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東光寺 屏風岩 棚田 猪名川町立ふるさと館 『日本人は何を食べてきたのか?』 

兵庫県猪名川町 東光寺 屏風岩 棚田 ふるさと館
2018年10月中旬 撮影


東光寺 門  

東光寺

①木喰仏

天乳寺・東光寺に立ち寄って木喰仏を拝観してきました。
どちらのお寺もお堂はしまっていましたが、インターホンを鳴らしてお願いすると、快く拝観させてくださいました。(ありがとうございます!)

木喰(1718~1810)は遊行僧で、全国を遊行し各地に一木造の仏像を残しました。
天乳寺には勢至菩薩・聖観音、自刻像、東光寺には十王尊・白鬼・葬頭河婆、自刻像、立木子安観音が安置されていました。

東光寺 案内板 イラスト 

東光寺付近の案内板に描かれていた木喰上人自刻像



十王とは地獄の裁判官である秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・御同転輪王のことです。
葬頭河婆は奪衣婆(だつえば)ともいい、三途の川(葬頭河)で亡者の衣服をはぎ取る老婆です。
奪衣婆は盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取ります。
これを懸衣翁という老爺が衣領樹にかけます。
亡者の衣の重さはその者の生前の業を示し、その重さによって死後の処遇を決めるのだとか。

白鬼は地獄で責め苦を行う鬼だと説明していただきました。

東光寺付近 コスモス 

東光寺付近 コスモス

②木食戒

木喰上人という名前は、彼が師の木食観海から木食戒を受けたことに由来するのではないかと思います。

木食戒とは、穀物を絶って木の実・草のみを食べる修行のことをいいます。
こうすると脂肪がへって死後腐りにくい体になるので、入定の前などにも行ったようです。
しかし彼が入定したという記録はなく、93歳で亡くなったそうです。

猪名川町 棚田 

東光寺付近 棚田

③日本の庶民は白米ではなく分つき米を食べていた。

さて、今日は木食戒において食べることが禁じられた穀物についてです。

穀物とは、澱粉質を主体とする種子を食用とするものの総称でコメ、ムギ、アワ、マメ、キビなどをさします。

最近の日本ではコメ離れが進んでいるなどと言われますが、先日友人が「日本人の民衆は米ではなく、稗や粟を食べてたんじゃないか」と言うのです。
そうかもしれない、と思って調べてみました。

猪名川民族資料館 千枚こぎ 
猪名川町立ふるさと館 千枚こぎ

日本の稲作は縄文時代晩期から弥生時代早期にかけて始まったとされます。
しかしこのころは玄米を食べていたようで、精製米が食べられるようになったのは飛鳥時代とされます。
このころの米は古代米と呼ばれる赤や紫の色をした米でした。
現在でも販売していますが、白米にこれらの古代米をまぜてたくと色合いも美しく、もちっとした食感がとてもおいしいです。
臼に杵で精米した米は「舂米」(しょうまい/つきしね/つきよね)と呼ばれ、宮廷で働く人の給料として支払われていました。

米の品種が白米になったのは奈良時代頃です。
「白米」は「しらげのよね」と読み、貴族階級の人が食べていました。

古代から明治時代にかけの精米は臼と杵でつくというものでした。
この精米の作業には大変な時間と労力がかかるため、庶民は少し精米した分づき米(黒米)に、稗・粟などを混ぜて食べていたようです。

なぜ玄米ではなく分つき米なのかというと、臼と杵でつくという精米方法では現代の精米機のようにもみがらをきれいに取り除いた玄米はできなかったと考えられるからです。

米に稗や粟をまぜていたのは、米を税として納める必要があり、十分な量がなかったためと考えられます。

 猪名川民族資料館 千枚こぎ2

猪名川町立ふるさと館 足踏回転式脱穀機


④江戸患い=脚気


江戸時代、政治が安定したこと、農具が発達したこと(三又に分かれた備中鍬、千歯扱の発明など)、新田開発(17世紀初164万町歩→18世紀初297万町歩)などから米の収穫量が増え、庶民も白米を食べるようになってきました

当時、おかずは漬物程度であったとされ、白米を食べるようになったことから、ヌカに含まれるビタミンB1が摂取できなくなり
「脚気」になる人が増え「江戸患い」と呼ばれました。

猪名川民族資料館 農具2 
猪名川町立ふるさと館 
左は種をまく道具だと思います。よく考えられていますね。


⑤地域で異なっていた食生活

ただし、地域による差があったようで、戦前は雑穀・芋を主食にしていた人も多く、関東の畑作地帯では麦を7割から8割の麦飯を食べていたようです。
東京杉並区では大正時代以前は稗を栽培しており、稗と麦を中心に食べていました。
一方、明治の初め秋田県権令島義勇の政府への報告書のなかに、「県民は山間僻地でも白米を食している……」とあります。

猪名川民族資料館 農具 
猪名川町立ふるさと館 一斗升(左)丸型一斗升(中央)俵締め機(右の輪状のもの)
さお秤(手前)八個ならんでいるのはハッチンボウ(俵を編む道具)

ある人が、日本人は伝統的に米を食べてきたので、米が体にあっているはずだ。米を食べるべきだとおっしゃっていましたが
厳密には、貴族は白米、庶民は黒米や稗・粟などを食べてきた、というべきでしょう。
そして白米を食べることによって、ビタミンb1不足を引き起こし、脚気という病気にもなっています。
現在の私たちが白米を食べても脚気にならないのは、おかずで栄養を補っているからなんですね。

そういうことを考えると、「日本人は伝統的に米を食べてきたので、米が体にあっているはずだ。米を食べるべきだ」というのは少し雑な意見のように思えます。

ふるさと館 脱穀機 
猪名川町立ふるさと館 脱穀機

猪名川 ふるさと館 水車 

猪名川町立ふるさと館 水車

猪名川 屏風岩 
屏風岩

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[2018/10/16 18:02] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)

池田城 水月公園 夕景 『河童は薬師如来の化身だった?』 

大阪府池田市 池田城 水月公園
2018年10月初旬撮影

水月公園 夕日  
池田城 夕日

①呉からやってきた織女たち

日本書紀にこんな記述があります。

応神天皇20年、阿知使主(あちのおみ)と阿知使主の息子・都加使主(つかのおみ)を呉(くれ/華南、当時の中国の呉あるいは東晋、南朝)に派遣した。
親子は高麗(高句麗)に辿り着いたが、呉までの道順がわからなかったので道案内を求めた。
そこで、髙麗の王は、久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二名を随伴させた。
呉に到着した二名は、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の4人の裁工女を日本に連れ帰った。

(日本書紀)

この4人の裁工女のうち、呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)は現在の大阪府池田市にやってきて、
織物の技術を伝えたという伝説があります。
ふたりは神として呉服神社と伊居太神社に祀られています。

池田城 夕景 
池田城夕景

②池田は渡来人秦氏が住み着いた土地だった?


池田は古名を「呉羽里」(くれはのさと)といい、『和名類聚抄』には、豊能郡「泰上郷」(はたのかみごう)・「泰下郷」(はたのしもごう)という地名が記されています。

おそらく、池田には渡来人秦氏が多く住んでいたのでしょう。

秦氏は日本に渡来して建築・土木など大陸の先進技術を伝えたとされます。
その秦氏の先進技術の中に養蚕・絹織物の技術もありました。

そういったところから、池田に呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の伝説が生じたのではないでしょうか。

水月公園 夕景 
水月公園 夕景

③織姫と河童の民話

http://rikachanhouse.com/3669.html%E3%80%8D

上記「いけだより」さんに、次のような内容の民話が記されています。

1700年前、遠い国から織物技術を伝えるため、二人の姉妹が池田にやってきた。
姉妹はお守りの薬師如来をかわるがわる抱きしめて苦しく長い航海を乗り越えた。
池田にやってきた姉妹は熱心に機織りをした。夜は七つの星がおりてきて手元を照らした。
ある日、姉妹は井戸が輝くのを見ているうちに、井戸に落ちてしまった。
井戸の中にはイケメンのふたりの少年がおり、少年たちは姉妹に「井戸はどこにでもつながっているので、行きたいところに連れていってあげる」といった。
姉妹は「故郷に帰りたい」というと、少年たちは龍を呼んだ。龍は背中に四人を乗せて井戸の中を飛び、姉妹の故郷へ連れていった。姉妹は両親が健やかに過ごしているのを確認し、池田に戻った。
少年たちの正体は河童で、井戸に落ちて来た人の血を吸ってやろうと考えていたのだが、姉妹があまりに美しいので役に立ちたいと考えたのだった。
河童たちは姉妹に正体をあかすことができず早死にしてしまった。姉妹は100歳以上長生きした。龍は井戸や五月山で暮らしていたが今は大光寺の山門の上で休んでいる。


この民話は呉織・穴織伝説をベースにして作られたものなのでしょう。

清水寺 青龍会2 

清水寺 青龍会
④昔の河童はカワウソの妖怪だった?

ということで、今日は河童の話です!(前振りが長い~)

河童と言うと緑色で背中に甲羅があり、頭にお皿をのせた妖怪を思い浮かべますが、
河童がこういう姿になったのは、18世紀ごろのことのようです。

というのは、こんな文献があるそうなんですね。

『下学集(1444年)』・・・「カワウソ老いて河童(カワロウ)に成る」。
日葡辞書(1603年~1604年)』・・・カワラゥ/川に棲む猿に似た獣の一種。

海遊館 こつめかわうそ 
海遊館 コツメカワウソ

⑤河童の特徴
江戸時代以降の一般的な河童の特徴をあげてみます。

a.子供のような体格
b.全身緑色または赤色
c.頭頂部に皿がある。皿が乾くと脱力したり、死ぬ。
d.口は短いくちばし。
e.背中に甲羅がある。
f.手足に水かきがある。
g.肛門が3つある。
h.生臭い。
i.キュウリが好物。
j.相撲が得意
k.土木工事を手伝う。
l.河童を助けた人間に魚を贈った。
m.薬の製法を教えた。
n.溺れた人の尻小玉を抜いて食べる。


Kappa jap myth

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kappa_jap_myth.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Kappa_jap_myth.jpg よりお借りしました。
作者 Toriyama Sekien (Japanese, *1712, †1788) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


⑥河童は亀の妖怪?

b.全身緑色または赤色
d.口は短いくちばし。
e.背中に甲羅がある。
f.手足に水かきがある。
h.生臭い。


これはズバリ、亀の特徴ですね。

亀の中には口がくちばしのように見えるものがありますし、水中で生活する亀の手足には水かきがついているそうです。

海遊館 亀 

海遊館 亀

⑦河童の頭に皿があるのはなぜ?

c.頭頂部に皿がある。皿が乾くと脱力したり、死ぬ。

とありますが、河童の頭に皿があるのはなぜでしょうか?
これは a.子供のような体格 と関係があると思います。

「おかっぱ」というヘアスタイルがありますね。

大和な雛祭 菊屋さんの雛人形 
大和な雛祭にて


「おかっぱ」とは、上の人形のようにサイド・バッグを同じ長さに切りそろえ、前髪は眉あたりで切りそろえる髪型のことです。
しかし、もともとのおかっぱはこの写真とは違い、頭頂部の髪を丸く剃った男の子の髪型のことを「おかっぱ」と言っていたようです。
しだいに頭頂部を剃らない髪型のことも「おかっぱ」というようになり、女の子のヘアスタイルも「おかっぱ」というようになったようです。

「おかっぱ」は「御河童」と書き、河童に似ているところからこの名前があるといわれますが
河童は江戸時代の男の子の妖怪なので、この髪型をしていたのではないかと私は思います。

つまり、こういう流れではないかと思うわけですね。

1.頭頂部を剃る男の子のヘアスタイルがもともとあった。
     ↓
2.男の子の妖怪なので、河童は頭頂部を剃った髪型の妖怪として創作された。
     ↓
3.頭頂部を剃る男の子の髪型を御河童というようになった。

八坂神社 石見神楽 大江山 坂田金時

おかっぱ頭の金太郎 八坂神社 石見神楽より


 ⑧河童が尻小玉を抜くとは?

尻小玉とは人間の尻のあたりにあると考えられていた臓器のことですが、もちろん、本当にそんな臓器があるというわけではありません。

人間に尻小玉という臓器があると考えられたのは、溺死した人のお尻の穴は肛門括約筋が緩んで開いてしまうので、それを河童が尻小玉を抜いた状態であると考えたようです。
 
Triad of Yakushi Nyorai

薬師三尊像

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Triad_of_Yakushi_Nyorai.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3b/Triad_of_Yakushi_Nyorai.JPG よりお借りしました。
  
作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者)English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous  photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で 
 

⑧河童の正体は薬師如来だった?

私は河童の正体とは薬師如来ではないかと思うのです。
池田の民話では姉妹がお守りの薬師如来をかわるがわる抱きしめたとありますね。
そのお守りの薬師如来の化身が河童ではないでしょうか。

その理由を説明します。

①河童が薬の製法を教えたという伝説がある。(m.薬の製法を教えた。
②河童は手足に水かきがあります(f.手足に水かきがある。)が、薬師如来にも水かき(まんもうそう)があり、水と関係が深そうに思えます。
③河童は亀の妖怪だともかんがえられますが(b.全身緑色または赤色・d.口は短いくちばし・e.背中に甲羅がある・f.手足に水かきがある・h.生臭い。)、淳和天皇の勅願によって829年に創建された京都の亀龍院は、近世、亀薬師という亀に乗った薬師如来を本尊とするようになっています。
http://kame.rakusaba.jp/yakusi/yakusi06.htm
④薬師三尊像は東に日光菩薩・中央に薬師如来・西に月光菩薩を配置する安置スタイルのことをいいます。
一方、記紀神話によればイザナギの左目(東)から天照大神が、イザナギの右目から月読命が、イザナギの鼻からスサノオが生まれたとしており、日光菩薩と天照大神、月光菩薩と月読命、薬師如来とスサノオが習合されているように思われます。

東(左)日光菩薩左目天照大神
中央薬師如来スサノオ
西(右)月光菩薩右目月読命

スサノオは京都の八坂神社の御祭神ですが、八坂神社の紋がキューリに似ているので、八坂神社の祭礼である祇園祭の期間中はキュウリを食べてはいけないなどと言われています。

河童の好物がきゅうり(i.キュウリが好物というのは、ここからきてはいないでしょうか。

j.相撲が得意については、愛媛県で薬師如来奉納相撲(後八日相撲大会)という150年の歴史を持つ行事や
宮崎県には明治以降行われている長野薬師尊の長野薬師相撲大会などがあります。

だけどg.肛門が3つある はなんでなんでしょうね?三本足の八咫烏と関係ある?

水月公園 夕景2 
水月公園 夕景


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[2018/10/11 17:42] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

箱館山 コキア ダリア 『ほうきと葬式の関係』 


滋賀県高島市 箱館山
2018年9月下旬 撮影

箱館山 ロープウェイ 

ゴンドラで箱館山山頂へ!

箱館山 リフト コキア2 
丸くて
ふわふわもふもふしてるのはコキア。

①コキア(ホウキギ)


コキアという名前、まるくてもふもふしたかわいい姿。
ヨーロッパの風景に似合いそうですが、やはり原産地はヨーロッパだそうです。
日本へは中国より食用として渡来したということですが、それがいつごろなのかは、調べてもわかりませんでした。
しかし江戸時代には、実は食用、茎は箒(ほうき)に利用されていました。
コキアの日本名をホウキギというのはそのためだったんですね~。

箱館山 リフト コキア3

秋田県の特産品「とんぶり」はコキアの実を加熱加工したもので、「畑のキャビア」とも呼ばれているそうですね。
一度食べてみたいです。

箱館山 リフト コキア

②魔女の箒はハレー彗星を比喩したものだった?

えー、今日はコキア=ホウキギにちなみ、箒(ほうき)の話をしたいと思います。

ヨーロッパの魔女は箒に乗って飛びますが、この箒はコキアの箒なのだとか。

私は魔女が乗る箒とは彗星の比喩ではないかと考えています。
彗星は別名を箒星ともいいました。
長く尾をひく姿が箒のように見えるので箒星とよばれたのでしょう。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

彗星はまるで空飛ぶ箒のようではありませんか?

684年10月2日(グレゴリオ暦)に日本でハレー彗星が観測されています。
その後の11月29日(グレゴリオ暦)20時から21時ごろ、太平洋沿岸にマグニチュード8クラスの大地震が起きました。(白鳳地震・天武地震)

山崩れ、河涌き(液状化現象?)、多くの建物が倒壊し、道後温泉や南紀白浜温泉は土砂に埋もれて湧出が止まりました。
土佐は津波に飲み込まれて田畑約12km2が海中に没し、調を運ぶ船が多数流失するという大参事。

彗星は白鳳地震の前触れにちがいない!
古の人々はそう考えたのではないかと思います。

箱館山 野草2

これは何という植物でしょう?ご存じの方、教えてください!

記紀神話には星の神は天津甕星たった一柱しか登場しませんが、この神は天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した悪い神とされています。

天津甕星が悪い神であれば、彗星もよくないことの象徴だと考えられたことでしょう。
実際、ハレー彗星が観測されたあとに白鳳地震がおきて大惨事となっていますし。

西洋でも彗星はよくないことの象徴と考えられ、魔女の乗り物とされたのではないでしょうか。
 原田神社 獅子神事 『天武地震とハレー彗星』  

箱館山 野草 
③葬式になぜ「ははきもち」(箒持ち)が登場するの?

記紀神話にアメノワカヒコという神様の葬儀のようすが記されています。
それによると、カワカリが食べ物を運び、サギはほうきを持ち、カワセミは神饌を用意し、スズメは米をつき、キジは泣き女をつとめたとあります。

箱館山 白いダリア 
ダリアも見ごろでした。

「サギはほうきを持ち」という記述から、サギを掃除係だとしているサイトもありましたが、
ほうきは祓い浄めるための神具であって、掃除をするために持っているのではないと思います。
サギは浄めの儀式を行うために箒を持っているのではないでしょうか。

箱館山 ピンクのダリア

相撲の土俵入りの際には呼び出しが箒で土俵を掃きますが、これは単なる掃除ではなく、浄めの儀式であると考えられています。

赤ちゃんが産まれたときに、箒を贈る習慣や
妊婦の腹を箒で掃いたり、遺体の足の上に箒をおくなどの習慣もありますが、これらも浄めの儀式だといえるでしょう。

 箱館山 オレンジ色のダリア

④箒をたてておくのは「死ね」というまじない?

京都では早く帰ってほしい客人があるときは、ほうきを逆さにして立てておくそうです。
帰ってほしい客人を穢れとみなし、ほうきで祓い浄めるという意味もあるでしょうが
葬式のははきもち(箒持ち)を意味しているのかもしれません。

箱館山 黒いダリア

「消えて無くなれ!(死ね!)」ということなのかも・・・
京都の人の家に行って長居をすると、死ねというまじないをかけられますから、さっさと帰るようにしたほうがよさそうですw

箱館山 案内板

箱館山に置かれていた案内板

竹生島 月 
 中秋の名月の日は夜9時まで営業しています。(普段は夕方5時まで)
あいにくの曇り空で月はこんな感じでちょろっと見えただけでした~
でも琵琶湖・竹生島から望む月は長年のあこがれだったので、ちょろっとだけでも見えてうれしかったです。


箒とちりとり 


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[2018/10/09 15:13] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥 光の回廊 飛鳥 光の大道芸 『火の神の棲む山?』 

奈良県明日香村 あすか風舞台 (石舞台横)
飛鳥光の回廊…2018年 9月23日


飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス
 

炎のパフォーマンス集団火炎ーBanvieng さんによる迫力のファイアーダンス!

①ひょっとこは火男だった?


日本の火の神としては、ひょっとこがいます。
ひょっとこは火男がなまったものだともいわれ、突き出した口は火をおこす際に風を送っているのだと説明されることもあります。
京都の夏の風物詩・六斎念仏の演目「祇園囃」にはおかめとひょっとこが登場し、ひょっとこが火の用心の巻物を広げたりしますよ。

梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ 

梅宮大社 梅津六斎

②火の神・ガクツチは天香具山の「香具」や「かぐや姫」の語源?

そのほかの日本の火の神としてはカグツチがあります。

イザナミは火の神・カグツチを出産する際、ほとに火傷を負って死んでしまいます。
イザナギはこれに激怒してカグツチを切り殺してしまいました。


カグツチは、火をおこすのに用いられていた火鑽杵(ヒキリギネ)を神格化したものではないかという説があります。
火鑽杵とは火鑽臼(うす)にあてて回転させる棒(おもにヤマビワの木が用いられる)のことで、火鑽臼と火鑽杵が擦り合わさることで発火します。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

御火鑽具(みひきりぐ)を用いて木と木をすり合わせる舞錐式発火法(まいきりしきはっかほう)とのことですが、
木地師が用いる轆轤のような道具で火鑽杵を効率よく回転させる様子に目が釘つけになりますね~。

火鑽杵は男性、火鑽臼は女性で、火をおこすようすを男女和合に喩えたのではないかと言う説もあります。

また、カグツチのカグは大和三山のひとつである天香具山の「香具」や「かぐや姫」の語源ではないかと言われています。

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス

③天香具山は火山ではなかった。

こう聞いて、私は一瞬「えっ、天香具山って昔火山だったの?」と思いました。
火を噴く火山であれば、カグツチの名前をつけるにふさわしいじゃありませんか。

しかし、実際には大和三山の中の畝傍山と耳成山は死火山だそうですが、天の香久山は火山ではなかったようです。

藤原京跡 蓮

天香具山
 

③天香具山は鉱山だった?


『古事記』に次のように記されています。

すると高天原はすっかり暗くなり、
葦原中国あしはらのなかつくにもすべて闇になった。こうしてずっと夜が続いた。
そして大勢の神々の騒ぐ声は夏の蠅のように充満し、あらゆる災いがことごとく起こった。
そこで八百万の神々が、天の安の河の河原に集まり、
高御産巣日たかみむすひの神の子、思金神おもひかねのに考えさせて、
常世とこよ長鳴鳥ながなきどりを集めて鳴かせ、天の安の河の川上にある堅い岩を取り、天の金山かなやまの鉄を採って、鍛冶職人の天津麻羅あまつまらを捜して、
伊斯許理度売命いしこりどめのに命じて鏡を作らせ、玉祖命たまのおやのに命じて八尺の勾玉をたくさん長い緒に通して作った玉飾りを作らせ、
天児屋命あめのこやねの布刀玉命ふとだまのを呼んで、天の香山かぐやまの雄鹿の肩の骨を抜き取り、天の香山のうわみず桜の木を取ってその骨を灼いて占わせ、
天の香山の枝葉の茂った榊を根こそぎ掘り起こしてきて、上の枝には八尺の勾玉をたくさん長い緒に通して作った玉飾りを取り付け、
中の枝には
八尺鏡やたかがみを掛け、下の枝にはこうぞの白い幣帛と麻の青い幣帛を垂れかけ、これらさまざまな物は、布刀玉命が神聖な御幣として捧げ持ち、
天児屋命は神聖な祝詞を唱えて寿ぎ、
天手力男神あめのたぢからをのは戸の脇に隠れて立ち、天宇受売命あめのうずめの天の香日蔭鬘ひかげかずらたすきにかけ、
天の
真拆葛まさきかずらを髪飾りとして、天の香山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸いわやとの前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、
神がかりして乳房を掻き出し、裳の紐を女陰まで押し垂らした。
すると、高天原が鳴動するばかりに、八百万の神々が一斉にどっと笑った。


https://kojiki.ys-ray.com/1_6_2_ihayato_gomori_4.html より引用

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス

「天の香山」は「天の香具山」と読まれ、大和三山の香具山を神話の世界に持ってきたもの、と一般には考えられています。

「天の金山(かなやま)」は鉱山のことと考えられていますが、西郷信綱さんは『古事記注釈 第一巻』の中で「カナヤマがカグヤマに転化したのではないか」と考察されているそうです。
つまり、天の金山は天香山であり、天の香山で鉄が採取さてたということ・・?

『日本書紀』の一書には、「 石凝姥(イシコリドメ)を冶匠とし、天の香山の金を採って日矛を作らせた」とあります。
ここにある金とは鉄のことと解釈されています。

天の香具山は鉱山だったのでしょうか?

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス 

④火葬されたわが身を嘆く歌

天の香具山が鉱山だったのかどうか、2日調べましたが、わかりませんでした~。
しかし、閃いたことがありました。

百人一首に持統天皇が詠んだこんな歌があります。

春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)

旧暦では春は1月2月3月、夏は4月5月6月でした。
旧暦は新暦よりおよそ1か月遅れとなりますので、新暦に換算すると5月ごろに詠んだ歌だと考えられます。

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス 
ん?んむむむ?

持統天皇の「春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という歌には、もうひとつ裏の意味がかくされていることを発見しました!

ヒント・・・持統天皇は天皇としては初めて火葬された方です。

もうおわかりですね~。

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス p

 「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味でしょう。
「夏」は五行説では「火」です。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことだと思います。死に装束は白です。

持統天皇の歌には表の意味のほかに、「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている衣をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」
という裏の意味が隠されているのではないでしょうか。

もちろん、死後に歌を詠むことはできません。
持統天皇の死後、誰かが持統天皇の身になって詠んだか

あるいは持統天皇が生前に軽い気持ちでこの歌を詠み
「この歌を詠んだため、言霊が作用して持統天皇は火葬されてしまった」のだと世の人々は考えたのか
どちらかだと思います。

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス

⑤火葬と火の山・香具山をかける?


④については、以前の記事・藤原京跡 コスモス 蓮 『持統天皇が火葬されたわが身を嘆く歌』 にすでに記していました。
今回のひらめきは、天の香具山が火の神・カグツチの山で、火葬と火の山=香久山をかけてあったということです。
古代人は、山や植物など、意味なく歌に用いるということをどうやらしなかったようです。
古代人はひとつの山、小さな植物にも意味をこめて歌を読んでいたと考えられるのではないでしょうか。

香久山は火の神・カグツチの山だと考えられるので、火の山だという信仰があったのかもしれませんね。


飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス 

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス2 

飛鳥 光の回廊 ファイアーダンス 石舞台 
↑ これは合成


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[2018/10/06 11:19] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

2018年 10月の風景 祭 まとめ 

住吉大社 観月会 『柿本人麻呂は水死していない?』 

住吉大社 観月会 住吉踊 
住吉踊

住吉大社 観月会 -振鉾

天王寺舞楽 振鉾

唐招提寺 観月讃仏会 『月となって輝く長屋王・道鏡・玄昉の霊?』 

唐招提寺 観月会2

法起寺 夕陽と月 『月は東に 日は西に』 

法起寺 夕陽

法起寺 月2

枚方宿 ふとん太鼓 『伊香色女は卑弥呼、伊香色男は卑弥呼の男弟のイメージで創作された?』 

枚方 ふとん太鼓2

粟田神社 粟田祭 神幸祭 『藤原氏の土地乗っ取り伝説』 

粟田神社 神輿2

粟田神社 鉾さし

梨木神社 萩 『浮穴媛のこどもたち』 

梨木神社 萩3

大聖寺門跡 白萩 『足利義満は天皇になろうとした?』 

大聖寺門跡 萩3

真如堂 紅葉 法伝寺 萩 『狐と北斗七星』 

真如堂 法伝寺 萩

真如堂 三重塔 紅葉

妖怪ストリート(大将軍商店街) 『付喪神と終い天神』 

妖怪ストリート

わら天神 紅葉 『わら天神は藁人形と関係ある?ない?』 

わら天神 紅葉

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[2018/10/03 00:00] まとめ | トラックバック(-) | コメント(-)

川原寺 彼岸花 飛鳥光の回廊2018 『飛鳥に置き去りにされた寺』 

 
川原寺 彼岸花 

川原寺 彼岸花

①川原寺の謎

棚田と道路を挟んで橘寺の北側に川原寺があります。

この寺は謎の多い寺で「謎の大寺」と呼ばれています。その謎とは・・・

a.日本書紀に創建の記述がない。
b.川原寺は、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と並ぶ飛鳥の四大寺とされる。
 平城京遷都の際、ほかの三寺は移転したが、川原寺のみ飛鳥にとどまった。
c.伽藍配置は一塔二金堂式の特異なもの(中金堂の手前右(東)に五重塔、西に西金堂が建つ。)
d.中金堂の礎石には大理石の礎石が使用されている。(寺伝は瑪瑙と記している。)
e.川原寺の裏山の板蓋神社から、千数百点におよぶ塑像の断片や塼仏が発掘された。
 川原寺裏山からは、20cm×20㎝ほどの板状の塼に三尊仏を浮き彫りにした三尊塼仏が大量に発掘されている。
 このような例はほかにない。
 仏堂の壁面を塼仏で埋め尽していたという説が有力。

 川原寺 夕景 
川原寺 夕景

②平城遷都後、興福寺が弘福寺にとってかわった?

昔、梅原猛さんの「隠された十字架」の中で川原寺について述べられていたと思いますが、内容を忘れてしまいました・・・。
本は誰かに貸して戻ってこず、手元にないので、近々図書館で借りて読み直そうと思います。

ですが、インターネットをぐぐってみると、次のような内容がでてきました。

平城京移転にともない、飛鳥の三寺院(薬師寺・法興寺・大官大寺)も移転した。
薬師寺はそのまま薬師寺と称したが、大官大寺は大安寺、法興寺は元興寺と改称された。

本薬師寺跡 

本薬師寺跡 布袋葵

薬師寺 日の出 

薬師寺 日の出

方興寺は「法が興った寺」という意味だろうが、改称された元興寺というネーミングは「元興った寺=古びた寺」という印象で屈辱的である。

元興寺 萩 
元興寺 萩


飛鳥の四大寺のうち、川原寺は移転せず、かわりに山階寺が移転して興福寺と称した。
川原寺は別名を弘福寺という。広福寺は「ぐふくじ」とよむが、「こうふくじ」とも読め、興福寺が弘福寺にとってかわったようにも思える。


興福寺 夕景 
興福寺 夕景

「隠された十字架」にこのような内容が書かれていたように思いますので、それを参考に記されたものだと思います。

加藤優さんの「興福寺と伝戒師招請」関晃先生古希記念会編『律令国家の構造』、吉川弘文館、1989年 には次のような内容が記されているそうです。

唐で「弘福寺」が「興福寺」と改名された事例がある。奈良の興福寺は飛鳥に留まった川原寺(弘福寺)を移転・継承する意図も含まれていたのではないか。

③二金堂を三金堂にグレードアップ?

川原寺の伽藍配置は一塔二金堂式、2つの金堂がありました。

金堂とはご本尊を安置する建物で、一つの寺に一つの金堂が置かれるのが一般的です。
川原寺のように金堂が二つあるというのは珍しいのです。
あと珍しいケースとしては興福寺があります。
興福寺にはかつて中金堂・東金堂・西金堂の3つの金堂がありました。
川原寺(弘福寺)のかわりに奈良に移転されたのが興福寺でしたね。
川原寺(弘福寺)の二金堂をグレードアップして、興福寺は三金堂にしたのかも?

川原寺 飛鳥光の回廊2018 
川原寺 飛鳥光の回廊2018

④川原寺は橘寺と関係がある?


上の地図を見ていただくとおわかりいただけるように、川原寺は橘寺と対面するように建てられています。

橘寺は聖徳太子が創建したと伝わりますが、発掘調査結果などから、天智天皇代創建の可能性が高いとされています。
そして橘寺は川原寺と対を成す尼寺として建立されたのではないかとする説が有力です。

橘寺のご本尊は聖徳太子です。

ということは、川原寺もまた聖徳太子信仰の寺であったと考えられるのではないでしょうか。

川原寺の現在の本尊は十一面観音です。この十一面観音は聖徳太子と同一視されていたのではないかと思ったりします。
(かつての川原寺の本尊は十一面観音でなかった可能性もありますが)

橘寺 彼岸花 
橘寺 彼岸花

そう考えるのは、かつて京都北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺に次のように記した石碑が建てられているからです。
「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」
天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことだと思います。
本地仏とは本地垂迹説からくる言葉です。
本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものであるとする考え方です。
そして仏教の神が仮にこの世に姿をあらわした日本古来の神々のことを「権現」、
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを「本地仏」といいました。
つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味になると思います。

東向観音寺 

東向観音寺


これと同じで、聖徳太子も十一面観音の生まれ変わりであるとの信仰があったのではないでしょうか。

⑤天武天皇、川原寺を重用する。

川原寺の創建については日本書紀は何も記さないのですが、天武天皇の代に川原寺が重用されたことについては記しています。

天武天皇(673年)二年 書生を集めて川原寺で一切経の書写を始めた。
朱鳥元年(686年)四月 新羅の客人を饗応するために川原寺の伎楽(舞人、楽人、衣裳)を筑紫に運んだ
朱鳥元年(686年)五月 天皇は病平癒のため、川原寺で薬師経を説かせた。
朱鳥元年(686年)六月 百官の人々を川原寺に遣わして燃灯供養を行い、盛大な斎会を設けて悔過を行った
朱鳥元年(686年)九月 親王、諸臣、川原寺に集い、天皇の御病平癒のために祈願した。

⑥天武天皇の崩御日は本当に9月9日?

天武天皇は朱鳥元年9月9日(686年10月1日)に崩御されたと記録されていますが、崩御日が朱鳥元年9月9日というのはちょっと怪しいと思います。

9月9日は重陽の節句です。
唐で624年に記された芸文類聚には、「魏の文帝が鍾馗へ菊花を贈った」という記事があるそうです。
当時の日本は大陸から大勢の人がやってきていますし、遣唐使も派遣していますから、9月9日が重陽の節句であることを知っている人がいたのではないでしょうか。

重陽の節句に関係するものとして、菊滋童の伝説が伝えられています。
菊滋童とは菊の葉についたしずくを飲んで、不老長寿を得た童のことです。
天武天皇は崩御されましたが、天武天皇の魂は永遠に生き続けますようにという願いをこめて、この日を崩御日としたのではないかと思ってしまいます。

法輪寺 菊滋童の像 
法輪寺 菊滋童の像

⑦天武天皇の病の原因は聖徳太子の怨霊の祟り?

それはともかく、朱鳥元年に川原寺で行われた数々の行事は、天武天皇の病回復を祈るものだと考えられます。
ということは、天武天皇の病回復を聖徳太子に祈ったということになるのではないでしょうか。

また、これが正しいとすると、なぜ天武天皇の病回復を聖徳太子に祈ったのでしょうか?
④に「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味だと書きましたが
菅原道真は怨霊として有名です。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていました。
そこで怨霊が祟らないように神として祀られました。
このような例はほかにも井上内親王、早良親王など多数あります。
すると聖徳太子もまた怨霊である可能性が濃厚です。
梅原猛さんは「聖徳太子の子孫は全員蘇我入鹿に攻められて斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって死んでいる。そのため聖徳太子は怨霊として畏れられた」との旨を語っておられました。

もしかして、天武天皇の病は聖徳太子の怨霊のしわざであると考えられ、それで川原寺(聖徳太子の本地仏を祀っていた?)を重用したのかも?

「聖徳太子よ、あなたを神としてたたえます。なのでどうぞ、お許しください!」

大聖将軍寺 神妙椋樹  

大聖将軍寺 神妙椋樹

⑧天武天皇即位は聖徳太子の血筋が絶えることによって実現した?

 
(27)安閑天皇
 
 
石姫皇女
(欽明天皇后)
 
 
 
 
 
 
(28)宣化天皇
 
 
上殖葉皇子
 
十市王
 
多治比古王
 
多治比)
 
 
 
 
 
 
 
(29)欽明天皇
 
(30)敏達天皇
 
押坂彦人
大兄皇子
 
(34)舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春日皇子
 
 
茅渟王
 
(35)皇極天皇
(37)斉明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大派皇子
 
 
 
 
 
 
(36)孝徳天皇
 
有間皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
難波皇子
 
大俣王
 
栗隈王
 
美努王
 
諸兄
橘氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(31)用明天皇
 
厩戸皇子
聖徳太子
 
山背大兄王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(33)推古天皇
 
 
来目皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(32)崇峻天皇
 
 
当麻皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穴穂部間人皇女
 
 
殖栗皇子
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87より引用


聖徳太子は31代用明天皇の第二皇子で、母親は29代欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女でした。
しかし用明天皇崩御後、用明天皇の異母弟の32代崇峻天皇が即位、崇峻天皇崩御(蘇我馬子に殺害されました。)後は用明の同母妹の33代推古天皇が女帝となり、聖徳太子は推古天皇の摂政となりました。

推古天皇崩御後、聖徳太子の第一皇子である山背大兄王か、田村皇子(舒明天皇)のいずれに皇位継承させるかでもめましたが、田村皇子が即位して34代舒明天皇となりました。

のち、山背大兄王は蘇我蝦夷蘇我入鹿に攻められ、一族とともに法隆寺(斑鳩寺)で首をくくって死んでしまいました。
こうして聖徳太子の血筋は絶えてしまいました。

法隆寺 スーパームーン 

法隆寺 月

舒明天皇崩御後は舒明天皇の皇后で敏達天皇の弟・茅渟王の娘の35代皇極天皇(斉明天皇は同一人物)が即位しています。

言葉で説明するとややこしいですが、ウィキペディアの表を見ると、皇位継承の系統において、用明天皇―聖徳太子ー山背大兄王の流れが不幸な形で途切れ、
その結果、それまでは日の目をみることがなかった舒明天皇の流れへ移行したように見えます。

35代皇極天皇は36代孝徳天皇(皇極天皇同母弟)崩御後、再び皇位について37代斉明天皇となります。

斉明天皇には舒明天皇との間に、中大兄皇子と大海人皇子があり、中大兄皇子が38代天智天皇、大海人皇子が39代天武天皇となって舒明天皇の流れでの皇位継承が続いていきます。

そういうわけで天武天皇は血筋の絶えてしまった用明天皇ー聖徳太子―山背大兄皇子らの祟りを恐れていたんだったりして?

川原寺 飛鳥光の回廊2018 



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[2018/10/01 10:35] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

橘寺 彼岸花 ライトアップ 『聖徳太子はドクロの神?』 

奈良県明日香村 橘寺
飛鳥光の回廊 彼岸花祭 2018 9月22日、23日


橘寺 彼岸花 

①仏頭山


橘寺は聖徳太子生誕の地で、聖徳太子創建の寺と伝わります。
橘寺の山号は仏頭山といいます。
お寺の後ろに写っている山が仏頭山です。

橘寺 彼岸花 白 

②千の仏頭が現れた伝説。


橘寺にはこんな伝説があります。

あるとき聖徳太子が3日間にわたり勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、不思議なことがおきました。
蓮の花が庭に降り積もり、仏頭山に千の仏頭が現れ光り輝いたというのです。
推古天皇はこれにたいそう驚かれて、この地に寺を建てるようにと聖徳太子に命じました。
そこで聖徳太子が橘の宮を寺と改めました。

仏頭といえば思い出すのが興福寺所蔵で、もと山田寺にあったとされる仏頭です。 

Buddha Head Yamadadera

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。

作者 匿名Unknown author [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


仏頭とはみほとけの頭部のことです。
体から切り離された頭部って気持ち悪いですねえ~。
しかも、その仏頭の数は千も仏頭山に現れたというのです。

 橘寺 ライトアップ 月

③千の仏頭は聖徳太子に子孫の霊のドクロ?

聖徳太子の子孫は、蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下、全員斑鳩寺(法隆寺)首をくくって自害しています。
千の仏頭とは、首をくくって自害した聖徳太子の子孫の霊のドクロなのではないでしょうか。

聖徳太子の子と孫は大勢いましたが、千人は大すぎです。誇張は当然あるでしょう。

橘寺 西門 ライトアップ

④ドクロの神に杓子を奉納する?

以上のような内容を、以前の記事・橘寺 彼岸花と芙蓉 『千のドクロが現れた山』  に書いたのですが
今回、再び橘寺を訪れて、本堂に願い事を書いた杓子がたくさん奉納されているのに気が付きました。

杓子を奉納する習慣で有名なのは多賀大社です。

多賀屋

多賀大社門前にある『多賀や』さん

多賀大社の近くにある胡宮神社は多賀大社の奥の院ともいわれています。

胡宮神社 鳥居 桜 
胡宮神社

多賀大社は胡宮神社や胡宮神社の「胡」という漢字と関係が深いと考えられます。(意味なく神社の名前をつけたりはしないでしょう。)

この胡宮神社の「胡」という漢字を漢和辞典で調べてみたところ、次のように記されていました。

獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。

④いのちがながい。としより。おきな。
とありますが、多賀大社は延命にご利益があると信仰されています。

⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
日本にとって蒙古は外国からやってきた異民族です。
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=異民族の神をまつる神社

②くび
多賀大社には杓子(しゃもじ)をお供えする習慣があります。
多賀大社の門前で糸切餅を販売している『多賀や』さんの看板も杓子です。

なぜ多賀大社に杓子をお供えする習慣があるのでしょうか?
多賀大社=胡宮神社=胡の神を祀る神社=首(ドクロ)の神を祀る神社
という発想から杓子が奉納されたのではないかと思います。

杓子って人間の頭部と首を連想させる形をしているではありませんか。

仏頭山橘寺はドクロの神をまつる神社なので、杓子を奉納する習慣があるのだったりして?

橘寺 本堂 ライトアップ

③弓で弾く楽器を胡弓というのはなぜ?

胡弓という楽器があります。
三味線に似ていますが、三味線と違って弓で弾きます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E5%BC%93#/media/File:Playing_on_Samisen,_Yokin_and_Kokin.jpg



動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!


四角い箱に柄がついたような形をしていて、杓子に似ていますね。
また胴体から切り離した頭部(首・ドクロ)にも似ています。
それで胡弓という名前がつけられたのではないでしょうか。

琉球には胡弓(クーチョー)という楽器がありますが、やはり弓で弾きます。
琉球の胡弓は昔は椰子の実を割って胴にしていたというので、日本の胡弓よりさらに頭部(首・ドクロ)のイメージに近いです。

さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていたようです。

つまり弓でひくものが胡弓であり、似たような形をしていてもバチで弾いて音を出す三味線には胡という漢字は用いられないのです。
これはなぜでしょうか?

それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないでしょうか?

中国の楽器・二胡も弓で弾き、「胡」の文字が使われていますね。

多賀屋 糸切餅 看板

多賀大社名物の糸切餅の3本の線は、蒙古の旗をデザインしたものだと言われていますが、本当は胡弓の3本の弦をイメージしたものではないでしょうか。

糸切餅は現在は三味線の弦で切っていますが、もともとは弓の弦で切っていました。
弓は弓でも、矢を放つ弓ではなく、胡弓の弓で切っていたのではないでしょうか?

多賀大社 『糸切餅は胡弓をデザインしたものだった?」 

ミシャグジはオシャモジとも呼ばれて信仰されている神で、諏訪地方では白蛇の姿をしているとか、タケミナカタや洩矢神と同一神ともされています。

シャモジを奉納する習慣がある神社はたくさんあり、中には咳にご利益があるとされているところもあります。
それはミシャグジ→御石神→石→セキ→咳という語呂合わせだと思います。

四天王寺 咳の地蔵尊

上は大阪四天王寺にある「咳の地蔵尊」ですが、「石の地蔵尊」から語呂合わせで「咳の地蔵尊」となったのではないかと思います。

この四天王寺はやはり聖徳太子が創建した寺です。
もしかしたら聖徳太子はドクロの神と信仰されていたのかも?

橘寺 観音堂 ライトアップ  

橘寺 経堂 ライトアップ 


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[2018/09/26 13:31] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 烏相撲 『紀名虎&藤原良房の世継ぎ争い』 

※上賀茂神社・・京都府京都市北区上賀茂本山339
※烏相撲・・・9月9日 午前10時より(確認をお願いします。)


上賀茂神社 烏相撲 

上賀茂神社の烏相撲の写真をとるのはokなんですが、子供相撲の写真をインターネットにあげるのは禁止とのことでした。
そこで無謀にも自分でイラストを描いて風景と合成してみたんですが、笑えるほどへたくそな絵ですね~。
見苦しくてすいません!


①重陽ってなあに?

陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考えます。
例えば数字では、奇数は陽、偶数は陰の数字としています。
古代中国では、1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は、「陽(月)+陽(日)=陰」になるとして避邪の行事が行われていました。
1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は五節句といわれ、お祝いをしたりしますが、もともとは避邪の行事だったんんですね~。

特に9は一桁の奇数としては一番大きな数であるために「陽の極まった数」と考えられ、「陽の極まった数の重日」ということで「重陽」と呼ばれていました。
日本においても宮中では「観菊の宴」などが開かれ、盛大にお祝いされました。

上賀茂神社 烏相撲 斎王代と神官

烏相撲を見つめる斎王代

②重陽と烏相撲

その重陽の日、上賀茂神社では烏相撲が行われます。
なぜ、重陽の日に相撲が行われるのでしょうか?

①で次のように書きました。
a.陰陽道ではすべてのものは陰陽両面をもつと考える。
b.数字では奇数は陽、偶数は陰。
性別を陰陽で考えると、男性が陽、女性が陰となります。

性別天体光度天気生死
太陽



かつては女相撲などもあったそうですが、上賀茂神社の烏相撲は男(陽)と男(陽)が取り組みを行うというもので、これはまさしく重陽となります。
そういうわけで、重陽の日に烏相撲を行っているのではないかと私は思います。

法輪寺 重陽神事2

法輪寺 重陽神事

虚空蔵法輪寺の重陽神事では菊滋童の舞が奉納されますが、菊滋童は古代中国・周の穆王の寵愛を受けていた少年です。
その菊滋童は穆王の枕を超えた罪で流罪になったという伝説があるのですが、これは穆王と菊滋童がBLの関係にあったということでしょう♥

男である穆王と男である菊滋童が重なるのですから、重陽ですね。

重陽の節句が「菊の節句」と言われるのも、イミシンですね~♥(菊は男色の象徴)

③烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている。

「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれています。

松尾大社 八朔祭 女神輿

松尾大社



つまり、松尾大社のの御祭神・大山咋神は上賀茂神社の御祭神・別雷命の父神様だということですね。

こんな伝説があります。

ある日川から丹塗りの矢が流れてきました。
玉依姫がこれを持ち帰り、枕元に置いて寝るとやがて妊娠し、別雷命が生まれました。

上賀茂神社の御祭神は別雷命で、下鴨神社の御祭神が玉依姫と賀茂健角身命で、玉依姫と賀茂健角身命は夫婦神とされます。
丹塗り矢の正体は賀茂健角身命といういことですね。

で、この玉依姫の父親が松尾大社のの御祭神・大山咋神だというのですね。

上賀茂神社 八咫烏 

三本脚の八咫烏は賀茂健角身命の神使とされます。

④紀名虎と藤原良房の相撲によるバトル

松尾大社は②でお話しした虚空蔵法輪寺(重陽神事で菊滋童の舞が奉納される。)と近い場所にあります。
松尾大社は秦氏の氏神ですが、虚空蔵法輪寺がある付近にかつては三光明星尊を祀る葛野井宮(かずのいぐう)があり、秦氏は葛野井宮を尋ねてこの地にやってきたと伝わります。
虚空蔵法輪寺は秦氏と関係のある寺である可能性が高いです。

そして、この虚空蔵法輪寺には紀氏の母親を持つ惟喬親王の伝説が伝えられています。

平安時代、この寺に惟喬親王が籠もったとき、虚空蔵菩薩が惟喬親王にうるしの製法を授けたというのです。

「なんで紀氏の母親を持つ惟喬親王?秦氏じゃないの?」って?

秦氏創建と伝えられる伏見稲荷大社はもともと紀氏の神を祀る神社であったのを、秦氏が土地を奪ったといわれ、今でも紀氏の氏神を祀る藤森神社の祭では伏見稲荷大社に乗り込んで「土地返せ、土地返せ」とはやし立てるそうです。
松尾大社・虚空蔵法輪寺のあるあたりも、もともと紀氏の土地だったのが、秦氏に奪われたのかも?

 藤森神社 藤森祭 神輿

藤森神社

もしそうだとしたら、オモシロイことになります。

文徳天皇には紀静子との間に惟喬親王が、藤原明子との間に惟仁親王(清和天皇)がありました。
平家物語などに、紀静子の父・紀名虎と藤原明子の父・藤原良房が、いずれの孫を皇太子にするかで対立し、高僧の祈祷合戦・相撲などを行った結果、藤原良房が勝利したと書かれているのです。

紀名虎は847年に亡くなっており、惟仁親王(清和天皇)が生まれたのが850年なので、これは史実ではなく、フィクションなのですが。

「烏相撲は上賀茂神社の親神である松尾の大山咋神に見せるために行われている」といわれてることを思い出してください。

紀名虎または惟喬親王は、松尾の大山咋神とイメージが重ねられているのではないでしょうか。

つまり、烏相撲は、紀名虎または惟喬親王に、世継ぎを決める相撲で、あなた方は負けたんだよ、ということを思い出させるために行われているのかも?

上賀茂神社 烏相撲 斎王代 
烏相撲を見つめる斎王代

上賀茂神社 烏相撲 鳥居 
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[2018/09/21 17:51] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大原野神社 御田刈祭 『在原業平、自分の子孫を皇位につけようと計画する?』 

京都市西京区 大原野神社
御田刈祭   9月9日

大原野神社 御田刈祭 行列 

①伊勢物語 小塩の山


「伊勢物語 小塩の山」に大原野神社を舞台としたこんな話があります。

むかし、二条の后のまだ春宮のみやすん所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、このゑづかさにさぶらひけるおきな、人々のろくたまはるついでに、御くるまよ りたまはりて、よみたてまつりける。
大原や をしほの山も けふこそは 神世のことも 思ひいづらめ                                       

(昔、二条の后が、まだ東宮の御息所と申しあげていた時、藤原氏の氏神である大原野神社に参詣されましたが、この近衛府に勤めていた翁が、お供の人々が禄を賜る機会に、御息所の御車から賜って、詠み奉った歌。
大原の 小塩の山も 今日はまさに 神代のことを 思い出していることでしょう。)

大原野神社 御田刈祭

②中宮になった藤原高子

「二条の后」とは人臣初の摂政となった藤原良房の養女で藤原基経の妹の藤原高子のことです。
藤原高子は866年、25歳で8歳年下の当時17歳の清和天皇に入内しました。

「春宮の御息所と申しける時」というのは、「藤原高子(二条の后)が『春宮の御息所』と呼ばれていたとき」という意味です。
高子は868年に清和天皇の皇子・貞明親王(のちの陽成天皇)を産みました。
貞明親王は生後3か月で皇太子となり、876年に即位しています。(陽成天皇)
高子が『春宮の御息所』と呼ばれていたのは、陽成天皇が皇太子であった869年から876年です。
高子は877年に皇太夫人・中宮となっています。

大原野神社 御田刈祭3

③皇后・中宮になりたいという望みをかなえてくれる大原野神社

「氏神」は藤原氏の氏神をまつる神社のこと。
藤原氏の氏神を祀る神社は奈良の春日大社などいくつかありますが、ここでは大原野神社をさします。

大原野神社は皇后・中宮になれますようにと祈願する神社で、祈願がかなえられると行列を作ってお礼まいりをする習慣がありました。
藤原高子は自分が中宮になれる可能性が決定的になったことで、大原野神社に参拝をしたのでしょう。

大原野神社 御田刈祭2

④高子と業平のスキャンダル

近衛づかさにさぶらひける翁とは、877年に右近衛権中将になった在原業平のことだと考えられています。
高子が大原野神社を参拝したのは、876年~877年ごろのことでしょうか。

さきほど「高子は25歳で清和天皇に入内した」と書きました。
25歳というのは当時としては晩婚です。
その理由としては高子と在原業平のスキャンダルが関係しているともいわれます。

「伊勢物語 芥川」では、業平と高子が駆け落ちをする様子が記されているのです。

「駆け落ちの途中、高子は鬼に食われてしまった」と記されていますが、実は高子は兄の藤原基経に連れ戻されたのです。
これを業平は地団太をふみ、泣いてくやしがったとあります。

大原野神社 赤ちゃん土俵入り4

⑤業平は高子の清和天皇入内を阻むため駆け落ちをした?

情熱的な恋の物語?
私はそうではないと思います。
高子は業平のことを愛していたと思いますが、業平はそうでもなかったのではないかと思います。

その理由は古今和歌集の詞書に次のようにあるからです。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

これは「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味になります。

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのでしょうか?

大原野神社 赤ちゃん土俵入り5


⑥業平は自分の子供を産ませるのが目的で、高子に近づいた?

業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説があります。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともあります。

業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのでは?
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされるはずです。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高いです。

百人一首かるた

これはうちにある古い百人一首かるた。私の年より古いです。
子供のころ、お正月によく百人一首かるたをしたり、坊主めくりをしたりして遊びました。


⑦天皇の孫なのに、臣籍降下した在原業平

在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王でした。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れてしまいました。(薬子の変)

このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となります。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないでしょうか。

大原野神社 赤ちゃん土俵入り6

⑨業平は平城上皇の竜田川の歌をふまえて「ちはやぶる・・・」の歌を詠んだ?

百人一首にもある在原業平の有名な歌といえば

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

ですが
龍田川の紅葉については、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいます。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、偶然なのでしょうか。
そうではないと私は思います。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのだと思います。

平城上皇は竜田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないでしょうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思います。

業平の「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとはの歌は平城上皇の歌を受けて詠まれたものだと思います。

「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのだと思います。

龍田川 紅葉

竜田川


⑩「神代のこと」とは政権交代を意味している?


大原や をしほの山も けふこそは 神世のことも 思ひいづらめ/在原業平

この歌は「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとはと関連付けて鑑賞するべきだと思います。

先ほど私は「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとはの歌の意味は
「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」という意味ではないか、と書きました。

「神代にもなかった(神代も聞かず)」なのか、はたまた「神代のことも思ひいづらめ」ということは「神代にあった」のか、どっちなんだという感じですが

謀反人となった人がその後皇位についたとか、神の最上位についたという話はないと思います。(間違ってたら教えてね~)
でも、政権交代はあったと思います。

天皇家は万世一系といいますが、実は万世一系ではないと私は考えています。

初代神武天皇が日向から東征して畿内入りするより早く、物部氏の祖神・ニギハヤヒが畿内には天下っていたと記紀には記されています。
ここから、畿内には神武以前、物部王朝があったとする説があります。

ニギハヤヒは別名を天照国照彦火明櫛玉饒速日命といい、本当の天照大神とはニギハヤヒではないかとする説があります。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
上記、アンサイクロペディアは初代天皇を天照国照彦天火明櫛玉饒速日としています。
アンサイクロペディアってすばらしい!

それはさておき、奈良・大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命といいます。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命と倭大物主櫛甕魂命は櫛と玉(魂)が同じなので、同一神だとする説があり、私はこれを支持しています。

三輪山 日の出 
三輪山

肩野物部氏の本拠地である大阪府交野市・枚方市あたりには神殿のない神社がいくつかあります。(星田妙見宮・磐船神社・片埜神社の境外社・瘡神社など)
そして大神神社にも神殿はなく、拝殿から直接ご神体の三輪山を拝するという祭祀スタイルです。
神殿を持たない祭祀スタイルは物部氏の祭祀スタイルではないかと思うのです。

で、初代神武天皇の皇后が大物主の娘のヒメタタライスケヨリヒメです。
神武天皇は物部王朝の入り婿になることで、物部氏より政権を奪ったのではないでしょうか。
古代エジプトでも、王家の女性と結婚した男が王になったケースがあったといいますが、これと同様のことが古の日本でもあったのではないかと思えます。

神武天皇以前の神代にも、同様のことがありました。
天照大神の孫のニニギが葦原中国に天下り、芦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと結婚しています。
ニニギは高天原から葦原中国へやってきてコノハナサクヤヒメと結婚したのですから、ニニギも入り婿になったということでしょう。

さらにその後、ニニギの子の山幸彦は竜宮に行き、海神の娘の豊玉姫と結婚しています。やはり入り婿ですね。

ニニギや山幸彦の話は別国にいって、別国の王国の入り婿となって、政権を奪うという話ではないでしょうか。
そしてそれらの神話は、神武が物部王朝の入り婿となって政権を奪ったことを、神代に投影した物語のように思えます。

そして業平が詠った「神世のこと」とは、ニニギまたは山幸彦の「入り婿になって政権交代しよう作戦」のことではないかと思えます。

業平は入り婿になったわけではありませんが、高子に自分の子供を産ませることによって、自分の子孫が皇位につく。
これは政権交代といってもいいでしょう。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 拝殿より直接御神体の天の磐船を拝します。 

●陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?


皇太子となった貞明親王は9歳で即位して陽成天皇となります。
そして高子の兄の藤原基経が摂政となりました。

ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたみたいですね。
私がこう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからです。

基経は陽成天皇の叔父です。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すんじゃないでしょうか。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされます。

これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思えます。

また、高子は東光寺の座主善祐と密通したという疑いをかけられて、皇太后を廃されていますが、これも兄基経に事の次第がばれた結果、ありもしない疑いをかけられた可能性が大だと思います。

そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはありませんでした。
こうして業平の計画は失敗に終わってしまったのです。
 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め


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[2018/09/19 20:11] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

道後温泉 坊ちゃん列車など 『温泉は死んだ人の霊によって発見された?』 

愛媛県松山市 道後温泉

 道後温泉本館2

道後温泉本館


①白鷺伝説


道後温泉の冠山から、約3000年前の縄文中期の土器・石鏃(せきぞく/石のやじり)が見つかっており、
道後温泉は日本最古の温泉ではないかともいわれています。

伝説によれば、足を傷つけた白鷺が足を湯に浸したところ、たちまち傷が治って飛び立っていき、これを見ていた村人が温泉を発見したといいます。

道後温泉本館-太鼓 
道後温泉本館

②下呂温泉にもあった白鷺伝説

あれっ?どこかで聞いた話だなあ?
そうそう、下呂温泉にも白鷺の伝説があるんでした。

下呂温泉は天歴年中(947~957年)に温泉が湧き出たとされますが、1265年、温泉が出来なくなってしまいました。
翌年、飛騨川の河原に白鷺が舞い降りると、再び温泉が湧き出るようになりました。


下呂温泉 花火 『源義平の狒々退治伝説』 

道後温泉本館道後温泉本館 

道後温泉本館

③他にもあるある、温泉の白鷺伝説

調べてみたら、ほかにも同様の伝説がたくさんありました。
白鷺温泉愛知県傷ついた白鷺が湯に浸かって傷を癒すのを見た人によって発見された。
山中温泉石川県奈良時代、行基が発見した。
文治年間長谷部信連が鷹狩にやってきた際、白鷺が芦の間の流れに傷脚を洗うのを見て発見し,
12件の湯宿を開いた。
片山津温泉石川県1653年、大聖寺藩二代藩主、前田利明が柴山潟に鷹狩りに訪れた際、
水面に水鳥が群れていたのを見て湖底の温泉を発見した。
和倉温泉石川県漁師の夫婦が七尾湾の沖合で、傷ついた足を癒す白鷺を見つけたことから発見された。
湯涌温泉石川県718年、紙漉き職人が泉で白鷺を見つけたことから発見された。
白山中宮温泉石川県泰澄が谷川で傷ついた白鳩を見つけたことから発見された。
粟津温泉石川県718年、泰澄が白山大権現のお告げに従って掘ったところ温泉が湧き出た。
山代温泉石川県725年、行基が白山へ修行に向かう途中、八咫烏が羽の傷を癒すのを見て発見した。
有馬温泉兵庫県神代、大己貴命と少彦名命が三羽の傷ついた烏が傷を癒すのを見て発見した。

表では石川県が多いですが、 全部の温泉を調べたわけではないので、たまたまネットでぐぐった結果見つかったのが石川県の温泉だったという可能性が高いです。

道後温泉本館 人力車 
道後温泉本館

 ④白鷺のほか、白鳩や白山大権現、八咫烏、烏の温泉伝説もある。

白鷺のほか、白鳩や白山大権現、八咫烏もありますね。そのほかの動物の温泉伝説もありました。

那須温泉栃木県舒明天皇の御世(629-641)、狩野三郎行広が射損じた鹿が湯につかって傷を癒していたことから発見された。
熊の湯温泉長野県熊が傷を癒した。

「ほかの温泉にも鳥や動物にまつわる伝説があるよ」と言う方、ぜひご一報いただければうれしいです。

⑤温泉につかる動物たち

実際、猿や熊は温泉につかるようです。





動画お借りしました。
動画主さん、ありがとうございます!

鹿も温泉に入るんでしょうか?鹿が池を泳いだり、ぬたばで泥にまみれている映像は見たことがありますが。
また、鷺や烏はどうでしょうか?
私は見たことないんですが、見たよ~、という方おられますか?

道後温泉本館-入口

⑥鹿は謀反人の比喩

夢がないことを言うようで申し訳ありません。
動物が温泉につかることを否定するわけではありませんが(実際、猿や熊は温泉につかる。)
温泉伝説に登場する、白鷺・烏・鹿・熊などは比喩だと思います。

まず、鹿ですが、これは謀反人の比喩だと思います。


日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があるのです。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)

大仏殿 鹿 
大仏殿 鹿

鹿の夏毛には白い斑点がありますね。それを塩に見立てたのでしょう。
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。

那須温泉は舒明天皇の御世(629-641)、狩野三郎行広が射損じた鹿が湯につかって傷を癒していたことから発見されたといいます。

この舒明天皇は当時の実力者・蘇我蝦夷の後押しを受けて即位したのですが、このことで、聖徳太子の長子である山背大兄王は皇位につくことができず、643年に蘇我入鹿の軍に攻められて斑鳩寺(法隆寺)で一族とともに首をくくって亡くなっています。
山背大兄王の死亡年は643年で、舒明天皇の御代に亡くなったわけではありません。
しかし、山背大兄王の死は、舒明天皇即位と関係があるので、舒明天皇の御代に鹿(=謀反人=山背大兄王)として、山背大兄王の霊を登場させたのではないでしょうか。


道後温泉本館  

⑦鳥は死んだ人の霊をあらわす?

記紀に鳥たちがアメノワカヒコの葬儀をする様子が描かれています。
また「ササキ」という鳥がいますが、これに「御」をつければ「ミササギ(陵/丘の形をした大きな墓)」となります。
鳥には死のイメージがあります。

また巨大な前方後円墳は地上から見たのではその全体像が把握しにくいです。
空高く飛ぶ鳥の目線からなら、その形は容易に認識することができるでしょう。

巨大な前方後円墳は鳥の目線を意識して作られていると思います。
昔の人は「死んだ人の魂は鳥になって空に向かう」と考えたのではないでしょうか。

死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び立ったという伝説もあります。

この白鳥とはスワンのことではなくて、白い鳥の事だと言われています。
するとヤマトタケルが変身したのは、温泉伝説に登場する白鷺・白鳩の可能性が大です。

つまり、温泉は死んだ人の霊によって発見されたという意味ではないかと思うのです。


道後温泉本館横の街頭


それにしても、白鷺(白鳥)が見つけた温泉と、烏(黒鳥)が見つけた温泉があるのはなぜでしょう?

伊予鉄道 坊ちゃん列車 

坊ちゃん列車

松山城

松山城

おまけ

高松駅 いしづち 

高松駅 いしづち

アンパンマン列車 
岡山駅 アンパンマン列車



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[2018/09/16 23:46] 愛媛県 | トラックバック(-) | コメント(-)