法隆寺 追儺式 夢殿のお水取り 『法隆寺追儺式とお水取りは一連の行事?』 


奈良県斑鳩町 法隆寺
追儺式・・・2月3日


法隆寺 夕景 

①法隆寺追儺式の撮影は難しい!


法隆寺の追儺式は西円堂の周囲に金網をめぐらせて行われます。
なぜ金網をめぐらせるのかというと、法隆寺の追儺式では鬼が手に持った松明を投げるのです。
投げた松明が参拝者に当たると危ないので、お寺が配慮して金網を設けてくださっているのだと思います。

安全が第一なので文句を言うつもりはないんですが、金網がはってあると、ストロボが使えません。
ストロボたくと、金網が真っ白に写ってしまい、金網の向う側で行われている追儺式のようすが写らないんです。

また人が多いので当然三脚は禁止です。
その上、鬼の動きが速いので感度をISO12800まであげてもブレブレに~。

ですが、撮影するのが難しい被写体ほどリベンジに燃えるよね~。

そんなわけであんまりいい写真はないけど、掲載させていただきます。(汗) 

法隆寺 追儺式 青鬼

金網を消す方法ないかなあ?(いい方法があったら教えて~)

②毘沙門天が登場する追儺式


興福寺 追儺会 『大黒天は日本版サンタクロース?』 
↑ こちらの記事に、毘沙門天が登場する奈良の追儺式は修二会の行事ではないかと書きました。

法隆寺の追儺式にも毘沙門天が登場します。

法隆寺 追儺式 毘沙門天   
毘沙門天

③修二会にルーツを持つ追儺式


修二会といえば、東大寺二月堂のものが有名ですね。

二月堂 お松明 
東大寺 二月堂 修二会 お松明

修二会の松明は童子と呼ばれる人によって振り回されますが、童子と鬼は関係が深そうに思われます。
というのは、酒呑童子・茨木童子などの鬼が童子と呼ばれているからです。
また「鬼の子孫」を称する八瀬の人々も「八瀬童子」と呼ばれています。

そして法隆寺の修二会の行事のひとつ、追儺式では鬼が荒々しく松明を振り回して放り投げます。
これは東大寺二月堂修二会で童子が行うお松明行事と同様のものではないでしょうか?

法隆寺 追儺式 緑鬼 

③法隆寺の七不思議


法隆寺には七つの謎があるとされ、法隆寺七不思議といわれています。

①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。
 
 
⑥については法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議 雀が糞をしない』 
⑦については法隆寺 夕景と柿 『法隆寺の七不思議② 因可の池の蛙とは』 
で私流の謎解きをしましたので、一読いただけると嬉しいです。

法隆寺 追儺式 赤鬼2

④法隆寺のお水取り

えー、法隆寺七不思議の④に「夢殿の礼盤(らいばん)の裏は汗をかいている。」というのがありますね。

これに関連する行事が、法隆寺追儺式から8日目の2月11日に行われています。
朝の8時くらいから始まるそうですが、早起きが苦手なので、見学したことがありません。(またしても汗)

礼盤とはお坊さんが座る台のことです。
夢殿の礼盤が置かれた畳の下に正方形の板があり、これを日光に当てると、板の裏に水分があふれ出るというのです。
そしてこの水分によってその年が豊作か凶作なのかを占うのだとか。

この行事は「お水取り」と言われています。

 法隆寺 追儺式 赤鬼

⑤法隆寺お水取りは修二会の行事?

私は法隆寺のお水取りは2月3日の追儺式に続く修二会の行事ではないかと思います。

というのは、東大寺二月堂の修二会の行事の中にもお水取りの行事があるからです。

3月2日、福井の鵜の瀬で「お水送り」といって、お香水を流す行事が行われます。
鵜の瀬と二月堂若狭井は地下でつながっているといわれ、鵜の瀬で流したお香水は10日で二月堂若狭井に届くと言われています。
そして3月13日の午前1時半ごろ、二月堂の閼伽井屋で、鵜の瀬から送られたお香水をとる『お水取り」の行事が行われます。

お水送り 鵜の瀬

鵜の瀬 お水送り

⑥法隆寺の「お水取り」はいつ始まったの?

東大寺二月堂の修二会がはじめておこなわれたのは751年(『二月堂縁起絵巻』1545年による)ですが、法隆寺の修二会がはじめられたのは1261年とされています。

ですがこのとき、夢殿は開扉されていなかったはずなんです。
夢殿の御本尊・救世観音は長年絶対秘仏とされており、夢殿の扉を開くと大地震がくると言い伝えられていて、長年扉があけられていなかったのです。
その夢殿の扉が開かれたのは、1884年、岡倉天心とフェノロサによってです。

法隆寺の「お水取り」は夢殿の救世観音像の前にある礼盤にたまった水を取る行事なので、実際にこの行事がはじめられたのは、夢殿を開扉した1884年以降(明治17年)以降なのではないでしょうか。

しかし法隆寺七不思議は江戸時代からあるといわれています。
これが正しければ、法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」という伝説そのものは夢殿開扉前よりあり
この伝説に基づいて「お水取り」行事は1884年以降に行われるようになったと考えることができるかもしれません。

また、法隆寺七不思議のひとつ
法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」 
は、1884年以降に付け加えられたとか、法隆寺七不思議そのものの成立が1884年以降であるとも考えられます。

あるいは、夢殿が開扉する以前には、別の場所でお水取り行事を行っていた可能性もありますね。

法隆寺 追儺式 青鬼 




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[2017/02/09 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

金峯山寺 節分会 『鬼はなぜ牛の角を生やし虎皮のパンツをはいているの?』 


奈良県吉野郡吉野町 
金峯山寺蔵王堂
節分会…2月3日


①金峯山寺 蔵王堂 節分会

金峯山寺 蔵王堂 追儺会5

zzzz・・・

金峯山寺 蔵王堂 追儺会4  

次、左もやってね~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会9 

きく~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会10 
お経、まだ終わらないの?長いね~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会11

退屈だから参拝者を脅しちゃおう~。(本当はお加持)
 
金峯山寺 節分会  
let’s dance!

金峯山寺 蔵王堂 追儺会2 

金峯山寺 蔵王堂 追儺会8 
ラララララ~♪

金峯山寺 蔵王堂 追儺会7 
うひゃーー。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会6 
まいりました・・・。

②鬼はなぜ牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているの?


鬼たちは牛の角を生やし、黄色地に黒の模様の入ったパンツをはいています。
黄色地に黒の模様は簡略化されていますが、虎皮のパンツをあらわしているのでしょう。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき  

上の写真は前にご紹介した石清水八幡宮の鬼ですが、こちらの鬼ははっきり虎皮のパンツだとわかりますね。
なぜ節分の鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのでしょうか。

③旧暦と二十四節気

現在の日本では太陽暦(新暦)を用いていますが、江戸時代までの日本では太陽太陰暦(旧暦)を用いていました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりに用いた暦法で、月のない夜(朔/新月)を1日、上弦(半月)を7日または8日、満月(望月)を15日とします。
1か月の周期は29日または30日です。
すると太陽太陰暦の1年は29.5日×12か月=354日となります。

太陽暦は地球が太陽の周囲を1周するのを1年としています。
地球が太陽を1周するのに要する日数は約365日です。
太陰暦は太陽暦に比べて1年の日数が11日不足しており、3年では約1か月近くもずれることになります。
そこで太陽太陰暦では4年に1度閏月をもうけてずれを解消していました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりにできるので紙が貴重品だった時代には大変便利でした。
しかし実際の季節とは最大1か月ものずれが生じるので、農作業などに不便が生じます。

そこで、太陰暦の他に1太陽年を24に分割し、立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒 とよんでいました。(二十四節気)

④節分は二十四節気の大晦日

節分とは「季節の変わり目」を意味し、もともとは立春(2月4日)・立夏(5月6日)・立秋(8月8日)・立冬(11月8日)の前日のことを言う言葉でした。
本来節分は1年に4回あるのです。
特に立春は季節の変わり目であると同時に1年の変わり目であるため、重要視され、現在では立春の前日のことを節分ということが多いです。
つまり、節分とは二十四節気の大晦日なのです。

江戸時代までの日本では旧暦の正月と、二十四節気の正月と2回正月がありました。
節分は太陽暦の2月3日ごろですが、太陰暦は太陽暦よりも約1か月遅れになるので、旧暦の大晦日と二十四節気の節分はだいたい同時期でした。
金峯山寺 蔵王堂 追儺会3


⑤鬼は丑寅で1年の変わり目をあらわす。

12か月を干支でいえば丑は12月、寅は1月なので丑寅は1年の変わり目を表します。
また方角を干支でいうと丑寅の方角は東北で、丑寅の方角は鬼が出入りする方角として忌まれていました。

鬼=丑寅=1年の変わり目 だといっていいでしょう。

鬼が牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのは、干支の丑寅(1年の変わり目)をあらわしているのだと思います。
そして鬼=丑寅を追いやることで新年を迎えようというのが追儺式なのだと思います。

目に見えない1年の移り変わりを視覚化したものだといってもいいかもしれませんね。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会


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[2017/02/04 20:37] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

興福寺 追儺会 『大黒天は日本版サンタクロース?』 



奈良市登大路 興福寺
追儺会 2月3日


興福寺 追儺会 二匹の鬼 

興福寺 東金堂前に鬼が登場ーー!

興福寺 追儺会 鬼の酒盛り 
①宮中の年中行事に起源を持つ方相氏

前回の記事、吉田神社 鬼やらい神事 『正義のヒーロー・方相氏を射るってどういうこと?』 で、吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏についてお話ししました。
方相氏は宮中の年中行事である鬼やらい神事に起源を持っています。

吉田神社 方相氏 と しん子 

吉田神社 鬼やらい神事 四ツ目の方相氏


京都では吉田神社のほか、平安神宮や鞍馬寺の追儺式にも方相氏が登場して鬼を祓います。

②毘沙門天が鬼を祓う追儺式

これに対して奈良の追儺式ではここ興福寺のほか、朝護孫子寺、法隆寺などで毘沙門天が鬼を祓います。

興福寺 追儺会 毘沙門天
 
興福寺 追儺会 鬼と闘う毘沙門天

③毘沙門天が登場する追儺は修二会にルーツを持つ?

京都の方相氏が登場する追儺式が宮中の年中行事であったのに対し、奈良の毘沙門天が登場する追儺式は仏教の行事である修二会にルーツがあるのかもしれません。

二月堂 修二会 お松明

上の写真は東大寺二月堂の修二会で行われるお松明の行事です。

仏教発祥の地であるインドの正月は日本の2月にあたり、修二会は新年の行事だと考えられます。
現在では行われていませんが、かつては興福寺でも東金堂と西金堂で修二会を行っていたそうです。

修二会の松明は童子と呼ばれる人によって振り回されますが、童子と鬼は関係が深そうに思われます。
というのは、酒呑童子・茨木童子などの鬼が童子と呼ばれているからです。
また「鬼の子孫」を称する八瀬の人々も「八瀬童子」と呼ばれています。

興福寺 追儺会 青鬼 

興福寺・東金堂前で行われるの追儺会に登場する鬼も松明を持っています。
もしかして、興福寺の追儺会のルーツはかつて東金堂前で行われていた修二会にあるのではないでしょうか?

興福寺 追儺会-子供の鬼 

子鬼も登場!

④大黒天が登場する興福寺の追儺会

興福寺 追儺会 毘沙門天

毘沙門天が鬼をやっつけたあと、大黒天が登場しました。

興福寺 大黒天 

 大黒天は大きな袋の中からお守りのようなものを取り出して撒いていました。
何を撒いているのか興味があったので欲しかったのですが、相変わらずトロい私はゲットできず~。

⑤大黒天は日本版サンタクロース?

それにしても大黒天、まるでサンタクロースのようですね。

サンタクロースが活躍するのはクリスマスですが、クリスマスはミトラ教の冬至祭にルーツを持っています。
冬至は太陽の南中高度が1年で最も低い日で12月22日ごろですが、3日後の25日ごろより、太陽は再び南中高度をあげていきます。
そのためミトラ教では12月25日に冬至祭を行っていたのです。

古代の中国では冬至を1年の始点としていたといいますし、日本にも「冬至正月」という言葉があり、冬至を1年の始点とする考え方がありました。

そして節分は1年を24分割した暦法・二十四節気の立春の前日のことです。
旧暦は新暦の約1か月遅れとなり、旧暦の正月と立春はだいたい同じくらいの時期でした。
そのため立春は新春=正月、立春の前日の節分は二十四節気の大晦日だと言っていいでしょう。

つまり、クリスマスも節分も正月を迎える行事だといえるわけです。

そして、仏教の弥勒菩薩はミトラ教の太陽神・ミトラスの影響を受けていると言われています。

クリスマスのサンタクロースと、節分の大黒天は、ミトラス教を通じて繫がっているのかも?

File:BritishMuseumMithras.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABritishMuseumMithras.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/BritishMuseumMithras.jpg よりお借りしました。

上の写真は大英博物館所蔵の牡牛を屠るミトラス像です。
鬼は牛の角が生えているので、鬼=牛=丑。
そう考えると、ミトラスはまるで追儺で鬼を祓う毘沙門天のように見えてしまう~。

興福寺 追儺会 三匹の鬼 

 
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[2017/02/03 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大神神社 繞道祭 『日の神は語呂合わせで火の神に神格を変えられた?』 


奈良県桜井市 大神神社 
繞道祭・・・1月1日 午前0時ごろより

先生、師匠、楠木先輩、いろいろ教えてくださってありがとうございました!おかげ様で楽しかったです!

①繞道祭


古い年が生き、新しい年がやってくる元旦の午前0時すぎ。
どこからか流れてくる除夜の鐘を聞きながら、私は私は大神神社の摂社・檜原神社に立っていました。

大神神社 繞道祭 檜原神社にて 
檜原神社に繞道祭の松明の行列がやってきました!
松明の火は新年があけるとまもなく大神神社の拝殿東方で切り出されたものです。
この火を松明に点火し、行列を作って大神神社の摂末社18社を駆け巡ります。

またこの火をカイロや火縄で移し取り、各家の神棚に備えたり、お雑煮を作ると無病息災のご利益があるといわれています。

②大物主神とニギハヤヒは同一神だった?
妙性寺縁起は小野小町の次のような伝説を伝えています。

晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。

九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)

後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった
(妙性寺縁起)


五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる

このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけですね。

これと同じような語呂合わせで日の神は火の神へと神格を変えられたのではないでしょうか。





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[2017/01/05 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

一言主神社 一陽来復祭 『一言主大神は木霊(山彦)だった?』 


一言主神社 一陽来復祭3  
 
奈良県葛城郡 葛木一言主神社
陽来復祭・・・冬至の日


一言主神社 公孫樹2 

①イチョウは一陽の木

 一言主神社のご神木は樹齢1200年と伝えられる御神木の大イチョウです。
一陽とイチョウは掛詞になっていますね。
葛城一言主神社 イチョウ 黄葉 『イチョウは一陽の木?』 
↑ こちらの記事に『イチョウは一陽の木、冬至に向かって衰え行く太陽の木ではないか』と書きました。
よかったら読んでみてください♪

一言主神社 一陽来復祭

②一言主大神は木霊(山彦)だった?

一言主神社の御祭神・一言主大神には次のような伝説があります。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 


雄略天皇と全く同じいでたちをし、同じ言葉を返す一言主大神とは木霊(山彦)を神格化したものなのではないでしょうか。

一言主神社 一陽来復祭2


●山彦の名所

葛城山の南に金剛山がありますが、かつて葛城山と金剛山はどちらも葛城山と呼ばれていたそうです。
そして葛城山の山麓近くには一言主神社が、金剛山の山頂近くには葛木神社があってどちらも一言主大神を祀っています。

高校のときにワンダーフォーゲル部に所属していた友人に聞いたのですが、葛城山から金剛山へ至るダイヤモンドトレールと呼ばれる道では、よく山彦が聴こえるそうです。

一言主神社 一陽来復祭  
一言主神社 一陽来復祭-階段 

一言主神社 一陽来復守り 





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[2016/12/21 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

  
奈良豆比古神社・・・奈良市奈良阪町2489
翁舞・・・10月8日  午後8時ごろより


 奈良豆比古神社 翁舞 千歳

千歳の舞


以前の記事、百毫寺 萩 『志貴皇子 暗殺説』  もよかったら参考になさってくださいね。

●能「翁」のルーツ?

能に「翁」という演目がありますね。

奈良豆比古神社は古くより芸能の神として信仰され、芸能に携わる役者さんたちは興行前に奈良豆比古神社を参拝する習慣があったと聞いたことがあります。

奈良豆比古神社の「翁舞」は能「翁」の古い形態を残しているとも言われます。
もしかしたら奈良豆比古神社の「翁舞」は能「翁のルーツ」なのかも?

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2  

舞台上で面をつけるのは「翁」だけです。

●ふたつの伝説


奈良豆比古神社には『翁舞』に関係する次のような伝説が伝えられています。

①志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していました。
春日王にはの二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)があり、心をこめて春日王の看病をしていました。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈りました。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かいました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊されました。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれません。


『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは①とは別の語りを伝承しておられるとのことです。
 
奈良豆比古神社 翁舞 白式尉 
白式尉

②志貴皇子は限りなく天皇に近い方でした。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそいました。
赤い衣装は天皇の印です。
志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈りました。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていました。
志貴皇子がつけていたのは翁の面でした。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていました。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞いました。
これが翁舞のはじめです。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られました。
 
 
ハンセン病を患ったのは①の伝説では志貴皇子の子の春日王となっていますが、②の伝説では志貴皇子となっています。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
三人翁は能「翁」にはありません。
  
●春日王と志貴皇子は同一人物では?

また春日王は田原太子とも呼ばれており、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇と呼ばれていました。
春日王と志貴皇子は同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇族でこのようなケースは他に例がないと思います。
春日王と志貴皇子は同一人物なのではないでしょうか。

●浄人王は弓削浄人?!

①の伝説によると、「桓武天皇は春日王の子の浄人王に弓削首夙人の名と位を与えた」とあります。
ということは、浄人王は臣籍降下して弓削浄人と呼ばれるようになったということでしょうか。
弓削浄人という名前には聞き覚えがあります。
道鏡の弟の名前が弓削浄人なのです!

●道鏡は志貴皇子の子?

『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されています。
道鏡の俗名はわかっていないのですが、安貴(①の伝説に登場する春日王の子。浄人王の兄弟)という名前だったのではないでしょうか?

これが正しければ、道鏡は志貴皇子の子で天智天皇の孫だということになります。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉3

●称徳天皇が道鏡を次期天皇にしたいと考えたのはなぜ?

道鏡は奈良時代の僧侶で、称徳天皇に仕えていました。
称徳天皇は女性として初めて皇太子になった方で、結婚が許されず、独身でした。
そのため世継ぎとする子供がなく、称徳天皇は道鏡を天皇にしたいと考えていました。

称徳天皇が道鏡を天皇にしようと考えたのは、道鏡が志貴皇子の子だったからなのではないでしょうか?
(もしかしたら臣籍降下していたかもしれませんが)

●称徳天皇がカンカンになって怒った理由

宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にすべし』との神託が降り、称徳女帝はそれを確認させるために和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣しています。
都へ戻った和気清麻呂は清麻呂は『天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ(天皇は必ず皇族の血筋のものとするべし)』と奏上して道鏡は次期天皇にふさわしくないとしました。
これを聞いた称徳天皇は激怒したそうです。

道鏡が志貴皇子の子であったとすれば、彼は皇族の血筋だといえます。
称徳天皇崩御後、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となっており
ここから考えても、道鏡が志貴皇子であったとする私の仮説が正しければ、彼には十分次期天皇になる資格があったといえるでしょう。

称徳天皇が怒るのも無理はないでしょう。
よほど頭にきたのか、称徳天皇は清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」姉の広虫を「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させて流罪としています。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

黒式尉も舞台上で面をつけます。


●称徳天皇急死、そして道鏡の失脚


しかし事件後まもなく称徳天皇は急死しました。暗殺されたのではないか、ともいわれています。
これによって道鏡は失脚し下野国の薬師寺へ左遷(配流)され、2年後に死亡して庶民として葬られました。

●日本紀などは、たゞ、片そばぞかし

紫式部は『源氏物語』の中で光源氏に「『日本紀などは、たゞ、片そばぞかし。これらにこそ、道みちしく、くはしき事はあらめ』と言わせています。

これは『日本書紀に書かれていることなどほんの一部分でしかない、物語の中にこそ真実が詳しく記されている』というような意味です。

紫式部は正史には嘘が多いことを知っていたのですね。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉 



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[2016/10/08 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

當麻山口神社 宵宮祭 當麻寺 彼岸花 『ご先祖様に子孫誕生を報告するお祭り?』 

奈良県葛城市 當麻山口神社
宵宮祭 9月22日

●當麻山口神社 宵宮祭

9月22日、當麻山口神社で宵宮祭が行われるというので友人を誘って行ってみました。

宵宮祭に参列する氏子さんたちがぞくぞくとやってきて拝殿に着席されます。
観光客は私と友人のふたりだけで、「ここにいて写真を撮ってもいいんだろうか?」と不安な気持ちに~。
ですが、みなさん親切で、「写真撮ってもいいですよ」とおっしゃってくださいました。

おごそかに神事が行われる中、私たちのカメラのシャッター音がやけに響いて~(汗)
氏子さんの中にはうるさいと感じられた方がおられるかもしれません。
もしもそうだったら申し訳ありませんでした。

當麻山口神社 宵宮祭

  宵宮祭は新生児が神職さんより祈祷を受け、絵馬を奉納するというものです。
絵馬は拝殿に4枚ほど奉納されていましたが、赤ちゃんの姿はありませんでした。
少子化のため、今年はこの地域で赤ちゃんが生まれなかったのかも?
それで氏子さんの、離れて住むお孫さん、親戚の子供さんなどの絵馬を用意したのではないかと想像します。

http://www.lint.ne.jp/nomoto/PHOTOSALON/kinsatu_1109.html
↑ こちらの方はかわいい赤ちゃんを入れて素敵な写真を撮っておられます。いい写真ですね!

當麻山口神社 絵馬堂

當麻山口神社 絵馬堂の絵馬

●宵宮祭の本来の意味は還御祭だった。

宵宮祭について、コトバンクには次のように記されています。

夜宮,宵宮祭,宵祭とも。現在は例祭の前夜に行われる前夜祭,準備祭となっているが,本来は当番の家やお旅所に奉安されていた神霊が本祭のため本社に帰る還御祭に当たり,例祭の中でも重要な位置を占めていた。

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B5%E5%AE%AE-652649より引用

傘堂 
當麻山口神社の隣にある傘堂

●當麻山口神社宵宮祭の本祭は?

當麻山口神社宵宮祭の翌日に本祭はありません。
1か月後の10月22日に例大祭がありますので、この例大祭の宵宮祭という意味なんでしょうか?
詳しい方、おられましたら教えてください!

●當麻山口神社宵宮祭は彼岸の行事?

暦法のひとつである二十四節気とは1太陽年を24に分割して季節をあらわす名前をつけたものですが
この季節を表す名前の中に春分・秋分があります。
春分と秋分には太陽は真東よりのぼり真西に沈みます。
そのため、春分と秋分には、西方にある極楽浄土に思いをはせる習慣が生じ、さらに先祖供養をする習慣が生じたとされます。
この習慣のことを彼岸といいます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%88%86%E3%81%AE%E6%97%A5#.E8.BF.91.E5.B9.B4.E3.81.AE.E6.98.A5.E5.88.86.E6.97.A5.E3.81.A8.E7.A7.8B.E5.88.86.E6.97.A5

上記ウィキペディアに近年の秋分日が記されていますが、だいたい9月23日ですね。9月22日が秋分日の年もありますが。
當麻山口神社の宵宮祭は毎年9月22日です。
もしかして氏子さんたちが各自めいめいで、先祖供養をする秋分日が本祭で、その宵宮祭という意味合いがあるのかも?

●彼岸と日の没する山・二上山

當麻山口神社は二上山の麓にありますが、奈良から見て二上山は西に位置し、夕日の沈む山であると古より認識されていたと思われます。

私も奈良で二上山に沈む夕日の写真をたくさん撮っています。

二上山 落日

奈良県明日香村より二上山を望む 

●當麻寺の練り供養は沈む太陽を比喩する行事だった?


當麻山口神社はかつて當麻寺境内にあったそうで、當麻寺と関係の深い神社だと考えられます。



その當麻寺では5月に『當麻のお練り』という行事が行われています。

 當麻のお練り


「當麻のお練り」は當麻寺に伝わる中将姫伝説を再現したものです。

中将姫伝説とは次のようなものです。

中将姫は藤原豊成と紫の前の間に生まれましたが、中将姫が幼いころ、母親の紫の前は亡くなってしまいました。
藤原豊成は照夜の前という後妻を迎えましたが、照代の前は中将姫を憎み継子いじめをしていました。
豊成が諸国巡視の旅に出かけた際、照夜の前は従者に中将姫を殺すようにと命じました。
しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにしました。
中将姫は雲雀山に草庵を結び念仏三昧の生活をおくっていましたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻りました。
その後中将姫は出家して當麻寺に入りました。
29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かいました。

私は中将姫とは太陽を擬人化したものであり、中将姫が生きながらにして西方浄土に向かうとは、沈み行く太陽が二上山の向うの西方浄土に向かうさまを表現したものではないかと思います。

當麻寺周辺は沈み行く太陽に対する信仰の厚い地域であったのではないでしょうか。

●死者に自らの穢れをあの世にもっていってもらう。

即成院 二十五菩薩練り供養 

↑ こちらは京都・即成院の二十五菩薩練供養です。
即成院本堂には二十五菩薩と阿弥陀如来像が安置されています。
即成院の練り供養は、當麻寺の練り供養と同じく、西方浄土より二十五菩薩が死者を迎えに来る様子を再現したものです。

この行事について、梅原猛さんは「死者に自らの穢れをあの世にもっていってもらう」という信仰があったというような意味のことをおっしゃっていたように記憶しています。

彼岸は西国浄土に思いをはせ、西国浄土におられるご先祖様の供養をする日です。
當麻山口神社の宵宮祭は、このご先祖様に子孫の誕生を報告し、また生まれた子供の穢れをご先祖様にもっていってもらうという行事なのかも?

當麻寺 彼岸花

當麻寺 彼岸花


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[2016/09/29 16:34] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

中秋の名月と采女祭 采女神社 『猿沢池の采女伝説のモデルとは?』  

奈良市橋本町 采女神社
采女祭・・・中秋の日
 

小池百合子東京都知事が築地市場移転を延期すると発言したことについて、多くの著名なジャーナリストたちが批判していました。
ところが、移転先の豊洲の土壌汚染対策として東京都は4.5mの盛り土を行うと説明していたのに、実際には盛り土がされていない箇所があることが判明しましたね。
ジャーナリストたちはきちんとした汚染対策がなされているという前提で小池知事を批判していたわけですが、その前提がひっくり返ってしまったわけです。
なぜ盛り土を行わなかったのでしょうね?

●藤原氏の氏寺

奈良興福寺の南に猿沢池があります。
猿沢池は興福寺の放生池として749年に造られた人工池です。

興福寺は藤原氏の氏寺です。
興福寺の東には春日大社がありますが、春日大社は藤原氏の氏神です。
かつて興福寺と春日大社は一体化していました。

●猿沢池に背を向ける采女神社


采女神社2  

采女神社は春日大社の末社で猿沢池のほとりにありますが、鳥居に背を向け、後ろ向きに建っています。
鳥居は猿沢池に面して建てられているので、采女神社の社殿は猿沢池に背を向けていることになります。

采女神社 

 平安時代に成立した『大和物語』に次のように記されています。
『奈良時代、帝の寵愛が衰えたのを嘆いて入水した采女を慰霊するために社を建てましたが、入水した池を見るにしのびないと社は一夜のうちに後ろ向きになりました。』 

中秋の夜、猿沢池ではこの伝説にちなんで采女祭が行われます。 

采女祭2  
●春日大社の神・アメノコヤネとは天智天皇だった?

春日大社ではアメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの四柱の神々をお祀りしています。
アメノコヤネは藤原氏の祖神とされています。

アメノコヤネは漢字で書くと天児屋根命となりますが、私は天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えています。
というのは天智天皇は次のような歌を詠んでいるからです。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


『児』には『小さい』という意味があり、天児屋命とは『小さい屋根の下におわす神』という意味になります。
仮庵のとまの粗い小屋の屋根はそれは小さいことでしょう。 

采女祭
塔百景18

●藤原不比等、天智天皇後胤説


するとアメノコヤネは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになりますが、藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのです。
そうであるなら、アメノコヤネとは天智天皇のことであり、アメノコヤネが藤原氏の祖神だというのは辻褄があいます。

●アメノコヤネの御子神・春日若宮

アメノコヤネとヒメガミは夫婦神で、春日若宮様はこの二神から生まれた御子神とされています。

12月にこの春日若宮様のお祭り、おん祭が行われています。
このおん祭りで12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されます。
雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)といいますが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記されます。

●奈良豆比古神社の『翁舞』

春日大社の北の奈良坂に奈良豆比古神社があり、毎年10月に『翁舞』の奉納があります。 

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 

能に『翁」』という演目がありますが、おそらくこの『翁舞』をルーツとするものでしょう。

●ハンセン病にかかったのは春日王ではなく志貴皇子だった?

奈良豆比古神社のパンフレットには天智天皇の孫で志貴皇子の子である春日王がハンセン病にかかり、春日王の子・浄人王が春日王の病平癒を祈って春日大社で舞を舞ったところ春日王の病が回復したと書いてあります。
『翁舞』とはこの浄人王の舞をルーツにするものだと考えられます。

ところが地元ではハンセン病になったのは春日王ではなく、志貴皇子だと口承されており、翁とは志貴皇子のことだとされているそうです。

『とうとうたらりたらりろ』は春日若宮=志貴皇子のテーマソングだった?

翁は『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱えます。
能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっています。 

おん祭の新楽乱声を思い出して下さい。
それは『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』でした。
翁はおん祭で奏される新楽乱声の唱歌を唱えているのではないでしょうか。
それは春日若宮様のテーマソングだといってもいいでしょう。

そして春日若宮様とはアメノコヤネとヒメガミの皇子でしたね。
私はアメノコヤネとは天智天皇のことだと考えていますが、志貴皇子は天智天皇の皇子なので、これまた辻褄があうんですね。

●猿沢池に身投げした采女の正体とは

すると、ヒメガミとは志貴皇子の母親の越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)となりますが
越道君伊羅都売は采女(天皇の身の回りのお世話をする女官)で、またまた辻褄があいます。
猿沢池に身を投げた采女とはこの越道君伊羅都売のことではないでしょうか。

天智天皇=天児屋命
ヒメガミ=越道君伊羅都売(采女)
春日若宮=志貴皇子


●奈良豆比古神社に勧請されたヒメガミ

大和物語では帝の寵愛が衰えたのを嘆いて采女が猿沢池に身投げしたのは奈良時代の話となっているのでしたね。
天智天皇は飛鳥時代の人物なので時代があわへんやんって?

奈良時代の780年11月21日に、春日大社のヒメガミが奈良豆比古神社に勧請されています。 
これを昔の人々は「帝(アメノコヤネ)の采女(ヒメガミ)に対する寵愛が衰えた」と比喩的に表現したのではないでしょうか。

采女祭3



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[2016/09/14 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

一言主神社 秋季大祭 『性別がルーズな日本の神』 

奈良県御所市 一言主神社
秋季大祭・・・9月15日



●一言主神社 秋季大祭
 
一言主神社境内に神様たちが現れました。 

一言主神社 天狗・神職・お多福・翁 
神様たちが境内を練り歩きます。

一言主神社 天狗・神職・翁のお練り 
神職さんが幣を撒き
 
一言主神社 天狗と幣を撒く人 
お多福が鈴を振って参拝者に福を授けてくださいます。

 一言主神社 お多福 
幣を撒く人はお面をつけていないので神様ではないでしょう。
そして境内を練り歩く神様は、天狗、一言主神、お多福とのことです。
ということは、白い髭を生やした翁が一言主神ということですね。

だけど、私はお多福が一言主神じゃないかなあ、と思うのです。
なんでかって?

●容姿を気にする神


役行者は葛木山と金峯山の間に石橋を架けるため、神々に工事をさせたせたという伝説があります。
一言主は自分の顔が醜いのを気にして夜しか働かなかったので、役行者は一言主を縛り付けたというのです。

容姿を気にするあたりが、なんか女性っぽくないですか?

追記1/写真のお多福は男物の衣装を着、烏帽子を被ってていますが、お多福って普通は女ですよね。

一言主神社 天狗・神職・お多福・翁のお練り2

●雄略天皇がナンパしたのは一言主神だった?

また、こんな伝説があります。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました

 

一言主神社では雄略天皇もお祭りしていますよ。

そして雄略天皇は次のような歌を詠んでいます。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの?
大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳です。)

これは先にご紹介した伝説(青文字部分)の、雄略天皇と一言主神の出会いの歌ではないかと私は思うんですね。
つまり、菜を摘む娘は一言主神ではないかということです。

ナンパしてきた雄略天皇に対して、娘はこう答えたのではないでしょうか。

『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』

一言主神社 天狗・神職・お多福・翁のお練り

●薬狩り

一言主神は狩りをしていた。一方娘は菜を摘んでいた。二人は違うことをしているので、同一神ではないのではって?

でも狩りと菜摘みは関係があるんですよ。

狩りは鹿狩り、菜摘みは薬草を摘むことではないかと思います。
鹿狩と薬草摘みはどちらも古には旧暦5月5日に行われる行事で、薬狩りと呼ばれていました。

一言主神も娘も薬狩りをしていたということで共通点があり、同一神であると思うのです。

●性別がルーズな日本の神

だいたい日本の神様って性別がルーズなんですよね~。

大神神社の大物主神は記紀神話では男神でセヤダタラヒメやヤマトトトヒモモソヒメのところに夜這いしていたという神話があります。
ところが謡曲・三輪では三輪明神(大神神社の神)は女神として登場します。
京都・亀岡祭の三輪山の御神体も女神でした。

亀岡祭 三輪山 御神体 

亀岡祭 三輪山 御神体


聖徳太子が親鸞の夢の中に表れて「女に生まれ変わってあなたの妻になろう」と言ったという話もあります。

日本の神は状況によって男神として現れたり、女神として現れたりするのかもしれませんね。

●一言主神は雄略天皇の和魂だった?(追記2 )

先ほどご紹介した伝説によると、一言主神は雄略天皇と全く同じいでたちをしていたのでしたね。

お多福は女神とされているのに男物の衣装を着ているのは、雄略天皇と全く同じいでたちをしていたという伝説によるものなのかも?

また、同じいでたちをしているということは、一言主神と雄略天皇は同一神であるということなのではないでしょうか?

神はその現れかたで御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)にわけられ、和魂は女神、荒魂は男神とする説があります。

もう一度3柱の神様を見てみると,天狗・翁・お多福は色違いの同じ着物を身に着けています。
烏帽子も同じです。
翁が御霊、天狗が荒魂、お多福が和魂で、天狗・翁・お多福は同一神なのではないでしょうか?

そして伝説に登場する雄略天皇を神としてあらわした姿が天狗なのかも?



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[2016/09/13 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

浮見堂より大文字送り火を望む 『天皇(すまらぎ)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光りぞ ここだ照りたる』  

奈良市春日野町  鷺池
大文字送り火・・・8月15日 


浮見堂 夕景 2 

夕暮れの鷺池、浮見堂。

 

浮見堂 夕景 

闇に包まれるころ、奈良の大文字送り火が点火されます。
奈良の大文字送り火は昭和35年8月15日に戦没者慰霊と世界平和を祈って始められました。

奈良大文字送り火


●志貴皇子の葬列の送り火

大文字送り火が点火される山は高円山といい、奈良時代の皇族・志貴皇子の墓があります。

万葉集に笠金村が詠んだ志貴皇子への晩歌があります。

亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手挟み 立ち向ふ
高円山(たかまどやま)に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何(い)かと問へば
玉鉾の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり 吾に語らく
なにしかも もとな唁(と)ふ 聞けば 泣(ね)のみし哭(な)かゆ
語(かたら)へば 心ぞ痛き天皇(すまらぎ)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光りぞ ここだ照りたる

(梓弓を手に持ち、勇士たちが狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かい狩をする高円山。
その高円山に、春野を焼く野火のように火が燃えている
「この火は何か、」と問うと、小雨が降ったかのように涙で真っ白な喪服を濡らしながら道を歩いて来る人が立ち止まって答えた。
「どうしてそんなことをお尋ねになるのですか。
聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛みます。
天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです。」)

この歌をふまえて見ると、大文字送り火が志貴皇子のご葬列の送り火のように見えてきます。


●大文字送り火の由来

高円山に大文字送り火の由来を記した碑があり、次のように記されているそうです。

高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。
また護国神社のご神体の裏に位置する。こういったことから、高円山に大文字送り火を点火することにした。


護国神社は明治維新から第二次世界大戦までの奈良県出身の戦死者29,110柱の英霊を祀る神社で、昭和17年に創祀されました。

春日山岩渕寺は奈良時代に大安寺の僧、勤操(ごんぞう)によって創建されたと伝えられています。
勤操は空海の師匠で、空海は岩渕寺で勤操に弟子入りをしたそうです。

ところがいつのことか、岩渕寺は廃寺となってしまいました。
新薬師寺の十二神将はもとは岩渕寺にあったものだといわれています。
また白毫寺は岩渕寺の一院ではないかともいわれていますが、
白毫寺は志貴皇子の邸宅跡だともされています。

岩渕寺は志貴皇子の霊を弔うための寺だったのはないかと思ったりします。




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[2016/08/15 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)