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大原野神社 紅葉 

大原野神社 鳥居3

大原野神社にやってきた。

大原野神社 鳥居4



大原野神社 鯉沢池 
鯉沢池。文徳天皇が作ったという。

大原野神社 瀬和井  
瀬和井(せがい) 清和天皇が産湯を使ったという。清和天皇は文徳天皇の第四皇子ですね。


大原野神社 鳥居 

大原野神社 拝殿 

大原野神社 雄鹿 
拝殿前には雌雄の鹿の像。雄鹿は巻物をくわえています。

大原野神社 雌鹿 
雌鹿の頭に乗っているのはどんぐりのヘタ?

えーーっ、もしかして、大原野神社に祀られているのは文徳天皇の第一皇子の惟喬親王?(清和天皇との皇位争いに敗れた)




驚きの発見に心臓バクバク状態!w


大原野神社 鳥居2 

詳しくはこちらの記事をお読みください
惟喬親王の乱㊴『大原野神社の神相撲は世継争いに負けたことを知らしめるための行事?』 

 


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[2020/11/16 21:48] 京都府 | TB(0) | CM(0)

大原の里 彼岸花 コスモス 惟喬親王陵など 

 
大原 彼岸花2 
 
大原の里へやってきたわけは

大原 彼岸花

彼岸花を見たかったのと、もうひとつ

惟喬親王陵への道しるべ

てこてこ歩いていきます。あっ、道標がありますよ。もう少し。

惟喬親王陵 

惟喬親王(これたかしんのう)陵に到着!
ずっと参拝したいと思っていました。やっと来れた。

惟喬親王陵 石仏

階段をのぼると石仏がありました。倒木なども多くて荒れてるかんじ。

惟喬親王陵2 
この五輪塔が惟喬親王の墓。滋賀県にも惟喬親王の墓ありますけど。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子(母は紀静子)で文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのですが
異母弟の惟仁親王(清和天皇/母は藤原良房)が皇太子になった悲運の皇子なのです。

御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもの)として多くの神社に祀られていますよ。

大原の里 
↑ 惟喬親王陵付近より大原の里を望む。

大原 愛宕大神の灯篭

↑ こういう感じの愛宕大神と記された燈籠があちこちにありました。
もしかして、惟喬親王と愛宕信仰関係あるのかな、と思って調べたら、どんぴしゃりでした!

右京区嵯峨愛宕町の愛宕神社には太郎坊天狗の伝説が伝えられています。

空海の高弟であった知恵優れた僧が、惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)の皇位争いの際に惟喬親王について、
惟仁親王についた天台僧と壮絶な呪詛合戦を繰り広げた末に敗北し、この恨みをはらすために天狗(怨霊)となって天皇家を脅かし続けた。
この天狗が、生前に修行を積んだ愛宕山に住み着いて太郎坊天狗となった。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shuichim/atagosan.pdf より引用

近いうちに愛宕神社を参拝したいです。
7kmの山道歩いて登らないといけないみたいですがw

大原 乙が森

乙が森

大原 乙が森 説明板 

このおつうの大蛇も惟喬親王かも。
おつうは女性じゃないか、といわれそうですが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王だと考えているんですよ。

詳しくは別ブログの次のシリーズをお読みいただけると嬉しいですが、
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

簡単にその理由をまとめておきます。

a
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。





大原の里 コスモス 
大原 
↑ これは寂光院近くにあった雰囲気のある建物
お漬物屋さんの倉庫?

大原 彼岸花3 

大原 彼岸花4 




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[2020/10/10 22:27] 京都府 | TB(0) | CM(0)

多賀大社付近 蕎麦畑 


多賀大社・・・滋賀県犬上郡多賀町多賀604

秋の訪れをつげる蕎麦の花

多賀大社付近 蕎麦畑

多賀大社近くの蕎麦畑 

これは何の花かな?↓

多賀大社付近 
ここで採れた蕎麦の実が寿命蕎麦になるのかな?

多賀大社境内にある寿命蕎麦の店 ↓

多賀大社 寿命蕎麦2 

あいにくお腹いっぱいで、食べられなかったw
次回はお腹すかして参拝しよう。

多賀大社 寿命蕎麦 

寿命蕎麦という名前は、境内にある寿命石からつけられたのでしょう。↓

多賀大社 長命石 

鎌倉時代、僧・重源は61歳のとき、東大寺再建を願って伊勢神宮に17日間参籠しました。
擦ると天照大神があらわれて、「東大寺再建のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願しなさい」と告ました。
重源が多賀社に参拝すると「莚」の字の形に虫食いあとのある柏の葉が舞い落ちてきた。
莚=廿(二十)+延
なので、寿命が二十年伸びるということだ!
と重源は喜んだ。
重源はこののち20年の歳月をかけて東大寺再建をはたしたあと、多賀大社にお礼参りにやってきて石に座ってそのまま亡くなったといいます。

多賀大社 恵比寿・大黒の額 
多賀大社休憩所より多賀大社拝殿を望む。↑

多賀大社 さざれ石 
さざれ石

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

君が代の元歌です。

岐阜県揖斐川町春日には君が代の由来となったといわれるさざれ石があり、藤原朝臣石位左衛門が詠んだ歌だとして次のように伝えられているのだとか。

 惟喬親王に仕えていた木地師の藤原朝臣石位左衛門は、親王より「よい椀生地を探せ」と命じられました。
そこであちこち探し回って春日村を発見し、ここに移り住みました。
石位左衛門は春日村と京を行き来する途中で「さざれ石」を発見して
♪ わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで
と詠みました。

木地師の藤原朝臣石位左衛門のいう「わが君」とは惟喬親王のことだと考えるのが自然でしょう。

多賀大社のさざれ石は岐阜県揖斐川町春日産のものです。

多賀大社 御神田 
多賀大社 御神田

実りの秋ですね~


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[2020/09/29 12:52] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

逢合橋 と 天の川 

九州で大雨による被害がでていますね。心よりお見舞い申し上げます。
河川の氾濫は毎年のようにでています。なんとかならないものでしょうか?

昆陽池


これは飛行機の窓から見た伊丹市の昆陽池。
灌漑用水として用いられるほか、洪水調節の役割も担っていました。
こんなのをたくさん作るというのも手じゃないかと思ったりしますがどうでしょう?

今日は七夕ですが、あいにくの雨です。
でも本来七夕は旧暦7月(新暦では8月くらい)のお盆の入りの行事ですから、旧暦7月7日に天の川眺めるといいかもですね。

合逢橋 
これは大阪市交野市の天の川にかかる逢合橋。
牽牛と織姫が逢引をするとされる橋です。
なんちゅーか、あまりに普通の橋で、ひっきりなしに車が渡っていきますw
七夕の日は行事があるので笹飾りがたくさん飾られていました。

機物神社 七夕飾り

↑ 交野市にある機物神社。

観音山公園 牽牛 七夕飾り

枚方市にある中山観音寺跡。

中山観音寺跡と機物神社は天の川をはさんで対面しており
中山観音寺跡は牽牛星、機物神社は織女星になぞらえられています。
でも、結構距離ありますよ!


天の川2 
在原業平が惟喬親王のお供をして交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)にやってきてこんな歌を詠んでいますよ。

狩りくらし 棚機乙女(たなばたつめ)に宿からむ 天の河原にわれは来にけり
(1日中狩をして日が暮れてしまったので、今夜は織姫に宿をかりましょう。私たちは天の河原に着たのですから)


天の川はどこにでもあるような普通の川でしたw

天の川  
でも、在原業平や惟喬親王を思い浮かべながらの、楽しい旅でした。


逢合橋に関する記事はこちら。
逢合橋 梅 天の川 夕景 『かささぎが架ける橋は白黒モノトーン?大伴黒主の正体』 


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[2020/07/07 18:11] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

辰巳大明神 桜 舞妓さん『狸の神を祀っているのになぜ狐の像が置いてあるの?』 


京都市東山区 辰巳大明神

辰巳大明神


①辰巳大明神は平安宮の辰巳を守護する神?

祇園にある辰巳大明神の由緒はよくわかっておらず、御所の辰巳の方角を守護する神社だと考えられています。

干支

辰巳の方角は南東ですね。



上の地図を見ると、辰巳大明神は御所の辰巳というよりは、御所の己の方角に位置しているように思えます。

しかし、もともとの御所・・・平安宮は現在の御所よりも西の二条城あたりにあったとされます。
もしかしたら平安宮の辰巳守護の神社なのかも?

祇園白川

②辰巳守護の神は喜撰法師だったりして?

辰巳といえば、百人一首にもある次の歌を思い出します。

わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり/喜撰法師
(私の庵は都の辰巳にあってしっかりと住んでいるのですが、宇治山という名前のとおり、世を「憂し」と思って隠れ住んでいると人々はうわさしている。)


案外、辰巳大明神とは喜撰法師のことだったりして?

祇園 舞妓さん

③喜撰法師は紀仙法師?

喜撰法師は紀仙法師で、紀名虎または紀名虎の息子・紀有常のことではないかとする説があります。

紀名虎の娘の静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産みました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談していますが、源信は当時の権力者・藤原良房を憚って天皇を諫めたそうです。
そして、藤原良房の娘・明子が生んだ惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子となりました。

平家物語などに、紀名虎と藤原良房がいずれの孫を立太子させるかでもめ、高僧の祈祷合戦や相撲などの勝負を行って、藤原良房が勝利したと記されています。

この話は史実ではありません。
というのは惟仁親王が生まれたのは850年なんですが、紀名虎が亡くなったのは847年で、惟仁親王が生まれたときすでに紀名虎はこの世に存在していなかったからです。

しかし、こういう物語が創作された背景には、藤原氏vs紀氏の確執があったと考えるのは自然なことでしょう。

祇園 舞妓さん3

③稲荷神は紀氏の神?


辰巳大明神の境内には狐さんの像があります。

辰巳大明神 狐
狐さんといえば、稲荷神ですね。境内に狐の像があるということは、稲荷神を祀っていると考えられますが

和歌山県有田市糸我町中番に稲荷神社があり、第27代安閑天皇(西暦531-535)代に創祀されたという伝説があります。
この稲荷神社は最古の稲荷社とも言われています。

和歌山県あたりはかつては紀伊国と呼ばれ、紀氏の本拠地でした。
稲荷神は紀氏の神っぽいです。

祇園 舞妓さん2

④辰巳大明神は狸の神様


しかーし!なんとっ!
辰巳大明神は狸の神様だとされているのです!

辰巳大明神の傍らには巽橋というのがありまして、
狸の橋を渡る人を騙しては、川の中を渡らせるといういたずらをしており、
この狸を祀る祠をたてたところいたずらが収まったという伝説があります。

⑤御霊・荒魂・和魂

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれます。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があります。
すると神の本質である御霊とは男女双体ということになると思います。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神

祇園 舞妓さん4  


⑥辰巳大明神は狸の神と狐の神が和合した神?

大聖歓喜天(聖天)というみほとけがいます。

Icon of Shoten

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AIcon_of_Shoten.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Icon_of_Shoten.jpg よりお借りしました。
作者 不明 (平安時代の図像集『別尊雑記』(心覚 撰)巻 42より) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


大聖歓喜天は象頭をした男女双体の神で、次のような伝説があります。

インドのマラケラレツ王は大根と牛肉が大好物でした。
牛を食べつくすと死人の肉を食べるようになり、死人の肉を食べつくすと生きた人間を食べるようになりました。 
群臣や人民が王に反旗を翻すと、王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
その後ビナヤキャの祟りで国中に不幸なできごとが蔓延しました。
そこで十一面観音はビナヤキャ女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われました。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓いました。


この物語は、御霊・荒魂・和魂という概念をうまく表していると思います。

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれます。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があります。
すると神の本質である御霊とは男女双体ということになると思います。

そして悪戯をする狸は男神で荒魂、狐は女神で和魂ではないでしょうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体・・・・辰巳大明神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神・・・・・・狸
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神・・・・・・狐


つまり、いたずらをする狸は狐と和合されて祠に祀られており、狸と狐の男女双体の神が辰巳大明神名のではないか?と思ったりします。
祇園 しだれ桜



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[2020/03/21 17:29] 京都府 | TB(0) | CM(0)

山田神社 (枚方市) 雪 『山田神社末社の石神社はミシャグジ様?』 



大阪府枚方市山之上 山田神社


山田神社 由緒書

①安倍晴明が加持祈祷した石を祀る石神社

山田神社の由緒書に次のように記されていました。

末社 石神社
寛弘元年、 安倍晴明 藤田ノの里に滞在シテ修業シタ時ノ加持石ヲ田中修理亮芳秀ガ本社ノの傍ニ祀ル


寛弘元年(1004年)安倍晴明が藤田の里で修行したときに用いた鍛冶石を、のちに田中修理亮芳秀が祀ったのが石神社だということですね。

田中修理亮芳秀が山田神社を創建したのは1279年ですから、そのころ石神社も作られたということになります。
しかし、加持石はそれ以前からこの場所にあったということでしょう。

「藤田の里」とありますが、山田神社の前を流れる川は藤田川(とうだがわ)といいます。
現在山田神社がある場所はかつて藤田の里と呼ばれていたということではないかと思います。

それではお参りしましょう~。

山田神社 雪2 
あれっ?本殿の横に石神社があるはずなのにありません。

山田神社 本殿 
扉をあけてみると梁の部分に石神社、春日神社と書いてありました。

山田神社 本殿 石神社 春日神社 
↑ 建物の中に3つの社が並んでいました。
建物は本殿ではなく、拝殿だったんですね。
拝殿の中にある3つの社は中央がスサノオ・イナダヒメを祀る本殿、向かって右側が春日神社、向かって左が石神社です。

②物部氏と安倍氏の関係

枚方市・交野市あたりはかつて交野ケ原と呼ばれ、平安貴族たちの狩猟の場であったといわれます。
そのため惟喬親王や在原業平にまつわる伝説が多いですが、安倍晴明の伝説は初めて聞きました。

交野が原と呼ばれるこの地域は古くは肩野物部氏の土地であったといわれます。
物部氏と安倍氏は関係なくもないように思います。

というのは次のような伝説があるからです。

初代神武天皇は九州より東征して現在の大阪あたりから上陸。
しかし、そこにはすでに天孫(天照大神の子孫)であるニギハヤヒ(物部氏の祖神)が天下っており、ナガスネヒコがニギハヤヒを神として奉じていた。
神武とナガスネヒコは戦うが、ニギハヤヒは神武に服してしまい、ナガスネヒコはニギハヤヒによって殺された。

ナガスネヒコにはアビヒコという兄がおり、津軽地方へのがれた。
アビヒコは安倍氏の祖とも伝わる。


安倍晴明の生没年は921年~1005年(83~84歳)なので、晴明がここで加持祈祷をしたのは、かなり晩年のことになりますね。
もしかしたら、鍛冶石は安倍晴明の霊が宿る石として信仰されており、そこから安倍晴明の加持石であるといわれるようになったのかも?

安倍晴明神社 阿倍晴明像 

安倍晴明神社 安倍晴明像


③石神社はミシャグジ様

石神社という名前は聞いたことがあります。

http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-609.html


参拝したことはないんですが、名古屋市南区に石神社があります。

石神社はミシャグジ様と呼ばれ、杓子を奉納する習慣があるということです。
山田神社末社の石神社には杓子は奉納されていませんでしたが、
もしかして、山田神社境内にある石神社もミシャグジ様?


山田神社 末社 春日神社 

春日神社

ミシャクジ様の正体については、下記に書きました。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-29.html


だけど記事が1~18まであって長いんですよね~。
特に下記2つの記事を読んでいただければ嬉しいなと思います♪

ミシャグジ様の謎 ⑯ 『糸切餅は何をデザインしたもの?』 
ミシャグジ様の謎⑰ イザナギ&イザナミは物部氏の神? 


山田神社 末社 石神社 

石神社

山田神社 雪 




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[2020/03/07 23:15] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

和歌山県海南市 工場夜景 


和歌山県海南市あたり 


海南市 森林公園より2

①紀州漆器の担い手たちは滋賀県木地師の里からやってきた?


森林公園雨の森展望台から海南市を見下ろしました。
工場の夜景が美しいっ!

工場は日本製鉄だと思います。近代産業が盛んな町なんですね。
しかし近代産業だけではありません。
海南市は伝統産業として紀州漆器などでも有名なんですよ。

室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろ、近江の木地師集団が紀州に移住してきたとされます。
彼らが紀州檜を用いて椀などを製造したのが紀州漆器の始まりとされます。

海南市 森林公園より 

おお~、近江の木地師!

近江は現在の滋賀県のことですが、滋賀県東近江市君ヶ畑あたりは「木地師の里」と呼ばれています。

また、滋賀県蒲生郡日野では日野漆器が作られていました。

日野は1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展したとされます。

近江の木地師集団が紀州に移住してきたのは室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろということなので、日野からやってきたということはないか。

紀州漆器の担い手たちは滋賀県東近江市君ヶ畑あたりの「木地師の里」からやってきたのかもしれませんね。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)


君が畑には大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っていますよ。

大皇器地祖神社の近くには惟喬親王の墓もあります。(京都三千院近く、滋賀県筒井峠付近にも惟喬親王の墓があります。)

惟喬親王-墓2 
大皇器地祖神社近くにある惟喬親王の墓

惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があり
(奈良時代にろくろで作られた百万塔が現存しているので、この伝説は事実ではないのですが)
そのため、木地師の祖とされているのです。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸

使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。

木地師の祖ということで日野漆器の産地だった滋賀県日野でも惟喬親王は厚く信仰されています。
日野祭の双六町曳山の見送幕は惟喬親王が描かれています。
http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/yama/sugo.html

紀州に定住した近江からやってきた木地師集団も惟喬親王を信仰していたことでしょう。

また惟喬親王の母親は紀静子といい、紀氏の女性でした。
そして紀州は紀氏の本拠地ですから、彼らは紀州で漆器をつくるということに意義を見出していたかもしれません。

②根来塗


近江の木地師集団が定住して漆器をつくったのが紀州漆器都する説のほか、秀吉の根来寺焼き討ちからのがれてきた職人が黒江湊に移住して紀州漆器がつくられはじめたとする説もあります。

根来寺に関係する漆器に根来塗があり、寺の僧侶たちが用いていたとされます。

黒漆で下塗りをしたのち、朱漆塗りを重ねてつくるそうです。

たぶんですが、朱塗りは漆に天然の辰砂をまぜるのではないかと思います。(もしちがっていたら教えてね~)
https://www.negoronuri.com/

③なぜ根来に小野小町伝説があるのか

根来寺 紅葉

根来寺

根来寺の裏あたりにある山を根来山というようです。(写真に写っている山が根来山かどうかはわかりません~。すいません。)

で、この根来山付近にこんな話が伝えられています。

康和(1099~1104年)のころ、根来山の麓の西坂本に室家右兵衛尉忠家(むろやうひょうえのじょうただいえ)が住んでいました。
忠家は金持ちでしたが、子供がいませんでした。
あるとき、忠家の妻は、小野小町の墓に参拝すると子供を授かるという話を聞き、二十一日絶食して小野小町の墓にお参りをしました。
やがて妻は身籠り女児を出産しました。
女児は桂姫と名付けられ、小野小町そっくりな美女に成長しました。
桂姫の髪は住持池(じゅうじがいけ)の水をつけないと梳くことができず、住持池の水を汲んできては梳いていました。
桂姫は和泉国尾崎の大原源蔵高広(おおはらげんぞうたかひろ)という北面(ほくめん)の武士に嫁ぐことになりました。
嫁入り行列が住持池を通り過ぎようとしたとき、空がかき曇り池に大波がたり、大蛇があらわれて娘をさらって水の中に消えました。
母親は悲しみもう一度娘に会いたいと願っていましたが、あるとき住持池を泳ぐ二匹の蛇の姿を見ました。
桂姫をさらった大蛇は小町に思いをよせていた深草小将の生まれ変わりだといわれています。





なぜ、この地に小野小町の伝説があるんでしょうか?

実は私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えています。

小野小町像 
髄心院 小野小町像


詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

特に、下記記事を詳しく書いていますが、
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

ざっとまとめておくと次のような理由があげられます。

a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

①で述べたように惟喬親王は木地師の祖として信仰されています。
そして根来塗をつくるためには木地師の存在があったと考えられます。

根来寺付近に住んでいた木地師は木地師の祖・惟喬親王に対する信仰があり、惟喬親王=小野小町なので、小野小町に関係する伝説が生じたのではないでしょうか。

ところで、この話にでてくる小野小町の墓ってどこにあるんでしょうね。
和歌山市湯屋谷に小野小町の墓があるそうですが、ここのことでしょうか?

海南市 森林公園より3 



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[2020/02/01 18:20] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

橋寺放生院 浮島十三重石塔 『石川五右衛門が笠石を盗むことはありえないw』 


京都府宇治市 放生院(橋寺)浮島十三重石塔


橋寺放生寺 
①宇治橋を管理していた寺

石柱に橋寺放生院と刻まれていますね。
山号は雨宝山、寺号は常光寺といいまして、橋寺というのは通称です。
かつて宇治橋を管理していたため橋寺と呼ばれています。

603年、聖徳太子の命をうけて秦河勝が宇治橋を掛けたときに橋寺放生院も創建したとされます。
しかし境内にある宇治橋断碑の碑文には、「646年、元興寺の僧・道登が架けた」とあるそうです。

Ujibashi Danpi

宇治橋断碑 京都宇治 橋寺蔵

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ujibashi_Danpi.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Ujibashi_Danpi.jpg 
日本語: 尾上八郎English: Hachiro Onoue [Public domain]

②洪水は魚の祟り!魚の慰霊のためつくられた浮島十三重石塔

有名な宇治公園中の島に建つ浮島十三重石塔は鎌倉時代に西大寺の僧の叡尊によって建てられたものだそうです。

浮島十三重石塔3 
浮島十三重石塔 ※写っている橋は宇治橋ではありません。

1284年ごろ、宇治川が流失してしまったようなんですね。
叡尊はそれを魚霊の祟りだと考えました。
そして宇治川で殺生禁断令を朝廷に要請、それが認められて網代などをすることは禁じられました。
網代とは柴や竹で囲い、その中に魚を追いこんで漁をする仕掛けのことです。
そして人工島をつくり、そこに供養塔として十三重石塔をたてたのです。

③紛失した笠石

宇治川は何度も洪水をおこしたようで、そのたび塔は倒壊し、修復されてきました。
1766年の大洪水で塔は川底に沈んでしまい、150年もそのっまになっていましたが、1907年より発掘が始ました。
女性信者より寄進された髪の毛を編んでだ綱で石をひっぱりあげたそうです。
しかし九重目(上から5番目)の笠石と頂の九輪石は発見できず、これらを新たに作って再現しました。

※五重塔は最下層を初層と数えるようなので、下から数えて九重目とするのが正しいのではないかと思います。

 浮島十三重石塔

④石川五右衛門が笠石を盗むことはありえない。
 
紛失した笠石は石川五右衛門に盗まれて藤森神社の手水鉢の台石にされていると言い伝えられています。

ですが、石川五右衛門が盗んだということはありえないです。
というのは、石川五右衛門は1594年に釜茹での刑で死亡したとされているのですが

③で記したように、塔が倒壊したのは1766年、150年ほど川底に沈んでいたのを1907年にひきあげたのですが
九重目(上から5番目)の笠石と頂の九輪石は発見できず、これらを新たに作って再現したとされるからです。

ただ、藤森神社の手水鉢の台石にされているというのは、ありえなくないです。

藤森神社へは何度も参拝に訪れていますが、いままで手水鉢の台座を気にしたことがありませんでした~。
今度行ったときに見てきます。

浮島十三重石塔2
 
⑤宇治の橋姫伝説

宇治橋には有名な宇治の橋姫伝説があります。


嵯峨天皇の御世(809年-825年)、公卿の娘が貴船神社に7日間籠り貴船大明神に「妬ましい女を殺したいので、私を生きながら鬼神にしてください。」と祈願しました。
貴船大明神は姿を変えて21日間宇治川に浸れ」と告げました。

娘は紙を5つに分けて5本の角にし、顔に朱、体には丹を塗り、逆にした鉄輪(かなわ/鉄の輪に三本脚が付いた台)を頭に被り、金輪の脚には松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえました。

貴船神社 紅葉3 
貴船神社

このいでたちが丑の刻参りの作法になったといわれ、かつて貴船神社は丑の刻参りのメッカだったそうです。

宝山寺 柴燈護摩供4  

上の写真は奈良・宝山寺の般若窟柴燈大護摩供で撮影したものですが、行者さんが口に松明をくわえています。
なにか、丑の刻参りと関係があるのかな、と思ってしまった~w

⑥宇治は紀氏が支配する土地だった?

宇治の橋姫伝説で興味深く思うのは貴船大明神が鬼になる方法を教えた、ということです。
貴船神社は紀船神社で、紀州の神ではないかとする説があります。

というのは兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社に次のように伝わっているからです。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

「紀氏が自身の守り神に祈願した」ということは、「貴布禰神社(貴船神社)は紀氏の神」ということになります。

そして紀氏の神・貴船大明神は丑の刻参りの神、鬼の神ということになりますね。

さらに、その紀氏の神である貴船大明神が宇治川につかれと命じたということは、宇治は紀氏の土地だったのかな?

そういえば宇治の喜撰山には喜撰洞があって喜撰法師が住んでいたと伝えられているそうです。
この喜撰法師は紀仙法師であり、紀名虎(惟喬親王の祖父)または紀有常(惟喬親王の叔父)のことではないかとする説があります。

宇治が紀氏の土地であり、喜撰法師が紀名虎または紀有常であったとすれば辻褄が合うように思えますね。

また、浮舟十三重石塔の傘石が手水に用いられているのではないかといわれている藤森神社も紀氏の神社です。
藤森神社 紫陽花 『紀氏の祖神を祀る寺』  

藤森神社 蹴鞠

藤森神社

宇治川

宇治川



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[2020/01/29 10:45] 京都府 | TB(0) | CM(0)

交野天神社 紅葉 『継体天皇は紀氏と関係ある?』 


大阪府枚方市 交野天神社

交野天神 拝殿2 
交野天神社 拝殿

①交野天神

交野天神社は閑静な住宅街の中にあり光仁天皇・天児屋根命・菅原道真をお祭りしてます。
『続日本紀』や『石清水神宮縁起』に「787年、桓武天皇が交野に父・光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けた」という記述があり、それがこの交野天神の創建だと考えられています。
天児屋根命は中臣氏の祖神で、中臣鎌足は中大兄皇子より藤原姓を賜ったので、藤原氏の氏神である春日大社にも祀られ春日明神と呼ばれています。
菅原道真は901年に藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、903年に大宰府で没しました。
その後、都では疫病の流行、天災などが相次ぎ、それらは菅原道真の怨霊の仕業であるとして、怨霊を鎮めるため北野天満宮や大阪天満宮などが作られました。

そう考えると、藤原氏の祖神の天児屋根命と菅原道真を祀っているのはおかしなことに思えます。
しかし、ずっとのちの時代になって、そういった藤原氏と道真の因果関係の記憶などが人々の心の中から薄れてからのち、ともに祀られるようになったのかもしれません。

②継体天皇と鍛冶

交野天神 貴船神社2 
交野天神社 境内

神社の奥まったところに小高い丘があり、階段のふもとに「継体天皇樟葉宮地」と刻まれた石碑が建てられていました。
交野天神は継体天皇樟葉宮の跡地であるという伝承もあるのです。

継体天皇の和風諡号(しごう)は日本書紀は男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記は袁本杼命(をほどのみこと)と記しています。

ヲホドとは小火床であり、鍛冶に関係があるのではないかとも言われています。
火床とは鍛冶をするための簡単な炉のことです。

交野天神社からそう離れてはいない枚方市岡本町に下井戸跡があり、案内板に次のように記されているようです。

「枚方宿4カ村の内、岡村の地下水は鉄気が多く飲料水に適さなかったため、古来より万年寺山や別子丘陵に取水の元井戸を掘り、導水管により水を供給していました。」

https://ja.localwiki.org/hirakata/%E4%B8%8B%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%B7%A1より引用

また枚方に茄子作という地名がありますが、惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

鈴は土で作られることもありますが、金属で作られることが多いです。

また、鈴は錫をあらわしているのかもしれません。

このようにこの土地は古くは鍛冶と関係があったのではないかと思われるふしがあります。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

③継体天皇即位は新王朝か?

継体天皇は応神天皇の五世孫で、近江の高島で生まれ、.越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったとされます。

継体天皇の即位について、次のように記したサイトがありました。

 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。
男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。
彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。
そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。
そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。
男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。

http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/umakai.htmlより引用

大神社 
交野天神社 大神社  御祭神は天照大御神 と 神武天皇

まとめると次のような内容になるかと思います。

a.男大迹 の王(のちの継体天皇)は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた。
b.男大迹 の王57歳のとき、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去して後継者がなかった。
c.大伴金村らは仲哀天皇の末裔・倭彦王を丹波から迎えて後継者にすることにし、迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった
d.、大伴金村は応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送った。
e.男大迹 の王も討伐軍かと疑い、使者を河内馬飼首荒籠のもとへ送った。そして軍が討伐ではなく迎えのためであることを確認し樟葉宮で即位した。

継体という漢風諡号は奈良時代になってつけられたものですが、新王朝という認識があったことから『継体』という諡号をつけたのではないかという説があります。

これが正しければ、よく右寄りの人がいう「一系万世」は事実ではないということになります。

継体天皇即位は新王朝なのでしょうか?
私はこの説はありえると思います。

交野天神 説明板

交野天神社 説明板

④神武天皇=応神天皇?

初代神武天皇は日向から東征して畿内入りしたとされます。
一方、15代応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが、このルートが神武東征ルートと重なるところから
二天皇は同一人物ではないかとする説があります。

⑤応神天皇は二人いた?

記紀は15代応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。
名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。

ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。

ツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、
気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのではないかと思ったりするのですが?

四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

⑥継体天皇はイザサワケ大神と関係がある?

気比神宮は福井県敦賀市にあったのでしたね。
そして、応神天皇の5世孫である継体天皇は越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったのでした。
継体天皇はなぜ、越前三国で育ったのでしょうか?
それは継体天皇がイザサワケ大神と関係のある神だからではないでしょうか?

継体天皇が関係あるのは、もともとのイザサワケ大神なのか?それとも名前を交換したあとのイザサワケ大神なのか?

日本書紀は名前を交換するという説話を掲載するなどして、読者を混乱させようとしているように思えます。

⑦樟葉宮伝承地と貴船神社

②のところに貼った写真の、階段を上っていくと貴船神社があり、その神社の傍らにも「継体天皇樟葉宮跡伝承地」と刻んだ石碑がたっています。

交野天神 貴船神社 
交野天神社 貴船神社

貴船神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)と継体天皇です。
兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神で、もともとは紀船神社だったのではないでしょうか。

なぜ継体天皇樟葉宮跡伝承地にその貴船神社があって継体天皇を祀っているのでしょうか?

『日本書紀』に次のような内容が記されています。

507年、継体天皇、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位。
511年、筒城宮(京都府京田辺市)に遷都
518年、弟国宮(京都府長岡京市)に遷都
526年、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都

http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-33.html
上のサイトに、紀氏の荘園が記されていますが、「古代京都府南部」としるされています。
京田辺・長岡京などは紀氏の荘園があったようです。

また枚方の天田神社は紀氏が祭祀する石清水八幡宮の所領だったとされ、紀氏の母親をもつ惟喬親王の別荘・渚の院もありました。

石清水八幡宮が創建されたり、惟喬親王が渚の院で歌会を開いたりしたのは平安時代ですが、それ以前から紀氏の土地であったため天田神社付近が紀氏の所領になったり、惟喬親王の別荘がつくられたりしたのかも?

そして継体天皇が樟葉宮で即位したのも紀氏と関係があるような気がしたりもします。

交野天神 拝殿屋根を支える天邪鬼 

交野天神社 拝殿をささえる天邪鬼






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[2019/12/25 21:42] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

金剛寺 紅葉 『改竄された神話?神武東征はニギハヤヒ東征だった?』 


大阪府東大阪市 金剛寺

①石切駅から金剛寺へ

石切劔箭神社→石切参道商店街→石切大仏→千手寺とやってきたところまでお話ししました。

石切の旅、過去記事はこちらです。

石切参道商店街 『南極老人星の神はなぜ二神いるの?』 
石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 
千手寺 紅葉 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 

千手寺をさらに昇っていくと石切駅です。

石切駅 

石切駅

石切駅からさらに坂道を登っていくと観光客の姿はまばらに。
でも、ここから先にもお社などがたくさんあります。

黒熊明神、赤目明神、太郎明神 
黒熊明神、赤目明神、太郎明神 

熊繁大神 

熊繁大神

白光大神2 
白光大神

石光観世音 
石切観世音

途中であったお姉さんが(たぶん撤饌の)綿菓子をくれました。(ありがとうございます!)
そして「ここから20分ほど行ったところに切奥之院金剛寺というお寺があるよ」と教えてくれたので、山道を登っていくことに。

白光大神 

白光大神から金剛寺へ向かう道

金剛寺 一の鳥居 

どんどん山道になっていきますよ。鳥居には白姫大神と書いてありました。

金剛寺 二の鳥居 
まだまだ登っていきますよ~。

金剛寺 

これはなんでしょう?庚申塔かな?文字が刻んでありましたが、植物が絡みついたりしていて全然読めませんでした~。

金剛寺3 

ようやく金剛寺に到着しました。

金剛寺は明治後期の創建で弁財天をお祭りしているそうです。
創建は比較的新しいですが、古より神武天皇腰掛け石と言い伝わる石があるとのことです。
(写真撮り損ねました~。こちらの方のブログに写真がありましたのでリンク貼らせていただきます。
http://pachyderm.blog54.fc2.com/blog-entry-192.html

②神武天皇腰掛石

この神武天皇腰掛け石について、次のように記したサイトがありました。

A.また当山には開基以前より神武天皇腰掛け石と言い伝わる石があり、
これはその昔、神武天皇が日本国を統一せんが為、港より討伐に向かわれし際、
その戦いが思うに任せず、石に腰掛けて思案の末、
東(太陽)に向かって矢を放ってはならぬと、この地を下り、東側に回られた。


https://blog.goo.ne.jp/051006250510/e/52c784b802196fee920f2807b0a5b4b2 より引用

ウィキペディアには次のように記されています。

B.戊午年2月、彦火火出見尊たちは吉備国から東へ向かい難波の碕に至った。
3月に河内国日下邑の青雲白肩津から龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めなかった。
そこで東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(大和国)へ入ろうとし、この地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦った。
戦いに利なく、長兄の五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。そして日の神の子孫の自分たちが日に向かって(東に向かって)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟ることとなった。彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 より引用

Bのウィキペディアの記事は記紀をもとに記したものだと思います。

白肩津は東大阪市日下町あたりだと考えられています。
胆駒山は生駒山のことです。
孔舎衛坂は大阪府と奈良県の境の坂。現在の暗)峠または善根寺越ではないかといわれています。 
金剛寺は石切劔箭神社から坂を上った東あたりにあります。(地図では生駒山上遊園地の「生」の文字の西あたり)






ここで注意したいのは、古代の地形が現在とはかなり異なっていたということです。
大阪湾は大きく現在の内陸部にまで入り込み、河内湖とよばれていました。
現在の大阪市は上町台地あたりのみが陸地として存在していたのです。
そして現在の東大阪市は海からは遠く離れていますが、古代にはこのあたりまで海が迫ってました。

孔舎衛坂は額田駅と平岡駅の中間あたりから東に向かってのびる道、または日下町の北が善根寺町で、そのあたりから東に延びる道だと考えられています。

金剛寺2

③食い違う伝説

A・Bを読み比べて疑問に思うことがあります。
現在の石切劔箭神社や金剛寺のあたりは長髄彦が支配する土地で、神武はその長髄彦との闘いに負けたのです。
それなのに、長髄彦の土地にある石に腰かけて考える、などという余裕があったのでしょうか?

また、Aの伝説では「(神武は)この地を下り、東側に回られた。」とあります。
石切の東は奈良なので、石切の山をおりて東にある奈良に回ったという意味かと思われます。

ところがBの伝説では「彦火火出見尊(神武)は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。 」となっています。

草香津は白肩津のことだと考えられています。
神武は船で東征したと思われますので、船をつないだ港に戻ったのでしょう。
つまり、奈良のある東にではなく、西にある河内湖の草香津に向かい、そののち、海路南へ向かったということです。

そののち、神武は陸路熊野越えをし、奈良側から西に向かって長髄彦軍と対峙するのです。

このAとBの差はどこから生じたのでしょうか?

石切奥之院弁天瀧 

石切奥之院弁天瀧と書いてあります。

④神武東征はニギハヤヒ東征だった?

神武東征といいますが、実はそれはニギハヤヒの東征ではないかと私は思ったりします。

ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代神武天皇が日向より東征して畿内入りする以前より、畿内に天下っていたと記紀(古事記・日本書紀)には記されています。
ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

そして15代応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが
そのルートがと神武東征ルートと重なるので、神武と応神は同一人物とする説があります。

記紀は15代応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。
名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。
ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。
ツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのではないかと思えます。


四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

そしてすでに述べたように応神=神武と考えられるわけですが、応神天皇は渡来人の神の可能性が高い伊奢沙和気大神と名前を交換しています。
神武は本当は対馬海流に乗って朝鮮半島から敦賀にやってきた渡来人の伊奢沙和気大神であったのが、物部氏の神・応神天皇と名前を交換して大和朝廷の支配者になったんだったりして?

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峰に天下ったとされます。
そしてその後大和国(奈良県)に移ったとされます。

ニギハヤヒが天下ったとされるのは大阪府交野市の磐船神社で、石切神社の北にあってそんなに離れた場所ではありません。
そして磐船神社の東は奈良です。

Aの伝説「この地を下り、東側に回られた。」の主語は神武ではなくニギハヤヒとしたほうがぴったりきそうに思えます。

そもそも石切神社の御祭神はニギハヤヒですし、ニギハヤヒが磐船神社から南の石切あたりにやってきて、ここから東の奈良に移ったとも考えられるかもしれません。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

⑤ニギハヤヒは九州から畿内へやってきた。

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峯に天下ったとされますが、いったいニギハヤヒはどこからやってきたのでしょうか?

これについて船場俊昭さんは九州・筑紫地方としておられます。
ニギハヤヒは物部氏の祖神ですが
筑紫地方は物部氏が住んでいたところで、北九州筑後平野と大和周辺には酷似した地名が80か所以上もあるとのことです。

築後春日田原山田市上山田玖珠天瀬久留米朝倉加美三輪雲堤筑前高田小田三井池田平群郷野方草ヶ江
大和春日田原山田上山田国栖天ヶ瀬久米朝倉賀美三輪雲梯大和高田織田三井池田平群郷額田日下

そして、九州からやってきた物部氏が故郷の地名を大和につけたのではないかというのです。
しかし、大和の地名が先にあって九州の地名があとについたという可能性もあるので、検証が必要ですね。

石切駅付近より 
石切駅付近より大阪方面を望む。かつてはここから河内湖が見えていたのでしょうね。





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[2019/12/24 17:59] 大阪府 | TB(0) | CM(0)
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