飛鳥 八釣 蝋梅 『明石に身を隠した兄弟』 

 
奈良県明日香村八釣
2015年2月中旬 撮影


八釣 ろうばい 

八釣 ろうばい

①明石に身を隠していた兄弟


昔、昔の話です。

雄略天皇が従兄弟の市辺押磐皇子を殺してしまったので、市辺押磐皇子の二人の息子、億計王と弘計王は播磨国明石に身をひそめ、牛馬の飼育をして生活していました。

雄略天皇が崩御したのち雄略天皇の子の清寧天皇が即位しましたが、清寧天皇には子供がありませんでした。
そのことで悩んでいたところ、億計王と弘計王が発見されたという報告がありました。
清寧天皇は兄弟を宮中に迎え入れ、億計王を皇太子に、弘計王を皇子としました。

清寧天皇が崩御すると億計王と弘計王は皇位継承を譲り合い、弘計王が顕宗天皇として即位し、兄の億計が皇太子となりました。
3年後に顕宗天皇は崩御し、億計が即位して仁賢天皇となりました。

明石海峡大橋 
明石海峡大橋

②顕宗天皇


この顕宗天皇の近飛鳥八釣宮があったのが、この明日香村八釣のあたりだといわれています。
(近飛鳥八釣宮は大阪府羽曳野市飛鳥という説もあります。)

もっとも顕宗天皇の実在性は疑問視されていますが~。
よくある貴種流離譚であり、あまりにドラマチックな話で実話とは思えないというのです。
確かにそのとおりかもしれません。

八釣 夕日 

2009年5月初旬撮影

③億計王と弘計王は二上山を擬人化したものだった?


八釣の里の高台に登ると二上山が見えます。
ふたつの頂のある二上山は兄弟のようで、億計王と弘計王を思い起させます。

八釣―二上山を結ぶ直線を延長するとちょっとずれますが、明石付近を通ります。
赤い印が二上山、神戸の西に明石の表記がありますね。
八釣は赤印の東南に橿原の文字が見えますが、その橿原の東南あたりです。



赤印(二上山)の東に堺の文字がありますね。
あんまりいい写真じゃないけど、↓ こちらは堺市庁舎展望ロビーより明石海峡大橋を撮影したものです。

堺市庁舎展望ロビーより明石海峡を望む 

二上山の頂上からも明石海峡が見えるそうです。

二上山は八釣から近いですが、雨の日などには見えなくなることもあります。

もしかして、億計王と弘計王の物語はこの二上山を兄弟に見立てて創作した物語だったりして?

明石海峡大橋 ライトアップ 
明石海峡大橋


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[2017/02/25 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

法起寺 水仙と夕景 『偶数が支配する塔』 

奈良県生駒郡斑鳩町 法起寺
2015年2月中旬撮影


法起寺 水仙

塔百景37


①方二間の塔


法起寺の三重塔はほかの三重塔にはない特徴があります。
ちょっと他の搭と見比べてみましょう。

法起寺 ↓

法起寺 夕陽 

室生寺 ↓
室生寺 石楠花3

浄瑠璃寺 ↓

浄瑠璃寺 紅葉 
西明寺↓

西明寺(湖東) 三重塔 紅葉

浅草寺 ↓
 
浅草寺 五重塔 皐月
   
三重塔は方三間(正面から、また側面からみて、柱が4本あるため、柱間が数が3つになる。)が一般的な形です。
浄瑠璃寺や西明寺は方三間になっていますね。
しかし法起寺は初層・二層の柱間が3間、三層の柱間が2間になっているのです。

②方二間の斑鳩の塔群

斑鳩の里には法起寺のほか、法輪寺や法隆寺がありますが、法輪寺の三重塔も初層・二層の柱間が3間、三層の柱間が2間になっています。

↓ 法輪寺

法輪寺 コスモス  

↓ 法隆寺の五重塔も、最上部の五層の柱間が2間になっています。

法隆寺 中門と五重塔 

法起寺・法輪寺・法隆寺はいずれも聖徳太子に関係する寺院です。

③怨霊封じ込めの門

上野法隆寺の写真をよく見てください。
法隆寺の五重塔の手前にあるのは中門ですが、これもとても珍しい形になっています。
一般的な門は奇数間で造られていますが、法隆寺の中門は偶数間で作られているので門の中央に柱があります。
梅原猛さんは「門に柱を建てれば閂であり、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺である。」と説かれました。
法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議①』

聖徳太子は憲法十七条を制定するなど、すばらしい功績を残しましたが、彼の子孫は繁栄しませんでした。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて、全員、斑鳩寺で首を括って自害したとされます。
そのため聖徳太子は怨霊として恐れられたとする説があります。

陰陽道では奇数を陽、偶数を陰としています。
そして鬼(オニ)という言葉は陰陽の陰(オン)が訛ったものだともいわれています。

斑鳩にある法隆寺・法輪寺・法起寺は聖徳太子の怨霊(鬼)が宿る陰の寺であるのかもしれませんね。

法起寺 夕景

④歴史の教科書から聖徳太子の表記が消える

先日、「歴史の教科書から聖徳太子の表記を、厩戸王という表記に改める」という報道がありましたね。

聖徳太子の実績とされる十七条憲法は聖徳太子よりも後の時代に成立したという説が有力ですし
官位十二階は中国や朝鮮半島の制度を取り入れたものと考えられています。

また聖徳太子という表記が用いられるようになったのは、厩戸王没後しばらくたってからだとされます。

そういう理由で聖徳太子から厩戸王という表記に変えるようですね。

厩戸王は怨霊になったと信じられ、怨霊を鎮めるために聖人化されて聖徳太子と呼ばれるようになったのだと思います。

法起寺 月 


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[2017/02/21 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

長谷寺 観音万燈会 『冬至、クリスマス、正月、節分の関係』 


奈良県桜井市 長谷寺


長谷寺 観音万燈会 

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

上の写真は10年以上前のお正月に奈良・長谷寺の観音万燈会を銀塩カメラで撮影したものです。
雨で本堂が煙ってみえるのがきれいでした。

現在、私たちが使っている暦は太陽暦のひとつであるグレゴリオ暦(新暦)ですが、グレゴリオ暦の正月(1年の起点)はどうやって決められているのかなと思って調べてみました。

①冬至は太陽の南中高度が最も低くなる日

太陽の南中高度が最も低くなる日(新暦12月22日)のことを冬至といいます。
古代の中国では冬至を1年の起点としていたようです。
日本にも「冬至正月」という言葉があり、冬至を1年の始点とする考え方がありました。

一言主神社 一陽来復祭

一言主神社 一陽来復祭 ※一陽来復は冬至のことです。

一言主神社 一陽来復守り

一言主神社 一陽来復守り

②クリスマスの起源はミトラ教の冬至祭だった。

太陽は冬至から3日後の12月25日より再び南中高度をあげていきます。
古代ローマ人が信仰していたミトラ教ではこの12月25日に冬至祭を行っていました。
聖書にはキリストの誕生日についての記述はありません。
クリスマスはミトラ教の冬至祭をキリスト教が取り入れたものだとされています。

なかのしまとしょかん ウォールタペストリー2016③

大阪光のルネサンス

同志社彰栄館  
同志社大学 彰栄館

京都駅ビル クリスマスイルミネーション

京都駅ビル 

③クリスマスはキリストが誕生一週間後に洗礼を受けた日

12月25日から一週間後が新暦の正月ですが、これは12月25日にキリストが生まれて一週間後に洗礼を受けた日なのだそうです。

霊山寺 初福茶 

霊山寺(奈良) 初福茶


④太陽太陰暦と二十四節気


江戸時代までの日本では太陽太陰暦(旧暦)を用いていました。
旧暦は月の周期をベースにした暦で、月のない夜(朔/新月)を1日、上弦(半月)を7日または8日、満月(望月)を15日としていました。
1か月の周期は29日または30日でした。

太陽太陰暦の1年は29.5日×12か月=354日となり、太陽暦の1年=365日に比べて1年の日数が11日不足しており、3年では約1か月近くもずれることになります。
そこで太陽太陰暦では4年に1度閏月をもうけてずれを解消していました。

太陽太陰暦は月をカレンダーがわりにできるため紙が貴重品であった時代には便利なものでしたが、農作業などに不便が生じます。
そこで、太陰暦の他に1太陽年を24に分割した二十四節気という暦を併用していました。
二十四節気の雨水を含む月が太陽太陰暦の1月で、太陽暦とは1か月ほど遅くなります。

延暦寺 追儺式  
延暦寺 追儺式
延暦寺の追儺式は12月31日に行われます。もともと追儺式は節分ではなく大晦日に行われる行事だったとのことです。


⑤節分は二十四節気の大晦日


二十四節気では立春が1年の始まりと考えらえていました。
つまり江戸時代までの日本には正月が2回あったのです。

節分とは「季節の変わり目」を意味し、本来は立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをさしていました。
本来節分は1年に4回あったのです。
しかしいつのまにか節分とは立春の前日をさす言葉となりました。
節分とは二十四節気の大晦日だといえるでしょう。

北野天満宮 節分狂言 鬼

北野天満宮 節分狂言 


石清水八幡宮 追儺式

石清水八幡宮 追儺式

冬至/新暦の12月22日ごろ。太陽の南中高度が最も低くなる日。冬至正月といって冬至を1年の始点とする考え方もあった。
Xmas/新暦の12月25日。ミトラ教で冬至の3日後に行われていた冬至祭をキリスト教がとりいれた。
大晦日/新暦の12月31日。旧暦では12月晦日で新暦より一か月ほど遅くなる。
節分/新暦の2月3日。二十四節気の立春の前日。二十四節気の大晦日。
正月/新暦または旧暦の1月1日。新暦はキリストが生まれて1週間目に洗礼をうけた日。旧暦は二十四節気の雨水を含む月が1月。




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[2017/01/01 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

石光寺 當麻寺 寒牡丹 『二上山と西方浄土』 

奈良県葛城市 石光寺・當麻寺・・・奈良県葛城市當麻1263

石光寺 寒牡丹 

 石光寺 ↑ ↓

石光寺 山茶花 

雪がつもるといい写真になると思うんですが、このあたりって滅多に雪が降らないんですよね~。

①中将姫伝説

石光寺や當麻寺には次のような伝説が伝わっています。

奈良時代、藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前の間に娘が誕生し、中将姫と名付けられました。
紫の前は中将姫が5歳のときになくなり、豊成は照夜の前を後妻としました。
照夜の前は中将姫を嫌い、事あるごとに中将姫をいじめました。
中将姫が14歳のとき、父の豊成は諸国巡視の旅に出かけました。
継母の照夜の前は従者に中将姫の殺害を命じました。
しかし従者はかわいそうに思って中将姫を殺すことができず、雲雀山に置き去りにしました。
中将姫は雲雀山で念仏三昧の生活をおくっていましたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻りました。
その後、出家して當麻寺入りました。
26歳のとき、中将姫は蓮の茎から糸をつむぎ、石光寺の庭に井戸を掘って糸を浸したところ五色に染まりました。
中将姫はその蓮糸をつかい、一夜のうちに當麻曼茶羅を織りあげました。
29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かいました。

當麻寺 冬牡丹2 

當麻寺 ↑ ↓


當麻寺 冬牡丹 

②當麻寺や石光寺は二上山のふもとにある。


當麻寺や石光寺は二上山のふもとにあります。
奈良では太陽は三輪山(東)の方角から昇り、二上山(西)の方角に沈みます。

③二上山の彼方に西方浄土がある

西方には阿弥陀如来の住む浄土(極楽)があると信じられていました。
おそらく古の人々は二上山のはるか彼方に西方浄土があると信じていたのでしょう。
阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎したという伝説はこうした立地から生じたのではないでしょうか。

二上山 夕景 


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[2016/12/30 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 


龍田川 紅葉3 
龍田川


●現代語訳が難しい業平の龍田川の歌


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

この歌は現代語訳が難しい歌です。
千早という花魁が龍田川という相撲取りを振った、という意味じゃありませんよ~(笑)
(参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A9%E6%8C%AF%E3%82%8B

「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞です。
「神代も聞かず」は「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」は奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川です。
「からくれなゐ」の「から」は「韓の国」や「唐土(もろこし)」を意味します。
当時、韓や唐土の物産は大変高価で価値があるものだったとされます。
今でいうシャネルとかエルメスみたいなブランド品だったということですね。
「くれなゐ」は「紅色」の意味です。
なので「からくれなゐ」は「韓や唐土から日本に持ち込まれたブランド品の衣の紅色」みたいな意味だと思います。

ここまではそんなに難しいところはありませんね。

龍田川 紅葉2

●「水くくる」に二つの解釈


問題は「水くくる」です。
もちろん、千早という花魁が入水したという意味ではありませんよ~。

この「水くくる」には2つの解釈があります。

①水を「括り染め」にした。
「括り染め」とは布にところどころ糸を巻き付けて括ったのち、染色するものです。
糸でくくった部分は染まらないので、それで模様をつくるわけです。

②水を潜った。川を埋め尽くすように散った紅葉の下を水が流れる。

現代語訳は
①の場合、「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
②の場合は「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」
となります。

●藤原高子が春宮の御息所と呼ばれていたときに詠んだ歌

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

古今和歌集はこの歌に次のような詞書をつけています。
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる


この詞書はものすごく重要なことを書いてあると思います。
まるで業平の歌は謎々で、この詞書はその謎々をとくヒントのようです。

一語づつみていきましょう。

「二条の后」とは清和天皇に入内した藤原高子のことです。
「春宮」は「とうぐう」と読み、皇太子を意味します。
「みやす所」はもともとは天皇の休憩所という意味で、ここから天皇に侍る官女や、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す言葉となりました。

藤原高子は清和天皇に入内して女御の位となり、清和天皇にとの間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけています。
この貞明親王が春宮(皇太子)となったので、高子は「春宮のみやす所」と呼ばれたのでしょう。

その藤原高子が在原業平を召したとき、業平は竜田川に紅葉が流れる屏風絵を見てこの歌を詠んだ、というのです。

龍田川 紅葉

●在原業平と藤原高子の駆け落ち

「伊勢物語 芥川」に、高子が清和天皇に入内する以前、業平と高子は駆け落ちをしたと記されています。
(現代語訳はこちらで読めますよ。→http://www.raku-kobun.com/ise6.html

駆け落ちの途中、雷が鳴りだしたので業平は高子を蔵の中にいれます。
ところが蔵には鬼がいて高子は鬼にくわれてしまったと記されていますね。

本当に高子が鬼にくわれてしまったのではなく、高子は兄・藤原基経に連れ戻されたのです。
こうして駆け落ちは失敗に終わりました。

このかつて駆け落ちをした二人が並んで屏風絵を見ているわけです。なんか意味深な感じがしますね。

●業平がその気もないのに高子のもとへ通っていた理由

どうも業平は高子を本気で愛していたので駆け落ちしたというわけではないようです。
というのは、古今和歌集詞書に次のような記述があるのです。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味になります。

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのでしょうか?

百人一首かるた

これはうちにある古い百人一首かるた。私の年より古いです。
子供のころ、お正月によく百人一首かるたをしたり、坊主めくりをしたりして遊びました。


●陽成天皇の父親は在原業平だった?

業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説があります。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともあります。

業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのでは?
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされるはずです。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高いです。

●在原業平の祖父は平城上皇だった。

在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王でした。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れてしまいました。(薬子の変)

●阿保親王、子供(行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許される。

このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となります。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないでしょうか。

●平城上皇の竜田川の歌

龍田川の紅葉について、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいます。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、偶然なのでしょうか。
そうではないと私は思います。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのだと思います。

平城上皇は竜田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないでしょうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思います。

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

業平のこの歌は平城上皇の歌を受けて詠まれたものだと思います。

「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのだと思います。

●陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?


皇太子となった貞明親王は9歳で即位して陽成天皇となります。
そして高子の兄の藤原基経が摂政となりました。

ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたみたいですね。
私がこう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからです。

基経は陽成天皇の叔父です。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すんじゃないでしょうか。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされます。

これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思えます。

そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはありませんでした。
業平の計画は失敗に終わったというわけです。
 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め


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[2016/12/12 17:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

山の辺の道 紅葉 案山子 『案山子はイエス・キリストだった?』 

奈良県天理市 石上神宮 長岳寺
奈良県桜井市 大兵主神社


石上神社 紅葉 
石上神宮(2016年12月上旬 撮影)

●ひらがながなかった時代、案山子はどんな顔をしていたのかな?

雅な京都の紅葉は美しいけれど、山の辺の道の素朴な紅葉風景も京都とは違った魅力にあふれています。

案山子さんに会いました。
ちょっとヘタウマな感じの表情とか、この案山子さんはすごく可愛い。
作られた方はとてもセンスがいいと思います♡

山の辺の道 案山子

石上神社付近の案山子 (2016年12月上旬 撮影)

昔、案山子の顔は「へのへのもへじ」でした。
「へのへのもへじ」の案山子ができたのは平安時代にひらがなが作られて以降だと考えられます。

まだひらがながなかった奈良時代に編纂された古事記・日本書紀に案山子が登場します。
奈良時代の案山子の顔は「へのへのもへじ」ではなかったはずで、どんな顔をしていたのかな、と想像してみるとなんか楽しいです。
案外、この山の辺の道の案山子さんのような顔をしていたのかもしれません。

石上神社付近 紅葉  
石上神宮付近(2016年12月上旬撮影)

●案山子は「嗅がし」?


案山子の語源は「嗅がし」ではないかとする説があります。
かつて鳥獣よけになるとして、獣の肉を焼いたものを串刺しにして立てておくとことがあったそうで、そういうものも「カカシ」と呼ばれているそうです。

本当に焼いた獣の肉の匂いを、鳥獣は嫌って寄りつかないんでしょうか?
かえって猫とか熊とかが寄ってくるんじゃないかと思ったりもするんですが。
焼いた肉を食べるのは人間だけです。動物は焼いた肉を食べる習慣がないので、そういうものの匂いを嫌ったのでしょうか。
御存じの方、おられましたらぜひ教えてください!

長岳寺 紅葉

長岳寺 (2014年11月下旬撮影)

●広島・住吉神社の「焼嗅がし神事」

広島の住吉神社では節分の日に「焼嗅がし神事」を行っているそうです。

千匹の鰯を焼き、その匂いを大うちわであおぐそうです。
http://www.sumiyoshijinja.net/setsubun.html
オモシロそうですね!ぜひ一度行ってみたいです。

節分には玄関に柊鰯を飾る習慣がありますが、鬼は生臭いのが苦手で柊鰯は鬼を退散させる力があるなどと言われます。
鬼も田畑を荒らす鳥獣も同じようなものだということなのでしょう。

●案山子がイエス・キリストに見えちゃう~。


私は案山子を見てると十字架に磔になったイエス・キリストを思い出します。

File:Mantegna, Andrea - crucifixion - Louvre from Predella San Zeno Altarpiece Verona.jpg

磔刑図(アンドレア・マンテーニャ画、1459年)
ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E7%A3%94%E5%88%91#/media/File:Mantegna,_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg)よりお借りしました。

イメージはかなり違いますが、案山子もこんな風に十字架に磔になっているように見えませんか?

●天児人形

市比売神社 天児人形  

上の写真は京都・市比売神社に展示されていた天児(あまがつ)人形です。
平安時代に幼児の傍らにおいていた身代わり人形だそうです。

天児人形の着物を脱がせますと、下の写真のように十字架に似ているというか、十字架そのもののような形になっています。

市比売神社 天児人形2
 
●案山子は田の神

ユーモラスな顔をしていますが、案山子って田の神様なんですよね。
古事記や日本書紀には案山子は「久延毘古(クエビコ)」という名前で登場し「歩くことはできないが、天下のことはなんでも知っている」と記されています。

「クエビコ」という神名は「崩え彦」「体が崩れた男」という意味とされます。

クエヒコは十字架に磔にされて死んでしまい、体が腐って崩れてしまったイエス・キリストの姿だったりして?

鬼たちが焼いた鰯の匂いを嗅いで逃げていくのは、それがイエス・キリストの死体だから?

山の辺の道 紅葉  
長岳寺付近 紅葉 (2014年11月下旬撮影)

●キリスト教は5世紀の日本に伝わっていた?


キリスト教が日本に伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによってとされていますが
5世紀ごろ、秦氏によってネストリウス派キリスト教が伝えられていた、とする説があります。
秦氏の氏寺・広隆寺は太秦寺といいますが、中国ではネストリウス派キリスト教寺院のことを大秦寺といいました。
太秦寺と大秦寺は点があるかないかの違いしかありません。

日本神道は秦氏によって伝えられたキリスト教をベースに成立したものだったりして?

大兵主神社 紅葉 
大兵主神社(2014年11月下旬撮影)




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[2016/12/11 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議 雀が糞をしない』 

奈良県斑鳩町 法隆寺
 
法隆寺 西院伽藍 夕日

法隆寺西院伽藍 

上宮王家断絶

601年、聖徳太子は斑鳩宮を建て、その宮の近くに法隆寺を創建したと伝えられています。
622年に聖徳太子が死亡したのち、蘇我蝦夷・入鹿親子が政治の実権を握るようになります。
643年、蘇我入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連、大伴長徳らに命じて聖徳太子の長子・斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させました。
山背大兄王は一族と家臣をひきつれて生駒山に逃亡します。
山背大兄王の寵臣・三輪文屋君は、『東国に逃れて再起を期し、入鹿を討ちましょう。』と進言しました。
しかし、山背大兄王は次のように発言して斑鳩寺に戻り、一族もろとも首をくくって自害したのです。
『兵を起こせば入鹿に勝てるだろう。しかし、私ひとりのために多くの百姓を犠牲にしたくはない。私の命など入鹿にくれてやろう。』
こうして上宮王家は断絶しました。

●法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』

梅原猛さんは聖徳太子は怨霊で、法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』ではないか、と説かれました。
なぜ聖徳太子が怨霊になったのかというと、彼の子孫が断絶したためだというのです。

●聖徳太子は祀るべき子孫が断絶して怨霊になった?

井沢元彦さんは次のような内容のことをおっしゃっていました。
先祖の霊は子孫が祀るべきとされているのに聖徳太子の子孫は断絶してしまい祀る人がいなくなってしまった。
それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと。

『聖徳太子は怨霊になった』と書きましたが、もちろん本当に聖徳太子が怨霊になったというわけではありません。
昔の人々が『聖徳太子は怨霊になった』と考えたということです。

法隆寺 中門と五重塔   
●閂がかけられた法隆寺中門

上の写真は法隆寺の中門と五重塔です。
法隆寺の中門は、中央に柱があるという珍しい造りになっています。
(一般的な門は中央に柱があるという造りにはなっていません。)

梅原さんは『門に棒を建てると閂になる』として聖徳太子の怨霊が外に出ないようにする呪術的な装置ではないかと説かれました。

 法隆寺 夢殿
夢殿

フランケンシュタインのようだった救世観音

法隆寺の・殿の扉をあけると大地震がおこると言い伝えられ、夢殿のとびらは長年鍵がかけられたままの状態になっていました。
明治時代、アメリカの東洋美術史家であるフェノロサによって夢殿は開扉されました。
夢殿の中にはフランケンシュタインのように包帯状の布でぐるぐる巻きにされた仏像が安置されていました。
『聖徳太子等身大の像』と伝わる救世観音です。
救世観音の光背は頭に直接釘で打ち付けられていました。

光背は仏の足元に棒を立ててその棒にとりつけるのが一般的で、救世観音のような様式は珍しいのです。
これについても梅原氏は怨霊封じ込めの呪術であろう、と説かれました。
法隆寺金堂の四天王像も光背が頭に直接釘でとりつけられています。

●法隆寺七不思議

法隆寺には七つの不思議があるとされ「法隆寺七不思議」といわれています。

①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。


●雀は蘇我馬子をあらわしている?

⑥に『雀が糞をしない』とありますが、雀といえば蘇我入鹿の祖父の蘇我馬子を思い出します。

敏達天皇の殯宮で馬子が長い刀を帯びて誄言を奉っていたところ、物部守屋が 『大きな矢で射られた雀のようだ』と嘲り笑ったという話があるのです。
馬子は小柄だったのかもしれませんね。

『雀』とは蘇我氏一族の霊を象徴するものであると考えられたのではないでしょうか。
すると、『雀が糞をしない』というのは、雀は蘇我氏一族の霊で、聖徳太子およびその一族に対して負い目があるため糞をしない、という意味なのかも?

  法隆寺 夕景 

塔百景35



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[2016/12/10 01:51] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛城一言主神社 イチョウ 黄葉 『イチョウは一陽の木?』 


奈良県御所市 
一言主神社
2007年11月24日 撮影

一言主神社 公孫樹2 

●樹齢1200年のイチョウの御神木


一言主神社には樹齢1200年と伝えられる御神木のイチョウの木があります。
2007年11月に撮影しました。

2012年、このイチョウの木は根元が腐朽し倒壊の危険があるとして主幹や枝が切られてしまいました。
なので現在はこのような景観ではないと思います。

一言主神社 公孫樹  
●一陽来復(冬至)

境内には『一陽来復守り』と記された幟が掲げられていました。
一陽来復とは日照時間がだんだん短くなり、衰えていった太陽が、冬至を起点に再び日照時間が長くなり勢いを増していくことを言います。
また、ここから転じて悪いことが続いたあとで幸運に向かうことをも意味しています。

おそらく陰陽思想からくる言葉なのでしょう。
というか、このような太陽の動きから陰陽思想は生まれたのではないかと思ったりもします。

一言主神社 一陽来復祭-階段

●南天は難転を意味する。

一言主神社では冬至の日から節分の日まで『一陽来復守り』を授与しています。

去年の冬至の日に一言主神社をお参りして『一陽来復守り』を求めました。
白い和紙を鬼の顔のような形に折った袋を透かしてみると、中に南天の実と葉が入っているようです。
(糊つけしてあるので、開封していない)
袋には墨で『一陽来復 難転魔滅』と書いてあります。

なぜ袋の中に南天の実と葉が入っているのかといえば、南天の音が難転に通じるからなんですね。

一言主神社 一陽来復守り 

●イチョウは一陽、太陽の木?


それで閃いたんですが、イチョウは一陽を意味しているのではないでしょうか。

一陽とは太陽のことでしょう。
昔の人々はイチョウは太陽の木だと考えたのではないでしょうか。

●太陽は黄色

現在では太陽は赤で描かれることが多いですが、確かキトラ古墳の太陽金色で描かれていたと思います。
また外国では太陽は黄色で描かれることが多いそうです。
星の色は温度で決まりますが 宇宙情報センター  ←こちらのサイトの図に示されているように太陽の色は本来は黄色なのです。

一言主神社 一陽来復祭

冬至の日に行われる一言主神社の一陽来復祭

●イチョウは冬至に向かって衰えていく太陽を表す木

つまり、イチョウの黄色い葉は太陽の光に見立てられているのだと思います。
そして11月中旬ごろより徐々に散り始める様を、太陽が衰えていく様子に喩えたのだと思います。
最も太陽の光が衰える冬至のころにはイチョウの黄色い葉はすっかり落葉してしまっているというわけです。

昔の人々の自然観察能力はなんて鋭かったのでしょうか。

●一言主大神は冬至に向かって衰えていく太陽を神格化した神?


一言主神社は葛城山の東の中複にあって日の出を拝むのに最適な場所にあります。
一言主神社の御祭神・一言主大神は冬至に向かって衰えいく太陽を神格化した神なのではないかと思います。


一言主神社 公孫樹3  



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[2016/12/01 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

聖林寺 紅葉 『賽の河原伝説のルーツは鎌足の子・定慧だった?』 

奈良県桜井市 聖林寺・談山神社
撮影 聖林寺・・・2010年11月27日 談山神社・・・10年以上前(フィルム)
  
聖林寺 紅葉 
聖林寺

●聖林寺

前回、談山神社についてお話しましたが、談山神社から近鉄桜井駅方面に向かって山をおりていくと途中に聖林寺があります。

聖林寺は国宝に指定されている天平時代の十一面観音があることで有名です。
この十一面観音はもともとは大神神社の神宮寺・大御輪寺にあったのですが、幕末ごろ、神仏分離令によって聖林寺に移されたのです。
とても美しい観音さまです。

画像はこちら ↓
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eleven-faced_Kannon_Shorinji.JPG?uselang=ja 

●幽霊が建てた寺

今日はこの十一面観音の話ではなく、聖林寺のご本尊・地蔵菩薩像についてのお話です。

聖林寺の本堂に入ると、目の前に巨大な石の地蔵菩薩像の姿が飛び込んできます。
この地蔵菩薩像が聖林寺のご本尊です。

画像はこちら ↓
http://www.shorinji-temple.jp/about/about03.html

聖林寺は妙楽寺(現在の談山神社)の別院で、712年に中臣鎌足の長子・定慧が創建したと伝わっています。

前回、定慧の生没年は643年~666年であるとお話しました。
談山神社の十三重塔と同じく、聖林寺も定慧の幽霊によって創建された寺だということになります。

●他にもある定慧の幽霊が創建した寺

『六地蔵めぐり』で有名な京都の大善寺も定慧によって創建されたと伝わっています。
創建年は705年でやはり、定慧の幽霊が創建したお寺です。

大善寺  

大善寺

なぜ定慧は死後に多くの寺を創建したとされているのでしょうか。

●賽の河原伝説


こんな話を聞いたことがあります。

親より先になくなった子供が親の供養のために賽の河原で石を積んで塔を作っていると、鬼がやってきて石積みの塔を壊してしまいますが、お地蔵様が救ってくださいます。

鬼来迎 子供の亡者を救う地蔵菩薩
 
千葉県山武郡 広済寺 鬼来迎 地蔵菩薩が子供の亡者を鬼から救う場面


定慧の生没年は643年~666年、定慧の父親の鎌足の生没年は614年~669年でしたね。
定慧は父親の鎌足よりも先に亡くなった子供だったのです。

古の人々は「定慧は賽の河原で父・鎌足のために供養塔をつくった」と考えたのではないでしょうか。
供養塔は鬼に壊されかけたけれど、地蔵菩薩が救ってくれたおかげで無事完成した。
それが談山神社の十三重塔だと。

賽の河原で子供が作る塔は石の塔ですが、談山神社の十三重塔は木造です。
しかし十三重塔は石で作ったものが多いです。聖林寺にも石の十三重塔がありました。

談山神社 紅葉5


そして定慧が創建したと伝わる聖林寺や大善寺では地蔵菩薩を御本尊としています。

賽の河原伝説のルーツはもしかしたら定慧なのかもしれませんね。





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[2016/11/20 12:23] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

談山神社 紅葉 『幽霊が建てた塔』 


奈良県桜井市 談山神社
撮影日 2010年11月27日
 

 
談山神社 紅葉2

塔百景32

●定慧の幽霊が塔を建てた?

談山神社の十三重塔は678年に亡き父鎌足のために鎌足の二人の息子、長男・定慧(じょうえ)と次男・不比等が建立したものとされます。
(現存の十三重塔は1532年に再建されたもの)

ここで鎌足・定慧・不比等の生没年を見てみましょう。
鎌足・・・・614年~669年
定慧・・・・643年~666年
不比等・・・659年〜720年

「えっ?」と思われましたか。
そう、鎌足の長男の定慧は、鎌足より先に23歳の若さでなくなっているのです。
つまり談山神社の十三重塔は定慧の幽霊と不比等が建てたものだということになります。

653年、定慧はわずか10歳で出家して遣唐使として入唐しています。
ようやく日本に帰ってきたのは12年後の665年のことでした。
ところが、帰国後わずか3ヶ月で死亡してしまったのです。
暗殺されたという説もあります。

 もちろん幽霊には塔は建てられません。
実際に十三重塔を建てたのは不比等で、兄の定慧とともに建てたということにしたのでしょう。

談山神社 鎌足像 

中臣鎌足神像

●藤原不比等は天智天皇の後胤だった?

鎌足の次男、藤原不比等は天智天皇の後胤であるとする説があります。

正史は不比等の母を車持与志古娘(よしこのいらつめ)としていますが、『興福寺縁起』は不比等の母を鏡王女としています。
鏡王女は始め天智天皇の妻だったのですが、のちに天智から鎌足に正妻として譲られています。
このとき、すでに鏡王女が天智の子を身籠っていた、それが不比等ではないか、というのですね。

談山神社 紅葉4 
●定慧は孝徳天皇の後胤だった?


また定慧は孝徳天皇の後胤であるという説があります。
鎌足は孝徳天皇の后であった女性を妻として与えられています。
そのとき、その女性は孝徳天皇の子を身籠っていたのではないかというのです。

鎌足は自分の子ではない二人の息子を育てていたのでしょうか?

談山神社 紅葉3 

●先祖の霊は子孫が祭祀するべき


私は定慧は鎌足の本当の子供だと思います。
なぜそう思うのかというと、すでに死んでいたはずの定慧が鎌足のために十三重塔を建てたとされているからです。

大物主(大神神社の御祭神)の霊を大物主の子の大田多根子が祭祀したところ、大物主の祟りが収まったという記述が記紀にあるように

日本では先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべきと考えられていました。

不比等は自分は天智天皇の後胤なので鎌足を祭祀するのにふさわしくないと考え、
すでに死亡してこの世になかった定慧と協力して十三重塔を建てたということにしたのではないでしょうか。

談山神社 紅葉 



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[2016/11/19 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)