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金戒光明寺 紫陽花 『吉備観音はカニの観音?』 

京都市左京区 金戒光明寺
撮影 2016年6月13日

金戒光明寺 紫陽花

●吉備観音はカニのすがたの千手観音?


金戒光明寺には奈良時代の学者・吉備真備が唐より持ち帰ったと伝わる千手観音が安置されており吉備観音と呼ばれています。

この吉備観音のおすがたを見ていただきたいのですが~ → http://www.kurodani.jp/recommend/kannon.html

一般的な千手観音像に比べて若干腕(胸前で合掌する2本の手を除く)が短いような気がします。
そして腕のつき方などから、なんとなくカニを想像してしまいます~(笑)。

金戒光明寺 紫陽花3 

●カニは千手千足観音の化身だった?

随分前のことですが滋賀県の高月観音の里に行ったことがあります。
たくさんの観音像が残されており、村の人たちが観音様を管理されているのです。
村全体が博物館のような、そんな魅力のある場所でした。

その高月の里に正明寺というお寺があり、珍しい千手千足観音をお祀りしています。→ http://guide.travel.co.jp/article/4886/
この千手千足観音さまの足の部分もまさしくカニですね!

カニをひっくり返してみると、筋肉が折りたたまれるようになっています。
→ http://www.chiba-muse.or.jp/UMIHAKU/kikaku/14marisai/figs/photo17.jpg

千手千足観音さまはたくさんの脚が並んでいて、縦に筋が入っているように見えますが、これはカニの腹部の筋肉を表しているのかも?

●娘を助けた蟹の正体は観音様だった?

蟹満寺 寺号 

蟹といえば、京都府木津川市にある蟹満寺を思い出します。

蟹満寺には次のような伝説が伝えられています。

昔、この地に住む娘が近所の人がとらえた蟹をたすけて逃してあげました。
その後、この娘の父親が、蛇が蛙を飲み込もうとしているところに遭遇しました。
父親は蛇に「自分の娘をあなたの嫁としてさしだすので、蛙を助けてあげてほしい」といいました。
蛇は蛙を飲み込むのをやめ、夜になって娘をもらうためにやってきました。
娘の父親は「3日後にきてくれれば娘をさしあげる」といい、観音経を唱え続けました。
すると蟹が大勢の仲間を引き連れてやってきて、蛇を殺しました。
蟹もまた死んでしまい、蟹と蛇を弔うために蟹満寺が建てられました。

蟹満寺 灯篭 


娘を助けた蟹は観音様の化身なのではないでしょうか。

●みほとけの化身として信仰されたタコ

↓ こちらは京都の新京極通にある蛸薬師堂(永福寺)の「なで薬師」さんです。

蛸薬師 なで薬師

この「なで薬師」さんを左手で撫でると病治癒に霊験があると信仰されています。

また大阪府岸和田市には天性寺というお寺があり、「蛸地蔵」と呼ばれています。

どうも蟹だけでなく、タコもみほとけの化身であると考えられていたようです。

  ●イカの神もいた!
イカのみほとけはいないのでしょうか。
そう思って調べてみたところ、イカ薬師とか、イカ地蔵は見つかりませんでしたが、
島根県西ノ島町浦郷地区にある「由良比女神社」の「イカ寄せ浜の伝説」が見つかりました。


国づくりの神・由良比女命が出雲大社へ出かけ、芋桶に乗って隠岐へ帰る際、海に浸した手にイカが噛み付きました。

イカはそのおわびとして、神社前の由良の浜に大群でやってくる。

昭和20年代までは、大群でやってきたイカを捕獲する人々の姿が見られたとのこと。


明治まで神仏は習合して信仰されていたのでイカを神格化したみほとけが西ノ島にあるかもしれないですね。

確認ができていないですけど。

 金戒光明寺 紫陽花2 

 金戒光明寺 



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[2023/02/01 14:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

Kyoto Cherry blossoms ユーチューブ 


●英語の表記がまちがってるかも~ もしその通りだったら教えて下さいねー(いいかげんなやつw)
上品蓮台寺 英語でぐぐると「Elegant Rendaiji Temple」とでたので笑いました。


●コマ落ちを使おうと思ったけど、トランジットの部分がうまくいかないので断念しました。https://www.youtube.com/watch?v=0U40WXmLb4Y


●1:11の花吹雪はGIF画像でつくったものを、別トラックで3枚重ねてそれぞれ移動距離や回転を変えたんですが
他の動画に同じものを使おうと思っても、大きさが変でうまくいきませんでした。


●写真のサイズは3840×2160です。
フォトショップエレメンツ13で100%表示にして目で確認しながらアンシャープマスクをかけました。
mp4作成後、シャープが足りないクリップにはshotcutのフィルタ「シャープ」でさらにシャープをかけました。
(プレビュー画面の画質が悪くて確認しづらいので。調整でプレビュー画面の画質をよくすることができるかも?)





[2021/03/24 08:42] 京都府 | TB(0) | CM(0)

京都の雪景色 ユーチューブ 








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[2021/02/19 19:08] 京都府 | TB(0) | CM(0)

「六波羅蜜寺に現れた土蜘蛛の正体とは?」六波羅蜜寺 節分会 






記事はこちら http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-cat...




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[2021/02/01 16:55] 京都府 | TB(0) | CM(0)

京都の正月事始め 




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[2021/01/06 22:50] 京都府 | TB(0) | CM(0)

京都イルミエール 





スライドショー作るのが楽しくて、ブログのほう、さぼりぎみですw




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[2020/12/31 00:10] 京都府 | TB(0) | CM(0)

円福寺 大根鉢 

円福寺

12月19日。円福寺はまだ少し紅葉が残っていました。

円福寺 仁王門

円福寺 鐘楼


円福寺 大根ツリー3 

イチョウの葉は全部落ちてる・・・・はずだったんだけど

なんと大根の花が咲いていましたよ♪

これは日本版クリスマスツリーと言えるかもしれません。
何故ならば、クリスマスとはミトラ教の冬至祭を取り入れたものだといわれており

日本では大根焚の習慣がありますが、行われるのはだいたい12月の冬至に近い日だからです。

千本釈迦堂 大根焚・・・・12月7日、8日
了徳寺 大根焚・・・・・・12月9日、10日
宝山寺 大根焚・・・・・・12月1日
信貴山大本山 千手院・・・12月第1日曜日

大根焚は冬至の行事なのかも??

円福寺 大根ツリー4


 イチョウもまた、冬至のシンボルツリーだと私は思います。
冬至のことを一陽来復といいますが、一陽とイチョウは掛詞になっていますね。
またイチョウは樹形が太陽のように丸いものが多く(中には細長いものもありますが)
冬至に向かって、黄色い葉を1枚1枚落としていきます。
太陽の色は黄色なので、イチョウが落葉していく様子は、まるで衰えいく太陽をあらわしているかのようです。

そして、冬至が近くなると、すっかり落葉したイチョウの木に聖天さんのシンボルである大根を吊るし、太陽の勢いが再び増していくことを祈願する行事であったのかも?

円福寺 大根ツリー

昔、気になって撮った写真を思い出しました。↓

天田神社付近 大根鉢 張り紙

大阪府交野市の天田神社付近の民家の塀に貼ってあった張り紙が、気になったので写真を撮っておいたのでした。
「12月15日 大根鉢 達磨堂円福寺」と書いてあります。

大阪府枚方市の高田の地蔵堂にも同様の張り紙が貼ってあったと思います。

京都府八幡市、大阪府枚方・交野の農家から托鉢をして大根をもらい、1か月ほど干し、1年~3年つけて沢庵にするそうです。

春と秋の万人講で参拝者にもふるまわれるとのこと。

12月17日、18日に大根をイチョウの木にかける大根吊りが行われたようです。

https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20201217/2000038713.html


円福寺 大根ツリー2 



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[2020/12/20 15:39] 京都府 | TB(0) | CM(0)

正寿院 紅葉 

こちらの記事もよかったら読んでみてね。

正寿院 風鈴 猿丸神社 『お寺の鰐口と神社の鈴の関係は?』

正寿院 猪目窓 『ハート形は夫婦猪の形?』

正寿院 本堂 
宇治田原は参拝客がそんなに多くなくて、のんびりできるところがよいです。

正寿院 地蔵堂

正寿院は飯尾山医王教寺(717年創建、現在は廃寺)の塔頭寺院として建立された伝わります。
1596年、祐胤大徳が中興したとされます。

昔、寺の奥に瀧谷という小さな滝があり、瀧谷寺(りゅうこくじ)ともよばれていました。
弁財天を鎮守としています。

世をすくう めぐみあればや 滝谷の 流れにまかす おやまだのはら

御本尊は十一面観音(鎌倉時代~後期 町指定文化財)で50年に1度だけ開扉されます。
木造不動明王坐像は 鎌倉時代、快慶の作と考えられている。
(快慶作の醍醐寺不動明王と作風が似ているため)推定されている。
銘記中の僧名から、廃仏毀釈で廃寺となった大寺内山永久寺(天理市)の関係遺品と考えられているそうです。

ちょっと調べてみたところ、これぐらいしかわからなかった~。


正寿院 本堂2


正寿院 紅葉


正寿院 稲目窓

この窓から見える風景が人気です。
この部屋は寝転んでもオッケーです。

寝転ぶとこういう天井画を見ることができます。



正寿院 天井画 
天井画 

正寿院 天井画2 




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[2020/12/18 19:56] 京都府 | TB(0) | CM(0)

玉雲寺(京都府京丹波町) 紅葉 

玉雲寺 山門

落ち葉の絨毯が敷き詰められた石段

玉雲寺 吹寄せ 石仏    
霊樹山 滝見峰

当山は大容梵清禅師が須知出羽守慶吉の総請を受け、応永二十三年(1416)開山となられた寺である。
梵清禅師は、薩摩の島津氏に出生され、了堂信覚禅師の法を継がれ、当寺開山往持のほか、大和の補厳寺・加賀の仏陀寺・能登の總持寺(曹洞宗大本山)に住職された。
以来、末山門派が京都府だけでなく岡山県や宮城減等にまで及び、古い記録によると百六十余寺を数えている。
しかし、天正七年(一五七九)明智光秀の市森城攻撃があり、その兵火で寺の建物宝物等がほとんど焼失した。
現在の境内・本堂・庫裏は光秀が禅師の威徳を尊崇し翌天正八年に再興したものである。(説明板より)


玉雲寺 山門 鐘楼

市森城は別名を須知城といい、玉雲寺からほど近い場所にあります。
今回は時間の関係でいきませんでしたが。

玉雲寺 鐘楼

 
▲1528年(0歳)
美濃国(現在の岐阜県)に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれる。

▲1535年(8歳)
父親の明智光綱がなくなり、明智家の家督をつぐ。
まだ幼かったので、おじの明智光安が後見人となる。

▲1556年(28歳)
長良川の戦いが起こり、斎藤義龍が明智城を攻める。
おじの光安は戦死。
一族は離れ離れとなり、光秀は浪人となる。

▲1556年~1565年(28歳~37歳)
浪人となり、各地を転々とする。
その後、越前(今の福井県)の大名、朝倉義景に仕える。

▲1568年(40歳)
朝倉義景から織田信長に仕える。

※参照:
織田信長の年表を小学生でもわかるように簡単にまとめてみた

▲1571年(43歳)
織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちを行う。
光秀は実行部隊として武功を挙げる。

▲1572年(44歳)
働きが認められ、現在の滋賀県に5万石を与えられる。
琵琶湖の近くに坂本城を建てる。

▲1577年(49歳)
丹波方面(現在の京都府の一部と兵庫県の一部)を攻めるよう命令される。

▲1579年(51歳)
丹波国29万石を与えられる。

▲1582年(54歳)
羽柴秀吉(=豊臣秀吉)とともに中国地方を攻めるように命令される。
進軍の途中に軍隊を引き返し、織田信長が宿にしていた本能寺を襲う(本能寺の変)。
信長死亡の知らせを聞いて中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦い、敗北(山崎の戦い)。
逃げる途中に襲われて死亡。

※参照:
豊臣秀吉の年表をわかりやすい形で簡単にまとめてみた

https://history-land.com/akechi-mitsuhide/ より引用

玉雲寺-本堂


玉雲寺 石仏 





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[2020/12/10 18:49] 京都府 | TB(0) | CM(0)

勝持寺 紅葉 



勝持寺 2020年11月15日 撮影


勝持寺 門2 
勝持寺は大原野神社の別当寺(神社を管理する寺)でした。
大原野神社の紅葉はこちらを見てね。→ 大原野神社 紅葉

鳥羽上皇に仕えていた北面の士 佐藤藤兵衛義清は、1140年、この寺で出家して西行と名を改めました。

勝持寺 本堂

西行には不思議な伝説がたくさん残されています。

①『西行物語絵巻』には「親しい友の死を理由に北面を辞した」
『源平盛衰記』には、高貴な上臈女房と逢瀬を持ったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
近世初期成立の『西行の物かたり』には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。

⓶出家するとき、まだ4歳の子供が西行の衣の裾をつかんで泣いたが、西行はその子を縁側から蹴り落として出家して歌を詠んだ。
惜しむとて 惜しまれぬべき 此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ

③1141年以降、西行にゆかりの人物(藤原俊成か?)が、院に許しを請うた。
すると崇徳院は次のように歌を詠んだ。

最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ
(最上川では上流へ遡行させるべく稲舟を引っ張っている。その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。

これに対して西行は次のように返した。
つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて
(最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手(自分のこと)を見てください。)

  
勝持寺 鐘楼

④各地に「西行戻し」と呼ばれる伝説が伝えられている。

西行戻しの松松島西行法師は松島に入る手間で歌を詠んだ。
『月にそふ 桂男(美男子)のかよひ来て すすきはらむは誰(た)が子なるらん』
そこへ山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がやってきて歌を詠んだ。
雨もふり 霞もかかり 霧もふりて はらむすすきは 誰れが子なるらん と詠んだ。
西行は童子に尋ねた。「あなたは何を生業とされているのですか。」
童子は「冬萌(ほ)きて夏枯れ草(麦) を刈って業としている」と答えた。
西行はその意味が分からなかった。
童子は「才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらしますよ」といい、西行は去っていった。
西行戻り橋秩父西行が秩父へ歌の修行に向かう途中、寄居町末野にやって来た。
末野を流れる逆川にかかる土橋のところで、鎌を振ってやってくくる童子がいた。
西行は「どこへ行くのか」と問うと、童子は「冬ぼきの夏枯草を刈りに行く」と答えた。
西行は「冬ぼきの夏枯草」が何かわからなかった。
橋のたもとのあばらで、美しい小娘が機織りする姿に西行はみとれ、娘の織る絹がほしくなった。
西行が「その絹を売るか」とたずねると娘は「ウルカとは、川の瀬にすむ鮎のはらわた」と答えた。
西行は恥ずかしくなって橋を戻っていった。
西行戻り石日光西行が日光に来たとき、石の上に鎌をもった少年がいたので
西行は「どこへ行くのか」と問うと、童子は「冬ぼきの夏枯草を刈りに行く」と答えた。
西行は童子が歌で答えたのにおどろいて黒髪山(男体山)を拝して引き返した。
甲駿街道西行峠西行法師が歌修行のために、諸国をめぐり、自分の歌の上手なのを鼻にかけていた。
この地を訪れた西行は木こりにあい「甲斐の国にも歌をよむ人がいるのか。」と尋ねた。
木こりは歌を詠んだ。
いきっちな つぼみし花が きっちなに ぶっぴらいたる 樋とじの花
(行くときは蕾だったのに帰るときにはもう咲いていた。桜の花よ。)

※桜の皮は曲げ物や樋を締めるのに使うので桜の花のことを樋綴といった。

西行法師はこの峠で、鎌を手にした農家の子供にあい、「どこにいくのだ」とたずねたところ
「冬青む夏枯れ草(麦)を刈りにいく。」と答えた。
西行法師は「冬青む夏枯れ草」の意味がわからず、引き返した。

勝持寺 鐘楼3

⑤奥州下りの折、神奈川県中郡大磯町の旧宿場町(大磯宿)の西端(西小磯村付近)の海岸段丘を流下する渓流で次のように歌を詠んだ。

心なき 身にもあはれは しられけり 鴫(しぎ)立つ澤(さは)の 秋の夕暮れ
(風流を愛でる心を捨てた出家の身にではあっても、しみじみとした趣が感じられる。鴫が飛び立つ沢の夕暮れよ)

⑥伊勢神宮で次のような歌を詠んだ。
何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる

⑦源頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、「一切忘れはてた」ととぼけた。

⑧頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えた。

ねがはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの もちつきのころ
生前、このように歌を詠んでその歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂した。

⑩鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨をあみ連らねてつくりて侍りしは〜”(撰集抄)
(西行が高野山に住んでいた頃、野原にある死人の体を集め並べて骨に砒霜(ひそう)という薬を塗り、反魂の術を行い人を作ろうとした。しかし見た目は人ではあるものの血相が悪く、声もか細く魂もなかったので、高野山の奥に捨てた。
伏見前中納言師仲に作り方を教わったのだが、つまらなく思い、その後、人を作ることはなかった。

⑩西行の子・隆聖の子孫・佐藤正岑の子が長束正家である。

勝持寺 鐘楼2

西行にはなぜこんな不思議な伝説が数多く伝えられているのでしょうか?
じっくり考えてみたいと思います。



 
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[2020/11/25 17:50] 京都府 | TB(0) | CM(0)