円覚寺 薬師堂念仏踊り 『念仏踊りと木魚』 

奈良県東吉野村 円覚寺 薬師堂
薬師堂念仏踊り 8月18日


①薬師堂念仏踊り

午後7時半ごろより、法要が始まりました。
見学者はカメラマン5名、民俗学愛好家の方2名のみ。
檀家さんたちは皆さん気さくで優しくて、親戚の家の法事に行ったみたいな気分に。ありがとうございました!

薬師堂念仏踊り 4 
僧侶の方が木魚を打っていますね。

薬師堂念仏踊り 木魚 

ぽくぽくぽく・・・・・

薬師堂念仏踊り 3

途中から、檀家さんが木魚を打ちました。

薬師堂念仏踊り 5 

薬師堂念仏踊り 2

午後9時ごろより念仏踊りが始まります。

薬師堂念仏踊り

♪ヨォ なーあんぶつ なーあぶーつな ソレ
なんと木魚をたたいていますよ。

薬師堂念仏踊り 詞章


②念仏踊りで木魚をたたくのは珍しい


念仏踊りは各地で行われていますが、木魚をたたくのは珍しいと思います。

玄武神社 やすらい祭2

上は京都・玄武神社のやすらい祭です。

昔の人は桜の花びらに乗って疫神が散っていく、と考えました。
そこで疫神を慰霊するため、奈良の大神大社で『鎮花祭』を行うようになりました。
京都のやすらい祭はこの『鎮花祭』をルーツとし、念仏踊りを加えたものです。
手には太鼓と鉦を持っていますね。

  空也堂 歓喜踊躍念仏

↑ こちらは京都空也堂で行われた空也踊躍念仏です。
やはり手には太鼓と鉦を持っていますが、木魚は持っていません。

③木魚は念仏のためのドラムだった

木魚は読経をする際にリズムをとるためのものでした。
読経用のスリットドラムですね。

そのルーツは禅寺で用いられていた魚梆(ぎょほう)であるとされます。
魚には瞼がなく、目を閉じないので、古の人々は魚は寝ないと考えていたとか。
そのため「眠る間も惜しんで修行せよ」という意味で魚のデザインになったそうです。

正明寺 魚梆

正明寺 魚梆

④円覚寺念仏踊りは浄土宗の影響を受けている?

木魚は禅宗・天台宗・浄土宗で用いられます。
円覚寺は禅宗の曹洞宗です。

浄土宗では念仏を唱えるときに使用するそうです。

日本の仏教寺院は宗派を変えたり、他宗派の影響を受けることも多いです。
円覚寺の念仏踊で木魚を用いるのは、曹洞宗だということもあるでしょうが
浄土宗で念仏を唱える際に木魚を用いることに影響を受けたものなのかも?

それにしても、薬師如来の御前で、「なーあんぶつ」と唱えるのはなぜなんでしょうか?
「なーあんぶつ」とは「南無阿弥陀仏」が訛ったものだと思います。
阿弥陀仏の御前で唱えるべきものだと思えるのですが?

皆さんはなぜだと思われますか?

薬師堂念仏踊り  

薬師堂念仏踊り6

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[2017/08/23 08:05] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

ほうらんや火祭 『ほうらんや火祭は七夕の行事だった?』 

 
春日神社 八幡神社 奈良県橿原市坊城
ほうらんや火祭・・・8月15日


①ほうらんや火祭

「ほうらんや火祭」はめらめらと燃える大松明を担いで境内を練り歩くというもので、まず13時より春日神社で行われ、終了したのち15時より八幡神社で行われます。

ほうらんや火祭り 春日神社  
春日神社 

ほうらんや火祭り 春日神社2 

春日神社

ほうらんや火祭り 春日神社 松明をたてる 

春日神社

②曽我川=天の川、春日神社=織女星、八幡神社=牽牛星

へたくそな図で申し訳ないですが、下の図を見てください。
ほうらんや 図



曽我川が描く曲線は天の川の曲線によく似ています。
そして春日神社はベガ(織女星)の位置に、八幡神社はアルタイル(牽牛星)の位置にあります。

ほうらんや火祭り 八幡神社 
八幡神社

③ほうらんや火祭りは七夕行事だった?

お盆は旧暦では7月15日を中心とした行事で、7月7日の七夕はお盆の行事のひとつでした。

旧暦は新暦よりも約一ヶ月遅れるので、もともと旧暦7月15日ごろ行っていた『ほうらんや火祭』を、同じ時期に行えるようにと新暦の8月15日に行うようになったのだと思います。

ほうらんや火祭り 八幡神社3

このように、日本の年中行事の日程を旧暦の日付から新暦上で1か月遅らせて行うことを「月遅れ」といいます。 

ほうらんや火祭り 八幡神社4  



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[2017/08/17 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

金峯山寺 蔵王堂 蓮華会 蛙飛行事 『蛙と空飛ぶドクロ』 


奈良県吉野郡吉野山 金峯山寺蔵王堂
蓮華会、蛙飛行事・・・7月7日


①蛙が跳ぶ姿はまるで空飛ぶドクロ!

「えーらいやっちゃあ、えーらいやっちゃあ~」という掛け声とともに、吉野の町を太鼓台が練り歩きます。
太鼓台には蛙の着ぐるみを着た人が乗っていました。

蔵王堂 蛙飛行事

役行者が産湯をつかったと伝わる奥田の捨篠池で摘んだ蓮が、金峯山寺の蔵王権現に供えられます。

蔵王堂 蛙飛行事5


金峯山寺には法力で蛙の姿に変えられた男の伝説が伝えられており、蛙飛行事はそれにちなむものです。
蛙のキグルミを着た人が橋の上をぴょんぴょんとはねました。

蔵王堂 蛙飛行事3

これを見た私はいきなりテンションがハイ状態に!
まるで空飛ぶドクロやん~!
 蔵王堂 蛙飛行事2

蔵王堂 蛙飛行事


②亀石はドクロを模した石?


いきなりこう言ってもわけわかんないですね。
説明します。

↓ 飛鳥にある謎の石・亀石です。亀ではなく、カエルではないかとも言われています。
蛙飛行事のカエルの頭部と比べると確かに似ていますね。

亀石

あるとき京都の大将軍商店街(妖怪ストリート)をぶらぶらと歩いていたんですが、店の前に置いてあった「ぬらりひょん」という妖怪の人形に目が釘づけに~!

妖怪ストリート ぬらりひょん 

なんと「ぬらりひょん」は亀石そっくりです!
眉間の半月形の皴までおんなじだー。
もしかして、亀石とは頭蓋骨を模した石なのではないでしょうか?

②飛行するドクロ

 ↓ 京都の膏薬図子にある神田神宮です。
古い写真のため、現在の神田神宮とは景観がかなり異なりますがご容赦を。

神田明神

平安時代に関東に独立国を作った平将門は、藤原秀郷・平貞盛らの軍に責められて戦死しました。
将門の首は京に持ち帰られ、この場所に晒されたと伝えられています。(南座の南あたりという説もあります。)

将門の首はここから飛び上がり胴体を求めて東に飛び去ったという伝説があります。
将門の首は現在の東京都千代田区あたりに落ちたとされ、その場所には将門の首塚があります。

将門の首塚 
将門の首塚(東京都)

将門の首塚にはガマの置物を奉納する習慣があるそうです。
私が参拝したときは管理者が設置したと思われる巨大なガマの置物があるだけでしたが~。
おそらく奉納されたたくさんのガマの置物は撤去されたのでしょう。

ガマとはカエルのことです。
将門の首は故郷に戻ってきたので「無事帰る(カエル)」の語呂合わせから蝦蟇の置物を奉納する習慣が生じたと言われています。

でも私は平将門とはドクロの神であり(首が飛んだという伝説があるので)、カエル(蝦蟇)はその形がドクロに似ているので、将門の首塚に蝦蟇の置物を奉納する習慣が生じたのではないかと思うのです。

首(ドクロ)が飛ぶという伝説は平将門だけでなく、蘇我入鹿や玄昉などにも同様の伝説が伝えられています。
このうち玄昉のドクロは平将門と同様、長距離を飛行していますが
蘇我入鹿のドクロは中大兄皇子に首をはねられたのち、斉明天皇の御簾に食らいついたとされており、長距離飛行ではありません。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社) 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。

蔵王堂の蛙飛行事では蛙が飛ぶというよりは、ぴょんぴょん跳びはねますが、これも「飛ぶドクロ」を現したものではないでしょうか。

③小野道風と蛙

小野道風にも蛙の伝説があります。
蛙は柳に飛びつこうとして何度も失敗しますが、偶然強い風が吹いて柳の枝が大きくしなり、ついに柳に飛びつくことができました。
これを見て道風はどんなことも努力すれば必ず叶うと悟ったそうです。

この蛙もまた髑髏を比喩したものなのかも?

File:Ono no Tofu, by Suzuki Harunobu, Edo period, 18th century - Tokyo National Museum - DSC06242.JPG

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/Ono_no_Tofu%2C_by_Suzuki_Harunobu%2C_Edo_period%2C_18th_century_-_Tokyo_National_Museum_-_DSC06242.JPG よりお借りしました。

作者 Daderot (投稿者自身による作品) [Public domain または CC0], ウィキメディア・コモンズ経由で

④狛蛙登場!

神事が終わって蔵王堂の周辺をうろついていたところ「脳天大神→」と記された道しるべがありました。
道しるべに従って脳天大神(龍王院)に行ってみると、なんと狛犬ならぬ狛カエルが~!

龍王院 狛蛙

脳天大神は蔵王権現(蔵王堂の御本尊)の 変化身である 頭を割られた大蛇を祀り、首から上の病気に霊験あらたかと言われています。

カエルとはドクロを表すものであり、脳天大神=蔵王権現はドクロの神であるということで、狛蛙が置かれているのではないでしょうか。

⑤蛇は胴体がなく、頭に長い首がついている?

脳天大神は金峯山寺の塔頭で、昭和26年に開かれました。
終戦後、澄大僧上が女人の行場として金龍王の滝を開いた際、頭を割られ、目が飛び出した大蛇が死んでいるのを見つけ、その大蛇を祀ったのだそうです。
大蛇は「脳天大神としてまつられたし、首から上のいかなる難病苦難も救うべし。」と告げたといい、「首から上の守り神」として信仰されています。

あれ、狛蛙が置かれているのに、脳天大神は蛇なんですかあ?

喜光寺 宇賀神 

喜光寺 宇賀神


宇賀神は妖怪ろくろ首を思わせるお姿をされています。

この像を見て、私はこう考えました。
昔の人は蛇とは胴がなく、頭に長い首がついた動物だと考えていたのではないかと。

つまり能天大神=蔵王権現とはドクロの神であり、蛇や蛙もドクロをあらわす動物であったのではないかと思うわけです。

 


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[2017/07/10 21:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

法隆寺 追儺式 夢殿のお水取り 『法隆寺追儺式とお水取りは一連の行事?』 


奈良県斑鳩町 法隆寺
追儺式・・・2月3日


法隆寺 夕景 

①法隆寺追儺式の撮影は難しい!


法隆寺の追儺式は西円堂の周囲に金網をめぐらせて行われます。
なぜ金網をめぐらせるのかというと、法隆寺の追儺式では鬼が手に持った松明を投げるのです。
投げた松明が参拝者に当たると危ないので、お寺が配慮して金網を設けてくださっているのだと思います。

安全が第一なので文句を言うつもりはないんですが、金網がはってあると、ストロボが使えません。
ストロボたくと、金網が真っ白に写ってしまい、金網の向う側で行われている追儺式のようすが写らないんです。

また人が多いので当然三脚は禁止です。
その上、鬼の動きが速いので感度をISO12800まであげてもブレブレに~。

ですが、撮影するのが難しい被写体ほどリベンジに燃えるよね~。

そんなわけであんまりいい写真はないけど、掲載させていただきます。(汗) 

法隆寺 追儺式 青鬼

金網を消す方法ないかなあ?(いい方法があったら教えて~)

②毘沙門天が登場する追儺式


興福寺 追儺会 『大黒天は日本版サンタクロース?』 
↑ こちらの記事に、毘沙門天が登場する奈良の追儺式は修二会の行事ではないかと書きました。

法隆寺の追儺式にも毘沙門天が登場します。

法隆寺 追儺式 毘沙門天   
毘沙門天

③修二会にルーツを持つ追儺式


修二会といえば、東大寺二月堂のものが有名ですね。

二月堂 お松明 
東大寺 二月堂 修二会 お松明

修二会の松明は童子と呼ばれる人によって振り回されますが、童子と鬼は関係が深そうに思われます。
というのは、酒呑童子・茨木童子などの鬼が童子と呼ばれているからです。
また「鬼の子孫」を称する八瀬の人々も「八瀬童子」と呼ばれています。

そして法隆寺の修二会の行事のひとつ、追儺式では鬼が荒々しく松明を振り回して放り投げます。
これは東大寺二月堂修二会で童子が行うお松明行事と同様のものではないでしょうか?

法隆寺 追儺式 緑鬼 

③法隆寺の七不思議


法隆寺には七つの謎があるとされ、法隆寺七不思議といわれています。

①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。
 
 
⑥については法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議 雀が糞をしない』 
⑦については法隆寺 夕景と柿 『法隆寺の七不思議② 因可の池の蛙とは』 
で私流の謎解きをしましたので、一読いただけると嬉しいです。

法隆寺 追儺式 赤鬼2

④法隆寺のお水取り

えー、法隆寺七不思議の④に「夢殿の礼盤(らいばん)の裏は汗をかいている。」というのがありますね。

これに関連する行事が、法隆寺追儺式から8日目の2月11日に行われています。
朝の8時くらいから始まるそうですが、早起きが苦手なので、見学したことがありません。(またしても汗)

礼盤とはお坊さんが座る台のことです。
夢殿の礼盤が置かれた畳の下に正方形の板があり、これを日光に当てると、板の裏に水分があふれ出るというのです。
そしてこの水分によってその年が豊作か凶作なのかを占うのだとか。

この行事は「お水取り」と言われています。

 法隆寺 追儺式 赤鬼

⑤法隆寺お水取りは修二会の行事?

私は法隆寺のお水取りは2月3日の追儺式に続く修二会の行事ではないかと思います。

というのは、東大寺二月堂の修二会の行事の中にもお水取りの行事があるからです。

3月2日、福井の鵜の瀬で「お水送り」といって、お香水を流す行事が行われます。
鵜の瀬と二月堂若狭井は地下でつながっているといわれ、鵜の瀬で流したお香水は10日で二月堂若狭井に届くと言われています。
そして3月13日の午前1時半ごろ、二月堂の閼伽井屋で、鵜の瀬から送られたお香水をとる『お水取り」の行事が行われます。

お水送り 鵜の瀬

鵜の瀬 お水送り

⑥法隆寺の「お水取り」はいつ始まったの?

東大寺二月堂の修二会がはじめておこなわれたのは751年(『二月堂縁起絵巻』1545年による)ですが、法隆寺の修二会がはじめられたのは1261年とされています。

ですがこのとき、夢殿は開扉されていなかったはずなんです。
夢殿の御本尊・救世観音は長年絶対秘仏とされており、夢殿の扉を開くと大地震がくると言い伝えられていて、長年扉があけられていなかったのです。
その夢殿の扉が開かれたのは、1884年、岡倉天心とフェノロサによってです。

法隆寺の「お水取り」は夢殿の救世観音像の前にある礼盤にたまった水を取る行事なので、実際にこの行事がはじめられたのは、夢殿を開扉した1884年以降(明治17年)以降なのではないでしょうか。

しかし法隆寺七不思議は江戸時代からあるといわれています。
これが正しければ、法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」という伝説そのものは夢殿開扉前よりあり
この伝説に基づいて「お水取り」行事は1884年以降に行われるようになったと考えることができるかもしれません。

また、法隆寺七不思議のひとつ
法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。」 
は、1884年以降に付け加えられたとか、法隆寺七不思議そのものの成立が1884年以降であるとも考えられます。

あるいは、夢殿が開扉する以前には、別の場所でお水取り行事を行っていた可能性もありますね。

法隆寺 追儺式 青鬼 




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[2017/02/09 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

元興寺 節分会 『福は内、鬼は内』 

奈良市中院町 元興寺
節分会・・・2月3日


 ①妖怪・元興寺(がこぜ)

『日本霊異記(822年ごろに成立)』に元興寺を舞台とする次のような話が記されています。

敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、雷神が落ちてきました。
雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言ったので、農夫は雷神を殺さずに、空へ返しました。
しばらくして農夫の妻が子供を産みました。
その子供の頭には蛇が巻きついていました。
成長した子供は元興寺の童子になりました。

元興寺では童子たちが鬼に殺される事件が頻繁におきていました。
頭に蛇が巻き付いた童子は鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れました。
童子は鬼の髪の毛を掴んで引きずり回しました。
鬼は髪をむしりとられ、あたふたと逃げていきました。
童子は追いかけましたが、鐘楼の北東の辻子の辺りで鬼を見失いました。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思ったことから、この辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになりました。
(元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っています。)
しかし血痕が残っていたので、童子はそれを辿って行きました。
すると不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりつきました。(現在の奈良ホテルのあたり)
それは昔元興寺で働いていた下男の墓でした。
鬼の正体はこの下男の怨霊だったのです。

鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪です。

元興寺 武道
 
②物語の矛盾点

この物語には矛盾点があります。

元興寺が飛鳥から奈良へ移転したのは718年。
またその前身である法興寺が建立されたのは587年の丁未の乱(蘇我馬子vs物部守屋の戦い)以降のことです。
ところが敏達天皇の在位は572年-585年なんですね。
伝説では敏達天皇の頃の話だとしていますが、そのころ奈良に元興寺はなかったのです。

あえて寺の創建年と時代の合わない天皇の御世の話だとしたのは、妖怪・元興寺の正体が、敏達天皇代の人物の怨霊であることを示唆しているのではないでしょうか?


元興寺 護摩 
③物部守屋

敏達天皇に仕えた人物に蘇我馬子がいます。
587年、蘇我馬子は廃仏派の物部守屋との戦いに勝利し、飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を建てました。
さきほどお話ししたように、この法興寺が718年に奈良に移転して元興寺となったわけです。

また、馬子とともに戦った厩戸皇子(のちの聖徳太子)は『守屋との戦いに勝利したのは、四天王のご加護のおかげである。』として摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立しました。 

その四天王寺の境内、絵堂の横には、聖徳太子や蘇我馬子と戦って戦死した物部守屋を祀る社があり、守屋祠・願成就宮と呼ばれています。

四天王寺は聖徳太子が物部氏の土地を没収し、物部氏の部民を使役して建てられました。
そして四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったといわれています。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためです。

守屋祠は、人々が物部守屋の怨霊を大変怖れていたということを示すものだといえるでしょう。
人々が守屋を神として祀ったのは、人々が守屋の怨霊の祟りを畏れたためだと考えられるからです。

そして四天王寺と法興寺(飛鳥寺/のちの元興寺)はどちらも物部守屋との闘いに勝利したことをみほとけに感謝して建てられたお寺です。

元興寺 護摩 

●大物主神は物部氏の神? 

現在の飛鳥寺(法興寺)には守屋を祀る神社は見当たりませんが、近所に飛鳥坐神社があって、ここに守屋の霊が祀られているのではないか、と私は考えています。

飛鳥坐神社の御祭神の一に大物主神がいます。

大物主神は正式名称を倭大物主櫛甕魂命といい、大神神社の御祭神でもあります。
そして物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっており、倭大物主櫛甕魂命と天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊は『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説があります。
とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになりますね。

そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられています。

鬼を退治した頭に蛇を巻いた童子もまた物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないでしょうか。

元興寺 護摩

●妖怪がこぜの正体

神はその現れ方によって三つに分類されるといわれます。
頭に蛇を巻いた童子が和魂で、がこぜは荒魂、その本性である御魂は物部守屋なのではないでしょうか。

御魂・・・神の本質・・・・・・・物部守屋
和魂・・・神の和やかな側面・・・道場法師(頭に蛇を巻いた童子)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・がこぜ

つまり守屋は自分で自分を退治したのではないか、ということです。

もちろん、『自分で自分を殺す』なんてことは普通はできません。

また物部守屋は自ら死を選んだのではなく、蘇我馬子や聖徳太子によって殺されたのです。(実際に守屋を矢で射たのは迹見赤檮)
『守屋が自ら死を選んだ』などというのは怨霊を畏れる人の自分勝手な考え方です。

元興寺 武道

元興寺 火渡り2 

火渡りは10年以上前にフィルムで撮影したものです。
最近はもっと炎を鎮めて火渡りを行っています。

元興寺 火渡り 

②福は内 鬼は内

火渡り修行が終わると豆まきです。
豆まきではふつう「福は内、鬼は外」とかけ声をかけますね。
元興寺はちがいます。
「福は内、鬼は内」とかけ声をかけます。

元興寺 豆まき


元興寺のように「福は内、鬼は内」とかけ声をかける豆まきを行う寺社は他にも結構あります。

なぜ「鬼は内」とかけ声をかけるのでしょうか?
その理由はそれぞれの寺社によって異なるようですが、次のような理由があるみたいですね。

a.「鬼塚さん」のように、鬼の字のつく姓の人が近所に住んでいる。
b.鬼を祭神または神の使いとしている。

元興寺はbだと思います。

元興寺は妖怪・元興寺(がこぜ)を慰霊するための寺だと考えられるからです。

 
元興寺 豆まき 



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[2017/02/07 11:07] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

金峯山寺 節分会 『鬼はなぜ牛の角を生やし虎皮のパンツをはいているの?』 


奈良県吉野郡吉野町 
金峯山寺蔵王堂
節分会…2月3日


①金峯山寺 蔵王堂 節分会

金峯山寺 蔵王堂 追儺会5

zzzz・・・

金峯山寺 蔵王堂 追儺会4  

次、左もやってね~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会9 

きく~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会10 
お経、まだ終わらないの?長いね~。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会11

退屈だから参拝者を脅しちゃおう~。(本当はお加持)
 
金峯山寺 節分会  
let’s dance!

金峯山寺 蔵王堂 追儺会2 

金峯山寺 蔵王堂 追儺会8 
ラララララ~♪

金峯山寺 蔵王堂 追儺会7 
うひゃーー。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会6 
まいりました・・・。

②鬼はなぜ牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているの?


鬼たちは牛の角を生やし、黄色地に黒の模様の入ったパンツをはいています。
黄色地に黒の模様は簡略化されていますが、虎皮のパンツをあらわしているのでしょう。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき  

上の写真は前にご紹介した石清水八幡宮の鬼ですが、こちらの鬼ははっきり虎皮のパンツだとわかりますね。
なぜ節分の鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのでしょうか。

③旧暦と二十四節気

現在の日本では太陽暦(新暦)を用いていますが、江戸時代までの日本では太陽太陰暦(旧暦)を用いていました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりに用いた暦法で、月のない夜(朔/新月)を1日、上弦(半月)を7日または8日、満月(望月)を15日とします。
1か月の周期は29日または30日です。
すると太陽太陰暦の1年は29.5日×12か月=354日となります。

太陽暦は地球が太陽の周囲を1周するのを1年としています。
地球が太陽を1周するのに要する日数は約365日です。
太陰暦は太陽暦に比べて1年の日数が11日不足しており、3年では約1か月近くもずれることになります。
そこで太陽太陰暦では4年に1度閏月をもうけてずれを解消していました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりにできるので紙が貴重品だった時代には大変便利でした。
しかし実際の季節とは最大1か月ものずれが生じるので、農作業などに不便が生じます。

そこで、太陰暦の他に1太陽年を24に分割し、立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒 とよんでいました。(二十四節気)

④節分は二十四節気の大晦日

節分とは「季節の変わり目」を意味し、もともとは立春(2月4日)・立夏(5月6日)・立秋(8月8日)・立冬(11月8日)の前日のことを言う言葉でした。
本来節分は1年に4回あるのです。
特に立春は季節の変わり目であると同時に1年の変わり目であるため、重要視され、現在では立春の前日のことを節分ということが多いです。
つまり、節分とは二十四節気の大晦日なのです。

江戸時代までの日本では旧暦の正月と、二十四節気の正月と2回正月がありました。
節分は太陽暦の2月3日ごろですが、太陰暦は太陽暦よりも約1か月遅れになるので、旧暦の大晦日と二十四節気の節分はだいたい同時期でした。
金峯山寺 蔵王堂 追儺会3


⑤鬼は丑寅で1年の変わり目をあらわす。

12か月を干支でいえば丑は12月、寅は1月なので丑寅は1年の変わり目を表します。
また方角を干支でいうと丑寅の方角は東北で、丑寅の方角は鬼が出入りする方角として忌まれていました。

鬼=丑寅=1年の変わり目 だといっていいでしょう。

鬼が牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいているのは、干支の丑寅(1年の変わり目)をあらわしているのだと思います。
そして鬼=丑寅を追いやることで新年を迎えようというのが追儺式なのだと思います。

目に見えない1年の移り変わりを視覚化したものだといってもいいかもしれませんね。

金峯山寺 蔵王堂 追儺会


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[2017/02/04 20:37] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

興福寺 追儺会 『大黒天は日本版サンタクロース?』 



奈良市登大路 興福寺
追儺会 2月3日


興福寺 追儺会 二匹の鬼 

興福寺 東金堂前に鬼が登場ーー!

興福寺 追儺会 鬼の酒盛り 
①宮中の年中行事に起源を持つ方相氏

前回の記事、吉田神社 鬼やらい神事 『正義のヒーロー・方相氏を射るってどういうこと?』 で、吉田神社の鬼やらい神事に登場する方相氏についてお話ししました。
方相氏は宮中の年中行事である鬼やらい神事に起源を持っています。

吉田神社 方相氏 と しん子 

吉田神社 鬼やらい神事 四ツ目の方相氏


京都では吉田神社のほか、平安神宮や鞍馬寺の追儺式にも方相氏が登場して鬼を祓います。

②毘沙門天が鬼を祓う追儺式

これに対して奈良の追儺式ではここ興福寺のほか、朝護孫子寺、法隆寺などで毘沙門天が鬼を祓います。

興福寺 追儺会 毘沙門天
 
興福寺 追儺会 鬼と闘う毘沙門天

③毘沙門天が登場する追儺は修二会にルーツを持つ?

京都の方相氏が登場する追儺式が宮中の年中行事であったのに対し、奈良の毘沙門天が登場する追儺式は仏教の行事である修二会にルーツがあるのかもしれません。

二月堂 修二会 お松明

上の写真は東大寺二月堂の修二会で行われるお松明の行事です。

仏教発祥の地であるインドの正月は日本の2月にあたり、修二会は新年の行事だと考えられます。
現在では行われていませんが、かつては興福寺でも東金堂と西金堂で修二会を行っていたそうです。

修二会の松明は童子と呼ばれる人によって振り回されますが、童子と鬼は関係が深そうに思われます。
というのは、酒呑童子・茨木童子などの鬼が童子と呼ばれているからです。
また「鬼の子孫」を称する八瀬の人々も「八瀬童子」と呼ばれています。

興福寺 追儺会 青鬼 

興福寺・東金堂前で行われるの追儺会に登場する鬼も松明を持っています。
もしかして、興福寺の追儺会のルーツはかつて東金堂前で行われていた修二会にあるのではないでしょうか?

興福寺 追儺会-子供の鬼 

子鬼も登場!

④大黒天が登場する興福寺の追儺会

興福寺 追儺会 毘沙門天

毘沙門天が鬼をやっつけたあと、大黒天が登場しました。

興福寺 大黒天 

 大黒天は大きな袋の中からお守りのようなものを取り出して撒いていました。
何を撒いているのか興味があったので欲しかったのですが、相変わらずトロい私はゲットできず~。

⑤大黒天は日本版サンタクロース?

それにしても大黒天、まるでサンタクロースのようですね。

サンタクロースが活躍するのはクリスマスですが、クリスマスはミトラ教の冬至祭にルーツを持っています。
冬至は太陽の南中高度が1年で最も低い日で12月22日ごろですが、3日後の25日ごろより、太陽は再び南中高度をあげていきます。
そのためミトラ教では12月25日に冬至祭を行っていたのです。

古代の中国では冬至を1年の始点としていたといいますし、日本にも「冬至正月」という言葉があり、冬至を1年の始点とする考え方がありました。

そして節分は1年を24分割した暦法・二十四節気の立春の前日のことです。
旧暦は新暦の約1か月遅れとなり、旧暦の正月と立春はだいたい同じくらいの時期でした。
そのため立春は新春=正月、立春の前日の節分は二十四節気の大晦日だと言っていいでしょう。

つまり、クリスマスも節分も正月を迎える行事だといえるわけです。

そして、仏教の弥勒菩薩はミトラ教の太陽神・ミトラスの影響を受けていると言われています。

クリスマスのサンタクロースと、節分の大黒天は、ミトラス教を通じて繫がっているのかも?

File:BritishMuseumMithras.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABritishMuseumMithras.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/BritishMuseumMithras.jpg よりお借りしました。

上の写真は大英博物館所蔵の牡牛を屠るミトラス像です。
鬼は牛の角が生えているので、鬼=牛=丑。
そう考えると、ミトラスはまるで追儺で鬼を祓う毘沙門天のように見えてしまう~。

興福寺 追儺会 三匹の鬼 

 
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[2017/02/03 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大神神社 繞道祭 『日の神は語呂合わせで火の神に神格を変えられた?』 


奈良県桜井市 大神神社 
繞道祭・・・1月1日 午前0時ごろより

先生、師匠、楠木先輩、いろいろ教えてくださってありがとうございました!おかげ様で楽しかったです!

①繞道祭


古い年が生き、新しい年がやってくる元旦の午前0時すぎ。
どこからか流れてくる除夜の鐘を聞きながら、私は私は大神神社の摂社・檜原神社に立っていました。

大神神社 繞道祭 檜原神社にて 
檜原神社に繞道祭の松明の行列がやってきました!
松明の火は新年があけるとまもなく大神神社の拝殿東方で切り出されたものです。
この火を松明に点火し、行列を作って大神神社の摂末社18社を駆け巡ります。

またこの火をカイロや火縄で移し取り、各家の神棚に備えたり、お雑煮を作ると無病息災のご利益があるといわれています。

②大物主神とニギハヤヒは同一神だった?
妙性寺縁起は小野小町の次のような伝説を伝えています。

晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。

九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)

後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった
(妙性寺縁起)


五十日→五十火→火事になる→五十河→河の水で火が消える→火止まる→ひとまる→人産まれる

このような語呂合わせのマジックで村の火事はなくなり、女性は安産になったというわけですね。

これと同じような語呂合わせで日の神は火の神へと神格を変えられたのではないでしょうか。





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[2017/01/05 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

一言主神社 一陽来復祭 『一言主大神は木霊(山彦)だった?』 


一言主神社 一陽来復祭3  
 
奈良県葛城郡 葛木一言主神社
陽来復祭・・・冬至の日


一言主神社 公孫樹2 

①イチョウは一陽の木

 一言主神社のご神木は樹齢1200年と伝えられる御神木の大イチョウです。
一陽とイチョウは掛詞になっていますね。
葛城一言主神社 イチョウ 黄葉 『イチョウは一陽の木?』 
↑ こちらの記事に『イチョウは一陽の木、冬至に向かって衰え行く太陽の木ではないか』と書きました。
よかったら読んでみてください♪

一言主神社 一陽来復祭

②一言主大神は木霊(山彦)だった?

一言主神社の御祭神・一言主大神には次のような伝説があります。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 


雄略天皇と全く同じいでたちをし、同じ言葉を返す一言主大神とは木霊(山彦)を神格化したものなのではないでしょうか。

一言主神社 一陽来復祭2


●山彦の名所

葛城山の南に金剛山がありますが、かつて葛城山と金剛山はどちらも葛城山と呼ばれていたそうです。
そして葛城山の山麓近くには一言主神社が、金剛山の山頂近くには葛木神社があってどちらも一言主大神を祀っています。

高校のときにワンダーフォーゲル部に所属していた友人に聞いたのですが、葛城山から金剛山へ至るダイヤモンドトレールと呼ばれる道では、よく山彦が聴こえるそうです。

一言主神社 一陽来復祭  
一言主神社 一陽来復祭-階段 

一言主神社 一陽来復守り 





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[2016/12/21 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

  
奈良豆比古神社・・・奈良市奈良阪町2489
翁舞・・・10月8日  午後8時ごろより


 奈良豆比古神社 翁舞 千歳

千歳の舞


以前の記事、百毫寺 萩 『志貴皇子 暗殺説』  もよかったら参考になさってくださいね。

●能「翁」のルーツ?

能に「翁」という演目がありますね。

奈良豆比古神社は古くより芸能の神として信仰され、芸能に携わる役者さんたちは興行前に奈良豆比古神社を参拝する習慣があったと聞いたことがあります。

奈良豆比古神社の「翁舞」は能「翁」の古い形態を残しているとも言われます。
もしかしたら奈良豆比古神社の「翁舞」は能「翁のルーツ」なのかも?

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2  

舞台上で面をつけるのは「翁」だけです。

●ふたつの伝説


奈良豆比古神社には『翁舞』に関係する次のような伝説が伝えられています。

①志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していました。
春日王にはの二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)があり、心をこめて春日王の看病をしていました。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈りました。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かいました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊されました。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれません。


『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは①とは別の語りを伝承しておられるとのことです。
 
奈良豆比古神社 翁舞 白式尉 
白式尉

②志貴皇子は限りなく天皇に近い方でした。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそいました。
赤い衣装は天皇の印です。
志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈りました。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていました。
志貴皇子がつけていたのは翁の面でした。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていました。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞いました。
これが翁舞のはじめです。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られました。
 
 
ハンセン病を患ったのは①の伝説では志貴皇子の子の春日王となっていますが、②の伝説では志貴皇子となっています。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 
三人翁は能「翁」にはありません。
  
●春日王と志貴皇子は同一人物では?

また春日王は田原太子とも呼ばれており、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇と呼ばれていました。
春日王と志貴皇子は同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇族でこのようなケースは他に例がないと思います。
春日王と志貴皇子は同一人物なのではないでしょうか。

●浄人王は弓削浄人?!

①の伝説によると、「桓武天皇は春日王の子の浄人王に弓削首夙人の名と位を与えた」とあります。
ということは、浄人王は臣籍降下して弓削浄人と呼ばれるようになったということでしょうか。
弓削浄人という名前には聞き覚えがあります。
道鏡の弟の名前が弓削浄人なのです!

●道鏡は志貴皇子の子?

『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されています。
道鏡の俗名はわかっていないのですが、安貴(①の伝説に登場する春日王の子。浄人王の兄弟)という名前だったのではないでしょうか?

これが正しければ、道鏡は志貴皇子の子で天智天皇の孫だということになります。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉3

●称徳天皇が道鏡を次期天皇にしたいと考えたのはなぜ?

道鏡は奈良時代の僧侶で、称徳天皇に仕えていました。
称徳天皇は女性として初めて皇太子になった方で、結婚が許されず、独身でした。
そのため世継ぎとする子供がなく、称徳天皇は道鏡を天皇にしたいと考えていました。

称徳天皇が道鏡を天皇にしようと考えたのは、道鏡が志貴皇子の子だったからなのではないでしょうか?
(もしかしたら臣籍降下していたかもしれませんが)

●称徳天皇がカンカンになって怒った理由

宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にすべし』との神託が降り、称徳女帝はそれを確認させるために和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣しています。
都へ戻った和気清麻呂は清麻呂は『天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ(天皇は必ず皇族の血筋のものとするべし)』と奏上して道鏡は次期天皇にふさわしくないとしました。
これを聞いた称徳天皇は激怒したそうです。

道鏡が志貴皇子の子であったとすれば、彼は皇族の血筋だといえます。
称徳天皇崩御後、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となっており
ここから考えても、道鏡が志貴皇子であったとする私の仮説が正しければ、彼には十分次期天皇になる資格があったといえるでしょう。

称徳天皇が怒るのも無理はないでしょう。
よほど頭にきたのか、称徳天皇は清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」姉の広虫を「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させて流罪としています。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉2

黒式尉も舞台上で面をつけます。


●称徳天皇急死、そして道鏡の失脚


しかし事件後まもなく称徳天皇は急死しました。暗殺されたのではないか、ともいわれています。
これによって道鏡は失脚し下野国の薬師寺へ左遷(配流)され、2年後に死亡して庶民として葬られました。

●日本紀などは、たゞ、片そばぞかし

紫式部は『源氏物語』の中で光源氏に「『日本紀などは、たゞ、片そばぞかし。これらにこそ、道みちしく、くはしき事はあらめ』と言わせています。

これは『日本書紀に書かれていることなどほんの一部分でしかない、物語の中にこそ真実が詳しく記されている』というような意味です。

紫式部は正史には嘘が多いことを知っていたのですね。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉 



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[2016/10/08 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)