薬師寺 花会式 『花会式は鼻会式?』 

奈良県奈良市 薬師寺
花会式・鬼追い式・・・4月5日 


薬師寺 花会式 追儺

目の前に大きな火の塊がぼとりと落ちてきたりするので、注意!(自己責任で身の安全を守りましょう~)
火の粉があたり一面にまきちらされる様はまるで地獄絵のよう?

①お松明はみほとけを鋳造する様子を再現したもの?

東大寺二月堂の修二会・お松明は、大仏を鋳造する様子を再現したものだとする説がありますね。

二月堂で松明を振る人は童子と呼ばれますが、鬼は茨木童子・酒呑童子など童子と呼ばれることが多いです。
そして薬師寺では鬼が松明を振り回すので、二月堂修二会と同じことをやっていることになります。

さらに東大寺の大仏は銅で作られていますが、薬師寺のご本尊の薬師三尊像もまた銅で作られています。
薬師寺の修二会も二月堂の修二会と同様、みほとけを鋳造する様子をあらわしているのかも?

薬師寺 花会式-緑鬼 

②永遠の命を持つ造花と銅の体

花会式と呼ばれるのは、みほとけにたくさんの造花をお供えするためです。
現代人の感覚では造花より生花のほうが美しいと思いますが、昔の人は枯れない造花に永遠の命を感じたのではないかと思います。

銅の体を持つみほとけも、永遠の命を持つと考えられたことでしょう。
即身仏に対する信仰も同様だと思います。
普通の死体は腐りますが、即身仏は腐りません。(実際にはその多くは失敗で腐らない体となったのは日本全国で17例ほど)
200年ほど前の即身仏が現存し、祀られているケースもあります。

薬師寺 花会式 赤鬼2 

③薬師如来は星の神・スサノオ

このブログで何度も書いていますが、薬師寺のご本尊・薬師三尊像の中尊の薬師如来は星の神だと思います。
そのココロは~

陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央は星とするそうです。

薬師寺の薬師三尊像は、東に日光菩薩、西に日光菩薩を配置しています。すると中央の薬師如来は星の神となります。
松明から飛び散る火の粉は星をあらわしているのかもしれませんね。

 薬師寺 花会式 赤鬼

また記紀には次のような記述があります。
イザナミの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれた。

つまり、イザナミの顔は宇宙ということで、イザナミの顔の中心にある鼻からうまれたスサノオは星の神ということになります。

船場俊昭さんも次のようにおっしゃています。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。

薬師寺 花会式 緑鬼2

「地図では左は西で右は東。逆じゃないか」とおっしゃるかもしれませんが、
それは正しくは向かって左が西で、向かって右が東なのです。
地図の側に立てば、左が東で右が西となります。
薬師寺の薬師三尊像も、中尊の左手が東で日光菩薩が、中尊の右手が西で月光菩薩が配置されています。

薬師寺 花会式 黄鬼


明治になるまで日本では神仏は習合されて信仰されていたので、中尊の薬師如来はスサノオと同一視されていたことでしょうね。

そういえば、鼻と花は掛詞になっていますね。
京都仁和寺のお多福桜を詠ったこんな歌もあります。「花(鼻)は低とも人は好く」※お多福桜は木の高さが低い。

スサノオ=鼻の神=鼻の神ということで、たくさんの造花をお供えするんだったりして?

 

薬師寺 花会式 松明 



 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村



スポンサーサイト

[2018/04/07 15:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大和な雛祭 菊屋さん(和菓子屋さん)『西王母はなぜ桃を持っているの?』 18禁(笑) 


大和な雛祭・・・3月4日まで 郡山城近辺

大和な雛祭 菊屋さん-暖簾 看板 

朝寝坊したので大和郡山の町を2時間ほど散策しただけなんですが、見るものが多かった!
そういうわけで大和な雛祭の記・№5です!

大和な雛祭 菊屋さん-和菓子

歩き疲れたので甘いものをいただきにやってきました。
食べるのがもったいないくらい、かわいいでしょ。
開山堂は東大寺開山堂の椿・糊こぼしのデザイン。

東大寺 開山堂 糊こぼし 
東大寺 開山堂 糊こぼし

桃の形のは西王母(せいおうぼ)という名前の和菓子です。

大和な雛祭 菊屋さん--桜と和菓子の型 
盆栽の桜が春らしい雰囲気。後ろのケースにあるのは和菓子の型です。

①西王母・東王父と陰陽思想


古代中国でははるか西方に崑崙山が、東方の海には蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)という三神山があると考えていました。
そして崑崙山には女仙’(女性の仙人)を統率する西王母が、東方の海には男仙(男の仙人)を統率する東王父が住むと考えていたようです。

陰陽道では西を月の定位置、東を太陽の定位置とするそうですが、これに対応していますね。
陰陽道では月や女性は陰、太陽や男性は陽と考えられたのです。
それで西王母は月の定位置と同じ西、東王父は太陽の定位置と同じ東にすむとされたのでしょう。
西
太陽


大和な雛祭 菊屋さん--和菓子の型 
天井にも和菓子の型がずらーり。お菓子はおいしいだけでなく、見た目も楽しいのがいいよね。

②西王母は不老長寿になる桃をもっている。


西王母と東王父はどちらも不老不死を与える神として信仰されました。

西王母が住む崑崙山には3000年に1度しか実が実らないという桃があるといわれ、この桃を食べると不老長寿になるなんていわれていますよ。
そして西王母がこの桃をくれたとか、孫悟空が西王母の桃を盗んだなんていう物語が残されていますよ。

もう一度上の和菓子の写真を見てください。
桃の形をしているのが西王母という名前のお菓子です。(おいしいです!)

なぜ桃の形をしたお菓子が西王母という名前なのかというと、桃と西王母には前述したように深い関係があるからなのですね。

百と書いて「もも」と読みますが、桃が不老長寿の象徴なので、100歳まで生きられるということからくるなんてことないかな?

大和な雛祭 菊屋さんの雛人形 

③桃は西王母の女陰?

桃はなぜ西王母と結びつけられたのでしょうか?

女仙という言葉がでてきましたね。
女仙でぐぐってみると、多肉植物が出てきます。女仙と書いて「めせん」と読むみたいですね。

http://blog.sabotenstyle.com/article/54076161.html
https://blogs.yahoo.co.jp/conocono123/69620625.html

やー、これね~、絶対、下の写真に似てるでしょう?

飛鳥坐神社 むすひの神石 

飛鳥坐神社 むすびの神石

川治温泉 おなで石 

川治温泉 おなで石(おなで石は祠の中の石ではなく、祠の手前にある四角い石)


どちらも女陰を象ったものです。多肉植物の女仙は、女陰に似ているところから名前がつけられたのでは?

桃にも割れ目がありますね。
桃は西王母の女陰を表してるんだったりして?

桃が女陰の象徴とか隠語だと考えると、昔話の桃太郎は川から巨大な女陰が流れてきたってことかな?

大和な雛祭 菊屋さん 


まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村


[2018/03/06 15:40] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大和な雛祭 源九朗稲荷神社 『源九朗狐は源義経の化身だった?』 

 奈良県大和郡山市 町屋物語館(旧川本邸)
大和な雛祭・・・3月4日まで 大和郡山城周辺

源九郎稲荷神社 さざんか

①仮名・諱・幼名・稚児名

源九郎稲荷神社?
源九朗義経と関係ある?

源九朗義経とは牛若丸、源義経のことです。
源義経は仮名(けみょう)を九朗といい、源九朗義経ともいわれます。

仮名とは、江戸時代以前、諱(本名)を呼ぶことをさけ、用いられていた通称のことです。
古代には貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったそうで、そこから仮名が作られるようになったとされます。
諱で呼びかけることができるのは親や主君など限られた人のみで、それ以外の人間が諱で呼びかけることは無礼なことだと考えられていたそうです。
なぜそのように考えられたのかというと、名前を呼ぶことはその名前を持つ人を支配することができるというような信仰があったためのようですね。

牛若丸というのは幼名です。
平安時代~江戸時代には、武士や貴族の子供は元服して諱をつける習慣があり、元服するまでは幼名が用いられていたのです。

牛若丸は遮那王(しゃなおう)とも呼ばれていましたが、これは11歳で鞍馬山に預けられ稚児となったときの稚児名です。
ややこしいですね~。

源九郎稲荷神社-雛人形2

②矛盾する社名の由来と、創建説話

源義経が兄の源頼朝と対立した際、稲荷神の神使である狐が何度も義経を助けてくれました。
そのため義経は狐に源九朗の名を贈ったと伝えられます。
これがのが社名の由来と伝わります。

一方、神社の創建説話には次のようにも伝わります。

翁の姿をした源九郎狐が、長安寺村の宝譽という僧の夢枕に立ち、「郡山城に自分を祀れば、城の守護神になろう」と告げた。
宝譽はさっそく豊臣秀長にこれを告げたところ、城内竜雲郭に稲荷が創建されたと。

一瞬、聞き流してしまいそうになりますが、よく考えてみると矛盾していますよね。

源義経が兄の頼朝と対立するようになったのは平安時代末の1185年のことです。
しかし源九郎神社が創建されたのは、豊臣秀長が郡山城の城主であったときだと考えられます。
秀長が郡山城に入ったのは1585年なので、創建年は1585年より早い時期であるとは考えられません。
1585年は、義経vs頼朝の兄弟争いから400年もたっています。

空白の400年の間、稲荷は別の場所に祀られていたのでしょうか。
それとも、稲荷神が存在していただけで、社は作られていなかったのでしょうか?

源九郎稲荷神社-雛人形 

五色椿のようなつり飾りは神社の奥様が手作りされたものです。

③義経千本桜

義経が源九郎狐に助けられるという話は、人形浄瑠璃や歌舞伎の『義経千本桜』にもあります。
『義経千本桜』では、義経が兄頼朝に追われ、吉野山まで逃げる道中、佐藤忠信に化けた白狐が、静御前を守ったことになっています。

静御前というのは源義経の愛人で、白拍子でした。

『義経千本桜』の初演は1747年ですが、これより早い時代に義経が源九朗狐に助られたという伝説があり、それをもとに「義経千本桜」が作られたという可能性もあります。

下鴨神社 名月管絃祭 白拍子

下鴨神社 名月管弦祭 白拍子


④源九郎狐と静御前の雨ごいの関係

この静御前が神泉苑で舞を待って雨をふらせたと言われています。

源九郎神社には「豊臣方大野治房による郡山城攻撃で城下町が火災がおこったが、洞泉寺住職天誉和尚が、源九郎狐に祈願をしたところ、突然大雨が降り大火を免れた。」という伝説があります。

この伝説は静御前が雨ごいをして雨をふらせたということをうけて創作されたものではないでしょうか。

源九郎稲荷神社-市松人形 

黒猫ちゃんも奥様の手作りですよ。

⑤源九郎稲荷は義経の化身だった?


話をもどします~。
源九朗稲荷が創建されたのは1585年以降、一方社名の由来は1185年に源義経が稲荷に源九朗の名をおくったとされ、400年のずれが生じます。
この矛盾はなぜ生じたのか、というお話をしたかったのでした。

源九朗稲荷が創建されたのは、創建説話にあるとおり、豊臣秀長が大和郡山城主であったときでしょう。
1585年以降の話でしょうね。

おそらく夢をみた宝譽か豊臣秀長が源九朗義経を崇敬しており、それで義経を稲荷神として祀るというアイデアを思い付いたのではないでしょうか。

①で、『名前を呼ぶことはその名前を持つ人を支配することができるというような信仰があった』と書きました。
その大事な名前を義経は稲荷に与えたというのですから、これはただごとではありません。
『義経が稲荷に源九朗という名を贈った」というのは『稲荷神は義経の化身』であるということではないかと思います。

稲荷神は義経の化身と考えられたことから、稲荷が義経を助けたというような伝説が生じ、それが人形浄瑠璃や歌舞伎にとりいれられて「義経千本桜」はつくられたのではないでしょうか。

源九郎稲荷神社-市松人形 

大和な雛祭 源九朗稲荷神社 ケースに入った市松人形 

源九郎稲荷神社-文化人形

 この超キュートな文化人形も奥様の手作り! かわええ~。

源九郎稲荷神社 鳥居 


まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村




[2018/03/05 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大和な雛祭 町屋物語館(旧川本邸)『日本の遊女のルーツはアメノウズメ?』 

 奈良県大和郡山市 町屋物語館(旧川本邸)
大和な雛祭・・・3月4日まで 大和郡山城周辺


大和な雛祭 町屋物語館  

奥の建物が町屋物語館

①遊郭建築

町屋物語館は大正13年(1924)に建築された遊郭建築です。遊郭は昭和33年に廃業されました。
昭和31年に売春防止法が施行され、昭和33年に完全施行となりましたので、これに伴って廃業したのでしょう。
その後は下宿として用いられていたようです。

遊郭というとあれですが、建物はなかなか和風でおしゃれなのです。
それにあわせて和服の女性を合成しましたが、昭和の遊郭で働いていた女性はハイカラで当時珍しかったパーマをかけていたりして洋装の人が多かったみたいですね。


町屋物語館 花代 

②日本の娼婦のルーツはアメノウズメ

日本の娼婦のルーツは、神話的にみればアメノウズメではないでしょうか。
記紀によれば、天照大神が天岩戸にこもったとき、アメノウズメが天岩戸の前でストリップダンスをしたとあります。

アメノウズメはストリップダンスをしただけで、娼婦のようなことをしたという記述はありません。

しかし、アメノウズメはサルタヒコにあったときも胸をあらわにするなどしています。
記紀に記述がなくとも、アメノウズメが性の神であることは間違いないと思います。


大和な雛祭 町屋物語館 遊客名簿

③道祖神はアメノウズメとサルタヒコの神像

男女双体の神・道祖神はアメノウズメとサルタヒコの神像とされていますが、中には男神と女神が和合しているものもあるそうです。
このことからも、アメノウズメが娼婦であったと考えられますね。


多気山不動尊 道祖神 

多気山不動尊 道祖神


④道祖神は聖天さんと習合されている?

私は道祖神は男女双体の神・聖天さん(仏教の神)と習合されていると思います。

聖天さんとは鬼王・ビナヤキャと十一面観音の化身のビナヤキャ女神の男女双体の神で、次のような伝説があります。


インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 

Icon of Shoten

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


聖天さんは仏教の神ですが、江戸時代まで神仏は習合されて信仰されていました。
そして、神はその表れ方で、御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つに分けられるとされますが
女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。

この聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。
和魂が女神、荒魂が男神なら、御霊は男女双体ではないでしょうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)

つまり、荒魂と和魂を和合させて男女双体の神とすることが、荒魂を鎮めて御霊とする呪術ではないかと思うのです。

大和な雛祭 町屋物語館 雛人形2 

⑤サルタヒコはアメノウズメの女性器に手を挟まれて死んだ?

古事記には次のような話もあります


ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。
その後、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコを彼の故郷の伊勢へと送り届け、サルタヒコの名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。
ここからアメノウズメは猿女君と呼ばれるようになりました。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)

「サルタヒコの名前を伝えて仕え祭る」とは「サルタヒコと結婚して、サルタヒコに性的に仕える」という意味ではないでしょうか。

また比良夫貝とは女性器の比喩だと思います。
サルタヒコはアメノウズメの女性器に手を挟まれて死んだという意味だと思います。

④のウィキペディアの絵ではわかりにくいのですが、聖天さんはビナヤキャ女神が鬼王ビナヤキャの足を踏みつけるお姿をされています。

聖天さんは女神が男神の足を踏みつけていますが、道祖神は足のかわりに手を押さえつけることで、和合を示しているのではないでしょうか。

道祖神は手をつなぎあっているのではなく、アメノウズメがサルタヒコの手を押さえつけているの図だと思うわけです。


大和な雛祭 町屋物語館 吐き出し窓より中庭の望む 合成 
窓辺の女性は町屋物語館の掛け軸に描かれていたものを合成しました。

⑥サルタヒコ=ニギハヤヒ?

サルタヒコは「高天原から葦原中国までを照らす神」であると記されています。
高天原は天、芦原中国は国と言い換えてもいいでしょう。
これにぴったりな神名の神がいます。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀の記述で、記紀ではニギハヤヒとなっています。
サルタヒコとニギハヤヒは同一神なのではないでしょうか?


町屋物語館 中庭 

⑦サルタヒコ=ニギハヤヒ=天照大神?

天照大神は女神とされますが、各地に男神であるとつたわっています。
近松門左衛門の曽根崎心中にも「照る日の神は男神」と書かれています。
そして、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒが本当の天照大神だという説があります。


大和な雛祭 町屋物語館 雛人形 

⑧神武以前、畿内には物部王朝があった?

初代神武天皇が日向より東征して畿内入りするよりも早く、ニギハヤヒは畿内に天下っていたと記紀は記しています。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、畿内には物部王朝があったのではないでしょうか。

記紀は天皇家の為に記されたものなので、天皇家にとって都合の悪い内容はできるだけ省きたかったはずです。
それにもかかわらず、記紀がニギハヤヒが神武より早く天下ったことを記しているということは、記紀が記された奈良時代、それは書かざるを得ないほど真実であったと考えるのが妥当だと思います。


大和な雛祭 町屋物語館 レトロなスイッチ 
レトロなスイッチ

⑨天照大神は男女双体の神だった?

⑦で、「サルタヒコ=ニギハヤヒ=天照大神」と書きましたが、④に書いたように、神の本質である御霊は男女双体だと思われます。
ということは、天照大神とはサルタヒコ(=ニギハヤヒ)とアメノウズメの男女双体の神なのではないでしょうか。

天岩戸にこもった天照大神はアメノウズメのストリップを見て、八百万の神々が笑っているのを不思議に思って出てきたのですがアメノウズメのストリップに興味を持って出てきたと考えたほうが自然だと思います。
女神のストリップに興味を持つのは男神なので、ここでは天照大神は男神だと考えられます。

しかし、天照大神は男神で弟のスサノオと「うけいの子産み」もしています。
スサノオという男神とともに子を産んだということは、ここでは天照大神は女神です。

なぜ天照大神はあるときは男神として、あるときは女神としてあらわれるのか。
それは天照大神が男女双体の神だからではないでしょうか。

マジンガーzに登場する阿修羅男爵は顔半分が男で、顔半分が女でしたね。
で、横顔が女のときは女の声、横顔が男のときは男の声になるのです。
天照大神も阿修羅男爵みたいな神だと考えられると思います。
それで、あるときは男神として、あるときは女神としてあらわれるのではないでしょうか。


大和な雛祭 町屋物語館 NHKラジオ と 国税調査 

 大和な雛祭 町屋物語館 雛人形3

大和な雛祭 町屋物語館 小部屋 
大和な雛祭 町屋物語館 ハート型の窓

町屋物語館 洗面所

洗面所

大和な雛祭 町屋物語館 風呂場 

風呂場の天井



大和な雛祭 町屋物語館2 


まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村


 
[2018/03/03 00:11] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大和郡山市 大和な雛祭 『市松模様の着物を着た人形』 


大和な雛祭・・・3月4日まで 郡山城近辺

大和な雛祭 市松人形 男の子と女の子 
小さい人形にあわせて着物の生地も柄が小さいものを特注して作られたそうです。

①市松人形のルーツ

市松人形とは日本の伝統的な着せ替え人形で、そのルーツは室町時代だといわれます。
公家の子供の玩具だったみたいですね。

大和な雛祭 市松人形3 

金メダリストの小平奈緒さんに似てない?

②市松人形は怖い?

ですがもっとさかのぼれば平安時代の天児 (あまがつ)や這子(はうこ/さるぼぼみたいな人形)につながるでしょう。
これらは身代わり人形で、子供に変わって人形が厄災をうけるという目的で作られたものです。

市比売神社 天児人形

市比売神社 天児人形

ときどき市松人形を怖い、という人がいますね。
もしかしたら、それは人形が厄災を受ける身代わりの役割を担っていたので、人形に疫病や恨みつらみなどの感情を敏感に感じ取るからかもしれませんね。

でも私は市松人形大好きです。怖さを感じないことはないんですが、かえってその怖さにぞくぞくする美しさを感じてしまうのです。(変態か?)

大和な雛祭 市松人形2

③市松人形は佐野川市松に顔が似ている?

市松人形という名前は、江戸時代の歌舞伎役者「佐野川市松(1722-1762)」に顔が似ているところからつけられたという説があります。

https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/Z0169-011
上記サイトに佐野川市松を描いた浮世絵がありますが、かわいらしい市松人形とはかなり容貌が違って見えます。
写楽が描いたものだからかな~?

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/knockeye/20171001/20171001163842_original.jpg
ですが、上のサイトの「佐野川市松・人形遣」に描かれた佐野川市松はなかなかの美少年で市松人形に似てるといえるかも?

大和な雛祭 市松人形 

歯や舌もちゃんとあるんですよ。

③市松模様は佐野川市松のトレードマーク

https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/Z0166-471
上の浮世絵もそうですが、すべて市松模様の着物を着ていますね

もともとこの柄は石畳とか霰と呼ばれていたようですが、佐野川市松の衣装から市松模様と名付けられたとされます。
確かに浮世絵などを見ると市松模様が佐野川市松のトレードマークだったようなので、「野川市松の衣装から市松模様と名付けられた」というのは納得です。

おおーー。この人形は市松模様の着物をきているではありませんか~。↓

大和な雛祭 箱入り 市松人形

箱には「安政7 庚申 年」と書かれています。
安政7年は1860年で、庚申とあるのはこの年の干支(十干と十二支を組み合わせた数詞。周期は60。詳しくはこちら→柴又帝釈天(題経寺) 葛飾納涼花火大会 『帝釈天と庚申信仰の関係は?』 )ですね。

1860年は佐野川市松没後100年ほどたっていますが、当時市松人形にはこのような着物を着せられることが多かったのかも?

大和な雛祭 源九朗稲荷神社 ケースに入った市松人形   

ガラスケース前の飾りは奥様が手作りされたそうです。センスがいいし、すごく器用でびっくりです~。

大和な雛祭 ミニチュア 台所 
ミニチュアの台所 神棚までありますよ。

大和な雛祭 ミニチュア へっついさん 
ミニチュアのへっついさん

大和な雛祭-重箱と銘々膳 

ミニチュアの重箱と銘々膳
昔ばあちゃんちで、こんなのでご飯食べたなあ~。



まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村





[2018/03/01 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大和郡山市 大和な雛祭り 『私たちは雛人形の首を抜くことで天照大神を呪わされていた?』 

大和な雛祭・・・3月4日まで 大和郡山城周辺にて

大和な雛祭  
住民の方々が大切にされているお雛様が町中に展示されています。
ひとつひとつのお雛様に思い出がつまっています。


①お雛様は天照大神、お内裏様はスサノオ?


天照大神とスサノオは「うけいの子産み」をして宗像三女神(田心姫君・湍津姫君・市杵島姫君)と正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の5柱の男神をもうけています。

お雛様は天照大神、お内裏様はスサノオの神像、
三人官女は宗像三女神、五人囃子は天五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)の神像なのではないでしょうか?

大和な雛祭 ガラスケースに入ったひな人形 

70年ほど前のものだそうです。ケースもとてもかわいらしいですね。

②天照大神=日女命=倭迹迹日百襲姫命

籠神社で発見された系図では始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていました。

また、日女命とは太陽の神、天照大神のことでしょう。
天照大神とは日女命のことであり、倭迹迹日百襲姫命のことでもあるということになりますね。

大和な雛祭 張り子の雛人形(福島県三春町) 

張り子の雛人形(福島県)

③大古には近親婚は普通に行われていた?

古事記や日本書紀を読むと、神代には同母兄妹または同母姉弟の結婚が当たり前に行われています。
天照大神とスサノオのほか、イザナギ&イザナミ、天照大神&スサノオ、アシナヅチ&テナヅチなどのカップルがそうです。

氏族の血の純潔を望み、他の氏族の血が混ざることを嫌ったため、大古には近親婚は普通に行われていたのではないかとする説があります。

古事記・日本書紀には、第19代允恭天皇の皇子・木梨軽皇子と皇女・軽大娘皇女(衣通姫)が同母兄妹で契り、それが発覚して流罪になったという話が記されています。
時代とともに近親婚は禁忌とされるようになったということでしょう。

大和な雛祭 起き上がり小法師 
起き上がり小法師のお雛様

⑤天照大神・スサノオは物部王朝の神?

②に次のように書きました。

籠神社で発見された系図では始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていましたと。

籠神社では始祖の彦火明命の別名を天火明命(あめのほあかりのみこと)・天照御魂神(あまてるみたまのかみ)・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)とも伝えています。

先代旧事本紀は天火明命とは天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと/ニギハヤヒ)と同一神としています。

天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊は物部氏の祖神です。
どうも始祖の彦火明命は物部氏の神っぽいですね。
すると、9代目の孫の日女命もまた物部氏の神だということになります。

大和な雛祭  
ひなの道具もうっとりするほどの美しさ!

⑥天皇家に政権を奪われた物部王朝

そして記紀には初代神武天皇が東征して畿内入りする以前、すでにニギハヤヒが天下っていたと記されています。
そのため、初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

記紀は物部氏のために記されたものではなく、天皇家に献上するためにっ記されたものです。
その記紀にこのような記述があるのはなぜでしょうか。
それは、記紀が記された奈良時代、初代神武天皇以前に物部王朝があったということは周知の事実であり、偽りようがなかったためだと考えるのが筋が通っているのではないでしょうか。

大和な雛祭2

⑦神武は婿入りして物部王朝をのっとった?

初代神武天皇と10代崇神天皇はどちらも和風諡号をハツクニシラスといいます。
そのため、二人は同一人物ではないかとする説があります。

そして崇神天皇にはミマキイリヒコイニエという和風諡号もあります。
11代垂仁天皇の和風諡号はイクメイリヒコイサチといい、どちらにもイリとあるところから「イリ王朝」などと呼ばれますが
このイリとは入り婿の入りではないかとする説があります。
そういえば、記紀神話には入り婿になる話が多いです。
たとえばニニギ(神武天皇の曽祖父)は葦原中国に天下って、芦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナノサクヤヒメと結婚していますし
山幸彦(神武天皇の祖父)は竜宮にいって海神の娘・豊玉姫と結婚しています。
神武は物部王朝の日女命に婿入りし、物部王朝を乗っ取ったのではないかと思います。
おそらく日女命(天照大神)は再婚でしょうね。(スサノオと別れさせられ、神武と結婚したのでしょう。)

こう考えると、なぜ日本の太陽神が女神なのかがわかりますね。
天照大神が男神であったとしましょう。
神武は男神と結婚して子孫を残すことはできないので、神武の子孫は天照大神の子孫を名乗ることができません。
しかし天照大神が女神なら神武は女神と結婚することができます。
そして神武の子孫が天照大神の子孫だといってもまちがいではないということになります。

大和な雛祭 七段飾り 

⑧首を抜いてしまう雛人形

さらに雛流しといって、ひな人形に息を吹きかけて穢れを移し、川や海に流すという習慣がありました。
これって天照大神とスサノオを流すということなのでは?

豪華な雛人形が作られるようになってからは、川や海に流すということはなくなりましたが
昔の雛人形は首が抜けるようになっていて、首を抜いてから和紙にくるんでしまうのです。
これは天照大神とスサノオの命を絶つ、というまじないでは?
私たちは知らない間にスサノオのみならず、天照大神までも呪わされていたのでは?

大和な雛祭 犬筥 
犬筥に入ったお雛様(向かって左)と流し雛(向かって右)



まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村




[2018/02/27 22:04] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

村屋坐弥冨都比売神社 御田祭 『弥富都比売神は物部氏の女神?』 

奈良県磯城郡田原本町 村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)
御田祭 2月11日


村屋坐弥冨都比売神社-御田祭 牛

御田祭のはじまり、はじまり~♪


①三穂津姫命(みほつひめ)の別名は弥富都比売神(みふつひめ)?

村屋坐弥冨都比売神社の主祭神は三穂津姫命です。
三穂津姫命と聞いてもピンときませんでしたが、別名が 弥富都比売神と聞いて閃くものがありました。

三穂津姫命は「みほつひめ」と読みます。
しかし村屋坐弥冨都比売神社は「むらやにます みふつひめじんじゃ」と読むので、
三穂津姫命の別名・弥富都比売神は「みふつひめ」と読むのではないでしょうか?

村屋坐弥冨都比売神社-御田祭 牛をひく

②弥富都比売神は御布都姫?

日本では漢字の意味よりも、音を重要視するケースがありました。
例えば、奈良の東大寺に転害門がありますが、転害門(てがいもん)の近くに手貝町(てがいちょう)という地名があったりします。
手貝町という地名は、転害門の「転害」と同音の漢字をあてたのでしょう。
しかし、意味は転害が「害を転じる」手貝が「手の貝」で全く異なります。

そうすると、村屋坐弥冨都比売神社の御祭神・弥富都比売神の「弥」は「御」、「富都」は「布都」で、「御布都姫」と記されたりすることはなかったのかなあ?

そういえば山岸凉子先生の漫画『日出処の天子』に「布都姫(ふつひめ)」が出てきたなあ~。なんか関係あるのかなあ~、と思ったのです。

村屋坐弥冨都比売神社-御田祭 田を耕す


③漫画『日出処の天子』に登場する蘇我蝦夷の妻・布都姫は実際には蘇我蝦夷の母親だった。

漫画では布都姫は物部御狩の末娘で石上神宮の斎宮となっていました。
物部御狩は実在の人物で、物部尾輿の子で物部守屋の兄です。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%AA%C9%F4%C2%E7%BB%D4%B8%E6%BC%ED

漫画ではこの布都姫と蘇我蝦夷が恋に落ち、生まれたのが蘇我入鹿となっていました。
ウィキペディアを見てみると、蘇我入鹿の父親は蘇我蝦夷となっていますが、母親については記されていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%85%A5%E9%B9%BF

しかし実際には布都姫は太媛ともいい、物部御狩の娘ではなく、物部御狩・物部守屋の妹みたいですね。
蘇我馬子と結婚して蝦夷を産んでいます。つまり、蝦夷の母親が布都姫なんですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AA%9B
(ただし、先代旧事本紀では、布都姫は小異母兄弟の物部石上贄子と結婚して鎌足姫大刀自を産み、崇峻天皇の御代に神宮を斎き奉ったとあります。)

村屋坐弥冨都比売神社-御田祭

④漫画『日出処の天子』に登場する蘇我蝦夷の母・十市郎女は実在していなかった。

漫画では蝦夷の母親は十市郎女でした。

ですが十市郎女でググってみても全くヒットしません。
十市皇女なら天武天皇の第一皇女がいるのですが。

どうやら十一郎女という人物は実在の人物ではなく、創作された人物のようですね。

山岸凉子先生は、先代旧事本紀に『布都姫は神宮を斎き祀った』とある神秘性から、本当は蝦夷の母親である布都姫を蝦夷の恋人という設定にしたのではないでしょうか?

もしも、布都姫・十一郎女について、異なった記述の史料などがあったら教えてくださいね♪

名前正史先代旧事本紀漫画の設定
布都姫物部御狩・物部守屋の妹
蘇我馬子の妻
蘇我蝦夷の母
物部石上贄子の妻
鎌足姫大刀自の母
物部御狩(守屋の兄)の末娘
蘇我蝦夷の妻 蘇我入鹿の母
石上神宮の斎宮
十市郎女記述なし物部御狩の娘
蘇我馬子の妻
蘇我蝦夷の母


村屋坐弥冨都比売神社-御田祭 種撒き

⑤弥富都比売神は物部氏の神?

そんなことを考えながら、ふと境内をみるとなんと物部神社が~!
やっぱり弥富都比売神は「御布都姫」で物部御狩・物部守屋の妹・布都姫と関係あるのかも?
弥富都比売神って物部氏の神じゃないの?

村屋坐弥冨都比売神社-物部神社

村屋坐弥冨都比売神社-御田祭 巫女 

布都姫?

まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村



[2018/02/26 15:10] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

天理市 光の祭典 『性転換する魚と性転換する神々』 

 奈良県天理市 天理市田井庄池公園

天理市 光の祭典 くまのみ2

①性転換するクマノミ

クマノミはひとつの中で数匹の群れで住んでいます。
この群れの中で一番体の大きなものがメス、2番目に大きなものがオスになります。
3位以下は未成熟です。
雌がいなくなると、2位だった個体が雌に性転換し、3位だった個体が雄になります。

海遊館 くまのみ 

海遊館で撮影したクマノミ
海遊館での撮影、むつかしい~。またリベンジしたいです~。


②海の生物には性転換するものが多い。

陸上脊椎動物で性転換するものはほとんどないそうですが、魚類には性転換するものが多いということです。
メスからオスに性転換するものを雌性先熟、オスからメスに性転換するものを雄性先熟といいます。
クマノミは雄性先塾になるとのことです。
このほか、両方向に性転換するものなどもあります。
魚類雌性先熟(メス→オス)ホンソメワケベラ・アカハラヤッコ・コウライトラギス・ベラ・ブダイ・
ミスジリュウキュウスズメダイ・キンギョハナダイ
魚類雄性先熟(オス→メス)クマノミ・クロダイ
魚類両方向に性転換するダルマハゼ・オキナワベニハゼ
節足動物雄性先熟(オス→メス)タラバエビ ムラサキヤドリエビ
甲殻類雌性先熟(オス→メス)ウミナナフシ タナイス
軟体動物雌性先熟(メス→オス)エゾフネガイ
環形動物大きな個体が雌に、小さな個体が雄になるが
やがて大きさが逆転し雌が雄に、雄が雌に性転換する
ゴカイの一種
植物球茎が小さいときは雄花、球茎が大きくなると雌花を咲かせる。テンナンショウ
植物雄性先熟(オス→メス)ウリハダカエデ

上表のうち赤字で示したものは海の生物です。海って不思議ですね!


天理市 光の祭典 くまのみ

③クロダイ(茅渟)も性転換する。

クロダイも性転換するんですね。

クロダイは茅渟(チヌ)とも呼ばれています。
茅渟の海とは大阪湾のことで、クロダイはかつて茅渟の海でとれる代表的な魚だったため茅渟と呼ばれるようになったといわれます。

茅渟という名前の語源にはいくつか説があります。
a.神武天皇の兄「彦五(ひこいつ)瀬(せの)命(みこと)」が戦傷を受けて血を流したため、「血(ち)沼(ぬ)」と呼ばれた。
b。瀬戸内海から大阪湾一帯をを支配していた「珍彦(ちぬひこ)」別名/神知津彦命(かみしりつひこのみこと)、椎根津彦命(しいねづひこのみこと)に由来する。。

2~3歳までは精巣が発達したオスですが、4~5歳になると卵巣が発達してメスになるそうです。
ただ、すべてのクロダイがメスになるわけではなく、オスのまま性転換しないただし全てがメスになるわけではなく、雌性ホルモンが少ないオスは性転換しないのだとか。

クロダイの雌雄の見分け方は、大きいものがメス、小さいものがオスです。

天理市 光の祭典 熱帯魚 たつのおとしご

③日本の神様も性転換する

日本の神様も性転換します。

たとえば奈良県桜井市の大神神社の大物主はヤマトトドヒモモソヒメのところに夜這いしているところからみて男神だと考えられますが、謡曲三輪では大三輪明神(大神神社の神のこと)として登場するのです。

また伏見稲荷大社のウカノミタマは女神だとされていますが、亀岡祭のご神体のウカノミタマは男神でした。

聖徳太子が親鸞の夢の中に現れて「女に生まれ変わってそなたの妻になろう」と言ったという話もあります。

このように神が性転換するという発想は、日本の神様が海の神・クロダイの神であり、クロダイが性転換するところからくるんだったりして?

天理市 光の祭典 くま

④大穴持命は大国主命の性転換した姿だった?

私は『大己貴命と少彦名神』は『イザナギとイザナミ』に似ていると思います。

大己貴命とは大国主の別名で、少彦名神ときょうだいの契りをかわしてともに国造りをしました。

イザナギとイザナミはきょうだいで契り、国産み・神産みを行いました。
ところがイザナミが死んで黄泉の国へ行ってしまい、イザナギはイザナミを迎えに黄泉の国へ行きます。
そしてイザナミにこう言いました。
「愛しい妻よ、戻ってきておくれ。国造りはまだ終わっていない。」

イザナギ・イザナミはきょうだいで契って国づくりをしていますが、おなじように
大己貴命・少彦名神はきょうだいの契りをかわして国づくりをしていますね。

天理市 光の祭典 鹿と蝶

少彦名命という神名に「彦」とありますが、「彦」は男性の名前に用いられる漢字です。
少彦名命とは男神だと思います。

少彦名命とペアを組んだ大巳貴命とは大国主の別名ですが、大国主の別名には大穴持命(おおあなもち)というのもあります。
大穴持命・・・大きな穴を持つ神とは、女神なのではないでしょうか。

大国主には妻問いをするという話があり男神だと思います。
大穴持命とは大国主が性転換して女神になった姿なのかも?

そして神々が性転換するという発想は、海に住む魚の中に性転換するものがあることが知られていたためかもしれません。
スサノオは多くの神社で祀られており、大変厚く信仰されている神ですが、
スサノオはいざなぎに「大海原をおさめよ」と命じられています。
そのため海神はスサノオと同一視されています。
海神が住む竜宮ではタイやヒラメが舞い踊っています。
海神は魚たちを統治する神なのです。

天理市 光の祭典 スノーマン 

天理市 光の祭典 ハート

天理市 光の祭典



まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村




[2018/02/21 17:59] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

唐招提寺 観月讃仏会 『月となって輝く長屋王・道鏡・玄昉の霊?』 


奈良市五条町 唐招提寺
観月讃仏会 中秋の日

唐招提寺 観月会3 
①毘盧遮那仏、薬師如来、千手観音は天下三戒壇を表す?

毘盧遮那仏、薬師如来、千手観音の三尊を祀っているのはここ唐招提寺だけです。
三尊は東大寺(本尊は毘盧遮那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺の「天下三戒壇」を表すといわれています。

②毘盧遮那仏は長屋王、薬師如来は道鏡、千手観音は玄昉のイメージ?

私には、毘盧遮那仏は長屋王、薬師如来は道鏡、千手観音は玄昉のイメージと重なって見えてしまいます。
詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。 → 唐招提寺 蓮 と 頭塔 

長屋王、道鏡、玄昉はいずれも奈良時代に政治的に不幸な死を迎えた人物です。
長屋王は謀反を企てたとして長屋王邸(現在のイトーヨーカ堂奈良店)で自殺に追い込まれました。
道鏡は失脚して下野薬師寺に、玄昉は筑紫観世音寺に左遷となっています。
唐招提寺 観月会



③怨霊を和魂に転じて仏にする?

彼らは死後、怨霊になったと考えられたのではないかと思います。
そして唐招提寺の三尊は、長屋王、道鏡、玄昉の怨霊を和魂に転じて仏にしたものではないでしょうか?

日本では古より神仏は習合されて信仰されてきました。
そのベースになったのが本地垂迹説です。

本地垂迹説とは『日本古来の神々は仏教の神々(みほとけ)が衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものである』とする考え方のことで
日本古来の神々のことを権現、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏といいます。

たとえば、日本古来の神である菅原道真の本地仏は十一面観音である、などとされています。

唐招提寺の場合は次のような関係になっているのではないかと思います。

毘盧遮那仏・・・長屋王の本地仏
薬師如来・・・・道教の本地仏
千手観音・・・・玄昉の本地仏


  唐招提寺 観月会2


神は御霊・和魂・荒魂の三つに分けられ、女神は和魂を、男神は荒神を表すとする説があります。

御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


女神・男神と書きましたが、日本の神様って、性別が曖昧なんですよ。

古事記や日本書紀では三輪明神(大神神社の御祭神・大物主神)は男神として登場しますが、謡曲・三輪に登場する三輪明神は女神です。

一般に稲荷明神は女神とされていますが、亀岡祭曳山の御神体の稲荷明神は男神でした。

これに本地垂迹説をからめると、次のようになるのではないかと思います。

御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・みほとけ・・・・・・毘盧遮那仏/薬師如来/千手観音
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・日本古来の神・・・・長屋王/道鏡/玄昉

唐招提寺 観月讃仏会2


④太陽は陽、月は陰。

陰陽道では太陽は陽、月は陰です。
すると、次のようになります。

御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・みほとけ・・・・・・毘盧遮那仏/薬師如来/千手観音・・・月
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・日本古来の神・・・・長屋王/道鏡/玄昉・・・・・・・・・太陽


つまり、唐招提寺の毘盧遮那仏・薬師如来・千手観音は長屋王・道教・玄昉の和魂であり、
観月讃仏会は彼らの和魂が月となって闇夜を照らす光明になったということを表す行事であるように、私には思えるのです。


まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村



[2017/10/07 14:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

円覚寺 薬師堂念仏踊り 『念仏踊りと木魚』 

奈良県東吉野村 円覚寺 薬師堂
薬師堂念仏踊り 8月18日


①薬師堂念仏踊り

午後7時半ごろより、法要が始まりました。
見学者はカメラマン5名、民俗学愛好家の方2名のみ。
檀家さんたちは皆さん気さくで優しくて、親戚の家の法事に行ったみたいな気分に。ありがとうございました!

薬師堂念仏踊り 4 
僧侶の方が木魚を打っていますね。

薬師堂念仏踊り 木魚 

ぽくぽくぽく・・・・・

薬師堂念仏踊り 3

途中から、檀家さんが木魚を打ちました。

薬師堂念仏踊り 5 

薬師堂念仏踊り 2

午後9時ごろより念仏踊りが始まります。

薬師堂念仏踊り

♪ヨォ なーあんぶつ なーあぶーつな ソレ
なんと木魚をたたいていますよ。

薬師堂念仏踊り 詞章


②念仏踊りで木魚をたたくのは珍しい


念仏踊りは各地で行われていますが、木魚をたたくのは珍しいと思います。

玄武神社 やすらい祭2

上は京都・玄武神社のやすらい祭です。

昔の人は桜の花びらに乗って疫神が散っていく、と考えました。
そこで疫神を慰霊するため、奈良の大神大社で『鎮花祭』を行うようになりました。
京都のやすらい祭はこの『鎮花祭』をルーツとし、念仏踊りを加えたものです。
手には太鼓と鉦を持っていますね。

  空也堂 歓喜踊躍念仏

↑ こちらは京都空也堂で行われた空也踊躍念仏です。
やはり手には太鼓と鉦を持っていますが、木魚は持っていません。

③木魚は念仏のためのドラムだった

木魚は読経をする際にリズムをとるためのものでした。
読経用のスリットドラムですね。

そのルーツは禅寺で用いられていた魚梆(ぎょほう)であるとされます。
魚には瞼がなく、目を閉じないので、古の人々は魚は寝ないと考えていたとか。
そのため「眠る間も惜しんで修行せよ」という意味で魚のデザインになったそうです。

正明寺 魚梆

正明寺 魚梆

④円覚寺念仏踊りは浄土宗の影響を受けている?

木魚は禅宗・天台宗・浄土宗で用いられます。
円覚寺は禅宗の曹洞宗です。

浄土宗では念仏を唱えるときに使用するそうです。

日本の仏教寺院は宗派を変えたり、他宗派の影響を受けることも多いです。
円覚寺の念仏踊で木魚を用いるのは、曹洞宗だということもあるでしょうが
浄土宗で念仏を唱える際に木魚を用いることに影響を受けたものなのかも?

それにしても、薬師如来の御前で、「なーあんぶつ」と唱えるのはなぜなんでしょうか?
「なーあんぶつ」とは「南無阿弥陀仏」が訛ったものだと思います。
阿弥陀仏の御前で唱えるべきものだと思えるのですが?

皆さんはなぜだと思われますか?

薬師堂念仏踊り  

薬師堂念仏踊り6

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村    





[2017/08/23 08:05] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

ほうらんや火祭 『ほうらんや火祭は七夕の行事だった?』 

 
春日神社 八幡神社 奈良県橿原市坊城
ほうらんや火祭・・・8月15日


①ほうらんや火祭

「ほうらんや火祭」はめらめらと燃える大松明を担いで境内を練り歩くというもので、まず13時より春日神社で行われ、終了したのち15時より八幡神社で行われます。

ほうらんや火祭り 春日神社  
春日神社 

ほうらんや火祭り 春日神社2 

春日神社

ほうらんや火祭り 春日神社 松明をたてる 

春日神社

②曽我川=天の川、春日神社=織女星、八幡神社=牽牛星

へたくそな図で申し訳ないですが、下の図を見てください。
ほうらんや 図



曽我川が描く曲線は天の川の曲線によく似ています。
そして春日神社はベガ(織女星)の位置に、八幡神社はアルタイル(牽牛星)の位置にあります。

ほうらんや火祭り 八幡神社 
八幡神社

③ほうらんや火祭りは七夕行事だった?

お盆は旧暦では7月15日を中心とした行事で、7月7日の七夕はお盆の行事のひとつでした。

旧暦は新暦よりも約一ヶ月遅れるので、もともと旧暦7月15日ごろ行っていた『ほうらんや火祭』を、同じ時期に行えるようにと新暦の8月15日に行うようになったのだと思います。

ほうらんや火祭り 八幡神社3

このように、日本の年中行事の日程を旧暦の日付から新暦上で1か月遅らせて行うことを「月遅れ」といいます。 

ほうらんや火祭り 八幡神社4  



※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村    




[2017/08/17 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

金峯山寺 蔵王堂 蓮華会 蛙飛行事 『蛙と空飛ぶドクロ』 


奈良県吉野郡吉野山 金峯山寺蔵王堂
蓮華会、蛙飛行事・・・7月7日


①蛙が跳ぶ姿はまるで空飛ぶドクロ!

「えーらいやっちゃあ、えーらいやっちゃあ~」という掛け声とともに、吉野の町を太鼓台が練り歩きます。
太鼓台には蛙の着ぐるみを着た人が乗っていました。

蔵王堂 蛙飛行事

役行者が産湯をつかったと伝わる奥田の捨篠池で摘んだ蓮が、金峯山寺の蔵王権現に供えられます。

蔵王堂 蛙飛行事5


金峯山寺には法力で蛙の姿に変えられた男の伝説が伝えられており、蛙飛行事はそれにちなむものです。
蛙のキグルミを着た人が橋の上をぴょんぴょんとはねました。

蔵王堂 蛙飛行事3

これを見た私はいきなりテンションがハイ状態に!
まるで空飛ぶドクロやん~!
 蔵王堂 蛙飛行事2

蔵王堂 蛙飛行事


②亀石はドクロを模した石?


いきなりこう言ってもわけわかんないですね。
説明します。

↓ 飛鳥にある謎の石・亀石です。亀ではなく、カエルではないかとも言われています。
蛙飛行事のカエルの頭部と比べると確かに似ていますね。

亀石

あるとき京都の大将軍商店街(妖怪ストリート)をぶらぶらと歩いていたんですが、店の前に置いてあった「ぬらりひょん」という妖怪の人形に目が釘づけに~!

妖怪ストリート ぬらりひょん 

なんと「ぬらりひょん」は亀石そっくりです!
眉間の半月形の皴までおんなじだー。
もしかして、亀石とは頭蓋骨を模した石なのではないでしょうか?

②飛行するドクロ

 ↓ 京都の膏薬図子にある神田神宮です。
古い写真のため、現在の神田神宮とは景観がかなり異なりますがご容赦を。

神田明神

平安時代に関東に独立国を作った平将門は、藤原秀郷・平貞盛らの軍に責められて戦死しました。
将門の首は京に持ち帰られ、この場所に晒されたと伝えられています。(南座の南あたりという説もあります。)

将門の首はここから飛び上がり胴体を求めて東に飛び去ったという伝説があります。
将門の首は現在の東京都千代田区あたりに落ちたとされ、その場所には将門の首塚があります。

将門の首塚 
将門の首塚(東京都)

将門の首塚にはガマの置物を奉納する習慣があるそうです。
私が参拝したときは管理者が設置したと思われる巨大なガマの置物があるだけでしたが~。
おそらく奉納されたたくさんのガマの置物は撤去されたのでしょう。

ガマとはカエルのことです。
将門の首は故郷に戻ってきたので「無事帰る(カエル)」の語呂合わせから蝦蟇の置物を奉納する習慣が生じたと言われています。

でも私は平将門とはドクロの神であり(首が飛んだという伝説があるので)、カエル(蝦蟇)はその形がドクロに似ているので、将門の首塚に蝦蟇の置物を奉納する習慣が生じたのではないかと思うのです。

首(ドクロ)が飛ぶという伝説は平将門だけでなく、蘇我入鹿や玄昉などにも同様の伝説が伝えられています。
このうち玄昉のドクロは平将門と同様、長距離を飛行していますが
蘇我入鹿のドクロは中大兄皇子に首をはねられたのち、斉明天皇の御簾に食らいついたとされており、長距離飛行ではありません。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社) 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。

蔵王堂の蛙飛行事では蛙が飛ぶというよりは、ぴょんぴょん跳びはねますが、これも「飛ぶドクロ」を現したものではないでしょうか。

③小野道風と蛙

小野道風にも蛙の伝説があります。
蛙は柳に飛びつこうとして何度も失敗しますが、偶然強い風が吹いて柳の枝が大きくしなり、ついに柳に飛びつくことができました。
これを見て道風はどんなことも努力すれば必ず叶うと悟ったそうです。

この蛙もまた髑髏を比喩したものなのかも?

File:Ono no Tofu, by Suzuki Harunobu, Edo period, 18th century - Tokyo National Museum - DSC06242.JPG

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/Ono_no_Tofu%2C_by_Suzuki_Harunobu%2C_Edo_period%2C_18th_century_-_Tokyo_National_Museum_-_DSC06242.JPG よりお借りしました。

作者 Daderot (投稿者自身による作品) [Public domain または CC0], ウィキメディア・コモンズ経由で

④狛蛙登場!

神事が終わって蔵王堂の周辺をうろついていたところ「脳天大神→」と記された道しるべがありました。
道しるべに従って脳天大神(龍王院)に行ってみると、なんと狛犬ならぬ狛カエルが~!

龍王院 狛蛙

脳天大神は蔵王権現(蔵王堂の御本尊)の 変化身である 頭を割られた大蛇を祀り、首から上の病気に霊験あらたかと言われています。

カエルとはドクロを表すものであり、脳天大神=蔵王権現はドクロの神であるということで、狛蛙が置かれているのではないでしょうか。

⑤蛇は胴体がなく、頭に長い首がついている?

脳天大神は金峯山寺の塔頭で、昭和26年に開かれました。
終戦後、澄大僧上が女人の行場として金龍王の滝を開いた際、頭を割られ、目が飛び出した大蛇が死んでいるのを見つけ、その大蛇を祀ったのだそうです。
大蛇は「脳天大神としてまつられたし、首から上のいかなる難病苦難も救うべし。」と告げたといい、「首から上の守り神」として信仰されています。

あれ、狛蛙が置かれているのに、脳天大神は蛇なんですかあ?

喜光寺 宇賀神 

喜光寺 宇賀神


宇賀神は妖怪ろくろ首を思わせるお姿をされています。

この像を見て、私はこう考えました。
昔の人は蛇とは胴がなく、頭に長い首がついた動物だと考えていたのではないかと。

つまり能天大神=蔵王権現とはドクロの神であり、蛇や蛙もドクロをあらわす動物であったのではないかと思うわけです。

 


※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!





にほんブログ村


[2017/07/10 21:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

法隆寺 追儺式 夢殿のお水取り 『法隆寺追儺式とお水取りは一連の行事?』 


奈良県斑鳩町 法隆寺
追儺式・・・2月3日


法隆寺 夕景 

①法隆寺追儺式の撮影は難しい!


法隆寺の追儺式は西円堂の周囲に金網をめぐらせて行われます。
なぜ金網をめぐらせるのかというと、法隆寺の追儺式では鬼が手に持った松明を投げるのです。
投げた松明が参拝者に当たると危ないので、お寺が配慮して金網を設けてくださっているのだと思います。

安全が第一なので文句を言うつもりはないんですが、金網がはってあると、ストロボが使えません。
ストロボたくと、金網が真っ白に写ってしまい、金網の向う側で行われている追儺式のようすが写らないんです。

また人が多いので当然三脚は禁止です。
その上、鬼の動きが速いので感度をISO12800まであげてもブレブレに~。

ですが、撮影するのが難しい被写体ほどリベンジに燃えるよね~。

そんなわけであんまりいい写真はないけど、掲載させていただきます。(汗) 

法隆寺 追儺式 青鬼

金網を消す方法ないかなあ?(いい方法があったら教えて~)

②毘沙門天が登場する追儺式


興福寺 追儺会 『大黒天は日本版サンタクロース?』 
↑ こちらの記事に、毘沙門天が登場する奈良の追儺式は修二会の行事ではないかと書きました。

法隆寺の追儺式にも毘沙門天が登場します。

法隆寺 追儺式 毘沙門天   
毘沙門天

③修二会にルーツを持つ追儺式


修二会といえば、東大寺二月堂のものが有名ですね。

二月堂 お松明 
東大寺 二月堂 修二会 お松明

修二会の松明は童子と呼ばれる人によって振り回されますが、童子と鬼は関係が深そうに思われます。
というのは、酒呑童子・茨木童子などの鬼が童子と呼ばれているからです。
また「鬼の子孫」を称する八瀬の人々も「八瀬童子」と呼ばれています。

そして法隆寺の修二会の行事のひとつ、追儺式では鬼が荒々しく松明を振り回して放り投げます。
これは東大寺二月堂修二会で童子が行うお松明行事と同様のものではないでしょうか?

法隆寺 追儺式 緑鬼 

③法隆寺の七不思議


法隆寺には七つの謎があるとされ、法隆寺七不思議といわれています。

①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。
 
 
⑥については法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議 雀が糞をしない』 
⑦については法隆寺 夕景と柿 『法隆寺の七不思議② 因可の池の蛙とは』 
で私流の謎解きをしましたので、一読いただけると嬉しいです。

法隆寺 追儺式 赤鬼2

④法隆寺のお水取り

えー、法隆寺七不思議の④に「夢殿の礼盤(らいばん)の裏は汗をかいている。」というのがありますね。

これに関連する行事が、法隆寺追儺式から8日目の2月11日に行われています。
朝の8時くらいから始まるそうですが、早起きが苦手なので、見学したことがありません。(またしても汗)

礼盤とはお坊さんが座る台のことです。
夢殿の礼盤が置かれた畳の下に正方形の板があり、これを日光に当てると、板の裏に水分があふれ出るというのです。
そしてこの水分によってその年が豊作か凶作なのかを占うのだとか。

この行事は「お水取り」と言われています。

 法隆寺 追儺式 赤鬼

⑤法隆寺お水取りは修二会の行事?

私は法隆寺のお水取りは2月3日の追儺式に続く修二会の行事ではないかと思います。

というのは、東大寺二月堂の修二会の行事の中にもお水取りの行事があるからです。

3月2日、福井の鵜の瀬で「お水送り」といって、お香水を流す行事が行われます。
鵜の瀬と二月堂若狭井は地下でつながっているといわれ、鵜の瀬で流したお香水は10日で二月堂若狭井に届くと言われています。
そして3月13日の午前1時半ごろ、二月堂の閼伽井屋で、鵜の瀬から送られたお香水をとる『お水取り」の行事が行われます。

お水送り 鵜の瀬

鵜の瀬 お水送り

⑥法隆寺の「お水取り」はいつ始まったの?

東大寺二月堂の修二会がはじめておこなわれたのは751年(『二月堂縁起絵巻』1545年による)ですが、法隆寺の修二会がはじめられたのは1261年とされています。

ですがこのとき、夢殿は開扉されていなかったはずなんです。
夢殿の御本尊・救世観音は長年絶対秘仏とされており、夢殿の扉を開くと大地震がくると言い伝えられていて、長年扉があけられていなかったのです。
その夢殿の扉が開かれたのは、1884年、岡倉天心とフェノロサによってです。

法隆寺の「お水取り」は夢殿の救世観音像の前にある礼盤にたまった水を取る行事なので、実際にこの行事がはじめられたのは、夢殿を開扉した1884年以降(明治17年)以降なのではないでしょうか。

しかし法隆寺七不思議は江戸時代からあるといわれています。
これが正しければ、法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」という伝説そのものは夢殿開扉前よりあり
この伝説に基づいて「お水取り」行事は1884年以降に行われるようになったと考えることができるかもしれません。

また、法隆寺七不思議のひとつ
法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」 
は、1884年以降に付け加えられたとか、法隆寺七不思議そのものの成立が1884年以降であるとも考えられます。

あるいは、夢殿が開扉する以前には、別の場所でお水取り行事を行っていた可能性もありますね。

法隆寺 追儺式 青鬼 




毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。




いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2017/02/09 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

元興寺 節分会 『福は内、鬼は内』 

奈良市中院町 元興寺
節分会・・・2月3日


 ①妖怪・元興寺(がこぜ)

『日本霊異記(822年ごろに成立)』に元興寺を舞台とする次のような話が記されています。

敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、雷神が落ちてきました。
雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言ったので、農夫は雷神を殺さずに、空へ返しました。
しばらくして農夫の妻が子供を産みました。
その子供の頭には蛇が巻きついていました。
成長した子供は元興寺の童子になりました。

元興寺では童子たちが鬼に殺される事件が頻繁におきていました。
頭に蛇が巻き付いた童子は鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れました。
童子は鬼の髪の毛を掴んで引きずり回しました。
鬼は髪をむしりとられ、あたふたと逃げていきました。
童子は追いかけましたが、鐘楼の北東の辻子の辺りで鬼を見失いました。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思ったことから、この辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになりました。
(元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っています。)
しかし血痕が残っていたので、童子はそれを辿って行きました。
すると不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりつきました。(現在の奈良ホテルのあたり)
それは昔元興寺で働いていた下男の墓でした。
鬼の正体はこの下男の怨霊だったのです。

鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪です。

元興寺 武道
 
②物語の矛盾点

この物語には矛盾点があります。

元興寺が飛鳥から奈良へ移転したのは718年。
またその前身である法興寺が建立されたのは587年の丁未の乱(蘇我馬子vs物部守屋の戦い)以降のことです。
ところが敏達天皇の在位は572年-585年なんですね。
伝説では敏達天皇の頃の話だとしていますが、そのころ奈良に元興寺はなかったのです。

あえて寺の創建年と時代の合わない天皇の御世の話だとしたのは、妖怪・元興寺の正体が、敏達天皇代の人物の怨霊であることを示唆しているのではないでしょうか?


元興寺 護摩 
③物部守屋

敏達天皇に仕えた人物に蘇我馬子がいます。
587年、蘇我馬子は廃仏派の物部守屋との戦いに勝利し、飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を建てました。
さきほどお話ししたように、この法興寺が718年に奈良に移転して元興寺となったわけです。

また、馬子とともに戦った厩戸皇子(のちの聖徳太子)は『守屋との戦いに勝利したのは、四天王のご加護のおかげである。』として摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立しました。 

その四天王寺の境内、絵堂の横には、聖徳太子や蘇我馬子と戦って戦死した物部守屋を祀る社があり、守屋祠・願成就宮と呼ばれています。

四天王寺は聖徳太子が物部氏の土地を没収し、物部氏の部民を使役して建てられました。
そして四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったといわれています。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためです。

守屋祠は、人々が物部守屋の怨霊を大変怖れていたということを示すものだといえるでしょう。
人々が守屋を神として祀ったのは、人々が守屋の怨霊の祟りを畏れたためだと考えられるからです。

そして四天王寺と法興寺(飛鳥寺/のちの元興寺)はどちらも物部守屋との闘いに勝利したことをみほとけに感謝して建てられたお寺です。

元興寺 護摩 

●大物主神は物部氏の神? 

現在の飛鳥寺(法興寺)には守屋を祀る神社は見当たりませんが、近所に飛鳥坐神社があって、ここに守屋の霊が祀られているのではないか、と私は考えています。

飛鳥坐神社の御祭神の一に大物主神がいます。

大物主神は正式名称を倭大物主櫛甕魂命といい、大神神社の御祭神でもあります。
そして物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっており、倭大物主櫛甕魂命と天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊は『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説があります。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになりますね。

そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられています。

鬼を退治した頭に蛇を巻いた童子もまた物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないでしょうか。

元興寺 護摩

●妖怪がこぜの正体

神はその現れ方によって三つに分類されるといわれます。
頭に蛇を巻いた童子が和魂で、がこぜは荒魂、その本性である御魂は物部守屋なのではないでしょうか。

御魂・・・神の本質・・・・・・・物部守屋
和魂・・・神の和やかな側面・・・道場法師(頭に蛇を巻いた童子)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・がこぜ

つまり守屋は自分で自分を退治したのではないか、ということです。

もちろん、『自分で自分を殺す』なんてことは普通はできません。

また物部守屋は自ら死を選んだのではなく、蘇我馬子や聖徳太子によって殺されたのです。(実際に守屋を矢で射たのは迹見赤檮)
『守屋が自ら死を選んだ』などというのは怨霊を畏れる人の自分勝手な考え方です。

元興寺 武道

元興寺 火渡り2 

火渡りは10年以上前にフィルムで撮影したものです。
最近はもっと炎を鎮めて火渡りを行っています。

元興寺 火渡り 

②福は内 鬼は内

火渡り修行が終わると豆まきです。
豆まきではふつう「福は内、鬼は外」とかけ声をかけますね。
元興寺はちがいます。
「福は内、鬼は内」とかけ声をかけます。

元興寺 豆まき


元興寺のように「福は内、鬼は内」とかけ声をかける豆まきを行う寺社は他にも結構あります。

なぜ「鬼は内」とかけ声をかけるのでしょうか?
その理由はそれぞれの寺社によって異なるようですが、次のような理由があるみたいですね。

a.「鬼塚さん」のように、鬼の字のつく姓の人が近所に住んでいる。
b.鬼を祭神または神の使いとしている。

元興寺はbだと思います。

元興寺は妖怪・元興寺(がこぜ)を慰霊するための寺だと考えられるからです。

 
元興寺 豆まき 



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。




いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2017/02/07 11:07] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

金峯山寺 節分会 『鬼はなぜ牛の角を生やし虎皮のパンツをはいているの?』 


奈良県吉野郡吉野町 
金峯山寺蔵王堂
節分会…2月3日


①金峯山寺 蔵王堂 節分会

金峯山寺 蔵王堂 追儺会5

zzzz・・・

金峯山寺 蔵王堂 追儺会4  

次、左もやってね~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会9 

きく~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会10 
お経、まだ終わらないの?長いね~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会11

退屈だから参拝者を脅しちゃおう~。(本当はお加持)
 
金峯山寺 節分会  
let’s dance!

金峯山寺 蔵王堂 追儺会2 

金峯山寺 蔵王堂 追儺会8 
ラララララ~♪

金峯山寺 蔵王堂 追儺会7 
うひゃーー。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会6 
まいりました・・・。

②鬼はなぜ牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているの?


鬼たちは牛の角を生やし、黄色地に黒の模様の入ったパンツをはいています。
黄色地に黒の模様は簡略化されていますが、虎皮のパンツをあらわしているのでしょう。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき  

上の写真は前にご紹介した石清水八幡宮の鬼ですが、こちらの鬼ははっきり虎皮のパンツだとわかりますね。
なぜ節分の鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのでしょうか。

③旧暦と二十四節気

現在の日本では太陽暦(新暦)を用いていますが、江戸時代までの日本では太陽太陰暦(旧暦)を用いていました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりに用いた暦法で、月のない夜(朔/新月)を1日、上弦(半月)を7日または8日、満月(望月)を15日とします。
1か月の周期は29日または30日です。
すると太陽太陰暦の1年は29.5日×12か月=354日となります。

太陽暦は地球が太陽の周囲を1周するのを1年としています。
地球が太陽を1周するのに要する日数は約365日です。
太陰暦は太陽暦に比べて1年の日数が11日不足しており、3年では約1か月近くもずれることになります。
そこで太陽太陰暦では4年に1度閏月をもうけてずれを解消していました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりにできるので紙が貴重品だった時代には大変便利でした。
しかし実際の季節とは最大1か月ものずれが生じるので、農作業などに不便が生じます。

そこで、太陰暦の他に1太陽年を24に分割し、立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒 とよんでいました。(二十四節気)

④節分は二十四節気の大晦日

節分とは「季節の変わり目」を意味し、もともとは立春(2月4日)・立夏(5月6日)・立秋(8月8日)・立冬(11月8日)の前日のことを言う言葉でした。
本来節分は1年に4回あるのです。
特に立春は季節の変わり目であると同時に1年の変わり目であるため、重要視され、現在では立春の前日のことを節分ということが多いです。
つまり、節分とは二十四節気の大晦日なのです。

江戸時代までの日本では旧暦の正月と、二十四節気の正月と2回正月がありました。
節分は太陽暦の2月3日ごろですが、太陰暦は太陽暦よりも約1か月遅れになるので、旧暦の大晦日と二十四節気の節分はだいたい同時期でした。
金峯山寺 蔵王堂 追儺会3


⑤鬼は丑寅で1年の変わり目をあらわす。

12か月を干支でいえば丑は12月、寅は1月なので丑寅は1年の変わり目を表します。
また方角を干支でいうと丑寅の方角は東北で、丑寅の方角は鬼が出入りする方角として忌まれていました。

鬼=丑寅=1年の変わり目 だといっていいでしょう。

鬼が牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのは、干支の丑寅(1年の変わり目)をあらわしているのだと思います。
そして鬼=丑寅を追いやることで新年を迎えようというのが追儺式なのだと思います。

目に見えない1年の移り変わりを視覚化したものだといってもいいかもしれませんね。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。




いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2017/02/04 20:37] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

興福寺 追儺会 『大黒天は日本版サンタクロース?』 



奈良市登大路 興福寺
追儺会 2月3日


興福寺 追儺会 二匹の鬼 

興福寺 東金堂前に鬼が登場ーー!

興福寺 追儺会 鬼の酒盛り 
①宮中の年中行事に起源を持つ方相氏

前回の記事、吉田神社 鬼やらい神事 『正義のヒーロー・方相氏を射るってどういうこと?』 で、吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏についてお話ししました。
方相氏は宮中の年中行事である鬼やらい神事に起源を持っています。

吉田神社 方相氏 と しん子 

吉田神社 鬼やらい神事 四ツ目の方相氏


京都では吉田神社のほか、平安神宮や鞍馬寺の追儺式にも方相氏が登場して鬼を祓います。

②毘沙門天が鬼を祓う追儺式

これに対して奈良の追儺式ではここ興福寺のほか、朝護孫子寺、法隆寺などで毘沙門天が鬼を祓います。

興福寺 追儺会 毘沙門天
 
興福寺 追儺会 鬼と闘う毘沙門天

③毘沙門天が登場する追儺は修二会にルーツを持つ?

京都の方相氏が登場する追儺式が宮中の年中行事であったのに対し、奈良の毘沙門天が登場する追儺式は仏教の行事である修二会にルーツがあるのかもしれません。

二月堂 修二会 お松明

上の写真は東大寺二月堂の修二会で行われるお松明の行事です。

仏教発祥の地であるインドの正月は日本の2月にあたり、修二会は新年の行事だと考えられます。
現在では行われていませんが、かつては興福寺でも東金堂と西金堂で修二会を行っていたそうです。

修二会の松明は童子と呼ばれる人によって振り回されますが、童子と鬼は関係が深そうに思われます。
というのは、酒呑童子・茨木童子などの鬼が童子と呼ばれているからです。
また「鬼の子孫」を称する八瀬の人々も「八瀬童子」と呼ばれています。

興福寺 追儺会 青鬼 

興福寺・東金堂前で行われるの追儺会に登場する鬼も松明を持っています。
もしかして、興福寺の追儺会のルーツはかつて東金堂前で行われていた修二会にあるのではないでしょうか?

興福寺 追儺会-子供の鬼 

子鬼も登場!

④大黒天が登場する興福寺の追儺会

興福寺 追儺会 毘沙門天

毘沙門天が鬼をやっつけたあと、大黒天が登場しました。

興福寺 大黒天 

 大黒天は大きな袋の中からお守りのようなものを取り出して撒いていました。
何を撒いているのか興味があったので欲しかったのですが、相変わらずトロい私はゲットできず~。

⑤大黒天は日本版サンタクロース?

それにしても大黒天、まるでサンタクロースのようですね。

サンタクロースが活躍するのはクリスマスですが、クリスマスはミトラ教の冬至祭にルーツを持っています。
冬至は太陽の南中高度が1年で最も低い日で12月22日ごろですが、3日後の25日ごろより、太陽は再び南中高度をあげていきます。
そのためミトラ教では12月25日に冬至祭を行っていたのです。

古代の中国では冬至を1年の始点としていたといいますし、日本にも「冬至正月」という言葉があり、冬至を1年の始点とする考え方がありました。

そして節分は1年を24分割した暦法・二十四節気の立春の前日のことです。
旧暦は新暦の約1か月遅れとなり、旧暦の正月と立春はだいたい同じくらいの時期でした。
そのため立春は新春=正月、立春の前日の節分は二十四節気の大晦日だと言っていいでしょう。

つまり、クリスマスも節分も正月を迎える行事だといえるわけです。

そして、仏教の弥勒菩薩はミトラ教の太陽神・ミトラスの影響を受けていると言われています。

クリスマスのサンタクロースと、節分の大黒天は、ミトラス教を通じて繫がっているのかも?

File:BritishMuseumMithras.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABritishMuseumMithras.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/BritishMuseumMithras.jpg よりお借りしました。

上の写真は大英博物館所蔵の牡牛を屠るミトラス像です。
鬼は牛の角が生えているので、鬼=牛=丑。
そう考えると、ミトラスはまるで追儺で鬼を祓う毘沙門天のように見えてしまう~。

興福寺 追儺会 三匹の鬼 

 
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。




いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




[2017/02/03 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大神神社 繞道祭 『日の神は語呂合わせで火の神に神格を変えられた?』 


奈良県桜井市 大神神社 
繞道祭・・・1月1日 午前0時ごろより

先生、師匠、楠木先輩、いろいろ教えてくださってありがとうございました!おかげ様で楽しかったです!

①繞道祭


古い年が生き、新しい年がやってくる元旦の午前0時すぎ。
どこからか流れてくる除夜の鐘を聞きながら、私は私は大神神社の摂社・檜原神社に立っていました。

大神神社 繞道祭 檜原神社にて 
檜原神社に繞道祭の松明の行列がやってきました!
松明の火は新年があけるとまもなく大神神社の拝殿東方で切り出されたものです。
この火を松明に点火し、行列を作って大神神社の摂末社18社を駆け巡ります。

またこの火をカイロや火縄で移し取り、各家の神棚に備えたり、お雑煮を作ると無病息災のご利益があるといわれています。

②大物主神とニギハヤヒは同一神だった?
妙性寺縁起は小野小町の次のような伝説を伝えています。

晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。

九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)

後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった
(妙性寺縁起)


五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる

このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけですね。

これと同じような語呂合わせで日の神は火の神へと神格を変えられたのではないでしょうか。





毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2017/01/05 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

一言主神社 一陽来復祭 『一言主大神は木霊(山彦)だった?』 


一言主神社 一陽来復祭3  
 
奈良県葛城郡 葛木一言主神社
陽来復祭・・・冬至の日


一言主神社 公孫樹2 

①イチョウは一陽の木

 一言主神社のご神木は樹齢1200年と伝えられる御神木の大イチョウです。
一陽とイチョウは掛詞になっていますね。
葛城一言主神社 イチョウ 黄葉 『イチョウは一陽の木?』 
↑ こちらの記事に『イチョウは一陽の木、冬至に向かって衰え行く太陽の木ではないか』と書きました。
よかったら読んでみてください♪

一言主神社 一陽来復祭

②一言主大神は木霊(山彦)だった?

一言主神社の御祭神・一言主大神には次のような伝説があります。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 


雄略天皇と全く同じいでたちをし、同じ言葉を返す一言主大神とは木霊(山彦)を神格化したものなのではないでしょうか。

一言主神社 一陽来復祭2


●山彦の名所

葛城山の南に金剛山がありますが、かつて葛城山と金剛山はどちらも葛城山と呼ばれていたそうです。
そして葛城山の山麓近くには一言主神社が、金剛山の山頂近くには葛木神社があってどちらも一言主大神を祀っています。

高校のときにワンダーフォーゲル部に所属していた友人に聞いたのですが、葛城山から金剛山へ至るダイヤモンドトレールと呼ばれる道では、よく山彦が聴こえるそうです。

一言主神社 一陽来復祭  
一言主神社 一陽来復祭-階段 

一言主神社 一陽来復守り 





毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村





[2016/12/21 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

  
奈良豆比古神社・・・奈良市奈良阪町2489
翁舞・・・10月8日  午後8時ごろより


 奈良豆比古神社 翁舞 千歳

千歳の舞


以前の記事、百毫寺 萩 『志貴皇子 暗殺説』  もよかったら参考になさってくださいね。

●能「翁」のルーツ?

能に「翁」という演目がありますね。

奈良豆比古神社は古くより芸能の神として信仰され、芸能に携わる役者さんたちは興行前に奈良豆比古神社を参拝する習慣があったと聞いたことがあります。

奈良豆比古神社の「翁舞」は能「翁」の古い形態を残しているとも言われます。
もしかしたら奈良豆比古神社の「翁舞」は能「翁のルーツ」なのかも?

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2  

舞台上で面をつけるのは「翁」だけです。

●ふたつの伝説


奈良豆比古神社には『翁舞』に関係する次のような伝説が伝えられています。

①志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していました。
春日王にはの二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)があり、心をこめて春日王の看病をしていました。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈りました。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かいました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊されました。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれません。


『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは①とは別の語りを伝承しておられるとのことです。
 
奈良豆比古神社 翁舞 白式尉 
白式尉

②志貴皇子は限りなく天皇に近い方でした。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそいました。
赤い衣装は天皇の印です。
志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈りました。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていました。
志貴皇子がつけていたのは翁の面でした。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていました。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞いました。
これが翁舞のはじめです。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られました。
 
 
ハンセン病を患ったのは①の伝説では志貴皇子の子の春日王となっていますが、②の伝説では志貴皇子となっています。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
三人翁は能「翁」にはありません。
  
●春日王と志貴皇子は同一人物では?

また春日王は田原太子とも呼ばれており、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇と呼ばれていました。
春日王と志貴皇子は同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇族でこのようなケースは他に例がないと思います。
春日王と志貴皇子は同一人物なのではないでしょうか。

●浄人王は弓削浄人?!

①の伝説によると、「桓武天皇は春日王の子の浄人王に弓削首夙人の名と位を与えた」とあります。
ということは、浄人王は臣籍降下して弓削浄人と呼ばれるようになったということでしょうか。
弓削浄人という名前には聞き覚えがあります。
道鏡の弟の名前が弓削浄人なのです!

●道鏡は志貴皇子の子?

『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されています。
道鏡の俗名はわかっていないのですが、安貴(①の伝説に登場する春日王の子。浄人王の兄弟)という名前だったのではないでしょうか?

これが正しければ、道鏡は志貴皇子の子で天智天皇の孫だということになります。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉3

●称徳天皇が道鏡を次期天皇にしたいと考えたのはなぜ?

道鏡は奈良時代の僧侶で、称徳天皇に仕えていました。
称徳天皇は女性として初めて皇太子になった方で、結婚が許されず、独身でした。
そのため世継ぎとする子供がなく、称徳天皇は道鏡を天皇にしたいと考えていました。

称徳天皇が道鏡を天皇にしようと考えたのは、道鏡が志貴皇子の子だったからなのではないでしょうか?
(もしかしたら臣籍降下していたかもしれませんが)

●称徳天皇がカンカンになって怒った理由

宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にすべし』との神託が降り、称徳女帝はそれを確認させるために和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣しています。
都へ戻った和気清麻呂は清麻呂は『天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ(天皇は必ず皇族の血筋のものとするべし)』と奏上して道鏡は次期天皇にふさわしくないとしました。
これを聞いた称徳天皇は激怒したそうです。

道鏡が志貴皇子の子であったとすれば、彼は皇族の血筋だといえます。
称徳天皇崩御後、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となっており
ここから考えても、道鏡が志貴皇子であったとする私の仮説が正しければ、彼には十分次期天皇になる資格があったといえるでしょう。

称徳天皇が怒るのも無理はないでしょう。
よほど頭にきたのか、称徳天皇は清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」姉の広虫を「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させて流罪としています。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

黒式尉も舞台上で面をつけます。


●称徳天皇急死、そして道鏡の失脚


しかし事件後まもなく称徳天皇は急死しました。暗殺されたのではないか、ともいわれています。
これによって道鏡は失脚し下野国の薬師寺へ左遷(配流)され、2年後に死亡して庶民として葬られました。

●日本紀などは、たゞ、片そばぞかし

紫式部は『源氏物語』の中で光源氏に「『日本紀などは、たゞ、片そばぞかし。これらにこそ、道みちしく、くはしき事はあらめ』と言わせています。

これは『日本書紀に書かれていることなどほんの一部分でしかない、物語の中にこそ真実が詳しく記されている』というような意味です。

紫式部は正史には嘘が多いことを知っていたのですね。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉 



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村





[2016/10/08 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

當麻山口神社 宵宮祭 當麻寺 彼岸花 『ご先祖様に子孫誕生を報告するお祭り?』 

奈良県葛城市 當麻山口神社
宵宮祭 9月22日

●當麻山口神社 宵宮祭

9月22日、當麻山口神社で宵宮祭が行われるというので友人を誘って行ってみました。

宵宮祭に参列する氏子さんたちがぞくぞくとやってきて拝殿に着席されます。
観光客は私と友人のふたりだけで、「ここにいて写真を撮ってもいいんだろうか?」と不安な気持ちに~。
ですが、みなさん親切で、「写真撮ってもいいですよ」とおっしゃってくださいました。

おごそかに神事が行われる中、私たちのカメラのシャッター音がやけに響いて~(汗)
氏子さんの中にはうるさいと感じられた方がおられるかもしれません。
もしもそうだったら申し訳ありませんでした。

當麻山口神社 宵宮祭

  宵宮祭は新生児が神職さんより祈祷を受け、絵馬を奉納するというものです。
絵馬は拝殿に4枚ほど奉納されていましたが、赤ちゃんの姿はありませんでした。
少子化のため、今年はこの地域で赤ちゃんが生まれなかったのかも?
それで氏子さんの、離れて住むお孫さん、親戚の子供さんなどの絵馬を用意したのではないかと想像します。

http://www.lint.ne.jp/nomoto/PHOTOSALON/kinsatu_1109.html
↑ こちらの方はかわいい赤ちゃんを入れて素敵な写真を撮っておられます。いい写真ですね!

當麻山口神社 絵馬堂

當麻山口神社 絵馬堂の絵馬

●宵宮祭の本来の意味は還御祭だった。

宵宮祭について、コトバンクには次のように記されています。

夜宮,宵宮祭,宵祭とも。現在は例祭の前夜に行われる前夜祭,準備祭となっているが,本来は当番の家やお旅所に奉安されていた神霊が本祭のため本社に帰る還御祭に当たり,例祭の中でも重要な位置を占めていた。

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B5%E5%AE%AE-652649より引用

傘堂 
當麻山口神社の隣にある傘堂

●當麻山口神社宵宮祭の本祭は?

當麻山口神社宵宮祭の翌日に本祭はありません。
1か月後の10月22日に例大祭がありますので、この例大祭の宵宮祭という意味なんでしょうか?
詳しい方、おられましたら教えてください!

●當麻山口神社宵宮祭は彼岸の行事?

暦法のひとつである二十四節気とは1太陽年を24に分割して季節をあらわす名前をつけたものですが
この季節を表す名前の中に春分・秋分があります。
春分と秋分には太陽は真東よりのぼり真西に沈みます。
そのため、春分と秋分には、西方にある極楽浄土に思いをはせる習慣が生じ、さらに先祖供養をする習慣が生じたとされます。
この習慣のことを彼岸といいます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%88%86%E3%81%AE%E6%97%A5#.E8.BF.91.E5.B9.B4.E3.81.AE.E6.98.A5.E5.88.86.E6.97.A5.E3.81.A8.E7.A7.8B.E5.88.86.E6.97.A5

上記ウィキペディアに近年の秋分日が記されていますが、だいたい9月23日ですね。9月22日が秋分日の年もありますが。
當麻山口神社の宵宮祭は毎年9月22日です。
もしかして氏子さんたちが各自めいめいで、先祖供養をする秋分日が本祭で、その宵宮祭という意味合いがあるのかも?

●彼岸と日の没する山・二上山

當麻山口神社は二上山の麓にありますが、奈良から見て二上山は西に位置し、夕日の沈む山であると古より認識されていたと思われます。

私も奈良で二上山に沈む夕日の写真をたくさん撮っています。

二上山 落日

奈良県明日香村より二上山を望む 

●當麻寺の練り供養は沈む太陽を比喩する行事だった?


當麻山口神社はかつて當麻寺境内にあったそうで、當麻寺と関係の深い神社だと考えられます。



その當麻寺では5月に『當麻のお練り』という行事が行われています。

 當麻のお練り


「當麻のお練り」は當麻寺に伝わる中将姫伝説を再現したものです。

中将姫伝説とは次のようなものです。

中将姫は藤原豊成と紫の前の間に生まれましたが、中将姫が幼いころ、母親の紫の前は亡くなってしまいました。
藤原豊成は照夜の前という後妻を迎えましたが、照代の前は中将姫を憎み継子いじめをしていました。
豊成が諸国巡視の旅に出かけた際、照夜の前は従者に中将姫を殺すようにと命じました。
しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにしました。
中将姫は雲雀山に草庵を結び念仏三昧の生活をおくっていましたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻りました。
その後中将姫は出家して當麻寺に入りました。
29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かいました。

私は中将姫とは太陽を擬人化したものであり、中将姫が生きながらにして西方浄土に向かうとは、沈み行く太陽が二上山の向うの西方浄土に向かうさまを表現したものではないかと思います。

當麻寺周辺は沈み行く太陽に対する信仰の厚い地域であったのではないでしょうか。

●死者に自らの穢れをあの世にもっていってもらう。

即成院 二十五菩薩練り供養 

↑ こちらは京都・即成院の二十五菩薩練供養です。
即成院本堂には二十五菩薩と阿弥陀如来像が安置されています。
即成院の練り供養は、當麻寺の練り供養と同じく、西方浄土より二十五菩薩が死者を迎えに来る様子を再現したものです。

この行事について、梅原猛さんは「死者に自らの穢れをあの世にもっていってもらう」という信仰があったというような意味のことをおっしゃっていたように記憶しています。

彼岸は西国浄土に思いをはせ、西国浄土におられるご先祖様の供養をする日です。
當麻山口神社の宵宮祭は、このご先祖様に子孫の誕生を報告し、また生まれた子供の穢れをご先祖様にもっていってもらうという行事なのかも?

當麻寺 彼岸花

當麻寺 彼岸花


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2016/09/29 16:34] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

中秋の名月と采女祭 采女神社 『猿沢池の采女伝説のモデルとは?』  

奈良市橋本町 采女神社
采女祭・・・中秋の日
 

小池百合子東京都知事が築地市場移転を延期すると発言したことについて、多くの著名なジャーナリストたちが批判していました。
ところが、移転先の豊洲の土壌汚染対策として東京都は4.5mの盛り土を行うと説明していたのに、実際には盛り土がされていない箇所があることが判明しましたね。
ジャーナリストたちはきちんとした汚染対策がなされているという前提で小池知事を批判していたわけですが、その前提がひっくり返ってしまったわけです。
なぜ盛り土を行わなかったのでしょうね?

●藤原氏の氏寺

奈良興福寺の南に猿沢池があります。
猿沢池は興福寺の放生池として749年に造られた人工池です。

興福寺は藤原氏の氏寺です。
興福寺の東には春日大社がありますが、春日大社は藤原氏の氏神です。
かつて興福寺と春日大社は一体化していました。

●猿沢池に背を向ける采女神社


采女神社2  

采女神社は春日大社の末社で猿沢池のほとりにありますが、鳥居に背を向け、後ろ向きに建っています。
鳥居は猿沢池に面して建てられているので、采女神社の社殿は猿沢池に背を向けていることになります。

采女神社 

 平安時代に成立した『大和物語』に次のように記されています。
『奈良時代、帝の寵愛が衰えたのを嘆いて入水した采女を慰霊するために社を建てましたが、入水した池を見るにしのびないと社は一夜のうちに後ろ向きになりました。』 

中秋の夜、猿沢池ではこの伝説にちなんで采女祭が行われます。 

采女祭2  
●春日大社の神・アメノコヤネとは天智天皇だった?

春日大社ではアメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの四柱の神々をお祀りしています。
アメノコヤネは藤原氏の祖神とされています。

アメノコヤネは漢字で書くと天児屋根命となりますが、私は天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えています。
というのは天智天皇は次のような歌を詠んでいるからです。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


『児』には『小さい』という意味があり、天児屋命とは『小さい屋根の下におわす神』という意味になります。
仮庵のとまの粗い小屋の屋根はそれは小さいことでしょう。 

采女祭
塔百景18

●藤原不比等、天智天皇後胤説


するとアメノコヤネは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになりますが、藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのです。
そうであるなら、アメノコヤネとは天智天皇のことであり、アメノコヤネが藤原氏の祖神だというのは辻褄があいます。

●アメノコヤネの御子神・春日若宮

アメノコヤネとヒメガミは夫婦神で、春日若宮様はこの二神から生まれた御子神とされています。

12月にこの春日若宮様のお祭り、おん祭が行われています。
このおん祭りで12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されます。
雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)といいますが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記されます。

●奈良豆比古神社の『翁舞』

春日大社の北の奈良坂に奈良豆比古神社があり、毎年10月に『翁舞』の奉納があります。 

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 

能に『翁」』という演目がありますが、おそらくこの『翁舞』をルーツとするものでしょう。

●ハンセン病にかかったのは春日王ではなく志貴皇子だった?

奈良豆比古神社のパンフレットには天智天皇の孫で志貴皇子の子である春日王がハンセン病にかかり、春日王の子・浄人王が春日王の病平癒を祈って春日大社で舞を舞ったところ春日王の病が回復したと書いてあります。
『翁舞』とはこの浄人王の舞をルーツにするものだと考えられます。

ところが地元ではハンセン病になったのは春日王ではなく、志貴皇子だと口承されており、翁とは志貴皇子のことだとされているそうです。

『とうとうたらりたらりろ』は春日若宮=志貴皇子のテーマソングだった?

翁は『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱えます。
能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっています。 

おん祭の新楽乱声を思い出して下さい。
それは『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』でした。
翁はおん祭で奏される新楽乱声の唱歌を唱えているのではないでしょうか。
それは春日若宮様のテーマソングだといってもいいでしょう。

そして春日若宮様とはアメノコヤネとヒメガミの皇子でしたね。
私はアメノコヤネとは天智天皇のことだと考えていますが、志貴皇子は天智天皇の皇子なので、これまた辻褄があうんですね。

●猿沢池に身投げした采女の正体とは

すると、ヒメガミとは志貴皇子の母親の越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)となりますが
越道君伊羅都売は采女(天皇の身の回りのお世話をする女官)で、またまた辻褄があいます。
猿沢池に身を投げた采女とはこの越道君伊羅都売のことではないでしょうか。

天智天皇=天児屋命
ヒメガミ=越道君伊羅都売(采女)
春日若宮=志貴皇子


●奈良豆比古神社に勧請されたヒメガミ

大和物語では帝の寵愛が衰えたのを嘆いて采女が猿沢池に身投げしたのは奈良時代の話となっているのでしたね。
天智天皇は飛鳥時代の人物なので時代があわへんやんって?

奈良時代の780年11月21日に、春日大社のヒメガミが奈良豆比古神社に勧請されています。 
これを昔の人々は「帝(アメノコヤネ)の采女(ヒメガミ)に対する寵愛が衰えた」と比喩的に表現したのではないでしょうか。

采女祭3



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村





[2016/09/14 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

一言主神社 秋季大祭 『性別がルーズな日本の神』 

奈良県御所市 一言主神社
秋季大祭・・・9月15日



●一言主神社 秋季大祭
 
一言主神社境内に神様たちが現れました。 

一言主神社 天狗・神職・お多福・翁 
神様たちが境内を練り歩きます。

一言主神社 天狗・神職・翁のお練り 
神職さんが幣を撒き
 
一言主神社 天狗と幣を撒く人 
お多福が鈴を振って参拝者に福を授けてくださいます。

 一言主神社 お多福 
幣を撒く人はお面をつけていないので神様ではないでしょう。
そして境内を練り歩く神様は、天狗、一言主神、お多福とのことです。
ということは、白い髭を生やした翁が一言主神ということですね。

だけど、私はお多福が一言主神じゃないかなあ、と思うのです。
なんでかって?

●容姿を気にする神


役行者は葛木山と金峯山の間に石橋を架けるため、神々に工事をさせたせたという伝説があります。
一言主は自分の顔が醜いのを気にして夜しか働かなかったので、役行者は一言主を縛り付けたというのです。

容姿を気にするあたりが、なんか女性っぽくないですか?

追記1/写真のお多福は男物の衣装を着、烏帽子を被ってていますが、お多福って普通は女ですよね。

一言主神社 天狗・神職・お多福・翁のお練り2

●雄略天皇がナンパしたのは一言主神だった?

また、こんな伝説があります。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました

 

一言主神社では雄略天皇もお祭りしていますよ。

そして雄略天皇は次のような歌を詠んでいます。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの?
大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳です。)

これは先にご紹介した伝説(青文字部分)の、雄略天皇と一言主神の出会いの歌ではないかと私は思うんですね。
つまり、菜を摘む娘は一言主神ではないかということです。

ナンパしてきた雄略天皇に対して、娘はこう答えたのではないでしょうか。

『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』

一言主神社 天狗・神職・お多福・翁のお練り

●薬狩り

一言主神は狩りをしていた。一方娘は菜を摘んでいた。二人は違うことをしているので、同一神ではないのではって?

でも狩りと菜摘みは関係があるんですよ。

狩りは鹿狩り、菜摘みは薬草を摘むことではないかと思います。
鹿狩と薬草摘みはどちらも古には旧暦5月5日に行われる行事で、薬狩りと呼ばれていました。

一言主神も娘も薬狩りをしていたということで共通点があり、同一神であると思うのです。

●性別がルーズな日本の神

だいたい日本の神様って性別がルーズなんですよね~。

大神神社の大物主神は記紀神話では男神でセヤダタラヒメやヤマトトトヒモモソヒメのところに夜這いしていたという神話があります。
ところが謡曲・三輪では三輪明神(大神神社の神)は女神として登場します。
京都・亀岡祭の三輪山の御神体も女神でした。

亀岡祭 三輪山 御神体 

亀岡祭 三輪山 御神体


聖徳太子が親鸞の夢の中に表れて「女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったという話もあります。

日本の神は状況によって男神として現れたり、女神として現れたりするのかもしれませんね。

●一言主神は雄略天皇の和魂だった?(追記2 )

先ほどご紹介した伝説によると、一言主神は雄略天皇と全く同じいでたちをしていたのでしたね。

お多福は女神とされているのに男物の衣装を着ているのは、雄略天皇と全く同じいでたちをしていたという伝説によるものなのかも?

また、同じいでたちをしているということは、一言主神と雄略天皇は同一神であるということなのではないでしょうか?

神はその現れかたで御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)にわけられ、和魂は女神、荒魂は男神とする説があります。

もう一度3柱の神様を見てみると,天狗・翁・お多福は色違いの同じ着物を身に着けています。
烏帽子も同じです。
翁が御霊、天狗が荒魂、お多福が和魂で、天狗・翁・お多福は同一神なのではないでしょうか?

そして伝説に登場する雄略天皇を神としてあらわした姿が天狗なのかも?



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2016/09/13 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

浮見堂より大文字送り火を望む 『天皇(すまらぎ)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光りぞ ここだ照りたる』  

奈良市春日野町  鷺池
大文字送り火・・・8月15日 


浮見堂 夕景 2 

夕暮れの鷺池、浮見堂。

 

浮見堂 夕景 

闇に包まれるころ、奈良の大文字送り火が点火されます。
奈良の大文字送り火は昭和35年8月15日に戦没者慰霊と世界平和を祈って始められました。

奈良大文字送り火


●志貴皇子の葬列の送り火

大文字送り火が点火される山は高円山といい、奈良時代の皇族・志貴皇子の墓があります。

万葉集に笠金村が詠んだ志貴皇子への晩歌があります。

亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手挟み 立ち向ふ
高円山(たかまどやま)に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何(い)かと問へば
玉鉾の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり 吾に語らく
なにしかも もとな唁(と)ふ 聞けば 泣(ね)のみし哭(な)かゆ
語(かたら)へば 心ぞ痛き天皇(すまらぎ)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光りぞ ここだ照りたる

(梓弓を手に持ち、勇士たちが狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かい狩をする高円山。
その高円山に、春野を焼く野火のように火が燃えている
「この火は何か、」と問うと、小雨が降ったかのように涙で真っ白な喪服を濡らしながら道を歩いて来る人が立ち止まって答えた。
「どうしてそんなことをお尋ねになるのですか。
聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛みます。
天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです。」)

この歌をふまえて見ると、大文字送り火が志貴皇子のご葬列の送り火のように見えてきます。


●大文字送り火の由来

高円山に大文字送り火の由来を記した碑があり、次のように記されているそうです。

高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。
また護国神社のご神体の裏に位置する。こういったことから、高円山に大文字送り火を点火することにした。


護国神社は明治維新から第二次世界大戦までの奈良県出身の戦死者29,110柱の英霊を祀る神社で、昭和17年に創祀されました。

春日山岩渕寺は奈良時代に大安寺の僧、勤操(ごんぞう)によって創建されたと伝えられています。
勤操は空海の師匠で、空海は岩渕寺で勤操に弟子入りをしたそうです。

ところがいつのことか、岩渕寺は廃寺となってしまいました。
新薬師寺の十二神将はもとは岩渕寺にあったものだといわれています。
また白毫寺は岩渕寺の一院ではないかともいわれていますが、
白毫寺は志貴皇子の邸宅跡だともされています。

岩渕寺は志貴皇子の霊を弔うための寺だったのはないかと思ったりします。




毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2016/08/15 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

行者祭 洞川温泉 『鬼の子孫が開いた宿坊』  

奈良県吉野郡天川村 川温泉
行者祭・・・8月2日、3日 


役行者にはこんな伝説があります。

役行者は葛木山と金峯山の間に石橋を架ける計画をたて、鬼神に橋を架ける工事をさせました。
一言主神は自分の姿が醜いのを気にして夜しか働かなかったので、役行者は一言主神を縛り付けました。
そこで一言主神は「役行者が謀反を企てている」と偽りを言いつけ、役行者は伊豆へ流刑になりました。
 

祇園祭 宵山 役行者山

↑ 祇園祭・行者山のご神体の役行者(中央)、一言主神(向かって左)、葛木神(向かって右)です。

その後、 役行者は無罪であることがわかり、許されて奈良の大峯山に戻ってきます。
洞川温泉はその大峯山に登山口にあり、行者祭は戻ってきた役行者を村人たちが鬼踊りをして出迎えたようすをあらわしたものだと言われています。 

 
行者祭 ひょっとこ

↑ 腰つきのエロさがたまらない(笑)「ひょっとこ踊り」 

行者祭 浴衣姿の女性たち

日が暮れると行列が始まりました。 

行者祭 獅子舞 天狗 鬼  
獅子舞、天狗、そして鬼たちが大暴れ~!

●後鬼の末裔が開いた宿場町


洞川は古くから大峰講の宿場町でした。( 温泉は近年ボーリングで掘り当てたもの)
役小角は前鬼・後鬼という夫婦の鬼を従えていましたが、洞川は後鬼の末裔によって起こされたと伝えられています。

前鬼・後鬼は生駒山地に住み、人に悪さをしていました。
そこで役行者は彼らの5人の子供のうち末の子を鉄釜に隠し、子供を殺された親の身になってみろ、と訴えました。
前鬼・後鬼は心をいれかえ、役小角の弟子になりました。
前鬼と後鬼の5人の子は下北山村に修行者のための宿坊を開きました。


行者祭 太鼓

●長寿企業・小仲坊

宿坊のうち、4つは明治まで続きました。
残るひとつの宿坊、小仲坊の五鬼助家は今も続いています。

役行者は飛鳥時代末の人ですから、これらの宿坊の創建も飛鳥時代末ということになります。

世界最古の578年創業の金剛組(大阪市天王寺区四天王寺/創業者は聖徳太子)だといわれていますが、小仲坊もたいへんな長寿企業ですね。

行者祭 天狗 獅子舞

●鬼の子孫


61代目の当主は鬼の子孫だということになりますが、もちろん人間です。

鬼とは怨霊のことです。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りによって引き起こされると考えられていました。
小仲坊の当主は、そうした人物の子孫だということなのでしょう。 

前鬼はのちに天狗になったともいわれています。

行者祭 天狗と花火 

ロックスターみたいだな~。 


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2016/08/03 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

二月堂 お水取り 紫木蓮 『生身の観音とは?』 

奈良県奈良市雑司町 東大寺二月堂
修二会・・・3月1日~14日


二月堂 修二会 お松明 
●厨子に閉じ込められた小観音

二月堂の修二会について、次のような伝説があります。

751年、実忠和尚が笠置寺の竜穴を見つけ、中に入って歩いていくと兜率天がありました。
兜率天では菩薩たちが仏前に懺悔する悔過の行法を行っていました。
この様子に感激した実忠はこの行法を人間界でも行いたいと思いました。
しかし菩薩はこういって諦めるよう実忠を諭しました。
「兜率天の1日は人間世界の400年なので、この行法を人間世界で行うと数百年も掛かる。
また生身の観音が必要なんだよ。」と。
それでも実忠は諦めません。
「それなら走ってやるよ!それに心をこめて祈れば生身の観音もきっとあらわれるよ!」
人間世界に戻った実忠和尚は、摂津の難波津で補陀洛山にむかって閼伽折敷(四角い小さな器)を海に流しました。
すると100日目に生身の十一面観音様が折敷にのって難波津へ流れつきました。
その十一面観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かみがありました。
こうして752年2月1日に二月堂で修二会が行われました。


この生身の十一面観音が生身の観音で、二月堂の御本尊の小観音(こがんのん)だということなのでしょう。
二月堂の御本尊はこの小観音のほか、大観音(おおがんのん)もあります。

どちらも絶対秘仏なのでよくわからないのですが、
小観音は7寸ということなので、1寸=約3cmとすると21cmくらいじゃないかと思います。
小観音は扉のない厨子に納められているそうです。
つまり小観音は厨子を壊さない限り厨子の中から出すことはできないということですね。
小観音は扉のない厨子の中に閉じ込められているといってもいいでしょう。

●生身の観音

さてさて『生身の観音』とはどういう観音様のことでしょうか?
『生身(しょうじん)』とは仏教用語です。
諸仏菩薩には法身と生身の二身があり、所証(修行によって得られた悟り。証得した内容。)の理体(本体)を法身、
衆生を済度する為に、父母に胎を託して生じる肉身を生身というそうです。

もし仏教に詳しい方がおられましたら教えていただきたいのですが、『父母に胎を託して生じる肉身』というのは人間のことではないのでしょうか。


二月堂 修二会 お松明2

●菅原道真は生身の観音だった?

かつて北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の門前に『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』と刻まれた石碑がたてられています。
 『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』とはどういう意味なのでしょうか?

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことをいっているのだと思います。
 
本地仏とは本地垂迹説から来る言葉です。
本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものである。」とする考え方のことです。

神のもともとの正体である仏教の神のことを本地、仮にこの世に姿を現した日本の神のことを権現、化身などといいました。
垂迹とは仏教の神が仮の姿となってこの世にあらわれることをいいいます。

『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』とは『菅原道真のもともとの正体である十一面観音をお祀りしています』という意味だと思います。


つまり、東向観音寺の十一面観音は菅原道真だということで、菅原道真は『生身の観音』だといえるのではないかと思います。


●怨霊と生身の観音の関係

えーーっ、菅原道真が『生身の観音』? 菅原道真って怨霊じゃなかったの?

そんな声が聞こえてきそうです。

おっしゃるとおり、菅原道真は怨霊です。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、このような人は死後怨霊となって疫病や天災を引き起こすと考えられていたのです。

道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、失意のまま亡くなりました。
その後、道真左遷に関わった人が相次いで亡くなり、疫病が流行り、清涼殿に落雷が落ちるなどしました。
これらは全て道真の怨霊の仕業だと考えられたのです。

そして怨霊は祀り上げることで守護神に転じるという、何とも都合のいい信仰もありました。

怨霊となった道真が祟ることをやめて守護神となるよう、道真は祀り上げられ神とされたのです。

さらに日本では古くより神仏は習合されて信仰されていました。
そのベースとなった考え方が、さきほどお話しした本地垂迹説です。

菅原道真という神様は十一面観音の生まれ変わりである、昔の人々は考えたわけですね。


●実忠和尚は怨霊の出現を望んだ?

二月堂の本尊・小観音が生身の観音だということは、小観音は菅原道真と同様、人間なのではないかと思えます。
それも幸福な人生を送った人間ではなく、政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人だと思います。
そしてそういう人の怨霊が祟らないように神として祀り上げ、さらには十一面観音の生まれ変わりであると信仰したというわけでしょう。
実忠和尚は心をこめて祈り、怨霊の出現を望んだということでしょうか?

そうして観音になった人物の像を扉のない厨子にとじこめる・・・。
何やらぞっとしてしまいます。

二月堂 裏参道 紫木蓮

うちの近所の木蓮が満開になっていました。
今年は春の花の開花が早くてびっくりです。
二月堂裏参道の紫木蓮も咲いているかも?


 
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。





いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




[2016/03/13 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

宝山寺 般若窟柴燈大護摩供 『生駒山は聖天さんの聖地だった?』 

宝山寺 柴燈護摩供4  

奈良県生駒市 宝山寺
般若窟柴燈大護摩供・・・3月第2日曜日


●聖天さんを祀る山

生駒山は655年に役行者が開いたとされる修行道場です。
1678年、湛海律師によって宝山寺が創建されました。
本尊は不動明王で、鎮守神として聖天さん(大聖歓喜天)を祀っています。
宝山寺が生駒聖天と呼ばれるのはそのためです。


宝山寺 柴燈護摩供3

●聖天さんと道祖神は習合されていた?

聖天さんについては過去に何度も記事にしていますが、改めてまとめておくことにします。

①男女双体の神・大聖歓喜天には次のような伝説があります。

鬼王ビナヤキャの祟りで疫病が流行りました。
そこで十一面観音がビナヤキャ女神に姿を変えて鬼王ビナヤキャの前に現れました。
鬼王ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、妻になれと命じました。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うのならばあなたの妻になりましょう」と言いました。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓ってビナヤキャ女神を妻としました。

聖天さんはビナヤキャ女神がビナヤキャの足をふみつける男女双体のお姿であらわされます。
 ←こちらのサイトの下の方に歓喜天の絵が掲載されています


宝山寺 柴燈護摩供6jpg


②日本の神はその現れ方で、御霊・和魂・荒魂に分けられるといわれています。
御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面

③日本の女神は和魂、男神は荒魂であるとする説があります。
すると神の本質である御霊は男女双体の神なのではないでしょうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体の神
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


④明治まで神仏は習合されて信仰されていました。
日本神道は仏教の影響を受けているのではないでしょうか。
とすると、次のような関係がなりたちます。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体の神・・・大聖歓喜天
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・ビナヤキャ女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・ビナヤキャ

⑤怨霊とは政治的に不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていました。
ところが、怨霊=祟り神は、祀り上げることで守護神に転じるという何とも都合のいい信仰もあったのです。
男神(荒魂)と女神(和魂)を和合させることは、怨霊を鎮魂し、よい神に転じさせるための呪術ではないでしょうか。

⑥男女双体の神といえば道祖神があります。道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神だとされています。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天・・・・・・道祖神
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神・・・・アメノウズメ
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・ビナヤキャ・・・・・・サルタヒコ


宝山寺 柴燈護摩供5   
⑦サルタヒコとアメノウズメには次のような伝説があります。
高天原から葦原中国までを照らすサルタヒコという神が天孫・ニニギを高天原から葦原中国まで道案内しました。
葦原中国についたニニギはアメノウズメに次のように命じました。
「サルタヒコを故郷の伊勢へ送り届け、サルタヒコに仕えて彼の名前をつたえよ。」
のちにサルタヒコはあざかの海で貝に手を挟まれて死にました。

「サルタヒコに仕えて彼の名前をつたえよ。」とは「サルタヒコと結婚してサルタヒコの名前を伝えよ」という意味ではないでしょうか。
また、サルタヒコは貝に手を挟まれて死んでいますが、貝とは女性器の喩えであり、サルタヒコはアメノウズメの性的魅力に溺れて死んだということではないでしょうか。
ちょうどビナヤキャがビナヤキャ女神の性的魅力に溺れて仏になったように。

⑧道祖神は男女の神像が手を握り合う姿のものが多いです。
http://www15.wind.ne.jp/~kurasho/history/history2.html
これはは手を握り合っているのではなく、女神が男神の手を握って押さえつけているの図ではないでしょうか。
歓喜天は女神が男神の足を踏みつけていますが、道祖神は脚のかわりに手を押さえつけているというわけです。

⑨道祖神の中には歓喜天のように女神が男神の足を踏みつけていたり、和合する姿のものもあります。
道祖神は歓喜天と習合されているのではないでしょうか。


宝山寺 柴燈護摩供  


サルタヒコと物部氏の祖神・ニギハヤヒは同一神だった?

⑪サルタヒコは高天原から葦原中国までを照らす神だとされますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。
(高天原は天、葦原中国は国なので)
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とは先代旧事本紀に記された名前で、日本書紀や古事記では単にニギハヤヒとなっています。

⑫ニギハヤヒは初代神武天皇が東征する以前に天の磐船を操って畿内に天下っていたとされます。
ここから初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

⑬天照大神が天岩戸に籠った際、アメノウズメのストリップダンスに興味を持って岩戸から出てきました。
女神のストリップに興味を持つのは男神だ、よって天照大神は男神だとする説があります。
そして天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒが本当の天照大神だとする説があります。

⑭ニニギがアメノウズメに「サルタヒコを故郷の伊勢へ送り届けよ」と命じたことを思いだしてください。
伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮があります。
サルタヒコの故郷が伊勢だということは、サルタヒコが天照大神であったということではないでしょうか。

⑮私は天照大神とはアメノウズメとサルタヒコ=ニギハヤヒの男女双体の神だと思います。
それゆえ、女神として登場したり、ストリップに興味を持つ男神として登場したりするのではないでしょうか。

●生駒山が聖天さんの聖地となった理由


⑯平安時代、生駒山には都史陀山 大聖無動寺という寺があり、空海もここで修行を行ったといわれています。
大聖無動寺という寺名は聖天さん(大聖歓喜天)を思い出させます。
生駒山には古くより聖天さんに対する信仰があったのではないでしょうか。

⑰さきほど、サルタヒコとニギハヤヒは同一神ではないかと書きましたが、ニギハヤヒが天下ったとされる場所は生駒山系の哮峰(いかるがのみね)にある磐船神社付近とされます。
生駒山はニギハヤヒが天下った聖なる山だったのです。

⑱サルタヒコ(ニギハヤヒ)+アメノウズメ=道祖神=大聖歓喜天
というわけで、ニギハヤヒの聖地・生駒山は大聖歓喜天の聖地になったのではないかと思うのですが、どうでしょう?

宝山寺 柴燈護摩供2  



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。




いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2016/03/12 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

橿原神宮 紀元祭 神武天皇陵 『ミサンザイ古墳の語源』 ※追記あり 

奈良県橿原市 橿原神宮
紀元祭・・・2月11日


勅使の行列
橿原神宮 紀元祭-行列 
●ミサンザイの語源はミソサザイだった?

橿原神宮は1890年(明治23年)に明治天皇によって創建された神社で、初代神武天皇をお祭りしています。
橿原神宮は神武天皇の畝傍橿原宮があった場所だと考えられています。
また神社の北側には四条ミサンザイ古墳があって神武天皇陵に比定されています。

神武天皇陵(四条ミサンザイ古墳)

「ミサンザイ古墳」または「ニサンザイ古墳」と呼ばれる古墳は大阪府堺市・藤井寺市・岬町などにもあり「ミササギ」が訛ったものだと考えられています。

橿原神宮 紀元祭 行列2

でも私は「ミソサザイ」という鳥の名前からくる言葉ではないかと考えています。
「ミソサザイ」は古くは「ササキ」といっていました。
「ササキ」に「御(ミ)」をつけると「ミササキ」となります。
この「キ」が濁音に変化したのが、そもそも「ミササギ(陵)」という言葉の由来ではないでしょうか。
そして「ミソサザイ」が訛って陵を「ミサンザイ」「ニサンザイ」と言ったのではないかと思います。

●鳥たちが行ったアメノワカヒコの葬儀


なんで鳥の名前が墓や古墳を意味する言葉になったのかって?

記紀神話にアメノワカヒコという神様の葬儀のようすが記されています。
それによると、カワカリが食べ物を運び、サギはほうきを持ち、カワセミは神饌を用意し、スズメは米をつき、キジは泣き女をつとめたとあるのです。

●ほうきは祓い浄めるための道具だった?

サギがほうきを持っていたので、サギを掃除係だとしているサイトもありましたが、
ほうきは祓い浄めるための神具であって、掃除をするために持っているのではないと思います。

京都では早く帰ってほしい客人があるときは、ほうきを逆さにして立てておくそうです。
これなども、帰ってほしい客人を穢れとみなし、ほうきで祓い浄めるという意味があるのではないかと思ったりします。

追記/同様の習慣は関東にもあるとcarrotさんに教えてもらいました。carrotさん、ありがとう~。

橿原神宮 紀元祭 行列3 

●巨大古墳は鳥の視線を意識してつくられた?


それはさておき、鳥は人の死と関係が深いものであったように思われます。

世界一の敷地面積を誇る仁徳天皇陵は、あまりに大きすぎて地上から見たとき、その形を認識することはできません。

仁徳天皇陵 

↑ 堺市役所21階展望ロビーから見た仁徳天皇陵です。(木が茂っているところ)
全然形がわかりませんね。
地上から見るともっとわかりません。



↑ 空高く飛ぶ鳥にはこんな風に見えるのではないでしょうか。
仁徳天皇陵が前方後円墳であることも容易に確認できるでしょう。

昔の人は死者の魂は鳥になって天に昇ると考えたのではないでしょうか。
死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び去ったという伝説もありますね。

そして鳥の視点を意識して、巨大な前方後円墳は築かれたのではないかと思います。
ナスカの地上絵なども同様でしょう。

銃剣 かっこよかったです。
橿原神宮 紀元祭 銃剣 

●ミソサザイはスクナヒコナ神

鳥の種類はたくさんありますが、ミソサザイはスクナヒコナ神と関係が深い鳥です。
というのは日本書紀によると、スクナヒコナ神はミソサザイの皮をきていた、と記されているからです。
昔の人は死んだ人の魂は鳥になると考えていたのではないかと私は考えています。
スクナヒコナ神は死んだ貴人の魂が神になったものではないでしょうか。
そういうことで、鳥の中でもミソサザイは特別な鳥であったため、陵の名前にも用いられたのではないかと思ったりします。


これは剣舞かな?とてもすばらしい舞でした♪
橿原神宮 紀元祭 剣の舞 

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。





いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




[2016/02/22 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

長谷寺 だだおし 『閻浮壇金(えんぶだごん)とオリハルコン』 

 長谷寺・・・奈良県桜井市初瀬731-1
だだおし・・・2月14日 


日没後、法螺貝の音とともに鬼が登場!
鬼のあとには長さ3mはありそうな大きな松明をかかえた一団が続きます。

長谷寺 ただおし 赤鬼2


●『だだおし』という言葉の意味

『だだおし』とは、閻魔大王が悪人の罪を罰し穢れを祓う杖のことだとか、厄病神を駆逐する『難押し(だおし)』がなまったものだとか、様々な説があります。

長谷寺には次のような伝説があります。

717年、長谷寺の開山・徳道上人が病で仮死状態となり、冥土に行きました。
そのとき、閻魔大王は徳道上人に言いました。
「お前はまだ死んではいけない。もと世界に戻って西国三十三カ所観音霊場を開きなさい。」
徳道上人は閻魔大王の閻浮壇金(えんぶだごん)の黄金印(壇ダ印)をもらってもとの世界に戻りました。
そして修二会結願の日、閻浮壇金の黄金印を参拝者の額に押し当てて『悪魔退散』『無病息災』の加持祈祷をしました。
その時、長谷寺の乾(西北)の方、白山に棲んでいた悪鬼が出没しました。
徳道上人はこの鬼を修二会の法力で追い祓いました。

閻浮壇金宝印が額にあると極楽浄土が保証されると言われています。

『だだおし』では参拝者の額や牛玉札に宝印を押します。
ここから考えて『だだおし』とは閻浮壇金(えんぶだごん)の黄金印である「壇ダ印を押す」からくる言葉なのではないかと思ったりするのですが、どうでしょうか?

長谷寺 ただおし 青鬼 

●観音浄土とアトランティス、閻浮壇金とオリハルコン

長谷寺の舞台から本堂を見ると、礼堂(本尊を安置する場所)の上部は高窓のようになっていて、そこから像高三丈三尺六寸(1018.0cm)の巨大な十一面観音像のお姿を拝することができます。
御本尊の写真撮影は禁止だと思うので写真は撮ってないのですが~

私は長谷寺の舞台から十一面観音を拝むたびに、萩尾 望都さんのSF漫画・『百億の昼と千億の夜』を思い出します。

時ははるか古代、場所はアトランティス。
アトランティスは海神・ポセイドンが支配する国でした。
ポセイドンは長谷寺の観音様のように巨大で、祭の日に高窓から民衆に姿を見せる姿は長谷寺の十一面観音とイメージがだぶります。
(秋田文庫『百億の昼と千億の夜』p38、p48をごらん下さい。)

長谷寺 だだおし 緑鬼

観音浄土は南方海上にあるといいます。
観音様とは東洋における海神・ポセイドンだといえるかもしれません。

海神・ポセイドンが支配する国・アトランティスにはオリハルコンという金属があったとされています。
そして竜宮には閻浮壇金があった・・・・。
竜宮とは日本神道における、海神が住むとされる海の中にある宮のことです。
そして明治まで神道と仏教は習合されていました。
竜宮は神道、観音浄土は仏教の概念ですが、同一視されていたことでしょう。

観音信仰とアトランティス伝説は関係があるかも?ないかも?

 長谷寺 ただおし 赤鬼


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!



いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




[2016/02/16 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

しあわせ回廊 なら瑠璃会 『抹殺された星の神』 

奈良市 奈良公園
なら瑠璃会・・・
http://rurie.jp/

東大寺大仏殿前にある鏡池の噴水をスクリーンにして、色とりどりの花が咲きます。

東大寺鏡池 アートプロジェクション2  

光の中に表れたのは大仏さまかな?

東大寺鏡池 アートプロジェクション

大仏殿の観相窓から大仏さまのお顔が見えます。

大仏殿 万灯供養会

興福寺。
なら瑠璃会 興福寺 
春日大社参道のミラーボーラ―。

なら瑠璃会 春日大社 ミラーボーラ― 

おとぎの国に迷い込んだかのよう。
なら瑠璃会 春日大社 ミラーボーラ―2 

星をちりばめたような冬七夕ロード。

なら瑠璃会 冬七夕

●日本には星の神は一柱しかいない?

 
ということで、今日は星の神についての話をしたいと思います。

ギリシャ神話にはたくさんの星の神が登場しますね。
でも記紀神話には日本の星の神はたった一柱しか登場しません。
天津甕星(あまつみかぼし)またの名をカカセオといいます。

この天津甕星は天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神だといいます。
どうやら日本の星の神は「まつろわぬ民」の神であるようです。

それにしても、なぜ記紀神話には星の神がたった一柱しか登場しないのでしょうか。
これについて、星の神はもともとは大勢いたが、抹殺されたとする説があります。

『上記(うえつふみ)』という歴史書があります。
後世に記された偽書だとされていますが、この中に星の神がたくさん登場します。
トムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などです。
上記が偽書であるとしても、全ての記述が偽りであるとも言い切れず、古にはトムツツ・アカユツツ・イユキツツと呼ばれる星の神が存在していたのでは、と思ってしまいます。

また大阪の住吉大社の神・底筒男命・中筒男命 ・表筒男命はオリオン座の三ツ星を神格化した神ではないかと言われています。
上記に登場する星の神の名はすべて「~ツツ」なっています。
住吉大社の神の名にある「筒(ツツ)」は星の神であることを示しているのではないかというのです。

●大きな石は空から降ってきた星であると考えられていた?

大阪府交野市にある磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは『雲陽誌』という書物の中で星の神であるとして、次のような内容が記されています。

延宝7年、島根県松江市の松崎神社で石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にしたと。

磐船神社 天の磐船

磐船神社 御神体 『天の磐船』


どうも昔の人は大きな石は空から降ってきた星だと考えたようですね。
ニギハヤヒが乗ってきた「天の磐船」は落ちた流星が固まって石になったものだと信仰されたのでしょう。

ニギハヤヒとは物部氏の祖神で、初代神武天皇が日向から東征して機内入りする以前に天の磐船を操って天下っていたと記紀には記述があります。
ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

この物部氏は星を神と崇める民であり、あとからやってきた天皇家が物部氏が崇めていた星の神を抹殺し、日本書紀にたった一柱の星の神のみ記述したのではないかと思ったりします。


なら瑠璃会 春日大社 夜神楽 

春日大社 夜神楽 



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!



いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




[2016/02/14 01:23] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

廣瀬神社 砂かけ祭 『春になって降りてきた山の神』 

奈良県北葛城郡河合町  廣瀬神社
砂かけ祭・・・2月11日 


危険ですので走らないでください!
危険ですので押し合わないでください!
危険ですので下がってください!
危険ですので立ち止まらないでください!

祭や展示会に出かけるとこんな風に連呼されることがあります。
「押し合わないでください」っていうけど、誰も他人を押したりしないで並んで歩いてるんですよ。
閉門間近でガラ空き状態であるにもかかわらず、「危険ですので立ち止まらないでください」って意味わからないし。
事故がおこったら大変だというのはわかりますが、むやみにがなりたてずともほかに方法はないのかな、と思ってしまいます。

廣瀬神社の砂かけ祭はそんなうるさい(すいません)指導などありません。
(結界の中に入って写真を撮らないようにと注意があっただけです。)
というか、走るな、押し合うな、なんて言ってると成立しないお祭りなんです。

太鼓の音が鳴って、田人が牛を牽いて登場。
何度も言っていますが、牛=丑=12月、田人=童子(八卦では童子は艮/丑寅を表す)=1年の変わり目(丑=12月、寅=1月なので)を表すものだと思います。
手向山八幡宮 御田植祭 『御田植祭と追儺式』 
飛鳥座神社 おんだ祭 『おんだ祭はサルタヒコを鎮魂する儀式だった?』 

広瀬神社 砂掛け祭 牛をひく田人  
田人がおもむろにスコップで砂をかけだしました! 参拝者も砂をつかんで田人に投げ返します。
カメラは透明のビニール袋などでくるんでおかないと大変なことになります。
私は使っていなかった古いカメラを持っていきました。
カメラはビニール袋でくるんでいましたが、それでも砂だらけに~。

廣瀬神社 砂掛け祭 田人  

牛役さんも牛の面をとって砂をかけます。
広瀬神社 砂掛け祭 牛役 

一般の参拝者も砂をかけあい、境内は黄色く煙ります。

広瀬神社 砂掛け祭 砂をかけあう人々 
広瀬神社 砂掛け祭 田人2 

●廣瀬神社は水神?

崇神天皇9年(紀元前89年)、広瀬の河合の里長・広瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地となり、橘が生えました。
それが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのが廣瀬神社の始まり
 だと伝わっています。

『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条には 『風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀った』との記述があります。

龍田立野に祀った風神とは龍田大社のことでしょう。
広瀬河曲に祀った大忌神が廣瀬神社だと思います。

社伝によれば廣瀬神社の創祀は紀元前89年としていますが、実際に祀られたのは日本書紀の記述にあるように675年なのではないでしょうか。

廣瀬神社は、佐保川・初瀬川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川等、大和盆地を流れる全ての河川が一点に合流する地に祀られています。
ここから廣瀬神社の神は水神だと考えられ、砂かけ祭で田人がばらまく砂は雨を表現したものだとされています。

でも私はこれとは違う考えを持っています。

●田人の農夫らしからぬ装い

私は廣瀬神社の田人が農夫らしからぬ装いなのが気になりました。
田人は頭にすっぽりと頭巾を被っていましたが、あんな格好で農作業をする人は見たことがありません。

ネットで村下(むらげ/たたら操業の技師長)の衣装を見たことがあるのですが、顔をすっぽりと覆う頭巾を被っていました。
(残念ながら現在は掲載されていません。)
田人の装いは鉱山で働く人の装いなのではないでしょうか?

山の神は春になると里に下りてきて田の神となり、秋の収穫が終わった後は再び山へ帰るといわれています。
廣瀬神社の砂かけ祭に登場する田人とは春になって山から下りてきて田の神となった山の神の姿なのではないでしょうか。

●製鉄穴流し

たたら製鉄では主に砂鉄が用いられ、砂鉄の採取には『鉄穴流し』が用いられたそうです。

砂鉄を多く含む花崗岩などがある山の付近に水路を引き、切り崩した岩石を水路に流します。
さらに洗場から大池、中池、乙池、洗樋と下流に流していきます。
岩石は水路を流れるうちに破砕され、土砂と砂鉄に分離します。
土砂と砂鉄では砂鉄のほうが比重が重いので、池で水を加えてかき混ぜ、土砂と砂鉄を分別したとのこと。
(比重選鉱法)

鉄穴流しを行うと河川下流域に大量の土砂が流出し、下流域の農業灌漑用水に悪影響を与えるというデメリットがありました。
その一方で、土地が増えることによってそこに新たな田畑を作ることができるというメリットもありました。

廣瀬神社の創建説話を思い出してください。
水足池という沼地が一夜で陸地となって橘が生えたのでしたね。
この伝説は製鉄流しで土地が増えたことを表すもので、砂かけ祭は、『鉄穴流し』によって土砂がたまっていく様子を神事にしたものなのではないでしょうか。

さきほど、『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条に『風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀った』との記述があるとお話ししましたが、風はたたら製鉄にかかせないもので、ふいごを用いて風を送り高温で金属を燃しました。
(そもそも「たたら」とは「ふいご」のことです。)

広瀬神社 砂掛け祭 早乙女

最後は早乙女による田植が行われました。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!



いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2016/02/13 13:04] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥座神社 おんだ祭 『おんだ祭はサルタヒコを鎮魂する儀式だった?』 

奈良県明日香村 飛鳥坐神社
おんだ祭・・・2月第1日曜日

●追儺式とおんだ祭


神社の鳥居前では天狗がささらを持って大暴れ~!
参拝者はお尻をささらでぴしりと叩かれます。
私もやられました~。
「,お尻をたたかれると安産になる」なんて言われています。

飛鳥坐神社 おんだ祭 
拝殿に天狗と翁が登場~。
飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 天狗と翁

天狗が牛をひいて田おこしをします。
牛は干支の丑ですね。天狗は八卦の艮(丑寅)の符・・・童子を表しているのでしょう。
童子に見えないって?でも真ん中にいる翁に比べると若いので~。
12か月を干支であらわすと丑は12月、寅は1月なので艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわします。
手向山八幡宮 御田植祭 『御田植祭と追儺式』 
↑ こちらの記事にも書きましたが、おんだ祭(御田植祭)とは目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものではないでしょうか?

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 田おこし 
節分(2月3日)とは立春の前日のことです。
立春は暦法・二十四節気の新年だといえます。
2月第一日曜日に行われている飛鳥坐神社のおんだ祭は節分の行事なのではないかと思います。
手向山八幡宮の御田植式は2月3日ですしね。手向山八幡宮 御田植祭 『御田植祭と追儺式』 
追儺式の鬼は、牛の角を生やし虎皮のパンツをはいています。
つまり鬼とは「丑寅」でやはり目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものだと思います。
おんだ祭で牛をひく天狗(童子)は追儺式の鬼と同じ意味を持つものなのではないでしょうか。

種籾撒き。
これは追儺式の豆まきと同じ意味を持つものだと思います。

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 種籾撒き

これは田植ですね。
松の葉を束ねたものを早苗に見立ててあるのでしょう。

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 早苗 
天狗・翁・牛が早苗を参拝者に撒きます。
飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 早苗をまく

●夫婦和合の呪術
 
お亀が登場しました。
京都の千本釈迦堂や北野天満宮の節分狂言でもおかめが登場します。
節分とおかめは関係が深いようです。

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 天狗とおかめ

♡♡♡~!
飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 
和合水を拭き取った紙は「福の神(拭くの紙)」というありがたーい縁起物です(笑)。
飛鳥坐神社 おんだ祭 福の神 
この狂言は何を意味しているのでしょうか?
私は次のように考えます。

庶民的な顔をしていますが、天狗もおかめも神様です。
天狗は男神、おかめは女神ですね。

神はその現れ方で、御霊・和魂・荒魂に分けられるといわれます。
御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面

そして女神は和魂、男神は荒魂であるとする説があります。
御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(おかめ)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(天狗)


つまり男神である天狗は荒魂、女神であるおかめは和魂ということです。
荒魂は怨霊と同様のものだと考えていいのではないでしょうか。
怨霊とは政治的に不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていました。
その怨霊=荒魂を鎮魂する方法が、夫婦和合なのだと思います。

というのは、仏教の神・大聖歓喜天にこんな話があるのです。

マラケイラレツ王は牛と大根が好物でした。
牛を食べつくしてしまうと死人の肉を、死人の肉を食べつくしてしまうと生きた人の肉を食べました。
人々はこれを憂い、マラケイラレツ王に対して挙兵しました。
するとマラケイラレツ王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
その後鬼王ビナヤキャの祟りで疫病が流行りました。
そこで十一面観音がビナヤキャ女神に姿を変えて鬼王ビナヤキャの前に現れました。
鬼王ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、妻になれと命じました。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うのならばあなたの妻になりましょう」と言いました。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓ってビナヤキャ女神を妻としました。


 ←こちらのサイトに歓喜天の絵が掲載されています。

歓喜天の話のテーマは、荒魂である鬼王・ビナヤキャが和魂であるビナヤキャ女神と和合することで、人々に祟るのをやめ、仏法守護の髪になったということだと思います。

つまり男女和合は怨霊を鎮魂し、よい神に転じさせるための呪術ではないかと思うわけです。

●天狗はサルタヒコ、おかめはアメノウズメだった?

ところで飛鳥坐神社の境内には ↓ こういう陰陽石がたくさんあります。

飛鳥坐神社 むすひの神石 

これは道祖神だといってもいいと思います。
道祖神は男女の神像のほか、このような陰陽石で表されることもあるのです。

男女の神像で表される道祖神は手を握り合う姿のものが多いです。http://www15.wind.ne.jp/~kurasho/history/history2.html
私は手を握り合っているのではなくて女神が男神の手を握って押さえつけているの図だと思っていますが~。
歓喜天は足を踏みつけていますが、道祖神は手、というわけです。
道祖神の中には歓喜天のように女神が男神の足を踏みつけていたり、和合する姿のものもあります。

道祖神は歓喜天と習合されているのではないでしょうか。

道祖神は中国から伝わった神ですが、日本ではサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神だとされます。
サルタヒコは祭の行列などで先導役を担うことが多く、たいてい天狗の姿をしています。

重蔵神社 猿田彦 
↑ 石川県・重蔵神社のサルタヒコ


おかめの面の起源はアメノウズメだとされています。

おんだ祭に登場する天狗はサルタヒコ、おかめはアメノウズメで、
飛鳥坐神社では荒霊であるサルタヒコを鎮めるために夫婦和合の神事を毎年行っているのではないでしょうか?

サルタヒコは天孫ニニギを高天原から葦原中国まで道案内した神で、「高天原から葦原中国までを照らす神」と記紀には記されています。
これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命=ニギハヤヒです。
高天原=天、葦原中国=国なので、天照国照彦とは「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味になります。
ニギハヤヒは初代神武天皇より早く畿内に天下っていたと記述があり、ここから神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。
ニギハヤヒ(=サルタヒコ)は神武との政権争いに負けた神であり、怨霊であったといえるでしょう。


いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2016/02/11 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

手向山八幡宮 御田植祭 『御田植祭と追儺式』 

奈良市雑司町 手向山八幡宮
御田植祭・・・2月3日

 
手向山八幡宮は東大寺の鎮守で三月堂の南にあります。
節分の日、手向山八幡宮では御田植式を行っています。

田向山八幡宮 御田植祭5  
舞殿に田主が登場して鍬で田おこしをします。

田向山八幡宮 御田植祭4 
田主は翁面をつけていました。
田主は丑役の子供をひきつれてさらに田を耕します。

田向山八幡宮 御田植祭 

↑ これは何なのか、ちょっとわかりません。わかる方、教えてくださいー。

田向山八幡宮 御田植祭2

翁が種籾を撒きました。

●御田植祭は節分の行事だった?

奈良では各地の神社で御田植祭が行われています。

手向け山八幡宮の御田植祭は2月3日。
大和神社のお田植祭は2月10日。
廣瀬神社の砂掛け祭は2月11日。 (牛が鋤を引き回し、早乙女が田植えをするのでお田植祭だといえるでしょう。)
飛鳥坐神社のおんだ祭は2月の第1日曜日。
鏡作神社のお田植祭は2月21日に近い日曜日。
葛木倭文坐天羽雷命神社のは4月15日です。

こうしてみると、奈良のお田植祭は2月に行われることが多いですね。
でも実際に奈良で田植が行われるのは6月ごろです。
京都の伏見稲荷大社の田植祭は6月10日です。

それなのになぜ2月に御田植祭が行われているのでしょうか?
それはもしかして、御田植祭が 節分の行事だからではないでしょうか?

私がそう考えたのは、御田植祭の神事が節分の追儺式にとてもよく似ていると思ったからです。

●丑役の子供=鬼?

追儺式に登場する鬼は牛の角を生やし、虎のパンツを履いていますね。
牛は干支の丑を、虎は干支の寅をあらわしているとする説があり、私はこの説を支持しています。

12か月を干支であらわすと、丑は12月、寅は1月です。
牛の角を生やし、虎のパンツを履いている鬼は干支の丑寅、すなわち1年の変わり目をあらわしているのだと思います。

節分とは二十四節気の立春の前日のことです。
立春は二十四節気における正月なので
節分は二十四節気の大晦日ということになります。

追儺式とは鬼=1年の変わり目を追払うことで、目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものなのではないでしょうか。

平安時代の延喜式には『大寒の日に宮中の12の門に12組の童子が土牛を引くのを象った人形を立てる。これを立春の日の前夜(節分の夜)に撤去する』とあります。

ここに童子の像について記されていますが、八卦では童子は丑寅を表します。
つまり、牛は丑で12月、童子は艮(丑寅)で1年の変わり目を現すものだと考えられます。

門に土牛を引く童子を象った人形を立てるのは、この人形に冬の気を吸い込ませるためだと思います。
そして、人形が十分に冬の気を吸ったところで撤去するのだと考えられます。

手向山八幡宮のお田植祭では子供が牛の面を被っています。
牛は12月、子供(童子)は1年の変わり目を表しているのではないでしょうか。

また八瀬童子は鬼の子孫を称していますが、彼らは比叡山延暦寺に隷属する民で、大人になっても結髪しない童形であったため八瀬童子とよばれたとのことです。
ここから童子=鬼であると考えられます。

 
石清水八幡宮 鬼やらい神事 
石清水八幡宮 追儺式
鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいています。牛=丑(12月)、虎=寅(1月)で1年の変わり目を表している?

田向山八幡宮 御田植祭4
手向山八幡宮 御田植式
牛=丑(12月)、童子=艮/丑寅(1年の変わり目をあらわす)?

●追儺式は陰、それを陽に転じさせたのがお田植祭?


また追儺式では鬼に豆をぶつけて鬼を退散させますが

石清水八幡宮 鬼やらい神事
石清水八幡宮 追儺式

御田植祭では種籾を撒いて発芽させます。

田向山八幡宮 御田植祭3
手向山八幡宮 御田植式

追儺式の豆まきと御田植祭の種籾撒きもとてもよく似ていますね。

追儺式と同様、御田植祭もまた節分の行事だったのではないでしょうか?



いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


 
[2016/02/09 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

若草山山焼き2016 『野槌は蛭(ひる)の妖怪だった?』 

奈良市 若草山
2016年 1月23日撮影(合成)


アングルを探してあちこちをウロウロするのが好きです。
今回は大仏殿を入れて若草山山焼きを撮れるスポットを探してウロウロ。
あった、あった!ありましたー!

でも山焼きの直前から雨が降りだし、山焼きの火は全然燃え広がりませんでした~(涙)。
仕方ないので燃えている風に加工してみました。(汗)
 
若草山山焼き5  
●野槌は蛭の妖怪だった?

先日、友人に妖怪野槌のことを話しました。
「妖怪野槌って頭のてっぺんに口があるだけで、目も鼻もないねんて。」
「へ~、蛭(ひる)みたいやん。」
「え?今なんて?」
「蛭みたいやんって。」
「えーっ!野槌が蛭!!」

家に帰るとすぐネットで蛭について調べてみました。
蛭って見たことなかったんですよ~。

ウィキペディア「ヒル」のページには次のように記されています。
口周辺と肛門の下側が吸盤になっており、捕食活動にも運動にもこれを用いる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB_(%E5%8B%95%E7%89%A9)#.E5.BD.A2.E6.85.8B より引用)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%93%E3%83%AB#/media/File:Yamabiru.jpg
↑ ウィキペディア「ヤマビル」のページに掲載されている写真です。ヤマビルが人の血を吸っているところです。
どちらが口でどちらが肛門なのかわかりませんが、体の両端が吸盤になっていますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%93%E3%83%AB#/media/File:Haemadipsa_zeylanica_japonica_in_Mount_Hanabusa_s2.JPG
↑ 
こちらもウィキペディアから。

ウィキペディア「ヒル」のページには次のようにも記されています。
外見的には感覚器は見えないが、体前方の背面に眼点(光の強弱を感じるセンサーで、電子顕微鏡で見える表面が凹んだ器官)があるものが多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB_(%E5%8B%95%E7%89%A9)#.E5.BD.A2.E6.85.8Bより引用)
つまりヒルには眼点と呼ばれる目のような機関があるにはあるのですが、電子顕微鏡で見てやっとわかるくらいの小さなものだということです。

確かに友人が言うとおり「頭のてっぺんに口があるだけで目も鼻もない妖怪・野槌」は蛭ににています。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%A7%8C#/media/File:SekienNodzuchi.jpg
↑ こちらは鳥山石燕が描いた妖怪・野槌です。やはり蛭によく似ていますね。
妖怪・野槌とは蛭の妖怪なのではないでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%A7%8C#/media/File:Harumachi_Noduchi.jpg

恋川春町が描いた野槌です。
もともと野槌とは鳥山石燕が描いたような妖怪であったのが、擬人化されて、このような姿になったのかも?


●草野姫(野槌)と蛭子はどちらも蛭の神だった?

今は禁止している自治体も多いですが、かつて野焼きという習慣がありました。
若草山山焼きは野焼きのひとつです。

野焼きをする目的は2つあります。
ひとつは若草の肥料とするため、もうひとつは害虫を焼き払うことでした。

以前の記事、若草山山焼き 『妖怪野槌の正体とは?』  の中で、私は次のように述べました。

①山焼きが行われる若草山の山麓に野上神社と石荒神社がある。
②野上神社・石荒神社は春日大社の境外社で、野上神社は草野姫(かやのひめ)を、石荒神社は火産霊(ほむすび)神をお祭りしている。
草の神様と火の神様の組み合わせは、若草山の山焼きをイメージさせる。
野上神社と石荒神社は山焼きに関係する神社なのではないか。
③野上神社の御祭神・草野姫はイザナギ・イザナミの間に生まれた神で、別名を野槌という。
④同名の妖怪・野槌は頭のてっぺんに口があるだけで、目も鼻もない。
⑤野槌には口しかないので耳もなかったと考えられる。
⑥春日大社境内にある榎本神社の神は耳が悪いとされ、柱をこぶしで叩いて参拝する。
⑦蛭子神は耳が悪いので神殿の後ろを叩いてお参りする。。
⑧野槌と榎本明神と蛭子神は同一神ではないか。(3神とも耳が悪い)
草野姫(野槌)=榎本明神=蛭子神


蛭子は「えびす」とも「ひるこ」とも読まれます。
蛭子という神名は、蛭子が3歳にたっても立つことができず、蛭(ひる)のように骨のない体であったというところからきます。
そしてどうやら野槌とは蛭の妖怪であるらしいことを私たちは見てきました。

草野姫の別名を野槌というのは、草野姫が野焼きによって焼き払われる蛭の神であるからでしょう。
蛭子と草野姫はどちらも蛭の神だと考えられます。
草野姫(野槌)=蛭子(2神とも蛭の神である)

このことは「⑧野槌と榎本明神と蛭子神は同一神ではないか。(3神とも耳が悪い)/草野姫(野槌)=榎本明神=蛭子神」
のうち半分だけ裏付けることになると思います。


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2016/01/25 18:10] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

若草山山焼き 『妖怪野槌の正体とは?』 

奈良市 若草山
若草山山焼き・・・平成28年1月23日 http://narashikanko.or.jp/yamayaki/

若草山山焼き4 

塔百景72 
 
かなり以前にフィルムで撮影したものです。
このときは火がよく燃えたのでよかったですが、全然火が燃えずに煙ばかりがもうもうとたつ年もあるんですよ。
そうなると、とてもじゃないけど人にお見せできるような写真にはなりません~。
今年の山焼きはどうかな、とこの時期はいつも心がソワソワしてしまいますー。

若草山の手前に写っているのは薬師寺の東塔・西塔・金堂です。
写真向かって右の東塔は天平時代に建てられたものですが、現在解体修理中です。
修理完成は平成31年春の予定だそうです。


●野上神社と石荒神社

山焼きが行われる若草山の山麓に野上神社と石荒神社があります。
以前、写真を撮ろうと思って野上神社・石荒神社に行ってみたことがあるのですが、残念ながら修理中でした。
今度行ったときには写真を撮ってこようと思います。(すいません!)

野上神社・石荒神社は春日大社の境外社で、野上神社は草野姫(かやのひめ)を、石荒神社は火産霊(ほむすび)神をお祭りしています。
草の神様と火の神様がペアになっているわけです。
草の神様と火の神様の組み合わせは、若草山の山焼きをイメージさせます。
野上神社では若草山山焼きの祭典が行われますし、野上神社と石荒神社は山焼きに関係する神社なのではないでしょうか?

●野槌、榎本明神、蛭子神は同一神?

野上神社の御祭神・草野姫はイザナギ・イザナミの間に生まれた神で、別名を野槌ともいいます。
野槌とは『野つ霊』、すなわち『野の精霊』という意味で、同名の妖怪が存在しています。
妖怪・野槌は頭のてっぺんに口があるだけで、目も鼻もないとされます。
柄のない槌のような姿なので野槌と言われているのだとか。

私は草野姫=野槌とは春日神社境内にある榎本神社の神(榎本明神)や蛭子神と同一神ではないかと考えています。
その理由を説明しますね。

①野槌には口しかなかった、ということは耳もなかったということである。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Harumachi_Noduchi.jpg
↑ 上記は恋皮春町が描いた野槌だが、目・鼻のほか耳もない。
春日大社境内にある榎本神社の神は耳が悪いとされ、柱をこぶしで叩いて参拝するしきたりになっている。

野槌=榎本明神(どちらも耳が悪い)

榎本神社 
榎本神社

②京都恵美須神社や今宮戎神社では、蛭子神は耳が悪いので神殿の後ろを叩いてお参りする習慣がある。

野槌=榎本明神=蛭子神(三神とも耳が悪い)

③鎌倉時代の『沙石集』に『徳のない僧侶は野槌に生まれかわる。口だけが達者で智慧の眼も信の手も戒めの足もなかったためとある。
一方、恋皮春町が描いた野槌には手足がある。(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Harumachi_Noduchi.jpg


現在、蛭子神は商売繁盛の神として信仰されているが、蛭子神が商売繁盛の神様になったのは、えべっさんは足が悪くて歩けなかったため「お足がでない」」の語呂合わせからとされる。
『沙石集』に「手も足もない」とあるが、これは本当に手足がないのではなく、手足が不自由だという意味ではないか。
野槌=蛭子神(どちらも足が不自由である)

長田神社 蛭子と大黒 
↑長田神社の蛭子神(向かって左)と大黒天(むかって右)

草野姫(野槌)はイザナギ・イザナミの子だが、蛭子神もイザナギ・イザナミの子なので、草野姫(野槌)と蛭子神が同一神であると考えても辻褄があう。

●蛭子神とは物部守屋だった?

さらに、今宮戎神社 十日戎 宵宮祭『えべっさんの正体②』 に書いたように、えべっさんとは物部守屋のことではないかと私は考えています。

そう考える理由は次のようなものです。

①587年、蘇我馬子・聖徳太子(崇仏派)物部守屋(廃仏派)の戦争があり、守屋は榎木に上って指揮をとっているところを弓で射られて死んだ。
榎本明神とは物部守屋のことではないか。
とすると、榎本明神=えべっさんだと考えられるので(どちらも耳が悪い)えべっさんは物部守屋だということになる。

②587年の戦争で、物部守屋は榎木の上にいるところを射られて死んだ。
一方、聖徳太子は弓で射られたとき椋の木の中に隠れて難を逃れている。
物部守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられているのではないか。
聖徳太子は1度に10人の言うことを聞き分けられるほど耳がよかったとされる。
物部守屋と聖徳太子が陰陽に描き分けられているとすれば、守屋は耳が悪かったということになる。

草野姫(野槌)=榎本明神=えべっさん=物部守屋

●タケミカヅチ、榎本明神を騙す。

榎本神社には次のような伝説が伝わっています。

タケミカヅチ(春日大社の御祭神の一)は春日野の地主の榎本の神に『この土地を三尺(約一米)譲って貰えないか』と頼んだ。
榎本の神は『三尺位なら』とこれを承諾しました。
ところがタケミカヅチは広大な土地に神社を建て始めました。
榎本の神が抗議すると、タケミカヅチは『私は、地下三尺と言ったのですが、耳の遠いあなたには聞えなかったのでしょうか。』と言いました。
しかし住むところがないと困るだろうと、タケミカヅチは小さな社を作って榎本の神を住まわせました。


春日大社は藤原氏の氏神ですが、もともとこの土地は藤原氏の土地ではなく榎本明神の土地であったようです。
榎本明神が物部守屋のことだとすると、春日大社の土地はもともとは物部守屋の土地だったということになります。
土地を奪われた物部守屋は死後怨霊になったと藤原氏は畏れたことでしょう。

そこで年に1度山焼きをして、草野姫(野槌)=榎本明神=えべっさん=物部守屋の霊を、火の神・石荒神社の火産霊(ほむすび)神の火によって焼き払うという神事を行っているのではないでしょうか。

●女神は和魂、男神は荒魂

草野姫は女神ですが、物部守屋は男です。
それなのになぜ草野姫と物部守屋が同一神なのだ、と言われるかもしれませんね。

どうも日本では神様の性別にルーズなようで、聖徳太子が「女性に生まれ変わって親鸞の妻になりましょう」と夢告をしたという話もあります。

神はその表れ方で御霊(神の本質)和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)に分けられるとされます。
そして女神は和魂を、男神は荒魂を表しているとする説があります。

草野姫は物部守屋の和霊であると考えると辻褄があうと思います。



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




[2016/01/22 09:40] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大和(おおやまと)神社 御弓始祭 『市磯長尾市はなぜ倭大国魂神の祟りを鎮めることができたのか』 

奈良県天理市 大和神社
御弓始祭 1月4日

大和神社 

『日本書紀』に次のような記述があります。

崇神天皇3年、崇神天皇は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に遷都しました。
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死にました。
また人民の中には背くものがありました。
そのため天皇は天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)と一緒に生活するのが恐くなり、崇神天皇6年、天照大神と倭大国魂神を宮中の外で祀らせることにしました。
天照大神は豊鍬入姫命に託し、笠縫邑で祀らせました。
倭大国魂神は渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせました。
渟名城入媛命は髪が抜け落ち体がやせ細って倭大国魂神を祀ることができませんでした。
崇神天皇7年、崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り、次のように託宣しました。
「いま疫病が流行っているのは私の祟りである。 
私の子・大田田根子に私を祀せ、市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祭らせればる神主とすれば、疫病の流行はおさまるだろう。」
託宣のとおりにしたところ、疫病はおさまりました。

渟名城入媛命が倭大国魂神を祀ったのが大和神社で、当初は現在の桜井市穴師・箸中の付近、または現在の長岳寺付近にあったと考えられています。
その後、奈良県天理市新泉町星山の現在地に移りました。

大和神社 弓始め2

今日は「渟名城入媛命が祀ることができなかった倭大国魂神を、なぜ市磯長尾市が祀り祟りを鎮めることができたのか」について考えてみたいと思います。

初代神武天皇・10代崇神天皇・15代応神天皇は同一人物ではないかとする説があります。
その理由は次のようなものです。

①初代神武天皇と10代崇神天皇の和風諡号がどちらも「ハツクニシラス」である。
②神武天皇の東征ルートと、応神天皇の機内入り(応神天皇の母・神功皇后は三韓出兵ののち九州で応神天皇を産み、機内へ戻った。)ルートが重なる。
③諡号に『神』の文字があるのは神武・崇神・応神だけだが、3人が同じ『神』の文字を用いた諡号を持っているのは、3人が同一人物であることを表しているのではないか。
④初代神武天皇が即位したのは紀元前660年とされるが、これは弥生時代初期にあたり、この時期に大和朝廷が成立したとはとても考えられず、実在が疑問視されている。
神武天皇は大和朝廷の歴史を古く偽るために創作された人物ではないか。
ひとりの人物を神武・崇神・応神の3人にして歴史を古く偽ったのではないか。


神武天皇はもともと日向に住んでいたのですが、あまりに国の端であるというので、東征して機内入りしました。
そこではナガスネヒコという人物が待ち構えており、神武とナガスネヒコは激しく戦いました。
神武の兄が腕を負傷するなどしたため、神武はいったん退き、迂回して南から機内入りすることにしました。
そして再び、ナガスネヒコとの決戦を迎えます。
そのとき、なんとナガスネヒコが神と奉じていたニギハヤヒがナガスネヒコを殺し、神武は王として即位することになるのです。

ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、機内には物部王朝があったという説があります。

10代崇神天皇は和風諡号をミマキイリビコイニエ、11代垂仁天皇はイクメイリビコイサチといいます。
どちらの諡号にも「イリ」とあるところから「イリ王朝」と呼ばれることがありますが、この「イリ」とは「入り婿」のことではないかとする説があります。

崇神天皇=神武天皇はもともと機内にあった物部王朝の入り婿になることで政権を掌握したのではないでしょうか。

崇神天皇は天照大神と倭大国魂神と一緒に生活するのが怖くなったとありますが、家の中にご先祖様を祀る仏壇が置いてあっても怖いと感じる人は少ないのではないでしょうか。
むしろご先祖様の霊を守護神のように感じる人の方が多いと思います。

私は天照大神と倭大国魂神は物部王朝の神ではないかと思います。
そして崇神天皇は物部王朝の入り婿となることで物部王朝をのっとったため、心の中にやましく感じる気持ちがあり、そのため二神と生活するのが怖くなったのではないでしょうか。

大和神社 弓始め3

天皇家の祖神は天照大神とされますが、崇神=神武が天照大神と結婚して物部王朝に入り婿に入ったのであれば、天皇家は天照大神の子孫を称しても間違いではありません。

日本では先祖の例は子孫が祭祀するべきとされています。
天照大神は崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命が祀っていますが、渟名城入媛命のように痩せ細ったり髪が抜け落ちるというような祟りはなかったようです。
それは豊鍬入姫命の母親が物部王朝の女性・天照大神で血のつながりがあったからではないでしょうか。

ところが、崇神天皇のもうひとりの皇女・渟名城入媛命は倭大国魂神を祀ることができませんでした。
渟名城入媛命の母親も物部王朝の天照大神であったかもしれませんが、倭大国魂神(物部王朝の男性。叔父?)とは血のつながりがなかったため、祀ることができなかったのではないでしょうか。

倭大国魂神を祀ることに成功した市磯長尾市は倭直(やまとのあたい)の先祖です。
倭直は椎根津彦の子孫ともされますが、椎根津彦は猿田彦と同一神ではないかと思います。
というのは猿田彦は天孫・ニニギを高天原から葦原中国まで道案内した神ですが
椎根津彦は神武天皇の東征において船路の先導者を務めているからです。

猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」であると記紀に記述があります。
そして物部氏の祖神ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命となっています。
天とは高天原、国とは葦原中國のことなので、天照国照彦とは「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味となり、
猿田彦とニギハヤヒは同一神で、市磯長尾市は物部氏の人物だと考えられます。

そのため物部氏の神と考えられる倭大国魂神とは血のつながりがあり、倭大国魂神を祀り、その祟りを鎮めることができたということではないでしょうか。

大和神社 弓始め4 


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




 

[2016/01/06 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

談山神社 献燈祭 『摩多羅神と翁の関係』 


談山神社・献燈祭(8月14日)

午後5時半ごろ、談山神社へ行くと拝殿から楽の音が聴こえてきました。

談山神社 楽人

小学生くらいの子供さんたちが灯篭に火をいれていました。
近所に住んでおられる子供さんたちでしょうか?

談山神社 献燈祭 

観光客は4~5名程度で、境内はとても静かでした。

談山神社 献燈祭2
塔百景55

 
談山神社という名前は明治の神仏分離令以降につけられたものです。
それ以前には妙楽寺というお寺で、神仏を習合してお祭りしていました。

妙楽寺の常行堂(現・談山神社権殿)では毎年正月の修正会で僧侶による「六十六番猿楽」が行われていたそうです。
神社となってから能は行われなくなりましたが、談山神社にはたくさんの能面が保管されています。
その中に摩陀羅神面というのがあります。

摩陀羅神って京都太秦の広隆寺で行われている牛祭に登場する神様じゃないですか~。
(もともとは大酒神社のお祭りでしたが、現在では広隆寺が行っています。)
もっとも最近は牛祭は行われない年が多いので、観たことはないのですが~。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ushimatsuri.jpg(都年中行事画帖 1928年)

10月10日、午後8時ごろ、赤鬼、青鬼に先導された摩多羅神が牛に乗って登場します。
境内を練り歩いたのち、祭壇に上り赤鬼青鬼とともに長々と祭文を読み上げると、見物人が野次を飛ばすそうです。
見物人の行儀が悪くて野次を飛ばすのではなく、祭の筋書がそうなっているのです。
野次られた摩多羅神は祭壇から薬師堂の中に駆け込むと祭は終了します。

なんだかわけのわからないお祭りですね。
摩陀羅神という神様もどのような神様なのか、よくわかってていないそうです。

談山神社の摩陀羅神面は箱に『摩陀羅神面箱』と記されているのですが、箱の中に入っているお面は翁面です。

奈良豆比古神社 翁舞 

↑ 上の写真は奈良の奈良豆比古神社で10月8日に奉納されている翁舞です。
3人の翁が身に着けている面が翁の面です。

「能にして能にあらず(能というよりは神事であるという意味)といわれる能・翁に用いられるのもこの面です。
なんで摩陀羅神が翁面なの?
調べてみました。

摩陀羅神は平安時代の天台座主・円仁(794年 - 864年)が唐より持ち帰ったと伝えられます。
天台宗の寺院には常行堂(常行三昧堂)といって、常行三昧の行(90日間、阿弥陀如来の周囲を念仏を唱えながら歩く行)を修するためのお堂が建てられていました。
摩陀羅神はその常行堂の「後戸の神」とされています。

妙楽寺(談山神社)は天台宗のお寺だったので、常行堂があり、その後戸の神として摩陀羅神を祀っていたのではないでしょうか。
そのため常行堂に摩陀羅神の面があったのでしょう。

摩多羅神は「宿神」あるいは「後戸の神」とも呼ばれています。
宿とは夙ともしるし、寺社に隷属していた非民のことです。
宿神とはそうした非人の神という意味でしょうか。
翁舞が行われている奈良坂にはかつて非人が住んでいました。
翁は宿神であったといえるでしょう。

金春禅竹の『明宿集』には,摩多羅神は猿楽者の芸能神(宿神)と記されています。
奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰されていましたので、芸能神ともいえますね。

芸能とは現在では娯楽ですが、古には神事であり、呪術でした。
そして神事であり呪術でもあった芸能は、非人によって行われていました。

非人という言葉が史料に初めて登場するのは842年で、橘逸勢が謀反を企てたとして姓・官位をはく奪され天皇より非人の姓を賜ったとされます。
その子孫もまた姓は非人だったと思うので、非人とは謀反人の子孫なのではないかと思います。
日本では古来、先祖の霊はその子孫が祀るべきとする考え方がありました。
非人たちが行う芸能とは、謀反人として処罰された先祖の霊を慰霊するものではないでしょうか。

摩陀羅神は「後戸の神」とも呼ばれます。
後戸の神とは須弥壇の背後に祀られた神のことで東大寺法華堂の執金剛神,二月堂の小観音などが「後戸の神」とされます。
法華堂の執金剛神は法華堂御本尊・不空羂索観音の後方にある厨子の中に、二月堂の小観音は大観音の前に置かれた厨子の中に安置されています。
天台宗の寺院の常行堂の後戸には摩多羅神が祀られることが多いそうです。

「後戸の神」がどのような性質を持つ神なのか、今のところ、私にはよくわかりません。


円仁が持ち帰った摩多羅神が日本では宿神(=後ろ戸の神=翁)になったとする説、もともと日本には宿神があり、平安時代に日本に伝えられた摩多羅神という神と習合されたとする説があります。

私はたぶん後者ではないかと思います。
というのは後戸の神とされる二月堂の小観音は修二会が始められた752年にはあったと思われるからです。

またいろいろ調べてみてわかったことや、閃いたことがあればまた記事にしたいと思います。

談山神社 献燈祭3


↑ この写真を撮ったあと拝殿の写真を撮ろうと思ったのですが、消灯されてしまいました。
時計を見ると午後7時半でした。
来年、見に行かれるかたはお早目にお出かけください~。



いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


[2015/08/14 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

霊山寺 薔薇会式・えと祭 『鼻高仙人の正体とは』 

5月第3日曜日(2015年は5月17日)、霊山寺で薔薇会式・えと祭が行われます。
詳しくはこちらをご覧ください。→http://www.ryosenji.jp/schedule_11.html

このころ、霊山寺・薔薇園の薔薇が見頃となります。
その薔薇をご本尊の薬師如来にお供えする法会がご本尊薬師如来と八体仏にバラの花をお供えし、境内を干支の面を被った人が練り歩きます。

霊山寺 えと祭り


写真は去年撮影したものです。
兎の面は奈良時代の女性の髪型・双髻(そうけい)髷を長くして耳のように見せていますね。

↓ こちらは大阪歴史博物館で撮影したものです。
女官の人形が双髻を結っています。

大阪歴史博物館 女官 

霊山寺には次のような伝説があります。

小野妹子の子の小野富人は壬申の乱に関与したため、672年に右大臣を辞して、登美山に住みました。
684年、富人は熊野本宮大社に参篭しました。
そのとき、薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)が夢枕にあらわれて『薬湯を作り、病人をたすけよ』と告げました。
そこで富人は登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬湯を設けました。
人々は富人を登美仙人または鼻高仙人(びこうせんにん)と呼びました。

728年、流星が宮中に落下するという事件がおき、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)がノイローゼになりました。
このとき、安倍内親王の父・聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、「湯屋の薬師如来に祈れば治る」とお告げがありました。
聖武天皇は行基に登美山を参拝するよう、命じました。
するとたちまち阿倍内親王の病は回復しました。
734年、聖武天皇は行基に命じて大堂を造らせ、736年にインドバラモン僧の菩提僊那が寺名を霊山寺と名づけました。


壬申の乱は672年に勃発した内乱です。
天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が皇位継承をめぐって争い、大海人皇子が勝利して即位しました。
敗れた大友皇子は自害しました。

小野富人はこれに関与して右大臣を辞した、とあるので大友皇子側についたということなのでしょう。
ところが、歴代右大臣のリストの中には小野富人の名前がありません。
壬申の乱が起こったとき右大臣だったのは中臣金です。

伝説では小野富人は小野妹子の子であるとしています。
しかしウィキペディアで小野妹子を調べても、子として毛人・広人の名前はあがっていますが、富人の名前はありません。

672年、本当の右大臣だった中臣 金(なかとみ の かね/?- 672年)は中臣鎌足の従妹です。
大化の改新で功績をあげた鎌足の死後、中臣金が急速に出世して、671年に右大臣となりました。
672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では中臣金は大友皇子側について戦っています。
しかし大友皇子側が敗れ、金は捕えられて処刑、金の子孫は流罪となりました。

この中臣金が天智天皇の勅をうけて天智天皇御宇8年(669年?)に建立したと伝わる神社が滋賀県大津市大石中の佐久奈度神社です。

この佐久奈度神社の宝物に伊勢神宮より賜った神剣と鼻高面があります。
(参照→ http://sakunado.jp/yuisyo.html
古より伊勢神宮を参拝する前に佐久奈度で禊ぎをする習慣があり、このような関係から伊勢神宮より賜ったものだとされます。

鼻高面は赤い顔をした天狗の面です。

霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とありました。
しかし672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金でした。
さらに中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面があります。

鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物なのではないでしょうか?

中臣金は672年に死亡していますが、小野富人はこの年から登美山に住んでいます。
登美山に住んだ小野富人とは、死んだ中臣金の霊なのかも?

「小野富人が薬湯を作った」とは「小野富人の霊が薬湯を作った」という意味だと思います。

今でも、たとえば家を建てたとして、実際に家を建てる資金を調達したのは自分自身であるにもかかわらず、「死んだ父のおかげで家を建てることができた」などと言ったりしますね。


霊山寺・・・奈良県奈良市中町3879
 
いつも応援ありがとうございます♪



にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村




[2015/05/17 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

當麻寺 當麻のお練り 『中将姫は藤原豊成の和魂だった?』 


當麻 練り供養 
毎年5月14日、當麻寺では「二十五菩薩練り供養」を行っています。
「二十五菩薩練り供養」は「當麻のお練り」と呼ばれて親しまれています。

「境内の西にある本堂(曼荼羅堂)から、境内の東にある娑婆堂まで来迎橋がかけられ、その上を二十五菩薩がゆっくりと練り歩いていきます。

當麻のお練り2

「當麻のお練り」は當麻寺に伝わる中将姫伝説を再現したものです。

中将姫伝説とは次のようなものです。

藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前(品沢親王の娘)には長い間子供ができませんでしたが、長谷寺の観音様に祈願したところ、中将姫を授かりました。
紫の前はまだ幼い中将姫を残して亡くなり、藤原豊成は照夜の前を後妻にしました。
照夜の前はことあるごとに中将姫を継子いじめしていまし
た。
760年、豊成が諸国巡視の旅に出かけた際、照夜の前は従者に中将姫を殺すようにと命じました。
しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにしました。
中将姫は雲雀山に草庵を結び念仏三昧の生活をおくっていましたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻りました。
中将姫は淳仁天皇より後宮へ入るよう望まれましたが、これを断り、出家して當麻寺に入りました。
26歳のとき、長谷観音のお告げにより當麻曼荼羅を織りあげました。
29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かいました。


伝説では中将姫の父親の藤原豊成は藤原不比等の曾孫となっていますが、実際は不比等の孫です。
そして、中将姫の母親の紫の前は品沢親王の娘、照夜は橘諸房の娘だとしていますが、ネットを検索してみても品沢親王や橘諸房という人物は中将姫伝説以外にはでてきません。
品沢親王や橘諸房、その娘とされる紫の前、照夜などは想像上の人物なのかも?

また伝説では豊成は760年に諸国巡視の旅にでかけたとありますが、実際には豊成は757年から難波の別荘で隠遁生活を送っていました。
豊成の息子の藤原乙縄が橘奈良麻呂の乱に与したとして日向に左遷され、豊成も大宰府に左遷が決定しました。
豊成はこれに抗議する意味で、病気と称して難波の別荘にこもったのです。
豊成が都へ戻ったのは764年ですが、伝説では761年に中将姫と再会して都へ戻ったとしています。

このように史実と一致しない点や、実在しない人物が登場するところをみると、中将姫も実在せず、物語の中で創作された人物なのではないでしょうか。
ただ、さすがに天皇を創作するのは憚られるので、天皇は実在した人物の名前を用いたのではないかと思えます。

天皇以外にひとりだけ登場する実在する人物が藤原豊成です。

徳融寺 豊也・中将姫供養塔 
奈良町の徳融寺は藤原豊成の邸宅跡とされ、境内には豊成と中将姫の供養塔があります。

私は豊成が難波に隠遁していたというのが気になっています。
中将姫ゆかりの寺である當麻寺は二上山のふもとにあります。
奈良から見ると二上山は西の方角にあって、夕日は二上山の方角に没します。
二上山は夕日が没する山だという認識が、古の奈良の人々にはあったと思われます。
そして二上山の向こう側には西方浄土があるとも考えられていたことを、當麻のお練りの行事は示しているように思えます。

豊成が隠遁していた難波は二上山の西、夕日が没する場所にあります。
難波は西方浄土だと考えられていたのではないでしょうか。
とすれば、生きながらにして極楽浄土に行ったのは、豊成ということになります。

それではなぜ豊成の娘として中将姫という女性が創作され、彼女が極楽浄土に行くという話になったのでしょうか。

神はその表れ方によって御魂(みたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)に分けられるとされます。
御魂とは神の本質、和魂は神の和やかな側面、荒魂は神の荒々しい側面のことをいいます。
また女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすという説があります。

御魂・・・神の本質・・・男女双体(藤原豊成)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(藤原豊成の和霊=中将姫)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(藤原豊成の荒霊)

藤原豊成の和魂として創作されたのが中将姫なのだと思います。

※當麻寺についての記事は今までに3つ書いています。
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-286.html?q=%E7%95%B6%E9%BA%BB&charset=utf-8
こちらもお読みいただけると嬉しいです。

當麻寺 牡丹
塔百景46

 當麻寺の牡丹はもう終わっちゃったかな?

當麻寺・・・奈良県葛城市當麻1263





いつも応援ありがとうございます♪

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/05/13 13:58] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

東大寺二月堂 修二会 お松明 『お松明と大仏の鍍金』 


にがつどう しゅにえ

東大寺・二月堂で修二会が行われていますね。
修二会では3月1日より3月14日まで、二月堂の舞台上で11人の童子が大きな松明を振りまわして火の粉を散らすお松明と呼ばれる行事が行われます。
童子が松明を振りまわすと、舞台の下で行を見守る参拝者の頭上に火の粉がふりかかります。
この火の粉を浴びると、1年間無事に過ごせるといわれています。

また3月13日午前1時半頃には若狭井から観音さまにお供えするお香水を汲み上げる儀式、「お水取り」が行われます。

この「お水取り」に先駆けて、若狭神宮寺では3月2日に『お水送り』の行事が行われています。
こちらの記事もお読みいただけると嬉しいです。↓
若狭神宮寺 お水送り 『お香水とは水銀のことだった?』  


お水送り 鵜の瀬  

「お水送り」は若狭の鵜の瀬からお香水を流す行事です。。
鵜の瀬と二月堂若狭井は地下でつながっているといわれ、鵜の瀬で流したお香水は10日で二月堂の若狭井に届くと言われています。

この『お水送り』『お水取り』には次のような伝説があります。

若狭彦神社の遠敷明神(おにゅうみょうじん)は漁に出かけていて、修二会に遅刻しました。
遠敷明神がそのお詫びに閼伽水を送ることを約束すると、二月堂の下の岩が割れ、白黒二羽の鵜とともに清水が湧き出しました。


遠敷(おにゅう)や二羽の鵜とは丹生(ニュウ。丹とは水銀のこと)の意味ではないかとする説があります。

そして東大寺の大仏建立の際、大仏に金アマルガム(金に水銀をまぜて溶かしたもの)を塗り、水銀を加熱して蒸発させることで鍍金(金メッキ)をほどこしたといわれ,
二月堂のお松明の行事は、大仏に鍍金をほどこす様を再現したものではないかという説もあります。

水銀は昔は『みずかね』と呼ばれていました。
お水とりの水とは『みずかね』のことだったのかもしれませんね。

東大寺・・・奈良県奈良市雑司町
修二会・・・3月1日~3月14日 19時ごろより

いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/03/13 06:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

高取土佐町 町屋の雛めぐり 『雛人形は天照大神とスサノオの神像?』 

高取土佐町は高取城の城下町として栄えた町で、今も城下町の面影を残しています。

 高取土佐町

土佐という地名は飛鳥時代に土佐の人々が都造営のためにこの地にやってきたところからくるといわれています。
彼らは故郷に戻ることができず、この地に住みついたようです。

高取土佐町2

高取土佐町では3月1日から3月31日まで、『町屋の雛祭り』を行っています。
写真は2013年に撮影したものです。
豪華な雛飾を楽しみながら町歩きをしました。
中には大正時代の古い雛人形もありました。

高取土佐町 雛祭 
江戸時代末期ごろより上方では写真↓のような御殿飾りの雛人形が造られるようになりました。

高取土佐町 雛祭2 
私はお雛様は天照大神、お内裏様はスサノオの神像ではないかと考えています。

古事記や日本書紀に次のような話が記されています。

高天原にやってきたスサノオを、天照大神は「高天原を奪いにきたのではないか」と疑いました。
そこでスサノオは疑いをはらすために『誓約(うけい)の子産み』をしようと言いました。
まず天照大神がスサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像三女神)が生まれました。
次にスサノオが天照大神の『八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠』を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から 五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)が生まれました。
スサノオの十拳剣からうまれた三柱の女神はスサノオの子、天照大神のみすまるの珠からうまれた五柱の男神は天照大神の子とされました。
スサノオは「私の心に邪心がないので、私の産んだ子は女神だったのです。」といいました。


三人官女は宗像三女神、五人囃子は天照大神が産んだ五柱の男神をあらわしているのではないでしょうか。

町屋の雛めぐり・・・奈良県高市郡高取町

いつも応援ありがとうございます♪
 

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2015/03/04 10:40] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

朱雀門より若草山山焼きを望む 『山焼きは牛鬼を焼き払う神事だった。』 

若草山山焼き

写真はかなり以前にフィルムで撮影したものです。

山焼きですが、勢いよく燃える年もあれば、前日に雨が降ったりしてぶすぶすとくすぶる程度で全く燃えない年もあります。
5~6回撮影したことがあるのですが、半分以上は燃え広がっていない写真で使いものになりません~。

さて『南都年中行事(村井古道・1740年ごろ)』に次のように記されています。

若草山を焼かない時は牛鬼という妖怪が出るといわれる。
このため正月丑の日に放火していたが、近年元旦より三日の間に放火するようになった。
往古より誰が行なうということなく、毎春旅人などが放火していたようだ。


牛鬼とは西日本に伝わっている妖怪で、毒を吐き、人を食い殺すとされています。
その姿形については諸説あります。

a.頭が牛で首から下は鬼。
c.牛の首で蜘蛛の胴体。
d.牛の首に人の着物姿
e.牛の首、鬼の体、昆虫の羽。

若草山焼きは東大寺と興福寺の境界争いがルーツであるともいわれていますが、牛鬼を焼き払う神事であるとも考えられていたのですね。

さて、お正月にはお屠蘇を飲む習慣がありますね。
お屠蘇とは『蘇という悪鬼を屠る』という意味なのだそうです。

友人がプロ野球の広島vsヤクルトの試合を見にいったとき、広島の応援席に「飲め、飲め」といってヤクルトが配られていたという話を聞きました。

『飲む』を辞書で調べると、『水分を体内に摂取する』という意味のほかに、 『相手を圧倒する』という意味もあります。
ヤクルトを飲みながら広島を応援するのは『ヤクルトを圧倒する」という縁起担ぎなのですね。

そしてお屠蘇の蘇は悪鬼のことだと言われます。

丑寅(東北)の方角は鬼の出入りする方角、鬼門とされて忌まれていました。
季節では丑は12月、寅は1月なので、丑寅は1年の変わり目だということになります。
つまり、お屠蘇を飲むというのは、(1年の変わり目=丑寅=鬼)を飲んで(圧倒して)正月を迎えるという意味なのでしょう。

これと同じで、牛鬼とは丑鬼、すなわち「12月の鬼」という意味で、これを焼くことは、丑(12月)を焼き払うことで正月を迎えるという意味があるのではないでしょうか。

若草山・・・奈良市雑司町
平城京跡・・・奈良県奈良市佐紀町
若草山山焼き・・・1月第四土曜日 18時ごろより(確認をお願いします。)



いつも応援ありがとうございます♪

[2015/01/26 11:05] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

春日大社 春日若宮おん祭 『榎本明神の正体』 

12月15日~17日、春日若宮おん祭が行われます。
17日はお渡り式です。
お渡り式は3度くらい見に行ったことがあるんですが、3度とも雨や雪で中止になってしまいました~。(ホントです。)


 春日若宮おん祭 大和士宵宮詣 
↑ 写真は16日の大和士宵宮詣(やまとさむらいよいみやもうで)です。

春日若宮おん祭 田楽座宵宮詣

↑ こちらは16日の・田楽座宵宮詣です。

私は春日若宮様とは志貴皇子のことだと考えていますが、これについては 中秋の名月と采女祭 采女神社 『猿沢池の采女伝説のモデルとは?』
でお話しましたので、今回は春日大社の摂社・榎本神社についてお話したいと思います。

榎本神社


榎本神社には次のような伝説があります。

武甕槌命は春日野の地主である榎本の神に『この土地を地尺だけ譲ってほしい』と言いました。
榎本の神は『三尺くらいなら』と承諾しました。
ところが武甕槌命は広大な土地に囲いをしたので、榎本の神は『話が違う』と抗議しました。
武甕槌命は『私は地下三尺と言ったのに、あなたが聞き取れなかったのです。』といっいました。
しかし榎本の神が住むところがないと困るので、春日大社本殿のすぐそばに社を作りました。


榎本の神は耳が遠いとされ、そのため柱を叩き、祠を回って参拝する習慣がありますが、それはこの伝説からくるものでしょう。

榎本神社の御祭神は猿田彦です。
記紀によれば、猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀の記述で、記紀では単に、ニギハヤヒとなっています。
ニギハヤヒは物部王朝の祖神で、初代天皇の神武が日向から東征して畿内入りする以前に天下っていたとされます。
ここから神武以前に物部王朝があったとする説もあります。

つまり猿田彦とニギハヤヒは同一神だと考えられます。
ということは榎本の神は物部氏の神なのではないでしょうか?

飛鳥時代、物部守屋という人物がいました。
587年、排仏派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子や聖徳太子と戦い、榎の枝で指揮をとっていたところ、迹見赤檮に矢で射落とされて死亡しました。

榎本の『本』を漢和辞典でひくと『下の意を表す。』とあります。
榎本明神とは榎の木の上で指揮をとっていたところを矢で射落とされた物部守屋のことではないでしょうか。



春日大社・・・奈良県奈良市春日野町160
春日若宮おん祭・・・12月15日~17日 http://www.kasugataisha.or.jp/onmatsuri/1215_18.html




いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

[2014/12/13 21:18] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大仏殿 万灯供養会 『大仏は長屋王の怨霊封じ込めの像?』 

大仏殿 ライトアップ

東大寺大仏殿で8月15日に行われる万灯供養会に行ってきました♪
数年前に行ったときは無料で大仏殿を拝観できたのですが、有料になっていました。(500円)
無料だったときは写真を撮るのに立ち止まることが禁止だったのですが、
今回は立ち止まって撮影してもいいということなのでよかったです。(三脚は禁止)

大仏殿 万灯供養会

大仏殿正面の観相窓(かんそうまど)が開かれて、大仏様のご尊顔を拝むことができます。

東大寺 大仏

大仏様の前ではお坊様がお経を読んで法要が行われていました。
写真下中央にお坊様が写っていますが、お坊様と比較すると大仏様がいかに大きいかがわかると思います。

743年、聖武天皇が大仏造像を発願し、745年より制作が開始されました。
752年に開眼供養会が行われ、インドの僧・菩提僊那が導師を務めました。
当時の日本は国際色が豊かだったのですね~。

大仏は長屋王の怨霊封じ込めの像であるとする説があります。

729年、長屋王は謀反を企てたとして厳しい取り調べを受け、自殺においこまれました。(長屋王の変)
当時、聖武天皇と夫人の藤原光明子の間には男子がなく、長屋王は皇位継承に近い立場にありました。
そのため藤原四兄弟(藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が長屋王を廃するためにしくんだ陰謀であると考えられています。
長屋王の変ののち、藤原光明子は人臣として初の皇后となり、藤原四兄弟が政治の実権を掌握しました。
しかし737年、藤原四兄弟は流行っていた天然痘にかかって次々に死亡し、長屋王の怨霊の仕業であると怖れられました。

また大地震がおこったり、740年には藤原広嗣の乱がおこりました。
聖武天皇はこのような社会不安をみほとけに帰依することによって払拭したいと考えたのではないでしょうか。

ところが大仏造立は民衆の暮らしを圧迫する結果となり、多くの餓死者が出たようです。
大仏鋳造の釜が破れたという記録があると聞いた記憶もあります。大参事ですね。
また、水銀を用いて鍍金を施したため、多くの人が水銀中毒で死亡したと考えられています。

757年、橘奈良麻呂がクーデターを企てたとしてとらえられた際、東大寺建立が民衆を苦しめたと批判しています。

現存する大仏像の大部分は鎌倉時代の補修で、当時のおもかげはほとんどとどめていないそうです。

大仏殿 多聞天

多聞天もすごく大きいです。


写真(風景・自然) ブログランキングへ

にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

[2014/08/16 21:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)