石川県金沢市 金沢城・兼六園・長町武家屋敷
2017年2月下旬 撮影
金沢城
兼六園
長町武家屋敷長町武家屋敷の土塀には薦掛けがされていました。
雪から土塀を守るために、薦をかけるんですね。
あいにく雪はありませんでしたが、その情緒ある町並にうっとり!
①頓智の弥七薦といえば、金沢には弥七が薦を作る伝説があります。
大野の大地主にやとわれていた弥七は、ほかの人の倍ほども畑を耕しました。
そして主人に『少しはほめたらどうか」と言ったところ、主人は「お前が働いているのではない。お前に食べさせたママ(食べ物)が働いているのだ」といいました。
次の日、弥七は寝転んでいつまでも昼食のママを見ていました。
主人が「何をしているのか」と尋ねると弥七は「ママが畑を耕すのを見ている」と答えました。弥七はなかなか頓智のある人物だったようですね。
またあるとき主人が弥七にいいました。
「お前はよく働くが、わしの言うことを聞かん。わしが『しろ』と言ったらして『やめろ』と言ったらやめろ。」
数日して主人は弥七に「薦を編んでくれ」と頼みました。
しかしいくら待っても弥七が薦を持ってこないので見にいってみると10mもありそうな長い薦を編み続けていました。
主人が「こんな長い薦編んでどうするんや」というと弥七は「ご主人様が『やめろ』と言わないから編んでいるのだ」と答えました。でも、10m以上もある薦なら武家屋敷の土塀にかけるのにちょうどよさそう~。
長町武家屋敷 ②弥七と豆の木弥七の物語にはまだ続きがあります。
あるとき弥七は一本の豆の木で五石一斗採ってみせるといい、
ざる一杯の豆を畑に撒き、水をかけて肥しをまきました。
一月たって、豆が一本だけ芽を出し、空に届くほどの高さになってたくさんの豆のさやをつけました。
弥七が豆の木を斧で伐り倒して収穫し、升ではかると五石一斗ありました。
金沢版「ジャックと豆の木」ですよね。
この豆の木の幹で作った太鼓が本町の西福寺の御堂の脇に吊ってあるそうです。
弥七の伝説は金沢の旅から戻ったあとネットでググって知りまして、西福寺はたまたま前を通りかかって下の写真のみ撮影したんですが御堂の中には入りませんでした。
残念! 太鼓と弥七像、見たかったです~。
http://kanazawa-burari.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html
↑ こちらのサイトに写真がありました。
西福寺
③琵琶湖版「ジャックと豆の木」
琵琶湖版「ジャックと豆の木」もあります。
源五郎が植えたナスビの苗は翌日には天まで届き、茄子(ナスビ)が鈴なりになっていました。
源五郎はつるを登って雲の上にいき、雷神の仕事を手伝って雲の上から水をまいて雨を降らせました。
ところがうっかり水が入った瓶をひっくりかえし、水は全部下界に落ちて琵琶湖になりました。
源五郎は湖で溺れている人を見て笑っていましたが、雲から落ちて湖にはまってしまいました。
源五郎は湖でもがいているうちに鮒になってしまいました。
これが琵琶湖の固有種の源五郎鮒です。

比叡山より琵琶湖を望む
④茄子は銅の隠語?
比叡山延暦寺 法灯花 琵琶湖花火大会 『茄子は銅の隠語?』
↑ こちらの記事で、次のようなことを書きました。
a.銅山川(愛媛県~徳島県)流域の愛媛県新居浜市には別子銅山があり、また近くに「なすび平」と言う地名がある。
b.栃木県の足尾銅山の近くには「那須高原」がある。
c.茄子とは銅の隠語ではないか。
d.銅は新しい10円玉のように赤紫色をしている。その色を茄子に喩えたのではないか。
e.坑道は百足の足のようにたくさん伸びていることから百足穴といわれる。
鈴なりになった茄子もまた坑道の比喩ではないか。
長町武家屋敷⑤藤は金、鷹は辰砂(丹)、茄子は銅?
玉雲宮 百日紅 『一富士・二鷹・三茄子の謎、そして殺生石はなぜ高田の地に飛散したのか』 ↑ こちらの記事には次のようなことを書きました。
い.初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子という。
ろ.私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えている。
は.栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
に.鷹は鷹の爪ではないか。
鷹の爪の赤い色は辰砂(丹/水銀)を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
ほ.富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。
興福寺 藤
⑥豆は藤で金を表す?すると、弥七が育てた豆は何を表しているのでしょうか。
藤はマメ科の植物です。
そして金沢には「いもほり藤五郎」という民話もあります。
藤五郎が掘る自然薯には砂金がたくさんついていたが、藤五郎はそれが価値があるものとは知らず、大和からやってきた嫁に教えられて初めて価値があるものと知り、大金持ちになるというような話です。
イモは富鉱の隠語のようです。
富鉱をぐぐってみると、
有用鉱物を豊富に含んだ鉱石。また、産出量の多い鉱床や鉱山
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E9%89%B1-617772より引用
とあります。
藤五郎の「藤」は金の隠語だと私は考えています。
⑦五郎は御霊?また「五郎」は「御霊(怨霊が祟らないように慰霊したもの)」をあらわすとする説があります。
京都の上御霊神社や下御霊神社では御霊を神として祭っていますので、御霊は神といってもいいでしょう。
「藤五郎」とは「金をもたらす神様」という意味を持っているのではないでしょうか。
下御霊神社⑧弥七が育てていた豆は金だった?弥七が育てた豆とは金であり(藤はマメ科なので)、豆の木にぎっしり豆のさやがついている様子は坑道を表しているのだと思います。
金沢にはかつて倉谷鉱山で金を産出していましたし、犀川では砂金がとれるといいます。
長町武家屋敷⑦弥七は雷神だった?それではなぜ西福寺に太鼓があるのでしょうか。
③琵琶湖版「ジャックと豆の木」では、源五郎は雷神の仕事を手伝って雲の上から水をまいて雨を降らせています。
源五郎自身が雷神なんですね。

上は東京の浅草寺・雷門です。
向かって右に風神、向かって左に雷神の像が置かれています。
雷神は7つの太鼓を背負っています。
雷のドーンという音を、古の人々は雷神が太鼓を鳴らしていると考えたのでしょう。
金沢の弥七も、琵琶湖の源五郎と同様、雷神であると考えられたのではないでしょうか。
それで弥七が育てた豆の木の幹で作った太鼓といわれるものが西福寺にあるのだと思います。
⑧弥七は菅原道真だった?http://kanazawa-burari.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html↑ こちらのサイトによれば、西福寺の8代目は菅原氏で、梅鉢紋を用いているとありますね。
菅原道真は現在では学問の神として信仰されていますが、もともとは怨霊でした。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていたのです。
菅原道真は藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、数年後に失意のまま亡くなりました。
その後、都では疫病が流行し、清涼殿に落雷が落ちるなど天災が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業であると考えられました。
北野天神絵巻には清涼殿で暴れる雷神が描かれていますが、これは菅原道真の化身だと考えられます。
菅原道真は雷神だったのです。
その怨霊であり雷神とおそれられた菅原道真が現在学問の神として崇められているのは
祟り神は神として祀り上げると、ご利益を与えてくださる神に転じるという信仰があったためです。
弥七とは菅原道真の化身なのではないでしょうか。
そして金沢の金は、菅原道真の御神徳によって得られたものであると、金沢の人々は考えていたのではないでしょうか?
大阪天満宮に展示されている菅原道真の人形
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[2017/03/13 01:06]
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●白米千枚田白米千枚田です!
半畳に満たないような小さな田んぼもあるんですよ。
これだけの棚田ができあがるには、相当先人たちの苦労があったことでしょう。
千枚田オーナー・トラスト制度があり、漫画家の永井豪先生の田んぼもありました。
永井豪先生の作品と言えば、ハレンチ学園、キューティーハニー、マジンガーZ・・・。好きだったなあ~。
永井豪先生は石川県輪島市の出身なのだそうです。
今度は田んぼに水をはったころ夕景を見にきたいなあ。
●揚げ浜式塩田
↑ このあたりでは500年ほど前から揚げ浜式塩田で塩づくりが行われていたそうです。
写真は『すず塩田村』の観光用の塩田ですが、観光用ではない塩田もいくつかありました。
「まれ」に登場した桶作さんの塩田もこんな感じでした。
いまも古式を守った塩づくりが行われているのですね。
能登の旅のおみやげには「塩」がおススメ!すごくおいしいです!
↑ 『塩の駅』で。
揚げ浜式塩田とは、厚さ10cmほどの粘土を敷き、その上に粒子の細かい砂を敷き詰めたものです。
ここに汲み上げた海水を巻き、天日と風によって水分を蒸発させます。
砂の下に敷いた粘土は海水が地中にしみこむのを防ぎます。
↑ 塩田に海水を撒くための道具です。先が尖った方にも穴が開いていて、その穴を掌で塞いで水を汲み、塩田に撒いておられました。
↑ 『すず塩田村』にて。
上から2枚目の写真の小屋の中です。
塩田に撒いた海水の水分を蒸発させたあと、塩砂をかき集めて海水で洗います。(鹹水)
この鹹水を煮詰めると塩の結晶ができます。
●間垣
↑ 海岸沿いの集落に設けられていた間垣。
これで強い海風を防ぐのですね。
●輪島塗にも用いられている珪藻土
↑ 『七輪の里・珪藻土資料館』です。
珪藻土とは珪藻という水藻が長い間に堆積したものです。
太古の能登半島は海の底にあったため、珪藻土が産出されるのです。
七輪はこの珪藻土を焼いて作られています。
また輪島塗では漆に焼いた珪藻を混ぜたものを用いています。
漆に珪藻土を混ぜることで漆が木地に吸着して丈夫になるのだとか。
↑ 軍艦島(見附島)。
佐渡島からやってきた空海が最初に見つけたことから「見附島」というのだといわれています。
島全体が七輪の原材料の珪藻土で出来ています。
側面にあるロープの模様のようなものは自然にできたものなんでしょうか?
●海の神に対する厚い信仰
↑ 袖が浜の夕日。
↑ 重蔵神社の祭礼。
重蔵神社という変わった神社名はトミヒコ(ナガスネヒコの別名)のトミが十三となって、さらに重蔵となったのではないかと思います。
大阪の十三(じゅうそう)という地名が重蔵からくる、という説があります。
トミヒコとは初代神武天皇が日向より東征して機内する以前より畿内に住んでいた人物で、物部氏の祖神・ニギハヤヒを神として奉じていました。
そのため、畿内には神武以前に物部王朝があったとする説があります。
トミヒコは物部王朝の王だったのではないかと思います。
トミヒコは神武と闘って敗れますが、トミヒコの兄・アビヒコは東北に逃れたとする伝承があり、安倍氏はそのアビヒコの子孫とされます。
能登の国造は安倍氏でした。
能登にはトミヒコに対する信仰があったのではないでしょうか。
(参照/
重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 )
輪島市海士町にある奥津比咩神社の入水神事。
輪島市海士町にある奥津比咩神社は近年、舳倉島の奥津比咩神社を勧請したとのことです。
舳倉島の奥津比咩は輪島では広く信仰されており、重蔵神社の祭は「舳倉島の女神と輪島の男神が年に1度出会う祭」とされています。
(参照/
奥津比咩神社 夏祭 『キリコ祭は七夕行事だった?』 )
↑ 名舟町の御陣乗太鼓が「道の駅輪島 ふらっと訪夢」前広場で行われていました。
戦国時代、武器をもたない名舟村の人々は仮面をかぶり太鼓を打ち鳴らしながら上杉軍に夜襲をかけました。
上杉軍はこれをもののけの夜襲だと思い込んで逃げたと伝わります。
上杉軍を撃退することができたのは舳倉島の奥津姫神の御神徳のおかげであるとされています。
名舟でも舳倉島の奥津姫は厚く信仰されていたのですね。
名舟の御陣乗太鼓には男幽霊と女幽霊が登場しますが、男幽霊は男神の重蔵、女幽霊は奥津姫なのではないでしょうか?

上の写真向かって右は男幽霊で、別名を土左衛門(どざえもん)というそうです。
土左衛門とは水死体のことです。
土左衛門とは十三衛門のことであり、重蔵(十三が転じて重蔵になったと思うので)のことではないでしょうか?
このあたりの人は漁師が多く、水難で命を落とす人が多かったのではないでしょうか。
それで土左衛門の神・重蔵を厚く信仰したのではないかと私は考えます。
(参照/
輪島ふらっと訪夢 御陣乗太鼓 『男幽霊(土左衛門)は重蔵だった?』 )
自然と共存する能登の人々の暮らし、そして能登の人々の海の神に対する厚い信仰に感動です!
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2016/08/26 00:00]
石川 |
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石川県輪島市 重蔵神社
夏祭・・・8月23日~24日●輪島大祭8月22日から8月25日までの4日間、石川県輪島市にある奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社で夏祭りが行われ、輪島大祭(キリコ祭)と呼ばれています。
22日、23日は奥津比咩神社、23日・24日は重蔵神社、24日・25日は住吉神社、25日・26日は輪島前神社の祭礼です。
●重蔵神社の夏祭8月22日の奥津比咩神社の祭礼に続き、23日は重蔵神社の祭礼が行われました。
輪島大祭は別名をキリコ祭ともいいます。
キリコとは大きな御神灯のことです。
輪島大祭を行う四つの神社(奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社)ではいずれもこのキリコの巡幸が行われます。
22日も奥津比咩神社のキリコ巡幸を見る予定にしていたのですが、雨が降り出し、雷もごろごろ言いだしたのであきらめてホテルに戻り、のんびり温泉に入りました。(いい湯でした~♪)
23日の重蔵神社はすごい人でした!
重蔵神社前の広場にキリコが集まっています。
猿田彦(天狗)を先導として行列が夜道を練り歩きます。
港の広場にキリコが集まってきました。
氏子さんたちはキリコを担いでもの凄いスピードで走ってきます。
重蔵神社では次のように伝わっています。
『23日の晩、舳倉島の女神が松明の明かりを目指してやってきて、輪島の男神が結ばれ、産屋に見立てたお仮屋で新しい神様が産まれる』
大小ふたつの松明に点火されましたが、大きい松明は男神を、小さい松明は女神をあらわしているのではないでしょうか。
↑ 大松明。燃えてるところをうまく撮れなかったので、燃えてる風に加工しました~。(汗)
●十三(じゅうそう)の地名の由来重蔵神社という神社名を聞いて、テンションがあがってしまったー!
大阪の十三(じゅうそう)の地名の由来について、重蔵からくるのではないか、という説があるのを思い出したからです!
詳しくはこちらの記事をお読みください。 →
なにわ淀川花火大会 『十三と近藤重蔵』 十三駅前商店街を抜けたところに神津神社があるのですが、その神津神社のHPに十三の由来について記されていました。
①十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目だった。
②中津の南浜に住む重蔵という長者が加島へ遊びにいくとき、十三の渡しに舟をつないでいたため
③戦国時代の武将が戦死すると一族郎党妻子すべてが死に、それを憐れんで人々が十三塚を作った。(柳田国
男氏)
④条里制の十三条(天坊幸彦氏)
⑤十三は堤(つつみ)の意味(池田末則氏)
⑥中津の富島という地名からくる。
●重蔵神社はトミヒコ神社?
十三の地名の由来についてのひとつの説として、 富島の富が十三(とみ)と訛ったものだというのがあります。
そして青森県の津軽半島西岸に十三湖(じゅうさんこ)という湖があります。。
中世、十三湖には十三湊(とさみなと)があり、安部氏・安藤氏の拠点として栄えました。
安部氏はナガスネヒコの兄・アビヒコを祖とする氏族です。
安藤氏は安東氏ともいい、前九年の役(1051~1062)で源 頼義と闘った安倍貞任の子孫と称しています。
遡れば安藤氏もアビヒコにまで繋がります。
アビヒコの弟のナガスネヒコとは、古事記や日本書紀に登場する畿内を本拠地とする豪族で、ニギハヤヒを神として奉じていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神であり、初代神武天皇より早く畿内に天下っていました。
そこへ神武天皇が東征してやってきて、神武に服したニギハヤヒによってナガスネヒコは殺されたと記されています。
アビヒコは神武が畿内入りする前には畿内に住んでいたのですが、神武畿内入りによって東北に逃れたと伝えられています。
そして物部氏と関係の深い人物だといえるでしょう。
アビヒコの兄・ナガスネヒコは別名をトミヒコともいいました。
トミヒコのトミは十三(トミ)につながります。
大阪の十三(じゅうそう)や十三湊、そして重蔵神社などはアビヒコの兄・トミヒコ(ナガスネヒコ)のトミからつけられたものなのかもしれませんね。
そう思って調べてみたところ、能登の国造(古代日本、地方を治めた官職。大化の改新以降、祭祀を司る世襲制の名誉職となった。)は安倍氏でした。
やはり能登はアビヒコやナガスネヒコと関係がある土地なのかも?
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[2016/08/24 00:00]
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石川県輪島市 奥津比咩 (おくつひめ)神社
夏祭・・・8月22日~23日●輪島大祭8月22日から8月25日までの4日間、石川県輪島市にある奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社で夏祭りが行われ、輪島大祭(キリコ祭)と呼ばれています。
22日、23日は奥津比咩神社、23日・24日は重蔵神社、24日・25日は住吉神社、25日・26日は輪島前神社の祭礼です。
●奥津比咩神社の夏祭
8月22日、輪島市内のホテルに到着したのは午後4時。
奥津比咩神社の神輿渡御は午後4時からの予定。
たいへん、間に合わないよ~、と慌てて神社に向かいました。
神社に到着するとちょうど神輿が神社の階段を降りてくるところでした。 よかった、よかった。
行列を先導する猿田彦(天狗)。
輪島の民家は写真のように板を横に貼ったログハウス風のものが多いです。何か理由があるのでしょうか?
猿田彦のあとを、提灯を担いだ氏子さんたちが続きます。
神輿渡御の途中で何度も綱引きが行われ、そのたびに神輿は後方へ戻ってしまうので、なかなか行列が前に進みません(笑)
氏子さんたちはなぜかお化粧をし、エプロンを身に着けています。
袖ヶ浜に夕日が沈んでいきます。
日没後、砂浜で入水神事が行われました。
●キリコ祭は七夕の行事?輪島ナビには『キリコ祭りのいわれ/昔、舳倉島に鎮座した女神と輪島市内の男神が、松明を目印に年に一度お会いするロマンあふれるお祭りです。お供する人々は、この日にすべての厄を払い落とし、新しい神様が誕生する生命力を授かります。』
と記されています。
1年に1度の逢瀬を楽しむといえば七夕です。
旧暦ではお盆は旧暦の7月15日を中心に行われていました。
7月7日の七夕はお盆の行事だったのです。
現在ではお盆は新暦の8月15日を中心として行われることが多いです。
8月22日から8月25日まで行われている輪島大祭はお盆の行事で、舳倉島の女神と輪島の男神が1年に1度の逢瀬を楽しむという伝説は七夕の説話からくるものだと考えられるのではないでしょうか。
舳倉島は輪島市から約50kmの沖にある島で1日1便の船しかないので行けなかったのですが、この島には奥津比咩神社(輪島市舳倉島高見2)があります。
伝説に登場する舳倉島の女神とは奥津比咩の神様のことでしょう。
●夏、舳倉島に移住していた海士町の人々玄松子の記憶 奥津比咩神社 ← こちらのサイトで舳倉島について詳しく紹介されています。
永禄年間(1558-69)、筑前国(現在の福岡県西部)から海士又兵衛という人物が男女12人を率いて能登国羽喰郡に漂着したという伝承があります。
又兵衛らは赤崎、千の裏に住み着き、珠洲郡沿岸島で鮑を採るなどして生計をたてていましたが、その後鳳至郡北浦北橋に移住しました。
天正年中(1573-92)藩祖・前田利家に熨斗鮑を献上し、舳倉島・七ツ島で鮑をとる権利を得ました。
寛永年間(1624-44)輪島町鳳至町の一部が彼らに与えられました。
これが輪島の海士町です。
その後、輪島の海士町の人々は夏に数か月舳倉島に移り住んで鮑やエゴをとり、秋ごろ海士町に戻るようになりました。
海士町の人々は海士町と舳倉島の両方に家を持っていたのです。
1970年ごろより、舳倉島に定住する人が現れました。
海士町の奥津比咩神社は、近年になって舳倉島の奥津比咩神社より御分霊を奉斎したものだそうです。
海士町に奥津比咩神社がつくられたのは、最近では夏になっても舳倉島に渡らない人々が増えたということなのかも?
そうだとしても海士町の人々は舳倉島の女神・奥津比咩を、今でも厚く信仰しているのでしょう。
いや、海士町の人々だけでなく舳倉島の女神・奥津比咩は輪島の人々に厚く信仰されているのだと思います。
というのは奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社の四神社で行われるキリコ祭は舳倉島の女神と輪島の男神が年に1度出会う祭とされているからです。
●氏子さんがエプロン姿なのはなぜ?
海士町の奥津比咩神社の氏子さんたちは髪を染め、化粧をし、スカートにエプロンを見につけた女装姿でお神輿を担ぎます。
地元の方に「なぜエプロン姿なのか」と伺ったところ、「女の神様だから」と教えていただきました。
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[2016/08/23 00:00]
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