妖怪ストリート(大将軍商店街) 『付喪神と終い天神』 

京都市上京区 大将軍商店街

妖怪ストリート2 
妖怪ストリート

①百鬼夜行絵巻と妖怪ストリート

京都といえば歴史ある神社仏閣、四季折々の美しい風景・・・・だけではございません!
京都には数多くの幽霊・妖怪・お化け・怨霊伝説が伝わっており、オカルトマニアを京都へと誘います。
そんなオカルトスポットのひとつが妖怪ストリートです♪♪

妖怪ストリート 
『百鬼夜行絵巻』に次のように記されています。

付喪神(つくもがみ)が変化大明神を祀り、祭礼と称して夜更けに徒党を組んで西から東へと練り歩いた。


付喪神とは古くなった道具などに神や霊魂などが宿ったもののことです。
器物は100年を経ると精霊が宿って付喪神になると考えられており、そのため99年目で器物を破棄する習慣があったそうです。
そのためでしょうか、付喪神は九十九神とも記されますね。

妖怪ストリート 骸骨


北野天満宮の南200mほどのところにある一条通はこの百鬼夜行があった通りだとされています。
これにちなんで一条通の大将軍商店街は妖怪ストリートと称し、店先などに妖怪の人形を展示していますよ。

妖怪ストリート  

②煤払いと終い天神

かつて年末に煤払いを行い、その際に不要になった古道具や器などを廃棄していたそうです。
廃棄された古道具や器を北野天満宮の境内で売るようになったのが、北野天満宮の古道具市のルーツとされています。
特に年末の古道具市は煤払いを行うこともあって多くの物品が売買されたことでしょうね。
現在でも年末の12月25日に北野天満宮で行われる古道具市は『終い天神』と呼ばれ、多くの人で賑わいます。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます


③市は斎で、交換することで浄められる?

①で、「器物は100年を経ると精霊が宿って付喪神になると信じられ、99年目で廃棄する習慣があった。」と書きました。
『終い天神』では付喪神が憑いているような古い器物も売買されたんでしょうか?
もしそうだとすると、「いやーん、このお皿、古そう~。付喪神がついてそうで気持ち悪い~」とか思わなかったんでしょうか?

私は付喪神が憑いていそうな古い器物も終い天神で売買されていたんじゃないかと思います。

現在、市とは単に物品を売買することをいいます。
でも、古には市は神事的な意味を持っていたのではないかと思うんです。

妖怪ストリート3


市とは斎(いつき)である、とする説を聞いたことがあります。
斎とは『 飲食をつつしむ、禊をするなどして心身を清めて神に仕える』ことをいいます。

また古には虹はまがまがしいものと考えられており、虹の出たところに市をたてる、というような話を聞いたこともあります。

とすれば、市とは穢れたものを清めるための神事であったと考えられると思います。
市に出され、売買されることで付喪神は清められて悪さをしなくなるというような信仰があったのではないでしょうか?

③鷽替え神事に見る市の意味

北野天満宮では行われていないんですが、全国の多くの天満宮で『鷽替え神事』という神事が行われています。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。


『鷽替え神事』ではまず大勢の参拝者に小さなポチ袋が配られます。
そして『替えましょう、替えましょう』と唱えながら近隣の人とポチ袋を何度も交換しあいます。
ポチ袋の中には紙製や木彫りの鷽鳥の人形が入っていますが、その中に当たりの人形が混ざっていて、当たりの人形をひいた人は様々な商品がもらえるという神事です。

大阪天満宮や道明寺天満宮の鷽替神事に何度か行ったことがありますが、くじ運の悪い私は一度もあたったことがありません~。

『鷽替え神事』は何度も交換することで、穢れが浄められるとする神事だと考えられませんか。
そして何度も交換するというのは市に似ていますね。

妖怪ストリート ぬらりひょん 



妖怪ストリート 薬屋




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[2017/10/22 18:09] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

真如堂 紅葉 法伝寺 萩 『狐と北斗七星』 

京都市左京区 真如堂
2017年10月初旬撮影


真如堂 法伝寺 萩 
法伝寺

①稲荷神と荼枳尼天の習合

上の写真ではわかりにくいかもしれませんが(すいませんー)真如堂の門前に鳥居があります。
神社のようですが、法伝寺という真如堂の塔頭寺院で、荼枳尼天をお祀りしています。
江戸時代には「門前稲荷社」と呼ばれていたようです。
明治の神仏分離令で稲荷神を仏教の神・荼枳尼天に改めたのではないでしょうか。

といっても、神仏を習合して信仰していた時代には稲荷神と荼枳尼天は習合されていましたから、全く関係のない仏教の神を祀るようになったというわけではありません。

稲荷神に対する信仰は、荼枳尼天に対する信仰と同じものであると、そう考えられていたのだと思います。

真如堂 紅葉 
真如堂

②女人の守護神


荼枳尼天のルーツは、ヒンズー教またはベンガル地方で信仰されていた女神で、のちに仏教にとりこまれたと考えられています。

荼枳尼天は裸身で虚空を駆け、人肉を食べる魔女とされます。
裸体でドクロを持つ女神の姿で表されることもあったということです。
日本では稲荷神と習合され、白狐に乗る天女ので表されることが多いです。

えっ、裸体の魔女なら逢ってみたいって?
心臓食べられても知りませんよ~。(笑)

荼枳尼天は6か月前に人の死を知り、死ぬまではその人を守りますが、死の直前に心臓を食べるとか
大日如来の化身である大黒天によって調伏され、死者の心臓なら食べることを許されたという伝説もあります。

真如堂は藤原詮子の邸宅跡にあり、御本尊は女人救済の阿弥陀如来とされます。
それで、女の神様である荼枳尼天=稲荷神を祀っているのではないでしょうか。(※稲荷神は男神の姿で現されることもあります。)

真如堂 三重塔 紅葉 
真如堂

②狐とドクロの関係

①で、荼枳尼天は裸体で髑髏を持つ女神の姿で表されることもあると書きましたが、狐はどうもドクロに関係が深い動物のようで、中国にこんな伝説があります。

志玄という僧侶が墓場で野宿をしていると、一匹の狐が髑髏を頭にかぶり、草の葉を摘んで、体中に貼りつけた。
すると狐の姿は白衣をまとった娘と化した。
狐が化けた娘が道端で泣いていると、馬に乗った軍人が通りかかり、娘に泣いている理由を尋ねた。
「去年、夫に先立たれ、家業もうまくゆかなくなりました。実家に苦境を知らせたいと思いましたが、道もよくわかりません」
軍人は「私の馬に乗せて連れて行ってあげましょう」と言った。
それを見ていた志玄は叫んだ。
「その娘は人間ではありません、狐が化けているのです。」
志玄は錫杖を振り上げ「速やかにもとの形に戻れ!」と叫ぶと娘は身もだえして倒れた。
そこに娘の姿はなく、年老いた狐が血を吐いて死んでいた。
その頭には髑髏をかぶり、体中が草の葉で覆われていた。(六朝『捜神記』)

 
中国の『酉陽雑俎』には、狐が人に化けるのに必要な手順として北斗踏みという道教の儀式が描かれています。
北斗踏みとは北斗七星の形をなぞって歩く事をいうそうです。
北斗七星は人の死を司るとされています。

江戸時代に記された 『和漢三才図会』には「狐は化けようとするときは、必ず髑髏を頭に載せ、北斗を拝して人に化ける」とあります。
中国の伝説が日本に伝わっていたのですね。

東寺に伝わる稲荷大明神の頭には髑髏と、逆向きの北斗七星が描かれています。

こちらが日本の荼枳尼天です。↓

Dakini

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ADakini.png
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Dakini.png よりお借りしました。
作者 Hidenobu Tosa, 土佐秀信 (
http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/316/index.html) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

③荼枳尼天の袋の中にはドクロが入っている?

荼枳尼天は手に袋を持っていますね。

真言立川流では荼枳尼天を祀り、ドクロに漆や和合水を塗り重ねて作った髑髏本尊の前で性行為を繰り返したあと、髑髏本尊を袋に入れ7年間抱いて寝ると8年目に髑髏本尊が語りだすとしていました。

荼枳尼天の袋の中にはドクロが入っているのではないかと思います。
よかったらこちらの記事もよんでね~↓
清凉寺 お松明式 『摩耶夫人が投じた薬袋には何が入っている?』 

真如堂 三重塔 紅葉 
真如堂

④狐は北斗七星を表している?

上の絵の、荼枳尼天が乗る狐をよく見てください。
なんか、北斗七星に似てるような気がするんですが、どうでしょうか?
狐の前脚、頭、胴体の部分が柄杓、後脚が持ち手です。

山形星(カシオペア座)と北斗七星 




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[2017/10/20 11:45] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

大聖寺門跡 白萩 『足利義満は天皇になろうとした?』 

京都氏上京区 大聖寺
2017年10月初旬撮影


もう紫の萩は散ってしまって、白萩のみ満開でした。
同じ日、梨木神社は満開だったんですけどね~。 梨木神社 萩 『浮穴媛のこどもたち』 
萩を撮るタイミングって難しい~。

大聖寺門跡 萩3

①花の御所跡

大聖寺は足利義光の花の御所内にあった岡松殿を、寺にあらためたものです。
開基は光厳天皇の后の日野宣子で、日野宣子は光厳天皇崩御後、花の御所の岡松殿に住んでいました。
大聖寺と言う寺名は、日野宣子の法名・「大聖寺殿無相定円禅定尼」からつけられたとのことです。

花の御所は、足利義光が邸宅として用いていたところで、東は烏丸通、南は今出川通、西は室町通、北は上立売通に囲まれた東西1町、南北2町に及ぶ広大な屋敷でした。




今出川町の文字のある東西の通りが今出川町、同志社大学の西の南北の通りが烏丸通、裏築地町の文字のある南北の通りが室町通、京菓子資料館の南の東西の通りが上立売通です。

1476年に戦火で焼失したのち、なんどか再建されましたが、1559年に廃止されました。

大聖寺は、、長谷(ながたに、現・左京区岩倉長谷町)、毘沙門町(現・上京区上立売通寺町西入る)に移転したのち、1673年に焼失しましたが、1697年、花の御所跡である現在地に移転したということです。

つまり、大聖寺は花の御所を偲ぶ唯一の建物、ということになるかと思います。

大聖寺門跡 萩2 

②足利義満は天皇になろうとした?

花の御所に住んでいた足利義満は天皇になろうとしていた、とする説がありますね。

例えば金閣寺。

金閣寺 雪 
3階建ての金閣寺の建物の、1階は公家好みの寝殿造り、2階は武家造り、3階は禅宗仏前造りと異なる様式になっています。
金閣寺を建てたとき、義光は出家していました。
金閣寺の階ごとに異なる様式とその並びは、義満の下に武家が、さらにその下に公家がくるという身分のありかたを示しているのではないか。
そう井沢元彦さんはおっしゃています。

また、義満の次男吉嗣を宮中で、皇子と同じ形で元服させてもいます。


義満は日明貿易を望み、「日本国征夷将軍源義満」名義で明に使者を送っています。
このとき、明は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として正規な通交相手として認めていました。
そして義満は臣下であるということで通行相手として認められませんでした。

そこで義満は太政大臣を辞し、出家しました。
こうすることで、義満は臣下の身分ではなくなり、再び明に通交を申し入れたところ、明より「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」の符号を得、また通交の許可を得ることに成功しています。

これはつまり、対外的には日本のトップは後小松天皇ではなく、足利義満であると認識されていたということ?

③義満は暗殺された?

義満は頭痛を訴えて倒れ、その9日後に死亡しています。
井沢元彦さんは『義満は毒殺されたのではないか』とし、死後朝廷が「鹿苑院太上法皇」の諡号を送っているのは怨霊鎮魂が目的であったのではないかとおっしゃっています。

一方、若林利光氏はの病状は「クモ膜下出血」ではないかとおっしゃっていますが。

大聖寺門跡 萩

④「鹿苑院太上法皇」ってスゲー!

それにしても「鹿苑院太上法皇」ってすごい諡号ですね。
太上天皇とは、譲位して更衣を後継者に譲った天皇の尊号、太上法皇とは、出家した太上天皇のことです。
第四代将軍の足利義持はこれを辞退していますが。

皇族でない人で、死後このような諡号を与えられた人ってほかにいますか?(いれば教えてください!)
皇族で天皇になれなかった人なんかには結構○○天皇のような諡号が贈られていますが。

義満の母親の紀良子の母・智泉尼聖通は順徳天皇の皇子・四辻宮善統親王の孫であるとかいわれており、義満は皇胤であるとする説があるそうですが
天皇家は代々男系継承だからなあ~。
天皇家でない男性と皇女の間にうまれた男子が天皇になったというケースはないはずだし(天皇と皇女の間に生まれた皇子が天皇になったケースはあるけど)
ましてや親王の女孫の娘の子が天皇になったなんてケースはないと思います。(だよね?)


実は義満の父親は第2代将軍・足利義詮の子ではなく、皇族だったりして?
もうちょっと調べてみることにします~。



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[2017/10/19 11:37] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

梨木神社 萩 『浮穴媛のこどもたち』 

京都市上京区 梨木神社
2017年10月初旬 撮影

梨木神社 萩

梨木神社爆破事件

1977年元旦午後8時45分頃、梨の木神社境内で新左翼活動家・加藤三郎消がしかけた消火器爆弾が炸裂しました。
幸い、境内に参拝者はなく、宮司さんたちがすぐに消化活動を行ったので、本殿が少し焦げる程度の被害ですんだのですが。

加藤はマスコミに次のような趣旨の犯行声明文を送りました。
「三条実美は搾取と抑圧の明治政府を樹立し、他民族を侵略し、反体制運動を弾圧した。よって爆破の刑に処する。」

声明文の名義は「闇の土蜘蛛」「浮穴媛のこどもたち」となっていました。

梨木神社は三条実万と三条実美親子を祀っています。
三条実美は1868年に明治政府の副総裁となり、1869年には右大臣、1871年には太政大臣を務めた人物です。

梨木神社 萩2

②土蜘蛛とは斬首されて首のない人のことだった?

加藤は声明文の名義を「闇の土蜘蛛」「浮穴媛のこどもたち」としていましたが、「土蜘蛛」とは古代の日本において朝廷・天皇に従わなかった人々のことで
日本書紀や風土記に土蜘蛛についての記述があります。

土蜘蛛は特定の地域に住んでいたまつろわぬ民のことではなく、豊後国4箇所、筑後国1箇所、肥前国7箇所、肥後国1箇所、日向国1箇所、大和国5箇所、越後国1箇所、常陸国3箇所に土蜘蛛の存在があったようです。

私は土蜘蛛とは謀反の罪で斬首された人のことではないかと考えています。

昆虫の体は頭部・胸部・腹部の3つに分かれていますが、蜘蛛は頭胸部と腹部のふたつの部分からなり、昆虫とは別の動物とされています。

蜘蛛の体 

昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないでしょうか。
そして土蜘蛛とは謀反の罪により頭部を斬られた人物の怨霊のことではないかと思うのです。

詳しくはこちらの記事を読んでくださいね~ → 中の島公園 バラ 『バンパネラを捕らえるバラの罠』 

日本書紀・景行紀には「土蜘蛛は石窟に住む」というような記述がありますが、これは埋葬された墓の中に住むという意味ではないでしょうか。

梨木神社 萩4

③土蜘蛛の女首領・浮穴媛

土蜘蛛の首領の中には女性と考えられる者もいます。

『豊後国風土記』には、五馬山の五馬姫(いつまひめ)、土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)の話があります。
また、『肥前国風土記』には、大山田女(おおやまだめ)、狭山田女(さやまだめ)、海松橿媛(みるかしひめ)、嬢子山の八十女人(やそおみな)、浮穴の郷の浮穴沫媛(うきあなあわひめ)、速来の村の速来津姫(はやきつひめ)などが登場します。

浮穴媛とは浮穴沫媛のことでしょう。

それにしても肥前(佐賀県)には女の土蜘蛛の首領が多い~!
なんで肥前には女の土蜘蛛の首領が多いの?

梨木神社 萩5

④邪馬台国は土蜘蛛の国だった?

あ、でも邪馬台国も卑弥呼が女王でしたね。

私は邪馬台国とは物部王朝のことであり、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、卑弥呼の男弟は倭大国魂神=大物主神のことではないかと考えています。
その理由については説明すると長くなるので、こちらの記事を読んでくださいね。↓
崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 

天皇家の祖神・天照大神が女性なのは、天照大神が物部王朝の女性であり、そこへ日向からやってきた神武が婿入りしたからだと思います。
つまり、天照大神とはもともと物部氏の神であり、天照大神の子孫のみが大和の国をおさめるというような考え方があったのではないかと思うのです。
日向からやってきた神武は物部王朝に婿入りしたものの、天照大神の子孫ではなかった。
どうすれば、自分の子孫に皇位継承させることができるか。
その方法が天照大神を女性にするということだったのではないでしょうか。
天照大神が女性なら、神武は天照大神と結婚することで、自分の血をひくものに皇位継承させることができますね。
天照大神が男性なら、神武は男性なので天照大神と結婚することができず、自分の血をひく者に皇位継承させることができません。

そして記紀には繰り返し、同母兄弟または同母姉弟の結婚を禁忌とする物語が記されています。
天照大神が物部王朝の皇女だとすると、物部王朝の皇子が王位につくためには、近親相姦するしかありませんが、それが禁じられたため、物部王朝は天皇家に乗っ取られたのではないでしょうか。

物部王朝は天皇家にとってまつろわぬ民、土蜘蛛だったといってもいいと思います。

梨木神社爆破事件の犯人・加藤三郎がいうように、わたしたちも浮穴媛のこどもたちなのかもしれませんね。
(も私は左翼じゃないけど、論理的に考えるとそうなると思う。えっ、論理的じゃない?笑~)

梨木神社 萩3 

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[2017/10/15 10:18] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

犬甘野 蕎麦 萩 『犬甘野は隼人が住んでいた土地?』 

亀岡市 犬甘野
2015年9月初旬 撮影

犬甘野 蕎麦畑-田圃 
①犬甘野は犬飼野がなまったもの?

犬甘野(いぬかんの)って変わった地名ですねえ~。
犬飼野がなまったものだと言われています。
犬甘野の近くには犬飼という地名もありますね。

犬甘野 蕎麦畑4 
②警備用の犬を飼っていた犬飼部

犬飼、犬養(いぬかい)という地名は各地にあります。
似たような地名で、鳥飼・鵜飼・馬飼などの地名もあり、これらは大和朝廷が飼っている動物の世話役が住んでいた場所を示すものと考えられています。

犬はペットとしてではなく、警備を目的に飼われていたとされます。番犬のようなものですね。
六世紀ごろ、朝廷は皇室領地の屯倉の警備を目的とし、諸国に犬飼部を置きました。
奈良時代のはじめごろに廃止となるのですが~。

すると犬飼とは大和朝廷が飼っていた犬の世話役が住んでいたところ?
犬甘野は犬を飼っていた野原という意味でしょうか?

犬甘野 萩  
③犬の鳴き声をまねて警備をしていた隼人

犬は警護用に飼われていたといいますが、かつて隼人たちは犬の鳴き声をまねて朝廷の警護を行っていたとされます。

隼人とは昔、九州に住んでいた民で、朝廷に従わず、度々反乱をおこしていました。
そこで、朝廷は隼人たちを畿内に強制移住させていたのです。

畿内に移住させられた隼人たちは、隼人司に属しました。
朝廷の警護のほかには祭祀・相撲・竹細工の製作などを行っていたそうです。

大隅隼人が住んだという現在の京田辺市には『大住』の地名が残っています。

犬甘野 蕎麦畑2 

④犬飼・犬甘野は隼人が住んでいたところ?


http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/4b0d2d016e2fdfcd3e28bc3f0c559a4a
↑ こちらのブログに興味深い内容が記されていました。

「康富記」は室町時代の外記局官人だった中原康富が記した日記です。
その「康富記」丹州佐伯庄、丹州佐伯隼人保、桑田郡内佐伯庄大田杜、佐伯内隼人保氷所、丹州隼人保内松本下地、丹波大田隼人司領などを記しているということです。

丹州とは丹後(京都府北部)、丹波(京都府中央部と兵庫県東部)のことで、亀岡はかつて丹波国桑田郡と呼ばれていた地域でした。

犬甘野 蕎麦畑3

そして次のように記されています。

「実際に隼人が居住していたのは、丹波国佐伯郷で現在の亀岡市稗田野町太田、佐伯から曽我部町穴太(あのう)、犬養あたりとしている。」

http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/4b0d2d016e2fdfcd3e28bc3f0c559a4a より引用

https://map.goo.ne.jp/list/address/26206/
↑ こちらのサイトに亀岡市の地名が列挙されています。
亀岡市曽我部犬飼と言う地名はありますが、犬養という地名はありません。
「犬養」とあるのは旧地名で、現在は「犬飼」に変わったんじゃないでしょうか?

すると、犬飼は隼人が住んでいた場所、犬飼野が転じたという犬天野も隼人に関係する地名ではないかと思ったりします。

犬甘野 蕎麦畑




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[2017/09/19 17:10] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

東北院 白粉花 『軒端の梅は鬼=和泉式部をあらわしている?』 

京都市左京区 東北院
2017年9月初旬撮影

東北院 白粉花 

東北院

①東北院

東北院は藤原道真の没後に、道真の娘・上東門院が法成寺境内に常行三昧堂として建てました。
東北院と呼ばれるのは道長が建立した法成寺境内の東北に建てられていたためです。

室町時代には桓武天皇代に最澄が作ったと伝わる弁財天が厚く信仰されました。
門前の石碑に「大弁財天女」とありますね。

しかし寺は応仁の乱によって建物は焼失してしまいました。
その後、1559年に時宗の僧・弥阿が残された弁財天を本尊とし、時宗に改めたそうです。

②能・東北

東北院は能・東北の舞台です。



動画お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます。


能『東北』は次のような筋です。

木曽の僧の一行が、梅の花が満開となった東北院へやってきました。
そこへ梅の精が現れ、和泉式部が植えた梅で「軒端の梅」と名付けたこと、東北院の方丈は式部の寝所であったことなどを語ります。

僧が読経すると、和泉式部の霊が現れて、こんな話をしました。

昔、関白藤原道長が法華経を唱えながら門前を通るのを聞いて、「門の外 法の車の 音聞けば 我も火宅を 出でにけるかな」と歌を詠み
その功徳により死後、歌舞の菩薩となったと。


火宅とは、仏教用語で「人々がこの世が苦しみの世界であることを悟らず、享楽にふける」ことを言います。
つまり歌は「藤原道長が法華経を唱えつつ門前を行き過ぎるのを聞いたので、自分も享楽にふけるのをやめた」という意味だと思います。

東北院 白粉花2

③和泉式部は弁才天の化身だった?

東北院の本尊は弁財天ですが、弁財天像には2つのタイプあります。

ひとつは、8臂(腕が8本)の弁財天像です。
8本の腕に、弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪(外円部が刃になった輪。投げて敵を斬る為の武器。)羂索(投げ縄状の武器)を持ちます。

もうひとつは2臂(腕が2本)で、琵琶を弾く姿で現されるものです。
琵琶を弾く弁財天は歌舞の神だといえるでしょう。

能「東北」では、和泉式部は歌舞の菩薩になったとしていますが、これは和泉式部が東北院の弁財天になったという意味ではないでしょうか。
和泉式部は弁財天の化身だと考えられたのではないかと思います。 
 
大覚寺身振り狂言 十王堂2jpg

大覚寺狂言 十王堂 弁財天(向かって左)と琵琶法師(向かって右)

③為尊親王と和泉式部のw不倫

和泉式部〈978?~?)は平安時代の女性で、恋多き女性として知られています。

995年ごろ、19歳で和泉守(いずみのかみ)橘道貞と結婚。 
ふたりの間には、娘・小式部内侍が生まれるも、夫婦仲が悪くなり、1004年ごろに離縁しています。
離縁の原因は和泉式部と為尊親王(冷泉天皇第三皇子)が恋愛関係に陥ったためだとも言われています。

為尊親王は藤原伊尹の娘・九の御方と結婚していましたから、w不倫ですね。
ただし、当時の男性は複数の妻を持つのが当たり前でした。
しかし結婚している女性が別の男性と契るというのは、当たり前のことではなかったはずです。

1001年、為尊親王は病を患い、1002年に26歳で亡くなってしまいました。
世の人々は「伝染病が蔓延する平安京を毎日のように夜歩きをして和泉式部のもとへ通ったため病気になった」と噂したそうです。

その後、和泉式部は為尊親王の同母弟の敦道(あつみち)親王と恋に陥ります。

敦道親王は藤原道隆三女を妻としますが、離縁。
次に藤原済時の娘を妻としまししたが、またしても離縁。
藤原済時の娘と離縁したのは、和泉式部との関係が原因だったと言われています。

④橘は昔の人を意味する 

敦道親王と和泉式部のなれそめはこんな感じでした。

敦道親王は和泉式部のもとに童をやって橘の花を送りました。

古今集にこんな歌があります。

五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする/よみ人しらず

(五月に咲く花橘の香をかぐと、昔の人の袖の香がするようだ)

別れた奥さんと再会したときに詠んだ歌なのだそうです。
別れた奥さんは柑橘系の香水がお好きだったんですかね。

橘は「五月待つ 花橘の 香をかげば~」の歌を意味し、さらに「昔の人」という意味があったのですね。

つまり敦道親王は和泉式部に対して「まだ亡くなった兄・為尊親王のことを考えているのですか」という意味で橘をおくったのです。

和泉式部はこう歌を詠んで敦道親王に送りました。

薫る香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばや 同じ声やしたると
(香り立つ橘を送って私の様子を窺うあなた。それより私はあなたの声が聴きたいわ。兄上と同じ声をされているのかしら。)


いやー、情熱的ですねー。

それに対して敦道親王はこう歌を返しました。

同じ枝に 泣きつつおりし ほととぎす 声はかわらぬ ものとしらなむ
(同じ枝にとまって泣いていたほととぎすの様に私と兄は同じ声をしています。)


とまあ、こんな感じで二人の恋愛は始まりました。

⑤和泉式部は不吉な女性


しかし1007年に敦道親王も亡くなってしまいました。
26歳か、27歳くらいでした。
和泉式部と恋愛をした兄弟はどちらも早世してしまったのです。

和泉式部とつきあった二人の親王の相次ぐ死を、当時の人々はたいへん恐ろしいことだと受け取ったことでしょう。 
そして二人の兄弟がつきあっていた女性・和泉式部は不吉な女性であると考えられたのではないかと思います。

⑤東北院は法成寺の鬼門封じだった?

東北は鬼が出入りする方角、鬼門として忌まれていました。

猿が辻 
京都御所 猿が辻

京都御所の東北の隅は東北の角をつくらないよう、わざわざ内側に凹ませてあるぐらいです。


石清水八幡宮  鬼門封じ 

石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ


石清水八幡宮 鬼門封じ 

石清水八幡宮では東北の角をつくらないよう、石垣の角を斜めに切り取ったような形にしてありました。

また平安京の東北には鬼門封じとして延暦寺が置かれていました。

東北院は法成寺の鬼門封じとしてつくられたのでしょう。

金熊寺 梅

金熊寺 梅
東北院の境内には和泉式部ゆかりの梅があるそうです。春に見に行ってみたいけど、境内立ち入り禁止となっていたので無理かな?


⑥梅は鬼を表している?

そして和泉式部が東北院に梅を植えたと言いますが、梅は鬼をあらわしていると思います。
その理由を説明します。

梅は1月1日と2月3日の誕生花だそうです。

1月1日は新暦ではなく、旧暦だと思います。
新暦の1月1日にはまだ梅の花は咲きませんが、旧暦の1月1日(新暦の2月ごろ)になると梅の花が咲き始めます。

2月3日のほうは新暦だと思います。
2月3日は二十四節気の立春の前日で節分です。
立春は旧暦の新年と同時期で、暦法・二十四節気の新年でした。
ということは、立春の前日の節分(新暦2月3日)は暦法・二十四節気の大晦日なわけです。

干支では12月は丑月、1月は寅月で、丑寅は1年の変わり目となります。
二十四節気の場合は小寒(1月6日ごろ)~立春(2月4日ごろ)までが丑月、立春(2月4日ごろ)~啓蟄(3月6日ごろ)までが寅月です。

つまり、旧暦1月1日は寅、新暦2月3日=節分(二十四節気の大晦日)は丑となり、
梅が1月1日(寅)または2月3日(丑)の誕生花だということは、梅は丑寅をあらわす花だということになります。

そして方角を干支で表すと鬼門の東北は丑寅となります。

梅=1月1日(寅)または2月3日(丑)の誕生花=丑寅=東北=鬼門
ということで、梅は丑寅であり、鬼をあらわす植物となると思うのです。

二人の親王を死に陥れた魔性の女・和泉式部は鬼であると、古の人々は考えたことでしょう。

和泉式部が梅を植えたといいますが、梅は鬼であり、和泉式部その人のシンボルとして植えられているのではないでしょうか?

迎稱寺-萩2

東北院の近くにある迎称寺は萩で有名ですが、全然咲いていませんでした~。
写真は以前に撮影したものです。

真如堂 紅葉 

真如堂ではすでに紅葉が始まっていました。



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[2017/09/14 15:05] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

正定院 鶏頭 『賽の河原に立つ寺?』 

京都市左京区 正定院(しょうじょういん)
2017年9月初旬 撮影


正定院 鶏頭2 

正定院

①正定院は萩の寺?


鮮やな赤紫色の花に誘われて正定院を参拝しました。
おそらく、鶏頭の一種だと思います。

でも、ネットでぐぐると正定院は萩の寺であるとでてきます。
萩野花は気がつきませんでした。もしかしたら奥まったところにあったのかもしれません。

正定院の近くにある常林寺では萩の花がほぼ満開となっていましたが。

常林寺 萩

常林寺 萩

②砂川の三軒寺




上の地図を見ると長徳寺・常林寺・正定院の3つの寺は並んで建っていますね。
いずれも浄土宗のお寺で、「砂川の三軒寺」と呼ばれています。

長徳寺は春のおかめ桜で有名なお寺です。

長徳寺 おかめ桜3

春の長徳寺 地蔵堂

ぐぐってみると、この長徳寺も萩の寺だと出るのですが、萩らしい植物はわかりませんでした。
門より中に入ると萩が確認できたかもしれませんが、立ち入り禁止となっていていました。

それはともかく、「砂川の三軒寺」と呼ばれているのは、かつて三軒の寺の後を砂川という小川が流れていたためです。

③砂川三軒寺の三地蔵

長徳寺の門前には地蔵堂があり「北向地蔵尊」が安置されています。

長徳寺 おかめ桜

長徳寺 地蔵堂

百済国王の守本尊で飛鳥時代、舒明天皇(在位629-641)のころ、日本に伝わったといわれています。
宮中に安置されていましたが、823年に西寺の守敏(しゅびん)に下賜されたといいます。
その後、どのような経緯を経て長徳寺にやってきたんでしょうかね?

また常林寺にも地蔵堂があり、世継子育地蔵尊が安置されています。

常林寺 地蔵堂 萩

常林寺 地蔵堂

常林寺は1573年に創建されたお寺で、1671年に現在地に移転してきたということです。
常林寺の世継子育地蔵尊は常林寺が移転してくる以前よりここにあったとされます。

さらに正定院にも「ちご地蔵尊」と呼ばれるお地蔵さまがありました。
境内に置かれていた石仏の地蔵尊は新しいもののようでしたが、本堂などに古い「ちご地蔵尊」があるのかもしれません。

正定院 ちご地蔵尊 

正定寺 ちご地蔵尊


どうやら「砂川の三軒寺」は地蔵信仰の厚い寺であったようです。

③砂川は賽の河原になぞらえられていた?

古の人々は平安京をこの世、平安京の外をあの世に喩えていたと聞いたことがあります。
また京都の西院(さいん)という地名は、音が賽の河原の賽に通じるので賽の河原に喩えられていたともいいます。

高山寺 石仏

賽の河原に喩えられた西院の 高山寺にも地蔵菩薩が祀られていました。


現在砂川はないので、どのような川だったのかわかりませんが
砂川という名前からは、砂の河原がある川というイメージが思い浮かびます。

賽の河原で、幼くして亡くなった子供たちが親のために石を積むと言う話がありますね。

日本には先祖の供養は子孫が行うべきという考え方がありました。
井沢元彦さんはこんなことをおっしゃっていたと思います。
「聖徳太子の子孫は全員斑鳩寺で首をくくって自殺したので、聖徳太子の霊を供養する人がいなくなっていまった。
それで聖徳太子は怨霊になったのではないか」と。

幼くして親より早く亡くなってしまった子供の霊は、親を供養するための供養塔を作ろうとしているんですよね。

ところが鬼がやってきて石を積んで作った塔を壊してしまいます。
そこへ地蔵菩薩がやってきて、子供たちを救ってくれると言われています。

鬼来迎 子供の亡者を救う地蔵菩薩 
子供の亡者を鬼から救う地蔵菩薩 広済寺 鬼来迎


「砂川の三軒寺」の背後を流れていた砂川は賽の河原に喩えられていたのではないでしょうか。
それで「砂川の三軒寺」では地蔵菩薩をお祀りしているのではないかと思ったりします。

正定院 襖絵の石碑 

正定院


正定院 鶏頭 
正法院


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[2017/09/12 23:23] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

梅小路公園 京の七夕 『梅小路公園はなぜ4月29日に開園したの?』 

京都市下京区 梅小路公園
2017年8月中旬撮影


梅小路公園 ちんちん電車4

①梅小路公園はなぜ4月29日に開園したのか?


「鳴くよ〈794年) 鶯 平安京」と年号を覚えた方も多いと思います。
1995年4月29日、平安京遷都1200年を記念して梅小路公園が開園しました。

4月29日は現在では「昭和の日」ですが、1998年までは「天皇誕生日」でした。
昭和天皇の誕生日は1901年4月29日だったのですね。
崩御されたのは1989年1月7日で、1989年4月29日より「天皇誕生日」から「みどりの日」に変わりました。
さらに2007年に「昭和の日」となりました。

梅小路公園が開園したとき、4月29日は「みどりの日」でした。
公園なので「みどりの日」に開園するのがふさわしいと考えられたのではないでしょうか。
さらに、平安京遷都1200年を記念する公園なので、天皇とゆかりの深い日が選ばれたということもあると思います。

梅小路公園 ちんちん電車2

②ちんちん電車

梅小路公園はJR貨物・梅小路駅の跡地に作られています。

公園内には、京都市電(ちんちん電車)の車両を利用したカフェもありますよ。
京都市電は1895年に開業、1978年9月30日まで運行されていました。
私も学校をさぼって美術館に絵を見にいくのに(え?)何度か利用しました~。

梅小路公園 ちんちん電車3 

梅小路公園 ちんちん電車  

③京都鉄道博物館・京都水族館

近くには京都鉄道博物館や京都水族館もあります。

京都鉄道博物館 新幹線 

0系新幹線

京都鉄道博物館 c62

c62

京都鉄道博物館 クハ86形 

クハ86形

京都水族館 

京都水族館

④京の七夕

日が暮れると梅小路公園にイルミネーションが輝き、幻想的な雰囲気に。

梅小路公園 輝きの庭 
梅小路公園 水辺のイルミネーション2 

梅小路公園 水辺のイルミネーション 


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[2017/08/21 23:24] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

天得院 桔梗 方広寺 楓 『方広寺鐘銘事件と言霊信仰』 

京都市東山区 天得院・方広寺

天得院 桔梗2 

天得院

 ①天得院が取り壊される原因となった法広寺鐘銘


天得院は東福寺の塔頭で正平年間(1346~1370年)に創建されました。

その後、豊臣氏より厚く崇敬され、1614年には豊臣秀頼(豊臣秀吉の子)が天得院の文英清韓(ぶんえいせいかん)に「方広寺の鐘銘を作ってほしい。」と依頼しています。
ところがこの鐘銘が原因で天得院は取り壊されることになってしまうのです。

天得院 桔梗 

天得院

鐘銘には「国家安康君臣豊楽」とあり、これに徳川家康が激怒したのです。

方広寺 鐘銘 

方広寺鐘銘

 方広寺 鐘楼

方広寺 鐘楼

「国家安康」は家康の名前を切っているじゃないか。
「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか。
けしからんーーーー!と。

②家康の二枚舌

豊臣氏は弁明のため、家康のもとに片桐且元と大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を派遣しました。
大蔵卿局は淀殿(豊臣秀頼の母)や秀頼の乳母だった人です。

家康は片桐且元には会わず、側近を通じて豊臣氏に対してメッセージを託しました。
そのメッセージとは、次のようなものでした。

①淀殿(秀頼の母)を人質として江戸へ送る。
②秀頼が江戸に参勤する。
③大坂城を出て他国に移る。
①~③のいずれかを選べ。

しかし家康は大蔵卿局には会い、こう言ったのです。
「秀頼は将軍・秀忠の娘婿だし、鐘銘のことなんて全然気にしてないよーん。」

大阪へ戻った且元は秀頼と淀殿にメッセージを伝えます。

↓大阪城3Ⅾマッピングで大阪城に映し出された女性。淀殿かな?

大坂城3dマッピング 淀殿? 
しかし秀頼や淀殿は大蔵卿局の報告を信じ、且元は嘘をついている、と考えました。
且元は大坂城を退去させられました。

家康は「且元に託したメッセージを無視するとは、やはり豊臣氏は幕府に反抗しているのだーっ。」と、大坂城攻撃を始めました。

大坂城3dマッピング 武士 

大坂城3dマッピング 大阪城炎上 

これが大阪の役で、1615年、秀頼は淀殿とともに自害し、豊臣家は滅びました。

↓ これはたぶん豊臣秀吉

大坂城3dマッピング 秀吉

大蔵卿局も子の治長と共に自害しました。
天得院もこの前後に潰されたのでしょう。
その後、天得院は1789年に再建されました。

③「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」には呪術がこめられていた?


蘆山寺 桔梗 『物語は呪術の道具だった?』 に、私は次のようなことを書きました。
①和歌や物語は呪術の道具だった。
②和歌が呪術の道具として用いられたのは、言霊信仰・・・言葉には実現させる力があるとする信仰からくるのではないか。
③掛詞やもののななどの和歌のテクニックは、呪う相手に悟られないようにするために発達したのではないか。

方広寺鐘銘事件はこれらを裏付ける事件のように思えます。

一般的には家康が秀頼にいちゃもんをつけたと言われていますが、秀頼や、天得院の文英清韓は鐘銘の言葉によって本当に家康を呪おうとしていたのかも?

だとすると見破られはしましたが、「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」とはなかなかうまいこと言ったものです。


天徳院 八重咲きの桔梗 

天得院

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[2017/07/14 11:23] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

蘆山寺 桔梗 『物語は呪術の道具だった?』 


京都市上京区 蘆山寺
2009年7月中旬 撮影


①朝廷の衰退は源氏物語が原因?

蘆山寺は紫式部の邸宅跡と伝わります。

蘆山寺 庭2 

大蓮寺 蓮 雨 『仏教嫌いの後光明天皇がお寺に安産祈願?』 で後光明天皇についてお話ししましたが、
その後光明天皇がこんなことを言っています。
「朝廷が衰微したのは、和歌と源氏物語が原因だ!」

御存じのように源氏物語は紫式部が著した恋愛小説です。
まだ読んだことはないんですが、源氏物語のあらすじを記した書物は読んだことがあります。
義理の母親と契って身ごもらせたり、美少女を養女にして成長すると自分の妻にしたり
好きな女のもとに通ったが逃げられ、そこにいた別の女性と契ったり
いや~、現代人からするととんでもなく乱れているんですが、平安時代にはそういうことは当たり前だったんでしょうか?

蘆山寺 桔梗 


②和歌は呪術だった?

さて、和歌と源氏物語が朝廷を衰微させたというのはどういうことなんでしょうか?

高田祟史さんは和歌とは文学ではなく呪術であるとおっしゃっています。
たとえば在原業平がこんな歌を詠んでいます。
桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜の花よ、散り乱れてあたりを霞ませておくれ。『老い』がやって来るという道が、花に紛れてしまうように。)

蘆山寺 桔梗


この歌は在原業平が四十歳になった藤原基経に贈った歌です。
表面上は基経を気遣う歌のように見せかけて、実は基経を呪った歌だと高田祟史さんはおっしゃっています。
五七五七七の冒頭の漢字をつなぐと「桜散り老い来る道」となるというのです。

古今和歌集を編纂した紀貫之は藤原良房と対立していた紀名虎と同じ紀氏です。
古今和歌集には藤原氏への呪いが込められているのではないでしょうか。

 蘆山寺 桔梗


和歌が呪術の道具として用いられたのは、言霊信仰・・・言葉には実現させる力があるとする信仰からくるものだと思います。
掛詞やもののななどの和歌のテクニックは、呪う相手に悟られないようにするために発達したのではないでしょうか。

③臣籍降下したものが太上天皇になるという呪術?


和歌と同じく、物語もまた呪術の道具であったのではないでしょうか。
物語はフィクションですが、やはり言霊信仰によってフィクションは実現すると考えられたのかも。

紫式部が著した源氏物語の主人公・光源氏は天皇の皇子として生まれましたが臣籍降下しています。
源氏とは臣籍降下した天皇の皇子に対して与えられた姓のひとつです。
光源氏は冷泉帝より准太上天皇の待遇を受けますが、これは紫式部がしかけた呪術であったのかもしれません。
臣籍降下したものが太上天皇になるという。

蘆山寺 桔梗と平安装束の女性 
紫式部役をしていただいたのは護王神社の亥子祭に登場された方です。(合成)


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[2017/07/11 20:05] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)