和歌山県 救馬渓観音
救馬渓観音に到着。きれいに整備されたお寺と言う印象。
岩の上に七福神。
倶利伽羅不動尊

恵比寿堂

コンクリート造りの斬新なお寺

中門くぐると仁王様がいました。
コンクリートの柱の向こうに岩肌が見えています。
かつては掛け造り立ったのかも?
鬼羅岩窟にたてられた本堂のご本尊は馬頭観音です。(写真なし・・・・)
下の記事によると、屋根は一枚岩と一体となっているそうです。(気が付かなかった~)
https://blog.goo.ne.jp/mrslim2/e/eb44f732b02cdb38f702634c7a116fd2他にも不動堂、慈母観音堂など岩窟に作られてるみたいですね。(気が付かなかった~~)
上の写真は、奇絶峡の不動明王堂内部。
気絶峡 紅葉 天井部分は岩になっていました。
このあたりには岩のくぼみや岩窟に対する信仰があったのではないかと思いました。

本堂右手の道を歩いていくと、岩窟に稲荷大明神が祀られていました。
さらに進んでいくとまたしても岩窟が。

こちらの岩のくぼみには縁結びの神が祀られていました。
小栗判官が湯の峰温泉に行く途中、突然愛馬が病のため動けなり、当寺に参拝し祈願したところ、たちまち愛馬の病が治り、愛馬が救われたことに感激した小栗判官は、1426年(応永33)、堂宇を再建し、馬を救った観音さまということで「救馬渓観音(すくまだにかんのん)」と名付けたといわれています。
当山は1300年前の飛鳥時代、修験道の開祖「役の行者」によって開山され、その後天暦7年(953)、空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安。後に熊野詣でに行幸された鳥羽天皇が堂宇を建立され、寺名を「岩間寺」といった。当山の中興の祖と云われるのは、戯曲・浄瑠璃で有名な小栗判官こと小栗小次郎助重で、常陸の国小栗城で足利持氏の軍に破れ逃れた後、仏門に帰依し各地を巡錫中「瘡痍」にかかった。治療のため、妻「照手姫」と紀州湯の峯温泉に湯治に向かう途中、突然愛馬が病に冒され動けなくなってしまった。この時、当山の霊験あらたかなることを聞き、従者と共に参拝し祈願すると馬の病は忽ちに全快し、無事湯の峯にたどり着くことが出来た。愛馬が救われたことに感激した小栗判官は応永33年(1426)堂宇を再建し、「救馬渓観音」と名付けられたという。「生馬」の地名や「馬川」の川の名はこの霊験に由来している。江戸時代には紀州藩付家老紀伊田辺藩主安藤家の祈祷所として尊信を篤く受け、寛文4年(1664)に現本尊の厨子の寄進を賜り、嘉永5年(1852)には本堂を再建されるなどの庇護をうけた。
明治に入り廃仏毀釈のあおりを受け、一時無住となり荒廃するも、先住の努力と御本尊馬頭観世音菩薩の霊験を慕う人々の寄進により復興し現在に至る。
当山は熊野本宮への参拝道である山間部を通る「中辺路」と、海岸線を通る「大辺路」の分岐点に位置していることから、古くから熊野本宮への道中の安全を祈願した寺としても知られる。開基以来、観世音の霊徳を慕い、加護を念じて初午や月縁日の18日には羽織 袴に盛装し、参拝する人々は列をなしたと伝えられる。
大阪府貝塚市の「水間寺」の観世音は当山から勧請されたとの言い伝えもあるが、文献等は残っていない。
http://www.sukuma.or.jp/sukuma/menu/engi.htm より引用
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和歌山県田辺市 奇絶橋
山の岩肌に磨崖仏を発見!
堂本印象(1891年 - 1975年)の原画を彫ったものとのことです。
右会津川には巨岩がごろごろ。
これは磐座信仰のある土地にちがいないっ。
山につきささったかのような巨大な岩。
赤い橋を渡ると不動滝がありました。
滝の上部には不動明王堂がありました。
天井部分は岩になっていました。
上から3枚目の岩の下に不動明王堂が作られているんですね。
山道を登って磨崖三尊大石仏をまじかで見ることができました。
写真1枚目の磨崖仏ですね。
近くに大人の足跡というのがあるらしいのですが、見損ねました~
http://penginzu.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-4adf.html
昔、上秋津村の木村佐七という男が、龍神村に商いに行った。帰り道、疲れた佐七は、ついうとうとと滝の前で眠ってしまった。「こんなところで寝ないで、早く帰るがよい」との声に目を覚ますと、そこに錫杖を手に、一つ歯の高下駄を履いた3人の修験者が彼を見下ろしていた。驚く佐七をよそに、修験者たちは天狗のように軽々と崖を飛び降り、滝行を始めた。佐七は感心して見ていたが、目をそらした瞬間、3人は霧のように消え失せたという。「これは、きっとお不動様が注意してくれたのだ」と思い、ここに不動明王を祀るようになったと伝わる。 別名、赤城ノ滝。滝音が響き渡る中、滝の真横にある不動明王堂に入ると、大きく突き出した天井の巨石に驚かされる。
https://www.nwn.jp/feature/180602_kizetukyo/ より引用
この右会津川の風景は、大阪府交野市の磐船神社の岩窟を思いださせます。
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/gankutu.html
交野市には星の字のつく地名が多く、星の伝説が多いです。
また磐船神社の御祭神・ニギハヤヒについて、雲陽誌につぎのように記されています。
島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。
この右会津川の辺りも、星がふった場所だと考えられていたのかも。
そして流星のことを天狗(あまつきつね)と記した文献もあります。
佐七の前に現れた修験者の正体とは、落ちてきた星ではないでしょうか?
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和歌山県海南市あたり
①紀州漆器の担い手たちは滋賀県木地師の里からやってきた?森林公園雨の森展望台から海南市を見下ろしました。
工場の夜景が美しいっ!
工場は日本製鉄だと思います。近代産業が盛んな町なんですね。
しかし近代産業だけではありません。
海南市は伝統産業として紀州漆器などでも有名なんですよ。
室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろ、近江の木地師集団が紀州に移住してきたとされます。
彼らが紀州檜を用いて椀などを製造したのが紀州漆器の始まりとされます。
おお~、近江の木地師!
近江は現在の滋賀県のことですが、滋賀県東近江市君ヶ畑あたりは「木地師の里」と呼ばれています。
また、滋賀県蒲生郡日野では日野漆器が作られていました。
日野は1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展したとされます。
近江の木地師集団が紀州に移住してきたのは室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろということなので、日野からやってきたということはないか。
紀州漆器の担い手たちは滋賀県東近江市君ヶ畑あたりの「木地師の里」からやってきたのかもしれませんね。
大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)君が畑には大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っていますよ。
大皇器地祖神社の近くには惟喬親王の墓もあります。(京都三千院近く、滋賀県筒井峠付近にも惟喬親王の墓があります。)
大皇器地祖神社近くにある惟喬親王の墓惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があり
(奈良時代にろくろで作られた百万塔が現存しているので、この伝説は事実ではないのですが)
そのため、木地師の祖とされているのです。
木地師資料館に展示されていた掛け軸使い方は上の絵のとおり。
ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。
木地師の祖ということで日野漆器の産地だった滋賀県日野でも惟喬親王は厚く信仰されています。
日野祭の双六町曳山の見送幕は惟喬親王が描かれています。
http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/yama/sugo.html紀州に定住した近江からやってきた木地師集団も惟喬親王を信仰していたことでしょう。
また惟喬親王の母親は紀静子といい、紀氏の女性でした。
そして紀州は紀氏の本拠地ですから、彼らは紀州で漆器をつくるということに意義を見出していたかもしれません。
②根来塗近江の木地師集団が定住して漆器をつくったのが紀州漆器都する説のほか、秀吉の根来寺焼き討ちからのがれてきた職人が黒江湊に移住して紀州漆器がつくられはじめたとする説もあります。
根来寺に関係する漆器に根来塗があり、寺の僧侶たちが用いていたとされます。
黒漆で下塗りをしたのち、朱漆塗りを重ねてつくるそうです。
たぶんですが、朱塗りは漆に天然の辰砂をまぜるのではないかと思います。(もしちがっていたら教えてね~)
https://www.negoronuri.com/③なぜ根来に小野小町伝説があるのか
根来寺根来寺の裏あたりにある山を根来山というようです。(写真に写っている山が根来山かどうかはわかりません~。すいません。)
で、この根来山付近にこんな話が伝えられています。
康和(1099~1104年)のころ、根来山の麓の西坂本に室家右兵衛尉忠家(むろやうひょうえのじょうただいえ)が住んでいました。
忠家は金持ちでしたが、子供がいませんでした。
あるとき、忠家の妻は、小野小町の墓に参拝すると子供を授かるという話を聞き、二十一日絶食して小野小町の墓にお参りをしました。
やがて妻は身籠り女児を出産しました。
女児は桂姫と名付けられ、小野小町そっくりな美女に成長しました。
桂姫の髪は住持池(じゅうじがいけ)の水をつけないと梳くことができず、住持池の水を汲んできては梳いていました。
桂姫は和泉国尾崎の大原源蔵高広(おおはらげんぞうたかひろ)という北面(ほくめん)の武士に嫁ぐことになりました。
嫁入り行列が住持池を通り過ぎようとしたとき、空がかき曇り池に大波がたり、大蛇があらわれて娘をさらって水の中に消えました。
母親は悲しみもう一度娘に会いたいと願っていましたが、あるとき住持池を泳ぐ二匹の蛇の姿を見ました。
桂姫をさらった大蛇は小町に思いをよせていた深草小将の生まれ変わりだといわれています。なぜ、この地に小野小町の伝説があるんでしょうか?
実は私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えています。
髄心院 小野小町像詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html特に、下記記事を詳しく書いていますが、
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』 ざっとまとめておくと次のような理由があげられます。
a | 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。 |
b | 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。 |
c | .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。 |
d | 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。 三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。 紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。 また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。 三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。 そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。 惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。 そういうことで小町なのではないだろうか。 |
e | 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。 ①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。 ②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。 ※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』 ※『世』・・・『世の中』と『男女関係』 ※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』 しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。 ③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。
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①で述べたように惟喬親王は木地師の祖として信仰されています。
そして根来塗をつくるためには木地師の存在があったと考えられます。
根来寺付近に住んでいた木地師は木地師の祖・惟喬親王に対する信仰があり、惟喬親王=小野小町なので、小野小町に関係する伝説が生じたのではないでしょうか。
ところで、この話にでてくる小野小町の墓ってどこにあるんでしょうね。
和歌山市湯屋谷に小野小町の墓があるそうですが、ここのことでしょうか?
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