松尾寺 百合 『七福神の正体は六歌仙+惟喬親王だった?』 


奈良県大和郡山市 松尾寺

2014年7月20日

①七福神の正体は六歌仙+惟喬親王だった?

松尾寺 七福神堂 百合 

↑ 松尾寺の七福神堂です。
七福神とはご存知のように、大黒天・恵比寿天・布袋尊・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人の七人の神様のことをいいます。

高田祟史さんは「QED六歌仙の暗号」という小説の中で、七福神の正体は六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀)に惟喬親王を加えた七柱の神様のことだとおっしゃっています。

松尾寺 百合 

②六歌仙は怨霊だった。

六歌仙とは古今和歌集仮名序に名前があげられた6人の歌人のことです。
ただし、古今和歌集仮名序の中に六歌仙という言葉は登場しません。
後の世になって6人の歌人のことを六歌仙と言うようになったと考えられています。

古今和歌集仮名序は抽象的で意味がよくわからないのですが、私にはこんな風に読めます。
(読んでみたい方はこちらを参照してください。→ http://bluewind.oops.jp/kokin/kana1.htm

遍照はリアリティがない。
在原業平は言葉が足りない。
文屋康秀はいい着物を着た商人のようだ。
喜撰法師ははじめとおわりがはっきりしていない。
小野小町は強くない。
大友黒主は賎しい。


抽象的で意味がわかりにくいですが、決してほめているようには思えませんよね。

歌仙とは「怨霊である」と高田祟史さんはおっしゃっています。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことです。
なるほど、六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物で政治的に不幸だったといえます。

喜撰法師は紀名虎またはその息子の有常だという説があります。
紀名虎の娘の静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を生みました。
文徳天皇は惟喬親王の立太子を望んでいましたが、藤原良房の娘・明子が生んだ惟仁親王が生まれたばかりで皇太子となりました。

在原業平は紀有常の娘を妻としており紀氏よりの人間だったため藤原氏から敵対視されていました。

遍照は藤原良房に出家をすすめられたとされます。

文屋康秀と同族と思われる文室(文屋と記すこともある。)宮田麻呂は謀反の罪で流罪となりましたが死後ちに無実であったとして神泉苑の御霊会で慰霊されています。


大友黒主は大伴黒主と記されることがあります。
私は大伴黒主とは大伴家持のことだと思います。(理由については次回説明します。)
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死亡していたにも関わらず死体が掘り出されて流刑とされています。

小野小町については、私は小野宮と呼ばれた小野小町のことだと考えています。
詳しくはこちらをお読みください。
髄心院 八重桜 石楠花 『男神は井戸に姿を映して女神になった?」 

松尾寺-百合 

③六歌仙と七福神の関係

高田さんの本は図書館で借りて読んだので手元にありません。
なので記憶違いがあるかもしれませんが、六歌仙と七福神の関係を次のように解いておられたと思います。
(間違いがあれば指摘をお願いします。)
弁財天小野小町紅一点
大黒天大友黒主大と黒が共通する
布袋尊喜撰法師喜撰法師は「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と人の言うなり」という歌を詠んでいますが
宇治の満福寺には布袋尊が祀られている。
恵比寿天文屋康秀古今集仮名序に「いはば商人のよき衣着たらんがごとし」とあるが
恵比寿天は足が不自由で、「お足がでない」の語呂あわせから商売の神として信仰されている。
福禄寿遍照
寿老人在原業平福禄寿と寿老人はどちらもカノープスという星の神だとされる。
遍照は桓武天皇の孫、在原業平は桓武天皇の曾孫でどちらも臣籍降下している。
在原業平は呪老人(和歌によって呪術をしかける老人)=寿老人、福禄寿は遍照。
毘沙門天惟喬親王仮名序には六歌仙を語る前に「つかさ位高き人をばたやすきやうなれば入れず」とある。
この「つかさ位高き人」とは惟喬親王のことだと考えるのが妥当

↑ この高田祟史さんの推理は「なるほど~」と思えます。

松尾寺 七福神堂 百合2


私の考えでは、小野小町=小野宮(惟喬親王)なので
七福神のうち弁才天(小野小町)も毘沙門天(惟喬親王)も惟喬親王だということになります。

神はその現れ方によって、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるという説、さらに男神は荒魂・女神は和魂を表すとする説があります。

惟喬親王は御霊として玄武神社などに祀られていますが、この惟喬親王の御霊を荒魂と和魂にわけ、和魂を小野小町としたのではないかと思います。
御霊神の本質
荒魂神の荒々しい側面男神小野宮(惟喬親王)毘沙門天
和魂神の和やかな側面女神小野小町弁才天

松尾寺 五重塔 百合 


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[2017/07/22 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

藤原京跡 コスモス 蓮 『持統天皇が火葬されたわが身を嘆く歌』 

奈良県橿原市 藤原宮跡
2014年7月27日 撮影


①藤原京と天香久山

藤原京跡に立つと畝傍山や

藤原京 コスモス 
天香久山が見えます。

藤原京跡 蓮 
藤原京は飛鳥時代に造られた都で大和三山(畝傍山・天香久山・耳成山)に囲まれていたのです。
藤原京には持統天皇の藤原宮がありました。

百人一首に持統天皇が詠んだこんな歌があります。

春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。

持統天皇は藤原宮から天香久山を見てこの歌を詠んだのかもしれませんね。

旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月でした。
旧暦は新暦よりおよそ1か月遅れとなりますので、新暦に換算すると5月ごろに詠んだ歌だと考えられます。

②『土用の丑』から閃いたー!

ところで蓮って土用の丑のころに咲くんですよね。

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。

ん?んむむむ?

持統天皇の「春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という歌には、もうひとつ裏の意味がかくされていることを発見しました!

ヒント・・・持統天皇は天皇としては初めて火葬された方です。

もうおわかりですね~。

藤原京 コスモス 

③春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまった。

「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味でしょう。
「夏」は五行説では「火」です。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことだと思います。

↓ 下の写真は千本閻魔堂狂言に登場する鬼と幽霊ですが、幽霊は白い死に装束を着ています。


千本閻魔堂狂言 閻魔庁 鬼と亡者 

持統天皇の歌には表の意味のほかに、「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている衣をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」
という裏の意味が隠されているのではないでしょうか。

もちろん、死後に歌を詠むことはできません。
持統天皇の死後、誰かが持統天皇の身になって詠んだか

あるいは持統天皇が生前に軽い気持ちでこの歌を詠み
「この歌を詠んだため、言霊が作用して持統天皇は火葬されてしまった」のだと世の人々は考えたのか
どちらかだと思います。


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[2017/07/20 13:19] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

元興寺 ハルシャ菊  『頭に蛇を巻いた童子と沙羯羅』 

奈良市中院町 元興寺 極楽坊 塔跡
2008年6月中旬 撮影

元興寺 ハルシャ菊5 
 
元興寺 極楽坊 ハルシャ菊

①蛇の目と蛇目草


ハルシャ菊は別名を蛇目草といいます。
蛇目とは二重丸の中を塗りつぶした図形のことをいいます。(ʘ←これね)
なるほど、ハルシャ菊って模様がʘですね!

ヘビの目は丸く、ʘ←この図形のような形をしていますね。
それでʘのことを蛇の目というのかも?

元興寺 ハルシャ菊3 

元興寺 極楽坊 ハルシャ菊

②頭に蛇を巻いた童子

元興寺には頭に蛇を巻いた童子の伝説が伝えられています。


敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、雷神が落ちてきました。
雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言ったので、農夫は雷神を殺さずに、空へ返しました。
しばらくして農夫の妻が子供を産みました。
その子供の頭には蛇が巻きついていました。
成長した子供は元興寺の童子になりました。


元興寺では童子たちが鬼に殺される事件が頻繁におきていました。
頭に蛇が巻き付いた童子は鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れました。
童子は鬼の髪の毛を掴んで引きずり回しました。
鬼は髪をむしりとられ、あたふたと逃げていきました。
童子は追いかけましたが、鐘楼の北東の辻子の辺りで鬼を見失いました。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思ったことから、この辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになりました。
(元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っています。)
しかし血痕が残っていたので、童子はそれを辿って行きました。
すると不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりつきました。(現在の奈良ホテルのあたり)
それは昔元興寺で働いていた下男の墓でした。
鬼の正体はこの下男の怨霊だったのです。

鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪です。(日本霊異記)


案外、この伝説にちなんで蛇目草が植えられているのかも?

元興寺 ハルシャ菊2 

元興寺 極楽坊 ハルシャ菊

③元興寺では守屋の霊が信仰されていた?

587年、崇仏派・蘇我馬子vsは廃仏派・物部守屋の戦いがおきます。(丁未の乱)
勝利した蘇我馬子は「勝利したのはみほとけの御加護のおかげ」であるとして法興寺(飛鳥寺)を建てました。
そして710年の平城京遷都に伴って法興寺も移転し元興寺と称したのです。


四天王寺 夕日 

四天王寺

丁未の乱では蘇我馬子側に聖徳太子も参戦しており、聖徳太子も「勝利はみほとけの御加護のおかげ」であるとして四天王寺を建立しました。
この四天王寺には物部守屋を祀る守屋祠があります。

守屋祠



四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったといわれています。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためです。
四天王寺では守屋の霊が厚く信仰されていたのです。

ということは、四天王寺同様、丁未の乱に勝利したことをみほとけに感謝して創建された元興寺でも守屋の霊が信仰されていたのではないでしょうか?

元興寺 ハルシャ菊  
元興寺 極楽坊 ハルシャ菊

④物部氏に蛇のイメージ

物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっています。

奈良の大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命といいます。
天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊倭大物主櫛甕魂命とは『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説があります。

とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになりますね。

そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられています。

鬼を退治した頭に蛇を巻いた童子もまた物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないでしょうか。

参照/
元興寺 節分会 『福は内、鬼は内』  

元興寺 ハルシャ菊4 

元興寺 塔跡 仏足石 ハルシャ菊

⑤蛇を頭に巻いた童子は八部衆の沙羯羅?

元興寺の北に興福寺がありますが、興福寺の有名な八部衆像の一、沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いています。
写真はこちら→http://www.kohfukuji.com/property/cultural/033.html

おまけに少年の顔をしています。少年=童子です。

元興寺の伝説に登場する「蛇を頭に巻いた童子」とは興福寺の沙羯羅像だったりして?


興福寺 夕景 

⑥阿修羅のモデルは称徳天皇、沙羯羅のモデルは道鏡?

興福寺の八部衆像といえば、もっとも有名なのが阿修羅像ですよね!

File:ASURA Kohfukuji.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/ASURA_Kohfukuji.jpg よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 English: OGAWA SEIYOU [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

File:ASURA detail Kohfukuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG?uselang=ja よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂(現存せず)に安置されていました。 
西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王(のちの孝謙天皇/重祚して称徳天皇)は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説があります。

この阿倍内親王=称徳天皇は僧の弓削道鏡を寵愛し、道鏡を時期天皇にしようとした人です。
弓削氏は物部氏の傍系とされています。

阿修羅のモデルが称徳天皇なら、沙羯羅のモデルは道鏡だったりして?



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[2017/06/08 00:15] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

おふさ観音 薔薇 『おふさ観音には北辰信仰があった?』 

 
奈良県橿原市 おふさ観音
2009年5月中旬 撮影


おふさ観音 黄色の薔薇 

①『鯉の池』と『亀の池』


1650年、鯉ヶ淵という池の中から白いカメに乗った観音が現れました。
それを見つけたおふさという娘が小さなお堂をたてて観音さまをお祀りしたのが寺の始まりとされます。 

 境内には『鯉の池』と『亀の池』というふたつの池があります。
どちらも伝説にちなんで池の名前をつけたのでしょう。

おふさ観音 狛犬と赤い薔薇


②おふさ観音には北辰信仰があった?

『亀の池』には丸い石が北斗七星の形に並べられていました。

おふさ観音 北斗七星の形に並べた石 

北極星や北斗七星に対する信仰を北辰信仰と言います。
このあたりには北辰信仰があったのかもしれませんね。

そういえば北の守護神とされる玄武は亀と蛇が合体したような姿をしています。 

新熊野神社 玄武 

新熊野神社の祭礼の旗に飾られていた玄武

亀に乗った観音様が表れたという伝説は北辰信仰と関係があるのかも?

③鯉のぼりと鯉の滝登り

神泉苑 亀塚 鯉塚 

京都の神泉苑には鯉塚と亀塚がありました。
ここ、おふさ観音には『鯉の池』と『亀の池』がありますし、どうやら鯉と亀は特別深く信仰されていたようですね。

鯉は滝登りをして龍になるという伝説があり、5月5日に鯉のぼりをあげる習慣はこの言い伝えからくると言われます。

新暦の5月5日は鯉のぼりは薫風にそよがれて気持ちよさそうに泳いでいます。
しかし陰暦の5月5日は梅雨で、鯉のぼりはじっとりと雨に濡れていたはずです。
その様子が鯉の滝登りを表現したいたというのです。
絵的にはいまいちな感じですが~。

亀は北辰信仰、鯉は鯉の滝登り、ということから信仰されたのかも?

浅草寺 鯉のぼり 
浅草寺よりスカイツリーを望む

おふさ観音 白薔薇2 


おふさ観音 白薔薇

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[2017/05/29 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

長谷寺 宵牡丹 『禁断のきょうだい愛』 

奈良県桜井市 長谷寺

長谷寺 宵牡丹3 

①伯瀬は死の国?

以前の記事、長谷寺 紫陽花 『泊瀬は死の国?』  に衣通姫伝説について書きました。

第19代允恭天皇(376?-453)には木梨軽皇子と軽大娘皇女(衣通姫)という同母兄妹があり、
二人は禁忌とされていた近親相姦に陥り、周囲にも二人の関係がばれてしまいます。
群臣たちの多くは木梨軽皇子を次期天皇に立てたいと思っていましたが、
この一件で群臣たちは木梨軽皇子・弟の穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)を支持するようになりました。
允恭天皇崩御後、木梨軽皇子は大前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)と共謀して穴穂皇子を討とうとしました。
しかし大前小前宿禰が裏切ったため木梨軽皇子は捕えられ伊予へ流罪となりました。
軽大娘皇女は兄が帰ってくるのを待っていましたが、待ちきれなくなって兄に会いにいきました。
軽大娘皇女を迎えた木梨軽皇子は次のような歌を詠み、ふたりは自害して果てました。


こもりくの 泊瀬の河の 上つ瀬に 斎杙(いぐい)を打ち 下つ瀬に 真杙(まぐい)を打ち
斎杙には 鏡をかけ 真杙には 真玉をかけ 真玉如(な)す 我が思う妹(いも)
鏡如す 我が思う妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲ばめ

(泊瀬の河の上流に斎杙を打ち、下流には真杙を打ち、斎杙には鏡をかけ、真杙には真玉をかけ、その鏡のように我が思う妹、その真玉のように我が思う妻、おまえがいるからこそ家に帰りたいと思い、国を偲ぶのだよ。) 


ここに出てくる伯瀬とは長谷寺付近の地名です。
「こもりくの」は、『伯瀬』または『志多備』にかかる枕詞ですが、『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
黄泉の国とは死後の国のことです。
同じ「こもりくの」という枕詞を用いるところから、『伯瀬』もまた『死後の国』を意味する地名ではないかと私は推理しました。

現在でも長谷寺の奥の院あたりにはお墓がたくさんあります。
木梨軽皇子と軽大娘皇女(衣通姫)の霊もここに祀られているのかもしれませんね。

長谷寺 宵牡丹2

②大津皇子 薨去。

686年、道明上人が初瀬山の西の丘に三重塔を建立し、
727年、徳道上人が東の丘に十一面観音を祀ったのが長谷寺の始まりとされます。

686年には歴史上有名な人物が二人亡くなっています。
天武天皇(?ー686年10月1日)と大津皇子(663年―686年10月25日)です。

大津皇子は天武天皇の第3皇子とされます。
大津皇子は父の天武天皇が崩御したあと、一か月もたたないうちに23歳という若さで亡くなってしまったのです。
なぜ大津皇子はそんなに若くなくなってしまったのでしょうか。

長谷寺 宵牡丹

③大津皇子、謀反を疑われ自殺。

天武天皇の兄、天智天皇には蘇我遠智娘との間に大田皇女と鸕野讚良皇女(のちの持統天皇)の二人の皇女がありました。
大田皇女と鸕野讚良はともに天智天皇の弟で叔父にあたる大海人皇子(のちの天武天皇)の妻となりました。
662年に鸕野讚良は草壁皇子を産み、663年に大田皇女は大津皇子を産みました。

667年太田皇女はまだ幼い大津皇子を残して亡くなってしまいます。

671年、天智天皇が崩御すると、翌672年、皇位継承をめぐって天智天皇の弟・大海人皇子vs天智天皇の皇子・大友皇子が争いました。(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して673年に即位し、鸕野讚良皇女は皇后となりました。

686年10月1日、天武天皇が崩御します。

その後、大津皇子は謀反を企てたと疑われ、686年10月25日に大津皇子は自殺してしまったのです。
大津皇子の妃の山辺皇女は殉死しています。

この事件は、草壁皇子を皇位につけるために持統天皇が仕組んだ陰謀であったという説が有力です。

草壁皇子は皇位につくことなく、689年に亡くなってしまったのですが~。
草壁皇子の死因は不明です。

長谷寺 登廊 

④抱いてほしい?

大津皇子が自殺したとき、同母姉の大来皇女はこんな歌を詠んでいます。

見まく欲(ほ)り我(わ)がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに
(私が見たいと思うあなたはもういないのに、どうしてやってきたのでしょう。馬がつかれるだけなのに。) 


『見る』というのは男女関係を暗示する言葉だとされています。
もしかして『私が抱いて欲しいと思うあなたはもういないのに』という意味?
大津皇子と大来皇女は近親相姦だった?

大来皇女は661年の生まれで、673年斎王に選ばれ、泊瀬斎宮に入っています。
泊瀬斎宮の在所は不明ですが、泊瀬(初瀬)という地名からして長谷寺の近くにあったのではないでしょうか。
初瀬は大来皇女ゆかりの地だったのかもしれませんね。

そして初瀬にある長谷寺には近親相姦の兄妹・木梨軽皇子と軽大娘皇女が祀られている可能性が大です。
長谷寺の創建年は大津皇子が薨去したのと同じ686年だし、長谷寺には大来皇女と大津皇子の姉弟の霊も弔うために創建されたのかも?


檜原神社より二上山落日を望む 

↑ 大津皇子の墓のある二上山。(檜原神社より)


うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 
弟背()()が見む/大来皇女
(弟は死んであの世に行ってしまいました。現世の人間である私は明日から二上山を弟と思って見ましょう。)


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[2017/05/24 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛城山 つつじ 『子供を産めなかった女性はなぜ筍を探す地獄に堕ちるの?』 

奈良県 葛城山
2017年5月19日 撮影


葛城山 つつじ


①笹の高原からツツジの高原に?


ウィキペディアに次のように記されています。

以前の山頂付近は笹で覆われていたが、1970年頃に笹が花を咲かせ、のちに一斉に枯れた。
ツツジはその跡に自然に生えてきたものである。
笹は自生力が大変強いために、ツツジを維持するため毎年2回笹刈りが行われている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%91%9B%E5%9F%8E%E5%B1%B1より引用

上記の記述にはソースが示されていないので、頭から信用することはできませんが
本当だとしたらとても劇的ですね!
笹の高原がツツジの高原に変わってしまったなんて!


葛城山 ツツジ3

② タケとササの違い

単子葉植物イネ科タケ亜科の植物はタケ・ササ・バンブーの3つに分類されるそうです。

バンブー・・・地下茎が横に伸びない。株立ち。大型。熱帯に多い。
タケ・・・・・地下茎が横に伸びる。はじめ茎は鞘に包まれているが、成長すると鞘がはがれる。
ササ・・・・・地下茎が横に伸びる。茎を包む鞘がはがれない。

葛城山 ツツジ2   

③竹は一斉に花を咲かせて枯れてしまう

竹は一斉に花を咲かせて枯れてしまうそうです。
竹が一斉に花を咲かせているところや、一斉に枯れたところなんか見たことないよ~、という方は多いと思います。
私も見たことないです。

それもそのはず、竹は種類によって異なるようですが、だいたい60年~120年に1度だけ花を咲かせるとのことなんです。
(モウソウチクは約60年、マダケは約120年、孟宗竹は個体差があるが67年周期で花が咲いた例が2例ある。)
昭和40年代、世界中のマダケが一斉に開花して枯れてしまったこともあるのだとか。

竹の花って滅多に咲かないんですね。
竹の花を見たことがないのは当たり前のことなんですね。

で、花が咲いたあとの竹は枯れてしまうので、竹林が消滅してしまうわけです。
もとの竹林に戻るには15年~20年かかるそうです。

笹も竹と同じく、60年に1度ぐらいの周期で花を咲かせ、枯れてしまうみたいです。

葛城山のツツジはその空白の期間を利用してちゃっかり芽を出し、その後は人が笹の刈り取りをするなどして手入れがなされているおかげで
私たちは毎年5月に一面オレンジ色に染まった風景を見ることができるんですね♪

葛城山 ツツジ


④竹の開花は凶事の予兆?

竹の花の開花は大変珍しいことなので、凶事の予兆であるなどとも言われていました。

⑤かぐや姫はなぜ竹から生まれたのか?

竹についていろいろ調べてみると、なぜかぐや姫が竹から生まれたとされているのか、見えてきたような気が。(気のせいか?笑)

もちろん、それはよく言われるように、竹の内部が空洞になっているということもあるでしょうが、それだけではなく、別の理由があるかも?

竹の花が咲くと、当然オシベとメシベが交配して結実し、そこから新しい生命が誕生しますね。
しかし、それは60年~120年に一度の大変珍しいことで、通常、竹は地下茎で増えます。無性生殖というようですね。

つまり、エッチしなくても子供ができるわけで、かぐや姫はエッチなく生まれた子供、ということなのかもしれません。

嵯峨野 竹林の道 

⑥子供を産めなかった女性はなぜ筍を探し続ける地獄に堕ちるのか?

かつて、子供を産めなかった女性は、死後、筍を探し続ける地獄に堕ちると説かれていました。
近年では差別的な考え方であるとして、あまりそういうことは言われませんが、たしか長岳寺の地獄絵にも筍を探す女性が描かれていたと思います。

子供が産めなかった女性は性的に不能なので、エッチなしで生えてくる筍を探し続けるのではないでしょうか?

葛城山 まむし草


葛城山には『まむし草』の花もたくさん咲いていました。


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[2017/05/20 13:02] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

法起寺 法輪寺 れんげ草 『斑鳩の塔が現存している理由?』 

奈良県生駒郡斑鳩町 法起寺 法輪寺 法隆寺
だいぶ前に撮影

法起寺 蓮華草

法起寺 蓮華草

①三基の塔が次々に現れる。


斑鳩の里を歩くと、田園風景の中に3基の塔が次々に現れます。
法起寺の三重塔、法輪寺の三重塔、法隆寺の五重塔です。
いずれも飛鳥時代に創建されたとされる古いお寺です。
法隆寺と法起寺の塔は世界最古の木造建築として世界遺産にも登録されていますね。

②法輪寺の塔、落雷で焼失

法輪寺の三重塔 も法隆寺や法起寺と同じく7世紀ごろに建てられたものが1944年まではあったそうですが、落雷をうけて消失してしまいました。

法輪寺 蓮華草 

法起寺 蓮華草

大和路の風景を撮っておられた写真家の入江泰吉さんは、このニュースを聞いてとてもショックだった、とおっしゃっていました。
その後、作家の幸田文さんらが寄付金を集め、1975年に三重塔は再建されました。
工事に携わったのは法隆寺の宮大工の棟梁、西岡常一さんです。
薬師寺西塔を再建したのもこの方でした。

薬師寺 日の出 

薬師寺 日の出 
向かって左が西塔、向かって右が東塔。
屋根の角度が違いますね。1000年たつとだいたい同じくらいになるとのこと。

法隆寺 夕景 
法隆寺 夕景
 
③斑鳩三塔はなぜ残ったの?

それにしても、1300年以上前に建てられた塔が最近まで3基とも現存していたということは驚くべきことだと思いませんか。
斑鳩という土地は気候が穏やかな土地だといえるかもしれません。 滅多に雪も降りませんしね。
また、南都焼き討ち(1181年、平重衡らが東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院を焼き討ちにした 事件。)のような事件もなかったようです。

法隆寺・法起寺・法輪寺はいずれも聖徳太子に関係する寺院です。
梅原猛さんは著書『隠された十字架』の中で『聖徳太子は怨霊だった』と説かれました。
中門の中央に柱があったり、聖徳太子等身大の像と伝わる夢殿の救世観音の頭に後輩が直接釘で打ちつけられているのは、怨霊を封じ込めるための呪術的な仕掛けであるというのです。

File:GUZE Kannon Horyuji.JPG

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji.JPG よりお借りしました。
作者 Tokyo Bijutsu Gakko [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


法隆寺 救世観音

聖徳太子の怨霊に対する恐れから、斑鳩の3つの寺は保護されてきたのかも?



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[2017/05/19 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

船宿寺 大手鞠 ツツジ 牡丹 『巌舟権現とニギハヤヒは同一神?』 

奈良県御所市 船宿寺
2017年5月初旬 撮影

船宿寺 参道 大手毬

①巌舟権現

725年、行基の夢の中に巌舟権現が現れ、、「ここから東の方へ行くと、山の中に船形の大きな岩がある。その岩の上に薬師如来をお祀りするように」と告げました。
行基がその夢告に従って探したところ、船形の岩が見つかりました。
そこで、そこに薬師如来を祀り、船宿寺と名付けました。


船宿寺 参道 大手毬2

②海がないのに船宿寺?

奈良県は周囲を京都府・大阪府・和歌山県・三重県に囲まれており、当然海はありません。
海がないのに船宿寺という寺名ってどうよ?

古には河川を航行する船は重要な交通手段でした。
大阪から京の都に行く場合でも、淀川を遡っていったのです。

なので、山中だからといって『船』の漢字がつく寺名がおかしいとはいえないですね。

京都の貴船神社も山中にあり、船形をした岩がありますが、
タマヨリヒメの乗った船が蜑女崎(尼崎)、菟道川、鴨川を経て鞍馬川と貴船川の合流点に達し、貴船川を遡り、霊境吹井のある場所に鎮座したと伝わっています。



③貴船神社は紀氏の神?

貴船神社または貴布禰神社と称する神社は各地にあります。
そのひとつである兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

「紀氏が自身の守り神に祈願した」ということは貴船神社の神は紀氏の神だということでしょう。
また紀氏の本拠地・紀州は森林資源に恵まれており、紀氏はその森林資源を生かした造船技術に長けていたといわれます。

京都の貴船神社は、平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。

上賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないでしょうか。

しかし、貴船神社はもともとは紀氏の氏神を祀る神社なのではないでしょうか?

船宿寺 本堂 大手毬

④巌舟権現は紀氏の神?


すると、行基の夢の中に表れた巌舟権現もまた、造船技術に優れた紀氏の神ではないかと思ったりします。
船宿寺のある奈良県御所市は紀氏の本拠地・紀州(和歌山県)に近いです。

船宿寺 本堂 つつじ

⑤巌舟権現はニギハヤヒ?

巌舟権現ときいてもうひとつ思い出すのが、大阪府交野市の磐船神社です。

初代神武天皇よりも早く、ニギハヤヒが『天の磐船』を操って天下ったとされる場所にあり
『天の磐船』と呼ばれる巨大な磐を御神体としています。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

磐船神社の御祭神はニギハヤヒで、ニギハヤヒは物部氏・穂積氏のの祖神とされますが、熊野国造の祖神ともされています。
国造とは古代の日本で、地方を治める官職についていた人のことです。

船宿寺はこの熊野国造の神を祀る寺(明治まで神仏は習合されていました。)なのかもしれませんね?

船宿寺 ツツジ  

船宿寺 牡丹 


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[2017/05/17 12:56] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

金剛寺 牡丹 大手鞠 藤 『平重盛はなぜ48の燈籠を建てたの?』 

奈良県五條市 金剛寺
2017年5月初旬 撮影

 金剛寺 白藤

①燈籠大臣

1173年、金剛寺は平清盛の嫡男・平重盛が創建したお寺です。
平重盛は小松殿、灯籠大臣などと呼ばれていました。
小松殿と呼ばれていたのは六波羅小松第の邸宅に住んでいたためです。
そしてその邸宅には48の燈籠が建てられていました。
それで燈籠大臣と呼ばれていたのですね~。

金剛寺 牡丹

②四十八願

平重盛が48の燈籠を建てたのは、四十八願にちなむものではないでしょうか?

四十八願とは浄土教の根本経典・仏説無量寿経に記されているもので、法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行中の名前) が仏に成る修行をするにあたってたてた48の願のことです。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/48gann.html
四十八願について、上記リンク先に現代語訳されています。

地獄・餓鬼・畜生の三悪道の者がいる。
地獄・餓鬼・畜生の三悪道に陥る人がいる。
人々が金色に輝く身にならない。
美醜の差がある。
過去に起ったことを知り尽くすことができない。
諸仏の国を見通すことができない。
諸仏の心を知り尽くせない。
諸仏の国々を跳びまわれない。
わが身に執着する人がいる。
さとりを得ることができない人がいる。
諸仏の国々が照らされない。
寿命に限りがある。
声聞の数に限りがある。
悪を現す言葉がある。
わたしの名をほめたたえない仏がいる。
わたしを信仰しない人がいる。
命つきるとき、わたしを信仰する人の前に私が現れることができない場合。
わたしの国に生まれたいと願う人々の願いをかなえられない場合。
人々が仏と同じ三十二相のすぐれた相を備えない。
衣服を欲しているのに、すぐに現れない。

金剛寺 牡丹2

このような場合には法蔵菩薩は仏にはならない、と言っています。
逆に言えば、仏になった場合、上にあげたようなことをすべてなくすということですね。
うーーん、これは永遠に法蔵菩薩は阿弥陀仏になれないのではと思ってしまいます~。

金剛寺 大手鞠

③燈籠の灯りは神様の霊をあらわす?


48の燈籠の灯りは神様の霊を表しているのではないかと思ったりします。

というのは、天火明命(アメノホアカリ)という神様がいるからです。

アメノホアカリは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)という別名があります。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀によるもので、記紀では単にニギハヤヒとなっています。

記紀はまた次のようにも記しています。

ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代神武天皇が日向から東征して畿内入りするよりもはやく、畿内に天下っていたと。

ここから、初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

天皇家にとって都合の悪い内容ですが、記紀にこれを記さなければならないほど、「もともと畿内には物部王朝があった」ということは人々に知れ渡っていたということだと思います。

平重盛はこのニギハヤヒを厚く信仰していたのかもしれませんね。

  
金剛寺 

↑ ↓ これは花の名前がわかりません。ご存知の方、教えて下さい!

金剛寺  

金剛寺 牡丹 



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[2017/05/16 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

不退寺 黄菖蒲 今井町 カキツバタ 黄しょうぶ  『不退寺には黄しょうぶよりもカキツバタが似合う』 

 
奈良市法蓮東垣内町 不退寺
撮影 2009年5月初旬

不退寺 多宝塔 黄しょうぶ 


不退寺

①上層部を失った多宝塔

上の写真の建物は何だと思いますか?
答えは『多宝塔』です。

多宝塔って↓ こんな形をしていますね。

愛染堂 夕景 
愛染堂 〈大阪市)

もう一度、1枚目の写真を見てください。
全然、形が違うやーん。

実は不退寺の多宝塔は上層部を失って下軸部のみなのです。
明治の廃仏毀釈によって取り払われた結果、このような姿になってしまったみたいです。
廃仏毀釈がなければ日本にはもっと多くのすばらしい文化遺産が残されていたでしょうね。
残念です~~。
 
不退寺 門 黄しょうぶ  

不退寺

②不退寺には黄菖蒲よりもカキツバタが似合う。

多宝塔前の池の黄しょうぶが満開でした。
でも不退寺には同じアヤメ科アヤメ属のカキツバタの方が似合うと思うなあ~。

不退寺は第51代平城天皇が809年に同母弟の嵯峨天皇に譲位したのち、『萱の御所』と呼ばれた萱葺きの御殿を造営した場所だといいます。
伊勢物語で知られる在原業平はこの平城天皇の孫で、平城上皇崩御後ここに住んだと伝わっています。

在原業平は六歌仙の一で、数多くの和歌を詠んでいますが、その中に次のような歌があります。

らごろも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ
(衣を長く着ていると褄がなれてしまうように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるこんなに遠くまでやってきたんだなあ、という思いがこみあげてきます。)


この歌の五七五七七の最初の音をつなぐと『かきつばた』となります。

③もともとはカキツバタが咲いていたのでは?

この池には数本、カキツバタの花も咲いていました。
それで「この池はもともとはカキツバタが咲いていたんじゃないかなあ?」と思ったりしました。

奈良県橿原市の今井町に今西家住宅があり、その前の環濠でカキツバタが咲いていたんですよ。

今井町 今西家住宅と環濠 杜若 

今西家住宅 カキツバタ

ところが数年して行ってみたら、カキツバタはなくなって黄しょうぶに変わっていました!

今井町 今西家住宅と環濠  
今西家住宅 黄しょうぶ


カキツバタは絶滅危惧種で、繁殖力の弱い植物です。
そこに何らかの理由で、繁殖力の強い黄菖蒲が繁殖するようになって、カキツバタはなくなってしまったのかも?

④薬子の変

①で不退寺はが809年に同母弟の嵯峨天皇に譲位したのち、『萱の御所』と呼ばれた萱葺きの御殿を造営した場所だと書きました。

810年、平城上皇は平城京遷都の詔を出すなどして嵯峨天皇と対立するようになり、ついに挙兵に至っています。

平城上皇のこのような行動の背景には藤原仲成・薬子兄妹の存在がありました。
平城天皇は自分の妻の母親である藤原薬子を寵愛していました。(親子どんぶり~)
薬子と兄の仲成はしだいに政治に口出しするようになっていったのです。

しかし、平城上皇は薬子と共に東国に入ろうとしたところを坂上田村麻呂らに遮られ、あっけなく挙兵は失敗に終わりました。
これを『薬子の変』といいます。

不退寺 石橋 黄しょうぶ 
不退寺

●平城天皇の孫なのに在原姓なのはなぜ?

平城上皇の皇子・安保親王は、薬子の変に連座したとして大宰権帥に左遷されました。
824年、平城上皇が崩御したのちようやく帰京を許され、14年ぶりにようやく都へ戻りました。
帰京した安保親王は伊都内親王を妻とし、伊都内親王は子供を産みました。
これが在原業平です。

伊都内親王は桓武天皇の第8皇女で、母親は中納言藤原乙叡女の藤原平子でした。
業平は高貴な生まれで、祖父が薬子の変をおこさなければ天皇になる可能性もあったのです。

阿保親王の子供であるのに、業平はなぜ在原姓なのでしょうか。
それは業平の父の安保親王が826年に自らの子供の臣籍降下を願い出て在原姓を賜ったからです。

安保親王は自分の子供の臣籍降下を願い出ることで、自分には謀反を起こそうという気持ちなどないということをアピールしようとしたのでしょう。

●陽成天皇は業平の子?

不退寺の内陣と外陣の境には吹寄菱欄間と木連格子が入れられています。
この菱形の吹寄菱欄間は業平格子とも呼ばれています。
菱形は業平が好んだ柄だそうで、百人一首の絵札に描かれた業平像も業平格子の着物を着て、弓矢を背負っています。
百人一首に描かれた業平像は、業平が陽成天皇にお仕えする姿だと言われています。

百人一首かるた

陽成天皇の父親は清和天皇、母親は藤原高子です。
でも、私は実は陽成天皇は業平の子ではないか、と考えています。

業平と藤原高子がかけおちをするようすが伊勢物語に描かれているからです。
詳しくはこちらの記事をお読み下さいね。→ 龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 

陽成天皇は源益(みなもとのすすむ)を殴殺するという事件をおこし、摂政・藤原基経によって退位させられていることからして変です。
藤原基経は陽成天皇の母親・高子の同母兄です。
陽成天皇が皇位にあれば基経は外戚として権力を振るうことが可能なのに、なぜ基経は陽成天皇を退位させたのでしょうか?

陽成天皇には凶暴性があったとされますが、本当でしょうか?
人は自分が憎む者を高く評価しないものです。

さらに清和天皇退位後、基経・高子兄弟は関係が悪化したとされます。
基経と高子の関係が悪化したのは、陽成天皇が業平の子であるということが基経に発覚したからなのだろうか、などとつい勘ぐってしまいます。 



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[2017/05/14 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)