奈良県宇陀市榛原山辺三 山部赤人の墓 奈良県宇陀市榛原戒場 戒長寺 2019年11月17日 撮影
山部赤人の墓①言霊の使い手額井岳のふもとに山部赤人の墓はありました。 山部赤人は奈良時代の人で古すぎるゆえ、本当にここが山部赤人の墓なのかどうかわかりませんが この付近の人々は、ここを山部赤人の墓だと信じ続けてきたのです。 なぜここに山部赤人の墓があるのか。あるいは、なぜここが山部赤人の墓だと信じられたのか。 ネットをぐぐってみると「宇陀市榛原山辺」という地名で、山部赤人は山辺赤人とも記されることがあったため、と記された記事がありました。 そういうこともあるでしょうが、私はやっぱり、有名なこの歌にちなんでのことではないかと思います。 田児の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける/山部赤人 実はさきほど山部赤人の墓は額井岳のふもとにあると書きましたが、額井岳は大和富士と呼ばれているのです。 「田児の浦」は駿河湾の西付近を指します。 当然、この歌も田児の裏で詠まれたものでしょう。 しかし山部赤人は死んで大和富士と呼ばれる額井岳のふもとに葬られたので、「山部赤人の歌には言霊があった。」と人々は考えたのかもしれません。 言霊とは言葉の力によって口から発した言葉を実現させてしまう力のことです。 つまり、山部赤人は「田児の浦ゆ」の歌を詠んだので、その言霊の力によって大和富士のふもとに葬られたと人々は考えたのではないかということです。 この墓が本当に山部赤人の墓でなくてもいいんです。(もしかしたら本当に山部赤人の墓かもしれないですが) 人々が山部赤人の墓であると信じたということが重要なんです。 額井岳②赤人は殺されて塩が振られている?また雪は謀反人に降る塩を思い出させます。 というのは摂津風土記にこんな話があるのです。 雄鹿は背に雪が降り、薄が生える夢をみました。 雌鹿は偽った夢占いをして「薄はささった弓矢。雪は殺されて塩がふられているのです。出かけるとあなたは殺されてしまうでしょう。」 しかし雄鹿は淡路島にすむ妾の鹿に会いにでかけてしまい、夢占いとおりに舟人に射られて死んでしまいました。 もしかしたら山部赤人もまた殺されて、塩が振られたのかもしれません。 とすれば「田児の浦ゆ」の歌は、殺されることを予知した夢であると考えられた可能性もでてきます。 戒長寺 遠望 (戒場山)③戒場は開成?山部赤人の墓の正面に立つと、山が見えます。そしてその山の中腹に大イチョウが見えます。 戒長寺の御神木・お葉つきイチョウです。 その山の名前を聞いて、テンションあがる、あがる! 戒場山。 かいばやま、と読むんでしょうか。 でも、戒場と書いて、「かいじょう」とも読めますね。 そして戒成皇子、海上皇子、開成皇子と呼ばれる皇子が、各地の寺社の創建説話に登場しています。 志貴皇子の子にも、海上王(本朝皇胤紹運録)または海上女王(続日本紀)という名前が記録されています。 神峯山寺 | 大阪府高槻市 | 開成皇子 | 光仁天皇に命じられ神峯山寺を開く | 役行者が開基し、774年に開成皇子が創建した。 | 勝尾寺 | 大阪府箕面市 | 開成 | 光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄 | | 白山神社 | 静岡県磐田市 | 海上皇子(戒成皇子) | 桓武天皇の第四皇子 | 裸足で大地を踏んだので病になった。 | 白山神社 | 愛知県新城市 | 開成皇子 | 後醍醐天皇の第3皇子 | 裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。 | | | 海上王(本朝皇胤紹運録) または海上女王(続日本紀) | 志貴皇子の子 | 志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になった。 (奈良豆比古神社伝説) |
奈良豆比古神社には志貴皇子がハンセン病を患ったという伝説があります。 そして愛知県新城市の白山神社には、「開成皇子は裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。」という伝説があります。 もしかして山部赤人もハンセン病を患ったのでしょうか? 612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。 白斑の男はこう言って抵抗した。 「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。 私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」 そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。(日本書紀) ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。 鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。 次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないでしょうか。 謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。 山部赤人と開成皇子は関係がありそうに思えます。 もう少し調べてみます。 戒長寺 本堂 戒長寺 鐘楼まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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奈良市忍辱山町 円成寺 2019年10月6日 撮影
萩が咲いているかなと思って出かけたんですが、萩はもう終わっていました。 そのかわり、もう紅葉が色づき始めていました。
①円成寺を創建したのは虚滝?益信?
前回の喜光寺もそうですが、お寺の創建については複数の縁起を伝えているケースが多々見られますね。 ここ円成寺もふたつの創建縁起を伝えます。
①756年、聖武天皇の勅願を受け、鑑真とともに来日した唐僧・虚滝(ころう)が創建した。(和州忍辱山円成寺縁起)
②延喜年間(901 - 923年)、京都東山鹿ケ谷に円成寺を建立した僧・益信が、大和忍辱山を訪れ、この地に寺を創建した。(忍辱山知恩院縁起)
京都東山鹿ケ谷の円成寺は円城寺ともいいますが、現存しないようです。 大豊神社付近にあったとされ、大豊神社は円成寺の鎮守であったとされます。

大豊神社
②宇多天皇の御悩平癒祈願
京都東山鹿ケ谷にあった円成寺の鎮守・大豊神社は、仁和3年(887年)に尚侍藤原淑子が勅命を受けて創建したとされます。
勅命とは天皇の命令という意味ですから、宇多天皇(867-931/在位887-897)の命令を受けて藤原淑子が大豊神社を創建した、ということでしょう。
大豊神社が創建された887年は宇多天皇が即位された年ですね。 宇多天皇は即位するにあたり、何か心配ごとがあったのでしょうか?

③奈良の円成寺は道真の怨霊鎮めが目的で創建された?
宇多天皇(867-931/在位887-897)は菅原道真を重用していました。 897年、第一皇子の醍醐天皇に譲位しましたが、宇多天皇は醍醐天皇にも道真を重用するようにと申し付けていました。 ところが901年、藤原時平が醍醐天皇に「道真は謀反を企てている。」と讒言し、 醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰府に流刑としてしまいました。 903年、道真は大宰府で死亡しました。
道真の死後、909年から931年ごろにかけて、京にはおかしな事件が相次いでおき、道真の怨霊のしわざとされました。
春日堂 白山堂
| できごと | 寺社創建 | 887年 | 宇多天皇醍醐天皇に譲位
| 宇多天皇の勅命を受け、藤原淑子が京都円成寺の鎮守・大豊神社を創建 | 901年 | 菅原道真大宰府に左遷となる。 | | 903年 | 菅原道真大宰府で死亡。 | | 909年 | 藤原時平39歳で病死 | 延喜年間(901 - 923年) 京都東山鹿ケ谷に円成寺を建立した僧・益信が、大和忍辱山に円成寺を創建した。 | 913年 | 源光(道真失脚首謀者のひとり)、狩の最中に溺死。 | 923年 | 醍醐天皇の皇太子・保明親王薨去 | 925年 | 醍醐天皇の皇太子・慶頼王卒去 | | 930年 | 清涼殿落雷事件 道真左遷に関与した大勢が死傷する。 醍醐天皇崩御。(道真の怨霊を恐れるあまりノイローゼになって崩御したとも伝わる。) | | 931年 | 宇多上皇崩御 | | 表にしてみるとわかりやすいです。 つまり、京で道真の怨霊が猛威を振るっている最中、京都の円成寺を創建した僧・益信によって奈良の円成寺は創建されたわけです。 奈良の円成寺は道真の怨霊鎮めが目的で創建されたのではないでしょうか? しかも、京都の円成寺の鎮守・大豊神社は「宇多天皇御悩平癒」を目的として、宇多天皇の勅命を受けて創建されていますので、京都の円成寺も勅願寺(天皇・上皇の発願によって創建された寺)であった可能性が高いです。 すると、奈良の円成寺も宇多上皇または醍醐天皇の勅願寺として創建されたのではないでしょうか。 ④宇多上皇は聖武天皇の霊にも悩まされていた?宇多上皇は道真だけでなく、聖武天皇や孝謙天皇の霊も恐れていたのかもしれません。 672年、天智天皇の皇子・大友皇子vs天智天皇の弟・大海人皇子の争いがありました。(壬申の乱) 大海人皇子が勝利して即位し天武天皇となりました。大友皇子は自害して果てました。 その後、奈良時代は、天武系の天皇が続きます。 天武― 持統(天武の皇后・天智の娘)-文武ー 元明ー 元正ー聖武ー 孝謙―淳仁ー 称徳(孝謙と同一人物)※赤文字は女帝称徳天皇は女帝で結婚が許されず子供がありませんでした。 そしてここで天武系の血筋は途切れてしまい、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位しました。 血筋のたえてしまった天武系天皇は、天智系天皇にとっては怨霊のような存在であったことでしょう。 そこで、宇多上皇は京都・円成寺の僧・益信に命じ、天武系最後の男性天皇・聖武天皇の霊を弔うために 奈良の円成寺を創建させたのではないでしょうか。 そして聖武天皇の霊を慰霊すると同時に、都で大暴れする菅原道真の怨霊を鎮めてくださるようにと、聖武天皇の霊に祈願したのかも? 和州忍辱山円成寺縁起に「756年、聖武天皇の勅願を受け、鑑真とともに来日した唐僧・虚滝(ころう)が創建した。」とありますが、756年は聖武天皇が崩御された年です。実際に円成寺が創建されたのは延喜年間ではないかと思います。 聖武天皇が創建したとする縁起は、「聖武天皇の霊を慰霊するために創建した寺」であるところから、創作されたものではないでしょうか? しかし宇多上皇は息子の醍醐天皇が崩御した翌年に崩御してしまわれました。

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祇園祭宵山 7月14日~16日
①太子山と奇応丸太子山の前に雰囲気のある店が。 かつては薬屋さんだったのでしょう。 奇応丸の看板があげられています。 関西の人なら「ひや きおーがん♪」と歌われるCMソングを1度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。 「ひや」は「樋屋」で「樋屋製薬会社」という会社名、「奇応丸」は赤ちゃんの夜泣き・疳の虫に効能があるとされる薬です。 奇応丸は奈良時代に鑑真が6度目の渡航で来日に成功した歳、戒律とともに日本に伝えたとされる生薬です。 のちに東大寺の太鼓を修理した際、腔裏(こうり)にその製法が記されており、これをもとに奇応丸が作られるようになったといわれます。 太子山を祀る山鉾町に奇応丸があったのは偶然なんでしょうか? 私には聖徳太子と奇応丸には関係があったのではないかと思えるのです。その理由をお話しします。 ②疳の虫封じの寺社京都や大阪に虫封じにご利益があるとされる寺社があります。↓ 1 | 北向虫八幡神社(京都) | 桂川の草津湊にあったが1872年に伏見の田中神社境内(明治5年)に遷宮 平安時代、藤原安子が憲平親王(後の冷泉天皇)の癇の虫治癒祈願し効果があった。 社殿が北を向いているのは平安京鎮護のためといわれる。 | 2 | 三十三間堂(京都) | 三十三間堂の僧侶が夢のお告げで夜泣泉(よなきせん)を発見した。 すすり泣きに似ているので夜泣泉の名前がある。 冷たく、おなかをこわさない。枯れることがない。 夜泣泉の隣には夜泣地蔵がある。 お地蔵様の前掛けを持ち帰り、幼児の枕に敷くと、夜泣きが治るという。 | 3 | 剣神社(京都) | 願掛けの期間中は飛び魚を断って祈願する。 疳の虫と神、白山姫命を祀る。 | 4 | 壬生寺(京都) | 塔頭・中院の夜泣き地蔵(おせき地蔵)が幼児の夜泣きにご利益あり。 | 5 | 三宅八幡宮(京都) | 通称虫八幡。子供の疳の虫除けや夜泣きにご利益がある | 6 | 自性院(大阪) | |
谷町筋付近 自性院 ③夜泣き地蔵=お石地蔵=お咳地蔵?
壬生寺の「夜泣き地蔵」は「おせき地蔵」とも呼ばれているそうです。 「おせき地蔵」は石像なので「お石地蔵」となり、ここからさらに「お咳地蔵」に転じたのではないでしょうか。 自性院は大坂の谷町筋近くにあるお寺ですが、このあたりはかつて日想観の聖地でした。 日想観とは沈みいく夕日を見て西国浄土に思いをはせるという仏教の修業のことを言います。 日想観の信仰の中心地は四天王寺でしたが。その四天王寺には牛王尊を祀る「石神堂」があります。  牛王尊とは厄神の牛頭天皇ではないかと思いますが、その牛王尊=石神ということだと思います。 さらに 四天王寺境内には「咳(せき)の地蔵尊」があります。 咳の地蔵尊は牛王尊=石神と関係のある地蔵尊ではないかと思います。 石は「せき」と読むので、石神は咳の地蔵尊に変化したのではないでしょうか。 実際、ミシャクジ様を咳を治してくれる神として信仰しているところもあります。(横浜市の社宮司社) そして、壬生寺の夜泣き地蔵=おせき地蔵が疳の虫にご利益があると信仰されているということは、 四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊も疳の虫にご利益があると信仰され、 その四天王寺の牛王尊=石神=咳の地蔵尊に関係する仏さまを自性院ではお祭りしているのではないかと私は考えました。 ④ミシャクジ様は疳の虫を切る神石神とは御石神(ミシャクジ)様のことだと思います。 このミシャクジ様について、次のような内容の書き込みを見つけました。 1.諏訪大社の御祭神はミシャグジ様(御石神様)。 2.疳の虫とつながりがあるとされ、ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた紙を お供えするという風習がある。 3.昔は疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用した。https://hobby7.5ch.net/test/read.cgi/occult/1162037686/ №26 ミシャクジ様と疳の虫を切る儀式との関係については明確に記されていませんが、 ミシャグジ様にはさみの絵をお供えする習慣があったということは、ミシャクジ様は疳の虫を切ってくださる神様、という信仰があったということでしょう。 そしてハリガネムシ(針金のような形をした虫)を疳の虫に喩え、これをはさみで切る儀式をミシャクジ様の前で行ったということではないかと思います。 祇園祭 太子山⑤ミシャグジ様に奉納する杓子をひっくり返せば燗をする徳利の形にミシャグジ様が疳の虫治癒の神様でもあるとすれば、なぜミシャグジさまは疳の虫治癒に霊験があると考えられたのでしょうか。 ミシャグジ様は杓子(シャクシ/しゃもじ)の音に通じるため、杓子を奉納する習慣があります。 滋賀県の多賀大社にはしゃもじを奉納する習慣がありますが、多賀大社もミシャグジ様と関係があるのでしょう。 胡宮神社には青龍山山頂に胡宮の磐座(いわくら)があり、多賀大社の奥の院と呼ばれているそうです。 磐座の神は石神ですね。 多賀大社前にある多賀屋さんの看板は多賀大社に奉納するしゃもじを象ったものです。 このしゃもじをひっくり返すとお燗(かん)の徳利のような形になりますね。 それで、燗→疳の虫となったのかも? 参照/ 谷町筋付近はお寺だらけ!『疳の虫祈願の神様。その正体は?』 ※追記 酒をつぐことを「酌(しゃく)」といいますね。 御石神(みしゃくじ)の「しゃく」を語呂合わせで酌にかけたのかも? さらに杓子には切断した頭部のイメージがあるので、「酒を断つ」神様となったのかもしれません。 「杓子に切断した頭部のいめーじがある」については長くなるので、以下の記事をお読みください。 多賀大社 『糸切餅は胡弓をデザインしたものだった?」 ⑥本多忠朝の墓にしゃもじを奉納するのはなぜ?そう考えると、四天王寺近くにある一心寺に祀られている本多忠朝の墓にしゃもじが奉納されている理由が説明できます。 本多忠朝は本多忠朝はお酒が大好きで、そのため冬の陣では負けてしまい、家康にこっぴどく叱られたそうです。 それで名誉挽回とばかりに夏の陣では頑張ったのですが、討ち死にし 死ぬ間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれています。 しゃもじは酒の燗の形に似ています。 それで酒絶ちの神・本多忠朝にしゃもじを奉納するのではないでしょうか。  一心寺 本多忠朝の墓 ⑦石神=聖徳太子?四天王寺は聖徳太子が建てた寺なので、石神=ミシャクジ様=咳の神=疳の虫の神の正体は聖徳太子なのでしょうか。 そういえば、聖徳太子を祀っている奈良県明日香村の橘寺にもしゃもじが奉納されていました。 すると、聖徳太子をご神体とする太子山の山鉾町に疳の虫の薬・奇応丸を販売する薬屋があるのは偶然ではないかもしれません。 奇応丸を販売する薬屋は疳の虫封じの神として聖徳太子を信仰しており、そのため祇園祭で太子山を奉仕しているのではないかとも思えます。 祇園祭 太子山 ご神体(聖徳太子像)⑧神殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイル?ですが、四天王寺にはは物部守屋を祀る守屋祠もあります。
聖徳太子は崇仏派蘇我氏vs廃仏派物部氏の戦いで蘇我氏側で参戦しました。 戦いは蘇我氏側が勝利し、聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢を用いてたてたのが四天王寺なのです。 かつて神仏は習合して信仰されていました。 四天王寺に守屋祠があるということは、四天王寺は守屋の怨霊を鎮魂するための寺ではないかとも思えるのです。

そして奈良県天理市には石上神宮があります。 石上神社は物部氏が祭祀擦る神社ですが、石上という神社名は石神を思わせます。

石上神宮
また大阪府交野市・枚方市あたりにはかつて肩野物部氏が住んでいましたが、ここには本殿がなく磐座などをご神体とする神社が多いです。(磐船神社・星田妙見宮・片埜神社の境外社・瘡神社など) 天理市の石上神宮には現在は本殿がありますが、かつては本殿はなく拝殿奥の土地をご神体としていたのです。(布留高庭または御本地)
どうも神殿をつくらない古いタイプの神社は物部氏の祭祀によるものではないかと思えるのです。
そして石神=磐座であり、石神=みしゃくじとは物部氏の神ではないかとも思えます。
磐船神社 ご神体 天の磐船
⑨大神神社は物部氏の神を祀っている?
神殿を持たない神社といえば奈良県桜井市の大神神社が有名ですね。 大神神社の御祭神・大物主は別名を倭大物主櫛甕魂命といいます。 そして物部氏の祖神・ニギハヤヒは別名を天照国照彦火明櫛玉饒速日命といい、櫛と魂(玉)が同じなので、二神は同一神ではないかとする説があります。
大神神社は物部氏の神を祀っているのではないか。 そう思えるのです。
大神神社 ご神体の三輪山
⑩菅原道真は十一面観音の生まれ変わり
北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺のご本尊は道真御作と伝えられています。 しかし、東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられています。
天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことだと思います。 本地仏とは本地垂迹説からくる言葉です。 本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものであるとする考え方です。 そして仏教の神が仮にこの世に姿をあらわした日本古来の神々のことを「権現」、 日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを「本地仏」といいました。 つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味になると思います。
東向観音寺
すると、「道真御作」というのは本当に道真が十一面観音を刻んだという意味ではなく、「怨霊として(道真の死後、疫病や天災があいつぎ、これらは道真の怨霊の仕業と考えられました。)人々に畏れられた道真が成仏して十一面観音になった」という意味ではないかと思えます。
そして大神神社の神宮寺だった平等寺では聖徳太子御作の十一面観音をご本尊としていました。 平等寺の十一面観音が聖徳太子御作だというのも、怨霊として畏れられた聖徳太子が成仏して十一面観音になった」という意味ではないかと思えます。
ですが、神殿をもたない大神神社は物部氏の神社ではないかとも思えます。
どうも聖徳太子と物部守屋のイメージが重なります。 もしかして聖徳太子と物部守屋って同一人物?
平等寺
⑪陰陽に描き分けられた守屋と聖徳太子
下図に示したように守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられています。
聖徳太子 | 物部守屋 | 少年 | 大人 | 崇仏派 | 廃仏派 | 弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた。 | 榎木の木の上にいるところを弓で射られて死んだ。 |
聖徳太子と物部守屋が同一人物だというのはあまりにもトンデモで、物部守屋は陰、聖徳太子は陽の存在とされているため、 イメージが重なって見えるのかもしれません。
祇園祭 宵山 ↑ ↓
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大阪市 中央区中寺1-4-18 自性院 法性寺 立派な仁王門のあるお寺。
①谷町筋にお寺が多いのは日想観の聖地だったから~(チコちゃん風に)谷町筋にはたくさんのお寺があって、ぶらぶら歩いていると楽しいです。 聖徳太子が建てた四天王寺もありますね。 現在四天王寺から西の海岸線までは8kmほども離れていますが、かつての海岸線は四天王寺付近まであったとされます。 淀川や大和川が大量の土砂を運び、また埋め立てられたりして平野が増えたというのです。 で、平安時代以降、四天王寺付近から西に沈む太陽を望んで極楽浄土に思いをはせる日想観という修行が盛んに行われたのです。 谷町筋に寺院が多いのは、この界隈がそういった聖地であったからではないかと言われています。 四天王寺 夕景②疳の虫封じのお寺・自性院自性院というお寺がありました。 権大僧都俊栄が開いたと伝わっているそですが、戦災で全焼し、資料などすべて焼失してしまったため、詳しいことはわからないとのことです。 疳の虫(かんのむし)封じのご利益があると信仰されています。 権大僧都俊栄でぐぐって見ると東京都西東京市の総持寺(田無不動尊)がでてきます。 しかしこちらのほうは疳の虫封じの信仰はとくにはないようです。 なぜ自性院は疳の虫封じの信仰が生じたのでしょうか? 谷町筋付近 自性院 ↑ ↓ ④京都の虫封じの寺社。京都にもいくつか虫封じにご利益があるとされる寺社があります。 北向虫八幡神社 | 桂川の草津湊にあったが1872年に伏見の田中神社境内(明治5年)に遷宮 平安時代、藤原安子が憲平親王(後の冷泉天皇)の癇の虫治癒祈願し効果があった。 社殿が北を向いているのは平安京鎮護のためといわれる。 | 三十三間堂 | 三十三間堂の僧侶が夢のお告げで夜泣泉(よなきせん)を発見した。 すすり泣きに似ているので夜泣泉の名前がある。 冷たく、おなかをこわさない。枯れることがない。 夜泣泉の隣には夜泣地蔵がある。 お地蔵様の前掛けを持ち帰り、幼児の枕に敷くと、夜泣きが治るという。 | 剣神社 | 願掛けの期間中は飛び魚を断って祈願する。 疳の虫と神、白山姫命を祀る。 | 壬生寺 | 塔頭・中院の夜泣き地蔵(おせき地蔵)が幼児の夜泣きにご利益あり。 | 三宅八幡宮 | 通称虫八幡。子供の疳の虫除けや夜泣きにご利益がある | ⑤夜泣き地蔵=お石地蔵=お咳地蔵?壬生寺の「夜泣き地蔵」は「おせき地蔵」とも呼ばれているそうです。 「おせき地蔵」は石像なので「お石地蔵」tなり、ここからさらに「お咳地蔵」となったのではないかと想像します。 ①で谷町筋は日想感の聖地だったと書きましたが、その信仰の中心地は四天王寺でした。 四天王寺には牛王尊を祀る「石神堂」があります。  牛王尊とは厄神の牛頭天皇ではないかと思いますが、その牛王尊=石神ということだと思います。 さらに 四天王寺境内には「咳(せき)の地蔵尊」があります。 咳の地蔵尊は牛王尊=石神と関係のある地蔵尊ではないかと思います。 そして、壬生寺の夜泣き地蔵=おせき地蔵が疳の虫にご利益があると信仰されているということは、 四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊も疳の虫にご利益があると信仰され、その四天王寺の牛王尊=石神および咳の地蔵尊に関係する仏さまを自性院ではお祭りしているのだったりして? 雷雲寺 谷町筋付近にはこんな ストゥーパのあるお寺もありました。 ⑥ミシャグジさまに疳の虫をきるはさみをお供えする?石神とは御石神(ミシャクジ)様のことだと思います。 このミシャクジ様について、次のような書き込みを見つけました。 26:本当にあった怖い名無し:2006/10/29(日) 17:12:06 ID:y9X8lt7V0 ttp://talto.sakura.ne.jp/cgi/diary/hidiary.cgi?move_month=200511&pagemsg=all 諏訪大社。 諏訪湖の近くにある神社なのですが 上社と下社があり、それぞれ前宮と本宮があります。 つまり計4つの建物があるわけですね。 今回は時間の関係で上社しか行けなかったのですが それだけでも十分でした。 神社で祭られている神様が予想とは全く異なり 嬉しい期待はずれだったのですよ。 実は諏訪大社の神様はミシャクジ様であることが判明。 ミシャクジ様ですよー。 日本に現存する古代神のひとりですよー。 縄文時代から伝わるアニミズム信仰の原点ですよー。 もう嬉しすぎて寝込んでしまいそうですよ。あはー。 ミシャクジ様は漢字で書くと御石神様。 ここからも元々は石の精霊であることが伺えますね。 後に疳の虫とつながりがあるとも言われ ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた紙を お供えするという風習もあるそうですよ。 昔は疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用したと 聞いたこともありますね。 この期におよんでまたハリガネムシかい(笑)
https://hobby7.5ch.net/test/read.cgi/occult/1162037686/より引用
長野県にある諏訪大社の神様がミシャクジ様であり、ミシャクジ様の近くにはさみの絵を描いた髪をお供えする風習があるというのです。 それに続いて、疳の虫を切る儀式をハリガネムシで代用したと記されています。
ミシャクジ様と疳の虫の関係について明確に記されていませんが、ミシャグジ様にはさみの絵をお供えするというのは、ミシャクジ様が疳の虫を切ってくださるという信仰があったのか、と思えます。
ハリガネムシとは針金のような形をした虫で、バッタ・コオロギなどに寄生するそうです。 このハリガネムシを疳の虫にみたて、これをはさみで切ることによって疳の虫が治ると考えられたということだと思います。
もしかしたら、この儀式をミシャグジさまのそばで行ったのかもしれません。
谷町筋付近 江國禅寺
⑧ミシャグジ様に奉納する杓子をひっくり返せば燗をする徳利の形に
ミシャグジ様が疳の虫治癒の神様でもあるとすれば、なぜミシャグジさまは疳の虫治癒に霊験があると考えられたのでしょうか。
ミシャグジ様は杓子(シャクシ/しゃもじ)の音に通じるため、杓子を奉納する習慣があります。
滋賀県の多賀大社にはしゃもじを奉納する習慣がありますが、多賀大社もミシャグジ様と関係があるのでしょう。 胡宮神社には青龍山山頂に胡宮の磐座(いわくら)があり、多賀大社の奥の院と呼ばれているそうです。 磐座の神は石神ですね。
多賀大社前にある多賀屋さんの看板は多賀大社に奉納するしゃもじを象ったものです。 このしゃもじをひっくり返すとお燗(かん)の徳利のような形になりますね。 それで、燗→疳の虫となったのかも?

谷町筋付近 江國禅寺
谷町筋付近 江國禅寺
谷町筋付近 圓妙寺
谷町筋付近 圓妙寺
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三重県三重郡菰野町 湯の山温泉 2018年11月12日 撮影
①鹿の湯温泉 湯の山温泉は別名を鹿の湯温泉ともいい、こんな伝説があります。
木こりは狩人がやってきたのを鹿に教えて助けた。 数日後、鹿が木こりを訪ねてきて、「助けてくださってありがとうございました。お礼にいいことを教えましょう。私がいたくぼみには温泉が湧いていてケガによく効くのですよ。」 と教えました。
実際にクマや猿が温泉につかっていることがあるそうですが、鹿も温泉につかるんでしょうか? 動画など探してみましたが、見つかりませんでした。
②鹿は謀反人の比喩
実際に鹿が温泉につかることもあるのかもしれませんが、鹿は謀反人の比喩だと思います。
日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があるのです。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。 翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)
大仏殿 鹿
鹿の夏毛には白い斑点がありますね。それを塩に見立てたのでしょう。 謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。
③折り鶴伝説
湯の山温泉にはこんな伝説もあります。
江戸時代、上方の大店のひとり娘の葵と使用人の佐吉は身分違いの恋に落ち、湯の山にやってきました。 そして蒼滝に身を投じて心中しようとしたのですが、そこへ僧兵が現れ「温泉にでもつかれば、気持ちが変わるかも」といいました。 ふたりは僧兵の言葉通り、温泉に入りました。 すると、心中せずに頑張って生きていこうという気分になりました。
翌朝、二人は僧兵にお礼を述べようと三岳寺を訪れたました。 しかし僧兵の姿は見えず、ふたりは鶴を折って寺へ奉納しました。 不思議なことに折鶴は連なってひらひらと舞い上がり、飛びたっていきました。 ふたりは上方に帰り、(たぶん結ばれて)数年後に再び三岳寺を訪ねました。 山岳寺の住職は「もう何十年も僧兵はいない」といいました。
④鳥による温泉発見伝説
鳥が温泉を発見したという話が全国にたくさんあります。
白鷺温泉 | 愛知県 | 傷ついた白鷺が湯に浸かって傷を癒すのを見た人によって発見された。 | 山中温泉 | 石川県 | 奈良時代、行基が発見した。 文治年間長谷部信連が鷹狩にやってきた際、白鷺が芦の間の流れに傷脚を洗うのを見て発見し, 12件の湯宿を開いた。 | 片山津温泉 | 石川県 | 1653年、大聖寺藩二代藩主、前田利明が柴山潟に鷹狩りに訪れた際、 水面に水鳥が群れていたのを見て湖底の温泉を発見した。 | 和倉温泉 | 石川県 | 漁師の夫婦が七尾湾の沖合で、傷ついた足を癒す白鷺を見つけたことから発見された。 | 湯涌温泉 | 石川県 | 718年、紙漉き職人が泉で白鷺を見つけたことから発見された。 | 白山中宮温泉 | 石川県 | 泰澄が谷川で傷ついた白鳩を見つけたことから発見された。 | 粟津温泉 | 石川県 | 718年、泰澄が白山大権現のお告げに従って掘ったところ温泉が湧き出た。 | 下呂温泉 | 岐阜県 | 天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなった。 翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになった。 | 道後温泉 | 兵庫県 | 足を傷つけた白鷺が足を湯に浸したところ、たちまち傷が治って飛び立った。 | 山代温泉 | 石川県 | 725年、行基が白山へ修行に向かう途中、八咫烏が羽の傷を癒すのを見て発見した。 | 有馬温泉 | 愛媛県 | 神代、大己貴命と少彦名命が三羽の傷ついた烏が傷を癒すのを見て発見した。 |
※表では石川県が多いですが、 全部の温泉を調べたわけではないので、たまたまネットでぐぐった結果見つかったのが石川県の温泉だったという可能性が高いです。 ⑤折り鶴は白or黒?折り鶴というのは、白鷺による温泉発見説話の変形バージョンだと思います。 表を見ると、白い鳥(白鷺・白鳩)と黒い鳥(八咫烏・烏)のバージョンがありますね。 湯の山温泉の折り鶴は白でしょうか?黒でしょうか? 湯の花温泉の伝説では、折鶴は連なって飛び立ったとあるので、二羽の折り鶴が飛び立ったのでしょう。 そして、色は片方が白で、もう片方が黒だと思います。 その理由は、僧兵のいでたちを見ればわかります。  上は鞍馬寺・竹伐会式に登場した僧兵です。 白と黒の衣装を身に着けていますね。 そして、折り鶴は僧兵の化身だと思われます。 また折り鶴となっているのは僧兵の着物の裾がプリーツスカートの様に折りたたまれているからじゃないかと思いますが、どうでしょう? ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/11/16 12:06]
三重県 |
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愛媛県松山市 道後温泉 道後温泉本館 ①白鷺伝説道後温泉の冠山から、約3000年前の縄文中期の土器・石鏃(せきぞく/石のやじり)が見つかっており、 道後温泉は日本最古の温泉ではないかともいわれています。 伝説によれば、足を傷つけた白鷺が足を湯に浸したところ、たちまち傷が治って飛び立っていき、これを見ていた村人が温泉を発見したといいます。 道後温泉本館 ②下呂温泉にもあった白鷺伝説あれっ?どこかで聞いた話だなあ? そうそう、下呂温泉にも白鷺の伝説があるんでした。 下呂温泉は天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなってしまいました。 翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになりました。下呂温泉 花火 『源義平の狒々退治伝説』 道後温泉本館 道後温泉本館 ③他にもあるある、温泉の白鷺伝説調べてみたら、ほかにも同様の伝説がたくさんありました。 白鷺温泉 | 愛知県 | 傷ついた白鷺が湯に浸かって傷を癒すのを見た人によって発見された。 | 山中温泉 | 石川県 | 奈良時代、行基が発見した。 文治年間長谷部信連が鷹狩にやってきた際、白鷺が芦の間の流れに傷脚を洗うのを見て発見し, 12件の湯宿を開いた。 | 片山津温泉 | 石川県 | 1653年、大聖寺藩二代藩主、前田利明が柴山潟に鷹狩りに訪れた際、 水面に水鳥が群れていたのを見て湖底の温泉を発見した。 | 和倉温泉 | 石川県 | 漁師の夫婦が七尾湾の沖合で、傷ついた足を癒す白鷺を見つけたことから発見された。 | 湯涌温泉 | 石川県 | 718年、紙漉き職人が泉で白鷺を見つけたことから発見された。 | 白山中宮温泉 | 石川県 | 泰澄が谷川で傷ついた白鳩を見つけたことから発見された。 | 粟津温泉 | 石川県 | 718年、泰澄が白山大権現のお告げに従って掘ったところ温泉が湧き出た。 | 山代温泉 | 石川県 | 725年、行基が白山へ修行に向かう途中、八咫烏が羽の傷を癒すのを見て発見した。 | 有馬温泉 | 兵庫県 | 神代、大己貴命と少彦名命が三羽の傷ついた烏が傷を癒すのを見て発見した。 |
表では石川県が多いですが、 全部の温泉を調べたわけではないので、たまたまネットでぐぐった結果見つかったのが石川県の温泉だったという可能性が高いです。 道後温泉本館 ④白鷺のほか、白鳩や白山大権現、八咫烏、烏の温泉伝説もある。白鷺のほか、白鳩や白山大権現、八咫烏もありますね。そのほかの動物の温泉伝説もありました。 那須温泉 | 栃木県 | 舒明天皇の御世(629-641)、狩野三郎行広が射損じた鹿が湯につかって傷を癒していたことから発見された。 | 熊の湯温泉 | 長野県 | 熊が傷を癒した。 |
「ほかの温泉にも鳥や動物にまつわる伝説があるよ」と言う方、ぜひご一報いただければうれしいです。 ⑤温泉につかる動物たち実際、猿や熊は温泉につかるようです。 動画お借りしました。 動画主さん、ありがとうございます! 鹿も温泉に入るんでしょうか?鹿が池を泳いだり、ぬたばで泥にまみれている映像は見たことがありますが。 また、鷺や烏はどうでしょうか? 私は見たことないんですが、見たよ~、という方おられますか? ⑥鹿は謀反人の比喩夢がないことを言うようで申し訳ありません。 動物が温泉につかることを否定するわけではありませんが(実際、猿や熊は温泉につかる。) 温泉伝説に登場する、白鷺・烏・鹿・熊などは比喩だと思います。 まず、鹿ですが、これは謀反人の比喩だと思います。 日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があるのです。 雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。 翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。 時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)
大仏殿 鹿
鹿の夏毛には白い斑点がありますね。それを塩に見立てたのでしょう。 謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。
那須温泉は舒明天皇の御世(629-641)、狩野三郎行広が射損じた鹿が湯につかって傷を癒していたことから発見されたといいます。
この舒明天皇は当時の実力者・蘇我蝦夷の後押しを受けて即位したのですが、このことで、聖徳太子の長子である山背大兄王は皇位につくことができず、643年に蘇我入鹿の軍に攻められて斑鳩寺(法隆寺)で一族とともに首をくくって亡くなっています。 山背大兄王の死亡年は643年で、舒明天皇の御代に亡くなったわけではありません。 しかし、山背大兄王の死は、舒明天皇即位と関係があるので、舒明天皇の御代に鹿(=謀反人=山背大兄王)として、山背大兄王の霊を登場させたのではないでしょうか。
⑦鳥は死んだ人の霊をあらわす?
記紀に鳥たちがアメノワカヒコの葬儀をする様子が描かれています。 また「ササキ」という鳥がいますが、これに「御」をつければ「ミササギ(陵/丘の形をした大きな墓)」となります。 鳥には死のイメージがあります。
また巨大な前方後円墳は地上から見たのではその全体像が把握しにくいです。 空高く飛ぶ鳥の目線からなら、その形は容易に認識することができるでしょう。
巨大な前方後円墳は鳥の目線を意識して作られていると思います。 昔の人は「死んだ人の魂は鳥になって空に向かう」と考えたのではないでしょうか。
死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び立ったという伝説もあります。
この白鳥とはスワンのことではなくて、白い鳥の事だと言われています。 するとヤマトタケルが変身したのは、温泉伝説に登場する白鷺・白鳩の可能性が大です。
つまり、温泉は死んだ人の霊によって発見されたという意味ではないかと思うのです。
それにしても、白鷺(白鳥)が見つけた温泉と、烏(黒鳥)が見つけた温泉があるのはなぜでしょう? 坊ちゃん列車 松山城
おまけ
高松駅 いしづち 岡山駅 アンパンマン列車※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/09/16 23:46]
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大阪府泉南市 長慶寺 2018年6月24日 撮影 ①西国三十三か所 ゆかりの閻魔大王・花山法皇・佛眼上人三角形の形をした閻魔堂。 中には閻魔大王・花山法皇・佛眼上人像が安置されていました。 佛眼上人は叡福寺の僧侶で花山法皇とともに西国三十三か所を巡礼された人です。 奈良の長谷寺にはこんな伝説があります。 717年、長谷寺の開山・徳道上人が病で仮死状態となり、冥土に行きました。 そのとき、閻魔大王は徳道上人に言いました。 「お前はまだ死んではいけない。もと世界に戻って西国三十三カ所観音霊場を開きなさい。」 徳道上人は閻魔大王の閻浮壇金(えんぶだごん)の黄金印(壇ダ印)をもらってもとの世界に戻りました。 そして修二会結願の日、閻浮壇金の黄金印を参拝者の額に押し当てて『悪魔退散』『無病息災』の加持祈祷をしました。 その時、長谷寺の乾(西北)の方、白山に棲んでいた悪鬼が出没しました。 徳道上人はこの鬼を修二会の法力で追い祓いました。
閻魔大王は徳道上人に西国三十三か所を開くようにと指示した神で、閻魔大王・花山法皇・佛眼上人は全員西国三十三か所に関係のある人物だということになります。 ちなみに長慶寺は西国三十三か所に含まれるお寺ではありませんが、各地に西国三十三所に倣った三十三所の巡礼の聖地があり、長慶寺は和泉西国三十三所のひとつとされています。 ②長慶寺の歴史長慶寺の創建は古く、 長慶寺の北にかつて存在していた海会寺の一院だそうです。 海会寺は724年、聖武天皇の勅願寺として行基によって創建されたと伝わります。(長慶寺寺伝) 988年に焼失し、997年に再興されるも、天正年間、織田信長・羽柴秀吉による紀州攻めで全山焼失しました。 その後、秀吉の子の豊臣秀頼が諸堂を作って再興しました。 親の後始末を子が行ったということでしょうか。 江戸時代には岸和田藩主岡部氏の祈願寺として栄えたということですが、明治以降衰退し、観音堂と庫裏しかなかったのを、現住職によって再興されたということです。 多宝塔は1991年・三重塔は2004年、喪腰つきの三重塔は2015年に建てられました。 ③孔雀宝塔と孔雀明王中でもひときわ目をひくのが喪腰つきの三重塔ですね! http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_cyokeiji.htm 上記サイトによれば、「孔雀宝塔」といい、高野山孔雀明王を模刻した孔雀明王を安置してあるようです。
明王は憤怒の表情をしたものが多いですが、孔雀明王はおだやかな菩薩形の表情をされており 孔雀の背に座しておられます。 一面四臂の姿で表されることが多く、手にはそれぞれ倶縁果、吉祥果、蓮華、孔雀の尾を持ちます。 そして広げた孔雀の羽が光背のようになっています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Woodcut_of_Mahamayuri.jpg?uselang=ja#file よりお借りしました。
④千手観音は孔雀を神格化したみほとけ?
孔雀は神経毒に耐性があり、毒のある害虫や蛇を食べるので人々の災厄や苦痛を取り除くみほとけとして信仰されたようです。
また仏教だけでなく、さまざまな宗教において孔雀は神聖視されていました。 クルド人のヤヅィート派の主神マラク・ターウースは孔雀の姿をした天使、ギリシャ神話ではヘラのペットで羽の模様は百の目を持つアルゴスの目ではないかともいわれています。 動画おかりしました。動画主さん、ありがとうございます。 つまり、アルゴスは孔雀を神格化した神というわけですが、これを聞いて仏教の千手千眼観音を思い出してしまいました。 千手千眼観音と呼ばれるのは千本のの掌に一眼があるとされるところからついた名前です。 一般的な千手千眼観音の手は四十二臂です。 胸前で合掌する2本の手を除くと40本ですが、40本のそれぞれの手が25の世界を救うとされ、「25×40=1,000」と考えられているようです。 しかし大阪葛井寺の千手千眼観音は胸前で合唱する二本の手を除いて1037本の手があり、一度参拝したことがありますが、その手のひらに、眼が描かれていました。 かつてはすべての手に眼が描かれていたと考えられています。 http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2018/02/14/%E5%8D%83%E6%89%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9%E5%9D%90%E5%83%8F/リンク先に葛井寺千手千眼観音の写真があります。 千手千眼観音とは孔雀を神格化したみほとけなのかも? 千の手が広げた孔雀の羽で、手のひらに描かれた目は孔雀の羽の模様です。 頭上についている十一の頭は孔雀の冠羽のようじゃないですか~。 千手千眼観音と孔雀明王は兄弟のようなみほとけではないかと思ったりします。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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[2018/06/26 21:57]
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