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救馬渓観音 紅葉 

和歌山県 救馬渓観音 

救馬渓観音7

救馬渓観音に到着。きれいに整備されたお寺と言う印象。

救馬渓観音-七福神

岩の上に七福神。

救馬渓観音6 
倶利伽羅不動尊

救馬渓観音

恵比寿堂

救馬渓観音2

コンクリート造りの斬新なお寺

救馬渓観音-仁王

中門くぐると仁王様がいました。
コンクリートの柱の向こうに岩肌が見えています。
かつては掛け造り立ったのかも?
鬼羅岩窟にたてられた本堂のご本尊は馬頭観音です。(写真なし・・・・)
下の記事によると、屋根は一枚岩と一体となっているそうです。(気が付かなかった~)

https://blog.goo.ne.jp/mrslim2/e/eb44f732b02cdb38f702634c7a116fd2

他にも不動堂、慈母観音堂など岩窟に作られてるみたいですね。(気が付かなかった~~)

奇絶峡-不動明王堂 

上の写真は、奇絶峡の不動明王堂内部。気絶峡 紅葉
 天井部分は岩になっていました。

このあたりには岩のくぼみや岩窟に対する信仰があったのではないかと思いました。


救馬渓観音5

本堂右手の道を歩いていくと、岩窟に稲荷大明神が祀られていました。

救馬渓観音4     
さらに進んでいくとまたしても岩窟が。

救馬渓観音3

こちらの岩のくぼみには縁結びの神が祀られていました。

小栗判官が湯の峰温泉に行く途中、突然愛馬が病のため動けなり、当寺に参拝し祈願したところ、たちまち愛馬の病が治り、愛馬が救われたことに感激した小栗判官は、1426年(応永33)、堂宇を再建し、馬を救った観音さまということで「救馬渓観音(すくまだにかんのん)」と名付けたといわれています。

当山は1300年前の飛鳥時代、修験道の開祖「役の行者」によって開山され、その後天暦7年(953)、空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安。後に熊野詣でに行幸された鳥羽天皇が堂宇を建立され、寺名を「岩間寺」といった。


当山の中興の祖と云われるのは、戯曲・浄瑠璃で有名な小栗判官こと小栗小次郎助重で、常陸の国小栗城で足利持氏の軍に破れ逃れた後、仏門に帰依し各地を巡錫中「瘡痍」にかかった。治療のため、妻「照手姫」と紀州湯の峯温泉に湯治に向かう途中、突然愛馬が病に冒され動けなくなってしまった。この時、当山の霊験あらたかなることを聞き、従者と共に参拝し祈願すると馬の病は忽ちに全快し、無事湯の峯にたどり着くことが出来た。愛馬が救われたことに感激した小栗判官は応永33年(1426)堂宇を再建し、「救馬渓観音」と名付けられたという。「生馬」の地名や「馬川」の川の名はこの霊験に由来している。江戸時代には紀州藩付家老紀伊田辺藩主安藤家の祈祷所として尊信を篤く受け、寛文4年(1664)に現本尊の厨子の寄進を賜り、嘉永5年(1852)には本堂を再建されるなどの庇護をうけた。
 明治に入り廃仏毀釈のあおりを受け、一時無住となり荒廃するも、先住の努力と御本尊馬頭観世音菩薩の霊験を慕う人々の寄進により復興し現在に至る。
 当山は熊野本宮への参拝道である山間部を通る「中辺路」と、海岸線を通る「大辺路」の分岐点に位置していることから、古くから熊野本宮への道中の安全を祈願した寺としても知られる。開基以来、観世音の霊徳を慕い、加護を念じて初午や月縁日の18日には羽織 袴に盛装し、参拝する人々は列をなしたと伝えられる。

大阪府貝塚市の「水間寺」の観世音は当山から勧請されたとの言い伝えもあるが、文献等は残っていない。


http://www.sukuma.or.jp/sukuma/menu/engi.htm より引用



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[2020/12/09 17:05] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

気絶峡 紅葉 

和歌山県田辺市 奇絶橋

奇絶峡

山の岩肌に磨崖仏を発見!
堂本印象(1891年 - 1975年)の原画を彫ったものとのことです。

奇絶峡3

右会津川には巨岩がごろごろ。
これは磐座信仰のある土地にちがいないっ。

奇絶峡4

山につきささったかのような巨大な岩。

奇絶峡-不動滝

赤い橋を渡ると不動滝がありました。

奇絶峡-不動明王堂

滝の上部には不動明王堂がありました。
天井部分は岩になっていました。
上から3枚目の岩の下に不動明王堂が作られているんですね。

奇絶峡の磨崖三尊大石仏 

山道を登って磨崖三尊大石仏をまじかで見ることができました。
写真1枚目の磨崖仏ですね。

奇絶峡2 
近くに大人の足跡というのがあるらしいのですが、見損ねました~
http://penginzu.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-4adf.html


昔、上秋津村の木村佐七という男が、龍神村に商いに行った。帰り道、疲れた佐七は、ついうとうとと滝の前で眠ってしまった。「こんなところで寝ないで、早く帰るがよい」との声に目を覚ますと、そこに錫杖を手に、一つ歯の高下駄を履いた3人の修験者が彼を見下ろしていた。驚く佐七をよそに、修験者たちは天狗のように軽々と崖を飛び降り、滝行を始めた。佐七は感心して見ていたが、目をそらした瞬間、3人は霧のように消え失せたという。「これは、きっとお不動様が注意してくれたのだ」と思い、ここに不動明王を祀るようになったと伝わる。

 別名、赤城ノ滝。滝音が響き渡る中、滝の真横にある不動明王堂に入ると、大きく突き出した天井の巨石に驚かされる。

https://www.nwn.jp/feature/180602_kizetukyo/ より引用


この右会津川の風景は、大阪府交野市の磐船神社の岩窟を思いださせます。
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/gankutu.html

交野市には星の字のつく地名が多く、星の伝説が多いです。
また磐船神社の御祭神・ニギハヤヒについて、雲陽誌につぎのように記されています。
島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。


この右会津川の辺りも、星がふった場所だと考えられていたのかも。

そして流星のことを天狗(あまつきつね)と記した文献もあります。
佐七の前に現れた修験者の正体とは、落ちてきた星ではないでしょうか?




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[2020/12/04 16:17] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

和歌山県海南市 工場夜景 


和歌山県海南市あたり 


海南市 森林公園より2

①紀州漆器の担い手たちは滋賀県木地師の里からやってきた?


森林公園雨の森展望台から海南市を見下ろしました。
工場の夜景が美しいっ!

工場は日本製鉄だと思います。近代産業が盛んな町なんですね。
しかし近代産業だけではありません。
海南市は伝統産業として紀州漆器などでも有名なんですよ。

室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろ、近江の木地師集団が紀州に移住してきたとされます。
彼らが紀州檜を用いて椀などを製造したのが紀州漆器の始まりとされます。

海南市 森林公園より 

おお~、近江の木地師!

近江は現在の滋賀県のことですが、滋賀県東近江市君ヶ畑あたりは「木地師の里」と呼ばれています。

また、滋賀県蒲生郡日野では日野漆器が作られていました。

日野は1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展したとされます。

近江の木地師集団が紀州に移住してきたのは室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろということなので、日野からやってきたということはないか。

紀州漆器の担い手たちは滋賀県東近江市君ヶ畑あたりの「木地師の里」からやってきたのかもしれませんね。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)


君が畑には大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っていますよ。

大皇器地祖神社の近くには惟喬親王の墓もあります。(京都三千院近く、滋賀県筒井峠付近にも惟喬親王の墓があります。)

惟喬親王-墓2 
大皇器地祖神社近くにある惟喬親王の墓

惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があり
(奈良時代にろくろで作られた百万塔が現存しているので、この伝説は事実ではないのですが)
そのため、木地師の祖とされているのです。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸

使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。

木地師の祖ということで日野漆器の産地だった滋賀県日野でも惟喬親王は厚く信仰されています。
日野祭の双六町曳山の見送幕は惟喬親王が描かれています。
http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/yama/sugo.html

紀州に定住した近江からやってきた木地師集団も惟喬親王を信仰していたことでしょう。

また惟喬親王の母親は紀静子といい、紀氏の女性でした。
そして紀州は紀氏の本拠地ですから、彼らは紀州で漆器をつくるということに意義を見出していたかもしれません。

②根来塗


近江の木地師集団が定住して漆器をつくったのが紀州漆器都する説のほか、秀吉の根来寺焼き討ちからのがれてきた職人が黒江湊に移住して紀州漆器がつくられはじめたとする説もあります。

根来寺に関係する漆器に根来塗があり、寺の僧侶たちが用いていたとされます。

黒漆で下塗りをしたのち、朱漆塗りを重ねてつくるそうです。

たぶんですが、朱塗りは漆に天然の辰砂をまぜるのではないかと思います。(もしちがっていたら教えてね~)
https://www.negoronuri.com/

③なぜ根来に小野小町伝説があるのか

根来寺 紅葉

根来寺

根来寺の裏あたりにある山を根来山というようです。(写真に写っている山が根来山かどうかはわかりません~。すいません。)

で、この根来山付近にこんな話が伝えられています。

康和(1099~1104年)のころ、根来山の麓の西坂本に室家右兵衛尉忠家(むろやうひょうえのじょうただいえ)が住んでいました。
忠家は金持ちでしたが、子供がいませんでした。
あるとき、忠家の妻は、小野小町の墓に参拝すると子供を授かるという話を聞き、二十一日絶食して小野小町の墓にお参りをしました。
やがて妻は身籠り女児を出産しました。
女児は桂姫と名付けられ、小野小町そっくりな美女に成長しました。
桂姫の髪は住持池(じゅうじがいけ)の水をつけないと梳くことができず、住持池の水を汲んできては梳いていました。
桂姫は和泉国尾崎の大原源蔵高広(おおはらげんぞうたかひろ)という北面(ほくめん)の武士に嫁ぐことになりました。
嫁入り行列が住持池を通り過ぎようとしたとき、空がかき曇り池に大波がたり、大蛇があらわれて娘をさらって水の中に消えました。
母親は悲しみもう一度娘に会いたいと願っていましたが、あるとき住持池を泳ぐ二匹の蛇の姿を見ました。
桂姫をさらった大蛇は小町に思いをよせていた深草小将の生まれ変わりだといわれています。





なぜ、この地に小野小町の伝説があるんでしょうか?

実は私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えています。

小野小町像 
髄心院 小野小町像


詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

特に、下記記事を詳しく書いていますが、
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

ざっとまとめておくと次のような理由があげられます。

a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

①で述べたように惟喬親王は木地師の祖として信仰されています。
そして根来塗をつくるためには木地師の存在があったと考えられます。

根来寺付近に住んでいた木地師は木地師の祖・惟喬親王に対する信仰があり、惟喬親王=小野小町なので、小野小町に関係する伝説が生じたのではないでしょうか。

ところで、この話にでてくる小野小町の墓ってどこにあるんでしょうね。
和歌山市湯屋谷に小野小町の墓があるそうですが、ここのことでしょうか?

海南市 森林公園より3 



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[2020/02/01 18:20] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

白崎海岸 白崎青少年の家 水仙 『越前海岸の伝説に登場する山本五郎左衛門の正体とは?』 



和歌山県由良町 白崎海岸 白崎青少年の家 立厳岩 戸津井鍾乳洞


白崎青少年の家 

白崎青少年の家より

①福井県越前海岸の水仙伝説

和歌山県白崎海岸の水仙ですが、本日は福井県越前海岸の水仙伝説についてです。(汗)

ネットで調べると、微妙に異なる内容の伝説がでてきます。

㈠平安時代末期。山本一郎太は木曽義仲に従って京へ戦に出かけました。
一郎太が不在のとき、一郎太の弟・二郎太は海で助けた娘と恋仲になりました。
木曽義仲は敗戦し、一郎太は故郷に帰ってきましたが、一朗太は次郎太の恋人の娘を好きになってしまいます。
そして一郎太と次郎太は娘をめぐって決闘することになってしまいました。
娘はこれを悲しんで海に身投げしました。
翌年、海岸に娘の化身かと思われるように美しい水仙が流れ着き、自生するようになりました。

㈡平安時末期、越廼村居倉浦の山本五郎左衛門は,長男一郎太と共に源平の戦いに加わりました。
二人が留守の間、次男の二郎太 が海岸で助けた娘と恋仲になりました。
山本五郎左衛門は戦死し、長男一郎太だけが戻ってきましたが、一朗太は次郎太の恋人の娘を好きになってしまいます。
娘はこれを悲しんで海に身投げしました。
翌年、海岸に水仙がながれつき、村人たちは娘の化身にちがいないと丘の上に植えました。


㈠と㈡の伝説を合体するとこんな話になると思います。

平安時末期、越廼村居倉浦の山本五郎左衛門は,長男一郎太と共に木曽義仲軍に参戦しました。
二人が留守の間、次男の二郎太 が海岸で助けた娘と恋仲になりました。
山本五郎左衛門は戦死し、長男一郎太だけが戻ってきましたが、一朗太は二郎太の恋人の娘を好きになってしまいます。
娘はこれを悲しんで海に身投げしました。
翌年、海岸に水仙がながれつき、村人たちは娘の化身にちがいないと丘の上に植えました。

白崎青少年の家2 

白崎青少年の家

②山本五郎左衛門は妖怪だった?

一朗太と二郎太の父・山本五郎左衛門をぐぐってみると、
なんと江戸時代中期の妖怪物語『稲生物怪録』に登場する妖怪とでてきます。

1625年、山本五郎左衛門は備後国三次(現在の広島県三次市)で稲生平太郎(三次藩の実在の藩士・稲生武太夫の幼名)を30日間にわたって脅したあと、
7月30日に裃姿の40歳ほどの武士の姿で平太郎の前に姿を現しました。
そして、次のように言いました。
「私は神野悪五郎(しんの あくごろう)と魔王の頭の座をかけて少年100人を驚かせる賭けをしていた。
インド、中国、日本と渡り歩いて、86人目にお前を驚かそうとしたが、お前はどうしても驚かなかった。
賭けは私の負けである。今後、お前悪五郎に襲われた場合には、この小槌を打ち鳴らせ。私が力をかそう。」


7月30日とある点に注意してください。
旧暦では7月30日は晦日(7月最終日)です。
そして旧暦7月はお盆の月です。
山本五郎左衛門はお盆であの世からこの世に戻ってきた霊だったのではないでしょうか。

一朗太と二郎太の父・山本五郎左衛門は妖怪・山本五郎左衛門と同一人物いや、同一神(妖怪って神だよね?)なんでしょうか?

ちょっとわからないですが、もしかしたら、この『稲生物怪録』の山本五郎左衛門を福井の水仙伝説にとりこんだのかもしれません。

五郎と言う名前は御霊をあらわすと聞いたことがあります。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊したもののことです。

白崎遠見番所跡 

白崎遠見番所跡


③木曽義仲、粟津の戦いで討たれる。

「山本五郎左衛門は,長男一郎太と共に木曽義仲軍に参戦した」とありますね。
この木曽義仲について見てみましょう。

1154年、木曽義仲は、源義賢の次男として生まれました。
1180年、後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が、平家打倒を命じる令旨(りようじ)を発すると、木曽義仲は挙兵します。
1181年、越後から討伐にきた兵士方の城助職を横田河原(長野県)の戦いで破り、北陸へ向かいます。
1183年には、平維盛ら10万の大軍を倶利伽羅峠(富山県)の戦いで破り、篠原の戦い(石川県)でも大勝。
入京した義仲は後
白河法皇より改めて平家討伐を命じられます。
しかし、治安回復が思うようにすすまず、後白河法皇の信頼を失ってしまいます。
義仲は、西国へと平家討伐に向かいますが、水島の戦い(岡山県)では敗退します。
そこへ、源頼朝の弟・
源義経が、鎌倉から大軍を率いて京にやってきました。
義仲に対する信頼を失っていた後白河法皇は源頼朝・義経らと結びつこうとし、義仲は後白河法皇捕らえて幽閉してしまいます。
1184年、
宇治川の戦い(京都府)で源範頼・源義経と戦うも敗戦。
北陸へ逃れようとしましたが、粟津の戦い(滋賀県)で顔面に矢を受けて討死しました。

白崎海岸近くの水仙 
白崎海岸付近

④広島の義仲信仰

広島には『稲生物怪録』の山本五郎左衛門に類似した伝説がつたえられているそうです。
調べてみたら広島県尾道市向島町には義仲とその子・義重を祀る覚明神社があります。

義仲が討たれた際、家臣の大夫坊覚明は義仲の子・義重と家臣30名余りとともに覚明島(現:向島・川尻地区)に移住し、家臣らの自立を見届けたのち、覚明と義重は信州へと帰ったといいます。

もしかして、山本五郎左衛門は木曽義仲の軍に参戦したとありますが、木曽義仲自身のことだったりして?
そして広島県尾道市向島町に移住した義仲の家臣たちは、お盆の時期に義仲の亡霊がこの世へもどって来るが、畏れたりしなければ自分たちを守護してくれると考えて、伝説を創作したのかも?

そうだとすれば、山本五郎左衛門のライバル・神野悪五郎の正体は源頼朝?

そして、一朗太と二郎太は木曽義仲の子だということになりますが?

立厳岩 
立厳岩(たてごいわ)

⑤義仲、大塩八幡宮に本陣を構える。

越前海岸のある福井県もまた木曽義仲ゆかりの地です。

③のところで次のように書きました。

1183年には、平維盛ら10万の大軍を倶利伽羅峠(富山県)の戦いで破り、篠原の戦い(石川県)でも大勝。

1183年、平家は木曽義仲を討伐するため、北陸に十万余騎を送りました。
義仲は越前の大塩八幡宮境内に本陣を構え、軍議を行って平家軍を破ったとされます。

大塩八幡宮から越前海岸までは直線距離で16kmほどです。

上に記したような大塩八幡宮と義仲の関係から、越前海岸の水仙伝説はつくられたのかも?

戸津井鍾乳洞前の水仙 
戸津井鍾乳洞前

戸津井鍾乳洞の道祖神 

戸津井鍾乳洞の道祖神




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[2020/01/27 10:24] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

湯浅の街並みと山田川 『阿漕の正体はサルタヒコ?』 


和歌山県湯浅町

湯浅 山田川 

①湯浅のシロウオ漁

湯浅の土産物屋さんにシロウオ漁のミニチュアが置いてあったので、お願いして写真を撮らせてもらいました。

湯浅シロウオとり ミニチュア 

2月中旬から3月下旬にかけてシロウオが遡上してきます。
これを四つ手網でとらえるという伝統漁法です。

https://wakayama.keizai.biz/headline/1068/
↑ こちらにシロウオ漁の写真が掲載されています。
あー、実物を見てみたい!

②阿漕が浦

この四手網は引き網の一種だといえると思いますが、引き網を詠ったにこんな歌がありますよ。

逢う事も 阿漕が浦に 引く網も 度重ならば 顕れやせん/古今和歌六帖
(愛しい人と会うことも、禁漁となっている阿漕が浦で網を引くことも、度重なれば必ずばれるであろう。)

伊勢の海 阿漕が浦に 引く網も たびかさなれば 人もこそ知れ/源平盛衰記
(禁漁となっている伊勢の阿漕が浦で網を引いて漁をすることが度重なれば必ず人にばれるであろう。)







三重県津市柳山津興622に阿漕塚があるみたいですね。
このあたりは古には伊勢神宮の神饌をとるための漁場のため、禁漁とされていました。

しかし、密漁を行う漁夫がおり、何度も密漁を行ったため、漁夫は捉えられてしまったというのですね。

湯浅-河豚提灯 

③能・阿漕

これらの歌をベースとして、昔話や能などが創作されています。

能の阿漕はこんな話です。

日向の男が伊勢参りの途中、伊勢の阿漕浦にやってきました。
そこへ年老いた漁師が現れて殺生の仕事を嘆いています。
男はここが阿漕という地名であることを聞き、「ここが「伊勢の海 阿漕が浦に 引く網も 度重なれば 顕れにけり」の歌の舞台なのだなあ」と感慨にふけります。
すると漁師は六帖の歌にある「逢う事も 阿漕が浦に 引く網も 度重ならば 顕れやせん」と別の古歌を詠じます。
男は漁師に歌のいわれを訊ねると、漁師は次の様に答えました。
「この浦は伊勢神宮に奉納する魚をとるための場所で、禁漁とされている。
しかし阿漕という海士が夜な夜な密漁をし、度重なった結果人に知られるところとなり、捕らえられ海に沈められた。
男は今も冥土で責め苦に苦しんでいる。
その阿漕とは私のことである。」


湯浅の商家 
④サルタヒコ=ニギハヤヒ=天照大神?

阿漕という海士とはサルタヒコのことだと思います。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。
その後、ニニギは天鈿女に『猿田彦を彼の故郷の伊勢へと送り届け、猿田彦の名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。
ここから天鈿女は猿女君と呼ばれるようになりました。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)

この神話について、私は次のように解釈しています。
猿田彦猿田彦は「高天原(天)から葦原中国(国)でを照らす神」と記述がある。
これにぴったりな神名を持つ神がいる。
天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命
(あまてるくにてる ひこ あめのほあかりくしみかたま にぎはやひ の みこと/ニギハヤヒ)である。
猿田彦とニギハヤヒは同一神ではないか。)
また、女神のストリップダンスに興味を持つのは男神だ、よって女神・天鈿女のストリップダンスに興味を持って岩戸を出てきた天照大神は男神だとする説がある。
天照大神を男神として祀っているところもある。
ニギハヤヒ(=猿田彦)が本当の天照大神ではないかとする説もある。
猿田彦の故郷は伊勢伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮があり、1の説を裏付けとなる。
猿田彦の名前を伝えて仕え祭れニニギは天鈿女に「性的に猿田彦につかえよ」と命じたのではないか。
猿田彦は比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んだ貝は女性器の比喩で、猿田彦は天鈿女のセックスに溺れて死んだということではないか。

湯浅 民家と山茶花 

4に書いたように、貝は女性器の比喩で、猿田彦は天鈿女のセックスに溺れて死んだということではないかと思われます。

また1に書いたように猿田彦神は「高天原から葦原中国まで照らす神」と記されていますが、これにぴったりの神名を持つ神がいます。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)=ニギハヤヒです。

天照大神は女神であるアメノウズメのストリップダンスに興味を持ってでてきたともよめますね。
女神のストリップに興味を持つのは男神だ。よって天照大神は男神であるとする説があります。

また各地の神社などに天照大神は男神と伝わっています。
祇園祭岩戸山のご神体の天照大神も男神でした。

岩戸山ご神体 天照大神

⑤天照大神は男女双体の神?

しかし私は天照大神は歓喜天のように男女双体の神ではないかと思ったりします。

すなわち、天照大神とは猿田彦神とアメノウズメの男女双体の神ではないかということです。
ちなみに道祖神は猿田彦神とアメノウズメの男女双体の神だといわれています。
道祖神の正体は男女双体の神・天照大神ではないかと思います。

多気山不動尊 道祖神 

多気山不動尊 道祖神

禁漁とは、単に漁を禁じているということではなく、男女関係を禁じることを比喩的に表現したものでしょう。

サルタヒコはアメノウズメとエッチしてしまったので罰を受けているのではないでしょうか。
そしてそれが阿漕の正体ではないかと思うのです。

湯浅の民家2 

⑥男女和合は怨霊鎮めの呪術?

神はその表れ方によって御霊・和魂・荒魂の3つに分けられるといわれます。
御霊は神の本質、和魂は神の和やかな側面、荒魂は神の荒々しい側面です。
和魂は人々にご利益を与える神、荒魂は怨霊でしょう。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで
そして男神は荒魂、女神は和魂とする説があります。
猿田彦=ニギハヤヒで政権を奪われた神だと考えられるので荒魂(怨霊)だと考えられます。

荒魂である男神を、和魂である女神と和合させるのは、荒魂(怨霊)を鎮め御霊とするための呪術だと思います。

猿田彦も荒魂(怨霊)なので、和魂であるアメノウズメと和合させて伊勢神宮に祀ったのが天照大神の正体ではないでしょうか。

湯浅 仙光寺 

⑦『天照大神=男女双体』から『天照大神=女神』へ。

しかし、アメノウズメに「猿田彦の名前を伝えて祭れ(性的に奉仕せよという意味?)」と命じたのはニニギです。
それなのに、なんで猿田彦はエッチしたからといって罰を受けているんだ?
とつっこまれそうですね。

もともとの意味は先にのべたとおりですが、しだいに天照大神は女神であるとする考え方ができて定着し、天照大神とエッチするなどけしからん、ということになったのではないかと思ったりします。

また、記紀神話には同複の兄妹または姉弟で結婚した神が登場します。

イザナギ&イザナミ、天照大神&スサノオ、アシナヅチ&テナヅチなどです。

しかし、後に同複兄妹または姉弟の結婚を禁忌とする考物語が登場します。

木梨軽皇子と衣通姫の話がそれです。
そういう道徳観が生じたため、猿田彦=阿漕が罰をうけていると考えられるようになったのかもしれません。

湯浅 井戸

湯浅 白壁倉庫 
湯浅 民家 
湯浅 

湯浅の民家 

湯浅 自転車 



  
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[2020/01/03 15:59] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

白崎海岸 夕景など 『曽禰好忠は紀伊と丹後、両方の由良をイメージして歌を詠んだ?』 


和歌山県日高郡由良町 白崎海岸 

白崎海岸へ向かう 
カーブを曲がると不思議な白い岩の島があらわれた!

①由良は丹後?それとも紀伊?

由良の門(と)を渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな/曽禰好忠(そねのよしただ)

(由良の門を渡る舟人が船を操るかじを失って漂うように、ゆくえのわからない恋の道であることよ。)


百人一首にもとられている有名な歌ですね。

この歌にでてくる『由良の門』については、丹後由良川の河口説と紀伊国(現在の和歌山県日高郡由良町)由良の御崎説のふたつがあります。

由良の御崎は和歌山県和歌山県日高郡由良町神谷当たりと思われます。
由良町神谷は白崎海岸から約2kmほど南になります。

白崎海岸 5 
石灰岩なので白いのですね。 石灰岩は水に溶けやすいので浸食されて、穴があいています。昔このあたりまで海だったのか?隆起したのか?

②曽禰好忠は偏屈ではなく「いじめ」に立ち向かったのでは?

曽禰好忠という人を調べてみるとあちこちのサイトに「偏屈」「奇行が多い」などと出てきます。

985年、円融上皇が紫野において子の日の御遊のさいに歌会を開きました。
子の日の御遊とは、正月初子の日に紫野などの丘に登り、若菜を摘み、小松を引く行事のことです。
上賀茂神社で現在も行われている燃灯祭はこの『子の日の御遊』の伝統を伝えるものだと思います。

上賀茂神社 燃灯祭 『小松と玉箒草は夫婦和合を意味している?』  燃灯祭

上賀茂神社 燃灯祭3

上賀茂神社 燃灯祭

こういった小松引きなどの行事を行ったあと、歌会が行われたのでしょう。。

歌会は官位に関係なく歌人の歌を鑑賞しようという趣旨で行われたのですが、曽禰好忠は招待されませんでした。
そこで曽禰好忠は強引に参加しようとしたのですが、藤原実資、藤原朝光らが追い出したというのです。

うーん、でもこの逸話をもって偏屈というのはどうかと思います。
会社の飲み会などで、ひとりだけ仲間はずれにして誘わないというようなこを聞いたことがあります。
これは「いじめ」ですよね。
曽禰好忠も「いじめ」を受けたということかもしれません。
そしてそういった「いじめ」に屈することなく乗り込んでいったというのは、ある意味すごいことだと評価したくなったりもしますね。

白崎海岸 3 

③藤原氏の曽爾氏排斥?


また藤原氏の他氏排斥は有名で、大伴氏(伴氏)、紀氏、橘氏、菅原氏など多くの氏族が藤原氏の陰謀によって没落させられています。
曽禰氏は物部氏の一族で、『新撰姓氏録』でも「石上同祖、ニギハヤヒの六世孫イカガシコオの後裔、采女臣同祖」などと記されています。

ニギハヤヒは物部氏の祖神です。采女臣はニギハヤヒを祖とする穂積氏から分かれた氏族です。

曽爾氏も藤原氏によって排斥されようとしていたのかもしれませんね。

白崎海岸 4

④曽禰好忠は丹後掾だったので、丹後の由良?

①でこの歌で詠まれた『由良』は、丹後由良川の河口説と紀伊国(現在の和歌山県日高郡由良町)由良の御崎説のふたつがあるといいました。

紀伊国・由良の御崎は新古今集の時代には有名な歌枕だったそうです。
『八雲御抄』『歌枕名寄』『百人一首抄)』などは紀伊国由良としています。

しかし契沖は『百人一首改観抄』で次の様に述べています。
「曽禰集を見るに、丹後掾にてうづもれ居たることを述懐してよめる歌おほければ、此由良は丹後の由良にて」

つまり、曽禰好忠の役職は丹後掾で、うかない人生であったこと述懐する歌が多いので、
「由良の門を~」の歌の「由良」は丹後の由良、つまり宮津の由良川の河口ではないか
と、契沖は言っているわけです。

京都府の宮津市にある由良川は天橋立の東南東5kmほどのところにあります。
由良川は残念ながら見たことがありません。

白崎海岸 1 

⑤丹後の由良川の河口は潮の流れが激しいか?


こんな風に書いてあるサイトがありました。
由良は丹後国(現在の京都府宮津市)を流れる由良川の河口です。「門(と)」は、海峡や瀬戸、水流の寄せ引く口の意味で、河口で川と海が出会う潮目で、潮の流れが激しい場所です。

https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/046.htmlより引用。




由良川河口付近の動画があったのでお借りしました。
そんなに潮の流れが激しいようには思われませんね。

⑥由良に風力発電所が作られたのは風がきついためでは?

私が白崎海岸に行った日はものすごい風で、三脚が吹き飛ばされそうでした。
髪もあっという間にぐちゃぐしゃに~。
波も高かったです。
天候にもよると思いますが、気になるのは風力発電用の風車が何基も並んでいたことです。

風力発電の風車がつくられているということは、風が強い地域だということではないかと思ったんですが、どうでしょう?
そして舟人はこの風でかじを吹き飛ばされてしまったのでは?
三脚が吹き飛ばされそうな風ですから、船人のかじも吹き飛ばしそうです。

由良風力発電所 風車 

⑦曽禰好忠は紀伊と丹後、両方の由良をイメージして歌を詠んだ?

曽禰好忠は紀伊と丹後、両方の由良をイメージして歌を詠んだのではないか、と私は思います。

紀伊の由良は歌枕として有名なので、この歌を聞いた人はまず紀伊の由良を思い浮かべるだろう、という計算を曽禰好忠はしていたんだったりして?

強い風、荒い波、白い石灰岩の磐がせまる荒々しい光景に、人々は曽禰好忠の人生の厳しさを思い浮かべたかもしれません。

そうして鑑賞する人々を欺きつつ、実は曽禰好忠の本心は丹後の由良にあるんだったりして?
かじを失った舟人(曽禰好忠自身を比喩したもの)は海を漂ってどこにいきつくのでしょうか?

由良川の河口を出ると、すこし行ったところに天橋立があります。

天の橋立 

天橋立

天橋立は股除きといって、脚を広げて大の字に立ち、前屈して見る習慣があります。
こうしてみると、海ではなく天上にかかる橋のように見えるというわけです。

天上人とは天の上に住む人の意味で、そこから転じて身分の高い人を意味することになりました。

また天上人と同音異義語で殿上人(てんじょうびと)という言葉があります。

殿上人についてウィキペディアは次のように説明しています。

9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者(三位以上は原則全員、四位・五位の一部)の中から公卿を除いた四位以下の者を指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF%E4%B8%8A%E4%BA%BA より引用

曽禰好忠は漂った船がこの天橋立を通って天上にいき、天上人(殿上人)になれるという祈りをこめて、この歌を詠んだのかも?

そして曽禰好忠のよばれていない歌会に強引に参加しようとしたというエピソードは、この歌の意味を知っている人によって創作されたものなんじゃないか、などと思ったりもします。

白崎海岸 2 

白崎海岸 夕日 
白崎海岸 夕日2



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[2019/12/28 12:16] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

甚風呂(銭湯跡歴史資料館) 仕事の道具 『算盤で16進法の計算はできるか?』 

 甚風呂には仕事の道具もたくさん展示されていました。

足踏み脱穀機

足踏み脱穀機
自転車のスポークにあたったもみが飛び散るのを見て発明されました。
踏み板を足で踏んで上下に動かすと、ドラムが回ります。
そこへ稲束を乗せて手で押さえると、やまがたの針金にひっかかってもみが落ちるというわけです。


田圃の草取り器

田の草取り器

貯蔵器 殺虫剤 

向かって左から、唐箕(とうみ)・貯蔵器 貯蔵器の上にのっているハンドルのついた筒状のものは殺虫剤

唐箕はもみ殻を外したあと、風をおこして穀物を 籾殻・玄米・塵などに選別するための道具です。
中国の17世紀の書物に「風扇車」という名前登場し、中国で発明されたと考えられています。
日本で唐箕について記された最も古い文献は1684年の会津農書(佐瀬与次郎衛門)です。
円柱形の中に四枚羽の板が仕込まれており、ハンドルを回すと連動して板が回転し、風がおきます。
そこへ唐箕の上部の漏斗から少しづつ穀物を落下させると、藁屑や実のない籾などは吹き飛ばされて向かって左側の出口から出てきます。
実の詰まった重い穀粒は吹き飛ばされないので、手前(向かって右)の出口からでてきます。


墨壺

墨壺
大工さんが木材にまっすぐに線を引くための道具です。
車輪部分には糸が巻いてあります。 向かって右のくぼみは墨壺でここに墨を含ませた綿をいれます。
糸を引き出すと糸に墨がつきます。
この糸をピンと張ってはじくとまっすぐな線がひけるのです。

城南宮 釿始式 墨壺の糸をはじいて線

城南宮 ちょうな始式 
墨壺を用いて線をひく様子。向かって右の人は墨壺から引き出した糸をピンとはる役。向かって左の人は糸をはじいて印をつける役。

鞴

ふいご

風をおくる道具です。
風をおくるしくみは下の図を見れば一目瞭然ですね。

File:Bellows 2 (PSF) generalized.png

ウィキペディアよりお借りした鞴(たたら)の図です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bellows_2_(PSF)_generalized.png?uselang=ja
作者は
Pearson Scott Foresmanさんです。

何に使ったふいごなんでしょうね?
煮炊きや風呂焚きに用いたのでしょうか?

鞴2

↑ 形は全然違いますが、これも鞴(箱鞴)で鍛冶屋さんなどでよく使われていました。
箱の中に板が仕込まれており、これをひいたり出したりすることで空気を送ります。
http://www7.plala.or.jp/daikazoku/kajiya/fuigo/index.html
↑こちらの記事のイラスト、説明がわかりやすいです。

霧笛

霧笛
これも鞴かと思ったのですが、よく見ると、送風口にラッパがついています。
霧笛とよばれる船の汽笛です。
大きな音がしますよ。

糸車 綿繰り 
糸車 綿繰り

型紙

型紙
日本のステンシルですね。柄の細かさに見とれてしまいます。
文字のもオモシロイ♪

薬研 
薬研(やげん)
薬草をすりつぶす道具
 
菓子型

菓子型
和菓子屋さんで使っていたのでしょう。欧米のバターモールドににていますね。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89&aq=-1&ai=lCtAiCQMRq25Hxh1LMEfCA&ts=10964&ei=UTF-8&mfb=P031&fr=top_ga1_sa
(バターモールド画像)

醤油瓶

醤油瓶 
醤油をつくる道具はこちらにも多数掲載しています。↓
湯浅の街並みと角長醤油資料館 『醤油搾り機と搾油器が似ているのは偶然?』 


映写機 幻灯機

幻灯機 映写機

クラッシックカメラ

クラッシックカメラ

竜吐水

家事のときに活躍する道具
とびぐちは木材などを運搬したり、建物を解体する道具ですが、火事の際には延焼をふせぐため、建物を破壊する目的でも用いられました。
竜吐水は消火するため水をくみ上げて放水するポンプです。

防災頭巾

防火頭巾

昔の紙幣

昔の紙幣

江戸時代の藩札

藩札

船箪笥 行灯 帳場箪笥

向かって左から船箪笥 行灯 帳場箪笥 
船箪笥は廻船(貨物や旅客を乗せて港をめぐる船)に積み込んだ箪笥。
難破したときには木材が膨らんで隙間が埋まります。また水に浮くように作られていました。
帳場は帳場(支払いをしたり、帳をつけたりする場所)におかれていた箪笥。

 レジスター

レジスター

抽選機 

抽選機
現在はガラガラとハンドルをまわして色つきの玉を出すのが多いですが、昔はおみくじ形だったんですね。

スタンプ台

スタンプ立
おしゃれすぎる❤

スタンプ 
スタンプ

 ちぎ     
千木
二貫目(7.5kg)以上の物を鉤の部分にひっかけて計量する秤を千木といいました。
長い棒状の千木の先端よりやや下にひもがついています。このひもを高所などにかけます。
上部の先端に釣り針のような鉤がついていますね。ここに重さを計測するものをかけます。
千木の下方にコップを逆にしたようなものがありますが、これを千木のもう片側にかけて、計測物とバランスのとれる位置にうごかします。
バランスがとれたところで、千木の目盛りをよみとります。
細長い扇形をしたものは折り畳み式千木かな?扇形をしているのは千木のケースだと思います。

天秤はかり 

天秤ばかり

 
 算盤 矢立    
算盤と矢立
矢立はボールペンや万年筆がなかった時代の携帯用筆記用具。
上部の四角いくぼみに墨をしみこませた綿を、長細い部分には筆をいれます。

前回もご紹介した算盤は上二珠下五珠のもの。
もともとの算盤はこの形で、のちに上一珠下五珠、上一珠下四珠のものが作られるようになりました。

なぜ算盤は上二珠下五珠で作られたのでしょうか?
算盤は中国で作られましたが、民の時代、目方の単位は1斤が16両だったので、1桁に15までおける五珠が作られたといわれています。

一瞬、なるほど、と思いましたが、実際にやってみると面倒です。

13両+14両の計算をやってみます。

まず、13両をおきます。↓

A  

斤(十の位)両(一の位)


これに14両を足すにはどうすればいいでしょうか。
10進法なら十の位に1を、一の位に4を置けばいいのですが、十六進法なのでそれはできません。
いろんな置き方があると思いますが、とりあえず、次のようにやってみましょう。
下に2珠残っているので、14のうちの2を置きます。(赤字部分)

斤(十の位)両(一の位)


16で一けた繰り上がるので一の位に一珠置いたと考えて十の位に①を置き、一の位をクリアーします。
そのうえで、14-2-1=11なので、一の位の上に二珠(10)、一の位の下に一珠置きます

あるいは十の位に1をおき、16-14=2なので、Aの一の位から2珠はじいてもⅭのようになります。

斤(十の位)両(一の位)


13両+14両=27両
27両―16両(1斤)=11両
∴13両+14両=1斤11両

とこのように暗算したほうが断然早くないですか?

これはまだ2桁だからいいんですが、桁が多くなってくると、もうわけわかめになってしまいそう~。

上二珠下五珠の算盤は16進法の計算をするため、というのがかなり疑問に思えてきたのですが、どうでしょう?

「いや、こういう風にやるんだよ」という方がおられましたら、ぜひ教えてください!






  
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[2019/12/17 13:27] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

甚風呂(銭湯跡歴史資料館) レトロな暮らしの道具たち『煙草を吸ってもガンにならないは間違いだった?』 


甚風呂(銭湯跡歴史資料館) 『三助はなぜご祝儀を受け取っていたのか?』 
↑ こちらの記事で大正・昭和時代のレトロな銭湯の写真をご紹介しました。

銭湯の裏側と2階は住居スペースになっておりまして、レトロ&アンティークな雑貨がたくさん展示されていました。
欲しくなってしまう物がたくさん!(画質の悪いのもありますがご容赦ください。汗~)

ブラウン管テレビ

ブラウン管テレビ

わかりにくいかもしれませんが、白黒テレビのブラウン管に透明な下敷きのようなカバー(フィルム)がつけられています。
画面を拡大してみるためのカバーと、カラーっぽく見えるカバーの2種類があったそうです。
 
ラジオ レコードプレイヤー

レコードプレイヤーとラジオ

ちゃぶ台 学習ノート

ちゃぶ台と学習ノート イラストがとてもかわいいですね♪

扇風機

扇風機 曲線のデザインが美しくてみとれてしまいます。 コードもおしゃれ!

火鉢

火鉢

照明道具

照明の道具 
和ろうそくの絵付けの細かさにしびれます。
和ろうそくはハゼの木からとれる木蝋(もくろう)など植物性の蝋を用い、芯は紙・燈芯草・真綿などを巻いてつくります。
芯が太いので明るいのですが、芯が炭化して残ってしまうので、ときどき芯切バサミなどで芯を切って使っていました。

炭化した芯を残したまま燃え進んでいくとかなり炎が大きくなります。

龕灯(がんどう)は江戸時代に発明された携帯用ランプです。
その作り方について工学に詳しい友人に教えてもらいました。
大小ふたつの鉄環をつくります。次に大きい鉄環の中に小さい鉄環をいれ、ひんじでつなぎます。
内側の鉄輪の中央におもりをつけ、その上に蝋燭を固定します。
龕灯をふりまわしても、内側の鉄環は重力で下を向くので、その上に固定した蝋燭は常に上をむくというわけです。

電話

電話機

電話2 

電話機の前面についているコップ状のものは送話器で、ここに向かって話をします。
向かって左側面のラッパ上のものは受話器で、これを耳にあてて相手の話を聞きます。
上の写真ではひとつ、下の写真ではふたつ丸いものがついていますが、これはベルで、電話がかかってきたらなります。

電話機の向かって右にハンドル(発電機)がついていたようです。(写真ではわかりませんが)
すると電話交換手が出るので、「〇〇番につないでください」と伝えてつないでもらいます。
受話器を置くと交換手から電話があり、通話料を伝えてくれるというとのことです。

ポップアップトースター

ポップアップトースター すごくかわいいデザインですね。最近の家電にはこういうのはありませんね。

調理道具など

炊飯器 ハンドミキサー アイスクリームメーカー 電気ポット

ホットカーラー マッサージ機など

電気コンロ ホットカーラー マッサージ機

アイロン 
アイロン
木製のケースまでおしゃれですね。 向かって右から二つ目のは炭を入れて使うんだと思います。
「字形の煙突のようなものは煙抜きだと思います。

 針箱

針箱 
向かって左側の小さいものは何かわかりません?


手回しミシン

手回しミシン
  
へら

布に記しをつけるためのヘラ。 
その下にある唐子を描いたものはなんでしょう? ご存じの方、教えてください! 


硯箱 算盤 インク壺

硯箱 算盤
現存する日本最古の算盤は1592年ごろ使用されたもので、上二珠下五珠の算盤だったそうです。


箱枕 鏡台

鏡台と箱枕

甚風呂 便所 
 便所

手水(手洗器)
 
手水(手洗い器)
容器の中に水を入れておき、下部の棒をてのひらで押すとシャワーのように水が出てくる仕組みになっています。
昔の便所にはよくこういう手洗い器が置かれていました。
こないだ石切さんの商店街にいったら売ってましたね。

 甚風呂 井戸

井戸

マッチ箱のラベル

マッチ箱のラベル

喫煙具 

喫煙具

向かって右のは紙巻煙草を巻く道具でしょうか?




  
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[2019/12/15 00:32] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

湯浅の街並みと角長醤油資料館 『醤油搾り機と搾油器が似ているのは偶然?』 


和歌山県湯浅町 角長醤油資料館


湯浅 大仙堀 
①諸説ある醤油のルーツ


醤油のルーツは醤(ひしお)とされます。
醤とは獣肉・豆・野菜などの食品の塩つけのことです。

一般的な醤油は大豆・麦に麹をまぜ、さらに塩水を加えて発酵させてつくるようです。
なので、醤油は一種の塩漬けだといえるかもしれません。

縄文時代・弥生時代の住居跡から、醤状のものが発掘されています。
ここから、「醤を作る技術は日本独自に発展したものなのか?」とも思えますが
5世紀ごろ中国から製法が伝わったのではないかとする説もあり、詳しいことはわかっていないようです。
その後、奈良時代・平安時代などの文献にも醤は登場します。

湯浅 醤油醸造会社

さきほど述べたように醤とは食品の塩漬けのことです。
これをルーツとして醤油は生まれるわけですが、醤油そのものが作られるようになったのはいつなのでしょうか。
こちらもいくつかの説があるようです。
a鎌倉時代、紀州由良の興国寺の僧・心地覚心が径山寺(金山寺)味噌の製法を人々に教えたが、このとき作り方を誤まって偶然醤油ができた。
13世紀ごろ、南宋の金山寺で金山寺味噌がつくられており、紀州由良の興国寺の僧・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌が作られるようになった。
さらに金山寺味噌の溜(たまり)を用いて醤油が作られるようになった。
500年ごろに記された「斉民要術」に味噌に似た豆醤の製法と、豆醤から液体調味料「清醤」が作られていたことが記されており、中国の後漢で醤油のようなものが作られていたことがわかる。
これが日本に伝来した。

a・bの説に関連するもので、湯浅醤油有限会社の社長さんのブログにこんなことが書いてあります。

「当時の日本人はみんな中国大陸から色々な文化を学んでいました。
かねてより宋に憧れを抱いていた実朝。
1216年(健保4年)に宋の工人である陳和卿とか対面した際に、陳は実朝の前世が医王山の長老であるとと発言しました。
そして、それは実朝の体験した夢告と重なりました。
実朝の宋への思いは急速に膨らんでいき、渡宋を決意して家臣の葛山景倫(実朝の死後は、願生)に唐船を建造させています。(和歌山県由良町)

その後、鶴岡八幡宮にて甥の公暁により暗殺され、28歳という短い生涯を終えました。
実朝の宋の雁蕩山へ埋葬して欲しいという生前の願いを叶えるため、実母である北条政子が願生に宋で実朝の分骨をしてくれないかと依頼をします。
同じく近臣であった鹿跡二郎が掘り出したという主君の頭骨を預かり、高野山にて供養に務めていた。
しかし、依頼を受けた願生は高齢だったため、その依頼を同じく高野山の若き僧であった心地覚心へと引き継いで渡宋を援助します。
そして宋に渡った心地覚心が修行したお寺が径山寺、そして金山寺だったのです。
ここで、金山寺味噌の製法を伝授され、
帰国後 和歌山県由良の興国寺(湯浅町から一山越えた村町)に入り布教活動を初め、
金山寺味噌を伝えていきました。」


https://ameblo.jp/yuasasyouyu/entry-12396789318.htmlより引用。

これらのほかに、縄文時代から日本で醤が作られており、日本国内において醤油の製法が確立したという可能性もあるかもしれません。

私には何が正しいのかわかりませーんw。

②醤油搾り機

資料館に男柱と醤油搾り機が展示されていました。

全長5mほどもあるかな?
大変大きなもので、展示品がぎっしり陳列された資料館の館内ではカメラのレンズにおさまりきらない!

男柱と醤油搾り機 

↑ 写真向かって左のイチョウの葉のような柱をしているのが男柱。醤油を絞るのに大変な力がかかるので、地下に2mほども埋めてあるのだとか。

角長醤油資料館 締木

↑ 男木から垂直に伸びる長い棒は締木と呼ばれています。これだけしかレンズにおさめきれなかった。
向かって右方向にまだ伸びていますよ。


醤油搾り機
  
↑ 長木の向かって右端はこんな感じになっています。

③構造が似ている。醤油搾り機と搾油器

以前にこの醤油搾り木と似たようなものを見たような?
そうそう、離宮八幡宮の説明板に描かれていた油搾り器・長木と構造がほぼ同じじゃないですか?。

長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

向かって右下の短い棒に縄を巻き付けることによって、上部の長い棒を下にさげて力を加え、荏胡麻の油を搾るんですね。

もう一度、油搾り木の写真を見てみましょう。

醤油搾り機

醤油搾り機の締木にも縄が巻き付けられています。
ただし、これは搾油器のように棒を押し下げるためのものではなく、その逆で棒を持ち上げるためのものです。
そして写真下に移っている石で棒を押し下げて醤油を搾ります。
写真では石はひとつですが、実際には10個ほど用いたそうです。
 
④搾油器とろくろ


さらに搾油器「長木」は木地師が用いるろくろに似ていると私は思いました。


木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸

どちらも棒にロープが巻き付けられていますね。使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削ります。

⑤搾油器・醤油搾り機を発明したのは惟喬親王?


上の絵に「器地轆轤之祖神 惟喬親王命尊像」と記されていますね。

惟喬親王は平安時代の人物で、彼が巻物が転がるのを見てろくろを発明したという伝説があります。

しかしこの伝説は事実ではありません。
奈良時代に作られたろくろびきの百万塔が残されているからですw
ですが「惟喬親王がろくろを発明した」と人々が信じたことは間違いないでしょう。

そして、油搾り器・長木は貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の
離宮八幡宮の神官が神示を受けて発明したと伝わります。

搾油器を発明した神官とは惟喬親王のことではないかと私は考えています。

その理由は次のとおり。

a.搾油器の構造はろくろに似ており、ろくろは惟喬親王が発明したとする伝説がある。

b.離宮八幡宮は石清水八幡宮と関係が深い神社だが、石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲だった。
日本では先祖の霊は子孫が祀るべきと考えられており、惟喬親王の母親は紀静子だった。
石清水八幡宮や離宮八幡宮は惟喬親王を祀る神社ではないかとも考えられる。

c.惟喬親王の生没年は844~897で、搾油器が発明されたのは859~877年なので、時代があう。

麹室 

角長醤油資料館 麹室

角長醤油資料館 麹室 

角長醤油資料館 麹室の中

⑥醤油搾り機を発明したのは惟喬親王?

さらに醤油搾り機は油搾り器と構造がほとんど同じです。
油を搾るのも醤油を搾るのも原理は同じなので似たような構造になるのかもしれませんね。

だけど、湯浅が和歌山県にあるということがひっかかります。
和歌山県はかつては紀州と呼ばれ、紀氏の本拠地でした。

そして、ろくろを発明した惟喬親王の母親は紀静子で、紀名虎の娘でした。
もしかして、醤油搾り機を発明したのも惟喬親王であると信じられていたなんてことはないでしょうか。

油は入っていないのになぜ醤油と書くのか?
それは搾油と関連づけられたためではないか?
なんていうのはあまりに短絡的かw。
ちなみに古代中国には「油油」という言葉があり、「おもむろに流れる様」を表す言葉であったので、とろりとした液体という意味で醤油と記したのではないかと言われています。

醤油資料館 こしき

角長醤油資料館 平釜とこしき

角長醤油資料館 風選 
角長醤油資料館 風選



醤油資料館 小麦ひき割り機 
角長醤油資料館 小麦ひき割り機

醤油資料館 仕込み桶 

角長醤油資料館 仕込桶

醤油資料館 帳場 
角長醤油資料館 帳場 醤油ではなく醤湯と記されていますね。

角長 
角長さん

角長 醤油樽 
角長さん

湯浅 麹屋 
麹屋さん

角長2 
角長さん

湯浅 大仙堀 夜景 
大仙堀 夜景

 

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[2019/12/14 15:52] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

甚風呂(銭湯跡歴史資料館) 『三助はなぜご祝儀を受け取っていたのか?』 


 和歌山県有田郡湯浅町 甚風呂(銭湯跡歴史資料館)


甚風呂 
凝ったデザインが目をひきますね。これは何の建物でしょう?

甚風呂2 
銭湯でした。甚風呂と書いたのれんがかかっています。(銭湯跡歴史資料館)

①湯女
中世、有馬温泉にはではあかすりや髪すきをする女性がおり、湯女(ゆな)と呼ばれていました。
江戸時代初期になると、銭湯に湯女の女性が登場し、売春なども行うようになりました。
そのため江戸幕府はしばしば禁止令を出し、1657年には湯女は吉原遊郭のみでの営業に限定されました。

 甚風呂 玄関 下駄入れ

のれんをくぐるとこんな感じ。大きな樽は傘立てでしょうか。

甚風呂 番台 
番台。「こんばんはー。大人二人、子供二人ね。」「おおきによ~。」

②三助

湯女が禁止されると、三助とよばれる男性が銭湯に登場しました。
風呂代のほかに、流し代を支払うと糠袋で客の背中を流してくれるのです。

越中(えっちゅう)(富山県)、越後(えちご)(新潟県)の出身者が多かったそうです。

Sansuke

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sansuke.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bb/Sansuke.jpgよりお借りしました。

上はジョルジュ・ビゴーというフランスの画家・漫画家が描いた日本の三助です。

甚風呂 男風呂 
男湯。向かって左は大正15年につくられた深い浴槽で立って入ります。タイル張りのほうが昭和に作られた浴槽です。

④三助はご祝儀を受け取っていた。

https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-092-08-04-G252.html
上記サイトには次のように記されています。

「三助は、男湯でも女湯でも出入り自由で、客が湯からあがると、糠袋(ぬかぶくろ)で背中から腕をよくこすり、湯をかけて流し、軽くマッサージして、2~3度「パンパン」と景気よく背中をたたく。これが気持ちよかったようで、この音で祝儀の額が違った。町芸者などは、男前で手際のよい三助にはずいぶんと祝儀をはずんだという。」

祝儀という言葉がでてきますね。祝儀について、ウィキペディアは次のように記しています。

1.慶事(喜ばしい時)などの祝意やその互助活動の手間に対する謝意を表すために贈る金品のこと。
2.弔事などのお見舞いやその互助活動の手間に対する謝意は不祝儀(ぶしゅうぎ)という。
3.興行や遊興を提供する者に対し送られる謝意としての金品で、チップの様な物とする向きもある。
日本では法律上は不労所得だが、欧米では所得であることが多い。
また、意味合いにおいても日本独特のハレとケに由来するとも言われる。
具体的には力士に対し健闘を称えたり芸妓の技芸や旅館の仲居の接客に対し、非日常(ハレ)を演出してくれる事に対する感謝でもある。
4.景気付けの一環として商取引やその生業に従事する人々の感謝や発奮を促す行為として高値で取引したり、金品を贈る行為。
具体的には好事家や趣味人が、難度が高い特殊な物品の作製を依頼した時などに、携わる技術者(職人)に景気付けに渡す事もある。
5.賭け事などで期待値を高め、遊興にメリハリを付け作業対効果を簡単に上げる為や、難しい手(役)を作った事に対する祝意である。一般的には麻雀などで良く知られる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9D%E5%84%80 より引用

三助が受け取るご祝儀は3・4にあたりそうです。
背中を流して背中をパンパンと叩く行為は、単なるサービスではなく一種の興行、というよりめでたい行事のような意味合いをもっていたのかもしれませんね。

甚風呂 女風呂 

女湯。

⑤ 三助という職業名の由来

三助という職業名の由来について調べてみると、いくつかでてきます。

a.三助のメインの仕事は、番頭でしたが、そのほか釜焚き(湯を沸かす)、背中流し、風呂掃除と三役をこなすため。
b.三助の「三」は炊爨(すいさん)の「さん」。
もともと商家・町屋の下男の通り名であり、下女を「おさん」とも言った。
しだいに風呂屋の男性使用人をさす言葉になった。
c.奈良時代、光明皇后が浴室を建設して自ら病人の体を洗った。光明皇后を三人の内侍(ないしのすけ)が助けた。彼女らは「三典(サンスケ)」と呼ばれた。
※内侍・・・内侍司(後宮)の次官(女官)

甚風呂 洗い場 
洗い場。

⑥湯女のルーツは光明皇后だった?

cに関連する、次のような伝説が伝えられています。

光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てました。
千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼みましだ。
皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になりました。 


膿のある病人とは天然痘のことだと思います。
で、貧乏神はいかにも貧乏そうな姿をしていますね。
天然痘をはやらせる神は天然痘を患った姿をしていると考えられていたのではないでしょうか。

そして光明皇后は天然痘を流行らせる神をたいへん恐れていたのではないかと思います。

729年、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、長屋王が謀反を企てているとでっちあげ、長屋王を自殺に追い込みました。(長屋王の変)
長屋王を廃した藤原四兄弟は妹の光明子(光明皇后)を人臣初の皇后とすることに成功します。
しかし737年、天然痘が流行り藤原四兄弟は次々に天然痘にかかって死亡してしまいました。
そしてそれらは長屋王の怨霊の祟りだと噂されたのです。

光明皇后は「次に長屋王の怨霊の祟り天然痘になるのは自分だ」と考えたことでしょう。
そう、膿のある病人とは天然痘をはやらせる神であり、長屋王の怨霊だと私は思うのです。

そして光明皇后は長屋王の怨霊の体を洗うことで、怨霊の穢れを落とし、結果、天然痘をもたらす長屋王の怨霊は人々にご利益をもたらす阿閦如来に転じたと、そういう話だと思います。

光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録がありますが、このような福祉施設を作ったのは、長屋王の怨霊からのがれるため、民に施しを与えようという気持ちからではないかと思います。

法華寺には浴室(からぶろ)があり、光明皇后が建てたと言われていますが、事実かどうかわかりません。
光明皇后が病人の体を洗ったというのはさすがに作り話だと思います。

しかし、伝説上では湯女のルーツは光明皇后といえるかもしれません。

甚風呂 シャワー 

⑦光明皇后と同様の伝説が有馬温泉にも。

こんな伝説もあります。

行基は旅の途中で出会った病人を有馬温泉に連れていきました。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らないので、舐めてくれないか」と行基に頼みました。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めました。
すると病人の肌は金色に輝いて薬師如来になりました。


ほとんど光明皇后と同じ伝説ということは、行基が出会った病人も長屋王の怨霊だと思われます。

光明皇后の生没年は701~760年、行基の生没年は668~749年。
そして長屋王の変(729年)で自殺においこまれた長屋王の生没年は676またが684~729年。
3人は同時代の人物なのです。

甚風呂 蛇口 

⑧三助は浄めの儀式を行っていた?

そして中世の有馬温泉には湯女がいたのでしたね。
長屋王の怨霊の体をあらったという伝説が残る有馬温泉になぜ湯女がいたのでしょう?
湯女たちは、長屋王の怨霊の穢れを祓った光明皇后の分身としてそこにいたのではないでしょうか?
つまり、当時の風呂や温泉は単なる衛生施設ではなく、信仰にもとづく呪いの場としての意味合いもあったのではないか、ということです。

三助がご祝儀を受け取っていたのも、単なるあかすりではなく、宗教的な浄めの儀式であると考えられていたからだったりして?

甚風呂 蛇口3 

甚風呂 蛇口2 

‌-甚風呂 洗面器 

甚風呂 洗面器2 

甚風呂 洗面台 

甚風呂 マッサージ器 

お風呂あがりはマッサージ機でリラックス♪

甚風呂 これは何かな

甚風呂 焚口 

銭湯の壁の裏側にある焚口。防火のため壁はレンガになっています。





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[2019/12/11 11:39] 和歌山 | TB(0) | CM(0)