貴船神社 雪 ライトアップ 『貴船神社は紀船神社だった?』 


京都市左京区  貴船神社
2015年2月初旬 撮影



貴船神社では以前、1月と2月の雪が積もった日にライトアップしていました。
残念ながら今は行っていないと聞きました。

①船形石

貴船神社から貴船川をさらに上流に向かって歩いていくと貴船神社の奥の院があり、境内には船形石という石があります。
(奥の院のライトアップはしていません。)

この船形石には次のような伝説があります。

反正天皇の時代、黄色い船にのり、黄色い服を着た神が難波の津に降りたち、次のように言いました。
『私は皇母玉依姫(神武天皇の母)である。私の船が止まるところに祠を作るように』 と。
船は蜑女崎(尼崎)、菟道川、鴨川を経て鞍馬川と貴船川の合流点に達し、貴船川を遡り、霊境吹井のある場所に鎮座しました。
これが黄船の宮となったと伝わり、奥の院にある船形石はその船が人目を忌んで石に包まれたものです。

貴船神社 天津磐境 雪

 ②上賀茂神社の第2摂社

京都の貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。

上賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないでしょうか。

貴船神社 雪4

③貴船神社は紀氏の神?


ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

「紀氏が自身の守り神に祈願した」ということは貴船神社の神は紀氏の神だということでしょう。
また紀氏の本拠地・紀州は森林資源に恵まれており、紀氏はその森林資源を生かした造船技術に長けていたといわれます。

貴船神社はもともとは紀氏の氏神を祀る神社なのではないでしょうか?

貴船神社 雪2 
④玉依姫は紀氏の神?


ホツマツタエという書物では、紀氏の祖神はソサノオであるとしています。
紀伊半島の南部を昔ソサといい、ソサで生まれたのでソサノオと名付けられたというのです。

そして玉依姫は海神の娘とされていますが、海神とスサノオは同一神とみなされることが多いです。
というのはスサノオは父のイザナギに「大海原をおさめよ」と命じられているからです。
大海原をおさめる神は海神である、ということですね。

とすれば、海神=スサノオ(ソサノオ)の娘・玉依姫は紀氏の神だということになります。

 ⑤ホツマツタエ

ホツマツタエは後世の偽書、いわゆる古史古伝のひとつだとされ、信憑性にかけるとされています。
しかし古事記や日本書紀などの正史は為政者の都合のいいように書き換えられているという指摘もあります。

貴船神社 雪 


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[2017/02/27 11:18] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

永観堂(禅林寺) 雪 『惟喬親王のおもかげを映す阿弥陀如来』 


京都市左京区 永観堂
2010年12月 撮影


永観堂 雪 

永観堂

雪の永観堂には訪れる人もまばらで、静かな冬の京都の旅となりました。

①清和天皇の勅命で創建された寺

永観堂は正式な寺名は禅林寺(ぜんりんじ)といいます。

853年、空海の高弟・真紹が故・藤原関雄の邸宅跡を買い取って寺院としたことに始まります。
当時は私寺を建立することは禁じられていたので、863年に清和天皇より定額寺(奈良時代、平安時代に官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜りました。
このとき清和天皇はわずか13歳でした。

京都・八幡にある石清水八幡宮も清和天皇の勅命によって創建された神社です。
石清水八幡宮の創建は860年で、清和天皇は10歳でした。

石清水八幡宮 本殿 
石清水八幡宮

②清和天皇との惟喬親王の世継ぎ争い

清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となりました。
そして858年、わずか8歳で即位しました。
もちろん8歳の子供に政治がとれるはずはなく、実際の政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていました。
永観堂や石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えられるでしょう。

文徳天皇には清和天皇のほかに第一皇子の惟喬(これたか)親王がありました。
清和天皇の母親は藤原良房の娘の藤原明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘の紀静子でした。
文徳天皇は惟喬親王のほうを皇太子につけたいと考えていました。
そしてこれを源信に相談しましたが、源信は藤原良房をはばかって文徳天皇をいさめたそうです。
永観堂 雪2 
 
永観堂

③御霊として祀られた惟喬親王


政治的に不幸だった惟喬親王は御霊として大皇器地祖神社 (おおきみきじそじんじゃ)、玄武神社や惟喬神社などに祀られています。

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社

御霊とは、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいいます。
つまり、惟喬親王は怨霊であったということです。
 
④「永観遅し」と声をかけた阿弥陀如来


その後、1072年に永観という僧侶が禅林寺に入ると、禅林寺は阿弥陀信仰の寺となっていきました。
禅林寺が永観堂と呼ばれるのは、この永観に由来しています。

禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は後ろを振り返った珍しいおすがたをしておられます。
http://www.eikando.or.jp/jiho_phot/mikaeriamida.jpg

そして次のような伝説があります。

永観が念仏を唱えながらこの阿弥陀如来の周囲を歩いていたところ、阿弥陀様が永観と一緒に歩きだしました。
永観が驚いて歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って「永観遅し」と言いました。
それ以来、阿弥陀如来は振り返った姿となりました。

永観堂 多宝塔 雪 

永観堂


⑤石清水八幡宮の神主を紀氏が世襲したのはなぜ?

①で、清和天皇が創建した神社として石清水八幡宮をご紹介しました。
この石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していました。

さきほどお話した惟喬親王の外祖父は紀名虎であり、紀名虎は藤原良房とは政治上のライバルでした。
平家物語にはいずれの孫を立太子させるかで紀名虎と藤原良房がもめ、バトルを繰り返したと記されています。
清和天皇が誕生したときすでに紀名虎は亡くなっているので実話ではないとされていますが、
紀氏と藤原氏の間に確執があったことは事実でしょう。

そうであるのに藤原良房はなぜ石清水八幡宮の神主を紀氏としたのでしょうか。

永観堂 雪3
  
永観堂

⑥先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべき

日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていました。

古事記にも「大物主神が祟り、その子のオオタタネコが大物主神を祀るお大神神社の神主になったところ、大物主神の祟りがおさまった」と記されています。

どうやら先祖の霊は子孫が祭祀したり供養したりしないと祟ると考えられていたようですね。

石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないでしょうか。

永観堂 雪4  
永観堂

⑦永観は紀氏だった。

永観は文章生・源国経の子で、のち石清水八幡宮別当・元命の養子となっています。
元命は紀氏を称して石清水八幡宮の別当となっているので、その養子となった永観もまた血のつながりはなくとも紀氏の人間だといえるでしょう。

永観は惟喬親王の菩提を弔うために禅林寺に入り、惟喬親王の霊が成仏するように「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたのではないでしょうか。
そして、禅林寺のみかえり阿弥陀如来は惟喬親王をイメージしたものなのではないかなあ、と思ったりします。

永観堂 雪-日暮れ 
永観堂

雪がふりしきる中、静かに日が暮れていきました。



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[2017/02/18 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

京都駅ビル バレンタインデー イルミネーション 『飛鳥坐神社のおんだ祭とバレンタインデー』 

京都市南区 京都駅ビル

 京都駅ビル イルミネーション2

①バレンタインデーの由来はウァレンティヌス司祭が処刑された日

次のような話があります。

古代ローマ帝国のクラウディウス2世がは軍の指揮が下がるという理由で結婚を禁じていました。
ところが、ウァレンティヌスが不法に男女を結婚させていたので、
クラウディウス2世はウァレンティヌスをユノの祝日である2月14日に処刑しました。
これがバレンタインデーのルーツだといわれています。

ただし、当時のローマ帝国が男女の結婚を禁じていたとする史料などはなく、この話は真実ではないと考えられています。

京都駅ビル バレンタイン イルミネーション

②結婚の女神・ユノの祝日と古代の合コン(?)ルペリカリア祭


なぜウァレンティヌスを2月14日に処刑したのかというと、この日が結婚の女神・ユノの祝日であったからだとされています。

これも真偽はわかりませんが、古代ローマでは若い男性と女性は別々に暮らしていたといわれます。
2月14日は結婚の女神・ユノの祝日で、この日、ローマの女たちは自分の名前を書いた紙を壺の中にいれました。

翌2月15日はルペリカリア祭でした。
ルペリカリア祭は結婚の女神ユノや豊穣の神マイアを崇拝する祭だということです。

この日、男たちは壺から紙を1枚ひき、紙に名前が記されていた女性と祭の間一緒にいるという習わしになっていました。
古代ローマの合コンといったところでしょうか。

祭の後、結婚する男女が多かったそうです。

京都駅ビル イルミネーション

③ルペリカリア祭と飛鳥坐神社のおんだ祭

ルペリカリア祭では、男たちが山羊や犬の皮を裂いて作った鞭で女たちを叩くという儀式が行われていました。
そして、鞭で打たれると子供を授かるなどと信仰されていたそうです。

ええーーーっ、それって飛鳥坐神社のおんだ祭とおんなじやん!
飛鳥坐神社では鞭ではなく、竹のささらのほうなもので参拝者のお尻叩きます。

飛鳥坐神社 おんだ祭 
飛鳥坐神社 おんだ祭

男も女も子供もおかまいなしに叩かれますが、もともとは女性のお尻を叩いていたんじゃないかと思います。
というのは、「叩かれると安産になる」などと言われているからです。

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 
飛鳥坐神社では夫婦和合の狂言も行われています♡

ね、ルペリカリア祭と一緒でしょ。

しかも、飛鳥坐神社のおんだ祭は2月第1日曜日に行われていて、ルペリカリア祭と日程も近いです。

参照/飛鳥座神社 おんだ祭 『おんだ祭はサルタヒコを鎮魂する儀式だった?』 
④異教の祭をキリスト教の祭に

ルペリカリア祭はローマの神々に由来する祭ですが、ウァレンティヌス司祭はキリスト教の聖職者とされています。

もともと、ローマ帝国は多神教でしたが、ナザレのイエス(生没年紀元前2年~紀元後33年)の死後、彼の弟子たちがイエスの教えをキリスト教としてローマ帝国などに布教しました。
ところが、キリスト教にとって異教の祭であるルペリカリア祭は民衆に大変人気のある祭であり
これをキリスト教にとりこむために①でお話ししたような伝説をでっち上げて2月14日をバレンタインデーとしたのかもしれませんね。

京都駅ビル イルミネーション2 

⑤シルクロードを通じて飛鳥にルペリカリア祭が伝わった?

唐招提寺や法隆寺の柱はエンタシスといわれる古代ギリシャの建築様式が日本に伝わったと考えられています。
古代ギリシャは古代ローマが栄える以前のヨーロッパで栄えましたが、のちに古代ローマに支配されるようになります。

古代ギリシャの建築様式が日本に伝わっていたのなら、古代ローマの風習が日本に伝わっていたとしてもおかしくはありません。

また、キリスト教が日本に伝来したのは、1549年、フランシスコ・ザビエルによってとされていますが、
佐伯好郎氏は秦氏によって古代の日本にすでにキリスト教が伝えられていたと唱えられました。

ネストリウス派キリスト教は東へも伝わり、唐代の中国では景教と呼ばれました。

またネストリウス派キリスト教が伝わる以前、日本に原始キリスト教が伝わっていたとする説もあります。

景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院は大秦寺と呼ばれていました。
これに「、」をつければ太秦寺となりますが、京都太秦の広隆寺はかつて太秦寺と呼ばれていて、キリスト教寺院だったのではないかと言われていますね。

広隆寺の有名な弥勒菩薩の手の印は、壁画に描かれたキリスト教徒の手の印と同じであるという指摘もあります。

http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu3/05miroku01.html
↑とても面白い記事です。もしも広告が出たらスキップしてください。

そして「大秦寺」の「大秦」とはローマの漢語訳なのです。


もしかして、飛鳥坐神社のおんだ祭はローマのルペリカリア祭の影響を受けている?

京都駅ビル イルミネーション 


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[2017/02/15 09:26] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

法住寺 梅 『日本国第一の大天狗』 

京都市東山区 法住寺
2017年2月中旬撮影


法住寺 梅 
竜宮城の入り口?
いえいえ、法住寺の竜宮門です。

①後白河上皇の御所・法住寺殿

法住寺は988年、藤原為光が創建したお寺です。
1161年、法住寺を中心に後白河上皇の御所が作られ、法住寺殿と呼ばれました。

法住寺殿は広大な敷地を有し、南殿、西殿、北殿の三御所、東小御堂、不動堂、千手堂などのお堂が立ち並んでいたそうです。

現在の法住寺の隣には三十三間堂がありますが、これも法住寺殿の仏堂でした。

三十三間堂 通し矢 

三十三間堂 通し矢

②日本国第一の大天狗

源頼朝が後白河のことを『日本国第一の大天狗』と悪口を言っています。
なぜ頼朝は後白河を『日本国第一の大天狗』と言ったのでしょうか。

②今様を歌いすぎ、鳥羽上皇に「即位の器量ではない」と言われる。


1127年、後白河は鳥羽上皇の第四皇子として生まれました。
1141年、同母兄の崇徳が鳥羽上皇の譲位を受けて即位します。

第四皇子の後白河は皇位継承とは無縁であったためか、たいへんな遊び人であったようですね。
特に今様が好きだったようです。
今様を現代語訳すると「現代流行歌」となります。
とにかく歌ばかり歌っていて、声が出なくなったりはしょっちゅうだったみたいですよ。

現代にもこんな人、いますね。(ハーイ!)

後白河のあまりの「今様」好きに父親の鳥羽上皇は「即位の器量ではない」と言ったとか。(愚管抄)
同母兄の崇徳は後白河を「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」とけちょんけちょんにけなしています。(平治物語)

法住寺 梅2 
③保元の乱

後白河の兄・崇徳天皇は鳥羽上皇に命じられて、1141年に異母弟(母親は藤原得子)の近衛天皇に譲位します。
このとき、譲位の宣命は「近衛は崇徳の皇太子」となるはずだったのが、「皇太弟」となっていました。
これはとても重大なことでした。
近衛が崇徳の皇太子であれば、崇徳は院政を行うことができたのですが、皇太弟では院政を行うことができなかったのです。

なぜこんなことになったのかというと、どうやら崇徳は父親の鳥羽に嫌われていたみたいなんですね。

崇徳は鳥羽の本当の子供ではなく、鳥羽の祖父の白河法皇の子だったようです。
もちろん系図では鳥羽の子とされていますが。

白河法皇は養女にしていた藤原璋子を、孫の鳥羽に入内させたのですが
このとき璋子は白河法皇の子を宿していた。それが崇徳だと言われています。
鳥羽は崇徳のことを、「叔父にして子」という意味で「叔父子」と呼んでいたそうです。
崇徳、かわいそう!平安時代の宮中って乱れてますね~。

1155年、近衛天皇は16歳で崩御してしまいます。
このとき崇徳はもう一度自分が天皇になるか、自分の息子の重仁親王の即位を期待したはずです。
ところが、鳥羽上皇に「即位の器量ではない」と言わしめたできそこないの弟・後白河が即位してしまったのです。

後白河が即位したのは、後白河の息子の二条が藤原得子の養子となっていたからです。
鳥羽上皇は璋子よりも得子のほうを愛していたので、得子の養子の二条を天皇にしたかったんでしょうね。

ですが、このときまだ二条は3歳で幼かったのです。
それで父親の後白河が中継ぎの天皇として即位したわけです。

崇徳はこれに堪忍袋を切らし、後白河に対して挙兵します。(保元の乱)
結果、崇徳は敗れて讃岐へ流罪となりました。

法住寺 梅 

↑ こちらの写真は2016年3月初旬撮影です。(先日はまだ全然咲いていませんでした。)

④崇徳、生きながら天狗になる。

讃岐に流罪となった崇徳は反省して、五部大乗経を写本して、これを後白河に送りました。
ところが後白河は「呪詛がこめられているんじゃないの?」と疑ってこれを讃岐に送り返してしまいます。

崇徳激怒!

崇徳は舌を噛み切り、写本に血で、次のように書き込んだそうです。
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

私は日本国の大魔縁(天狗道に堕ちた者?)となって、天皇を平民にし、平民を天皇にしてやる!
みたいな意味でしょうか。

そののち、平治の乱がおこって平家が権力を掌握し、さらには源頼朝が鎌倉幕府を開いて朝廷の権力は低下していくことになるので
崇徳の言葉どおりになってしまったといえるかも・・・。

そして崇徳は髪を伸ばし、爪も切らず、生きながら天狗になったと保元物語には記されています。

法住寺 身代わり不動尊大祭 天狗 
法住寺 身代わり不動尊大祭 天狗

⑤後白河は崇徳以上の天狗だった。

以上のことをふまえて源頼朝が後白河に対して「日本国第一の大天狗」と言ったことを考えてみるとオモシロイですね。
(「日本国第一の大天狗」とは高階泰経に対して言った言葉ではないかとする説もありますが)

後白河の兄、崇徳は生きながら天狗になった。
しかし後白河は崇徳以上の大天狗である、という意味でしょう。

頼朝が後白河を大天狗と評したのは、後白河が人を欺くはかりごとばかりしていた、という意味だと考えられているようですが
これについてはもっとじっくりと考えてみたいと思います。


後白河法皇法住寺陵 
法住寺の奥には後白河上皇の陵がありますよ。






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[2017/02/13 13:48] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

吉田神社 鬼やらい神事 『正義のヒーロー・方相氏を射るってどういうこと?』 

京都市左京区  吉田神社
鬼やらい神事・・・2月2日 18時より 
                    

① 吉田神社 鬼やらい神事

陽が沈み闇に包まれた吉田神社境内。
あちこちで子供が泣く声が聴こえます。

吉田神社 節分祭 赤鬼

鬼が登場!
吉田神社 節分祭 青鬼 
 
さきほど聞こえていたのは、鬼に脅された子供の鳴き声だったのでしょう~。

吉田神社 節分祭 黄鬼 

コスプレのルーツ?

②方相氏

吉田神社 方相氏 と しん子 
おおーーーっ、ひときわ恐ろし気な鬼?四ツ目だし!

いえ、これは鬼ではなく方相氏といいます。
方相氏のあとにつづく10人の童子はシン子(シンの字は人偏に辰)と呼ばれています。

吉田神社 節分祭 鬼と方相氏

方相氏が手に持った鉾をかざすと、その法力で鬼たちはへろへろになって逃げていきました。
方相氏は鬼を退治する正義のヒーローだったのです。

岡野玲子さんの漫画「陰陽師」には源 博雅が方相氏に扮するシーンがありましたね。
『陰陽師』は平安時代の都を舞台とする物語です。

方相を射る?

平安時代後期の人物、大江匡房の『江家次第』には『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』と記されています。
なんと、鬼を追い払ってくれる正義のヒーロー、方相氏を射るというのです。

ええーーっ?方相氏って正義のヒーローなのに、弓で射て殺しちゃうんですか?

吉田神社 方相氏 と しん子 

④平安時代の追儺式に鬼は登場しなかった。

枕草子や源氏物語などに追儺式の様子が記されています。
それらの文献から、平安時代の追儺式は次のようなものだったと考えられています。

追儺式は戌の刻(午後八時頃)に始まる。
天皇は紫辰殿に出御し、陰陽師が祭文を読みあげる。
次に方相氏が二十人ほどのシン子を従えて登場する。
方相氏は四つ目の黄金の面を着け、真っ赤な衣装(或いは上が黒、下が赤とも)を纏う。
方相氏は大舎人の中から体格のいいものが選ばれた。
方相氏は矛と盾を持ち、矛を地面に打ち鳴らして『鬼やらい、鬼やらい』と唱えて宮中を歩き回る。
その後に殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続いた。
これは桃や葦にも邪気を祓う力があるとされていたためである。


ピンク色の文字の部分をよーく読んでみてほしいのですが
平安時代の追儺式に方相氏とシン子は登場しますが、鬼は登場しませんね。

岡野玲子さんの漫画『陰陽師』でも追儺式に鬼は出てきませんでした。
追儺式に鬼が登場するようになるのは、平安時代よりも後の時代になってからなのでしょう。

⑤大寒の日、牛を牽く童子の像を立てる。

967年施行の延喜式には次のように記されています。

大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。


なぜこのようなことをするのでしょうか。

牛は干支の丑を表すものだと思います。
丑は12月を表します。

そして童子は八卦で艮(丑寅)をあらわす符です。
丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわします。

つまり、『牛を牽く童子』は、『丑(12月)を艮(丑寅/1年の変わり目)』で、目には見えない冬の気を視覚化したものなのではないでしょうか。

⑥『牛を牽く童子の像』は身代わり人形?

そして日本には『身代わり人形』『身代わり地蔵』などの信仰がありました。
人形やお地蔵さまが人間の身代わりになって災難をうけてくれるという信仰ですね。
↓ こちらは市比売神社・ひいなまつりの、人形に息を吹きかけて穢れを移す神事です。

市比売神社 天児人形2 

↓ こちらは下鴨神社の雛流しです。
人形を川に流して、厄を祓うという神事です。

下鴨神社 流し雛

これらの行事は『身代わり人形』の信仰によるものだと言えるでしょう。

『牛を引く童子の像も『身代わり人形』で、その像の中に冬の気を吸い込むことで、冬の気が宮中に入るのを阻止すると考えられたのではないでしょうか。

⑥方相氏+シン子=牛を牽く童子

角のある方相氏は牛ではないでしょうか。
そしてシン子は童子なので、これは『牛を牽く童子』そのものではないかと思います。

大寒の日、諸門に建てられた『牛を牽く童子の像』は冬の気をいっぱいに吸いこんだのち、節分に撤去されます。
ですが、像の中に吸い込みきれない冬の気があると考えられ、方相氏とシン子は宮中を練り歩いてその体内に冬の気を吸い込んでいるのではないでしょうか。

そして方相氏がその体内に冬の気を十分に吸ったところで、
大江匡房の『江家次第』に『殿上人長橋の内に於いて方相を射る』とあるように、矢を射て殺してしまうということなのでは。

吉田神社 節分祭 赤鬼 


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[2017/02/02 00:09] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

石清水八幡宮 雪 『青山祭は疫神スサノオを風葬にするお祭りだった?』 

京都市八幡市 石清水八幡宮

①石清水八幡宮 青山祭

男山の麓にある頓宮殿に見慣れないものが。

石清水八幡宮 青山祭

これは1月18日に行われる青山祭の祭場です。
訪れたのは1月15日でしたが、すでに青山祭の祭場が準備されていたのです。

石清水八幡宮 本殿 
石清水八幡宮 本殿

②道饗祭・疫神祭


明治以前、青山祭は道饗祭(みちあえのまつり)とか、疫神祭とも呼ばれていたそうです。

道饗祭とはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミを祀って、都や宮城にもののけなどが入らないように祈る神事です。

ヤチマタは「八衢」と書きたくさんの道が分かれている所のことをいいます。
クナドノカミは「岐の神」と書き、悪霊が村や集落に入ってくるのを防ぐ神です。

ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミは同一の神とされ、塞の神と呼ばれています。
なんだかキリスト教の三位一体みたいですね。

疫神とは疫病をもたらす神のことです。

石清水八幡宮  鬼門封じ 

石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ


石清水八幡宮 鬼門封じ 

③青山祭は風葬を表している?

☆ ←こちらのサイトに次のように記されています。

大国主神が国譲りして、「八十クマデに隠りましき」とありま すが、「クマデ」というのは、のち「青柴垣」と書かれるように、柴を沢山立て た中に死体が入っていたということです。

http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/98-1.html より引用

以前、ネットで「石清水八幡宮の青山祭は風葬を表している」と書いてあるのを読んだ記憶があるのですが、今ググってみてもみつかりません。

ですが、青山祭の祭場は柴をたくさん立ててあり、その中に遺体が置けるほどのスペースが設けられています。

青山祭は風葬のようすを表しているのではないでしょうか?

石清水八幡宮 東総門 雪

④石清水八幡宮は紀氏の神を祀る神社だった?

石清水八幡宮は清和天皇の勅命によって創建されたとされますが、神官は代々紀氏がつとめていました。
また、かつてその地にあった石清水寺は紀氏の氏寺ではないかとも言われています。

石清水八幡宮の御祭神は八幡大神です。
八幡大神とは誉田別命(応神天皇)・比咩大神(宗像三女神)・息長帯姫命(神功皇后)の総称です。

しかし石清水八幡宮は紀氏の神を祀っている可能性が高いです。
もしくは八幡大神とは紀氏の神であるか、または紀氏の神と習合されているのかもしれません。

古事記・日本書紀には奈良の大神神社も御祭神・大物主神の子孫のオオタタネコが祀ったと書いてあります。
また、その後はオオタタネコの後裔を称する三輪氏がつとめています。

先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべきという考え方は昔から(少なくとも記紀が編纂された奈良時代には)あったとかんがえられます。

石清水八幡宮 石清水社 
石清水八幡宮 石清水社

⑤青山祭は誰を風葬にする神事なのか?

ホツマツタエという書物に次のように記されています。
「ソサノオは紀州の生まれで、昔、紀州の南部をソサといったのでソサノオと名付けられた」

伏見区の藤森神社も紀氏が祭祀する神社とされますが、スサノオを祀っています。
ソサノオとスサノオは同一神と考えられます。

そして東山区の八坂神社ではスサノオを疫神として祀っています。

青山祭は、紀氏の氏神であり疫神でもあるスサノオを風葬にする神事なのではないでしょうか。

石清水八幡宮 三女神社 雪 
石清水八幡宮 三女神社


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[2017/01/29 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

鞍馬七福神 雪 『変形された北斗七星』 

京都市左京区 鞍馬寺

 
 鞍馬山 多宝塔 雪 

①鞍馬七福神


鞍馬寺には双福苑(恵比寿天・大黒天)・福寿星神 社(福禄寿・寿老人)・巽の弁才天社(弁才天)・弥勒堂(布袋尊/布袋尊は弥勒菩薩の化身とされています。)開運毘沙門天社(毘沙門天)があり、鞍馬七福神と呼ばれています。

鞍馬寺 双福苑
 
鞍馬七福神 双福苑〈蛭子神・大黒天)

②鞍馬七福神は北斗七星の神?

鞍馬寺 八重桜 『鞍馬七福神は北斗七星の神?』 
↑ こちらの記事に、鞍馬七福神は北斗七星の神ではないかと書きました。

その理由は下記a~cに述べるように、鞍馬寺は星の神を祀る寺だと考えられるからです。

a.鞍馬寺の御本尊の一、護法魔王尊は650万年前に金星からやってきた神とされており、鞍馬寺は星の神を祀る寺だと考えられる。

b.日本書紀に次のような記述があり、鞍馬天狗は流星を神格化した神だと考えられる。
大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がしました。
僧旻は 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言いました。

天狗は翼があって空を駆け回るとされるのは、流星だからではないか。

c.鞍馬の火祭で行われるチョッペンの儀は二人の青年が逆さになって脚を開脚するというもので、カシオペア座の形を作っているように思える。



動画はお借りしたものです。動画主さんありがとうございます。

カシオペア座

③北斗七星の形に配置された津軽の神社

坂上田村麻呂が津軽に創建した七つの神社、大星神社・浪岡八幡宮・猿賀神社・熊野奥照神社・岩木山神社・鹿島神社・乳井神社が北斗七星の形に配置されているといわれます。
http://madamada888.blog.fc2.com/blog-entry-193.html
↑ こちらの方が、地図を掲載してくださっています。

まあ、よく見ると北斗七星とは少し形は違います。
しかし、現在のような正確な地図を作ったのは江戸時代の伊能忠敬で、それまでは行基図と呼ばれるかなりいい加減な地図を用いていました。
坂上田村麻呂は江戸時代よりも以前の平安時代の人物です。
そういう点を考慮すると、北斗七星の形になっているといえるかもしれません。

鞍馬七福神 福寿星神祠  

鞍馬七福神 福寿星神祠 (福禄寿 寿老人)

④鞍馬北斗七星の配置は北斗七星の形になっていない。

一方、鞍馬七福神の配置は北斗七星の形にはなっていません。
ぐるっと輪を描くような形に配置されていると思います。
(図を書こうと思ったけど、うまく書けませんでした。すいません。)

⑤星田妙見宮の北斗七星の神の像も北斗七星の形に配置されていない。

大阪府交野市の星田妙見宮にはみほとけのお姿をした 貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星の像が境内の七か所に置かれていました。

星田妙見宮 禄在星 

星田妙見宮 禄在星の像


この貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星の七つの星は北斗七星を形成する星々です。
こちらも北斗七星の形にはなっていません。

星田妙見宮 境内図 

星田妙見宮 境内図 (案内板より)


⑥形を変えられた北斗七星?

星田妙見宮 旗のデザイン 

星田妙見宮 旗のデザイン

 上の写真は星田妙見宮にあった旗に描かれていたイラストを撮影したものです。
亀に蛇が巻き付いていますね。
これは北方守護の聖獣・玄武ですね。(南は朱雀・東は青龍・西は白虎)

新熊野神社 玄武

新日吉神社 神幸祭の際、撮影した玄武。矛の飾り布についていたものです。


で、その玄武の上に渦を巻く七つの星が描かれています。

妙見信仰にはしばしば北極星だけでなく、北斗七星に対する信仰も含まれます。
それは星田妙見宮に北斗七星の神・貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星の像が置かれていることからも明らかです。

すると上の写真に描かれた渦を巻く七つの星は、形は違いますが北斗七星だと考えられるんじゃないかと思いますが、どう思われますか?

玄武(亀+蛇)の亀の部分は北極星を、玄武(亀+蛇)の蛇の部分は、北斗七星を表しているのではないでしょうか?

とすれば北斗七星は変形させた形で描かれたということになります。
これはなぜでしょうか?

北斗七星は北極星の周囲をまわります。そのため、亀になぞらえた北極星の周囲を蛇がとりまくという形に変形されたのではないかと思ったりします。


鞍馬七福神 巽の弁才天社 雪 
鞍馬寺 巽の弁才天社

鞍馬七福神 弥勒堂 
鞍馬七福神 弥勒堂

鞍馬七福神 開運毘沙門天祠 
鞍馬七福神 開運毘沙門天祠




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[2017/01/27 17:01] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

鞍馬寺 雪 『思いやりを繋ぐワラの綱』 

京都市左京区 鞍馬寺 由岐神社

①鞍馬寺で観音様の化身に出会った。


山電車・鞍馬駅を降りるとすぐ鞍馬寺の仁王門が見えてきます。

鞍馬寺 仁王門 雪 
鞍馬寺 仁王門 

この仁王門から鞍馬山中腹にある本堂へ向かうには二つの方法があります。
ひとつはケーブルを利用する方法、もうひとつは九十九折の道と呼ばれる坂道を登っていく方法です。
ケーブルを利用するとあっという間につきますし、体力的にも楽です。
でも由岐神社は九十九折の道沿いにあるので、ここをお詣りするには九十九折の道を行かねばなりません。

由岐神社 割拝殿 雪 
由岐神社 割拝殿

鞍馬寺の受付で係の方と少し雑談をした際に、「ケーブルを使われますか」と聞かれたので
私は「ケーブルで登り、帰りは九十九折の道を降りて途中で由岐神社をお詣りするつもりです。」と答えました。
すると係の方は「逆にした方がいい。徒歩で上って、ケーブルで降りるべき」と教えてくださいました。

この日、鞍馬寺には結構雪が積もっていたのです。
確かに、雪の坂道はすべるので降りるほうが大変かもしれません。

係の方は「よかったら、アレをつかってください」と箱を指さしました。
箱の中にはわらで作った綱がたくさん入っていました。
そしてその方はひざまづいて、私の靴に綱を結んでくださったのです。
なんて親切なんだ!と大感激~。

この方、もしかして観音様の化身?

鞍馬寺 すべり止めの藁の綱

ワラは滑り止めに最適!

靴に結んでいただいたワラの綱、もしかしたら注連縄を再利用したものなのかも?
そうだとすると、とても神聖なものを踏ませていただいてるわけで、ありがたーい気持ちになりますね。

それに、雪の中をどれだけあるいても全然滑りませんでした。
ワラの滑り止め効果ってすごいですね。

今も藁草履は沢登り用に販売されているそうです。
http://www.yoshiki-p2.com/outdoor/id=87

雪国の人が藁沓をはいていたのも、古の人々の知恵だったんですね。

鞍馬寺 金剛寿命院 雪 
鞍馬寺 金剛寿命院

普通の人が素晴らしい。

あちこち旅する中で、それはもう大勢の方に親切にしていただいています。
カメラマンさんはいい撮影スポットなど教えて下さいますし
道を尋ねると皆さん親切におしえてくださいます。
どんくさくて上った土手からおりれないでいるところに手を貸してもらったり
なんか食べ物いただくことが多いんですが、もしかして私ってひもじそうな顔してるのかな?

で、観音様の化身のようなそういう方々が、普通のおじさん、おばさん、普通のお兄さん、お姉さんだったりするんですよね。

鞍馬寺 本堂 雪 
鞍馬寺 本殿 金堂

②思いやりの心は伝染る。

で、人から親切にされると、不信心者の私でも、自分も他人に親切にすることで、お返しをしたいと自然に思うんですね。
思いやりの心というのは、伝染るんですね~。


鞍馬寺 多宝塔 雪 

鞍馬寺 多宝塔




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[2017/01/25 17:20] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

伏見稲荷大社 雪 『天帝の乗り物から落ちた源頼朝』 

京都府伏見区 伏見稲荷大社
 
伏見稲荷大社 千本鳥居 雪

①白旗大明神


伏見稲荷大社の千本鳥居をくぐり歩いていきますと、「白旗大明神」と記された旗がありました。
白旗大明神とは源頼朝のことだと思います。
源頼朝のほかの源氏の武将や、源氏の氏神・八幡神のことを白旗大明神ということもあるそうですが。
(伏見稲荷大社の白旗大明神が源頼朝であるというのが間違っているなら教えてくださいね。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%97%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE
上記、ウィキペディアには、上旗神社は関東・東北・中部に分布する神社であると記されています。

確かに近畿地方ではほとんど見かけたことはありません。
ここ伏見稲荷大社のほか、波切不動院で「白旗弁才天」と記された石を見た記憶があるくらいです。
「白旗弁才天」が「白旗大明神」と関係あるのかどうかはよくわからないんですが~。

伏見稲荷大社 白旗大明神 

②源頼朝の死因は落馬?糖尿病?


『吾妻鏡』によると、1198年12月、源頼朝は稲毛重成が行った相模川の端供養に参列。
その帰路、頼朝は落馬し、翌年亡くなったとあります。

しかし猪隈関白記は「飲水の病」としていますし、承久記は「水神にとりつかれて死んだ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記しています。

『飲水の病』とは水を欲しがる病のことで、糖尿病のことだと考えられています。

③源頼朝と法華経

石橋山の戦いで敗れた頼朝は安房に逃れ、洞窟の中で法華経を唱えていた、そのため敵から逃れることができたと言われています。
源頼朝の死後、安房の生まれの日蓮が「南無妙法蓮華経(法華経に帰依しますという意味)」と唱える日蓮宗を開きます。
日蓮は安房に逃れた頼朝が法華経を唱えて敵から逃れることができたという話を知っていたでしょう。
そしてその話に感銘を受けて「南無妙法蓮華経」と唱える日蓮宗を開いたのではないかと思います。

伏見稲荷大社
 
④法華経と妙見信仰

日蓮宗では妙見菩薩を祀っていることが多いですが、妙見菩薩とは北極星の神です。
日蓮宗は妙見信仰の厚い宗派だといえるでしょう。

⑤日蓮宗と北斗七星

妙見信仰には北極星に対する信仰だけでなく、北斗七星に対する信仰も含まれます。
日蓮宗の寺・本願寺で祀られている七面大明神とは北斗七星を神格化した神ではないかと思います。

 伏見稲荷大社 玉山大明神jpg


⑥北斗七星は天帝の乗り物

北斗七星は天帝の乗り物であるなどと言われます。

伏見稲荷大社 狐 雪


⑨頼朝は天の乗り物である北斗七星から落ちた?

頼朝は落馬が原因で亡くなったとされるのは、頼朝が北斗七星の馬から落ちたという意味ではないでしょうか。

頼朝が北斗七星の馬から落ちるとは、天に見放されたということです。

④に書いたように、頼朝は法華経の熱心な信者であり、南無妙法蓮華経と唱える日蓮宗は妙見菩薩を祀るなど妙見信仰の厚い宗教だと考えられます。
ここから法華経そのものが厚い妙見信仰を持っているのではと思えます。

頼朝の死後、頼朝の嫡流は断絶してしまい、代わって北条義時の嫡流が鎌倉幕府の支配者となったのは、みなさん御存知の通りです。

そのことを人々は「(北斗七星の)馬から落ちたと表現したのではないでしょうか?


伏見稲荷大社 狐 雪2 




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[2017/01/23 16:55] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛行神社 関西空港 『飛行の神・ニギハヤヒは流星の神だった。』 


京都府八幡市 飛行神社
大阪府泉南郡 関西空港

飛行神社 

①飛行神社


京都府八幡市の男山のふもとをぶらぶらと歩いていると、不思議な神社を発見!
ジュラルミンの鳥居の前には飛行機のプロペラが。
1915年(大正4年)、二宮忠八という航空機研究者が創建した神社で、飛行神社といいます。

関西空港 夕景2 
関西空港

②飛行器開発に情熱を注いだ二宮忠八

1887年(明治20年)、二宮忠八はカラスが羽ばたいていないのを見て、翼で風を受け止めれば空を飛べるのではないかと考「烏(からす)型飛行器」の模型を作製しました。
飛行機ではなく、飛行器だそうです。

1891年(明治24年)には10mを飛行させることに成功。
1893年(明治26年)、忠八は「玉虫型飛行器」の開発に着手します。
そして有人の「玉虫型飛行器」の開発を軍隊の上司に上申しますが、却下。
そこで忠八は大日本製薬株式会社に入社し、飛行器開発資金を得ようと必死で働きました。

③二宮忠八、飛行器開発をやめ神主となる。

そしてようやく研究を再開しようとした矢先、1903年(明治36年)にライト兄弟が有人飛行に成功したことを知るのです。
このニュースをきいた忠八は飛行器の開発をやめてしまいました。
そして飛行機事故で亡くなった人々を弔うために飛行神社を創建し、神主となったのです。
科学とは180度異なる宗教の世界に身を置いた忠八の心境とはいかなるものだったのでしょうか。

関西空港 夕景 
関西空港

④飛行機の神・ニギハヤヒ


飛行神社では飛行機の神・ニギハヤヒ、航空殉難者の霊などを祀っています。
記紀によれば、ニギハヤヒは天の磐船を操ってに哮ガ峰(タケルガミネ)に天下ったと記されています。
忠八はこの天の磐船を飛行機だと考え、ニギハヤヒを飛行機の神として大阪府交野市の磐船神社より勧請したのです。

星のブランコ 紅葉3

↑磐船神社の近くにある吊り橋『星のブランコ』です。
ニギハヤヒが天の磐船から見た風景もこんな感じだったのかもしれません。

磐船神社 天の磐船 

↑磐船神社のご神体・天の磐船は船形をした巨大な石です。

ニギハヤヒが乗っていた天の磐船の正体とは?

雲陽誌という書物に次のような内容が記されています。

島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。


そして大阪府交野市あたりには次のような伝説が伝えられています。

空海が呪文を唱えると、天上より北斗七星が交野の地の三箇所(星田妙見宮・星の森・光林寺)に堕ちました。
そして星田妙見宮・光林寺ではそのとき堕ちた星として、石を祀っています。
(星の森にも石があるのでしょうか?ちょっとわかりません。)

星田妙見宮 織女石 

星田妙見宮

昔の人々は巨大な石は空から落ちてきた星だと考えたようです。
ということは、ニギハヤヒが乗っていた天の磐船とは流れ星なのではないでしょうか。




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[2017/01/22 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)