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倉敷アイビースクエア 『グリーンのカーテンは温度湿度を調整するというけれど、我が家では・・・』 

岡山県倉敷市 アイビースクエア
2016年1月 撮影

アイビースクエア

①倉敷浅尾騒動

アイビースクエアがある場所は江戸時代には倉敷代官所があったそうです。

幕末のころ、反幕的思想を持った者による代官所襲撃事件が相次いでいました。
1863年(文久3年)の『生野の変』では兵庫の生野代官所が襲われ、同年の『天誅組の大和挙兵』では奈良の五條代官所が襲撃されました。
1866年には倉敷浅尾騒動がおきました。

首謀者は立石孫一郎(大谷
敬之助より改名)。34歳。
彼は33歳のとき
長州の第二奇兵隊に入隊し、討幕の仲間を集めました。
1866年(慶応2年)4月5日、立石孫一郎は100人余の同志と石城山の第二奇兵隊をを脱走し、
船で瀬戸内海を進み、4月9日、倉敷の南の
連島に上陸しました。
翌4月10日未明、立石と仲間たちは倉敷代官所を襲撃して建物に放火しました。
大官の桜井久之助は長州征伐に出かけていて留守だったため無事でしたが、9名の死亡者が出ました。
その後、立石孫一郎らは浅尾藩の陣屋を焼き払うなどしました。
 立石らは高梁藩の備中松山城を奪う計画をたてていましたが、追討軍に捕らえられたり、打たれる者が続出。
しかし、
金比羅参りの舟に便乗したり、船頭に船を出してもらって四国や長州に逃げたりし78名が逃げのびました。立石は多度津、宇和島へと逃げたのち、第二奇兵隊脱走を謝罪するため周防・浅江の清鏡寺に立ち寄りました。
ところがこの寺の者に密告され、4月26日、
狙撃されて亡くなりました。36歳でした。

アイビースクエア 蔦の絡まる建物 
②井戸水を循環させる冷房システムを持つ工場

こうして焼き払われてしまった倉敷代官所あとは倉敷県庁となりました。
明治4年、倉敷県は小田県となり、倉敷県庁も廃止となりました。

明治20年、旧倉敷代官所(倉敷県庁)跡地に倉敷紡績の工場が建設されました。

第二代社長の大原孫三郎は、大型製氷機で工場の温度・湿度を調整したいと考えていたようです。
大型製氷機で温度湿度を調節するって、聞いただけですごいですが、実現はしませんでした。
そのかわり、井戸水を循環させる冷房システムを採用したようです。
また換気を良くするための換気塔が作られましたそうですが、どれが換気塔なのか、わかりませんでした(汗)

倉敷本社工場の井戸水を循環させる冷房システムがどのようなものなのかについても、調べてみたのですがわかりませんでした。
ですが、https://再生可能エネルギー利用.com/column/well-water-cooler/
↑上のページに井戸水を循環させる冷房システムが記されています。
倉敷本社工場もこのようなシステムだったのかもしれませんね。

上のサイトには、日本の高度経済成長期、井戸水クーラーは工場や家庭で水冷エアコンとして結構使われていたことも記されていますね。

工場閉鎖後、1974年にアイビースクエア(ホテルなど)となりました。

アイビースクエア? 
③アイビースクエアの緑のカーテン

また赤レンガの外壁をおおう「蔦(つた)」も温度調節に有効活用されたということです。
夏は茂って日陰をつくることで、建物の温度の上昇を防ぎ、冬は落葉して建物を温めるのでしょう。
近年、植物で夏場の暑さをしのぐ方法は「緑のカーテン」と呼ばれて人気ですね。

アイビースクエア 蔦の絡まる建物2 
④我が家の『グリーンのカーテン』実験結果

私も数年前にベランダにゴーヤを植えて緑のカーテンを作ったことがありました。
ですが夏場のベランダが暑くなりすぎるのか、8月ごろのゴーヤは元気がなかったです。葉っぱもしおれぎみ~。
暑さが若干和らぐ9月ごろになると、ゴーヤは元気を取り戻してきましたが。

ゴーヤは沖縄の野菜というイメージが強いですが、沖縄県那覇市の8月の最高気温は31.5度くらいです。
一方、京都府京都市の最高気温は33.3度、大阪府大阪市の最高気温は33.4度、奈良県32.6度と軒並み沖縄よりも高くなります。
35度を超えて、36度~38度になることもあります。
ゴーヤも大阪・奈良・京都の夏の暑さにはめげてしまうといいうことではないでしょうか。

そして肝心の室内の温度についてですが、ほとんど効果はありませんでした。

一般的な家庭であれば夏にはエアコンを使うので、効果を確かめるのは難しいと思いますが
物好きな私はそのころ家にエアコンを設置していなかったんですね。

で、窓辺にグリーンのカーテンを設置した部屋と、グリーンのカーテンを設置していない部屋の室温を比較してみましたが
ほとんど同じでした。

また湿度が高い6月ごろだと、窓際のグリーンが水蒸気をだして、よけいに蒸し暑く感じられることもありました。

ゴーヤが黄色い可愛い花をつけたり、実がなるのはうれしいのですが、
あしながバチもやってくるようになってしまい、怖くて洗濯物が干せない~。

ただ見た目が涼し気というのはありました。

倉敷あたりは関西と気候が違って、グリーンの効果も違うのかもしれません。

テレビで、遮光ネットを窓のちかくに設置すると室内の温度が5度も下がると言っていたので、こちらもまねしてやってみましたが
我が家では1度・・・いや0.1分も下がりませんでした~。

うちは鉄筋コンクリートの集合住宅です。木造などだとまた結果は違うかもしれません。

アイビースクエア オブジェ 

アイビースクエア 噴水 

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[2019/01/24 13:03] 岡山県 | TB(0) | CM(0)

倉敷 『宇喜多秀家と秀吉の関係は?』 


岡山県倉敷市 倉敷美観地区
2016年1月 撮影


倉敷 夜景3

夜明け前の倉敷

①内海だった倉敷を陸地にした宇喜多堤

昔、倉敷付近は吉備の穴海と呼ばれる内海でした。
倉敷の鶴形山にはクスドイゲ、ツワブキ、オニヤブソテツなどの海岸性植物が生育していますが、それはかつてここが島であったころの名残なのだとか。
平安時代初期には干潟(低湿地帯)となり阿智潟と呼ばれました。

1589年ごろ、岡山城主・宇喜多秀家(1572-1655)が倉敷付近に宇喜多堤を作りました。
宇喜多堤によって干潟に海水が入り込まなくなり、島々は陸続きとなりました。
こうしてできた平野には八ヶ郷用水がひかれ、耕作地となりました。
宇喜多秀家なくして現在の倉敷はない、と言っても過言ではないと思います。

②イケメン宇喜多秀家~❤

この宇喜多秀家の肖像画がすんごいイケメンなんすよー。

Ukita Hideie

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ukita_Hideie.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Ukita_Hideie.jpg よりお借りしました。
不明Unknown author [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

実物はどうだったんでしょう?

この時代の戦国武将の肖像画は結構残されていますが、宇喜多秀家ほどのイケメンはいないです。
やはり実物もイケメンだったのでは~♡♡
アンサイクロペディアを見ても「イケメン」が連呼されています(笑)。
https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6

秀家使用の鎧から推測して身長は170cmくらいだったと考えられています。
当時の男性の平均身長は156cm程度とされており、長身でもあったようです。

倉敷 
日が明けてきましたよ。

③織田信長が秀家に家督を継がせたのは秀家が美少年だったから?
 
1581年、宇喜多秀家が9歳のとき、父で岡山城主だった宇喜多直家が死去。
秀家は幼くして家督を継ぎますが。これには織田信長のはからいがあったとのことです。

織田信長といえば、やっぱり衆道ですよね!
当時、衆道は武士のたしなみとされていたのです。
森蘭丸はたいへんな美少年で、そのため信長は森蘭丸を気に入って小姓に召し抱えたといわれています。
小姓は衆道の相手とされることが多かったため、信長と森蘭丸はBLの関係にあったと考えられています。

9歳の宇喜多秀家もたいへんな美少年であったでしょう。
そんな秀家を美少年好きの信長が気に掛けなかったはずがない、と思ってしまいます~。
信長がまだ9歳だった秀家に家督を継がせたのは、秀家が美少年だったからではないでしょうか?

倉敷 猫屋敷

倉敷川  
④美少年宇喜多秀家、秀吉の猶子となる。

1582年、信長は本能寺の変で自害しました。
当時18歳だった蘭丸も本能寺の変で討死しました。

信長亡きあと、豊臣秀吉が天下人となりました。
秀家は秀吉にもたいへん気に入られ、秀吉の猶子(養子)となっています。
秀吉が猶子としたのは、智仁親王、近衛前子、伊達秀宗と宇喜多秀家の4人だけですから、秀吉は相当秀家を気に入っていたのではないでしょうか。
そもそも秀家という名前も秀吉の「秀」の字を与えられて名乗った名前なのです。

1598年 には26歳という若さで五大老のひとりに任じられています。
ちなみにこの時、他の五大老は徳川家康が55歳、前田利家が59歳、上杉景勝が42歳、毛利輝元が45歳で、宇喜多秀家が26歳というのはとびぬけて若いです。

倉敷 カフェ2

倉敷 カフェ

⑤秀吉は衆道もたしなんだ?

一般に秀吉は女好きで衆道には興味がなかったと言われていますが、本当でしょうか。
秀吉は秀家のイケメンぶりに熱をあげた結果、自らの猶子とし、秀吉の秀の字をあたえ、さらには五大老に任じたのではないかなと思ってしまいますがー。

『石田軍記』には「秀吉と石田三成がBLの関係だった」と記されており、また南方熊楠は「秀吉と織田信忠がBLの関係だった」と言っているそうです。

『石田軍記』は江戸時代に三成を中傷することを目的として記されたものです。
なので、偽ったことを書いた可能性もありますが。
南方熊楠が秀吉と織田信忠をBLの関係としている理由はわかりません。

ミーハーな内容で失礼しました! 

倉敷 新谷商店 
倉敷3 
倉敷2 

倉敷川 川舟乗場


倉敷川2 
倉敷 珈琲館 

倉敷 高田屋 
手をつないで、どこまでも歩いていこうね。



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[2019/01/23 18:00] 岡山県 | TB(0) | CM(0)

湯原温泉 川霧 百日紅 『はんざき大明神は砂鉄とけら(鉄の塊)の神だった?』 

岡山県真庭郡 湯原温泉

湯原ダム 川霧 
湯原ダム

③山陰地方の伝説はたたら製鉄にまつわるものが多い?


山陰地方の伝説について、こんな説があります。

a.スサノオが退治した八岐大蛇は山間の谷沿いのあちこちで行われていた野だたらの炎の比喩ではないか?

b.吉備津彦が退治した温羅という鬼はたたら製鉄に従事する人をあらわしているのではないか?

これはそのとおりだと思います。

薬師寺 花会式 追儺 

上の写真は奈良薬師寺の花会式ですが、鬼が燃え盛る松明をゆすぶって火の粉をまき散らしています。
また、このあと毘沙門天が登場しますが、毘沙門天とはもとはクベーラという地下の財宝を守護する神、鉱山の神です。
薬師寺にはブロンズの薬師三尊像がありますが、薬師寺の鬼はこの薬師三尊像を鋳造する人々を表しているのではないでしょうか。

鬼とは製鉄鋳造に従事する人のことをさしているように思えます。

②「ドジョウすくい」は「土壌すくい」だった?

cドジョウすくいの様をあらわす安来節は、実は砂金とりの比喩である。



金は普通の砂に比べて思いので、ザルに砂をすくって川の中でゆすると、重い金がザルの底に残ります。

もしかしたら「どじょう」は「土壌」で「土壌すくい」なのかもしれませんね。

湯原温泉 提橋 
鼓橋

③鉄穴流し

湯原を流れる旭川流域ではかつてたたら製鉄に用いる砂鉄が採取されていたそうです。
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru3-3.html

上記に次のような内容が記されています。

・かつて旭川は頻繁に洪水を起こしていた。
・その原因のひとつは砂鉄を採取するための鉄穴流し〈かんなながし〉である。
・鉄穴流しとは、山を崩して土砂を水路に落とし、それを流下させることで比重の軽い土砂と重い砂鉄を分離させる方法のことである。
・採掘場からたたら場(たたら製鉄を行う場所)まで造った水路は500mから数㎞。
4、5か所に精洗場をもうけ、さらにたたら場近くには砂鉄洗い場をもうけて、そこで土砂を撹拌し、軽い土砂と砂鉄を分離させていた。
・土中の砂鉄の量は、多くても3%程度なので、大量の土砂を川に流す結果となった。
大量の土砂によって耕作地が増えるというメリットはあったものの、旭川を氾濫させるというデメリットも生じた。

安来製作所鳥上木炭銑工場提供の鉄穴流しの操業写真が掲載されていますが、湯原の町にこんな水路とため池のようなものがありました。
もしかして、かつての鉄穴流しの跡だったりして?(未確認)

地福寺 百日紅 
地福寺 百日紅

ウィキペディアによると、江戸宝暦(1751年から1764年)年間以降より、「鉄穴流し」が行われるようになったとあります。
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru3-3.html
しかし上記には、宝永2(1705)年に津田永忠が記した口上に、
「県北作州(美作)のたたら吹製鉄のため旭川の川床が土砂で埋まって高くなり、城下における洪水の危険性が高くなった」
とあるそうなので、鉄穴流しの歴史は宝暦よりももっと古いかもしれませんね。

さらに昔にさかのぼると、どじょうすくいのようなやり方で砂鉄を採取していたのでしょうが、この方法は大変効率が悪い。
もっと効率のいい方法ということで鉄穴流しが考案されたのでしょう。

鉄穴流しは近年まで行われていましたが、農作物の生育、飲料水、製紙・酒造・紺屋(こうや/染物屋)などに影響があるとされ、1971年の水質汚濁防止法で禁止となりました。

湯原温泉 地福寺 百日紅 

地福寺 百日紅

④はんざき大明神

えー、話しは変わりますが湯原温泉は大山椒魚の生息地です。
大山椒魚は別名を『はんざき』といいますが、湯原温泉にははんざき大明神を祀る社もありますよ。

はんざき大明神 

はんざき大明神

はんざき大明神のこんな伝説も伝えられています。

文禄時代(1593~1596)旭川上流の龍頭ヶ淵に全長10mもある大はんざきが住んでいました。
近くを通りかかった人や牛を飲み込んでしまうので、三井彦四郎という若者が大はんざきを退治しようと淵に飛び込みました。
大はんざきは彦四郎を飲み込んでしまいましたが、彦四郎は大はんざきの腹を切り開いて出てきたので無事でした。
しばらくして、夜、彦四郎の家の戸をたたき、号泣する声が聞こえるようになり、まもなく彦四郎一家は全員亡くなってしまいました。
村人たちはこれを大はんざきの祟りであるとして、はんざき大明神の祠をたてて慰霊しました。


湯原温泉には『はんざきセンター』があってはんざきを飼育していたんですが、写真撮りそびれまして(汗~)
ユーチューブからお借りしました。(ありがとうございます!)



⑤はんざきの斑点は皮膚病のイメージとは言い難い~

この伝説は何を言おうとしたものなのか、考えてみました。

こんな話があります。

612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。(日本書紀)

白い斑点はハンセン病を思わせます。
ハンセン病の初期症状は白または赤・赤褐色の斑点ができることです。
https://www.nippon-foundation.or.jp/what/projects/leprosy/about/

この物語に登場する百済人はハンセン病ではなく、別の皮膚病だったのかもしれませんが
皮膚病は忌まわしいものと考えられており、その結果、海中の島に置き去りにされそうになったと考えられます。

そこでもう一度、はんざきの動画を見て下さい。斑点がありますね。
はんざきの斑点はハンセン病などの皮膚病をあらわしているのか?
でも白い斑点じゃないなあ~?

参照/海遊館  『じんべえさまと鹿の共通点は?』 

湯原温泉 旭川 川霧

旭川

ハンセン病は白・赤・赤褐色の斑点ができるのでした。
なので、はんざきの黒っぽい斑点も皮膚病をあらわしているといえるかもしれないけど、ちょっとひっかかります。

古に猛威をふるった病といえば天然痘ですが、天然痘にかかると、皮膚色またはやや白色の豆粒状の丘疹が全身にできるそうで
はんざきは黒い斑点なので、天然痘のイメージとは言い難いです・・・・・。

湯原温泉 旭川 川霧  
旭川

⑥はんざきは砂鉄とけら(鉄の塊)の神?


それでは、はんざきの黒い斑点は何に似ているか。・・・・砂鉄?

たたら製鉄では粘土製の炉を木炭で熱した中に砂鉄をいれて溶かします。
龍頭ヶ淵とは、このたたら製鉄の炉のことでは?




上のたたら吹きの動画の11:56あたりから見てください。
たたら吹きの最終段階では「けらだし」といって、炉を崩す作業があります。
炉を崩した中から「けら(鉄の塊)」がでてきます。

腹を割るとは炉を割る「けらだし」のことで、中から出て来た「けら」が彦四郎ではないでしょうか。
動画の12:57あたりに「けら」の映像がありますが、長細い形ははんざきの形に似ていますし、
表面がぶつぶつとした感じははんざきの斑点をイメージさせます。

彦四郎とは砂鉄を擬人化したもので、彦四郎が飛び込んだ龍頭ヶ淵とはたたら吹きの炉、
「腹を割る」とはけらだし(炉を崩す)で、その中から出て来た彦四郎とは「砂鉄がたたら吹きでけら(鉄の塊)になったもの」の比喩ではないでしょうか。

彦四郎一家が死んだというのは、けらが死んだという意味ではなく、たたら吹きにかかせない鉄穴流しによる川の汚染で、本物のはんざきが死んでしまったという意味ではないかと思います。

「はんざき」という名前は「体を半分に裂いても生きている」ところからくるともいわれていますが
「彦四郎(砂鉄)が「腹を裂いて、(けらとなって)出て来た」ところから、「腹裂き」がなまって。「はんざき」になったのかも?


湯原ダム 川霧2

湯原ダム


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[2018/09/11 18:45] 岡山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

湯原温泉 川霧 『失ったものが返ってくる薬師如来』 

岡山県真郡 湯原温泉

湯原ダムと砂湯 
①旭川のほとりの天然露天風呂

写真中央あたりに、四阿(あずまや)があるのがわかりますか。
この四阿の下付近に砂湯と呼ばれる天然の露天温泉があります。
(小さくわかりにくくてすいません。入浴中の方がおられたので~)

ほかにも、旭川のほとりにはいくつか町の人々が共同で使っている温泉があり、テントやコンクリートの小さな建物で覆われていました。
おじいさんとおばあさんが世間話をしながら湯舟につかっておられるようで、中から話し声が聞こえてきました。
おおらかというか、ほのぼのする光景ですねー。

湯原温泉 吊り橋  

②湯煙か川霧か?

川霧が幻想的な風景を作っていました。
ウィキペディアに掲載されている写真も霧が出ている写真でしたが、「川霧」ではなく「湯煙」と説明されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%8E%9F%E6%B8%A9%E6%B3%89

川霧なのか、湯煙なのか?
たぶん、川霧と湯煙が混ざっている状態じゃないかと思います。

川霧も湯煙も発生のメカニズムは同じだと思います。(ですよね?)

空気中に水が気体として(水蒸気として)存在できる量の最大値(飽和)は、気圧や温度によって決まっています。
気温が高いほど水蒸気は多く空気中に存在することができます。
よって、気温が下がると水蒸気が飽和状態を超えて水になります。

湯煙とは温泉の湯が蒸発して水蒸気となったものが冷やされて細かい水の粒となったものです。

一方、川霧とは川の水が蒸発して水蒸気となったものが冷やされて細かい水の粒となったもののことを言います。
旭川の河原では温泉が湧いています。もしかしたら、川の中でも温泉が湧いているかもしれません。
なので、通常の川より水温が高いのではないかと思います。
水は温度が高いほど蒸発して水蒸気になりやすいです。

また撮影日の天気は雨で湿度が高かったです。
湿度とは空気中に含まれる水の量を、比率で表した数値のことです。
雨で湿度が高いので、川や砂湯から発生した水蒸気はすぐに飽和状態を超えて大量の川霧や湯煙が発生した、ということじゃないでしょうか。

地元の人に話を伺ったところ、常時こんな霧が出ているということはないが、よく霧がでるということでした。

湯原ダム 川霧 

③湯原温泉はたたら製鉄の山人の湯治場だった

兵庫県圓教寺の僧・性空上人が重病になったとき、夢枕に天童が現れて湯原温泉の存在を教えたという伝説があります。
また、宇喜多秀家が母「おふくの方」病回復のため湯原温泉に大きな湯屋のほかに寄宿10余棟を造営したとも伝わります。

地元の歴史研究家によればそれより以前、このあたりではたたら製鉄が盛んで、たたら製鉄に従事する山人の湯治の場であったといいます。
またこのあたりは冬場はたいへん寒いそうですが、河原は地熱が高いので山人たちは河原に小屋をたて、床暖房として用いていたとも。
なにかそういった遺跡があるんでしょうかね?

 日本の「たたら製鉄」は、5世紀から6世紀ごろ、始まったとされます。
湯原温泉付近のたたら製鉄も、そのころから行われていたのではないかと考えられています。

奈良時代~平安時代の官僚・和気清麻呂は、湯原周辺でたたら製鉄を行っていた佐波良一族から出たと伝えられています。
岡山県和気郡和気町にある和気神社には佐波良命(さわらのみこと) がまつられていますが、佐波良命は 清麻呂の高祖父(本人ー父―祖父―曽祖父ー高祖父)とされます。




動画お借りしました。ありがとうございます。

たたら製鉄といえば、ジブリのアニメ「もののけ姫」を思い出しますが、ほかにもジブリを思い出させるものが。

 湯原温泉 油屋さん

油屋さんです。(生野銀山のマネキンさんを合成)

油屋さんは、ジブリのアニメ「千と千尋の神隠し」に登場する油屋さんのモデルのひとつといわれています。

湯原温泉薬師堂 

油屋さんの隣には湯原温泉薬師堂がありました。
失ったものが帰ってくるお薬師様として信仰されているそうです。

湯原温泉 薬師堂 薬師如来

「失ったものが帰ってくる」という信仰が生じたのはなぜなんでしょうか?

そういえば、平将門の首塚は、京から飛んで帰ってた将門の首がおちた場所で、「無事帰る」のごろ合わせから「ガマ(カエル)」を奉納する習慣があったけど~?

そんなことを考えながら温泉街を散策していると澄んだ美しい鳴き声が。
小鳥のさえずりのようにも聞こえますが、かじかカエルの鳴き声です。(実は録音したものを流しているらしい・・・笑)



動画お借りしました。ありがとうございます。

ここはカジカガエルの生息地なんですね。
湯原温泉薬師堂の薬師如来さまはこのカジカガエルを神格化したものであり、それで「失ったものが帰る(カエル)」という信仰が生じたのかも?

 

湯原ダム 川霧2 

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[2018/09/08 17:01] 岡山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

備中国分寺 蓮華草 鯉のぼり 『梅雨時にあげていた昔の鯉のぼり』 

岡山県総社市 備中国分寺
撮影 2016年4月30日


ヤボ用で忙しくて(撮影ではない)なかなかブログを更新することができませんでした~。
今後もしばらくヤボ用が続く予定なので、頻繁にブログの更新をすることができないかもしれませんが、よろしくお願いします~。

備中国分寺 蓮華草2

ヤボ用で忙しいんですが、備中国分寺に行ってきました。(忙しいとかいいながら、ちゃっかり遊んでるやん~)

備中国分寺 鯉のぼり 
塔百景8


青空の下で泳ぐ鯉のぼりが気持ちよさそう~。

でも、梅雨の長雨にびっしょりと濡れているのが本来の鯉のぼりだったはずです。
旧暦の5月5日は新暦よりも約1か月遅れになりますから、梅雨入りしていたことが多かったでしょう。
「五月晴れ」という言葉は、現在では「5月のカラリと晴れた日」のことをいいますが
旧暦では「梅雨の合間の晴れ」のことを表す言葉でした。

梅雨の長雨に打たれて垂れ下がる鯉のぼりなんてあまり絵にならないような気がしますが
古の人々は、ぐっしょり濡れた鯉のぼりの姿に「鯉の滝登り」をイメージしたことでしょう。

中国の黄河の上流に竜門の滝と呼ばれる急流があり、これを登り切った鯉は竜になるという伝説があり、これを「鯉の滝登り」と言います。

備中国分寺 蓮華草 塔百景9

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[2016/05/06 19:29] 岡山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

玉雲宮 百日紅 『一富士・二鷹・三茄子の謎、そして殺生石はなぜ高田の地に飛散したのか』 


前回
、化生寺の殺生石の石碑について書きましたが、化生寺の隣に玉雲宮(たまもりぐう)があります。

玉雲宮 鳥居 


玉雲宮 百日紅

化生寺は殺生石を破壊した玄翁が、殺生石を玉雲大権現として創建した寺です。
玉雲宮はその化生寺の鎮守社です。
おそらく玉雲大権現とは殺生石=九尾の狐のことなのだと思います。

玉雲宮 花態絵馬 
↑ 大きな未生御流の花態絵馬が掛けられていました。
こんな絵馬は初めて見ました~~!

前回の記事の中で九尾の狐について書きましたが、九尾の狐のしっぽはなぜ九尾あるのでしょうか?

以前の記事、祇園祭 山鉾巡行 菊水鉾 『菊慈童と不老長寿』 に書いたように、
9月9日は重陽の節句で、法輪寺では菊の葉についた雫を飲んで700歳の長寿を得たとされる菊滋童の舞が舞われます。
9という数字には不老不死という意味があるのではないでしょうか。

そして九尾の狐は753年に遣唐使船に乗って日本にやってきてから平安時代に討伐されるまでの長い間生きていました。
討伐されたのが鳥羽院が院政を開いた1129年としても、376年生きていたということになります。
さらに討伐されてからは殺生石となり、今も毒気を吐き続けているのですから、九尾の狐はまさに不老不死であるといえます。

その殺生石は玄翁に破壊され、全国3か所の高田という地名の場所に飛散したとされます。
3か所の高田の地は、越後國高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)または豊後国高田(大分県豊後高田市)、美作国高田(岡山県真庭市勝山)とされます。
化生寺のある勝山の地はかつては高田という地名だったのです。

殺生石はなぜ高田という土地に落ちたなどと言う伝説が作られたのでしょうか?

殺生石の本体は栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩だとされています。
私はこの那須という地名が気になります。

初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子といいますね。
徳川家ゆかりの駿河国での高いものの順(富士山、愛鷹山、初物のなすの値段)など様々な説がありますが
私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えています。

殺生石のある栃木県那須町の近くには足尾銅山があります。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山があります。
銅は茄子色をしています。
そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないでしょうか。
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うわけです。

鷹は鷹の爪のことでしょう。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないでしょうか。


藤は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思います。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思います。

大阪府枚方市には藤田川(とうだがわ)・高田(こうだ)・茄子作という地名があり、一富士・二鷹・三茄子が揃っています。
そして茄子作という地名は「惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったところから名鈴となり茄子作になった」と言われています。
鈴は金属のスズを表しているのかもしれませんし、愛鷹は鷹の爪=水銀を表しているようにも思えます。

すると高田の高は同音であるということで、鷹、水銀を表しているのではないかと思えます。
高野山には水銀の鉱脈があるそうで、それで高野山という地名がつけられたとする説もあります。

水銀はかつて不老不死の妙薬と考えられていました。
実際には水銀を体内に大量に摂取すると水俣病になったりして不老不死どころか体に悪いのですが~。

九尾の狐のしっぽが九尾なのは、九と言う数字が不老不死を示しているのではないかと私は考えました。
そして高田と言う地名は水銀に関係する地名であり、水銀は不老不死の妙薬とされていたところから、九尾の狐が化生した殺生石のかけらが高田という地名の場所に飛散したなどといわれているのではないかと思ったりします。

勝山 町並 

城下町・勝山はほんとうに美しい町でした。また行きたいです。

勝山 街並2 
勝山のスーパーでソフトクリームを注文したら、サンプルより2~3巻も多く巻いてくださってすごくうれしかった~。
ありがとうございました~♪(食い意地はってる・・・)

玉雲宮・・・岡山県真庭市勝山748


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[2015/08/31 11:03] 岡山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

化生寺 芙蓉 『九尾の狐とは彗星のことだった?』 


岡山県の城下町・勝山にやってきました。

勝山 旭川

情緒ある街並みが続きます。

勝山 三浦坂 

三浦坂を登り、しばらく歩いていくと化生寺がありました。

勝山 化生寺 芙蓉

境内には殺生石の石塚がありました。

勝山 化生寺 殺生石の石塚


殺生石とは!

753年、吉備真備は遣唐副使となって入唐し、帰国する際に若藻という少女を遣唐使船に乗せたといわれています。
若藻は実は九尾の狐が少女に化けていたのでした。
九尾の狐とは9本の尾をもつ中国神話に登場する妖狐です。

平安時代、九尾の狐は絶世の美女・玉藻前に化け、鳥羽院(生没年/1103-1156 在位/1107-1123)の寵愛を受けます(鳥羽院は退位後1129年に院政を開いていますから、玉藻前を寵愛したのは1129年以降ということになりますね。もちろん、フィクションですが。)
ところが玉藻前を寵愛するようになってから鳥羽院の体調がすぐれなくなりました。
陰陽師・安倍泰成はこれを玉藻前の仕業と見抜きます。
泰成が真言を唱えると玉藻前は九尾の狐の姿に戻って逃げていきました。

その後、九尾の狐は那須野(栃木県那須郡)で女性をさらうなどしたため、鳥羽院は討伐軍を那須野に送ります。
討伐軍は狐の妖しの術にまどわされ苦戦したため、犬追物で騎射を特訓しました。
犬追物とは騎乗して犬を射るものですが、矢が犬を貫かないように特殊な鏑矢が用いられたようです。
特訓のかいあって九尾の狐は退治されましたが、死後、巨大な毒石・殺生石に変化して人や動物が近づくと毒気を出して命を奪いました。

この殺生石は栃木県那須町那須湯本温泉付近に実在している溶岩のこととされています。
溶岩があるあたりには有毒ガスが噴出していて、現在では立ち入り規制されることもあるそうです。

南北朝時代、玄翁和尚(生没年/1329-1400)が殺生石を破壊しました。
破壊された殺生石のかけらは全国3ヶ所の高田の地に飛んでいって落ちたと言われています。
3か所の高田の地は、越後國高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)または豊後国高田(大分県豊後高田市)、美作国高田(岡山県真庭市勝山)とされます。

化生寺のある勝山の地はかつては高田という地名だったのです。

『雲陽誌』という書物に次のような内容が記されています。

島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。


ここに『星隕って石となる』とあります。
日本の古い祭祀スタイルとして磐座を御神体として祀ったケースが数多くあります。
このような磐座は、古には落ちてきた星であると考えられていたのでしょう。

また、『日本書紀』によれば637年に大流星があり、これを「天狗(あまつきつね)」と記しています。

すると殺生石も落ちてきた星であり、殺生石に化生した九尾の狐の正体も星ではないかと思うのです。

天狐という想像上の動物がいます。
狐が1000年生きると天狐になれるといわれ、尾の数は四尾とされます。

九尾の狐は天狐に似ていますが、尾の数が九尾なので、天狐とは少し違うようです。

天狗(あまつきつね)が流星のことだとすれば、九尾の狐は彗星のことではないでしょうか。

勝山 化生寺 九尾の狐


彗星は別名を箒星ともいいますが、九つにわかれた尾は箒のようにも見えます。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Comet-Hale-Bopp-29-03-1997_hires_adj.jpg(ヘール・ボップ彗星)
西洋の魔女は箒に乗って飛びますが、これも彗星を表しているのではないでしょうか。

化生寺・・・岡山県真庭市勝山748


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[2015/08/30 13:20] 岡山県 | トラックバック(-) | コメント(-)