世界農業遺産 能登の里山里海 『自然と共存する能登の暮らしと信仰』  

●白米千枚田

白米千枚田です!

 白米千枚田

半畳に満たないような小さな田んぼもあるんですよ。
これだけの棚田ができあがるには、相当先人たちの苦労があったことでしょう。
千枚田オーナー・トラスト制度があり、漫画家の永井豪先生の田んぼもありました。
永井豪先生の作品と言えば、ハレンチ学園、キューティーハニー、マジンガーZ・・・。好きだったなあ~。
永井豪先生は石川県輪島市の出身なのだそうです。
今度は田んぼに水をはったころ夕景を見にきたいなあ。

●揚げ浜式塩田

すず塩田村      

↑ このあたりでは500年ほど前から揚げ浜式塩田で塩づくりが行われていたそうです。
写真は『すず塩田村』の観光用の塩田ですが、観光用ではない塩田もいくつかありました。
「まれ」に登場した桶作さんの塩田もこんな感じでした。
いまも古式を守った塩づくりが行われているのですね。

能登の旅のおみやげには「塩」がおススメ!すごくおいしいです!

輪島 塩田に海水を撒く   
↑ 『塩の駅』で。
揚げ浜式塩田とは、厚さ10cmほどの粘土を敷き、その上に粒子の細かい砂を敷き詰めたものです。
ここに汲み上げた海水を巻き、天日と風によって水分を蒸発させます。
砂の下に敷いた粘土は海水が地中にしみこむのを防ぎます。 

輪島 塩づくりの道具

↑ 塩田に海水を撒くための道具です。先が尖った方にも穴が開いていて、その穴を掌で塞いで水を汲み、塩田に撒いておられました。 

すず塩田村2

↑ 『すず塩田村』にて。
上から2枚目の写真の小屋の中です。
塩田に撒いた海水の水分を蒸発させたあと、塩砂をかき集めて海水で洗います。(鹹水)
この鹹水を煮詰めると塩の結晶ができます。

●間垣

 間垣のある民家

↑ 海岸沿いの集落に設けられていた間垣。
これで強い海風を防ぐのですね。

●輪島塗にも用いられている珪藻土


七輪の里

↑ 『七輪の里・珪藻土資料館』です。

珪藻土とは珪藻という水藻が長い間に堆積したものです。
太古の能登半島は海の底にあったため、珪藻土が産出されるのです。
七輪はこの珪藻土を焼いて作られています。
また輪島塗では漆に焼いた珪藻を混ぜたものを用いています。
漆に珪藻土を混ぜることで漆が木地に吸着して丈夫になるのだとか。

軍艦島 
↑ 軍艦島(見附島)。
佐渡島からやってきた空海が最初に見つけたことから「見附島」というのだといわれています。
島全体が七輪の原材料の珪藻土で出来ています。
側面にあるロープの模様のようなものは自然にできたものなんでしょうか?

●海の神に対する厚い信仰

袖ヶ浜  
↑ 袖が浜の夕日。

重蔵神社 キリコ

↑ 重蔵神社の祭礼。

重蔵神社という変わった神社名はトミヒコ(ナガスネヒコの別名)のトミが十三となって、さらに重蔵となったのではないかと思います。

大阪の十三(じゅうそう)という地名が重蔵からくる、という説があります。

トミヒコとは初代神武天皇が日向より東征して機内する以前より畿内に住んでいた人物で、物部氏の祖神・ニギハヤヒを神として奉じていました。
そのため、畿内には神武以前に物部王朝があったとする説があります。
トミヒコは物部王朝の王だったのではないかと思います。

トミヒコは神武と闘って敗れますが、トミヒコの兄・アビヒコは東北に逃れたとする伝承があり、安倍氏はそのアビヒコの子孫とされます。
能登の国造は安倍氏でした。
能登にはトミヒコに対する信仰があったのではないでしょうか。

(参照/重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 

奥津比咩神社-輪島大祭 入水神事 
輪島市海士町にある奥津比咩神社の入水神事。
輪島市海士町にある奥津比咩神社は近年、舳倉島の奥津比咩神社を勧請したとのことです。

舳倉島の奥津比咩は輪島では広く信仰されており、重蔵神社の祭は「舳倉島の女神と輪島の男神が年に1度出会う祭」とされています。

(参照/奥津比咩神社 夏祭 『キリコ祭は七夕行事だった?』 

 御陣乗太鼓3

↑ 名舟町の御陣乗太鼓が「道の駅輪島 ふらっと訪夢」前広場で行われていました。

戦国時代、武器をもたない名舟村の人々は仮面をかぶり太鼓を打ち鳴らしながら上杉軍に夜襲をかけました。
上杉軍はこれをもののけの夜襲だと思い込んで逃げたと伝わります。
上杉軍を撃退することができたのは舳倉島の奥津姫神の御神徳のおかげであるとされています。

名舟でも舳倉島の奥津姫は厚く信仰されていたのですね。

名舟の御陣乗太鼓には男幽霊と女幽霊が登場しますが、男幽霊は男神の重蔵、女幽霊は奥津姫なのではないでしょうか?

御陣乗太鼓


上の写真向かって右は男幽霊で、別名を土左衛門(どざえもん)というそうです。

土左衛門とは水死体のことです。
土左衛門とは十三衛門のことであり、重蔵(十三が転じて重蔵になったと思うので)のことではないでしょうか?

このあたりの人は漁師が多く、水難で命を落とす人が多かったのではないでしょうか。
それで土左衛門の神・重蔵を厚く信仰したのではないかと私は考えます。

(参照/輪島ふらっと訪夢 御陣乗太鼓 『男幽霊(土左衛門)は重蔵だった?』  

自然と共存する能登の人々の暮らし、そして能登の人々の海の神に対する厚い信仰に感動です!



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[2016/08/26 00:00] 石川 | トラックバック(-) | コメント(-)

輪島ふらっと訪夢 御陣乗太鼓 『男幽霊(土左衛門)は重蔵だった?』  

石川県輪島市 『道の駅輪島ふらっと訪夢

御陣乗太鼓3 
●もののけの夜襲と見紛う御陣乗太鼓

御陣乗太鼓は石川県輪島市名舟町の人々によって継承されてきた伝統芸能です。
道の駅輪島ふらっと訪夢』前の広場で公演されていました。

戦国時代、越後(現在の新潟県)の上杉謙信は、能登の七尾城(七尾城跡/石川県七尾市古城町)を落とし(七尾城の戦い)、さらに名舟村にまで攻め込んできました。
名舟の村人は武器を持っていませんでしたが、村の古老があるアイデアを思いつきました。
そのアイデアとは、樹の皮で作った仮面を被り、海藻をかつらのように頭にかぶり、太鼓を打ち鳴らしながら上杉軍に夜襲をかけるというものでした。
上杉軍はこれをもののけの夜襲だと思い込み、あわてて逃げましたということです。
 

 御陣乗太鼓2 
向かって右が翁、中央が夜叉、向かって左が女幽霊かな? 

御陣乗太鼓 

向かって左、オレンジ色の着物を着ているのは達磨太子です。
達磨の横、写真中央は翁、写真向かって右は男幽霊だと思います。
男幽霊は別名を土左衛門(どざえもん)といいます。

男幽霊の別名が「土左衛門(どざえもん)」だと聞いて、またまたテンションがあがってしまった~。
というのは、次のようなことがひらめいたからです! 

●重蔵・お小夜悲恋伝説


前回、輪島の重蔵神社の祭礼についてお話ししました。
(前回の記事はこちら→重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 

重蔵神社の8月23日の祭礼は「舳倉島の女神が松明の明かりを目指してやってきて、輪島の男神が結ばれ、産屋に見立てたお仮屋で新しい神様が産まれる祭」とされています。
輪島の男神とは重蔵神社の神のことだと考えられます。

舳倉島には奥津比咩(おくつひめ)神社があり、奥津姫神を祀っています。
舳倉島の女神とは奥津姫神のことでしょう。

さて、重蔵神社の西十数キロほどのところに琴ヶ浜があります。
琴ヶ浜は『鳴き砂の浜』と呼ばれ、『重蔵・お小夜悲恋伝説』が伝わっています。

猟師の重蔵が水死し、恋人のお小夜は悲しむあまり、海に入って死んでしまいました。
琴が浜を歩くときゅっきゅっと音がするのはお小夜の泣き声だといわれています。


ここにも重蔵が登場します。どうやら重蔵はこの地方で広く信仰されていた神様のようですね。

御陣乗太鼓 

●お小夜とは奥津姫だった?


重蔵神社の祭礼は「舳倉島の女神が松明の明かりを目指してやってきて、輪島の男神が結ばれ、産屋に見立てたお仮屋で新しい神様が産まれる祭」というこでした。

ということは、お小夜とは奥津比咩神社の御祭神・奥津姫なのではないでしょうか?

重蔵神社の近くにも奥津比咩神社がありますが、輪島の奥津比咩神社は近年になって舳倉島の奥津比咩神社より分霊をお迎えして創建された神社です。
その輪島の奥津比咩神社の8月22日の祭礼では女装した氏子さんたちが神輿を担いで海にはいる入水神事が行われています。

奥津比咩神社の入水神事についての記事はこちら→奥津比咩神社 夏祭 『キリコ祭は七夕行事だった?』 

入水とは海に飛び込んで自殺することを言います。
奥津比咩神社の入水神事は、奥津姫神が自殺したことをあらわす神事だと考えられます。
重蔵の恋人、お小夜も奥津姫神と同じように自殺しています。
このように、奥津姫神とお小夜には共通点があるのです。

さらに名舟の村では上杉軍を撃退することができたのは舳倉島の奥津姫神の御神徳のおかげであるとして、毎年奥津姫神社の大祭(名舟大祭・7月31日夜から8月1日)の神輿渡御では、御陣乗太鼓が先導するとのことです。

舳倉島の奥津姫神は重蔵神社だけでなく、名舟の人々にも厚く信仰されていたようです。

●重蔵は御陣乗太鼓に登場する男幽霊(土左衛門)だった?

猟師の重蔵は水死したということですが、水死体のことを俗語で土左衛門といいます。
どうやら重蔵と御陣乗太鼓に登場する男幽霊(土左衛門)には共通点がありそうです。

輪島には猟師が多く、水難で亡くなる人々が多かったことでしょう。
そのような水難で亡くなった人々を慰霊する神社が重蔵神社であり、重蔵神社という社名は、水死体を意味する土左衛門から来るものではないでしょうか?

水死体→土左衛門(どざえもん)→どざ→十三→じゅうぞう→重蔵

御陣乗太鼓3


●土左衛門(水死体)の語源

ちょっとまて~!
重蔵は水死体を意味する土左衛門からくるというが、
重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 
↑ 
こちらの記事では重蔵はトミヒコ(ナガスネヒコの別名)からくると言ってるじゃないかって?

はい。つまり重蔵は水死体=土左衛門であり、水死体のことを土左衛門というのはトミヒコからくるのではないかと私は考えているわけです。

水死体のことを土左衛門というのは、享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が、大変な肥満体で体の膨れ上がった水死体ににていたためであるなどと言われています。
しかし、この説が絶対正しいとはいいきれません。
語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/to/dozaemon.html)にも、「正確な語源は未詳」と記されています。


トミヒコは初代神武天皇が日向より東征して機内入りする以前より畿内に住み、物部氏の祖神とされるニギハヤヒを神として奉じていました。
ここから機内には神武天皇以前に物部王朝があったとされます。

トミヒコは日向からやってきた神武に抵抗しますが、神武に服したニギハヤヒによって殺されたと記紀には記されています。

一方、イザナギ・イザナミの長子であるエビスは3歳になっても腰のたたない身体障害児であったため葦舟に乗せて流されたと記紀は記します。
わずか3歳で、しかも身体障害児だったエビスは海に沈んで市に、水死体になったことでしょう。
水死体のことをエビスという地方もありますね。

このエビスとは滅ぼされた前政権の王・トミヒコのことではないでしょうか。
つまり、次のように転訛して水死体のことを土左衛門というようになったのではないかと思うのです。

トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう→重蔵
トミヒコ→トミ→十三→どざえもん(水死体)



御陣乗太鼓2

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[2016/08/25 00:00] 石川 | トラックバック(-) | コメント(-)

重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 

石川県輪島市 重蔵神社
夏祭・・・8月23日~24日


●輪島大祭

8月22日から8月25日までの4日間、石川県輪島市にある奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社で夏祭りが行われ、輪島大祭(キリコ祭)と呼ばれています。
22日、23日は奥津比咩神社、23日・24日は重蔵神社、24日・25日は住吉神社、25日・26日は輪島前神社の祭礼です。

重蔵神社 キリコ2

●重蔵神社の夏祭

8月22日の奥津比咩神社の祭礼に続き、23日は重蔵神社の祭礼が行われました。 

輪島大祭は別名をキリコ祭ともいいます。
キリコとは大きな御神灯のことです。

輪島大祭を行う四つの神社(奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社)ではいずれもこのキリコの巡幸が行われます。

22日も奥津比咩神社のキリコ巡幸を見る予定にしていたのですが、雨が降り出し、雷もごろごろ言いだしたのであきらめてホテルに戻り、のんびり温泉に入りました。(いい湯でした~♪)

23日の重蔵神社はすごい人でした! 
 
重蔵神社 キリコ 
重蔵神社前の広場にキリコが集まっています。

 重蔵神社 猿田彦

猿田彦(天狗)を先導として行列が夜道を練り歩きます。

重蔵神社 行列 

港の広場にキリコが集まってきました。

重蔵神社 キリコ6 
氏子さんたちはキリコを担いでもの凄いスピードで走ってきます。

重蔵神社 キリコ3 
重蔵神社では次のように伝わっています。
『23日の晩、舳倉島の女神が松明の明かりを目指してやってきて、輪島の男神が結ばれ、産屋に見立てたお仮屋で新しい神様が産まれる』

大小ふたつの松明に点火されましたが、大きい松明は男神を、小さい松明は女神をあらわしているのではないでしょうか。 

重蔵神社 松明  

↑ 大松明。燃えてるところをうまく撮れなかったので、燃えてる風に加工しました~。(汗)

●十三(じゅうそう)の地名の由来


重蔵神社という神社名を聞いて、テンションがあがってしまったー!
大阪の十三(じゅうそう)の地名の由来について、重蔵からくるのではないか、という説があるのを思い出したからです!

詳しくはこちらの記事をお読みください。 → なにわ淀川花火大会  『十三と近藤重蔵』 

十三駅前商店街を抜けたところに神津神社があるのですが、その神津神社のHPに十三の由来について記されていました。

 
①十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目だった。

②中津の南浜に住む重蔵という長者が加島へ遊びにいくとき、十三の渡しに舟をつないでいたため

③戦国時代の武将が戦死すると一族郎党妻子すべてが死に、それを憐れんで人々が十三塚を作った。(柳田国
男氏)

④条里制の十三条(天坊幸彦氏)

⑤十三は堤(つつみ)の意味(池田末則氏)

⑥中津の富島という地名からくる。


●重蔵神社はトミヒコ神社?

重蔵神社 キリコ4

十三の地名の由来についてのひとつの説として、 富島の富が十三(とみ)と訛ったものだというのがあります。

そして青森県の津軽半島西岸に十三湖(じゅうさんこ)という湖があります。。
中世、十三湖には十三湊(とさみなと)があり、安部氏・安藤氏の拠点として栄えました。

安部氏はナガスネヒコの兄・アビヒコを祖とする氏族です。
安藤氏は安東氏ともいい、前九年の役(1051~1062)で源 頼義と闘った安倍貞任の子孫と称しています。
遡れば安藤氏もアビヒコにまで繋がります。

アビヒコの弟のナガスネヒコとは、古事記や日本書紀に登場する畿内を本拠地とする豪族で、ニギハヤヒを神として奉じていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神であり、初代神武天皇より早く畿内に天下っていました。
そこへ神武天皇が東征してやってきて、神武に服したニギハヤヒによってナガスネヒコは殺されたと記されています。

アビヒコは神武が畿内入りする前には畿内に住んでいたのですが、神武畿内入りによって東北に逃れたと伝えられています。
そして物部氏と関係の深い人物だといえるでしょう。

アビヒコの兄・ナガスネヒコは別名をトミヒコともいいました。
トミヒコのトミは十三(トミ)につながります。

大阪の十三(じゅうそう)や十三湊、そして重蔵神社などはアビヒコの兄・トミヒコ(ナガスネヒコ)のトミからつけられたものなのかもしれませんね。

そう思って調べてみたところ、能登の国造(古代日本、地方を治めた官職。大化の改新以降、祭祀を司る世襲制の名誉職となった。)は安倍氏でした。
やはり能登はアビヒコやナガスネヒコと関係がある土地なのかも?

重蔵神社 キリコ5



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[2016/08/24 00:00] 石川 | トラックバック(-) | コメント(-)

奥津比咩神社 夏祭 『キリコ祭は七夕行事だった?』 

石川県輪島市 奥津比咩 (おくつひめ)神社
夏祭・・・8月22日~23日


●輪島大祭

8月22日から8月25日までの4日間、石川県輪島市にある奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社で夏祭りが行われ、輪島大祭(キリコ祭)と呼ばれています。
22日、23日は奥津比咩神社、23日・24日は重蔵神社、24日・25日は住吉神社、25日・26日は輪島前神社の祭礼です。

●奥津比咩神社の夏祭

奥津比咩神社 神輿   

8月22日、輪島市内のホテルに到着したのは午後4時。
奥津比咩神社の神輿渡御は午後4時からの予定。
たいへん、間に合わないよ~、と慌てて神社に向かいました。
神社に到着するとちょうど神輿が神社の階段を降りてくるところでした。 よかった、よかった。

奥津比咩神社-輪島大祭 猿田彦

行列を先導する猿田彦(天狗)。
輪島の民家は写真のように板を横に貼ったログハウス風のものが多いです。何か理由があるのでしょうか? 

奥津比咩神社-輪島大祭 行列

猿田彦のあとを、提灯を担いだ氏子さんたちが続きます。 

奥津比咩神社-輪島大祭 神輿 綱引き   
神輿渡御の途中で何度も綱引きが行われ、そのたびに神輿は後方へ戻ってしまうので、なかなか行列が前に進みません(笑)
氏子さんたちはなぜかお化粧をし、エプロンを身に着けています。

 袖が浜 夕日

袖ヶ浜に夕日が沈んでいきます。 

奥津比咩神社-輪島大祭 入水神事3

日没後、砂浜で入水神事が行われました。

奥津比咩神社-輪島大祭 入水神事2 
 
●キリコ祭は七夕の行事?


輪島ナビには『キリコ祭りのいわれ/昔、舳倉島に鎮座した女神と輪島市内の男神が、松明を目印に年に一度お会いするロマンあふれるお祭りです。お供する人々は、この日にすべての厄を払い落とし、新しい神様が誕生する生命力を授かります。』
と記されています。

1年に1度の逢瀬を楽しむといえば七夕です。
旧暦ではお盆は旧暦の7月15日を中心に行われていました。
7月7日の七夕はお盆の行事だったのです。
現在ではお盆は新暦の8月15日を中心として行われることが多いです。
8月22日から8月25日まで行われている輪島大祭はお盆の行事で、舳倉島の女神と輪島の男神が1年に1度の逢瀬を楽しむという伝説は七夕の説話からくるものだと考えられるのではないでしょうか。

舳倉島は輪島市から約50kmの沖にある島で1日1便の船しかないので行けなかったのですが、この島には奥津比咩神社(輪島市舳倉島高見2)があります。
伝説に登場する舳倉島の女神とは奥津比咩の神様のことでしょう。

●夏、舳倉島に移住していた海士町の人々




玄松子の記憶 奥津比咩神社 ← こちらのサイトで舳倉島について詳しく紹介されています。

永禄年間(1558-69)、筑前国(現在の福岡県西部)から海士又兵衛という人物が男女12人を率いて能登国羽喰郡に漂着したという伝承があります。

又兵衛らは赤崎、千の裏に住み着き、珠洲郡沿岸島で鮑を採るなどして生計をたてていましたが、その後鳳至郡北浦北橋に移住しました。
 
天正年中(1573-92)藩祖・前田利家に熨斗鮑を献上し、舳倉島・七ツ島で鮑をとる権利を得ました。
寛永年間(1624-44)輪島町鳳至町の一部が彼らに与えられました。
これが輪島の海士町です。

その後、輪島の海士町の人々は夏に数か月舳倉島に移り住んで鮑やエゴをとり、秋ごろ海士町に戻るようになりました。
海士町の人々は海士町と舳倉島の両方に家を持っていたのです。
1970年ごろより、舳倉島に定住する人が現れました。

海士町の奥津比咩神社は、近年になって舳倉島の奥津比咩神社より御分霊を奉斎したものだそうです。

海士町に奥津比咩神社がつくられたのは、最近では夏になっても舳倉島に渡らない人々が増えたということなのかも?
そうだとしても海士町の人々は舳倉島の女神・奥津比咩を、今でも厚く信仰しているのでしょう。

いや、海士町の人々だけでなく舳倉島の女神・奥津比咩は輪島の人々に厚く信仰されているのだと思います。
というのは奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社の四神社で行われるキリコ祭は舳倉島の女神と輪島の男神が年に1度出会う祭とされているからです。

●氏子さんがエプロン姿なのはなぜ?

奥津比咩神社-輪島大祭 入水神事

海士町の奥津比咩神社の氏子さんたちは髪を染め、化粧をし、スカートにエプロンを見につけた女装姿でお神輿を担ぎます。
地元の方に「なぜエプロン姿なのか」と伺ったところ、「女の神様だから」と教えていただきました。



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[2016/08/23 00:00] 石川 | トラックバック(-) | コメント(-)