写真はありきたりなんですが、音楽の力で二十五菩薩来迎のイメージがぐっとわいてくる感じw
音楽「Good Evening Sunset 」「全てに終わりがあるように」
フリーBGM DOVA -SYNDOROME
ありがとうございました。
マイクロソフトエッジの音声よみあげ機能をつかって、ナレーションをいれてみた。
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http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry...五條のみなさん、親切にしていただいて本当にありがとうございました。
おかげで楽しい旅となりました♪♪
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奈良県田原本町 鏡作神社
おんだ祭・・・2月21日に近い日曜日
①怖えーー!「てるてる坊主の歌」
突然ですが、あなたは「てるてる坊主」の歌をご存じですか?
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞえーーーっ?「首をチョンと切るぞ」ってあんまりじゃないですか?
②てるてる坊主は天照国照日子火明命?なぜいきなりてるてる坊主の話をしたのかというと、てるてる坊主って、ここ鏡作神社の御祭神の天照国照日子火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)の事じゃないかと思うからです。
天照国照日子火明命という神名の中に照(てる)という言葉が2回でてきますね。
そてで「てるてる坊主」なんじゃないかと。
天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしみかたま にぎはやひ の みこと)という神様もいます。
③本物の天照大神とは天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命だった?各地に天照大神は男神と伝わっており、天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命が本当の天照大神だとする説があります。
天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って出てきた、ゆえに天照大神は男神だとする説もあります
天照大神=天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命=てるてる坊主?
ということはですよ、「てるてる坊主」って太陽の神様の首をちょんと切ってやるぞ、という歌?
なんてバチあたりな!
④初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?
天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命は天の磐船を操って、神武天皇より早く河内に降り立ったとされる神様で、物部氏の祖神とされます。
ここから、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説もあります。
天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命を神と奉じる長髄彦なる者がおりまして、長髄彦は遅れてやってきた神武の軍と戦い、破れてしまいます。
↑ これ、普通に読めば王朝の交代、ですね?
なのに、なぜかこれを大っぴらに語る人は少ないです。タブー視されてるってことかな。
⑤邪馬台国=大和国は物部王朝?日本は神武天皇がつくり、現代までずっと皇統が続いてきたといいますが、それは嘘で王朝交代があったと思います。
邪馬台国は大和国で物部王朝だと思います。
籠神社で発見された系図に、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』、『またの名を神大市姫命』、『日神ともいう』と記されています。
卑弥呼とは日女命に漢字をあてたものではないかとする説があります。
卑弥呼=日女命=倭迹迹日百襲姫命
そして日女命=倭迹迹日百襲姫命の先祖の
彦火明命は、天照国照
彦火明櫛甕玉饒速日
命という神名の中に『彦火明 命」があるので、
彦火明命と天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命は同一神だと思われます。
すると、邪馬台国=大和国は物部王朝だということになります。
⑥神武は入り婿になって大和国を乗っ取った?
古事記によれば、神武天皇は大物主神の娘のヒメタタライスケヨリヒメを皇后にしたとあります。
大物主神とは奈良県桜井市の大神神社の御祭神で別名を倭大物主櫛甕魂命ともいいます。
天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命と倭大物主櫛甕魂命は神名の甕・玉(魂)が共通するので同一神ではないかともいわれています。
物部氏の祭祀する神社は磐船神社・石上神社(現在の神殿は最近になってつくられたもので、もともとは神殿がなかった)神殿をもたない神社が多いです。
大物主神を祀る大神神社も神殿がありませんので、もとは物部氏が祭祀する神社であったのではないかと思います。
すると、神武天皇は、物部王朝の娘を皇后にしたということになります。
神武は入り婿になって大和国を乗っ取ったのではないでしょうか。
⑦天照大神が女神である理由
このように考えると、天照大神が女神である理由がわかります。
本来、天照大神とは物部氏の神であったのでしょう。
そして、天照大神の子孫が天照大神の名前を襲名して大和をおさめるというしきたりがあったのだと思います。
それだと神武は天皇にはなれません。
そこで、自分の妻を天皇とし、彼女を天照大神としたのではないでしょうか。
こうしておけば、神武自身は天皇になれなくとも神武の子孫は天皇になれます。
もともとの天照大神は男神で物部氏の祖神だった。
天皇家の祖神ではないので首をチョンと切っても構わない、と考えられたのかもしれません。
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奈良県橿原市 おふさ観音
初えびす大祭 1月第3日曜日
おふさ観音 えびす像①えべっさんは耳が悪いおふさ観音の初えびすに向かう道中、私は「えべっさん」と「狸の吉兵衛」について考えを巡らせていました。
案の定、つまづいて、すってんころりん!となりました~。
えー、京都えびす神社や大阪の今宮戎神社には、社殿の後ろの板をたたいて参拝するという習慣があります。
京都ゑびす神社の社殿の裏を叩いて参拝する人々なぜこんなこをするのかというと、「えべっさんは耳が悪いので、よく聞こえるように」ということだそうです。
②榎本の神も耳が悪い。奈良・春日大社にある榎本神社にも同様の習慣があります。

榎本神社
榎本の神はタケミカヅチに『土地を三尺譲ってほしい』といわれ、承諾しました。
ところがタケミカヅチの言う三尺とは地下三尺という意味だったのです。
こうして榎本の神は広大な神域をタケミカヅチに奪われてしまいました。榎本の神は耳が遠いので、柱を叩き、祠を回って参拝する習慣説があります。
同様の習慣があるところから、えべっさんと榎本の神は同一神ではないかと私は考えました。
③榎本神社と榎木神社は━があるかないかの違いしかない。その後、大阪堀川戎の十日戎に参拝した際、境内に、「榎木稲荷神社」があるのをしりました。
榎木稲荷神社榎木稲荷神社の榎木と榎本は横棒が一本あるかないかの違いしかありません。
③地車稲荷と狸榎木神社は地車(だんじり)の形をしているので、地車稲荷とも呼ばれていおり、次のような伝説があります。
かつて天満堀川の堀止めに側に榎があり、その根元に木の神・句句廼知神を祀る祠がありました。
榎の大の木の根元には吉兵衛という老狸が住んでいて、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていました。
1839年、その地に本殿・拝殿を造営して正式に榎木神社を創建し、堀川戎神社末社の稲生神社の分霊を合祀しました。
明治40年に堀川戎神社と合併してここに遷座しました。
願い事が叶った夜には地車囃子が聞こえるといわれています。 ふつう、稲荷神社といえば狐ですが、榎木神社は狸なんですね。
四国の稲荷神社も狸なのだそうです。
弘法大師が四国の狐を追い出して、狸を開放したなどとも言われています。
1839年に榎木神社に堀川戎神社末社の稲生神社の分霊が合祀されたり、明治40年に榎木神社と堀川戎神社が合併されたりしていますが、これは戎神と榎木の神=吉兵衛が同一神だという認識を人々が持っていたためではないでしょうか。
堀川戎 福娘
④榎本の神は物部守屋?春日大社にある榎本神社の御祭神は猿田彦神です。
日本書紀には猿田彦は『高天原から葦原中国までを照らす神』だと記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒです。
猿田彦神とニギハヤヒは同一神なのだと思います。
ニギハヤヒは物部王朝の祖神ですが、物部守屋は蘇我氏+聖徳太子との戦いの際、榎の上にいたところを矢で射られて死んでいます。
榎本神社とはこの物部守屋のことではないでしょうか?
堀川戎 しころ⑤榎木の下に住む吉兵衛狸は物部守屋?同様に榎木の大木の根本に住む狸の吉兵衛もまた物部守屋のことなのではないでしょうか。
堀川戎神社や榎木稲荷神社には柱や壁を叩く習慣はなさそうではありますが。
大阪は物部守屋ゆかりの地で聖徳太子が建てた四天王寺は物部守屋の土地を没収して建てられたものです。
また、聖徳太子と物部守屋は下図のように陰陽に描き分けられています。
聖徳太子 | 物部守屋 |
少年 | 大人 |
崇仏派 | 廃仏派 |
弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた。 | 榎木の木の上にいるところを弓で射られて死んだ。 |
1度に10人の人の話を聞き分けた。(耳がよかった。) | |
聖徳太子は1度に10人の人の話を聞き分けたといいます。
聖徳太子は耳がよかったということでしょう。
すると 聖徳太子が陽であるのに対して、陰の物部守屋は耳が悪かったのではないでしょうか。
大聖将軍寺 神妙椋樹 弓で射られそうになった聖徳太子が椋の木に隠れたという伝説にもとづくもの。⑥岸和田に伝わる吉兵衛伝説堀川戎の榎木稲荷神社はだんじりの形をしていますが、だんじりといえば岸和田だんじり祭です。
だんじりのルーツは京都祇園祭の山鉾だといわれますが
祇園祭の山鉾がゆっくりと巡行するのに対し、大阪のだんじりはものすごいスピードで駆け抜けていきます。
これはだんじりに乗っている神様(榎木明神=物部守屋=狸の吉兵衛)が荒魂であるからではないでしょうか。
岸和田だんじり祭そしてなんと岸和田の昔話にも吉兵衛という男の昔話が伝えられています。
昔、現在の岸和田市並松町あたりに吉兵衛というだんじり好きの男のもとに狸たちが訪れて吉兵衛とともに尻尾で太鼓をたたきました。。
それ以降、祭が終わると風に乗って狸の祭囃子が聴こえてくるようになりました。だんじり好きの男とは物部守屋の霊、そして狸は守屋の神使ということなのでは?
⑦おふさ観音の初えびす大祭ではだんじり囃子が鳴り響いていた!前置きが長くなりましたが、そろそろおふさ観音に到着しますよ。
何か、にぎやかな音が聞こえてきますね。
これは、もしや・・・・
やはりだんじり囃子でした!
おふさ観音の初えびす大祭でだんじり囃子が奏でられているのは偶然なんでしょうか?
おふさ観音 奉納された千羽鶴
おふさ観音 弥勒石
おふさ観音 七福神
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奈良市春日野町 春日大社
舞楽始め・・・成人の日
①舞楽と秦河勝
舞楽と深いかかわりがある人物として秦河勝がいます。
秦氏は渡来系氏族であり、秦河勝は聖徳太子のブレーンでした。
聖徳太子は秦河勝の息子や孫に伎楽を学ばせたといわれます。
そしてその子孫が天王寺楽人(がくにん)となって伎楽を伝えたのが、天王寺舞楽だというのです。
②聖徳太子は怨霊だった?天王寺舞楽を代表する四天王寺の行事といえば聖霊会ですね。
聖霊会はやはり聖徳太子ゆかりの寺・法隆寺でも行われており、「蘇莫者」という演目が演じられます。
天王寺舞楽にも「蘇莫者」はありますが、聖霊会で必ず行われるということはないようです。
下の「蘇莫者」は四天王寺で撮影したものですが、「聖霊会」ではなく「篝の舞楽」の行事の中で演じられたものです。
蘇莫者 聖徳太子は飛鳥と天王寺の間を愛馬「甲斐の黒駒」に乗って往復していたが、あるとき大和川の亀の瀬で、太子が洞簫(どうしょう/中国古代の尺八)を吹いたところ、老猿(信貴の山神)が現れて笛の音に合わせて舞った。これを舞楽にしたものと伝わります。
梅原猛さんは「聖霊会」は聖徳太子の怨霊を鎮めるための祭であり、「蘇莫者」に登場する老猿は聖徳太子の怨霊で、
「蘇莫者」とは「蘇ること莫きもの」という意味ではないかと説かれました。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていました。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって死に、聖徳太子の血筋は絶えてしまいました。
それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと梅原さんはおっしゃいます。
また聖徳太子が怨霊であることの証拠として、次のような例をあげられています。
①聖徳太子が建てたと伝わる法隆寺の夢殿は、開扉すると大地震がおこると伝えられ、長年あけられたことがありませんでした。
②1908年フェノロサが夢殿の扉をあけたところ、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音がでてきたのですが、布でグルグル巻きにされフランケンシュタインのような状態でした。
また、光背が頭に直接釘で打ち付けられていました。(一般的には足元にたてた棒に光背をつける。)
これらは怨霊封じ込めの呪術ではないかと梅原さんは指摘されたのです。
③秦氏が聖徳太子を供養した?古には芸能は娯楽ではなく呪術的な意味合いを持っていたのではないかと私は考えます。
つまり、神や怨霊を楽しませたり、慰霊したりするのが芸能の目的であったのではないかと思うわけです。
「聖徳太子が秦河勝の息子や孫に伎楽を学ばせた」というのは
「聖徳太子の霊が、自分の霊を慰霊するために、秦河勝の息子や孫に伎楽を学ばせた」という意味ではないでしょうか。
井沢元彦さんは梅原猛さんの説を受けて「聖徳太子が怨霊になったのは彼の子孫が全員法隆寺で首をくくって亡くなったため、先祖の供養や祭祀はその子孫がするべきとされているが、そうした人物がいなくなったためではないか」とおっしゃっています。
そして芸能は呪術であり、供養は慰霊のために演じられることも多かったと思います。
秦氏はそうした供養や慰霊のための呪術にたけており、子孫が絶えて誰も供養慰霊する人がいなくなった聖徳太子を秦氏が供養慰霊した。
そういう意味ではないかと思ったりします。
④秦河勝は怨霊だった?秦河勝にはこんな伝説もあります。
河勝は摂津国難波の浦からうつぼ舟に乗って船出し,播磨国坂越(しやくし)の浦に着いた。
そこで人々に祟ったので、大荒(おおさけ)大明神としてまつられた。 祟ったということは、聖徳太子だけでなく秦河勝も怨霊だったということでしょうか?
どうも、聖徳太子と秦河勝が混同された結果、
聖徳太子=怨霊
聖徳太子=秦河勝
∴秦河勝=怨霊
となって、このような伝説が作られたのではないかという気がしなくもないです。
⑤坂越(しやくし)=杓子?
また上の伝説で河勝の霊が播磨国坂越(しやくし)の浦についた、とあるのも気になります。
坂越と書いて「しやくし」と読むのですが、その音は「杓子(しゃくし)」に似ていますね。
そして四天王寺には杓子の神に対する信仰があります。
上の写真は四天王寺にある「咳の地蔵尊」ですが、「石の地蔵尊」から語呂合わせで「咳の地蔵尊」となったのではないかと思います。
ミシャグジはオシャモジとも呼ばれて信仰されている神で、諏訪地方では白蛇の姿をしているとか、タケミナカタや洩矢神と同一神ともされています。
シャモジを奉納する習慣がある神社はたくさんあり、中には咳にご利益があるとされているところもあります。
それはミシャグジ→御石神→石→セキ→咳という語呂合わせだと思います。
また聖徳太子生誕の地と伝わる橘寺にもたくさんの杓子が奉納されていました。

坂越(しやくし)という地名は、秦河勝が杓子の神であるところからついた、なんてことないかな?

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