出だし、二月堂裏山道となってますが、裏参道のまちがいです。
毎回、どこか間違える。すいません。
「火渡り」の写真はものすごく昔に、フィルムで撮影したものです。 炎がめらめら燃えててスリル満点ですが、数年前に行った時には火は消火してやっていましたw 火祭では結構こわい目にあったりします。 どことは言わないですが、隣の人の肩に大きな火の塊がおちたり、 鬼が投げた松明が子供の上におちたり~ (幸い大事にはいたりませんでしたw) gifだと画質がかなり落ちるのが残念だと思っていたのですが、jpegでつないでいるので画質の悪化は防げていると思います。 位置合わせして、1枚1枚jpegで保存。 三脚を使用せず、手持ちで撮影した場合、どうしても構図にずれが生じるので 連写した写真の構図をそろえる必要があります。(位置合わせ) ※位置合わせしなくても、面白いアニメになることもありますが。 位置合わせはフォトショップで自動でできるので時間かからないです。 位置合わせした写真をまとめてjpegで保存ができず、1枚1枚保存しているので時間がかかる~。(フォトショップエレメンツ13の場合) あとコマが足りなくてスムーズな動きになっていない箇所が数か所w 文章が縦書きだったり横書きだったりするので読みにくいと意見をいただいたので、次回から直すことが出来ればと思っています。 (文章不要じゃないかという意見もいただいていますがw) gifアニメの画質はこれ↓ ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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奈良県生駒市 宝山寺  宝山寺の本堂。本堂の後ろは朝日嶽で、般若窟 があります。役小角が般若経を納めたといわれていますよ。  般若窟には弥勒菩薩像が祀られていました。  本堂の向かって左にあるのは聖天堂拝殿。 聖天さんとは鬼王ビナヤキャと十一面観音の化身であるビナヤキャ女神がい抱き合う男女双体の神です。 もともとインドの神であったのが仏教にとりこまれました。 わかりにくいですが、鳥居には「歓喜天(聖天さんのことを歓喜天ともいいます)」と記されていました。 鳥居を作るのは日本の神だけかと思いましたが、仏教の神にも鳥居をつくるんですね。 また聖天堂に拝殿をつくるというスタイルも始めてみました!  聖天堂拝殿。広角レンズがないと全部入らないですw 聖天さんのシンボルの巾着袋が置かれていますね。巾着の柄はわかりにくいですが打出の小槌でした。  聖天堂拝殿前に置かれた大根が描かれた巾着袋。 大根と巾着袋は聖天さんのシンボルです。  西門付近から聖天堂拝殿、本堂を望む。  多宝塔  多宝塔内部。写真撮影ok~。日曜日は開扉していますよ。  浴室もありました。御坊様が使われるのでしょう。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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奈良市 北山十八間戸 夕日観音
鎌倉時代に作られたハンセン病患者療養施設です。 18部屋と、東西に仏間があるということです。 内部どうなっているのか見てみたいけど、扉がしまっていてみることができませんでした。 かつてハンセン病患者は文殊菩薩の化身などといわれていました。 隣接するお好み焼き屋さんに「見学したいんですが~」というと鍵をあけてくれて、説明もしてくださいましたよ。 ありがとうございました。 建物の裏手には北山十八間戸の文字が。 この写真を撮ったあと急に大雨となり、傘もってなかったので、写真撮影を断念しました。 植山牧場のソフトクリーム(おすすめ!)を食べられず、残念ー。 北山十八間戸ちかくにある夕日観音 こちらの記事もお読みいただけると嬉しいです。 謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑦ハンセン病患者は文殊菩薩の化身だった。 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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奈良県宇陀市榛原戒場 戒長寺
①不思議な戒長寺のお葉つきイチョウ
以前、戒長寺の記事を書きました。山部赤人の墓 額井岳 紅葉 『言霊の使い手&戒場=開成?』 戒長寺の住職さんに素敵なお土産をいただいたので(ありがとうございます!)、今日はその話をしたいと思います。
まずはお土産の写真をご覧ください。↓
イチョウの葉っぱと銀杏です。 とても素敵なお土産で超うれしかったです!
住職さんがいうには、二股に分かれている葉が雄(向かって右)で、分かれておらず扇のような形をしているのが雌(向かって右より2つ目)だということです。 中央の黄色い葉っぱは雌ですが、よく見ると少し色が濃くなっているところがありますね。 写真ではわかりにくいかもしれませんが色の濃いところは少し盛り上がっていますよ。 これがどんどん膨らんで向かって左のようなお葉つきイチョウになるのだとか。 なんという不思議!
上は戒長寺にあった説明板です。内容を下にまとめておきます。
①イチョウは裸子植物のイチョウ科に属する。 ②イチョウはシダのように胞子をつくる胞子植物と種子を種子植物の両方の性質をもつ。 ③イチョウは受精の際、シダと同様運動する精虫ができる。 ④シダ類は葉に胞子をつけるのと同様、お葉つきイチョウも葉に種子をつける。
http://www.kyoboku.com/ohatsuki/ 上のサイトによると、お葉つきイチョウは日本には20本ほどしかなく、そのほとんどが雌株だとあります。 そして山梨県身延町八木沢にあるイチョウと、三珠町にあるイチョウの2株のみ、雌雄株だと書かれています。 しかし、住職さんいわく、戒長寺のお葉つきイチョウも雌雄株だということです。

戒長寺 本堂
②イチョウは精子をつくる。
まず一般的なイチョウについてみてみましょう・
https://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005100132_00000 上のサイトの動画および説明がわかりやすいです。
①イチョウは4月ごろ花を咲かせる。雄の木は雄花(下向きに垂れ下がる)、雌の木は雌花をつける。(上向き) ②風で雄花から花粉が飛び、雌花の先からでた液に雄花の花粉がつく。 ③花粉は液とともに雌花の先にある穴から吸い込まれる。 ④吸い込まれた花粉は穴の奥にある小さな部屋に入り、精子を作る準備をする。 精子と受精する卵(らん)は、その小さな部屋の下にある丸い部分で作られる。 ⑤9月、雌花は大きく育って垂れ下がる。卵がふたつでき、その下に精子ができる。 ⑥精子は一つの袋に二つできる。繊毛(せんもう)を使って、袋の中で活発に動く。 ⑦袋のまわりの空間は液体で満たされる。袋から出てきた精子はその中を泳ぎ卵に向かって受精する。
説明板に精虫とあるのは精子の事だと思います。

戒長寺 鐘楼
②お葉つきイチョウは花が咲くのか?
コトバンクに次のように記されていました。
葉が2裂して,片方が葉,片方が胚珠となること(お葉付きイチョウ)もイチョウの祖型を探る意味では興味ある現象である。
https://kotobank.jp/word/%E3%81%8A%E8%91%89%E4%BB%98%E3%81%8D%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6-1284157より引用
胚珠とは種子植物の種子になる部分のことをいいます。 花粉から花粉管が胚珠内部へと伸び、花粉内部の精細胞が胚珠内部の卵細胞と受精します。
ということは、お葉つきイチョウは葉の部分にこの胚珠ができるということだと思います。 コトバンクの説明では、葉が2裂してとありますが 戒長寺のイチョウは2裂しない葉に実ができていました。 戒長寺のイチョウは珍しい雌雄同株だということですし、他とはちがう性質をもっているのかもしれません。
受粉するということは、花が咲くということですよね? 戒長寺のお葉つきイチョウは雌雄体ということなので、たぶん雄花は咲くのでしょう。 雌花はどうでしょう?咲くのでしょうか?
戒長寺 遠望
③大胞子葉と栄養葉
ウィキペディアには次のように記されていました。
現生の種子植物の中では、ソテツ類ともに最も原始的な性質を残した植物とされる。 雌花(大胞子葉)は栄養葉(普通の葉)に似た形をしており、実際葉にギンナンのついた「お葉つきイチョウ」(Ginkgo biloba 'Epiphylla' )も見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E9%A1%9E より引用
胞子葉とは胞子(生殖細胞)をつけるように分化した葉のことです。
ということは、雌花は咲かないんでしょうか?
春に双眼鏡持って見にいくしかないかな。ご存じのかた、教えてください!
④お葉つきイチョウの雄株、しかも性転換した!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E%B2%A2%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%8F%E3%83%84%E3%82%AD%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6
山梨県南巨摩郡身延町上八木沢にある八木沢のオハツキイチョウは珍しい雄株のお葉つきイチョウだそうです。 ふつうのお葉つきイチョウは葉に銀杏をつけますが、八木沢のお葉つきイチョウは銀杏ではなくおしべをつけるとのこと。
2011年、雄株なのに銀杏の実をつけているのが発見され、調査したところ、一枝のみ性転換していることがわかったのです。
⑤性転換する植物
性転換する植物は結構あるみたいですね。 マムシグサ、ムサシアブミなどは球茎の重さによって雌雄が決まるという研究があります。
イチョウは雄株のはずなのに銀杏が実ったという話が結構あるようです。
⑥雄略天皇は性転換して女神の一言主大神になった?
昔の人はイチョウが性転換するということを知っていたのではないでしょうか。
というのは大イチョウを御神木とする一言主神社にこんな神話があるんですね。
雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。 その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。 雄略が『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、 向かいの山の方から、『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と同じ言葉が返ってきました。 雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、 『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。 これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』 と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。 一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。
長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』ですが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。 『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。 『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないでしょうか。
長谷という地名は葬送の地を意味していると聞いたこともあります。 今でも長谷寺の奥の院あたりにはたくさんのお墓があります。
つまり「名前を問われたほうが先に名乗る」というようなしきたりがあったのに、 雄略天皇がうっかり「それぞれが自分の名を名乗って矢を放とう」と言ったので 木霊(山彦)である一言主大神はまず自分が名を名乗る必要が生じたため、 実体のある神となって名を名乗り、雄略天皇を矢で射た。 そして一言主大神は死んだ雄略天皇を黄泉の国へ連れて行ったという話ではないかと思います。
そして一言主大神は女神だと考えられます。 というのは雄略天皇がこんな歌を詠んでいるからです。
籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの? 大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳)
これに対して彼女はこう答えたのではないかと思うのです。
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である!』
一言主神は狩りをしていた。一方娘は菜を摘んでいた。二人は違うことをしているので、同一神ではないのではって?
でも狩りと菜摘みは関係があるんですよ。
狩りは鹿狩り、菜摘みは薬草を摘むことではないかと思います。 鹿狩と薬草摘みはどちらも古には旧暦5月5日に行われる行事で、薬狩りと呼ばれていました。
一言主神も娘も薬狩りをしていたということで共通点があり、同一神であると思うのです。
つまり男性である雄略天皇が性転換したのが一言主大神である(ふたりは同じ衣装を着ており同じ容姿をしていると考えられます。)ということで性転換するイチョウを一言主神社の御神木としたのではないかと思ったりするわけです。
一言主神社 御神木の大イチョウ
⑦容姿を気にする神は女神では?
平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」にはこんな話が記されています。
役行者は鬼神たちに葛城山と吉野金武峰山を結ぶ橋をかけるよう命じたが、一言主神は顔が醜いのを気にして夜しか働かなかったため橋は完成しなかった。 これに怒った役行者は一言主神を呪術で縛り付けた。
容姿を気にするあたり、やはり一言主神は女神じゃないのかな、と思ってしまいます。

上の写真は祇園祭・役行者山の御神体で、中央が役行者、向かって右は葛城神、向かって左は一言主神です。 一言主神は鬼の姿をしています。 私なんかは鬼の姿をした一言主神ってかっこいいと思いますが、一般的に見て美しいとは言い難いかも。 やはり観音菩薩のような優し気な顔を美しいと思う人がほとんどでしょう。
一言主神社 御神木の大イチョウ
一言主神社の御神木の大公孫樹は気根が発達して乳房のように見えることから乳垂れイチョウと呼ばれています。 銀杏のにおいは記憶にないです。 なのでもしかしたら雄株かもしれませんが、その木姿から女神と考えられていたのではないかと考えられます。
また樹齢1200年ともいわれる古木なので、かつて銀杏の実をつけていた時代があったかもと思ったりします。
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奈良県吉野郡十津川村 谷瀬のつり橋 野猿 2019年11月20日 撮影
①谷瀬の吊り橋
何度か訪れたことのある城下町五條。 この道を右に入れば城下町五條新町。左へ入れば金剛寺。この坂をのぼっていくと吉祥寺。 でも今日は道を曲がらずにもっと先へ先へと向かいます。 賀名生梅林が見えてきました。 でもまだまだ先へ向かいます。 山はどんどん深くなってきて秘境の雰囲気が漂います。
谷瀬のつり橋にやってきました。
ものすごく高いところにかけられていて、しかも長いです。 川面からの高さ54m、長さ297.7 mということです。
しかも、この日は強風! 怖いので、写真を撮るだけにしましたが、私と同じような怖がりの方が橋のたもとに何人かいて、連れの方が戻ってくるのをまっておられました。(待っているのは男の方が多かったですw。)
長らくここには橋がなく、1954年、地元の方が1軒当たり20-30万円を出し合い、村の協力を得て建設したということです。 ウィキペディア等によると、当時、教員の初任給が7800円、米10キログラムが765円だったということで、20-30万円というのは大金です。 土津川の人々は、それだけの大金を出しても橋をかけようという気概のある方々であったということかもしれません。
水路橋 風屋ダムより十津川第一発電所に水力発電用の水を送る水路橋。
②土津川郷士
というのは、十津川は陸の孤島的な場所にあり、さらに地形が農耕に適さないということもあって、古より独立した村落共同体として存続してきたのです。
農耕に適さない十津川の人々は、税金を免除してもらうため、戦争に出兵するということを、672年の壬申の乱から幕末まで行っており、十津川郷士と呼ばれていました。
1160年には平治の乱に出兵、南北朝時代には南朝側について減税免税措置をうけています。 室町時代にも守護の支配下に入らず独立をたもち、秀吉の太閤検地でも免税されています。 1614~1615年の大坂の陣では、徳川方についたため、天領となって免租されました。
また、陸の孤島ともいえる険しい山々は、逃走者が身を隠すのに適した土地であり、南朝・源義経らが土津川に身を隠したといわれています。
水路橋 風屋ダムより十津川第一発電所に水力発電用の水を送る水路橋。
③野猿
↓ 野猿です。 手動式ロープウェイといってもいいかも。 かつてこの付近にはいくつかこのような野猿があったということです。
谷瀬のつり橋は怖くて渡れなかったのですが、野猿には乗ってみました。 乗ってみると思ったより怖くなかったです。 ちょっと力はいりますが、橋のたもとで友人がロープをひっぱるのを手伝ってくれたので、そんなに大変ではありませんでしたよ。

④なぜ橋ではなく野猿をかけていたの?
ここで疑問。 なぜ十津川村では川に橋ではなく、野猿をかけていたのでしょうか?
五箇山に野猿に似た似た「籠の渡し」があるそうですが、五箇山に行った際、地元の方に聞いたら「雪の日は屋内にしまってあるので見ることができない」ということでした。
実は友人に「あー、籠の渡し、見たかったなあ~」と愚痴ったところ、友人が「十津川に野猿あるから見に行こう」と誘ってくれたのでした。
写真はリンク先にありました。→ https://tripnote.jp/toyama/gokayama
五箇山に籠の渡しがあるのは、かつてここは流刑地であり、流刑者の逃亡を防ぐため、橋をかけることが禁止されていたからということです。
五箇山 田向 流刑小屋(復元) 小屋の壁に空いた小さな穴から食事などを差し入れます。
十津川は壬申の乱の時代から戦争に出兵していたのでしたね。 戦争には軍事機密はつきものです。 また、南朝や源義経らが身を隠した土地だということは、十津川の人々は彼らをかくまうことによっても免税などの利権を得ようとしていたのではないでしょうか。
そしてそういう目的があるため、あえて簡単に行き来できないようにと橋ではなく野猿をかけたのではないでしょうか。 橋ならあっという間に渡れるでしょうが、野猿だと渡るのにすごく時間がかかります。 追手などがやってきても、野猿でまごついている間にやっつけてしまえると思います。
あと、土津川の人々は話しかたが東京式アクセントだったり、蛇を「ぐちなわ」語尾に(のら「~ね」の意味)」を付けるなど、言語も独特のようです。
こういうのも、山深く周囲から隔絶された土地ならではかもしれませんね。
十津川の水はとてもきれいな水色でした。石灰が混ざってこんな色に見えるそうです。
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奈良県宇陀市 室生寺 2019年11月17日 撮影
①室生寺付近は水銀鉱山だった。興味深い記事を見つけました。 タイトルは「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 鉱産物(03-139)/大阪毎日新聞 1937.3.12 (昭和12)/意外な広大さから国史学界に波紋/京大田久保助教授、興味の調査/丹生の字義に新解釈?南大和の水銀鉱」 となっています。 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00063987&TYPE=HTML_FILE&POS=1内容をまとめます。 ①京大理学部地質鉱物学助教授田久保実太郎氏は南大和の水銀鉱調査し、有望な露頭鉱床を発見した。 ②その結果、宇太町附近の駒帰・稲戸・下芳野などの既知の水銀鉱山の他、多武峰・下居・大東・金剛山附近などいたるところ水銀の露頭鉱床を見出した。(広大な南大和水銀鉱) ③平安朝以来雨の神として信仰されている丹生明神がこの地方に多い。吉野には丹生川上神社もある。 ④丹生明神の荷は埴と同じく『土』の意味だと考えられてきた。 ⑤しかし、広大な南大和水銀鉱の存在を考えると、朱の原料・辰砂を産するところという意味ではないか。 ⑥丹生明神は辰砂を産する山を神格化したもので雨の神ではないのではないか。 ⑦古墳等に使われている朱(硫化水銀)は今日まで漠然と支那伝来のものと考えられていた。 ⑧しかし、南大和では辰砂の採掘、朱の製造が行われていたのではないか。 ⑨弘法大師は丹生明神に率いられて高野山を開いたといわれるが、これは大師が支那の新知識によって辰砂の採掘、朱の製造を行ったということではないか。 ⑩大師を開基とする 大和室生寺附近は田久保助教授によって水銀鉱山であることが証明されている。⑪大阪鉱山監督局 菅野鉱業課長は次のように話している。 「宇陀郡宇太町は昭和十年度には五、〇八九キログラムの水銀を産出している。 その他水銀鉱区として多武峰・葛城・吐田郷にも水銀の鉱区がある。 三重県飯南郡丹生村の附近にも伊勢水銀の鉱区があり昭和十年には水銀鉱十一キロトンを産している。 室生寺付近は水銀鉱山だったのですね。 ②仏隆寺で入定した堅恵室生寺の東南、直線距離2kmほどのところ、宇陀 市榛原赤埴に仏隆寺というお寺があります。 仏隆寺には開祖堅恵入定石室と呼ばれるものがあります。 仏隆寺の開祖・堅恵上人は即身仏となるべく、この石室に入定したのでしょう。 
『弘法大師如意宝珠納札銘』に 『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』とあります。 『宇一山』は正確には『宀一山(べんいつさん/ういつさん)』で『宀一』は『室生』の二字のそれぞれ上下を採ったもの。 『竹目々』は『竹木目』で『箱』の字を分解したもの。 『土心水師』は堅恵法師の部首を採った略とされます。 すると、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は『室生山精進峯の箱の底が堅恵法師の道場である』という意味になると思います。 即身仏となるとき、生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせたりしたようです。 つまり、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』とは、『堅恵は室生山精進峯に入定した』という意味なのかもしれません。 仏隆寺 彼岸花 『謎々です。『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は何と読む?』 ③水銀の防腐効果即身仏となるためには、木食といって五穀をたち、木の皮や木の実のみを食べる修業をします。 即身仏のメッカといえば山形の湯殿山ですが、湯殿山は水銀土壌なんだそうで、木食をすることで体内に水銀がたまり 水銀の防腐効果で腐りにくい体になると聞いたことがあります。 空海が高野山を欲したのも、高野山には水銀の鉱脈があったからだといわれます。 水銀は空海の懐を潤したかもしれませんが、それだけでなく、空海は即身仏となる際の水銀の防腐効果にも期待していたのではないかと思います。 すると堅恵が室生寺近くにある仏隆寺に入定したのも、水銀土壌であったからではないかと思ったりします。 ④赤埴という地名の由来仏隆寺のある場所は地名を赤埴というんですね。 『奈良縣宇陀郡史料』に次のように記されているそうです。 「(赤埴)氏は本姓大神にして大物主神の後大神君大友主より出ず、上古大国主神嫡后須勢理姫と共に宇陀の室生岩窟に入り五百引の石を以って之を塞ぎ赤土を以って其口を塗る、赤埴の称ここに起り其岩窟は即ち今の室生龍穴社なりと云う」
赤埴氏の本姓は大神氏で、オオモノヌシの後、大神君大友主から出た。 昔、オオクニヌシが后のスセリヒメと共に宇陀の室生岩窟に入り、引っ張るのに五百人必要なほど大きな石で岩窟を塞ぎ、その口に赤土を塗った。 赤埴という名前(地名?)はここからくる。 その岩窟は室生龍穴神社である。みたいな意味でしょうか。(違っていたら教えてくださいね!) ⑤埴も丹も「あかつち」埴とは黄赤色の粘土のことで、陶器などが作られました。ねばつち、あかつち、へな等とも言いました。 ですが、「丹」「辰砂」のことも「あかつち」「あかに」などと言いました。 (丹、辰砂は水銀) 岩窟をふさいだ石に塗った「あかつち」とは埴ではなく、丹だったりしないでしょうか? ⑥一富士・二鷹・三茄子の謎古知谷阿弥陀寺 紅葉 『即身仏と油』 上の記事に、古知谷阿弥陀寺には即身仏が安置されている、ということを書きました。 ただし、非公開で拝観することができないのですが。 この古知谷阿弥陀寺のそばを高野川が流れています。 高野川って、空海が入定した高野山と同じ名前ですね。 「一富士・二鷹・三茄子」といいますが、私はこれは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えています。 栃木県那須町の近くには足尾銅山があります。 愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山があります。 銅は茄子色をしています。 そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないでしょうか。 つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うわけです。 鷹は鷹の爪のことでしょう。 鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないでしょうか。 藤は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思います。 藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思います。 そして、高野山には水銀の鉱脈がありました。 すると高野川付近にも水銀の鉱脈があったので?と思えます。 ⑦高野川の古名は埴川だった。「日本後紀」によると、高野川は平安時代には埴川と呼ばれていたようです。 「雍州府志」には高野村を通ることが高野川の名前の由来だとあります。 しかし、高=水銀(丹)と、埴は混同されていたようにも思えて興味深いです。 
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奈良県宇陀市榛原山辺三 山部赤人の墓 奈良県宇陀市榛原戒場 戒長寺 2019年11月17日 撮影
山部赤人の墓①言霊の使い手額井岳のふもとに山部赤人の墓はありました。 山部赤人は奈良時代の人で古すぎるゆえ、本当にここが山部赤人の墓なのかどうかわかりませんが この付近の人々は、ここを山部赤人の墓だと信じ続けてきたのです。 なぜここに山部赤人の墓があるのか。あるいは、なぜここが山部赤人の墓だと信じられたのか。 ネットをぐぐってみると「宇陀市榛原山辺」という地名で、山部赤人は山辺赤人とも記されることがあったため、と記された記事がありました。 そういうこともあるでしょうが、私はやっぱり、有名なこの歌にちなんでのことではないかと思います。 田児の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける/山部赤人 実はさきほど山部赤人の墓は額井岳のふもとにあると書きましたが、額井岳は大和富士と呼ばれているのです。 「田児の浦」は駿河湾の西付近を指します。 当然、この歌も田児の裏で詠まれたものでしょう。 しかし山部赤人は死んで大和富士と呼ばれる額井岳のふもとに葬られたので、「山部赤人の歌には言霊があった。」と人々は考えたのかもしれません。 言霊とは言葉の力によって口から発した言葉を実現させてしまう力のことです。 つまり、山部赤人は「田児の浦ゆ」の歌を詠んだので、その言霊の力によって大和富士のふもとに葬られたと人々は考えたのではないかということです。 この墓が本当に山部赤人の墓でなくてもいいんです。(もしかしたら本当に山部赤人の墓かもしれないですが) 人々が山部赤人の墓であると信じたということが重要なんです。 額井岳②赤人は殺されて塩が振られている?また雪は謀反人に降る塩を思い出させます。 というのは摂津風土記にこんな話があるのです。 雄鹿は背に雪が降り、薄が生える夢をみました。 雌鹿は偽った夢占いをして「薄はささった弓矢。雪は殺されて塩がふられているのです。出かけるとあなたは殺されてしまうでしょう。」 しかし雄鹿は淡路島にすむ妾の鹿に会いにでかけてしまい、夢占いとおりに舟人に射られて死んでしまいました。 もしかしたら山部赤人もまた殺されて、塩が振られたのかもしれません。 とすれば「田児の浦ゆ」の歌は、殺されることを予知した夢であると考えられた可能性もでてきます。 戒長寺 遠望 (戒場山)③戒場は開成?山部赤人の墓の正面に立つと、山が見えます。そしてその山の中腹に大イチョウが見えます。 戒長寺の御神木・お葉つきイチョウです。 その山の名前を聞いて、テンションあがる、あがる! 戒場山。 かいばやま、と読むんでしょうか。 でも、戒場と書いて、「かいじょう」とも読めますね。 そして戒成皇子、海上皇子、開成皇子と呼ばれる皇子が、各地の寺社の創建説話に登場しています。 志貴皇子の子にも、海上王(本朝皇胤紹運録)または海上女王(続日本紀)という名前が記録されています。 神峯山寺 | 大阪府高槻市 | 開成皇子 | 光仁天皇に命じられ神峯山寺を開く | 役行者が開基し、774年に開成皇子が創建した。 | 勝尾寺 | 大阪府箕面市 | 開成 | 光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄 | | 白山神社 | 静岡県磐田市 | 海上皇子(戒成皇子) | 桓武天皇の第四皇子 | 裸足で大地を踏んだので病になった。 | 白山神社 | 愛知県新城市 | 開成皇子 | 後醍醐天皇の第3皇子 | 裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。 | | | 海上王(本朝皇胤紹運録) または海上女王(続日本紀) | 志貴皇子の子 | 志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になった。 (奈良豆比古神社伝説) |
奈良豆比古神社には志貴皇子がハンセン病を患ったという伝説があります。 そして愛知県新城市の白山神社には、「開成皇子は裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。」という伝説があります。 もしかして山部赤人もハンセン病を患ったのでしょうか? 612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。 白斑の男はこう言って抵抗した。 「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。 私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」 そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。(日本書紀) ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。 鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。 次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないでしょうか。 謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。 山部赤人と開成皇子は関係がありそうに思えます。 もう少し調べてみます。 戒長寺 本堂 戒長寺 鐘楼まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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奈良市雑司町 東大寺
東大寺 三月堂 百日紅
①執金剛神の髻、平将門の乱を平定する。
三月堂の不空羂索観音の後ろの厨子に秘仏の執金剛神(しゅこんごうじん)が安置されています。 この執金剛神には次のような伝説があります。
940年、平将門の乱がおこったとき、執金剛神の前で将門誅討の祈祷を行った。 すると執金剛神の髻が大きな蜂となって東方へ飛びさり乱を平定した。 そのため、執金剛神には髻の元結紐の端が決失している。
この伝説にちなみ、今日は成田山不動尊 夕景『将門関連七神社は北斗七星をあらわしていない?』 のつづきを書きたいと思いま~す。
東大寺 三月堂 百日紅
②将門関連七神社=北斗七星説に納得できなかった3つの理由
成田山不動尊 夕景『将門関連七神社は北斗七星をあらわしていない?』 ↑ こちらの記事で、「東京には平将門に関連する神社がたくさんあり、それをつなぐと北斗七星の形になる(将門魔方陣)」と、加門七海さんが指摘しておられるという話をしました。
ですが、私には納得できないことが3点ありました。
a.将門関連七神社というが、東京には将門関連の寺社は11か所あります。
b.私は「江戸城は天の北極、筑波山はカシオペア座、富士山は北斗七星になぞらえられている。」と考えています。 その理由については、次の記事をお読みください。 富士山 夕景色と朝景色 『関東に北極星・カシオペア座・北斗七星が存在していた?』 すると、下図のように、北斗七星がふたつあっておかしなことになってしまいます。 実際の天の北極の近くにはこぐま座がありますが、将門魔方陣はこぐま座とは形がちがうし、位置も異なります。
※現在はポラリスがほぼ天の北極にあって北極星とされていますが、歳差運動の影響で1600年ごろの天の北極は上図のようにポラリスからはやや離れていたと思われます。 c.bは夜空を反転させた形でなぞらえられている。(星が天球にはりついているものとし、天球の上から星をながめると左右反転してみえる。) すると将門関連七神社がつくる北斗七星の形は左右反転していることになる。 (北斗七星と将門魔方陣は左右反転していますね)
⑥将門関連寺社の由緒
これ以上のことは、加門七海氏の著書「将門魔方陣」を読んだり、将門関連11寺社について調べてみないことには結論が出せない!
ということで、さっそく本も読み、将門関連11寺社についても(主にウィキペディアで)調べてみました。
これらの寺社の由緒をざっと表にまとめておきます。 加門氏は七神社を将門サイド(鳥越神社・兜神社・首塚・神田明神・鎧神社・稲荷鬼王神社・筑土神社・日輪寺)、アンチ将門(筑土八幡神社・水稲荷神社・烏森神社)という風にわけておられるので 将門サイドはピンク色文字、アンチ将門は水色文字でわけておきました。 オレンジ色で示したのはウィキペディアには記載がなかったが、加門氏が本に書かれていた内容を記したものです。
●将門関連七神社
鳥越神社 | 景行天皇代に、日本武尊が皇祖二柱の大御神を祀った。 651年、村民が「白鳥明神」として奉祀した。 前九年の役征圧のため源頼義・義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り 大川(隅田川)を渡ることができた。 白鳥明神のご加護として鳥越大明神の社号を奉った。 1620年、江戸幕府は浅草御蔵を造営するため、土地を没収して大明神のある鳥越山を切り崩し埋め立て用に用いた。 三社のうち熱田神社は今戸へ、第六天榊神社は森田町(現・蔵前3丁目)に遷され、残った大明神が現在の鳥越神社
千葉氏という一族が神職を務めている。千葉氏の祖先は平将門の叔父・平良文であるともいう。
将門の首がここを飛び越えたとする説あり | 兜神社 | 境内に兜岩と呼ばれる岩がある。 由来については3つの説がある。 1.後三年の役(西暦1080年代)で、源義家が奥州から凱旋してきたとき、東夷鎮定を祈願して兜を楓川の辺の土中に埋めて塚を作った 2.前九年の役(西暦1050年代)で、源義家が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願した 3.承平の乱(西暦935~940年)のころ、藤原秀郷が平将門の首を打って京都へ運ぶ際、将門の兜を埋めて塚をつくり供養した。 鎧の渡付近に将門を祀った鎧稲荷や源義家の兜塚があった。
昭和2年現在地へ移転 江戸時代より兜岩は現在地へあった。 | 首塚 | 首塚はかつて盛り土と石室・石郭があり古墳だったとみられる。 将門の首塚、東国の平氏武将の崇敬をうける。 芝崎村住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきた。 1307年、他阿真教が将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立した。 首塚の近くには天台宗寺院日輪寺があったが、時宗芝崎道場に改宗した。 日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという。神田明神別当をつとめる。 江戸時代、日輪寺は浅草に移転するも、今なお神田明神とともに首塚を護持している。 首塚は江戸時代まで酒井雅楽頭の上屋敷の中庭にあったが、関東大震災によって損壊。 周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなったが、大勢の関係者が謎の死をとげ将門の祟りと噂された。 昭和2年(1926年)将門鎮魂碑が建立された。
芝崎には安房神社があり将門は生前同系の神社に太刀などを治めていた関係で、首をここに埋めた。
| 神田明神 | 730年、武蔵国豊島群芝崎村に入植した出雲系氏族が、大己貴命を祖神として祀る。 神田はもと伊勢神宮の御田(神田)があり、神田を鎮める目的で創建され、神田ノ宮と称した。 神田明神の近くに将門の首塚があった。 1309年、平将門が当社の相殿神とされる。 1603年、神田台へ移転。1616年、現在地へ移転。 1874年(明治7年)、明治天皇行幸の際、逆臣である平将門が祀られているのはよくない、として 平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨木県大洗磯前神社から勧請された。 平将門は境内摂社に遷された。 1984年(昭和59年)平将門、本社祭神に復帰した。
| 筑土八幡神社 | 嵯峨天皇代(809-823)、老人の夢に顕れた八幡神の夢告げにより、創建。 850年、円仁、最澄作の阿弥陀如来像を安置。 文明年間(1469-1487)上杉朝興が社殿を建て、土地の鎮守とする。 1616年、江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に遷座し、津久戸明神社となる。 江戸城乾の守護として勧請 1945年、第二次世界大戦によって全焼。 津久戸明神社、千代田区九段北に移転して築土神社となる。 八幡神社は現在地に残る。 江戸時代初期、天海僧正が、平将門の足を祀ったとする風説あり。
別の史料によれば、八幡神社に将門が合祀されている。将門は津久戸明神という名前の地主神となっている。 八幡神社は将門の霊域に立つという伝説がほしかったのではないか。 庚申塚あり。 | 水稲荷神社 | 941年、藤原秀郷が冨塚の血に稲荷大神を勧請し「冨塚稲荷」と名付けた。 1702年、 神木の椋の根元より涌きだした霊水が眼病に利くとして「水稲荷神社」と改名された。 1788年、 「江戸の水稲荷」を名乗る翁が現れ、京都御所の大火に功績を認められ、「関東稲荷総領職」を賜る。 1963年、早稲田大学と土地を交換して現在地に遷座。
稲荷神の神託により源経基は将門を滅ぼした。 | 鎧神社 | 醍醐天皇代(898-929)、円照寺創建。鎧神社は円照寺の鬼門鎮護として創建されたと考えられている。 947年、平将門の鎧を埋めたとの伝承あり。
俵藤太が将門の首を埋めたとも。猿の石像あり。 | | ピンク色文字・・・将門サイド 水色文字・・・アンチ将門 オレンジ色文字・・・加門氏による |
鎧神社を加門氏は「将門サイド」としておられますが、「アンチ将門」とするべきだと思います。 というのは鎧神社の別当寺に円照寺があり、円照寺の伝説として、次のように伝わっているからです。
平安時代、薬師如来が祀られていた。 平将門討伐のため藤原秀郷がこの地を訪れたが病に倒れる。 薬師如来のご加護を得て病は治り、将門も討伐することができた。 藤原秀郷はこれに感謝して円照寺を創建した。
ただ、慰霊にせよ、調服にせよ、どの寺社も将門の怨霊を鎮めるという目的を持っているわけで、「将門サイド」「アンチ将門」のように分類することにさほど意味があるとは思われません。
加門氏もあまり「将門サイド」「アンチ将門」の分類にこだわっておられないように思われました。
あと将門関連七神社からもれた4神社についてもまとめておきます。
●将門関連七神社以外
築土神社 | 940年、津久戸村(上平川村、現:千代田区大手町1丁目、将門塚付近)に平将門の首を祀り、塚を築く。 「津久戸明神」として創建された。 室町時代、大田道灌が田安郷(現:千代田区九段坂上)へ移転させ、「田安明神」と呼ばれた。 1616年、江戸城拡張工事のため、筑土八幡神社隣(新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。 1874年、天津彦火邇々杵尊を主祭神として「築土神社」と改称する。 1945年、東京大空襲によって全焼。 1954年、九段中坂の途中にある世継稲荷境内地へ移転。
太田道灌が江戸城乾の守護として勧請(江戸名所図会) 江戸名所図会の詞書に「将門註せられし後、その首級を当国江戸平川の観音堂へ移し、これを斎(いわ)いて 津久戸明神とす。」とある。 | 稲荷鬼王神社 | 平将門の幼名「外都鬼王(げづおにおう)」「鬼王丸」というところから神社名を鬼王にしたともいわれる。
1653年、諏訪神社境内の福瑳稲荷を大久保村に勧請し、氏神として稲荷神社を創建。 1752年、田中清右衛門が病気平癒のため、紀州熊野の鬼王権現を勧請。 1831年、稲荷神と鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社とする。 1894年、古来よりこの地にあった浅間神社を、稲荷鬼王神社に合祀。 昭和5年(1930年)境内社として浅間神社を再興。境内に富士塚を造成 昭和43年(1968年)社殿再建、富士塚を二分する。 | 烏森神社 | 940年、藤原秀郷が武蔵国の稲荷神社に平将門の乱鎮圧を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。 その矢によって速やかに乱を鎮めることができた。 その後、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であると告げた。 秀郷が桜田村にやってきたとき、烏が群がっていたので、そこに神社を創建した。
| 日輪寺 | 徳治年間(1303-1308)この地を訪れた他阿真教が将門の首塚の祟りで疫病が流行しているとおびえる村人のため 塚を修復し供養をしたところ疫病が治まり、村人の勧めもあって日輪寺を時宗に改め念仏道場とした。 1590年以降、移転を繰り返す。1601年柳原へ移転。 1657年の明暦の大火で焼失し、浅草へ移転。
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注意したいのは、日輪寺・首塚・神田明神はもとは同じ場所にあったということです。 その後、神田明神は1603年に神田台へ移転し、さらに1616年、現在地へ移転しています。 日輪寺は1601年に柳原へ移転し、1657年に現在地へ移転しています。
さらに、筑土八幡神社と筑土神社ももとは同じ場所にあったことにも注意してください。
嵯峨天皇代(809-823) 筑土八幡神社創建 1616年、田安明神が筑土八幡神社の隣に遷座し、津久戸明神社となる。 1945年、第二次世界大戦によって全焼。 津久戸明神社、千代田区九段北に移転して築土神社となる。八幡神社は現在地に残る。
神田明神
⑦日輪寺・神田明神・田安神社の1616年の移転は将門魔方陣を作るのが目的だった?
加門氏は、日輪寺・神田明神・田安神社の1616年の移転は、幕府によるもので、江戸に将門魔方陣(北斗七星を象る7つの星)をつくるためだったのではないかとしておられます。
将門の首塚
⑧日光東照宮=北極星、将門魔方陣=北斗七星?
さらに加門氏は ・1616年が徳川家康の死亡年であることを指摘され、家康の死によっ遂行された呪術プロジェクトではないか。 ・天海が家康亡きあとの江戸を安泰にするために江戸に北斗の結界をはり、日光に東照宮を造営したのではないか、 と言っておられます。(日光東照宮の創建は1617年) 日光東照宮 五重塔つまり日光東照宮は北極星で、将門魔方陣(将門関連七神社)は北斗七星、ということですね。 北斗七星の位置にある神社または史跡は兜岩をのぞき、1616年までにその場所にあったことがわかります。 (兜岩は江戸時代からその場所にあったというが、正確な年がわからない。) ⑨稲荷鬼王神社は北斗第六星の補星あと、稲荷鬼王神社について、加門氏は北斗第六星の補星になぞらえたものとされています。 北斗七星の柄の端から2番目の星(水稲荷神社に相当する星)はミザールといい、伴星アルコルがあります。 アラビアではこのアルコルがみえるかどうかで視力検査を行っていたといわれます。 加門氏のいう北斗第六星の補星とはこのアルコルのことでしょうか。 そして、この北斗第六星は魔多羅神=妙見菩薩の化身と解釈する説があるとおっしゃっています。 すると将門関連七神社ではなく、将門関連八神社というべきかもしれませんね。 ⑩烏森神社はなぜ将門魔方陣から外されたのかという疑問が残る~日輪寺は神社でなく寺なので、除外してもいいかもしれません。 でも、940年に創建された鳥森神社が将門魔方陣(将門関連八神社)から除外されているのはなぜかという疑問が残ります。 ⑩「水稲荷で将門の首と胴がきられている」は確認が必要加門氏は「水稲荷で将門の首と胴がきられている。」とも指摘されています。 鳥越神社・・・首 兜神社・・・・首 首塚・・・・・首 筑土八幡(津久戸明神)・・・首 水稲荷・・・将門調服 鎧神社・・・胴 ですが筑土八幡の伝説について、加門氏は首とされていますが、脚を祀ったという風説もあるようで、 もう少し確認してみないと「水稲荷で将門の首と胴がきられている。」とは言い切れないです。 ⑪天の北極=日光東照宮、北斗七星=江戸。カシオペアは磐梯山?
加門氏がおっしゃるように、天の北極=日光東照宮、北斗七星=江戸の将門関連神社とすれば、どこかにカシオペア座になぞられたものがあるのではないでしょうか? 地図を眺めてみると磐梯山があります。 磐梯山の西南にある会津若松市から磐梯山をみると、どんな風に見えるでしょうか。 https://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=10131018590リンク先の写真は「会津若松と磐梯山」というタイトルになっています。 磐梯山は向かって左側の山が高いカシオペアのように見えますね。 http://maropie.blog44.fc2.com/blog-entry-126.html↑ こちらの写真は「会津若松の高速道路から見た磐梯山」のようです。 やはり左側の山が高いカシオペアのように見えます。 磐梯山の南南西にある日光東照宮から磐梯山が見えるとしたら、やはり同じように左側が高いカシオペアの形に見えるはずです。 もしかして、天の北極=日光東照宮、北斗七星=将門魔方陣、カシオペア=磐梯山? 会津若松という文字の向かって右に湖があります。その湖の北あたりが磐梯山です。
天の北極=江戸、北斗七星=富士山、筑波山=カシオペアの組み合わせは、夜空を反転させたものでした。 しかし、天の北極=日光東照宮、北斗七星=将門魔方陣、カシオペア=磐梯山のほうは夜空を反転させていません。
江戸は天の北極になぞらえて作った町でした。 さらに家康の死後、江戸の北に北極星になぞらえて日光東照宮をつくった、ということでしょうか?
皆さまはどうお考えになりますか?
東大寺 大仏殿 百日紅
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