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善峯寺 さつき  『白山明神は開成皇子の霊?』 


善峯寺 観音堂 さつき  

京都市西京区 善峯寺
2018年5月31日 撮影


①白山明神現る。

善峯寺の白山桜あじさい苑に行くと、崖の上に小さな祠がありました。

善峯寺 白山社 さつき 
白山社です。↑
すごく小さな祠ですが、善峯寺の信仰に大きな影響を持つ神様がおまつりされているのではないかと思います。

1029年、源算上人が西山に赴いたとき、阿智坂明神にであいました。
阿智坂明神は源算に「この地を与えるので、寺を建てよ。」とおっしゃいました。
そこで源算は阿智坂の法華院をたて、自作の千手観音をおまつりしました。
これが善峯寺の始まりとされます。
この地は岩が多く地ならしが大変だったのですが、野猪の大群が現れて一夜で地ならしをしたという伝説が伝わっています。

1042年2月1日の夜、白山明神が現れて、源算に法華経経巻と浄水を授け、翌日には五色の雪が降ったといわれます。
白山桜あじさい苑は白山明神が現れた場所です。

また同年、後朱雀天皇の勅命を受け、善峯寺は洛東鷲尾寺の千手観音を遷座して本尊としています。

善峯寺 護摩堂 さつきと楓

②白山信仰と開成皇子

白山とは石川県と岐阜県にまたがる標高2702mの山で、古来霊山として信仰されました。
白山神社は各地にあり、たいてい菊理媛尊(白山比咩大神)を御祭神としています。

ですが、白山神社には開成(かいじょう)皇子に対する信仰もあったようです。

静岡県磐田市の白山神社の創建説話には、桓武天皇の第四皇子・海上皇子(戒成皇子)、
愛知県新城市の白山神社の創建説話には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子が登場します。

 善峯寺 釈迦堂付近 さつき

③北摂に残る開成皇子創建の寺

北摂に開成皇子が創建したと伝わる寺がいくつかあります。

神峯山寺大阪府高槻市原役行者が開基し、774年に開成皇子が創建した。
本山寺大阪府高槻市原神峯山寺の奥の院。役行者が開基し、774年に開成皇子が創建した。
松永久秀が所領を寄進。5代将軍綱吉の生母桂昌院が改修した。
安岡寺大阪府高槻市浦堂本町775年に開成皇子が創建した。
霊仙寺大阪府高槻市霊仙寺2丁目778年に開成皇子が創建した。一言不動尊と呼ばれる。
大門寺大阪府茨木市大門寺771年に開成皇子が創建した。
村常陸介重茲関白秀次の事件に連座してこの寺で自害。
忍頂寺大阪府茨木市忍頂寺聖武天皇の御代(724~748)行基が創建し、その後、開成皇子が訪れた。
後に廃滅したが、851年、勝尾寺三世証道上人の弟子参忠(三澄)が創建した。
勝尾寺大阪府箕面市粟生間谷727年、藤原致房の子・善仲、善算が草庵を結ぶ。
765年、光仁天皇の皇子(桓武天皇の異母兄)開成が二人に師事。
777年、開成、勝尾寺の前身・弥勒寺を創建。
箕面市最勝ヶ峰山頂に開成の墓あり。
法輪寺大阪府豊能町川尻760年、に開成皇子が草庵を結ぶ。
善福寺大阪府豊野町木代777年に開成皇子が開基した。
長承寺大阪府豊野町木代777年に開成皇子が開基した。


 吉峰寺 稲荷社 さつき


開成皇子はハンセン病を患った皇子?

勝尾寺の伝承によれば、開成皇子は光仁天皇の皇子で桓武天皇の異母兄となっています。
おそらく上表にあげた北摂の寺の創建にかかわった開成皇子は全員同一人物で、光仁天皇の皇子で桓武天皇の異母兄だと思います、

静岡県磐田市白山神社の海上皇子(桓武天皇の第四皇子)、愛知県新城市の開成皇子(後醍醐天皇の第3皇子)とは出自がちがいますね。

静岡県磐田市の伝説に登場する海上皇子と愛知県新城市の白山神社の伝説に登場すると開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられています。
開成皇子は何の病になったのかわかりませんが、海上皇子はハンセン病になったとされています。

また志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になったという伝説がありますが、志貴皇子の子として、海上王(本朝皇胤紹運録)または海上女王(続日本紀)という名前が記録されています。

どうも、ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるのではないかと思えます。
もしかしたら北摂にたくさんの寺を創建した開成皇子も、かつてハンセン病に患ったという伝説があったのかもしれません。

神峯山寺・本山寺がある大阪府高槻市原には白山神社もあります。

善峯寺 薬師堂 さつき2

 
静岡県磐田市白山神社海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子裸足で大地を踏んだので病になった。
愛知県新城市白山神社開成皇子後醍醐天皇の第3皇子裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。
北摂神峯山寺
本山寺
安岡寺 
勝尾寺
など
開成皇子光仁天皇の皇子

桓武天皇の異母兄
海上王(本朝皇胤紹運録)
または海上女王(続日本紀)
志貴皇子の子志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になった。
(奈良豆比古神社伝説)


 善峯寺 薬師堂 さつき

⑤善峯寺の白山明神は開成皇子の霊?

善峯寺は開成皇子が開いた大阪府高槻市の本山寺から東北方向へ3.68km(直線距離)行ったところにあります。
しかも本山寺は5代将軍綱吉の生母桂昌院が改修したと伝わりますが、善峯寺も桂昌院の寄進によって再興されています。

善峯寺にあらわれた白山明神とは開成皇子の霊ではないでしょうか?

そして桂昌院は白山明神および開成皇子に対する信仰の厚い人であったように思われます


善峯寺 けいしょう殿 さつき 


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[2018/06/03 00:31] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

當麻寺 塔 牡丹 藤 桜など 『相撲はなぜ女人禁制なの?』 

奈良県葛城市 當麻寺
※西塔は修理中です。

當麻寺 千仏院より東塔を望む 牡丹

①野見宿祢vs當麻蹴速

相撲のルーツは神代のタケミカヅチvsタケミナカタの戦いだと言われています。
人間同士の相撲でもっとも古いのは、垂仁天皇7年(紀元前23年)の野見宿祢vs當麻蹴速の戦いですね。

この當麻蹴速は當麻寺の近くに住んでいたとされ、當麻寺の近くには蹴速塚もあります。

この勝負、勝ったのは野見宿祢で、當麻蹴速は骨を折られて死亡の上、土地も没収されています。
古代の相撲って残酷だったんですね~。

當麻寺 東塔 八重桜 

②神事相撲・勧進相撲・大相撲

その後、相撲は実践的な武術から、神事的な意味合いを持つようになったようです。
平安時代には宮中行事として相撲節会が行われるようになりました。
また、神社においても神事としての相撲が行われるようになりました。
相撲節会は1174年を最後に廃絶しましたが、神事相撲は現在でも行われていますね。

また武家や大名が相撲を保護するというようなこともあって、相撲の伝統は続き、
1925年には江戸・京都・大阪などで行われていた勧進相撲を一本化して大相撲となりました。
(勧進とは寺社が建立資金などをを集めることで、相撲を興行として金銭を得ていました。しかししだいに勧進の意味は廃れ、単なる興行となっていったようです。)

當麻寺 東塔 藤

③土俵は宇宙になぞらえられている?

相撲は神事であるといわれますね。
たとえば、行司さんが「はっけよい」と言いますが、「はっけよい」とは「八卦よい」からくるともいわれます。
また土俵式の祝詞では「陰陽がどうのこうの~」みたいなことを言っています。
どうも相撲は八卦とか陰陽道と関係がありそうです。

中国では「天円地方(天は丸く、地は四角)」などと言われていました。
丸い土俵は天(宇宙)を表しているのではないでしょうか。

そして陰陽道の宇宙観では東は太陽の定位置、西は月の定位置、中央は星と考えます。

記紀神話ではイザナギの左目から天照大神が、右目から月読命が、鼻からスサノオが生まれたとあります。
イザナギの顔は宇宙に喩えられているのだと思います。
で、地図は右が東で左が西ですが、それは正しくは向かって右が東で、向かって左が西なんです。
地図の側に立てば、左(向かって右)が東、右(向かって左)が西となります。
すると、天照大神は宇宙(イザナミの顔)の東、月読命は宇宙の西に位置することになり、陰陽道の宇宙観と一致します。

イザナギの鼻から生まれたスサノオは星の神ということになりますが、
船場俊昭さんは「スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないか」とおっしゃっています。

イザナミ(宇宙)の左目・・・東・・・天照大神(太陽)
イザナミ(宇宙)の右目・・・西・・・月読命(月)
イザナミ(宇宙)の鼻・・・中央・・・素戔鳴尊(星)

土俵が宇宙とすると、東の力士は太陽、西の力士は月を表しているのではないでしょうか?
また、陰陽道の宇宙観では、宇宙の中心は星なので、東西の力士が組み合う土俵の中心部は星となります。
それで相撲の勝敗を白星・黒星というのではないかと思ったりします。

當麻寺 中之坊より西塔を望む 躑躅

④陽と陽が重なると不老長寿になる。

土俵に女性があがってはいけないとされているのはなぜなのでしょうか?
私の考えを書きます。

9月9日は重陽の節句といい、京都の上賀茂神社では烏相撲が行われます。
どうやら重陽の節句と相撲は関係がありそうです。

上賀茂神社 烏相撲  

上賀茂神社 烏相撲

同じ重陽の日、京都法輪寺では重陽神事が行われ、菊滋童の舞が奉納されます。

法輪寺 重陽神事2

法輪寺 重陽神事

菊滋童の舞は次のような中国の伝説に基づくものです。

の穆王が寵愛していた少年菊滋童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。

穆王の枕を超えた、という点に注意してください。
穆王は菊滋童を寵愛していたとありますが、これは単に「かわいがっていた」という意味ではなく、「BLの関係にあった」ということでしょう!(きゃーーーっ❤)

陰陽道では男性は陽、女性は陰となります。

BLや男同士がぶつかりあう相撲は、どちらも重陽となります。

岡山県西大寺で行われている会陽という行事も、「男(陽)たちが出会う、集まる(会)」という意味で会陽というのではないかと思います。



動画、お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

そして重陽は9月9日のことであり、菊(ククとも読むようです。)の節句です。
菊とは男色の隠語でもありますね。
そしてBLや相撲など男と男が重なりあうと、不老長寿になると考えられたのではないかと思います。

⑤女相撲は卑しいものだった?

江戸時代には女相撲が行われていたようですし、古くは日本書紀に女相撲についての記述もあります。

日本書紀の雄略天皇13年(469年)9月、猪名部真根(いなべのまね)という石の細工人は「石を細工する際に斧の刃を傷つけたことがない」と言いました。
雄略天皇はその言葉が信じられず、采女にフンドシを締めさせ女相撲を行わせた。
真根は石を細工していましたが、女相撲が気になり、斧の刃先を台座の石にぶつけ、刃が欠けてしまいました。 
      

④で述べたように陽の存在である男と男が重なる(重陽)と不老長寿になると考えられていたのではないかと思います。
一方、女性は陰陽では陰の存在であり、女と女が重なる(重陰)と、天才的石細工人でも誤って刃をかけさせてしまうように、よくないことがおこると考えられたのではないでしょうか?

當麻寺 しだれ桜 東塔

⑥陰陽道禁止

このように相撲は陰陽道とか八卦と関係がありそうです。
そして、八卦は陰陽思想と関係が深いです。
詳しくは、ウィキペディアのこちらの記事を参照なさってください。→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%A6

ですが陰陽道は迷信であるとして、1872年(明治5年)に明治政府によって廃止されています。

国がはっきりと「陰陽道は迷信である」と表明したわけです。

また国が表明するまでもなく、男が陽で重陽は縁起がよく、女が陰で重陰が縁起が悪いというのが迷信であることは多くの人が認めるところでしょう。

 當麻寺 西塔 東塔 新緑

⑦「女性は土俵から降りてください」は犯罪では?

最近、大相撲舞鶴場所で挨拶をしていた多々見良三市長が土俵上でいきなり倒れるという事件がありましたね。
そこで看護師の女性らが土俵上にかけのぼって心臓マッサージを行ったところ、「女性は土俵から降りてください」とのアナウンスが流れました。
これが女性差別にあたるのではないかと騒がれています。

実行委員会は、会場に待機していた消防署員が自動体外式除細動器(AED)を持って処置を交代したため、このようなアナウンスをしたというのですが
人命救助を行う場には知識がある人がひとりだけではなく、数人いたほうがいいと思います。

幸い、市長は一命をとりとめたのでよかったのですが、もしも亡くなっていたら?

市長の人命救助を妨害したとして、アナウンスした人は刑事罰に問われかねなかったと思います。

當麻寺 牡丹

⑧伝統は変わっていく。

伝統を守っていくというのは大切ですが、伝統は時代に合わせて変化してきたという事実もあります。

相撲も最初は殺し合いであったものが(①に書いたように、野見宿祢vs當麻蹴速の戦いでは當麻蹴速は死亡しています。)
宮中行事になった際には単に勝ち負けを競うものになっていたはずです。

あるお寺に地獄絵を見に行ったことがあるんですよ。
地獄絵には竹藪にすわりこんで何かを探している女の絵がありました。
昔、子供を産まなかった女性は筍を探し続ける地獄に落ちると言われていたんですね。
お寺の住職さんがその地獄絵の絵解きをしてくださるんですが、筍を探し続ける地獄については何もおっしゃいませんでした。
それはもちろん、女性が子供を産まなかったとしても罪ではなく、極楽へ行く権利があると、現在の仏教が考えているからでしょう。

富士山・立山・白山・比叡山・御岳山・高野山などはかつて女人禁制でしたが、
江戸後期から明治にかけての期間に女人禁制をといているので、女性でも足を踏み入れることができるようになりました。
これらの山に行って仏像を参拝したり、写真を撮ったりできることは本当に幸せなことです。

それに地理的なことや、気候のことなど、行ってみないとわからないこともあるんですよ。フィールドワークっていうんですか。

大峯山や沖ノ島など、今でも女人禁制の場所もあることはあります。
また将来、女性総理大臣が誕生したとして、表彰の際に土俵にあがれなくても、それは単に伝統であって、差別とはちがうという意見もあるかもしれません。

ですが、最低限、今回のように人の命にかかわる際には、女性でも土俵にあがってもよいとしておくべきだということは
言うまでもないことです。
松尾大社 八朔祭 赤ちゃん土俵入り 

松尾大社 赤ちゃん土俵入り



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[2018/04/22 01:05] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

常楽寺 紅葉 『阿星山は紫香楽宮の鬼門守護の寺ではないと思う。』 

滋賀県湖南市 常楽寺
2017年11月中旬 撮影


常楽寺 本堂 五重塔2 
常楽寺 本堂 三重塔 104


①阿星寺と長寿寺・常楽寺

先日、長寿寺と長寿寺の鎮守・白山神社の記事を書きました。
長寿寺 紅葉 『長寿寺は孝謙(称徳)天皇誕生に伴って建立された?』 
白山神社(長寿寺) 紅葉 称徳天皇はククリヒメ? 

その長寿寺・白山神社から約1kmほど行ったところに常楽寺があります。
どちらも山号は阿星山といいます。

かつてこのあたりに阿星寺(阿星山寺)があったようで、次のように記されているサイトがありました。

元明天皇の和同年中(708~715)、金粛菩薩が甲賀郡の大岳(阿星山)の霊地を開き、初めて仏門弘道の精舎(寺院)を建て、数字の殿堂を構え、僧坊が甍を並べ、阿星寺と号したが、魔風のため火災にかかり、本尊の千手千眼観音像は常楽寺に飛んで来たという(『常楽寺文書』「近江国常楽寺勧進帳」)。

今日、山腹にある「堂立遺跡」や「阿星寺跡」と名づける寺院遺跡は、往時の阿星寺の一部であろう。

~略~

阿星寺の由緒をひく石部町東寺の長寿寺と西寺の常楽寺が、「もと聖武帝信楽宮に遷都の時、鬼門守護の寺なり」といわれるのは(『東海道名所図会』)、阿星寺の存在を抜きにしては考えられない。


http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/202030100.htm より引用

常楽寺 鐘楼 
常楽寺 鐘楼

②長寿寺・常楽寺は鬼門守護の寺?

上記リンク先に
長寿寺と西寺の常楽寺が、「もと聖武帝信楽宮に遷都の時、鬼門守護の寺なり」といわれるのは
http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/202030100.htm より引用
とありますね。

ウィキペディアにもそう記されています。
【常楽寺】
寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82)より引用

【長寿寺】
寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AF%BF%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82) より引用

常楽寺 本堂 五重塔3 
常楽寺 本堂 三重塔

③鬼門は北東

次に鬼門について調べてみましょう。

鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。
陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。
他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。
鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。
南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E9%96%80より引用

常楽寺 本堂 五重塔5 
常楽寺 三重塔

④比叡山延暦寺は平安京鬼門封じの寺

比叡山延暦寺は平安京鬼門封じの寺といわれます。

延暦寺 東塔 阿弥陀堂 
延暦寺


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC#/media/File:Heiankyo_landsat.jpg
平安京の位置は、上記リンク先で確認してください。

地図上に京阪鴨東線と表示のある西あたりが平安京です。
延暦寺は平安京の北東の位置にありますね。
すなわち、平安京の北東に延暦寺をおくことで、鬼門より鬼がやってくるのを防ぐという呪術的な意味あいがあるのでしょう。

常楽寺 本堂 五重塔4

常楽寺 三重塔 

⑤常楽寺や長寿寺は紫香楽宮跡の北北西では?


次に常楽寺・長寿寺と紫香楽宮跡の位置関係を見てみましょう。
常楽寺は阿星山の北、長寿寺は常楽寺の東1kmほどの場所です。


あれ?常楽寺は紫香楽宮跡の鬼門(北東)ではなく、北北西あたりにありますね?

ウィキペディアをよく読んでみると、次のように書いてあります。

聖武天皇が天平17年(745年)に遷都した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡に比定され、1926年(大正15年)に史跡として約33000平方メートルが指定された。
しかし、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、黄瀬・牧にある遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国国分寺の跡である可能性が高くなった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E9%A6%99%E6%A5%BD%E5%AE%AE%E8%B7%A1 より引用




滋賀県甲賀市信楽町宮町641−1の甲賀市紫香楽宮跡関連遺跡群発掘調査事務所 遺構展示室にピンを立ててみました。
宮町遺跡はたぶんこのあたりだと思います。

うーん、でもやっぱり常楽寺・長寿寺は鬼門の方角にはありません。
常楽寺・長寿寺は信楽の宮の鬼門封じの寺ではないということではないでしょうか。

⑥阿星山は玄武の山?

710年から794年までの間に何度も遷都が繰り返されています。

平城京(710)→恭仁京(740)→紫香楽宮(74?)→難波宮(744)→平城京(745)→長岡京(784)→平安京(794)

常楽寺・長寿寺はこのうちの難波宮の鬼門にあるとはいえそうです。

また紫香楽宮は四神相応の地に作られたともいいます。
北方守護の神・玄武は丘陵に、南方守護の神・朱雀は湖沼に、東方守護の神・青龍は清流に、西方守護の神・白虎は大道に棲むといわれ、北に丘陵、南に湖沼、東に清流(川)、西に大道のある土地は指針相応の地であり大変縁起がいいといわれていました。

阿星山(常楽寺・長寿寺)はほとんど紫香楽宮の北にあると言ってもいいので、阿星山は玄武の丘陵なのでしょうか?
でも、南に湖沼、東の清流が見当たりません~。

常楽寺 本堂
常楽寺 本堂 


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[2017/11/19 00:00] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)

白山神社(長寿寺) 紅葉 称徳天皇はククリヒメ? 

滋賀県湖南市 長寿寺
2017年11月中旬 撮影


長寿寺 白山神社 鳥居

白山神社 

①白山信仰


前回ご紹介した長寿寺の隣というか?境内?に白山神社があります。長寿寺の鎮守です。

長寿寺 門 
長寿寺

白山神社については結構たくさん記事を書いています。すごく気になる神社なんですね~♪
http://kntryk.blog.fc2.com/?q=%E7%99%BD%E5%B1%B1&charset=utf-8

石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがって、標高2702mの白山があります。

白川郷 合掌造 集落

白河郷からみた白山(向かって右の雪を被った山が白山)

②ククリヒメは括り姫?潜り姫?


この白山に対する信仰を白山信仰といい、白山神社にはたいてい菊理姫(ククリヒメ)が祀られています。

イザナギは死んだイザナミを迎えに黄泉平坂に行きますが、腐って蛆がたかったイザナミの姿を見て恐ろしくなり、逃げ帰ってしまいます。
イザナミはこれに腹を立ててイザナギを追いかけますが、イザナギは黄泉平坂まで戻り、大きな石をおいてあの世とこの世の出入り口である黄泉平坂を塞ぎます。
そしてイザナギは「私がはじめ悲しみ、慕ったのは私が弱かったからだ」といいました。
すると泉守道者(よもつちもりびと)がイザナギにイザナミの言葉を伝えました。
「私はあなたと、すでに国を生みました。これ以上生む必要はないでしょう。私は黄泉の国にとどまります。あなたとは一緒に帰りません。
このとき菊理媛神が何か言いました。イザナギはこれをほめ、その場を去りました。

(『日本書紀』の一書 第十)

ククリヒメは何を言ったんですかね?気になりますが、発言の内容は記されていません。

ククリヒメは「ククリ」は「括る」で縁結びの神、「潜る」で水神とする説などあります。

 長寿寺 白山神社 鳥居2

白山神社

③ククリヒメは皇位継承の神?

ククリヒメから私は在原業平の有名な歌を思い出します。


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

龍田川 紅葉

龍田川

「ちはやぶる」・・・「神」にかかる枕詞です。
「神代も聞かず」・・・「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」・・・奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川。
「から」・・・「韓の国」や「唐土(もろこし)」
「くれなゐ」・・・「紅色」

ここまでは難しいところはありませんね。 

問題は「水くくる」です。
「水くくる」には2つの解釈があります。

a.水を「括り染め」にした。→「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
b.水を潜った。→「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」

この在原業平の歌は在原業平の祖父・平城天皇の次の歌と対応していると思います。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

平城上皇は嵯峨天皇と対立して敗れ出家しています。(薬子の変)
これに連座したとして阿保親王は大宰府に流罪となりました。

10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないかと思います。

そして藤原高子が清和天皇の皇子として産んだ陽成天皇は在原業平の子であると言う説があります。
というのは伊勢物語に在原業平と藤原高子が駆け落ちするというシーンがあるからです。

百人一首かるた

龍田川のもみじは皇位継承の血筋の比喩だと思います。
「龍田川を渡る」とは「平城天皇が薬子の変をおこす」ことの比喩で「薬子の変をおこすと皇位継承の血筋が途切れてしまうだろう(私の子孫は皇位につけないだろう)」というのが歌の意味ではないでしょうか。

そして在原業平は、自分の祖父・平城上皇が薬子の変をおこして途切れた皇位継承の血筋が、陽成天皇即位によって括られると詠んだのだと思うのです。

詳しくはこちらの記事をお読みください→龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 

ククリヒメは括り姫で皇位継承を括る(結びつける)神なのではないでしょうか?

④称徳天皇は天智系天皇にとっての皇位継承を括る神?


長寿寺は聖武天皇の皇女誕生の際に七堂伽藍が整備されたといいます。
聖武天皇の皇女は3人いますが、そのうち阿倍内親王が即位して孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となっています。
おそらく阿倍内親王誕生の際に長寿寺の七堂伽藍が整備されたのでしょう。

称徳天皇で天武系天皇の血筋が絶え、天智系天皇に変わったことは、こちらの記事に書いたとおりです。
長寿寺 紅葉 『長寿寺は孝謙(称徳)天皇誕生に伴って建立された?』 

なるほど!称徳天皇は天智系天皇が皇位継承するきっかけになった神=括り姫だといえる。
それで長寿寺の鎮守に白山神社が勧請されたのだろうって?

長寿寺 白山神社 拝殿 

白山神社

⑤称徳天皇は阿倍仲麻呂と藤原光明子の子?

うーん、そういうこともあるかもしれないけど
私は称徳天皇って阿倍仲麻呂と藤原光明子の間に生まれた娘ではないかと思ってるんです。

四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ/孝謙天皇(のちの称徳天皇)
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)


大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち/光明皇后〈藤原光明子)
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)

この二つの歌は、第12次遣唐使を送る際に詠んだもので、この遣唐使船が帰国する際、阿倍仲麻呂が乗船して日本に帰る予定になっていました。

帰国まぎわに阿倍仲麻呂は次のような歌を詠んでいます。

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/阿倍仲麻呂

(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)

仲麻呂が乗った船は暴風雨にあい、結局仲麻呂は日本には戻れず唐でなくなるのですが~。


ならるりえ 遣唐使船 
なら瑠璃絵で展示されていた遣唐使船

光明皇后の「光明」とは「暗闇を照らす光」のことをいいます。
暗闇を照らす光とは月のことではないでしょうか。
そして三笠山は春日大社の背後にあって春日大社とは関係が深そうに思えますが、春日大社は藤原氏の氏神、
光明皇后は藤原不比等の娘です。
「みかさの山に いでし月」とは光明皇后のことだと思えて仕方がないんですね~。


浮見堂 三笠山 百日紅 
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山

そして孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の娘とされていますが、本当の父親は阿倍仲麻呂では?
孝謙天皇は阿倍内親王といい、阿部氏と関係がある女性のように思えるんですよね~。

⑥称徳天皇は蝦夷だった?


『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であると記されています。

当時、日本の東国には蝦夷と呼ばれるまつろわぬ民が住んでおり、朝廷はたびたび蝦夷征伐の軍を送っていましたが、あるとき、朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたというのです。

また東大寺の大仏建立に用いられた黄金は、彼女の縁で奥州から送られた、とも記されています。

東日流外三郡誌は後世の偽書とされており、その内容をそのまま信じることはできないんですが、気になる記述です。

長寿寺 白山神社 神殿 
白山神社 神殿

阿倍仲麻呂は蝦夷の安倍(阿倍)氏なのか?
そして私は称徳天皇(孝謙天皇/阿倍内親王)は阿倍仲麻呂の娘ではないかと考えているのですが、阿部仲麻呂が蝦夷だとすれば、称徳天皇もまた蝦夷だといえます。

これが正しければ、蝦夷の女性が皇位についたということになり、女性とはいえ、万世一系の建前が崩壊してしまいます。

ところが称徳天皇は急死して天智天皇の孫の光仁天皇が即位しました。
そのため称徳天皇は皇位継承を天皇家に戻した神、皇位継承を正しく括った神(阿倍氏が皇位継承せず、天皇家が皇位継承する)として信仰され、
その結果白山神社がここに勧請されたんだったりして?


詳しくはこちらの記事をお読みください→海龍王寺 雪柳 『光明皇后と阿倍仲麻呂のスキャンダル?』 

長寿寺 本堂 白山神社 拝殿

白山神社 拝殿(向かって右)と 長寿寺本堂(向かって左)



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[2017/11/17 00:00] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)

神峰山寺 紅葉『開成皇子とジンベエザメ』 


大阪府高槻市 神峰山寺
2017年11月4日 撮影


神峯山寺 紅葉


①開成皇子→謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

神峰山寺は役小角によって開かれ、774年、光仁天皇が開成皇子に命じて中興させたお寺です。
開成皇子、キターーーーーーーー!
私がいまもっとも心ときめかせているお方、それが開成皇子なのですね~。

開成皇子は箕面の勝尾寺の開基でもあります。

神峯山寺 紅葉2


以前の記事、勝尾寺 桜 『勝尾寺は鰹寺?』 に私はこんなことを書きました。

a.727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)が箕面に草庵を築き、765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りした。777年、開成が弥勒寺(勝尾寺の前身)を創建した。

b.清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」になったというが、「王に勝った寺」というのは日本語としておかしい。
「王の病に勝った寺」と言うべきである。
勝尾寺という寺名の由来を「勝王寺からくる」とするのは、こじつけっぽい。

c.清和天皇は天皇であって王ではない。
王とは天皇の子の男子ではあっても親王宣下をうけていない者のことである。

d.開成は「かいじょう」と読み、静岡県磐田市の白山神社の創建説話に登場する海上皇子(戒成皇子/桓武天皇の第四皇子)と関係があるのではないか。(前田速男氏の指摘)

e.愛知県新城市の白山神社の創建説話には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子が登場する。

f.海上皇子と開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられている。
開成皇子は何の病になったのかわからないが、海上皇子はハンセン病になったとされている。

ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるのではないか。
神峯山寺大阪府高槻市開成皇子光仁天皇に命じられ神峯山寺を開く
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子

gに追記させていただきます。

志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になったという伝説がありますが、志貴皇子の子として、海上王(本朝皇胤紹運録)または海上女王(続日本紀)という名前が記録されています。

h.斑点のある鹿は謀反人の比喩ではないか?
雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(日本書紀・トガノの鹿)

鹿の夏毛には白い斑点がある。その白い斑点が霜や塩に喩えられたのだろう。
そして謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説があります。

i.斑点のある動物はハンセン病の比喩ではないか?


612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。(日本書紀)

神峯山寺 回向堂 紅葉


ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

つまり、次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないか。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

j.ハンセン病は古にはらい病、ナリンボ、ドス、カタヰ(カタイ)などとも言った。
海上皇子という名前は海の魚を想起させ、魚偏に堅いと書けば鰹となる。
鰹寺から勝尾寺になったのではないか?

勝尾寺 多宝塔 二階堂 紅葉 
勝尾寺

②普通の度合いをはるかに超えた奴、ジンベエザメ。

①を念頭に置いて、続きを読んでくださいね。

Requin baleine

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ARequin_baleine.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Requin_baleine.JPG よりお借りしました。
作者 zclemz (投稿者自身による作品) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

ジンベエザメの体にもまた斑点がありますね。

着物の甚兵衛に似ているのでジンベエザメの名前がついたのではないかといわれていますが、私は逆じゃないかと思います。
甚兵衛の甚を調べてみると次のようにあります。


甚という漢字を調べてみたところ、次のようにありました。


①「はなはだしい(普通の度合いをはるかに超えている、ひどい)」
②「はなはだ(普通の度合いをはるかに超えているさま、非常に、ひどく、大変)」
③「「何」の意味を
表す疑問詞。なに。なんの。いかなる。なんぞ。」
④「非常に楽しい」

https://okjiten.jp/kanji1607.html より引用

つまり甚兵衛とは「普通の度合いをはるかに超えた奴」「ウルトラマン」というような意味になりますが、ジンベエザメは体調10mにもなることのある巨大な魚です。
まさしく「普通の度合いをはるかに超えた奴」ではありませんか。

着物の甚兵衛はジンベエザメに似ているところからその名前が付けられたのではないでしょうか。

神峯山寺 釈迦堂 紅葉 
③ジンベエザメはえびすざめだった。

ジンベエザメは茨木県では「いびすさが」「じんべ」、千葉県、神奈川県、静岡県では「えびすざめ」、福井県では「じんべい」、高知県では「さめ」、鹿児島県では「くじらぶか」、沖縄県では「みずさば」などと呼ばれていました。
ジンベエザメは古来より日本各地の海で観測されていたのでしょう。

栃木県ではアブラツノサメのことを「さがんぼう」というそうです。
茨木県の「いびすさが」の「いびす」は「えびす」、「さが」は「さめ」という意味で、千葉・神奈川・静岡の「えびすざめ」と同じ意味ではないでしょうか。

ジンベエザメの周囲には同じプランクトンを食べるイワシやカツオが常に群れているそうです。
そのため、ジンベエザメの姿を見かけると大漁になると考えられ、「えびすざめ」と呼ばれたのではないかと考えられています。 

神峯山寺 本堂 紅葉2


④鰹を連れてくる開成皇子

『ジンベエザメの周囲には同じプランクトンを食べるイワシやカツオが常に群れている』という点に注目してください。
やはり勝尾寺は鰹寺からくるのではないでしょうか?

開成(開成皇子・海上皇子)は謀反人であり、その死体にふられた塩がハンセン病を思わせるところから、ハンセン病をもたらす怨霊であると考えられたのだと思います。
ジンベエザメは体に斑点があるところからハンセン病を患った(実際には死体に塩がふられれているのですが)開成皇子の化身であると考えられていたのではなでしょうか。

そして、陰陽道では災いをもたらす荒魂は慰霊することでご利益をもたらす和霊に転じると考えられていました。
開成の化身であるジンベエザメは鰹をつれて姿をあらわし、大漁をもたらしてくれる。
そういうわけで、鰹寺となり、勝尾寺になったのではないかと思ったりします。

うーん、やっぱりトンデモ説?

神峯山寺 本堂 紅葉




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[2017/11/08 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 桜 『勝尾寺は鰹寺?』 

大阪府箕面市 勝尾寺
撮影 2017年4月24日

勝尾寺 多宝塔 しだれ桜

①王に勝った寺

727年、双子の兄弟、善仲と善算(年藤原致房の子)がここに草庵を築き、765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしました。 
777年、開成は大般若経600巻の書写をやり遂げ、この場所に弥勒寺を創建しました。
780年、妙観が十一面千手観世音菩薩立像を刻み、本尊として安置しました。
880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜りました。
しかし、「王に勝った寺」とはあまりに畏れ多いとして、「王」を「尾」として勝尾寺と号したそうです。

勝尾寺 多宝塔 石楠花

②勝尾寺での祈祷もむなしく、清和天皇は881年に崩御されていた!

いやー、この話はおかしいですね!
というのは、「880年、行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があった」というのですが、翌年の881年、清和天皇は崩御されているんですよね~。

清和天皇は858年、9歳で即位しました。
平家物語には惟仁親王(清和天皇)と惟喬親王のどちらを皇太子にするかでもめたことが記されています。
876年、第一皇子の陽成天皇に譲位し、879年に出家して畿内巡幸の旅をしました。
880年、丹波国水尾の地で絶食を行うなど厳しい苦行を行っています。
その後左大臣源融の別邸棲霞観で発病し、881年、粟田の円覚寺で崩御されました。

880年、清和天皇は苦行を行ったせいで病となり、そのため行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行ったのでしょう。
ですが清和天皇は崩御されてしまったので、行巡の祈祷は効験があったとはいえなくはないですか?

勝尾寺 多宝塔 桜

③「王に勝った寺」は日本語的におかしい。


また清和天皇の病気平癒の祈祷を行って効験があったため、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜ったというのもおかしいですね。

もしも本当に行巡の祈祷の効験があったのなら、「王に勝った寺」というのは日本語的におかしいです。
「王の病に勝った寺」と言うべきで、勝尾寺という寺名の由来を「勝王寺からくる」とするのは、ちょっとこじつけっぽく思えてしまう~。

また、実際には清和天皇はそのまま崩御されたので、行巡の祈祷の効験はなかったといいうことになります。

行巡が「清和天皇、死ね!」と祈祷していたと考えると「王(天皇)に勝った寺」というのは筋が通りそうに思えますが~(笑)

正確に言うと清和天皇は天皇であって王でもありませんしね。

王とはもともとは君主を意味する言葉でしたが、日本では国の君主には天皇と言う称号が使われていますね。
天皇の子の男子で、親王宣下を受けた者は親王と呼ばれました。
王とは天皇の子の男子ではあっても親王宣下をうけていない者のことを言いました。

勝尾寺-二階堂 しだれ桜

④勝尾寺は鰹寺?

勝尾寺という寺名は勝王寺からくるのではなく、もともとは鰹寺でそれが転じて勝尾寺になったのではないかと想ったりもします。

えーーっ、勝尾寺があるのは山の中やん、それなのになんで鰹なのって?

⑤ハンセン病にかかった皇子

①で765年開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りしたと書きましたね。
開成は「かいじょう」と読み、静岡県磐田市の白山神社の創建説話に登場する海上皇子(戒成皇子/桓武天皇の第四皇子)と関係があるのではないかと前田速男さんが指摘されています。

また愛知県新城市の白山神社の創建説話には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子が登場します。
こちらの開成皇子は勝尾寺の開成と同じ字ですね。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子
で、海人皇子と開成皇子はどちらも「裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、病になった」と伝えられています。
開成皇子は何の病になったのかわかりませんが海人皇子についてはハンセン病になったとされています。

3人の父親は異なりますが、ハンセン病にかかった伝説のある皇子のことを、開成・海上・戒成と呼んでいるのではないでしょうか。

勝尾寺 山門  

⑥実際にハンセン病にかかったわけではない、と思う。


日本書紀にトガノの鹿という話が記されています。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(トガノの鹿)

鹿の夏毛には白い斑点があります。
その白い斑点が霜や塩に喩えられたのでしょう。

そして謀反の罪で殺された人には塩が振られることがあり、鹿とは謀反人の比喩だとする説があります。

また日本書紀は次のような話もあります。


612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。

ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

つまり、次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないかと思います。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

⑦ハンセン病の古名のひとつ、カタヰ。


ハンセン病は古にはらい病、ナリンボ、ドス、カタヰ(カタイ)などとも言ったそうです。
海上皇子という名前は海の魚を想起させますし、魚偏に堅いと書けば鰹となりますね。

そういうわけで、鰹寺から勝尾寺になったのではないかと思ったりするんですが、あまりにトンデモですかね?

 勝尾寺 鐘楼 桜


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[2017/04/25 16:36] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 紅葉 『海上皇子と開成皇子』 

大阪府箕面市 勝尾寺
2006年11月18日(1枚目) 2011年12月4日(1枚目をのぞく) 撮影

勝尾寺 仁王門 紅葉 

●海上皇子と開成皇子

今、前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本を読んでいますが
ちょっと興味深いことが書いてありました。

静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうです。


①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになりました。
その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためです。


勝尾寺の創建説話に光仁天皇の皇子・開成皇子が登場します。
勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし
765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りたというのです。

前田速男さんはこの開成皇子と海上皇子には関係があるのではないかと指摘されています。

勝尾寺 霧 紅葉 

●春日王と春日宮天皇(志貴皇子)は同一人物?

もしかして、海上皇子と開成皇子は同一人物ではなでしょうか?

奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説がありました。
ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されています。
また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思います。
そこから私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えました。

●海上皇子と開成皇子は同一人物?

海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、ということですが
桓武天皇は光仁天皇の皇子なので、開成皇子と桓武天皇は兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになります。
志貴皇子と春日王の例もあるように、開成皇子と海上皇子は同一人物ではないでしょうか?

志貴皇子は施基皇子、志紀皇子とも書きます。
古には音が同じであれば、さまざまな字をあてて名前を表記していたのかもしれません。

勝尾寺 鐘楼 紅葉 

●志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が!

光仁天皇は志貴皇子の皇子です。
志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっています。
そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前があります。
つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになります。
しかも血のつながりのある志貴皇子・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのです。


●後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子

また愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているそうです。

②御殿において白雀を飼はせらる
まさに餌をやらんとすれば飛び放る
再び捕へんとして穢れし大地を踏まる
悪病にかかりて殿を出で
漂泊 旅して東原に至る

これは内容が①の伝説とまったく同じです。
名前は開成皇子となっていて、勝尾寺の創建にかかわった開成皇子と同名です。

②の文書は①の伝説をもとにしてつくられたもので、開成皇子を後醍醐天皇の子と変えたのかもしれませんね。

それともポーの一族のエドガーやメリーベルのように、開成皇子は時を超えて存在しているとか?

勝尾寺 多宝塔 二階堂 紅葉

●勝尾寺には白山信仰があった?

①の海上皇子、②の開成皇子はどちらも白山神社に伝わるもので、勝尾寺の創建は開成皇子とされています。
ということは、もしかして勝尾寺には白山信仰があったのかもしれませんね。

勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説があります。

参照/
勝尾寺 雨 紫陽花 『白い神と黒い神』 

白髪の娘は白山の神をイメージしたものなのかも?

また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘ということですが、越中とは富山県のことです。
富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物なのかな、と思ったりしますが
五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域でした。

 五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落



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[2016/11/18 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

長谷寺 だだおし 『閻浮壇金(えんぶだごん)とオリハルコン』 

 長谷寺・・・奈良県桜井市初瀬731-1
だだおし・・・2月14日 


日没後、法螺貝の音とともに鬼が登場!
鬼のあとには長さ3mはありそうな大きな松明をかかえた一団が続きます。

長谷寺 ただおし 赤鬼2


●『だだおし』という言葉の意味

『だだおし』とは、閻魔大王が悪人の罪を罰し穢れを祓う杖のことだとか、厄病神を駆逐する『難押し(だおし)』がなまったものだとか、様々な説があります。

長谷寺には次のような伝説があります。

717年、長谷寺の開山・徳道上人が病で仮死状態となり、冥土に行きました。
そのとき、閻魔大王は徳道上人に言いました。
「お前はまだ死んではいけない。もと世界に戻って西国三十三カ所観音霊場を開きなさい。」
徳道上人は閻魔大王の閻浮壇金(えんぶだごん)の黄金印(壇ダ印)をもらってもとの世界に戻りました。
そして修二会結願の日、閻浮壇金の黄金印を参拝者の額に押し当てて『悪魔退散』『無病息災』の加持祈祷をしました。
その時、長谷寺の乾(西北)の方、白山に棲んでいた悪鬼が出没しました。
徳道上人はこの鬼を修二会の法力で追い祓いました。

閻浮壇金宝印が額にあると極楽浄土が保証されると言われています。

『だだおし』では参拝者の額や牛玉札に宝印を押します。
ここから考えて『だだおし』とは閻浮壇金(えんぶだごん)の黄金印である「壇ダ印を押す」からくる言葉なのではないかと思ったりするのですが、どうでしょうか?

長谷寺 ただおし 青鬼 

●観音浄土とアトランティス、閻浮壇金とオリハルコン

長谷寺の舞台から本堂を見ると、礼堂(本尊を安置する場所)の上部は高窓のようになっていて、そこから像高三丈三尺六寸(1018.0cm)の巨大な十一面観音像のお姿を拝することができます。
御本尊の写真撮影は禁止だと思うので写真は撮ってないのですが~

私は長谷寺の舞台から十一面観音を拝むたびに、萩尾 望都さんのSF漫画・『百億の昼と千億の夜』を思い出します。

時ははるか古代、場所はアトランティス。
アトランティスは海神・ポセイドンが支配する国でした。
ポセイドンは長谷寺の観音様のように巨大で、祭の日に高窓から民衆に姿を見せる姿は長谷寺の十一面観音とイメージがだぶります。
(秋田文庫『百億の昼と千億の夜』p38、p48をごらん下さい。)

長谷寺 だだおし 緑鬼

観音浄土は南方海上にあるといいます。
観音様とは東洋における海神・ポセイドンだといえるかもしれません。

海神・ポセイドンが支配する国・アトランティスにはオリハルコンという金属があったとされています。
そして竜宮には閻浮壇金があった・・・・。
竜宮とは日本神道における、海神が住むとされる海の中にある宮のことです。
そして明治まで神道と仏教は習合されていました。
竜宮は神道、観音浄土は仏教の概念ですが、同一視されていたことでしょう。

観音信仰とアトランティス伝説は関係があるかも?ないかも?

 長谷寺 ただおし 赤鬼


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[2016/02/16 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

枚方宿 菊 淀川 夕景 『9月9日はなぜ菊の節句とされたのか』 

枚方宿
撮影 2015年11月5日

枚方宿 菊 


枚方駅を下車し、西へ向かって歩いていくとビオルネがあります。
ビオルネからさらに西へ向かうと突然江戸時代にタイムスリップ!


ここは江戸時代に枚方宿という宿場町だったところです。
街道沿いの家々には菊の花が飾られていました。

菊は枚方市の市花とされています。
2005年まで枚方パークで菊人形展が行われていたことに由来するのでしょうか。

枚方宿 菊2 
 

菊人形は江戸時代松から明治にかけ、東京本郷の団子坂で園芸業者によって行われるようになったとされます。
その後、団子坂では廃れますが、福島県・山形県などで菊人形展が行われるようになりました。
大阪では京阪電気鉄道が枚方パークで毎年秋に菊人形展を開くようになりました。
2005年で終了となりましたが~。

枚方宿 鍵屋 菊


菊人形はかつて9月9日の重陽の節句を盛大に祝っていたことの名残だとされます。

奇数は陽の数字、偶数は陰の数字とされ、同じ奇数が月と日で重なる日(3月3日、5月5日、7月7日。1月1日は元旦と重なるので1月7日とされたようです。)は節句として祝う行事が行われていました。
(もともとは避邪の行事であったとされていますが)

9はひとけたの陽の数字としては最大の数字なので「重陽の節句」といわれました。

五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)はそれぞれ植物と結び付けられて行事が行われました。

1月7日・・・七草の節句
3月3日・・・桃の節句
5月5日・・・菖蒲の節句
7月7日・・・笹の節句
9月9日・・・菊の節句

枚方宿 鍵屋 菊2


旧暦の節句のころに見頃になる植物ということなのでしょうが、それだけでなく、謎かけになっているのかもしれません。
例えば9月9日は九九(クク)なのでキクの節句になったのではないかなあ、と思ったりするのです。

白山神社の御祭神とされている菊理媛は「キクリヒメ」のほか「ククリヒメ」とも読まれています
菊は「くく」とも読まれていたのですね。

じゃあ、ほかのはどうなんだ、と言われれば、うーん?わからないです・・・(汗)。

枚方宿は淀川の堤の上に作られており、陸運だけでなく水運も盛んでした。
三十石船に「くらわんか舟」が近寄って飲食物を売っていたとか。

くらわんか舟と言われるのは「飯食らわんか、飯食う金もないのか」と高飛車な態度で飲食物を売っていたことに由来します。
私だったら、こんなこと言われたら絶対買わないです・・・。

淀川 夕景 

毎度、とんでも説にお付き合い下さりありがとうございました!



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[2015/11/10 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 

白川郷 合掌造 集落

世界遺産に登録されている白川郷(岐阜県大野郡白川村)の合掌造り集落へ行ってきました!
4月の終わりでしたが、遠くに見える白山は雪をかぶっています。

白川郷 しだれ桜 

↑ 枝垂れ桜が咲いていました。
白川郷の春は遅いのですね~。

五箇山 菅沼

↑ 白川郷から少し離れたところに五箇山(富山県南砺市)の菅沼集落があります。
小さな集落ですが、こちらも世界遺産です。
昔、五箇山は加賀藩の流刑地でした。
罪人が川を渡って逃げることを防ぐため、五箇山では川に橋をかけることが許されていませんでした。
そのため『籠の渡し』で川を渡ったそうです。
菅沼に『籠の渡し』の模型があるそうですが、うっかりしていて見そびれてしまいました。
こちらのサイトに写真があったのでリンクを貼っておきます。→ http://www.gokayama.jp/meguri/midokoro.html

五箇山 相倉 

↑ こちらも世界遺産になっている五箇山の相倉(あいのくら)集落です。
雪がたくさん残っていましたよ。

流刑小屋 

↑ こちらは五箇山の田向にある流刑小屋です。
復元されたものですが、昭和38年までは実際ここに流刑小屋があり、物置小屋として利用されていたそうです。
1667年から明治維新までの200年の間に五箇村には150人余りの流刑者が送られてきました。
写真の流刑小屋はお縮小屋と呼ばれ、流刑者はこの小屋から一歩も外に出ることができませんでした。
壁にある小さな穴は食事をさしいれるためのものです。
小屋の中には流刑者の人形がおかれていました。

五箇山 上梨 村上家 煙硝厩 

↑ 五箇山の上梨にある合掌造りの家、村上家住宅を見学させてもらいました。
上の写真は煙硝厩(えんしょうまや)です。

五箇山では煙硝(火薬原料)を生産して加賀藩に納めていました。
なにしろ流刑地とされるような山深い土地ですから、軍事機密である煙硝を生産するのに都合がよかったのです。

煙硝を作るためには、山野草と土を交互に積み重ね、年に3回、山野草・蚕糞・人尿を加えて鋤でまぜます。
煙硝厩はこの作業を行う場所のことです。
5年目から煙硝がとれるようになります。
これを桶に入れて水をはり一晩おき、抽出液を煮詰めて煙硝の結晶を取り出します。

五箇山 上梨 村上家 屋根裏 

↑ 村上家住宅の屋根裏です。
釘を使わず、縄で木材を縛って家を組み立てているのがわかります。
祇園祭の山鉾を組み立てるのと同じですね。

五箇山 上梨 村上家 鬼門除け 

↑ 村上家住宅にはこんなものも展示されていました。
とても小さい頭蓋骨でした。
猿の頭蓋骨でしょうか?

以前、馬小屋の守護神として2つの猿の頭蓋骨が祀られているのを見たことがあります。
神から示偏をとると申(さる)となり、猿は神の使いであると信仰されたようです。
また京都御所の鬼門(東北)の隅は猿が辻といい、東北の隅を作らないように塀を内側に凹ませ、さらに猿の像が飾られています。(金網がはってあるのでわかりにくいですが)


猿が辻 

猿が辻 猿の像 

猿が辻に猿の像が飾られているのは『鬼が去る(猿)』という語呂合わせであるといわれています。
どうも鬼門除けに猿は欠かせないものであったようです。

↓ 村上家住宅の『おえ(居間)』です。

五箇山 上梨 村上家 囲炉裏

 囲炉裏があってとてもいい雰囲気ですね。
囲炉裏の向かって左にあるのは『ささら』です。
村上家住宅からほど近いところに白山宮があり、9月に『こきりこ祭り』が行われます。
『こきりこ祭り』では『『ささら踊り』が奉納されるのですが、『ささら』はこの『ささら踊り』で用いられる楽器です。

↓ 『こきりこ祭り』のではありませんが、ささら踊りの動画があったので、お借りしました。(ありがとうございます。)



有名な鳥獣戯画でも、蛙が『ささら踊り』を踊っているシーンがあります。

http://akituya.gooside.com/choujyu_allall.htm (【12】をクリックしてください。)

『ささら』には108枚の板が用いられています。
108は煩悩の数であり、ささらを打ち鳴らすことで煩悩を打ち消すことができると言われています。

私は鳥獣戯画の蛙は平将門を現しているのではないかと思います。
上のリンク先の鳥獣戯画の【16】をクリックすると、蛙が蓮の葉の上に座って阿弥陀仏になっている絵があります。
蓮阿弥陀仏とは940年に平将門の乱をおこして討伐された平将門の法名です。
平将門の首は京で晒されていましたが、生まれ故郷である東国に飛んで帰ったという伝説があります。
平将門の首塚には蝦蟇(蛙)の置物がたくさん奉納されています。
これは「無事帰る=蛙」の語呂合わせだといわれていますが、私は蛙は髑髏を現しており、将門は髑髏の神ということで蝦蟇(蛙)の置物を奉納する習慣が生じたのではないかと考えています。

詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。蔵王堂光福寺 久世六斎 『空飛ぶ鉢の正体とは』 

とすれば、蛙がささら踊りをしているのは、将門の霊が煩悩を捨てて成仏しようとしている様を表しているのではないかと思えます。
合掌造り集落の話が平将門の話になってしまってすいません・・・・

加賀藩の流刑地だった五箇村で亡くなった罪人も大勢いたことでしょう。
『ささら踊り』が行われているのは、このような罪人たちの霊の煩悩を打消し、成仏させるためだったのかも?


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[2015/05/12 00:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)
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