富山城 温顔時富山別院 ライトアップ 『富山の薬売りと浄土真宗』 

 富山市丸の内 富山城
富山市総曲輪 本願寺富山別院
2017年2月下旬撮影

富山城 ライトアップ3

①富山の薬売りの思い出


子供のころ、富山の薬売りのおじさんがよく家に来たものです。
しゅっとしたイケメンのおじさんでしたね。
家にはおじさんが置いていった薬箱があり、中にはいろんな薬が入っていました。

http://nomurayaku.sakura.ne.jp/toyama.htm
上記リンク先に富山の薬のパッケージの写真が掲載されています。
どれもレトロなデザインがすてき~。
獅子頭をデザインしたかぜビラα、達磨のかぜ一快など見覚えがあります。
パッケージ捨てずに置いとけばよかった~。

で、いつも帰り際におじさんがおみやげをくれるんですね。
風船とか紙風船が多かったかな。
http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_35.html
こちらもすてき~。置いとけばよかった~。

富山城 ライトアップ 

②富山の薬売りのルーツは江戸城腹痛事件


1639年、加賀藩第3代藩主・前田利常は引退し、前田利常の長男・前田光高が加賀藩第四代藩主となりました。
この際、前田利常は次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石の分封を願い出て許されています。
「次男の利次、三男の利治にも何か分け与えてやりたい!」
前田利常はそう考えたのでしょうネ。
こうして同年、富山藩が成立しました。
ところがこの富山藩、際立った産業がない貧乏な土地でして、財政難に~。
「兄の利常は100万石なのに、弟のオレは10万石~。弟って損だよ~」
と利次が言ったかどうかはわからないですが。

 
金沢武家屋敷4 
金沢 長町武家屋敷

「泣き言を言っても仕方ないじゃん!自分の藩は自分で努力して切り開かなくちゃ!」
利次の次男で富山藩2代藩主となった前田正甫(まえだ まさとし)がこう言ったかどうかもわからないですが
彼は有能な人材をばんばん採用。
新田開発・製鉄業ほか、様々な産業を奨励するなどして、財政難を克服すべく精力的に活動しました。

こう書くと前田正甫って溌剌とした人物のようにも思えますが、実は病弱な人だったと言われます。

皇居3  
江戸城(現在は皇居)

1690年、正甫は江戸城でひどい腹痛に襲われました。(江戸城腹痛事件)

三春藩主・秋田輝季「前田殿、どうなされた?」
正甫「うう~、おなか痛い~、もうだめ~、死ぬ~。」
秋田輝季「それは大変。そうじゃ、これをお飲みなされ。腹痛によく効きく薬でござる。」
正甫「腹痛によく効く薬?」
秋田輝季「さよう、反魂丹でござる。」

堺鉄砲鍛冶屋敷 
堺鉄砲鍛冶屋敷

反魂丹は室町時代に堺の商人・万代掃部助(もず かもんのすけ)が中国人から処方を学び、代々万代家が伝えてきたといわれる薬です。

反魂丹を飲むと正甫の腹痛はけろりと治ってしまいました。
(ただし、これを裏付ける史料はないそうで、作り話かもしれません。)

「反魂丹ってすげー!」
驚嘆した正甫は万代家11代目・万代常閑(まんだいじょうかん/読み方を「もず」から「まんだい」に改めていた)を富山に呼び寄せ、その製法を教わりました。
そして独自に調合させた「反魂丹」を印籠に入れて持ち歩いていたと言われます。
また、松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、領地から出て全国どこでも商売ができる「他領商売勝手」を発布しました。
さらに富山城下の製薬店・薬種業者を保護するなどし、18世紀には富山藩の一大事業となりました。

富山の薬売りは、財政難に悩む病弱藩主・正甫が生み出したといえるかもしれません。

富山城 ライトアップ2

上杉謙信、富山の薬売りをスパイとしていた?

この時代、一般の人が旅をするには許可が必要だったんですね。
ところが富山の薬売りのような行商人は比較的自由な移動が認められていました。
富山の薬売りは領地から出て全国どこでも商売ができる「他領商売勝手」を持っていました。
これに上杉謙信が目をつけた! とも言われています。
上杉謙信は武田信玄が忍者を使っているのに対抗して、富山の薬売りをスパイに用いていたというのです。
もちろんこういうことは史料などには残っていませんが~。

⑥富山の薬売りと浄土真宗

富山城の近くに本願寺富山別院がありました。浄土真宗のお寺です。
北陸地方では浄土真宗の信者が多いのです。
戦国時代、本願寺は北陸地方に勢力を伸ばしました。それが現在まで続いているのですね。
富山の薬売りもほとんどが浄土真宗の信者で、懐に小さな仏像を持って全国を行商したといわれます。
かつて仏教と医学は密接な関係があったと思います。
大阪の四天王寺などでは施薬院(薬局)・療病院(病院)・悲田院(入院病棟)が設けられていましたし。

本願寺 富山別院

本願寺 富山別院


⑦富山の薬売りと少名彦名神

さらに日本では古くより神仏は習合して信仰されていました。
今回の旅では訪問しなかったのですが富山市鹿島町の鹿嶋神社では前田正甫を富山の薬売りの祖神として祭っているそうです。
鹿嶋神社では前田正甫のほか、大己貴命と少彦名命も祭っています。
少彦名命は薬の神として信仰されており、薬問屋が多い大阪の道修町には少彦名神社がありますね。

また、和歌山県加太の淡嶋大社でも神功皇后のほか、大己貴命と少彦名命を祀っています。
女性の下の病にご利益があると信仰されていますよ。
で、江戸時代には淡島願人といって淡島神を祀る小さな社を背負った乞食が全国をまわり、淡島さんの徳を説いてまわっていたようです。

http://www.geocities.jp/seijiishizawa/NewFiles/hina-okuri2.html
上記リンク先に淡島願人の絵があります。
下のほうに、社を背負った淡島願人の絵が掲載されています。

荷物を背負う姿が、なんとなく富山の薬売りに似ているような気がします。

富山の薬売りたちが懐に小さな仏像を持っていたのは、阿弥陀仏の徳と薬の効能を結び付けるためだったのではないか。
富山の薬売りたちは薬の行商をしつつ、浄土真宗を全国に広めようとしていたのではないか、と思ったりします。

裏付けはとれてませんが~。(なんじゃ、それ~)

富山城 ライトアップ4 



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[2017/03/25 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

下呂温泉 花火 『源義平の狒々退治伝説』 

岐阜県下呂市 下呂温泉 
2017年2月下旬 撮影


下呂温泉 花火


①下呂温泉の白鷺伝説

下呂温泉は天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなってしまいました。
翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになりました。


下呂温泉 飛騨街道 道祖神?


②源義平の狒々退治伝説

下呂温泉近くの金山町祖師野には源義平の伝説も残されています。

昔、祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)に狒々が現れては村の若い娘を食べてしまっていました。
1159年、源義朝の嫡男、源義平(頼朝・義経の兄)が集兵のため祖師野村を通りかかり、村人たちを可哀想に思って狒々を退治しました。
村人たちは源義平が狒々を倒して残していった太刀を「祖師野丸」と名づけ祖師野八幡宮で大切に保管していました。
200年ほどのちに、隣村の代官がその太刀を持ち出すと、村に天変地異がおき、神社に戻すとおさまりました。

下呂温泉 花火2 
③岩見重太郎の狒々退治伝説

どこかで聞いた話だなあ?
そうそう、大阪の野里住吉神社では岩見重太郎(薄田兼相)が狒々退治をしたという伝説があるんでしたね!
参照/野里住吉神社 一夜官女祭 『岩見重太郎の狒狒退治伝説』 

野里住吉神社 一夜官女祭 

野里住吉神社 一夜官女祭 (少女たちは狒々にささげられる人身御供です。)

④日本の伝説には似たような話が多い


日本の伝説・民話には似たような話で、登場人物が入れ替わっているケースがよくあります。

たとえば琵琶湖の瀬田の唐橋で藤原秀郷が大百足を退治したという話がありますが
男体山には猿丸が大百足を退治したという話があります。

源義平の生没年は1141年~1160年、岩見重太郎の生没年は?年~1615年です。
しかし言うまでもないことですが、どちらの伝説が先にできたのかはわかりません。
岩見重太郎の伝説ができたのちに、この伝説をベースにして源義平の伝説が作られた可能性もあります。

下呂温泉 花火3 
この河川敷に噴泉池(露天風呂)がありました。
オールヌードで入浴されている方がたくさんおられたので写真は撮らなかったんですが(笑)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gero_Spa_Kawararoten.JPG
↑ こちらに写真がありました。

⑤親の仇討ちと狒々

岩見重太郎と源義平には共通点があります。

【岩見重太郎】
岩見重太郎の父親・岩見重左衛門(小早川隆景の剣術指南役)が広瀬軍蔵に殺されため、重太郎は仇討ちをするため各地を旅しました。
旅の途中、狒々退治をするなどし、1590年、天橋立で広瀬軍蔵を討ちました。
その後、叔父の薄田七左衛門の養子になりました。


【源義平】
源義平の父親・源義朝は1160年に長田忠致に殺されています。
このとき源義平は飛騨で兵を集めていましたが、義朝が殺されたことが伝えられると、その多くは逃げ去ってしまいました。
源義平は自害しようと考えましたが、自害するくらいなら平清盛か平重盛と相討ちしようと京へ向かいました。
石山寺に潜んでいたところ、難波経房の郎党に生け捕られ、六波羅で清盛の尋問を受けます。
源義平は難波経房に「上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言いました。
難波経房が「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と問うと、「雷になって蹴り殺してやる」といいました。
こうして義平は20歳で斬首されました。
8年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津の布引の滝を訪れたとき、雷に打たれて死にました。


岩見重太郎と源義平はどちらも親の仇討ちをしようとしていますね。
岩見重太郎が仇討ちを果たしたのに対し、源義平は仇討ちを果たせず亡くなってはいますが。

どうやら、親の仇討ちをする際には、まず狒々を倒さなければいけなかったようですね。

下呂温泉 花火4 
⑥岩見重太郎は陽、源義平は陰

また、岩見重太郎と源義平には刀という共通点もありそうに思えます。

岩見重太郎は刀で親の仇を討ち取っています。

そして①の伝説では、源義平は「祖師野丸」という太刀を祖師野八幡宮に残していったとありますね。
④の【源義平】では義平は飛騨で兵を集めていたと書きましたが、飛騨とは現在の岐阜県あたりで、下呂市も飛騨に含まれます。

つまり、源義平は祖師野村(岐阜県下呂市金山町祖師野)で狒々退治をしたあと、仇討ちをするため京に向かったと思われますので、太刀をもたずに京へ向かったということだと思います。
実際には刀は持っていったでしょう。
あくまで伝説に基づいて考えるとそうなる、ということです。

岩見重太郎は刀を持っていたので親の仇討ちをすることができた。(陽)
一方、源義平は刀を置いていったので親の仇討ちをすることができなかった。(陰)
ということなんじゃないかと思います。

 下呂温泉 地蔵菩薩


⑦源義平はヤマトタケルのイメージと重ねられた?

私は源義平はヤマトタケルのイメージと重ねられていると思います。
ヤマトタケルは草薙の剣を持たずに伊吹山に行き、素手で白い大猪と闘ったと記紀には記されています。

白い大猪は伊吹山の神で、大氷雨を降らせました。
そのためヤマトタケルは病を患って伊吹山を降り、大和に戻ろうとしましたが力尽き、能煩野(三重県亀山市)で亡くなってしまいました。
その地にヤマトタケルのための陵が作られましたが、ヤマトタケルは白鳥となり大和をめざして飛び去りました。
白鳥とはスワンのことではなく、白い鳥の意味だと言われます。
白鷺も白鳥だということになります。

あれ?
①下呂温泉の白鷺伝説をもう一度読んでみてください。
この伝説に登場する白鷺って、ヤマトタケルとイメージが重ねられた源義平のことでは?

下呂温泉 縄文橋

縄文橋
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[2017/03/16 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

白川郷 雪 『帰雲城の埋蔵金伝説』 


岐阜県 白川郷
2017年2月下旬 撮影

白川郷 雪2

①陸の孤島

トンネルを抜けると白川郷でした~。
シャトルバスで萩町城跡展望台へ向かい、見下ろすと合掌造の集落が見えます。
写真を見ていただくとおわかりのように、白川郷は山に囲まれています。
車で抜けてきたトンネルも昔はなかっただろうし、冬はどかっと雪が降るし、陸の孤島といった状態だったのではないかと想像します。

木曾義仲と闘って敗れた平家の落人が住み着いたという伝説があり、またかつて流刑地だったともいわれますが
それはこうした地形や気候によるところが大きいと思います。

以前の記事で、五箇山では煙硝(火薬原料)を生産して加賀藩に納めていたと書きましたが
参照/白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 
かつて白川郷でも煙硝が生産されており、「加賀藩の火薬庫」と呼ばれていました。

白川郷では合掌造の屋根裏で養蚕を行っており、その蚕のフンが煙硝の原料になったのです。
白川郷の人々は蚕のフンという産廃をうまく利用して、煙硝の生産を行っていたわけです。

また陸の孤島ともいうべき地形が軍事機密を保つのにちょうどよかったとも言われています。

白川郷 雪 
②白川郷の煙硝生産はなぜ始まったの?

白川郷から近い五箇山上梨の村上家住宅には煙硝厩(えんしょうまや)がありました。
参照/白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 

白川郷にも見学することのできる民家はあるのですが、時間の関係で見学することができませんでした。
なので村上家住宅にあるような煙硝厩があるのかどうかわかりません。

http://eikojuku.seesaa.net/article/252136295.html
上のサイトでは囲炉裏の両脇に穴を掘り、ヒエ殻、蚕のフンを入れ、ヨモギや麻土で埋め戻し、5~6年放置して発酵させたと記してあります。

また、織田信長と抗争を続けていた石山本願寺(浄土真宗)が、白川郷で密かに火薬を作らせていた、とも書いてあります。

 白川郷 明善寺 
明善寺 白川郷ではお寺も茅葺でした。

③内ヶ島氏の支配


室町時代、白川郷は内ヶ島氏が支配していました。
内ヶ島氏は鉱山開発技術に長けており、それで足利義満に白川郷にいくよう命じられたようです。
白川郷付近に鉱山があったということでしょうね。
ぐぐってみても、内ヶ島氏が開発を行った鉱山がどこにあったのかわからなかったんですが~。

戦国時代には内ヶ島氏は鉱山経営を行って莫大な富をたくわえ、帰雲城(推定地は白川村保木脇)を居城としていました。




※地図をクリックすると左上の枠が消え、白川村の文字があります。
そのあたりが白川郷萩町地区(写真は萩町地区)です。


また向牧戸城・萩町城・新淵城など多くの支城を築いています。

1枚目の写真は萩町城跡展望台から撮影したもので、かつてこのあたりに萩町城があったとされます。

小牧・長久手の戦いでは、内ヶ島氏理が佐々成政に属して越中に出陣しました。
しかし留守中、豊臣秀吉の命で金森長近が白川郷に侵攻してきたのです。
白川郷の人々は金森軍に寝返り、帰雲城は金森軍に占拠されました。

内ヶ島氏理はやむなく秀吉に降伏しました。
しかし、秀吉は内ヶ島氏の所領を少し減らしただけで、内ヶ島氏の領地経営を許しています。
これは、秀吉が内ヶ島氏の鉱山経営の技術を重要視したためだとされます。

白川郷 鬼の面を飾った民家


④内ヶ島氏、天正地震で一瞬にして滅ぶ!


内ヶ島氏理はこれを大いに喜んで宴会を計画し、その準備を進めていました。
一族も帰雲城に集まってきました。
そして明日はいよいよ宴会という日・・・
天正地震が起こり、帰雲城とその城下町の300軒の家は一瞬にして生き埋めになってしまったのです!
こうして内ヶ島氏は滅んでしまったのです。

帰雲城には内ヶ島氏が鉱山開発で蓄えた埋蔵金が眠っているといわれています。

白川郷 夜景 雪 

⑤金閣寺と内ヶ島氏

③で内ヶ島氏は鉱山開発に長けており、そのため足利義満に白川郷へ行くよう命じられた、と書きました。
足利義満は京都に金閣寺を建てていますが、金閣寺は大量の金箔が用いられていたことで知られています。
これらの金箔の中には内ヶ島氏が開発した金山の金を用いたものがあるかも?

金閣寺 雪 


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[2017/03/12 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

高山陣屋跡 雪 『アメリカで拷問復活?』 


岐阜県高山市 高山陣屋
2017年2月下旬 撮影


高山陣屋 門

高山は江戸幕府の天領で、代官所・飛騨郡代役所として高山陣屋がおかれました。

御役所

高山陣屋 御役所 
御用場 今でいう事務所みたいなものか。

高山陣屋 御用場 
寒い土地のためか、囲炉裏がたくさんありましたよ。

高山陣屋 囲炉裏
 
かまど
 
高山陣屋 かまど


高山陣屋 トイレ 

トイレは2種類~ 

高山陣屋 トイレ2 

呂場は床から一段下げてありました。 甕からお湯を救ってかけるのかな?

高山陣屋 風呂場 
御白洲は今でいう法廷ですね。

高山陣屋 お白洲 
御白洲には拷問の道具がずらーり。

①江戸時代の拷問


日本では古くから自白させるために拷問を行っていました。
「自白させるため」というけど、無実なのに、ありもしないことを自白させられた人もいただろうな~。かわいそ。

あまりに残酷な拷問はよくないとして、1742年の公事方御定書で、拷問はむちうち、石抱き、エビ責め、釣り責めの4種類に限定されました。

高山陣屋 箒尻  

むちうちには上の箒尻のような道具を用いたのでしょう。

高山陣屋 責台 

石抱はの責台 ↑ に座らせて

高山陣屋 抱石

膝の上に↑ 抱石を載せます。

海老責は屈伸した状態で、あごと足首が密着したように縛りあげます。うっ血して危険とのこと。

釣り責は手を後ろでにしばって吊るすものです。

あまりに残酷な拷問はやめたみたいですが、むちうち・石抱・海老責・釣り責って十分残酷やん~。

http://scary.jp/supot/syokei/goumon/ ← こちらのサイトにイラストがあります。

②現代でも拷問は行われている?


1870年(明治3年)の新律綱領では。杖による拷問が規定されました。
1879年の太政官布告で、ようやく拷問制度は廃止されました。

しかし、その後も警察の取り調べで拷問は行われました。
昭和初期には蟹工船の著者・小林多喜二や、野呂 榮太郎、岩田義道ら日本共産党に関係する人などが特高の拷問によって死亡しています。

何年か前、元警察官だったという人が「取り調べで殴る蹴るは当たり前」と言っているのを聞いたこともあります。

③アメリカではオバマ政権になるまで拷問は合法だった。

今回、記事を書くために調べていて、もっともびっくりしたのは、アメリカではオバマ大統領が水責めなどの拷問を禁止したということです。
ということは、それまで禁止ではなかったということですね・・・。
トランプ大統領は「イスラム国を毒をもって毒を制す」必要があるので、水責拷問を復活させると言っているようです。

高山陣屋 

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[2017/03/08 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

五箇山 相倉 菅沼集落 『ここにもあった!お小夜伝説』 


富山県南砺市 五箇山 相倉 菅沼集落
2017年2月下旬 撮影

 
五箇山 菅沼集落3

五箇山 菅沼


二度目の訪問です。一度目の記事はこちらです→白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 

あちこち旅をしていると(いうほどあちこちへは行ってませんが~)今回の旅が以前の異なる場所への旅とつながることがあって
感動してしまうことがあります。

今回の旅も、思いがけず、大阪市十三(じゅうそう)の旅、石川県輪島の旅と繋がるドキドキワクワクの旅でした。

①お小夜節

五箇山民謡にお小夜節があります。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

名をつけようなら お小夜につきゃれ
お小夜きりょうよし 声もよし 声もよし 声もよし

峠細道 涙で越えて
今は小原で 侘び住まい 侘び住まい 侘び住まい

心細いよ 籠乗り渡り
五箇の淋しさ 身にしみる 身にしみる 身にしみる

庄の流れに 月夜の河鹿(かじか)
二人逢う瀬の 女郎が池 女郎が池 女郎が池

輪島出てから ことしで四年
もとの輪島へ 帰りたい 帰りたい 帰りたい


元禄3年「加賀騒動」の首謀者・高崎半九郎ら4人と遊女20人が輪島(石川県)に流刑となりました。
しかし遊女のひとりのお小夜は輪島出身だったため、五箇山小原に流罪となりました。
お小夜は流刑小屋ではなく、庄屋に預けられ、村人たちのアイドル的存在として愛されました。
お小夜は、吉間という村の青年と恋に落ち、吉間の子を身ごもりました。
お小夜は罪人の身で妊娠してしまったことを恥じ、庄川に入水自殺しました。


今回、行くことができなかったんですが、小原地区にお小夜塚があるそうです。

また五箇村田向に流刑小屋が復元されています。
雪深い山村である五箇村は古より流刑地とされていたのです。

五箇山 田向 流刑小屋 

五箇山 田向 流刑小屋



②石川県輪島のお小夜伝説


この伝説を聞いた私はテンションあがりまくり、心臓バクバク状態にーーーー!

だって、石川県輪島にお小夜伝説があるんですよ!

猟師の重蔵が水死し、恋人のお小夜は悲しむあまり、海に入って死んでしまいました。
琴が浜を歩くときゅっきゅっと音がするのはお小夜の泣き声だといわれています。


五箇山に流罪になった遊女のお小夜とは、輪島名舟の伝説に登場するお小夜のことでは?
五箇山に流罪になったお小夜の出身地は輪島だといいますし。
 
五箇山 菅沼集落2

五箇山 菅沼

③お小夜は女神だった。

石川県輪島市河井町に重蔵神社があります。
お小夜の恋人の重蔵とは重蔵神社の神だと考えられます。

重蔵神社 キリコ

重蔵神社 夏祭

重蔵神社には次のような伝説が伝わっています。

8月23日の晩、舳倉島の女神が松明の明かりを目指してやってきて、輪島の男神が結ばれ、産屋に見立てたお仮屋で新しい神様が産まれる。

輪島の男神とは重蔵のことだと思います。
するとお小夜とは舳倉島の女神のことだということになります。

五箇山の伝説に登場するお小夜も舳倉島の女神なのではないでしょうか。

五箇山 菅沼集落 
五箇山 菅沼

④重蔵は水死体だった?

大阪に十三(じゅうそう)という地名があります。
十三という変わった地名の由来にはいくつかの説がありますが、その中に次のような説があります。
a.重蔵という男の名前が転じた。
b.中津の富島の富(とみ)を十三(とみ)と表記した。

なにわ淀川花火大会

大阪 十三付近

私はこのabどちらの説も十三という地名に関係があると思います。

富島のトミはトミヒコからくると思います。
トミヒコとは記紀に登場する人物で、別名をナガスネヒコともいいます。
トミヒコは、日向より神武が東征して畿内入りする以前より現在の大阪付近に住んでいたとされます

トミヒコはニギハヤヒという神を奉じていたのですが、トミヒコは神武に服したニギハヤヒによって殺されたと記紀には記されています。

記紀は為政者に都合よく書き換えられていると考えられます。
実際にはトミヒコは神武または神武の軍に殺されたのでしょう。

で、トミヒコが神として奉じていたニギハヤヒは物部氏の祖神とされます。
ここから、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。
トミヒコは物部王朝の王だったのではないでしょうか。

そしてトミヒコのトミは十三の漢字をあてることができ、さらに十三は「とさ」と読めます。
ドザエモンとはトミヒコの「トミ」に「十三」の漢字をあて、さらにそれを「どざ」と読んだところからくるのではないでしょうか。

成瀬川土左衛門という肥満の相撲取りが色白で水死体を思わせるところから、水死体のことを土左衛門といいうようになったと言われますが、語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/to/dozaemon.html)にも、正確な語源は未詳と書いてあります。

さらに輪島市名舟の伝説では重蔵は水死したとあるところから、重蔵とはドザエモンだといえます。

トミヒコ→十三(トミ)→トサ→ドザエモン  ※青森県の十三湖にかつてあった十三湊は「トサミナト」と読みました。
トミヒコ→十三(トミ)→十三(じゅうさん)→十三(じゅうそう)→重蔵
∴トミヒコ=ドザエモン、重蔵=ドザエモン


とこうなると思うんですが、どうですか?

詳しくはこちらの記事をお読みください ↓

重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 
輪島ふらっと訪夢 御陣乗太鼓 『男幽霊(土左衛門)は重蔵だった?』  


五箇山 上梨 村上家住宅

五箇山 上梨 村上家住宅 茅葺屋根からものすごい蒸気が立ち上っていました。


⑤お小夜の恋人・吉間は土左衛門?


五箇村のお小夜伝説に登場するお小夜の恋人・吉間という名前も謎々ではないかと思うんです。
吉間の「吉」の士は土と書く場合もあり、吉は「さむらいよし」𠮷は「つちよし」と言います。
牛丼の𠮷野屋は「つちよし」ですね。

そこで、𠮷間とし、これを分解すると「土口日門」となります。
なんと「土左衛門」の「土」と「門」があります。

だけど、日と口を左衛と読む方法が見つからなかった~。

五箇村 相倉 

五箇山 相倉




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[2017/03/06 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

雨晴海岸より立山連峰を望む  


富山県高岡市 雨晴海岸
2017年2月下旬 撮影


富山駅でポスターを見て、どうしても行きたくなって行ってしまった雨晴海岸

 雨晴海岸より立山連峰を望む

向かって右が義経岩、その左に小さく見えているのが男岩、中央近くに見えているのが女岩
遠くに見えている雪をかぶった山は立山連峰


①義経岩

1187年、源義経は奥州平泉に向かう途中、この海岸を通りました。
そのとき雨が降り、弁慶が岩をもちあげ、その岩の下で雨宿りしたという伝説が残されています。

写真ではちょっとわかりにくいのですが、
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoshitsuneiwa.jpg
↑ 上記リンク先を見ると、義経岩は下部に穴があいているみたいですね。
その穴が雨宿りにちょうどよさそうだということで、このような伝説が作られたのでしょう。

そしてこの伝説が雨晴海岸という地名の由来とされます。

男岩 女岩 
 男岩 女岩

②男岩 女岩


雨晴海岸には男岩・女岩と呼ばれる岩もあります。




東に男岩の表記があります。
そして地図をクリックすると、左上の表記が消えてzの形をした島が見えますが、その南にあるのが女岩です。


雨晴海岸 男岩 
男岩

③男は晴、女は雨

さきほど、弁慶が岩をもちあげてその下で源義経が雨宿りしたという伝説が、雨晴海岸という地名の由来であると考えられていると書きました。

でも、私は男岩=晴、女岩=雨、ということで雨晴海岸という地名になったのではないかと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD#.E9.99.B0.E9.99.BD.E6.80.A7.E8.B3.AA.E8.A1.A8
↑ 上記ウィキペディアの陰陽性質表をみると、陰陽道では晴と男はともに陽、雨と女はともに陰となっています。
湿度湿潤乾燥
性別女性男性
天体太陽
天気
南北
東西西

④北西が女岩、南東が男岩

また、東西では西が陰・東が陽、南北では北が陰・南が陽となっています。

それで北西にある岩を女岩、南東にある岩を男岩としたのではないでしょうか。

富山の農村 
雨晴海岸から五箇山へ向かう途中、車の中から撮影した富山の農村 ↑↓

富山の農村2 



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2017/02/28 06:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

立山黒部アルペンルート 雷鳥 『雷鳥はなぜ神の鳥と信仰されたのか』 

ゴールデンウィークに立山黒部アルペンルートに行ってきました。

扇沢駅前の無料駐車場に車をとめ、コートを着込んで、いざ出発~!

扇沢駅から黒部ダム駅まで電気で関電トンネルトロリーバスでトンネル内を走ります。
トロリーバスの写真を撮ったのですが、ブレブレで大失敗~(汗~)。
こちらのサイトに写真があります。→ http://www.kurobe-dam.com/trolleybus/

関電トンネルは黒部ダム建設用資材運搬用トンネルとして、1958年に開通しました。
途中、トンネル内に破砕帯と記された看板がありました。

破砕帯とは断層運動によって砕かれた岩石が帯状になっている部分のことです。
細かく砕けた岩石の隙間には大量の地下水が含まれています。
工事の途中でこの破砕帯にあたり、4℃の冷たい水が毎秒660リットルも噴き出しました。
この水を抜くためのトンネルを別に掘り薬剤とコンクリートで固めながら掘り進めました。
大変な難工事で、工事中に171人もの死者を出しました。

今なら大問題で、関電は大バッシングを受けるでしょうが、当時はそういうことはなかったのでしょうか?


↓ 黒部ダムに到着~。

黒部ダム

この時期、ダムの放水は行われていません。

↓ 黒部湖には氷がまだ残っていました。

黒部湖

↓ 黒部ダム駅から黒部湖駅までは徒歩、黒部湖駅から黒部ケーブルカーで黒部平駅に向かいます。

立山黒部 ケーブルカー 

↓ 黒部平駅から立山ロープウェイで大観峰駅へ。

立山黒部 ロープウェイ

大観峰駅から立山トンネルトロリーバスで室堂駅へ。

↓ 雪を切り開いて作った雪の大谷。

雪の壁2

まるで繁華街のような人並み!

立山黒部 雪の壁 
歩いている旅行者さんはほとんど中国の方です。
中国からの団体旅行で来られている方がめちゃめちゃ多いです。
団体旅行のグループはひとつ、ふたつなんてものではなくてもっともっと多いです。
日本人の旅行者はほんのわずか。
立山黒部アルペンルートが中国の方にこんなに人気があるとは思わなかった。

案内所で「みくりが池」近くに雷鳥のなわばりがあると教えていただいたので行ってみることに。
雪道を歩いて「みくりが池」に向かう人は少なく静かでした。雪の大谷の喧騒が嘘のよう。
途中、すれ違った人たちが「雷鳥がいましたよ」と教えてくれました。

雷鳥がいました!

雷鳥 雄

↑ ニホンライチョウのオス。足にも羽毛が生えています。
雷鳥は冬はほとんど飛ばないそうです。
ゴールデンウィーク期間中でしたが、雷鳥はほとんど飛びませんでした。
また雷鳥としては珍しくニホンライチョウは人を怖がらないそうで、写真を撮っても逃げません。
ただ雷鳥を撮った、というだけの写真だけど。

雷鳥 雌

↑ニホンライチョウのメス。
手前の草が前ボケになって雷鳥にかぶってしまった!
前ボケを消す方法ってないかなあ~?

ふと見ると、友達が雪の中に埋まって、イケメン男性にひっぱりあげられていました。(ありがとうございます!)
上に雪が積もって深い溝になってるのがわからなかったんですね。
友達を助けてくれたイケメンさんも溝に落ちたそうで、雪の上に大きな穴が二つ~。
ふたりともケガがなくてよかった~。

ライチョウは約2万年前の氷河期に日本にやってきたと考えられています。
氷河期が終わると多くのライチョウは北の地へ戻りましたが、一部は高山の寒冷地に残りました。
隔絶された日本の高山で進化したライチョウはニホンライチョウとなりました。
現在の日本にはわずか2000羽が棲息するのみとされます。

平安時代にはライチョウは「らいの鳥」と呼ばれていました。
江戸時代には『鶆(らい)』と記した文献があるようです。
「らいの鳥」とは「癩(らい)病の鳥」という意味なのではないでしょうか。
ライ病は差別的な言葉であるとして現在ではハンセン病と言われています。

http://www3.famille.ne.jp/~ochi/rai6.html
↑ こちらのサイトにライチョウの換羽(衣がえ)の写真があります。

ライチョウは季節によって姿を変えます。
上記サイトを見ると月ごろのライチョウには斑点がありますが、1月2月ごろのライチョウは白いです。
説明文を読むと、春ごろより斑点模様がでてくるようです。

この斑点模様からライチョウはハンセン病患者に喩えられたのではないでしょうか。

ハンセン病には様々な症状があるようですが、顔面や手足に潰瘍ができるというケースもあるそうです。


奈良豆比古神社では、志貴皇子がハンセン病を患ったが、あるとき翁の面に病が移りもとの美しい顔になっていた、と伝えています。
奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

斑点のある姿から真っ白な美しい姿に変化するライチョウは、まるで志貴皇子のようではありませんか。



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[2015/05/19 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 

白川郷 合掌造 集落

世界遺産に登録されている白川郷(岐阜県大野郡白川村)の合掌造り集落へ行ってきました!
4月の終わりでしたが、遠くに見える白山は雪をかぶっています。

白川郷 しだれ桜 

↑ 枝垂れ桜が咲いていました。
白川郷の春は遅いのですね~。

五箇山 菅沼

↑ 白川郷から少し離れたところに五箇山(富山県南砺市)の菅沼集落があります。
小さな集落ですが、こちらも世界遺産です。
昔、五箇山は加賀藩の流刑地でした。
罪人が川を渡って逃げることを防ぐため、五箇山では川に橋をかけることが許されていませんでした。
そのため『籠の渡し』で川を渡ったそうです。
菅沼に『籠の渡し』の模型があるそうですが、うっかりしていて見そびれてしまいました。
こちらのサイトに写真があったのでリンクを貼っておきます。→ http://www.gokayama.jp/meguri/midokoro.html

五箇山 相倉 

↑ こちらも世界遺産になっている五箇山の相倉(あいのくら)集落です。
雪がたくさん残っていましたよ。

流刑小屋 

↑ こちらは五箇山の田向にある流刑小屋です。
復元されたものですが、昭和38年までは実際ここに流刑小屋があり、物置小屋として利用されていたそうです。
1667年から明治維新までの200年の間に五箇村には150人余りの流刑者が送られてきました。
写真の流刑小屋はお縮小屋と呼ばれ、流刑者はこの小屋から一歩も外に出ることができませんでした。
壁にある小さな穴は食事をさしいれるためのものです。
小屋の中には流刑者の人形がおかれていました。

五箇山 上梨 村上家 煙硝厩 

↑ 五箇山の上梨にある合掌造りの家、村上家住宅を見学させてもらいました。
上の写真は煙硝厩(えんしょうまや)です。

五箇山では煙硝(火薬原料)を生産して加賀藩に納めていました。
なにしろ流刑地とされるような山深い土地ですから、軍事機密である煙硝を生産するのに都合がよかったのです。

煙硝を作るためには、山野草と土を交互に積み重ね、年に3回、山野草・蚕糞・人尿を加えて鋤でまぜます。
煙硝厩はこの作業を行う場所のことです。
5年目から煙硝がとれるようになります。
これを桶に入れて水をはり一晩おき、抽出液を煮詰めて煙硝の結晶を取り出します。

五箇山 上梨 村上家 屋根裏 

↑ 村上家住宅の屋根裏です。
釘を使わず、縄で木材を縛って家を組み立てているのがわかります。
祇園祭の山鉾を組み立てるのと同じですね。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け 

↑ 村上家住宅にはこんなものも展示されていました。
とても小さい頭蓋骨でした。
猿の頭蓋骨でしょうか?

以前、馬小屋の守護神として2つの猿の頭蓋骨が祀られているのを見たことがあります。
神から示偏をとると申(さる)となり、猿は神の使いであると信仰されたようです。
また京都御所の鬼門(東北)の隅は猿が辻といい、東北の隅を作らないように塀を内側に凹ませ、さらに猿の像が飾られています。(金網がはってあるのでわかりにくいですが)


猿が辻 

猿が辻 猿の像 

猿が辻に猿の像が飾られているのは『鬼が去る(猿)』という語呂合わせであるといわれています。
どうも鬼門除けに猿は欠かせないものであったようです。

↓ 村上家住宅の『おえ(居間)』です。

五箇山 上梨 村上家 囲炉裏

 囲炉裏があってとてもいい雰囲気ですね。
囲炉裏の向かって左にあるのは『ささら』です。
村上家住宅からほど近いところに白山宮があり、9月に『こきりこ祭り』が行われます。
『こきりこ祭り』では『『ささら踊り』が奉納されるのですが、『ささら』はこの『ささら踊り』で用いられる楽器です。

↓ 『こきりこ祭り』のではありませんが、ささら踊りの動画があったので、お借りしました。(ありがとうございます。)



有名な鳥獣戯画でも、蛙が『ささら踊り』を踊っているシーンがあります。

http://akituya.gooside.com/choujyu_allall.htm (【12】をクリックしてください。)

『ささら』には108枚の板が用いられています。
108は煩悩の数であり、ささらを打ち鳴らすことで煩悩を打ち消すことができると言われています。

私は鳥獣戯画の蛙は平将門を現しているのではないかと思います。
上のリンク先の鳥獣戯画の【16】をクリックすると、蛙が蓮の葉の上に座って阿弥陀仏になっている絵があります。
蓮阿弥陀仏とは940年に平将門の乱をおこして討伐された平将門の法名です。
平将門の首は京で晒されていましたが、生まれ故郷である東国に飛んで帰ったという伝説があります。
平将門の首塚には蝦蟇(蛙)の置物がたくさん奉納されています。
これは「無事帰る=蛙」の語呂合わせだといわれていますが、私は蛙は髑髏を現しており、将門は髑髏の神ということで蝦蟇(蛙)の置物を奉納する習慣が生じたのではないかと考えています。

詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。蔵王堂光福寺 久世六斎 『空飛ぶ鉢の正体とは』 

とすれば、蛙がささら踊りをしているのは、将門の霊が煩悩を捨てて成仏しようとしている様を表しているのではないかと思えます。
合掌造り集落の話が平将門の話になってしまってすいません・・・・

加賀藩の流刑地だった五箇村で亡くなった罪人も大勢いたことでしょう。
『ささら踊り』が行われているのは、このような罪人たちの霊の煩悩を打消し、成仏させるためだったのかも?


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[2015/05/12 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)