三重県伊賀市 伊賀鉄道 2019年6月23日 撮影
①目力半端ない!忍者列車。メーテル?それともスターシャ? いや、よく見ると「くノ一(くのいち)」でした。 一目で松本零士さんのデザインとわかりますね! ものすごい目力で、インパクト大です。 今度は駐車場に車を預けて一駅だけでも乗ってみたいです。 というのは中もなかなか凝ってるようなんですよ!→ https://www.igatetsu.co.jp/cat75/痺れますね! ②くノ一とは女の忍者ではなく女をさす隠語だった。「女の忍者」のことを「くノ一」といいます。 「女」という字は「く」「ノ」「一」と書くので、「女の忍者」のことを「くノ一」と言うのだと説明されます。 しかし、本来「くノ一」とは「女の忍者」のことではなく、「女」を意味する隠語であったそうです。 山田風太郎さんの『忍法帖シリーズ』の『忍法八犬伝(1964年)に「八人の女忍者、いわゆる服部くノ 一衆もまじっていた。 」と記されていて、こういったことから「くノ一=女忍者」と捉えられるようになったと考えられているそうです。 くノ一と呼ばれてはいませんでしたが女性の忍者もいたようです。 ただし、忍装束を着用し、忍の術を使ったりするのではなく、女中などに扮して諜報活動を行ったりしていたようです。 また男では潜入しにくいケースなどに女性を潜入させることを「くノ一の術」と言っていたようですね。 ③忍者のルーツは秦氏?飛鳥時代、聖徳太子が大伴細人を志能備(しのび)として用いたと伝わります。 聖徳太子のブレーンとして渡来人の秦河勝が有名ですね。 で、伊賀忍者といえば有名なのが服部半蔵ですが、服部氏は秦氏だとされます。 忍者と秦氏は何か関係があるのかも? 1962年に伊賀上野の旧家で発見された「上嶋家文書」には次のように記されていました。 伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が能楽者の観阿弥で、母は楠正成の姉妹であると。 観阿弥の子の世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していたということです。 そして能楽の始祖は秦河勝とされているのです。 能楽と忍者にも何か関係がありそうです。
能楽とは芸能のひとつです。 芸能とは現在では娯楽ですが、かつては神事だったと思います。 そして忍者の仕事の中には諜報活動も含まれていると考えられます。
芸能・神事・諜報活動といえば非人を思い浮かべます。 中世、京都の清水坂には祇園社(現在の八坂神社)に隷属する犬神人(「いぬじにん」「つるめそ」とも)と呼ばれる非人が住んでいました。 彼らは弓の弦を売る権利を得て「弦召そ」と言いながら町を歩いていたため「つるめそ」と呼ばれるようになったとされます。 しかし、それだけではなく死体の処理、清掃などにも携わっていたようです。
祇園祭 綾傘鉾の棒振り。 犬神人はこんな覆面をした姿で絵巻などに描かれています。 棒振りはもともとは犬神人によって行われていたのではないでしょうか。
清水坂から近い六波羅に平清盛は邸宅を構え、禿とよばれる少年を諜報部員(スパイ)として用いていたといわれますが 禿とは犬神人ではないかとする説があります。
犬神人は結髪がゆるされず童形(結髪しない髪型)であったとされますが、禿はおかっぱ頭であったとされます。
犬神人が芸能に携わったかどうかは勉強不足ゆえよくわからないのですが 興福寺に隷属する非人が住んでいたとされる奈良坂には奈良豆比古神社があり、毎年能のルーツともいわれる「翁舞」を奉納しています。
奈良豆比古神社 翁舞
芸能(神事)と諜報活動は非人と関係が深いのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%99 上記ウィキペディアの「夙」の項目を見ると、「大体、夙の分布は畿内の外、紀伊・伊賀・近江・伊勢・丹波・播磨・淡路に広がっており、」とあり、伊賀に非人が住んでいたとはいえそうです。
すると秦氏は非人なのか、と思えますが、秦氏は造(みやつこ)という姓(かばね。古代日本における氏族の称号。臣(おみ)・連 (むらじ) ,君 (きみ) ,首 (おびと) など三十種近くある。)でした。 この造(みやつこ)とは御奴からくるのではないかとする説があります。
奴は奴隷を意味する漢字です。

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三重県伊賀市上林 水車 2019年6月27日
①今も現役!灌漑用水車。メナード青山リゾートへ行く途中、カタコトと動く水車を発見しました。 水車といえば、蕎麦屋さんとか観光施設などに設置されているのをよく見かけます。 それはそれで雰囲気があっていいのですが 伊賀市上林の水車はインテリア用とか観光用ではなく、田圃への灌漑用として現役で動いているところが素晴らしい! 水路の水が水車の羽根にあたることで水車が回転します。 水車の羽根には容器がとりつけられていて、羽根が水路に水没すると容器に水が入ります。 水がはいった容器は水車の回転する力によって水上にくみ上げられ、田圃に水を流します。 こうした仕組みを考え出した先人の知恵はすごいですね。 ②現在、灌漑はどのようにして行っているのか?現在ではほとんど灌漑用の水車はみかけませんが、どのようにして田圃に水を入れているのか、調べてみました。 ため池の水門をあけると開渠 (かいきょ/上部を開け放した水路) を水が流れます。 開渠を流れる水はポンプなどでくみ上げるとのこと。 https://ameblo.jp/inosisi-sisisi/entry-11545686840.html地下にパイプラインをひき、蛇口をひねって田圃に水を入れるというシステムもあるようです。 http://www.shironegou.jp/rengou/works.html水をに水をためておき、くみ上げ、田圃に水を流すのですね。 ③諸国に灌漑用水車を作った良岑安世829年、良岑安世が諸国に灌漑用水車を作らせたとされます。 良岑安世は六歌仙の一、遍照の父親です。 遍照は百人一首にある「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」という歌を詠んだ人です。 遍照というのは出家して名乗った戒名であり、俗名は良岑宗貞といいます。 良岑安世は桓武天皇の皇子でしたが、臣籍降下しています。おそらく母親の身分が低かったためでしょう。 子供は遍照のほかにも大勢いました。 木蓮( いたび)・・・越前守 長松・・・・・・・・山城権守 清風・・・・・・・・近江権守 高行・・・・・・・・陸奥守 川の流れは皇位継承の血筋、水車でくみあげた水はその皇位継承に血筋から外れて、安世の子たちが地方官になったということを比喩的に行ったものだったりして? 川の流れが皇位継承の血筋を表しているのではないかと思われる歌はいくつかあります。 それについては別ブログの次の記事を参照してください。 私流 トンデモ百人一首 77番 瀬をはやみ・・・ 『藤原聖子を震え上がらせた歌?』 私流 トンデモ百人一首 13番 筑波嶺の・・・ 『龍田川だったらよかったのに・・・・』 私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
①谷間にかけられた水路橋上のgifアニメは「なばなの里」のプロジェクションマッピングで映し出されていたもので たぶん熊本県上益郡山都町にある石造のアーチ橋・通潤橋(つうじゅんきょう)だと思います。 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、橋から放水される様子がアニメーションにされていました。 この橋は、単に通行するための橋ではなく(通行できるようです)、谷間にかけられた水路橋なのです。 ぜひ、ほんものの通潤橋を見にいきたいです。 橋の上には3本の石管が通っているそうですよ。 石管水路の内部にたまった泥などをとりのぞくため、ときどき放水を行っているということです。  通潤橋がつくられたのは、江戸時代の1854年。 白石台地は水利が悪く、飲み水にも困るほどのありさまであったとか。 そこで矢部手永惣庄屋の布田保之助が中心となって通潤橋が建設されました。 通潤橋周辺は美しい棚田が広がっているようですが、通潤橋がもたらした水が棚田を作ったといってもいいでしょう。 このあたりにはアーチ型の石橋が数多くあるそうです。 その理由のひとつには加藤清正以来、優れた肥後石工の存在があったとされます。 これはどこの滝かな?くまモンの後ろ姿かわいいね❤②逆サイフォンの原理水潤橋は橋が結ぶ二つの地区よりも低い位置にあります。 それなのに、どうやって水をおくることができるのでしょうか。 それは逆サイフォンの原理によるとのことです。  上の図は友人に描いてもらいました。(ありがとうー) 友人には計算式なども教えてもらったのですが、理解できず(汗) ホースで水を撒くとき、ホースが地面にあって、地面よりも高い位置でホースをもっていてもホースから水が出てきます。 これと同じようなものなのかな? 上の図で管の高さが桶の高さと同じになると水は噴き上げず止まってしまうと思います。 ですが、水路は水が流れているので、その速度エネルギーで水を高い位置に持ち上げることができるということかもしれません。 (曖昧ですいません。)  上は草千里の山焼き?  ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
三重県桑名市 なばなの里 くまモンのイルミネーションは2018年3月のものです。
なばなの里でバーチャル熊本観光?
熊本城だよね。以下、観光地名まちがってたら教えてくださいね! ①加藤清正は梅毒で亡くなった?熊本城はもともとあった千葉城、隈本城をとりこんで加藤清正(1562年~1611年)が築いたお城です。 この加藤清正の死因は、徳川家康による毒殺説など諸説ありますが、一説に梅毒で亡くなったのではないかともいわれています。 というのは『当代記』という書物に「唐瘡(梅毒)で亡くなった浅野幸長同様、好色ゆえの虚の病で亡くなった」との旨が記されているそうなんです。 草千里かな。草千里では乗馬ができるそうです。②「誰も食わない ワシが食た」のワシはw氏(わし)=梅毒?
そういうわけで、かわいいくまモンや熊本とは何の関係もありませんが、今日は梅毒の話です。 梅毒の事を隠語でw氏(わし)と言うそうです。 w氏とはWassermann反応(ワッセルマン反応/略してW 氏反応)のことで、 梅毒を検査する方法のことです。 アウグスト・フォン・ヴァッサーマン氏が開発しました。
この話を聞いてピンと閃くものがありました。
皆さまは下駄かくしの歌をご存じでしょうか。
下駄かくしチュウレンボウ 橋の下のねずみが 草履をくわえてチュッチュクチュ ちゅっちゅくまんじゅは誰が食た 誰も食わへん わしが食た 表の看板三味線屋 裏から回って三軒め
この歌の歌詞に「誰も食わない ワシが食た」とありますが、食べたのか食べなかったのか、どっちやねーん、と長年思っていました。 この「ワシ」は梅毒という意味ではないでしょうか? 高浜というところでサーフィンできるらしいけど、どうでしょう?③「下駄かくし」の「チュウレンボウ」は「チョウリンボウ」が訛ったもの?「チュウレンボウ」は「チョウリンボウ」の訛ったものではないかという説があり、かつてコンサートなどの合唱に不適切であるとして抗議されたりしたことがあったようです。 ですがこのブログは歴史と民俗学を考えるブログですので(写真ブログじゃなかったのか~) 「あったもの」を「なかった」というわけにはまいりません。 このまま話をつづけますよ~。 これはどこなのか、わかりませんでした~。たぶん「チョウリンボウ」とは「長吏(ちょうり)ん坊」ということなのでしょう。 長吏とは日本の賤民の一つで、中世には穢多・非人の頭目(親分)、江戸時代には穢多・非人・非人頭のことをいったようです。 「赤ちゃん」の「赤」に「ん坊」をつけて「赤ん坊」といいますが、 これと同様「長吏」に「ん坊」をつけて「長吏ん坊」と言っていたのではないでしょうか。 『日葡辞書』には、長吏は「死んだ獣の皮を剥いだり、牛の皮を剥いだりする人、あるいはらい病(ハンセン病)にたいして監督権をもっている頭」と記されています。 ただし、「長吏」は地方によって仕事内容は異なっていたようです。 そして長吏は遊郭と結びつきが深かったように思えます。 非人総取り締まり役として、穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)という身分がありました。 で、当時罪を犯して死罪一等を減じられる「奴刑(しゃつけい)」によって穢多・非人の身分に落とされることがあったようですが こうした人が女性であった場合、穢多頭・弾左衛門は彼女たちを遊郭に売る権限を持っていたそうです。 さきほど、「長吏とは江戸時代には穢多・非人・非人頭のことをいった」と書きました。 穢多頭・弾左衛門は長吏とイコールであると考えていいのではないでしょうか。 「下駄かくしチュウリンボウ」のあと、「橋の下のねずみが 草履をくわえてチュッチュクチュ」となっていますが 被差別部落民は、河原・橋の下などに住まわされていたそうです。 ねずみは「チュウチュウ」となきます。 歌では「チュッチュクチュ」とありますが、これもネズミの鳴き声だと思います。 この「チュウ」や「チュッ」から、「チョウリンボウ」を「チュウリンボウ」としたのではないでしょうか? 通潤橋
④鼠鳴きかつて「鼠鳴き」と呼ばれるものがあったそうです。 喜多村筠庭著『嬉遊笑覧』巻之九に次のように記されているそうです。 『丹前能』(元禄十四年)、稲荷の条、「近年御造宮より此かた、鳥居の前には軒を並べ簾をかけ、うつくしき女、男をみれば鼠なき、あやしや狐のわざかととへば、いやいやあれは此処の茶立女、のぞめば奥にともなひ花代が月、酒を望めば外に分入事也とかたる。月・分とは、いかなることぞ。どうも、遊女が男を誘うときに行うものが「鼠鳴き」であったようです。 また、中野栄三著『廓の生活』には吉原の妓楼の習慣として次のような記述があるようです。 拝が終ると男衆は表入口に行って手のひらで柱と羽目板を叩き、鼠鳴きをしてから下足箱の傍らにある下足札の紐を右手に持ち、それを高くあげ鼠鳴きして、下足札で廊下を強く数回打つ、https://gionchoubu.exblog.jp/tags/%E9%81%8A%E5%A5%B3%E3%80%81%E9%BC%A0%E9%B3%B4%E3%81%8D/より引用 「橋の下のねずみ」とは被差別部落の遊女または男衆のことを言っているのではないでしょうか。  天草教会群⑤下駄かくしなのになぜ草履?「草履」は「じょうり」とも読むそうで、「長吏」に似ていますね。 ですが、なにか他の隠語なのかもしれません。 また「下駄かくし」なのになぜ下駄ではなく草履がでてくるのでしょうか? このあたり、よくわかりません。 下駄目というと、下駄には緒の穴が三つあるところから、三枚目のことですが、関係あるでしょうか? 中野栄三著『廓の生活』に 鼠鳴きをしてから下足箱の傍らにある下足札の紐を右手に持ち、それを高くあげ鼠鳴きして、下足札で廊下を強く数回打つ、とあるのも気になります。 下駄隠しとは、鼠鳴きと関係があるのかもしれませんね。 天草西海岸サンセットライン?自信なし。 ⑤毛饅頭「ちゅっちゅくまんじゅ」の「まんじゅ」は女陰だと思います。 女陰のことを俗語で毛饅頭といいますね。 酸ヶ湯温泉では湯治小屋の「まんじゅうふかし」が名物だそうですが、 これは中にお湯を通した木箱に腰掛けてお尻を温めるのだそうです。 女陰のあたりが温まるから、「まんじゅうふかし」というのでしょう。 「ちゅっちゅくまんじゅ」とは、鼠鳴きをする遊女の女陰という意味かもしれませんね。 山鹿灯籠浪漫・百華百彩かな?くまモンが躍っているのは山鹿灯籠踊りだと思う。⑥夙は三味線や鼓弓を弾いた。中世から近世、近畿地方に多く住んでいた賎民のことを夙といいます。 かわたよりも下位の身分で、かわた村の手下となった夙は雑芸能に携わって三味線や鼓弓をひいていたようです。 また和太鼓・三味線などは現在でも部落で作られることが多いとのことです。 下駄や草履も部落で作られることが多かったようです。 熊本には黒川温泉・平山温泉などたくさんの温泉があるそうです。 あー、行ってみたい!⑦下駄隠しは梅毒の売春宿の歌だった?以上のことを踏まえてもう一度下駄隠しの歌を見てみましょう。 下駄かくしチュウレンボウ 橋の下のねずみが 草履をくわえてチュッチュクチュ ちゅっちゅくまんじゅは誰が食た 誰も食わへん わしが食た 表の看板三味線屋 裏から回って三軒め
下駄かくし長吏ん坊 橋の下に住んでいるネズミ鳴きをする遊女(または売春宿野男衆)が、草履をくわえてチュッチュクチュ 鼠鳴きをする遊女の女陰は誰が食べた(エッチした) 誰も食わない w氏(梅毒)が食べた 表向きの看板は三味線屋になっている 裏から回って3限目がその売春宿だ? うーん、なんかエロい歌だったっぽいですね。 その意味を知りもせず子供たちが歌っているというのが何だかな~。 「下駄かくし」「草履をくわえてチュッチュクチュ」などの意味はもうちょっと調べて考えてみます。 good night. ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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三重県三重郡菰野町 湯の山温泉 2018年11月12日 撮影
①鹿の湯温泉 湯の山温泉は別名を鹿の湯温泉ともいい、こんな伝説があります。
木こりは狩人がやってきたのを鹿に教えて助けた。 数日後、鹿が木こりを訪ねてきて、「助けてくださってありがとうございました。お礼にいいことを教えましょう。私がいたくぼみには温泉が湧いていてケガによく効くのですよ。」 と教えました。
実際にクマや猿が温泉につかっていることがあるそうですが、鹿も温泉につかるんでしょうか? 動画など探してみましたが、見つかりませんでした。
②鹿は謀反人の比喩
実際に鹿が温泉につかることもあるのかもしれませんが、鹿は謀反人の比喩だと思います。
日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があるのです。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。 翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)
大仏殿 鹿
鹿の夏毛には白い斑点がありますね。それを塩に見立てたのでしょう。 謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。
③折り鶴伝説
湯の山温泉にはこんな伝説もあります。
江戸時代、上方の大店のひとり娘の葵と使用人の佐吉は身分違いの恋に落ち、湯の山にやってきました。 そして蒼滝に身を投じて心中しようとしたのですが、そこへ僧兵が現れ「温泉にでもつかれば、気持ちが変わるかも」といいました。 ふたりは僧兵の言葉通り、温泉に入りました。 すると、心中せずに頑張って生きていこうという気分になりました。
翌朝、二人は僧兵にお礼を述べようと三岳寺を訪れたました。 しかし僧兵の姿は見えず、ふたりは鶴を折って寺へ奉納しました。 不思議なことに折鶴は連なってひらひらと舞い上がり、飛びたっていきました。 ふたりは上方に帰り、(たぶん結ばれて)数年後に再び三岳寺を訪ねました。 山岳寺の住職は「もう何十年も僧兵はいない」といいました。
④鳥による温泉発見伝説
鳥が温泉を発見したという話が全国にたくさんあります。
白鷺温泉 | 愛知県 | 傷ついた白鷺が湯に浸かって傷を癒すのを見た人によって発見された。 | 山中温泉 | 石川県 | 奈良時代、行基が発見した。 文治年間長谷部信連が鷹狩にやってきた際、白鷺が芦の間の流れに傷脚を洗うのを見て発見し, 12件の湯宿を開いた。 | 片山津温泉 | 石川県 | 1653年、大聖寺藩二代藩主、前田利明が柴山潟に鷹狩りに訪れた際、 水面に水鳥が群れていたのを見て湖底の温泉を発見した。 | 和倉温泉 | 石川県 | 漁師の夫婦が七尾湾の沖合で、傷ついた足を癒す白鷺を見つけたことから発見された。 | 湯涌温泉 | 石川県 | 718年、紙漉き職人が泉で白鷺を見つけたことから発見された。 | 白山中宮温泉 | 石川県 | 泰澄が谷川で傷ついた白鳩を見つけたことから発見された。 | 粟津温泉 | 石川県 | 718年、泰澄が白山大権現のお告げに従って掘ったところ温泉が湧き出た。 | 下呂温泉 | 岐阜県 | 天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなった。 翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになった。 | 道後温泉 | 兵庫県 | 足を傷つけた白鷺が足を湯に浸したところ、たちまち傷が治って飛び立った。 | 山代温泉 | 石川県 | 725年、行基が白山へ修行に向かう途中、八咫烏が羽の傷を癒すのを見て発見した。 | 有馬温泉 | 愛媛県 | 神代、大己貴命と少彦名命が三羽の傷ついた烏が傷を癒すのを見て発見した。 |
※表では石川県が多いですが、 全部の温泉を調べたわけではないので、たまたまネットでぐぐった結果見つかったのが石川県の温泉だったという可能性が高いです。 ⑤折り鶴は白or黒?折り鶴というのは、白鷺による温泉発見説話の変形バージョンだと思います。 表を見ると、白い鳥(白鷺・白鳩)と黒い鳥(八咫烏・烏)のバージョンがありますね。 湯の山温泉の折り鶴は白でしょうか?黒でしょうか? 湯の花温泉の伝説では、折鶴は連なって飛び立ったとあるので、二羽の折り鶴が飛び立ったのでしょう。 そして、色は片方が白で、もう片方が黒だと思います。 その理由は、僧兵のいでたちを見ればわかります。  上は鞍馬寺・竹伐会式に登場した僧兵です。 白と黒の衣装を身に着けていますね。 そして、折り鶴は僧兵の化身だと思われます。 また折り鶴となっているのは僧兵の着物の裾がプリーツスカートの様に折りたたまれているからじゃないかと思いますが、どうでしょう? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/11/16 12:06]
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三重県桑名市 なばなの里 3月中旬撮影
なばなの里 河津桜なばなの里 しだれ梅 河津桜 『伊勢神宮が伊勢につくられた理由とは?』 のつづきでーす。 ①二見が浦からダイヤモンド富士が見える。
なばなの里にある「アイランド富士」。※地上45mの高さで回転し、360度のパノラマ風景を楽しむことができます。 なばなの里は三重県なのに「アイランド富士」というアトラクションがあるのは、 二見ヶ浦から富士山が見えるからではないでしょうか? 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます! ②富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星、カシオペア=?で、日本のあちこちに、北斗七星・カシオペア座・北極星になぞらえた場所があるみたいなんですよ。 下の図は夜空を左右反転させたものです。 夜空を左右反転させるのは、夜空をそのまま地上に投影したものを地上から見下ろすと、夜空を左右反転した形になるからです。  日振島はカシオペア座を左右反転させた形をしています。 三上山は北斗七星を表すものだと思います。その理由については、長くなるので前回の記事を読んでくださいね。 なばなの里 しだれ梅 河津桜 『伊勢神宮が伊勢につくられた理由とは?』 三上山は北斗七星、日振島はカシオペア座、鳴門の渦潮は北極星をあらわしているように思えるのですが、どうでしょう? これと同様、富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星だと思います。カシオペアはよくわからないんですが(汗) 奈良の二上山だと距離が近すぎ、日振島だと距離が遠すぎ、島根の二上山だと角度があきすぎ~? ③太陽神の子孫なのに天皇(北極星)とはこれいかに?「伊勢神宮って天照大神を祀る神社やん。天照大神って太陽神やろ。伊勢神宮が北極星って変とちゃう」って? いい質問です!(エラそう?) 天照大神は天皇家の祖神です。天照大神は太陽神です。それなのに、その子孫が天皇の称号を世襲しているっていうのも変ですよね。 天皇大帝とは北極星をつかさどる道教の最高神のことです。 太陽神の子孫なのに天皇(北極星)とはこれいかに~~~? なばなの里 河津桜 ④サルタヒコ=ニギハヤヒこんな話があります。 ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。 その後、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコを彼の故郷の伊勢へと送り届け、サルタヒコの名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。 ここからアメノウズメは猿女君と呼ばれるようになりました。 のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)
なばなの里 河津桜
サルタヒコは「高天原から葦原中国までを照らす神」と記述があります。 これにぴったりな神名を持つ神がいます。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀の記述で、記紀ではニギハヤヒとなっています。 サルタヒコとニギハヤヒは同一神なのではないでしょうか? ⑤天照大神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神?また、この天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が本当の天照大神だとする説もあります。 神はその表れ方で御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の三つにわけられるとされます。 そして女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。 私は御霊とは男女双体ではないかと思います。 つまり、サルタヒコ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とアメノウズメの男女双体の神が天照大神ではないかと思うのです。 道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神像だともいわれていますよ。 いや、太陽神=天照大神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=サルタヒコで アメノウズメは月の神だと思います。 陰陽道では太陽や男は陽、月や女性は陰とされているからです。 ⑥道祖神=女媧&伏義道祖神は中国の女媧&伏義と習合されていると思います。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg よりお借りしました。 作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で上は女媧&伏義を描いたものですが、絵の上部中央に太陽が、下部中央に月が描かれています。 ⑦伏義=太陽、女媧=月 http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1099.htm↑ こちらの五盔墓4号墳の壁画に描かれた絵では、伏義が持ち上げている円の中には八咫烏が、女媧が持ち上げている円の中にはヒキガエルが描かれています。 八咫烏は太陽の中に、ヒキガエルまたはウサギは月に住むと考えられていました。 この絵を見ると、伏義は太陽の神、女媧は月の神のように思われます。 いや、もっと広く伏義は陽の神、女媧は陰の神というべきかもしれません。 太陽は伏義を、月は女媧をあらわしていると思います。 ⑧太陽と月が結婚すると星が生まれる。そして、日食は太陽と月が和合することだといってもいいでしょう。 日食が太陽と月が重なっておきる現象だという説は古くから唱えられていました。 そして、日食になると夜のように暗くなり、星が見えてきます。 つまり、太陽と月が結婚すると星が生まれるというわけです。 上の女媧&伏義の絵にもたくさん星が描かれていますね。 伊勢神宮に祀られているのはサルタヒコ(太陽神)とアメノウズメ(月神)の男女双体の神=星の神だと考えることができるのではないでしょうか。  まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/03/27 19:27]
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三重県桑名市 なばなの里 2018年3月中旬 撮影 なばなの里 しだれ梅とアイランド富士①三重県なのになんでアイランド富士?なばなの里に空飛ぶ富士山が登場! 実はこれアイランド富士といいまして、地上45mの高さで回転し、360度のパノラマ風景を楽しむことができるというアトラクションなのです。 「三重県なのになんで富士山?関東地方ならわかるけど、三重と富士山って随分離れてるやん」とか思いませんか。 なばなの里 河津桜実は三重県の二見ヶ浦から富士山が見えるそうなんですよ。 しかも夏至の日には朝日が富士山から昇ってくるんだとか。 動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます! ②伊勢神宮が伊勢につくられ田理由は、二見ヶ浦から富士山がみえるから?東京の足立の花火を見にいったとき、 足立の花火 『道祖神の招きを受けて旅立った松尾芭蕉』 隣に居合わせたカメラマンさんとお話しをしました。 そのカメラマンさんは民俗学にも詳しくて、こんなことを教えてくださったのです。 「夏至の日に二見ヶ浦からダイヤモンド富士が見えるので、二見ヶ浦から近い伊勢に天照大神を祀る伊勢神宮がつくられたんですよ~♪」 おおーーーっ、おっしゃるとおりかも! そして、そして、それは伊勢神宮を北極星、富士山を北斗七星、どこかの場所をカシオペア座とする呪術なのではないでしょうか? なばなの里 河津桜とミツマタ③日振島=カシオペア座=藤原純友、三上山=北斗七星=平将門詳しく説明しますね♪ 日振島はカシオペア座を左右反転させた形をしています。  この日振島は平安時代に藤原純友の乱をおこした藤原純友の本拠地だったところです。 藤原純友の乱と同時期に平将門の乱がおこっています。 加門七海さんが関東の平将門関連史跡をつなぐと北斗七星の形になると指摘されています。 平将門は北斗七星の神だといってもいいでしょう。 すると藤原純友はカシオペア座の神と言えると思います。 で、琵琶湖のほとりにある三上山にすむ大ムカデを藤原秀郷が退治したという伝説があります。 藤原秀郷は平将門の乱を鎮圧した人なんです。 三上山にすむ大ムカデとは平将門の比喩だと考えられますね。 また日振島は藤原純友の比喩(日振島は藤原純友の本拠地だった)、三上山は平将門の比喩だと考えられます。 そして日振島はカシオペア座、三上山は北斗七星になぞらえられているのではないかと思えます。 なばなの里 河津桜④変形された北斗七星日振島はカシオペア座の形をしていますが、三上山は近江富士とも呼ばれ、台形の形をしていて北斗七星の形をしていません。 三上山大阪府交野市の星田妙見宮に北斗七星の神々が祀られていますが、やはり北斗七星の配置になっていません。 
星田妙見宮 境内図 (文・禄・巨・貧・破・武・廉とあるのが北斗七星の神だが北斗七星の形に配置されていない。) 上は星田妙見宮の旗に描かれえいた北方をつかさどるとされる聖獣・玄武(亀に蛇がまきついた姿をしている。)です。 その玄武の上に北斗七星を渦巻き状に変形させたのようなものが描かれています。 亀は北極星、亀にまきつく蛇は北斗七星をあらわしているのではないでしょうか。 北斗七星は北極星の周囲を回るので、このような形に描かれているのではないかと思います。 なばなの里 河津桜⑤三上山=北極星、三上山に巻き付くムカデ=北斗七星すると、本来、三上山は北極星、三上山に巻き付くムカデは北斗七星をあらわしていたのではないかと思われます。 しかし、日振島をカシオペア座になぞらえた場合、三上山を北極星&北斗七星になぞらえると、おかしなことになってしまいます。 というのは、カシオペア座は北極星をはさんで北斗七星と対面するような位置にあり、カシオペア座もまた北極星のまわりをまわっているからです。 ⑥鳴門の渦潮=北極星三上山は本来ならば北極星と北斗七星をあらわすものだと考えられますが、三上山は北斗七星をあらわすものとしましょう。 そして三上山=北斗七星と日振島=カシオペア座の中間に北極星になぞらえるものを探してみました。 そうしたところ、北極星にぴったりなものが見つかりました。鳴門の渦潮です。 すべての星は北極星を中心に左回りに回ります。それはあたかも北極星に宇宙を回転させるパワーがあるかのようですね。 日振島はカシオペア座を左右反転させた形をしていますから、北極星の回転方向も左右反転させなければなりません。 ということは、北極星は右回りに回転しているということになりますが、鳴門の渦潮はほとんど右回り回転だそうです。 http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/mirror/uzumaki.htm(私が見に行ったときは左回りの渦潮もたくさん発生していましたが)   ⑦他にもある、カシオペア座・北斗七星・北極星になぞらえられた場所北斗七星。北極星。カシオペア座になぞられているのは、日振島・鳴門の渦潮・三上山だけでなく、他の組み合わせもありそうです。 なばなの里 さんしゅゆ⑧富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星、カシオペア座は?
下の地図を見てください。 富士山=北斗七星、伊勢神宮=北極星だと思うんですが、カシオペアは・・・・ 奈良の二上山だと距離が近すぎ、日振島だと距離が遠すぎ、島根の二上山だと角度があきすぎ~? もうちょっと考えてみます~(汗) なばなの里 河津桜まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/03/24 23:12]
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三重県いなべ市 農業公園 開花状況はこちら→ http://www.inabe-nougyoukouen.com/flowering.html ●折烏帽子の形をした山 農業公園の向う側に烏帽子岳が見えています。 烏帽子岳は岐阜と三重の県境付近にあり、烏帽子岳というのは岐阜の人々が呼んだ山の名称でした。 三重の人々は熊坂山と呼んでいたそうです。 烏帽子岳というのは烏帽子に似てるからだそうです。 えーっ、どこが烏帽子に似てるの~?と烏帽子に詳しくない私は思いました。 私が思い浮かべた烏帽子は立烏帽子だったのです。 調べてみたら立烏帽子のほかにもいろんな烏帽子があるんですね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E5%B8%BD%E5%AD%90#/media/File:TakatadaTaga.jpg↑ リンク先は折烏帽子を被った多賀高忠の肖像です。 なるほど、この折烏帽子になら似ていますね! ●熊坂長範 と幸若舞『烏帽子折』さてこの烏帽子岳で、熊坂長範(くまさか ちょうはん)が旅人を襲ったという伝説があります。 熊坂長範は幸若舞長範(こうわかまい/室町時代に流行った語りつきの曲舞。能、歌舞伎の原型とされています。)・『烏帽子折』に登場する人物です。(架空の人物だと考えられています。) 烏帽子岳は熊坂山とも呼ばれていたということを思い出してください。 どうもこの山が烏帽子岳とか熊坂山と呼ばれるのは、この幸若舞『烏帽子折』と関係がありそうです。 『烏帽子折』について調べてみることにしましょうー。  烏帽子折とは烏帽子を作ること、または烏帽子を作る職人さんのことをいいます。 烏帽子はもともとは絹で作られていましたが、のちに黒漆を塗った紙で作られるようになりました。 折烏帽子は折って作りますので、烏帽子を作ることや職人さんのことを烏帽子折と言ったのだと思います。 幸若舞『烏帽子折』のあらすじはこちらにありました。→ http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/ebo/ebo.html 源義朝の子、牛若は鞍馬寺を出て金売吉次(の下人に扮して奥州を目指しました。 奥州をめざしたのは、奥州藤原氏の協力をえて平家討伐のチャンスをうかがうためでした。
近江の鏡の宿にやってきたとき、牛若は平家の侍たちが触れ回る声を聴きました。 「このあたりを通る16,7歳の稚児を都に連れてきたものには褒美を与える。」 平家の武者たちは牛若を探していたのでした。 平家の侍たちが「稚児を都に連れてこい」と言っていたので、牛若は元服して成人男子となろうと思い立ちました。 元服するためには烏帽子が必要なので、牛若は烏帽子折のもとを訪ねて左折の烏帽子を作ってもらいました。 左折りの烏帽子を身に着けることができるのは、源義朝の子供に限られていたのです。 元服の儀式には二人の烏帽子親が必要でした。 牛若は氏神・八幡神と、鞍馬の毘沙門天を烏帽子親として自ら元服の儀式を行い、源九郎義経と名乗りました。
美濃の青墓宿で義経の夢の中に父義朝・兄義平・朝長が現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集まっていると教えました。 待ちかまえていた義経のもとに長範が攻めてきましたが、義経は長範の八尺五寸の棒を切り落とし、長範を討ち取りました。
牛若(義経)が作ったのは左折の烏帽子とあるので、折烏帽子だったのですね。 折烏帽子は右折と左折があり、右折は烏帽子の上部を右に倒したもの、左折は左に倒したもののことだと思います。 左折の折烏帽子は源氏の大将が用いたとのことです。 烏帽子岳に熊坂長範の伝説が伝わっているのは、幸若舞『烏帽子折』に熊坂長範なる人物が登場するところから発想されたものではないでしょうか? ●陰陽に描き分けられた聖徳太子と物部守屋話は変わりますが、私は聖徳太子と物部守屋は陰陽に描き分けられていると思っています。 聖徳太子や蘇我馬子は崇仏派、物部守屋は廃仏派で、587年に戦がおこっています。 聖徳太子はこの時まだ13歳の少年でした。 物部守屋ははっきりした年齢はわかりませんが、大人であったことは確かです。 大聖将軍寺 神妙椋樹聖徳太子はこの戦の中で矢で射られそうになった時、椋の木の中に隠れて難を逃れました。 一方、物部守屋は榎木の木の上で指揮をとっていたところ、矢で射られて死亡しました。 陽・・・聖徳太子・・・崇仏派/少年/矢で射られそうになったが助かった。 陰・・・物部守屋・・・廃仏派/大人/矢で射られて死んだ。 ●表と裏で違う顔を持つ山?
これと同じように、義経は陽、熊坂長範は陰として描き分けられているのかもしれません。 義経は陽の存在であるとし、義経に対する陰の存在として熊坂長範なる人物が創作されたのではないか、ということです。 陽・・・義経・・・子供/小柄 陰・・・熊坂長範・・・大人/大柄飛鳥の橘寺に二面石というのがありますね。 片方は善面、もう片方は悪面だとされています。 これと同じように、烏帽子岳も表と裏で違う顔を持つと考えられたため、 岐阜側から見たときには烏帽子岳、三重側から見たときには熊坂山と呼ばれたのではないかと思ったりします。 岐阜側から見たときの呼び名・烏帽子岳には陽=義経の山という意味合いがこめられていたのではないかと思います。 そして三重側からの呼び名・熊坂山は熊坂長範=陰の山ということなのではないでしょうか? 岐阜から見た烏帽子山は左折、三重から見た熊坂山(烏帽子山)は右折ということなのかもしれませんね! 農業公園に行く途中、鮮やかなピンク色の梅の木を見つけたので、帰りによってみました。 梅は常法寺というお寺の境内にあり、大木にたくさんの花をつけていて見事でした! ネットで常法寺についてぐぐってみたのですが、ほとんど何も出てきませんでした~。 境内に案内板があったと思うんですが、写真に撮ってきたらよかったなあ~。 常法寺について何かご存知の方がおられましたら、教えてください! 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 いつも応援ありがとうございます♪
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[2016/03/03 00:00]
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