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戒長寺 お葉つきイチョウ 『お葉つきイチョウの不思議』 


奈良県宇陀市榛原戒場 戒長寺


①不思議な戒長寺のお葉つきイチョウ



以前、戒長寺の記事を書きました。
山部赤人の墓 額井岳 紅葉 『言霊の使い手&戒場=開成?』 
戒長寺の住職さんに素敵なお土産をいただいたので(ありがとうございます!)、今日はその話をしたいと思います。

まずはお土産の写真をご覧ください。↓

お葉つきイチョウ 
イチョウの葉っぱと銀杏です。
とても素敵なお土産で超うれしかったです!

住職さんがいうには、二股に分かれている葉が雄(向かって右)で、分かれておらず扇のような形をしているのが雌(向かって右より2つ目)だということです。
中央の黄色い葉っぱは雌ですが、よく見ると少し色が濃くなっているところがありますね。
写真ではわかりにくいかもしれませんが色の濃いところは少し盛り上がっていますよ。
これがどんどん膨らんで向かって左のようなお葉つきイチョウになるのだとか。
なんという不思議!

戒長寺 説明板


上は戒長寺にあった説明板です。内容を下にまとめておきます。

①イチョウは裸子植物のイチョウ科に属する。
②イチョウはシダのように胞子をつくる胞子植物と種子を種子植物の両方の性質をもつ。
③イチョウは受精の際、シダと同様運動する精虫ができる。
④シダ類は葉に胞子をつけるのと同様、お葉つきイチョウも葉に種子をつける。

http://www.kyoboku.com/ohatsuki/
上のサイトによると、お葉つきイチョウは日本には20本ほどしかなく、そのほとんどが雌株だとあります。
そして山梨県身延町八木沢にあるイチョウと、三珠町にあるイチョウの2株のみ、雌雄株だと書かれています。
しかし、住職さんいわく、戒長寺のお葉つきイチョウも雌雄株だということです。

戒長寺 本堂

戒長寺 本堂

②イチョウは精子をつくる。

まず一般的なイチョウについてみてみましょう・

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005100132_00000
上のサイトの動画および説明がわかりやすいです。

①イチョウは4月ごろ花を咲かせる。雄の木は雄花(下向きに垂れ下がる)、雌の木は雌花をつける。(上向き)
②風で雄花から花粉が飛び、雌花の先からでた液に雄花の花粉がつく。
③花粉は液とともに雌花の先にある穴から吸い込まれる。
④吸い込まれた花粉は穴の奥にある小さな部屋に入り、精子を作る準備をする。
精子と受精する卵(らん)は、その小さな部屋の下にある丸い部分で作られる。
⑤9月、雌花は大きく育って垂れ下がる。卵がふたつでき、その下に精子ができる。
⑥精子は一つの袋に二つできる。繊毛(せんもう)を使って、袋の中で活発に動く。
⑦袋のまわりの空間は液体で満たされる。袋から出てきた精子はその中を泳ぎ卵に向かって受精する。


説明板に精虫とあるのは精子の事だと思います。

戒長寺 鐘楼

戒長寺 鐘楼



②お葉つきイチョウは花が咲くのか?

コトバンクに次のように記されていました。

葉が2裂して,片方が葉,片方が胚珠となること(お葉付きイチョウ)もイチョウの祖型を探る意味では興味ある現象である。


https://kotobank.jp/word/%E3%81%8A%E8%91%89%E4%BB%98%E3%81%8D%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6-1284157より引用

胚珠とは種子植物の種子になる部分のことをいいます。
花粉から花粉管が胚珠内部へと伸び、花粉内部の精細胞が胚珠内部の卵細胞と受精します。

ということは、お葉つきイチョウは葉の部分にこの胚珠ができるということだと思います。
コトバンクの説明では、葉が2裂してとありますが
戒長寺のイチョウは2裂しない葉に実ができていました。
戒長寺のイチョウは珍しい雌雄同株だということですし、他とはちがう性質をもっているのかもしれません。

受粉するということは、花が咲くということですよね?
戒長寺のお葉つきイチョウは雌雄体ということなので、たぶん雄花は咲くのでしょう。
雌花はどうでしょう?咲くのでしょうか?

戒長寺 遠望 

戒長寺 遠望


③大胞子葉と栄養葉


ウィキペディアには次のように記されていました。

現生の種子植物の中では、ソテツ類ともに最も原始的な性質を残した植物とされる。
雌花(大胞子葉)は栄養葉(普通の葉)に似た形をしており、実際葉にギンナンのついた「お葉つきイチョウ」(Ginkgo biloba 'Epiphylla' )も見られる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E9%A1%9E より引用

胞子葉とは胞子(生殖細胞)をつけるように分化した葉のことです。

ということは、雌花は咲かないんでしょうか?

春に双眼鏡持って見にいくしかないかな。ご存じのかた、教えてください!

④お葉つきイチョウの雄株、しかも性転換した!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E%B2%A2%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%8F%E3%83%84%E3%82%AD%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6

山梨県南巨摩郡身延町上八木沢にある八木沢のオハツキイチョウは珍しい雄株のお葉つきイチョウだそうです。
ふつうのお葉つきイチョウは葉に銀杏をつけますが、八木沢のお葉つきイチョウは銀杏ではなくおしべをつけるとのこと。

2011年、雄株なのに銀杏の実をつけているのが発見され、調査したところ、一枝のみ性転換していることがわかったのです。

⑤性転換する植物

性転換する植物は結構あるみたいですね。
マムシグサ、ムサシアブミなどは球茎の重さによって雌雄が決まるという研究があります。

イチョウは雄株のはずなのに銀杏が実ったという話が結構あるようです。

⑥雄略天皇は性転換して女神の一言主大神になった?

昔の人はイチョウが性転換するということを知っていたのではないでしょうか。

というのは大イチョウを御神木とする一言主神社にこんな神話があるんですね。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、
向かいの山の方から、『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と同じ言葉が返ってきました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。
 

長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』ですが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。
『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないでしょうか。

長谷という地名は葬送の地を意味していると聞いたこともあります。
今でも長谷寺の奥の院あたりにはたくさんのお墓があります。

つまり「名前を問われたほうが先に名乗る」というようなしきたりがあったのに、
雄略天皇がうっかり「それぞれが自分の名を名乗って矢を放とう」と言ったので
木霊(山彦)である一言主大神はまず自分が名を名乗る必要が生じたため、
実体のある神となって名を名乗り、雄略天皇を矢で射た。
そして一言主大神は死んだ雄略天皇を黄泉の国へ連れて行ったという話ではないかと思います。

そして一言主大神は女神だと考えられます。
というのは雄略天皇がこんな歌を詠んでいるからです。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの?
大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳)


これに対して彼女はこう答えたのではないかと思うのです。

『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である!』


一言主神は狩りをしていた。一方娘は菜を摘んでいた。二人は違うことをしているので、同一神ではないのではって?

でも狩りと菜摘みは関係があるんですよ。

狩りは鹿狩り、菜摘みは薬草を摘むことではないかと思います。
鹿狩と薬草摘みはどちらも古には旧暦5月5日に行われる行事で、薬狩りと呼ばれていました。

一言主神も娘も薬狩りをしていたということで共通点があり、同一神であると思うのです。

つまり男性である雄略天皇が性転換したのが一言主大神である(ふたりは同じ衣装を着ており同じ容姿をしていると考えられます。)ということで性転換するイチョウを一言主神社の御神木としたのではないかと思ったりするわけです。

一言主神社 公孫樹2 

一言主神社 御神木の大イチョウ

⑦容姿を気にする神は女神では?


平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」にはこんな話が記されています。

役行者は鬼神たちに葛城山と吉野金武峰山を結ぶ橋をかけるよう命じたが、一言主神は顔が醜いのを気にして夜しか働かなかったため橋は完成しなかった。
これに怒った役行者は一言主神を呪術で縛り付けた。

容姿を気にするあたり、やはり一言主神は女神じゃないのかな、と思ってしまいます。

祇園祭 宵山 役行者山

上の写真は祇園祭・役行者山の御神体で、中央が役行者、向かって右は葛城神、向かって左は一言主神です。
一言主神は鬼の姿をしています。
私なんかは鬼の姿をした一言主神ってかっこいいと思いますが、一般的に見て美しいとは言い難いかも。
やはり観音菩薩のような優し気な顔を美しいと思う人がほとんどでしょう。

一言主神社 公孫樹 
一言主神社 御神木の大イチョウ


一言主神社の御神木の大公孫樹は気根が発達して乳房のように見えることから乳垂れイチョウと呼ばれています。
銀杏のにおいは記憶にないです。
なのでもしかしたら雄株かもしれませんが、その木姿から女神と考えられていたのではないかと考えられます。

また樹齢1200年ともいわれる古木なので、かつて銀杏の実をつけていた時代があったかもと思ったりします。











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[2019/12/30 13:53] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

谷瀬の吊り橋 野猿 紅葉 『なぜ橋ではなく野猿を作ったの?』 

 
奈良県吉野郡十津川村 谷瀬のつり橋 野猿
2019年11月20日 撮影


土津川 トンネル  
①谷瀬の吊り橋

何度か訪れたことのある城下町五條。
この道を右に入れば城下町五條新町。左へ入れば金剛寺。この坂をのぼっていくと吉祥寺。
でも今日は道を曲がらずにもっと先へ先へと向かいます。
賀名生梅林が見えてきました。
でもまだまだ先へ向かいます。
山はどんどん深くなってきて秘境の雰囲気が漂います。

谷瀬の吊り橋 
谷瀬のつり橋にやってきました。

ものすごく高いところにかけられていて、しかも長いです。
川面からの高さ54m、長さ297.7 mということです。

しかも、この日は強風!
怖いので、写真を撮るだけにしましたが、私と同じような怖がりの方が橋のたもとに何人かいて、連れの方が戻ってくるのをまっておられました。(待っているのは男の方が多かったですw。)

長らくここには橋がなく、1954年、地元の方が1軒当たり20-30万円を出し合い、村の協力を得て建設したということです。
ウィキペディア等によると、当時、教員の初任給が7800円、米10キログラムが765円だったということで、20-30万円というのは大金です。
土津川の人々は、それだけの大金を出しても橋をかけようという気概のある方々であったということかもしれません。

水路橋 
水路橋 風屋ダムより十津川第一発電所に水力発電用の水を送る水路橋。

②土津川郷士

というのは、十津川は陸の孤島的な場所にあり、さらに地形が農耕に適さないということもあって、古より独立した村落共同体として存続してきたのです。

農耕に適さない十津川の人々は、税金を免除してもらうため、戦争に出兵するということを、672年の壬申の乱から幕末まで行っており、十津川郷士と呼ばれていました。

1160年には平治の乱に出兵、南北朝時代には南朝側について減税免税措置をうけています。
室町時代にも守護の支配下に入らず独立をたもち、秀吉の太閤検地でも免税されています。
1614~1615年の大坂の陣では、徳川方についたため、天領となって免租されました。

また、陸の孤島ともいえる険しい山々は、逃走者が身を隠すのに適した土地であり、南朝・源義経らが土津川に身を隠したといわれています。

水路橋4 
水路橋 風屋ダムより十津川第一発電所に水力発電用の水を送る水路橋。

③野猿

↓ 野猿です。
手動式ロープウェイといってもいいかも。
かつてこの付近にはいくつかこのような野猿があったということです。

谷瀬のつり橋は怖くて渡れなかったのですが、野猿には乗ってみました。
乗ってみると思ったより怖くなかったです。
ちょっと力はいりますが、橋のたもとで友人がロープをひっぱるのを手伝ってくれたので、そんなに大変ではありませんでしたよ。

野猿

④なぜ橋ではなく野猿をかけていたの?

ここで疑問。
なぜ十津川村では川に橋ではなく、野猿をかけていたのでしょうか?

五箇山に野猿に似た似た「籠の渡し」があるそうですが、五箇山に行った際、地元の方に聞いたら「雪の日は屋内にしまってあるので見ることができない」ということでした。

実は友人に「あー、籠の渡し、見たかったなあ~」と愚痴ったところ、友人が「十津川に野猿あるから見に行こう」と誘ってくれたのでした。

写真はリンク先にありました。→ 
https://tripnote.jp/toyama/gokayama

五箇山に籠の渡しがあるのは、かつてここは流刑地であり、流刑者の逃亡を防ぐため、橋をかけることが禁止されていたからということです。

五箇山 田向 流刑小屋 

五箇山 田向 流刑小屋(復元) 小屋の壁に空いた小さな穴から食事などを差し入れます。


十津川は壬申の乱の時代から戦争に出兵していたのでしたね。
戦争には軍事機密はつきものです。
また、南朝や源義経らが身を隠した土地だということは、十津川の人々は彼らをかくまうことによっても免税などの利権を得ようとしていたのではないでしょうか。

そしてそういう目的があるため、あえて簡単に行き来できないようにと橋ではなく野猿をかけたのではないでしょうか。
橋ならあっという間に渡れるでしょうが、野猿だと渡るのにすごく時間がかかります。
追手などがやってきても、野猿でまごついている間にやっつけてしまえると思います。

あと、土津川の人々は話しかたが東京式アクセントだったり、蛇を「ぐちなわ」語尾に(のら「~ね」の意味)」を付けるなど、言語も独特のようです。

こういうのも、山深く周囲から隔絶された土地ならではかもしれませんね。

十津川 
十津川の水はとてもきれいな水色でした。石灰が混ざってこんな色に見えるそうです。




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[2019/11/29 23:42] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

室生寺  紅葉 ライトアップ『埴も丹もあかつち』 

奈良県宇陀市 室生寺
2019年11月17日 撮影

室生寺 本坊

①室生寺付近は水銀鉱山だった。


興味深い記事を見つけました。

タイトルは「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 鉱産物(03-139)/大阪毎日新聞 1937.3.12 (昭和12)/意外な広大さから国史学界に波紋/京大田久保助教授、興味の調査/丹生の字義に新解釈?南大和の水銀鉱」

となっています。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00063987&TYPE=HTML_FILE&POS=1

内容をまとめます。

①京大理学部地質鉱物学助教授田久保実太郎氏は南大和の水銀鉱調査し、有望な露頭鉱床を発見した。
②その結果、宇太町附近の駒帰・稲戸・下芳野などの既知の水銀鉱山の他、多武峰・下居・大東・金剛山附近などいたるところ水銀の露頭鉱床を見出した。(広大な南大和水銀鉱)
③平安朝以来雨の神として信仰されている丹生明神がこの地方に多い。吉野には丹生川上神社もある。
④丹生明神の荷は埴と同じく『土』の意味だと考えられてきた。
⑤しかし、広大な南大和水銀鉱の存在を考えると、朱の原料・辰砂を産するところという意味ではないか。
⑥丹生明神は辰砂を産する山を神格化したもので雨の神ではないのではないか。
⑦古墳等に使われている朱(硫化水銀)は今日まで漠然と支那伝来のものと考えられていた。
⑧しかし、南大和では辰砂の採掘、朱の製造が行われていたのではないか。
⑨弘法大師は丹生明神に率いられて高野山を開いたといわれるが、これは大師が支那の新知識によって辰砂の採掘、朱の製造を行ったということではないか。
⑩大師を開基とする大和室生寺附近は田久保助教授によって水銀鉱山であることが証明されている。
⑪大阪鉱山監督局 菅野鉱業課長は次のように話している。
「宇陀郡宇太町は昭和十年度には五、〇八九キログラムの水銀を産出している。
その他水銀鉱区として多武峰・葛城・吐田郷にも水銀の鉱区がある。
三重県飯南郡丹生村の附近にも伊勢水銀の鉱区があり昭和十年には水銀鉱十一キロトンを産している。

室生寺付近は水銀鉱山だったのですね。

室生寺 橋

②仏隆寺で入定した堅恵

室生寺の東南、直線距離2kmほどのところ、宇陀 市榛原赤埴に仏隆寺というお寺があります。








仏隆寺には開祖堅恵入定石室と呼ばれるものがあります。
仏隆寺の開祖・堅恵上人は即身仏となるべく、この石室に入定したのでしょう。


仏隆寺 入定石窟


『弘法大師如意宝珠納札銘』に『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』とあります。

『宇一山』は正確には『宀一山(べんいつさん/ういつさん)』で『宀一』は『室生』の二字のそれぞれ上下を採ったもの。
『竹目々』は『竹木目』で『箱』の字を分解したもの。 
『土心水師』は堅恵法師の部首を採った略とされます。

すると、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は『室生山精進峯の箱の底が堅恵法師の道場である』という意味になると思います。
即身仏となるとき、生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせたりしたようです。
つまり、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』とは、『堅恵は室生山精進峯に入定した』という意味なのかもしれません。

仏隆寺 彼岸花 『謎々です。『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は何と読む?』  

室生寺 仁王門4 
③水銀の防腐効果

即身仏となるためには、木食といって五穀をたち、木の皮や木の実のみを食べる修業をします。
即身仏のメッカといえば山形の湯殿山ですが、湯殿山は水銀土壌なんだそうで、木食をすることで体内に水銀がたまり
水銀の防腐効果で腐りにくい体になると聞いたことがあります。

空海が高野山を欲したのも、高野山には水銀の鉱脈があったからだといわれます。
水銀は空海の懐を潤したかもしれませんが、それだけでなく、空海は即身仏となる際の水銀の防腐効果にも期待していたのではないかと思います。

すると堅恵が室生寺近くにある仏隆寺に入定したのも、水銀土壌であったからではないかと思ったりします。

室尾寺 五重塔

④赤埴という地名の由来


仏隆寺のある場所は地名を赤埴というんですね。

『奈良縣宇陀郡史料』に次のように記されているそうです。

「(赤埴)氏は本姓大神にして大物主神の後大神君大友主より出ず、上古大国主神嫡后須勢理姫と共に宇陀の室生岩窟に入り五百引の石を以って之を塞ぎ赤土を以って其口を塗る、赤埴の称ここに起り其岩窟は即ち今の室生龍穴社なりと云う」

赤埴氏の本姓は大神氏で、オオモノヌシの後、大神君大友主から出た。
昔、オオクニヌシが后のスセリヒメと共に宇陀の室生岩窟に入り、引っ張るのに五百人必要なほど大きな石で岩窟を塞ぎ、その口に赤土を塗った。
赤埴という名前(地名?)はここからくる。
その岩窟は室生龍穴神社である。


みたいな意味でしょうか。(違っていたら教えてくださいね!)

室尾寺 五重塔2

⑤埴も丹も「あかつち」


埴とは黄赤色の粘土のことで、陶器などが作られました。ねばつち、あかつち、へな等とも言いました。


ですが、「丹」「辰砂」のことも「あかつち」「あかに」などと言いました。
(丹、辰砂は水銀)

岩窟をふさいだ石に塗った「あかつち」とは埴ではなく、丹だったりしないでしょうか?

室生寺 本堂 

⑥一富士・二鷹・三茄子の謎


古知谷阿弥陀寺 紅葉 『即身仏と油』 
上の記事に、古知谷阿弥陀寺には即身仏が安置されている、ということを書きました。
ただし、非公開で拝観することができないのですが。

この古知谷阿弥陀寺のそばを高野川が流れています。

高野川って、空海が入定した高野山と同じ名前ですね。

「一富士・二鷹・三茄子」といいますが、私はこれは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えています。
栃木県那須町の近くには足尾銅山があります。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山があります。
銅は茄子色をしています。
そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないでしょうか。
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うわけです。

鷹は鷹の爪のことでしょう。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないでしょうか。

藤は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思います。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思います。

そして、高野山には水銀の鉱脈がありました。
すると高野川付近にも水銀の鉱脈があったので?と思えます。

室生寺 仁王門3 

⑦高野川の古名は埴川だった。

「日本後紀」によると、高野川は平安時代には埴川と呼ばれていたようです。
「雍州府志」には高野村を通ることが高野川の名前の由来だとあります。

しかし、高=水銀(丹)と、埴は混同されていたようにも思えて興味深いです。

室生寺 仁王門2


室生寺 仁王門 
室尾寺 橋2 


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[2019/11/21 14:05] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

山部赤人の墓 額井岳 紅葉 『言霊の使い手&戒場=開成?』 



奈良県宇陀市榛原山辺三 山部赤人の墓
奈良県宇陀市榛原戒場 戒長寺
2019年11月17日 撮影


山部赤人の墓 
山部赤人の墓

①言霊の使い手

額井岳のふもとに山部赤人の墓はありました。
山部赤人は奈良時代の人で古すぎるゆえ、本当にここが山部赤人の墓なのかどうかわかりませんが
この付近の人々は、ここを山部赤人の墓だと信じ続けてきたのです。

なぜここに山部赤人の墓があるのか。あるいは、なぜここが山部赤人の墓だと信じられたのか。
ネットをぐぐってみると「宇陀市榛原山辺」という地名で、山部赤人は山辺赤人とも記されることがあったため、と記された記事がありました。

そういうこともあるでしょうが、私はやっぱり、有名なこの歌にちなんでのことではないかと思います。

田児の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける/山部赤人

実はさきほど山部赤人の墓は額井岳のふもとにあると書きましたが、額井岳は大和富士と呼ばれているのです。

「田児の浦」は駿河湾の西付近を指します。
当然、この歌も田児の裏で詠まれたものでしょう。

しかし山部赤人は死んで大和富士と呼ばれる額井岳のふもとに葬られたので、「山部赤人の歌には言霊があった。」と人々は考えたのかもしれません。

言霊とは言葉の力によって口から発した言葉を実現させてしまう力のことです。

つまり、山部赤人は「田児の浦ゆ」の歌を詠んだので、その言霊の力によって大和富士のふもとに葬られたと人々は考えたのではないかということです。

この墓が本当に山部赤人の墓でなくてもいいんです。(もしかしたら本当に山部赤人の墓かもしれないですが)
人々が山部赤人の墓であると信じたということが重要なんです。

額井岳 
額井岳

②赤人は殺されて塩が振られている?

また雪は謀反人に降る塩を思い出させます。

というのは摂津風土記にこんな話があるのです。

雄鹿は背に雪が降り、薄が生える夢をみました。
雌鹿は偽った夢占いをして「薄はささった弓矢。雪は殺されて塩がふられているのです。出かけるとあなたは殺されてしまうでしょう。」
しかし雄鹿は淡路島にすむ妾の鹿に会いにでかけてしまい、夢占いとおりに舟人に射られて死んでしまいました。

もしかしたら山部赤人もまた殺されて、塩が振られたのかもしれません。
とすれば「田児の浦ゆ」の歌は、殺されることを予知した夢であると考えられた可能性もでてきます。

戒長寺 遠望 

戒長寺 遠望 (戒場山)

③戒場は開成?

山部赤人の墓の正面に立つと、山が見えます。そしてその山の中腹に大イチョウが見えます。
戒長寺の御神木・お葉つきイチョウです。

その山の名前を聞いて、テンションあがる、あがる!

戒場山。
かいばやま、と読むんでしょうか。
でも、戒場と書いて、「かいじょう」とも読めますね。

そして戒成皇子、海上皇子、開成皇子と呼ばれる皇子が、各地の寺社の創建説話に登場しています。
志貴皇子の子にも、海上王(本朝皇胤紹運録)または海上女王(続日本紀)という名前が記録されています。
神峯山寺大阪府高槻市開成皇子光仁天皇に命じられ神峯山寺を開く役行者が開基し、774年に開成皇子が創建した。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子裸足で大地を踏んだので病になった。
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。
海上王(本朝皇胤紹運録)
または海上女王(続日本紀)
志貴皇子の子志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になった。
(奈良豆比古神社伝説)


奈良豆比古神社には志貴皇子がハンセン病を患ったという伝説があります。
そして愛知県新城市の白山神社には、「開成皇子は裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。」という伝説があります。

もしかして山部赤人もハンセン病を患ったのでしょうか?

612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。(日本書紀)

 
ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないでしょうか。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

山部赤人と開成皇子は関係がありそうに思えます。
もう少し調べてみます。

戒長寺 本堂

戒長寺 本堂

戒長寺 鐘楼 
戒長寺 鐘楼



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[2019/11/19 17:24] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

東大寺 三月堂 百日紅 『将門魔法陣は存在したか?』 


奈良市雑司町 東大寺 

三月堂 百日紅2 
東大寺 三月堂 百日紅

①執金剛神の髻、平将門の乱を平定する。

三月堂の不空羂索観音の後ろの厨子に秘仏の執金剛神(しゅこんごうじん)が安置されています。
この執金剛神には次のような伝説があります。

940年、平将門の乱がおこったとき、執金剛神の前で将門誅討の祈祷を行った。
すると執金剛神の髻が大きな蜂となって東方へ飛びさり乱を平定した。
そのため、執金剛神には髻の元結紐の端が決失している。


この伝説にちなみ、今日は成田山不動尊 夕景『将門関連七神社は北斗七星をあらわしていない?』 のつづきを書きたいと思いま~す。

三月堂 百日紅  
東大寺 三月堂 百日紅

②将門関連七神社=北斗七星説に納得できなかった3つの理由

成田山不動尊 夕景『将門関連七神社は北斗七星をあらわしていない?』 
↑ こちらの記事で、「東京には平将門に関連する神社がたくさんあり、それをつなぐと北斗七星の形になる(将門魔方陣)」と、加門七海さんが指摘しておられるという話をしました。

将門関連十一か所 いつからその場所にあるか  
ですが、私には納得できないことが3点ありました。

a.将門関連七神社というが、東京には将門関連の寺社は11か所あります。

b.私は「江戸城は天の北極、筑波山はカシオペア座、富士山は北斗七星になぞらえられている。」と考えています。
その理由については、次の記事をお読みください。
富士山 夕景色と朝景色 『関東に北極星・カシオペア座・北斗七星が存在していた?』 
すると、下図のように、北斗七星がふたつあっておかしなことになってしまいます。
実際の天の北極の近くにはこぐま座がありますが、将門魔方陣はこぐま座とは形がちがうし、位置も異なります。

北斗七星 こぐま座 カシオペア座-将門魔法陣   
※現在はポラリスがほぼ天の北極にあって北極星とされていますが、歳差運動の影響で1600年ごろの天の北極は上図のようにポラリスからはやや離れていたと思われます。
 
c.bは夜空を反転させた形でなぞらえられている。(星が天球にはりついているものとし、天球の上から星をながめると左右反転してみえる。)
すると将門関連七神社がつくる北斗七星の形は左右反転していることになる。
(北斗七星と将門魔方陣は左右反転していますね)

将門関連寺社の由緒

これ以上のことは、加門七海氏の著書「将門魔方陣」を読んだり、将門関連11寺社について調べてみないことには結論が出せない!

ということで、さっそく本も読み、将門関連11寺社についても(主にウィキペディアで)調べてみました。

これらの寺社の由緒をざっと表にまとめておきます。
加門氏は七神社を将門サイド(鳥越神社・兜神社・首塚・神田明神・鎧神社・稲荷鬼王神社・筑土神社・日輪寺)アンチ将門(筑土八幡神社・水稲荷神社・烏森神社)という風にわけておられるので
将門サイドはピンク色文字アンチ将門は水色文字でわけておきました。
オレンジ色で示したのはウィキペディアには記載がなかったが、加門氏が本に書かれていた内容を記したものです。

●将門関連七神社
鳥越神社

景行天皇代に、日本武尊が皇祖二柱の大御神を祀った。
651年、村民が「白鳥明神」として奉祀した。
前九年の役征圧のため源頼義・義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り
大川(隅田川)を渡ることができた。
白鳥明神のご加護として鳥越大明神の社号を奉った。

1620年、江戸幕府は浅草御蔵を造営するため、土地を没収して大明神のある鳥越山を切り崩し埋め立て用に用いた。
三社のうち熱田神社は今戸へ、第六天榊神社は森田町(現・蔵前3丁目)に遷され、残った大明神が現在の鳥越神社

千葉氏という一族が神職を務めている。千葉氏の祖先は平将門の叔父・平良文であるともいう。

将門の首がここを飛び越えたとする説あり 

兜神社境内に兜岩と呼ばれる岩がある。
由来については3つの説がある。
1.後三年の役(西暦1080年代)で、源義家が奥州から凱旋してきたとき、東夷鎮定を祈願して兜を楓川の辺の土中に埋めて塚を作った
2.前九年の役(西暦1050年代)で、源義家が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願した
3.承平の乱(西暦935~940年)のころ、藤原秀郷が平将門の首を打って京都へ運ぶ際、将門の兜を埋めて塚をつくり供養した。
鎧の渡付近に将門を祀った鎧稲荷や源義家の兜塚があった。

昭和2年現在地へ移転 江戸時代より兜岩は現在地へあった。 
首塚


首塚はかつて盛り土と石室・石郭があり古墳だったとみられる。
将門の首塚、東国の平氏武将の崇敬をうける。
芝崎村住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきた。
1307年、他阿真教が将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立した。
首塚の近くには天台宗寺院日輪寺があったが、時宗芝崎道場に改宗した。
日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという。神田明神別当をつとめる。
江戸時代、日輪寺は浅草に移転するも、今なお神田明神とともに首塚を護持している。
首塚は江戸時代まで酒井雅楽頭の上屋敷の中庭にあったが、関東大震災によって損壊。
周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなったが、大勢の関係者が謎の死をとげ将門の祟りと噂された。
昭和2年(1926年)将門鎮魂碑が建立された。

芝崎には安房神社があり将門は生前同系の神社に太刀などを治めていた関係で、首をここに埋めた。

神田明神730年、武蔵国豊島群芝崎村に入植した出雲系氏族が、大己貴命を祖神として祀る。
神田はもと伊勢神宮の御田(神田)があり、神田を鎮める目的で創建され、神田ノ宮と称した。
神田明神の近くに将門の首塚があった。
1309年、平将門が当社の相殿神とされる。
1603年、神田台へ移転。1616年、現在地へ移転。
1874年(明治7年)、明治天皇行幸の際、逆臣である平将門が祀られているのはよくない、として
平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨木県大洗磯前神社から勧請された。
平将門は境内摂社に遷された。
1984年(昭和59年)平将門、本社祭神に復帰した。

筑土八幡神社

嵯峨天皇代(809-823)、老人の夢に顕れた八幡神の夢告げにより、創建。
850年、円仁、最澄作の阿弥陀如来像を安置。
文明年間(1469-1487)上杉朝興が社殿を建て、土地の鎮守とする。
1616年、江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に遷座し、津久戸明神社となる。
江戸城乾の守護として勧請
1945年、第二次世界大戦によって全焼。
津久戸明神社、千代田区九段北に移転して築土神社となる。
八幡神社は現在地に残る。
江戸時代初期、天海僧正が、平将門の足を祀ったとする風説あり。


別の史料によれば、八幡神社に将門が合祀されている。将門は津久戸明神という名前の地主神となっている。
八幡神社は将門の霊域に立つという伝説がほしかったのではないか。
庚申塚あり。
 

水稲荷神社

941年、藤原秀郷が冨塚の血に稲荷大神を勧請し「冨塚稲荷」と名付けた。
1702年、 神木の椋の根元より涌きだした霊水が眼病に利くとして「水稲荷神社」と改名された。
1788年、 「江戸の水稲荷」を名乗る翁が現れ、京都御所の大火に功績を認められ、「関東稲荷総領職」を賜る。
1963年、早稲田大学と土地を交換して現在地に遷座。


稲荷神の神託により源経基は将門を滅ぼした。

鎧神社醍醐天皇代(898-929)、円照寺創建。鎧神社は円照寺の鬼門鎮護として創建されたと考えられている。
947年、平将門の鎧を埋めたとの伝承あり。

俵藤太が将門の首を埋めたとも。猿の石像あり。
ピンク色文字・・・将門サイド 水色文字・・・アンチ将門 オレンジ色文字・・・加門氏による

鎧神社を加門氏は「将門サイド」としておられますが、「アンチ将門」とするべきだと思います。
というのは鎧神社の別当寺に円照寺があり、円照寺の伝説として、次のように伝わっているからです。

平安時代、薬師如来が祀られていた。
平将門討伐のため藤原秀郷がこの地を訪れたが病に倒れる。
薬師如来のご加護を得て病は治り、将門も討伐することができた。
藤原秀郷はこれに感謝して円照寺を創建した。


ただ、慰霊にせよ、調服にせよ、どの寺社も将門の怨霊を鎮めるという目的を持っているわけで、「将門サイド」「アンチ将門」のように分類することにさほど意味があるとは思われません。

加門氏もあまり「将門サイド」「アンチ将門」の分類にこだわっておられないように思われました。

あと将門関連七神社からもれた4神社についてもまとめておきます。

●将門関連七神社以外

築土神社

940年、津久戸村(上平川村、現:千代田区大手町1丁目、将門塚付近)に平将門の首を祀り、塚を築く。
「津久戸明神」として創建された。
室町時代、大田道灌が田安郷(現:千代田区九段坂上)へ移転させ、「田安明神」と呼ばれた。
1616年、江戸城拡張工事のため、筑土八幡神社隣(新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。
1874年、天津彦火邇々杵尊を主祭神として「築土神社」と改称する。
1945年、東京大空襲によって全焼。
1954年、九段中坂の途中にある世継稲荷境内地へ移転。


太田道灌が江戸城乾の守護として勧請(江戸名所図会)
江戸名所図会の詞書に「将門註せられし後、その首級を当国江戸平川の観音堂へ移し、これを斎(いわ)いて
津久戸明神とす。」とある。

稲荷鬼王神社平将門の幼名「外都鬼王(げづおにおう)」「鬼王丸」というところから神社名を鬼王にしたともいわれる。

1653年、諏訪神社境内の福瑳稲荷を大久保村に勧請し、氏神として稲荷神社を創建。
1752年、田中清右衛門が病気平癒のため、紀州熊野の鬼王権現を勧請。
1831年、稲荷神と鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社とする。
1894年、古来よりこの地にあった浅間神社を、稲荷鬼王神社に合祀。
昭和5年(1930年)境内社として浅間神社を再興。境内に富士塚を造成
昭和43年(1968年)社殿再建、富士塚を二分する。
  
烏森神社

940年、藤原秀郷が武蔵国の稲荷神社に平将門の乱鎮圧を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。
その矢によって速やかに乱を鎮めることができた。
その後、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であると告げた。
秀郷が桜田村にやってきたとき、烏が群がっていたので、そこに神社を創建した。

日輪寺徳治年間(1303-1308)この地を訪れた他阿真教が将門の首塚の祟りで疫病が流行しているとおびえる村人のため
塚を修復し供養をしたところ疫病が治まり、村人の勧めもあって日輪寺を時宗に改め念仏道場とした。
1590年以降、移転を繰り返す。1601年柳原へ移転。
1657年の明暦の大火で焼失し、浅草へ移転。
 

注意したいのは、日輪寺・首塚・神田明神はもとは同じ場所にあったということです。
その後、神田明神は1603年に神田台へ移転し、さらに1616年、現在地へ移転しています。
日輪寺は1601年に柳原へ移転し、1657年に現在地へ移転しています。

さらに、筑土八幡神社と筑土神社ももとは同じ場所にあったことにも注意してください。

嵯峨天皇代(809-823) 筑土八幡神社創建
1616年、田安明神が筑土八幡神社の隣に遷座し、津久戸明神社となる。
1945年、第二次世界大戦によって全焼。
津久戸明神社、千代田区九段北に移転して築土神社となる。八幡神社は現在地に残る。

 神田明神 本殿 

神田明神


⑦日輪寺・神田明神・田安神社の1616年の移転は将門魔方陣を作るのが目的だった?


加門氏は、日輪寺・神田明神・田安神社の1616年の移転は、幕府によるもので、江戸に将門魔方陣(北斗七星を象る7つの星)をつくるためだったのではないかとしておられます。

将門の首塚 
将門の首塚

⑧日光東照宮=北極星、将門魔方陣=北斗七星?


さらに加門氏は
・1616年が徳川家康の死亡年であることを指摘され、家康の死によっ遂行された呪術プロジェクトではないか。
・天海が家康亡きあとの江戸を安泰にするために江戸に北斗の結界をはり、日光に東照宮を造営したのではないか、
と言っておられます。(日光東照宮の創建は1617年)

日光東照宮 五重塔 

日光東照宮 五重塔

つまり日光東照宮は北極星で、将門魔方陣(将門関連七神社)は北斗七星、ということですね。
将門関連十一か所 いつからその場所にあるか

北斗七星の位置にある神社または史跡は兜岩をのぞき、1616年までにその場所にあったことがわかります。
(兜岩は江戸時代からその場所にあったというが、正確な年がわからない。)

⑨稲荷鬼王神社は北斗第六星の補星

あと、稲荷鬼王神社について、加門氏は北斗第六星の補星になぞらえたものとされています。

北斗七星の柄の端から2番目の星(水稲荷神社に相当する星)はミザールといい、伴星アルコルがあります。
アラビアではこのアルコルがみえるかどうかで視力検査を行っていたといわれます。
加門氏のいう北斗第六星の補星とはこのアルコルのことでしょうか。

そして、この北斗第六星は魔多羅神=妙見菩薩の化身と解釈する説があるとおっしゃっています。

すると将門関連七神社ではなく、将門関連八神社というべきかもしれませんね。

⑩烏森神社はなぜ将門魔方陣から外されたのかという疑問が残る~

日輪寺は神社でなく寺なので、除外してもいいかもしれません。
でも、940年に創建された鳥森神社が将門魔方陣(将門関連八神社)から除外されているのはなぜかという疑問が残ります。

⑩「水稲荷で将門の首と胴がきられている」は確認が必要

加門氏は「水稲荷で将門の首と胴がきられている。」とも指摘されています。

鳥越神社・・・首
兜神社・・・・首
首塚・・・・・首
筑土八幡(津久戸明神)・・・首
水稲荷・・・将門調服
鎧神社・・・胴

ですが筑土八幡の伝説について、加門氏は首とされていますが、脚を祀ったという風説もあるようで、
もう少し確認してみないと「水稲荷で将門の首と胴がきられている。」とは言い切れないです。

⑪天の北極=日光東照宮、北斗七星=江戸。カシオペアは磐梯山?

加門氏がおっしゃるように、天の北極=日光東照宮、北斗七星=江戸の将門関連神社とすれば、どこかにカシオペア座になぞられたものがあるのではないでしょうか?

地図を眺めてみると磐梯山があります。

磐梯山の西南にある会津若松市から磐梯山をみると、どんな風に見えるでしょうか。

https://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=10131018590
リンク先の写真は「会津若松と磐梯山」というタイトルになっています。
磐梯山は向かって左側の山が高いカシオペアのように見えますね。

http://maropie.blog44.fc2.com/blog-entry-126.html
↑ こちらの写真は「会津若松の高速道路から見た磐梯山」のようです。
やはり左側の山が高いカシオペアのように見えます。

磐梯山の南南西にある日光東照宮から磐梯山が見えるとしたら、やはり同じように左側が高いカシオペアの形に見えるはずです。

もしかして、天の北極=日光東照宮、北斗七星=将門魔方陣、カシオペア=磐梯山?



会津若松という文字の向かって右に湖があります。その湖の北あたりが磐梯山です。

北斗七星 こぐま座 カシオペア座-将門魔法陣2 

 天の北極=江戸、北斗七星=富士山、筑波山=カシオペアの組み合わせは、夜空を反転させたものでした。
しかし、天の北極=日光東照宮、北斗七星=将門魔方陣、カシオペア=磐梯山のほうは夜空を反転させていません。

江戸は天の北極になぞらえて作った町でした。
さらに家康の死後、江戸の北に北極星になぞらえて日光東照宮をつくった、ということでしょうか?

皆さまはどうお考えになりますか?

東大寺 百日紅 

東大寺 大仏殿 百日紅



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[2019/10/12 00:03] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

円成寺 紅葉 『宇多天皇、聖武天皇の霊に悩む?』 


 
奈良市忍辱山町 円成寺
2019年10月6日 撮影

円成寺 本堂  

萩が咲いているかなと思って出かけたんですが、萩はもう終わっていました。
そのかわり、もう紅葉が色づき始めていました。

①円成寺を創建したのは虚滝?益信?


前回の喜光寺もそうですが、お寺の創建については複数の縁起を伝えているケースが多々見られますね。
ここ円成寺もふたつの創建縁起を伝えます。

①756年、聖武天皇の勅願を受け、鑑真とともに来日した唐僧・虚滝(ころう)が創建した。(和州忍辱山円成寺縁起)

②延喜年間(901 - 923年)、京都東山鹿ケ谷に円成寺を建立した僧・益信が、大和忍辱山を訪れ、この地に寺を創建した。(忍辱山知恩院縁起)

京都東山鹿ケ谷の円成寺は円城寺ともいいますが、現存しないようです。
大豊神社付近にあったとされ、大豊神社は円成寺の鎮守であったとされます。

大豊神社 しだれ桜としだれ梅





大豊神社

②宇多天皇の御悩平癒祈願

京都東山鹿ケ谷にあった円成寺の鎮守・大豊神社は、仁和3年(887年)に尚侍藤原淑子が勅命を受けて創建したとされます。

勅命とは天皇の命令という意味ですから、宇多天皇(867-931/在位887-897)の命令を受けて藤原淑子が大豊神社を創建した、ということでしょう。

大豊神社が創建された887年は宇多天皇が即位された年ですね。
宇多天皇は即位するにあたり、何か心配ごとがあったのでしょうか?

円成寺 楼門2

③奈良の円成寺は道真の怨霊鎮めが目的で創建された?

宇多天皇(867-931/在位887-897)は菅原道真を重用していました。
897年、第一皇子の醍醐天皇に譲位しましたが、宇多天皇は醍醐天皇にも道真を重用するようにと申し付けていました。
ところが901年、藤原時平が醍醐天皇に「道真は謀反を企てている。」と讒言し、
醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰府に流刑としてしまいました。
903年、道真は大宰府で死亡しました。

道真の死後、909年から931年ごろにかけて、京にはおかしな事件が相次いでおき、道真の怨霊のしわざとされました。

円成寺 白山神社 春日神社 
春日堂 白山堂

 


できごと寺社創建
887年
宇多天皇醍醐天皇に譲位

宇多天皇の勅命を受け、藤原淑子が京都円成寺の鎮守・大豊神社を創建
901年菅原道真大宰府に左遷となる。
903年菅原道真大宰府で死亡。
909年藤原時平39歳で病死延喜年間(901 - 923年)
京都東山鹿ケ谷に円成寺を建立した僧・益信が、大和忍辱山に円成寺を創建した。
913年光(道真失脚首謀者のひとり)、狩の最中に溺死。
923年醍醐天皇の皇太子・保明親王薨去
925年醍醐天皇の皇太子・慶頼王卒去
930年清涼殿落雷事件 道真左遷に関与した大勢が死傷する。
醍醐天皇崩御。(道真の怨霊を恐れるあまりノイローゼになって崩御したとも伝わる。)
931年宇多上皇崩御
  
表にしてみるとわかりやすいです。

つまり、京で道真の怨霊が猛威を振るっている最中、京都の円成寺を創建した僧・益信によって奈良の円成寺は創建されたわけです。
奈良の円成寺は道真の怨霊鎮めが目的で創建されたのではないでしょうか?

しかも、京都の円成寺の鎮守・大豊神社は「宇多天皇御悩平癒」を目的として、宇多天皇の勅命を受けて創建されていますので、京都の円成寺も勅願寺(天皇・上皇の発願によって創建された寺)であった可能性が高いです。
すると、奈良の円成寺も宇多上皇または醍醐天皇の勅願寺として創建されたのではないでしょうか。

円成寺 多宝塔

④宇多上皇は聖武天皇の霊にも悩まされていた?

宇多上皇は道真だけでなく、聖武天皇や孝謙天皇の霊も恐れていたのかもしれません。

672年、天智天皇の皇子・大友皇子vs天智天皇の弟・大海人皇子の争いがありました。(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して即位し天武天皇となりました。大友皇子は自害して果てました。

その後、奈良時代は、天武系の天皇が続きます。

天武―持統(天武の皇后・天智の娘)-文武ー元明元正ー聖武ー孝謙―淳仁ー称徳(孝謙と同一人物)
※赤文字は女帝

称徳天皇は女帝で結婚が許されず子供がありませんでした。
そしてここで天武系の血筋は途切れてしまい、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位しました。

血筋のたえてしまった天武系天皇は、天智系天皇にとっては怨霊のような存在であったことでしょう。

そこで、宇多上皇は京都・円成寺の僧・益信に命じ、天武系最後の男性天皇・聖武天皇の霊を弔うために
奈良の円成寺を創建させたのではないでしょうか。

そして聖武天皇の霊を慰霊すると同時に、都で大暴れする菅原道真の怨霊を鎮めてくださるようにと、聖武天皇の霊に祈願したのかも?

和州忍辱山円成寺縁起に「756年、聖武天皇の勅願を受け、鑑真とともに来日した唐僧・虚滝(ころう)が創建した。」とありますが、756年は聖武天皇が崩御された年です。

実際に円成寺が創建されたのは延喜年間ではないかと思います。
聖武天皇が創建したとする縁起は、「聖武天皇の霊を慰霊するために創建した寺」であるところから、創作されたものではないでしょうか?


しかし宇多上皇は息子の醍醐天皇が崩御した翌年に崩御してしまわれました。


円成寺 鎮守 拝殿


 
円成寺 鎮守 拝殿2



円成寺 鐘楼 

円成寺 楼門 
 

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[2019/10/10 18:14] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

喜光寺 夕景 『寺史乙丸は藤原不比等と同一人物?』 



奈良市菅原町 喜光寺 
2019年10月6日 撮影


喜光寺3


①ふたつの創建年

喜光寺にはふたつの創建年が伝えられています。
①『行基年譜(1175年)』・・・721年、寺史乙丸(てらのふひとまる)が住居を行基に寄進。722年に行基が寺とした。

②『菅原寺記文遺戒状』・・・715年、元明天皇の勅願によって創建された。

喜光寺2

②喜光寺宮は菅原氏の氏寺?

http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-81.html
↑ こちらのサイトで増尾正子さんが次のように書いておられます。

「天満宮を鎮守するは、此の地はもと菅原道真公の先祖 土師宿弥古人などが住んでいた所であった。
菅原の地名により、菅原の姓を賜り、代々この地に住んでおられた。
菅公(菅原道真公)も、この地で誕生されたので、寺の東北方に誕生所の旧蹟がある。この故に菅公手ずから自らの肖像(菅原神社のご神体)と、十一面観音の尊像を刻れて、この寺にお祀りになった。
(1750年9月 住持沙門 寂照謹書「喜光寺略縁起」による)」


ここに菅原神社とでてきますが、菅原神社は菅原天満宮ともいわれています。
喜光寺の傍らにあり、その位置からいっても喜光寺と関係が深そうに思えます。

明治まで神仏は習合して信仰されていました。菅原天満宮は喜光寺の鎮守であったのではないでしょうか。
この地には菅原道真の先祖の土師氏が住んでいたとされ、喜光寺も菅原氏の氏寺ではないか、とする説もあります。

菅原神社 

菅原天満宮

③石川女郎、藤原宿奈麻呂の邸宅に通う?

http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-81.html
↑ 増尾正子さんはこんなことも書いておられます。

歌碑は、万葉集巻二十 四四九一 石川女郎の歌で
大き海の 水底ふかく 思ひつつ 裳引き平らしし 菅原の里
藤原宿奈麻呂(藤原四卿のうち式家の頭領 宇合の第二子)の妻、石川女郎が愛が薄れて離別されたことを悲しみ恨みながらも、幸せだった日々を追憶した歌。
寵の厚かった頃、大海の水底のように深くあなたのことを思いながら、華やかな裳裾を引いて、道が平らになる位、踏みならして、この菅原の里に通い続けましたのに、あの頃が懐かしいといった歌。


石川女郎のこの歌について、千人万首のほうはこう訳しています。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/isiira.html

大洋の海底のように深く心の底であなたのことを思いながら、裳の裾を何度も引いて行きつ戻りつした、菅原の里よ。
【語釈】◇裳引きならしし 男の訪れを待ち侘び、裳裾を引いて何度も家の前を行きつ戻りつしたことを言うか。


増尾正子さんの訳では、菅原の里に通ったのは石川女郎としています。
すると藤原宿奈麻呂の邸宅がこのあたりにあったということになります。

一方、古代の結婚は男が女のもとに通う妻問い婚が主流とされており、千人万首のほうは、それを踏まえて訳しているようです。

万葉集には石川女郎という歌人がいて、たいてい男と色恋の歌を贈答しあっています。
一般には古代豪族の石川氏出身の女性だと考えられていますが、江戸時代の国学者の橘守部は「石川とは遊女のことではないか」としておっしゃっています。

遊女であれば請われて男の家を訪ねるなんてこともありそうですが、どうでしょう?

④寺史乙丸=藤原不比等?

増田正子さんのように解釈すれば、菅原の里に通ったのは石川女郎であり、藤原宿奈麻呂の邸宅がこのあたりにあったということになります。

とすれば『行基年譜(1175年)』に『721年、寺史乙丸(てらのふひとまる)が住居を行基に寄進。722年に行基が寺とした。』という記事が気になってしまいます。

当時、寺氏という氏族がいたのかと思って調べてみましたが、ぐぐってみてもそういう氏族がいたとはでてきません。
寺史乙丸は菅原道真の先祖・土師氏だと考えられていますが、実は藤原不比等だったりしないでしょうか?

藤原不比等という表記は後世のもので、もともとは藤原史と記していたようですし。

藤原不比等には四人の男子がありました。
武智麻呂は藤原南家の開祖、房前は藤原北家の開祖、宇合は藤原式家の開祖、麻呂は藤原京家の開祖です。
藤原宿奈麻呂は式家の開祖・宇合の子で、のちに藤原良継と改名しています。
兄弟には広嗣・綱手・百川などがいます。

740年には兄・藤原広嗣の乱に連座して伊豆へ流罪となっていますが
742年に赦されています。
763年には佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと南家の
藤原仲麻呂暗殺計画をたてますが、事前に仲麻呂にばれ、
解官の上、姓も剥奪されています。
764年、藤原仲麻呂の乱がおこると宿奈麻呂は仲麻呂を討ち、この功績により昇進し、内大臣にまで上り詰めました。



『行基年譜(1175年)』に『721年、寺史乙丸(てらのふひとまる)が住居を行基に寄進。722年に行基が寺とした。』とありますが、
藤原不比等は720年に亡くなっています。

死んだ不比等が土地を寄進できるはずがない、なんて野暮なこと言わないで~。
談山神社なんて死んだ定恵(不比等の兄)が創建したことになっているくらいです。
梅原猛さんは古代の人々は人間の生死の区別を明確にわけていなかったのではないか、というようなことをおっしゃっていました。

不比等くらいの人物であれば広大な土地と邸宅を所有していたことでしょう。
そして不比等が亡くなった際に遺族が不比等の邸宅を行基に寄進して、それを寺史乙丸が寄進したと表現しているのかも?

邸宅の一部は喜光寺に寄進しても、まだ土地や邸宅があったのかもしれません。
そしてその土地は不比等から宇合へ、宇合から宿奈麻呂へと相続されたため、宿奈麻呂の邸宅は菅原の地にあったんだったりして?

喜光寺



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[2019/10/07 22:15] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

一言主神社 彼岸花 『土佐神社の禊石は道祖神?』 


一言主神社
2019年9月28日 撮影

一言主神社2

①一言主大神は木霊(山彦)の神だった?

一言主神社の御祭神は一言主大神です。

古事記(712年)や日本書紀(720年)には雄略天皇と一言主大神が狩をしていて出会ったエピソードが記されていますよ。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 


雄略天皇と全く同じいでたちをし、同じ言葉を返す一言主大神とは木霊(山彦)を神格化したものなのではないでしょうか。

葛城山の南に金剛山がありますが、かつて葛城山と金剛山はどちらも葛城山と呼ばれていました。
そして葛城山の山麓近くには一言主神社が、金剛山の山頂近くには葛木神社があってどちらも一言主大神を祀っています。

山登りが好きな友人に聞いたのですが、葛城山から金剛山へ至るダイヤモンドトレールと呼ばれる道では、よく山彦が聴こえるそうです。

一言主神社 

②一言主大神は雄略天皇を殺して死の国『長谷』へ連れて行った?


一言主大神は雄略天皇を長谷まで送っていますね。
これは一般に、一言主大神と雄略天皇が仲良くなったことを表すものととらえられているようです。
でも、私はそういうことではないと思います。

長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』ですが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。
『志多備国』とは『黄泉の国』のことです。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないでしょうか。

長谷という地名は葬送の地を意味していると聞いたこともあります。
今でも長谷寺の奥の院あたりにはたくさんのお墓があります。

「名前を問われたほうが先に名乗る」というような習慣があったのでしょうか。
雄略天皇はそれを忘れてうっかり「それぞれが自分の名を名乗って矢を放とう」と言ったので
木霊(山彦)である一言主大神が、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。」と言って名をなのって矢を放ち、
雄略天皇は矢で射抜かれて崩御してしまったということだと思います。

IMG_1016.jpg

③「ナルキッソス&エーコー」「雄略天皇&一言主大神」

ギリシャ神話と記紀神話はほかにも似ているところがたくさんあります。
そのひとつが、「ナルキッソス&エーコー」「雄略天皇&一言主大神」です。

ナルキッソスはアプロディーテーに魔法をかけられ、愛された相手を拒むようになりました。
エーコーはヘーラーに他人の言葉を繰り返すことしかできないように魔法をかけられていました。
ナルキッソスはそんなエーコーを退屈に思い、振ってしまいます。
侮辱を罰する神・メネシスはこれを見て、ナルキッソスが自分しか愛せないように魔法をかけました。
ナルキッソスは泉に映った自分に恋し、水面に映った自分に口づけしようとして泉に落ちて死にました。
ナルキッソスが死んだあと、水辺には水仙の花が咲いていました。(ギリシャ神話)


エーコーは木霊(山彦)の神ですが、一言主大神も木霊(山彦)の神だと考えられます。
雄略天皇と同じ言葉を返していますから。

そしてナルキッソスは水鏡に映った自分の姿に恋しますが、雄略天皇の木霊だと考えられる一言主大神は雄略天皇と同じ姿をしていたとありますね。
一言主大神は水鏡に映った雄略天皇の姿だったのではないでしょうか。


Narcissus-Caravaggio (1594-96) edited

カラヴァッジオによって描かれたナルキッソス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANarcissus-Caravaggio_(1594-96)_edited.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/29/Narcissus-Caravaggio_%281594-96%29_edited.jpg よりお借りしました。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で"


さらに、一言主大神は女神だと考えられます。
というのは雄略天皇がこんな歌を詠んでいるからです。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの?
大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳)


これに対して彼女はこう答えたのではないかと思うのです。

『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』



一言主神は狩りをしていた。一方娘は菜を摘んでいた。二人は違うことをしているので、同一神ではないのではって?

でも狩りと菜摘みは関係があるんですよ。

狩りは鹿狩り、菜摘みは薬草を摘むことではないかと思います。
鹿狩と薬草摘みはどちらも古には旧暦5月5日に行われる行事で、薬狩りと呼ばれていました。

一言主神も娘も薬狩りをしていたということで共通点があり、同一神であると思うのです。

ナルキッソスが拒んだエーコーとは鏡に映った自分の姿(性別は男から女に変わっているが)だったのではないでしょうか。
そして、ナルキッソスとエーコー(鏡に映ったナルキッソス)は立場が逆転し(一言主大神と雄略天皇の立場が逆転したように)
ナルキッソスが虚像(エーコー)となり、虚像のエーコーが実像(ナルキッソス)になってしまったのではないでしょうか。

そしてそれをナルキッソスが死んだと表現してあるように思われます。

一言主神社付近 
一言主神社付近

 ④土佐国へ流された一言主神

続日本紀(797年)は古事記・日本書紀とは異なる話を記しています。

高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったので、一言主神は天皇の怒りに触れて土佐国に流されたというのです。

私は一言主大神と雄略天皇は同一神だと思います。
また雄略天皇は鏡に映った自分自身である一言主神に殺されています。

これはつまり一言主神とは雄略天皇の霊であるともいえるのではないかと思います。

この一言主神=雄略天皇が土佐に流された、ということは雄略天皇は自らを土佐に流したということになると思います。

そしてこの土佐に流された一言主神を祀る神社が土佐神社だとされます。



⑤容姿の醜い一言主神

土佐神社は高知県高知市にあって行ったことがありません。
そこで土佐神社のhpを見てバーチャルトラベル体験!

http://www.tosajinja.i-tosa.com/

http://www.tosajinja.i-tosa.com/yuisyoti_1.html
↑ 礫石。
「往古、大神の鎮座地を定め給うと投げた石は、この地にとどまり、厚く祀られています。 」
と上のサイトに記されいます。

つまりこの礫石は一言主大神の神霊が宿る石だと考えられます。

平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」にはこんな話が記されています。

役行者は鬼神たちに葛城山と吉野金武峰山を結ぶ橋をかけるよう命じたが、一言主神は顔が醜いのを気にして夜しか働かなかったため橋は完成しなかった。
これに怒った役行者は一言主神を呪術で縛り付けた。

容姿を気にするあたり、やはり一言主神は女神じゃないのかな、と思ってしまいます。

祇園祭 宵山 役行者山

上の写真は祇園祭・役行者山の御神体で、中央が役行者、向かって右は葛城神、向かって左は一言主神です。
一言主神は鬼の姿をしています。
私なんかは鬼の姿をした一言主神ってかっこいいと思いますが、一般的に見て美しいとは言い難いかも。
やはり観音菩薩のような優し気な顔を美しいと思う人がほとんどでしょう。

もしかしたら古の人々は、鬼=怨霊のことを「醜い」、観音菩薩のように優しげな姿を「美しい」と表現しているのかもしれませんね。

で、土佐神社の礫石は表面があばたのように凸凹しており、容姿の醜い一言主神をあらわしているように思いました。

⑥禊石は道祖神

http://www.tosajinja.i-tosa.com/yuisyoti_3.html

小川をはさんで四角形の石と三角形の石が並べられていますね。

四角形は直角定規、三角形はコンパスを表してるなんてことないでしょうか?

中国の女神・女媧は手にコンパスを、男神の伏義は手に直角定規をもっており、コンパスは天を、直角定規は地をあらわすと言われています。

Anonymous-Fuxi and Nüwa3


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
 よりお借りしました。
作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

中国では、天は円く、地は方形であると考えられていました。(天円地方/てんえんちほう)
陰陽で考えれば、陰は女性や大地を、陽は男性や天を表します。
すると女神である女媧が天を表すコンパスを、男神であるが地をあらわす直角定規をもっているのは逆のように思えます。

私は、女媧が手に持つコンパスは伏義の物実、伏義が手に持つ直角定規は女媧の物実ではないかと思います。

記紀にこんな話があります。

高天原にやってきたスサノオを、天照大神は「高天原を奪いにきたのではないか」と疑いました。
そこでスサノオは疑いをはらすために『誓約(うけい)の子産み』をしようと言いました。
まず天照大神がスサノオの物実)である十拳剣(とつかのつるぎ)を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像三女神)が生まれました。
次にスサノオが天照大神の物実である『八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠』を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から 五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)が生まれました。
スサノオの十拳剣からうまれた三柱の女神はスサノオの子、天照大神のみすまるの珠からうまれた五柱の男神は天照大神の子とされました。
スサノオは「私の心に邪心がないので、私の産んだ子は女神だったのです。」といいました。


ここに「物実」という言葉が出てきますが、物実とは「物事のもとになるもの」を意味する言葉です。

そして「天照大神がスサノオの物実である十拳剣をかみ砕いてふっと息を吹きだした」とか、「スサノオが天照大神の物実であるみすまるの珠をかみ砕いてふっと息を吐き出した」というのは、古代流のベッドシーン描写ではないかと私は考えています。

つまりスサノオの『十拳剣』は男性器、天照大神の『八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠』は女性器の比喩ではないかということです。

話を禊石に戻します。

四角=直角定規=四角=地=女性
三角=コンパス=丸=天=男性

であり、この禊石は小川を挟んで対面する男女を表しているように思えますのですが、どうでしょう?

男女の神像や男女のシンボルで表した道祖神と同様のものだといってもいいかも?

多気山不動尊 道祖神 

多気山不動尊 道祖神

飛鳥坐神社 むすひの神石 

飛鳥坐神社 むすびの神石
道祖神は結びの神石のように、女性器と男性器を象った石であらわされることもあります。






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[2019/10/05 14:36] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

九品寺付近より大和三山を望む 彼岸花 『飛鳥の地上絵はなかった?』 


奈良県御所市 九品寺
2019年9月28日撮影


九品寺より大和三山を望む 

九品寺付近を散策していると大和三山が見えます。
大和三山とは耳成山(たぶん向かって左)・畝傍山(ゴルフ練習場の上に見える山)・天の香具山(たぶん畝傍山の向かって右)の3つの山をいいます。
大和三山に囲まれたあたりに40代天武天皇・41代持統天皇の藤原宮がありました。

写真には写っていませんが、藤原京の北は飛鳥です。
33代推古天皇、34代舒明天皇、35代皇極天皇(37代斉明天皇と同一人物)、38代天智天皇が都をおいた地が飛鳥でした。

九品寺付近2 

①藤原京・飛鳥地方に巨大なオリオンが描かれている?

山上智さんが著書『飛鳥の地上絵 呪いの巨人像』において、次のように主張されています。
大和三山のひとつである耳成山を頭として、この地方に多数点在する春日神社を線でつないでいくと、巨人の姿になる。
藤原京・飛鳥付近に巨人の姿が描かれていると。

本をパラパラとめくっていくと、藤原京・飛鳥地方の地図の上に、巨人の姿が描かれています。
これを著者は「飛鳥の地上絵」と読んでおられます。

巨人の姿はこちらをご覧ください。↓

https://www.amazon.co.jp/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E5%9C%B0%E4%B8%8A%E7%B5%B5%E5%91%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E5%B7%A8%E4%BA%BA%E5%83%8F%E2%80%95%E6%98%A5%E6%97%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E7%BE%A4%E3%81%A8%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E3%81%AB%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%8D%E5%AF%BE%E3%80%8C%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%91%AA%E8%A1%93%E6%88%A6%E4%BA%89-MU-SUPER-MYSTERY-BOOKS/dp/4054031382

手にはこん棒と楯を持っているように見えます。
山上智さんは、この巨人を南の空に浮かぶオリオンの姿だとされています。

オリオン座 

オリオン座

といっても、飛鳥の地上絵は、「オリオン座を描いたもの」ではなく、「オリオン座の上に重ねて描かれるオリオンの絵に似ている」ということです。

Uranometria orion

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Uranometria_orion.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/Uranometria_orion.jpg
From WP en, uploaded by en:User:Mouser [Public domain] より引用

日本の神話とギリシャ神話には似ている話がたくさんあるので、飛鳥にオリオンが描かれていてもおかしくはないです。

詳しくは下記記事を参照してください。

不動窟鍾乳洞 『似ている?ギリシャ神話と日本神話。』 
メナード青山リゾート ハーブガーデン 『似ている。ヘカテ―とみほとけと日本の神』 
千早赤阪村 水仙の丘『ナルキッソスはエーコーに殺された?』 
黒岩水仙郷 水仙 『木霊の神と、虚像に殺された男』 

九品寺付近


②実際にオリオン座を描いてみる。

こういう本を読んだら、実際に自分で飛鳥の巨人・オリオンを描いてみることが大事!

本には点在する春日神社の住所が示されていません。
でも、グーグルマップで「春日神社」と打って検索すると、表示している地図上の春日神社のある場所にマーカーがつきます。

山上智さんは藤原京跡で地図を広げて春日神社をチェックしたと書いておられます。
すごく時間がかかったでしょうね。
でもグーグルマップだと早い!
畝傍山を頭部として、巨人の姿があらわれていきます!

だけどあまりに広範囲の地図だと省略されてマーカーがつかないケースが発生。
仕方ないので地図を大きく表示して5回にわけて春日神社を検索。
それを紙にうつしとって5枚の紙をつなげ合わせることにしました。

また、あるはずの春日神社が地図上に見つからなかったりもしました。
もっと丁寧に探せば見つかるかもしれませんが
数個の春日神社がみつからなくとも、十分私の言いたいことは主張できるので、このあたりでよしとしました。

飛鳥の地上絵  

赤の丸(大)・・・耳成山
赤丸・・・・・・・グーグルマップで実際に見つかった春日神社のうち、山上智さんの巨人像に用いられたもの
青丸・・・・・・・グーグルマップで実際に見つかった春日神社のうち、山上智さんの巨人像に用いられていないもの
水色の丸・・・・・あるはずだが、見つけることができなかった春日神社
ピンク色の丸・・・小墾田宮跡
黄緑色の線・・・・もしかしたら、違う春日神社があるかもしれず、間違っている可能性のある線。

③三ツ星の中央は馬立伊勢部田中神社


山上智さんは、オリオン座の中でもっとも目立つ三ツ星の中心の星に該当するのは馬立伊勢部田中神社としておられます。

また、著書に次のように書いておられます。

馬立伊勢部田中神社の由来書には「春日神社を奉仕せり」とあり、もともとは春日神社であった。

本には由来書の写真もあります。

でも、写真が小さくて文字が読めない!ハズキルーペもないし~

ネットをぐぐると由来書出てきました。https://genbu.net/data/yamato/tanaka_title.htm

馬立伊勢部田中神社
橿原市大字和田字大坪第四十番地
神格 村社
祭神 天児屋根命 豊受姫命 誉田別命

当社、創立の詳細は分からないが、三代実録に神位の奉授のこととある。
 「清和天皇貞観九年正月二十五日大和国正六位上、馬立 伊勢部田中神從五位下」とある。
されど延喜の領幣に漏れたるを見れば、当時社運暫く 不振の状況におちいったことが察せられる。
又、位置は現今大字和田にあれども社名は馬立伊勢部田中神社と称している。
 昔から和田方の所伝によれば、当社もと字古宮の地に鎮座していたが慶長 年間飛鳥川洪水の為に流されて現今の地に遷座したとのこと
然るに古宮の地は、古代豊浦小墾田宮の故地にして名称の起りも 故地の名に因んだのであろうから、元より当社とは関係はなかったであろう。
その地古宮付近に豊浦寺時代の礎石の存せるを当社華表の 址なりと言うのも是亦附会したものと言わざるを得ない。
社殿の構造は三間社流造りにて、中央は八幡宮、左豊受姫社、右は 春日社を奉祀せり。
後世時代の流れに従って春日社並びに八幡社と配祀し、後、八幡宮が 却って本社の地住を占め八幡宮と称するに至った。
徳川中世に至っても尚八幡宮と称し、(石灯籠)明治四十一年十月二日 にも村社八幡神社として指定された。
その後国史見在社の古名に復すべく出願し、大正八年十一月に前指 定を取り消して馬立伊勢部田中神社として指定された。

-境内案内より

なるほど、「春日社を奉祀せり」ということでしたが「右は春日社を奉祀せり」と書いてありますね。
なぜ「右は」の文言を削ったんでしょうね。
春日社だけでなく、八幡宮、豊受姫社も奉祀しているじゃないか、と突っ込まれるのが嫌だったんでしょうかw

由緒書にはこうも書いてあります。
「当社もと字古宮の地に鎮座していたが慶長 年間飛鳥川洪水の為に流されて現今の地に遷座したとのこと」

著者は飛鳥の地上絵は奈良時代(710年~794年)に作られたとしますが、馬立伊勢部田中神社は慶長(1596年~1615年)以前は別の場所にあったのです。

山上智さんが見られた由緒書は、上のピンク色の文字で示した由緒書と違うものだったのかもしれませんね。

字古宮は「豊浦小墾田宮の故地」とあります。
豊浦小墾田宮跡は巨人図のピンク色の丸で示したところです。
この位置では三ツ星の中央の星になぞらえるのは、ちょっと厳しいかも。

④飛鳥の巨人像はなかった?

私は山上智さんのいう飛鳥の巨人像は存在していなかったと思います。
というのは、青い丸が示す春日神社をなぜ無視したのか、と疑問に思うからです。

全ての春日神社をつなぐ線をひくのではなく、いくつかの春日神社は無視してもいいということになれば、いろんな図が書けてしまいますよねw

何か理由があってこれらの春日神社を無視したのであれば、その理由について述べられるはずです。
でも山上智さんは無視した理由を述べられていませんし、そもそも青丸で示した春日神社が存在することについても記されていません。

特に●a、●bは図の輪郭に近く、●cは図の輪郭の中にありながら無視されているので、気になります。
(左足が太すぎるので、●cの春日神社を採用してつないだほうがすっきりするかもしれませんが)

著者は「それぞれの春日神社の拝殿は対面する春日神社の方角を向いている」との旨を書かれています。
なので、春日神社の拝殿の向きがオリオンの中心を向いているかのように思ってしまいますが
すべての神社を回って拝殿の方角を確認したわけではないと思います。
なぜなら著者は藤原京跡で地図を広げて春日神社を探し線でつないだと書いておられ、
実際に全部の春日神社を回ったとは書かれていないからです。

残念ながら飛鳥の巨人像はなかったといえるのではないかと思います。
申し訳ないですが、巨人像のように見えたのは山上智さんの錯覚ではないでしょうか?








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[2019/10/03 22:22] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

世尊寺 彼岸花 『聖徳太子は猿の神?』 


奈良県吉野郡大淀町 世尊寺
2019年9月29日 撮影


世尊寺 彼岸花2 
世尊寺 鎮守の社2


①厩猿信仰


函館山 猿回し 『猿はなぜ馬の守護神とされたのか』 
↑ こちらの記事で次のようなことを書きました。

①古くから猿は馬の守護神と考えられていた。(厩猿信仰)
②正中年間(1324~1326)成立の石山寺縁起絵巻には、厩につながれた猿が描かれている。
③十一面観音の長い腕は猿をおもわせる。
④猿は十一面観音、馬は馬頭観音をあらわしているのではないか。
⑤十一面観音は花瓶を持っているが花瓶には水が入っているだろう。十一面観音は水の神ではないか。
⑥馬頭観音は憤怒の表情で、光背は炎で表現されることが多い。馬頭観音は火の神ではないか。
⑦陰陽五行説の『相克説』では『水剋火(水は火を消す。)』と考える。
水=十一面観音=猿、火=馬頭観音=馬 となるところから、猿は馬の守護神と考えられたのではないか。

Hokkeiji Nunnery Eleven-Headed Kwannon I (303)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hokkeiji_Nunnery_Eleven-Headed_Kwannon_I_(303).jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Hokkeiji_Nunnery_Eleven-Headed_Kwannon_I_%28303%29.jpg
Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition [Public domain]

大阪天満宮 猿回し

↑ この写真がわかりやすいかな? 
猿は膝を曲げて立つので、腕が長く見えますね。

②馬は北斗七星、猿はこぐま座?

大阪天満宮 猿回し 『こぐま座は猿座?』 

↑ こちらの記事にはこう書きました。

①北斗七星は天帝の乗り物とされる。
天が将門に黒馬を与えたという伝説があるが、黒馬とは北斗七星のことではないか。
馬の頭から首が北斗七星の柄杓部分、胴体は持ち手。


CrestOfSoumaClan

将門の子孫・相馬氏の家紋・繋ぎ馬。
現在の天の北極はポラリスのあたりにあってポラリスが北極星と呼ばれている。
しかし1000年前は天の北極付近にめだつ星はなかった。
2本の杭は1000年前ごろ天の北極に近い位置にあったポラリスとイルドゥンの二つの星を表しているのではないだろうか。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ACrestOfSoumaClan.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/CrestOfSoumaClan.jpg 
作者 正親町三条 (投稿者自身による作品) [CC BY-SA 4.0 (
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], ウィキメディア・コモンズ経由で

神馬をひく猿の像がある。
http://shinshizo.com/2012/10/%E9%A6%AC%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8A%E4%B8%96%E8%A9%B1%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E7%8C%BF-%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB-%E7%8C%BF%E3%81%A8%E9%A6%AC/

神馬が北斗七星をあらわしているならば、猿はこぐま座をあらわしているのではないか?

北斗七星・こぐま座・カシオペア座   

結構いい加減な図です。(すいません)


④こぐま座には長い尻尾がある。
日本猿は尻尾が短いが、中国に住んでいるキンシコウや、インドの猿の姿をした神・ハマヌーン、ハマヌーンのモデルとされるハマヌンラングールは尻尾が長い。
そして厩猿信仰はインドから中国を経て日本に伝わったとされる。

Hanuman showing Rama in His heart

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hanuman_showing_Rama_in_His_heart.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Hanuman_showing_Rama_in_His_heart.jpg
Anant Shivaji Desai [Public domain] 


②聖徳太子は猿神だった?

とこのように考えていて、思い出したものがあります。

大阪四天王寺の聖霊院内、奥殿の東に守屋祠があります。

守屋祠

聖徳太子は崇仏派蘇我氏vs廃仏派物部氏の戦いで蘇我氏側で参戦しました。
戦いは蘇我氏側が勝利し、聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢を用いてたてたのが四天王寺なのです。

厩と聖徳太子 
上の写真の柳の下に見えている赤い瑞垣が守屋祠だと思います。
そして向かって左手に厩がありますね。

厩と聖徳太子2

厩の中には馬をひく聖徳太子像が置かれています。
馬をひく猿の像のイメージが重なります。

馬をひいている聖徳太子は猿の神であり、こぐま座の神だったりして?

世尊寺 本堂 

③聖徳太子はこぐま座(猿)の神?

お寺の方に伺ったところ、世尊寺を創建したのは聖徳太子だということです。
聖徳太子像は拝むことができなかったのですが、パンフレットを見ると手に香炉をもっています。
この香炉は柄が長く、こぐま座のようにも見えました。

そして本堂には本尊の阿弥陀如来のほか、奈良時代の作と伝わる腕の長い十一面観音もおられました。

世尊寺 門の上の天邪鬼 

おや、世尊寺の門に何かいますよ?
お寺の方に聞くとなんと、「猿」だというのです。
聖徳太子が猿の神だから猿の像を置いてあるんでしょうか?

世尊寺 門の上の天邪鬼2 

ううーん、これは猿ではなく天邪鬼のように見えますが、どうなんでしょうw

世尊寺 鎮守の社 
世尊寺 彼岸花 



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[2019/10/01 22:29] 奈良県 | TB(0) | CM(0)