は風葬のようすを表しているのではないでしょうか?

石清水八幡宮 東総門 雪

④石清水八幡宮は紀氏の神を祀る神社だった?

石清水八幡宮は清和天皇の勅命によって創建されたとされますが、神官は代々紀氏がつとめていました。
また、かつてその地にあった石清水寺は紀氏の氏寺ではないかとも言われています。

石清水八幡宮の御祭神は八幡大神です。
八幡大神とは誉田別命(応神天皇)・比咩大神(宗像三女神)・息長帯姫命(神功皇后)の総称です。

しかし石清水八幡宮は紀氏の神を祀っている可能性が高いです。
もしくは八幡大神とは紀氏の神であるか、または紀氏の神と習合されているのかもしれません。

古事記・日本書紀には奈良の大神神社も御祭神・大物主神の子孫のオオタタネコが祀ったと書いてあります。
また、その後はオオタタネコの後裔を称する三輪氏がつとめています。

先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべきという考え方は昔から(少なくとも記紀が編纂された奈良時代には)あったとかんがえられます。

石清水八幡宮 石清水社 
石清水八幡宮 石清水社

⑤青山祭は誰を風葬にする神事なのか?

ホツマツタエという書物に次のように記されています。
「ソサノオは紀州の生まれで、昔、紀州の南部をソサといったのでソサノオと名付けられた」

伏見区の藤森神社も紀氏が祭祀する神社とされますが、スサノオを祀っています。
ソサノオとスサノオは同一神と考えられます。

そして東山区の八坂神社ではスサノオを疫神として祀っています。

青山祭は、紀氏の氏神であり疫神でもあるスサノオを風葬にする神事なのではないでしょうか。

石清水八幡宮 三女神社 雪 
石清水八幡宮 三女神社


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[2017/01/29 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)