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宇陀松山夢街道 町並みライトアップ 『宇陀松山はなぜ薬の町として栄えたのか』 

宇陀松山夢街道 町並みライトアップ・・・http://udayumekaido.seesaa.net/

①薬の館

宇陀松山は江戸時代に陣屋町として栄えた町で、今も情緒ある街並みが残されています。

宇陀松山 薬の館 

↑ 薬の館(旧細川 家住宅)です。
かつて細川家は薬商を営み、「人参五臓圓」「天寿丸」などを販売していました。
藤沢薬品の創業者・藤沢友吉は細川家の出で、のちに藤沢家の養子となっています。

宇陀松山 薬の館 

唐破風付きの看板がとてもゴーシャスですね~!

②マラリアを治した神様

宇陀松山 薬の館 薬箱

 ↑ 薬の館の内部です。
魔除けの鍾馗(しょうき)さんや薬箱が目をひきます。
唐の玄宗がマラリアを患った際、大鬼が現れて宮中でいたずらをしていた子鬼を食べると玄宗の病は回復したという伝説があります。
この大鬼が鍾馗さんです。

昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が病をわずらい、
「薬屋の鬼瓦にはねかえった悪いものが自宅に入った」として、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ、
病が完治したという話があり、ここから屋根に鍾馗像を置く習慣が生じたと言われます。

よく屋根の上などに魔除けとして鍾馗さんの像が飾ってあるのを見かけるのはこの伝説に基づくものなのでしょう。

薬屋さんにも鍾馗さんを祀る習慣があったんでしょうか?
だとしたら玄宗のマラリアを治した神様ということで鍾馗さんを信仰していたのかも?

宇陀松山-薬の館 へっついさん 

薬の館 へっついさん

③端午の節句に薬猟が行われた地

5月5日の端午の節句に鍾馗さんの絵や像を奉納する習慣もあったそうですが
ここ宇陀松山は端午の節句とも関係の深い土地でした。

古代にはこのあたりは阿騎野と呼ばれていたのですが
推古19年(西暦611 年)5月5日、阿騎野で薬猟(くすりがり)が行われたという記述が日本書記にあります。
また天武・持統天皇代にも阿騎野で薬猟が行われています。

薬猟とはもともとは鹿をとらえて薬となる鹿の角をとることをいっていたようですが、しだいに男性は狩猟を、女性は薬草摘みをする行事へと変化していったようです。

宇陀松山には「薬の館」(旧細川家住宅)のほか、「森野旧薬園」などもあり
江戸時代には薬や吉野葛の商いで栄えていましたが、そのルーツは古代の薬猟にあるのかも?

宇陀松山 万方寺 

万法寺

④宇陀は不老長寿の妙薬(水銀)を産する土地だった。


なぜ阿騎野(宇陀松山)は古代に薬猟が行われたり、江戸時代には薬の町として栄えたのでしょうか。
薬草が豊富に採れたから?
でも、阿騎野が特別薬草の生育に適した土地のようには思われませんし
特産品の薬草があるとも聞きません。(私が知らないだけ?)
しかしどうやら、阿騎野で採れる薬草にはブランドとなりうる特徴があったようです。

『日本書紀』皇極3年に、菟田山で生えていた紫のキノコ(芝草)を食べて不老長寿であったという記事が記されています。
『日本霊異記(りょういき)』には宇陀の山野の野草を食べた女性が天女になったという話が記されています。

宇陀には水銀(丹)の鉱脈があります。
水銀はかつて不老長寿の妙薬とされていました。
『日本書紀』や『日本霊異記』の話は宇陀に水銀の鉱脈があるところから作られたのではないでしょうか。

つまり、宇陀の薬草は不老長寿の妙薬である水銀を含んでいるということでブランド化したのではないかと思うのです。

万法寺 
万法寺

⑤水銀はなぜ不老長寿の妙薬と考えられたのか?

水銀は水俣病の原因になるなど不老長寿どころか健康に悪いのですが
なぜ水銀が不老長寿の妙薬であるなどと考えられたのでしょうか。

高野山 紅葉 『空海と即身仏』 
↑ こちらの記事にも書いたように、は多くの即身仏が残ることで有名な山形県湯殿山は土壌の水銀濃度が高いです。
即身仏になるためには木食といって五穀を絶って木の実や草などを食べる修行を行います。
水銀には防腐作用があります。
土壌の水銀濃度が高いとそこで育った木の実や草の水銀濃度も高くなり、これらを食べることで体内に水銀が蓄積され、その防腐作用で死後腐りにくい体になったと考えられています。

なぜ苦しい修行を行ってまで即身仏になろうとしたのかというと、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるとき、復活してその聖業に参加するためであったといわれます。
昔の人々は復活するためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えていたのではないでしょうか。

宇陀松山 西口関門 
松山西口関門

宇陀松山きみごろも 
宇陀松山





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[2019/08/26 15:19] 奈良の祭 | TB(0) | CM(0)

正暦寺 人形供養 『正暦3年3月3日に亡くなった女性』 


正暦寺・・・奈良市菩提山町157
人形供養・・・3月9日 午後2時より(確認をお願いします。)

正暦寺 人形供養6 

①正暦寺の開基は女性じゃなかった~。

この時期、法華寺では古代雛人形展をおこなっていますが、法華寺は光明皇后が開いたお寺ですね。
京都の宝鏡寺でも、人形展や人形供養を行っていますが
宝鏡寺は光厳天皇の皇女・華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼を開基とするお寺で、その後多くの皇女が歴代となっています。

 正暦寺でも人形供養が行われていますが、やはりこのお寺が女性と関係が深いからでしょうか?

そう思って調べてみましたが、正暦寺は992年(正暦3年)に、一条天皇の勅命を受けて兼俊僧正(九条兼家の子)が創建したお寺でした!
正暦寺の開基は法華寺や宝鏡寺のように女性ではなかったのです~。

正暦寺 人形供養5 

②正暦3年3月3日に亡くなった女性

ですが正暦寺が創建された992年を調べてみると、輔子内親王という女性が逝去していることがわかりました。
村上天皇の第7皇女で冷泉天皇は同母兄です。
冷泉天皇が即位した際(967年)、兄冷泉天皇の斎宮に卜定されました。

斎宮は未婚の内親王または女王の中から選ばれ、一代の天皇につき、ひとりの斎宮が選ばれるのがならわしでした。

斎宮に選ばれると、初斎院(占いによって大内裏の殿舎が潔斎所に定められた。これを初斎院という。)や野宮(初斎院で1年間斎戒生活を送ったのち翌年8月に京外の清浄な地に建てられた野宮に移った。)で潔斎生活を送ったのちに伊勢に群行しました。

しかし冷泉天皇の即位期間が短かったので、輔子内親王は群行しないまま退下しています。

逝去したのは3年3月3日(旧暦)。桃の節句です。
しかも正暦3年(992年)で3が3つ揃っています。

正暦寺 人形供養3 
③輔子内親王の命日は本当に3月3日?

本当に輔子内親王の命日が3月3日なんでしょうか。ちょっと怪しいなあ~。

例えば、柿本人麻呂・小野小町・和泉式部の命日はともに3月21日だとされています。
梅原猛さんは、柿本人麻呂・小野小町・和泉式部の命日は本当に3月21日だったわけではなく、お彼岸の日を彼らの命日にしたのではないかとおっしゃっています。

昔の日本人は正確な日にちにこだわらず、縁のある数字にこだわっていたようです。

輔子内親王の命日が正暦3年3月3日というのも、正確な日にちではなく、桃の節句なので、この日を命日としたのかもしれませんね。

正暦寺 人形供養4 

④平安時代、上巳の節句は3月3日じゃなかったけど・・・・

ここで雛祭りの歴史に詳しい人なら、こんな風に思うはずです。
「雛祭りを3月3日に行うようになったのは室町時代以降じゃないの?正暦3年って平安時代でしょ。
平安時代は3月初めの巳の日に、上巳(じょうし、じょうみ)の節句を行っていたのでは。」と。
はい、そのとおりです。
でも、中国では国時代の魏(220年 - 265年)より3月3日に行われるようになったと言われています。
日本は遣隋使・遣唐使を派遣して中国文化をとりいれようとしていましたから、中国で3月3日に上巳の節句を行っていることを知っていたはずです。
なので、正暦3年3月3日と言う日付に、当時の人々は「何か意味がある」と考えたのではないかと思います。

正暦寺は輔子内親王の菩提を弔うために創建されたお寺じゃないかと思ったりしますが、どうでしょう?

正暦寺 人形供養2 


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[2019/03/08 16:29] 奈良の祭 | TB(0) | CM(0)

鏡作坐天照御魂神社 おんだ祭 『てるてる坊主を祀る神社?』 

良県田原本町 鏡作神社
おんだ祭・・・2月21日に近い日曜日


鏡作神社-巫女

①怖えーー!「てるてる坊主の歌」

突然ですが、あなたは「てるてる坊主」の歌をご存じですか?

てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ

てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ

てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ


えーーーっ?「首をチョンと切るぞ」ってあんまりじゃないですか?

鏡作神社 おんだ祭

②てるてる坊主は天照国照日子火明命?

なぜいきなりてるてる坊主の話をしたのかというと、てるてる坊主って、ここ鏡作神社の御祭神の天照国照日子火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)の事じゃないかと思うからです。

天照国照日子火明命という神名の中に照(てる)という言葉が2回でてきますね。
そてで「てるてる坊主」なんじゃないかと。

天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしみかたま にぎはやひ の みこと)という神様もいます。

鏡作神社 おんだ祭 

③本物の天照大神とは天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命だった?


各地に天照大神は男神と伝わっており、天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命が本当の天照大神だとする説があります。
天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って出てきた、ゆえに天照大神は男神だとする説もあります

天照大神=天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命=てるてる坊主?
ということはですよ、「てるてる坊主」って太陽の神様の首をちょんと切ってやるぞ、という歌?
なんてバチあたりな!

鏡作神社 おんだ祭

④初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?

天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命は天の磐船を操って、神武天皇より早く河内に降り立ったとされる神様で、物部氏の祖神とされます。
ここから、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説もあります。

天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命を神と奉じる長髄彦なる者がおりまして、長髄彦は遅れてやってきた神武の軍と戦い、破れてしまいます。

↑ これ、普通に読めば王朝の交代、ですね?
なのに、なぜかこれを大っぴらに語る人は少ないです。タブー視されてるってことかな。


鏡作神社 おんだ祭 

⑤邪馬台国=大和国は物部王朝?


日本は神武天皇がつくり、現代までずっと皇統が続いてきたといいますが、それは嘘で王朝交代があったと思います。
邪馬台国は大和国で物部王朝だと思います。

籠神社で発見された系図に、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』、『またの名を神大市姫命』、『日神ともいう』と記されています。

卑弥呼とは日女命に漢字をあてたものではないかとする説があります。
卑弥呼=日女命=倭迹迹日百襲姫命

そして日女命=倭迹迹日百襲姫命の先祖の彦火明命は、天照国照彦火明櫛甕玉饒速日という神名の中に『彦火明 命」があるので、
彦火明命と天照国照彦火明櫛甕玉饒速日は同一神だと思われます。
すると、邪馬台国=大和国は物部王朝だということになります。


鏡作神社 おんだ祭 

⑥神武は入り婿になって大和国を乗っ取った?

古事記によれば、神武天皇は大物主神の娘のヒメタタライスケヨリヒメを皇后にしたとあります。

大物主神とは奈良県桜井市の大神神社の御祭神で別名を倭大物主櫛甕魂命ともいいます。
天照国照彦火明櫛
甕玉饒速日命と倭大物主櫛甕魂命は神名の玉(魂)が共通するので同一神ではないかともいわれています。

物部氏の祭祀する神社は磐船神社・石上神社(現在の神殿は最近になってつくられたもので、もともとは神殿がなかった)神殿をもたない神社が多いです。
大物主神を祀る大神神社も神殿がありませんので、もとは物部氏が祭祀する神社であったのではないかと思います。

すると、神武天皇は、物部王朝の娘を皇后にしたということになります。

神武は入り婿になって大和国を乗っ取ったのではないでしょうか。


 鏡作神社 おんだ祭

⑦天照大神が女神である理由

このように考えると、天照大神が女神である理由がわかります。
本来、天照大神とは物部氏の神であったのでしょう。
そして、天照大神の子孫が天照大神の名前を襲名して大和をおさめるというしきたりがあったのだと思います。
それだと神武は天皇にはなれません。
そこで、自分の妻を天皇とし、彼女を天照大神としたのではないでしょうか。
こうしておけば、神武自身は天皇になれなくとも神武の子孫は天皇になれます。

もともとの天照大神は男神で物部氏の祖神だった。
天皇家の祖神ではないので首をチョンと切っても構わない、と考えられたのかもしれません。
 

鏡作神社 おんだ祭 


鏡作神社 おんだ祭 
鏡作神社 おんだ祭




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[2019/03/01 10:34] 奈良の祭 | TB(0) | CM(0)

おふさ観音 初えびす大祭 『えべっさんとだんじり囃子』 

奈良県橿原市 おふさ観音
初えびす大祭 1月第3日曜日

おふさ観音 えべっさん 


おふさ観音 えびす像

①えべっさんは耳が悪い

おふさ観音の初えびすに向かう道中、私は「えべっさん」と「狸の吉兵衛」について考えを巡らせていました。
案の定、つまづいて、すってんころりん!となりました~。

えー、京都えびす神社や大阪の今宮戎神社には、社殿の後ろの板をたたいて参拝するという習慣があります。

京都ゑびす神社 十日戎 

京都ゑびす神社の社殿の裏を叩いて参拝する人々


なぜこんなこをするのかというと、「えべっさんは耳が悪いので、よく聞こえるように」ということだそうです。

②榎本の神も耳が悪い。

奈良・春日大社にある榎本神社にも同様の習慣があります。

榎本神社

榎本神社

榎本の神はタケミカヅチに『土地を三尺譲ってほしい』といわれ、承諾しました。
ところがタケミカヅチの言う三尺とは地下三尺という意味だったのです。
こうして榎本の神は広大な神域をタケミカヅチに奪われてしまいました。


榎本の神は耳が遠いので、柱を叩き、祠を回って参拝する習慣説があります。

同様の習慣があるところから、えべっさんと榎本の神は同一神ではないかと私は考えました。


③榎本神社と榎木神社は━があるかないかの違いしかない。

その後、大阪堀川戎の十日戎に参拝した際、境内に、「榎木稲荷神社」があるのをしりました。

榎木稲荷神社 

榎木稲荷神社

榎木稲荷神社の榎木と榎本は横棒が一本あるかないかの違いしかありません。

③地車稲荷と狸

榎木神社は地車(だんじり)の形をしているので、地車稲荷とも呼ばれていおり、次のような伝説があります。

かつて天満堀川の堀止めに側に榎があり、その根元に木の神・句句廼知神を祀る祠がありました。
榎の大の木の根元には吉兵衛という老狸が住んでいて、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていました。
1839年、その地に本殿・拝殿を造営して正式に榎木神社を創建し、堀川戎神社末社の稲生神社の分霊を合祀しました。
明治40年に堀川戎神社と合併してここに遷座しました。
願い事が叶った夜には地車囃子が聞こえるといわれています。


ふつう、稲荷神社といえば狐ですが、榎木神社は狸なんですね。
四国の稲荷神社も狸なのだそうです。
弘法大師が四国の狐を追い出して、狸を開放したなどとも言われています。

1839年に榎木神社に堀川戎神社末社の稲生神社の分霊が合祀されたり、明治40年に榎木神社と堀川戎神社が合併されたりしていますが、これは戎神と榎木の神=吉兵衛が同一神だという認識を人々が持っていたためではないでしょうか。

堀川戎神社 十日戎 福娘2 
堀川戎 福娘

④榎本の神は物部守屋?


春日大社にある榎本神社の御祭神は猿田彦神です。
日本書紀には猿田彦は『高天原から葦原中国までを照らす神』だと記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒです。
猿田彦神とニギハヤヒは同一神なのだと思います。

ニギハヤヒは物部王朝の祖神ですが、物部守屋は蘇我氏+聖徳太子との戦いの際、榎の上にいたところを矢で射られて死んでいます。
榎本神社とはこの物部守屋のことではないでしょうか? 

堀川戎神社 十日戎 しころ 
堀川戎 しころ

⑤榎木の下に住む吉兵衛狸は物部守屋?

同様に榎木の大木の根本に住む狸の吉兵衛もまた物部守屋のことなのではないでしょうか。
堀川戎神社や榎木稲荷神社には柱や壁を叩く習慣はなさそうではありますが。

大阪は物部守屋ゆかりの地で聖徳太子が建てた四天王寺は物部守屋の土地を没収して建てられたものです。

また、聖徳太子と物部守屋は下図のように陰陽に描き分けられています。
聖徳太子物部守屋
少年大人
崇仏派廃仏派
弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた。榎木の木の上にいるところを弓で射られて死んだ。
1度に10人の人の話を聞き分けた。(耳がよかった。)

聖徳太子は1度に10人の人の話を聞き分けたといいます。
聖徳太子は耳がよかったということでしょう。
すると 聖徳太子が陽であるのに対して、陰の物部守屋は耳が悪かったのではないでしょうか。

大聖将軍寺 神妙椋樹 

大聖将軍寺 神妙椋樹 弓で射られそうになった聖徳太子が椋の木に隠れたという伝説にもとづくもの。

⑥岸和田に伝わる吉兵衛伝説

堀川戎の榎木稲荷神社はだんじりの形をしていますが、だんじりといえば岸和田だんじり祭です。

だんじりのルーツは京都祇園祭の山鉾だといわれますが
祇園祭の山鉾がゆっくりと巡行するのに対し、大阪のだんじりはものすごいスピードで駆け抜けていきます。
これはだんじりに乗っている神様(榎木明神=物部守屋=狸の吉兵衛)が荒魂であるからではないでしょうか。

岸和田だんじり祭 

岸和田だんじり祭

そしてなんと岸和田の昔話にも吉兵衛という男の昔話が伝えられています。

昔、現在の岸和田市並松町あたりに吉兵衛というだんじり好きの男のもとに狸たちが訪れて吉兵衛とともに尻尾で太鼓をたたきました。。
それ以降、祭が終わると風に乗って狸の祭囃子が聴こえてくるようになりました。


だんじり好きの男とは物部守屋の霊、そして狸は守屋の神使ということなのでは?

信楽焼の狸と花火  


⑦おふさ観音の初えびす大祭ではだんじり囃子が鳴り響いていた!

前置きが長くなりましたが、そろそろおふさ観音に到着しますよ。
何か、にぎやかな音が聞こえてきますね。
これは、もしや・・・・

おふさ観音 だんじり囃子

やはりだんじり囃子でした!

おふさ観音の初えびす大祭でだんじり囃子が奏でられているのは偶然なんでしょうか?

おふさかんのん 千羽鶴 
おふさ観音 奉納された千羽鶴

お房観音 弥勒石 

おふさ観音 弥勒石

おふさ観音 七福神 
おふさ観音 七福神


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[2019/01/19 20:00] 奈良の祭 | TB(0) | CM(0)

春日大社 舞楽始 『秦河勝は舞楽の神&杓子の神?』 

 
奈良市春日野町  春日大社
舞楽始め・・・成人の日


春日大社 舞楽始 お祓い 
①舞楽と秦河勝

舞楽と深いかかわりがある人物として秦河勝がいます。
秦氏は渡来系氏族であり、秦河勝は聖徳太子のブレーンでした。

聖徳太子は秦河勝の息子や孫に伎楽を学ばせたといわれます。
そしてその子孫が天王寺楽人(がくにん)となって伎楽を伝えたのが、天王寺舞楽だというのです。

春日大社 舞楽始2

②聖徳太子は怨霊だった?

天王寺舞楽を代表する四天王寺の行事といえば聖霊会ですね。
聖霊会はやはり聖徳太子ゆかりの寺・法隆寺でも行われており、「蘇莫者」という演目が演じられます。
天王寺舞楽にも「蘇莫者」はありますが、聖霊会で必ず行われるということはないようです。
下の「蘇莫者」は四天王寺で撮影したものですが、「聖霊会」ではなく「篝の舞楽」の行事の中で演じられたものです。

四天王寺舞楽-蘇莫者 

蘇莫者 聖徳太子は飛鳥と天王寺の間を愛馬「甲斐の黒駒」に乗って往復していたが、あるとき大和川の亀の瀬で、太子が洞簫(どうしょう/中国古代の尺八)を吹いたところ、老猿(信貴の山神)が現れて笛の音に合わせて舞った。これを舞楽にしたものと伝わります。

梅原猛さんは「聖霊会」は聖徳太子の怨霊を鎮めるための祭であり、「蘇莫者」に登場する老猿は聖徳太子の怨霊で、
「蘇莫者」とは「蘇ること莫きもの」という意味ではないかと説かれました。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていました。

聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって死に、聖徳太子の血筋は絶えてしまいました。
それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと梅原さんはおっしゃいます。

春日大社 舞楽始 振鉾

また聖徳太子が怨霊であることの証拠として、次のような例をあげられています。

①聖徳太子が建てたと伝わる法隆寺の夢殿は、開扉すると大地震がおこると伝えられ、長年あけられたことがありませんでした。
②1908年フェノロサが夢殿の扉をあけたところ、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音がでてきたのですが、布でグルグル巻きにされフランケンシュタインのような状態でした。
また、光背が頭に直接釘で打ち付けられていました。(一般的には足元にたてた棒に光背をつける。)

これらは怨霊封じ込めの呪術ではないかと梅原さんは指摘されたのです。

春日大社 舞楽始

③秦氏が聖徳太子を供養した?

古には芸能は娯楽ではなく呪術的な意味合いを持っていたのではないかと私は考えます。
つまり、神や怨霊を楽しませたり、慰霊したりするのが芸能の目的であったのではないかと思うわけです。

「聖徳太子が秦河勝の息子や孫に伎楽を学ばせた」というのは
「聖徳太子の霊が、自分の霊を慰霊するために、秦河勝の息子や孫に伎楽を学ばせた」という意味ではないでしょうか。

井沢元彦さんは梅原猛さんの説を受けて「聖徳太子が怨霊になったのは彼の子孫が全員法隆寺で首をくくって亡くなったため、先祖の供養や祭祀はその子孫がするべきとされているが、そうした人物がいなくなったためではないか」とおっしゃっています。

そして芸能は呪術であり、供養は慰霊のために演じられることも多かったと思います。

秦氏はそうした供養や慰霊のための呪術にたけており、子孫が絶えて誰も供養慰霊する人がいなくなった聖徳太子を秦氏が供養慰霊した。

そういう意味ではないかと思ったりします。

春日大社 舞楽始3

④秦河勝は怨霊だった?

秦河勝にはこんな伝説もあります。

河勝は摂津国難波の浦からうつぼ舟に乗って船出し,播磨国坂越(しやくし)の浦に着いた。
そこで人々に祟ったので、大荒(おおさけ)大明神としてまつられた。

祟ったということは、聖徳太子だけでなく秦河勝も怨霊だったということでしょうか?

どうも、聖徳太子と秦河勝が混同された結果、
聖徳太子=怨霊
聖徳太子=秦河勝
∴秦河勝=怨霊
となって、このような伝説が作られたのではないかという気がしなくもないです。

 春日大社 舞楽始 

⑤坂越(しやくし)=杓子?

また上の伝説で河勝の霊が播磨国坂越(しやくし)の浦についた、とあるのも気になります。
坂越と書いて「しやくし」と読むのですが、その音は「杓子(しゃくし)」に似ていますね。

そして四天王寺には杓子の神に対する信仰があります。

四天王寺 咳の地蔵尊

上の写真は四天王寺にある「咳の地蔵尊」ですが、「石の地蔵尊」から語呂合わせで「咳の地蔵尊」となったのではないかと思います。

ミシャグジはオシャモジとも呼ばれて信仰されている神で、諏訪地方では白蛇の姿をしているとか、タケミナカタや洩矢神と同一神ともされています。

シャモジを奉納する習慣がある神社はたくさんあり、中には咳にご利益があるとされているところもあります。
それはミシャグジ→御石神→石→セキ→咳という語呂合わせだと思います。

また聖徳太子生誕の地と伝わる橘寺にもたくさんの杓子が奉納されていました。

春日大社 舞楽始め

坂越(しやくし)という地名は、秦河勝が杓子の神であるところからついた、なんてことないかな?

春日大社 舞楽始 



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[2019/01/18 18:00] 奈良の祭 | TB(0) | CM(0)

陀々堂 鬼ばしり 『堂内で松明を燃やしても火災にならない理由』 

奈良県五條市 念仏寺
鬼ばしり・・・1月14日

陀々堂 昼の鬼走り

①阿弥陀如来に仕える善い鬼

[鬼はしり」は修正会結願の行事で、500年以上の歴史をもちます。
室町時代中期に領主・坂合部是房の弟頼澄別当が東大寺二月堂の修二会に倣って始めたといわれていますよ。

念仏堂の鬼は阿弥陀如来に仕える善い鬼とされているそうです。確かに、人のよさそうな(鬼のよさそうな?)顔をしていますね。

陀々堂 鬼走り 大般若経転読 
午後1時半ごろより大般若経転読が始まります。

鬼とは怨霊のことだと言ってもいいと思いますが
五條には怨霊で知られる井上内親王の墓や、井上内親王の霊を祀る御霊神社もありますね。
そのため、怨霊に親しみや信仰があり、怨霊=鬼は悪いもの、というよりも、よいものだという認識があるのかもしれません。

奈良の元興寺には「がこぜ」と言う鬼の伝説がありますが、節分会では「福は内、鬼も内」といいます。
こちらも、怨霊や鬼に親しみや信仰があり、怨霊や鬼をよきものとする認識があるのだろうと思います。

陀々堂 鬼はしり 僧侶のお練り 
大般若経転読を終えた僧侶たちのお練り

井上内親王は光仁天皇の皇后でしたが、天皇を呪詛したとして五條に幽閉されてしまったのです。
子の他戸親王も連座したとして廃太子となり、母親とともに五條に幽閉され、ふたりは幽閉先で同じ日に亡くなりました。
山部親王の立太子をもくろむ藤原良継・藤原百川らの陰謀だともいわれています。

陀々堂 鬼走り 太鼓

陀々堂 鬼走り 観音様の肩たたき 

↑ お経を運ぶ棒を用いて板を叩くと、境内に乾いた音が響き渡ります。
「観音様の肩叩き」と呼ばれ、かつては堂内の壁を叩いていたそうです。


②陀々堂の鬼ばしりで火事にならない理由


陀々堂の鬼ばしり出は松明を持った鬼が堂内をまわりますが、いままで火事になったことがありません。
地元の方がその理由を教えてくださいました。

陀々堂 昼の鬼走り-堂内の焚火 

お堂須弥壇の裏では日中からどんどん火を焚いています。

陀々堂 昼の鬼走り 2 
午後4時ごろより、昼の鬼走り・子供の鬼走り(写真は子供の鬼走り)が行われます。
堂内に煙がたちこめていますね。

陀々堂 鬼走り 餅撒き

午後4時半ごろより福餅撒き

陀々堂 鬼走り 放水 
午後4時50分ごろ、茅葺の屋根に放水が行われました。これも火災対策のひとつですね。

陀々堂 鬼走り 護摩 

堂内で護摩供が行われ、堂内の煙はますます充満していきます。


陀々堂 鬼走り 護摩(境内) 

お堂の外でも護摩が焚かれます。


 陀々堂 鬼走り

午後9時ごろ、夜の鬼走りが始まります。

堂内に充満した煙がお堂の外にまで流れてきていますね。
この煙が火災防止に効果的だというのです。

鬼は松明を持ったまま堂内に入っていくのですが、煙が充満した堂内の上部にはH2O(水蒸気)、CO2(二酸化炭素)、COがたまり、O2(酸素)が少ない状態になっています。

火が燃えるためには酸素が必用で、酸素が少ないと火が燃えません。
そのため堂内に持ち込んだ松明の炎は小さくなります。
そして、お堂の入り口付近に鬼が立つと、そこには酸素が多くありますから松明の炎は大きくなるというわけです。
バックドラフトのようなものですね。
うーん、すごい知恵だ!

陀々堂 鬼走り-父鬼 

↑ 父鬼面(赤鬼)
長さ60cm、幅42.5cm、重さ4.5kg。


陀々堂 鬼走り-母鬼 
↑ 母鬼面(青鬼)
長さ51.5cm、幅38cm、重さ4.5kg


陀々堂 鬼走り 子鬼 

子鬼面(茶鬼)
長さ47.5㎝、幅35.5cm、重さ3.2kg。


大きなお面は顔を火傷から守ってくれるとのことです。


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[2019/01/17 15:38] 奈良の祭 | TB(0) | CM(0)

飛鳥 光の回廊 飛鳥 光の大道芸 『火の神の棲む山?』 

奈良県明日香村 あすか風舞台 (石舞台横)
飛鳥光の回廊…2018年 9月23日


飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス
 

炎のパフォーマンス集団火炎ーBanvieng さんによる迫力のファイアーダンス!

①ひょっとこは火男だった?


日本の火の神としては、ひょっとこがいます。
ひょっとこは火男がなまったものだともいわれ、突き出した口は火をおこす際に風を送っているのだと説明されることもあります。
京都の夏の風物詩・六斎念仏の演目「祇園囃」にはおかめとひょっとこが登場し、ひょっとこが火の用心の巻物を広げたりしますよ。

梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ 

梅宮大社 梅津六斎

②火の神・ガクツチは天香具山の「香具」や「かぐや姫」の語源?

そのほかの日本の火の神としてはカグツチがあります。

イザナミは火の神・カグツチを出産する際、ほとに火傷を負って死んでしまいます。
イザナギはこれに激怒してカグツチを切り殺してしまいました。


カグツチは、火をおこすのに用いられていた火鑽杵(ヒキリギネ)を神格化したものではないかという説があります。
火鑽杵とは火鑽臼(うす)にあてて回転させる棒(おもにヤマビワの木が用いられる)のことで、火鑽臼と火鑽杵が擦り合わさることで発火します。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

御火鑽具(みひきりぐ)を用いて木と木をすり合わせる舞錐式発火法(まいきりしきはっかほう)とのことですが、
木地師が用いる轆轤のような道具で火鑽杵を効率よく回転させる様子に目が釘つけになりますね~。

火鑽杵は男性、火鑽臼は女性で、火をおこすようすを男女和合に喩えたのではないかと言う説もあります。

また、カグツチのカグは大和三山のひとつである天香具山の「香具」や「かぐや姫」の語源ではないかと言われています。

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス

③天香具山は火山ではなかった。

こう聞いて、私は一瞬「えっ、天香具山って昔火山だったの?」と思いました。
火を噴く火山であれば、カグツチの名前をつけるにふさわしいじゃありませんか。

しかし、実際には大和三山の中の畝傍山と耳成山は死火山だそうですが、天の香久山は火山ではなかったようです。

藤原京跡 蓮

天香具山
 

③天香具山は鉱山だった?


『古事記』に次のように記されています。

すると高天原はすっかり暗くなり、
葦原中国あしはらのなかつくにもすべて闇になった。こうしてずっと夜が続いた。
そして大勢の神々の騒ぐ声は夏の蠅のように充満し、あらゆる災いがことごとく起こった。
そこで八百万の神々が、天の安の河の河原に集まり、
高御産巣日たかみむすひの神の子、思金神おもひかねのに考えさせて、
常世とこよ長鳴鳥ながなきどりを集めて鳴かせ、天の安の河の川上にある堅い岩を取り、天の金山かなやまの鉄を採って、鍛冶職人の天津麻羅あまつまらを捜して、
伊斯許理度売命いしこりどめのに命じて鏡を作らせ、玉祖命たまのおやのに命じて八尺の勾玉をたくさん長い緒に通して作った玉飾りを作らせ、
天児屋命あめのこやねの布刀玉命ふとだまのを呼んで、天の香山かぐやまの雄鹿の肩の骨を抜き取り、天の香山のうわみず桜の木を取ってその骨を灼いて占わせ、
天の香山の枝葉の茂った榊を根こそぎ掘り起こしてきて、上の枝には八尺の勾玉をたくさん長い緒に通して作った玉飾りを取り付け、
中の枝には
八尺鏡やたかがみを掛け、下の枝にはこうぞの白い幣帛と麻の青い幣帛を垂れかけ、これらさまざまな物は、布刀玉命が神聖な御幣として捧げ持ち、
天児屋命は神聖な祝詞を唱えて寿ぎ、
天手力男神あめのたぢからをのは戸の脇に隠れて立ち、天宇受売命あめのうずめの天の香日蔭鬘ひかげかずらたすきにかけ、
天の
真拆葛まさきかずらを髪飾りとして、天の香山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸いわやとの前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、
神がかりして乳房を掻き出し、裳の紐を女陰まで押し垂らした。
すると、高天原が鳴動するばかりに、八百万の神々が一斉にどっと笑った。


https://kojiki.ys-ray.com/1_6_2_ihayato_gomori_4.html より引用

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス

「天の香山」は「天の香具山」と読まれ、大和三山の香具山を神話の世界に持ってきたもの、と一般には考えられています。

「天の金山(かなやま)」は鉱山のことと考えられていますが、西郷信綱さんは『古事記注釈 第一巻』の中で「カナヤマがカグヤマに転化したのではないか」と考察されているそうです。
つまり、天の金山は天香山であり、天の香山で鉄が採取さてたということ・・?

『日本書紀』の一書には、「 石凝姥(イシコリドメ)を冶匠とし、天の香山の金を採って日矛を作らせた」とあります。
ここにある金とは鉄のことと解釈されています。

天の香具山は鉱山だったのでしょうか?

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス 

④火葬されたわが身を嘆く歌

天の香具山が鉱山だったのかどうか、2日調べましたが、わかりませんでした~。
しかし、閃いたことがありました。

百人一首に持統天皇が詠んだこんな歌があります。

春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)

旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月でした。
旧暦は新暦よりおよそ1か月遅れとなりますので、新暦に換算すると5月ごろに詠んだ歌だと考えられます。

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス 
ん?んむむむ?

持統天皇の「春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という歌には、もうひとつ裏の意味がかくされていることを発見しました!

ヒント・・・持統天皇は天皇としては初めて火葬された方です。

もうおわかりですね~。

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス p

 「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味でしょう。
「夏」は五行説では「火」です。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことだと思います。死に装束は白です。

持統天皇の歌には表の意味のほかに、「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている衣をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」
という裏の意味が隠されているのではないでしょうか。

もちろん、死後に歌を詠むことはできません。
持統天皇の死後、誰かが持統天皇の身になって詠んだか

あるいは持統天皇が生前に軽い気持ちでこの歌を詠み
「この歌を詠んだため、言霊が作用して持統天皇は火葬されてしまった」のだと世の人々は考えたのか
どちらかだと思います。

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス

⑤火葬と火の山・香具山をかける?


④については、以前の記事・藤原京跡 コスモス 蓮 『持統天皇が火葬されたわが身を嘆く歌』 にすでに記していました。
今回のひらめきは、天の香具山が火の神・カグツチの山で、火葬と火の山=香久山をかけてあったということです。
古代人は、山や植物など、意味なく歌に用いるということをどうやらしなかったようです。
古代人はひとつの山、小さな植物にも意味をこめて歌を読んでいたと考えられるのではないでしょうか。

香久山は火の神・カグツチの山だと考えられるので、火の山だという信仰があったのかもしれませんね。


飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス 

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス2 

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス 石舞台 
↑ これは合成


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[2018/10/06 11:19] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

唐招提寺 うちわまき 舞楽 黄菖蒲 菖蒲 『蚊の妖怪・紫女』 


奈良市 唐招提寺
うちわまき 5月19日

唐招提寺 うちわまき

①蚊遣り火

そろそろ蚊のシーズンがやってきますね。
先日、我が家でも蚊がぶんぶんと飛んでおりまして、蚊取り線香をたきました。
この蚊取り線香ができたのは1890年のことで、大日本除虫菊株式会社の創業者・上山英一郎さんが開発したんだそうです。

それ以前の日本では、蚊遣り火(かやりび)を用いて蚊を駆除していました。
よもぎの葉、カヤの木、杉や松の青葉などを火にくべて煙をたたせることで蚊を追い払うのだとか。

唐招提寺 振鉾

蚊遣り火の週間は平安時代ごろからあったようで、鎌倉時代の文献にも登場します。

六月(みなづき)の頃、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり 徒然草/吉田兼好
(六月ごろ、みすぼらしい家に夕顔が白く咲いているのが見え、蚊遣火がくすぶっている情景をみるとしみじみとした気持になる。 )

かやり火の けぶりのあとや 草枕 たちなんのべの かた見なるべき 藤原定家
(蚊遣り火の煙のあとよ、旅をして一夜野宿をした その形見のようにみえる。)


※現代語訳、まちがっているかもです。(汗) 

唐招提寺 舞楽 陪臚

このように古くから蚊遣り火の習慣があったのですが、鎌倉時代の唐招提寺の僧・覚盛上人(かくじょうしょうにん)は蚊遣り火を焚かなかったのかもしれません。

というのは、覚盛上人は殺生を好まず、自分を刺した蚊さえ殺さなかったというのです。
蚊遣り火には殺虫効果はなさそうなので、もしかしたら焚いたかな?

覚盛没後、教えを受けた法華寺の尼僧たちが「せめてうちわで蚊を払ってほしい」と霊前にうちわを供えたという話が伝えられています。
うちわまきの行事はこれにちなむものとされます。

唐招提寺 うちわ 
②紫女は蚊の妖怪?


以前、こちら ↓ の記事に「妖怪・紫女」について書きました。
国営ひたち海浜公園 ネモフィラ 『吸血鬼 紫女』 

妖怪・紫女とねんごろな仲になった男は血を吸われてげっそりと痩せてしまい、最後には死んでしまうといわれます。

紫女とは蚊の妖怪だとも考えられますね。血を吸う蚊はメスなので。

唐招提寺 舞楽 蘭陵王 



③覚盛は法華寺の尼僧(紫女)に血を吸われて死んでしまった?

すると法華寺の尼僧たちが霊前にうちわを供えた、というのが気になります。

法華寺は尼寺なので、当然尼僧ばかりがいるお寺なわけです。
法華寺の尼僧は紫女で、覚盛は法華寺の尼僧(紫女)に血を吸われて死んでしまったということなのかな?

またうちわとは人の心や霊をまねく呪具でもありました。
法華寺の尼僧たちは覚盛の心を自分たちのほうにむけるためにうちわを奉納したんだったりして?

唐招提寺 舞楽 納曽利

④鑑真の再来・覚盛と光明皇后

覚盛は、奈良時代に唐招提寺を創建した鑑真の再来ともいわれています。
そして法華寺は光明皇后が創建したお寺です。

覚盛=鑑真、法華寺の尼僧=光明皇后
で、光明皇后が鑑真の血を吸って殺しちゃったという話だと考えるのはあまりにもトンデモ?

唐招提寺 黄菖蒲

いやいや、そうでもないかもですよ。
光明皇后は甥の藤原仲麻呂を寵愛していたといいます。
その藤原仲麻呂のあとおしを受けて、淳仁天皇が即位しています。

758年、淳仁天応は鑑真を大和上とし、僧綱の任を解きました。
僧綱とは仏教の僧尼を管理する役職です。
ウィキペディアには次のように記されています。

「政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F より引用

なんでもものはいいようでしてね、「政治にとらわれる労苦から解放するため」といいますが、実は「鑑真に僧尼を管理させないため」とも考えられませんか。


鑑真が日本にやってきたのは754年ですから、758年はそれからまだ4年しかたっていません。
それなのに役職を解かれてしまったのは、鑑真にとって残念なことだったのではないでしょうか?

そして、それは僧尼の人事を自分の思いのままにしたいという藤原仲麻呂の意思によるものであり
そのため藤原仲麻呂を寵愛していた光明皇后が鑑真を不幸に追い込んだと考えられたのかも?

唐招提寺 菖蒲 


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[2018/05/21 13:38] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

當麻寺 二十五菩薩練供養 『二十五菩薩練供養は聖徳太子信仰からくる?』 

奈良県葛城市 當麻寺
二十五菩薩練供養 5月14日 2019年より4月14日に変更

當麻のお練り4


當麻のお練り2

當麻のお練り 

①二十五菩薩練供養は聖徳太子信仰からくる行事?

當麻寺は当麻皇子が創建したと伝わります。
当麻皇子は麻呂子皇子ともいい、聖徳太子の異母弟です。

奈良県橿原市には久米寺があり、こちらは聖徳太子の同母弟・久米皇子が創建したといわれています。

當麻寺と久米寺ではどちらも二十五菩薩練供養を行っています。


久米寺 二十五菩薩練供養 
久米寺

そこで閃いたんですが、二十五菩薩練供養とは聖徳太子信仰からくる行事なのではないでしょうか?

②夕日が沈む二上山。そして二上山の向こうにある太子廟。

當麻寺は二上山の東にあり、奈良から見ると夕日は二上山に没します。
そして二上山の西、大阪府太子町の叡福寺境内に太子廟があります。

太子廟

太子廟

つまり、二上山の向こう側へ没する太陽は聖徳太子の霊であり、聖徳太子の霊を西方浄土に住む二十五菩薩が迎えにくると、そういう信仰から生じた行事なのではなかと思うわけです。

當麻寺には二十五菩薩が中将姫を迎えにくるという伝説があり、二十五菩薩練供養はその伝説に基づく行事とされます。
中将姫とは女性版・聖徳太子として創作された人物なのではないでしょうか?

③四天王寺の日想観

聖徳太子が創建した寺といえば四天王寺ですね。

四天王寺 夕日 

四天王寺

四天王寺の西はかつては海に面しており、海に沈む夕日を眺めることができました。
そして夕日を拝する日想観がさかんに修されていました。
夕日は聖徳太子の霊そのものとして信仰されたのではないでしょうか。

④大念仏寺には聖徳太子信仰があった?

四天王寺の南の平野区に大念仏寺があります。
大念仏寺は1127年、良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、聖徳太子から夢のお告げを受けて創建したお寺です。
そして、この大念仏寺でも二十五菩薩練供養が行われています。

大念仏寺 練り供養 
大念仏寺



あと、二十五菩薩練供養を行っている寺に京都東山区の泉涌寺の塔頭・即成院があります。

即成院 二十五菩薩練り供養 

即成院

直接聖徳太子信仰を思わせるものは見つかりませんでしたが、同じ泉涌寺の塔頭に悲田院があります。
非田院とは身寄りのない老人や子供、病人のための福祉施設で、聖徳太子が初めて作ったといわれています。

當麻のお練り 子供のお坊さん2 

當麻のお練り お稚児さん 

 當麻のお練り-お坊様 
當麻のお練り 雲の上の菩薩   
菩薩のマーチングバンド


 


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[2018/05/18 23:34] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

薬師寺 花会式 『花会式は鼻会式?』 

奈良県奈良市 薬師寺
花会式・鬼追い式・・・4月5日 


薬師寺 花会式 追儺

目の前に大きな火の塊がぼとりと落ちてきたりするので、注意!(自己責任で身の安全を守りましょう~)
火の粉があたり一面にまきちらされる様はまるで地獄絵のよう?

①お松明はみほとけを鋳造する様子を再現したもの?

東大寺二月堂の修二会・お松明は、大仏を鋳造する様子を再現したものだとする説がありますね。

二月堂で松明を振る人は童子と呼ばれますが、鬼は茨木童子・酒呑童子など童子と呼ばれることが多いです。
そして薬師寺では鬼が松明を振り回すので、二月堂修二会と同じことをやっていることになります。

さらに東大寺の大仏は銅で作られていますが、薬師寺のご本尊の薬師三尊像もまた銅で作られています。
薬師寺の修二会も二月堂の修二会と同様、みほとけを鋳造する様子をあらわしているのかも?

薬師寺 花会式-緑鬼 

②永遠の命を持つ造花と銅の体

花会式と呼ばれるのは、みほとけにたくさんの造花をお供えするためです。
現代人の感覚では造花より生花のほうが美しいと思いますが、昔の人は枯れない造花に永遠の命を感じたのではないかと思います。

銅の体を持つみほとけも、永遠の命を持つと考えられたことでしょう。
即身仏に対する信仰も同様だと思います。
普通の死体は腐りますが、即身仏は腐りません。(実際にはその多くは失敗で腐らない体となったのは日本全国で17例ほど)
200年ほど前の即身仏が現存し、祀られているケースもあります。

薬師寺 花会式 赤鬼2 

③薬師如来は星の神・スサノオ

このブログで何度も書いていますが、薬師寺のご本尊・薬師三尊像の中尊の薬師如来は星の神だと思います。
そのココロは~

陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央は星とするそうです。

薬師寺の薬師三尊像は、東に日光菩薩、西に日光菩薩を配置しています。すると中央の薬師如来は星の神となります。
松明から飛び散る火の粉は星をあらわしているのかもしれませんね。

 薬師寺 花会式 赤鬼

また記紀には次のような記述があります。
イザナミの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれた。

つまり、イザナミの顔は宇宙ということで、イザナミの顔の中心にある鼻からうまれたスサノオは星の神ということになります。

船場俊昭さんも次のようにおっしゃています。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。

薬師寺 花会式 緑鬼2

「地図では左は西で右は東。逆じゃないか」とおっしゃるかもしれませんが、
それは正しくは向かって左が西で、向かって右が東なのです。
地図の側に立てば、左が東で右が西となります。
薬師寺の薬師三尊像も、中尊の左手が東で日光菩薩が、中尊の右手が西で月光菩薩が配置されています。

薬師寺 花会式 黄鬼


明治になるまで日本では神仏は習合されて信仰されていたので、中尊の薬師如来はスサノオと同一視されていたことでしょうね。

そういえば、鼻と花は掛詞になっていますね。
京都仁和寺のお多福桜を詠ったこんな歌もあります。「花(鼻)は低とも人は好く」※お多福桜は木の高さが低い。

スサノオ=鼻の神=鼻の神ということで、たくさんの造花をお供えするんだったりして?

 

薬師寺 花会式 松明 



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[2018/04/07 15:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)