法起寺 夕陽と月 『月は東に 日は西に』 

 奈良県斑鳩町 法起寺


①中秋の名月って何?


2017年は10月4日が中秋の名月でしたね。

旧暦(太陽太陰暦)では、7月8月9月が秋でした。
秋の真ん中の8月15日を中秋といいました。
『中秋の名月』とは旧暦8月15日の月のことなんです。

旧暦は月の周期をベースとした暦で、だいたい、新月の日が1日、新月から15日目の十五夜が満月でした。
旧暦はカレンダーを見なくても、月を見れば日にちがわかったのです。

②月は東に、日は西に

 法起寺 夕陽

あるとき、奈良の法起寺で夕日の写真を撮っていたのですが、ふと後ろを振り向くと山の端に美しい満月が!

法起寺 月2 

 あわてて法起寺の西へ走って月を撮影したという記憶があります。

「菜の花や 月は東に 日は西に」と与謝蕪村が俳句を詠んでいます。
季節は違いますがまさしくその状態だったわけです。

③太陽ー地球―月が一直線に並んでいることを実感!

私は空間認識能力にかけ、理数系が苦手です。
なので、天体の動きとか月の満ち欠けのメカニズムなど、あんまりよくわからないんですが
この「月は東に 日は西に」の状態は、太陽ー地球ー月がほぼ一直線に並んでいるのが実感できて、なかなか感動的でした。

この日の月はほぼ満月でした。
なるほど、太陽がほぼ真正面にあるから、満月なんだなあ~と納得したしだいです。

法起寺 月3 

④太陽・地球・月が一直線に並んでいるのに月食にならないのはなぜ?

太陽・地球・月が一直線に並んだ状態のとき、月は満月です。
一直線に並んでいると、太陽の光が地球に遮られて月食になるように思えます。
だけど滅多に月食になりません。

地球から見上げると空はお椀を伏せたような半球状に見えます。
これを天球といいます。
太陽は1年間でこの天球を1周するように動きます。
この1年間の太陽の動きを天球上に示したものを黄道といいます。
黄道は天の赤道に対して23度26分傾いています。

月の動きを天球上に示したものを白道といいます。
白道は黄道に対して5度8分7秒傾いています。 

黄道と白道

そのため、太陽と月が地球を挟んで反対側にある場合でも、月食にならないことが多いということです。

⑤月食と日食

上の図を見ると黄道と白道が交わる点が2か所あります。
この点付近で満月のとき(太陽ー地球―月の並びになっているとき)月が地球の影に入って月食となります。
この点付近で新月のとき(太陽ー月―地球の並びになっているとき)月が太陽を遮って日食となります。

法起寺 月食 

月食(合成)

金環日食 
金環日食


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[2017/10/09 18:09] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

洞川温泉 面不動鍾乳洞 『鍾乳洞は黄泉の国?』 

奈良県天川村 洞川温泉


行者祭 獅子舞 天狗 鬼

洞川温泉 行者祭

連日暑くてたまらないので、洞川温泉の面不動鍾乳洞に行ってきました。
鍾乳洞の中は涼しいと聞いたので。
洞川温泉は行者祭で有名なところですよ。

切り株をデザインしたトロッコ列車で山の中腹にある面不動鍾乳洞へと向かいます。

面不動鍾乳洞-トロッコ列車 
 

①洞川の地名の由来は鍾乳洞?

鍾乳洞は石灰岩が地表水や地下水などによって浸食されてできた洞窟のことです。
洞川という地名は鍾乳洞があるところからつけられたのかも?

行者祭 太鼓 
洞川温泉 行者祭

②鍾乳洞ができるメカニズム

珊瑚礁が発達する温暖な海に、石灰質の殻・動物の骨などが海底に厚く堆積して石灰岩ができます。
この海底の石灰岩が地殻変動によって地上に隆起すると、石灰岩の主成分である炭酸カルシウムが弱酸性の雨水や地下水に浸食されて洞窟ができます。

つまり、この付近は今は山地ですが、かつて海底であったということですね?

面不動鍾乳洞2 
権現さん

③鍾乳石


鍾乳洞の中は、石灰岩を浸食する地下水で湿っぽいです。
気をつけないと頭の上から水が落ちてきますよ。カメラはタオルでくるんでおきましょう~。

この地下水は熔解した多量の炭酸カルシウムを含んでおり、洞窟内の空気に触れると方解石(石灰石の主成分鉱物)の晶出(液体から結晶が別れて生成されること。結晶とは原子・分子、イオンが規則正しく配列している個体)がおこります。

↓ つららのような形に成長した鍾乳石。

面不動鍾乳洞 


④石筍

地面に滴った雫が固まって石筍ができます。

面不動鍾乳洞4

左下が石筍

⑤石柱

上から成長した鍾乳石と石筍が繫がって石柱ができます。

面不動鍾乳洞6


↓ これは石柱になる前の状態。

面不動鍾乳洞3


⑥ケイブパール

面不動鍾乳洞では見られませんでしたが、ケイブパールと呼ばれる丸い鍾乳石ができることもあります。
水たまりの中の砂粒の周囲に鍾乳石がくっついて小石状になったものが、落下する雫などによって動き、表面が削られて丸くなるのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB


⑦鍾乳洞は黄泉の国?

面不動鍾乳洞-不動明王 

洞窟前の不動明王を結露フィルターで撮影(笑)

記紀神話に次のような物語があります。

イザナギは妻・イザナミに会うため、黄泉の国へ行きました。
そしてイザナギはイザナミに「愛しい妻よ、帰ってきておくれ」と訴えます。
イザナミは「黄泉の大王に相談してくるので、その間決して私の姿を見ないでくださいね」と言いました。
しかし、イザナギは我慢できなくなって振り返り、イザナミの姿を見てしまいます。
イザナミの体は腐り、ウジが湧いていました。
恐ろしくなったイザナギは慌てて逃げ帰ろうとしました。(サイテー!)
イザナミは怒り(当たり前やん~)黄泉醜女(よもつしこめ)に追いかけさせました。
イザナギが髪につけていた黒いカズラ(蔓=ツル植物)を取って投げると、みるみるうちに成長して山ブドウの実がなりました。
黄泉醜女たちは山ぶどうを食べはじめ、その間にイザナギは逃げました。
しかしまたしても黄泉醜女たちが追いかけてきたので、イザナギが右のミズラ(角髪)に挿していた櫛の歯を折って投げると、筍が生えてきました。

黄泉醜女たちは筍を食べ始め、イザナギは黄泉平坂まで逃げました。

面不動鍾乳洞5



私は山ぶどうとはケイブパール、筍とは石筍のことではないかと考えています。
昔の人は、黄泉の国とは鍾乳洞のような場所だと考えていたのではないかと思うのです。

面不動鍾乳洞 七地蔵 
六地蔵はよく見ますが、七地蔵は始めて見た~。

面不動鍾乳洞より洞川温泉を望む




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[2017/08/24 10:45] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

唐招提寺 蓮 と 頭塔 『唐招提寺のみほとけと長屋王・玄昉・道鏡』 

 
 唐招提寺・・・奈良県奈良市五条町13-46

唐招提寺 蓮

①廬舎那仏・薬師如来・千手観音の組み合わせは天下三戒壇を表している?

唐招提寺は奈良時代に唐からやってきた鑑真が創建した寺です。
金堂のご本尊は盧舎那仏で、ご本尊の右手(向かって左)には千手観音が、左手(向かって右)には薬師如来が安置されています。

写真はこちら→ ウィキペディア  唐招提寺hp

ウィキペディアに次のように記されています。

「廬舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にも見えないことからその典拠は明らかでない。東大寺下野薬師寺筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称するが、唐招提寺の三尊は廬舎那仏・薬師・観音の組み合わせで天下三戒壇を表しているとする説もある。」
ウィキペディア唐招提寺より引用)

戒壇とは戒律(仏教で守るべき道徳規範や規則)を授ける場所のことです。

唐招提寺 戒壇 
唐招提寺の戒壇 

本尊備考
東大寺廬舎那仏
下野薬師寺薬師如来
筑紫観世音寺聖観音唐招提寺は千手観音だが、観音経には「観音菩薩は救う相手に応じて33の姿に変身する」と説かれている。

天下三戒壇はいずれも鑑真が設置したものです。

唐招提寺の観音さまは千手観音、筑紫観世音寺の観音さまは聖観音で別の観音さまやん?と思われるかもしれませんが、
観音京には「観音菩薩は救う相手に応じて33の姿に変身する」と説かれているので、千手観音も聖観音も同じものだと考えていいと思います。

②長屋王の変と東大寺の大仏建立

鑑真が来日したころの歴史をざっと見てみると、天下三戒壇(東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺)が歴史の舞台となっていて、なかなか興味深いです。

729年、長屋王は謀反を企てたとして厳しい取り調べを受け、自殺においこまれました。(長屋王の変)
当時、聖武天皇と夫人の藤原光明子の間には男子がなく、長屋王が皇位継承に近い立場にありました。
そのため藤原四兄弟(藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が長屋王を廃するためにしくんだ陰謀であると考えられています。
長屋王の変ののち、藤原光明子は人臣として初の皇后となり、藤原四兄弟が政治の実権を掌握しました。

737年、藤原四兄弟は流行っていた天然痘にかかって次々に死亡し、長屋王の怨霊の仕業であると怖れられました。

743年、聖武天皇は大仏造立を発願し、745年より大仏(廬舎那仏)制作が開始されました。
開眼供養会が行われたのは752年です。

東大寺の大仏は長屋王の怨霊封じ込めの像ではないかとする説があります。

東大寺 大仏 

東大寺の大仏は長屋王の怨霊封じ込めの像?

③玄昉、藤原広嗣の怨霊に体をひきさかれる。


藤原四兄弟が死亡したのち、橘諸兄が左大臣となり政治の実権を握りました。
橘諸兄は吉備真備・玄昉らを重用しました。
これにより藤原氏の勢力は衰え、738年、藤原広嗣は大宰府に左遷されてしまいました。
740年、これを不服として藤原広嗣は乱をおこしますが、政府軍に鎮圧され、藤原広嗣は捕えられて斬殺されました。

745年、藤原仲麻呂が権力を持つようになると、玄昉は筑紫観世音寺に左遷となり、746年に死亡しました。
玄昉は観世音寺の落慶法要の際、藤原広嗣の怨霊に体をバラバラにひきさかれ、玄昉の首は奈良まで飛んで落ちたという伝説があります。

頭塔

奈良市高畑にある頭塔は、玄昉の首が落ちた場所に供養塔を建てたものだと言われています。


奈良・福地院では玄昉は観世音寺で藤原氏に寝込みを襲われて亡くなったと伝えているそうです。

福智院 桜2

福智院

④鑑真来日、戒壇を設置。

その後、749年に聖武天皇は譲位し、聖武天皇の娘の孝謙天皇が即位します。
753年、唐の僧、鑑真が来日しました。
754年、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き400名に菩薩戒を授けました。
758年、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位しました。
759年、鑑真は唐招提寺を創建し戒壇を設置しました。

唐招提寺 勅額  

唐招提寺・南大門の額の文字は孝謙天皇が書いたものです。
かっちりとした字で意志が強そうな感じ~。


761年、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置されました。
763年、鑑真は唐招提寺で死亡しました。

道鏡失脚

764年、孝謙天皇は再び皇位について称徳天皇となりました。
称徳天皇は僧・道鏡を重用し、次期天皇につけたいとまで考えていました。

770年、称徳天皇は急病を患って崩御しました。
このとき、看病をするため称徳天皇に近づけたのは吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、病回復の祈祷も行われていません。
当時、祈祷は医療行為であったのに、これが行われていないということは医療行為を施さなかったということだとする説や、称徳天皇は暗殺されたとする説もあります。

そして称徳天皇は「白壁王を次期天皇とする」との遺詔を残したのですが、「藤原百川伝」はこの称徳天皇の遺詔は偽造したものだと記しています。

称徳天皇の崩御によって道鏡は権力を失い、下野薬師寺に左遷となりその地でなくなりました。

⑥盧舎那仏は長屋王、千手観音は玄昉、薬師如来は道教のイメージ?


このような歴史をふまえてみると、唐招提寺の盧舎那仏は長屋王、千手観音は玄昉、薬師如来は道教のイメージと重なって見えてしまいます。

本尊備考
東大寺廬舎那仏(大仏)729年、長屋王は謀反を企てたとして厳しい取り調べを受け、自殺。
745年、大仏(廬舎那仏)制作が開始。752年、開眼供養会
東大寺大仏は 長屋王の怨霊封じ込めの像?
下野薬師寺薬師如来770年、道鏡下野薬師寺に左遷される。
筑紫観世音寺聖観音745年、玄昉は筑紫観世音寺に左遷となり、746年に死亡。



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[2017/08/07 08:56] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

松尾寺 百合 『七福神の正体は六歌仙+惟喬親王だった?』 


奈良県大和郡山市 松尾寺

2014年7月20日

①七福神の正体は六歌仙+惟喬親王だった?

松尾寺 七福神堂 百合 

↑ 松尾寺の七福神堂です。
七福神とはご存知のように、大黒天・恵比寿天・布袋尊・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人の七人の神様のことをいいます。

高田祟史さんは「QED六歌仙の暗号」という小説の中で、七福神の正体は六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀)に惟喬親王を加えた七柱の神様のことだとおっしゃっています。

松尾寺 百合 

②六歌仙は怨霊だった。

六歌仙とは古今和歌集仮名序に名前があげられた6人の歌人のことです。
ただし、古今和歌集仮名序の中に六歌仙という言葉は登場しません。
後の世になって6人の歌人のことを六歌仙と言うようになったと考えられています。

古今和歌集仮名序は抽象的で意味がよくわからないのですが、私にはこんな風に読めます。
(読んでみたい方はこちらを参照してください。→ http://bluewind.oops.jp/kokin/kana1.htm

遍照はリアリティがない。
在原業平は言葉が足りない。
文屋康秀はいい着物を着た商人のようだ。
喜撰法師ははじめとおわりがはっきりしていない。
小野小町は強くない。
大友黒主は賎しい。


抽象的で意味がわかりにくいですが、決してほめているようには思えませんよね。

歌仙とは「怨霊である」と高田祟史さんはおっしゃっています。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことです。
なるほど、六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物で政治的に不幸だったといえます。

喜撰法師は紀名虎またはその息子の有常だという説があります。
紀名虎の娘の静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を生みました。
文徳天皇は惟喬親王の立太子を望んでいましたが、藤原良房の娘・明子が生んだ惟仁親王が生まれたばかりで皇太子となりました。

在原業平は紀有常の娘を妻としており紀氏よりの人間だったため藤原氏から敵対視されていました。

遍照は藤原良房に出家をすすめられたとされます。

文屋康秀と同族と思われる文室(文屋と記すこともある。)宮田麻呂は謀反の罪で流罪となりましたが死後ちに無実であったとして神泉苑の御霊会で慰霊されています。


大友黒主は大伴黒主と記されることがあります。
私は大伴黒主とは大伴家持のことだと思います。(理由については次回説明します。)
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死亡していたにも関わらず死体が掘り出されて流刑とされています。

小野小町については、私は小野宮と呼ばれた小野小町のことだと考えています。
詳しくはこちらをお読みください。
髄心院 八重桜 石楠花 『男神は井戸に姿を映して女神になった?」 

松尾寺-百合 

③六歌仙と七福神の関係

高田さんの本は図書館で借りて読んだので手元にありません。
なので記憶違いがあるかもしれませんが、六歌仙と七福神の関係を次のように解いておられたと思います。
(間違いがあれば指摘をお願いします。)
弁財天小野小町紅一点
大黒天大友黒主大と黒が共通する
布袋尊喜撰法師喜撰法師は「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と人の言うなり」という歌を詠んでいますが
宇治の満福寺には布袋尊が祀られている。
恵比寿天文屋康秀古今集仮名序に「いはば商人のよき衣着たらんがごとし」とあるが
恵比寿天は足が不自由で、「お足がでない」の語呂あわせから商売の神として信仰されている。
福禄寿遍照
寿老人在原業平福禄寿と寿老人はどちらもカノープスという星の神だとされる。
遍照は桓武天皇の孫、在原業平は桓武天皇の曾孫でどちらも臣籍降下している。
在原業平は呪老人(和歌によって呪術をしかける老人)=寿老人、福禄寿は遍照。
毘沙門天惟喬親王仮名序には六歌仙を語る前に「つかさ位高き人をばたやすきやうなれば入れず」とある。
この「つかさ位高き人」とは惟喬親王のことだと考えるのが妥当

↑ この高田祟史さんの推理は「なるほど~」と思えます。

松尾寺 七福神堂 百合2


私の考えでは、小野小町=小野宮(惟喬親王)なので
七福神のうち弁才天(小野小町)も毘沙門天(惟喬親王)も惟喬親王だということになります。

神はその現れ方によって、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるという説、さらに男神は荒魂・女神は和魂を表すとする説があります。

惟喬親王は御霊として玄武神社などに祀られていますが、この惟喬親王の御霊を荒魂と和魂にわけ、和魂を小野小町としたのではないかと思います。
御霊神の本質
荒魂神の荒々しい側面男神小野宮(惟喬親王)毘沙門天
和魂神の和やかな側面女神小野小町弁才天

松尾寺 百合  


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[2017/07/22 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

藤原京跡 コスモス 蓮 『持統天皇が火葬されたわが身を嘆く歌』 

奈良県橿原市 藤原宮跡
2014年7月27日 撮影


①藤原京と天香久山

藤原京跡に立つと畝傍山や

藤原京 コスモス 
天香久山が見えます。

藤原京跡 蓮 
藤原京は飛鳥時代に造られた都で大和三山(畝傍山・天香久山・耳成山)に囲まれていたのです。
藤原京には持統天皇の藤原宮がありました。

百人一首に持統天皇が詠んだこんな歌があります。

春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。

持統天皇は藤原宮から天香久山を見てこの歌を詠んだのかもしれませんね。

旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月でした。
旧暦は新暦よりおよそ1か月遅れとなりますので、新暦に換算すると5月ごろに詠んだ歌だと考えられます。

②『土用の丑』から閃いたー!

ところで蓮って土用の丑のころに咲くんですよね。

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。

ん?んむむむ?

持統天皇の「春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という歌には、もうひとつ裏の意味がかくされていることを発見しました!

ヒント・・・持統天皇は天皇としては初めて火葬された方です。

もうおわかりですね~。

藤原京 コスモス 

③春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまった。

「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味でしょう。
「夏」は五行説では「火」です。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことだと思います。

↓ 下の写真は千本閻魔堂狂言に登場する鬼と幽霊ですが、幽霊は白い死に装束を着ています。


千本閻魔堂狂言 閻魔庁 鬼と亡者 

持統天皇の歌には表の意味のほかに、「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている衣をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」
という裏の意味が隠されているのではないでしょうか。

もちろん、死後に歌を詠むことはできません。
持統天皇の死後、誰かが持統天皇の身になって詠んだか

あるいは持統天皇が生前に軽い気持ちでこの歌を詠み
「この歌を詠んだため、言霊が作用して持統天皇は火葬されてしまった」のだと世の人々は考えたのか
どちらかだと思います。


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[2017/07/20 13:19] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

元興寺 ハルシャ菊  『頭に蛇を巻いた童子と沙羯羅』 

奈良市中院町 元興寺 極楽坊 塔跡
2008年6月中旬 撮影

元興寺 ハルシャ菊5 
 
元興寺 極楽坊 ハルシャ菊

①蛇の目と蛇目草


ハルシャ菊は別名を蛇目草といいます。
蛇目とは二重丸の中を塗りつぶした図形のことをいいます。(ʘ←これね)
なるほど、ハルシャ菊って模様がʘですね!

ヘビの目は丸く、ʘ←この図形のような形をしていますね。
それでʘのことを蛇の目というのかも?

元興寺 ハルシャ菊3 

元興寺 極楽坊 ハルシャ菊

②頭に蛇を巻いた童子

元興寺には頭に蛇を巻いた童子の伝説が伝えられています。


敏達天皇(在位572-585)の頃、尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)の農家に、雷神が落ちてきました。
雷神は『命を助けてくれるならば雷神のように力強い子供を授けよう。』と言ったので、農夫は雷神を殺さずに、空へ返しました。
しばらくして農夫の妻が子供を産みました。
その子供の頭には蛇が巻きついていました。
成長した子供は元興寺の童子になりました。


元興寺では童子たちが鬼に殺される事件が頻繁におきていました。
頭に蛇が巻き付いた童子は鐘楼で待ちぶせていると鬼が現れました。
童子は鬼の髪の毛を掴んで引きずり回しました。
鬼は髪をむしりとられ、あたふたと逃げていきました。
童子は追いかけましたが、鐘楼の北東の辻子の辺りで鬼を見失いました。
童子は鬼が急に姿を消したことを不審に思ったことから、この辻子は『不審ヶ辻子』と呼ばれるようになりました。
(元興寺の北東に不審ヶ辻子町という町名が残っています。)
しかし血痕が残っていたので、童子はそれを辿って行きました。
すると不審ヶ辻子の北東の鬼棲山の墓にたどりつきました。(現在の奈良ホテルのあたり)
それは昔元興寺で働いていた下男の墓でした。
鬼の正体はこの下男の怨霊だったのです。

鬼は『がこぜ(元興寺という漢字があてられる)』『がごじ』『ぐわごぜ」などと呼ばれる妖怪です。(日本霊異記)


案外、この伝説にちなんで蛇目草が植えられているのかも?

元興寺 ハルシャ菊2 

元興寺 極楽坊 ハルシャ菊

③元興寺では守屋の霊が信仰されていた?

587年、崇仏派・蘇我馬子vsは廃仏派・物部守屋の戦いがおきます。(丁未の乱)
勝利した蘇我馬子は「勝利したのはみほとけの御加護のおかげ」であるとして法興寺(飛鳥寺)を建てました。
そして710年の平城京遷都に伴って法興寺も移転し元興寺と称したのです。


四天王寺 夕日 

四天王寺

丁未の乱では蘇我馬子側に聖徳太子も参戦しており、聖徳太子も「勝利はみほとけの御加護のおかげ」であるとして四天王寺を建立しました。
この四天王寺には物部守屋を祀る守屋祠があります。

守屋祠



四天王寺が完成したのは、これを守屋の霊が許し、また助けたためであるとされ、願いが成就できたとして、守屋を祀ったといわれています。
守屋祠が願成就宮と呼ばれているのはそのためです。
四天王寺では守屋の霊が厚く信仰されていたのです。

ということは、四天王寺同様、丁未の乱に勝利したことをみほとけに感謝して創建された元興寺でも守屋の霊が信仰されていたのではないでしょうか?

元興寺 ハルシャ菊  
元興寺 極楽坊 ハルシャ菊

④物部氏に蛇のイメージ

物部氏の祖神であるニギハヤヒは先代旧事本紀によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) となっています。

奈良の大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命といいます。
天火明櫛玉饒速日天照国照彦尊倭大物主櫛甕魂命とは『櫛』『魂(玉)』が同じなので、同一神ではないか、という説があります。

とすれば、大物主神とは物部氏の神だということになりますね。

そして大物主神は蛇神だとされており、大物主を祀る奈良県桜井市の大神神社には蛇の好物の玉子が供えられています。

鬼を退治した頭に蛇を巻いた童子もまた物部氏の神(霊)、物部守屋の霊なのではないでしょうか。

参照/
元興寺 節分会 『福は内、鬼は内』  

元興寺 ハルシャ菊4 

元興寺 塔跡 仏足石 ハルシャ菊

⑤蛇を頭に巻いた童子は八部衆の沙羯羅?

元興寺の北に興福寺がありますが、興福寺の有名な八部衆像の一、沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いています。
写真はこちら→http://www.kohfukuji.com/property/cultural/033.html

おまけに少年の顔をしています。少年=童子です。

元興寺の伝説に登場する「蛇を頭に巻いた童子」とは興福寺の沙羯羅像だったりして?


興福寺 夕景 

⑥阿修羅のモデルは称徳天皇、沙羯羅のモデルは道鏡?

興福寺の八部衆像といえば、もっとも有名なのが阿修羅像ですよね!

File:ASURA Kohfukuji.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/ASURA_Kohfukuji.jpg よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 English: OGAWA SEIYOU [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

File:ASURA detail Kohfukuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG?uselang=ja よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂(現存せず)に安置されていました。 
西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王(のちの孝謙天皇/重祚して称徳天皇)は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説があります。

この阿倍内親王=称徳天皇は僧の弓削道鏡を寵愛し、道鏡を時期天皇にしようとした人です。
弓削氏は物部氏の傍系とされています。

阿修羅のモデルが称徳天皇なら、沙羯羅のモデルは道鏡だったりして?



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[2017/06/08 00:15] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

おふさ観音 薔薇 『おふさ観音には北辰信仰があった?』 

 
奈良県橿原市 おふさ観音
2009年5月中旬 撮影


おふさ観音 黄色の薔薇 

①『鯉の池』と『亀の池』


1650年、鯉ヶ淵という池の中から白いカメに乗った観音が現れました。
それを見つけたおふさという娘が小さなお堂をたてて観音さまをお祀りしたのが寺の始まりとされます。 

 境内には『鯉の池』と『亀の池』というふたつの池があります。
どちらも伝説にちなんで池の名前をつけたのでしょう。

おふさ観音 狛犬と赤い薔薇


②おふさ観音には北辰信仰があった?

『亀の池』には丸い石が北斗七星の形に並べられていました。

おふさ観音 北斗七星の形に並べた石 

北極星や北斗七星に対する信仰を北辰信仰と言います。
このあたりには北辰信仰があったのかもしれませんね。

そういえば北の守護神とされる玄武は亀と蛇が合体したような姿をしています。 

新熊野神社 玄武 

新熊野神社の祭礼の旗に飾られていた玄武

亀に乗った観音様が表れたという伝説は北辰信仰と関係があるのかも?

③鯉のぼりと鯉の滝登り

神泉苑 亀塚 鯉塚 

京都の神泉苑には鯉塚と亀塚がありました。
ここ、おふさ観音には『鯉の池』と『亀の池』がありますし、どうやら鯉と亀は特別深く信仰されていたようですね。

鯉は滝登りをして龍になるという伝説があり、5月5日に鯉のぼりをあげる習慣はこの言い伝えからくると言われます。

新暦の5月5日は鯉のぼりは薫風にそよがれて気持ちよさそうに泳いでいます。
しかし陰暦の5月5日は梅雨で、鯉のぼりはじっとりと雨に濡れていたはずです。
その様子が鯉の滝登りを表現したいたというのです。
絵的にはいまいちな感じですが~。

亀は北辰信仰、鯉は鯉の滝登り、ということから信仰されたのかも?

浅草寺 鯉のぼり 
浅草寺よりスカイツリーを望む

おふさ観音 白薔薇2 


おふさ観音 白薔薇

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[2017/05/29 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

長谷寺 宵牡丹 『禁断のきょうだい愛』 

奈良県桜井市 長谷寺

長谷寺 宵牡丹3 

①伯瀬は死の国?

以前の記事、長谷寺 紫陽花 『泊瀬は死の国?』  に衣通姫伝説について書きました。

第19代允恭天皇(376?-453)には木梨軽皇子と軽大娘皇女(衣通姫)という同母兄妹があり、
二人は禁忌とされていた近親相姦に陥り、周囲にも二人の関係がばれてしまいます。
群臣たちの多くは木梨軽皇子を次期天皇に立てたいと思っていましたが、
この一件で群臣たちは木梨軽皇子・弟の穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)を支持するようになりました。
允恭天皇崩御後、木梨軽皇子は大前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)と共謀して穴穂皇子を討とうとしました。
しかし大前小前宿禰が裏切ったため木梨軽皇子は捕えられ伊予へ流罪となりました。
軽大娘皇女は兄が帰ってくるのを待っていましたが、待ちきれなくなって兄に会いにいきました。
軽大娘皇女を迎えた木梨軽皇子は次のような歌を詠み、ふたりは自害して果てました。


こもりくの 泊瀬の河の 上つ瀬に 斎杙(いぐい)を打ち 下つ瀬に 真杙(まぐい)を打ち
斎杙には 鏡をかけ 真杙には 真玉をかけ 真玉如(な)す 我が思う妹(いも)
鏡如す 我が思う妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲ばめ

(泊瀬の河の上流に斎杙を打ち、下流には真杙を打ち、斎杙には鏡をかけ、真杙には真玉をかけ、その鏡のように我が思う妹、その真玉のように我が思う妻、おまえがいるからこそ家に帰りたいと思い、国を偲ぶのだよ。) 


ここに出てくる伯瀬とは長谷寺付近の地名です。
「こもりくの」は、『伯瀬』または『志多備』にかかる枕詞ですが、『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
黄泉の国とは死後の国のことです。
同じ「こもりくの」という枕詞を用いるところから、『伯瀬』もまた『死後の国』を意味する地名ではないかと私は推理しました。

現在でも長谷寺の奥の院あたりにはお墓がたくさんあります。
木梨軽皇子と軽大娘皇女(衣通姫)の霊もここに祀られているのかもしれませんね。

長谷寺 宵牡丹2

②大津皇子 薨去。

686年、道明上人が初瀬山の西の丘に三重塔を建立し、
727年、徳道上人が東の丘に十一面観音を祀ったのが長谷寺の始まりとされます。

686年には歴史上有名な人物が二人亡くなっています。
天武天皇(?ー686年10月1日)と大津皇子(663年―686年10月25日)です。

大津皇子は天武天皇の第3皇子とされます。
大津皇子は父の天武天皇が崩御したあと、一か月もたたないうちに23歳という若さで亡くなってしまったのです。
なぜ大津皇子はそんなに若くなくなってしまったのでしょうか。

長谷寺 宵牡丹

③大津皇子、謀反を疑われ自殺。

天武天皇の兄、天智天皇には蘇我遠智娘との間に大田皇女と鸕野讚良皇女(のちの持統天皇)の二人の皇女がありました。
大田皇女と鸕野讚良はともに天智天皇の弟で叔父にあたる大海人皇子(のちの天武天皇)の妻となりました。
662年に鸕野讚良は草壁皇子を産み、663年に大田皇女は大津皇子を産みました。

667年太田皇女はまだ幼い大津皇子を残して亡くなってしまいます。

671年、天智天皇が崩御すると、翌672年、皇位継承をめぐって天智天皇の弟・大海人皇子vs天智天皇の皇子・大友皇子が争いました。(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して673年に即位し、鸕野讚良皇女は皇后となりました。

686年10月1日、天武天皇が崩御します。

その後、大津皇子は謀反を企てたと疑われ、686年10月25日に大津皇子は自殺してしまったのです。
大津皇子の妃の山辺皇女は殉死しています。

この事件は、草壁皇子を皇位につけるために持統天皇が仕組んだ陰謀であったという説が有力です。

草壁皇子は皇位につくことなく、689年に亡くなってしまったのですが~。
草壁皇子の死因は不明です。

長谷寺 登廊 

④抱いてほしい?

大津皇子が自殺したとき、同母姉の大来皇女はこんな歌を詠んでいます。

見まく欲(ほ)り我(わ)がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに
(私が見たいと思うあなたはもういないのに、どうしてやってきたのでしょう。馬がつかれるだけなのに。) 


『見る』というのは男女関係を暗示する言葉だとされています。
もしかして『私が抱いて欲しいと思うあなたはもういないのに』という意味?
大津皇子と大来皇女は近親相姦だった?

大来皇女は661年の生まれで、673年斎王に選ばれ、泊瀬斎宮に入っています。
泊瀬斎宮の在所は不明ですが、泊瀬(初瀬)という地名からして長谷寺の近くにあったのではないでしょうか。
初瀬は大来皇女ゆかりの地だったのかもしれませんね。

そして初瀬にある長谷寺には近親相姦の兄妹・木梨軽皇子と軽大娘皇女が祀られている可能性が大です。
長谷寺の創建年は大津皇子が薨去したのと同じ686年だし、長谷寺には大来皇女と大津皇子の姉弟の霊も弔うために創建されたのかも?


檜原神社より二上山落日を望む 

↑ 大津皇子の墓のある二上山。(檜原神社より)


うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 
弟背()()が見む/大来皇女
(弟は死んであの世に行ってしまいました。現世の人間である私は明日から二上山を弟と思って見ましょう。)


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[2017/05/24 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛城山 つつじ 『子供を産めなかった女性はなぜ筍を探す地獄に堕ちるの?』 

奈良県 葛城山
2017年5月19日 撮影


葛城山 つつじ


①笹の高原からツツジの高原に?


ウィキペディアに次のように記されています。

以前の山頂付近は笹で覆われていたが、1970年頃に笹が花を咲かせ、のちに一斉に枯れた。
ツツジはその跡に自然に生えてきたものである。
笹は自生力が大変強いために、ツツジを維持するため毎年2回笹刈りが行われている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%91%9B%E5%9F%8E%E5%B1%B1より引用

上記の記述にはソースが示されていないので、頭から信用することはできませんが
本当だとしたらとても劇的ですね!
笹の高原がツツジの高原に変わってしまったなんて!


葛城山 ツツジ3

② タケとササの違い

単子葉植物イネ科タケ亜科の植物はタケ・ササ・バンブーの3つに分類されるそうです。

バンブー・・・地下茎が横に伸びない。株立ち。大型。熱帯に多い。
タケ・・・・・地下茎が横に伸びる。はじめ茎は鞘に包まれているが、成長すると鞘がはがれる。
ササ・・・・・地下茎が横に伸びる。茎を包む鞘がはがれない。

葛城山 ツツジ2   

③竹は一斉に花を咲かせて枯れてしまう

竹は一斉に花を咲かせて枯れてしまうそうです。
竹が一斉に花を咲かせているところや、一斉に枯れたところなんか見たことないよ~、という方は多いと思います。
私も見たことないです。

それもそのはず、竹は種類によって異なるようですが、だいたい60年~120年に1度だけ花を咲かせるとのことなんです。
(モウソウチクは約60年、マダケは約120年、孟宗竹は個体差があるが67年周期で花が咲いた例が2例ある。)
昭和40年代、世界中のマダケが一斉に開花して枯れてしまったこともあるのだとか。

竹の花って滅多に咲かないんですね。
竹の花を見たことがないのは当たり前のことなんですね。

で、花が咲いたあとの竹は枯れてしまうので、竹林が消滅してしまうわけです。
もとの竹林に戻るには15年~20年かかるそうです。

笹も竹と同じく、60年に1度ぐらいの周期で花を咲かせ、枯れてしまうみたいです。

葛城山のツツジはその空白の期間を利用してちゃっかり芽を出し、その後は人が笹の刈り取りをするなどして手入れがなされているおかげで
私たちは毎年5月に一面オレンジ色に染まった風景を見ることができるんですね♪

葛城山 ツツジ


④竹の開花は凶事の予兆?

竹の花の開花は大変珍しいことなので、凶事の予兆であるなどとも言われていました。

⑤かぐや姫はなぜ竹から生まれたのか?

竹についていろいろ調べてみると、なぜかぐや姫が竹から生まれたとされているのか、見えてきたような気が。(気のせいか?笑)

もちろん、それはよく言われるように、竹の内部が空洞になっているということもあるでしょうが、それだけではなく、別の理由があるかも?

竹の花が咲くと、当然オシベとメシベが交配して結実し、そこから新しい生命が誕生しますね。
しかし、それは60年~120年に一度の大変珍しいことで、通常、竹は地下茎で増えます。無性生殖というようですね。

つまり、エッチしなくても子供ができるわけで、かぐや姫はエッチなく生まれた子供、ということなのかもしれません。

嵯峨野 竹林の道 

⑥子供を産めなかった女性はなぜ筍を探し続ける地獄に堕ちるのか?

かつて、子供を産めなかった女性は、死後、筍を探し続ける地獄に堕ちると説かれていました。
近年では差別的な考え方であるとして、あまりそういうことは言われませんが、たしか長岳寺の地獄絵にも筍を探す女性が描かれていたと思います。

子供が産めなかった女性は性的に不能なので、エッチなしで生えてくる筍を探し続けるのではないでしょうか?

葛城山 まむし草


葛城山には『まむし草』の花もたくさん咲いていました。


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[2017/05/20 13:02] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

法起寺 法輪寺 れんげ草 『斑鳩の塔が現存している理由?』 

奈良県生駒郡斑鳩町 法起寺 法輪寺 法隆寺
だいぶ前に撮影

法起寺 蓮華草

法起寺 蓮華草

①三基の塔が次々に現れる。


斑鳩の里を歩くと、田園風景の中に3基の塔が次々に現れます。
法起寺の三重塔、法輪寺の三重塔、法隆寺の五重塔です。
いずれも飛鳥時代に創建されたとされる古いお寺です。
法隆寺と法起寺の塔は世界最古の木造建築として世界遺産にも登録されていますね。

②法輪寺の塔、落雷で焼失

法輪寺の三重塔 も法隆寺や法起寺と同じく7世紀ごろに建てられたものが1944年まではあったそうですが、落雷をうけて消失してしまいました。

法輪寺 蓮華草 

法起寺 蓮華草

大和路の風景を撮っておられた写真家の入江泰吉さんは、このニュースを聞いてとてもショックだった、とおっしゃっていました。
その後、作家の幸田文さんらが寄付金を集め、1975年に三重塔は再建されました。
工事に携わったのは法隆寺の宮大工の棟梁、西岡常一さんです。
薬師寺西塔を再建したのもこの方でした。

薬師寺 日の出 

薬師寺 日の出 
向かって左が西塔、向かって右が東塔。
屋根の角度が違いますね。1000年たつとだいたい同じくらいになるとのこと。

法隆寺 夕景 
法隆寺 夕景
 
③斑鳩三塔はなぜ残ったの?

それにしても、1300年以上前に建てられた塔が最近まで3基とも現存していたということは驚くべきことだと思いませんか。
斑鳩という土地は気候が穏やかな土地だといえるかもしれません。 滅多に雪も降りませんしね。
また、南都焼き討ち(1181年、平重衡らが東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院を焼き討ちにした 事件。)のような事件もなかったようです。

法隆寺・法起寺・法輪寺はいずれも聖徳太子に関係する寺院です。
梅原猛さんは著書『隠された十字架』の中で『聖徳太子は怨霊だった』と説かれました。
中門の中央に柱があったり、聖徳太子等身大の像と伝わる夢殿の救世観音の頭に後輩が直接釘で打ちつけられているのは、怨霊を封じ込めるための呪術的な仕掛けであるというのです。

File:GUZE Kannon Horyuji.JPG

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji.JPG よりお借りしました。
作者 Tokyo Bijutsu Gakko [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


法隆寺 救世観音

聖徳太子の怨霊に対する恐れから、斑鳩の3つの寺は保護されてきたのかも?



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[2017/05/19 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

船宿寺 大手鞠 ツツジ 牡丹 『巌舟権現とニギハヤヒは同一神?』 

奈良県御所市 船宿寺
2017年5月初旬 撮影

船宿寺 参道 大手毬

①巌舟権現

725年、行基の夢の中に巌舟権現が現れ、、「ここから東の方へ行くと、山の中に船形の大きな岩がある。その岩の上に薬師如来をお祀りするように」と告げました。
行基がその夢告に従って探したところ、船形の岩が見つかりました。
そこで、そこに薬師如来を祀り、船宿寺と名付けました。


船宿寺 参道 大手毬2

②海がないのに船宿寺?

奈良県は周囲を京都府・大阪府・和歌山県・三重県に囲まれており、当然海はありません。
海がないのに船宿寺という寺名ってどうよ?

古には河川を航行する船は重要な交通手段でした。
大阪から京の都に行く場合でも、淀川を遡っていったのです。

なので、山中だからといって『船』の漢字がつく寺名がおかしいとはいえないですね。

京都の貴船神社も山中にあり、船形をした岩がありますが、
タマヨリヒメの乗った船が蜑女崎(尼崎)、菟道川、鴨川を経て鞍馬川と貴船川の合流点に達し、貴船川を遡り、霊境吹井のある場所に鎮座したと伝わっています。



③貴船神社は紀氏の神?

貴船神社または貴布禰神社と称する神社は各地にあります。
そのひとつである兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

「紀氏が自身の守り神に祈願した」ということは貴船神社の神は紀氏の神だということでしょう。
また紀氏の本拠地・紀州は森林資源に恵まれており、紀氏はその森林資源を生かした造船技術に長けていたといわれます。

京都の貴船神社は、平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。

上賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないでしょうか。

しかし、貴船神社はもともとは紀氏の氏神を祀る神社なのではないでしょうか?

船宿寺 本堂 大手毬

④巌舟権現は紀氏の神?


すると、行基の夢の中に表れた巌舟権現もまた、造船技術に優れた紀氏の神ではないかと思ったりします。
船宿寺のある奈良県御所市は紀氏の本拠地・紀州(和歌山県)に近いです。

船宿寺 本堂 つつじ

⑤巌舟権現はニギハヤヒ?

巌舟権現ときいてもうひとつ思い出すのが、大阪府交野市の磐船神社です。

初代神武天皇よりも早く、ニギハヤヒが『天の磐船』を操って天下ったとされる場所にあり
『天の磐船』と呼ばれる巨大な磐を御神体としています。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

磐船神社の御祭神はニギハヤヒで、ニギハヤヒは物部氏・穂積氏のの祖神とされますが、熊野国造の祖神ともされています。
国造とは古代の日本で、地方を治める官職についていた人のことです。

船宿寺はこの熊野国造の神を祀る寺(明治まで神仏は習合されていました。)なのかもしれませんね?

船宿寺 ツツジ  

船宿寺 牡丹 


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[2017/05/17 12:56] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

金剛寺 牡丹 大手鞠 藤 『平重盛はなぜ48の燈籠を建てたの?』 

奈良県五條市 金剛寺
2017年5月初旬 撮影

 金剛寺 白藤

①燈籠大臣

1173年、金剛寺は平清盛の嫡男・平重盛が創建したお寺です。
平重盛は小松殿、灯籠大臣などと呼ばれていました。
小松殿と呼ばれていたのは六波羅小松第の邸宅に住んでいたためです。
そしてその邸宅には48の燈籠が建てられていました。
それで燈籠大臣と呼ばれていたのですね~。

金剛寺 牡丹

②四十八願

平重盛が48の燈籠を建てたのは、四十八願にちなむものではないでしょうか?

四十八願とは浄土教の根本経典・仏説無量寿経に記されているもので、法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行中の名前) が仏に成る修行をするにあたってたてた48の願のことです。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/48gann.html
四十八願について、上記リンク先に現代語訳されています。

地獄・餓鬼・畜生の三悪道の者がいる。
地獄・餓鬼・畜生の三悪道に陥る人がいる。
人々が金色に輝く身にならない。
美醜の差がある。
過去に起ったことを知り尽くすことができない。
諸仏の国を見通すことができない。
諸仏の心を知り尽くせない。
諸仏の国々を跳びまわれない。
わが身に執着する人がいる。
さとりを得ることができない人がいる。
諸仏の国々が照らされない。
寿命に限りがある。
声聞の数に限りがある。
悪を現す言葉がある。
わたしの名をほめたたえない仏がいる。
わたしを信仰しない人がいる。
命つきるとき、わたしを信仰する人の前に私が現れることができない場合。
わたしの国に生まれたいと願う人々の願いをかなえられない場合。
人々が仏と同じ三十二相のすぐれた相を備えない。
衣服を欲しているのに、すぐに現れない。

金剛寺 牡丹2

このような場合には法蔵菩薩は仏にはならない、と言っています。
逆に言えば、仏になった場合、上にあげたようなことをすべてなくすということですね。
うーーん、これは永遠に法蔵菩薩は阿弥陀仏になれないのではと思ってしまいます~。

金剛寺 大手鞠

③燈籠の灯りは神様の霊をあらわす?


48の燈籠の灯りは神様の霊を表しているのではないかと思ったりします。

というのは、天火明命(アメノホアカリ)という神様がいるからです。

アメノホアカリは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)という別名があります。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊というのは先代旧事本紀によるもので、記紀では単にニギハヤヒとなっています。

記紀はまた次のようにも記しています。

ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代神武天皇が日向から東征して畿内入りするよりもはやく、畿内に天下っていたと。

ここから、初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

天皇家にとって都合の悪い内容ですが、記紀にこれを記さなければならないほど、「もともと畿内には物部王朝があった」ということは人々に知れ渡っていたということだと思います。

平重盛はこのニギハヤヒを厚く信仰していたのかもしれませんね。

  
金剛寺 

↑ ↓ これは花の名前がわかりません。ご存知の方、教えて下さい!

金剛寺  

金剛寺 牡丹 



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[2017/05/16 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

不退寺 黄菖蒲 今井町 カキツバタ 黄しょうぶ  『不退寺には黄しょうぶよりもカキツバタが似合う』 

 
奈良市法蓮東垣内町 不退寺
撮影 2009年5月初旬

不退寺 多宝塔 黄しょうぶ 


不退寺

①上層部を失った多宝塔

上の写真の建物は何だと思いますか?
答えは『多宝塔』です。

多宝塔って↓ こんな形をしていますね。

愛染堂 夕景 
愛染堂 〈大阪市)

もう一度、1枚目の写真を見てください。
全然、形が違うやーん。

実は不退寺の多宝塔は上層部を失って下軸部のみなのです。
明治の廃仏毀釈によって取り払われた結果、このような姿になってしまったみたいです。
廃仏毀釈がなければ日本にはもっと多くのすばらしい文化遺産が残されていたでしょうね。
残念です~~。
 
不退寺 門 黄しょうぶ  

不退寺

②不退寺には黄菖蒲よりもカキツバタが似合う。

多宝塔前の池の黄しょうぶが満開でした。
でも不退寺には同じアヤメ科アヤメ属のカキツバタの方が似合うと思うなあ~。

不退寺は第51代平城天皇が809年に同母弟の嵯峨天皇に譲位したのち、『萱の御所』と呼ばれた萱葺きの御殿を造営した場所だといいます。
伊勢物語で知られる在原業平はこの平城天皇の孫で、平城上皇崩御後ここに住んだと伝わっています。

在原業平は六歌仙の一で、数多くの和歌を詠んでいますが、その中に次のような歌があります。

らごろも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ
(衣を長く着ていると褄がなれてしまうように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるこんなに遠くまでやってきたんだなあ、という思いがこみあげてきます。)


この歌の五七五七七の最初の音をつなぐと『かきつばた』となります。

③もともとはカキツバタが咲いていたのでは?

この池には数本、カキツバタの花も咲いていました。
それで「この池はもともとはカキツバタが咲いていたんじゃないかなあ?」と思ったりしました。

奈良県橿原市の今井町に今西家住宅があり、その前の環濠でカキツバタが咲いていたんですよ。

今井町 今西家住宅と環濠 杜若 

今西家住宅 カキツバタ

ところが数年して行ってみたら、カキツバタはなくなって黄しょうぶに変わっていました!

今井町 今西家住宅と環濠  
今西家住宅 黄しょうぶ


カキツバタは絶滅危惧種で、繁殖力の弱い植物です。
そこに何らかの理由で、繁殖力の強い黄菖蒲が繁殖するようになって、カキツバタはなくなってしまったのかも?

④薬子の変

①で不退寺はが809年に同母弟の嵯峨天皇に譲位したのち、『萱の御所』と呼ばれた萱葺きの御殿を造営した場所だと書きました。

810年、平城上皇は平城京遷都の詔を出すなどして嵯峨天皇と対立するようになり、ついに挙兵に至っています。

平城上皇のこのような行動の背景には藤原仲成・薬子兄妹の存在がありました。
平城天皇は自分の妻の母親である藤原薬子を寵愛していました。(親子どんぶり~)
薬子と兄の仲成はしだいに政治に口出しするようになっていったのです。

しかし、平城上皇は薬子と共に東国に入ろうとしたところを坂上田村麻呂らに遮られ、あっけなく挙兵は失敗に終わりました。
これを『薬子の変』といいます。

不退寺 石橋 黄しょうぶ 
不退寺

●平城天皇の孫なのに在原姓なのはなぜ?

平城上皇の皇子・安保親王は、薬子の変に連座したとして大宰権帥に左遷されました。
824年、平城上皇が崩御したのちようやく帰京を許され、14年ぶりにようやく都へ戻りました。
帰京した安保親王は伊都内親王を妻とし、伊都内親王は子供を産みました。
これが在原業平です。

伊都内親王は桓武天皇の第8皇女で、母親は中納言藤原乙叡女の藤原平子でした。
業平は高貴な生まれで、祖父が薬子の変をおこさなければ天皇になる可能性もあったのです。

阿保親王の子供であるのに、業平はなぜ在原姓なのでしょうか。
それは業平の父の安保親王が826年に自らの子供の臣籍降下を願い出て在原姓を賜ったからです。

安保親王は自分の子供の臣籍降下を願い出ることで、自分には謀反を起こそうという気持ちなどないということをアピールしようとしたのでしょう。

●陽成天皇は業平の子?

不退寺の内陣と外陣の境には吹寄菱欄間と木連格子が入れられています。
この菱形の吹寄菱欄間は業平格子とも呼ばれています。
菱形は業平が好んだ柄だそうで、百人一首の絵札に描かれた業平像も業平格子の着物を着て、弓矢を背負っています。
百人一首に描かれた業平像は、業平が陽成天皇にお仕えする姿だと言われています。

百人一首かるた

陽成天皇の父親は清和天皇、母親は藤原高子です。
でも、私は実は陽成天皇は業平の子ではないか、と考えています。

業平と藤原高子がかけおちをするようすが伊勢物語に描かれているからです。
詳しくはこちらの記事をお読み下さいね。→ 龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 

陽成天皇は源益(みなもとのすすむ)を殴殺するという事件をおこし、摂政・藤原基経によって退位させられていることからして変です。
藤原基経は陽成天皇の母親・高子の同母兄です。
陽成天皇が皇位にあれば基経は外戚として権力を振るうことが可能なのに、なぜ基経は陽成天皇を退位させたのでしょうか?

陽成天皇には凶暴性があったとされますが、本当でしょうか?
人は自分が憎む者を高く評価しないものです。

さらに清和天皇退位後、基経・高子兄弟は関係が悪化したとされます。
基経と高子の関係が悪化したのは、陽成天皇が業平の子であるということが基経に発覚したからなのだろうか、などとつい勘ぐってしまいます。 



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[2017/05/14 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

長谷寺 牡丹 『馬頭夫人の正体とは?』 


奈良県桜井市 長谷寺
2007年5月初旬 2009年4月下旬撮影


長谷寺 牡丹 

①馬面から美人に変身した馬頭夫人


京都・乙訓寺のパンフレットに長谷寺の牡丹について書いてありました。

乙訓寺の牡丹は昭和15年頃に長谷寺から献木されたものなのであり、
唐18代の僖宗皇帝の皇后・馬頭(めず)夫人が長谷寺の観音様に願をかけ、祈願成就のお礼に数々の珍宝を献上されました。
その中に牡丹もありました。


馬頭夫人がどのような願をかけたのか、ネットで調べてみたところ、馬頭夫人は顔が長い馬面だったので、なんとか美しくなりたいと長谷寺の観音様にお祈りしたということがわかりました。
馬頭夫人の願いは叶えられて大変な美人になったとのことです。

長谷寺 黄色の牡丹


②僖宗皇帝は18代?21代?

僖宗皇帝についても調べていました。
乙訓寺のパンフレットには唐18代とありましたが、ウィキペディアでは21代となっていました。

たぶん21代が正しいと思います。
乙訓寺のパンフレットが18代としているのは、18日は観音様の縁日なので、それにちなんで18代として伝説が語り継がれてきたためではないでしょうか?

長谷寺 牡丹 

③馬頭観音と十一面観音

それにしても、唐の皇后ともあろうお方が、本当に日本の長谷寺に願掛けをしたのでしょうか?
当時、唐は先進国であり、長谷寺よりも立派な寺がたくさんあったはずです。
たぶん馬頭夫人の話は作り話でしょう。

馬頭夫人とは馬頭観音の比喩ではないでしょうか。
馬頭観音は「ばとうかんのん」のほか「めずかんのん」ともよみます。

File:Bato Kannon painting.jpg

馬頭観音
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bato_Kannon_painting.jpg?uselang=ja よりお借りしました。


観音様は情況に応じて33の姿に変身すると、法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)に記されています。

他の観音様は女性的な優しい姿で表現されることが多いですが、馬頭観音はつりあがった目、怒髪、牙をむき出すなど恐ろしい形相で表現されることが多く、馬頭明王と呼ばれることもあります。

この恐ろしい形相をした馬頭観音が、やさしいお姿の十一面観音に化身した、という意味なのではないでしょうか。

牡丹は中国原産で、日本へは奈良時代に中国より伝わったと言われています。
唐の皇后・馬頭夫人が祈願成就のお礼として、長谷寺に牡丹を献上した、という伝説は、牡丹が唐から日本へもたらされたものだ、ということをドラマチックに仕立てた話なのかも。
 
長谷寺 牡丹2 


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[2017/05/02 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

大野寺 しだれ桜 『弥勒菩薩と布袋・大黒天の共通点』 

奈良県宇陀市 大野寺
2009年4月5日 撮影

大野寺 山門 しだれ桜

①巨大な弥勒磨崖仏


室生寺に行く道中の宇陀川沿いに、大野寺はしだれ桜にうもれるようにしてありました。
対岸には巨大な線刻の弥勒菩薩が。
大野寺の御本尊は弥勒菩薩なので、それにちなんでこの弥勒磨崖仏は刻まれたのでしょう。

大野寺 弥勒磨崖仏 しだれ桜

興福寺の僧・雅緑が発願して1207年に制作が始まりました。
開眼供養が行われたのは1210年で、このとき後鳥羽上皇がおいでになられたそうです。

大野寺 弥勒磨崖仏 しだれ桜2

②大黒天磨崖仏

弥勒磨崖仏の近くには大黒天磨崖仏もありました。
大正時代、奈良市法蓮町の長慶寺を建立した吉村長慶が発願して刻まれたもののようです。

吉村長慶はなぜ大野寺の弥勒磨崖仏の近くに大黒天磨崖仏を刻んだのでしょうか。

大黒天磨崖仏

③弥勒菩薩と大黒天に共通する「復活」のイメージ


弥勒菩薩は釈迦入滅後、56億7000万年後にあらわれるとされる菩薩です。
弥勒菩薩が釈迦入滅後56億7000万年後にあらわれるというのは、お釈迦様が56億7000万年後に弥勒菩薩として復活するということではないかと思います。

七福神の一、布袋は弥勒菩薩の化身だとされています。
一般には、布袋が死ぬ間際に「弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり 時時に時人に示すも時人は自ら識らず」という文を残したためだと言われています。

でも私はそれよりも、「布袋が死んだ後、布袋の姿を見かけた」とういう伝説のほうが気になります。
死んだはずの布袋が生きていた、ということですよね。
つまり布袋は生き返った(復活)のです。
弥勒菩薩も復活する菩薩なので、それで布袋は弥勒菩薩の化身だとされているのではないでしょうか?

そしてやはり七福神の一である大黒天は、もともとはインドの神でマハーカーラ(大いなる闇)という名の神でした。
平安時代、遣唐使として唐に留学していた最澄が日本に大黒天の信仰を伝えたとされます。
最澄が開いた延暦寺の国宝館にはたくさん大黒天が展示されていました。

大黒天は記紀神話に登場する大国主命と習合されて信仰されました。
記紀を読むと、大国主は兄たちにいじめられて何度も殺されますが、そのたびに生き返っています。
なんか『リングにかけろ』みたいですね~。

吉村長慶は弥勒菩薩に復活のイメージがあるので、やはり復活のイメージのある大黒天を弥勒磨崖仏の近くに刻んだのではないでしょうか?

大野寺 しだれ桜2 

④大黒天と布袋の袋の中身


弥勒菩薩の化身とされる布袋、そして大黒天はどちらも大きな袋を持っています。

萬福寺 布袋  

萬福寺 布袋像

さて、この袋の中には何が入っているのでしょうか?

私は袋の中身はドクロではないかと考えています。
大黒天の前身であるマハーカーラは不老長寿の薬や、生首を持つとされます。
これは生首(ドクロ)が不老長寿の薬であるとも考えられます。

そして真言立川流ではドクロに漆や和合水を塗り重ねて髑髏(ドクロ)本尊を作ったそうです。
その髑髏本尊を袋に入れ、7年間抱いて寝ると8年目に髑髏本尊は命を持って語りだすのだとか。
これはまさしくドクロの復活ですね。

どうやらドクロは復活にかかせない呪術のアイテムであったようです。

大野寺 山門 しだれ桜2 

⑤釈迦と袋

でも弥勒菩薩は袋は持ってへんやんって?

弥勒菩薩は釈迦が56億7000万年後に復活した姿であると私は思いますが
釈迦涅槃図図(釈迦が入滅した際、人々が嘆き悲しむ様子を描いたもの)には、袋が描かれています。

http://www.gyokusenzi.com/sanbukki/nehanz/nehanz.htm
釈迦のお母さまの摩耶夫人が、釈迦のために投じたもので、中には薬が入っているとされます。
薬とはドクロであり、この薬によって釈迦は56億7000万年後に弥勒菩薩として復活するということなのではないかと思ったりします。

大野寺 しだれ桜 

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[2017/04/29 00:12] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

安倍文殊院 桜 『美しい国づくり内閣とは?』  

奈良県桜井市 安倍文殊院
2009年4月5日 撮影


安倍文殊院 金閣浮御 桜4 
安倍文殊院 金閣浮御堂

①安倍晋三さん、安倍文殊院に石塔を寄進。

安倍文殊院は飛鳥時代に安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が氏寺として建立したと伝わります。
1985年、金閣浮御堂(仲麻呂堂)が建立され、安倍仲麻呂像、安倍晴明像などが祀られています。

私が安倍文殊院を参拝したのは2009年で、そのときはなかったのですが
2010年には安倍晋三さんが石塔を寄進されたそうです。

安倍晋三さんは90代(2006年9月26日~2007年9月26日)、96-97代(2012年12月26日~)内閣総理大臣ですね。
なぜ安倍晋三さんが安倍文殊院に石塔を寄進したのかというと、それはもちろん安倍文殊院が安倍氏の氏寺だからでしょう。

安倍宗任(あべのむねとう/1032年~1108年)という人物がいます。
陸奥国の俘囚の長・安倍氏の人物で、1051年 -1062年におきた前九年の役で父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦った人物です。
この安倍宗任は安倍晋三氏のご先祖なのだそうです。

安倍文殊院 金閣浮御 桜3

安倍文殊院 金閣浮御堂

②美しい国づくり内閣


安倍晋三さんは90代内閣総理大臣のとき、『美しい国づくり内閣』をスローガンとしていました。
カタカナ語を多用したこともあって、議員から『抽象的でわかりにくい』などの批判を浴びました。
安倍晋三さんはなぜスローガンを『美しい国づくり内閣』としたのでしょうか。

③安倍晋三さんはアビヒコの子孫?


さきほど、安倍晋三さんは安倍宗任の子孫だといいましたが、さらにこの安倍宗任はアビヒコの子孫とされます。

アビヒコはナガスネヒコの兄です。

ナガスネヒコは初代神武天皇が日向より東征して畿内入りする以前より畿内に住んでいました。
しかし、神武と戦って敗れ、畿内は神武に奪われました。
ナガスネヒコと兄のアビヒコはともに青森県弘前に逃れたとか、ナガスネヒコが神武との戦いで戦死したのち、アビヒコは津軽地方に流されたなどと伝わっています。
アビヒコとナガスネヒコは同一人物だとする説もあります。

 安倍文殊院 金閣浮御 桜2

安倍文殊院 金閣浮御堂

④ナガスネヒコ・アビヒコは物部氏?

ナガスネヒコはニギハヤヒという神を奉じていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神とされます。
するとナガスネヒコやアビヒコも物部氏であるか、物部氏に近い人物ではないかと思われますね。

⑤ニギハヤヒは天照大神?

ニギハヤヒは先代旧事本記では、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と記されています。
そして天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊という名前から、ニギハヤヒが本当の天照大神ではないかとする説もあります。

ニギハヤヒは男神です。
一般に天照大神は女神とされますが、天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から出てきます。
女神のストリップに興味を持つのは男だ、よって天照大神は男神だとする説もあります。

安倍文殊院 金閣浮御 桜 
安倍文殊院 金閣浮御堂

⑥天照大神はなぜ女神とされているのか?


でも天照大神の子孫は物部氏ではなく、天皇家とされていますね。
天皇家の先祖が天照大神というのはウソではないと思いますが、初代神武天皇が天照大神の子孫というのは嘘だと思います。

もともと畿内には物部王朝があり、天照大神とは天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊のことで、物部氏の神だと私は思います。
物部王朝の男子が天照大神となって国を治めていたところに、
日向からやってきた男(神武)が婿入りすることで政権を奪ったのだと思います。

初代神武天皇は大物主の娘のヒメタタライスズヒメを皇后としています。
大物主は倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)ともいい
ニギハヤヒの別名・天照国照彦火明櫛玉饒速日命と櫛と魂(玉)が同じなので、大物主命とニギハヤヒは同一神とする説もあります。

すると神武は物部王朝の娘と結婚したということになります。

そして神武は物部王朝の血はひいていないので、物部王朝の祖神・天照大神の子孫だとはいえません。
そこで妻のヒメタタライスズヒメを天照大神としたのだと思います。
こうすれば、神武の子孫が天照大神(=ヒメタタライスズヒメ)の子孫を名乗っても嘘にはなりません。

しかし、天皇家は神武の血が後世に確実に残るように、天皇を男系に限っています。
女性の天皇もいますが、推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)・明正・後桜町天皇はすべて中継ぎの天皇です。
独身で即位した元正・孝謙(称徳)は結婚もしていません。

⑦神風の伊勢の国は可怜国(うましくに)なり。

10代崇神天皇の代まで天照大神は倭大国魂神とともに宮中において祀られていました。
ところが疫病が流行り、人民の中には朝廷に背くものも現れました。
そのため天皇は2柱の神とともに生活するのが恐ろしくなり、倭大国魂神は渟名川入姫命、天照大神は豊鍬入姫命に託して宮中の外で祀らせました。

豊鍬入姫命が年老いると、かわりに倭姫命が天照大神を祀りました。
倭姫命は天照大神が鎮座するのにふさわしい土地を探して諸国をまわりました。
倭姫命は各地を転々としたが、伊勢にやってきたとき、天照大神が
『この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪(しきなみ)の帰する国なり、 傍国(かたくに)の可怜国(うましくに)なり。この国に居らむとおもう』
と託宣し、天照大神は伊勢神宮に鎮座することになりました。

天照大神は『この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪(しきなみ)の帰する国なり、 傍国(かたくに)の可怜国(うましくに)なり。この国に居らむとおもう』と託宣していますね。
うまし国とはどのような国なのでしょうか。

ニギハヤヒとナガスネヒコの妹・トミヤスヒメの間に生まれたウマシマジノミコトもまた物部氏の祖神だとされています。
『うまし国』とは『物部氏の国』という意味なのかも?

⑧『美しい国』とは『美し(うまし)国』?

安倍家には自分たちはアビヒコの子孫であり、本当の天照大神(男神)の子孫は天皇家ではなく、物部氏や安部氏であると言い伝えられているのではないかと想像します。

安部普三さんのいう『美しい国』とは『美し(うまし)国』という意味ではないでしょうか。

かつて物部氏や安部氏の先祖であるニギハヤヒやナガスネヒコが日本という国を統治していたが、日向からやってきた神武に政権を奪われました。
安部晋三さんは総理大臣となったとき、ニギハヤヒ、ナガスネヒコ以来、およそ2000年ぶりにアビヒコの血をひく自分が日本を統治するのだという感慨にふけったかも~。

安倍晋三さんが90代総理大臣となった翌年の初詣に伊勢神宮を訪れているニュースを見ました。
また安倍晋三さんは第42回先進国首脳会議の開催地にも伊勢志摩を選んでいます。
天照大神が鎮座するうまし国伊勢は安倍晋三さんにとって思い入れのある土地のようです。
それは伊勢に祀られている天照大神が天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)であり、安倍晋三さんの遠い先祖にあたるためではないかと思ったりします。

安倍文殊院 本堂 桜 

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[2017/04/27 09:23] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

帯解寺 桜 『惟喬親王の怨霊封じ込めの地蔵と小町之宮』 

 
奈良市今市町 帯解寺
2017年4月9日 撮影


帯解寺 本堂 桜

①腹帯地蔵

帯解寺の堂内に入ると安産祈願の祈祷が行われている最中で、複数のカップルが地蔵菩薩に手を合わせていました。
ここ帯解寺は安産祈願のお寺として有名なのです。

やがて祈祷が終わると、カップルたちは地蔵菩薩が安置された内陣へと入っていきました。
私と友人も僧侶の方に手招きされて内陣に入りました。
他の参拝者の方々に「随分高齢の妊婦さんだな」と思われたかも?
いや・・・お腹が出てるのは中年太りだからで、安産祈願ではなく単なる参拝でやってきたんですが~(汗)。

帯解寺 桜


帯解寺には次のような伝説がつたえられています。

文徳天皇の御妃・染殿皇后(藤原明子)が永い間お子様にめぐまれず、大変悩んでおられました。
あるとき、春日明神のお告げがあり、勅使をたてて帯解子安地蔵菩薩にお祈りなさいましたところ、まもなく御懐妊なされました。
こうしてお生まれになったのが惟仁(これひと)親王(清和天皇)でした。
文徳天皇はたいへん、お喜びになって858年春、更に伽藍を建立になりました。

帯解地蔵の像高は182.6cm。
左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐しておられました。
腹前に裳の上端の布や結び紐が表されているところから『腹帯地蔵』と呼ばれています。

②同様の伝説が十臨寺・清和院・染殿院にも。

これと同様の話は京都の十輪寺・清和院・染殿院にも伝えられています。
いずれも染殿皇后に安産をもたらしたとされる地蔵菩薩をお祀りしています。

十輪寺 しだれ桜

十輪寺

清和院 

清和院

染殿院  

染殿院

③文徳天皇は惟仁親王(清和天皇)を皇太子にしたくなかった。

藤原明子が惟仁親王(清和天皇)を産んだことを、文徳天皇が喜んだかどうかは微妙です。
というのは、文徳天皇は惟仁親王ではなく、紀静子が産んだ長子の惟喬(これたか)親王を皇太子にしたいと考え、源信に相談しているのです。
源信は藤原明子の父・藤原良房を憚って「それはやめたほうがいい」と諌めたそうです。

平家物語には紀名虎(紀静子の父)と藤原良房(藤原明子の父)が、どちらの孫を立太子させるかでバトルを繰り広げたようすが記されています。
高僧の祈祷合戦や相撲の勝敗などを繰り返した末に藤原良房が勝利したとあります。

実際には紀名虎は惟仁親王が生まれる前に亡くなっているので、平家物語の記述は事実ではありません。
でも紀氏と藤原氏が権力争いをしていたことは事実だと思います。

帯解寺 門 桜


④惟喬親王は怨霊だった。

政治的に不幸だった惟喬親王は惟喬神社や玄武神社・大皇器地祖神社などに御霊として祀られています。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことです。
つまり惟喬親王は怨霊だったということですね。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病の流行や天災などは怨霊のしわざでひきおこされると考えられていました。

玄武神社 やすらい祭2

玄武神社


十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像?

梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊であり、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像である」とおっしゃっています。
聖徳太子が怨霊になったのは、彼の子孫は全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したためであると、梅原さんは説明されてされています。

これと同様、十輪寺・清和院・染殿院・帯解寺の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像ではないでしょうか?

⑥怨霊は祀り上げれば和魂に転じる

陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀ればご利益を与えてくださる和魂に転じると考えるそうです。
すなわち怨霊である惟喬親王を慰霊して、和霊に転じさせたのが、帯解寺や清和院、染殿院などにある地蔵菩薩ではないかと思うのです。

帯解寺 門 桜 
⑦喜撰法師は紀名虎または紀有常。

六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)の一人の喜撰法師は紀名虎または紀有常のことだとわれています。

紀名虎は惟喬親王の外祖父でしたね。
紀有常は紀名虎の息子で惟喬親王の母・紀静子の兄、つまり惟喬親王の叔父にあたる人です。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、その中に遍照在原業平紀有常らの名前があります。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もあります。

⑧六歌仙は怨霊だった。

六歌仙とは古今和歌集仮名序で名前があげられた6人の歌人のことをいい、一般的には歌のうまい6人の歌人のことだと考えられています。

しかし高田祟史さんは「六歌仙は怨霊である」とおっしゃっています。
かつて神と怨霊は同義語だったといわれますが、これと同様、歌仙も怨霊と同義語だったのではないかというのです。

六歌仙のうち遍照・在原業平・紀有常(喜撰法師)らが惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのであれば、それは失敗したと考えられるので(惟喬親王は皇位につくことができず、遍照・在原業平・紀有常らが政権を掌握することもできていないので)、確かに彼らは怨霊だといえるでしょう。

六歌仙の文屋康秀についてですが、文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われます。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となりましたが、死後冤罪であったことがわかりました。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もあります。

大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されています。
大友黒主とは大伴家持のことだと思います。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとしてすでに死亡していたのですが、死体が掘り起こされて流罪とされました。

参照/ 祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 

帯解寺 雪柳


⑨小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないか?

残る.小野小町について、井沢元彦さんは惟喬親王が「小野宮」と呼ばれていたことから、惟喬親王の乳母ではないかと説かれました。
しかし私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王自身のことではないかと考えています。

古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌がたくさんあります。
また、古今和歌集仮名序を書いたとされる紀貫之は「土佐日記」で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いています。

『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいます。
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣=紀静子としています。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことです。

「町」とは紀氏の女性をさしているように思えます。

⑩小町宮

帯解寺には小町宮があります。

日本では神仏は習合して信仰されていました。
帯解寺の腹帯地蔵と小野小町は同体であるので、ここに小町宮が祀られているのではないでしょうか。

帯解寺 小町之宮



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[2017/04/15 00:36] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

東大寺 桜 『母観音と息子観音?』 

奈良市雑司町 東大寺
2017年4月9日 撮影

二月堂 桜 
二月堂

①大観音と小観音

東大寺二月堂の御本尊は大観音と小観音の2体あります。

どちらも絶対秘仏なのでよくわからないのですが、
小観音は7寸ということなので、1寸=約3cmとすると21cmくらいじゃないかと思います。

小観音は扉のない厨子に納められているそうです。
つまり小観音は厨子を壊さない限り厨子の中から出すことはできないということですね。
小観音は扉のない厨子の中に閉じ込められているといってもいいでしょう。

二月堂 桜2  
二月堂

②三室戸寺の「大観音と小観音」

京都の三室戸寺に「二丈の観音と一尺二寸の観音の伝説」が伝えられています。

天智天皇の孫である白壁王(後の光仁天皇)は、右少弁・藤原犬養に毎夜輝いて見える金色の光の正体を確かめるように命じました。
犬養が光を求めて宇治川の支流志津川の上流へやってくると、滝壺の中に身の丈二丈(約6m)ばかりの千手観音像がありました。
犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁が流れてきて、それが一尺二寸(約36㎝)の二臂の観音像に変じました。
その観音像を安置するために寺が創建されました。
その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めました。

三室戸寺 蓮 雨 

三室戸寺

まるで二丈の観音像は母親で、その胎内に収められた一尺二寸の観音は胎児のようです。

③大己貴命&少彦名神

日本では古来より神仏は習合して信仰されてきました。
二月堂の『大観音&小観音』や、三室戸寺の『二丈の観音&一尺二寸の観音』は、日本神話の『大己貴命&少彦名神』と習合されているのではないでしょうか。

東大寺 俊乗堂 桜 
俊乗堂

④似ている『大己貴命&少彦名神』と『イザナギ&イザナミ』


私は『大己貴命と少彦名神』は『イザナギとイザナミ』に似ていると思います。

大己貴命とは大国主の別名で、少彦名神ときょうだいの契りをかわしてともに国造りをしました。

イザナギとイザナミはきょうだいで契り、国産み・神産みを行いました。
ところがイザナミが死んで黄泉の国へ行ってしまい、イザナギはイザナミを迎えに黄泉の国へ行きます。
そしてイザナミにこう言いました。
「愛しい妻よ、戻ってきておくれ。国造りはまだ終わっていない。」

イザナギ・イザナミはきょうだいで契って国づくりをしていますが、おなじように
大己貴命・少彦名神はきょうだいの契りをかわして国づくりをしていますね。

東大寺 お湯屋 桜 
お湯屋

⑤大己貴命は女神だった?

イザナギは男神、イザナミは女神です。
一方、大己貴命と少彦名神はどちらも男神やんって?

私は「大己貴命は女神ではないか」と思うのです。

大己貴命は「おほなむち」と読み、また「大穴持命(おおあなもち)」という別名もあります。
大穴持命って「大きな穴を持つ神」という意味で女神じゃないかと思うんですよ。
大きな穴を持っているのって女性ですよね。

大国主命はヌナカワヒメに妻問いをしており、男神だとも考えられます。
でも、日本の神は性別にルーズで、聖徳太子が女に生まれ変わって親鸞の妻になろうと言ったとか
記紀では男神とされている三輪明神が謡曲三輪では女神として登場したりしています。

ヌナカワヒメに妻問いをした大国主命(大己貴命)は男神ですが
少彦名神ときょうだいの契りをかわした大国主命(大己貴命)は女神ではないでしょうか?

東大寺 大仏殿 桜 

大仏殿(向かって左)


⑤神功皇后と少彦名神


和歌山県加太の淡嶋神社の御祭神は少彦名命・大己貴命・息長足姫命(神功皇后)です。
そして、男びな女びなの始まりは、淡島神社のご祭神の少彦名命と神功皇后の男女一対のご神像であるといわれます。

淡嶋神社 雛人形

淡嶋神社


ですが、普通のお雛様とお内裏様とは異なり、神功皇后は男装をし、少彦名神は赤ん坊の姿をしています。
http://www.geocities.jp/seijiishizawa/NewFiles/hina-okuri.html
↑ こちらのページの一番したに淡嶋神社の御守雛の写真があります。

淡嶋神社の御祭神は少彦名命・大己貴命・息長足姫命なので、大己貴命があまってしまいますね?

私は淡嶋神社の大己貴命は大穴持命で女神であり、息長足姫命と習合されているのではないかと思います。

そして三室戸寺の二丈の観音は母神(女神)で、その胎内に治めらられている一尺二寸の観音は息子神(男神)なのではないでしょうか。

また、二月堂の大観音は母神(女神)、小観音は息子神(男神)ではないかと思います。

二月堂 夜桜 
二月堂

⑥御霊・和霊・荒霊


神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。
 
御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面


そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


聖天さんという像頭・男女双体のみほとけがいます。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!

聖天さんには次のような伝説があります。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
の後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。 

この聖天さんの伝説は、この御霊・和魂・荒魂をあらわしたもののように思えます。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体(聖天)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(ビナヤキャ女神)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(ビナヤキャ)

ビナヤキャとビナヤキャ女神は夫婦ですが、三室戸寺や二月堂の観音様は母と息子のように思えます。
三室戸寺や二月堂は和魂が大きく、荒魂が小さくなっているということではないでしょうか。

三室戸寺や二月堂の小観音は祟りのきつい荒魂であり、そのため小さな姿となり、大きな女神〈母/和魂)とペアにされているのではないでしょうか。


二月堂 裏参道 夜桜 
二月堂裏参道



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[2017/04/12 19:30] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

長岳寺 桜 『長岳寺のそうめんと平城天皇』 

奈良県天理市 長岳寺
2017年4月9日 撮影


長岳寺 桜

①釜の口山

長岳寺は山号を釜の口山と言います。
オモシロイ山号ですね!

宝物として極楽地獄図がありますよ。
http://www.chogakuji.or.jp/bunkazai/zigokue/zigokue.html
↑ こちらのページに説明と絵があります。

十王裁判図、墓地、罪問間樹、死天山、三途の川、奪衣婆、賽の河原、八大地獄、餓鬼道、畜生道、修羅道など
おどろおどろしい地獄の情景が描かれていますが、
同時に阿弥陀如来が大勢の菩薩を引き連れて死者を迎えにくる様も描かれています。

お盆の入りの旧暦7月1日は地獄の釜の蓋が開くとされ『釜蓋朔日(かまぶたついたち)』などと言われます。
『釜の口山』とは『地獄の釜の入り口』という意味なのかも。

長岳寺 花筏

②長岳寺は平城天皇を弔う寺?

平安時代のはじめ、平城天皇という方がおられました。

平城天皇は藤原薬子(藤原縄主の妻)と不倫関係だったとされる人です。
藤原薬子の娘は平城天皇の宮女でした。
宮女とは官女と同義で、宮廷につかえる女性のことですが、薬子の娘は天皇の妾で親子丼であったともいわれています。

病弱だった平城天皇は3年皇位についただけで、さっさと同母弟の嵯峨天皇に譲位して平城京に移り住みました。
810年、平城上皇は藤原薬子や薬子の兄・藤原仲成らにそそのかされて、平城京遷都の詔を出しています。
これに対抗して嵯峨天皇は薬子の官位をはく奪。
すると、平城上皇は挙兵して東国に入ろうとしました。
しかし坂上田村麻呂らに阻止されてあえなく挙兵は失敗。(薬子の変)

藤原仲成は斬殺され、薬子は服毒自殺、平城上皇は空海より灌頂を受けて出家しました。
平城上皇の子・高岳親王は嵯峨天皇の皇太子となっていましたが、廃太子。
かわりに嵯峨天皇・平城上皇の異母弟の淳和天皇が皇太子となっています。

823年淳和天皇が即位した翌年の824年に平城上皇は崩御されました。

長岳寺は824年に淳和天皇の勅命を受けて空海が大和神社の神宮寺として創建したと伝わっていますが
長岳寺は平城上皇の菩提を弔うために創建された寺なのではないでしょうか?

大和神社 桜 
大和神社 桜

③素麺が食べられる寺

今回は時間がなかったのでパスしたんですが、長岳寺の庫裡では素麺をいただくことができますよ。
このあたりは素麺発祥の地ともいわれ、古くから三輪素麺が作られているんですね~。
素麺の値段は今も大神神社の神事によって決められているとか。古風だなあ~。

大神神社  

大神神社

三輪山 日の出 
大神神社 御神体 三輪山

④土用の丑の日に供えられるそうめん

素麺といえば、下鴨神社の御手洗(みたらし)祭で、みたらし団子とともにそうめんが神前にお供えされていたのを思い出します。

参照/枚方市穂谷 コスモス 『そうめんは天の川を模したものだった?』 

しもがもじんじゃ みたらしまつり おそなえ


御手洗祭りは『土用の丑』の行事ですが、『土用の丑』とは何なのでしょうか。

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水とされています。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいます。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。

陰陽五行説には『相生説』と『相克説』があります。

『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説です。

『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説のことです。

『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

『土用の丑』の習慣については、様々な説がありますが、『水剋火』、すなわち夏の火性を冬の水性で緩和しようとするのが『土用の丑』の習慣だと考えてまず間違いないと思います。

みたらし星とは冬の星座であるオリオン座の三ツ星のことです。
オリオン座は冬の星座で、陰陽五行説では水性になります。
このオリオン座の三つ星を模したみたらし団子を食べることで、夏の火性を緩和しようとするのが『みたらし祭』の意味だと思います。

みたらし団子がみたらし星を模したものであるならば、そうめんは天の川を模したものではないでしょうか。

http://ryutao.main.jp/film_fuyuno.html

長岳寺 楼門 桜  

⑤長岳寺で素麺がふるまわれるのはなぜ?


そうめんが天の川を模したものだとするとオモシロイです。
天の川といえば七夕ですよね。
そう、1年に1度旧暦7月7日に牽牛と織姫が天の川にかささぎがかけた橋を渡って逢瀬を楽しむのですね。

現在ではお盆は8月ですが、旧暦では7月でした。
7月1日が地獄の釜が開く日(釜蓋朔日)とされていることは先ほどお話ししたとおりです。

そして私は長岳寺は平城天皇を弔うための寺ではないかと考えているのですが
平城天皇が崩御されたのは-弘仁15年(824年)7月7日で、七夕の日なんですね~。
 
もしかして長岳寺で参拝者にそうめんをふるまっているのは、平城天皇の命日が7月7日で牽牛と織姫が天の川をわたって逢瀬を楽しむ日だということと関係があるかも?

また、7月7日の七夕はお盆の入りの行事なので、釜の口山という山号がつけられたのだったりして?

長岳寺 本堂 桜 

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[2017/04/11 12:20] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥 八釣 蝋梅 『明石に身を隠した兄弟』 

 
奈良県明日香村八釣
2015年2月中旬 撮影


八釣 ろうばい 

八釣 ろうばい

①明石に身を隠していた兄弟


昔、昔の話です。

雄略天皇が従兄弟の市辺押磐皇子を殺してしまったので、市辺押磐皇子の二人の息子、億計王と弘計王は播磨国明石に身をひそめ、牛馬の飼育をして生活していました。

雄略天皇が崩御したのち雄略天皇の子の清寧天皇が即位しましたが、清寧天皇には子供がありませんでした。
そのことで悩んでいたところ、億計王と弘計王が発見されたという報告がありました。
清寧天皇は兄弟を宮中に迎え入れ、億計王を皇太子に、弘計王を皇子としました。

清寧天皇が崩御すると億計王と弘計王は皇位継承を譲り合い、弘計王が顕宗天皇として即位し、兄の億計が皇太子となりました。
3年後に顕宗天皇は崩御し、億計が即位して仁賢天皇となりました。

明石海峡大橋 
明石海峡大橋

②顕宗天皇


この顕宗天皇の近飛鳥八釣宮があったのが、この明日香村八釣のあたりだといわれています。
(近飛鳥八釣宮は大阪府羽曳野市飛鳥という説もあります。)

もっとも顕宗天皇の実在性は疑問視されていますが~。
よくある貴種流離譚であり、あまりにドラマチックな話で実話とは思えないというのです。
確かにそのとおりかもしれません。

八釣 夕日 

2009年5月初旬撮影

③億計王と弘計王は二上山を擬人化したものだった?


八釣の里の高台に登ると二上山が見えます。
ふたつの頂のある二上山は兄弟のようで、億計王と弘計王を思い起させます。

八釣―二上山を結ぶ直線を延長するとちょっとずれますが、明石付近を通ります。
赤い印が二上山、神戸の西に明石の表記がありますね。
八釣は赤印の東南に橿原の文字が見えますが、その橿原の東南あたりです。



赤印(二上山)の東に堺の文字がありますね。
あんまりいい写真じゃないけど、↓ こちらは堺市庁舎展望ロビーより明石海峡大橋を撮影したものです。

堺市庁舎展望ロビーより明石海峡を望む 

二上山の頂上からも明石海峡が見えるそうです。

二上山は八釣から近いですが、雨の日などには見えなくなることもあります。

もしかして、億計王と弘計王の物語はこの二上山を兄弟に見立てて創作した物語だったりして?

明石海峡大橋 ライトアップ 
明石海峡大橋


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[2017/02/25 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

法起寺 水仙と夕景 『偶数が支配する塔』 

奈良県生駒郡斑鳩町 法起寺
2015年2月中旬撮影


法起寺 水仙

塔百景37


①方二間の塔


法起寺の三重塔はほかの三重塔にはない特徴があります。
ちょっと他の搭と見比べてみましょう。

法起寺 ↓

法起寺 夕陽 

室生寺 ↓
室生寺 石楠花3

浄瑠璃寺 ↓

浄瑠璃寺 紅葉 
西明寺↓

西明寺(湖東) 三重塔 紅葉

浅草寺 ↓
 
浅草寺 五重塔 皐月
   
三重塔は方三間(正面から、また側面からみて、柱が4本あるため、柱間が数が3つになる。)が一般的な形です。
浄瑠璃寺や西明寺は方三間になっていますね。
しかし法起寺は初層・二層の柱間が3間、三層の柱間が2間になっているのです。

②方二間の斑鳩の塔群

斑鳩の里には法起寺のほか、法輪寺や法隆寺がありますが、法輪寺の三重塔も初層・二層の柱間が3間、三層の柱間が2間になっています。

↓ 法輪寺

法輪寺 コスモス  

↓ 法隆寺の五重塔も、最上部の五層の柱間が2間になっています。

法隆寺 中門と五重塔 

法起寺・法輪寺・法隆寺はいずれも聖徳太子に関係する寺院です。

③怨霊封じ込めの門

上野法隆寺の写真をよく見てください。
法隆寺の五重塔の手前にあるのは中門ですが、これもとても珍しい形になっています。
一般的な門は奇数間で造られていますが、法隆寺の中門は偶数間で作られているので門の中央に柱があります。
梅原猛さんは「門に柱を建てれば閂であり、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺である。」と説かれました。
法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議①』

聖徳太子は憲法十七条を制定するなど、すばらしい功績を残しましたが、彼の子孫は繁栄しませんでした。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて、全員、斑鳩寺で首を括って自害したとされます。
そのため聖徳太子は怨霊として恐れられたとする説があります。

陰陽道では奇数を陽、偶数を陰としています。
そして鬼(オニ)という言葉は陰陽の陰(オン)が訛ったものだともいわれています。

斑鳩にある法隆寺・法輪寺・法起寺は聖徳太子の怨霊(鬼)が宿る陰の寺であるのかもしれませんね。

法起寺 夕景

④歴史の教科書から聖徳太子の表記が消える

先日、「歴史の教科書から聖徳太子の表記を、厩戸王という表記に改める」という報道がありましたね。

聖徳太子の実績とされる十七条憲法は聖徳太子よりも後の時代に成立したという説が有力ですし
官位十二階は中国や朝鮮半島の制度を取り入れたものと考えられています。

また聖徳太子という表記が用いられるようになったのは、厩戸王没後しばらくたってからだとされます。

そういう理由で聖徳太子から厩戸王という表記に変えるようですね。

厩戸王は怨霊になったと信じられ、怨霊を鎮めるために聖人化されて聖徳太子と呼ばれるようになったのだと思います。

法起寺 月 


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[2017/02/21 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

長谷寺 観音万燈会 『冬至、クリスマス、正月、節分の関係』 


奈良県桜井市 長谷寺


長谷寺 観音万燈会 

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

上の写真は10年以上前のお正月に奈良・長谷寺の観音万燈会を銀塩カメラで撮影したものです。
雨で本堂が煙ってみえるのがきれいでした。

現在、私たちが使っている暦は太陽暦のひとつであるグレゴリオ暦(新暦)ですが、グレゴリオ暦の正月(1年の起点)はどうやって決められているのかなと思って調べてみました。

①冬至は太陽の南中高度が最も低くなる日

太陽の南中高度が最も低くなる日(新暦12月22日)のことを冬至といいます。
古代の中国では冬至を1年の起点としていたようです。
日本にも「冬至正月」という言葉があり、冬至を1年の始点とする考え方がありました。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭 ※一陽来復は冬至のことです。

一言主神社 一陽来復守り

一言主神社 一陽来復守り

②クリスマスの起源はミトラ教の冬至祭だった。

太陽は冬至から3日後の12月25日より再び南中高度をあげていきます。
古代ローマ人が信仰していたミトラ教ではこの12月25日に冬至祭を行っていました。
聖書にはキリストの誕生日についての記述はありません。
クリスマスはミトラ教の冬至祭をキリスト教が取り入れたものだとされています。

なかのしまとしょかん ウォールタペストリー2016③

大阪光のルネサンス

同志社彰栄館  
同志社大学 彰栄館

京都駅ビル クリスマスイルミネーション

京都駅ビル 

③クリスマスはキリストが誕生一週間後に洗礼を受けた日

12月25日から一週間後が新暦の正月ですが、これは12月25日にキリストが生まれて一週間後に洗礼を受けた日なのだそうです。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良) 初福茶


④太陽太陰暦と二十四節気


江戸時代までの日本では太陽太陰暦(旧暦)を用いていました。
旧暦は月の周期をベースにした暦で、月のない夜(朔/新月)を1日、上弦(半月)を7日または8日、満月(望月)を15日としていました。
1か月の周期は29日または30日でした。

太陽太陰暦の1年は29.5日×12か月=354日となり、太陽暦の1年=365日に比べて1年の日数が11日不足しており、3年では約1か月近くもずれることになります。
そこで太陽太陰暦では4年に1度閏月をもうけてずれを解消していました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりにできるため紙が貴重品であった時代には便利なものでしたが、農作業などに不便が生じます。
そこで、太陰暦の他に1太陽年を24に分割した二十四節気という暦を併用していました。
二十四節気の雨水を含む月が太陽太陰暦の1月で、太陽暦とは1か月ほど遅くなります。

延暦寺 追儺式  
延暦寺 追儺式
延暦寺の追儺式は12月31日に行われます。もともと追儺式は節分ではなく大晦日に行われる行事だったとのことです。


⑤節分は二十四節気の大晦日


二十四節気では立春が1年の始まりと考えらえていました。
つまり江戸時代までの日本には正月が2回あったのです。

節分とは「季節の変わり目」を意味し、本来は立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをさしていました。
本来節分は1年に4回あったのです。
しかしいつのまにか節分とは立春の前日をさす言葉となりました。
節分とは二十四節気の大晦日だといえるでしょう。

北野天満宮 節分狂言 鬼

北野天満宮 節分狂言 


石清水八幡宮 追儺式

石清水八幡宮 追儺式

冬至/新暦の12月22日ごろ。太陽の南中高度が最も低くなる日。冬至正月といって冬至を1年の始点とする考え方もあった。
Xmas/新暦の12月25日。ミトラ教で冬至の3日後に行われていた冬至祭をキリスト教がとりいれた。
大晦日/新暦の12月31日。旧暦では12月晦日で新暦より一か月ほど遅くなる。
節分/新暦の2月3日。二十四節気の立春の前日。二十四節気の大晦日。
正月/新暦または旧暦の1月1日。新暦はキリストが生まれて1週間目に洗礼をうけた日。旧暦は二十四節気の雨水を含む月が1月。




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[2017/01/01 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

石光寺 當麻寺 寒牡丹 『二上山と西方浄土』 

奈良県葛城市  石光寺・當麻寺

石光寺 寒牡丹 

 石光寺 ↑ ↓

石光寺 山茶花 

雪がつもるといい写真になると思うんですが、このあたりって滅多に雪が降らないんですよね~。

①中将姫伝説

石光寺や當麻寺には次のような伝説が伝わっています。

奈良時代、藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前の間に娘が誕生し、中将姫と名付けられました。
紫の前は中将姫が5歳のときになくなり、豊成は照夜の前を後妻としました。
照夜の前は中将姫を嫌い、事あるごとに中将姫をいじめました。
中将姫が14歳のとき、父の豊成は諸国巡視の旅に出かけました。
継母の照夜の前は従者に中将姫の殺害を命じました。
しかし従者はかわいそうに思って中将姫を殺すことができず、雲雀山に置き去りにしました。
中将姫は雲雀山で念仏三昧の生活をおくっていましたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻りました。
その後、出家して當麻寺入りました。
26歳のとき、中将姫は蓮の茎から糸をつむぎ、石光寺の庭に井戸を掘って糸を浸したところ五色に染まりました。
中将姫はその蓮糸をつかい、一夜のうちに當麻曼茶羅を織りあげました。
29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かいました。

當麻寺 冬牡丹2 

當麻寺 ↑ ↓


當麻寺 冬牡丹 

②當麻寺や石光寺は二上山のふもとにある。


當麻寺や石光寺は二上山のふもとにあります。
奈良では太陽は三輪山(東)の方角から昇り、二上山(西)の方角に沈みます。

③二上山の彼方に西方浄土がある

西方には阿弥陀如来の住む浄土(極楽)があると信じられていました。
おそらく古の人々は二上山のはるか彼方に西方浄土があると信じていたのでしょう。
阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎したという石光寺や當麻寺の伝説はこうした立地から生じたのではないでしょうか。

二上山 夕景 


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[2016/12/30 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 


龍田川 紅葉3 
龍田川


●現代語訳が難しい業平の龍田川の歌


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

この歌は現代語訳が難しい歌です。
千早という花魁が龍田川という相撲取りを振った、という意味じゃありませんよ~(笑)
(参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A9%E6%8C%AF%E3%82%8B

「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞です。
「神代も聞かず」は「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」は奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川です。
「からくれなゐ」の「から」は「韓の国」や「唐土(もろこし)」を意味します。
当時、韓や唐土の物産は大変高価で価値があるものだったとされます。
今でいうシャネルとかエルメスみたいなブランド品だったということですね。
「くれなゐ」は「紅色」の意味です。
なので「からくれなゐ」は「韓や唐土から日本に持ち込まれたブランド品の衣の紅色」みたいな意味だと思います。

ここまではそんなに難しいところはありませんね。

龍田川 紅葉2

●「水くくる」に二つの解釈


問題は「水くくる」です。
もちろん、千早という花魁が入水したという意味ではありませんよ~。

この「水くくる」には2つの解釈があります。

①水を「括り染め」にした。
「括り染め」とは布にところどころ糸を巻き付けて括ったのち、染色するものです。
糸でくくった部分は染まらないので、それで模様をつくるわけです。

②水を潜った。川を埋め尽くすように散った紅葉の下を水が流れる。

現代語訳は
①の場合、「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
②の場合は「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」
となります。

●藤原高子が春宮の御息所と呼ばれていたときに詠んだ歌

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

古今和歌集はこの歌に次のような詞書をつけています。
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる


この詞書はものすごく重要なことを書いてあると思います。
まるで業平の歌は謎々で、この詞書はその謎々をとくヒントのようです。

一語づつみていきましょう。

「二条の后」とは清和天皇に入内した藤原高子のことです。
「春宮」は「とうぐう」と読み、皇太子を意味します。
「みやす所」はもともとは天皇の休憩所という意味で、ここから天皇に侍る官女や、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す言葉となりました。

藤原高子は清和天皇に入内して女御の位となり、清和天皇にとの間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけています。
この貞明親王が春宮(皇太子)となったので、高子は「春宮のみやす所」と呼ばれたのでしょう。

その藤原高子が在原業平を召したとき、業平は竜田川に紅葉が流れる屏風絵を見てこの歌を詠んだ、というのです。

龍田川 紅葉

●在原業平と藤原高子の駆け落ち

「伊勢物語 芥川」に、高子が清和天皇に入内する以前、業平と高子は駆け落ちをしたと記されています。
(現代語訳はこちらで読めますよ。→http://www.raku-kobun.com/ise6.html

駆け落ちの途中、雷が鳴りだしたので業平は高子を蔵の中にいれます。
ところが蔵には鬼がいて高子は鬼にくわれてしまったと記されていますね。

本当に高子が鬼にくわれてしまったのではなく、高子は兄・藤原基経に連れ戻されたのです。
こうして駆け落ちは失敗に終わりました。

このかつて駆け落ちをした二人が並んで屏風絵を見ているわけです。なんか意味深な感じがしますね。

●業平がその気もないのに高子のもとへ通っていた理由

どうも業平は高子を本気で愛していたので駆け落ちしたというわけではないようです。
というのは、古今和歌集詞書に次のような記述があるのです。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味になります。

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのでしょうか?

百人一首かるた

これはうちにある古い百人一首かるた。私の年より古いです。
子供のころ、お正月によく百人一首かるたをしたり、坊主めくりをしたりして遊びました。


●陽成天皇の父親は在原業平だった?

業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説があります。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともあります。

業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのでは?
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされるはずです。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高いです。

●在原業平の祖父は平城上皇だった。

在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王でした。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れてしまいました。(薬子の変)

●阿保親王、子供(行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許される。

このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となります。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないでしょうか。

●平城上皇の竜田川の歌

龍田川の紅葉について、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいます。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、偶然なのでしょうか。
そうではないと私は思います。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのだと思います。

平城上皇は竜田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないでしょうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思います。

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

業平のこの歌は平城上皇の歌を受けて詠まれたものだと思います。

「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのだと思います。

●陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?


皇太子となった貞明親王は9歳で即位して陽成天皇となります。
そして高子の兄の藤原基経が摂政となりました。

ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたみたいですね。
私がこう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからです。

基経は陽成天皇の叔父です。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すんじゃないでしょうか。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされます。

これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思えます。

そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはありませんでした。
業平の計画は失敗に終わったというわけです。
 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め


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[2016/12/12 17:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

山の辺の道 紅葉 案山子 『案山子はイエス・キリストだった?』 

奈良県天理市 石上神宮 長岳寺
奈良県桜井市 大兵主神社


石上神社 紅葉 
石上神宮(2016年12月上旬 撮影)

●ひらがながなかった時代、案山子はどんな顔をしていたのかな?

雅な京都の紅葉は美しいけれど、山の辺の道の素朴な紅葉風景も京都とは違った魅力にあふれています。

案山子さんに会いました。
ちょっとヘタウマな感じの表情とか、この案山子さんはすごく可愛い。
作られた方はとてもセンスがいいと思います♡

山の辺の道 案山子

石上神社付近の案山子 (2016年12月上旬 撮影)

昔、案山子の顔は「へのへのもへじ」でした。
「へのへのもへじ」の案山子ができたのは平安時代にひらがなが作られて以降だと考えられます。

まだひらがながなかった奈良時代に編纂された古事記・日本書紀に案山子が登場します。
奈良時代の案山子の顔は「へのへのもへじ」ではなかったはずで、どんな顔をしていたのかな、と想像してみるとなんか楽しいです。
案外、この山の辺の道の案山子さんのような顔をしていたのかもしれません。

石上神社付近 紅葉  
石上神宮付近(2016年12月上旬撮影)

●案山子は「嗅がし」?


案山子の語源は「嗅がし」ではないかとする説があります。
かつて鳥獣よけになるとして、獣の肉を焼いたものを串刺しにして立てておくとことがあったそうで、そういうものも「カカシ」と呼ばれているそうです。

本当に焼いた獣の肉の匂いを、鳥獣は嫌って寄りつかないんでしょうか?
かえって猫とか熊とかが寄ってくるんじゃないかと思ったりもするんですが。
焼いた肉を食べるのは人間だけです。動物は焼いた肉を食べる習慣がないので、そういうものの匂いを嫌ったのでしょうか。
御存じの方、おられましたらぜひ教えてください!

長岳寺 紅葉

長岳寺 (2014年11月下旬撮影)

●広島・住吉神社の「焼嗅がし神事」

広島の住吉神社では節分の日に「焼嗅がし神事」を行っているそうです。

千匹の鰯を焼き、その匂いを大うちわであおぐそうです。
http://www.sumiyoshijinja.net/setsubun.html
オモシロそうですね!ぜひ一度行ってみたいです。

節分には玄関に柊鰯を飾る習慣がありますが、鬼は生臭いのが苦手で柊鰯は鬼を退散させる力があるなどと言われます。
鬼も田畑を荒らす鳥獣も同じようなものだということなのでしょう。

●案山子がイエス・キリストに見えちゃう~。


私は案山子を見てると十字架に磔になったイエス・キリストを思い出します。

File:Mantegna, Andrea - crucifixion - Louvre from Predella San Zeno Altarpiece Verona.jpg

磔刑図(アンドレア・マンテーニャ画、1459年)
ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E7%A3%94%E5%88%91#/media/File:Mantegna,_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg)よりお借りしました。

イメージはかなり違いますが、案山子もこんな風に十字架に磔になっているように見えませんか?

●天児人形

市比売神社 天児人形  

上の写真は京都・市比売神社に展示されていた天児(あまがつ)人形です。
平安時代に幼児の傍らにおいていた身代わり人形だそうです。

天児人形の着物を脱がせますと、下の写真のように十字架に似ているというか、十字架そのもののような形になっています。

市比売神社 天児人形2
 
●案山子は田の神

ユーモラスな顔をしていますが、案山子って田の神様なんですよね。
古事記や日本書紀には案山子は「久延毘古(クエビコ)」という名前で登場し「歩くことはできないが、天下のことはなんでも知っている」と記されています。

「クエビコ」という神名は「崩え彦」「体が崩れた男」という意味とされます。

クエヒコは十字架に磔にされて死んでしまい、体が腐って崩れてしまったイエス・キリストの姿だったりして?

鬼たちが焼いた鰯の匂いを嗅いで逃げていくのは、それがイエス・キリストの死体だから?

山の辺の道 紅葉  
長岳寺付近 紅葉 (2014年11月下旬撮影)

●キリスト教は5世紀の日本に伝わっていた?


キリスト教が日本に伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによってとされていますが
5世紀ごろ、秦氏によってネストリウス派キリスト教が伝えられていた、とする説があります。
秦氏の氏寺・広隆寺は太秦寺といいますが、中国ではネストリウス派キリスト教寺院のことを大秦寺といいました。
太秦寺と大秦寺は点があるかないかの違いしかありません。

日本神道は秦氏によって伝えられたキリスト教をベースに成立したものだったりして?

大兵主神社 紅葉 
大兵主神社(2014年11月下旬撮影)




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[2016/12/11 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議 雀が糞をしない』 

奈良県斑鳩町 法隆寺
 
法隆寺 西院伽藍 夕日

法隆寺西院伽藍 

上宮王家断絶

601年、聖徳太子は斑鳩宮を建て、その宮の近くに法隆寺を創建したと伝えられています。
622年に聖徳太子が死亡したのち、蘇我蝦夷・入鹿親子が政治の実権を握るようになります。
643年、蘇我入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連、大伴長徳らに命じて聖徳太子の長子・斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させました。
山背大兄王は一族と家臣をひきつれて生駒山に逃亡します。
山背大兄王の寵臣・三輪文屋君は、『東国に逃れて再起を期し、入鹿を討ちましょう。』と進言しました。
しかし、山背大兄王は次のように発言して斑鳩寺に戻り、一族もろとも首をくくって自害したのです。
『兵を起こせば入鹿に勝てるだろう。しかし、私ひとりのために多くの百姓を犠牲にしたくはない。私の命など入鹿にくれてやろう。』
こうして上宮王家は断絶しました。

●法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』

梅原猛さんは聖徳太子は怨霊で、法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』ではないか、と説かれました。
なぜ聖徳太子が怨霊になったのかというと、彼の子孫が断絶したためだというのです。

●聖徳太子は祀るべき子孫が断絶して怨霊になった?

井沢元彦さんは次のような内容のことをおっしゃっていました。
先祖の霊は子孫が祀るべきとされているのに聖徳太子の子孫は断絶してしまい祀る人がいなくなってしまった。
それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと。

『聖徳太子は怨霊になった』と書きましたが、もちろん本当に聖徳太子が怨霊になったというわけではありません。
昔の人々が『聖徳太子は怨霊になった』と考えたということです。

法隆寺 中門と五重塔   
●閂がかけられた法隆寺中門

上の写真は法隆寺の中門と五重塔です。
法隆寺の中門は、中央に柱があるという珍しい造りになっています。
(一般的な門は中央に柱があるという造りにはなっていません。)

梅原さんは『門に棒を建てると閂になる』として聖徳太子の怨霊が外に出ないようにする呪術的な装置ではないかと説かれました。

 法隆寺 夢殿
夢殿

フランケンシュタインのようだった救世観音

法隆寺の・殿の扉をあけると大地震がおこると言い伝えられ、夢殿のとびらは長年鍵がかけられたままの状態になっていました。
明治時代、アメリカの東洋美術史家であるフェノロサによって夢殿は開扉されました。
夢殿の中にはフランケンシュタインのように包帯状の布でぐるぐる巻きにされた仏像が安置されていました。
『聖徳太子等身大の像』と伝わる救世観音です。
救世観音の光背は頭に直接釘で打ち付けられていました。

光背は仏の足元に棒を立ててその棒にとりつけるのが一般的で、救世観音のような様式は珍しいのです。
これについても梅原氏は怨霊封じ込めの呪術であろう、と説かれました。
法隆寺金堂の四天王像も光背が頭に直接釘でとりつけられています。

●法隆寺七不思議

法隆寺には七つの不思議があるとされ「法隆寺七不思議」といわれています。

①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。


●雀は蘇我馬子をあらわしている?

⑥に『雀が糞をしない』とありますが、雀といえば蘇我入鹿の祖父の蘇我馬子を思い出します。

敏達天皇の殯宮で馬子が長い刀を帯びて誄言を奉っていたところ、物部守屋が 『大きな矢で射られた雀のようだ』と嘲り笑ったという話があるのです。
馬子は小柄だったのかもしれませんね。

『雀』とは蘇我氏一族の霊を象徴するものであると考えられたのではないでしょうか。
すると、『雀が糞をしない』というのは、雀は蘇我氏一族の霊で、聖徳太子およびその一族に対して負い目があるため糞をしない、という意味なのかも?

  法隆寺 夕景 

塔百景35



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[2016/12/10 01:51] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛城一言主神社 イチョウ 黄葉 『イチョウは一陽の木?』 


奈良県御所市 
一言主神社
2007年11月24日 撮影

一言主神社 公孫樹2 

●樹齢1200年のイチョウの御神木


一言主神社には樹齢1200年と伝えられる御神木のイチョウの木があります。
2007年11月に撮影しました。

2012年、このイチョウの木は根元が腐朽し倒壊の危険があるとして主幹や枝が切られてしまいました。
なので現在はこのような景観ではないと思います。

一言主神社 公孫樹  
●一陽来復(冬至)

境内には『一陽来復守り』と記された幟が掲げられていました。
一陽来復とは日照時間がだんだん短くなり、衰えていった太陽が、冬至を起点に再び日照時間が長くなり勢いを増していくことを言います。
また、ここから転じて悪いことが続いたあとで幸運に向かうことをも意味しています。

おそらく陰陽思想からくる言葉なのでしょう。
というか、このような太陽の動きから陰陽思想は生まれたのではないかと思ったりもします。

一言主神社 一陽来復祭-階段

●南天は難転を意味する。

一言主神社では冬至の日から節分の日まで『一陽来復守り』を授与しています。

去年の冬至の日に一言主神社をお参りして『一陽来復守り』を求めました。
白い和紙を鬼の顔のような形に折った袋を透かしてみると、中に南天の実と葉が入っているようです。
(糊つけしてあるので、開封していない)
袋には墨で『一陽来復 難転魔滅』と書いてあります。

なぜ袋の中に南天の実と葉が入っているのかといえば、南天の音が難転に通じるからなんですね。

一言主神社 一陽来復守り 

●イチョウは一陽、太陽の木?


それで閃いたんですが、イチョウは一陽を意味しているのではないでしょうか。

一陽とは太陽のことでしょう。
昔の人々はイチョウは太陽の木だと考えたのではないでしょうか。

●太陽は黄色

現在では太陽は赤で描かれることが多いですが、確かキトラ古墳の太陽金色で描かれていたと思います。
また外国では太陽は黄色で描かれることが多いそうです。
星の色は温度で決まりますが 宇宙情報センター  ←こちらのサイトの図に示されているように太陽の色は本来は黄色なのです。

一言主神社 一陽来復祭

冬至の日に行われる一言主神社の一陽来復祭

●イチョウは冬至に向かって衰えていく太陽を表す木

つまり、イチョウの黄色い葉は太陽の光に見立てられているのだと思います。
そして11月中旬ごろより徐々に散り始める様を、太陽が衰えていく様子に喩えたのだと思います。
最も太陽の光が衰える冬至のころにはイチョウの黄色い葉はすっかり落葉してしまっているというわけです。

昔の人々の自然観察能力はなんて鋭かったのでしょうか。

●一言主大神は冬至に向かって衰えていく太陽を神格化した神?


一言主神社は葛城山の東の中複にあって日の出を拝むのに最適な場所にあります。
一言主神社の御祭神・一言主大神は冬至に向かって衰えいく太陽を神格化した神なのではないかと思います。


一言主神社 公孫樹3  



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[2016/12/01 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

聖林寺 紅葉 『賽の河原伝説のルーツは鎌足の子・定慧だった?』 

奈良県桜井市 聖林寺・談山神社
撮影 聖林寺・・・2010年11月27日 談山神社・・・10年以上前(フィルム)
  
聖林寺 紅葉 
聖林寺

●聖林寺

前回、談山神社についてお話しましたが、談山神社から近鉄桜井駅方面に向かって山をおりていくと途中に聖林寺があります。

聖林寺は国宝に指定されている天平時代の十一面観音があることで有名です。
この十一面観音はもともとは大神神社の神宮寺・大御輪寺にあったのですが、幕末ごろ、神仏分離令によって聖林寺に移されたのです。
とても美しい観音さまです。

画像はこちら ↓
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eleven-faced_Kannon_Shorinji.JPG?uselang=ja 

●幽霊が建てた寺

今日はこの十一面観音の話ではなく、聖林寺のご本尊・地蔵菩薩像についてのお話です。

聖林寺の本堂に入ると、目の前に巨大な石の地蔵菩薩像の姿が飛び込んできます。
この地蔵菩薩像が聖林寺のご本尊です。

画像はこちら ↓
http://www.shorinji-temple.jp/about/about03.html

聖林寺は妙楽寺(現在の談山神社)の別院で、712年に中臣鎌足の長子・定慧が創建したと伝わっています。

前回、定慧の生没年は643年~666年であるとお話しました。
談山神社の十三重塔と同じく、聖林寺も定慧の幽霊によって創建された寺だということになります。

●他にもある定慧の幽霊が創建した寺

『六地蔵めぐり』で有名な京都の大善寺も定慧によって創建されたと伝わっています。
創建年は705年でやはり、定慧の幽霊が創建したお寺です。

大善寺  

大善寺

なぜ定慧は死後に多くの寺を創建したとされているのでしょうか。

●賽の河原伝説


こんな話を聞いたことがあります。

親より先になくなった子供が親の供養のために賽の河原で石を積んで塔を作っていると、鬼がやってきて石積みの塔を壊してしまいますが、お地蔵様が救ってくださいます。

鬼来迎 子供の亡者を救う地蔵菩薩
 
千葉県山武郡 広済寺 鬼来迎 地蔵菩薩が子供の亡者を鬼から救う場面


定慧の生没年は643年~666年、定慧の父親の鎌足の生没年は614年~669年でしたね。
定慧は父親の鎌足よりも先に亡くなった子供だったのです。

古の人々は「定慧は賽の河原で父・鎌足のために供養塔をつくった」と考えたのではないでしょうか。
供養塔は鬼に壊されかけたけれど、地蔵菩薩が救ってくれたおかげで無事完成した。
それが談山神社の十三重塔だと。

賽の河原で子供が作る塔は石の塔ですが、談山神社の十三重塔は木造です。
しかし十三重塔は石で作ったものが多いです。聖林寺にも石の十三重塔がありました。

談山神社 紅葉5


そして定慧が創建したと伝わる聖林寺や大善寺では地蔵菩薩を御本尊としています。

賽の河原伝説のルーツはもしかしたら定慧なのかもしれませんね。





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[2016/11/20 12:23] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

談山神社 紅葉 『幽霊が建てた塔』 


奈良県桜井市 談山神社
撮影日 2010年11月27日
 

 
談山神社 紅葉2

塔百景32

●定慧の幽霊が塔を建てた?

談山神社の十三重塔は678年に亡き父鎌足のために鎌足の二人の息子、長男・定慧(じょうえ)と次男・不比等が建立したものとされます。
(現存の十三重塔は1532年に再建されたもの)

ここで鎌足・定慧・不比等の生没年を見てみましょう。
鎌足・・・・614年~669年
定慧・・・・643年~666年
不比等・・・659年〜720年

「えっ?」と思われましたか。
そう、鎌足の長男の定慧は、鎌足より先に23歳の若さでなくなっているのです。
つまり談山神社の十三重塔は定慧の幽霊と不比等が建てたものだということになります。

653年、定慧はわずか10歳で出家して遣唐使として入唐しています。
ようやく日本に帰ってきたのは12年後の665年のことでした。
ところが、帰国後わずか3ヶ月で死亡してしまったのです。
暗殺されたという説もあります。

 もちろん幽霊には塔は建てられません。
実際に十三重塔を建てたのは不比等で、兄の定慧とともに建てたということにしたのでしょう。

談山神社 鎌足像 

中臣鎌足神像

●藤原不比等は天智天皇の後胤だった?

鎌足の次男、藤原不比等は天智天皇の後胤であるとする説があります。

正史は不比等の母を車持与志古娘(よしこのいらつめ)としていますが、『興福寺縁起』は不比等の母を鏡王女としています。
鏡王女は始め天智天皇の妻だったのですが、のちに天智から鎌足に正妻として譲られています。
このとき、すでに鏡王女が天智の子を身籠っていた、それが不比等ではないか、というのですね。

談山神社 紅葉4 
●定慧は孝徳天皇の後胤だった?


また定慧は孝徳天皇の後胤であるという説があります。
鎌足は孝徳天皇の后であった女性を妻として与えられています。
そのとき、その女性は孝徳天皇の子を身籠っていたのではないかというのです。

鎌足は自分の子ではない二人の息子を育てていたのでしょうか?

談山神社 紅葉3 

●先祖の霊は子孫が祭祀するべき


私は定慧は鎌足の本当の子供だと思います。
なぜそう思うのかというと、すでに死んでいたはずの定慧が鎌足のために十三重塔を建てたとされているからです。

大物主(大神神社の御祭神)の霊を大物主の子の大田多根子が祭祀したところ、大物主の祟りが収まったという記述が記紀にあるように

日本では先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべきと考えられていました。

不比等は自分は天智天皇の後胤なので鎌足を祭祀するのにふさわしくないと考え、
すでに死亡してこの世になかった定慧と協力して十三重塔を建てたということにしたのではないでしょうか。

談山神社 紅葉 



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[2016/11/19 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

壺阪寺 紅葉 

奈良県高市郡 壺阪寺
2009年11月10日 撮影


今日から数日でかけます。
いただいたメールの返事は帰宅後必ずしますので、よろしくお願いします。

壺阪寺 紅葉  

●壷阪寺は持統天皇を弔うための寺?

壺阪寺の創建は703年ですが、この前年、持統天皇が崩御されています。
なので壺阪寺は持統天皇を弔うための寺ではないかと私は考えています。

壺阪寺 紅葉3

 ●持統天皇は数字の8にこだわりがあった?

仁王門に立つと山の中腹に八角円堂が見えます。
そういえば、飛鳥にある天武・持統陵〈野口王墓〉も八角墳です。
どうやら持統天皇は数字の8にこだわりがあった人のようです。



↑ 天武・持統陵(野口王墓)少し崩れていますがなんとなく八角形なのがわかりますね。

●8は復活を意味する数字?

梅原猛さんは数字の8は復活を意味する数字ではないかとおっしゃっています。
八角墳や八角円堂は死者の復活を祈って作られたものではないかというのですね。

確かにそう考えると辻褄のあう言葉がたくさんあります。
八咫鏡は天照大神を復活させた鏡。
八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多いです。
すなわち八咫烏とは復活した太陽神というわけです。

持統天皇は死後の復活を強く願った人だった人だったのかも。

●大津皇子の謀反は持統天皇の陰謀だった?

鸕野讚良(うののさらら/のちの持統天皇)は天智天皇の皇女で、同母姉に大田皇女がいます。
鸕野讚良と大田皇女はともに叔父の天武天皇に嫁し、鸕野讚良は草壁皇子を、大田皇女は大津皇子をもうけました。

686年、大津皇子は謀反を企てたとして死を賜り、自害しました。
この事件は、草壁皇子を皇位につけるために持統天皇が仕組んだのではないか、という説が有力です。

壺阪寺 鬼瓦 

●即位することなく、薨去した草壁皇子


686年、天武天皇が崩御しましたが、草壁皇子がただちに即位することはありませんでした。
そして即位しないまま、689年に草壁皇子は薨去してしまったのです。
690年、鸕野讚良は草壁皇子の子の文武天皇を即位させるために、中継ぎの天皇としては自ら即位しました。(持統天皇)
そして697年に文武天皇に譲位しました。

「なにがなんでも自分の血をひく者に皇位を継承させるのだ!」という持統天皇の執念を感じます。

不老長寿とは、実は子孫繁栄のことなのだと聞いたことがあります。
子孫繁栄は自分自身の魂の復活であるともいえるのではないでしょうか。

それで持統天皇の墓は八角墳で、壺阪寺のお堂は八角形なのかも?

●火葬されたわが身を嘆く歌


持統天皇は皇族で初めて火葬された人物です。

春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)


持統天皇が詠んだこの有名な歌は、持統天皇の霊が火葬されたわが身を嘆く歌だと思います。
なんでかって?

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。

「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味、「夏」は「五行説の火」を表しているのだと思います。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことでしょう。

歌の意味はこういうことだと思います。↓

「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている衣をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」

壺阪寺 天竺渡来大石堂

●持統天皇が詠むにふさわしい歌を持統天皇御作とした?


もちろん、死んだ人が歌を詠むことはできません。
この歌は別の人が詠み、持統天皇が詠むにふさわしい歌ということで持統天皇御作とされているのでしょう。
昔は著作権という考え方はなかったので~。

天智天皇の「「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌も、万葉集にある詠み人知らずの歌「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないのですが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。

●長くは続かなかった天皇の火葬

持統天皇が火葬されたのち、文武、元明、元正と火葬が続きましたが、次代の聖武天皇以降土葬に戻っています。

持統・文武・元明・元正が火葬されたのは、彼らが仏教徒であり、釈迦が荼毘に付されたことをうけてのことでしょうが
聖武天皇は熱心な仏教徒であったにもかかわらず、土葬されています。

かつて即身仏になるべく入定した人が大勢いましたが、彼らの目的は56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるとき、その聖業に参加するためだったといわれます。
おそらく、人間が復活するためには魂の容れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。
それで聖武天皇は「朕は火葬は嫌じゃ―!」と言ったのかもしれません。

●途絶えてしまった天武系天皇の血筋


ところが聖武天皇の皇子は夭逝してしまい、やむなく聖武天皇の皇女が譲位を受けて即位したのですが(孝謙天皇)
独身で即位した女性天皇の結婚は許されていなかったようで、孝謙天皇は生涯独身でした。
そのため跡継ぎができず、聖武天皇の血筋は絶えてしまいました。

これはすなわち、持統天皇の血筋が絶えたということですが
日本社会は男系の血筋を重んじるので、持統天皇の夫・天武天皇の血筋が絶えたといったほうがいいかもしれません。

●持統天皇を火葬にしたのは藤原氏の策略だった?

持統・文武・元明・元正天皇らは火葬されたのは藤原氏の策略ではないか、と私は考えています。
藤原不比等は天智天皇の後胤であると記された文献が残されており、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたと思うんです。
それで、称徳天皇(孝謙天皇と同一人物。重祚して称徳天皇となりました。)が崩御して天武系天皇の血筋がたえてしまったあと、藤原百川・藤原永手らは天智天皇の孫にあたる光仁天皇をたてたのではないでしょうか。
平城京から平安京に遷都したのも、天武系天皇の都である平城京を捨てたかったのではないかと思います。

持統天皇が崩御されたころ、権力を持っていたのは、藤原氏の祖・藤原不比等です。
不比等は「お釈迦さまも火葬されたのですから、天皇も火葬にするべきですよ~」などと主張したのではないでしょうか。
でも不比等は復活するためには魂の容れ物である肉体が必要だと考えていたと思います。
つまり、不比等は天武系天皇の血筋を絶やすための呪術として、持統天皇を火葬させるように働きかけたのではないかと思うのです。
 
壺阪寺 紅葉2


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[2016/11/12 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

平城京跡 朱雀門 すすき 夕景 『聖武天皇はなぜ遷都をくりかえしたのか』 

奈良市 平城宮跡
2014年11月3日撮影


 朱雀門 薄 夕景
●聖武天皇、遷都を繰り返す。


740年、九州で藤原広嗣の乱がおこり、これを平定したのち、聖武天皇は平城京から恭仁京(現在の京都府木津川市加茂)に遷都しました。
さらに743年には紫香楽宮に離宮を造営し、この地に盧舎那仏を造営することを発願されました。
そのためまだ工事中であった恭仁宮の造営が中止となり、紫香楽宮の造営が始まりました。
744年11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられ、745年1月には甲賀宮が都とされました。
ところが、同年5月には再び平城京へ戻っています。
甲賀寺の盧舎那仏造営計画は、場所を東大寺に移されることになります。

こんなに頻繁に遷都を繰り返していたら財政難となることは必至で、人民も工事に駆り出されたり、多額の税金が徴収されたりして大変だったのではないでしょうか。

朱雀門 夕景 
●聖武天皇は壬申の乱の大海人皇子ルートをたどった?

なぜ聖武天皇はこんなにも頻繁に都遷を繰り返したのでしょうか。
諸説ありますが、壬申の乱の際に大海人皇子が進んだルートと同じルートを聖武天皇は進んだという説があります。

●斉明天皇、神功皇后と同じルートをたどる。


斉明天皇が神宮皇后と同じルートをたどって九州へ向かい、新羅との戦いに備えたということもありました。
神宮皇后は三韓征伐して帰国したのに対し、斉明天皇は遠征軍が朝鮮へ向かう前に九州で崩御してしまったのですが。

朱雀門 薄 夕景2


●斉明天皇は神功皇后の生まれ変わり?

直木孝次郎さんは、神功皇后の三韓征伐の説話は斉明天皇をモデルに創作されたものではないかとしておられるそうです。

そういう可能性もあるとは思いますが、斉明天皇は神宮皇后の生まれ変わりであると、自分自身で考えていた可能性もあるのではないでしょうか。

●繰り返される神話

記紀神話では異なる神が同じようなことをするという話がいくつもあります。
イザナミが「死んだ自分の姿を決してみないでください」と言ったのにイザナギ我慢できずに見てしまい、二神は決別してしまいます。
豊玉姫が「出産する自分の姿を決してみないでください」と言ったのにホヲリは我慢できずに見てしまい、やはり二神は決別しています。

豊玉姫はイザナミの生まれ変わり、ホヲリがイザナギの生まれ変わりだと考えられた結果、同じような話が創作されたのだと思います。

とすれば斉明天皇や聖武天皇が、「自分は神宮皇后の生まれ変わり」「大海人皇子の生まれ変わり」と考えていたとしてもおかしくはありません。
朱雀門 薄 夕景3 


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[2016/11/04 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛火野 夕景 『飛火野とのろし』※追記あり 


奈良市春日野町 飛火野
2009年10月11日 撮影


飛火野 鹿 
●冬毛の鹿

春日大社の西に飛火野と呼ばれる草原があり、鹿が群れ遊ぶ姿が見られます。
もうすっかり冬毛にかわり、角も切られていました。
(10月初めごろ、鹿の角切と呼ばれる行事で鹿の角が切られます。放っておいても自然に取れるそうです。)

ちなみに下の写真は夏毛の鹿です。

大仏殿 鹿のカップル 
●烽火をあげた野?

奈良時代ここで烽(とぶひ)を上げたところから飛火野と呼ばれるようになったといわれています。

烽とは烽火(のろし)のことです。
通信が発達していなかった古代において、烽はスピーディな伝達手段として用いられていたのですね。

烽火の記録

663年、河内国高安に烽火台が設置されています。
710年の平城遷都に伴い、712年には河内国高安烽は廃止となり、高見烽および春日烽が置かれています。

740年の藤原広嗣の乱では、藤原広嗣が軍を招集するために九州で烽火をあげています。

高見烽は生駒山に設けられました。
そして春日烽があったのが飛火野だといわれています。

●のろしを狼煙と書く理由

のろしは烽火のほか、狼煙とも書きます。
狼煙をあげる際には、まず燃えやすい藁を敷き、その上に杉の生葉を厚く重ねます。
杉の生葉は煙を大量に発生させます。
そしてそのうえに狼の糞を置き、下の藁の部分に点火したそうです。

のろしを狼煙と書くのはそのためだったんですね。

狼の糞を用いるのは、狼の糞を用いると煙がまっすぐあがったからだといいます。
肉食の狼の排泄物には動物性たんぱく質の残滓がふくまれているなどともいいます。
本当かな?

※追記
上で説明した狼煙は戦国時代の狼煙のようです。
奈良時代の烽は40里(約22km)ごとに置き、昼は煙をあげ、夜は火を燃やしたそうです。
烽は乾燥させた葦を芯にして乾草で節をしばり、周囲に松明を挟んでいたのだとか。
うーん、ちょっとイメージできない(汗)
煙をあげるときにはヨモギ、わら、生柴をまぜていたとありますから
「乾草で節をしばり、周囲に松明を挟む」というのは夜に用いた烽のことでしょうか?


●狼煙は緑の山をバックにすると映える?

平城京は奈良時代に天皇が住まわれていた場所なので、ここから高見烽や春日烽が見える必要があったと思います。
平城京跡から生駒山はよく見えるので、生駒にあったという高見烽は烽火を設置するのに最適な場所だったと思われます。
でも、飛火野は低い土地にあるので、こんなところで烽火をあげても、平城京から見えなかったのではないか。
春日烽があったのは飛火野ではないのでは。そう私は考えていました。

でも、↓ この動画を見て、考えが変わりました。



ユーチューブのにいがた狼煙プロジェクトの動画をお借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

のろしを烽火と書くと、火がぼうぼうと燃えるイメージですが、実際には護摩のようにもくもくと煙が立ち上るんですね。

動画の1:24くらいのところで「松竹山」と文字が出、山の中腹に白い煙が立ち上っているのが山の緑にはえてくっきりと見えます。
さらに1:34くらいのところで三根山藩庁の文字が出ます。
かなり低いところで狼煙をたいているようですが、煙はかなりの高さにまで昇っています。
2:04くらいのところで天神山の文字が出ます。
天神山の狼煙はかなり山の高いところであげられていて、曇り空の精か、煙がわかりにくいように思えます。
狼煙は背景に山があるほうがくっきりと見え、ぎゃくに山頂などで背景が空だとわかりづらいのかもしれません。

●飛火野であげた烽は平城京から見えた?


平城京跡下記地図西に平城宮跡とありますが、その周囲の緑色の部分が平城京跡です。
東のほうに東大寺二月堂の文字があり、さらに東に若草山があります。
若草山の南には春日大社がありますが、この春日大社のやや西に飛火野はあります。



平城京跡・若草山・飛火野の位置関係を抑えた上で、下の写真を見てほしいのですが

若草山山焼き 平城京より 
平城京跡から若草山山焼きを望んだ写真です。
手前に写っている建物は朱雀門で、平城京跡の南にあります。

上の地図と照らし合わせてみると、若草山の真下あたりに東大寺二月堂がくると思います。
飛火野は東大寺二月堂の南、ちょうど朱雀門の裏側あたりでしょうか。

上の写真は夜撮影したので山の稜線がわかりにくいので、動画をお借りしました。動画主さん、ありがとうございます。



上の動画を見るとわかるように、若草山の南側(動画向かって右)もずっと山が続いています。
なので、飛火野で烽火をあげたとすれば、平城京から山の緑を背景としてくっきり見えたことでしょう。

●夜間、飛火野の烽は平城京から見えたか?

問題は夜です。夜は煙が見えにくかったことでしょう。
そのため、夜間には煙ではなく、火をあげていたようです。

飛火野で夜火をあげたとして、その炎はどのくらいまであがったでしょうか?
果たして平城京から炎は見えたでしょうか?

●本当に飛火野で烽(とぶひ)をあげていたか?

奈良時代、ここで烽(とぶひ)をあげたところから、飛火野と呼ばれるようになったといわれていますが、
本当に飛火野で烽をあげていたのでしょうか?
私はやっぱり飛火野では烽をあげてはいなかったと思います。

烽を上げる目的は先にも書いたとおり、スピーディな伝達でした。
スピーディな伝達のためには他の場所に設けられた烽を見ることができ、すみやかに烽をあげることができなければなりません。
ですが、飛火野は低い土地にあるので、見晴らしがよくないのです。
高見烽があったという生駒山もここからは見えません。

もしかしたら生い茂った木を伐採するか、高い建物をつくれば見えるかもしれませんが。

かつては春日山・高円山などを含む広い地域を春日と言っていたそうです。
ヒ大倭国春日烽は現在の飛火野ではなく、春日山・御蓋山・高円山などに置かれていたのではないでしょうか。

●飛火野は葬送の地だった?

烽が置かれていなかったのであれば、飛火野という地名の由来は何なのでしょうか。

『野』とは葬送の地を意味しているのではないかとする説があります。
そういわれてみれば京都の葬送の地は鳥辺野、蓮台野、化野などのように『野』」が用いられています。
高野山が、野原ではないにもかかわらず『高野』と呼ばれるのは、葬送の地であったからだと聞いたこともあります。
そういえば高野山の奥の院にはおびただしい数の墓がありますね。

そして飛火野にはちょっとわかりにくいのですが、15基もの古墳があり、春日野古墓と呼ばれています。
飛火野は葬送の地だったのです。
飛火野とは火が飛ぶ野、人魂が飛ぶ野という意味だったりして~。




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[2016/11/03 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

金剛寺 菊薬師 『井上内親王が高齢出産した男児の正体とは』 


金剛寺・・・奈良県五條市野原西3-2-14
菊薬師・・・10月25日~11月10日

金剛寺 菊 

金剛寺 菊

●井上内親王、光仁天皇を呪詛する?

井上内親王は奈良時代の人物で光仁天皇の皇后でした。
そして井上内親王が産んだ他戸親王は光仁天皇の皇太子にたてられていました。

ところが772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪されてしまうのです。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わっ高野新笠を母に持つ山部王(のちの桓武天皇)が立太子しました。
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、に幽閉され、775年に二人は幽閉先で逝去しました。

金剛寺 菊2 

金剛寺 菊

●藤原氏の陰謀?

いやー、この事件って本当におかしいですよね。
井上内親王は光仁天皇の皇后という安泰な立場でありながら、なぜわざわざ夫の光仁天皇を呪詛する必要があったのかなあと思ってしまう。
そういうわけで、井上内親王が光仁天皇を呪詛したというのはでっちあげで山部王を皇太子につけたいと考えていた藤原百川らの陰謀とする説が有力です。

金剛寺 菊3 

金剛寺 菊

●井上内親王、怨霊になる。

その後、井上内親王は怨霊になったと考えられ、『本朝皇胤紹運録』には『二人は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。』とあります。
また『愚管抄』には『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されていますし、『水鏡』には次のようにあります。
『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。
12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。
また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』

井上内親王陵 
井上内親王陵

●井上内親王ゆかりの地・五條


井上内親王と他戸親王が幽閉されたのは奈良県五條市須恵付近(五条駅南側)でした。
須恵付近はかつて下馬町と呼ばれていて、ここを下馬せずに通行すると井上内親王の祟りで落馬すると言い伝えられていました。

また井上内親王は奈良から流される時、産屋峰(今の奈良カントリークラブ五条コースの辺り)で男児を出産したという伝説があります。
このとき井上内親王は56歳です。これが本当なら随分と高齢出産だったわけです。
井上内親王が産屋峰で産んだ男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となった いわれます。

その他、五條市には井上内親王陵・他戸親王陵もありますし、産屋峰で出産した若宮を祀る若宮火雷神社(わかみやほのいかずちじんじゃ)もあります。

790年には井上内親王や早良親王を祀る御霊神社(御霊本宮)が、800年には霊安寺(現存せず)が創建されています。
その後、御霊本宮から分祀され、現在五條市内には23もの御霊神社があるそうです。
よほど井上内親王の怨霊は恐れられたでしょう。

御霊神社(奈良県五條市) 木漏れ日 
御霊神社(五條市霊安寺町)


●井上内親王を祀る金剛寺

五條市内にある23の御霊神社のうちのひとつが、金剛寺のすぐ近くにありました。(写真はありません。すいません。)
そして金剛寺はその御霊神社の宮寺(神社を管理するために置かれた寺)でした。

金剛寺の本堂には、御本尊の薬師如来の他、日光菩薩・月光菩薩・十二神将などが祀られていました。
あと、阿弥陀如来があって節分の日に開帳されるそうです。

観音堂の仏壇には円形の鏡が置いてあり、その後ろに小さな2体の観音像が安置されていました。 
明治初期の神仏分離令の際に、天満宮・御霊宮にあった十一面観音、准胝観音がここ金剛寺に移されたのだそうです。
鏡は神仏習合の名残なのでしょう。(神社にはたいてい鏡がかけてありますね)

お寺の方に、准胝観音は井上内親王と他戸親王、十一面観音は菅原道真だと説明を受けました。

●本地垂迹説

日本では古くから神仏は習合されて信仰されていましたが、そのベースとなったのが本地垂迹説という考え方です。
本地垂迹説とは、日本古来の神々(天照大神・菅原道真・井上内親王など)は仏教のみほとけが仮に衆上を救うために仮に姿を著したものであるとする考え方のことです。
そして日本古来の神々のことを権現、仏教のみほとけのことを本地仏といいました。

北野天満宮の西隣にある東向天満宮には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられています。
天満宮とは菅原道真のことです。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真のもともとの正体である十一面観音をお祀りしています」というような意味なんですね。

准胝観音は井上内親王・他戸親王の本地仏なのでしょう。

●雷神になった井上内親王の子と菅原道真の関係

金剛寺は井上内親王と他戸親王を祀る御霊神社の宮寺なので、井上内親王と他戸親王を祀る准胝観音を祀っているのはわかります。
だけどなぜ井上内親王とは関係がなさそうな菅原道真の本地仏である十一面観音を祀っているのでしょうか?

井上内親王が産屋峰で産んだ男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となった という話を思い出してください。

この天満宮にあったとされる十一面観音はもともとは菅原道真ではなく、井上内親王が産んでのちに雷神となった男児ではないでしょうか?

●北野天満宮にはもともと火雷神が祀られていた。

『水鏡』には『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。』とあり、777年の干ばつは井上内親王の怨霊の仕業だと考えられたことがわかります。

菅原道真の生没年は845年ー903年なので、このころまだ菅原道真は世の中に存在していませんでした。
そして道真の死後、930年に清涼殿に落雷があり多くの死傷者が出、これは雷神となった道真の怨霊の仕業であると考えられたようです。

そして947年、京都に北野天満宮が建立され、道真が御祭神として祀られるようになたわけですが
もともとこの北野天満宮があった土地には火雷神が祀られていたというのですね。
つまり、菅原道真はもともと北野に祀られていた火雷神と習合された結果、北野の地に祀られるようになったのではないでしょうか。

●神の名前は襲名される?

津守国基 (1023-1102)という住吉大社の神主が、和歌の浦に住吉のお堂の壇に用いる石を探してやってきて、こんな歌を詠んでいます。

年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫
(長い年を生きてきただろうに、年老いることもなく、和歌の浦に鎮座して幾代になるのだ、玉津島姫よ。)

和歌の浦は和歌山県にあり、かつてここに玉津島神社がありました。

で、詞書を読むとこんなことが書いてあります。

「この歌を詠んだ夜の夢に、唐衣を着た女房が10人ほどあらわれて、ちょうどいい石はこれだよと教えてくれた。」

唐衣を着た女房が10人ほどあらわれたというのは、玉津島姫は10人いるということなのではないでしょうか。
もしかして、歌舞伎のように、次々に新しい神が玉津島姫の名前を襲名するので、女神はいつまでも年老いることがないのかも?

そう考えると、火雷神(雷神)もまた、次々に新しい神が火雷神の名前を襲名するのではないでしょうか。


「えっ、ということはつまり北野に祀られていた火雷神って井上内親王が産屋峰で産んだ雷神のこと?」
と思われたでしょうか?

北野に祀られていた火雷神は井上内親王が産んだ雷神ではないと思いますが、これについてはまた後日お話しできればと思います。

でも五條の天満宮のもともとの神は、菅原道真ではなく井上内親王が産んだ雷神ではないかと思います。

五條付近 吉野川 夕景 
五條市 吉野川


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[2016/10/28 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛城山 紅葉 すすき 『雄略天皇、葛城神、一言主神は同一神だった?』 

奈良県御所市 葛城山
2014年11月3日 撮影


葛城山紅葉 
●能・葛城

知らなかったんですが、能に葛城という作品があるそうです。

出羽国(山形県)・羽黒山の山伏が、大和国(奈良県)葛城山へとやって来ました。
たいへんな雪に困っていると里女が彼女の庵へ案内してくれました。
そして焚火をして山伏を温めてくれたのでした。

里女は山伏に言いました。
「雪の中で集めて束にした木々の細枝を標〔しもと〕といいます。
標結ふ 葛城山に 降る雪の 問なく時なく 思ほゆるかな という古歌もあるんですよ。」と。

山伏が夜の勤行を始めようとすると、里女は「自分の三熱〔さんねつ〕の苦しみを助けて下さい」と言いました。
山伏が女性の素性を訪ねると「自分は葛城の神ですが、昔、役の行者に命ぜられた岩橋を架けなかったため、不動明王の索に縛られ苦しんでいるのです。」といって消えてしまいました。
山伏は女神のために祈祷すると葛城の神が現れ、、お礼を述べて舞い、岩戸の中へ姿を隠しました。

葛城山 紅葉と薄 
●標を束ねる葛

標結ふ 葛城山に 降る雪の 問なく時なく 思ほゆるかな
標(しもと)を束ねるのに葛を用いたので、葛城を導く言葉として用いられているそうです。

この歌は古今和歌集にある歌だそうですが、ぐぐっても現代語訳がでてきません~。

「木々の細い枝を束ねた標(しもと)を束ねる葛、その葛の文字を持つ葛城山に降る雪を絶え間なく思っています。」
みたいな意味ですかね?
間違っていたらご指摘いただけますと嬉しいです。

のちに女神は
自分は葛城の神ですが、昔、役の行者に命ぜられた岩橋を架けなかったため、不動明王の索に縛られ苦しんでいるのです。
と言っています。


女神は自分を細い枝にたとえ、葛で束ねられた標(しもと)のように不動明王の索に縛られていることを伝えようとして
標結ふ 葛城山に 降る雪の 問なく時なく 思ほゆるかな
という古歌を持ち出したのではないでしょうか。

不動明王の索とは不動明王が手に持っている羂索(投げ縄のようなもの)のことではないかと思います。


●葛城の神は一言主神だった?

平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」にはこんな話が記されています。

役行者は鬼神たちに葛城山と吉野金武峰山を結ぶ橋をかけるよう命じたが、一言主神は顔が醜いのを気にして夜しか働かなかったため橋は完成しなかった。
これに怒った役行者は一言主神を呪術で縛り付けた。


能「葛城」で女神は
昔、役の行者に命ぜられた岩橋を架けなかったため、不動明王の索に縛られ苦しんでいるのです。
と言っています。

葛城の神とは一言主神だったんですね!

●容姿の醜い一言主神

能「葛城」では女神はただ「岩橋を架けなかった」と言っていますが、「日本霊異記」や「今昔物語集」では「一言主神は顔が醜いのを気にして夜しか働かなかった」となっています。

祇園祭 宵山 役行者山

上の写真は祇園祭・役行者山の御神体で、中央が役行者、向かって右は葛城神、向かって左は一言主神です。
一言主神は鬼の姿をしています。
私なんかは鬼の姿をした一言主神ってかっこいいと思いますが、一般的に見て美しいとは言い難いかも。
やはり観音菩薩のような優し気な顔を美しいと思う人がほとんどでしょう。

●やっぱり一言主神は女神だった。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 

そして雄略天皇は次のような歌を詠んでいます。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの?
大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳です。)

これは先にご紹介した伝説(青文字部分)の、雄略天皇と一言主神の出会いの歌ではないかと私は思うんですね。
つまり、菜を摘む娘は一言主神ではないかということです。

ナンパしてきた雄略天皇に対して、娘はこう答えたのではないでしょうか。

『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』
参照/一言主神社 秋季大祭 『性別がルーズな日本の神』

そう、雄略天皇がナンパした娘は一言主神じゃないかと私は思うんです。

能「葛城」は一言主神が女神であることを裏付けているように思えます。

葛城山 薄

●三熱の苦しみ

能「葛城」では一言主神と思われる女神が
「三熱〔さんねつ〕の苦しみを助けて下さい」
と言っています。

三熱とは仏教の用語で、竜・蛇などが受ける三つの苦悩のことです。

①熱風・熱砂に身を焼かれる。
②悪風が吹いて住居・衣服を奪われる。
③金翅鳥 (こんじちょう) に食われる。

ちょっとまってー。
雄略天皇の伝説にこうあったではありませんか。

雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。


もしかして、雄略天皇は三熱の②「悪風が吹いて住居・衣服を奪われる。」に該当するのでは?

でも能「葛城」では三熱の苦しみがあるのは葛城の神=一言主神だったはず。

いや、一言主神と雄略天皇は全く同じいでたちをしているのでしたね。
全く同じいでたちをしていたということは、一言主神と雄略天皇は同一神?

さらに、葛城の神と一言主神は同一神と考えられるので、葛城神・一言主神・雄略天皇は同一神ということになりませんか?


葛城山 薄2   


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[2016/10/27 00:03] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

曽爾高原 すすき 夕景 『お亀は伊勢斎宮だった?』 

奈良県宇陀郡 曽爾高原
2014年10月25日 撮影

曽爾高原 薄 
●お亀ヶ池伝説

曽爾高原のススキの草原の中にお亀が池という池があります。



曽爾高原 お亀が池


お亀が池には次のような伝説があります。

伊勢国・太郎生村出身のお亀は曽爾村の男の嫁になり、毎日、太郎路池の水を溜めた井戸の水を鏡替わりにして化粧をしていました。
あるとき井戸の水に美しい男性の顔が映り「今夜、太郎路池のほとりに来て欲しい」といいました。
それ以来、お亀は夜になると出かけるようになりました。
男が理由を尋ねると『子供を授かるように水垢離をしている。』と言いました。
お亀は男児を出産し、姿を消してしまいました。
夫はお亀を探して太郎路池のほとりへやってくるとお亀が現れて子供に乳を飲ませました。
そして「二度と私を探さないでください」と言って姿を消しました。
夫は懲りずにまた太郎路池に行きました。
するお亀が蛇となってあらわれ「二度とくるなと言ったのに、なぜ来た?」と言って夫に襲い掛かりました。
夫はなんとか逃げ帰りましたが、すぐに亡くなってしまいました。
お亀は野火から山火事になった時、焼けて死にました。
もとはこの池は太良路池といっていましたが、このお亀の事件があってからお亀ヶ池というようになりました。
またお亀が襲い掛かった場所を「大口」、一直線に追いかけてきたところを「立堀(たてほり)」、大蛇が疲れて休んだところを「弊足(びょうそく)」、水を飲んだところを「水舌(みずのみ)」と地名が残っています。

曽爾高原 薄2 
●伊勢内宮の神は男の蛇神で、斎宮のもとへ通っていた。

私はこの話を聞いて伊勢神宮に伝わる話を思い出しました。
伊勢内宮の神は男の蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」というのです。

●蛇は太陽神

まず蛇神についてですが、太陽神を蛇神とするのは日本だけでなく、世界中にあります。
蛇が脱皮する様は再生をイメージさせ、再生を繰り返す太陽(沈んでは昇る)とイメージが重ねられたと説明されます。

喜光寺 宇賀神 

上の写真は喜光寺(奈良市)の宇賀神です。
宇賀神とは頭が人間で体が蛇の姿をした神様です。

三輪山(奈良県桜井市)は蛇がとぐろを巻く姿だと言われます。
ということは、蛇の頭部や宇賀神の頭部は山から昇ってくる太陽を意味しているのではないでしょうか。

●天照大神は男神だった?

次に天照大神が男神であるということについて考えてみましょう。
天岩戸に隠れた天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から出てきました。
女神のストリップに興味を持つのは男だ、よって天照大神は男神だとする説があります。

物部氏の祖神とされるニギハヤヒは、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまの ほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と記されていて、この神が本当の天照大神ではないかとも言われています。

そして初代神武天皇が東征して畿内入りするより早く畿内にニギハヤヒが天下っていたとする記述が日本書紀にあり、畿内には神武以前に物部王朝があったのではないかとも言われています。
どうも、日本書紀や古事記の記述は改竄されているように思われます。


曽爾高原 夕焼け

●御霊=男女双体、荒魂=男神、和魂=女神

神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)に分けられ、荒魂は男神で和魂は女神とする説があります。
とすれば御霊は男女双体となります。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


詳しくはこちらの記事をお読みください →  飛鳥 勧請綱と田植え 『道祖神と大聖歓喜天は習合されている?』

天照大神に仕える伊勢斎宮は男神である天照大神と和合して御霊にさせる存在なのだと思います。
「伊勢内宮の神は男神で蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」というのは、荒霊と和霊が和合して御霊になるということを物語的に表現したものではないでしょうか。

多気山不動尊 道祖神  


●お亀は伊勢斎宮、男神はニギハヤヒ?


お亀の出身地の伊勢国・太郎生は三重県津市美杉町太郎生で、曽爾高原から3kmあまりの場所にあります。
伊勢という地名は伊勢神宮を思わせます。
お亀は伊勢斎宮と同一視されているのだと思います。

そしてお亀は池の主である男神と逢引をしていたと考えられますが、池にすむ男神とは本当の天照大神、ニギハヤヒでしょう。

お亀は蛇神として登場しますが、さきほども述べたように伊勢の神は蛇神だという話があります。

実際には天照大神は男神だと考えられますが、日本書紀や古事記では天照大神は女神であるとしています。
それを受けてお亀が天照大神であると考えられ、お亀が蛇として登場する物語がつくられたのかもしれませんね。

 曽爾高原 月


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[2016/10/26 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 

山の辺の道の旅は、第10代崇神天皇の時代を旅することでもあります。

●崇神天皇陵

山の辺の道沿いに行燈山古墳があります。
行燈山古墳は第10代崇神天皇陵に治定されています。
古墳を囲む周濠のほとりに立つと西の方向に二上山が見えます。

崇神天皇陵 
崇神天皇陵(行灯山古墳)


●志貴御県坐神社(磯城瑞籬宮跡)


崇神天皇3年、崇神天皇は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に遷都しました。
志貴御県坐神社(奈良県桜井市金屋)が磯城瑞籬宮があった場所だとされています。

志貴御県坐神社
志貴御県坐神社


●檜原神社(笠縫邑?)

崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死にました。
また人民の中には背くものがありました。 
 
そのため天皇は天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)と一緒に生活するのが恐くなり、崇神天皇6年、天照大神と倭大国魂神を宮中の外で祀らせることにしました。
(↑あとで出てくるので覚えておいてくださいね。)


天照大神は豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)で祀らせました。
笠縫邑は大神神社の摂社、檜原神社とする説が有力です。

檜原神社より二上山落日を望む
檜原神社


●大和神社 長岳寺(長岡岬?)


倭大国魂神は渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせました。
大和神社がこれに該当すると考えられています。

大和神社 弓始め
大和神社

長岡岬は現在の桜井市穴師・箸中の付近、または現在の長岳寺付近ではないかとされています。
その後、奈良県天理市新泉町星山の現在地に移りました。
 
長岳寺 紅葉 

 長岳寺

 渟名城入媛命は髪が抜け落ち体がやせ細って倭大国魂神を祀ることができませんでした。

●大神神社

崇神天皇7年、崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り、次のように託宣しました。

「いま疫病が流行っているのは私の祟りである。 
私の子・大田田根子に私を祀せ、市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祭らせればる神主とすれば、疫病の流行はおさまるだろう。」

そこで託宣のとおりにしたところ、疫病はおさまりました。
大田田根子が大物主神を祀った神社が大神神社です。

大神神社 茅の輪 大神神社

●箸墓古墳

倭迹迹日百襲姫命はのちに大物主神の妻となりましたが、大物主神の本性が蛇であることを知り、驚いて尻餅をついた拍子に箸でホトをついて死んでしまいました。
倭迹迹日百襲姫命は箸墓古墳に葬られました。

箸墓古墳 桜
箸墓古墳


●箸墓古墳は卑弥呼の墓?


倭迹迹日百襲姫命を祀る箸墓古墳は魏志倭人伝に登場する邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかと言われています。

また、籠神社で発見された系図に、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、
脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていました。

卑弥呼とはこの日女命の音に漢字をあてたものだとする説があります。
とすれば、卑弥呼とは日女命のことであり、倭迹迹日百襲姫命のことだということになります。

箸墓の大きさは魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と大きさがぴったりあっています。
魏志倭人伝では卑弥呼の墓は円墳としています。
一方、箸墓は前方後円墳ですが、もともとは円墳であったものに後から前方部を付け足した可能性が浮上しています。

●卑弥呼の男弟は大国魂神(=大物主神)?


卑弥呼には男弟があったと魏志倭人伝には記されています。
崇神天皇を卑弥呼の男弟とする説がありますが、私の考えは違います。
私はは倭大国魂神=大物主神は同一神で、倭大国魂神=大物主神が卑弥呼の男弟だと思います。

●古代、兄弟姉妹婚はスタンダードだった?


大物主神は倭迹迹日百襲姫命と結婚しています。
姉弟なのに結婚するのはおかしいと考えるのは現代の感覚です。
古には血の純潔を守るため、同腹の兄弟姉妹婚はスタンダードだったとする説があります。

記紀神話にも兄弟姉妹婚の話はたくさんあります。
イザナギとイザナミ、天照大神とスサノオ、アシナヅチとテナヅチなど兄弟姉妹婚です。

●卑弥呼の死後立った男王は卑弥呼の男弟ではなく、狗奴国の男王だった?

魏志倭人伝は卑弥呼の死後「男の王が立つが国が混乱し千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「台与」13歳を王に立てると国中おさまった」としています。

これは●檜原神社(笠縫邑?)のところで、
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死にました。また人民の中には背くものがありました。
と書いたことに該当すると思います。

ここに登場する男の王とは卑弥呼の男弟のことではなくて、狗奴国の男王・卑弥弓呼=崇神天皇のことだと思います。

●狗奴国は熊野?

狗奴国とは熊野ではないでしょうか。
初代神武天皇・10代崇神天皇はどちらも和風諡号を「ハツクニシラススメラミコト」といい、同一人物ではないかとする説があります。
そして神武天皇は日向から熊野に迂回して大和を目指しています。

●卑弥弓呼とは日命(ひのみこと)

「卑弥弓呼とは日命(ひのみこと)に漢字をあてたのではないでしょうか。
つまり邪馬台国があった3世紀ごろ、大和の日女命と熊野の日命の二人の太陽神がいたということではないかと私は考えます。

●崇神天皇は入り婿だった?

崇神天皇の和風諡号のひとつに「ミマキイリヒコイニエ」というのがありますが、名前の中の「イリ」は入り婿の入りだとする説があります。
狗奴国の男王卑弥弓呼は邪馬台国の入り婿となることで邪馬台国をのっとり、邪馬台国の男王としてたったのではないでしょうか。
卑弥呼の宗女・台与とは笠縫邑で天照大神を祀った崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命 のことだと思います。

●崇神天皇はなぜ天照大神や倭大国魂神と一緒に生活するのが恐くなったのか?

このように考えると、邪馬台国とは大和国のことで大和朝廷の前身だと考えられます。

そしてすでに説明したように、天照大神とは卑弥呼=日女命=倭迹迹日百襲姫命、卑弥呼の男弟=倭大国魂神=大物主神でしょう。

ここで、●檜原神社(笠縫邑?)のところでに
天皇は天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)と一緒に生活するのが恐くなり、崇神天皇6年、天照大神と倭大国魂神を宮中の外で祀らせることにしました。」とあったのを思い出してください。

崇神天皇=狗奴国の男王・卑弥弓呼は大和国(邪馬台国)の入り婿となり、さらに卑弥呼=日女命=倭迹迹日百襲姫命と、卑弥呼の男弟=倭大国魂神=大物主神を殺したのだと思います。
そしてその霊を宮中で祀っていたのでしょうが、二神を自分で殺したので祟られるのではないかと怖くなり、宮中の外で祀らせることにしたのではないでしょうか。

今でも日本人は先祖の霊を家の仏壇などで祀っていますが、先祖の霊が怖いという人はあまりいません。
どちらかというと先祖の霊は守護神のような存在だと感じている人が多いと思います。
なぜ崇神天皇は天照大神や倭大国魂神と暮らすのが怖かったのでしょうか?
それは、崇神天皇は天照大神や倭大国魂神と血のつながりがなく、また彼らを殺したといううしろめたさがあったためではないでしょうか。



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[2016/10/21 16:53] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

法起寺 コスモスと夕景 『観音菩薩になった鷺』 


奈良県生駒郡斑鳩町 法起寺
2011年10月15日 撮影



法起寺は聖徳太子が法華経を講じた岡本宮を、聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が寺に改めたものだとされています。

法起寺 コスモス2  

塔百景20


●鷲になった観音様

日本霊異記に次のような説話が記されています。

岡本尼寺(法起寺のこと)には観音様の像が十二体ありました。
聖武天皇の御代、この観音像の六体が盗まれ、どれだけ探しても見つかりませんでした。
それからずいぶんたったころ、寺近くの池の小枝に鷺がとまっていました。
子供たちが近づいてみると昔盗まれた観音像があり、観音様はもとどおり寺に安置されました。
「観音様が鷺に姿を変えて戻ってこられた」と人々はますます岡本尼寺のの観音様をうやまうようになりました。


●死んだ人の魂は鳥になって天に向かう?


古事記に鳥たちがアメノワカヒコの葬儀を行うようすが記されています。
河雁(かわかり)は供養の物持ち、鷺は掃持(ははきも)ち、、翠鳥(そにどりは)を料理を作る御食人(みけびと)、雀はウスを打つ碓女(うすめ)、雉(きざし)は導き嘆く哭女(なきめ)をつとめたとあります。

またササキという鳥がいますが、これに御をつけるとミササギ(陵)となります。

以前、仁徳天皇陵に行ったことがありますが、あまりに大きすぎて地上から見たのではそれが前方後円墳であるとはとても認識できませんでした。
空高く飛ぶ鳥ならば、仁徳天皇量が前方後円墳であることが認識できるでしょう。
古墳は鳥の目線を意識して作られていると思います。
ナスカの地上絵も同様だと思います。



古の人々は死んだ人の魂は鳥となって天へ向かうと考えたのではないでしょうか。
岡本寺近くの池に止まっていた鷺とは死んだ人の魂が鳥に姿を変えたものだということでしょう。

●菅原道真は十一面観音の生まれ変わり

京都・北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石柱が建てられていました。

「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」の天満宮とは天満宮の御祭神・菅原道真のことです。
御本地仏とは本地垂迹説からくる言葉です。
本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うためにこの世に姿をあらわしたものである」とする考え方のことで、この考え方が日本の神仏習合のベースとなりました。
そして日本古来の神々のことを『権現』『化身』、仏教の神々のことを『本地仏』といいました。

つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祀りしています」というような意味になります。

●怨霊から学問の神となった菅原道真

菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となり数年後、失意のうちに亡くなりました。
その後都では疫病が流行り、天災があいつぐなどし、それらは道真の怨霊の仕業だと考えられました。

陰陽道では祟り神(陰)は祀り上げることで、守護神(陽)に転じると考えられていました。

現在、菅原道真が学問の神として信仰されているのは、道真という怨霊を祀り上げた結果だといっていいでしょう。

法起寺 コスモス

●聖徳太子も怨霊だった?

そして梅原猛氏は聖徳太子ももともとは怨霊だった、とおっしゃっています。
彼の子孫は蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下全員法隆寺で首をくくって自殺したからです。

法起寺近くの池に止まっていた鷺には聖徳太子とその子孫の霊が宿っていると昔の人々は考えたのかもしれませんね。

現在、法起寺には重要文化財の十一面観音が収蔵庫に安置されていますが、十二体あるとは聞きません。
法起寺に観音様が12体あったというのは事実ではなく、創作されたものなのでしょうか?
それとも長い年月の間に失われてしまったのでしょうか?

法起寺 夕景

塔百景21



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[2016/10/17 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

般若寺 コスモス  『ハンセン病患者は文殊菩薩の生まれ変わり』 

奈良市川上町 北山十八間戸
奈良市般若寺町 般若寺
奈良市奈良坂町 奈良豆比古神社 




●ハンセン病患者保護施設ー北山十八軒戸

奈良県庁から北へ、奈良坂と呼ばれる坂の道を歩いていくと、長屋が見えてきます。


北山十八間戸 
北山十八間戸と霊山寺境内にある文殊菩薩像を合成


北山十八間戸といい、1243年、忍性によってつくられたハンセン病患者のための保護施設です。

隣にあるお好み焼き屋さんに声をかけるとフェンスの鍵をあけて見学させてもらえます。

●古より作られていた福祉施設

北山十八間戸が作られたのは鎌倉時代ですが、飛鳥時代の聖徳太子や、奈良時代の光明皇后が病人のための施設を作ったという記録も残されています。
日本では古から福祉施設が作られていたのですね。

●般若寺

北山十八軒戸社から奈良坂を登っていくとコスモス寺で有名な般若寺があります。

般若寺は629年に高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建されました。
その後、735年に聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したそうです。


般若寺 十三重石塔 コスモス
塔百景24


現在、境内にある十三重石塔は1253年ごろ、南宋から日本にやってきた石工・伊行末(いぎょうまつ)によって建立されたものです。


般若寺 コスモス
 
本堂には文殊菩薩が祀られています。

般若寺 卒塔婆 コスモス  

●北山十八間戸と般若寺の深い関係

北山十八間戸と般若寺には深ーい関係があります。
鎌倉時代の僧・忍性は文殊菩薩を深く信仰しており、1244年には丈六の文殊菩薩像を般若寺に安置しています。
そしてハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていたと聞いたことがあります。
忍性が1243年にハンセン病患者保護施設として北山十八間戸を作ったのは、彼が文殊菩薩を深く信仰していたからなんですね。

志貴皇子はハンセン病を患った?

般若寺を出たあと、門前にある植村牧場さんでソフトクリームを買い(おすすめ!)、ちょっと行儀悪いけど、ソフトクリームをなめなめさらに坂を上っていくと奈良豆比古神社につきます。

奈良豆比古神社には次のような伝説が残されています。


春日王(天智天皇の孫・志貴皇子の子)がハンセン病を患いました。
あるとき、春日王の子の浄人王が父の病回復を祈って舞を舞いました。
すると春日王のハンセン病は治りました。

ところが地元にはハンセン病を患ったのは春日王ではなく、春日王の父親の志貴皇子だと伝承されているそうです。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

上の写真は奈良豆比古神社の翁舞ですが、浄人王が舞った舞をルーツとしているのだと思います

志貴皇子の高去年は正史では716年、万葉集詞書では715年となっていて食い違っています。
ここから、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたとする説があります。

詳しくはこちらの記事をお読みください。→ 
奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

●志貴皇子はハンセン病をもたらす怨霊だった?

でも私は志貴皇子がハンセン病を患ったというのは違うのではないかと思います。
そうではなくて、志貴皇子はハンセン病をもたらす怨霊であると考えられていたのではないでしょうか?

貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で現されます。
すると疫病神は疫病を患った病人の姿をしていると考えられたのではないかと思えます。

志貴皇子は実在の人物ですが、奈良豆比古神社の御祭神として祀られています。
実在の人物で神として祀られている人はたいてい怨霊です。
菅原道真、井上内親王などが有名ですね。

祟り神は神として祀り上げると守護神に転じるという考え方があり、そういったことから怨霊は神として祀られることが多かったのでしょう。

さらに日本では神仏は習合されて信仰されていました。
般若寺の文殊菩薩と奈良豆比古神社の御祭神・志貴皇子は習合されていたのではないでしょうか。
つまり、般若寺は志貴皇子を慰霊するためのお寺ではないかと思うのです。


般若寺 コスモス

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[2016/10/15 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

藤原宮跡 コスモス 『藤原宮は藤原氏の宮?』 


奈良県橿原市 藤原宮跡
2009年11月7日 2011年10月15日 撮影


藤原宮跡 コスモス4

●持統天皇の宮なのになんで藤原宮?

奈良県橿原市の藤原宮跡は飛鳥時代に藤原宮があったとされる場所です。
遠くに見えている山は大和三山のひとつ、天の香具山です。
藤原京は大和三山(畝傍山・耳成山・天の香具山)に囲まれた土地に作られました。
その藤原京にあった宮が藤原宮です。

藤原京と書きましたが、藤原京という名前は近代に作られた学術用語なのだそうで、『日本書紀』では「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」となっています。
宮は藤原宮と記述されています。

新益京は690年(持統4年)に着工され、694年(持統8年)に新益京に遷都しています。
完成は704年(慶雲元年)とされています。
藤原宮が作られたのも同時期と考えられます。

タイトルに「藤原宮は藤原氏の宮?」と書きましたが、もちろん藤原氏の宮ではありません。
藤原宮は持統天皇の宮でした。

藤原氏の祖・中臣鎌足は669年、死の間際に天智天皇より『藤原姓』を賜ったとされています。
ということは、藤原宮が作られた当時、藤原氏という臣下が存在していたということになりますが、藤原氏という臣下がいるのに宮を藤原宮と名付けるのって変ではないでしょうか。
まるで藤原氏の宮のように思えるじゃないですか。

藤原宮跡 コスモス

●藤原性は鎌足一代に与えられた?

これに対して当時藤原氏はいなかったとする説があります。

672年の壬申の乱(大海人皇子vs大友皇子)では中臣氏は大友皇側につきました。
しかし大友皇子は大海人皇子に敗れたため、中臣氏は一時衰退したと考えられています。

壬申の乱後、684年に八色の姓が定められたのですが、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場せず、中臣を名乗っていたのではないかというのです。

鎌足没後、『日本書紀』に再び藤原氏の名前が登場するのは685年のことです。
そこで藤原姓が与えられたのは鎌足一代に対してであり、685年鎌足の遺族に対してあらためて藤原姓が与えられたのではないかというのです。

ううーん、それでもまだ納得できないです。
鎌足一代とはいえ臣下に与えた藤原という名前を天皇の宮の名前にするでしょうか?
大伴氏など、淳和天皇の名前が大伴なので同名であるのをはばかって伴氏に改名しているくらいです。

●藤原氏の初代は鎌足ではなく不比等?


藤原不比等は史と記されることもありますが、史部とは記録・文書をつかさどって朝廷に仕えた部民のことです。
日本書記を編纂したのは舎人親王とされていますが、藤原不比等もこれに大きく関わっていると考えられています。

私は鎌足が藤原姓を与えられたというのは不比等の改竄で、本当は不比等の代から藤原を名乗るようになったのではないかと思います。
藤原姓を名乗ることで、藤原宮はまるで藤原氏の宮であるかのような印象を人々に与えることが目的だったのかなあ、と思ったりします。

藤原宮跡 コスモス3


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[2016/10/14 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

檜原神社 二上山 夕日 『太陽の道、そして逆さまの世界』※追記あり 

 奈良県桜井市 檜原神社
撮影 ?年10月初旬


●檜原神社より二上山落日を望む

山の辺の道沿いに檜原神社があります。
檜原神社には柱に注連縄をかけただけの素朴な鳥居があり、鳥居の向こう側には二上山が見えます。
二上山は向かって右側が雄岳、向かって左側が雌岳と呼ばれています。

檜原神社より二上山落日を望む
●二見ヶ浦の夫婦岩

私は檜原神社から二上山に落ちる夕日を眺めていて、伊勢・二見ヶ浦にある夫婦岩を思い出しました。
行ったことはないのですが、夏至のころ、二見ヶ浦の夫婦岩の間から朝日が昇るそうです。



ユーチューブに素晴らしい動画があったのでお借りしました。
動画主さんありがとうございます!
ふ、ふ、富士山まで見えるんですね!
伊勢はちょっと遠いんですが、いつか絶対こんな写真を撮りたいです~♡(早起きできるようにならんとね)

※追記




コチラの方はなんとダイヤモンド富士を撮っておられます。素晴らしすぐる!


二見ヶ浦の海岸から朝日を望むと、向かって左側が男岩で向かって右側が女岩となっています。
二見ヶ浦にある夫婦岩は二上山とは雌雄が逆になっているのです。

大和は青垣の山に囲まれた土地で、伊勢は海に囲まれています。
さらに大和では二上山に夕日が没し、伊勢では夫婦岩から朝日が昇ってきます。

夫婦岩には注連縄が掛けられていますが、檜原神社の注連縄はまるで二上山にかける注連縄のようにも見えます。

二見ヶ浦はまるで檜原神社から二上山を見た風景を鏡に映して逆にしたような場所ではありませんか。

檜原神社 三つ鳥居 
檜原神社 三つ鳥居

●檜原神社は元伊勢だった。

檜原神社と伊勢には関係があります。

10代崇神天皇の代まで天照大神と倭大国魂神はともに宮中で祀られていました。
ところが疫病が流行り、人民の中には朝廷に背くものも現れました。
そのため天皇は二柱の神とともに生活するのが恐ろしくなり、倭大国魂神は渟名川入姫命、天照大神は豊鍬入姫命に託し、宮中の外で祀らせました。
渟名川入姫命渟名川入姫命は長岡崎で、豊鍬入姫命は倭国笠縫邑で天照大神を祀りました。
笠縫邑の比定地は諸説ありますが、ここ、檜原神社だとする説が有力です。

その後、年老いた豊鍬入姫命にかわって倭姫が天照大神を祀るようになりました。
倭姫は天照大神を祀るるにふさわしい土地を求めて各地を転々としました。
最後に伊勢にやってきたとき、天照大神は「この神風の伊勢の国は常世之浪 の重浪(しきなみ)よする国なり。傍国のうまし国なり。この国に居らむとおもう。」と託宣」しました。
こうして伊勢に天照大神を祀る伊勢神宮が建てられたのです。



赤印二見ヶ浦の左斜め下(東南)に伊勢神宮があります。
地図上部の明和町とあるところに伊勢斎宮跡があります。

●二見ヶ浦は伊勢神宮領だった。

倭姫命が天照大神の鎮座される土地を求めてやってきたとき、伊勢の海を二度見たという伝説があります。
『二見ヶ浦』という地名はここからくると言われています。
また二見ヶ浦は神宮の御塩(おしお)と御贄(おにえ)を調達するための神宮領であったといい、伊勢神宮と関係の深い土地なのです。

天照大神はなぜ「伊勢に鎮座したい」と託宣したのでしょうか。
それは二見ヶ浦の風景が、檜原神社から見る風景を鏡に映したような場所であったからではないでしょうか。

檜原神社から見る風景が陰(二上山に日が沈むため)だとすると、二見ヶ浦の風景は陽(夫婦岩から日が昇るため)、というわけです。

●伊勢斎宮跡と檜原神社はどちらも北緯34度32分!

http://www.nikkei.com/article/DGXBZO33355530S1A800C1000001/
上記サイトに次のように記されています。

伊勢斎宮跡、箸墓古墳、檜原(ひばら)神社、大坂山(穴虫峠)、長谷寺、室生寺、大鳥神社など著名な遺跡、社寺などが北緯34度32分の線上にほぼ一直線に並ぶ。(仏像写真家の小川光三さんによる。)

写真を始めてから、私は写真を始める前の自分がいかにものを漠然と見ていたかということに気が付きました。
写真を始めると観察力が身についてくるようですね。(まだまだ未熟ですが~)

小川光三さんも写真家ならではの観察眼と、フィールドワークでこれを発見したのでしょう。
すばらしい発見ですね!そしてこの北緯34度32分を太陽の道と名付けられました。

伊勢斎宮跡は三重県多気郡明和町にある、斎宮が執務した場所のことです。(上の地図を参照してください)

箸墓古墳 桜 
箸墓古墳

 長谷寺 五重塔 桜2 

長谷寺

室生寺 石楠花  

室生寺 石楠花


大鳥大社 花菖蒲

大鳥神社


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[2016/10/05 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

笠の蕎麦の花 と 笠山荒神 『かまどの神』  

奈良県桜井市 笠山荒神
2009年9月22日撮影


笠 蕎麦畑 

一面に広がる蕎麦畑。
その傍らに笠山荒神があります。

笠山荒神 屋根 
笠山荒神の拝殿の瓦は能・翁の面でした。
荒神さんと翁って何か関係があるんでしょうか?

●竃の神

笠山荒神の御祭神は土祖神(はにおやのかみ)・ 興津彦命(おきつひこのみこと)・興津姫命(おきつひめのみこと)の三柱で、竈の神・防火の神として信仰されています。

興津彦命は奥津日子命、興津姫命は奥津比売命とも表記されます。

漢和辞典をひいてみると次のように書いてありました。

【奥】もとかまどのある所をいい、のちには家の奥深い西南のすみをいい、ひいて広くおくまったところをいう。
(角川漢和中辞典/昭和51年1月20日161版発行)


それで竈の神の名前を奥津日子命(興津彦命)、奥津比売命(興津姫命)というのですね~。

炭火の火種のことを『おき火』というそうですが、『おき火』の『おき』ももともとは『奥』だったのかもしれませんね。

笠山荒神 
笠山荒神参道を歩いていただいたのは、安井金毘羅遇・櫛祭に登場された方です。(合成)

●おきつひめは火山の女神?

『おきつひめ』って最近どこかで聞いたなあ~?

そうそう、石川県輪島に奥津比咩(おくつひめ)神社があり、奥津姫神を祀っていたのでした。
そのときの記事はこちらです。↓
奥津比咩神社 夏祭 『キリコ祭は七夕行事だった?』 

奥津比咩神社-輪島大祭 入水神事

石川県輪島市海士町・奥津比咩神社の入水神事。

輪島から50km沖にある舳倉島にも奥津比咩神社があります。
海士町の人々はかつて夏に舳倉島に移り住んでアワビやエビをとり、秋ごろ海士町に戻るという生活をされていました。そのため舳倉島の奥津比咩神社を勧請して海士町に祀ったのでしょう。


舳倉島の奥津姫神は『沖の女神』という意味だと思っていましたが、竈の神・奥津比売命と同一の神様なのかも。

そう思って調べてみたところ、舳倉島は火山島であることがわかりました。
火山島は火を噴くので、竈の神、奥津姫神を祀っているのではないでしょうか。




●舳倉島はへっつい(竃)の島?

舳倉島(へぐらじま)の舳(へ)は『へっつい』のことではないかと思ったりします。
というのは、興津姫命(奥津比売命)は別名を大戸比売神(おおへひめのかみ)ともいうのです。

関西ではかまどのことを『へっつい』といいますが、大戸比売神の戸(へ)は『へっつい(かまど)』のことだとされています。
火を噴く火山島なので、へっつい(竃)の島という意味ではないでしょうか。

山口家住宅(大阪府堺市) へっついさん 
山口家住宅(大阪府堺市) へっついさん

「へぐらじま」の「くら」はわかりませんが、蔵王権現と関係があるかも?
蔵王権現とは奈良県吉野山にある蔵王堂の御本尊です。
蔵王権現の蔵は「くら」とよみますね。
また、桜は蔵王権現の御神木とされ、吉野山にはたくさんの桜が献木されています。
この桜の語源は、「くら」に接頭語の「さ」(さおとめ、さみだれなど)がついたものだと説明されることがあります。
「くら」とは蔵王権現のことであり、「さくら」とは蔵王権現をあらわす「くら」に接頭語「さ」をつけたものなのかも?
 
吉野 金峯山寺 蔵王堂 桜 
吉野山。遠くに蔵王堂が見えています。

●荒神

舳倉島の奥津姫神は海に時化をおこして多くの猟師の命を奪う荒魂であったようです。
(男神=荒魂、女神=和魂、とする説があり、私はこれを支持していますが、必ずしもそうでないケースがあったのかも~)

荒神という名前の由来は不明ですが、「荒魂」からくるという説もあり、舳倉島の奥津姫神に通じるところがありそうです。 

笠 蕎麦畑2


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[2016/09/30 19:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

元興寺 彼岸花 萩 『なぜ萩の別名は鹿鳴草?』  


奈良市中院町 元興寺 
2012年9月23日 撮影


多武峰縁起絵巻 複製(談山神社) 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。

●蘇我入鹿と鹿鳴草

元興寺は飛鳥時代に蘇我馬子が創建した寺ですが、馬子の孫の蘇我入鹿は中大兄皇子に討たれて死に、その後、蘇我氏は没落してしまいました。

萩の別名は『鹿鳴草』といいます。
そして日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があります。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)

謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。
蘇我入鹿は謀反人であり、蘇我氏の氏寺の元興寺に謀反人を象徴する鹿鳴草(萩)は似合いすぎるほどですね。

元興寺 萩2

●萩の白花は謀反人に振る塩に喩えられている?

なぜ萩のことを『鹿鳴草』というのでしょうか。

萩には白色の花と紫色の花がありますが、白い萩の花は塩を振ったように見えます。
また鹿の夏毛には白い斑点があり、その白い斑点もまた塩に喩えられたのではないでしょうか。

大仏殿 鹿のカップル 
東大寺にて

つまり、白い萩の花は謀反人=雄鹿をあらわすものだと思います。

●萩の紫花は雌鹿をあらわしている?

①紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも/大海人皇子
(紫草のように美しいあなた。あなたが憎ければ、人妻と知りながら、こんなに恋い焦がれずにいられるものを。)

②紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰/詠人知らず
(顔をぽっと赤らめた海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)
※紫色に布を染める際、媒染剤として椿の灰をいれると鮮やかに染まったのだそうです。

この2つの歌を鑑賞すると、女が男に恋する様子を紫と表現していたのかな、と思えます。

紫色の萩の花は雄鹿に恋する雌鹿をあらわしているのではないでしょうか。

元興寺 萩

●御霊・荒魂・和魂

このブログで何度も何度も何度も書いていますが、またしつこく書きます。(笑)

神はそのあらわれ方によって、御霊(みたま/神の本質)・荒霊(あらたま/神の荒々しい側面)・和霊(にぎたま/神の和やかな側面)の3つに分けられ、男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説があります。

御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・男女双体
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・萩(白)
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・萩(紫)


謀反の罪で殺された人は死後怨霊になると考えられていました。
つまり、謀反人とは怨霊であり、荒霊であり、男神なのです。
この荒霊である謀反人の霊を慰霊するためには女神と和合させる必要があると考えられていたのではないかと思います。 

元興寺 彼岸花


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[2016/09/26 12:04] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

百毫寺 萩 『志貴皇子 暗殺説』  

 奈良市白毫寺  白毫寺
2012年9月23日 撮影
 
百毫寺 萩2 

実際に見に行ったわけではないので、よくわからないんですが、残念ながら今年はあまり咲いていないと聞きました・・・。

●志貴皇子邸宅跡

百毫寺の境内に万葉歌碑が建てられています。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)


百毫寺 万葉歌碑 
笠金村という人が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌です。
百毫寺は高円山の山麓にあり、かつて志貴皇子の邸宅があった場所だと伝わっています。
高円山には志貴皇子の陵もあります。
志貴皇子は天智天皇の第三皇子とも、第七皇子とも伝わっています。

●志貴皇子の薨去年は715年?716年?

昔、図書館で借りて「志貴皇子暗殺説」について説かれた本を読んだのですが、本のタイトルや著者名を忘れてしまいました。(すいません!)

志貴皇子暗殺説とは次のようなものです。

①日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとありますが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっています。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせます。
また笠金村は 次のような歌も詠んでいます。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思えます。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われるというのです。 

百毫寺 萩4  
●鹿鳴草

②百毫寺の境内にたくさん植えられている萩は別名を『鹿鳴草』といいますが、日本書紀に次のような物語があります。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。


謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。
 
笠金村は「高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに 」と歌を詠んでいますが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているようです。


百毫寺 萩

●志貴皇子には正当な皇位継承権があった?

また、のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないかとおっしゃっています。

実際、奈良豆比古神社に伝わる口承では「志貴皇子は天皇に近い人だった」と伝わっているそうです。

志貴皇子についてはこちらの記事にも書きました。→中秋の名月と采女祭 采女神社 『猿沢池の采女伝説のモデルとは?』  


志貴皇子は次のような歌を詠んでいます。

志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の萌え出づる春になりにけるかも
(岩にほとばしる滝の上のさわらびが萌えでてくる春になったのだなあ。)


この歌は志貴皇子が皇位継承権を手にした喜びを詠んだものではないかと思うんですが、みなさまはどうお考えになりますか?

百毫寺 萩3


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[2016/09/25 00:18] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

仏隆寺 彼岸花 『謎々です。『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は何と読む?』  

奈良県宇陀市 仏隆寺
撮影 2008年9月23日


 仏隆寺 彼岸花2

毎年9月には仏隆寺の彼岸花を見にいくのを楽しみにしていたんですが、数年前、猪や鹿に彼岸花の球根が食べられてしまったとか・・・。(写真はそれ以前に撮影したものです。)
ボランティアの方々が以前のような景観に戻すよう、3年計画で球根を植えられているとのことで頭が下がります。

彼岸花の球根は毒があってモグラなどの小動物を避けるために田畑の畔に植えられた、と聞いたことがあるんですが、
猪や鹿は彼岸花を食べても平気とはオドロキです。

烏丸半島の蓮もそうですが、植物というのはある日突然全滅してしまったりすることがあるのですね。
動物に食い荒らされて全滅することもあれば、寿命ということもありますね。
染井吉野は寿命60年だとかいわれていますね。
「同じ風景は二度はない」と肝に命じ、一期一会を大切にして撮影したいです。

仏隆寺 彼岸花 白  

197段の階段を昇って山門をくぐると境内には白い彼岸花が咲いていました。

●堅恵は即身仏になろうとした?


仏隆寺は室生寺の末寺で、850年に空海(774-835)の高弟・堅恵(けんね/生没年不詳)によって創建されたと伝わっています。
本堂の東、鎮守の社の背後に入定石窟があります。
この石窟は堅恵の廟だといわれています。

入定とは即身仏となるために、石室に籠ることを言います。

 堅恵は即身仏になるためにこの石窟に入定したということでしょうか?  

仏隆寺 入定石窟 

●『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は何と読む?


突然ですが謎々です。
『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』 これはなんと読むのでしょうか。

この文章は『弘法大師如意宝珠納札銘』に記されたものです。

●ヒントは落語の平林

落語の平林がヒントです。

丁稚の定吉は店主に平林さんのところに手紙を届けるようにとおつかいを頼まれます。
ところが定吉は途中で行先を忘れてしまいます。手紙には宛名が書いてあるのですが、定吉は漢字が読めません。
そこで手紙のあて名を道行く人に聞くと
「たいらばやし」だとか「ひらりん」だとか「いちはちじゅうのもくもく」「ひとつとやっつでときっき」などといい加減なことを教えられます。
定吉はこれらを全部つなげて怒鳴りました。
『たいらばやし』か『ひらりん』か『いちはちじゅうのもっくもくー』『 ひとつとやっつでとっきっきー』

『いちはちじゅう』は『一八十=平』、『もっくもくー』は『木木=林』
『 ひとつとやっつでとっ』は『一八十=平』、『きっきー』は『木木=林』と漢字を分解しているわけです。
オモシロイ!

仏隆寺 彼岸花3

●謎々の答え

『宇一山』は正確には『宀一山(べんいつさん/ういつさん)』で『宀一』は『室生』の二字のそれぞれ上下を採ったもの。
『竹目々』は『竹木目』で『箱』の字を分解したもの。 
『土心水師』は堅恵法師の部首を採った略とされます。

すると、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は『室生山精進峯の箱の底が堅恵法師の道場である』という意味になると思います。
即身仏となるとき、生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせたりしたようです。
つまり、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』とは、『堅恵は室生山精進峯に入定した』という意味なのではないでしょうか。

堅恵は867年7月5日に仏隆寺の石窟の中に入定したともいわれています。
ということは室生山精進峯とは仏隆寺のある摩尼山のことなのかもしれませんね。

仏隆寺 彼岸花


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[2016/09/23 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

橘寺 彼岸花と芙蓉 『千のドクロが現れた山』  

奈良県明日香村  橘寺

橘寺 彼岸花 
●仏頭山


橘寺の後ろにけ山が写っていますが、この山を仏頭山といいます。

欽明天皇の宮は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋)でしたが、別宮としてこの地に橘の宮がありました。
574年、欽明天皇の第四皇子・橘豊日命(たちばなのとよにのみこと/のちの用明天皇)の皇子として聖徳太子はこの橘の地で生まれました。

あるとき聖徳太子が3日間にわたり勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、不思議なことがおきました。
蓮の花が庭に降り積もり、仏頭山に千の仏頭が現れ光り輝いたというのです。
推古天皇はこれにたいそう驚かれて、この地に寺を建てるようにと聖徳太子に命じました。
そこで聖徳太子が橘の宮を寺と改めたのが橘寺だといいます。

橘寺 彼岸花2

●気持ち悪い。

山に千の仏頭があらわれた・・・
みほとけの身体がなくて、頭の部分だけが現れるってなんか気持ち悪くないですか?

●千のドクロが現れた山?

無実の罪で流罪となった菅原道真は死後怨霊になったと信じられ、京都の北野天満宮などに祀られました。
怨霊は祀り上げることで人々にご利益を与えてくださる神に転じると考えられていたのです。
北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観音菩薩」と刻まれた石碑が建てられています。
天満宮とは菅原道真のことで、「天満宮御本地仏 十一面観音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味です。

これは無念の死を迎えて怨霊となった菅原道真が煩悩を捨て去り、悟りを開いて成仏した姿が十一面観音であるという意味だと思います。

死んだ人のことを「仏さん」などと言うのは、
死んだ人が煩悩を捨て去り、悟りを開いて成仏すると考えられたためではないでしょうか。

すると、千の仏頭が現れたということは、千の死んだ人のドクロが現れたということなのかも?

橘寺 芙蓉

●首をくくって自害した聖徳太子の子孫たち

聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下、全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したといいます。
聖徳太子は日本で最も尊敬されている人物のひとりでしょうが、現在の日本人の血には聖徳太子の血は一滴も流れていないということになります。

山にあらわれた千の仏頭とは斑鳩寺で首をくくって自害した聖徳太子の子孫のことなのかも、と思います。
橘寺は聖徳太子、および自害した聖徳太子の子孫の霊を慰霊するための寺として建てられたのかもしれませんね。

●橘寺は聖徳太子の霊がたてた寺?

山背大兄王ら聖徳太子の子孫が斑鳩寺で首をくくったとき、聖徳太子はすでに亡くなっていたじゃないか。
すでに死んだ聖徳太子が自分の子孫を慰霊するための寺を建てられるはずがないって?

梅原猛さんは「古代の人は生きている人と死んだ人の区別をきっちりとつけていなかった。」とおっしゃっています。
橘寺の創建説話に登場する聖徳太子とは、すでに死んでこの世にはいなかった聖徳太子の霊だと考えると辻褄があいます。

死んだ聖徳太子の霊がこの世に戻ってきて、自害した自分の子孫たちが成仏できるようにと勝鬘経の講義を行い、また自分の子孫たちを慰霊するために橘寺を建てた。
そんなふうに昔の人々は考えたということではないでしょうか。

今でもこういう考え方をすることがあります。
例えば家を新築するとして、「家を無事に建てることができたのは死んだ親父が天国で見守ってくれたからだ。」みたいなことは普通に言われています。

本当は家を建てたのは死んだ父親ではなく、自分自身なんですけどね。
 
橘寺 芙蓉2 
  


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[2016/09/22 09:42] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥 飛石 彼岸花 『浮気の言い訳?』 

奈良県明日香村 飛石
2009年9月20日 撮影
 
飛鳥 飛石

●飛石

飛石とは川に石を並べて橋替わりにしたもののことをいいます。
明日香川には万葉集の時代から飛石があったようで、飛鳥川の飛石を読んだ歌が数首残っています。

●飛石を渡って女のもとに通う男

2701: 明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも
(明日香川の石橋(飛び石)を明日も渡ってあなたに会いに参ります。
石橋の石と石の間隔は途切れていますが、私の心は途切れることなくあなたを思っています。)


古代の日本は妻問婚だったので、逢瀬とは男が女に会いにいくものでした。
この歌は男性が愛しい女性に対して詠んだ歌だと思います。

この歌は万葉集の2701番の歌ですが、次の2702番も明日香川を詠んだ歌です。

飛石3

●水かさが増えて男がやってこないのを憂う女

2702: 明日香川 水行きまさり いや日異(ひけ)に 恋のまさらば ありかつましじ
明日香川(の水かさが増えるように、日ごとにに恋する気持ちが増していったら、とても生きてはいられません。)


明日香川の水かさが増すと石橋(飛び石)は水の底に沈んでしまうので、男は石橋を渡って女に会いに行くことができませんね。
2702番の歌は水かさが増えて男がやってこないのを憂いた女の歌のように思えます。

2713番も飛鳥川を詠んだ歌です。

●浮気する男の言い訳?

2713: 明日香川 行く瀬を早み 早けむと 待つらむ妹を この日暮らしつ
明日香川の速い瀬の流れのように、愛しいあの女は『早く来てほしい』と私を待っているだろうと思いながら、行くことができずに1日が過ぎてしまいました。)


水嵩が増して明日香川の瀬が速く、石橋はやはり水底に沈んだままのようです。
もしかしたら男は他に好きな女ができて言い訳をしているのかも?  

飛石 2 




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[2016/09/21 07:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥の彼岸花 と 鬼の雪隠(せっちん)・鬼の俎(まないた) 『暴かれた古墳』  

奈良県明日香村
2007年9月30日 撮影 


飛鳥の棚田 彼岸花 
そろそろ飛鳥の彼岸花も見頃を迎えているでしょうか?

●鬼の雪隠・鬼の俎

近鉄飛鳥駅で下車し、田圃の脇の細い道を歩いていくと、鬼の雪隠と呼ばれる謎の石が現れます。
雪隠ってトイレのことですよね。

鬼の雪隠 

鬼の雪隠


鬼の厠から少し歩くと、「鬼の俎」と記された道しるべがあります。
道しるべに従って階段を歩いていくと、平べったい石が現れます。
これが鬼の俎です。

鬼の俎  

鬼の俎 

昔、ここに鬼が住んでおり、霧を発生させて道に迷った人間を鬼の俎で料理し、鬼の厠で用を足したなーんて伝説が残されていますよ。

●鬼の厠、鬼の俎は石室だった。

残念ながらこれらの謎の石が鬼の雪隠・鬼の俎であったというのは伝説にすぎず、『鬼の厠』は古墳の石室、『鬼の俎』は石室の底石だと考えられています。

『鬼の厠』と『鬼の俎』はセットでひとつの石室だったという説、また明治時代まで『鬼の俎』の西にもう一つ別の俎があったそうで、二基の墓があったとする説もあります。。
現存しない俎の方は割られて庭石にされ、現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外に展示されているそうです。

●斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が有力


『鬼の厠』『鬼の俎』は二基の石室であり、斉明天皇と間人皇后が合葬された墓ではないかという説もありますが、
現在、斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が有力視されています。
(斉明天皇は孫の健皇子と合葬してほしいと詔していますが、日本書紀に合葬したという記述はなく、どうやら合葬されなかったようです。)

牽牛子塚古墳の石室はふたつあり、最近の発掘調査で八角墳であることが確認されました。
斉明天皇代の天皇家の墓のほとんどは八角墳なのです。

●石舞台古墳は暴かれた墓だった?

石舞台古墳 夕日  
鬼の厠・鬼の俎から1.5kmほど東に向かって歩いていくと石舞台古墳があります。

石舞台古墳は盛土が失われて石室がむき出しになっています。
昭和初期に発掘調査が行われ、南北約83m、東西81mの方墳であったことがわかりました。

不思議なのはこれだけ巨大な古墳の盛り土が全く失われてしまっていることです。
まるで今問題になってる豊洲みたいですね。

梅原猛さんは中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、石舞台古墳も暴かれた墓ではないかとおっしゃっています。

石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされていますが、馬子の孫の蘇我入鹿は自分の屋敷を宮門(みかど)と呼ばせるなど天皇のように振る舞っているのがけしからんとして、645年に中大兄皇子に斬殺されています。
翌日、入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺しました。
馬子の墓は謀反人・入鹿の祖父の墓だとして暴かれ、盛り土が取り除かれて石室がむき出しの状態にされたのかも。

●『鬼の雪隠』『鬼の俎』は蘇我蝦夷・入鹿親子の墓?

うーん、すると『鬼の雪隠』『鬼の俎』も石舞台同様、暴かれた墓なのではないでしょうか?
石室が二基あったということは、もしかして蘇我蝦夷・入鹿親子の墓だったりして?

そして霧を発生させて旅人を迷わせ、料理して食ってしまう鬼とは蘇我蝦夷・入鹿親子なのではないでしょうか?

高松塚古墳 光の地上絵 飛鳥光の回廊 『高松塚古墳の被葬者は蘇我入鹿だった?』  
↑ こちらの記事では「高松塚古墳は蘇我入鹿、キトラ古墳は蘇我蝦夷の墓」と書いてるじゃないか、って?

高松塚古墳と飛鳥美人 
高松塚古墳

私は蘇我蝦夷・入鹿の墓はいったん暴かれたのちに天災やら疫病の流行やらがあり、
それらは彼らの祟りであるとして高松塚古墳・キトラ古墳に埋葬されたのかも、と考えているのです。

高松塚古墳の被葬者には頭蓋骨の上部がありませんでした。(下顎の部分はありました。)
梅原猛さんはこれを「死後、白骨化してから持ち出したのではないか」とおっしゃっていました。

これはなかなか鋭い指摘だなあと思いました。
入鹿ははじめこの鬼の厠・鬼の俎付近の墓に葬られていたのが
後に謀反人であるとして暴かれ、そののち高松塚古墳に再び葬るさいに、頭蓋骨を抜き取った状態で葬られたのではないかと思ったりします。

頭蓋骨を抜き取るのは、蘇我入鹿が復活しないようにとのまじないではないかと思います。
肉体は魂の容れ物であり、頭蓋骨がない遺体にしておけば入鹿の魂は復活しない、と考えられたのではないかと思うのです。

●今木の双墓

日本書紀によれば、蘇我蝦夷と入鹿は生前に今来の土地に双墓をつくったとあります。
奈良県御所市に今来という地名があり、大字古瀬小字ウエ山に隣り合って存在する水泥古墳と泥塚穴古墳が蝦夷、入鹿の双墓ではないかと言われていますが、時代があわないとの指摘もあります。

鬼の俎・鬼の雪隠の西500mほどのところに梅山古墳があり、欽明天皇陵に治定されています。



※ 上の地図では道の北に「鬼の俎・鬼の雪隠」と記されていますが、これは間違いです。
「鬼の俎・鬼の雪隠」と記されているところは「鬼の俎」で「鬼の雪隠」はこの場所よりやや西で、道の南にあります。


黒岩重吾さんは蘇我蝦夷・入鹿の墓、今木の双墓は梅山古墳(現・欽明天皇陵)ではないかとしておられます。
現在の梅山古墳が前方後円墳になっているのは江戸時代に改修されたためで、それ以前の絵には双円墳が描かれているというのです。
黒岩さんが見た絵と同じかどうかわかりませんが、こちらのサイトの下に古い欽明天皇陵を描いた絵が掲載されています。 → 

上から見下ろした絵なら古墳の形がはっきりわかりますが、横から見た絵なので古墳の形がはっきりわかりません。
双円墳のようにも、崩れた前方後円墳のようにも見えます。


黒岩さんの説にしろ、私の説にしろ、飛鳥には今木という地名がない点が弱点ですね~。
地名が変わるということはふつうにあることではあるんですが。



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[2016/09/20 15:37] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

浮見堂 夕景と月 『十五夜が満月とは限らない?』 

奈良市春日野町 鷺池 浮見堂

 ●中秋

2016年は9月15日が中秋の名月とのことですが、そもそも中秋とは何でしょうか?
中秋とは旧暦の秋の真ん中ということですね。
旧暦では7月・8月・9月を秋としていたので、旧暦8月15日が中秋ということになります。
2016年9月15日は旧暦では8月15日なんですね~。

 浮見堂 夕景 2

●十五夜が満月とは限らない。

六曜・月齢・旧暦カレンダーを見てみると、2016年9月15日が十五夜ですが、満月は9月17日となっています。

旧暦は月の周期をベースとした暦なので、新月の日が1日、新月から15日目の夜が十五夜で満月なのだと思っていましたが、どうやら違うみたいです?
ちょっと調べてみました。

※ニワカ知識の上、理数系は苦手なので(汗)もしかしたら間違いがあるかもしれません。
間違いがあればご指摘いただけると嬉しいです。

浮見堂 夕景 
●昔は十五夜と満月は同じ日だった。

古には新月の日を1日、新月から15日目の夜が十五夜で満月としていました。
どうやら月が真ん丸でなく、多少欠けていても十五夜の月を満月と呼んでいたようです。

浮見堂 夕景

●現在では新月や満月は一瞬で、その一瞬を含む日を新月・満月と言っている。

ところが現在では新月や満月という言葉には次のように天文学的な意味が加えられています。

新月・・・太陽と月が地球から見て同じ方向にある瞬間
満月・・・太陽と月がを挟んで180度反対側にある瞬間

新月や満月は一瞬ですが、その一瞬を含む日を一般には新月、満月と言っています。

例えば満月の瞬間がその日の0時0分01秒でも23時59分59秒でもでもその日が満月の日となります。
これが十五夜と満月の日がずれる原因のひとつです。

浮見堂 月 

●満月の日の月齢は13・8から15.8と幅がある。

もうひとつの原因は、月の軌道は楕円なので、満ち欠けの速度が一定ではないことにあります。
そのため、新月の瞬間から満月の瞬間までの経過日数も一定になりません。
満月の日の月齢(月齢1=1日)は13.8から15.8で、平均すると 14.76(14.76日)となります。

浮見堂 月


●月齢はその日の正午の月齢

六曜・月齢・旧暦カレンダーを見ると、十五夜の9月15日の月齢は13.7、満月の9月17日の月齢は15.7となっています。

13.7とか15.7はその日の正午の月齢で、正午月齢をその日の月齢としているそうです。

浮見堂 送り火と月


●実際に計算してみる。

このように聞いてもいまひとつピンとこないので実際に計算してみました。

①.新月の瞬間が9月1日の23時59分で、満月の月齢が13.8であったとき、満月になるのはいつでしょうか。

まず月齢13.8を時間に換算してみましょう。
.月齢1=1日なので 月齢13.8=13.8日
13.8日を13日と0.8日とわけます。(計算苦手なのでわけないと計算できない)・・・笑
0.8日を時間に換算すると

24時間×0.8日=19.2時間
さらにこれを19時間と0.2時間にわけます。
0.2時間を分に換算すると

60分×0.2時間=12分
∴月齢13.8=13日と19時間12分


9月1日の23時59分から13日と19時間12分が経過したときの時間は
(1+13)日+(23+19)時間+(59+12)分
=14日+42時間(1日と18時間)+71分(1時間11分)
=15日19時11分

これが満月になる瞬間の時間になると思います。

②新月の瞬間が9月1日の0時0分で、満月の月齢が13.8であったとき、満月になるのはいつでしょうか。

上の計算で月齢13.8=13日19時間12分とでています。
9月1日の0時0分から13日19時間12分が経過した時間は、
(1+13)日+(0+19)時間+(0+12)分
=14日19時12分


①新月の瞬間が9月1日23時59分で、満月の月齢が13.8のとき、満月の瞬間は9月15日19時11分
②新月の瞬間が9月1日0時0分で、満月の月齢が13.8のとき、満月の瞬間は9月14日19時12分


このように、新月が同じ日で、満月の月齢が同じでも、新月の瞬間の時間の差によって満月になる日は1日ちがってきます。

③新月の瞬間が9月1日の23時59分で、満月の月齢が15.8のとき、満月になるのはいつでしょうか。

①の15日19時11分に満月の月齢の差(15.8-13.8=2日)を足すと
17日19時11分となります。

③新月の瞬間が9月1日23時59分で、満月の月齢が15.8のとき、満月の瞬間は9月17日19時11分

新月の瞬間が同じでも満月の月齢(13.8~15.8)が違えば満月の日は最大2日違ってしまうのです。
新月の日が同じでも新月の瞬間の時間が異なっていて、さらに月齢が違うと満月の日は最大3日違ってしまいます。

一方、十五夜というのは単純に新月より数えて15日目のことをいいます。
①のケースでは十五夜と満月は同じ日、②のケースでは十五夜の前日が満月、③のケースでは十五夜の2日後が満月となります。

だいたい、こんな理解でいいのかな?
どなたかチェックして下さ~い。(汗びっしょり)

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[2016/09/16 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥 光の回廊 川原寺 『伊予親王が幽閉された川原寺は飛鳥の川原寺ではなかった?』  

 奈良県飛鳥村 弘福寺 川原寺跡

●謎の大寺

弘福寺の前にはたくさんの礎石が並んでいます。
これらの礎石はかつてここにあった川原寺の遺跡です。

川原寺跡 と 弘福寺

川原寺の創建は日本書紀に記述がなく、「謎の大寺」とも呼ばれています。
おそらく飛鳥時代に創建されたものと考えられています。
1191年に焼失し、現在は金堂跡に弘福寺が建てられています。

●伊予親王の変


さて、川原寺といえば思い出す事件があります。
807年におきた「伊予親王の変」です。

807年、「藤原宗成が伊予親王に謀反をすすめている」との報告が朝廷にありました。
朝廷が尋問を行ったところ、藤原宗成は「伊予親王が謀反の首謀者である」と答えました。
これを聞いた平城天皇(伊予親王の異母兄)は伊予親王と母親の藤原吉子を川原寺に幽閉しました。
伊予親王と藤原吉子は飲食をたたれ、毒をあおって自害しました。

のちに伊予親王・藤原吉子は無罪であったとされ、二人は御霊として京都の上御霊神社・下御霊神社に祀られました。

上御霊神社 六斎念仏 

上御霊神社


下御霊神社 
下御霊神社

●御霊って何?


政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は死後怨霊となり、天変地異や疫病の流行を引き起こすと考えられていました。
そこで怨霊が祟らないように、慰霊し神として祀ったものを御霊といいます。

●伊予親王と藤原吉子が幽閉された川原寺は飛鳥の川原寺なのか?

一般に、伊予親王と藤原吉子が幽閉された川原寺は飛鳥の川原寺だと考えられているようです。
ウィキペディアの「伊予親王」「伊予親王の変」「藤原吉子」などの項目に記された「川原寺」の文字は、飛鳥の川原寺にリンクされていますし。

ですが、ウィキペディアの「川原寺」の項目には、「伊予親王と藤原吉子が幽閉された場所である」との説明はありません。

川原寺ってよくありそうな寺名ですが、本当に二人が幽閉されたのは飛鳥の川原寺なんでしょうか?

弘福寺 雨 
雨に煙る弘福寺と川原寺跡

●二人が幽閉された川原寺は長岡京の川原寺だった?

ググってみたところ、次のサイトがみつかりました。
明日香村文化財調査研究紀要 −第6号−【PDF】
結構なボリュームのある文書なので、全部は読んでいないのですが、次のように書いてあります。
ピンク色文字部分、全て 明日香村文化財調査研究紀要 −第6号−【PDF】  より引用。

『日本紀略』/大同二/807/11 月6日条  0突丑。徒親玉井母夫人藤原吉子於川原寺、幽之一室、不通飲食。

『日本紀略』に記された文章ですね。
二人が幽閉されたのは川原寺とあるだけで、大和とか飛鳥という言葉はありません。

寺院では、大同 2年( 807 )、 謀反の罪により伊予親王とその母藤原吉子が幽閉された川原寺(D)、同じく大同 5年( 810 )、平城天皇の不予により諦経を行った川原寺、長岡寺(宝菩提院廃寺) (4) ( E)がみえる口
これらはともに「京下七寺」と称された長岡京内の寺院である。


ここには伊予親王と藤原吉子が幽閉された川原寺は長岡京内にあったと書かれています。

③ [川原寺〕 左京五条三坊一町に位置する。平安時代初期の軒瓦や土器類はあまり出土していないが、文献から平安京遷都後もしばらくは存続していたと考えられる。

●平城天皇はなぜ川原寺でお経をあげさせたのか。


②に「大同 5年( 810 )、平城天皇の不予により諦経を行った川原寺」とありますが、「不予」とは「貴人の病」のことです。
「諦経」の意味がわかりませんが(汗~ 現代文なのにわからなくて恥ずかしいー)平城天皇は病を患って川原寺でお経をあげさせた、ということだと思います。

平城天皇はなぜ川原寺でお経をあげさせたのでしょうか?

平城天皇は幼いころ病気になり、病気の原因を占ったところ「早良親王の怨霊の祟り」と告げられたのだとか。

785年、早良親王は謀反が疑われて長岡京の乙訓寺に幽閉され、淡路へ流罪となる途中、現在の大阪府守口市付近で憤死したと伝わります。

乙訓寺 牡丹 

乙訓寺

早良親王は桓武天皇の同母弟で、桓武天皇の皇太子にたてられていました。
ところが桓武天皇は弟よりも我が子(平城天皇)を皇太子にしたいと考え、早良親王に無実の罪を着せたのではないかとも言われています。

810年に平城天皇が患った病は、伊予親王の怨霊の祟りだと考えられ、それで川原寺に幽閉されていた早良親王の霊を鎮めるため、ここでお経をあげさせたのではないでしょうか?

●長岡京は罪人を幽閉する場所だった?

さきほど述べたように、785年、長岡京の乙訓寺には早良親王が幽閉されていました。

長岡京が都だったのは、784年から794年です。
わずか10年で捨てられた都を、平城天皇は罪人の流刑地としていたのかも?

川原寺 ライトアップ

川原寺跡と弘福寺(飛鳥 光の回廊)



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[2016/09/08 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥 光の回廊 飛鳥板葺宮跡 飛鳥寺 『鞍作鳥と鞍作太郎(蘇我入鹿)は同一人物だった?』 


飛鳥板葺宮跡・・・奈良県明日香村岡
飛鳥寺・・・奈良県高市郡明日香村飛鳥682


●乙巳の変の舞台となった飛鳥板葺宮

飛鳥板葺宮跡 
飛鳥光の回廊・飛鳥板葺宮跡

642年、舒明天皇が崩御し、舒明天皇の皇后・寶女王が即位して皇極天皇となりました。
皇極天皇は蘇我蝦夷に命じて新宮殿を作らせ、643年に新宮殿に遷りました。
これが飛鳥板葺宮です。

643年、蘇我蝦夷は子の蘇我入鹿に大臣を譲り、蘇我入鹿が政権のトップとなります。

645年、皇極天皇の皇子である大海人皇子が中臣鎌足と謀って飛鳥板葺宮で蘇我入鹿を殺害します。(乙巳の変)

飛鳥板葺宮は乙巳の変の舞台、入鹿が殺害されたのはここだったのですね~。

入鹿の死後、蘇我蝦夷は自宅に火をつけて焼身自殺しました。
こうして蘇我宗本家は滅びました。

●仏師・鞍作鳥が刻んだ飛鳥大仏

飛鳥板葺宮からてくてく歩いていくと飛鳥寺があります。
飛鳥寺は蘇我蝦夷の父・蘇我馬子が創建した寺です。

飛鳥寺 ライトアップ 
 
↓ 飛鳥寺の本尊、飛鳥大仏(釈迦如来)です。

 飛鳥寺 飛鳥大仏

日本書紀によれば、この飛鳥大仏を刻んだ仏師は鞍作鳥(鞍作止利)となっています。
法隆寺金堂の釈迦三尊像を作ったのも鞍作鳥とされます。

●鞍作鳥と鞍作太郎

私はこの鞍作と言う名前が気になっています。
というのは蘇我入鹿の別名が鞍作太郎というんですよ!

飛鳥寺 入鹿の首塚 
 飛鳥寺の背後にある蘇我入鹿の首塚

●鳥は死んだ人の魂を表す?

記紀には鳥たちがアメノワカヒコの葬儀を行ったという記述があります。
またササキという鳥がいますが、ササキに御をつければミササギ(陵)となります。
どうやら鳥は死と関係が深い動物だと古の人々は考えていたようです。

古代の巨大前方後円墳は地上から見てもその形を認識することはできません。

反正天皇陵 
上の写真は大阪府堺市の反正天皇陵です。
堺市役所21階展望ロビーから撮影したのですが、よく形がわかりません。

でも空高く飛ぶ鳥が真上からみるとこんな風に見えて、前方後円墳の形がはっきりわかるでしょう。↓



古の人は死んだ人の魂は鳥になって天に昇ると考え、空の上からはっきり形がわかるようにと巨大古墳を作ったのではないでしょうか。

もしかして鞍作鳥とは「死んだ鞍作太郎(蘇我入鹿)の魂」という意味だったりして?

もちろん実際に仏像を刻んだのは熟練した仏師で、入鹿ではないでしょうが
古代には著作権という考え方はありませんでした。

入鹿の魂が乗り移った仏像だという意味で、飛鳥大仏の作者は鞍作鳥(=鞍作太郎の霊=蘇我入鹿の霊)とされているのだったりして?

高松塚古墳 光の地上絵 飛鳥美人 

私が蘇我入鹿の墓ではないかと考えている高松塚古墳の広場に描かれていた光の地上絵
(高松塚古墳壁画に描かれた飛鳥美人をモチーフとしたもの)

参照/高松塚古墳 光の地上絵 飛鳥光の回廊 『高松塚古墳の被葬者は蘇我入鹿だった?』  

この光の地上絵も展望台から見下ろさないと何が描いてあるのかわからないんですよ~。
蘇我入鹿は空の上からこの飛鳥美人を見たでしょうか?



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[2016/09/07 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)