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おふさ観音 初えびす大祭 『えべっさんとだんじり囃子』 

奈良県橿原市 おふさ観音
初えびす大祭 1月第3日曜日

おふさ観音 えべっさん 


おふさ観音 えびす像

①えべっさんは耳が悪い

おふさ観音の初えびすに向かう道中、私は「えべっさん」と「狸の吉兵衛」について考えを巡らせていました。
案の定、つまづいて、すってんころりん!となりました~。

えー、京都えびす神社や大阪の今宮戎神社には、社殿の後ろの板をたたいて参拝するという習慣があります。

京都ゑびす神社 十日戎 

京都ゑびす神社の社殿の裏を叩いて参拝する人々


なぜこんなこをするのかというと、「えべっさんは耳が悪いので、よく聞こえるように」ということだそうです。

②榎本の神も耳が悪い。

奈良・春日大社にある榎本神社にも同様の習慣があります。

榎本神社

榎本神社

榎本の神はタケミカヅチに『土地を三尺譲ってほしい』といわれ、承諾しました。
ところがタケミカヅチの言う三尺とは地下三尺という意味だったのです。
こうして榎本の神は広大な神域をタケミカヅチに奪われてしまいました。


榎本の神は耳が遠いので、柱を叩き、祠を回って参拝する習慣説があります。

同様の習慣があるところから、えべっさんと榎本の神は同一神ではないかと私は考えました。


③榎本神社と榎木神社は━があるかないかの違いしかない。

その後、大阪堀川戎の十日戎に参拝した際、境内に、「榎木稲荷神社」があるのをしりました。

榎木稲荷神社 

榎木稲荷神社

榎木稲荷神社の榎木と榎本は横棒が一本あるかないかの違いしかありません。

③地車稲荷と狸

榎木神社は地車(だんじり)の形をしているので、地車稲荷とも呼ばれていおり、次のような伝説があります。

かつて天満堀川の堀止めに側に榎があり、その根元に木の神・句句廼知神を祀る祠がありました。
榎の大の木の根元には吉兵衛という老狸が住んでいて、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていました。
1839年、その地に本殿・拝殿を造営して正式に榎木神社を創建し、堀川戎神社末社の稲生神社の分霊を合祀しました。
明治40年に堀川戎神社と合併してここに遷座しました。
願い事が叶った夜には地車囃子が聞こえるといわれています。


ふつう、稲荷神社といえば狐ですが、榎木神社は狸なんですね。
四国の稲荷神社も狸なのだそうです。
弘法大師が四国の狐を追い出して、狸を開放したなどとも言われています。

1839年に榎木神社に堀川戎神社末社の稲生神社の分霊が合祀されたり、明治40年に榎木神社と堀川戎神社が合併されたりしていますが、これは戎神と榎木の神=吉兵衛が同一神だという認識を人々が持っていたためではないでしょうか。

堀川戎神社 十日戎 福娘2 
堀川戎 福娘

④榎本の神は物部守屋?


春日大社にある榎本神社の御祭神は猿田彦神です。
日本書紀には猿田彦は『高天原から葦原中国までを照らす神』だと記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒです。
猿田彦神とニギハヤヒは同一神なのだと思います。

ニギハヤヒは物部王朝の祖神ですが、物部守屋は蘇我氏+聖徳太子との戦いの際、榎の上にいたところを矢で射られて死んでいます。
榎本神社とはこの物部守屋のことではないでしょうか? 

堀川戎神社 十日戎 しころ 
堀川戎 しころ

⑤榎木の下に住む吉兵衛狸は物部守屋?

同様に榎木の大木の根本に住む狸の吉兵衛もまた物部守屋のことなのではないでしょうか。
堀川戎神社や榎木稲荷神社には柱や壁を叩く習慣はなさそうではありますが。

大阪は物部守屋ゆかりの地で聖徳太子が建てた四天王寺は物部守屋の土地を没収して建てられたものです。

また、聖徳太子と物部守屋は下図のように陰陽に描き分けられています。
聖徳太子物部守屋
少年大人
崇仏派廃仏派
弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた。榎木の木の上にいるところを弓で射られて死んだ。
1度に10人の人の話を聞き分けた。(耳がよかった。)

聖徳太子は1度に10人の人の話を聞き分けたといいます。
聖徳太子は耳がよかったということでしょう。
すると 聖徳太子が陽であるのに対して、陰の物部守屋は耳が悪かったのではないでしょうか。

大聖将軍寺 神妙椋樹 

大聖将軍寺 神妙椋樹 弓で射られそうになった聖徳太子が椋の木に隠れたという伝説にもとづくもの。

⑥岸和田に伝わる吉兵衛伝説

堀川戎の榎木稲荷神社はだんじりの形をしていますが、だんじりといえば岸和田だんじり祭です。

だんじりのルーツは京都祇園祭の山鉾だといわれますが
祇園祭の山鉾がゆっくりと巡行するのに対し、大阪のだんじりはものすごいスピードで駆け抜けていきます。
これはだんじりに乗っている神様(榎木明神=物部守屋=狸の吉兵衛)が荒魂であるからではないでしょうか。

岸和田だんじり祭 

岸和田だんじり祭

そしてなんと岸和田の昔話にも吉兵衛という男の昔話が伝えられています。

昔、現在の岸和田市並松町あたりに吉兵衛というだんじり好きの男のもとに狸たちが訪れて吉兵衛とともに尻尾で太鼓をたたきました。。
それ以降、祭が終わると風に乗って狸の祭囃子が聴こえてくるようになりました。


だんじり好きの男とは物部守屋の霊、そして狸は守屋の神使ということなのでは?

信楽焼の狸と花火  


⑦おふさ観音の初えびす大祭ではだんじり囃子が鳴り響いていた!

前置きが長くなりましたが、そろそろおふさ観音に到着しますよ。
何か、にぎやかな音が聞こえてきますね。
これは、もしや・・・・

おふさ観音 だんじり囃子

やはりだんじり囃子でした!

おふさ観音の初えびす大祭でだんじり囃子が奏でられているのは偶然なんでしょうか?

おふさかんのん 千羽鶴 
おふさ観音 奉納された千羽鶴

お房観音 弥勒石 

おふさ観音 弥勒石

おふさ観音 七福神 
おふさ観音 七福神


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[2019/01/19 20:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

春日大社 舞楽始 『秦河勝は舞楽の神&杓子の神?』 

 
奈良市春日野町  春日大社
舞楽始め・・・成人の日


春日大社 舞楽始 お祓い 
①舞楽と秦河勝

舞楽と深いかかわりがある人物として秦河勝がいます。
秦氏は渡来系氏族であり、秦河勝は聖徳太子のブレーンでした。

聖徳太子は秦河勝の息子や孫に伎楽を学ばせたといわれます。
そしてその子孫が天王寺楽人(がくにん)となって伎楽を伝えたのが、天王寺舞楽だというのです。

春日大社 舞楽始2

②聖徳太子は怨霊だった?

天王寺舞楽を代表する四天王寺の行事といえば聖霊会ですね。
聖霊会はやはり聖徳太子ゆかりの寺・法隆寺でも行われており、「蘇莫者」という演目が演じられます。
天王寺舞楽にも「蘇莫者」はありますが、聖霊会で必ず行われるということはないようです。
下の「蘇莫者」は四天王寺で撮影したものですが、「聖霊会」ではなく「篝の舞楽」の行事の中で演じられたものです。

四天王寺舞楽-蘇莫者 

蘇莫者 聖徳太子は飛鳥と天王寺の間を愛馬「甲斐の黒駒」に乗って往復していたが、あるとき大和川の亀の瀬で、太子が洞簫(どうしょう/中国古代の尺八)を吹いたところ、老猿(信貴の山神)が現れて笛の音に合わせて舞った。これを舞楽にしたものと伝わります。

梅原猛さんは「聖霊会」は聖徳太子の怨霊を鎮めるための祭であり、「蘇莫者」に登場する老猿は聖徳太子の怨霊で、
「蘇莫者」とは「蘇ること莫きもの」という意味ではないかと説かれました。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていました。

聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって死に、聖徳太子の血筋は絶えてしまいました。
それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと梅原さんはおっしゃいます。

春日大社 舞楽始 振鉾

また聖徳太子が怨霊であることの証拠として、次のような例をあげられています。

①聖徳太子が建てたと伝わる法隆寺の夢殿は、開扉すると大地震がおこると伝えられ、長年あけられたことがありませんでした。
②1908年フェノロサが夢殿の扉をあけたところ、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音がでてきたのですが、布でグルグル巻きにされフランケンシュタインのような状態でした。
また、光背が頭に直接釘で打ち付けられていました。(一般的には足元にたてた棒に光背をつける。)

これらは怨霊封じ込めの呪術ではないかと梅原さんは指摘されたのです。

春日大社 舞楽始

③秦氏が聖徳太子を供養した?

古には芸能は娯楽ではなく呪術的な意味合いを持っていたのではないかと私は考えます。
つまり、神や怨霊を楽しませたり、慰霊したりするのが芸能の目的であったのではないかと思うわけです。

「聖徳太子が秦河勝の息子や孫に伎楽を学ばせた」というのは
「聖徳太子の霊が、自分の霊を慰霊するために、秦河勝の息子や孫に伎楽を学ばせた」という意味ではないでしょうか。

井沢元彦さんは梅原猛さんの説を受けて「聖徳太子が怨霊になったのは彼の子孫が全員法隆寺で首をくくって亡くなったため、先祖の供養や祭祀はその子孫がするべきとされているが、そうした人物がいなくなったためではないか」とおっしゃっています。

そして芸能は呪術であり、供養は慰霊のために演じられることも多かったと思います。

秦氏はそうした供養や慰霊のための呪術にたけており、子孫が絶えて誰も供養慰霊する人がいなくなった聖徳太子を秦氏が供養慰霊した。

そういう意味ではないかと思ったりします。

春日大社 舞楽始3

④秦河勝は怨霊だった?

秦河勝にはこんな伝説もあります。

河勝は摂津国難波の浦からうつぼ舟に乗って船出し,播磨国坂越(しやくし)の浦に着いた。
そこで人々に祟ったので、大荒(おおさけ)大明神としてまつられた。

祟ったということは、聖徳太子だけでなく秦河勝も怨霊だったということでしょうか?

どうも、聖徳太子と秦河勝が混同された結果、
聖徳太子=怨霊
聖徳太子=秦河勝
∴秦河勝=怨霊
となって、このような伝説が作られたのではないかという気がしなくもないです。

 春日大社 舞楽始 

⑤坂越(しやくし)=杓子?

また上の伝説で河勝の霊が播磨国坂越(しやくし)の浦についた、とあるのも気になります。
坂越と書いて「しやくし」と読むのですが、その音は「杓子(しゃくし)」に似ていますね。

そして四天王寺には杓子の神に対する信仰があります。

四天王寺 咳の地蔵尊

上の写真は四天王寺にある「咳の地蔵尊」ですが、「石の地蔵尊」から語呂合わせで「咳の地蔵尊」となったのではないかと思います。

ミシャグジはオシャモジとも呼ばれて信仰されている神で、諏訪地方では白蛇の姿をしているとか、タケミナカタや洩矢神と同一神ともされています。

シャモジを奉納する習慣がある神社はたくさんあり、中には咳にご利益があるとされているところもあります。
それはミシャグジ→御石神→石→セキ→咳という語呂合わせだと思います。

また聖徳太子生誕の地と伝わる橘寺にもたくさんの杓子が奉納されていました。

春日大社 舞楽始め

坂越(しやくし)という地名は、秦河勝が杓子の神であるところからついた、なんてことないかな?

春日大社 舞楽始 



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[2019/01/18 18:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

陀々堂 鬼ばしり 『堂内で松明を燃やしても火災にならない理由』 

奈良県五條市 念仏寺
鬼ばしり・・・1月14日

陀々堂 昼の鬼走り

①阿弥陀如来に仕える善い鬼

[鬼はしり」は修正会結願の行事で、500年以上の歴史をもちます。
室町時代中期に領主・坂合部是房の弟頼澄別当が東大寺二月堂の修二会に倣って始めたといわれていますよ。

念仏堂の鬼は阿弥陀如来に仕える善い鬼とされているそうです。確かに、人のよさそうな(鬼のよさそうな?)顔をしていますね。

陀々堂 鬼走り 大般若経転読 
午後1時半ごろより大般若経転読が始まります。

鬼とは怨霊のことだと言ってもいいと思いますが
五條には怨霊で知られる井上内親王の墓や、井上内親王の霊を祀る御霊神社もありますね。
そのため、怨霊に親しみや信仰があり、怨霊=鬼は悪いもの、というよりも、よいものだという認識があるのかもしれません。

奈良の元興寺には「がこぜ」と言う鬼の伝説がありますが、節分会では「福は内、鬼も内」といいます。
こちらも、怨霊や鬼に親しみや信仰があり、怨霊や鬼をよきものとする認識があるのだろうと思います。

陀々堂 鬼はしり 僧侶のお練り 
大般若経転読を終えた僧侶たちのお練り

井上内親王は光仁天皇の皇后でしたが、天皇を呪詛したとして五條に幽閉されてしまったのです。
子の他戸親王も連座したとして廃太子となり、母親とともに五條に幽閉され、ふたりは幽閉先で同じ日に亡くなりました。
山部親王の立太子をもくろむ藤原良継・藤原百川らの陰謀だともいわれています。

陀々堂 鬼走り 太鼓

陀々堂 鬼走り 観音様の肩たたき 

↑ お経を運ぶ棒を用いて板を叩くと、境内に乾いた音が響き渡ります。
「観音様の肩叩き」と呼ばれ、かつては堂内の壁を叩いていたそうです。


②陀々堂の鬼ばしりで火事にならない理由


陀々堂の鬼ばしり出は松明を持った鬼が堂内をまわりますが、いままで火事になったことがありません。
地元の方がその理由を教えてくださいました。

陀々堂 昼の鬼走り-堂内の焚火 

お堂須弥壇の裏では日中からどんどん火を焚いています。

陀々堂 昼の鬼走り 2 
午後4時ごろより、昼の鬼走り・子供の鬼走り(写真は子供の鬼走り)が行われます。
堂内に煙がたちこめていますね。

陀々堂 鬼走り 餅撒き

午後4時半ごろより福餅撒き

陀々堂 鬼走り 放水 
午後4時50分ごろ、茅葺の屋根に放水が行われました。これも火災対策のひとつですね。

陀々堂 鬼走り 護摩 

堂内で護摩供が行われ、堂内の煙はますます充満していきます。


陀々堂 鬼走り 護摩(境内) 

お堂の外でも護摩が焚かれます。


 陀々堂 鬼走り

午後9時ごろ、夜の鬼走りが始まります。

堂内に充満した煙がお堂の外にまで流れてきていますね。
この煙が火災防止に効果的だというのです。

鬼は松明を持ったまま堂内に入っていくのですが、煙が充満した堂内の上部にはH2O(水蒸気)、CO2(二酸化炭素)、COがたまり、O2(酸素)が少ない状態になっています。

火が燃えるためには酸素が必用で、酸素が少ないと火が燃えません。
そのため堂内に持ち込んだ松明の炎は小さくなります。
そして、お堂の入り口付近に鬼が立つと、そこには酸素が多くありますから松明の炎は大きくなるというわけです。
バックドラフトのようなものですね。
うーん、すごい知恵だ!

陀々堂 鬼走り-父鬼 

↑ 父鬼面(赤鬼)
長さ60cm、幅42.5cm、重さ4.5kg。


陀々堂 鬼走り-母鬼 
↑ 母鬼面(青鬼)
長さ51.5cm、幅38cm、重さ4.5kg


陀々堂 鬼走り 子鬼 

子鬼面(茶鬼)
長さ47.5㎝、幅35.5cm、重さ3.2kg。


大きなお面は顔を火傷から守ってくれるとのことです。


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[2019/01/17 15:38] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

水間寺 千本つき 『千人の男と会う相を持つ娘』 


大阪府貝塚市 水間寺
千本つき餅・・・1月2日、3日


 水間寺 千本つき

水間寺 千本つき2

①聖武天皇の病を回復させた観音さま

水間寺にはこんな創建説話がありますよ。

聖武天皇が病気になられた時、夢に観音様が現れました。
天皇が行基に夢にあらわれた場所へ行かせると、観音の化身である16人の童子が現れました。
行基が童子に誘われて滝へ行くと、滝の中に一寸八分(約6cm)の観音像がありました。
白髪の仙人が現れてこの観音像を行基に下さいました。するとまもなく天皇の病は回復しましたた。
天平16年(744年)、天皇は行基に滝の側に堂をつくるように命じました。
行基は16人の童子とともに生活しながらお堂を完成させました。


この伝説はつまり、水間寺の観音様が聖武天皇の病を回復させたと言いたいのだと思います。

この伝説によれば、水間寺の創建は744年ですが、このほかに和銅元年(708年)に創建されたという説もあります。

滝の中におられた一寸八分の観音様は絶対秘仏で、残念ながら拝観することはできません。

水間寺 三重塔

②水間寺創建年(744年)に安積親王薨去。

水間寺の創建年は744年もしくは708年とされています。
これは実際に創建された年ではなく、この年におこったなんらかの事件と水間寺の創建に関わりがあって、その年を創建年としているのだとも考えられます。

調べてみたところ、744年には安積親王(あさかしんのう/728-744)が薨去しています。

安積親王は聖武天皇の第2皇子で、母親は県犬養広刀自です。
安積親王が生まれてすぐに、聖武天皇の第1皇子で皇太子だった基皇子が夭逝しました。
安積親王が皇太子となってもよさそうなものですが、738年、聖武天皇の皇女である阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子しました。
女性天皇はいますが、女性で皇太子になったのは阿部内親王だけだと思います。

阿倍内親王の母親は藤原光明子、光明皇后でした。
もちろん阿倍内親王の異例の立太子は藤原氏のおもわくによるものだと考えられるでしょう。
藤原氏としては非藤原系の安積親王を皇太子にするくらいなら、藤原氏の血をひく安倍内親王を皇太子にするほうがいいと考えたのだと思います。

その後、安積親王は744年に脚気になってその2日後に急死しました。17歳でした。
安積親王は藤原仲麻呂に毒殺されたという説もあります。

水間寺 三重塔2

③藤原仲麻呂の乱

749年、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位して孝謙天皇(女帝)となりました。
光明皇太后のために紫微中台が設けられ、藤原仲麻呂が長官となりました。
仲麻呂は皇太后の信任を得てますます権力を強めていきます。

758年、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇(大炊王/天武天皇のの皇子・舎人親王の七男。母は当麻老の娘・当麻山背。)が即位しました。
淳仁天皇の即位は藤原仲麻呂の推挙をうけたものでした。
同年、仲麻呂は右大臣となり、恵美押勝の名を与えられています。

760年、藤原仲麻呂は人臣初の太政大臣となりますが、同年、光明皇太后が逝去し、仲麻呂は後ろ盾を失ってしまいます。

762年、弓削道鏡が孝謙上皇の寵愛を受けるようになります。
藤原仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を絶つようにと進言させました。
しかし孝謙上皇はこの進言にキレて、出家して尼となり、道鏡と男女の関係ではないことをアピールしました。
また、孝謙上皇は『今の天皇は小事を行え。大事と賞罰は自分が行う』と宣言し、天皇から政権を取り上げたのです。 

764年、藤原仲麻呂は反乱を計画しましたが、密告により発覚して処刑されました。(藤原仲麻呂の乱)

766年、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となりました。
吉備真備が右大臣、藤原永手が左大臣になりました。  

水間寺 布袋

藤原南家は安積親王の怨霊をおそれた?

②に書いたように、水間寺が創建された744年には安積親王が薨去しています。
水間寺とは安積親王の怨霊を祀る寺で、聖武天皇の病気は安積親王の怨霊の仕業だと考えられたのではないでしょうか。

③で安積親王は藤原仲麻呂に毒殺されたという説があると書きました。
藤原仲麻呂は藤原不比等の孫で、藤原四兄弟の藤原 武智麻呂の子でした。
藤原 武智麻呂は藤原南家の祖です。

これが事実だとすれば安積親王の怨霊をもっとも畏れたのは藤原南家だと考えられますね。

水間寺は江戸時代には岸和田藩主岡部氏の帰依を受けました。
岡部氏は藤原南家の出です。

岡部氏が水間寺に帰依したのは、自分たちが藤原仲麻呂の血を引いているからではないでしょうか。

水間寺 千本つき

⑤餅をつく16人の若者は創建説話に登場する16人の童子にちなむ?

本堂横の渡り廊下には二つの臼がおかれてあって、それぞれ8人、合計16人の若者がお餅をついていました。

この行事は『千本撞き餅』といい、「行基がこの地にやってきて、白髪の仙人より本尊・聖観世音の尊像をいただいたとき、童子らがこれを祝福してお餅をついたのが始まり」だとされています。

16人の若者が餅をつくのは、水間寺の創建説話に登場する16人の童子にちなんだものであったと考えられますね。

⑥16人の童子は16柱の怨霊?


八卦では童子は艮(丑寅)の符です。
丑寅は方角では鬼が出入りする方角、鬼門の東北をあらわします。
したがって童子とは鬼(怨霊)を意味するものであるともいわれます。
茨木童子、酒呑童子などのように鬼が童子と呼ばれているのはそのためであるというのです。

干支 方角 月 

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき 
石清水八幡宮 追儺式

節分の鬼が虎皮のパンツをはき、牛の角を生やしているのは丑寅をあらわすともいわれます。
もともと追儺式とは大みそかに行われる行事であり、丑=12月、寅=1月で、追儺式の鬼は年の変わり目=丑寅を表しているのだと思います。

行基の前に現れた16人の童子も怨霊ではないでしょうか。

16柱の怨霊は聖観世音の尊像をいただいたお祝いにお餅をついたといいますが、本当は憎き藤原仲麻呂を懲らしめようとお餅をついたのだったりして?

正月の餅つきの臼は女性、杵は男性をイメージしたものであり、餅つきとは男女和合を意味していると言われますね。

そして鎌倉初期に成立した『水鏡』に次のような話が記されています。

藤原仲麻呂には東子という美しい娘がいた。
鑑真が『東子は千人の男と会う相を持っている』と予言した。
父親の藤原仲麻呂がクーデターに失敗したとき、鑑真の予言は実現し、東子は千人の男にレイプされた。


失明していた鑑真がどうやって相を見たのかという疑問もあり、これが史実かどうかわかりません。
ですが、このような話が流布していたことは事実でしょう。

『千本撞き餅』はこの水鏡の話を再現したものなのではないかと思いました。
つまり、臼は仲麻呂の娘・東子で、餅をつく杵は東子と会った千人の男性なのでは、と思うわけです。

16柱とあるのは、藤原氏は他氏排斥で有名なので、安積親王以外にも多くの怨霊を生み出していたことを表していると思います。
たとえば長屋王も藤原氏の陰謀で自殺に追いやられたと考えられています。

長屋王の話は長くなるので、次の記事をお読みください。岩船寺 紅葉 『長屋王、皇位継承の神となる?』 

水間寺 不動堂 


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[2019/01/12 14:25] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪市消防出初式② 『消防の神は建築の神?』 

 大阪市住之江区南港北 ATC
大阪市消防出初式・・・1月6日


大阪市消防出初式 パレード

①出初式の歴史

江戸時代の江戸は1601年~1867年の267年間に大火49件、小火を含めると1798件もおこっており、家事は江戸の名物といっていいほどの有様でした。
そこで幕府は1643年に大名火消(消防を大名の課役とする)の制度を設けました。
しかし、1657年におこった明暦の大火では3万人~10万人の犠牲者をだしてしまいました。
そこで翌1658年に幕府直轄の消防組織・定火消が制度化されました。
これは4000石以上の旗本から4名を選び、臥煙(がえん/火消人足)とともに火消屋敷に居住して消防活動を行うというものです。
1659年1月4日、老中・稲葉正則と定火消4組が上野東照宮に集結して儀式を行いました。
これを出初と呼んでいます。
以降、毎年1月4日に上野東照宮で定火消による出初が行われるようになっていったのです。

大阪市消防出初式 消防車1 
パレードの主役はかっこいい消防車たちです(擬人化しちゃってる~)。
↑↓ これらの消防車はどのような機能を備えているのでしょうか?知ってる方、教えて!


大阪市消防出初式 消防車2 
1718年、町人の消防組織・町火消が制度化されました。
1720年、江戸の町を20~30町ごとにわけて「いろは組」47組(のちに1組増加して「いろは四十八組」となる)と、16組の火消組合が設けられました。
(「いろは組」47組は隅田川西部を担当、16組の火消組合は東の本所・深川を担当)
町火消も出初を行うようになりましたが、武家火消の出初と区別するため文字をひっくり返して初出といいました。

ジャズのことを「ズージャー」、ホモのことを「モーホー」などとひっくり返して言うことがありますが、そのルーツは「出初→初出」にあるのか?(ちょっと違うかw)

消防車 
町火消の初出も毎年1月4日に行われました。

明治時代になると、武家火消は廃止されました。
町火消は消防組39組と改められ、奉行所←東京府所属→東京警視庁安寧課消防掛所属と変遷します。
こうして明治8年1875年1月4日、第1回東京警視庁消防出初式が行われました。
大正5年(1916年)から1月6日の開催となりました。

下の錦絵は第1回東京警視庁消防出初式のようすを描いたものです。

ファイル:Hiroshige hikeshi.jpg

東京名所八代洲町警視庁火消出初階子乗之図(荒井喜三郎)作者/歌川広重(3代目)
明治8年の出初式を描いた錦絵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hiroshige_hikeshi.jpg よりお借りしました。


大阪市消防出初式 パレード 

↑ この旗は纏をイメージしてデザインされていますね。(上の錦絵に五六などと記されているのが纏)

②出初式で梯子の曲乗りが行われるのはなぜ?

江戸時代、加賀藩前田家が江戸藩邸で抱えていた火消は加賀鳶、喧嘩鳶と呼ばれ、出初で梯子の曲乗り等を行いました。
上の錦絵にも梯子の曲乗りのようすが描かれていますし、現在でも東京や石川の出初式で行われていますね。(大阪市はありません)

なぜ梯子なのかというと、破壊消火といって延焼を防ぐため、火災現場周囲の建物・構造物を破壊したりしていたのです。
その際、梯子を利用したのでしょうね。
加賀鳶の鳶は鳶職〈高所で建築作業をする職業)の鳶だと思います。
破壊消火は高所での建築作業になれている鳶職が行うことが多かったのではないでしょうか。

大阪市消防出初式2

また、上の錦絵にそれぞれの組を象徴する纏(まとい/旗印の一)が掲げられていますが、江戸時代にはこの纏をあげて組内の町を練り歩き、木遣り歌を詠ったりしていたようです。

「木遣り」とは「木を運ぶ」という意味で、重い木や石を大勢で運ぶ際に、息をあわせるために唄われていました。
纏が重いので、木遣り歌を詠っていたのでしょうか。
それもあるかもしれませんが、木遣り歌を詠うのは、梯子の曲乗りと同様、消火活動が建築と関係があるためかもしれません。

千本釈迦堂のおかめ節分に行った際、番匠保存会の方々がったものを「木遣り唄」を詠っていましたね。
番匠とは古の建築工のことです。

 大阪市消防出初式 

③おかめ=建築の女神、ひょっとこ=建築の男神?


京都の千本釈迦堂には棟梁(長井飛騨守高次)の妻・阿亀(おかめ)の伝説が伝えられています。
また関西では上棟式におかめ御幣を用いる習慣があり、おかめは建築の女神だといえます。

大報恩寺 太子堂 おかめ御幣 

北野経王堂 願成就寺に飾られたおかめ御幣


おかめとペアになっているのはひょっとこなので、阿亀の夫の棟梁・長井飛騨守高次はひょっとこのイメージと重ねられていると考えられます。

ひょっとこの語源にはいろんな説がありますが、その中に民話に登場するヒョウトクからくるというのがあります。

強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。
ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。
そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。
そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。


ヒョウトクという名前は聖徳(ショウトク)に似ているじゃないですか~。
そして、聖徳太子は建築の神として信仰されています。
たとえば、世界最古の企業といわれる金剛組では、聖徳太子像に合掌してから朝礼を行っています。
金剛組の創建は578年。聖徳太子が四天王寺を建てる際に百済より招かれた宮大工の金剛重光が創業者です。

おかめが建築の女神なら、ひょっとこは建築の男神なのではないでしょうか。
(長井飛騨守高次/阿亀の夫・棟梁=ひょっとこ=聖徳太子=建築の神)

建築の神は防火の神でもある?

またひょっとこは火男がなまったものだとする説もあり、京都の伝統行事・六斎念仏の演目・祇園囃子にはひょっとが登場して巻物を広げるとそこには「火の用心」と記されています。

梅津六斎 祇園囃子 ひょっとこ 

梅津六斎 祇園囃に登場するひょっとこ

梅津六斎 祇園囃子 おかめ 
梅津六斎 祇園囃にはひょっとこの相方のおかめも登場しますよ。


建築の神が防火の神でもあるのは、建築物をこわすことで延焼を防ぐことができる(破壊消火)ためでしょう。

建築の神とは建築物そのものでもあり、建築の神が犠牲になって(建築物を破壊する)延焼を防いでくださる。
そのような信仰があったのではないかと私は考えます。

大阪市消防出初式 

大阪市消防出初式2  
 大阪市消防出初式 
大阪市消防出初-消防車 

大阪市消防出初-消防車2 

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[2019/01/11 15:25] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪市消防出初式① 『火事に喩えられた娘の恋心』 

 大阪市住吉区 ATC
大阪市消防出初式・・・1月6日


大阪市消防出初式 吉村市長

イケメンの吉村大阪市長

大阪市消防出初式 子供の消防士さん 
子供消防士さんたち

大阪市消防出初式 瀬古歩夢さん 
セレッソ大阪の瀬古歩夢さん

大阪市消防出初式  
 
①明暦の大火

え~、今日は出初式の消防訓練にちなみ、1657年におこった『明暦の大火』のお話しをしたいと思いま~す。

『暦の大火』は戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災といわれています。

80日以上雨が降らず空気が乾燥している中、本郷の本妙寺・小石川の大番衆与力の宿所・麩町の在家の三か所より出火。
強風で火はどんどん燃え広がったようです。
浅草橋では脱獄の誤報により門が閉ざされ、逃げ場を失った2万人以上が犠牲に。
霊厳寺では1万人以上の避難民が死亡しました。

 大阪市消防出初式 消防士たち


②振袖火事


『明暦の大火』は『振袖火事』とも呼ばれます。
その理由は、次のような話が伝えられているからです。

質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行きました。
その帰り道で美しい寺の小姓に一目惚れします。
そして恋煩いから、ついには寝込んでしまいました。
心配した両親は小姓が来ていたのと同じ荒磯と菊柄の振袖を娘に作ってやりましたが、梅乃は死んでしまいました。
両親は娘の棺に振袖をかけてやりました。

当時、棺に掛けられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっており、振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16)の元へ渡りました。
するときのも恋煩いで死んでしまい、振袖はまた棺にかけられ、本妙寺に持ち込まれした。
寺男たちは再び振袖を売り、振袖は町娘・いく(16)の手に渡りますが、ほどなく行も死んでしまい、またも振袖は棺に掛けられて、本妙寺に運び込まれたのです。

本妙寺の住職は振袖を供養しようと、読経をあげながら護摩の火の中に振袖を投げこみました。
そこへ狂風が吹きおこり、「火のついた振袖は人が立ちあがったような形となって空に舞い上がりました。」
そして振袖は寺の軒先に舞い落ちて出火しました。


浅井了意はこれを『作り話』だと言っています。
まあ、にわかに信じがたい話ではあります。

大阪市消防出初式 ホースをのばす


③人形(ひとがた)を振袖に喩えた?

「火のついた振袖は人が立ちあがったような形となって空に舞い上がりました。」
という部分に注意してください。
護摩を焚くさい、「お焚き上げ」といって人形(ひとがた)を燃やすことがあります。
人形とは、薄い紙で作った呪いの道具で、振袖のような形をしています。
https://yanagidani.jp/event/event3/

6月と12月の晦日に行われる大祓などの際にも、この人形に息をふきかけて川に流したり、お焚き上げをしたりします。
人形に息をふきかけるというのは、息をふきかけた人の穢れを人形に移すというおまじないです。

上の伝説で「振袖」と表現しているのはこの「人形」の比喩ではないでしょうか?

上賀茂神社 夏越神事 
上賀茂神社 夏越神事 川を流れる人形

④火事は「女の恋心」をあらわす?


また、振袖火事の伝説を読みますと、「八百屋お七」を思い出します。

1657年におこった明暦の大火の後、1683年に天和の大火がおこります。
このとき、お七は親とともに正仙院に避難し、寺の小姓・生田庄之介と恋に落ちます。
やがてお七一家は寺を出て再建された家に戻りますが、お七は庄之介に会いたくてしかたありません。
そこで、もう一度家が燃えれば庄之介がいる正仙院で避難生活をおくることができると考えて、お七は自宅に放火しました。
しかし火はすぐに消し止められ、お七は放火の罪に問われ、鈴ヶ森刑場で火あぶりとなりました。


『御当代記』に「お七という名前の娘が放火し処刑された」と記録されており、お七が実在していたこと、放火の罪で処刑されたことは確かなようですが(実在しなかったとする説もあります。)
それ以外のことは後付けで作った物語なのかもしれません。

天和の大火(1683年)以前の明暦の大火(1657年)の伝説をあわせ読むと、当時、火事は「女の恋心」に喩えられていたようにも思えます。

大阪市消防出初式 


 

ヘリコプターで救出!

⑤お七の十

落語で「お七の十」と呼ばれるものがあります。

火あぶりになったお七。
お七の死を悲しんだ恋人の吉三は川へ身投げ。
ふたりがあの世で出会って抱き合ったらジュウと音がしました。


そのココロは・・・・
お七=火あぶり=火(ひ)=七(ひち)
吉三=水死=水(みず)=三(み)
七+三=十(ジュウ)

うまい、座布団2枚!

大阪市消防出初式 ヘリコプターで救出

だけど、これってまるで土用の丑ですね。

土用の丑についてはさまざまな説がありますが、私は次のように考えています。

陰陽道ではすべてのものを陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。

大阪市消防出初式3

陰陽五行説には『相生説』と『相克説』があります。

『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説です。

『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説のことです。

『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

『土用の丑』とは『水剋火』、すなわち夏の火性を冬の水性で緩和しようというものではないかと。

たとえば、土用の丑には鰻を食べますが、本来鰻の旬は冬なのです。
つまり、夏に冬が旬の鰻を食べることで、夏の火性を冬の水性で緩和するというわけです。

お七は七(ひち)で火(ひ)、吉三は水(みず)。
この落語は土用の丑の習慣を踏まえてつくられたものではないでしょうか?
 
Meireki fire

『明暦の大火』を田代幸春が1814年に描いた戸火事図巻の一部

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Meireki_fire.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2c/Meireki_fire.JPG よりお借りしました。
田代幸春 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で





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[2019/01/10 14:42] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

城南宮 釿始式 『城南宮の釿始式は船大工の釿始式?』 

京都市伏見区 城南宮
釿始式(ちょうなはじめしき)・・・1月5日

城南宮 釿始式 入場 
釿始式のはじまり、はじまり~♪

城南宮 釿始式 礼 
城南宮 釿始式 お祓い 
まずはお祓いから

城南宮 釿始式 神饌

①『釿始め』とは?

大工さんの仕事始めの儀式を釿始式(ちょうなはじめしき)といいます。
もともとはそれぞれの番匠の家で行われていました。
また正月だけでなく、大きな仕事にとりかかる前などには建設現場でも行われていたそうです。

釿(ちょうな)はチョンナともいい、木材を粗削りするための道具です。

城南宮 釿始式 釿 


西洋のものは歯が柄に平行についています。
柄に直角に歯がついた形は日本独特の形だそうです。


②建築の神・聖徳太子と四天王寺の『チョンナ始め』

聖徳太子は四天王寺を創建するために百済より3人の宮大工を招きました。
578年、そのうちのひとり、金剛重光(柳重光)によって金剛組が創業されました。
金剛組は現在でもあり、世界一古い企業だと言われています。

以前、テレビで金剛組の朝礼風景を見たことがあります。
事務所には厨子が置いてあって、中に聖徳太子像が安置されていました。
社員たちは厨子の前に並び、聖徳太子に合掌して朝礼を初めるのです。
21世紀にこのような古風な会社が存在しているということは奇跡のようです。
そして、この金剛組の朝礼の風景はまさしく聖徳太子が建築の神であることを示しているといえるでしょう。

四天王寺では1月11日に『チョンナ始め』の儀式を行っています。
『チョンナ始め』の儀式には金剛家の当主が代々おつとめされるそうです。
残念ながら非公開で見学することはできないのですが。

城南宮 釿始式 さしがね 
Ⅼ字型のさしがねで印をつけます。

③広隆寺で復活した釿始


京都の釿始は広隆寺のものが有名ですね。
とはいえ、広隆寺で釿始が行われるようになったのは比較的新しく昭和56年のことです。
①のところにも書いたように釿始はそれぞれの番匠の家で行われていたのですが、昭和30年代ころ、ライフスタイルの西洋化に伴って『釿始め』の儀式は行われなくなってしまいました。
昭和56年、番匠保存会が『釿始め』を復活させ、それ以降、毎年広隆寺において行われるようになったそうです。

番匠保存会が釿始の儀式を広隆寺で復活させたのはなぜなんでしょうか。
それは、広隆寺のご本尊が建築の神・聖徳太子だからではないでしょうか。

城南宮 釿始式 墨壺より糸を繰り出す 
向かって左の人が持っているテープカッターのようなものは墨壺です。
円形の部分には糸が巻いてあります。箱型の部分には墨を含ませた綿が入っています。
この綿の中に糸をくぐらせて引き出すことによって、糸に墨がつきます。


④城南宮で釿始式が行われるようになったのはなぜ?


城南宮の釿始式がいつから行われているのか、調べてみましたがわかりませんでした。
広隆寺と同じく、昭和の時代より行われるようになったのかもしれません。
また、城南宮で釿始式が行われるようになったのはなぜなんでしょうか。
城南宮では聖徳太子は祀っていませんが。城南宮の主祭神はオキナガタラシヒメ(神功皇后)です。

城南宮 釿始式 墨壺の糸をはじいて線 
墨壺から引き出した糸をピンと張り、はじいて線を引きます。(印つけ)

⑤城南宮は紀氏の神社?

城南宮は紀氏の神社だったのではないかと私は考えています。
その理由をお話しします。

現在伏見稲荷大社のある場所には古くは紀氏の神を祀る藤森神社がありました。
ところが平安時代に伏見稲荷大社がその地に鎮座することになったため、藤森神社は現在地に移転しました。

伏見稲荷大社鎮座にともなう藤森神社の移転はスムーズに行われたのではなく、伏見稲荷大社側がかなり強引な手法を用いて行われたようです。
そのため、今でも伏見稲荷大社近辺の住民は藤森神社の氏子だといいますし

藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び
稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返すそうです。

城南宮 釿始式 鋸 


伏見稲荷大社は東寺の鎮守とされています。
東寺は鎮護国家のため、嵯峨天皇によって建設が始まったのち、空海に下賜された寺です。
つまり、藤森神社は天皇家や空海に土地を奪われたということでしょう。
当時の天皇家は藤原氏と密接な関係がありましたので、天皇家・藤原氏・空海が藤森神社の土地を奪ったといったほうが適切でしょうか。

そういうわけで藤森神社は伏見稲荷大社に土地を奪われて現在地に移転することになったわけですが、そこには真幡寸(まはたき)神社がありました。
真幡寸神社は藤森神社に土地を譲って移転しました。
これが城南宮です。

藤森神社と城南宮の間に土地の貸借にまつわるトラブルなどの伝説は残されていません。

そして藤森神社と城南宮には同様の伝説が伝えられています。

a.神功皇后が新羅を攻略する折りの旗を御神体として奉納した。
b.平安京遷都の際,王城鎮護のため国常立尊を合祀した。

同様の伝説が残されているということは、城南宮も紀氏の神社だったのではないか、と思うわけです。

城南宮 釿始式 槍鉋 
槍鉋

 ⑥紀氏は造船業に長けた氏族だった。

紀氏の本拠地は紀州です。
紀州は森林資源に恵まれており、紀氏は造船業に長けていました。
船を造る大工さんのことを船大工といいます。

https://www.spf.org/_opri/newsletter/2016/385_3.html
上のサイトに次のように記されています。
「造船作業においては釿始(ちょうなはじ)め、航据(かわらずえ)、船卸(ふなおろ)し(進水式)と神事を司ったが、その中で山の神、場の神、海の神にお伺いをたてることの意義を伝えてきた。」

船大工も釿始式を行っているんですね。

城南宮・・・紀氏の神社?
紀氏・・・造船業に長けている。船大工は釿始式を行う。

そういうわけで、城南宮において釿始式を行っているのかも?

城南宮 釿始式 道具 
今年も仕事がんばりましょう!




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[2019/01/08 16:45] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

十日戎 まとめ 


日程などは確認の上お出かけくださいね~


京都ゑびす神社 宝恵かご 舞妓さん 『耳の悪い神』 

京都ゑびす神社 十日戎 宝恵籠2

京都ゑびす神社 十日戎 宝恵籠3

京都ゑびす神社 十日戎 舞妓さん2

京都ゑびす神社 十日戎 舞妓さん

京都ゑびす神社 十日戎


今宮戎神社 十日戎 宵宮祭『えべっさんの正体②』 
今宮戎神社 十日戎 『日の神→海の神→商売繁盛の神へと神格を変えた神』 

今宮戎 宝恵籠

今宮神社 十日戎 宝恵駕籠

今宮戎 献鯛神事

今宮戎 十日戎 福娘

今宮戎 十日戎 福娘さんたち2

京都市東山区 八坂神社 蛭子船巡行 1月9日
八坂神社 蛭子船巡行 『回文と一陽来復』 ※追記あり 

八坂神社 蛭子船巡行2

八坂神社 蛭子船巡行 福娘


大阪市北区 
堀川戎神社 十日戎・・・1月9日 ~1月11日
堀川戎神社 福娘 しころ 『えべっさんの正体』 

堀川戎神社 十日戎 福娘

堀川戎神社 十日戎 宝船

堀川戎神社 十日戎 しころ

神津神社 十三戎(とみえびす) 『トミヒコと土左衛門と戎の関係』 

十三戎 獅子舞 蝶

十三戎 獅子舞

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[2019/01/07 01:40] まとめ | トラックバック(-) | コメント(-)

北野天満宮 新春奉納狂言 天満書『北野天満宮に秦氏の気配?』 


京都市上京区 北野天満宮
2007年1月3日 撮影


北野天満宮境内の神楽殿で新春奉納狂言が行われました。
ですが、北野天満宮のhpを見ても書いてないので、現在は行われてないかもしてません。

①末広がり 春日山は縁起のいい山

主人に「末広がり(扇のこと)を買ってこい」と命じられた太郎冠者。
「末広がりとは傘のことだ」とはすっぱ(詐欺師)に騙され、傘を買って戻りました。
主人は機嫌が悪くなりますが、太郎冠者がすっぱに教わった歌を謡うとたちまちご機嫌に。


さて、太郎冠者はどんな歌を詠ったのでしょうか。
狂言にはいろいろな流派があり、流派によって異なっているようです。
大蔵流では太郎冠者は「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて、人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」と謡うそうです。

北野天満宮 新春奉納狂言 末広がり 

古語のヒアリングが苦手なので、歌詞はよく聞き取れませんでした。(すいません~)
しかし、北野追儺狂言でも「人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」と謡う部分は聞き取れました。

春日山とは奈良市の春日大社の裏にある花山と御蓋山(三笠山)の通称です。
狂言にでてくる春日山は三笠山(御蓋山)のことではないかと思います。
三笠山という山名は、傘をさしたような山の形からきます。
それで「傘を差すなる春日山」と謡っているのだと思います。

浮見堂 三笠山 百日紅

向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山

三笠山は春日大社の御神体として古くから信仰されていました。
いわば三笠山は神の住む山、神聖なる山であり、その山の形も末広がりで大変縁起がいいということで、怒っていた主人の機嫌が直ったのでしょうw。

②附子 猛毒附子が甘い砂糖に変わった話

「この桶には猛毒の附子(トリカブト)が入っているので近づくな。桶から流れてくる空気を浴びただけでも死んでしまう。」
主人はそう言って外出しました。
しかし太郎冠者と次郎冠者が桶に近づき、扇子で風を起こしてみてもなんともありません。


北野天満宮 新春奉納狂言 附子 

そこで桶の中に入っているものを少しなめてみたところ、それは砂糖でした。
二人は桶の中の砂糖を全部なめてしまいました。
主人が家に戻ると太郎冠者と次郎冠者が大泣きしています。
二人のそばには壊れた茶話と掛け軸が。
二人は主人に「茶碗と掛軸を壊してしまったので死のうと思い、附子を食べたが死ねない」と言いました。
もちろん、茶碗と掛軸を壊したのは、二人の策略です。ちゃんちゃん。


江戸時代以前、砂糖は輸入品でたいへん高価でした。
そのため主人は太郎冠者と次郎冠者に食べられないように、毒と嘘をついたのですね。

また、不美人のことをブスというのは、附子(トリカブト)に含まれる成分・アコニチンによって神経障害がおこり、顔の表情筋が不随となって醜い顔になるためだと言われていますwwww

③福の神



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

2人の信者が年籠(大晦日の夜、神社や寺にこもり、新年を迎える事)をするため出雲の社にやってきます。
年が変わるころ、二人は「福は内、福は内」と、豆を撒きました。(動画06:10あたり)


北野天満宮 新春奉納狂言 福の神2

④大晦日に豆まきをする理由

現在では豆まきは節分に行いますね。

延暦寺のお坊様に伺ったところ、昔は節分ではなく大晦日に追儺式を行っていたそうで
現在でも延暦寺では大晦日の12月31日深夜に追儺式を行っています。

そして追儺式が終わるとちょうど新年になるようプログラミングされています。

延暦寺 追儺式

延暦寺 追儺式

かつての日本では旧暦と二十四節気の二つの暦を併用していました。

大晦日・・・太陽太陰暦(旧暦)の12月晦日(12月最後の日、1年の最後の日)
節分・・・・二十四節気の立春の前日(立春より新年になると考えられており、節分は二十四節気の大晦日だといえる。)

これが混同した結果、旧暦では新年を大々的に祝い、二十四節気では大晦日である節分に追儺式を行うようになったのではないでしょうか。

かつては、その大晦日に行われる追儺式の中で、豆をぶつけて鬼を退散させる豆まきが行われていたのでしょう。

⑤福の神、松尾の神に酒を捧げる。

話を狂言「福の神」に戻します。

「福は内、福は内」と豆をまくと、そこへ福の神が高笑いしながらあらわれます。
この福の神はなかなかの呑兵衛で、ふたりにお神酒を催促します。
お神酒を神に差し出すと、まず「神々の酒奉行」である松の尾の神にお神酒をささげ、それから自分も飲み干しました。


北野天満宮 新春奉納狂言 福の神 

そして福の神はこう言いました。
「豊になるには元手がいる。元手とは金銀・米などではなく、心持ち。
早起き、慈悲、人付き合いを大切にすること、夫婦仲よくすること、
そして私のような福の神に美味しいお神酒をたくさんささげること。」


福の神がお神酒をささげた松の尾の大明神とは松尾大社の神のことだと思います。

松尾大社 八朔祭 女神輿

松尾大社の神様は酒の神として信仰されています。
それで福の神は自分が飲むよりも先にまず松尾の神にお神酒をささげたのでしょうか。

松尾大社で11月に行われる上卯祭でも狂言・福の神が奉納されています。

随分昔に松尾大社・上卯祭の狂言・福の神を見にいったことがありますが、北野天満宮で演じられているものとほぼ同様の内容だったと記憶しています。

⑦北野廃寺跡は蜂岡寺跡?

狂言が終わり、北野白梅町駅あたりを歩いていると、東北の角に京都信用金庫がありました。
その京都信用銀行の南側、今出川通りに面したところに、小さな石碑があり「北野廃寺跡」と記されていました。

北野廃寺跡

北野廃寺跡は、「蜂岡寺の跡」説、「野寺の跡」説のふたつの説があります。

蜂岡寺とは現在太秦にある広隆寺の前身とされるお寺です。
広隆寺は現在は太秦にありますが、もともとは別の場所にあり鉢岡寺という寺名だったのです。

この石碑があるあたりを発掘調査したところ、「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された灰釉陶器が発見されました。
奈良には斑鳩(いかるが)という地名があり、聖徳太子が創建したと伝わる法隆寺があります。

法隆寺 夕日 
法隆寺

そして広隆寺は飛鳥時代に秦河勝が聖徳太子より授かった仏像を安置するために建てたと伝わっていますので
「鵤室」と記された陶器があるのは、蜂岡寺が法隆寺と同じ聖徳太子ゆかりの寺であるためではないか、というのです。

広隆寺 
広隆寺


また「野寺」と墨書された平安時代前期の土師器も発見されています。
野寺は別名を常住寺ともいい、日本後記に寺名が記載されています。
884年に焼失、復興されましたが室町時代に廃寺となっています。

私は「北野廃寺=鉢岡寺」説を推します。

その理由は、北野天満宮に秦氏のにおいを感じるからです。

北野天満宮の境内には福部社がありますが、福部(ふくべ)の音は服部に通じます。
服部は秦氏の姓のひとつです。

そして新春奉納狂言では年によって異なる演目が演じられますが、『末広がり』と『福の神』のふたつの演目は毎年演じているそうです。

そのうち『福の神』には出雲の神(大国主命)と思われる神が登場し、参拝者が奉納した酒を、まず松尾の神に捧げてから飲み干すというシーンがあります。
松尾大社は秦氏の氏神です。

かつてこのあたりには秦氏の氏寺である鉢岡寺があり、鉢岡寺の近くにある北野天満宮は秦氏の影響を受けた神社であるため
服部社という摂社があったり、新春奉納狂言で大国主が秦氏の氏神「松尾の神」に酒を献じる「福の神」の演目が演じられているのではないでしょうか。

北野天満宮 天満書 

境内では天満書も行われていました。



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[2019/01/05 23:02] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

彦根城 雪  『ゲイパワーで建った城?』  

滋賀県彦根市 彦根城
2018年12月30日 撮影

雪景色を見たくて電車に飛び乗りました。

彦根に向かう電車の車窓より雪景色を望む 
車窓から雪景色が見えてきましたよ❤❤

彦根に向かう電車の車窓より雪景色を望む2 
彦根駅で下車すると伊井直正が出迎えてくれました。

伊井直正像 彦根駅前 

①人柱になった菊

彦根城に次のような伝説があります。

1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となりました。
関ヶ原の合戦で功のあった井伊直政の息子・直継(直勝)が彦根の地を賜り、彦根城を築城することとなりました。
しかし工事ははかどらず、直継は「人柱をたてよ」と命じました。
ある藩士の娘・菊が「自分が人柱になる」と名乗り出、菊は生き埋めになりました。
その後、工事は順調に進みましたが、それ以来、彦根城に菊の花を植えてもすぐに枯れてしまうようになりました。


玄宮園-門と門松

彦根城はかなり雪が溶けてしまっていました~。

②菊はBLのシンボル❤


変態BL好きの私なんかは菊といえば男色を思い出してしまいます。
井伊直政は徳川家康と菊の契りをかわしていたとする説があるんですよね~(きゃーっ❤)
井伊直政は徳川家康の小姓で万千代と名乗っていましたが、小姓は男色の相手とされることが多かったのです。
また、『甲陽軍鑑』には「万千代、近年家康の御座を直す」と記されています。
「御座を直す」というのは菊の契りをかわすという意味ではないかというのです。

玄宮園より彦根城を望む2 
③直正、家康の小姓になって運命が急上昇。

幼いころの直政は恵まれた環境で育ったとはいえません。
父・井伊直親は直政が2歳のときに謀反の嫌いをかけられて今川氏真に殺されました。
そこで直親の従妹の井伊直虎という女性が中継ぎとして井伊氏の当主となりましたが、所領を失ってしまいます。

直政の運命が変わりだしたのは彼が家康の小姓になって以降です。
直政は井伊氏の旧領を与えられ、井伊家は復活を遂げるのです。

直政は武田氏との戦いで戦功をあげ、旗本先手役となります。
本能寺の変では、家康の伊賀越えに従いました。
その後、井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となっています。
ひこにゃんが被っている兜は井伊直政が用いていたもので、鬼の角のような前立物から「井伊の赤鬼」と称されました。



伊吹山と伊井直正 
遠くに伊吹山が見えました。

直政は関ヶ原の戦いで家康本軍に随行し数々の手柄をあげますが、銃弾を右腕(または右肩)に受けて大けがをしてしまいました。
戦後も精力的に戦後処理などに尽力しましたが、鉄砲傷に破傷風を生じ、1602年に死亡しました。享年41歳でした。

その後、直政の息子・直継が彦根城の築城し、彦根藩(35万石)が置かれました。
彦根藩は明治まで井伊氏の藩として栄えることになるのですが、それは直政の功績と、直政が家康より寵愛を受けたことによるところが大きいと思います。
恐るべし、直政のゲイパワー!

玄宮園より彦根城を望む

④菊は直正を女性に見立てた想像の人物?

人柱になった娘・菊とは直政を女性に見立てて創作された物語なのではないでしょうか。
直政は関ヶ原の戦いで功労があったにもかかわらず、そのとき受けた怪我がもとで亡くなってしまったことを「人柱」と表現しているのだと思います。
菊という名前にしたのは、直政が家康と菊の契りを結んでいたためではないでしょうか。

玄宮園より彦根城を望む 

彦根城 槻御殿 
槻御殿

彦根城 ライトアップ 
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[2019/01/04 12:00] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)