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山部赤人の墓 額井岳 紅葉 『言霊の使い手&戒場=開成?』 



奈良県宇陀市榛原山辺三 山部赤人の墓
奈良県宇陀市榛原戒場 戒長寺
2019年11月17日 撮影


山部赤人の墓 
山部赤人の墓

①言霊の使い手

額井岳のふもとに山部赤人の墓はありました。
山部赤人は奈良時代の人で古すぎるゆえ、本当にここが山部赤人の墓なのかどうかわかりませんが
この付近の人々は、ここを山部赤人の墓だと信じ続けてきたのです。

なぜここに山部赤人の墓があるのか。あるいは、なぜここが山部赤人の墓だと信じられたのか。
ネットをぐぐってみると「宇陀市榛原山辺」という地名で、山部赤人は山辺赤人とも記されることがあったため、と記された記事がありました。

そういうこともあるでしょうが、私はやっぱり、有名なこの歌にちなんでのことではないかと思います。

田児の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける/山部赤人

実はさきほど山部赤人の墓は額井岳のふもとにあると書きましたが、額井岳は大和富士と呼ばれているのです。

「田児の浦」は駿河湾の西付近を指します。
当然、この歌も田児の裏で詠まれたものでしょう。

しかし山部赤人は死んで大和富士と呼ばれる額井岳のふもとに葬られたので、「山部赤人の歌には言霊があった。」と人々は考えたのかもしれません。

言霊とは言葉の力によって口から発した言葉を実現させてしまう力のことです。

つまり、山部赤人は「田児の浦ゆ」の歌を詠んだので、その言霊の力によって大和富士のふもとに葬られたと人々は考えたのではないかということです。

この墓が本当に山部赤人の墓でなくてもいいんです。(もしかしたら本当に山部赤人の墓かもしれないですが)
人々が山部赤人の墓であると信じたということが重要なんです。

額井岳 
額井岳

②赤人は殺されて塩が振られている?

また雪は謀反人に降る塩を思い出させます。

というのは摂津風土記にこんな話があるのです。

雄鹿は背に雪が降り、薄が生える夢をみました。
雌鹿は偽った夢占いをして「薄はささった弓矢。雪は殺されて塩がふられているのです。出かけるとあなたは殺されてしまうでしょう。」
しかし雄鹿は淡路島にすむ妾の鹿に会いにでかけてしまい、夢占いとおりに舟人に射られて死んでしまいました。

もしかしたら山部赤人もまた殺されて、塩が振られたのかもしれません。
とすれば「田児の浦ゆ」の歌は、殺されることを予知した夢であると考えられた可能性もでてきます。

戒長寺 遠望 

戒長寺 遠望 (戒場山)

③戒場は開成?

山部赤人の墓の正面に立つと、山が見えます。そしてその山の中腹に大イチョウが見えます。
戒長寺の御神木・お葉つきイチョウです。

その山の名前を聞いて、テンションあがる、あがる!

戒場山。
かいばやま、と読むんでしょうか。
でも、戒場と書いて、「かいじょう」とも読めますね。

そして戒成皇子、海上皇子、開成皇子と呼ばれる皇子が、各地の寺社の創建説話に登場しています。
志貴皇子の子にも、海上王(本朝皇胤紹運録)または海上女王(続日本紀)という名前が記録されています。
神峯山寺大阪府高槻市開成皇子光仁天皇に命じられ神峯山寺を開く役行者が開基し、774年に開成皇子が創建した。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子裸足で大地を踏んだので病になった。
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。
海上王(本朝皇胤紹運録)
または海上女王(続日本紀)
志貴皇子の子志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になった。
(奈良豆比古神社伝説)


奈良豆比古神社には志貴皇子がハンセン病を患ったという伝説があります。
そして愛知県新城市の白山神社には、「開成皇子は裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。」という伝説があります。

もしかして山部赤人もハンセン病を患ったのでしょうか?

612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。(日本書紀)

 
ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないでしょうか。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

山部赤人と開成皇子は関係がありそうに思えます。
もう少し調べてみます。

戒長寺 本堂

戒長寺 本堂

戒長寺 鐘楼 
戒長寺 鐘楼



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[2019/11/19 17:24] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

古知谷阿弥陀寺 紅葉 『即身仏と油』 

京都市左京区 小知谷阿弥陀寺
2019年11月16日 撮影

古知谷阿弥陀寺 門2

①体質を樹脂質化する?

三千院の北に小知谷阿弥陀寺があります。
紅葉シーズン、三千院あたりはたいへんな人出ですが、古知谷阿弥陀寺は観光客もまばらで静寂につつまれています。
穴場ですよっ。

そんな静かな古知谷阿弥陀寺には、開基・弾誓の即身仏が安置されています。

ウィキペディアによると「弾誓は1613年に62歳で示寂した」とあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%B7%A6%E4%BA%AC%E5%8C%BA)
ということは、1613年に入定したということなんですかね?

堂内にあった説明板には次のように記されていました。
「開基弾誓上人は穀絶ち塩絶ちのすえ、松の実 松の皮を食べ 体質を樹脂質化した後 念仏三昧をもって生きながら石窟の二重になった石棺の中に入り・・・。」

樹脂とはアカマツ・カラマツなどの樹木から分泌される粘り気のある液体、またはそれが空気に触れて酸化して固まったもののことで、
例としては松脂や琥珀などがあげられます。

「体質を樹脂質化する」というのがどういう状態のことを言っているのか、よくわかりませんが
松の実や松の皮を食べていたということなので、当然松脂も体内に摂取したことでしょう。
それを「体質を樹脂質化する」と言っているのかもしれませんね。

是非お姿を拝んでみたい!しかし石室に安置されていて、お姿を拝むことはできません。

古知谷阿弥陀寺 門

即身仏になるために防腐剤が用いられていた?

即身仏となるためには木食といって、五穀を断ち、木の皮や木の実のみを食べる修業を行いました。
こうして体から脂肪を落とし、死後腐りにくい体をつくるというのです。

弾誓上人が松の実や皮を食べたのは木食修行だったんですね。

即身仏のメッカといえば山形の湯殿山ですが、湯殿山は水銀土壌だそうで、ここで育つ木の皮や実は水銀濃度が高いと言われます。
水銀には防腐作用があり、そのため即身仏が数多く残ったのではないかと言われます。
もちろん、寒冷な気候も影響したでしょうね。

また入定する前に漆のお茶を飲むということもされていたようです。
こうすることによって、胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐作用で腐りにくくなったといわれます。

古知谷阿弥陀寺 枯山水

③樹脂は防腐剤だった?

調べてみると古代エジプトのミイラで防腐剤が使用されていたということがわかりました。

英ヨーク大学の考古学者スティーブン・バックレー博士によると
現在、イタリア・トリノのエジプト博物館に保管されている古代エジプトのミイラは次のようなレシピから作られる防腐剤を使用されているということです。。

●植物性油:おそらくゴマ
●植物か根からの「バルサム(樹脂の一種)のような」抽出液:ガマ属の植物由来とみられる
●植物性ののり:アカシアから抽出されたとみられる糖
●針葉樹の樹脂:おそらく松ヤニ

樹脂を油と混ぜると殺菌特性が備わり、遺体を腐敗から守ってくれる。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45204722

京都大原は平安京があったあたりに比べるとかなり寒冷な気候だと思います。
紅葉も早いですし、雪も結構降るみたいですね。
しかし、山形とはくらべものにならないでしょう。
やはり太原は温暖な気候で、即身仏となるには不向きな気候だと思います。

それなのに、即身仏が残っているとされるのは、樹脂と油をまぜた防腐剤が用いられていたのかもしれませんね。


古知谷阿弥陀寺 茶室

④長木を発明した神官の正体とは?

ここ大原には惟喬親王が隠棲したとも伝わります。(隠棲地は別の場所だとする説もありますが。)
そして惟隆親王は、嵐山の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があります。

また宇治に喜撰法師が籠ったという喜撰洞がありますが、喜撰法師とは紀名虎または紀有常のことだとする説があります。
(私は喜撰法師とは紀名虎の娘で、紀有常の妹の紀静子を母親に持つ惟喬親王の事である可能性もあるかなと思っていますが)
喜撰洞とは喜撰法師が入定した洞窟ではないかと私は考えています。
喜撰というのはお茶の隠語としても用いられていますが、それは喜撰法師が漆のお茶を飲んで入定したことから隠語として用いられているのではないかと思ったりもします。

と、このように考えてみたとき、離宮八幡宮に伝わる次のような伝説を思い出してしまいます。

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになった。

長木の図

離宮八幡宮 説明板より


離宮八幡宮の神官が長木を発明したのは859~877年ということですが、惟喬親王の生没年は844~897年です。
また、惟喬親王は木地師の祖とされ、巻物が転がるのを見て木地師が用いる轆轤(ろくろ)を発明したという伝説があります。

惟喬親王が木地師の祖とされるのは、彼が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説からくるのかもしれません。
木地師が作ったお椀には漆を塗って仕上げますので。

そしてこの木地師が用いる轆轤は、棒に綱を巻き付けて用いる点が油を搾る長木に構造がよく似ています。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館にて 女性が轆轤の棒を回転させ、男性が棒の先端に取り付けた刃物で器を削っています。

また離宮八幡宮はもともと石清水八幡宮があった場所であり、石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲です。
日本では先祖の霊は子孫が祭祀擦るべきという考え方がありました。
つまり、石清水八幡宮や離宮八幡宮は紀氏の血の濃い惟喬親王の霊を慰霊する神社ではないかと思うのです。

そういったことから、私は伝説に登場する長木という搾油器を発明した神官とは惟喬親王のことではないかと考えています。


これが正しいと仮定して、なぜ惟喬親王は搾油器を発明したなどという伝説があるのか考えてみてください。

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説も残りますが、これは入定する際、漆のお茶を飲むことと関係がありそうに思えます。

すると、搾油器を発明したという伝説は、その油と松脂などの樹脂をまぜて防腐剤として用いたことから生じた伝説なのかも、と思えます。

https://karaage.info/2016/03/23/195251/

↑ こちらのブログには廃油が防腐剤がわりになる、との旨が記されています。

また油は樹脂化するとの記事もネット上にたくさん見つかります。

古知谷阿弥陀寺 茶室2 



古知谷阿弥陀寺 渡り廊下 
古知谷阿弥陀寺  

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[2019/11/18 22:06] 京都府 | TB(0) | CM(0)

清涼寺 紅葉 源融『光源氏のモデルは誰?』 


京都市右京区 清凉寺
2012年11月25日
2017年11月18日 撮影


清凉寺

①源融の別荘地

清凉寺がある場所には、かつて嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822 - 895)の別荘・栖霞観(せいかかん)がありました。
源融没後896年に、源融の子息が阿弥陀三尊像を安置して棲霞寺としました。
945年、重明親王(醍醐天皇第4皇子)妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置しました。
51代平城天皇
50代桓武天皇52代嵯峨天皇54代仁明天皇55代文徳天皇56代清和天皇57代陽成天皇
源融58代光孝天皇59代宇多天皇60代醍醐天皇61代朱雀天皇
53代淳和天皇62代村上天皇63代冷泉天皇
重明親王
源高明

 
985年、東大寺の僧・奝然(“ちょうねん”938-1016)は宋へ渡航中の、台州の開元寺で現地の仏師に釈迦如来像を作らせました。
古代インドの優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせた霊像を模刻したものといわれ、
インド - 中国 - 日本と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれていますよ。

987年、奝然は京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺を建立する計画を建てました。
しかし延暦寺の反対によって実現せず、1016年に奝然は没しました。
のち、奝然の弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に五台山清凉寺を創建しました。

清涼寺 門


②源融は光源氏のモデル?

源融は光源氏のモデルではないかともいわれています。

源融(822 - 895)は嵯峨天皇の皇子として生まれましたが、嵯峨天皇は多くの子女があり財政を圧迫したため、仁明天皇をのぞいてほとんどの皇子を臣籍降下させました。

源融は順調に昇進して左大臣にまで上り詰めましたが、藤原基経が摂政になったため、融は職を辞しました。

884年、陽成天皇が譲位する際、融は「自分も皇胤なので天皇候補にはいる」と主張しましたが、藤原基経は「臣籍降下した者が皇位についた例はない」と退けたというエピソードが残ります。

光孝天皇即位後、融は政務に復帰しています。
光孝天皇が崩御した後、藤原基経は臣籍降下していた源定省を皇籍に復帰させて即位させました。(宇多天皇)

891年、関白太政大臣・藤原基経が没すると、融は再び太政官のトップに立ち、895年に薨去しました。

なぜ源融は光源氏のモデルだと考えられているのでしょうか。
その理由は主に次の2点のようです。

a.天皇の子で兄妹が帝となっているのに、自らは臣籍降下した。
b...源氏物語の舞台は、源融ゆかりの地
源氏物語の中で、紫の上が源氏四十の賀を記念して薬師仏供養を行った場所が、「嵯峨野の御堂」ですが、嵯峨野の御堂とは清凉寺のことだといわれています。
また、源氏物語に登場する光源氏の住まい「六条院」や、夕顔の段に登場する「某の院」のモデルは六条河原院(現在の渉成園)だと考えられているとのことです。

清凉寺 聖徳太子殿 

③光源氏のモデルは源高明?

光源氏のモデルは源高明(914~983)だとする説もあります。

源高明は醍醐天皇の第10皇子で、母親は源周子です。
920年、7歳のときに臣籍降下しました。

源高明は藤原師輔の三女を妻としていましたが亡くなってしまい、次に藤原師輔の五女を妻としました。
こういったことから、藤原師輔との関係が良好で、師輔の姉・中宮安子(村上天皇の中宮)にも重用されました。
高明は自分の娘を安子が生んだ為平親王の妃とし、ますます関係を深めました。
968年安子がうんだ憲平親王が即位して冷泉天皇となり、高明は左大臣となりました。

冷泉天皇の皇太子の有力候補は同母弟・為平親王でしたが、為平の弟・守平親王(のちの円融天皇)が立てられました。
これは源高明が権力を握ることを恐れた藤原氏の策謀であったとされます。
師輔は960年に、安子は964年に亡くなっており、高明は二人の後押しを得ることができない状態におかれていたのです。

969年、源満中と藤原善時が橘繁延と源連の
謀反を密告しました。
右大臣藤原師尹( もろただ)は関係者を逮捕しましたが、この中に高明の従者・藤原千晴(藤原秀郷の子)がいました。
そのため、高明も謀反に連座したとして大宰府へ流罪となりました。(安和の変)

972年、高明は罪を許されて帰京しますが、政界に復帰することは無く葛野に隠棲し、
982年、69歳で薨去しました。

高明が光源氏のモデルとされている理由は次のようなものです。

a.天皇の子で兄妹が帝となっているのに、自らは臣籍降下した。

b.源氏物語に朱雀帝・冷泉帝が登場するが、朱雀天皇は源高明の異母弟、冷泉天皇は源高明の異母兄。

清涼寺 門2 

③せめて物語の中で幸福な人生を送れるように

私は光源氏は、源融、源高明ら、政治的に不幸であった複数の源氏たちをモデルに創作された人物ではないかと思います。

光源氏は一度は須磨に流罪となっていますが、のち自分の子の冷泉帝が即位し、冷泉帝より准太上天皇の位を送られています。
(冷泉帝は桐壺帝の子で、光源氏とは異母兄弟ということになっていますが、実は光源氏と藤壺の間にできた不義の子なんですね~。それで父親を臣下とすることに悩んだ冷泉帝が准太上天皇の位を送ったのです。)

それに対して源融は天皇になる資格があると主張したにもかかわらず認められず、源孝明は大宰府に流罪となり、幸福な人生を送ったとはいいがたいです。

そのため、せめて物語の中で幸福な人生を送れるようにと記された物語なのではないでしょうか。

清涼寺 本堂


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[2019/11/15 22:26] 京都府 | TB(0) | CM(0)

石山寺 紅葉 『源氏物語の作者は男だった?』 


※紅葉まとめはこちらをご覧ください。↓
和歌山・滋賀・兵庫・その他の紅葉 まとめ 
大阪の紅葉 まとめ 
奈良の紅葉 まとめ 
京都の紅葉 まとめ 


滋賀県大津市 石山寺
2009年11月23日 撮影

石山寺-多宝塔2

①紫式部が源氏物語を書いたので、日本は男女平等だった?

紫式部は石山寺に参篭して、源氏物語を書くアイデアを思いついたという伝説がありますよ。
そういうわけで、石山寺本堂には紫式部の像が置かれています。

石山寺-紫式部像 

武田邦彦先生がよくこんなことをおっしゃっています。
「紫式部が女性として世界で初めて小説を書いたことは、日本が男女平等社会であったことの証拠である。」

「なるほど、武田先生の言うとおりだよ!」と思う人もいらっしゃると思います。
でも、私なんかは「へ?」と思ってしまいます。

「武田先生の言うとおりだよ」と思う方は、次の点について考えてみてほしいと思います。

石山寺 三十八所権現社本殿 
a.小説を書くことと男女平等はどのようにして結びつくのか。その説明がない。

b.紫式部は貴族の娘だが、当時、日本人の多くは農民などの庶民だった。
一部の貴族の例をもちだして、日本全体を語っていいのか?

c.男女差別が問題視されるようになったのは、近年になって多くの人が企業に就職するようになってからといわれている。
それより以前の社会では男女差別より身分差別が問題だった。

d.紫式部が源氏物語を書いたという一例だけで、日本は男女平等だったと断じてしまっていいのか?


わかりやすい例をあげましょう。

ある男女共学の学校で、ひとりの女子学生が小説を書き、芥川賞をとったとしますね。
そのことをもって、男女平等な学校だと断定してもいいでしょうか。
実はその学校では受験テストで、男子の合格ラインは60点、女子の合格ラインは90点としているとしたら?
実際、そんな大学があって、女性差別だと問題になりましたねw

石山寺 本堂

②紫式部が源氏物語の作者だと考えられているワケ

そもそも紫式部が源氏物語を書いたという例は、男女平等を語るのにふさわしくないです。
というのは、源氏物語の作者は男ではないかとする説があるからです。

紫式部という女性は、一条天皇の中宮・藤原彰子(藤原道長の娘)の女房として実在していたことはほぼ事実とみてよいと思います。

ただ、源氏物語には作者名が記されていないんですね。

石山寺2

紫式部が源氏物語の作者だと考えられている理由は次のようなもののようです。

a.『紫式部日記』に次のような記述がある。

・宮中の宴で、藤原公任が「若紫はおいでですか」と紫式部に訊ねたが、
 紫式部は「光源氏のような方もいないのに紫の上がいるはずない」と思って聞いていた。
 
・一条天皇が 「源氏物語の作者は日本紀を読んでいるのだろう。才能のある人のようだね。」とおっしゃったのを聞て左衛門の内侍が「紫式部は才能をひけらかしている」などと殿上人に言いふらし、「日本紀
の御局」というあだ名をつけているのは滑稽なことだ。

・娘・中宮彰子が源氏物語を読んでいるのを知った道長が、そばにあった梅の枝が置かれている色紙を取り、歌を書いて紫式部をからかった。
すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
(梅は酸き物ですが、あなたは好き者として評判ですから、梅の枝を折らないで過ぎていく男なんていないでしょうねえ)

これに対して紫式部は次のように歌を返しました。
人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ
(梅の枝はまだ折られていませんが、誰が好き者などと言うのでしょうか)


これらの記述は、紫式部が源氏物語の作者であると断定できるものではありませんね。
紫式部が源氏物語の作者でなくとも、上のような会話は十分なりたちそうに思えます。

石山寺 滝蔵権現社

b.『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』に次のように記されている。
上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾
(上東門院の女房 歌人 紫式部はこれなり。 源氏物語の作者、ある本には藤原雅正の娘うんぬん、藤原為時の妹うんぬんとある。御堂関白道長の妾)

石山寺-心経堂 

③源氏物語の著者は男だった?

さて、それでは源氏物語の著者は男だったとする説の根拠についてみてみましょう。

a.源氏物語は臣籍降下した源氏が藤原氏との政争や恋愛に打ち勝つというもの。(現実は藤原氏が勝利している。)
そういう物語を藤原氏の紫式部が書くだろうかという疑問。

b.源氏物語の妊娠・出産の記述では子供を産んだ経験のある女性が書いたとは思えない矛盾がある。(紫式部は20代後半に藤原宣孝と結婚し娘を出産している。結婚3年後に宣孝は死亡。)

c.作中に婦人語がない。

d.紫式部の父親の役職は式部大丞であり、そこから彼女は紫式部と呼ばれていたと思われる。
作中に登場する「藤式部丞」は紫式部の父親がモデルと考えられるが、愚かな人物として描かれており、紫式部が書いたとするには不自然。

石山寺 三十八所権現社-鳥居 

源氏物語の作者は紫式部なのか、どうかについては、これからじっくり考えてみたいと思います。

ただ、男が書いた説もあるので、「日本は男女平等だった」の証拠としてあげるにはふさわしくないですね。
また、源氏物語を書いたのが紫式部でまちがいないとしても、さきほども述べたようにたった一例だけをあげて「日本は男女平等だった」というのはあまりにお粗末です。

ですから、紫式部以外の例を4~5個程度はあげて戴きたいと思います。

石山寺 

石山寺 紅葉

石山寺 東大門

石山寺-多宝塔 


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[2019/11/11 17:11] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

三千院 紅葉 『惟喬親王はなぜ鍛冶屋の祖として信仰されているの?』 

 

京都市左京区 三千院
2014年11月8日 撮影

三千院-往生極楽院2

①大原は惟喬親王が隠棲した小野の里?

8世紀、比叡山に円融房が建立されました。
その後、円融房は移転を繰り返したのち、1871年(明治4年)に大原後に移転、三千院と称しました。

三千院の境内には阿弥陀三尊像を安置する往生極楽院(旧称・極楽院)があります。
脇侍の観音菩薩・勢到菩薩が大和座りをしていることで有名な美しい像です。

http://www.sanzenin.or.jp/guide/index.html

極楽は ここにこそあらめ みほとけの やまとずわりの もろひざの上/土岐善麿

うまいこと詠みますね!

三千院-往生極楽院

この往生極楽院は1871年に三千院が移転してくるよりはるか以前、平安末期よりここにあったとされます。
三千院と極楽往生院はもともとは別の寺院だったのですね。

三千院が移転してくる以前の大原は隠棲の地として有名で、このブログにもよく登場する惟喬親王が病を患って出家し、隠棲した小野の里は大原であるともいわれています。
ただし小野の里は大原のほか、近江との説もあります。

三千院の近くに惟喬親王の墓があるそうですが、参拝したことがありません。
木地師の里などにも惟喬親王の墓はあり、こちらの方は参拝したことがあるのですが。

惟喬親王-墓2 
金龍寺高松御所の隣にある惟喬親王の墓

惟喬親王-墓

筒井峠にある惟喬親王の墓

②惟喬親王は木地師・漆・鍛冶屋搾油器(?)の祖

さて、この惟喬親王ですが、いろいろなものの祖として信仰されています。

有名なのは木地師の祖としての信仰ですね。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て、ろくろを発見したというのです。
 

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた巻物

また、京都の法輪寺には惟喬親王が籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が伝わり
惟喬親王は漆の祖としても信仰されています。

粟辻神社では鍛冶屋の祖として惟喬親王と在原業平を祀っています。

京都の大山崎にある離宮八幡宮はある神官が搾油器を発明したと伝わり、油の祖としてあがめられていますが
搾油器を発明した神官とは惟喬親王のことではないかと私は考えています。

その理由は次のとおり。

a.搾油器の構造はろくろに似ている。

b.離宮八幡宮は石清水八幡宮と関係が深い神社だが、石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲だった。
日本では先祖の霊は子孫が祀るべきと考えられており、惟喬親王の母親は紀静子だった。

長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

 ③惟喬親王は虚空蔵菩薩のイメージと重ねられた?

なぜ惟喬親王はいろいろなものの祖であると信仰されているんでしょうか?

おそらく惟喬親王は虚空蔵菩薩とイメージが重ねられているのだと思います。

虚空蔵菩薩は知恵の神として信仰されていて、空海が虚空蔵求聞持法を修して記憶力抜群になったというのは有名な話。
だから、漆とかろくろ(搾油器も?)を発明したなどという伝説が作られたのではないでしょうか。

三千院4 
④惟喬親王と鍛冶の関係

惟喬親王が鍛冶師の祖というのは、粟辻神社を参拝して初めて聞きました。
ですが大阪府枚方市に残る惟喬親王の伝説からも、惟喬親王と鍛冶の関係を思わせます。

枚方市の茄子作という地名は、ここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子といいますね。
徳川家ゆかりの駿河国での高いものの順(富士山、愛鷹山、初物のなすの値段)など様々な説がありますが
私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えています。

栃木県那須町の近くには足尾銅山があります。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山があります。
銅は茄子色をしています。
そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないでしょうか。
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うわけです。

鷹は鷹の爪のことでしょう。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないでしょうか。

藤は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思います。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思います。

大阪府枚方市には茄子作のほかに藤田川(とうだがわ)・高田(こうだ)・という地名があり、一富士・二鷹・三茄子が揃っているんです。

鈴は金属のスズを表しているのかもしれませんし、愛鷹は鷹の爪=水銀を表しているようにも思えます。

三千院3 

④水銀は不老不死寿の妙薬だった。

高野山には水銀の鉱脈があるそうで、それで高野山(高は「たか」とよむ。)という地名がつけられたとする説もあります。

水銀はかつて不老不死の妙薬と考えられていました。
実際には水銀を体内に大量に摂取すると水俣病になったりして不老不死どころか体に悪いのですが~。

空海が高野山を欲したのは水銀の鉱脈があったからだとする説もあります。
空海は高野山の奥の院に入定しました。
入定とは即身仏となるべく、石室などに籠ることをいいます。
入定する際には五穀をたち、木の皮や木の実のみを食べる木食という修行を行います。
脂肪を減らして死後腐りにくい体にすることを目的としていますが、水銀濃度の高い土壌で育った木や木の実には多くの水銀が含まれるということです。
そして水銀の防腐作用で、さらに腐りにくい体になるといわれます。

即身仏のメッカといえば湯殿山ですが、湯殿山の土壌の水銀濃度は高いということです。

古の人は腐らない体を不老不死と考えたのではないでしょうか。
多くのみほとけが金色に彩色されているのは、みほとけは腐らない金属の体を持っているということではないかと思います。

三千院-朱雀門 
⑤漆のお茶

私は惟喬親王も即身仏になるべく入定したのではないかと考えています。
さきほど、惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があることをお話ししましたが
入定する際には漆のお茶をのむというのです。
こうすることによって胃の中に残ったものをはき、さらに漆の防腐作用で死後腐りにくい体になるのだとか。

惟喬親王が鍛冶屋の祖としても信仰されているのは、彼が腐らない金属の体になったと考えられたんだったりして?
 
三千院2

三千院-弁財天 

三千院の弁財天像の足元に小さな祠が。中をのぞいてみると・・・

三千院-玄武? 

亀と蛇の像がありました。玄武?

そういえば惟喬親王は玄武神社の御祭神でもありました。

玄武神社 やすらい祭 『胴体がなく、首の長い神様』 

この亀と蛇の像は惟喬親王をイメージして作られたものなのかも?

三千院 
 


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[2019/11/08 13:35] 京都府 | TB(0) | CM(0)

施福寺  紅葉 『施福寺を創建したのは行満大明神?』 

大阪市和泉市 施福寺
2013年11月23日 撮影

施福寺 紅葉7 
①僧・行満

槇尾山施福寺は飛鳥時代、欽明天皇(509-571年)の勅願によって行満が創建したと伝わります。
日本への仏教伝来は552年または538年とされ、百済の聖王より伝えられたと考えられています。
そして施福寺は仏教伝来後、まもない時期に創建されたということになりますね。

行満でぐぐっても、僧侶の名前としてはあまりヒットしません。
そのかわり、大行満・行満大明神などがでてきます。

施福寺 紅葉4

②大行満は千日回峰行をした人

大行満とは密教・修験道で、千日回峰行をした人に与えられる称号です。

千日回峰行とは千日間かけて霊山を巡拝行することで、比叡山の相応和尚によって始められました。

回峰行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠を被り、白装束をまといます。
千日回峰行は一度始めたら途中でやめることができないとされ、行半ばで挫折した場合には自ら命を絶つものとされています。
白装束をまとうのはそのためであると言われます。

施福寺 紅葉6

千日回峰行に要する期間は7年間。
1年目から3年目までは、毎年100日間、1日に30キロ歩いて260箇所を礼拝します。
4年目と5年目は、同じく30キロを200日礼拝します。
その後、9日間の断食・断水・不眠・不臥の“堂入り”に入り、不動真言を唱えつづけるとのこと。
6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復を加えて、1日約60キロの行程を100日。
7年目の前半は比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼する84キロを100日。
最後の100日間は、1年目と同じく1日30キロをめぐり満行となります。

施福寺 紅葉2

施福寺は天台宗で、天台宗の総本山は比叡山延暦寺です。
延暦寺の創建は788年で、施福寺は延暦寺よりも創建が古いです。
(欽明天皇の勅願によって創建された寺なので、仏教伝来の538年から欽明天皇が崩御した571年の間に創建されたと考えられますね。)
日本の寺院は宗派を途中で変えることがしばしばありますので、施福寺が天台宗であっても不思議はないです。

施福寺 紅葉3 
③行満大明神

行満大明神を祀っているのは三重県鈴鹿市山本町の椿大神社です。参拝したことはないのですが~。

椿大神社の主祭神は猿田彦大神、相殿に皇孫・瓊々杵尊、幡千々姫命を、配祀に天之鈿女命、木花咲耶姫命を、前座に行満大明神を祀っています。

行満大明神は猿田彦の神裔で、修験神道の元祖。役行者を導いた神ということです。

大行満とは密教・修験道で、千日回峰行をした人に与えられる称号でしたね。
すると、施福寺を創建した僧・行満とは修験道の祖・行満大明神のことであるのかも?

施福寺 紅葉 

施福寺 紅葉8 



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[2019/11/06 18:39] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

11月の祭 まとめ 


日時はご確認の上、おでかけくださいね。(もう終わったのも多いですね。すすすすいません~)



京都市上京区 護王神社
亥の子祭・・・11月1日


護王神社 亥子祭

護王神社 亥子祭 行列

護王神社 亥子祭 『天子さまは二人いた。』 



京都市伏見区  城南宮
白拍子の舞・・・11月3日


城南宮 白拍子

城南宮 白拍子の舞 『北海道に旅立った義経と錫』 

京都市伏見区  城南宮
曲水の宴・・・11月3日


城南宮 曲水の宴 行列

城南宮 曲水の宴 童と歌姫

城南宮 曲水の宴 『羽觴は死者の魂の乗り物、遣水はあの世へ向かう川? 』 


大阪市中央区 難波宮跡
四天王寺ワッソ・・・2019年は11月3日
 
http://wasso.net/news/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%83%AF%E3%83%83%E3%82%BD2019%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0/

四天王寺ワッソ 2

四天王寺ワッソ 4

難波宮跡 四天王寺ワッソinなにわの宮 『日本語のルーツは古代韓国語ではないと思う。


京都御所 秋の一般公開
現在は通年公開となっています。


京都御所 碁

京都御所 采女

京都御所 蹴鞠

京都御所 一般公開 『大内裏が再建されなかった理由とは』 


京都市中京区 空也堂
空也忌・・・11月第2日曜日

空也堂 歓喜踊躍念仏

空也堂 千本六斎 六斎念仏2
 
空也堂 空也忌 『空也が愛した鹿とは平将門のことだった?』 


嵐山渡月橋一帯
嵐山紅葉祭・・・11月第2日曜日


嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛


嵐山 もみじ祭 夕霧大夫道中2

嵐山 紅葉祭 夕霧太夫道中 『難波太夫として復活した夕霧太夫』 

京都府東山区 法住寺 身代わり不動尊大祭
11月15日
 

法住寺 身代わり不動尊大祭 鬼


法住寺 身代わり不動尊大祭 護摩

法住寺 身代わり不動尊大祭 『後白河法皇の身代わりになった明雲』 


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[2019/11/04 14:55] まとめ | TB(0) | CM(0)

彦根城 紅葉 ライトアップ 『人柱になったお菊の正体とは?』 


滋賀県彦根市 彦根城
2014年11月23日 玄宮園より撮影


彦根城 ライトアップ2

①彦根城の人柱伝説

彦根城に次のような伝説があります。

1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となりました。
関ヶ原の合戦で功のあった井伊直政の息子・直継(直勝)が彦根の地を賜り、彦根城を築城することとなりました。
しかし工事ははかどらず、直継は「人柱をたてよ」と命じました。
ある藩士の娘・菊が「自分が人柱になる」と名乗り出、菊は生き埋めになりました。
その後、工事は順調に進みましたが、それ以来、彦根城に菊の花を植えてもすぐに枯れてしまうようになりました。

彦根城 ライトアップ

②伊井直政は徳川家康とBLの仲だった?

変態BL好きの私なんかは菊といえば男色を思い出してしまいます。
井伊直政は徳川家康と菊の契りをかわしていたとする説があるんですよね―❤

井伊直政は徳川家康の小姓で万千代と名乗っていましたが、小姓は男色の相手とされることが多かったのです。
また、『甲陽軍鑑』には「万千代、近年家康の御座を直す」と記されています。
「御座を直す」というのは菊の契りをかわすという意味ではないかといわれています。

彦根城 ライトアップ3 

③井伊直正、家康の小姓になって出世する。

井伊直政の父・直親は直政が2歳のときに謀反の嫌いをかけられて今川氏真に殺されました。
そこで直親の従妹の井伊直虎(大河ドラマで有名ですね。)という女性が中継ぎとして井伊氏の当主となりましたが、所領を失ってしまいます。

このように直政は不幸な幼年期を過ごしたのですが、家康の小姓になって以降、直正の人生はどんどん開けていきました。
直政は井伊氏の旧領を与えられ、井伊家は復活を遂げるのです。

直政は武田氏との戦いで戦功をあげ、旗本先手役となります。
本能寺の変では、家康の伊賀越えに従いました。
その後、井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となっています。
ひこにゃんが被っている兜は井伊直政が用いていたもので、鬼の角のような前立物から「井伊の赤鬼」と称されました。

伊吹山と伊井直正

直政は関ヶ原の戦いで家康本軍に随行し数々の手柄をあげますが、銃弾を右腕(または右肩)に受けて大けがをしてしまいました。

戦後も精力的に戦後処理などに尽力しましたが、鉄砲傷に破傷風を生じ、1602年に死亡しました。享年41歳でした。
その後、直政の息子・直継が彦根城の築城し、彦根藩(35万石)が置かれました。
彦根藩は明治まで井伊氏の藩として栄えることになるのですが、それは直政の功績と、直政が家康より寵愛を受けたことによるところが大きかったりして?


人柱になった娘・菊とは直政を女性に見立てて創作された物語なのではないでしょうか。
直政は関ヶ原の戦いで功労があったにもかかわらず、そのとき受けた怪我がもとで亡くなってしまったことを「人柱」と表現しているのかも~。
菊という名前にしたのは、直政が家康と菊の契りを結んでいたためだったりして?

彦根城 ライトアップ4 

彦根城 玄宮園2 
彦根城 玄宮園 


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[2019/11/04 00:16] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』 


京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮
2017年11月23日 撮影


離宮八幡宮 外観 
①天王山は女山?


平安時代、清和天皇は夢の中で、「九州の宇佐八幡宮より八幡神を京へご遷座せよ」というお告げを聞きました。
清和天皇は夢告げに従い、僧・行教に、八幡神の遷座を命じました。
早速行教は宇佐に向かい八幡神を奉じて帰京する途中、山崎の津で夜の山(神降山)に霊光が光るのを見ました。
その地を掘ると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建することにしました
こうして859年に「石清水八幡宮」が創祀されました。

その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の地の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになりました。

http://rikyuhachiman.org/sinryouezu.html
↑ こちらに江戸時代に描かれた離宮八幡宮の絵が掲載されています。
神殿の背後に小高い山が描かれていますが、これが神降山なのでしょう。

現在、離宮八幡宮の北にJR山崎駅があります。
そのさらに北に天王山がありますが、この天王山が神降山なんでしょうか?
天王山の中腹に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ/元山崎天王社)があって、オオヤマツミ・スサノオを祀っていますが
元々の祭神は山崎神・酒解神ということです。

離宮八幡宮の御祭神は、本殿=応神天皇、左殿=酒解大神(さかとけのおおかみ)、別称大山祇神(おおやまつみしん)、右殿=比売三神ということで、自玉手祭来酒解神社と御祭神がかぶっていますので
この天王山が神降山なのかも?(間違っていたら教えてくださーい!)

姫路城は姫山・鷺山に築かれているとのことですが、姫路城の隣には男山があるんですよ。
これと同じように、石清水八幡宮が鎮座しているのは男山ですが、これに対して女山みたいなのがあるのではないかと私は常々思っていました。

もしかして、天王山は女山?



②油祖

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになったと伝わります。
全国にこの製油技術が広まると、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜り、油の専売特許を得ました。
油を商うためには、離宮八幡宮の許状が必要であったそうです。

離宮八幡宮 油祖像 
③油を搾るしくみ
長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

向かって右下の短い棒に縄を巻き付けることによって、上部の長い棒を下にさげて力を加え、荏胡麻の油を搾るんですね。
長木 模型

離宮八幡宮 説明板より

写真向かって右の縦についている長い棒は、縄を巻き付ける道具だと思います。
この棒を前後させることによって縄を巻き付けている短い棒を回転させるのでしょう。
工学に詳しい友人に聞いたところ、逆回転防止の歯車がとりつけられているのではないか、とのこと。
長木 説明 
④搾油器とろくろ


この搾油器「長木」は木地師が用いるろくろに似ています。

ろくろ 

木地師の里 ろくろ

どちらも棒にロープが巻き付けられていますね。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。

山崎 油売り 

離宮八幡宮 説明板より

⑤「長木」を発明したのは惟喬親王?

上の絵は木地師資料館に展示されていた掛け軸で、「器地轆轤之祖神 惟喬親王命尊像」と記されていますね。

惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したという伝説があります。

しかしこの伝説は事実ではありません。
奈良時代に作られたろくろびきの百万塔が残されているからですw

ですが「惟喬親王がろくろを発明した」と人々が信じたことは間違いないでしょう。

そして、先ほどものべたように、離宮八幡宮の神官が発明した搾油器の構造はろくろに似ています。

ずばり、搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないでしょうか。
惟喬親王はろくろを発明したのと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのでは?

というのは、石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王は異母兄弟なんですよ。

どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子です。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかったのです。
しかし、時の権力者は藤原良房。源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めました。
こうして清和天皇が皇太子についたわけで、二人の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるんです。

山崎 油売り2

離宮八幡宮 説明板より

⑥八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神

宇佐八幡宮は奈良時代には「道鏡を天皇とするべし」とか「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下しています。
どうやって信託を下したんでしょうね?
巫女に託宣するのかな?

それはわかりませんが、とにかく二つの皇位継承に関する神託をくだしたわけです。

また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣がありました。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのでしょう。

で、八幡宮の主祭神である応神天皇は、伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と、応神天皇の名前を交換したという話があります。(古事記)

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思えます。
これは政権交代を意味する物語ではないでしょうか。

離宮八幡宮 門

初代神武天皇が東征して畿内入りするよりも早く、ニギハヤヒという神が天下っていたと記紀には記されています。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前に物部王朝があったという説があります。

また応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが
そのルートが神武東征ルートと重なるので、同一人物ではないかとする説もあります。

記紀は神武は天皇家の人間で九州から東征してやってきたとしていますが、九州から東征してやってきたのは物部氏だったのかもしれません。

実際の天皇家は九州からではなく福井県敦賀あたりからやってきたのだったりして?

すると応神天皇が皇位継承の神として信仰されているのは、
彼が物部王朝の王であったが、彼が身を引いたため、イザサワケが皇位について政権交代したため、
だとも考えられますね。

そして惟喬親王も身をひくことで、清和天皇の即位をもたらしたと考えられたのではないかと思います。

清和天皇の生没年は850~881年です。
石清水八幡宮が創建された859年、清和天皇はまだ9歳です。
石清水八幡宮の創建には清和天皇の外祖父・藤原良房が関わっていると考えるのが妥当だと思います。

そして藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭ったということではないでしょうか。

日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとする考え方がありました。
石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲です。
このことも、「藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭った」という説を裏付けると思います。

離宮八幡宮 神馬 

⑥惟喬親王の水無瀬の離宮

また近所には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っています。

そして伊勢物語の第八十二段には、こんな話が記されていますよ。

惟喬親王は在原業平や紀有常らの寵臣とともに、水無瀬離宮から交野ケ原へ向かい、渚の院で歌会を開いたと。

水無瀬は惟喬親王ゆかりの地なんですね。
そして、水無瀬は離宮八幡宮から近いです。
離宮八幡宮という名前は、嵯峨天皇の離宮があったところからつけられたといいますが、本当は惟喬親王の離宮があったところからつけられたんだったりして?

 粟辻神社


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[2019/11/01 23:36] 京都府 | TB(0) | CM(0)

大利神社 寝屋川ハロウィンフェスタ 『白菊明神という名前の由来は?』 


大阪府寝屋川市 大利神社
寝屋川ハロウィンフェスタ ハロウィンに近い日曜日(ご確認の上、おでかけくださいね)


寝屋川ハロウィンフェスタ 時代仮装パレード7 
神社deハロウィン♪

①大歳神を祀る神社

大利神社の御祭神は大歳神、菅原道真公、大国主大神(大黒天)、事代主大神(恵美須神)です。
大利神社という表記は、大歳神の「大歳」に同音異義語の漢字をあてたのでしょう。

大歳神は古事記に登場する神で、父親はスサノオ、母親は神大市比売(オオヤマツミの娘)で、宇迦之御魂神(」ウカノミタマ)は妹神です。

毎年、正月にそれぞれの家にやってくる神と考えられ、お歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神等とも呼ばれます。
また穀物神、祖霊としても信仰されました。

古語拾遺には、こんな話が記されています。

大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神(大歳神)の祟りで枯れそうになったが
大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂った。


大歳神って祟る神だったんですね~

寝屋川ハロウィンフェスタ 時代仮装パレード3 
商店街に飛鳥時代の人々が登場!

②白菊大神

境内には白菊大神を祀る稲荷宮がありました。

大利神社 稲荷宮(白菊明神) 
写真奥が稲荷宮。手前は皇大神宮。

なぜ大歳神社に白菊大神が祀られているんでしょうか?
最初、私は白菊から大歳神社の御祭神でもある菅原道真を思い浮かべました。
岡野玲子さんの漫画「陰陽師」で怨霊になった菅原道真がでてきて、「私の白菊好きを知っているのか」みたいに言うシーンがあったのでw

天満宮にいくとたいてい白太夫社があります。
白太夫とは道真を慕い道真に従って大宰府にやってきた度会(わたらい)春彦のことです。

道真に従って大宰府にやってきた人物としては味酒保行もいます。
彼は道真の死後50年も道真の墓守をしたとされています。

なんかBLっぽいですよね❤
で、BLのシンボルといえば菊、という発想だったのです❤❤

でも、白菊大神は道真とは関係なくて、伏見稲荷神社と関係のある神社のようです。(恥~~)
伏見稲荷大社の御祭神は宇迦之御魂神で、大歳神の妹神ということで祀られているのではないでしょうか?

伏見稲荷大社の三ノ峰には白菊大神の稲荷社があるようですし、東京の築土神社の境外末社には白菊稲荷神社があるとのことです。

寝屋川ハロウィンフェスタ 時代仮装パレード5

③食(き、く、け などと古代に発音)

なぜ白菊大神というのでしょうか。伏見稲荷大社の白菊大神の名前の由来はわからないとのことです。

知恵袋に「稲荷神社はなぜキツネを信仰するのですか?」という質問があり
次のような回答がついていました。
 
稲荷神

稲神

米の神

食の神

食(き、く、け などと古代に発音)

食神(き つ(つ=古代語の接続語つまり”の” 神)

きつ神

きつね神

つまり、稲、食を象徴する

「食(き、く、け などと古代に発音)」とあるのにご注目。
食べるを「き」「く」「け」などと発音していたので、「きく」となったのかも?

寝屋川ハロウィンフェスタ 時代仮装パレード6 

④白菊大神の「菊」は白をあらわす?

伏見稲荷大社は白のつく神が多いみたいで白狐社や、白旗大明神などもあります。

白髪のことを、九十九髪(つくもがみ)といいます。
そのココロは、百 引く 一 は 九十九(100-1=99)
うまい! ざぶとん2枚!

そして白髪=九十九髪は付喪神(つくもがみ)の掛詞となっています。
器物は100年を経ると精霊がつくという信仰があり、それらの妖怪を付喪神と言っていたのです。

菊理姫という神様がいますが、「くくりひめ」と読みます。
九十九は九九と書いてもよさそうですが、九九は「くく」と読めますね。

白菊大神の「菊」は白、または九九、付喪神をあらわしていたりして?

そういえば、大歳髪は祟る神で、「大地主紙が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂った。」という話があるのでしたね。

何か関係がありそうです。

寝屋川ハロウィンフェスタ 時代仮装パレード4

寝屋川ハロウィンフェスタ 時代仮装パレード2 
寝屋川ハロウィンフェスタ 時代仮装パレード 
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[2019/10/31 15:31] 大阪の祭 | TB(0) | CM(0)