
大原野神社にやってきた。

鯉沢池。文徳天皇が作ったという。
瀬和井(せがい) 清和天皇が産湯を使ったという。清和天皇は文徳天皇の第四皇子ですね。
拝殿前には雌雄の鹿の像。雄鹿は巻物をくわえています。
雌鹿の頭に乗っているのはどんぐりのヘタ?
えーーっ、もしかして、大原野神社に祀られているのは文徳天皇の第一皇子の惟喬親王?(清和天皇との皇位争いに敗れた)
驚きの発見に心臓バクバク状態!w
詳しくはこちらの記事をお読みください
惟喬親王の乱㊴『大原野神社の神相撲は世継争いに負けたことを知らしめるための行事?』
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大原の里へやってきたわけは

彼岸花を見たかったのと、もうひとつ
てこてこ歩いていきます。あっ、道標がありますよ。もう少し。
惟喬親王(これたかしんのう)陵に到着!
ずっと参拝したいと思っていました。やっと来れた。
階段をのぼると石仏がありました。倒木なども多くて荒れてるかんじ。
この五輪塔が惟喬親王の墓。滋賀県にも惟喬親王の墓ありますけど。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子(母は紀静子)で文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのですが
異母弟の惟仁親王(清和天皇/母は藤原良房)が皇太子になった悲運の皇子なのです。
御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもの)として多くの神社に祀られていますよ。
↑ 惟喬親王陵付近より大原の里を望む。

↑ こういう感じの愛宕大神と記された燈籠があちこちにありました。
もしかして、惟喬親王と愛宕信仰関係あるのかな、と思って調べたら、どんぴしゃりでした!
右京区嵯峨愛宕町の愛宕神社には太郎坊天狗の伝説が伝えられています。
空海の高弟であった知恵優れた僧が、惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)の皇位争いの際に惟喬親王について、
惟仁親王についた天台僧と壮絶な呪詛合戦を繰り広げた末に敗北し、この恨みをはらすために天狗(怨霊)となって天皇家を脅かし続けた。
この天狗が、生前に修行を積んだ愛宕山に住み着いて太郎坊天狗となった。http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shuichim/atagosan.pdf より引用
近いうちに愛宕神社を参拝したいです。
7kmの山道歩いて登らないといけないみたいですがw
乙が森
このおつうの大蛇も惟喬親王かも。
おつうは女性じゃないか、といわれそうですが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王だと考えているんですよ。
詳しくは別ブログの次のシリーズをお読みいただけると嬉しいですが、
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html簡単にその理由をまとめておきます。
a | 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。 |
b | 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。 |
c | .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。 |
d | 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。 三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。 紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。 また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。 三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。 そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。 惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。 そういうことで小町なのではないだろうか。 |
e | 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。 ①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。 ②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。 ※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』 ※『世』・・・『世の中』と『男女関係』 ※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』 しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。 ③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。 |
↑ これは寂光院近くにあった雰囲気のある建物
お漬物屋さんの倉庫?
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多賀大社・・・滋賀県犬上郡多賀町多賀604
秋の訪れをつげる蕎麦の花

これは何の花かな?↓
ここで採れた蕎麦の実が寿命蕎麦になるのかな?
多賀大社境内にある寿命蕎麦の店 ↓
あいにくお腹いっぱいで、食べられなかったw
次回はお腹すかして参拝しよう。
寿命蕎麦という名前は、境内にある寿命石からつけられたのでしょう。↓
鎌倉時代、僧・重源は61歳のとき、東大寺再建を願って伊勢神宮に17日間参籠しました。
擦ると天照大神があらわれて、「東大寺再建のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願しなさい」と告ました。
重源が多賀社に参拝すると「莚」の字の形に虫食いあとのある柏の葉が舞い落ちてきた。
莚=廿(二十)+延
なので、寿命が二十年伸びるということだ!
と重源は喜んだ。
重源はこののち20年の歳月をかけて東大寺再建をはたしたあと、多賀大社にお礼参りにやってきて石に座ってそのまま亡くなったといいます。
多賀大社休憩所より多賀大社拝殿を望む。↑
さざれ石
わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
君が代の元歌です。
岐阜県揖斐川町春日には君が代の由来となったといわれるさざれ石があり、藤原朝臣石位左衛門が詠んだ歌だとして次のように伝えられているのだとか。
惟喬親王に仕えていた木地師の藤原朝臣石位左衛門は、親王より「よい椀生地を探せ」と命じられました。
そこであちこち探し回って春日村を発見し、ここに移り住みました。
石位左衛門は春日村と京を行き来する途中で「さざれ石」を発見して
♪ わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで
と詠みました。
木地師の藤原朝臣石位左衛門のいう「わが君」とは惟喬親王のことだと考えるのが自然でしょう。
多賀大社のさざれ石は岐阜県揖斐川町春日産のものです。
多賀大社 御神田
実りの秋ですね~
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九州で大雨による被害がでていますね。心よりお見舞い申し上げます。
河川の氾濫は毎年のようにでています。なんとかならないものでしょうか?

これは飛行機の窓から見た伊丹市の昆陽池。
灌漑用水として用いられるほか、洪水調節の役割も担っていました。
こんなのをたくさん作るというのも手じゃないかと思ったりしますがどうでしょう?
今日は七夕ですが、あいにくの雨です。
でも本来七夕は旧暦7月(新暦では8月くらい)のお盆の入りの行事ですから、旧暦7月7日に天の川眺めるといいかもですね。
これは大阪市交野市の天の川にかかる逢合橋。
牽牛と織姫が逢引をするとされる橋です。
なんちゅーか、あまりに普通の橋で、ひっきりなしに車が渡っていきますw
七夕の日は行事があるので笹飾りがたくさん飾られていました。

↑ 交野市にある機物神社。

枚方市にある中山観音寺跡。
中山観音寺跡と機物神社は天の川をはさんで対面しており
中山観音寺跡は牽牛星、機物神社は織女星になぞらえられています。
でも、結構距離ありますよ!
在原業平が惟喬親王のお供をして交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)にやってきてこんな歌を詠んでいますよ。
狩りくらし 棚機乙女(たなばたつめ)に宿からむ 天の河原にわれは来にけり
(1日中狩をして日が暮れてしまったので、今夜は織姫に宿をかりましょう。私たちは天の河原に着たのですから)天の川はどこにでもあるような普通の川でしたw
でも、在原業平や惟喬親王を思い浮かべながらの、楽しい旅でした。
逢合橋に関する記事はこちら。
逢合橋 梅 天の川 夕景 『かささぎが架ける橋は白黒モノトーン?大伴黒主の正体』 まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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和歌山県海南市あたり
①紀州漆器の担い手たちは滋賀県木地師の里からやってきた?森林公園雨の森展望台から海南市を見下ろしました。
工場の夜景が美しいっ!
工場は日本製鉄だと思います。近代産業が盛んな町なんですね。
しかし近代産業だけではありません。
海南市は伝統産業として紀州漆器などでも有名なんですよ。
室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろ、近江の木地師集団が紀州に移住してきたとされます。
彼らが紀州檜を用いて椀などを製造したのが紀州漆器の始まりとされます。
おお~、近江の木地師!
近江は現在の滋賀県のことですが、滋賀県東近江市君ヶ畑あたりは「木地師の里」と呼ばれています。
また、滋賀県蒲生郡日野では日野漆器が作られていました。
日野は1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展したとされます。
近江の木地師集団が紀州に移住してきたのは室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろということなので、日野からやってきたということはないか。
紀州漆器の担い手たちは滋賀県東近江市君ヶ畑あたりの「木地師の里」からやってきたのかもしれませんね。
大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)君が畑には大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っていますよ。
大皇器地祖神社の近くには惟喬親王の墓もあります。(京都三千院近く、滋賀県筒井峠付近にも惟喬親王の墓があります。)
大皇器地祖神社近くにある惟喬親王の墓惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があり
(奈良時代にろくろで作られた百万塔が現存しているので、この伝説は事実ではないのですが)
そのため、木地師の祖とされているのです。
木地師資料館に展示されていた掛け軸使い方は上の絵のとおり。
ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。
木地師の祖ということで日野漆器の産地だった滋賀県日野でも惟喬親王は厚く信仰されています。
日野祭の双六町曳山の見送幕は惟喬親王が描かれています。
http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/yama/sugo.html紀州に定住した近江からやってきた木地師集団も惟喬親王を信仰していたことでしょう。
また惟喬親王の母親は紀静子といい、紀氏の女性でした。
そして紀州は紀氏の本拠地ですから、彼らは紀州で漆器をつくるということに意義を見出していたかもしれません。
②根来塗近江の木地師集団が定住して漆器をつくったのが紀州漆器都する説のほか、秀吉の根来寺焼き討ちからのがれてきた職人が黒江湊に移住して紀州漆器がつくられはじめたとする説もあります。
根来寺に関係する漆器に根来塗があり、寺の僧侶たちが用いていたとされます。
黒漆で下塗りをしたのち、朱漆塗りを重ねてつくるそうです。
たぶんですが、朱塗りは漆に天然の辰砂をまぜるのではないかと思います。(もしちがっていたら教えてね~)
https://www.negoronuri.com/③なぜ根来に小野小町伝説があるのか
根来寺根来寺の裏あたりにある山を根来山というようです。(写真に写っている山が根来山かどうかはわかりません~。すいません。)
で、この根来山付近にこんな話が伝えられています。
康和(1099~1104年)のころ、根来山の麓の西坂本に室家右兵衛尉忠家(むろやうひょうえのじょうただいえ)が住んでいました。
忠家は金持ちでしたが、子供がいませんでした。
あるとき、忠家の妻は、小野小町の墓に参拝すると子供を授かるという話を聞き、二十一日絶食して小野小町の墓にお参りをしました。
やがて妻は身籠り女児を出産しました。
女児は桂姫と名付けられ、小野小町そっくりな美女に成長しました。
桂姫の髪は住持池(じゅうじがいけ)の水をつけないと梳くことができず、住持池の水を汲んできては梳いていました。
桂姫は和泉国尾崎の大原源蔵高広(おおはらげんぞうたかひろ)という北面(ほくめん)の武士に嫁ぐことになりました。
嫁入り行列が住持池を通り過ぎようとしたとき、空がかき曇り池に大波がたり、大蛇があらわれて娘をさらって水の中に消えました。
母親は悲しみもう一度娘に会いたいと願っていましたが、あるとき住持池を泳ぐ二匹の蛇の姿を見ました。
桂姫をさらった大蛇は小町に思いをよせていた深草小将の生まれ変わりだといわれています。なぜ、この地に小野小町の伝説があるんでしょうか?
実は私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えています。
髄心院 小野小町像詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html特に、下記記事を詳しく書いていますが、
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』 ざっとまとめておくと次のような理由があげられます。
a | 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。 |
b | 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。 |
c | .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。 |
d | 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。 三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。 紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。 また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。 三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。 そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。 惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。 そういうことで小町なのではないだろうか。 |
e | 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。 ①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。 ②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。 ※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』 ※『世』・・・『世の中』と『男女関係』 ※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』 しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。 ③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。
|
①で述べたように惟喬親王は木地師の祖として信仰されています。
そして根来塗をつくるためには木地師の存在があったと考えられます。
根来寺付近に住んでいた木地師は木地師の祖・惟喬親王に対する信仰があり、惟喬親王=小野小町なので、小野小町に関係する伝説が生じたのではないでしょうか。
ところで、この話にでてくる小野小町の墓ってどこにあるんでしょうね。
和歌山市湯屋谷に小野小町の墓があるそうですが、ここのことでしょうか?
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